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2019年10月04日

神の死(十月二日)




 今年の7月には80歳の誕生日を迎えて、久しぶりに前妻との間の娘たちとも一緒にお祝いをしたなんてニュースもあったし、チェコテレビのインタビューに元気に答えていたから、まだまだ大丈夫だと思っていた。ハベル大統領、チャースラフスカーについで、チェコ人の幅広いそうに愛され、一つにまとめてきた存在が世を去った。ゼマン大統領の存在でただでさえ分断が進んでいるチェコの社会が今後どうなるのか心配になってくる。

 チェコの国の外で最も有名なチェコ人というと、チェコを知っている人ならハベル大統領の名前を挙げるかもしれない。ただハベルの名前が、チェコを知らない人の間にまで浸透しているかというと、日本でも状況は怪しい。20〜30年ほど前までなら、日本で一番知られたチェコ人の名前を挙げるのに迷う必要はなかった。東京オリンピックのチャースラフスカーを覚えている人が多かったのだ。チェコではなくて、チェコスロバキアだと思い込んでいる人もいただろうけど。今なら、長野オリンピックで名を売ったアイスホッケーのヤーグルか、サッカーのネドビェットのほうが知られているかもしれない。


 そんなゴットが生まれたのは、まだ第二次世界大戦中の1939年で、場所は西ボヘミアのプルゼニュだった。工業学校を卒業した後、電気工として生活しながら、音楽活動をはじめ、さまざまな音楽コンテストで活躍し、デビューにつなげたというのが、カレル・ゴットの公式のストーリーなのだが、実際はちょっと違ったようだ。

 本人の話では、プラハの音楽学校で声楽のテノールを学んで卒業した過去があるのに、デビューの際に、レコード会社から隠すように言われたのだという。声楽を学んだ人間が、歌手としてデビューするよりも、正式な音楽の勉強をしたことのない労働者が、自らの才能だけを頼りに歌手デビューしたというストーリーのほうがインパクトがあって、ファンを、特に女性のファンを獲得しやすくなるということだったらしい。
 その結果、ゴットはチェコスロバキアの音楽シーンに華々しく登場し、大げさに言えば一夜のうちに大スターになったらしい。それが1960年代の前半のことで、以後ゴットは、ゴットの歌は、チェコスロバキア国民の希望の星となる。不自由な体制に支配された生活をゴットの歌を聞いて耐え忍んでいたというと話が出来過ぎだけれども、特に女性を中心に圧倒的な人気を誇り、歌手の人気アンケートでは、それこそ毎年のように一位の座を獲得して、「勝てるとは思っていませんでした」と受賞のインタビューで答えるところまでが定番化していたようだ。

 ゴットの人気を最も必要としていたのは、本人ではなく、共産党政権だったらしく、師匠が冗談半分で、ビールの値段が高騰するか、ゴットが亡命するかしたら政権が倒れると言われていたなんて教えてくれた。そして、師匠は、ゴットは実は二回西側に亡命を企てたことがあり、二回ともチェコスロバキア政府の懇願に応えて、帰国したのだと付け加えた。
 一度は、西ドイツに出かけたまま、戻ってこなかったときのことで、本人はこのとき「亡命の練習をしてきた」などと弁明していたらしい。もう一回は、キャリアの初期にアメリカのラスベガスで半年ほど仕事をしたときのことではないかと考えているのだが、どうだろう。亡命の練習にしても、ラスベガスの話にしても、これ以上本人の口から真実が語られることは亡くなったことを考えると残念でならない。

 1989年のビロード革命に際しては、反体制派だったマルタ・クビショバーとともに、国歌を歌い、反体制の活動家たちと、体制内で不満を持ちながら活動してきた層の協力関係の象徴となった。あのとき、ゴットが反体制側に歩み寄り、クビショバーがゴットを受け入れたことが、ビーロド革命をビロードにしたのだろうと今にして思う。それが政治的な主義主張を越えた芸術家、この場合は歌手の持つ力というものである。政治家だけではあそこまでうまくいかなかったはずだ。
 以後も、共産党体制下で、「アンチ憲章77」に署名したとか、共産党に庇護されていたとか批判されることも多かったけれども、特に反論することもなく、歌を歌い続け、政治的は発言はほとんどしなかった。それは自らのチェコ民族に対する存在の重さを知り、影響を与えないように自制していたようにも見える。
 毀誉褒貶あれこれあるけれども、それも含めてカレル・ゴットはチェコ的な、極めてチェコ的な大スター、いや何をするでもなくそこに在ることこそが重要な神にあらせましたのだ。共産主義という宗教を信じられなくなったチェコの人がすがった神的な存在、それがゴットで、だからこそ「神の」という枕詞がつけられたのだと解釈しておく。
 この件、もう少し続く。
2019年10月2日24時30分。











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