身近な動植物 0
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この本は2001年に発行されました。著者は1929年生まれのイエズス会司祭の方です。手元の産経新聞の見出しに「ローマ法王死去、冷戦終結に貢献、宗教和解、在位26年 84歳」とあります。言うまでもなく、前ローマ法王ヨハネ・パウロ2世が永眠された記事です。ところで、メディアでは「ローマ法王」と呼ばれていますが、今回読んだ本のタイトルは「ローマ教皇」です。2つの呼び方についてウィキペディアで調べたので、それを引用します。-----引用開始-----ローマ教皇(ローマきょうこう、羅 De Romano Pontifice、英Pope、伊Papa)は、キリスト教の一大教派であるローマ・カトリック教会の最高位聖職者であり、政治的にはバチカン市国の元首である。日本のマスメディアではローマ法王と呼ばれているが、これは俗称であるため、カトリック中央協議会では呼び方をローマ教皇に統一しようとしているが、いまだに実現していない。現在の教皇は、ベネディクト16世(在位 : 2005年4月19日 - )。-----引用終了-----これを読むと、カトリック中央協議会では「ローマ教皇」に統一したい考えですが、メディアは「ローマ法王」と呼んでいるとのことです。あくまでも私個人の漢字から受ける印象ですが、「法王」というと世俗的な雰囲気があり、「教皇」のほうが超俗的な感じがします。したがって、「教皇」と呼びたいというカトリック中央協議会の考えに与したいと思います。だからといって、教皇と呼ぶ会を組織しての運動はしませんが(笑)。以下に、【この本からの引用】と【上記の感想】という形で、少々書いてみます。【この本からの引用】教皇は「私は平和の巡礼者としてみなさまへの友情へと尊敬のメッセージをもってこの日本に来ました」と挨拶した。【上記の感想】これは1981年に来日された前教皇ヨハネ・パウロ2世の挨拶です。ヨハネ・パウロ2世の在位は1978年10月16日から- 2005年4月2日ですので、26年間に及びます。あまりにも長期間に及んだためか、ローマ教皇というと平和の巡礼者として、各地を訪問するイメージがあります。現教皇ベネディクト16世については、まだよくわかりませんが、歳月を経るのにともない、イメージができてくるのでしょうね。【この本からの引用】殉教者にせよ証聖者にせよ、福者にせよ聖人にせよ、共通する一つのことは神の偉大な奉仕者男女がひとしく神の民によって公に崇敬されたことである。【上記の感想】カトリックでいう聖人は「公認の称号」ですが、「福者」も称号のようです。次に、ウィキペディアから引用します。-----引用開始-----福者(ふくしゃ Beatus)は、カトリック教会において、死後その徳と聖性を認められた信徒に与えられる称号。この称号を受けることを列福という。その後、さらに列聖調査がおこなわれて聖人に列せられることもある。-----引用終了-----「聖人」と「福者」の違いまでは調べる気がしないので、福者の代表的な人物を挙げるに止めます。マザー・テレサが福者の一人で、ヨハネ・パウロ2世により列福されたそうです。【この本からの引用】使徒聖ペトロから現教皇ヨハネス・パウルス2世へ至るローマ教皇史は、数えて264代である。【上記の感想】初代教皇はペトロで紀元67年頃まで在位とされています。そして、現教皇のベネディクト16世は265代になります。およそ2000年にわたり、連綿と続いているわけですね。なお、ベネディクト16世以前の最近の教皇を挙げると、次のようになります。教皇ピウス11世(1922-1939) 教皇ピウス12世(1939-1958) 教皇ヨハネ23世(1958-1963) 教皇パウロ6世(1963-1978) 教皇ヨハネ・パウロ1世(1978) 教皇ヨハネ・パウロ2世(1978-2005)これを見ると、ヨハネ・パウロ2世の在位期間が最も長いことがわかります。
2006/05/14
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最近はキリスト教関連の本を読み続けていますが、今日は特別に孔子を中心とする言行録『論語』の感想文を書きます。理由は、岩波文庫の『論語』等の訳注で知られる金谷治氏が、先頃永眠されたためです。ウィキペディアからの引用ですが、下記は金谷治氏のプロフィールです。-----引用開始-----金谷 治(かなや おさむ、男性、1920年2月20日 - 2006年5月5日)。専門は中国哲学、特に中国古代思想史。2002年日本学士院会員。2003年勲二等瑞宝章。主著に『管子の研究』。三重県出身。1944年東北帝国大学法文学部支那哲学科卒業。1961年文学博士。1946年旧制弘前高等学校講師、1948年東北大学法文学部講師、1950年同大文学部助教授、1962年同教授、1975年から1977年まで同文学部長。1983年東北大名誉教授、追手門学院大学文学部長。1990年追手門学院大名誉教授。現在の岩波文庫における『論語』・『孟子』・『孫子』・『荘子』・『韓非子』などの日本語訳はいずれも彼の手による。2006年5月5日、腎不全により死去。金谷茂則(大阪大大学院工学研究科生命先端工学専攻教授)は長男。-----引用終了-----手元にある岩波文庫の『論語』は、25年前の1981年4月に発行された第25刷です。実際に書かれたのは1961年10月で、金谷氏は当時41歳でした。私がこの『論語』を手にしたのは学生時代でしたが、当時は数ページ読んだだけでした。ところが何を思ったか、買い求めてから20年も経ってから、通読しようと思ったのだから不思議なものです。手元の『論語』に書かれた私自身の拙い文字によると、2003年6月15日~8月25日にかけて通読したと記録されています。私のプロフィールには、好きな本として論語を挙げています。しかし、ブログを始める少し前にを通読したため、感想文を書く機会を逸していました。それでもブログで論語に触れたことがあり、2005年3月26日の日記、それから2005年4月24日の日記に、論語という文字が見られます。以下に【この本からの引用】と【上記の感想】という形で、少々書いてみます。【この本からの引用】子の曰わく、力足らざる者は中道にして廃す。今女は画れり。【上記の感想】この意味は、「力の足りないものは進めるだけは進んで中途でやめることになるが、今お前は自分から見きりをつけている。」当然ながら、これは金谷氏の訳です。物事をなすに当たって、壁にぶつかるとすぐに投げ出してしまう、自分の力ではこの程度だな、そういう気持ちにすぐになる私です。自分で限界を定めてしまうことへの戒めとして、心しておきたい言葉ですね。【この本からの引用】子の曰わく、過ちて改めざる、是れを過ちと謂う。【上記の感想】金谷氏の訳では、「過ちをしても改めない、これを本当の過ちというのだ。」とのこと。これは結構有名な言葉のようですが、私が『論語』を通読したのは2003年ですので年齢は40歳を過ぎていましたが、そのとき初めて目にしたように思えました。まあ実際にはそれ以前にも聞いた言葉でしょうが、言葉を受け入れるのにもタイミングがあるのでしょう。2003年に通読した時はかなり衝撃的を受け、何度も読み返したのを思い出します。この言葉をもっと早く受け入れていれば人生が変わったかな、とどうにもならないことを思う昨今ですが(笑)。
2006/05/13
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この小説の創作後記の日付は、昭和56年3月20日です。つまり25年前に書かれた小説で、当時の著者は58歳でした。まずウィキペディアから著者のプロフィールを引用させていただきます。-----引用開始-----三浦 綾子(みうら あやこ、女性、1922年4月25日 - 1999年10月12日)は、北海道旭川市生まれの作家、エッセイスト。旭川市立高等女学校卒。結核、脊椎カリエス、心臓発作、帯状疱疹、直腸癌、パーキンソン病など度重なる病魔に苦しみながら、クリスチャン(プロテスタント)としての信仰に根ざした著作を次々と発表。-----引用終了-----さてタイトルの海嶺ですが、これはどういう意味なのでしょうか?これもウィキペディアを引いてみると、「海嶺(かいれい)は、大洋の底にある海底山脈で、マントルが地下から上がってくる場所のこと」です。著者がなぜ「海嶺」というタイトルにしたのか、私の読解力ではわかりかねました。そして何よりも海や船に対する知識が乏しすぎました。しかし、この小説を読み多少の海洋関係の知識を得ましたので、2つほど書いてみましょう。まず「渚」です。これは「なぎさ」と読み、そのまま人名にも使われる字ですが、この意味を正確には知らなかった。渚とは、「海の砂浜から波打ち際に至るまでのかなり広い砂地」(三省堂の辞書より)とのこと。次は「凪」です。これは「なぎ」と読み、「風がやみ、波が静かになる状態」です。細かいことをいうと、朝凪と夕凪という言葉があり、海風が陸風に変化する時に風が止んで静かになる状態があるといいます。それでは、以下に【この本からの引用】と【上記の感想】という形で、少々書いてみます。【この本からの引用】モリソン号が砲撃を受けたために、アメリカは1853年、軍艦4隻からなるアメリカ東印度艦隊をもって、威圧するごとく日本に開港を迫ることとなり、更には1856年のハリスの来日となったわけである。【上記の感想】この小説では史実である「モリソン号事件」を一つのテーマにしております。「一体、何がモリソン号の悲劇を起こしたか。そう私は鋭く誰かに問いたい思いで、この小説を書きつづけた」と著者は言う。では、その「モリソン号事件」とは何か?次にウィキペディアから引用します。-----引用開始-----モリソン号事件(もりそんごうじけん/英: Morrison Incident)とは、1837年(天保8年)、日本人漂流民(音吉ら7人)を乗せたアメリカ商船を砲撃した事件。 鹿児島湾、浦賀沖に現れたアメリカの商船「モリソン号(Morrison)」に対し異国船打払令に基づき砲撃を行った事件。しかしこのモリソン号には漂流しマカオで保護されていた日本人漁民7人が乗っており、モリソン号はこの日本人漂流民の送還、通商・布教のために来航していた事が1年後に分かり、異国船打払令に対して批判が強まった。またモリソン号は非武装であり、当時はイギリス船と勘違いされていた。のちに蘭学者の渡辺崋山、高野長英らが幕府の対外政策を批判したため逮捕されるという事件(蛮社の獄)が起こる。-----引用終了-----このような説明になるのですが、「モリソン号事件」を一つの史実として短くまとめてしまうと、あまりにも平板で「ああそうですか」で終わってしまう。まあこれはこれで仕方のないことですが、そこに人物を登場させて小説という形にすると、実に生き生きとしてくるものだと思いましたね。『海嶺』では、日本人漂流民の長い歳月の苦労話、そしていざ故国日本を目の前にするも、砲撃を受けて、故国の土を踏むことさえかなわずに追い払われてしまうという悲劇的タッチで書かれています。【この本からの引用】「そうです。聖書を日本語になおすのです。われわれプロテスタント(新教)の教会は、まだ一度も聖書の和訳に取り組んだことがありません。わたしはあなたがたがここにいる間に、その仕事をしたいのです。ぜひご協力いただきたい」32歳のギュツラフは、意欲に燃えていた。【上記の感想】『海嶺』を読もうとした理由は、4月16日の日記に「日本語聖書の歴史」に興味を抱いた旨を書いたところ、いつもコメントをくださるキロリさんに『海嶺』を推薦していただいたからです。『海嶺』が小説である以上、まずギュツラフは実在した人物であるのかとの疑問をもちましたが、日本聖書協会のHPを見ると、間違いなく実在した人物でした。そして現実に聖書の和訳に取り組まれたとのことで、現存する最初の日本語聖書は、このギュツラフ訳によるものであるとのこと。そして、このギュツラフの聖書和訳に協力したのが、『海嶺』の主人公である岩吉、久吉、音吉の3名であったとのこと。当時の日本でキリシタンになることは、お上により縛り首や焙り殺しになるという禁教国であったため、岩吉、久吉、音吉は複雑な思いを抱きながら聖書和訳に協力したのですね。そのへんが中々興味深く書かれておりました。
2006/05/06
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この本は1997年に発行され、著者はメッス大学の聖書文学教授です。また、この本の監修者は佐伯晴郎氏(1927年生まれ)です。この本の「日本語版監修者序文」に、世界のキリスト教の信徒数が書かれています。それによると、ローマ・カトリック教会が5億、東方正教会が2億、プロテスタント諸教会が1億で、合計が8億人ということです。かつての日記にキリスト教の信徒数は19億人と書きましたが、調査方法によるのか、差が非常に大きいです。そのようなことはともかく、以下に【この本からの引用】と【上記の感想】という形で、少々書いてみます。【この本からの引用】キリスト教には、他には見られないような、きわめて単純でわかり易い、次のような三つの特徴があります。1.キリスト教は、イエスをキリスト(救世主)と信じる宗教である。2.キリスト教は、聖書を経典とする宗教である。3.キリスト教は、教会に集まるキリスト者の宗教である。【上記の感想】イエス、聖書、教会が3本柱であると言われています。どれか一つでも欠くものは、「あやふやな擬似キリスト教」であると。たとえば、イエスではない他の誰かを教祖として崇めるようなものを、例として挙げています。なるほど、これはわかりやすい。【この本からの引用】とくに聖餐の説明は厄介であった。キリストの体を食するという表現は人肉食を連想させたからである。【上記の感想】聖餐(せいさん)とは何か?ウィキペディアを引いてみると、「聖餐とはキリスト教の儀式でイエス・キリストの最後の晩餐に由来するもの」と書かれている。この「最後の晩餐」でのイエスの言動は、パンを取り「これがわたしのからだである」といい、ワインをとり「これがわたしの血である」といって弟子たちに与えました。しかし、何ともわかりにくい話です。本を読むことで通り一ぺんのことはわかりましたが、これを説明するとなると全く自信がありません。それでも出来る範囲で説明すると、だいたい次のような感じでしょうか。例えば、カトリック教会では、ミサを毎日、絶える事なく続けていますが、このミサの中心が、パンとワインがイエスの体と血に変わること(聖体変化)とそれを信徒が分け合うこと(聖体拝領)にあるそうです。ただ、パンといっても、ほとんどの場合、ホスチアと呼ばれるうすいウェハースが用いられているそうです。カトリック教会では「御体」(おんからだ)とよばれるホスチアのみ信徒が拝領することが多く、「御血」(おんち)とも呼ばれるワインの拝領は行なわれても、カリスと呼ばれる杯から飲むか、聖体をワインに浸して食べるかのどちらかの形で行われるそうです。うーん、やっぱりわかりにくい(笑)。
2006/04/30
