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2019年11月06日
オリンピックなんざやめちまえ2(十一月四日)
東京オリンピックのマラソンがどうなるのか、日本がIOCに対して立ち上がるのではないかと期待しながら、ネット上の記事を読んでいるのだが、全くそんな気配はない。陸上関係者が、納得いかないなんてことは言っているようだけど、歯切れが悪すぎる。普段はおとなしいけど、突然爆発すると言われる日本人の恐ろしさを世界に見せつけるいい機会だというのに、もったいない話である。ラグビーのワールドカップで日本の優しさを見せ付けたのだから、今度は恐ろしさを見せ付ければ、外交的にも最高じゃないか。
理解できないのは、マスコミの報道に、IOCの突如の変心を非難する記事がほとんど見られないことで、これが日本の組織のやったことだったら、袋叩きにするだろうにと不思議に思った。開催権を返上すると発言しろという正論を述べているのも、元大阪知事の橋下氏ぐらいのもので、他はなんだか、危険物に触るような慎重さを見せている。
ああ、そうか、変なことを書いてIOCににらまれて、オリンピック関係の報道から締め出されることを恐れて、IOC批判を自粛しているのか。さすがは言論の自由のために戦う日本のマスコミである。誰かの発言の形で報道することで責任逃れをしているとしか思えない。IOCの金まみれの利権まみれの実態については、あれこれ漏れ聞こえてくるのに、大きなスキャンダルにならないのは、マスコミの配慮のおかげだしさ。
今回の件も、どう考えても、マラソンの有力選手を抱えるスポンサーが、自分のところの選手の優勝確率が下がらないように、IOCにプレッシャーをかけたに決まっている。競歩は、マラソンだけだとあからさますぎるから、道づれにされたのだろう。これもまたひどい話である。選手に配慮するように見せて、全く配慮していないのは、当の選手たちの中からも批判の声が上がっていることで、しかもその声を完全に無視していることからも明らかである。東京の炎暑の中で行うのが危険なスポーツはこの二つだけではないのだし。どうして、そこを批判しないのか。
ひどい記事になると、マラソンの札幌移転について、「商業主義」を捨てようとか、離れようとか言って弁護しているものがあったが、スポーツにおける商業主義を批判するなら、真っ先に批判されれるべきはIOCのはずである。そもそも、真夏の東京でオリンピックを行うという決定自体が、これは東京に限らないけれども、大きな間違いであり、東京でやるなら、かつてのオリンピックと同様、秋が深まってからにするべきだったのだ。変えるべきは会場ではなく、会期なのである。場所を北に変えれば絶対に気温が下がるというものではなく、当日の気温なんて運によっても左右されるというのは、明らかなのにさ。
オリンピックの開催において、商業主義的なものが取りざたされ始めたのは、1984年のロサンゼルス・オリンピックだったと記憶する。オリンピックの無駄な拡大のために開催地の負担が増大し続けていて、音を挙げざるを得ない状態になるのを回避するために、あれこれスポンサーを呼び込んだり、放映権料を高く取ったりしたんじゃなかったか。当時はそのやり口を、商業主義だとかアマチュア規定に反するとか言って声高に批判する人たちもかなりいたはずである。今では誰もそんな批判をしなくなったけど、過去に目をつぶりすぎじゃないか。
本来その開催地の負担を軽くするためだった資金集めの手法が、いつの間にかIOCのための錬金術に変わり、開催地の負担ばかりが増大するというのが、ロス以来の商業オリンピックの現状なのである。仮に商業主義を廃せというのであれば、オリンピックを本来の姿にもどすことを主張すべきであろう。すなわち、プロの参加を禁止し、IOCのスポンサー、大会スポンサーなども廃止して、勝つことや記録よりも、参加すること自体が重要だった、古き良き時代のオリンピックにさ。そんなオリンピックなら、こちらも胸を張って見ることができるから心の安定にもいいし。
さあ、今からでも遅くない。スポーツを食い物にする腐敗IOC貴族に鉄槌を下ろすのだ。正論好き、正義好きの新聞社どもよ、自分のことは棚に上げてきれいごとしか言わないマスコミの連中よ、悪の所在は明らかなのだから、革命ののろしを上げるのだ。そうでもしなければますます存在意義が失われていくだけだぞ。今立ち上がらずして、いつ立ち上がるというのだ。かつて担いだ小泉元総理を担ぎ出せ。破壊のときはすでに来たれりである。
収拾がつかなくなったのでおしまい。
2019年11月5日20時。
タグ: マスコミ批判
2019年11月04日
祭の後(十一月二日)
日本で開催されていたラグビーのワールドカップが終わった。毎週末には確実に見られていたあの熱戦が見られなくなるかと思うとさびしい。この喪失感はラグビーならではなのだろう。同じ巨大イベントでも、サッカーのワールドカップやオリンピックでは終わったという感慨はあっても、寂しさは感じない。オリンピックなんて、見るのに心の折り合いをつけるのが大変だから、終わるとホッとするほどである。
日本のラグビーが今後も強くなり続けて、今大会のような結果を残せるかどうかは、今後の対応にかかっているはずなのだが、マスコミの報道を見る限り難しそうだ。特に、日本代表が準々決勝で負けた時点でワールドカップがすでに終わったかのような雰囲気を作り出していたのはひどかった。実際の日本での雰囲気はわからないけど、ネット上に踊る記事の数々から感じられたのは、大会とラグビーを盛り上げようという意識ではなく、日本代表さえ取り上げておけばいいといういい加減さでしかない。
代表だけが注目されたのでは、何も変わらないことはすでに4年前に証明されているだろうに。他国での大会ならともかく、日本での大会なのだから、大会中に大会が終わってしまったかのような報道を繰り返すのは失礼極まりない。ラグビーに限らず、マスコミが足を引っ張っているというのは、よくある事例だとはいえ、いつまでたっても同じことの繰り返しというのは情けない。ラグビー協会にも、1980年代のラグビーブームがマスコミに踊らされた結果、文字通り泡のように消えてしまった過去を反省して、マスコミの言いなりにならないことを求めたいものだ。
