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2020年08月15日
有難う、アメリカ!(八月十二日)
そのポンペオ氏が武漢風邪の流行は収束しないものの、当初のお祭り騒ぎが終わって最初の欧州訪問でチェコに来ることを選んだのは、NATO加盟国の中で、アメリカが求めるのに近いレベルで予算を軍事費、もしくは国防費に費やしている数少ない国だからとか、中国に対して警戒を強めるトランプ政権が、ヨーロッパで中国の拠点の一つになりつつあるチェコの、中国派の大統領を初めとする政治家に警告を与えるためだとか、あれこれ理由を考えたりもしたのだが、もともとチェコに来る予定だったのが、武漢風邪で延期されただけだったかもしれない。
ということで、ポンペオ氏がチェコで最初に向かったのはプルゼニュである。第二次世界大戦末期に西からドイツ軍を掃討しながらチェコ国内まで侵攻してきたアメリカ軍が最後に開放した都市プルゼニュで行われる戦勝記念式典に出席したのである。本来は5月に、戦後75年ということで例年より盛大に行われる予定だった式典は、延期を余儀なくされ、規模も縮小されることになったが、アメリカから賓客を迎えることができた。
式典が行われたのは、プルゼニュのアメリカ通りの一番端のちょっと広くなって広場のようになっているところに設置された、アメリカ軍によるプルゼニュ解放記念碑の前である。この記念碑の名称が、正式かどうかはしらんけど、「Díky, Ameriko!」というもので、最初に聞いたときには、あまりの直接的な命名に耳を疑ってしまった。共産党政権下では公式にはアメリカ軍による解放はなかったことにされていたというから、その抑圧が爆発しての命名ということだろうか。いつ作られたものかは知らないけど。
その儀式の翌日にポンペオ氏はプラハに移動して、大統領や首相などと会談を行ったらしい。チェコテレビではその移動の様子を中継して、これからチェコの政治家たちとどんな話をするのかなんて番組をやっていたのだが、解説者として呼ばれたのが元外務大臣のツィリル・スボボダ氏。かつてキリスト教民主同盟の党首も務めたこの政治家は忘れられた存在になったものと思っていたのだが、チェコテレビに売り込んだのかね。
1990年代の政治的風潮がまだ幅を利かせていた、別な言い方をするとクライアント主義が全盛期だった2000年代の初めに外務大臣を務めていたのだが、言葉はきれいなものの、考え方は典型的な旧来の政治家で政治家の特権意識を持つ人だった。政治家なんて選挙に落ちたらただの人にもどるのが正しい民主主義のあり方のはずなのに、外務大臣をやめて議席を失ってからも、特別待遇を求めるような発言を繰り返していた。ただし、この人が特別なのではなく、当時の政治家は皆、今も既存の政党の政治家の多くは同じような意識を持っている。
外務大臣を務めた自分を外務省の顧問として雇わないのは、国にとって損失だとかこいていたのかな。当時は二大政党で、同時に汚職に関しても二大政党だった市民民主党、社会民主党以外ということで少しはましかと思っていたのだけど、結局は同じ穴の狢だったわけだ。バビシュ氏とANOがあれだけの批判にさらされながらも、一定の支持率を保っているのは、一部は今でも現役のあのころの政治家たちよりはましというイメージが定着しているからで、スボボダ氏もそのあのころの政治家の典型の一人なのである。
実際に、ポンペオ氏とチェコの政治家たちの間でどんなことが話されたのかについては、あまり興味はない。それよりもアメリカの国務長官がこの時期チェコを訪れたという事実のほうがはるかに重要である。外交官の追放でロシアとちょっともめているだけでなく、ベラルーシでも大統領選挙後の暴動にかんしてチェコが裏から煽っているとルカシェンコ大統領に批判されるなど東側からちょっと不穏な空気が漂ってきているところだしさ。
2020年8月13日14時。