身近な動植物 0
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あとがきの日付が昭和43年8月13日なので、この作品は今から37年前の書かれています。この本は、副題にあるように、「ある製糸女工哀史」を書かれています。著者は1917年長野県松本市生まれの方で、平成10年3月27日永眠されているそうです。私は知りませんでしたが、『あゝ野麦峠』は映画化されているとのこと。試みに1979年の映画のあらすじを見てみましたが、原作とは異なり、「哀史」の部分に重点をおいて創られているように思いました。原作は女工たちを雇った資本家側についても立ち入った調査を行ない、製糸工場を経営する立場からも書かれています。すなわち製糸工場が成り立つためには、3本柱のどれかが狂っても駄目だと。詳しくは書きませんが、その3本柱は、糸相場・原料繭購入・工女確保です。以下は【この本からの引用】と【征野の感想】です。【この本からの引用】最近企業間の国際競争が日増しに激化するに及んで、この傾向はますます強くなっているが、実はそれは昔も同じで、ただ戦前は、生糸と綿糸紡績以外は日本商品で国際競争に加わっていたものは他にはほとんどなかったから、今まで気付かなかっただけのことである。【征野の感想】たとえば大正8年のわが国の生糸生産額は世界生産の52%、輸出では日本輸出総額の3分の1を占めていたそうです。当然ながら、生産額では世界一。ここまで大きくなるまでには並大抵のことではなかったと想像できます。戦前も国際競争で勝とうとする企業家魂があったのですね。【この本からの引用】明治から大正にかけて製糸工場に働いたこれらの工女はだいたい次の型に分けることができる。【征野の感想】その型とは、優等工女・普通工女・不適格者・病弱型脱落者・情緒的脱落者・企業戦犠牲者の6つ。何やらすごい分類ですが、少し考えれば分りますが、やはり工場で働くには向き不向きがあったとのこと。現在のように適性がないとわかっていれば、最初から工場で働かなければいいのですが、当時はそういう状況ではなかった。口べらしになればという理由で娘を製糸工場に預けるケースも多いし、工女不足は深刻でとにかく人手が欲しいという時代だったようです。ここに「哀史」が生まれる必然性があります。上記の不適格者とは、「体はいたって丈夫で、無理は平気であるが、生まれついての無器用さ、どだい糸のひける人ではない」と著者はいう。もちろん、不適格者といっても、ほとんどは死に物狂いの努力により普通工女になっていくそうです。それなら退社すればいいではないかということになるが、これがまた難しい。なぜなら、契約時に前借金を親が受け取って契約年数を決めていたからです。一例ですが、実際に製糸工場で働いた経験がある方は次のように話されています。「ワシは前借300円、7年契約で山一製糸へ行った。金額はいわなかったが、お前の働くことで金を借りた、辛抱してや、とトトマ(父)とカカマ(母)にその晩いわれた」現在日本の資本家と労働者の関係と比べると、隔世の感がありますね。
2005/09/24
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この本は、明治45年から昭和43年にかけての湛山の評論から数点を選び編んだものである。石橋湛山(1884~1973年)は、日本敗戦後7人目の首相である。また、『東洋経済新報』の主幹(社長兼編集長)を務めた方である。ためしに東洋経済新報社のホームページを見てみると、間違いなく石橋湛山が出ています。なお、株式投資家なら絶対に知っている『会社四季報』は、この東洋経済新報社が発行しています。以下は、【征野の感想】と【この本からの引用】です。【この本からの引用】我が国民の神経を尖らしつつあるいわゆる人口問題の解決に関係があるだけに、この論点は、相当主張する人が多いかと思う。しかしこれもまた吾輩を以て論ずるに、事実を明白に見ぬ幻想である。【征野の感想】この評論は1921年に書かれたもので、「大日本主義の幻想」と題されています。さて、当時の日本は人口増加が続いており、これに危機感を持つ人もおられたようです。たとえば8月7日の日記に書いたように、北一輝の『日本改造試案』(1919年)によると、「我が日本亦五十年間に倍せし人口増加率によりて百年後少なくも二億四五千万を養ふべき大領土を余儀なくせらる」などと書かれています。日本の人口増→海外の領土を獲得→移民という流れの「大日本主義」に対して、湛山は「小日本主義」を主張されました。「小日本主義」とは、領土を獲得しなくともやっていけるというもの。驚くことに、「朝鮮・台湾・満州を棄てる、支那から手を引く、樺太も、シベリヤもいらない」と書かれている。戦後そのとおりになってしまったので、何やら予言されていたように思えてしまう。【この本からの引用】18世紀の中頃に、英国で初めてハーグリーヴスという者が、8本の錘を具えた機械を発明しまして、1人で同時に8本の糸を紡げるようにいたしました。【征野の感想】イギリスの産業革命に関する部分である。この辺は勉強不足でよくわからないが、今までは1本の糸を紡いでいたのが、8倍になったという大きな変革だったとのこと。繊維関係のことは、最近興味を持ち出したところなので、もっと勉強したいところです。
2005/09/18
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この本は、1934年生まれの著者(当時は文化女子大学教授)により、1992年頃に書かれました。著者は当時58歳位でした。衣食住のそれぞれに生活をつけると、衣生活、食生活、住生活となります。このうち「衣生活」というのは、なぜか聞き慣れない。ちなみに検索サイトでヒット数を調べてみると、食生活が877万件、住生活が34万件、衣生活が10万件でした。なるほど、これでは聞き慣れないわけです。この本を読もうとしたのは、最近興味をもっている明治から昭和にかけての繊維について書かれているからです。特に生糸についての興味はつきない。明治時代の外貨獲得のための主役は生糸であり、もし日本に生糸がなければ、軍艦や武器を購入して強国にのしあがってきた日本の歴史が変わったものになったと言われています。悲観的に見るならば、独立国としての日本はなくなっていたかもしれない。それほど重要な輸出品でした。以下は【この本からの引用】と【征野の感想】です。【この本からの引用】皇居内では、いまでも「蚕」を飼育し、絹を産出しているのである。【征野の感想】皇居内には「紅葉山御養蚕所」があり、ここで養蚕の作業をされているようです。詳しくは、こちらをご覧下さい。生糸に興味をもつまでは全く知らなかったことで、あらためて生糸のすごさを感じました。【この本からの引用】その原因は、欧州一帯の養蚕地での蚕の「微粒子病」であった。そのために、蚕種も生糸も輸出することになったのである。【征野の感想】このきっかけにも驚かされます。もしも、「微粒子病」が流行らなかったら、これまた歴史が変わっていたに違いありません。欧州に「微粒子病」が流行ったために、日本が蚕種や生糸を輸出できるようになったわけです。そうなると、蚕種や生糸は何でも売れるというので最初のうちは良かったが、次第に日本の輸出品は「粗製濫造」との悪評が立つようになってしまった。そこで、富岡製糸所を造ることになったのですね。これは1872年のこと。この富岡製糸所は官営でしたが、三井家に払い下げ(この言い方変だよなあ)となり、現在は片倉工業の所有となっています。なお、1987年に閉鎖されたので、現在は操業されていないと思います。詳しいことは、片倉工業のホームページをご覧下さい。
2005/09/17
