聖母マリアの碑は、オロモウツのドルニー広場に置かれたものがよく知られている。一番上に聖母マリアと幼子イエスの像が乗っかったあれである。オロモウツのものは18世紀に、ペストの流行が終結したことに感謝するために設置されたものである。モラビアがペストに襲われたのは1713年から14年にかけてのことで、流行が終結してすぐに建てられ始め、完成したのは1723年だという。
それに対して、プラハの旧市街広場にも聖母マリアの碑が設置されていたことを知っている人はそれほど多くあるまい。チェコスロバキア第一共和国が独立を達成した1918年の11月初めまでは、旧市街広場のヤン・フスの像にも近い辺りに建っていたらしく、現在でもそのことを記したプレートがはめ込まれているのだとか。
1918年に撤去された聖母マリアの像は、破壊されたのではなくどこかに保管されていたようで、これをどうするかで延々議論が続いていた。旧市街広場の元の位置に再建しようと活動しているグループもあれば、断固反対というグループもあって、プラハ市の中でも意見が半々に割れていた。それが先日のプラハ市議会か、区の議会かで採決が行われ、事前の予想に反して再建案が可決された。それでそろそ工事が始まるんじゃないかな。
もともとプラハの聖母マリアの碑は、オロモウツのものとは違って、ペストの流行の終結に感謝して建てられたものではない。1650年に、チェコの国土を荒廃させた三十年戦争の終結、具体的にはプラハ市がスウェーデン軍の攻囲を撃退できたことに感謝して、設置されたものである。この事実が、1918年に碑が倒された原因にも、現在再建に反対する人が多い理由にもなっている。
三十年戦争の終結は、一般的にはヨーロッパに平和が戻ったという意味でめでたい出来事なのだろうが、チェコ民族の観点から言うと話はそこまで単純ではない。宗教的には、それまでも禁止されながらも黙認されていたフス派などのプロテスタントの信仰が弾圧の対象となり、再カトリック化が強硬に推し進められることを意味した。コメンスキーなどを庇護したモラビアのジェロティーン家も没落して、カトリックに転向した系統が細々と生き延びるに過ぎなくなる。
政治的には、チェコ全土に対するハプスブルク家の支配が強化され、さらなるドイツ化が進行することを意味した。プロテスタント系の諸侯が没落した後に、外国からカトリック系の貴族が入ってきた結果、貴族社会におけるチェコ起源の貴族の割合も低下した。その結果、神聖ローマ帝国内におけるチェコの国体というか、国家的独立性はほぼなくなってしまい、イラーセクの言うところの「暗黒」の時代が始まることになる。
だから、チェコ人にとっては、1918年の独立は、三十年戦争で失った国体の回復をも意味したのである。それが、1918年の独立直後に、三十年戦争の終結を祝う碑が解体された理由になる。しかも、実行したのは、フス派の英雄ヤン・ジシカの名前を冠したジシコフの住民たちだというから、話が出来過ぎているような気もしなくはない。
再建賛成派のほうは、歴史は歴史として理解するにしても、過去に建てられた記念碑を現在の論理で解体するのはどうかということなのだろう。さすがにゴットバルトなど共産党の指導者の像は撤去されたが、第二次世界大戦中のソ連軍の犠牲者をたたえた碑は、解体されないまま残っているものが多く、終戦記念日などには記念式典が行われることもあるから、三十年戦争終結の碑も、個々の戦争指導者をたたえたものではないし、同じように扱うべきだと考えているのではないかと推測する。まあ、観光名所を増やしたいだけという可能性もあるけど。
そんな賛否半々だったのが、予想に反して可決された功労者は、共産党の政治家らしい。審議が行われた議会の議員ではなく、オブザーバーとして参加していて意見を述べたのだが、これを聞いた中立派と一部の反対派が賛成に回った。共産党の政治家が賛成の意見を述べたことが賛成者を増やしたのではなく、強硬な反対の演説をしたことが賛成派を増やす結果につながったのである。
ようは、三十年戦争の終結は、ハプスブルク家によるチェコの国体の解体を意味しており、それを祝うような記念碑を旧市街広場に再建するのは許されないというようなことを語ったらしい。それを聞いた人たちの反応は、共産党員の、未だに1968年のプラハの春の弾圧を否定するような共産党員のお前が言うなというもので、強硬な反対派意外、みな賛成に回った結果、可決されたのだという。
チェコ人のこういうところは、個人的には高く評価している。最近、同じようなことが国会の場でもあったのだけど、その件については、また別稿とする。
2020年2月17日24時。
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