それはともかく、準決勝以降の4試合は、日本代表へのひいき目で見ても、日本−アイルランド、日本−スコットランドを越える素晴らしい試合だった。イングランドのニュージーランド対策が完璧にはまっての快勝も目を疑うほどに凄かったし、南アフリカの派手さを捨てて、確実に相手を追い詰めていくような計算つくされた勝利もとてつもない凄みを感じさせた。どちらも残念ながら今の日本には、難しいだろう。
準決勝で負けたニュージーランドが三位決定戦では、しっかりチームを立て直してきっちり勝ったのも、ウェールズが怪我人続出の中で最後まで戦い続けたのも見事だった。やはりその大会で最高の4チームである準決勝にまで進出するチームに勝つのは、至難のことなのだ。日本代表が準々決勝の壁を越えて、準決勝に進むのは、よほどくじ運に恵まれない限りはしばらくかかりそうだ。とはいえ、前回大会以来の日本代表はこちらの予想をことごとく上回ってきているから、意外と早いかもしれないけど。
決勝は、事前の報道では、トライのない試合になるのではないかと危惧するような声も見かけたが、トライなし=つまらない試合という図式を、しろうとファンが言うならともかく、プロであるはずのマスコミが垂れ流すというのはひどすぎる。実際、決勝の前半はトライがなかったわけだが、南アフリカが2トライあげた後半よりもずっと緊迫していて、見ごたえも大きかった。
イングランドは、ニュージーランド対策に手一杯で、南アフリカ対対策まで手が足りなかったとか、オーストラリア、ニュージーランド、南アフリカと南半球の三強との三連戦で力尽きたなんて見方もあるのだろうけど、ここは南アフリカのチームの持つ物語の重さが、イングランドの戦術的な準備を凌駕したものと見ておきたい。
アパルトヘイトという黒人差別のあった国の、白人のスポーツとされていたラグビーの代表において、初めての黒人選手、しかも貧困の中で育った選手をキャプテンにすえて臨む大会、しかも前回大会で番狂わせを起こされた日本での大会で準々決勝で再度対戦したのである。南アフリカ以上に優勝にふさわしいチームがあったとは思えない。南アフリカの優勝は、一篇の英雄叙事詩であり、神話でもあったのだ。
そんな物語性の高いラグビーの大会が終わったのだから、喪失感を感じる人がでるのも当然のことだろう。ただそれを「ラグビーロス」とか軽すぎる言葉で表現してしまうのはどうなんだろう。こいうのは「祭の後の寂しさ」といいたい。ニュージーランドを初めとする南太平洋の国々の代表チームが、試合前に神にささげる舞を舞うことも、これら国の人にとってはラグビーが、単なるスポーツではなく、神事でもあることを示している。
祝祭のハレの日が終われば、日常が戻ってくるのである。
2019年11月3日20時。
2019年10月16日
台風一過(十月十四日)
日本に一体どれだけの被害をもたらすのだろうと恐れられた巨大台風が、日本を過ぎ去った。事前の報道では、犠牲者の数が8000人を超えるのではないかと予想されていて、心配しながらネット上での報道を確認していたのだが、最終的な犠牲者の数は100人以下となりそうで、洪水の被害も最悪の事態は避けられたといってよさそうだ。被害を受けた方々には申し訳ないけれども、被害が予想よりも少なかったことに安堵した。
台風のよく来る九州の人間なので、台風に対する感覚が他の地域の人たちとはちょっと違うのかもしれないが、台風が来てしまったら、もうできることは祈ることぐらいしかないという感覚を持っている。幸いしたことはないけど、避難にしても、被害を減らすための対策にしても、台風が来る前にするべきことであって、来てしまってからでは危険極まりなく自殺するようなものである。
たまに、台風が来てから、屋根に登って転落する事故や、外に出て川に流される事故が起こったりしていた。犠牲になった人に対しては痛ましいという気持ちは持ったけれども、同時にどうしてそんな馬鹿なことをしたんだと思ったのも否定できない。学校でも、そういうことが起こったというのを子供たちに話して、教訓にしていた。
昔は天気予報が、天気予想と揶揄されるレベルの外れっぷりだったから、天気予報に基づいて雨や風が激しくなる前に、臨時休校にしたり、短縮授業にしたりしても、台風がそれたり急に勢力を失ったりして、それほど雨が降らなかったこともままあったけれども、本当に直撃して雨戸を閉めてぎしぎしと音を建てる家の中で、台風が過ぎるのを待つしかなかったこともある。強風で屋根瓦がずれて雨漏りしたなんてこともあったかな。
高校のときは、県全体の高校の代表を集めたイベントに出かけたら、台風が近づいてきて、ぎりぎりで戻って来られたなんてこともあった。翌日上陸されて土砂崩れで鉄道と道路が通行止めになったために、もう日程の関係で一日残っていた連中は、すぐには戻って来られなかった。土砂崩れがなくても暴風で鉄道が運行できなかった可能性も高いけど、台風が来てしまってからではできることはないのだ。
そんな経験をしてきた人間からすると、台風一過後のマスコミの報道には理解できないことが多い。被害が予想よりも少なかったことに安堵するような発言をした自民党の政治家が袋叩きにあっているみたいだが、言葉の選択の良し悪しはあるにしても、政治家としては正しい発言ではないのか。個人として正しいことが、政治家として正しいとは限らない。
政治家に求められるのは、起きてしまった災害を分析して、次への対策に結びつけることだ。身内が犠牲になっていようと、関係者が犠牲になっていようと、責任ある地位に就いた政治家には、悲しみに浸る権利などない。特に今回のような治水の想定を越えるような台風が来た場合には、復興の計画や実行に加えて、更なる洪水対策をどうするのかが大切になる。そのためにこそ、政治家は税金で飼われているのではないのか。
もちろん、言葉の選択は最悪だったから、災害を受けた人が不快に感じるのは理解できるし、非難の声を上げたとしても当然であろう。ただ、同じ政治家であるはずの野党が鬼の首を取ったように大騒ぎするのは、望まれもしないのに無理やり被害を受けた人側に立とうとしているようにしか見えない。日本の政治史上最高のポピュリストだった小泉首相の成功以来、その手法を真似て民主党が政権を取って以来、日本の政治はパフォーマンスに堕してしまったからなあ。ここを書入れ時とばかりに、お祭り騒ぎしているマスコミも、同罪である。