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この本は1981年の発行ですので、25年前になります。著者は1923年生まれですので、当時は58歳位でした。この本の「あとがき」に書かれていますが、当時にしても本が読まれなくなったとのこと。一方では、本を読む際には、質よりも量、つまりたくさん読めばいい、少なくてはいけないように言われるような風潮があったようです。それは、現在もほとんど変わらないと思われます。それでは、以下に【この本からの引用】と【上記の感想】という形で、少々書いてみます。【この本からの引用】ところが出版の商業化がすすむと、一度だけ読まれればいい、という本がふえる。読まれるかどうかよりも、まず、買われるかどうかが勝負だという出版社があらわれる。本は消費財の一種に変質する。【上記の感想】これは正に現在の状況ですね。しかし、これは今に始ったことではなく、この25年前に書かれた本には、20年ほど前から装丁がひどく派手になったと書かれています。つまり、45年位前の1961年頃から、装丁が派手になったということでしょうか。要するに、本の中身よりも、直に消費者に訴えられる装丁やタイトルに重点が置かれているわけです。【この本からの引用】ラスキンが3歳になったとき、お母さんは、聖書を2冊買ってきて1冊をラスキンに与えた。それから、毎日、すこしずつお母さんが音読する。ラスキンはそれについて読む。1年で旧約聖書を全部読み終える。これをラスキンが15歳だかになるまで、1年も休むことがなかったそうである。【上記の感想】聖書は最近気になっている本ですので、自然とこの箇所に惹かれました。聖書は古典中の古典であり、2000年前に書かれてと言われています。英語で、ザ・ブック(the Book)と言えば、聖書のことを指すそうです。【この本からの引用】14世紀、イギリスに英詩の父と言われたジェフリー・チョーサーという詩人がいた。その詩に「彼は石のごとく読んだ」という一行がある。【上記の感想】この「石のごとく読んだ」は、黙読を指すようです。何やら、黙読が一般的になったのは、最近のことのようです。そもそも、娯楽のための読書というのは昔はなかったわけだし、本の量も多くはなかった。かつては、音読が読みの基本であったと言われています。
2006/03/05
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この本は、1982年に発行され、著者は100名の方の共著となっています。市川房枝は1981年に永眠され、その追悼として、この本は発行されました。ただ、編集後記によると、たんなる追悼ではなく、「市川房枝という稀有な人を語りつぎ、残された運動を継承し発展させるための一助との」試みであるとのこと。以下に、【この本からの引用】と【上記の感想】という形で、少々書いてみます。【この本からの引用】トップ当選を果した日の、「理想選挙の勝利」の垂幕の前で支持者に囲まれ、かしこまった姿。日本の婦人運動の「顔」であった側面と、ご本人が唱え実行して来た「出たい人より出したい人を」の選挙運動の歴史的勝利の成果とである。【上記の感想】市川房枝が唱えた理想選挙とは何かというと、「市川房枝が始めた推薦選挙」です。選挙費用は自発的なカンパ、議員にしたい人を出すという感じです。理想選挙という言葉を初めて聞いたため、書いてみました。【この本からの引用】市川さんの本拠であった婦選会館から小田急の踏切をこえ、国電代々木駅へ歩いてゆくと、右側に正明堂という小さな店がある。【上記の感想】婦選会館は、現在は(財)市川房枝記念会と改称されています。その歴史は次のとおり。「婦選会館」を1946年に建てました。木造の会館は、1962年、鉄筋コンクリート建(地上3階、地下1階)に改築し同時に財団法人婦選会館として事業を始めました。その後、市川理事長の死去により財団名を現在のように改称しました。【この本からの引用】市川さんが平塚らいてい先生と一緒に工場見学をかねて私のところへ面会にこられたのが市川さんと知り合ったはじまりでした。【上記の感想】上記の引用部のあとに、当時『女工哀史』が出版されたこともあってというように続きますが、一瞬どこに迷い込んでしまったのかた唖然としました。要するに、市川房枝はかなり以前から活躍されている方であるということです。市川房枝と平塚らいていは、当時の紡績女工の低賃金と待遇の悪さが社会問題化していたため、関西や東京の向上を調査して回っていたとのこと。なお、『女工哀史』の感想文は、こちらです。
2006/02/26
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この本は1977年に発行されましたので、著者が50歳になる前に書かれたものと思います。なお、著者は昭和3年、大阪生まれの作家です。この本は、昭和16~20年にかけての戦時、著者が13~17歳にかけての時代を振り返る内容です。以下に、【この本からの引用】と【上記の感想】という形で、少々書いてみます。【この本からの引用】この潜航艇(せんこうてい)は、発進したら二度と戻れない人間魚雷だった。乗組員の岩佐直治中佐はじめ9人の、22歳から29歳までの若者は艇とともに敵艦に体当りして壮烈な戦死を遂げ、再び還らなかった。特別攻撃隊の9人の若者たちは、神に祭られ「九軍神」とあがめられた。【上記の感想】特別攻撃隊というと、戦況が思わしくない状況になってから編成されたものであると思っていました。しかし、それは間違っていたようです。引用部は、昭和16年12月8日の開戦の日の出来事です。個人のHPですが、こちらが参考になります。【この本からの引用】毎月一日は「興亜奉公日」という日が設けられて、映画館も劇場も食堂も自粛休業、お弁当は、梅干し一つのオカズで、みんなの心を引きしめ、戦地の兵隊さんの苦労をしのぶのだ。【上記の感想】「興亜奉公日」は「こうあほうこうび」と読みます。さて、1月21日の日記に書きましたが、昭和17年1月2日の閣議で、「開戦の日」を記念し、毎月8日を「大詔奉戴日」として、精神運動を展開することが定められました。この「興亜奉公日」と「大詔奉戴日」は妙に似ていると思いましたが、昭和17年に入ってから、「興亜奉公日」にかえて「大詔奉戴日」がつくられたそうです。【この本からの引用】「セイチャンの本がたくさんあったけれど、何にも出してあげられなんだ」「そんなこと・・・・みんな元気やったんやもん、ええよ」【上記の感想】著者の家は、昭和20年6月1日に、空襲により焼かれたそうです。著者は大阪に住んでおられたので、大阪の空襲について調べましたが、それは次のとおり。7回の大空襲(7月10日の堺市を中心とした大阪南部の大空襲を除く)がありました。それぞれ昭和20年3月13~14日、6月1日、7日、15日、26日、7月24日でした。
2006/02/25
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この本は、2005年6月に発行されました。著者は1940年生まれで、武田薬品工業の社長を務められ、現在は会長です。私は武田薬品工業の株式を保有していますが、武田薬品工業のことをほとんど知らない。そこで、少しでも知りたいという思いで、この本を手にしました。以下に、【この本からの引用】と【上記の感想】という形で、少々書いてみます。【この本からの引用】私の家の一帯は神戸大空襲でも無事だった。戦後、運よく難を逃れたのではなく、「実は米軍がわざと攻撃目標から外した」という話を聞いた。【上記の感想】神戸大空襲は1945年3月17日と6月5日ですから、著者の当時の年齢は4~5歳になります。要するに、幼少時代に神戸大空襲に遭遇しています。ところで、なぜ著者の家は米軍の攻撃目標から外されたのかというと、著者の住んでいた家が立派な洋館であったからのようです。戦後に米軍により接収されたとのことなので、米軍はあらかじめ使用することを予定していたようです。思い出すのは、東京大空襲の時の大本営発表です。米軍の空襲を「盲爆」と表現していました。いかに誤った表現であるか、わかろうというものです。【この本からの引用】神戸の御影の家の近所に洋画家、小磯良平さんが住んでいた。父、長兵衛と意気投合し、よく行き来していた。父が、2つ年下で、小磯さんの誠実な人柄、穏やかな画風を愛していた。【上記の感想】武田薬品の株を保有していると、おそらく12月だと思いますが、翌年のカレンダーを送っていただけます。今年のカレンダーもいただきましたが、このカレンダーの背景が小磯良平画伯の作品になっています。昨年も同画伯の作品でしたので、もしかしたら毎年そうなのかもしれません。最初は不思議に思っていましたが、そのことを過日日記に書いたところ、小磯良平画伯と武田薬品との縁を、日記のコメントで教えられました。このたびこの本を読み、そのことを再確認しました。【この本からの引用】外国人が見るのは会社の方向付けだ。このぐらい改革をやってくると、外国人株主の厳しい質問にも耐えられる。【上記の感想】これは「武田國男語録」のうちの一つです。語録ゆえに断片的であり、いかなる状況で語られたのか定かではない。それゆえに、「外国人が見るのは会社の方向付けだ」という部分から、私なりの考えを書きます。もちろん外国人株主といっても千差万別ですが、「会社の方向付け」という言葉から、この場合の外国人は長期投資を目的としているものと推定します。その方向付けを知るには何を見ればいいのか、聞けばいいのか。それは、私たち個人投資家の多くが重視する数字とはやや異なり、「経営理念やビジョン、長・中期計画、ガバナンス、コンプライアンスなど」であろうと思います。私なりの考えを書くとしながら、括弧の部分はさっそく引用です(笑)。
2006/02/19
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この本は1971年に発行されました。手元の本は1992年発行の第39刷ですので、少なくとも20年以上にわたり読まれていることがわかります。そして、著者は1932年東京生まれの方で、東京大空襲の被災者でもあります。それでは、以下に【この本からの引用】と【上記の感想】という形で、少々書いてみます。【この本からの引用】なお、この夜の“無縁仏”をふくめた大多数の死者は、火葬場が焼失して火葬能力がなかったために、とりあえず非常措置として、仮土葬にした。(中略)都内67ヵ所の公園、寺院、学校などに、1週間がかりの作業で仮埋葬された。【上記の感想】東京大空襲(昭和20年3月10日)の後、収容埋葬した遺体は、77,000体以上になるそうです。時局がら、都内の67ヵ所の公園などに、仮土葬したとのこと。そして、戦後の昭和23年から3年間にわたり、東京都によって発掘され、火葬されたそうです。67ヵ所のうちでは、例えば錦糸公園に13,000体という多くの方々を仮土葬したとのことです。その他では、上野公園が8,400体など。この本を読んでから錦糸公園を訪ねてみました。なお、この公園は錦糸町駅から徒歩数分の場所にあります。慰霊する碑があるものと思っていましたが、残念ながら碑を見つけることはできませんでした。【この本からの引用】6日来日した米空軍参謀総長カーチス・ルメイ大将は7日朝、埼玉県の航空自衛隊入間基地を訪問、航空自衛隊浦幕僚長から勲一等旭日大綬章を受取った。【上記の感想】ルメイ少将(戦時中は少将だった?)は、東京大空襲のみならず、広島や長崎に投下した原爆の直接的な責任者であったとのこと。そのルメイ氏に、日本政府は勲章を贈ったそうです。その受賞の理由は、『日本の航空自衛隊の育成に努力した』ためという。こうなってくると、何が何だかさっぱりわかりません。【この本からの引用】本3月10日零時過ヨリ2時40分ノ間B29約130機主力ヲ以テ帝都ニ来襲市街地ヲ盲爆セリ右盲爆ニヨリ都内各所ニ火災ヲ生ジタルモ宮内省主馬寮ハ2時35分其ノ他ハ8時頃迄ニ鎮火セリ現在迄ニ判明セル戦果次ノ如シ撃墜 15機 損害ヲ与エタルモノ 約50機【上記の感想】これは、10日正午の大本営発表です。これは相当現実離れしていたようで、まあ当時は珍しくないことですが、例えば、「盲爆」は「猛爆」が本当ではないでしょうか。これは、私が漢字に変換する過程で思ったことです。それから、著者の指摘によると、「宮内省主馬寮」以外は「其ノ他」と一括して表現する時代だったとのこと。如何に国民(当時は臣民?)の命が軽視されていたか、わかろうというものです。
2006/02/18
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この本は、1989年11月に発行されました。「週刊文春」が、創刊30周年記念として、読者投稿「私の昭和史」という形で募集し、それに応募した方々の作品から100編を選び、この本にまとめられました。著者100名は、明治40年~昭和42年に生まれた方々です。以下に、【この本からの引用】と【征野の感想】という形で、少々書いてみます。【この本からの引用】これを我々は擅用調査とか需要家訪問とか呼んでいたが、世間は盗電狩りとか電気調べと蔑称し、私達「電気屋」こと配電会社は税務署の次に目の敵にされた。【征野の感想】この投稿によると、昭和24年の国内の某地の電力事情は、極めて悪かったようです。その理由は、占領軍関係の膨大な電力使用と小型電熱器などの家庭への普及とのこと。それ故に、政府は電力の供給を止めたりして緊急制限を行なったりしたようです。そういった訳で、「盗電」という行為が行なわれていたとのこと。細かいことは書ききれないが、要するに電気の窃盗ということだ。そのために、配電会社の社員であった著者は、需要家(電気を使用する工場・家庭など)を訪問し、盗電の有無を確認する仕事に従事したとのこと。詳しいことは忘れましたが、つい最近、ある店舗の室外にあるコンセントから手持ちの電気器具に盗電した事件が、世間を騒がせました。これには苦笑したものです。ともあれ、引用部の「盗電狩り」という言葉は日本では死語になってしまったようです。ちなみに、「盗電狩り」をヤフーで検索しましたが、見事にヒット数0でした(笑)。月並みな表現ながら隔世の感があります。【この本からの引用】奉安殿はすでにコンクリートの台座を残してすべて取り壊され、校庭は一面の芋畑になっていた。かつては一歩も踏み入れることを許されなかった奉安殿の芝生の中に、ためらい勝ちに入っていった。(中略)あの御真影はどこに行ってしまったのだろうと思った。【征野の感想】これは昭和4年生まれの方の投稿の一節です。まず「奉安殿」ですが、2005年12月18日の日記に書きましたが、天皇陛下と皇后陛下の御真影を奉安する建物で、校庭に建てられていたものです。上記の引用部は、戦後間もなくの時期の思い出を書かれたものですが、この混乱は相当なものであったようです。この投稿者は、終戦時に陸軍幼年学校の生徒であったとのことで、陸軍のエリート候補のいわゆる「星の生徒」でした。話が前後しますが、陸軍幼年学校に入校する前日に、校長が特別に奉安殿の扉を開けてくれたとのこと。その時、両陛下の御写真を間近にし、「言い知れぬものがこみ上げて来て、全身がしびれる思いだった」とのこと。昭和という時代は、庶民レベルでも激動の時代であり重い時代です。
2006/02/12
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この本は、1988年9月に発行されました。著者(3名)は、昭和2~5年生まれの方々です。ですから、この本は著者が60歳位のときに書かれました。この本の副題は、「キーワードでたどる私たちの現代史」となっています。昭和元年~45年にかけての出来事を、当時のことばを基に振り返る内容になっています。それでは、以下に【この本からの引用】と【征野の感想】という形で、少々書いてみます。【この本からの引用】昭和16年1月8日の『朝日新聞』朝刊は一面の半分を使って「陸相“戦陣訓”を下達」と報じ、その全文を紹介している。【征野の感想】「戦陣訓」とは、生きて虜囚の辱めを受けずという言葉がひとり歩きして多くの方々を死においやった訓示です。ところで、この「戦陣訓」の目的は何かというと、「戦場の道義高揚に資するため」というのが表向きの理由。その裏には、戦場(主に中国)での将兵の士気が頽廃していたという事実があったとのこと。中国での戦いが3年にわたり、戦地の日本兵の軍紀の乱れと非行が甚だしくなったためという。この辺は、デリケートな部分なので私的なコメントはなし。新たな知識を得たと言うに留める。【この本からの引用】刃も凍る北海の御楯と立ちて二千余士精鋭こぞるアッツ島山崎大佐指揮をとる山崎大佐指揮をとる【征野の感想】これは、『アッツ島血戦勇士顕彰国民歌』の歌詞です。この歌詞は朝日新聞社選定で、山田耕筰の作曲です。私はこの歳(40代)になり初めて知ったのですが、悲壮なメロディーのこの歌は広く歌われたそうです。アッツ島はアリューシャン列島のうちの一つの島ですが、ここでの敗戦で「玉砕」という言葉が初めて使われたそうです。【この本からの引用】学童疎開は19年6月30日、閣議で決定された。さしあたりの対象は、三多摩を除く東京都の国民学校児童3年以上で、東京の各区は、それぞれ疎開先の府県を割り当てられた。【征野の感想】時期はサイパン島の陥落時で、本土空襲の危険が迫ってきたためというのが、学童疎開の理由です。強制的に親元を離れて生活することになるのですが、いつ帰れるか当てのない生活であったとのこと。この「いつ帰れるか当てのない生活」というのは、今迄気がつかなかったことなので、新たに書いてみました。なお、今上天皇も疎開を体験されています。当時は皇太子で11歳でしたが、後に天皇になられる方ですので、万一のことがあってはいけないので、数ヶ月ごとに疎開先を変更する生活であったとのこと。詳しくは、2005年7月16日の日記に書きました。