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1984年に発行されたこの本は、11人の著者がそれぞれの視点から、吉田松陰(1830~59年)について書かれています。吉田松陰というと名前は聞いたことがあるが、なぜか詳しいことは知らない。それもそのはずで、戦後の教科書から消された代表的な人物であるからです。戦前の修身の教科書には、どのように書かれていたか。一例を挙げると次のとおりです。「松陰は外国の事情がわかるにつれて、我が国を外国に劣らないやうにするには、全国の人に尊王愛国の精神を強く吹込まなければならないと、かたく信じて、一身をささげて此の事に尽くそうとしました」松陰は天皇中心の正当性や忠君愛国の根拠をもたらした人物に祭りあげられたと言えます。さらに昭和16年から敗戦までは、国民教育の理想像にまで高められました。はっきり言えば、戦前戦中の一時期、松陰は利用されたということです。以下は【この本からの引用】と【征野の感想】です。【この本からの引用】伝馬町牢屋敷の故地は、中央区日本橋小伝馬町1丁目の十思小学校および十思公園の周辺に相当し、「松陰先生終焉の地」と辞世(身はたとひ武蔵の野辺に朽ぬとも留置まし大和魂)を刻んだ石碑がある。【征野の感想】今年の8月15日にこの終焉の地を訪ねてみましたが、訪れる人は滅多にいない感じでした。石碑の文字は見えませんが、写真を載せます。この辺りにあった伝馬町牢屋敷の刑場において、松陰は首斬り浅右衛門の降りおろす刀に最期をとげました。享年は30でした。【この本からの引用】その間、兵学者の目で、ペリー艦隊をとっくりと観察したことは言うまでもない。幕府の役人がアメリカの国書を受けとらされる場面も、怒りをもってみとどけた。【征野の感想】松陰はペリーが浦賀にやってきた時に、艦隊を見ていたのですね。1853年のことなので、松陰が23歳頃のことです。これがきっかけとなり松陰は密航を決意するのですが、たび重なる失敗で志を果たせませんでした。松陰のやり方はいつも正々堂々としており、まさに至誠の人という感じがします。この時の密航というのも、米士官に信書を手渡し正面から交渉するというものでした。まあ、密航が至誠というのも変ですが、いても立ってもいられなかったのでしょう。
2005/09/11
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『女工哀史』は、1925(大正14)年に細井和喜蔵(ほそいわきぞう)により発表されました。細井和喜蔵は、13歳の春に機屋の小僧になったのを振り出しに、約15年間にわたり紡績工場の男工でした。この本は、紡績工場の女子工員に対する搾取の実態を伝えていると言われています。女工に対する低賃金・苛酷な労働条件・劣悪な寄宿施設と粗末な食事等に加えて罰金制度や強制貯金を課せられる毎日の生活。現在の日本の労働条件に比べると、地獄といっても過言ではないでしょう。以下は【この本からの引用】と【征野の感想】です。【この本からの引用】さて寄宿舎の構造は大体どんな風に出来ているかと言えば、、先ずいずれの工場に行っても逃亡を防ぐために全然一つの城郭をなしている。【征野の感想】働く場所は「工場」、生活する場所は「寄宿舎」ですが、この工場と寄宿舎は同じ敷地にあるのが普通であったようです。生活する場所と言っても、実際には寝るだけの場所であったと思われます。城郭と著者が書く根拠は次のとおり。「全国約半数の工場は人工的にお城のような濠のような塀をつくり、または寄宿の裏が河、海、沼等に当たる場所へ持って行って建設されている」と。これだと刑務所と変わりませんね。【この本からの引用】親に甲斐性(かいしょ)がない故に/親に甲斐性はあるけれど/わたしに甲斐性がない故に/尾のない狐に騙されて/朝は4時半に起されて/一番なったら化粧して/二番ふいたら食堂へ/三番なったら工場にて/主任工務に睨まれて/・・・【征野の感想】これは著者が蒐集した女工小唄の一節です。どんなに辛い環境でも、いや辛い環境だからこそ、思いを歌にしたのだと想像します。この小唄の「尾のない狐」は、募集人のことと思います。要するに工場で新たに働く女工を集める人です。甘言を使って集めたのでしょう。「一番なったら」というのは、笛か何かが吹かれたのでしょう。これも想像ですけど。ともあれ、大正時代では「長時間労働」であったことは間違いないですし、24時間監視されていた生活と言えそうです。
2005/09/10
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2004年4月に発行されたこの本は、昭和恐慌(1930~1931年)とその前後の日本経済を、歴史的、理論的、実証的に分析したものです。なぜ昭和恐慌の研究かというと、1990年代半ばから続いているデフレから脱却するための経済政策を考える上で、昭和恐慌の研究は有益だと考えたからだとのこと。9月1日の日経新聞に、この本の著者である岩田規久男氏による記事が掲載されていました。氏の持論は、「インフレ目標政策の導入によりインフレ率を長期的に2~3%程度に安定させる必要がる」というものです。なるほどと納得させる力がある考え方だと思いますが、どうも最近はデフレ懸念が払拭されそうな感じになっていると思います。あくまでも、普段私が感じているだけのことですが。以下は、【この本からの引用】と【征野の感想】です。【この本からの引用】この際、旧平価による金解禁を断行することによって、「財界」を一挙に整理・淘汰するという明確な方針が、ライオンと渾名されるほど重厚な浜口雄幸首相の口から発せられると、国民の多くは「緊縮」を合言葉に「勤倹」に精を出していけば、必ず「皓々たる光明」が見えてくると信じた。【征野の感想】当然ながら、この本では浜口・井上のデフレ政策に批判的です。しかし、この引用部分は、小泉政権が誕生した時の状況に酷似しています。先行きが見えない時、人々は英雄待望論的な考え方を抱くようになってしまうもののようです。【この本からの引用】高橋是清は、1935年には昭和恐慌から完全に脱出し、経済は安定軌道に乗ったと考え、軍事支出の増加を要求する軍部との妥協を拒んだため、36年の2・26事件で凶弾に倒れた。【征野の感想】実に難しいです。高橋是清は井上蔵相のデフレ政策を大転換させてインフレ政策を採り、景気を回復させました。例えば、1931年12月~36年2月までの区間で、株価は70%の上昇、地価は下げ止まって1%の上昇とのこと。株式投資家のにこやかな顔が目に浮かぶようです。膨張したものを戻すことの難しさ、小泉首相が「命をかけて」郵政民営化に取り組むというのも、時代が違うとはいえ、誇張とは言いきれないでしょう。
2005/09/04
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1993年に発行されたこの本は、タカジアスターゼやアドレナリンの発明をされた高峰譲吉(1854~1922年)について書かれています。高峰譲吉について詳しいことは、高峰譲吉博士顕彰会のHPをご覧下さい。以下に【この本からの引用】と【征野の感想】を書いてみます。【この本からの引用】どこの家にも、「タカ・ジアスターゼ」の箱があったといっても過言ではない。戦争中の救急袋の中にも、「アカチン」と共に入っていたことを思い出す。【征野の感想】「タカ・ジアスターゼ」とは何かというと、三共株式会社によって販売されている胃腸薬とのこと。そこで三共のHPの中の三共の歩みをのぞいてみると、しっかりと書かれていました。それによると、「タカヂアスターゼ」は三共株式会社の登録商標とのこと。深入りはしませんが、三共の登録商標では、「ジアスターゼ」ではなく「ヂアスターゼ」のようです。ここでは、胃腸薬「タカヂアスターゼ」の写真を見ることができます。私の年齢は40代前半ですが、さすがに「タカヂアスターゼ」というのは今まで知りませんでしたね。最も、「アカチン」には子どもの頃に、しょっちゅうお世話になっていましたけど。【この本からの引用】高峰譲吉の名は薬品関係の世界では知られているが、一世紀も過ぎた今では、すっかり忘れられている。【征野の感想】確かにそのとおりです。【この本からの引用】動産・不動産を含めて高峰譲吉の残した財産は3千万ドルといわれる。現在の価格にすると、約6兆円に相当する財産が、どのようになっていくのか、興味のあるところである。【征野の感想】著者は6兆円の遺産に興味をもちましたか。確かに興味をひかれます。高峰譲吉はアメリカ人と結婚し、アメリカに帰化し、ニューヨークで没しました。要するにアメリカで生活していたのですが、住居は想像を絶するほどの豪華趣味であったらしい。高峰は、松風殿と命名された御殿をこよなく愛したようです。そのような生活でしたが、著者は次のように詩的に書かれています。「富と名声の象徴である松風殿の中でくりひろげられる人間模様は、しだいに色を濃くしていった。その陰影は長く尾を引いていく」と。さらに、「陽の当たる時間は短く、絢爛にして、もろい一輪の花なのだ」と。
2005/09/03