東京が台風に対して脆弱だったとかいう記事も見かけたが、思わず正気を疑ってしまった。東京が脆弱だったら、脆弱ではない都市など世界中のどこにも存在しない。脆弱だったとしたら、台風を舐めていた都会の人々の頭の中であって、批判するのであれば、行政ではなく、自分だけは大丈夫だと考えてしまうメンタリティであろう。
そして、小泉政権以来の公共事業=悪、ダム=悪というマスコミも巻き込んだ、もしくはマスコミが巻き込んだキャンペーンが、本当に正しかったのか、部分的に正しかったのは確かだろうけれども、あそこまでやる必要があったのかどうかは検証しておかなければなるまい。公共事業で食っていた地方の土建屋がいじめられて数を減らし余裕を失っているのも、災害対策や復旧工事がなかなか進まなくなっている原因のような気がする。
落としどころが見えなくなって迷走。不快に感じられる方がいたらお詫びする。
2019年10月15日25時30分。
2019年10月09日
冬来たり(十月七日)
九月の二日以降は、気温は上がったり下がったりを繰り返しながら、だんだん涼しさを増していた。体がまだ夏に慣れた状態だったから、着るものの選択に苦労させられた。職場についてしまえば問題ないのだが、そこまでで寒さを覚えたり、逆に暑くて汗をかいてしまったりと苦労させられた。そんな天気にも慣れはじめて、秋の到来を喜んでいた先週、朝晩の気温が10度を切るようになり、冬も近いと思っていたら、今日、昨日かもしれないけど、起きたらもう冬だった。
長かった冬の終わりに慌てて購入して、履く機会のなかった冬物のズボンを引っ張り出す機会が来たのはいいのだけど、これでまた秋物の上着を買う機会を失してしまった。そろそろ買おうと思っていたら冬が来るんだもんなあ。来年の春に着ることを考えて今のうちに買うかなあ。秋物の上着を着るしかないという時期が短いのも、ずるずると買えないでいる理由になりそうだ。
気温が急に下がったせいか、職場でも風邪をひいている人が多く、こちらにだけはうつさないでくれとひどいことを考えてしまった。冬の初めに風邪は引きたくない。ただでさえ、気温の急激な変化のせいで、体調がいいとは言えない上に、血圧の薬を飲まされていて、自分でも健康なのかどうかわからなくなってしまっている。これまで以上に眠くなるのは、一体何が悪いのか。年齢を重ねると睡眠時間は減るって聞いてたんだけどなあ。
冬の寒い中、スキーなどのスポーツをすることもなく、職場への行き帰り以外は暖房の聞いた室内でぬくぬくとだらける生活をしているだけでは、寒さに強い体は作れないということだろう。でも一応南国の九州生まれの人間にはウィンタースポーツなんて無理なのだ。こんな点でも我が人生、いたずらに馬齢を重ねるだけである。ただ、「マスター・キートン」でキートンの父親が言っていたように、無駄な時間を過ごすと言うのも幸せではあるのだ。ただ、無駄な時間しかすごしていないのが問題なだけであってさ。
今年は、雨も多く空が曇っていて、風が強いと、寒さをより強く感じてしまう。十月末には冬時間が始まる関係で、日没の時間が早くなる。そうなると、気分は落ち込む一方である。チェコ一年の絶望的な気分にはならないにしても、気がめいることが増えていく。今から憂鬱である。来年から夏時間が廃止になるというのが楽しみでならない。心配はイギリスのEU離脱と同等に、延期の繰り返しにならないかということぐらいである。
冬が来るたびに思うのは、夏の熱気をどこかに保存しておいて、冬の暖房に使うことはできないかということである。逆に冬の寒さを夏まで保存するでもいいけど、可能になれば、暖房や冷房にかかるコストが、いわゆる環境コストも含めて大きく減ると思う。文系の人間には可能なのかどうかすらわからないけど、誰か研究している人はいないのかな。冬の寒さを夏に利用するものとしては、昔から氷室なんてものがあって、冬の間に保存しておいた雪や氷を夏になって消費するというものだった。それを現代的な方法で再現することは不可能ではないと思うのだけど。
これから冬が来年の三月まで続くと予想される。「冬来れども春近からじ」という気分である。
2019年10月7日24時。
2019年09月09日
何書こう?(九月七日)
当初の予定では、サッカーのチェコ代表が、ヨーロッパ選手権の予選で、コソボ代表に勝ったという話を書くつもりだったのだが、予想外の敗戦を喫してしまった。こうなると、次のチェルナー・ホラじゃなくてモンテネグロでの試合もまとめて書いた方がよさそうである。負け試合だと書くことあまりないし。
スポーツつながりで行けば、中国で行なわれているバスケットの世界選手権では、チェコ代表が頑張っているらしい。一次グループの初戦でアメリカに負けたあと、二試合目で日本代表と試合したときには、一番有名らしい日本選手のインタビューもニュースで流れた。当然チェコが勝って、次のステージへ進む権利のかかった最終戦のトルコにも勝って、二次グループに進出。その初戦でブラジルにも勝って、次のギリシャとの試合に勝てば、準々決勝進出である。決して前評判は高かったといえないのに、格上相手にも勝っているのは大称賛されているのだが、バスケットはよくわからないのである。
ちょっと前の話だが、柔道のあれは世界選手権だったのかな、日本で開かれた大会で、リオオリンピックで優勝したルカーシュ・クルパーレクが、階級は変わっていたと思うけれども、優勝して大ニュースになっていた。事前に強化合宿を行なった別府の人たちがわざわざ応援に来てくれたなんてちょっといい話もあった。柔道も、JUDOになってしまって、試合見てても判定が理解できないことも多いし、それで一本かけるほどの知識もない。せいぜいチェコテレビで実況する人の技の名前の言い方が、「トモイナーグ」とか、微妙に変だということぐらいしか書けない。
それで、仕方がないので、昨日の記事で書いた週刊誌的ないい加減さ、怪しさについて書いておく。そうだ、書き落としたことがあったんだった。大学別就職先ランキングの大学が提供する情報はどこまで信じられるのだろう。大学が虚偽の情報を出していたとしても、誰も確認できないんじゃなかろうか。それで、この件で不満を述べていた大学関係者には、でたらめな情報出せば? と言ったことがあるのだけど、なかなか難しいようである。いっそ、不満を持っている大学がいくつか連合して掲載拒否とかやると面白そうなんだけどねえ。