2006/02/11
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この本は1999年に発行されましたが、初出が1992~99年のエッセイを単行本化したエッセイ集になっています。著者は1932年生まれなので、この本は著者が60代の時に書かれたものを集めています。以下に、【この本からの引用】と【征野の感想】という形で少々書いてみます。【この本からの引用】やがてピョンヤンにもソ連軍が入城した。先頭に乗りこんできたのは最前線の戦闘部隊である。どこの国の軍隊でも実戦部隊の兵士のやることには変りはない。有史以来、ずっとそうなのだ。略奪があり、暴行があり、強姦があった。その間におきたことをくわしく書けば、何十冊もの本になるだろう。いまの私には、まだそのことを書く心の準備ができていない。たぶん、このまま書かずに終ってしまうのではないかという気がする。【征野の感想】これは、初出1992年のエッセイ『許せない秋』に書かれています。著者は、終戦時は平壌一中の1年生であったとのこと。1月29日の日記に、野坂昭如氏の著書の感想文を書きました。野坂昭如氏の場合は、「少しでも戦争を知る人間は、戦争について語る義務を持つ。もはや残された時間に限りがある。ぼくはぼくなりにあの戦争と向き合い、書き続けることこそ、自分に与えられた業(ごう)だと思い定めている」とのこと。要するに、積極的に戦争を語っておられます。これに対して、五木寛之氏の場合は、「このまま書かずに終ってしまう」という立場で、野坂昭如氏とは正反対の立場をとっておられます。最も、この引用部分は1992年に書かれたものなので、あるいはそれ以降に戦争を語っておられるかもしれません。ともあれ、当然ながらここに私が立ち入ることはできません。【この本からの引用】その一教師の人生は、外地における敗戦と引揚体験の中で激変する。九州へ帰国してからのちの父親は、闇商人、芋焼酎の密造者、アル中の競輪ファン、そして結核におかされ幾度かの療養所生活の後、やがて50代なかばで血を吐いて死んだ。人生の失意とともに、敗戦後の混乱の中で失った私の母のことも、最後まで父親を苦しめていたようだった。【征野の感想】これは、著者の尊父について書かれた一節です。著者の尊父は終戦時に外地の教師でしたが、九州へ引揚げてからはあまり良い人生とはいえなかったようです。最近は昭和時代(特に戦前~終戦後)の庶民の生活について書かれた本を読むことが多いのですが、いろいろと学ばせてもらっています。
2006/02/05
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『流れる星は生きている』は昭和24年5月に発行され、戦後のベストセラーとなりました。著者の藤原ていは、小説家・新田次郎(1912~80年)の妻であり、数学者・藤原正彦氏(1943年、満州生まれ)の母です。この本は、終戦時に満州に居住していた著者の引揚げ体験記です。ほとんどの男性は残留せざるを得ない状況であったので、引揚げは女性や子どもが多かったようです。著者の場合も、3人の子どもを連れての引揚げでした。感想を一言で言うと、「想像を絶する」としか言いようがありません。引揚げ体験を有する方はこれから減る一方ですので、体験を聞く機会はなくなってしまうはずです。それ以前に、引揚げ体験というものは語りたくない、いや語れないものであると思います。そういう意味でも、この『流れる星は生きている』は一読の価値があると思います。以下に、【この本からの引用】と【征野の感想】という形で、少々書いてみます。【この本からの引用】そっと寝床を抜けだして、左手にバケツを持ち、右手に重い鶴はしを持って外に出た。星の光がぞっとするほど冷たくまたたいている。【征野の感想】ここは、著者が氷を発掘する場面です。氷を割って、それを溶かして、その水でおむつの洗濯をするためです。早朝の作業になるのですが、その理由は、夜間から早朝にかけてしかバケツがあいていないため。もう一つの理由は、早朝でないとツルハシを打ち込んだときに、大きな塊が割れてこないため。この辺のことは、今の日本で都市生活を送っていると、想像が難しい。ちなみに、私はツルハシを知りませんでした。会社の上司に教えてもらいましたが、工事現場で見かける柄のついた掘る道具でした(苦笑)。【この本からの引用】二人の幼児をつれて8ヶ月の身重でしかも主人がいない崎山さん(中略)のお金がなくなってしまったのである。もちろん全部ではないはずである。少なくとも3ヵ所以上に分散しておくという規則を守っていたなら・・・。【征野の感想】17家族49人が協同生活をすることになった家でのこと。各自でお金は3ヶ所以上に分散して保管するきまりになったとのこと。要するに、団体の間での盗難が数回あったためだが、こういう危機的状況においてお金は分散するのが知恵というもの。私のブログでは投資のことを扱っているので、ちょっと書いてみました。
2006/02/04
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この本は2005年7月に発行された本で、NHK人間講座で2002年に放送された『「終戦日記」を読む』のテキストを単行本化したものです。あとがきによると、この本を書かれた理由の一つとして、「少しでも戦争を知る人間は、戦争について語る義務を持つ。もはや残された時間に限りがある。ぼくはぼくなりにあの戦争と向き合い、書き続けることこそ、自分に与えられた業(ごう)だと思い定めている」と書かれています。「残された時間に限りがある」とは、著者の余命のことを言っておられると思います。著者は1930年生まれなので、今年で満76歳になられます。以下に、【この本からの引用】と【征野の感想】という形で、少々書いてみます。【この本からの引用】変化といえば、ぼくの妹が、餓死したこと。妹の無惨非業の死を悲しみはしない、重荷から解放された気分が強い。妹の遺体を、猛々しく葉先を伸ばす、一面水田の中の、五坪ほどの石のカマドで荼毘に付した。【征野の感想】妹さんが亡くなられた時期は、終戦間近か直後であったようです。当時の食糧事情は想像が困難ですが、「重荷から解放された気分が強い」というところには、自分が生き延びるのに精一杯という感じがします。当時の著者は15歳位でした。【この本からの引用】どこかで自分は大丈夫とみなしている。巨大地震同様大災厄について、人間は想像力が働かない。焼夷弾が落ちてきたら、火が家に燃え移る前に、水で消し止める、それが鉄則になっていた。【征野の感想】確かにその通りと思います。最近は地震に対する人々の意識は以前と比較すると、総体では格段に向上したように思います。しかし、私などは何も備えをしておらず、水も用意していない。しかし、水や食料を用意するのが最も大切なことかというと、それは違うはずです。なぜならば、それは地震が起きたときに、自分や家族は生き延びること、怪我しても大したことはないこと、家屋は倒壊・火災などの心配がないなど、多くの前提条件があったうえで、必要になるものと思われるからです。私は40年以上生きていますが、今まで何等の災害を経験することなく生きてこられたので、「想像力が働かない」組の筆頭に違いない。【この本からの引用】毎日新聞、16日掲載、有名な、宮城前、敗戦の事態に至ったのは、自分たちの努力が足りなかったためと、玉砂利の上で土下座平伏の姿は、14日午後、皇居、焼跡整理の奉仕の、福島県の人たちである。お別れに、平伏して挨拶してくれないかと、カメラマンが要請、奉仕隊は従った。これが、陛下に力至らざるを詫びる民草の悲痛な姿として紹介された。【征野の感想】まず、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から引用します。(引用開始)昭和20年(1945年)8月16日毎日新聞にて「”忠誠足らざるを”詫び奉る(宮城前)」という7段抜きの8月15日の皇居前で整然と土下座をした人々の写真が掲載され、写真を撮れなかった朝日新聞、都新聞など他紙をくやしがらせたが、これは合成写真であった。(合成写真は戦争中は日常的に行われていた。)(引用終了)40年以上にわたり、私はだまされていました(笑)。
2006/01/29
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この本は1989年2月に発行されました。著者は1915年東京生まれの方です。溥傑は、満州国皇帝であった溥儀の実弟で、日本陸軍で学び、さらに嵯峨家の令嬢で天皇家の親戚に当たる浩と結婚しました。浩とは政略結婚ながら、円満な夫婦仲であったと伝えられています。以下に、【この本からの引用】と【征野の感想】という形で、少々書いてみます。【この本からの引用】溥傑・浩夫妻は千葉の稲毛海岸に新居をかまえた。【征野の感想】私は千葉市の出身ですが、稲毛が溥傑にゆかりのある地であると聞いていました。結婚後の一時期を夫婦で過した地であると、この本を読んで知りました。私は行ったことがないが、その旧愛新覚羅溥傑邸は現在も保存されているとのこと。【この本からの引用】永世善隣資我輩請従隗始作先鋒永世の善隣我が輩を資(たす)け請う隗(かい)より始めて先鋒と作(な)さん【征野の感想】戦後の溥傑は日中友好に尽力されました。また、溥傑は書家としても優れており、日本の人たちにおくる律詩の末尾に、引用部の二句を書かれたそうです。その意味は、著者の解釈によると次のとおり。「日中両国は古来2千年の友好を保ってきた。それに比べれば明治以降の80年の不幸な関係はホンの一刻に過ぎない。いつまでも過去に拘わるのをやめて、これからは本当によき隣人として仲よくやってゆこうではないか。それにはまず我々が両国の間に橋を架け、その上を後に続く者のために先頭をきって歩こうではないか」【この本からの引用】あなたは、日本にいる家族との文通が許されました。特に周恩来総理からの指示です。【征野の感想】溥傑・浩夫妻の長女である慧生(えいせい)が、周恩来に宛てた手紙により、中国で管理所生活を送っていた溥傑と、日本で生活していた家族との文通が可能になった。この慧生の手紙がなければ、その後の家族の再開ひいては同居には至らなかったと思われます。当時の慧生は高校2年生であり、当然ながら手紙は見事な中国文で書かれていた。その後16年振りに溥傑と家族は再会することになるのですが、慧生はその時には亡くなっており、遺骨での再会になり、ここは涙を誘われます。なお、周恩来について私はよく知らないが、この本では日中友好を心から願っていた人物として書かれています。
2006/01/28
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この本は1994年に発行されました。著者は1929年東京生まれで、幸田露伴の孫にあたり、更に言えば幸田文の娘にあたります。この本を読もうとした理由は、幸田露伴をもっと知りたかったからです。2005年12月31日の日記に書きましたように、幸田露伴は一緒にいると胃潰瘍になるのではないかというくらい(笑)、言うことが細かくてしつこいというイメージをもちました。それでは、ちょっと確認してみよう思ったわけです。実際にこの本を読んでみると、予想通りの困ったじいさんであったようです(笑)。以下に、【この本からの引用】と【征野の感想】という形で、少々書いてみます。【この本からの引用】昭和13年(1938年)、母は離婚して私を連れ祖父の元へ帰った。【征野の感想】著者が母(幸田文)とともに、露伴の元へ帰った時のことです。著者は、当時9歳であったとのこと。引用部の直後に、露伴が74~5歳、玉が9~10歳の頃のことが書かれています。著者(玉)が、母に言いつけられて露伴のもとに薬を持って行き、訳の分からぬうちに露伴に叱られる場面が書かれています。長すぎるのですが、そのまま書くと次のとおり。「何を申し訳ないと思っているんだ、お前は何も考えないで、ただふわふわしている、申し訳などどこにもありはしない。薬というものは恐ろしいものだ、正しく使われれば命を救うが量をあやまてば苦しみを人に与える。何の考えも無しに薬を良いものだとだけ信じて人にすすめるとはどういうことだ。昔、耆婆は釈迦の命の危かった時に秘薬を鼠に投げて釈迦の元へ走らせた、なのにバカな猫がその鼠を食ってしまったから間に合わず釈迦は亡くなったというが、しかし薬は劇薬でそれを飲んだために命を縮めたという説もある。そもそも釈迦が死ぬような目に遭ったのは、(以下略)」という具合に叱られたそうです。要するに、母の言いつけられたとおりに露伴の元に薬を持って行ったところ、著者(玉)が愚かなために露伴を苦しみ死させようとしている悪者になっていたとのこと。小学生であった玉はもちろん涙をこぼしていたわけですが、これはちょっと辛すぎますね。【この本からの引用】市川市菅野1209番地、白幡神社の裏の小川を渡ると雑木の生えた荒地があり、胡瓜や茄子とうもろこしが植えられた畑に沿って、小さな同じ形の家が2列に並んでいた。【征野の感想】露伴一家(露伴・文・玉)は、戦中に空襲が激しくなったために疎開しました。その間に、小石川の家は空襲で焼けてしまったとのこと。疎開中は長野から伊豆に移り、更に千葉県の市川に移り、この市川が露伴の終焉の地になったとのこと。私は現在市川に住んでいるので、この菅野はよく知っています。かつては小川のある荒地であったとこの本には書かれていますが、今は住宅街になっており当時の面影は全くないですね。
2006/01/22
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この本は1990年4月20日に発行されました。著者は1929年東京生まれの方です。以下に、【この本からの引用】と【征野の感想】という形で、少々書いてみます。【この本からの引用】ドイツ・イタリー・日本の三国は、何れも国土が狭く、資源不足に加え、人口増加の旺盛な国であるから、国内資源のみで、その人口を養うことは極めて困難である。【征野の感想】これは、『世界平和と植民地再分割論』(峰整造著・昭11)の一節を引用しました。人口減の時代に突入した現在の日本ですが、戦前は人口増を脅威と捉える方がいました。2005年8月7日の日記に書きましたが、北一輝の『日本改造法案』(大8)も、その立場で書かれている部分があります。人口が減り始めると、具体的な数字を掲げて将来を悲観される方もおられるようです。ただ私たちが注意すべきは、悲観論に振り回されないことであると思います。そのことは、つい先頃、私たちは学んだはずです。【この本からの引用】昭和17年1月2日の閣議で、「開戦の日」を記念し、毎月8日を「大詔奉戴日」として、精神運動を展開することが定められた。【征野の感想】1月15日の日記に、「大詔奉戴日」という日があったことを知ったと書きました。この日が何時できたのかというと、開戦から1ヶ月も経たない時だったとのこと。閣議で定められたとのことで、これにはまた驚きました。この本の著者は、当時は調布高等女学校に通っていましたが、毎月8日の昼食は日の丸弁当であったとのこと。ここは、1月15日の日記で触れたことと符合します。【この本からの引用】こうした言葉の魔力は、戦時中、ふんだんに利用された。現人神から始って、神国、神兵、玉砕、天降る(落下傘部隊)若桜、陸鷲、海鷲、若獅子、鉄獅子、獣米抹殺、血戦等々。【征野の感想】「言葉の魔力」と著者は言われます。詳細は書かれていませんが、短くて気持ち良い響きをもつ言葉は人をうっとりと酔わせる力があるのは、確かなことのようです。特に、世の中に漠然とした不安感に覆われているとき、私たちは催眠術にかけられたように、その言葉に惹きこまれてしまうようです。私なども、現首相の「改革」という言葉に、何時の間にか惹きこまれてしまっております。こういう「言葉の魔力」には、よくよくの注意が必要でしょうね。