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1995年に発行されたこの本は、黒船襲来以降の日本経済における14件の事件を書かれています。著者は、1949年東京生まれの経済学博士です。今回の感想文は、1927年の金融恐慌から1932年の景気回復過程に入った頃のことを、【この本からの引用】と【征野の感想】という形で以下に書きます。【この本からの引用】「みんなが需要がなくて困っている。青息吐息なんだ。そういう時に、政府が緊縮緊縮、節約節約とお金を使わなかったら、ますますみんなが困る。どうせ持っているお金なら使え、ためこまないで使え、料亭へ行って遊ぶのでもいい」と彼は話しています。【征野の感想】これは、犬養内閣の蔵相だった高橋是清の言葉です。「デフレの貧乏神」と一部で評された井上準之助前蔵相の次の蔵相のこの言葉、正反対の考え方に、まずは人間の面白さを感じます。個人のレベルでは、日本では大多数の方が収入の範囲内で生活をされていると思いますし、このデフレ的な考え方が健全であると信じられていると思われます。現に、私自身も個人レベルの考え方は、極めてデフレ的です。しかし、国レベルのことになると、そうはいかない。何とも妙に思うし、もっと長い目で見れば、石油に代表されるように資源の枯渇や環境問題など、お金を使うことにともなう負の面は座視できない問題となっていると思われます。話は高橋是清の時代に戻って、景気を良くするお金の使い方ですが、高橋のこの料亭で遊べという表現はわかりやすい例えではありますが、効果を考えると金を使わないよりはマシというところのようです。では、どこに使えば効果的かというと、もっと波及効果の大きい重工業に投入するのが良いとのこと。つまり、当時では軍備拡張が最も効果的に景気を回復する道であると。実際、犬養内閣は軍備拡張路線を推進することによって景気回復を達成しました。その後の歴史はよく知られていることです。まあ、難しいものですね、ただ思うのは、いずれにせよ、金融緩和の後には緊縮の時代がきて、その後に金融緩和が繰り返されるのは間違いなさそうだということ。【この本からの引用】物価は、1929(昭和4)年から31年に綿糸が4割以上、生糸が5割以上、米が3割以上暴落しました。【征野の感想】デフレ政策を推進した浜口内閣は、1929年7月から31年12月までです。この間に、綿糸、生糸、米が暴落したとのこと。デフレ政策を採った理由は、当時の日本経済は第一次世界大戦のバブルの影響で水ぶくれ状態であったとのこと。何やら、平成一桁時代のコピーのようです。一度騰がったものを元に戻そうとする時に現われる悲劇は、私達も経験したり、見たり、聞いたりしています。何ともドラマチックな時代に生まれ落ちたものですが、同じことが繰り返されるという経験則を思うと、この悲劇は今後も避けられないと思われます。最後に至言で締めくくるならば、「歴史が繰り返すのではない。人間が同じことを繰り返すのだ」という歴史家の言葉を挙げたいと思います。
2005/08/28
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1993年5月に発行されたこの本は、浜口雄幸内閣の蔵相として金解禁とデフレ政策を実行した井上準之助について書かれています。著者の秋田博氏は、1931年山口県生まれの元新聞記者の方です。以下は【この本からの引用】と【征野の感想】です。【この本からの引用】次に余は広瀬淡窓先生の『休道他郷多辛苦。同袍有友自相親。柴扉暁出霜如雪。君汲川流我拾薪』の七言絶句を吟じ・・・【征野の感想】これは、井上の日記の一部です。井上がある晩餐会で詩を吟じたと記録されています。井上は日田県(大分県日田市)の出身ですので、広瀬淡窓は郷土の先輩にあたります。4月16日の日記にこの広瀬淡窓の七言絶句について少々書きましたが、私にとって思い出のある詩ですので、ぐぐっと引き寄せられました。【この本からの引用】一般官吏の俸給につき年俸1200円を超えるもの、または月俸100円を超すものに対して、大体1割程度の減額を行なうことに決めた・・・【征野の感想】浜口内閣は閣議で官吏の給料を減らすことを決めましたが、結局これはたった1週間で取り止めることになってしまったとのこと。デフレ政策には賛成が多数でしたが、やはり己の給料を減らされるのは反対という当然すぎる結末になってしまったようです。この減給案の狙いは、「政府自ら実践して範を国民に示し、財政の整理、緊縮、消費節約に精進して国民経済の立て直しに役立てよう」というもの。しかし、すごい信念です。
2005/08/27
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この本はバブル経済真っ只中の1988年に発行されました。1930年生まれの著書は、当時は58歳。この本はタイトルどおりの内容で、昭和時代の経済史です。あとがきに「昭和の経済史は、壮大なドラマであった」と書かれていますように、日本が苦悩の日々を経ながらも、中進国が最先端の工業国へと変わっていく様を書かれています。日本という国を人に例えてみると、若くて貧しい時に懸命に働き、後に豊かな生活を手に入れるという立身出世的な物語になりましょう。以下は、【この本からの引用】と【征野の感想】です。【この本からの引用】昭和4年から6年にかけての日本の経済は、さながらドラマのようである。昭和6年の12月10日から13日は、大ドラマの終幕にふさわしかった。これが映画であれば、多分13日における井上の苦痛な顔と酒杯をあげる財閥首脳をクローズアップして終わるに違いない。【征野の感想】井上とは、井上準之助蔵相のこと。当時は、日本が近いうちに金本位を停止すると予想した投機家たちが、盛んに円売りドル買いをしていました。それに対して、井上は、ドル買いの資金源を断つねらいで、どんどん金利を上げ、さらにドルを売り浴びせました。金利を上げたことにより不況が深刻化していきましたが、ようやく井上はドル買いに対して勝利を収める寸前にまでこぎつけたそうな。つまり、ドル買い筋は先物ドルを買っていたので、年内に清算しなければならなかったとのこと。ところが、12月11日に内閣が総辞職してしまい、井上があと数日で勝てるという時に、新蔵相の高橋是清がただちに金輸出を禁止したとのこと。以上が粗筋ですが、詳しく書くと書ききれないのが残念。と言いつつ、実は私自身よくわかっていないので、もう少し昭和初期のことは調べてみようと思っています。【この本からの引用】昭和初期は、日本の繊維工業がイギリスを抜いて世界一の水準に達した時期であり、繊維品の輸出で獲得した外貨を軍事工業や重化学工業の育成につかっていた。【征野の感想】繊維というと、先頃上場廃止になった「カネボウ」という企業があります。昭和初期のカネボウという名門企業と比較すると、何とも今昔の感があります。当時のカネボウには武藤山治という有名な社長がいたそうですが、この経営が素晴らしかったようです。少し書き出してみると、第一級の機械設備と原料を使ってとびきりの優良品をつくること、労働者をできる限り優遇すること、内部留保を手厚くして、借入金はもちろん、増資をも極力避けるという堅実経営で、不況期のも7割の配当率を長らく維持していたとのこと。カネボウとは別ですが、当時の上り坂の繊維産業の陰には、よく知られるように低賃金、長時間労働で働いた多くの少女がおりました。それで安くて国際競争力のある繊維を作っていたのですが、当時はイギリスから、「輸出ダンピングだ」との非難が寄せられたと。また現在の中国では、昭和初期の日本と同じように安い賃金と長時間労働の結果、強い競争力を発揮しています。最近読売新聞で見たのですが、やはり地方からでてきた少女たちが中国の繊維をささえているようです。言うまでもなく、日本で生活している私たちから見ると非常に厳しい労働条件です。かつての日本と照らし合わせると、中国の経済成長は今後も続きそうです。そう思いました。
2005/08/21