それはともかく、 こんな記事 を発見した。教育実習に来た学生のありえない行動をあげつらっているのだが、「職場のモンスター大学生」という近年の大学生の非常識振りを批判するシリーズの一つのようである。「biz SPA! フレッシュ」という「週刊SPA!」が運営しているサイトの記事である。この記事、何も考えずに読む分には十分に面白いし、よくできた記事だと思う。ただ、どうにもこうにも週刊誌的なのである。
記事では実習に来た私立大学の学生の行動が「あきれた行動」だと批判されているが、自分の教育実習の経験から言うと、この記事の信憑性はかなり怪しい。仮にこの記事に登場する日本史の先生の証言が事実だとしたら、あきれるべきは、この先生に対してである。こんな教育実習の指導教員なんてありえないだろう。
まず、最初の証言の中にある、「授業の準備もしっかりやっているように見えました」というのが、非常識である。教育実習では、実習生は担当する授業に関して、一回一回指導案というものを書かされる。これは、50分の授業時間のタイムスケジュールのようなもので、何を、どの順番で、どのぐらいの時間をかけて教えるのか、かなり細かく書かなければならない。指導の教員は授業の前にそれをチェックして問題があれば、指摘して修正させなければならない。これが教育実習における授業の準備で、評価の対象の一つとなっている。
それなのに、「授業の準備もしっかりやっているように見えました」というのでは、指導案のチェックもせずに、授業の様子だけをみて実習生を評価していることになる。これでは指導教員の怠慢を指摘されても仕方があるまい。正直な話、塾などで教えた経験のある学生であれば、教科書出版社がアンチョコを提供していることもあって、準備なんかしなくてもそれなりのレベルの授業はできる。指導案を書かせるのには、そういうスレた実習生達に、準備を強要するという意味もあるのだと、実習を受けた際には感じた。今ではPCで作れるから、手間も減っているだろうけど、二週間ほぼ毎日、指導案を三枚書くだけで数時間時間を取られたものである。
授業がない時間に実習生がやることについても、「次の授業に向けた準備など」って、一番大事な指導教員との事前の打ち合わせと、授業後の問題点の指摘が書かれていないのはどういうことだろう。特に実習の初めのころは、指導案を元に打ち合わせ、指導が行なわれ、授業後には指導案どおりに授業ができたかや、授業の問題点の指摘のための反省会めいたことをする。場合によっては板書のやり方についての指導があったり、授業前に板書案を見てもらうこともある。
それに、他の先生たちの授業の見学というのも重要な要素の一つで、実習生の授業を見に行くこともあれば、実習生の始動をしていない先生の授業を見に行くこともあった。実習生同士で問題点の指摘をすることもあったし、現役の先生に質問をしてアドバイスをもらうなんてこともあったから、授業のない時間に、「近所のコンビニへ」行くなんて時間は取れないと思うのだけど。事実だとすれば、自分の授業のない時間に何をするのか指導されていなかったのが問題ではないのか。我々のときは、ほかの先生の授業を見に行くように指導されたのは、最初ではなくて多少慣れて余裕が出てきたころだったと記憶する。
事実だとして考えると、最悪なのは、最後の学生に対する評価の部分で、記事としては、いい話っぽくうまく落とせているけれども、これは大きな問題である。指導教員が実習生に温情をかけて正しい評価を下さなかったということになるのだから、それを自ら認めてしまう先生ってのもなあ。これもまた記事の信憑性を疑う理由のひとつである。
ただし、この記事がでたらめだといって非難する気はまったくない。週刊誌の記事なんてのは、内容の正確さよりも読者を楽しませることを目的としているのだから、個人のプライバシーや人権にかかわるもの以外は、こんなんでいいのである。実際に起こったかどうかはどうでもよく、読んでありえると思われるのが大切なのである。
2019年9月7日24時30分。
2019年09月08日
こんなもの要らない(九月六日)
小学館の週刊誌「週刊ポスト」が、「韓国なんて要らない」という記事だか、特集だかを誌面に乗せたせいであちこちから非難を浴びて、謝罪に追い込まれたらしい。こういう騒ぎが起こるたびに思うのだが、たかだか一雑誌の内容に大騒ぎし過ぎじゃないか。仮にたかだか一週刊誌のせいで、日本中に反韓国感情が高まる恐れがあると考えているのなら、それは読者を馬鹿にし過ぎというものである。
そもそも、雑誌の記事、特に週刊誌の記事を読んで完全に真に受けてしまう人などいるまい。独断と偏見、予断と憶測、我田引水、針小棒大などに満ち満ちているのが週刊誌の記事であって、見出しに惹かれて読んでみたら金と時間の無駄だったという経験のない人は、読まないという人を除けば、皆無であろう。そういう虚と実の境目の虚の部分で、あることないこと書き散らすのが週刊誌で、読者の側もでたらめさの中に、たまに多少の事実が混じっているのまで楽しむというのが、日本の誇る似非ジャーナリズム、週刊誌文化というものだ。
出版社系であれ新聞社系であれ、週刊誌の「取材」というものがいい加減にすぎることについては、すでに森雅裕が乱歩賞受賞直後に痛烈に批判している。事実誤認を指摘しても修正も謝罪もせず、雑誌に取り上げられたのだから喜べ的な対応だったらしい。その不満を受賞パーティーなどでぶちまけた結果、あちこちの出版社から嫌われて、後に干される原因の一つになったというのは、森雅裕読者ならよく知っている話である。
大学関係者が、しばしば不満を漏らすのが、どこかの週刊誌が売り物にしている大学別就職状況ランキングとかいうもので、この雑誌の「取材」と称するものは、大学の事務に電話をかけて、場合によってはメールを送って、いついつまでに卒業生の就職先のリストを提出するようにと依頼をするだけ。大学側では毎年毎年くそ忙しい中、大学の名前が雑誌に出るのだから当然協力するよな的な態度での要請に、腹を立てながら資料を作成しなければならないのだとか。