2006/01/21
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この本は1981年12月に発行されました。私が読んだのは1991年3月の第14刷ですので、少なくとも10年にわたって読まれた本、あるいは今でも読まれている本です。著者は1930年生まれの作家ですので、この本を書かれたのは51歳の時でした。この本は戦争についても書かれていますが、著者は今でも一貫して戦争を問い、国家を問うておられます。昨年の12月27日の毎日新聞の夕刊に、著者の顔写真入りのインタビュー記事が掲載されましたが、ここでも戦争や政治を語っておられます。現在は75歳とのことなので、今回読んだ『おとなになる旅』を書かれてから既に24年になりますが、一貫性する姿勢には全く変わりはないように思われます。なお、2004年10月23日の日記で、少々著者のことに触れています。以下に【この本からの引用】と【征野の感想】という形で、数点書いてみます。【この本からの引用】御前会議では、海外にいる兵隊や一般市民たちが敗戦によって直面する事態、その人たちをどう守って日本へ帰すことができるかという視点での話し合いはまったくなかった。【征野の感想】終戦直前の御前会議での最大の関心事は国体護持であり、国民のことは眼中になかったということです。そのとおりです。ここには、著者が戦争や国家を問うている姿勢が、よく出ていると思います。この本を書かれた1981年当時は昭和時代であったことを思うと、一層その感を強くします。【この本からの引用】小学校の2年、3年のころ、わたしがいちばん愛読していたのは、『少年倶楽部』という雑誌です。【征野の感想】『少年倶楽部』とは、私はすっかり男子が読む雑誌と思っていましたが、女子であった著者も読まれていたとのこと。これには驚きました。『少年倶楽部』について過去の日記でも書きましたが、直近では1月7日の日記で触れました。なお、著者は当時は満州に住んでいましたので、満州でも『少年倶楽部』を読むことができたことがわかります。【この本からの引用】12月8日に戦争がはじまったから毎月8日はみんなが節約をして、梅ぼしだけの弁当で、日の丸弁当を持ちましょうっていうことをラジオでもいい、新聞にも書かれていました。【征野の感想】8日は「大詔奉戴日」という日であったとのこと。読み方は、「たいしょうほうたいび」です。今では死語になりましたが、こういう日もあったのかと驚かされます。
2006/01/15
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この本は2004年5月に発行されました。著者の五木寛之氏は1932年生まれの作家、望月勇氏は1948年生まれの気功家です。早速ですが、【この本からの引用】と【征野の感想】という形で、少々書いてみます。【この本からの引用】比叡山の千日回峰行者の方と対談をしたんです。千日回峰行というのは、延暦寺の峰を、一日30キロから80キロまで、毎日午前2時に起きて、歩きまわり、たくさんある祠の前で祈りをささげてまわる「行」なんです。【征野の感想】千日回峰行は「せんにちかいほうぎょう」と読みます。千日にわたる荒行ですが、特にすごいのが700日あたりから行なう「堂入り」という行事だとのこと。堂の中にこもって、9日間、一滴の水も飲まない、一片の食べ物も食べない、一睡もしないで、ひたすら「行」を続けるといいます。すごすぎて、感想の書きようがありません。【この本からの引用】足を高く上げるというのは、日本の軍隊の特徴であって、世界各国の軍隊がみんなそうではないんです。たとえば、北朝鮮とかドイツのナチは、まっすぐに伸ばした足をパッと上げて、バンと踏み下ろす。「グース・ステップ」というんです。これは、日本人にはなかなかできないんです。【征野の感想】なるほど言われてみると、行進にも違いがあるものです。行進方法が違う理由は定かではないようですが、面白いものです。【この本からの引用】直感というのは、ほとんどの場合正しいんです。それが外部からインプットされるいろいろな情報とか知恵とか、またしがらみに縛られて、最初に感じた自分の素直な直感を曲げちゃうんですね。【征野の感想】これは五木寛之氏の言葉です。「直感」を肯定的にとらえるのは、なかなか難しい。成長するにつれて、「直感で行動するのはいけないこと」と刷り込まれてしまうのが一般的だろう。しかし、この五木寛之氏の言葉には、傾聴に値すると思う。それに、考えに考えた末にいざ決断という場面では、この「直感」がやはり必要である。また、直感で行動した結果が自分一人に及ぶ範囲のことで、実際に自分の直感を信じて行動してみると面白いと思う。たとえば株式の売買は自己責任の世界なので、トレードで直感をためすのもいいかもしれない。そうは言っても、100%直感での売買を推奨しているのではありませんので、誤解の無いように願います。
2006/01/14
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この本は1997年11月に発行されました。幸田露伴の『努力論』を原書で読みたいと思っていますが、歯がたちそうもないので、数冊の関連本から読んでいます。12月31日の日記に1冊目の関連本の感想を書きましたので、今回は2冊目になります。以下に【この本からの引用】と【征野の感想】という形で少々書いてみます。【この本からの引用】心が萎えた時、また沈潜の時間が欲しくなった時、『努力論』はどの章でも最もふさわしい師父となってくれたのである。【征野の感想】著者の渡部昇一氏は、『努力論』を座右の書にされているそうです。上智大学の故神藤克彦先生に、読むことを勧められたそうです。人との出会いにより生涯付き合う本に出会う、出会いの妙ですね。【この本からの引用】自分で発奮努力して運命を切り拓くもよし、一方、他者の力を借りて自己改造するのも恥ずかしいことではない。(中略)さほど能力があるとは思えなかった人が、ある人に従って動くようになってから、めきめきと頭角を現わしてくることがある。【征野の感想】ある人に従って動くようになってから頭角を現わした人物として、著者は信長に従った豊臣秀吉を挙げています。私は、代議士の鈴木宗男氏を挙げてみようと思います。2004年12月4日の日記に、鈴木宗男氏の著書『反乱』の感想文を書きました。書かれていること全部をそのまま受け入れるのもどうかと思いますが、中川一郎氏の秘書として働かれていた時の鈴木宗男氏は、本当に誠心誠意、中川一郎氏に仕えていたと、想像します。『反乱』で鈴木宗男氏は次のように書かれています。「朝早くから夜遅くまで、365日、ただただ中川先生のために働き続けました。自分が一所懸命頑張れば、中川先生が必ず一番にならなくても、二番か三番にはなれると思い、全力でお仕えしました」と。ともあれ、「他者の力を借りて自己改造する」とは、「昨日の自己はきっぱり捨て去ることで」あるようです。更に、「自分は身をあずけている人の一部分であるという謙虚な認識をもち続けること」であるようです。まあ、簡単なことではないですね。
2006/01/08
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この本は1997年8月に発行されたエッセイ集です。著者は1925年千葉県生まれの方です。各エッセイは1996~97年に書かれたものですから、著者が70歳に達してから書かれたものと思います。本のタイトルは、「楽しみ」と書かずに「愉しみ」と書かれています。気になったため、手元の漢和辞典で「愉」という字をひくと、「心がつかえないで、よく通ることで、軽い楽しみ、心ゆくことをいう」と書かれています。なるほど、「軽い楽しみ」という意味があるとのこと。「愉しい」は「楽しい」にくらべると、軽い、ちょっとした、落ち着いた、静かな、などのイメージがあるのかなと思いました。以下に【この本からの引用】と【征野の感想】という形で、少々書いてみます。【この本からの引用】人がどうして読書の魔にとりつかれるのか、いろいろだろうが、わたしの場合はごく平凡で、当時の少年たちを夢中にした『少年倶楽部』への熱中が始りだった。【征野の感想】『少年倶楽部』のことは、11月19日の日記や12月18日の日記にも書きましたように、1920~25年頃に生まれた方々には、非常に愛された雑誌であったようです。しかし高価な本で、昭和一桁時代は、今の金額に換算すると5000円位であったと言われています。中野孝次氏は、高価だったためか、『少年倶楽部』を買ってもらえなかったとのことです。友達に借りるか、友達の家で読んでいたとのことです。【この本からの引用】書で難しいのは上手に書けるかどうかではなくて、無心に書けるかどうかである。筆を持って、うまく書こうかとか、どうだおれの字はいいだろうなどと邪念がちょっとでもきざせば、書は限りなくいやみなものになる。【征野の感想】いいことを書かれていますね。書はうまく書くものではなく、無心に書くもの。言うは易く行なうは難きことでしょうね。私は書をやりませんが、ピアノを少々弾きます。残念ながら、「うまく弾きたい」という欲に支配されている面は否定できません。【この本からの引用】文学の世界にもそれがあり、ふわふわと頼りない日常感覚を書いた少女小説が時代感覚の表現ともてはやされたりしていた。【征野の感想】これは、1980年代の日本中がバブル景気で浮かれていた時代のことを、文士の立場で書かれています。つい最近、著名な財界人が、今の世相はバブルの頃に似てきたと発言されました。耐震偽造建築物のように、儲かれば安全性に問題があってもいいという最近の事例をふまえての発言だったと思います。私が最近思うことは、企業の規模を大きくすることが目的だったりする現在の一部の企業の姿勢と、不動産や株を買いあさったバブル経済当時の企業の姿勢とは、重なって見えてしまいます。
2006/01/07
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この本は2003年4月に発行されました。ベストセラーとなった本ですから御存知の方も多いと思います。著者は1937年生まれの方なので、『バカの壁』を書かれた時は65歳位であったと思います。以下に【この本からの引用】と【征野の感想】という形で、少々書いてみます。【この本からの引用】現代世界の三分の二が一元論者だということは、絶対に注意しなくてはいけない点です。【征野の感想】この指摘は新鮮でした。指摘されればなるほどと思う。イスラム教、ユダヤ教、キリスト教は、すべて一元論の宗教だとのこと。この150年は一元論の欠点を嫌というほど見せ付けられてきたという。つまり一つの価値しか認めないのは欠点があり、ここに米国とイラクが対立する原因もあったということらしい。【この本からの引用】現代人の無意識についての状態を象徴的に示しているかのように見えるのが、右脳と左脳が分離している患者です。【征野の感想】12月3日の日記に、大岡昇平の『野火』の感想文を書きましたが、この『野火』には有名な一節があります。それは、「剣を持った私の右の手首を、左の手が握ったのである」という部分です。これは、飢えを満たすために、右手が人間の屍体から肉を切り落とそうとするが、左手がそれを制止したという場面です。この一節を思い出してしまいました。が、それはともかく、『バカの壁』では何を言いたかったのかというと、我々の時間のうちの三分の一は無意識だとのこと。つまり寝ている時間が三分の一を占めており、この時間も人生のうちということ。正直なところよくわからないのだが、無意識の時間を無視してはいけないということらしい。起きている時間だけが人生ではないということ。
2006/01/01
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この本は2001年11月に発行されました。著者は1925年千葉県生まれの方で、余談ながら現在私が住んでいる千葉県市川市出身とのこと。この本を読もうとしたのは、幸田露伴の『努力論』を読むためです。露伴の『努力論』は1912年に発行された青壮年向けの人生論です。12月17日の日記でも触れましたが、『努力論』を渡部昇一氏は座右の書にされているとのことです。学生時代からの座右の書とのことで、渡部昇一氏は45年以上も『努力論』と付き合いがあるようです。それでは私も読んでみようとは思うものの、『努力論』を原書で読もうにも歯がたたない。難解な語彙が随所に出てきますし、そもそも露伴と私では素養に隔たりがありすぎる。いきおい註釈本的な本から入るのが一般的であろうと思い、この『自分を活かす気の思想』(中野孝次)を手にした次第です。以下に【この本からの引用】と【征野の感想】という形で数点書いてみます。【この本からの引用】食事を為しながら書を読み新聞を読むなどという事は誰もする事であるが、実はよろしくないことで、それだから碌な書も読めず、かつまた一生芋の煮えたか煮えずも知らずに終わってしまうのである。食事の時は心静かに食事をして、飯が硬いか軟らかいか、汁が鹹いか淡いかそのよろしきを得て居るか、煮物は何の魚であるか、新しいか陳いか腐りかかって居るか、それらの事がすべて瞭然と心に映るように、全幅の心でもって食事をするのがよいので、・・・【征野の感想】これは、露伴の『努力論』の一節です。食事作法に対する露伴の考え方ですが、食事の時は集中して食べるべしと、書かれています。手抜きの料理を出すわけにもいかず、何やら露伴とは食事をしたくない気持ちになりますね(笑)。ともあれ、露伴の言わんとすることは、日常のこと、例えば朝起きて布団をたたみ洗面をして朝食をとることも、習慣で無意識にやってはいけないということ。凄まじい考え方で、仮に露伴が職場の上司であったならば、胃潰瘍になってしまいそうです。【この本からの引用】逸る気で事を做す者は、書を読めば流るるが如く、字を作せば飛ぶが如く、一日にして数十巻の書を読み千万字を筆にせんとするが如き勢いを做し、路を行けば忽にして山河丘陵をも飛び過ぎんとするが如き意気を示す。しかし逸る気を以て事を做す者の常として必らず疲労と蹶躓とを得て、勇気一頓、萎靡また振わざるに至るのである。【征野の感想】逸る(はやる)を手元の辞書で調べると、「勇みたつ、せきこむ、いらだつ、せく」などの意味がある。自分のことを具体例として、引用部の意味を考えてみました。私は毎朝30分だけピアノの練習をしており、現在『革命のエチュード』を練習しています。この曲はプロならば3分で弾き終えるが、私にとっては難曲であり、当初は弾き終えるのに20分もかかっていました。そこで何とかもっと時間を短縮しようと、気持ちが逸るわけですね。まあ最初のうちはどんどんと短縮するわけですが、しばらくして気が付くとゾンザイな弾き方になっているのですね。早く目的地に達することを至上とするのではなく、達するまでの一歩一歩を味わい、確かめながら進むことの大切さを知りなさい。そういうことを露伴は言いたかったのではなかろうか、と思う。