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1992年に発行されたこの本は、太平洋戦争開戦時に駐米大使を務め、ハル国務長官と日米交渉にあたった野村吉三郎(1877~1964年)について書かれています。著者の豊田穣氏は1920年満州生まれの方で、元海軍軍人です。「卑怯な騙し討ち」、米国では未だにこう呼ばれる真珠湾攻撃です。開戦通告文を米国に提出するのが、攻撃開始から五十五分遅れたためです。遅延の原因は、野村吉三郎をはじめ駐米日本大使館の怠慢との見方がありますが、この本では「野村個人の怠慢とはいいがたい」と断定され、日米戦争回避に向けて懸命な努力をされた姿を浮かび上がらせています。この本を読もうとした目的は、「野村吉三郎とはどういう人物か」という多少の興味を満足するためです。真珠湾攻撃が騙し討ちか否かは私の手に余るテーマですし、かりに騙し討ちではなかったと証明できたとしても、アメリカがそれを認めることはありえません。以下に、【この本からの引用】と【征野の感想】を書きます。【この本からの引用】大正元年末に始まった桂太郎内閣打倒の民衆運動である。強引な手段で西園寺公望内閣を倒した桂のやり方に憤激した民衆は、国会議事堂を取り巻き、桂内閣の総辞職を要求し、周辺の交番や政府側の新聞社に放火などを行なった。【征野の感想】民衆の暴動で思いつくのは、1905年の日比谷焼討ち事件、1912年(大正元年)のこの暴動、1918年の米騒動など。暴動が起こる背景には、新聞や雑誌などのマスコミで政治的主張をすることが必要です。ちょっと調べたところでは、1870年の『横浜毎日新聞』の発行を初めとして、20世紀の初めまでには相当数の新聞や雑誌が発行されていたことがわかりました。【この本からの引用】その2年後、追放が解除になると、再び祖国と国民のために働きたいという意欲を燃やし始めた(75歳)。【征野の感想】これは野村吉三郎の戦後のことです。野村は元軍人として公職追放にかかっていましたが、昭和27年に追放が解除となりました。その後28年には日本ビクターの社長に就任し、29年には参議院議員に当選したとのこと。議員生活を経て、昭和39年に老衰のため、天寿をまっとうして86歳で逝去されたとのこと。波乱ありの人生だったと見受けますが、いずれにせよ天寿をまっとうしたというのは良いことと言えましょう。人生とは不思議なものだと、改めて思います。この一言。
2005/08/20
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1988年に発行されたこの本には、日本初の女子留学生の1人として12歳のときにアメリカに渡った山川捨松(後の大山巌夫人)が書かれています。7月30日の日記で触れましたが、捨松は後に津田塾大学の設立者となった津田梅子とともに、アメリカで11年間にわたる留学生活を経験された方です。以下は、【この本からの引用】と【征野の感想】です。【この本からの引用】中でも一番危険な仕事は「焼き玉押さえ」といって、敵が打ち込んできた砲弾が破裂する前に濡れた布団や着物で弾を覆いかぶせ、爆発をふせぐ仕事である。捨松の義姉で大蔵の妻とせが、身体に数箇所の傷を受け悲惨な最期をとげたのも、この「焼き玉押さえ」をしていたからであった。【征野の感想】会津生まれの捨松が8歳の時、1868年に会津戦争となり、捨松は母姉とともに鶴ヶ城に篭城しました。その時の体験を書かれた箇所です。城中では「焼き玉押さえ」という命がけの戦いが繰り広がられていたのは衝撃的です。捨松が44歳の時に、会津戦争時を振り返って書いた文章に「サムライの娘」としての覚悟が書かれています。それは次のとおりです。「毎日のように、大砲の弾が私達の頭をかすめ、お城の中に落ちてきました。その弾を拾い集めて積み上げておくのも私の仕事の一つでした。母、姉、義姉そして私はいつでも死ぬ覚悟は出来ておりました。怪我をして体が不自由になるよりも、死を望んでいました。ですから、私達はいつも母と約束をしておりました。もしも、私達の中で誰かが重傷を負った時には、武士の道にならって私達の首を切り落として下さいと」【この本からの引用】あなたが喜んで絹を受け取ってくださることを望みます。どのような絹をお望みなのかお知らせください。【征野の感想】これは、捨松の兄健次郎がベーコン夫人(捨松は留学中にベーコン家で生活をしていた)に宛てた手紙の一節です。1876年の手紙です。当時の日本の絹は、アメリカ人が欲しがる物だったようで、けっこう質が良いものであったと想像されます。ちょっと誇らしい気持ちになりますね。参考までに、1867年の輸出品は生糸が圧倒的で、国際競争力があったものと思われます。生糸とは、手元の辞書によると、まゆから取ったままで、まだ練っていない絹糸です。私事ですが、30年以上も前のことながら、農家である父親の実家では、蚕(かいこ)を育てていました。この蚕は蛾の幼虫なのでどう見ても虫ですが、この虫が絹を作り出すという神秘には、子供心に不思議な思いを抱いたものです。祖父母が蚕を大切にする姿を見ると、蚕がかわいらしく見えたものです。
2005/08/14
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2002年12月に発行されたこの本は、「戦間期」と呼ばれる正味14年と5ヶ月足らずの大正時代を眺めてみようという思いで書かれています。「戦間期」とは、日清、日露という2つの大戦を経験した明治時代、言わずと知れた敗戦を経験した昭和時代、この2つの激動の時代にはさまれた時代という意味です。以下は【この本からの引用】と【征野の感想】です。【この本からの引用】まず、大正4年に始まったばかりの全国中等学校野球大会、今の高校野球が4回目にして中止された。平成14年で84回を数えた大会が戦争以外の理由で中止となったのはこのときだけである。【征野の感想】1918年(大正7年)の米騒動で高校野球が中止になったとのことです。米騒動とは、米価騰貴を原因として生活難に陥った大衆暴動と言われています。高校野球が中止になったことを思うと、8月に暴動がピークになった想像できるでしょう。実際そのとおりですが、ここでは暴動が起こるまでの米価の動きを簡単に書いてみます。3月には1升20銭でしたが、7月には40銭、8月初旬には50銭に暴騰したとのこと。先頃の中国での反日デモへの参加者を募るに威力を発揮したのがインターネットと言われています。ところで、この米騒動は全国に展開したのですが、なぜかというと、当時は新聞(全国紙)が大衆に影響力を及ぼすほどに読まれ始めたため。要するに、情報の伝わる速度が上がったことに原因があるとのこと。いろいろと考えさせられる暴動です。【この本からの引用】宮崎の「新しき村」は昭和14年、ダム建設により大半が水没することになり、東京から近い埼玉県入間郡毛呂山町に別の「村」を建設、主力は移った。そして戦後の昭和33年、ついに経済的に自活できるようになった。宮崎の「村」も方も会員の手で守られつづけ、現在2家族が引きついでいる。【征野の感想】これは、武者小路実篤が建設した「新しき村」のことです。「新しき村」は1918年に創立されましたが、この「新しき村」が今でも存在していることには驚きました。実篤の著書では、「新しき村」のあり方を次のように述べています。「皆が働ける時一定の時間だけ働くかわりに、衣食住の心配をのがれ天命を全うする為に金のいらない社会をつくろうというのだ。その上に自由を楽しみ個性を生かそうというのだ」いつまでも守り続けてもらいたいものです。
2005/08/13
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1989年2月に発行されたこの本には、2・26事件の首謀者の1人である磯部浅一(1905~1937年)のことが書かれています。2・26事件は、皇道派将校が決起した大がかりなクーデターです。全貌には不明な部分があるとのことですし、事件の詳細を解明するのは、今回の私の感想文の目的ではありません。今回は磯部浅一という人物について書いてみます。以下は、【この本からの引用】と【征野の感想】です。【この本からの引用】三十二われ生涯を焼く情熱に殉じたりけり嬉しくともうれし【征野の感想】これは、磯部が銃殺刑を前にしての辞世の歌です。自分の情熱のまま行動し、国家革新のためと信じて起こしたクーデターでしたが、その辺の気持ちが詠まれているようです。当時の陸相にあてた要望書や決起趣意書によると、磯部が目指したものは、「荒木、小畑敏四郎、今井清ら皇道派の重鎮を陸相官邸に呼んで軍部独裁の布陣をしいてほしい」と訴えていました。また、「所謂元老重臣軍閥官僚政党等は此の国体破壊の元兇なり」と。はっきりしているのは、私利私欲でのクーデターではなかったということ。そして、方法はとても是認しうるものではないが、動機は極めてまじりけがなかったと思われます。ちなみに保阪正康氏の著書では、「至純なる反逆者たち」と磯部たちのことを表現しています。【この本からの引用】磯部も、この『日本改造法案』を西田から与えられ、徹底的に読破し、爾来刑死するまで己が聖書として絶対視したのである。まさに運命の出会いであった。【征野の感想】『日本改造法案』とは、北一輝の著書で、1919年に上海で執筆されたものです。現在の日本は人口減社会に入ったようですが、最近の新聞でこの『日本改造法案』の一節が抜粋されていました。それは、「我が日本亦五十年間に倍せし人口増加率によりて百年後少なくも二億四五千万を養ふべき大領土を余儀なくせらる」という部分だったと思います。つまり、北一輝の予想では、100年後即ち2019年の日本の人口は二億四五千万位になるとのことですが、これが見事に外れそうだということです。100年後を見通すことは困難なのは当然としても、当時は人口増加が当然のことであったのでしょう。戦後60年に亘り人口増加が続いてきましたが、これからは人口減少が150年続くとの見通しもあります。100年後は人口減社会しか知らない者ばかりになります。100年後を見てみたい気がしますが、残念ながらそこまで生きながらえるのは不可能です。
