いや、そんなことはどうでもいい。うちのPCで「honto」を開くと「黒田龍之助」での検索結果が表示されるようになっていて、一番上に出てきたのがこの本である。師が文章を寄せられているということかと、内容を確認すると、新しい学習指導要領で高校の国語がえらいことになりそうだというので、識者があれこれ自分の意見を書いたうちの一つが師の文章らしい。「期待はしない、今も昔も将来も」という文章は、国語の授業に期待しないというのか、文部省に期待しないというのかはわからないけど、らしい題名である。
それはともかく、本の内容紹介を読んでびっくりしたのが、新しい指導要領では、国語の選択科目に「論理国語」と「文学国語」というものが新設されるということである。それに対して、文学離れが進むのではないという危惧の声があるらしい。文部省が余計なことをして教育の現場を混乱に陥れ教育のレベルを落とすのはいつものことだが、これはどう評価すればいいのだろうか。
それに、PISAのテストでは、グラフや表の読み取りも出たなんて話だけど、これって国語の枠内でテストすることなのだろうか。最近、いろいろな分野で、国際的な指標を使って日本を評価して、その結果に一喜一憂するのを見かけるけど、この手の数字、指標にはウラがあるものだから、そこまで重大に捉える必要はなく、何かの参考程度にしておくのが無難だと思う。
ところで、さらに驚くのは、今回の改変に関して、反対している人も、賛成している人も、高校の国語に大きな意味を見出していることだ。個人的には高校の国語で勉強して、自分の日本語能力の向上につながったと感じるのは、古文漢文しかない。もちろん、教科書に出てきた漢字や、新しい語彙、言い回しなんかも役に立っていないとは言わないけど、濫読家だった関係で高校の国語の教科書で初めて見たなんてものはごく僅かでしかなかった。
高校の国語の現代文の授業の良し悪しぐらいで、文章の読解能力が上がったり下がったりするもんか。大切なのは、子供のころからの積み重ねである。文部省は、謂うところの「論理的文章」とやらを読み解けない高校生が多いことを問題にしているようだが、そんなの高校で頑張ったところで手遅れとしかいいようがない。いや、先生の中にだって、論理的といいつつ非論理的な文章を書いたり話をしたりする人は山ほどいるのだ。
それに比べて、小学校の国語の授業は役に立ったと思う。今でも覚えているのは、説明文とかいう文部省風に言うなら論理的な文章を読んで、段落ごとに重要な内容を要約していって、最終的には文章全体を要約するというのは、いい訓練になった。ただ、文学系の作品を分析するのは、小学校でやってもしょうがない気がする。子供のころは難しいことは考えずに、文章を味わえばいいのだ。そのために必要なのは、語彙、語法という基本的な知識である。仮に現在の日本の高校生の国語能力が落ちているのだとすれば、それは小学校での国語教育に力を入れていないのが悪い。それを放置して高校だけ変えても結果は変わるまい。
個人的には高校の国語の現代文なんて、教科書は必要ないと考えている。文学作品でも、評論でも、自分の好きなものというと無理だろうから、先生が選んだ作品を読ませるだけでいい。その作品が気に入らない生徒には、その理由を述べさせた上で、納得できる理由であれば、自分で選んだ作品を読ませてもいい。
何でもいいということにすると、最近の作家の日本語自体が危うい作品を選びかねないので、明治以降の文学作品やら評論なんかから、2000ぐらいリストアップして、詳し目の梗概をつけたものを現代文の教科書にしてもいい。そして、その中から詩歌、小説、評論を最低でも一冊ずつ読むというのを授業にするのだ。2000冊もあれば、一冊ぐらいは梗概を読んで、読んでみたいという作品が出てくることだろう。
評価を読んだ冊数(頁数のほうがいいかな)で決めるなんてことにすれば、楽しい国語の授業になりそうだ。文系を自認する人間にとってさえ、高校の国語の授業は、文学的なものであれ、論説的なものであれ、退屈で苦痛でしかなかったし。高校の国語の授業を通じて文学好きになるなんてことはありえないから、どんな改悪があっても文学離れという現象は起こらない。同時に小学校の国語で読解力を身につけられなかった生徒の読解力が急に向上するとも思えない。
最後に大山鳴動して鼠一匹にもならないのは、例のアクティブラーニングとやらと同じではないかと予想しておく。基礎的な知識が不足していれば、すべては「バカの考え休むに似たり」に終わるものである。
2020年1月6日24時。
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