では、チャペクに続く世界的な作家となると誰だろう。チェコの中での評価なら『シュベイク』のハシェクや、映画化された作品の多フラバルなんだろうけど、世界的な知名度という点では物足りない。となるとやはりミラン・クンデラの名前を挙げることになる。クンデラも世界的に高く評価されている作家だが、ノーベル文学賞とは縁がない。フランスの評論家の間では、ノーベル文学賞の選考委員の中にフェミニストがいるからクンデラが受賞することはないだろうとか、クンデラは賞を欲していないから受賞しても辞退する可能性が高いなんてことが言われているらしい。
さて、そのクンデラなのだが、チェコを離れフランスのパリに住んで長い。作品も母語であるチェコ語ではなくフランス語で執筆発表されるようになって久しい。文学作品としての評価が高いのもチェコ語で書いたものよりも、フランス語で書いたもののはずである。だから、クンデラはどこまでチェコの作家と言っていいのか悩ましいところである。これが、恐らくチェコの人々がクンデラとその作品に対して曰く言い難い微妙な感情を抱いている理由のひとつである。
もう一つの理由は、クンデラの共産党員としての過去である。スターリン主義者だったなんて話も聞こえてくるからゴットワルトとの関係もあったのかもしれない。それだけでなくクンデラに秘密警察に売られて10年以上強制労働を科された人がいるのだという。戦前戦中の共産党なんて、インテリもたくさんいたのだから、そこに作家のクンデラが入っていたとしても何の不思議もないし、積極的に秘密警察に協力したのも、熱心な共産党員でスターリン主義者だったとすれば、当然の行動だったとも言える。
一部のチェコの人々が問題にしているのは、このクンデラの過去そのものについてではなく、過去について沈黙していることのようだ。自分が秘密警察に売った人物がどんな目にあったか知らないというわけではなく、以前どこかにそのことについて記したことがあるらしいのだが、それ以上のことは何もしていないのだという。かつての左翼が好きだった言葉でいえば、自らの過去を総括して反省することのないままに作家活動を続けているのはどうなんだろうと考える人が一定数いるらしい。
クンデラ自身はその批判は完全に無視しているらしく、それもまた気に入らない人がいるようだ。いや、批判どころではなく、チェコそのものを無視しているようにも見える。それは一度は亡命した俳優や作家などの文化人の中には、ビロード革命後チェコに帰国した人が多いのに、クンデラはフランスのパリに住み続け、フランス語で執筆を続けていることからもある程度予想できる。それどころかチェコを訪れることすら滅多にないという。
と、ここまで書いてなぜに突然、これまで一度も触れたことのない(と思う)クンデラについて書いているのかというと、90歳の誕生日を迎えたか何かで、チェコテレビのニュース番組で特集が組まれていたからである。日本だとこの手のお祝いにかこつけた特集は、何でもかんでもほめあげ、都合の悪いことには蓋をしてしまう意味のないものに終わることが多いが、チェコテレビは批判すべきは批判し、問うべき疑問は問いかけるのである。その番組への本人の出演はもちろん、インタビューさえなかった事実が、クンデラのチェコテレビ、ひいてはチェコへの態度をものがっている。
この番組を見るともなく見ながら、頭の中に浮かんでいたのは、作家に人間的な正しさを求めるのは正しいことなのかという疑問である。作家の作品と人間性というものは別々に評価されるべきだし、得てして作家というものは人間的におかしい部分があるからこそ傑作を物すものでもある。個人的には、クンデラの、過去の出来事をすべて、自分がかつてチェコ人であったことすらも切り捨ててしまっているような態度には尊敬の念を抱く。こういう態度がクンデラの作品に反映して、傑作にしているのではないかなんてことを、過去を捨てきれない、日本を捨てきれなかった人間としては考えてしまう。
これまで、フランスの作家になってしまったからという理由で敬遠してきたクンデラの作品だけど、今回のチェコテレビの特集を見て読んでみようかという気になった。いっそのことチェコ語で読んでみようかなんて、無謀なことを思いついてしまった。ここに書いたことが大いなる誤解という可能性もあるのだけどね。
2019年4月3日23時35分。
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