2005/08/07
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1993年9月に発行されたこの本は、1868年から1912年にかけての明治時代の暗殺に言及しています。一例を挙げると、1878年の大久保利通暗殺、1891年の来日ロシア皇太子暗殺未遂、1909年の伊藤博文暗殺などです。いま3例を挙げましたが、この本では暗殺未遂事件も含めて、網羅的におそらく100件以上の史実を細かく書かれています。驚愕し滅入る内容ですが、自分なりに拙い一言を書くとすれば、「変化とは人の死をともなうもの」ということです。つまり、明治維新を経て価値観が変わる時、その変化により悲哀を味わうことになった士族には、不満をもつ者が少なくなかったと言われています。その不満が暗殺に向かったと考えられます。以下は、【この本からの引用】と【征野の感想】です。【この本からの引用】日本中が、この事件で、混乱と昂奮につつまれたのは、翌12日、東京株式取引所が休業したことを見ても分る。【征野の感想】これは、1891年5月11日の来日ロシア皇太子暗殺未遂を受けて、翌日は株式市場が休業したということです。私自身が株の売買をしているので気になりました。株式市場の歴史を精査したことはありませんが、休業した日を調べてみると何か発見できそうですね。【この本からの引用】国産の道具による「ガラ紡」は没落し、紡績の機械制大工業化が始まる。【征野の感想】1882年に大阪紡績会社が設立された頃のことです。この大阪紡績は現在の東洋紡の基盤となった会社です。手元の『会社四季報』の東洋紡のページを見ると、「紡績界名門」と書かれています。ところで、紡績や「ガラ紡」とは何でしょうか?紡績とは、糸をつむぐことです。では、「つむぐ」とは?つむぐとは、「わた・まゆを錘(つむ)にかけてせんいを引き出し、よりをかけて糸にする」と手元の辞書に書かれています。要するに、糸を作ることですが、門外漢には理解が難しいです。そして、「ガラ紡」。この本には没落したと書かれていますが、実は没落などしておらず、しっかりと生きています。良い物は残ります!「ガラ紡」は、臥雲辰致(がうんたっち)により発明された日本独自の紡績機械です。ガラ紡で織られた布は吸水性・吸油性がよく、洗剤なしで食器洗いができることで最近は注目されているそうです。
2005/08/06
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1999年2月に発行されたこの本は、幕末恐慌を駆け抜けた男として、清水次郎長(1820~1893年)を書いています。著者の竹内宏氏と田口英爾氏は、ともに1930年代初めに清水市で生まれました。今に伝えられる次郎長の話では、賊軍を手厚く葬った時の「死ねば仏だ。仏に官軍も賊軍もあるものか」という言葉があります。これは、1868年幕府脱走艦咸臨丸が清水港で敗れた時に、旧幕兵の死骸を引き揚げ、手厚く葬った時の言葉です。当時は、賊軍に加担する者は打ち首であるという厳重なお触れが出ていたものだから、誰もその死骸に手をつけなかったそうです。以下は【この本からの引用】と【征野の感想】です。【この本からの引用】日本は世界最大の金・銀・銅の産地でした。金・銀・銅・漆器・蒔絵・屏風・醤油などを日本から輸出し、アジア諸国からも生糸・皮革・砂糖・陶磁器・綿布などを輸入した。【征野の感想】これは1611年頃のことですが、当時はシャムと日本がお互いに最大の貿易相手国だったとのこと。当時、日本が金・銀・銅の産出が世界一だったとは驚く。また生糸を輸入していたというが、この1611年から200年以上も後の1859年には、日本の生糸は国際競争力がある最大の輸出品になってしまうのですね。日本人が得意としていた(もう過去形かなあ)「まねる力」が垣間見えますね。【この本からの引用】金次郎は、60年に一遍は大凶作に見舞われ必ず飢饉がくるという長期循環を知っていた。【征野の感想】この本は清水次郎長に関する本ですが、二宮金次郎(1787~1856年)のことが書かれていました。金次郎は戦前の修身の教科書に出ており、小学校の玄関横に石像が立っていたといいます。背中に薪を背負い、本を読みながら歩いている像です。しかし、この勤勉性がGHQにとっては問題視されたようで、戦後の教科書からは消されてしまいました。勤勉性は忠誠心や愛国心につながるとの発想で、金次郎は危険人物と見なされてしまいました。何とも妙な話です。それはさておき、金次郎が大人になっからの農業を通しての考え方からは学ぶ点がありそうです。一言で言うと、勤勉や節約を道徳にまで高め、「報徳仕法」と呼ばれるものを作り上げました。どういうものかよくわからないので、暇を見つけて関連本を読もうと思います。
2005/07/31
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1990年に発行されたこの本には、津田塾大学の設立者である津田梅子(1864~1929年)のことが書かれています。津田梅子は、8歳(年齢は日本風数え年)の時に欧米視察の岩倉具視大使一行とともに、アメリカに渡りました。国費女子留学生5人のうちの1人として。そして、アメリカで何と11年間の年月を過ごし、1882年に帰国しました。まず興味をひいたのは、8歳の女の子をアメリカに送り出した両親がいたということ。この本では、梅子の父親・津田仙のことに触れているが、梅子に「見果てぬ夢をかけ」ていたようです。おそらく父親の意思により、梅子はアメリカに渡ることになったと推定しています。さて、梅子と一緒にアメリカに渡った国費女子留学生は5人いましたが、そのうち2人は留学後間もなく帰国。残りの2人は、永井繁子(数え年で9歳)と山川捨松(同12歳)でした。この山川捨松は後の大山巌夫人ですが、この捨松というのは妙な名前ですね。この本によると、捨松の母は幼い娘を異国へ送る切ない思い、「捨てて待つ」の意をこめて、それまでの幼名・咲子を捨松と改名して、アメリカに旅立たせたそうです。おそらく母は、アメリカに行かせたくなかったのでしょうね。以下は【この本からの引用】と【征野の感想】です。【この本からの引用】時は矢のように飛び、私は18になります。(中略)もう一度、みなさんに会いにアメリカに帰りたいとは思いますが、日本に留まって国のために役に立つ仕事をするという私の決心は変わりません。(中略)日本の女性のためにすることは山ほどあります。【征野の感想】これは、梅子が書いた手紙の中の一部です。手紙は、アメリカでの梅子の育ての親・ランマン夫人に宛てたもの。すごく愛国的ですね。梅子の成長過程が特殊なものだとはいえ、18歳前の女性が「国のために役に立つ仕事」をしたいと本気で考えていることに、深い感動を覚えます。【この本からの引用】1週間ばかりの、短い割には高くついた旅でした。外国人と一緒だといちばん高いところに泊まることになり、荷物を運ぶ人足たちは外国人と見れば騙して日本人に求める3倍もふっかけます。【征野の感想】これは、梅子が外国人と富士山に登ったときのことです。梅子も外国人と間違われたようで、3倍の値段をふっかけられたようです。最近の日本人は海外旅行に行く機会が多いので、ふっかけられる立場が多いと思います。しかし、ほんの120年前の日本では、同じことが普通に行なわれていたのかもしれませんね。
2005/07/30