それだけのことをさせておきながら謝礼を出さないどころか、掲載誌を送って来もしないと言うのだから、森雅裕の時代から進歩していないようである。仮に一回だけなら大学側の厚意に甘えるのも、それが実質的には強要だったとしても、企画自体が海のものとも山のものとも付かないのだから、わからなくもない。だけどそれが毎年ということになったら、相手にかける負担というのが普通だと思うのだが、ここにも日本のマスコミの思い上がりというのが現れているのだろう。
そういえば、昔、「こんなものいらない」なんて連載をしていたのは、「週刊朝日」だっただろうか。いろいろなものや習慣、ルールなどを不要だと批判して切って捨てるという内容だった。週刊誌らしい企画で、週刊誌らしいいい意味でいい加減な面白い記事が多かったと記憶する。それでも、読んでいて、それはないだろうと言いたくなるような独断と偏見に満ちたものもけっこうあったけど、それを批判するというのは野暮というものである。
今回の「週刊ポスト」の件は、そういう世界で生きていて、事情もよく分かった人たちからの執筆拒否宣言が相次いだこともあって、謝罪に至ったようだが、執筆拒否って天に唾するようなものじゃないか。自分たちもその一部として作り上げてきた週刊誌の世界のやり口を否定しているのだから。自分だけは関係ないと、責任逃れに逃げを打ったようにも見える。不満があるのなら、「週刊ポスト」なんていらないという記事を、あることのないこと混ぜ合わせて書けばよかったのだ。
もし、記事が「アメリカなんか要らない」とか、「トランプ大統領なんか要らない」だったら、抗議して執筆拒否なんて言い出す人はいなかったんだろうなあ。国の悪口をいうより、個人攻撃の方が、人権侵害の観点から言えばたちが悪いと思うんだけど。公人についての記事なら、ある程度は仕方がない部分があるにしても、例えば殺人事件の被害者を貶め、遺族をさらに追いめるような記事に対しての執筆拒否だったら、納得もいき尊敬の気持ちにもなるのだけど……。
迷走、迷走、また迷走の結果、書くべきことが見えなくなってしまった。
2019年9月6日24時30分。
2019年09月02日
勉強しない高校生?(八月卅一日)
またまた日本の話で申し訳ないのだが、「高2生、3割が勉強時間ゼロ」というかなり衝撃的な記事を見つけた。見出しを見たときには、日本では大学だけでなく高校も勉強しなくてもいい場所になったのかと愕然としたのだが、記事を読んだら、見だしに騙されただけだということがわかった。
見出しだけからは、高校二年生の3割は全く勉強していないと理解するのが普通、いや、この見出しの掲げ方だと、学校での授業も含めて全く勉強していないと理解する可能性だってなくはないと思うのだが、そうではなかった。こんな見出しのつけ方でいいのか、共同通信。
実際は「宿題を除く1日の勉強時間がゼロ」だということで、これなら特に驚くにはあたらない。少なくとも我々の時代田舎の公立の自称進学校では、朝の7時半から夕方5時まで、課外とか補習とか言われる強制された希望者が参加する追加の授業を含めて、学校で勉強させられていたし、宿題も山のように出ていたから、宿題以外の勉強を自宅でする時間などないに等しかった。
さらに読み進めていくと、「休日に授業の予習や復習などを全くしていなかった」とあって、授業のある平日ではなく、休日の勉強時間に関する調査であるらしいことがわかってくる。わかってくるのだが、記事を読んだだけでは、別の調査項目の可能性も否定できない。付載の表に「高校2年生の休日の勉強時間」とあるのだが、希望進路別のデータはあっても、全体を総計したデータがないので、3割が勉強時間ゼロというのが、休日だけを対象にしているという確証は持ちきれない。
最後にこのデータが「2001年の特定日に生まれた子どもを毎年調査する「21世紀出生児縦断調査」の結果」だということと、回答者数が「約3万人」であることが明らかにされるんだけど、何とも読みにくく、わかりにくい記事の書き方である。長いあれこれ説明の出てくる記事であれば、最初に最も重要な結論を書いておいて、それを細かく説明していくような書き方でもいいのだろうけど、こんな短い記事でそれをやるとこの記事のように、読者が理解したのかどうか確信の持てないものが出来上がってしまう。新聞記者なら記事のタイプによってスタイルを使い分けるぐらいの芸を見せろよというのは、今の日本のマスコミの惨状を考えるとないものねだりなのだろうか。
調査から明らかになったとされる結論が、「望む進路によって、学習時間に差がついている状況が浮かんだ」って、こんなの調査するまでもなく、予想できることである。就職志望の場合には、進学希望の学生と比べると高校での授業時間からして少ないのが普通なのだから。しかも休日の、しかも宿題以外の勉強時間の調査では、「学習時間に差がついている」という結論を導き出すのに無理がありすぎる。
仮に、「学習時間に差がついている」という結論を、それが単に予測の確認に過ぎないとしても、導き出すとしたら、必要なのは、平日も含めた授業以外の勉強時間の統計である。当然そこには宿題にかける時間も含まれるべきで、宿題さえしない、もしくは課されない高校生がどのぐらいいるのかの方が、休日どれぐらい勉強しているかよりも重要な情報である。その結果、ありえるとは思うけど、3割の高校生が宿題すらしないという状態であれば、大学進学率が50パーセントなんてことになっている現在、大学教育の無償化がいかに税金の無駄遣いであるかが明らかになる。
そして、気に入らないのは、「宿題以外の」といういやらしい設問のしかたである。ここに調査を行なった文部省の、高校生が自主的な勉強ができていないのはよくないという一見もっともらしい結論を導くための意図が読み取れてしまう。「休日に授業の予習や復習などを全くしていなかった」というのだが、予習が宿題になっている授業も多いはずだし、復習は宿題で出されたことだけで十分な場合だって多い。宿題以上に復習をするのはテスト勉強ぐらいというのが普通の高校生の姿じゃないのか。テストが終わった後に間違えたところを徹底的に復習するという勉強の仕方もあると思うけど、それを休日にやらなければならないいわれはない。
そもそも、宿題以外の勉強が指すものがはっきりしないのに、「予習や復習など」云々という結論につながるのがよくわからない。宿題の中に予習、復習が含まれている可能性も高いのである。学校の宿題以外の勉強といわれたら、模擬試験のための勉強、資格試験のための勉強、塾や予備校の宿題ぐらいしか思いつかない。そんなのの有無を元に、高校教育のあり方を評価されても、説得力はまったくない。