2005/12/31
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この物語は、昭和21年に書きはじめられ、23年まで、童話雑誌「赤とんぼ」に連載されました。著者は1903年生まれなので、『ビルマの竪琴』を書かれたのは43歳位になります。『ビルマの竪琴』を読もうとした理由は、原作を読んだことがなかったため。それから、安岡正篤氏が、『路傍の石』と『ビルマの竪琴』を良書として、お孫さんに薦められていたからです。以下は【この本からの引用】と【征野の感想】です。【この本からの引用】私がしていることは何かといいますと、それは、この国のいたるところに散らばっている日本人の白骨を始末することです。墓をつくり、そこにそれをおさめ葬って、なき霊に休安の場所をあたえることです。幾十万の若い同胞が引きだされて兵隊になって、敗けて、逃げて、死んで、その死骸がまだそのままに遺棄されています。それはじつに悲惨な目をおおうありさまです。私はそれを見てから、もうこれをそのままにしておくことはできなくなりました。これを何とかしてしまわないうちは、私の足はこの国の土を離れることはできません。【征野の感想】引用部分は、主人公の水島安彦が隊長にあてた手紙の中の一節です。ここには水島がビルマに残ることを決意した理由が簡潔に書かれています。【この本からの引用】ビルマの南の地方に、日本人が白骨街道と名をつけたところがあります。【征野の感想】こちらが参考になりそうです。【この本からの引用】当時は、戦死した人の冥福を祈るような気持は、新聞や雑誌にはさっぱり出ませんでした。人々はそういうことは考えませんでした。それどころか、「戦った人はたれもかれも一律に悪人である」といったような調子でした。日本軍のことは悪口をいうのが流行で、正義派でした。義務を守って命をおとした人たちのせめてもの鎮魂をねがうことが、逆コースであるなどといわれても、私は承服することはできません。逆コースでけっこうです。あの戦争自体の原因の解明やその責任の糾弾と、これとでは、まったく別なことです。何もかもいっしょくたにして罵っていた風潮は、おどろくべく軽薄なものでした。【征野の感想】『ビルマの竪琴』が書かれたのは昭和21~23年。その当時のことを、著者が回想した『ビルマの竪琴が出来るまで』(昭和28年)から引用しました。昭和21~23年の日本は連合国により占領管理されていたので、引用部のような軽薄な風潮は仕方がなかったのでしょうか。童話雑誌に連載するという形でしか、戦死した人の冥福を祈る内容のものを発表できなかった。新聞や雑誌に大々的に鎮魂的な内容を発表できなかった。そういう時代であったのかもしれません。
2005/12/25
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この本は1986年4月に発行されました。著者は1931年生まれの方なので、この本を書かれた時は45歳位であったと思います。また、1941年4月に小学校は国民学校になったので、著者も国民学校に通ったと思われます。「少国民」とは何かというと、「少国民」とは戦線に参加するまでに至らない年代、すなわち子供たち、当時は国民学校と呼んだ初級学校の生徒たちを指すとのこと。戦時の人々の気を引き締め、戦局の苦難に立ち向かわせるべく使われた政治用語である。(ある個人HPから引用)以下は【この本からの引用】と【征野の感想】です。【この本からの引用】日本 ヨイ 国、キヨイ 国。世界ニ一ツノ 神ノ 国。日本 ヨイ 国、強イ 国。世界ニ カガヤク エライ 国。【征野の感想】引用部分は、国民修身教科書である『ヨイコドモ(下)』に載っているという。かなり独りよがりな内容ですが、「神の国」という言葉で思い出すのは森前首相の「神の国発言問題」。森前首相は1937年生まれなので、子どもの頃に日本は神の国と聞いたことがあると推定します。うっかり「神の国」と口にしてしまったのでしょうか。発言内容を私が精査するはずもないので、詳しいことはわかりませんが。しかし、引用部の最後の「世界に輝く偉い国」には、苦笑です。【この本からの引用】新入学の子どもが学校で第一番にしつけられることは、天皇の写真を格納してある奉安殿・奉安所・奉安堂の前での最敬礼であり、忠孝のシンボルとされた尊徳・二宮金次郎像への敬礼であり、国旗掲揚の際の不動の姿勢による注目である。【征野の感想】7月31日の日記を書いた時は、二宮金次郎の勤勉性がGHQに問題視された理由がわからなかった。しかし、「二宮金次郎像への敬礼」を学校で子どもたちにさせていたとなると、金次郎=危険人物とGHQに思われるのも、無理からぬことか。【この本からの引用】国民学校は皇国の道に則りて、初等普通教育を施し、国民の基礎的錬成を為すを以て目的とす。【征野の感想】引用部分は、1941年4月1日に国民学校がスタートするにあたり、同年3月1日に公布された「国民学校令」の第一条です。この「国民学校令」は1947年3月には廃止されたので、数年の間だけの法律でした。更に引用ですが、「ただひたすらに天皇信仰に深く深く帰依させよという(中略)、教育というよりは、宗教観念の注入」であったと。60年前の日本を知りたいならば、自ら学ぼうとしなければなりません。以上が感想です。
2005/12/24
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この本は1991年11月に発行されました。著者は1920年岡山県生まれなので、この本を書かれた時は、71歳位でした。まず、尋常小学校は何かということを箇条書きします。明治~昭和戦前期の小学校の名称。明治19年の小学校令で尋常小学校・高等小学校が設置される。この時の尋常小学校の修業年数は4年間で、その後何回かの変遷を経て、明治40年に6年間に延長。ほぼ現在の小学校と同じ修業年数となり現在に至る。昭和16年の国民学校令により、国民学校が設置され、「尋常小学校」の名称は消滅した。以下は【この本からの引用】と【征野の感想】を書きます。【この本からの引用】二宮金次郎は、国や学校が理想とした少年像だった。全国の小学校にこの像が建ったのが、昭和の初期であったことを考えると、こういう少年を育てることが、教育の理想であったのだと理解できる。【征野の感想】二宮金次郎の銅像は、現在の小学校では見かけないと思います。その理由の一つは、銅を戦争に使うために、供出されてしまったらしい。この本を読み、そのことを新たに知った。【この本からの引用】天皇陛下と皇后陛下の御真影を奉安する建物を、奉安殿と呼んでいた。【征野の感想】現在では想像できないが、著者の小学校時代は、朝夕の登下校の度に、奉安殿の前では一旦停止して最敬礼をして通り過ぎたという。しかし、著者の小学校時代というのは、学校に着いて教室に入るまでに、随分と頭を下げることが多かったことがわかる。書き出してみると、まず校門で一礼、ちょっと進んで歴代校長に一礼、二宮尊徳少年像に一礼、郷土の戦没軍人の武功を称えた忠魂碑に敬礼、奉安殿に最敬礼をしていたとのこと。非常に想像が難しい。【この本からの引用】『少年倶楽部』は、毎月の発行が待ち遠しかった。ちょうど『のらくろ』が登場した頃で、二等卒の新兵時代から胸を躍らせて見たものである。【征野の感想】11月19日の日記にも『少年倶楽部』のことを書きましたが、著者も『少年倶楽部』を楽しみにしていたことがわかります。値段は50銭だったとのことですが、当時の50銭は、まんじゅうが60個も買えたとのことで、今のお金だったら5000円位になるとのこと。結構な金額で、誰でもが簡単に買えるものではなかったらしい。著者の場合は、1冊の『少年倶楽部』を回し読みしていたようです。
2005/12/18
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この本は2000年1月に発行されました。渡部昇一氏の本を読むことは結構多く、6月11日の日記や1月28日の日記に読書感想文を書きました。渡部昇一氏の本では、『知的生活の方法』が数十年前のベストセラーであったと記憶します。私もこの本を読む機会を得て、全部が全部というわけではありませんが、将来はこういう生活をしたいと思ったものです。現実はどうかというと、現在の生活に限れば、週に2冊の本を読む時間はあるし、その感想文を書く時間と発表する場所があります。この点を考えると、多少は「知的生活」を気取ることはできます。それには、インターネットの発達という予想外の出来事のおかげもあります。以下は【この本からの引用】と【征野の感想】です。【この本からの引用】戦中・戦後の書物不足を嫌になるほど体験しているので、本に対する所有欲が合理性を欠くほど強いのだ。【征野の感想】「合理性を欠くほど強い」という表現は気に入りました。(笑)著者の職業を考えれば、相当な蔵書があっても不思議ではない。ところが、別の本で読んだことですが、幸田露伴は大読書家だったが蔵書家でも愛書家でもなかったそうです。転居や疎開のため三度も蔵書を売って大整理をしているし、普段でも本屋が本を届けてくると不要不急のものはざっとめくりメモをとると、すぐに払い下げて別の本を持ってこさせたといいます。幸田露伴の『努力論』を、著者は学生時代から座右の書としておられるそうです。つまり、著者は露伴についてよく知っているはずなので、もしかすると露伴を意識して、「本に対する所有欲が合理性を欠くほど強い」と書かれたのかもしれません。【この本からの引用】私の小学校から幼年学校に入った同級生は、150人のうち2人、(中略)である。全県の新聞に写真入りで報道され、その母も讃えられたものだ。【征野の感想】幼年学校とは陸軍幼年学校のこと。幼年といっても、旧制中学から進むので、在学生は13~14歳であったとのこと。著者は次のように書かれています。「今でも同年輩で幼年学校にいた人には、なんとなく敬意を感じてしまう」と。例えば、加藤秀俊氏などです。加藤秀俊氏は、仙台の陸軍幼年学校に進み、在学中に終戦を迎えたそうですが、当時の言葉でいえば、「星の生徒」であったそうです。
2005/12/17
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この本は平成11年3月に発行されました。『別冊文藝春秋』に中断をふくみ連載されましたが、その期間が長い。1982年4月~1997年4月までなので、15年間にわたって連載されたようです。史実を精査しながら書かれた内容であろうと思います。この本の最後に著者が挙げられた参考文献が83点ほどありますが、この数には驚きます。しかも、この83点は代表的な参考文献であるようで、「このほかにも、たくさんの資料から貴重な、知的な贈り物をいただき」と書かれており、もっと多くの文献を参照されたことが推定されます。『東京セブンローズ』は、昭和20年の根津の団扇屋主人による日記という形式で書かれています。そこには戦下の市民の真実と、戦後の占領軍による日本語ローマ字化計画が書かれており、この「ローマ字化計画」は、セブンローズ(この本では日本人の7人の娼婦という意味です)により潰され、日本語が守られたという突飛な内容です。もちろん小説なので史実とは異なり、著者は次のように語られています。ある雑誌インタビューで井上氏は、「いくらなんでも七人の娼婦が日本語を守ったというのはウソだけど、細部は全部本当です。でも、小説全体を読むと『ウソ話を読まされた』というのを書きたかったんですよ」と。以下に【この本からの引用】と【征野の感想】を少々書きます。【この本からの引用】散髪は15分で終わった。理髪代が3円。それとは別に1円の貯蓄券を買わされた。この4月からそういう規則になったのだそうだ。【征野の感想】この貯蓄券とは何か?臨時資金調達法に基づいて発行された金融債券のようである。ここを見ると今なら千円位で売れそうだが、戦後には紙くずとなったのであろうか、調べていないので何ともいえないが。債券といっても税金ですな。【この本からの引用】我国は大東亜共栄圏における標準語を日本語にしようとしていた。シンガポール、マレーシア、フィリピン、それから朝鮮半島で日本語をそれぞれのところの国語として使わせようとだいぶ苦労しておった。つまり自国の言葉を敗者に使わせたいと思うのは、勝者の本能のようなもので、なるほどたしかにアメリカは我国に英語をおしつけてくるかもしれませんな。【征野の感想】戦後間もなく、誠文堂新光社から発行された『日米會話手帳』は、ベストセラーとなったようで、半月で200万部売れたという。目ざとい商売人は、いつでもいるものだと思う。それから、日本語を改革したいと考えていた日本人も結構いたようである。この本によると、前島密、福沢諭吉、石川啄木、大槻文彦など、枚挙にいとまがないという。このへんは多少興味をもったので、機会があれば調べてみたいと思う。
2005/12/11
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今回は、『少年倶楽部名作選2』(講談社:昭和41年発行)の中の、『敵中横断三百里』の感想を書く。この作品は、昭和5年の4~9月号に『少年倶楽部』に連載された。著者の山中峯太郎(1885~1966年)は、陸軍幼年学校(第四期)を経て陸軍士官学校(第十九期)へ進み、陸大を中退。陸大を中退するするために、陸大批判の論文を執筆したりして、苦心(?)したそうだ。現代の我々の感覚だとわかりにくいが、この学歴はかなりのエリートコースのようだ。さて、『敵中横断三百里』だが、この作品は『少年倶楽部』に連載されたわけで、当然ながら少年向けである。内容は、日露戦争時の次のような実話に基づいて書かれている。「沙河の対陣」の際に、建川美次中尉以下六名の騎兵がロシア軍の背後深く鉄嶺まで斥候として侵入して見事任務を果たした。この斥候の結果行われたのが奉天の大会戦であり、その勝利の日三月十日が陸軍記念日となった。以下に【この本からの引用】と【征野の感想】を書く。【この本からの引用】本国からあたらしい精兵を、シベリヤ鉄道でドシドシと送ってきだした。列車が引きかえしていては単線だからまにあわない、というので、送ってきた列車を、到着した駅でみな焼きすてる。【征野の感想】露軍が兵力を東に移動させている場面だが、列車を焼き捨てるというのが気になった。当時のシベリヤ鉄道を走る列車が木製であったかどうかは定かではない。ただ、日本の列車が鋼体化されたのは昭和2年のことで、このことは11月6日の日記に書いた。つまり、日本国内では日露戦争の時には木造列車が走っていたことになる。要するに、当時のロシアの列車も木製であったと推定でき、列車を焼き捨てるのは不可能ではなさそうだ。【この本からの引用】切腹のとちゅうに捕虜となり、生きながらえては二重のはじだ。【征野の感想】これは、斥候中に多勢の敵から逃れようとするが、進退きわまり切腹をしようとする場面。昭和5年の少年向けの本に、このようなことが書かれていたのかと驚いた。戦陣訓の「生きて虜囚の辱を受けず」を彷彿とさせる。
2005/12/10