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2003年2月に発行されたこの本には、日本の警察を創った男としての川路利良(かわじとしよし)が書かれています。著者は昭和7年生まれの方ですが、鹿児島県警察本部長を退官後、現在は歴史小説を執筆されているとのこと。川路利良とはいかなる人物か、まずはこの点を書いてみます。川路利良(1836~1879年)は、薩摩藩士。戊辰戦争に参加、維新後1871年に東京府大属となり、邏卒(らそつ)総長に昇進。警察制度視察のため渡欧し、帰国ののち司法権と警察権の分立を主張、警保寮を司法省から内務省に移管させた。また征韓論分裂による政治情勢の動揺に対して東京警視庁が創設されると、大警視に任ぜられ、首都治安の取締りにあたった。1877年西南戦争には別働隊を率いて参加。警察権の確立につとめ、警察制度を整えるのに尽くした。以下は、【この本からの引用】と【征野の感想】です。【この本からの引用】戦乱の時にあっては人心は荒廃する。「大久保と川路の家を叩きこわしてしまえ」という声に煽られて、甲突川の東にある大久保の家をめちゃめちゃにこわした群衆は、川路の家にむかった。【征野の感想】これは、西南戦争時のこと。西南戦争では、薩摩藩士であった3人(西郷隆盛、大久保利通、川路利良)が敵味方に分かれることになるのですが、この戦乱の時に暴動で大久保や川路の家は壊されてしまったと。更に、川路の出身地では親族7人が暴殺されたそうです。思い出されるのは、日露戦争後の日比谷焼打ち事件です。これも暴動ですが、ポーツマス会議の全権・小村寿太郎の家も壊されたと記憶しています。何時の時代でも暴動は起こりうるもの。現在の日本では、民衆に大きな不満がないから暴動は起きていないだけのことなのか。【この本からの引用】川路は刀について一家言をもっていた。「刀というものは、抜かないですますことができれば、それが最上の道というものだ。たとえ強賊逮捕の危険にのぞむも、やむをえない場合以外は、決して抜剣してはいけない」こう説諭して剣の使用を制限した。【征野の感想】この川路の考え方が、今でも生きているのですね。現在の警察の武器使用の規制によると、武器使用が許されるのは、第一は、「正当防衛」第二は、「緊急避難」第三は、警察官だけに適用されるもので、「死刑又は無期若しくは長期三年以上の懲役若しくは禁固にあたる凶悪な罪を現に犯し、若しくは既に犯したと疑うに足りる充分な理由のある者が、その者に対する警察官の職務に対して抵抗し、若しくは逃亡しようとするとき、又は第三者がその者を逃がそうとして警察官に抵抗するとき、これを防ぎ、又は逮捕するために他に手段がないと警察官において信ずるに足りる相当の理由がある場合」このように、武器は使うな、使用は慎重に慎重にせよとのこと。元鹿児島県警察本部長であった著者が語るには、「昔に比して、犯罪者が使う武器も格段に進歩し、サリンのような恐るべきものまで出現した。凶悪化する犯罪から国民を守るためにも、殉職という悲劇をくり返さないためにも、今や警察の武器使用を緩和することが必要である」と。この辺は、門外漢の私には難しいところですが、著者の主張には説得力があるように思います。
2005/07/24
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2002年10月発行のこの本には、明治から平成にかけての皇后、即ち、昭憲皇太后、貞明皇太后、香淳皇太后、美智子皇后のことが書かれています。最近でこそ、皇后の素顔をテレビ等で拝見しますが、近代のある時期まではほとんど語られることはなかったそうです。皇后に課せられた役割は、皇統を絶やさないという一点が重要であったようで、その役を果たすことができないときは、皇后の意思とは関わりなく、側室制度が用意されていたそうです。たとえば最近では、大正天皇は明治天皇の側室である柳原愛子から生まれたとのこと。つい最近のことですが、皇太子が雅子妃に関する「人格否定発言」をされました。その内容は知る由もないのですが、皇統を絶やさないという一点の重要性を思うと、このへんのことが関係しているのかもしれません。四代の皇后の中で、私が最も興味を抱いたのは、大正天皇の皇后(貞明皇后)つまり昭和天皇の生母です。貞明皇后(1884~1951年)は、公爵九条道孝の四女としてお生まれになりました。皇后時代は四人の皇子を生み皇統を守り、病弱だった大正天皇を支えられました。驚くべきは、生後7日目に、東京郊外の豪農大河内家に預けられたとのこと。5歳のときに九条家に戻ったそうですが、随分とたくましい幼年時代を送られたものです。後年の述懐によると、大河内家の子供たちと泥だらけになりながら遊び、喧嘩もし、食べ物の好き嫌いも許されないという育て方をされたとのこと。別の本によると、「大河内家は決して特別扱いはしなかった。また忙しい農家のことなので、たとえそうしようと思っても、そんなゆとりはなかった」と。以下は【この本からの引用】と【征野の感想】です。【この本からの引用】昭和12年3月、皇太子は天皇、皇后の手をはなれ、赤坂の御用地に建てられた東宮仮御所に移った。別れの日、皇后と皇太子の間に、別れて暮らす寂しさをあらわす光景があったといわれている。【征野の感想】天皇になられる方の養育というのは、一般人の理解を超えるもの。当時の皇太子(今上天皇)は3歳3ヶ月でしたが、この年齢で両親の手元を離れるとは辛いものがあったはず。当時の記憶があるがために、徳仁親王(現皇太子)が生まれた後の、昭和36年3月の記者への次の返答があったのでしょうか。「子どもとは成人になるまで共にすごしたい。それが心の安らぎです」【この本からの引用】次代の天皇への申し送りであった歴代天皇の訓誡書には、1、宮中祭祀を大切にする。2、学問に励む。3、贅沢華美を排する。4、寵臣をもたず人と公平に接する。の四点が共通しているという。【征野の感想】素晴らしい内容ですね。先祖を敬い、道を究め、質素な生活をし、公平な付き合いをせよということになると思います。天皇家が連綿と続く理由が、ここにもあるように思います。
2005/07/23
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この本は2002年8月に発行されました。著者の斎藤美奈子さんは、1956年新潟市生まれの方です。飽食の時代と言われています。最もこれは現在の日本のことを指しているのは言うまでもありません。しかし、この日本の都市住民も、60年前には食糧難を体験されました。私たちが食糧難を体験することはないように思えますが、絶対にないとは言い切れません。よって、戦時の食生活を振り返るのは、意義あることと思います。戦下の野菜とはどのようなものかを次に挙げます。オオバコ、カボチャの葉や茎、ジャガイモの葉、サツマイモの葉やツル、タンポポ、シロツメクサ、ドクダミなど。私たちが食するカボチャやサツマイモは、主食クラスの女王様的な存在だったとか。ここで、当時の都市の食生活がどのように変化したかを以下にまとめます。まず、1940年(昭和15年)には国民精神総動員法の一環として「節米運動」が始まったとのこと。週に1度の「節米デー」が奨励されたりしました。なぜこの時期に節米が必要になったかというと、1939年の旱ばつで、朝鮮が空前の凶作に見舞われたからです。当時の日本は、国内の米の生産は伸び悩んでおり、何と国内消費量の20%を台湾と朝鮮からの移入米に頼っていたそうです。1941年(昭和16年)4月には、6大都市(東京・大阪・名古屋・京都・神戸・横浜)で米の配給通帳制度が始まったとのこと。やがてこの制度は全国に広がりました。お金だけでは米が買えない時代の始まりです。1942年(昭和17年)には、小麦粉・酒・食用油・卵・魚・塩・醤油・味噌・砂糖・野菜など、配給制に移行していきました。1943年(昭和18年)になると、配給制が滞りがちになり、また食糧増産計画が進められ、米以外の主食が必要になってきたとのこと。更には、どの家庭にも菜園があるのが当たり前になってきたとのこと。この後は書きづらいので、ここまでにします。なお、明日の日記は続編的な内容で、サツマイモのことを書きます。
2005/07/17
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この本は2002年4月に発行されました。ジミーとは、戦後の一時期に、学習院の英語の教師によりつけられた明仁皇太子(今上天皇のこと)の名前です。その教師はヴァイニング夫人で、英語の授業中、生徒全員に英語の名前をつけていたとのこと。当時の明仁皇太子の年齢は13歳でした。英語を学ぶのは当然ながら戦後のことで、ヴァイニング夫人は昭和21年10月から25年12月まで日本に滞在されました。そして、平成11年に97歳でアメリカにて逝去されたとのことです。今上天皇は、平成元年8月4日に即位後初の記者会見をされました。その席では、改めて日本国憲法を守ると宣言し、国民とともに歩むことを約束されました。先頃のサイパン訪問から想像すると、今でもそのお気持ちには変わりがないように思います。以下は【この本からの引用】と【征野の感想】です。 【この本からの引用】そこで、7月に入ると、気候の温暖な沼津から、日光に再疎開することになった。(中略)皇太子も同級生と一緒に粗末な食事を摂った。授業は東大日光植物園の建物を教室のかわりに使って行なわれた。後にあまりに寒さが厳しくなると、電気ストーブのある御用邸の日本間で授業をする日もあった。【征野の感想】今上天皇にとってのサイパンとは、どのようなものだったのでしょうか。