むしろ、休日に学校の勉強をしないで、自分の趣味にかかわる勉強、就職後のことを考えてアルバイトをしているのであれば、逆に高く評価できることになる。例えば歴史好きの高校生が、学校の授業や受験とはまったく関係のない歴史書を読むことを勉強だと認識しているとも思えないしさ。憶測になってしまうのでこの辺でやめるけど、この記事に上がっているデータからは、ほとんど何も読み取れないというのが正しい。
文部省嫌いのひねくれものが読み取るとすれば、考える能力という本来数値化して評価できるはずのないものを評価するとか言っている新しい大学入試の導入に関連して、今の指示待ち勉強はだめなんだという風潮を盛り上げるためのデータとして使おうとしているのではないかということだ。それにしても中途半端すぎて失敗しているけど。
このデータについてのコメントで、文部省の担当者が「皆が前向きに勉強に取り組めるよう、授業などの改善に向けた検討を続けたい」と言っているようだが、文部省は検討なんかしないで、何もしないのが、日本の教育には一番役に立つと思う。
2019年8月31日24時。
2019年09月01日
NHK問題(八月卅日)
先日の参議院議員選挙で、NHKから国民を守る党とかいう政党から立候補して、議員となった人があれこれ物議を醸すような言動を繰り返しているらしい。大半はどうでもいいというか、ニュースにする価値があるのかと言いたくなるような、話題になることで知名度を上げようとする党の戦略に乗せられているようなものだったが、一つだけ納得できなかったのが、結局受信料を支払うことにしたというニュースで、その払い方が支払っている人の割合にあわせて、正規の受信料の何十パーセントかを払うというものだった。
これには、正直がっかりしたのだけど、NHKをぶっ壊すとか言うのなら、自分の規準でNHKの番組を評価して払う価値のあるのはこれだけだと算出した額を公表して、それだけ払えばよかったのに。そうすればNHKと受信料闘争をしている人たちにとっての基準になったはずである。そもそも、NHKの受信料高すぎないか。チェコはテレビとラジオ合わせて180コルナである。日本円に換算すると900円ぐらいなのかな。このぐらいならしぶしぶながら払ってもいいと言う人も多いんじゃなかろうか。
高校を卒業してから10年ほど一人暮らしをしていたのだが、受信料を払ったことは一度もない。当時すでにNHKも含めた日本のテレビ番組に見たいと思うものはほとんど存在しなかったので、テレビなんか持っていなかったのだ。一年だけ先輩に押し付けられたテレビが部屋にあった時期があるけど、一度受信料の徴収にきた失礼極まりない男に部屋の中まで見せて追い返した後は、徴収に来なかったから払う必要もなかった。
テレビがあったといっても。タイマー機能を目覚ましの代わりに使うのがメインで、あとは教育実習で徹夜して指導案を書いていたときに、眠気覚ましに国会中継を流していたぐらいである。何かの法案の審議で野党の牛歩戦術という頭の出来を疑いたくなるようなやり口のせいで深夜まで審議が続いていたんだったかな。時間と労力の無駄ではあるけれども、眠らずに指導案を書く助けにはなったから、この国会中継の分ぐらいは受信料払ってもいいかなとは思った。
略称N国党が主張しているのは、デジタル化したNHKの放送のスクランブル化で、それに反対する側は公共放送なのだからという理由で、スクランブル化は認められないと言っているようだ。この議論にも不満があって、何故に現在のNHKが公共放送に値するのかという根本的な問題を議論の対象にしないのだろうか。しばしばNHKの番組の質が下がったという話を聞くし、バラエティー番組、お笑い番組ばかりになって見るものが少なすぎると嘆いている人もいる。
NHKがこれまで様々ないい番組を制作してきたのは認めるし、過去の民放の発達しない、特に田舎では民放の放送が見られなかったような時代であれば、公共放送のNHKが何でもやる必要があったのだろうが、現在の民放が多くていくつあるのかも分からない、ど田舎の県でも二つはある、衛星放送も、有料放送も発達した現在においては、公共放送たるNHKの役割を再検討する必要があろう。
90年代にビロード革命後に改革中だったチェコテレビの人が、日本まで出かけてNHKの見学をしたという話を聞いたことがある。そのとき、案内をしたNHKの人が金の話しかせず、本来の目的だった公共放送のあり方については何の参考にもならなかったらしい。何でもNHKでは金を湯水のように使えることを自慢し、旧共産圏で資金的に苦しんでいたチェコテレビを見下すように金ないと何もできないだろうなんてことをわめいていたのだとか。それでチェコテレビではNHKの評判は最低だったなんてこともいっていたかな。
この話は知り合いの関係者から聞いた話なのでどこまで本当かは知らんけど、NHKが民放よりもはるかに社員の給料がよくて、出演者に対しての報酬もずっと高いという話もあるわけで、考え合わせると、無駄遣いを減らして受信料を大幅に値下げしろよと言いたくなる。本当に「公共」であるのなら、最低限の料金を徴収して、それでできる範囲で番組を制作して放送するのが正しいはずである。使える予算を増やすために受信料を上げるとか本末転倒もいいところである。だいたい民放と同レベルで視聴率争いをする時点で公共放送であることを自ら否定しているだろう。
仮に、公共放送であることを理由に受信料の徴収を正当化するなら、24時間放送のニュース専門チャンネル、教育番組の専門チャンネル、スポーツ中継の専門チャンネル(ただし民放では採算が取れないで中継できないマイナースポーツ中心)、それにせいぜいドキュメンタリー番組専門チャンネルの四つのチャンネルを作って、その分だけ義務的な受信料にしてしまえばいい。この四つなら民放にはできないという意味で公共放送の果たす役割に含まれるだろう。受信料の値下げは当然のことである。
そして視聴率稼ぎをするドラマやお笑い番組は、別料金を払った人だけが見られるチャンネルにすれば、民放と同レベルで争うことになって公平性も保てるというものである。別会社にして民営化してもよさそうだ。ドラマに公共性を持たせるなんてアホなことを言う人はいないだろうしさ。