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この本は、1991年9月に発行されました。著者は1925年東京生まれの方なので、この本を書かれたのは、65歳頃だと思います。本のタイトルどおり、この本を読むと、戦前・戦中の用語、今では死語となってしまった様々な用語に出合うことができる。著者は何を思いながらこの本を著したのか、あとがきを読むと、戦争の実態は死語と化した言葉の中にあると考えていたことがわかる。当初は、「出版のめどのないまま、まず手書き本として数冊つくり図書館などに置いた」という。ネット環境があれば、内容を問わず好き勝手に誰しもが情報発信できるようになった昨今では、今昔の感がある。それでは、以下に【この本からの引用】と【征野の感想】を書いてみる。【この本からの引用】陸の隼、海の零戦。中島の小山、三菱の堀越といわれた。【征野の感想】戦闘機の零戦(ゼロセン)は聞いたことがありますが、隼(ハヤブサ)は初めて聞きました。40代での私がこの程度、知らなくても恥じることはない。陸軍の主力戦闘機「隼」を作ったのが中島飛行機製作所の小山悌、海軍の零式艦上戦闘機を作ったのが三菱重工の堀越二郎だとのこと。【この本からの引用】巻脚絆は、(中略)適度の強さに巻くことにより、行軍のとき足の疲労を少なくすることができた。【征野の感想】う~む、征野は物を知らないことがわかってしまう。文明化→歩くことが少なくなる→脚絆(きゃはん)を知らない者が増える。まあ、こんな展開でしょうか。脚絆を少し詳しく書くと(コピーですが)、次のとおり。脚絆には、膝下に紐を通す穴があり、その紐をきつく結んで脛や足への血流を減らし、足を軽くする働きがあり、主に旅以外にも、飛脚や鉱夫のように脚を駆使する作業にも使われた。ここには、脚絆の現代版があります。【この本からの引用】日本本土空襲はサイパンが陥落し、そこを基地とするB29の行動範囲に含まれるにいたって本格化し、昭和19年11月から終戦までに全国主要都市113カ所に延べ17500機が来襲し、爆弾11万7256個、焼夷弾476万3621個を投下した。【征野の感想】本土空襲による死者の多い都市(出所:戦災復興誌第壱巻)は、東京、広島、長崎、大阪、名古屋、神戸、横浜、鹿児島、浜松、富山など。理由は長くなるので書かない。1945年6月17日に鹿児島大空襲があったが、京セラを創業された稲盛和夫氏(当時13歳)も被害を受けている。それについては、6月25日の日記に書いた。
2005/12/04
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大岡昇平の代表作の一つである『野火』は、昭和27年2月に刊行された。その時の大岡の年齢は43歳。よく知られているように、大岡は先の戦争で応召し俘虜生活を体験されました。その時の体験が、この『野火』を書く際にも活かされたものと思われます。高校時代に、この『野火』を読もうとましたが、パラパラとページをめくっただけで中止にしました。難しそうだし面白くなさそう、その程度の理由だったと記憶します。確かに、戦争体験がなく、しかも10代では、難しいと思う。極限状況の人間の行動や考え方を多少とも理解しようとするならば、戦争を体験することは不可能としても、ある程度の人生経験は必要なのだろう。以下は、【この本からの引用】と【征野の感想】を書きます。【この本からの引用】この田舎にも朝夕配られて来る新聞紙の報道は、私の最も欲しないこと、つまり戦争をさせようとしているらしい。現代の戦争を操る少数の紳士諸君は、それが利益なのだから別として、再び彼等に欺されたいらしい人達を私は理解できない。【征野の感想】この本が刊行された時、つまり1952年はどのような時代であったか?少し前の1950年8月に警察予備隊が設置され、再軍備の出発点となりました。1951年に日米安全保障条約調印。朝鮮戦争(1950~53年)の渦中でもありました。引用部には、著者の反戦の考えがよく出ています。「戦争を操る少数の紳士諸君」という皮肉な言い方は、痛快であります。【この本からの引用】いくら草も山蛭も食べていたとはいえ、そういう意味で、私の体がもっていたのは、塩のためであった。雨の山野を彷徨いながら、私が「生きる」と主張出来たのは、その2合ばかりの塩を、注意深く節しながら、嘗めて来たからである。【征野の感想】現代の日本では、塩分のとりすぎが問題視され、塩の大切さを意識することはない。こういう一節に出合うと、本当に必要なものが何かと考えさせられる。【この本からの引用】その時妙なことが起こった。剣を持った私の右の手首を、左の手が握ったのである。この奇妙な運動は、以来私の左手の習慣と化している。【征野の感想】ここは、『野火』で最も有名な一節です。この場面は、食物がない極限状況のなか、主人公である「私」が、人間の屍体から肉を切り落とそうとする場面です。要するに、利き腕の右手で肉を切り落とそうとしたところ、左手がそれを制止したということ。う~ん。人間の人間たる所以、極限状況での仏心、『野火』はあくまでも小説である、などと、錯乱気味の言葉を並べて、今回の感想文は終了とさせていただきます。
2005/12/03
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この本は1982年1月に発行されました。著者は、1934年韓国生まれの方です。以下は【この本からの引用】と【征野の感想】です。【この本からの引用】村のつき合いも、誕生、成人、結婚、死亡、法事、火事、水害、病気、旅立ち、普請の十項目を基本にしたというのです。そしてもし悪事などを働いたり、村の共同体の利益にならないことをする者がいると、その十項目のうち、火事と葬式の二つ以外はいっさいつき合わないので、村八分ということばが生まれてきたのだといいます。【征野の感想】村八分の語源を聞いて、ヘェーという気分。ちなみに手元の辞書をひいてみると、「葬式と火事の二分をのぞくことから八分」と書かれていた。こんなことを40代で知るとは、恥さらしだ。【この本からの引用】ソニーとは小さいものの意味で、子供をよぶ可愛い呼び名です。【征野の感想】『縮み志向の日本人』というタイトルから想像できるように、著者は、日本人は物を小さくすることに優れているという。そこで、トランジスタラジオを売り出したソニーの登場です。ここでは、ソニーという社名の語源が面白いので書いておきます。以下のとおりです。英語の「SOUND(音)」の語源であるラテン語の「SONUS(ソヌス)」から「SONNY」を連想する。(当時のアメリカでの流行語でかわいい坊やと言う意味。)しかし、日本語で発音するとソンニとなり、損(ソン)を連想し、イメージが良くないという事で、「N」を削り「SONY」としている。【この本からの引用】神との関係においても、人間が神に向かっていくのではなく、神を人間の方に引き寄せようとした傾向が強いからです。【征野の感想】なるほど、言われてみると天孫降臨という日本神話が浮かんでくる。建築を見ても、日本の塔は「横に行く線が非常に大事だ。上にのぼるということは、それほど意味を持たない」と。
2005/11/27
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この本は2002年11月に発行されました。著者は1930年東京生まれの方です。以下は、【この本からの引用】と【征野の感想】です。【この本からの引用】イカケやがまわってきた。刃物研ぎもきた。しじみ売りもきた。【征野の感想】著者の幼年時代である昭和7年頃の東京の風景のことを書かれています。家にいると、様々な行商人が来たという。しかし、「イカケ屋」とは何かわからなかった。そこで辞書をひくと、イカケとは、「なべ・かまなどの破損した部分に、はんだを流しこんで修理すること」と書かれていた。こういう商売があったのは、なべやかまは破損しやすかったからか?【この本からの引用】柳洋子のくわしい考証によれば大正末期から昭和初期にかけては洋裁学校の乱立期であり、東京や大阪のような大都市を中心に合計30校ほどが開校した。【征野の感想】9月17日の日記に、柳洋子の『衣生活社会史』の感想文を書きました。服飾関連では有名な先生のようです。文化学園のHPを見ると、「1923年(大正12年)6月23日、東京府各種学校令により、わが国初の洋裁教育の各種学校として認可、「文化裁縫女学校」として新発足。この日を創立記念日と定める」とあります。なるほど時期は大正末期で、「大正末期から昭和初期にかけては洋裁学校の乱立期」を裏付けているようである。【この本からの引用】有史以来、この日本列島では数百億の人間が生まれ、そして死んでいった。しかし、そんなにたくさんの墓碑などありはしない。(中略)ついこのあいだまで日本では鳥葬、林葬などがごくふつう・・・【征野の感想】ドキッとする箇所である。よほどの王侯貴族は別にして、ふつの人間の死体は谷や山林に捨てられていたという。墓をもつというのは、近代にはじまった習慣だという。そして、いまある墓だってあと100年もすれば無縁化して苔むす石碑になる運命であると、著者は断定されている。言われてみると、先祖代々の墓が今後も永久に続くというのは幻想かもしれない。子どもがいない夫婦やいても1人の夫婦は珍しくないわけで、将来は家単位の墓は減っていく運命にあるのかもしれない。
2005/11/26
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『あゝ玉杯に花うけて』は、昭和3年5月号~4年4月号に、少年倶楽部に連載されたものです。私が手にしたのは、『少年倶楽部名作選1』(昭和41年発行)で、この中の『あゝ玉杯に花うけて』を読んでみました。以下は【この本からの引用】と【征野の感想】です。【この本からの引用】おれもどこかへ追いだされたら、一つの国を占領して日本の領土を拡張しよう【征野の感想】これは、この小説に出てくる乱暴な中学生の言葉です。時代が時代なだけに、こういう言葉が自然と出てくるのでしょうが、苦笑してしまいました。【この本からの引用】いいか諸君、久保井先生がなければ学校がほろびるんだぞ、ぼくらは何のために漢文や修身や歴史で古今の偉人の事歴を学んでるのだ、「士はおのれを知るもののために死す」だ、いいかぼくらは久保井先生のため浦和中学のため、死をもってあたらなきゃいかん【征野の感想】これは、リーダー格の少年が生徒の前で語った言葉です。学校を日本に置き変えると、なるほどと思えます。「少年倶楽部は、ロマンの衝動、民族意識の昂揚、無限の夢を与えた雑誌である」と言われるのも、最もでしょうか。【この本からの引用】湯の盤の銘に曰く、まことに日に新たにせば日々に新たにし又日に新たにせん・・・こう読むのだ【征野の感想】これは主人公が通う私塾の先生の言葉です。『大学』のことは5月8日の日記で触れました。ともあれ、昭和の初めには、漢文を学んでいたことがわかりますね。【この本からの引用】車の走る音が聞こえた、(中略)おそらくは幸吉、車もくつがえれとばかり走ったことであろう。【征野の感想】この車は、人力車のことです。幸吉という名前の車夫が、医者を人力車にのせて往診先にむかっている場面を書かれています。私たちの固定観念(?)では、車=自動車なので、勘違いをしてしまいます。
2005/11/20
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この本は平成5年4月に発行されました。著者は大正14年、東京生まれの方です。以下に【この本からの引用】と【征野の感想】を書きます。【この本からの引用】当時の軍隊にとっては、軍旗が天皇陛下そのものだったのです。【征野の感想】軍旗で思い出すのは乃木希典です。西南戦争で軍旗を失い、自決しようとしたと伝えられています。その時は思いとどまりましたが、軍旗を失ったことは生涯乃木を苦しめたようで、明治天皇の大喪の儀式当日に、妻の静子と殉死されました。軍旗を失うことの意味を分かりかねていましたが、その重大性がわかったような気がします。【この本からの引用】「あした十日は少倶の発売日」、が当時は浸透していて、前の日はなんとなくソワソワしていたのを覚えています。毎月十日発行、定価は私が読みはじめた昭和7、8年頃から昭和14、5年頃まで、ずっと変わらぬ50銭でした。【征野の感想】少倶とは、少年倶楽部のこと。少年倶楽部は、大正3年11月創刊以来、50年近くも続いた少年向けの雑誌です。昭和37年まで続いたそうです。小学校の2~6年生が主な読者であったとのこと。少年倶楽部に連載された『あゝ玉杯に花うけて』を読んだが、少年向け雑誌といっても、ところどころに四書のうちの『大学』や『論語』の一節がさりげなく出てきたりするので、なかなか読み応えがありました。【この本からの引用】金鵄勲章は、明治23年2月11日の紀元節の佳き日に当たり、神武天皇が御東征のみぎり、金色の鵄が天皇様の御弓にとまってその光輝に目がくらみ、長髄彦の軍勢が降伏したという故事にちなんで制定されたものです。【征野の感想】金鵄勲章は「きんしくんしょう」と読む。勲章の一種ですが、初めて聞く勲章である。著者の少年時代にはあこがれの勲章であり、「武功抜群なる者に叙勲する」もの、つまり殊勲の軍人軍属に贈られたものです。功一級が最高で、功七級までありました。しかも、著者の少年時代には、駄菓子屋のくじの賞品にもなっていたらしい。もちろんくじの賞品は本物の勲章ではなく、ボール紙で作られたものであったが。しかし現在はというと、悲しいことに、功四級金鵄勲章が33万円で出品されていたりします。昭和6~7年と現在を較べると、月並みな表現ですが、隔世の感があります。
2005/11/19
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この本は2004年1月に発行されました。著者の速水融(はやみあきら)氏は1929年生まれ、小嶋美代子さんは生年不詳です。本のタイトルにある「デモグラフィ」とは、出生・死亡・移動などの人口統計全体、あるいは人口の研究を指す言葉とのこと。「デモクラシィ」とは異なります。以下に【この本からの引用】と【征野の感想】を書いてみます。【この本からの引用】人間とウイルスの戦いは、宇宙人との戦いにも似た、いわば「未知との遭遇」で、負ければ人類は滅亡するかもしれない。それに比べれば、人間どうしの戦いは何とも愚行としかいいようがなく、イラク戦争の戦費ほどのお金をウイルス対策に向けることができたら、人類の不安は多少なりとも軽減されるに違いない。【征野の感想】この本の脱稿は2003年11月頃のようですが、この年の春にイラク戦争がありました。また当時はSARS(サーズ/重症急性呼吸器症候群)が流行していたようです。人間どうしの戦いを「愚行」とバッサリと切り捨て、爽快にさせてくれます。【この本からの引用】インフルエンザ・ウイルスによる流行性感冒が、なぜスペイン・インフルエンザと呼ばれたのかというと、戦時にあって、参戦国はどこも多大な戦病死者の存在、あるいは国内における流行を公表せず、ひとり中立国であったスペインにおける流行が広く喧伝されたからである。【征野の感想】この本ではスペイン・インフルエンザと書かれていますが、「スペイン風邪」のことです。スペイン風邪の発生源は定かではないが、スペインが発生源ではないことは確からしいです。1918~1919年にかけて大流行し、世界人口の50%が感染したというのだから驚く。死者数は4000~5000万人と言われています。日本では当時の人口5500万人に対し39万人が死亡。有名な人物では、島村抱月や野口シカ(英世の母)が亡くなっています。【この本からの引用】電灯の一般家庭への普及は、庶民生活に非常に大きな影響を与えた。【征野の感想】電灯が都市部の家庭で用いられるようになったのは、大正時代のことです。この影響の一つに出生率の低下が挙げられます。何やら、電灯のもとで雑誌や書籍を読むことができたし、夜なべ仕事も容易になったとのこと。そして断定はできないが、夜の生活パターンの変化のため、電灯の普及と出生率の低下は関連があるようだとのこと。日本だけではなく他国の出生率低下例も挙げているが、確かに関連があるようにも思えます。意外なところに影響がでるものです。
2005/11/13