それをちょっと考えてみたいと思います。1944年(昭和19年)の明仁皇太子は11歳でしたが、まず3月13日に三里塚・皇室御料牧場に一時疎開、5月15日に静岡・沼津御用邸に疎開されました。6月15日に米軍がサイパン島に上陸すると、7月10日に日光・田母沢御用邸に再疎開されました。つまり、米軍のサイパン上陸により、沼津が空襲されるおそれが出てきたがため、安全な日光に再疎開されたのです。11歳の明仁皇太子にとって、数ヶ月で住む場所を移動する生活、親元と離れる生活は、かなり辛いものであったと思われます。当然ながら、戦争について考えざるをえない訳で、その体験は即位後の記者会見にも反映していると思われます。【この本からの引用】ヴァイニング夫人は満足だったが、もっと満足したのはマッカーサー本人だった。なにしろ日本の皇太子が、ついこの間まで敵国だったアメリカの言語を、かなりのレベルで話し、しかもそのマナーは完璧である。これ以上、はっきりとした占領政策の成功を示す例はなかなかないだろう。帰宅したヴァイニング夫人のところへ、すぐにマッカーサーの側近から電話があった。「殿下は物の見事に元帥の試験にパスされたようです。元帥は部屋から出て来るとすぐ、殿下から実によい印象を受けた、殿下は落ち着いて、まことに魅力的なお方だった、と言っていましたよ」。【征野の感想】これは、1949年(昭和24年)6月27日に、ヴァイニング夫人につれられて明仁皇太子が、マッカーサー元帥を訪問したときのことです。当時の明仁皇太子は16歳で、マッカーサー元帥と会うのは初めてでした。この前年の1948年(昭和23年)12月23日は明仁皇太子の15歳の誕生日でしたが、同日にA級戦犯の死刑が執行されました。その日から半年後にマッカーサー元帥と初対面したのですが、明仁皇太子のお気持ちがどのようなものであったかを想像するのは難しいです。この本にも書かれていますが、マッカーサー元帥は皇室の次の世代をになう若者が、その資質を備えているのかどうかを、気にしていたようです。明仁皇太子のこの資質を、この本では「優れた資質」と書かれています。ともあれ、この訪問はマッカーサー元帥を満足させるもので、良かったと思います。
2005/07/16
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この本は平成16年10月に発行されました。著者の原氏は1962年生まれ、保阪氏は1939年生まれです。私的な昭和天皇に関する思い出としては、大相撲をご覧になる姿、時代は遡るがマッカーサーと並んだ写真、生物学者として顕微鏡をのぞかれる姿、玉音放送で語られる肉声など。すべてテレビや写真を通してのことで、残念ながら実際にお目にかかったことはありませんでした。この本を読み最も興味をひかれたのは、「三種の神器」に関して書かれた部分です。どなたが考えたのか知りませんが、昭和30年代の三種の神器は、電気冷蔵庫・電気洗濯機・白黒テレビ。ある個人サイトによると、少し前の女子高生の三種の神器が、名詞・ルーズソックス・PHSだったとか。ただ、このような使われ方は、あまりにも「三種の神器」を軽く見ています。と言うのは、昭和天皇にとっては、「三種の神器」を守ることと国民の命は、同等の価値か、もしくはそれ以上と見られていたようであるからです。ここで、本来の「三種の神器」を簡単に言うと、皇位継承の徴として天皇に受け継がれる三種の宝物(八咫鏡・天叢雲剣・八尺瓊勾玉)です。つまり、1000年以上にわたり受け継がれている宝物で、これがあるために天皇であるという価値あるものです。話を戻して、昭和天皇の「三種の神器」に関する思いは、1945年9月9日に当時の皇太子(現在の今上天皇)へのお手紙に書かれています。それは、「戦争をつづければ 三種神器を守ることも出来ず 国民をも殺さなければならなくなったので 涙をのんで 国民の種をのこすべくつとめたのである」という部分です。【征野の感想】伝統の重みを感じますね。これは天皇にしかわからないことなのでしょう。自分が、受け継いだもの、今後残していくもの、それを思うと、そこまで大切なものはないです。いや、残すほどの人物ではないというほうが、正確かも。しかし、残すことにあまり執着する、と言っても残せないのが本当かもしれませんが。これもどうかと思います。(大汗)最後に安岡正篤先生は次のように言われています。「すべてのものは何もかも消えていくのだ。それでよいではないか。自分は何一つ残すつもりはない。残そうと思うのは未練である」と。
2005/07/10
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この本は1996年12月に発行されました。著者の濤川栄太氏は、昭和18年東京生まれで、現在「新・松下村塾」の塾長を務めています。この本は、戦前の教科書には書かれていたが戦後の教科書には書かれていない人物について、書かれています。例えば、天照大神、平敦盛、児島高徳、北条時宗、大村益次郎、広瀬武夫などです。なぜ消されたのかというと、GHQの意図によるという。それは、日本を腰抜けの商人国家にしようという意図です。著者は言う。「自立・自律・正義の気風を喪失させ、金儲けのみに血道をあげる愚かしき日本人を大量生産してしまったのだ」と。「いいですか皆さん、株の売買ばかりしていてはいけませんよ」と聞こえてしまいますね。(苦笑)以下は、【この本からの引用】と【征野の感想】です。【この本からの引用】モンゴル人の場合は、オオカミに育てられたどころか、オオカミが直接の先祖だというのである。【征野の感想】これは驚き!日本人の祖先はイザナギとイザナミですが、モンゴル人の祖先はオオカミですか!道理で大相撲の横綱・朝青龍が強いわけです。(笑)【この本からの引用】その横井さんの心の支えになっていたのが、この言葉である。「天 勾践(こうせん)を 空しうすること莫れ、時に氾蠡(はんれい) 無きにしも非(あら)ず」【征野の感想】昭和47年、元日本兵の横井庄一さんがグアム島で発見されました。終戦から27年間、ジャングルでの孤独な自給自足の生活をされていましたが、その横井さんの心の支えになっていたのが、この言葉だとのこと。この言葉は、後醍醐天皇の忠臣であった児島高徳が、桜樹をけずって記したものです。「何とかして後醍醐天皇の復活をはたしましょう。勾践を助けた氾蠡のように、天皇をお助けする私がおります」という気持ちを伝えたものです。この言葉は、帰国して空港に降りた横井さんが言ったところ、だれも意味がわからなかったとか。戦前と戦後の変化がわかろうというものです。なお、下記の歌を先程発見しました。児島高徳という歌の詞に「天 勾践(こうせん)を 空しうすること莫れ、時に氾蠡(はんれい) 無きにしも非(あら)ず」がありました。
2005/07/09
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この本は2000年6月に発行されました。著者の河合敦氏は、1965年東京都生まれの方です。歴史は繰り返すという。すべてのことには長所と短所があり、短所が目立つようになったときに、正反対の方向に動きやすいからでしょうか。例えば、学校教育に関連したことで、学力の低下が指摘されました。これは、「ゆとり教育」の弊害と言われており、正反対の「つめこみ教育」の方向に動きやすい状況と言えるかもしれません。どちらにしても短所が目立つ時期の到来は避けられない。だから、歴史は繰り返すのでしょうか。以下は【この本からの引用】と【征野の感想】です。【この本からの引用】日本がラジオ放送を急いだのは、関東大震災でデマ流言が飛びかい、朝鮮人が虐殺されるなど、民衆がパニックを起こしたからだ。治安維持のためにも、ラジオ放送を少しでも早く開設したいという政府や民間の意向があった。【征野の感想】関東大震災は1923年9月1日、ラジオの試験放送は、翌々年の3月1日でした。つまり、震災の1年半後に試験放送が行なわれました。私の乏しい人生経験では、パニック時の人間心理を想像するのは難しい。震災時の朝鮮人虐殺事件・亀戸事件を初めて聞いたときは、全く理解できませんでした。この本を読み、ラジオ放送の開始と震災の関連を知ることとなり、まさに本のタイトルどおりの「目からウロコ」です。【この本からの引用】関東大震災を知って一番早く、なおかつ大規模に支援活動を展開したのがアメリカ合衆国だった。【征野の感想】政治的意図とは無関係の人道支援が、当時からあったことが分かります。もちろん政治的意図が全くないということはないのでしょうが。それにしても、当時の日米関係は良くなかったとのこと。その原因は、日本が中国への進出を強行しアメリカ人の感情をそこねたことや、アメリカ本土への日本人移民の急増でした。また、驚くことには、日本がその国土に進出しようとしていた中国からも、義捐金が寄せられたとか。敵対している、国交がないから、ということを理由にせず、他国が大きな災害に見舞われたとき、積極的に支援をする国際関係は、いつまでも続けたいものです。なお、著者は次のように断言されています。「今日、外国で大災害が起こったとき、『なぜ日本政府がそんなに多額の援助を当該国へ送る必要があるのか』と、行政の対応に不満を漏らす人がいる。しかし、それは違う。他国が困ったときには、ただちに手をさしのべる。それは、平和外交の基本なのである」と。