最後に潤沢な資金を使えるNHKの貧乏なチェコテレビを越えるセコさを指摘しておけば、チェコテレビがネット上で提供しているテレビ番組は、チェコで受信料を払っているかどうかにかかわらず見ることができる。日本からでも、例えばチェコテレビの制作したニュース番組やドラマを普通に視聴することができるのである。それに対してNHKは、ネット上にニュースとして上げられているビデオはチェコからも見られるが、番組を最初から最後まで通して見ることはできない。日本でも受信料を払っていないと見られないのかもしれないけど。
ということで、日本にいたとしたら受信料の支払いは拒否するだろうなあ。10年前の日本では、ホテルに滞在していて毎日テレビをつけることはつけたけれども、最後まで見ていられる番組が一つもなかったから、わざわざテレビを買おうとも思わないだろうけどさ。スポーツ中継でさえ過度にショー化されて、見ていると恥ずかしくなるような日本のテレビ放送に不満を持つ人はいないのかね。
2019年8月30日24時。
2019年08月29日
切符を知らない子供たち(八月廿七日)
こんな、ショックな ニュース を発見してしまった。切符の使い方を知らない若い人が増えているというのである。これで思い出したのが。10年前に日本に行ったときに、成田空港から電車に乗ろうとして、券売機を見つけるのが大変だったことだ。昔は、駅に入ればすぐにわかる位置に券売機があって、というか、あっちにもこっちにも券売機が置かれていたから、特に探す必要はなかったと思うのだが、散々歩き回らされた記憶がある。
それで、こっちが券売機を探してうろうろしているのをしり目に、自動改札にピッピッと何かを当ててホームに入っていく人の群れに、いわれのない怒りを感じたのだが、これはさらに状況が変わっていて混乱した渋谷の駅でのことだっただろうか。土地勘があったはずの渋谷駅で迷子になりかけたのも大ショックだったし。
日本に行く前に、日本で会いに行くことになっていた知人から、東京の地下鉄、私鉄の路線が増えてあれこれ変わっているよという話は聞いていて、親切に細かく説明しようかと言ってくれたのを、迷ったりしないよと断ったのを後悔してしまった。本格的に日本で電車に乗るのは10年ぶりぐらいだったから、とにかく戸惑うことが多かった。
だから、首都圏の電車地下鉄に乗るのに切符を買う必要のない人が増えているのは知っていたのだ。だけど、すでに切符の存在を知らない、知っていても使い方を知らない世代が登場しているとは予想だにしなかった。こちとら、そんな若い人たちが使っているICカードというものを知らないぞ。携帯電話に財布とか電車の定期券を入れられるとか言っていたのとは違うのか? それ聞いて、何でも一つにまとめられているのはいいけど、一つなくしたら大変なことになりそうだと、実際の使い方もイメージできないままに思ったんだけど、現在はさらに状況が進化しているのだろうか。
うーん。今度日本に行くときには、前回以上に浦島太郎状態になりそうだなあ。切符が完全に姿を消す前に日本に行かないと、電車の乗り方が書かれた日本旅行のガイドブックとか必要になるかもしれない。
思い返せば、子供のころ、鉄道の切符と言えば、出発駅と行先の駅名の書かれた硬券だった。改札でハサミを入れてもらうときの音の響きも耳に心地よかったし、遠くまで旅行したときには、駅員さんにお願いして記念にもらうなんてこともできていた。何か特別な判子をもらうんだったかな。その後、高校を卒業した80年代の終わりまでには、我がど田舎でも自動券売機が設置されて、切符も柔らかいものになったんだったか。
それでも、受験で東京に出たときか、旅行で福岡に行ったときかに初めて見た自動改札には、驚かされた。時間帯もあってがらがらだった福岡の地下鉄では、こんなもの必要なかろうと思ったのだが、東京の駅の混雑ぶりには、これは自動改札がないと駅員さん大変だわと感心したのを覚えている。それ以上に初めて通勤ラッシュ時に電車に乗ってその殺人的な込み具合に、大学に通学するのが嫌になりそうだった。遅めの授業を狙って朝の通勤ラッシュを避けることで何とかしたけど、夜は夜で飲んだ後の終電近くのラッシュもつらかったなあ。
生まれて初めて定期券なるものを手にして、バイトの関係もあって定期を2枚使用していた時期も長く、財布とは別に定期入れなんてものも持っていた。定期例にもちょっとお金が入れてあったから、財布を落としてもどうしようもないという状態にはならなかったのだけど、落としたことがあるのは定期入れだけで財布は一度も落とさなかったのかな。鉄道会社をまたぐ乗り換えのときとか2枚自動改札に入れるのが大変だったような記憶もあるんだけど、どうだったかなあ。乗り換えがあっても一枚にまとめてくれる場合もあったから、記憶があいまいになってしまっている。
オレンジカードというのは、JRの自動券売機で使えるプリペイドカードだっただろうか。それとも自動改札を通すと勝手に乗った分だけ残高が減っていくタイプのカードだったかな。古本屋巡りをしていて定期が使えないところに行くときには、私鉄のものも含めて、この手のカードを使うことも多かったから、自分でも常に切符を使っていたわけではないんだということに気づいてしまった。切符をいちいち買う必要がないというのは便利ではあるのだ。
チェコの鉄道も、90年代の初めまでは使われていた硬券を使わなくなって久しいのだが、最近印刷された切符も持たない人が増えている。車掌が切符の確認に来たときに、ネットで購入した切符をスマートフォンか何かで見せてお仕舞である。車掌は手に持っている端末で何とかコードをピッとかやるだけ。切符の種類によっては身分証明書の確認が入るけど。
これも日本で切符を使わずに自動改札を通って行った人たちを見たときと同じで、時代遅れを馬鹿にされているような気がしてムカつく。それでいてスマートフォンなんか絶対に使うもんかと、頑なになっているのだから、我ながら度し難い。この記事を読んで、自分が年を食ったことを久しぶりに思い知らされてしまった。事実だし仕方がないか。
2019年8月27日24時。
2019年08月27日
チェコから日韓関係を見る(八月廿五日)