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この本は1997年10月に発行されました。著者は1943年東京生まれの方です。著者の書かれた別の本に、『戦後教科書から消された人々』がありますが、この本の感想は7月9日の日記に書きました。以下に【この本からの引用】と【征野の感想】を書きます。【この本からの引用】だから作者三木露風の思いは、「十五で姐やは嫁に行き/お里のたよりもたえはてた」という三番の歌詞にこそ、強く込められている。【征野の感想】「赤とんぼ」の3番の歌詞です。今現在はどうなっているのか定かではないが、この3番の歌詞が削除されていた(削除されている?)そうです。「教育的配慮」ということで、「姐や」という言葉に人権上問題があるということらしい。しかし、この歌詞には今まで知らなかったこと、間違って覚えていたことが結構あった。まず、「姐や」であるが、この「姐や」は、姉さんではないということ。よその家から手伝いに来ている女の子のことなのだそうだ。次に十五で嫁にいくということだが、当時は15歳で嫁に行くことは珍しいことではないと私は思っていた。しかし、「赤とんぼ」が発表された1921年では、15歳で嫁に行くのは珍しいことであったようだ。当時にしても、「わずか15歳で嫁にもらわれていくというのは、やはり貧しさ故のことだった」とのこと。「お里のたより」というのは、「姐や」の故郷から届いていた手紙のことを指すようです。そして私自身の恥をさらすが、とんでもない誤解をしていました。この歌詞の意味は今まで次のように思っていました。「15歳で姉が嫁に行ったところ、手紙一つ寄越さなくなった」と。40代の平均的日本人(多分)にしてこの程度では、三木露風は草葉の陰でさぞや嘆かれていることと思います。【この本からの引用】季節の移り変わりに、栄枯盛衰の理を重ね合わせて、諸行無常の世の中を歌っているのだ。【征野の感想】引用部は、「荒城の月」(作詞・土井晩翠 作曲・滝廉太郎)について書かれた箇所。詳しくは書きませんが、この「荒城の月」の詞の意味を知っていると中々聞き応えがありそうです。ちなみに、荒城とはあれはてた城ですが、その「荒城」に月の「替らぬ光」を対比させているのですね。おごれる人も久しからず、春の夜の夢のごとしという平家物語の世界です。
2005/11/12
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この本は1996年11月に発行されました。著者は1930年徳島県生まれの方です。以下に【この本からの引用】と【征野の感想】を書いてみます。【この本からの引用】ランプ照明時代のうす暗い夜汽車の旅は、まことに心細いもので、1901年、洋画家・赤松麟作の三等夜汽車内を描いた「夜汽車」(東京芸術大学芸術資料館蔵)は、この情景をよく描写している。【征野の感想】赤松麟作の「夜汽車」を見ると、ランプ照明の車内、その車両は木造であることがわかります。つまり、鋼体化されていないのですね。理由は、次の引用部が参考になります。【この本からの引用】鉄道の技術・安全対策は、そのほとんどが歴史にのこる大事故を契機として大きな進歩をとげたのだった。その点、1927(昭和2)年に実現した客車の鋼体化も例外ではない。【征野の感想】赤松麟作の「夜汽車」が木造列車であるのも当然で、客車の鋼体化は1927年のことのようです。鋼体化の契機となった事故は、1926年9月23日の脱線事故でした。事故の詳細は割愛しますが、即死者35人の惨事でした。今年の4月25日に福知山線の脱線事故が発生しました。死者107名の大惨事でしたが、二度と同じような事故が発生しないように原因解明が進められているはずです。「ATS-Pが導入されていたら速度超過で自動的にブレーキがかかるので事故は防げた」とも言われていましたが、部外者には何ともわかりにくい。いずれにせよ、事故が発生することで初めて安全になるわけで、複雑な気持ちにさせられます。【この本からの引用】「東京日日新聞」には、「電車のドア盛んに指を喰うー昨日1日で3件―省電乗客御用心のこと」といった見出しの報道がある。【征野の感想】最後はかわいらしい事故のことを書きます。引用部の「省電」とは、省線電車のこと。旧鉄道省(1945年に運輸省となった)が管理していた路線が省線。省線を走った電車は省線電車または省線とよばれたそうだ。それで、かわいらしい事故とは「指はさみ事故」。何やら乗降ドアが自動ドアになったのは、1926年の京浜線・上野~桜木町間が最初であったそうだ。慣れない乗客が、盛んに自動ドアに指をはさまれたということ。こういう事故が発生したからこそ、現在の安全なドア(安全ではないという人もいるかもしれないが)になったようです。以下に、ざっと書いておきます。1926年当時はドアに「当たりゴム」がついていなかったので、はさまれたら痛いし、怪我もした。その後、硬質の当たりゴムを取り付け、さらに1960年頃に現在使われているような軟質の当たりゴムに変更になったそうだ。
2005/11/06
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この本は1994年12月に発行されました。著者は1930年東京生まれの作家です。著者の代表作に『ノモンハンの夏』がありますが、この本については2005年1月22日の日記に感想文を書きました。この本のタイトルにある「荷風さん」とは、永井荷風のことです。以下に【この本からの引用】と【征野の感想】を書いてみます。【この本からの引用】自分がそうでない連中が多いから、純粋という記号につい頭を下げてしまう。【征野の感想】純粋でない人間は、純粋という言葉に弱い。まあ、そのようなことでしょうか。私も純粋とは言いがたいわけで、例えば8月7日の日記に書いたように、2・26事件の首謀者・磯部浅一に理解を示したりしております。【この本からの引用】国民のなかに満ち満ちた戦争を望む声によって、気分によって、空気によって、戦争は起こり、拡大していったのである。決して一部の軍人や、官僚や、資本家や、右翼らによって引っぱられていった、というような受け身のものではなかった。【征野の感想】昭和史に強い著者らしい分析です。私の思い違いかもしれないが、「空気によって」という部分は、山本七平氏も指摘されていたように思う。著者は1930年生まれなので、敏感な子ども心で当時のことを感じ取っていたのかもしれません。【この本からの引用】大正11年のワシントン軍縮条約調印で激越をきわめた建艦競争が急停止、おかげで鉄が多量に余った。そこへ大地震で東京壊滅、橋がないため逃げ道を奪われ、多数の死者を出した。ちょうどいい、橋を造れで、戦艦や空母のかわりに名もうるわしい橋をどんどん造った。【征野の感想】このへんの鉄の使われ方は大いに結構なこと。「名もうるわしい橋」とは、言問、駒形、蔵前、清洲橋など。東京市内の震災復興橋は115橋を数えたそうです。
2005/11/05
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この本は1987年に発行されました。著者の大岡昇平(1909~1988年)は、先の戦争で俘虜生活を体験された戦後の小説家です。以下に、【この本からの引用】と【征野の感想】を書きます。【この本からの引用】安らかな老後を求める気持は、私にはない。働き続け、苦しみ続けて死ぬつもりである。【征野の感想】1972年に毎日新聞に寄せた文章の一節です。著者は、当時63~64歳でした。著者は、先の戦争で捕虜になり、「死んだ戦友に対して、常にすまない」と思い続けて生きておられたわけです。戦時の体験がない我々には理解が難しいのですが、戦争の悲惨さが伝わってきます。【この本からの引用】戦後28年目に二人の日本兵が、フィリピンの小島のジャングルから現れて現地国家警察軍と銃撃を交え、1人が射殺された。【征野の感想】これは、著者が1972年に「朝日ジャーナル」に寄せた文章の一節です。著者はフィリピンに配属され、俘虜として終戦を迎えた経験をお持ちです。引用部は、1972年10月に、小野田寛郎旧陸軍少尉の部下であった小塚金七一等兵が射殺されたことを書かれています。ちなみに、「二人の日本兵」のうち生き残ったのが、小野田寛郎旧陸軍少尉です。射殺された小塚一等兵は、3ヶ月教育されただけで、前線に配置された弱兵であったとのこと。3ヶ月という短期間の教育なので、日本軍は苦戦していたのでしょう。小塚一等兵は21歳の丈の低い補充兵であったということです。なお、著者は35歳で配置されたそうですが、この年齢では老兵であったとのことです。さらに、著者がフィリピンに配置された時期は、小塚一等兵と同じ時期であったとのこと。このように小塚一等兵と著者とは似たような境遇であっただけに、著者の意識は小塚一等兵に同情的です。それ故に、次のように書かれています。「いつも死ぬのは兵隊であり、生き残るのは将校である、ということに、私は元一兵卒として憤りを感ぜずにいられない」と。最もその直後に、「今なおルバング島の密林の中に隠れていると見做される小野田少尉を責める者ではない」と。まあ長々と書いてきましたが、私自身は戦争体験がないので、軽々しい感想は控えさせていただきます。
2005/10/30
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この本は1995年10月に発行されました。ちなみに阪神大震災は同年1月でした。著者は1934年生まれです。以下に【この本からの引用】と【征野の感想】を書きます。【この本からの引用】たびたび火事に遭うことから、蓄財の無力感、無為の認識もよびおこしており、「財を積んでも甲斐はなし」「江戸っ子は宵越しの銭はもたない」などの淡白な散財性といわれる性格をうみだした。【征野の感想】「江戸っ子は宵越しの銭はもたない」とはよく聞かれる言葉です。なぜこんな言葉が生まれたのかというと、たびたび火事に遭ったかららしい。10年住めば一度は焼け出されるのが常識化していたとか。(驚き)東京人は浪費家であり刹那的である。ホントかウソかはわからないが、火事が大きな原因になっていたのですね~。【この本からの引用】「地震(津波も)自然現象である。人力では之を抑えることはできない。震災は地震が人の生命財産に及ぼす災害である。我々の知識と努力とによって之を免れ得べきものである」とは、地震博士とよばれた今村博士が残した言葉である。【征野の感想】ここに書かれた今村博士とは、どのような人か?今村博士は、今村明恒(いまむらあきつね)。1870~1948年の時代を生きられた地震学者です。もっと詳しく書くと、次のとおり。東大教授。1923(T12)関東大震災後、地震学科創立とともに主任となり、のち地震研究所員を兼任した。地震学会会長を創立以来18年間つとめ、また統計学的研究による磁気測定、地震計の考案、地震波の位相の伝播速度測定など、地震学の発展に多くの業績を残した。(コンサイス日本人名事典より) 震災は我々の知識と努力で免れることができる、と博士は言われています。日頃から備えをしておきたいものです。【この本からの引用】大正13年(1924)9月の荒川放水路(昭和40年河川法改正による現在の荒川)の完成後は、東京の水災は江戸時代におけるものよりは幾分減少した。【征野の感想】火災、震災はキーボードで一回で変換できたが、「すいさい」は変換できませんでした。それだけ馴染みのない言葉になっているのかもしれません。東京の水災が減少したのは、実に300年来の江戸幕府以来の河川事業があったからだとのこと。たとえば利根川東遷事業、そして荒川放水路の完成など。先人に感謝しなくてはなりませんぞ。
2005/10/29
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この本は1999年7月に発行されました。著者の吉野俊彦氏(1915~2005年)は、先頃永眠されました。下記は、徳島新聞より引用させていただきました。 吉野俊彦氏(よしの・としひこ=元日銀理事、経済評論家)8月12日午前5時1分、肺炎のため東京都墨田区の病院で死去、90歳。千葉県出身。自宅は千葉県市川市。葬儀・告別式は近親者で済ませた。喪主は妻温子(はるこ)さん。 38年東大法卒。日銀に入り、調査局長を経て70年理事。74年、旧山一証券経済研究所理事長、85-98年特別顧問。 高度成長期に一貫して安定成長を唱え、故下村治氏らと論争を展開した日銀を代表するエコノミスト。森鴎外の研究家としても知られ、多数の著書を残した。(徳島新聞からの引用はここまでです)以下は【この本からの引用】と【征野の感想】です。【この本からの引用】翌3月10日日本銀行に出勤のため午前8時、自宅から徒歩で本八幡駅に赴いたところ、総武線は市川駅止まり、東京方面行は不通だというので、市川駅で下車。それから先は総武線の線路の上を徒歩で行くよりほかはなかった。【征野の感想】昭和20年3月10日の東京大空襲のとき、著者は30歳位で日銀マンでした。地理的に東京大空襲の被爆地に近い所に著者は住んでおり、この時の生き地獄の体験は生涯忘れることのできないものであるとのこと。「二度と再び戦争などにまきこまれてはならないという」という著者の信念の源になったとのことです。この引用部分が気になる理由は、実は私の通勤ルートと酷似しているからです。普通に通勤するならば、著者の通勤ルート(本八幡→秋葉原→神田)と完全に一致します。今現在は多少変更しましたが、著者と同じルートで通勤していた時期がありました。【この本からの引用】(荷風が)最も苦手としたのは隣組を通ずる国債の押し売りだったようだ。やむを得ず買い入れた国債を、それが累積しないうちに、兜町の証券会社に赴いては、現金化している。【征野の感想】荷風とは永井荷風のことです。これはわかりづらい。私もこの本をよんで初めて知ったのだが、戦時中は国債を強制的に買わされていた!著者は自身の経験を次のように書かれています。「戦時中の隣組は配給統制の最末端の実施機関であるので、当時私の勤労所得に対比して、法外な額の国債その他これに準ずる報国債券などの割り当てをしてくるので、ことわることは事実上困難であった」と。永井家風の場合は、株式投資をしていたので証券会社とつながりがあったので、国債を現金化できたが、これは特殊なことのようです。国債の換金は事実上不可能で、増税に等しかったとのこと。
2005/10/23
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この本は2002年5月に発行されました。著者の森山茂樹氏は1940年生まれ、中江和恵さんは1949年生まれです。以下は、【この本からの引用】と【征野の感想】です。【この本からの引用】学校教育が、実際に日本中のすべての子どもたちに開かれたものになるとともに、学校は子どもたちにとって必ずしも希望に満ちた場ではなくなってきた。明治以後の学校教育は、子どもたちに立身出世の夢を与えてきたし、そうした現実的な希望を持たない子どもにとっても、新しい知識を与えられる場であり、労働から解放される場であった。【征野の感想】日本の20世紀前半頃までは、丁稚奉公、子守奉公、農業を継がねばならない子ども、家を出て働かねばならない子どもなどが普通のことであったらしい。つまり、学校は労働から解放される場でもあったと。1960年代生まれの私には気がつきませんでした。1960年代生まれの私の小学校時代の思い出は、給食がおいしかったことです。家では食わせてもらえなかったなんてことは決してないのですが、生活にそれほど余裕があったわけでもなかったので、学校給食はとてもおいしく感じられたものです。おそらくこの辺の感覚は、日本が豊かになるにつれて理解できる人が少なくなってきているに違いない。【この本からの引用】比較的平穏であった江戸時代後期、19世紀初頭からふえはじめた人口は、明治初期から100年の間に急激に増加し、約3000万人から約1億2000万人にと4倍になり、その多くは都市に出て、近代化に伴う産業の担い手となっていった。【征野の感想】北一輝の『日本改造試案』(1919年)によると、「我が日本亦五十年間に倍せし人口増加率によりて百年後少なくも二億四五千万を養ふべき大領土を余儀なくせらる」などと書かれています。要するに、この頃の人口増加率はその少し前の時代に比べて高まっており、領土を拡張する必要があると説いたわけですね。日本ではいよいよ人口減社会に突入するとの見通しですが、歴史的転換の時代に生きることができる私たちは幸運であると考えたい。そして、今までの100年で4倍に増えた人口が、今後の100年でどこまで減るのかを見届けたいものだが、残念ながら生き長らえることはできそうにない。それこそ何百年という時間をかけて、居心地のいい人口に落ち着くのではなかろうか。このように考えると、今の日本の人口は多すぎるという結論になってしまうが。
