その受賞できなかった理由を考察する記事を読んでいて、あれっと思うところも少なくなかった。例えば、通俗的過ぎて文学性が低く評価されたのではないかとかいった意見を見かけたけれども、通俗性が問題になるのであれば、実際に受賞した川端康成だってNHKの連続テレビドラマの原作を書いているわけだし、自殺していなければ受賞していたとまで言われる三島由紀夫の『潮騒』とか、『豊饒の海』とか、通俗もいいところだと思うけどなあ。昔は、純文学と大衆文学の間に、中間文学なんてものがあって、純文学の作家が売り上げを求めて書くときの口実に使われていたから、この辺の作品もその中に入るのかもしれないけどね。
海外文学に関して、純文学だの大衆文学だの言うのは聞いたことがないから、日本で言う大衆文学的な通俗的な作品が、文学作品として高く評価されてもおかしくなかろう。通俗的な売り上げの多い作品の例として、『ハリー・ポッター』シリーズが挙げられていたけれども、あれは児童文学であって比較するのはちょっと違うような気がする。
考えてみれば、作品の文学性や、文学的価値というものについては評価する能はないので、純粋に日本人として、日本の読者として、日本を代表する作家を上げろといわれたときに、村上春樹の名前は出しにくい。何か違うのである。これも同じ理由だろうか。
当時は、村上春樹だけでなく、村上龍や、三田誠広、島田雅彦なんかの作品を読み漁ったけれども、一番感動というか、衝撃というかを受けたのは、土俗的な怨念の世界を描いた(少なくとも田舎の高校生にはそう思えた)中上健次の作品だった。戦後の日本のいわゆる純文学の作品で『千年の愉楽』を超えるものはないと、どんな話だったかは覚えていないにもかかわらず、根拠はまったくないが強く確信している。
村上春樹の作品では、80年代に大ベストセラーになった『ノルウェイの森』が、初めて出版と同時に読もうと思えば読めた作品だった。だったのだが、読まなかった。理由としては『羊をめぐる冒険』などのそれまでの作品を読んで、これで十分だと感じたというのもあるのだけど、ベストセラーになったというのも大きい。普段は本など読みもしない連中が、ベストセラーだからという理由で購入しているのを見たら、とても読む気にはなれなかった。友人の一人は、上記の理由で購入し、一応最後まで通読して、お前に似た変人が登場するから読んでみろよと、失礼なことをほざいていたが、同様の理由で購入した人たちのうち、どのぐらいの人が通読したのだろうか。教養というものがまだ、無意識にせよ重視されていた時代、百科事典や広辞苑を本棚の肥やしとして購入する家庭が多かったが、村上春樹の作品も同じような扱いを受けていたんじゃないかと考えてしまう。それは、本にとって、作者にとっては不幸なことなのだろう。
チェコに来て、村上春樹の作品が、次々に翻訳出版されていくのを見て、なぜこんなに需要があるのだろうかと考えてしまう。やはり、ダライラマ人気につながるところがあるのかな。日本人がヨーロッパ的な価値観で書いた作品、もしくはヨーロッパ人が期待する日本の作品の姿にかなっているから、文化的な軋轢もなく受け入れられるのだろうか。
そんなことを考えつつ、別に村上春樹を含めて日本の作家がノーベル賞を取れなくてもいいじゃないかと思う。ノーベル賞は、そのうちテレビや映画の脚本、果てはネット上のブログなんかまで文学賞の対象にしかねないしね。ノーベル賞が、日本文学が世界で認められた証だというなら、答えは、無理して世界で認められる必要などないである。世界的であるために日本的なものが消えていくのならば、文学に限らず世界的になどなる必要はない。
近年は世界基準から外れた日本独自のものを、ガラパゴスなどと批判したり揶揄したりする傾向にあるけれども、日本独自でいいじゃないか。日本独自というのが嫌なのなら、日本独自を世界に広めて世界基準にしてしまえばいいだけだ。ってな気概を日本に住んで日本的な生活をしている人たちにはもってほしいのだけど。外国にいるとそんなことは難しいから。せいぜいが、お酒を飲みに行ったときに、みんなで頼んでみんなで食べて飲んで、みんなでお金を払う(誰かが出してくれることもあるけど)日本の居酒屋割り勘方式を広めるぐらいである。
10月25日23時30分。
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