日本と韓国の関係がまた、ややこしいことになっているらしい。最初に韓国という国の存在を認識したのは、70年代の終わりだっただろうか、金大中事件で大騒ぎになっていて、何がなんだかわからないと思ったのを覚えている。80年代の初めかな? それから80年代の半ばだっただろうか、時の韓国大統領が来日して、日本における韓国の人名の読み方にいちゃもんをつけて帰った。その翌日からニュースに登場する韓国名の読み方が変わった。当初は元の読み方も併用されていたような気もするけど、漢字表記との関連性が切れてしまって目から入ってくる情報と、耳から入ってくる情報の整合性が取りにくくなった。
さらに困るのは、歴史的人物の場合で、これは確か中国の人名でも起こったことだったので、伝統的な音読みと、現地語の発音での読みが混在して誰が誰やらわからなくなるなんてこともあった。現地での読み方を重視するというのは、悪いことではないのだろうけど、音読みで統一した方が便利だったと思う。現地読みだと知らない人の名前が読めないしね。だからこの問題が出てきたころに、ある国会議員が、抗議のために毛沢東を「けざわひがし」なんて読む嫌がらせをしていたのか。社会の先生は読み間違えたといっていたけど、それはありえないだろう。
さて、例によって枕が長くなってしまったが、チェコから、チェコの政治家になったつもりで、昨今の日韓関係を見ていて思うのは、「韓国はいいなあ」ということである。これは韓国をほめているのではなく、韓国が恵まれていることをうらやましがっているのである。ちょっと政治的に問題が発生しても、反日をあおれば支持率は上がるし、日本の首相が靖国神社に参拝して手助けしてくれることもある。経済的な問題が起これば、過去の出来事を、すでに解決されたことになっていたとしても、もう一度穿り返すことで、日本から金を引き出すことができる。この辺は韓国だけでなく、中国も同じなのだけど、チェコにもこんな打ち出の小槌のような隣国があると楽なんだけどねえ。
考えてみると、チェコと韓国の第二次世界大戦を基準にした立ち位置というのは非常によく似ている。どちらも隣に第二次世界大戦の敗戦国があって、対戦前にその国に占領されて「多大なる」被害を被った。戦後はその隣国が経済成長を遂げて経済大国になり、チェコの場合は冷戦が終わってからだけど、経済的な支援を受けてきた。反対側に赤い資本主義の大国が存在するのも似ているか。
アジアでは被害者の朝鮮半島が戦後、韓国と北朝鮮に分離したのに対して、チェコでは加害者国のドイツが、すでに再統一されたけど、東西に分裂した。チェコとスロバキアも分裂したけど、朝鮮半島の分断とは意味が違いすぎる。それから、東アジアにEUのような組織がないのも、現在のチェコと韓国の違いと言ってもいいかもしれない。
残念ながら、チェコでは、韓国が日本を叩くように、ドイツを叩くことはできない。いや叩いても意味がない。反独で政治的なキャンペーンを張ったとしても、国民が一枚岩になることはありえず、せいぜい共産党とオカムラ党の支持者のうちの極左の連中がそれに加担するだけだろう。ドイツ以上に嫌われているソ連の後継国であるロシアを攻撃した場合でも、共産党や社会民主党の支持者の一部は、反露キャンペーンに徹底的に反対するだろう。内政上の問題を外交の問題に注目させて、つまりは外国を敵に仕立てることで、乗り切ることはできないのである。だから、文化大臣の問題が延々と話題になり続けているわけだし。
日本の戦後賠償が不十分だという話にしても、ドイツと比べてどうなのかねえ。個々の強制収容所に収容されて強制労働させられた人たちへの賠償なんかしてないと思うんだけど。何せ、ユダヤ人と並んで、民族浄化の対象となったロマ人に対する補償に関しては知らん顔で、ポーランドのアウシュビッツやチェコのテレジーンなどユダヤ人関係の強制収容所の跡地は、整備されて博物館になっているのに、ロマ人の収容所に関しては記念碑さえも置かれていなかったのだから。
以前、ポーランドが、ドイツの意を受けたとみられていたEUからの干渉の大きさに腹を立てて、第二世界大戦の賠償を請求するとか言い出したときも、すでに終わった話だとすげなく切って捨てて歯牙にもかけなかった。日本も戦後のどこかの時点で、これでお仕舞ときっちり線引きをしておけばよかったのに、ずるずると引きずってしまうから、時間が経って事実関係の調査さえ難しくなってから話を蒸し返されてしまうのである。
戦前から戦後を生きた日本人の多くは、少なくとも我々のように1980年代に中学高校で勉強した日本人の多くは、右翼的思想の持ち主であれ、左翼的な思想の持ち主であれ、戦前戦中の出来事に関して、中国や韓国に対して何とも言い難い罪悪感を感じている。それは左翼だと中国、韓国の主張を全面的に取り入れる方向に向かい、極右だとすべてを否定して日本には悪いところなどなかったと強弁することになる。
実際に政権を握っていたのは右寄りの人たちなので、相手の言うことを全面的に受け入れることはしないまでも、罪悪感を軽減するために、あれこれ口実を付けて譲歩を続けてきたのが戦後の日韓関係だと言っていい。その日本人の感じる罪悪感が、世代交代が進むにつれて薄まってきたのか、日本側が譲歩しなくなってきたのに焦った韓国側が急進化して頑なになっているのが現状と言えるだろうか。
それにしても、韓国の展開する論理を見ていて思うのは、環境保護団体とか反捕鯨団体のやり口と似ているということである。やつらにとって議論というのは、自分たちの正義を相手に認めさせるためのものでしかなく、自分たちの考え以外のものは話し合いの結論にはならない。ささいな揚げ足取りで大騒ぎするのも特徴か。こんな連中との話し合いというのは時間の無駄にしかならないもので、最近の韓国も同じように対話とか議論と言うのが言葉の本来の意味を失ったところまできているように見える。
その点では、選挙に勝てば民主主義の勝利で、負けたら民主主義の危機とか抜かす日本の野党もおんなじようなものだよなあ。チェコの既存政党も同じようなところがあって、それで支持を失っているのだから話にならない。昔は国内政治でも外交でも、時に意味不明にずるずると譲歩することはあっても、もう少し建設的な議論、話し合いができていたような気がするのだけど、ノスタルジーから来る過去の美化なのだろうか。
日本も、そろそろ韓国や中国にとっての、都合の「いい国」であるのをやめる時期に来ているのではないかと思う。と取ってつけたような結論で今日のお話はおしまい。またまたとっちらかってしまった。
2019年8月25日24時30分。