2005/10/22
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この本は2001年12月に発行されました。この本を読もうとした理由は、荒川は人工的に造られた川であると聞いたからです。そのことを含めて川について少し調べてみようと思いました。以下は【この本からの引用】と【征野の感想】です。【この本からの引用】荒川の洪水から流域を守るための放水路掘削工事にあたっていたまさにその人々が、その流域住民らによって組織された自警団や、本来その身を保護すべき警察・軍隊によって、河川敷や土手などで葬り去られた。決して忘却してはならない、血塗られた東京近代の歴史である。【征野の感想】1923年の関東大震災の時に朝鮮人虐殺事件が発生しましたが、今までは、なぜ多数の朝鮮人がいたのかわかりませんでした。この本を読み、それは、放水路工事や京成電車の高架化工事、駅移転工事などの労働者として、この地域に居住していたからだとのこと。【この本からの引用】都市化の波は、川の洪水としての恐怖のみを際だたせ、その抑止力のために作られたカミソリ護岸が川に対する親しみを奪い、人は川から遠ざけられてしまった。【征野の感想】荒川は文字通り「荒ぶる川」で氾濫を繰り返していたとのこと。実は我が家の近くにも川が流れていますが、この川もかつては洪水に悩まされたことがあったそうです。今は護岸工事されているため災害の心配はないが、川の水からは遠いですね。しっかりと柵でふさがれており、道路上から3~4メートル見下ろすと水面が見えます。今では生活廃水を流すためのものという感じになっています。この川は潮の干満の影響を受け水位が変動します。要するに、干潮で水位が下がり満潮で水位が上がるのです。水位が上がる過程(満潮に向かう過程)では、川の水の流れる方向が変わる時間があるのですね。要するに、逆流することが定期的にあるわけです。おそらく、かつては水路そして利用されていたのでしょう。最も今では、水位や流れの変化は生活するうえでは、どうでもいいことになっています。その代わりに洪水の恐怖から解放されたわけですので、それはそれで仕方がないことなのでしょう。
2005/10/16
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この本は1992年11月に発行されました。著者は1929年生まれで当時は63歳位でした。著者は交通史に大変な興味をお持ちの方のようで、30年にわたり資料を集めてこられたとのこと。著者の略歴によると、大学卒業後サラリーマン生活を30年以上継続されたとのこと。仕事以外のことを少しずつ長期間続けることの価値を認識させられます。以下は【この本からの引用】と【征野の感想】です。【この本からの引用】明治5年、東京・八王子間46キロにいち早く往復馬車が許可となる。時速3里(12キロ)、所要4時間の行程であった。【征野の感想】10月9日の日記に書きましたが、相沢菊太郎の明治20年の小旅行でも、東京・八王子間の馬車を利用しています。【この本からの引用】明治30年代中頃になると、自転車は上流階級や金持ちのステータスシンボルではなくなって実用化の段階に入った。【征野の感想】明治の前半は自転車を持っているのは上流階級であったようです。時の流れを感じますね。自転車が日本に渡来したのは幕末のようですが、そうだとすると陸上交通機関では、生き残りとも言えます。馬車や人力車は、もうなくなっていますからね。おそらく今後とも自転車は便利な乗り物として残るでしょう。【この本からの引用】明治41年秋の展覧会に出品した満谷国四郎(みつたにくにしろう)画伯の油絵「車夫の家族」の大作で、いま東京芸術大学に所蔵されている。【征野の感想】車夫とは人力車を引くのを生業としている方です。満谷国四郎の「車夫の家族」は、「とあるスラム街に住む車夫一家の平和なひとときを、この作品は複雑な色彩と光の影で鋭く捉えている」と、著者は言っておられます。以下に「車夫の家族」の解説を少々。横になって寝ているのが車夫です。車夫の家は、上がりがまちから裏口まで3畳ほどの長屋の一部屋。人力車を引くのを生業とするものの収入は様々だったようです。金持ちのおかかえの車夫は安定した高収入であったようです。もちろん高収入といっても「それなりの収入」という意味です。それに対して、「借り車夫」といって、人力車を自分で持たずに人から借りて営業している方の収入は、やはり低かったようです。借り代も払うわけですから。この「車夫の家族」に描かれた車夫は、「借り車夫」なのかもしれません。
2005/10/15
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昭和58年12月に発行されたこの本は、相沢菊太郎という篤農家が残した日記と金銀出入帳をもとにして、庶民生活の実態を探ろうとしたものです。著者は1924年生まれなので、著者が59歳位の時に書かれた本です。まずは、相沢菊太郎を検索するとヒット数は124件、相澤菊太郎では55件でした。意外と少ない気がしましたが、私もこの本を読むまでは知らなかった人物なので、こんなものかなと思い直しました。相沢菊太郎(1866~1962年)は相模原に生まれ、相原村村長を務めた篤農家でした。特筆すべきは、19歳の時から96歳で亡くなる10日前までの78年間の日記が現存していることです。その相澤日記は相模原市の文化財に指定されています。以下は【この本からの引用】と【征野の感想】です。【この本からの引用】相沢菊太郎満21歳の春、友人をさそって三人旅に出かけた。江の島、横須賀、横浜、東京見物の4泊5日の小旅行である。【征野の感想】この旅行は明治20年の記録です。今なら日帰りできる距離ですが、当時は4泊5日の旅行になってしまうのには、時の流れを感じます。当時の交通機関は、船、汽車、馬車でしたが、相模原から藤沢、江の島、金沢八景あたりまでは徒歩でした。横須賀から横浜までは船を利用、横浜から東京までは汽車を利用、東京から八王子までは馬車を利用。ざっとこんな具合ですが、これでは相当な体力が必要ですね。【この本からの引用】政府は日露戦争に際し、平和回復の翌年までという期限付きで、地租など11科目の税率を増徴した。それは毛織物・石油消費税の創設などと合わせて、明治37年度中に、すでに総額12億6100万円ぼ増収をはかっている。【征野の感想】戦争には増税と物価騰貴がつきものですが、この点を私は理解していませんでした。1月30日の日記ではこの点を見落としていました。日比谷焼き打ち事件の発生原因の最たるものが、増税と物価騰貴による国民の継続的な不満であったと思われます。「日清戦争を契機に飛躍的に上昇した物価はその後は(日露戦争後も)低下せず」とのことなので、慢性的物価高に対する国民の不満の爆発でしょうか。
2005/10/09
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2002年10月に発行されたこの本では、1874年11月2日に発行された『読売新聞』を採りあげて、当時の人々が、どのように世界の読み方を学び、それまでとは違う変化をどのように強いられたかを探ってみようとの試みで書かれたものです。著者は1950年生まれの方なので、この本を書かれたときは52歳位でした。私がこの本を読もうとしたのは、日本の新聞の歴史を知りたかったからです。新聞は日露戦争以後に、戦況の伝達以外に活路が必要であったとのこと。そこで新聞小説という連載小説が盛んに書かれるようになったらしい。まあこのような事を、どこかで耳にしたような気がします。この辺の事も探ってみようとの気持ちで、この本を手にした次第です。以下に【この本からの引用】と【征野の感想】を書きます。【この本からの引用】従来の新聞の歴史では、政治的な言論機関となった『東京横浜毎日新聞』や『東京曙新聞』『東京日日新聞』『日新真事誌』『郵便報知新聞』『朝野新聞』などを、知識人向けの高級紙として大新聞(おおしんぶん)と総称し、それに対して、判型の小さい『読売新聞』『平仮名絵入新聞』『仮名読売新聞』などの大衆新聞を小新聞(こしんぶん)と呼んできた。【征野の感想】簡単に書くと、政治関連の記事中心の大新聞とそうでない大衆向けの小新聞があったということ。現在の読売新聞の創刊時は、小新聞に分類されていました。この本で採りあげているのは小新聞ですが、明治時代の初めには驚くほど多くの新聞が発刊されたことがわかります。最も現代日本と比較すれば大したことはありませんが。現在の読売新聞のHPに読売新聞小史があります。昨年に読売新聞創刊130年を迎えた事がわかります。【この本からの引用】文字に習熟していない読者に向けて識字の必要性を説くことで、大衆新聞は、庶民生活にも文字教育を浸透させる政策に積極的に荷担していたといえる。【征野の感想】明治の初めは識字率も低かったのですが、文字が読めなくては新聞を読むことができないので、新聞が売れない。当然ながら、大衆新聞は文字が読める層を厚くしたいわけです。布告を理解するためには文字が読めなければならないので、国家の政策も同じ考えでした。こういったことを言っているのでしょう。本当はもっと深い意味があるのですが、私自身は何となくわかるのですが、説明する自信がありません。ともあれ、識字率が100%に近い国に生まれて良かったというべきです。
2005/10/08
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この本は1992年6月に発行されました。著者は1922年生まれの方です。以下に【この本からの引用】と【征野の感想】を書きます。【この本からの引用】北関東や信州などからの生糸は八王子に集められ、ここから横浜へ向けて運び出された。【征野の感想】日本にも「絹の道」があったのか!新たな知識を得る喜び、往時の賑わいを想像する楽しみです。絹は、北関東・信州→八王子→横浜→海外へと運ばれたとのこと。【この本からの引用】かつては人間にとっても、昆虫は大切な食物(蛋白源)であったと考えられる。山野で繭を発見したときも、最初は蛹を食べることだけを考えていたに違いない。昆虫食の風習は、いまなお世界の各地に残っている。【征野の感想】これはカルチャーショックです。かいこのさなぎの缶詰が何とネットで買うことができます。私は食したことがないので、味はわかりませんが。(・_・;)かいこの蛹(さなぎ)というのは、実は殺される運命にあるのですね。なぜならば、蛾になると繭に穴をあけて脱出するため、繭が使い物にならなくなるからです。製糸するときの「殺蛹(さつよう)」という作業で殺されてしまいます。どういう方法で殺すかというと、摂氏50~60度の熱風を数時間送るなどです。しかし、かいこの一生もちょっと可哀そうな気が。少し引用すると、「カイコは2日間、不眠不休で繭を作り、それが終わると繭の中で蛹になる。それから約10日たつと蛹は蛾になり、繭に穴をあけて脱出する」そうです。2日間徹夜して働いたあと、ゆっくり休んでいるうちに殺されてしまう・・・とは。
2005/10/02
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1962年生まれの著者によるこの本は、2004年12月に発行されました。最近は地震関連の新聞記事やテレビ番組が増えているように思います。それだけ関心も高まっているのでしょう。例えば、8月29日の産経新聞には、地震調査委員会の発表を紹介しています。その内容は、首都直下地震の「30年以内の発生確率が70%」というものです。私の勤務先は東京都心部、自宅は千葉県ですので、当然ながら関心度が高まります。もっと身近な話をすると、私の勤務先は貸しビルを営んでいます。誤解のないように言っておきますが、私は一般社員であり、個人でビルを保有しているはずはありません。空室の内覧のために時々お客様が訪ねてこられますが、「このビルは耐震構造になっていますか?」的な質問が非常に多いです。10件中6~7件のお客様に質問を受けている感じです。現実は耐震構造にはなっていないので正直に話すわけですが、この話になると、ここで話は終わってしまいます。以下は【この本からの引用】と【征野の感想】です。【この本からの引用】9月1日の午後4時すぎ、本所被服廠跡、現在の両国国技館や江戸東京博物館の北側一帯の広場に避難した住民が旋風と火に襲われ、38,015名、周辺を合わせて44,030名が焼死するに至った。【征野の感想】まず関東大震災が発生した日は、1923(大正12)年9月1日です。人的被害規模は10万人を超える死者を生じさせたとのことです。そのうちの4割ほどの死者が、この本所被服廠跡に集中しているとのこと。関東大震災について、私自身あまりにも知識がないため、書かせてもらいました。【この本からの引用】現在と同じ信濃町、当時の四谷区内にあった慶應大学病院だけが、医師2名と看護婦3名を派遣した。周辺の揺れは震度5程度で、被害の激しい地域から離れており、・・・【征野の感想】関東大震災で被害の大きかった地域は、現在の墨田区や江東区になるようです。現在の新宿区、渋谷区、豊島区などの被害は少なかったようです。集中的に被害が発生したことを、この本から学びました。
2005/10/01
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14年前に書かれた本ですが、絹について色々と知ることができました。例えば、トヨタの車種にもありますが、絹をラテン語でいうとセリカ。英語ではシルクですが、元が同じなのか、「セリカ」と「シルク」は発音が似ています。以下は【この本からの引用】と【征野の感想】です。【この本からの引用】微粒子病という、蚕の伝染病の大流行で、養蚕業の危機にあったフランスやイタリアは、伝染病におかされていない蚕種を必要とした。両国の強い要請におされて、江戸幕府は、やむなく慶応元年(1865)に輸出を認めた。【征野の感想】微粒子病については9月17日の日記に少し書きましたが、「蚕種」については間違った知識をもっていました。蚕を幼虫の状態で輸出するものと思っていましたが、そうではなくて卵の状態で輸出していたとのこと。少し考えれば、その方が運びやすい。具体的にどうするかというと、産卵台紙に10~11万粒の蚕卵を産みつけたもの、これを蚕種紙(たねがみ)というそうだが、これを輸出していたとのこと。1867年の日本の輸出を見ると、生糸が43.7%、蚕卵紙が19.0%となっている。おそらく「蚕卵紙」と「蚕種紙」は同じ物だと思うが、当時の蚕卵紙の輸出はブームだったとのこと。これも少し考えれば当然のことで、微粒子病の流行が収まれば必要がなくなるわけで、数年でこのブームは終わったとのことです。【この本からの引用】(アメリカの絹業は第一次)大戦景気と共に上昇し、消費生糸量は開戦当初の26万俵から1923年には34万俵、27年には50万俵の大台にのせ、32年には世界生糸の88%を消費する一大生糸ユーザーになっていた。しかも、その94%は日本生糸という、日本蚕糸業とアメリカ絹業との間の密接不可分な関係が際立ってきた。【征野の感想】知らなかったことですが、ここは我が目を疑いました。これほどの密接な関係にありながらも、それから10年もせずに日米は戦争することになってしまったからです。このことは頭に入れておいて、戦争の原因を調べる機会があるならば、あわせて調べてみたいと思います。
2005/09/25
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