2005/07/03
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この本は1988年12月に発行されました。著者の林繁之氏は、1925年千葉県生まれの方です。以下に【この本からの引用】と【征野の感想】を書きます。【この本からの引用】夢窓国師の伝えるところによると、尊氏将軍には、常人の及ばぬことが3つあった。【征野の感想】夢窓国師(1275~1351年)は禅僧(臨済宗)です。尊氏将軍は足利尊氏(1305~1358年)のこと。手元の人物事典によると、尊氏は、夢窓国師に帰依していたそうです。さて、尊氏にあった常人の及ばぬ3つのことは次のとおりです。第一は、どんな戦場に臨んでもかつて恐れる色がなかった。第二は、決して物惜しみがなかった。第三は、誰に対してもえこひいきをしなかった。戦前の教育では、足利尊氏は国家の敵、逆賊であったとされていましたが、一人の人物として見ると、大いに学ぶべき点があるようです。尊氏のすごい点をもう一つ。それは、『如何なる酣宴爛酔(かんえんらんすい)の余といえども、一座の工夫を為さずんば眠りにつかず』ということです。つまり、宴会の後であろうとも、帰宅したら何かをつかまなければ眠りにつかないという意味らしい。安岡先生は、この尊氏の姿勢に影響を受けて、宴会が終わって帰宅した際も、必ず座禅を組んだそうです。最初は何時の間にか眠ってしまっていたそうですが、だんだんとできるようになったそうです。やる気と日々の積み重ねの大切さを教えられます。【この本からの引用】自分の傍らには常に離せない書を持っているということだ。つまり座右の書である。これを何回でも読む、いや、読まないではいられない、そういう本を座右の書というのだが、これはあるいは読まなくとも、いつも自分の傍らにはある。これだけで心が休まる。これが人間には大事なことなんだね。【征野の感想】安岡先生に関する本を読むと、読書姿勢に関することがよく書かれています。愛読書(座右の書)についてですが、たとえば、「西郷隆盛は自分の資質を練るのに、日頃から『言志四録』を読んでいた」とのこと。また明治天皇は『宋名臣言行録』を愛読されていたとのこと。現在の日本では、次から次へと本が発行されており、読書というと、1.情報を得たり知識を増やしたりする読書。2.娯楽のための読書。3.暇つぶしのための読書。とでも分類できましょうか。座右の書の大切さは、非常にわかりづらい時代です。現代の一般的な読書が軽いものであり、逆に安岡先生の読書が非常に重厚なものであると思われます。
2005/07/02
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この本は1998年11月に発行されました。著者の高松宮妃喜久子(1911~2004年)は、天皇陛下の叔母に当たる方です。以下は【この本からの引用】と【征野の感想】です。【この本からの引用】温かくやさしき母をうばひたる癌とたたかはむ命のかぎり【征野の感想】高松宮妃のお母様は、数えの43歳で癌により亡くなられました。この歌は、昭和53年の宮中歌会始の「母」というお題に寄せて詠まれました。更には、癌撲滅を終生の念願とされ高松宮妃癌研究基金を作られました。この歌は、まさに癌撲滅にかける気持ちが汲みとれますね。【この本からの引用】秩父宮様とうちの宮様と、御性格は大分違います。お兄様のほうが、勇気のある、きついところもある、利かん気の負けず嫌いのおたちで、うちの宮様はもう少し控えめの引っ込み思案、シャイな一面をお持ちでした。【征野の感想】これは、3歳違いの兄弟である秩父宮と高松宮の性格を書かれた箇所です。秩父宮(1902~1953年)は、お若い頃に、「僕は長生きなんかしたくない。50になったら死ぬんだ」とおっしゃっていたとか。当時の世相を考えると、単純には言えないかもしれませんが、豪放磊落な性格だったのでしょうか。本当に、お言葉通りの満50年の御生涯になったとのこと。【この本からの引用】はい、お芋などは、手を真っ黒にして掘りました。手に付いた芋汁に泥が付くから、なかなか落ちない。困りましたわ。【征野の感想】高松宮妃の戦後のお暮らしを書かれた箇所です。戦後は日本全体が食料難であり、高松宮妃も自給自足をめざして家庭菜園をやっていたとのこと。親近感と距離感を感じます。つまり、皇族も庶民も同じだったということに親近感を感じます。距離感というのは、食料難を知らない私たちと戦後のそれを知っている世代との距離感です。私事ですが、生まれて初めて今年、サツマイモを作っています。果たして収穫できるかどうかはわかりませんが、食料難の時代が来たときに、少しでも心配しなくていいように、サツマイモ作りを体験しておくのはいいかもしれません。ただの体験ではなく、これからも続けていきたいと思っていますが、どうなることやらです。
2005/06/26
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この本は2002年1月に発行されました。著者の稲盛和夫氏(1932年生まれ)は、鹿児島生まれの実業家です。良く知られているように、京セラを創業された方で、現在は京セラの取締役名誉会長ですが、今月の株主総会で第一線から退くとのことです。この本を読もうとしたのは、かつて私は京セラ系の企業に12年間勤めており、今回の稲盛氏の退任を機に、当時を振り返ってみたいと思ったからです。現在は退職して全く別の企業に勤めていますが、少なくとも現在の勤務先とは比較にならないくらい厳しいものがありました。それでは、以下に【この本からの引用】と【征野の感想】を書いてみます。【この本からの引用】「人間、能力は無限だ」と。そして、なんとしてもやり遂げるという強烈な願望を持ち続けることの大切さを。【征野の感想】これは、京セラを創業して間もない頃のことです。製作が難しい製品を受注し、必死になって作り上げ、納期に納入することができた時の、稲盛氏の感想です。この時の達成感は、すばらしいものだったと思います。【この本からの引用】いかにも日本的といわれようが、ひざをつき合わせての談論風発に勝るコミュニケーションはない。このときばかりは上司も部下もない。全員が心を裸にして率直に意見を出し合う。【征野の感想】これは「コンパ」について書かれた箇所です。コンパというと合コンをイメージする向きがあると思いますが、上司と部下が酒を酌み交わしながら、何でも語り合うことです。コンパは心と心が結ばれる格好の場であり、教育の場でもあるとのことです。最も難しい面があるのも事実でしょうか。豊かな時代に育ち大企業になってから入社した社員には、創業時の苦労はわかるはずもなく、コンパをするなら帰宅させてくれ、と思っても不思議ではないからです。【この本からの引用】とくに、6月17日の大空襲は鹿児島市の大半が焼け、「市民の命日」とまでいわれている。この時は奇跡的に焼け残った我が家も8月には焼失した。【征野の感想】これは1945年6月17日の「鹿児島大空襲」について書かれた箇所です。稲盛氏は当時13歳の中学生でしたが、このような体験をされていたとは知りませんでした。更に戦後のことを、稲盛氏は次のように書かれています。「老後のために苦労してためておいたお金も、インフレと新円封鎖ですぐに底をついた」と。投資のことも私のブログでは書いているので、ここは気になりました。つまり資産は分散すべきだと。こんな感想になってしまい、申し訳ないです。
2005/06/25
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この本は平成5年8月に発行されました。著者の加来耕三氏(1958~)は大阪市生まれの方です。この本では、滝廉太郎(1879~1903)とその父である吉弘の時代のことが書かれています。滝廉太郎は、「花」や「荒城の月」を作曲し、日本の洋楽の道を開いた人物です。この本を読み、廉太郎は結核におかされ23歳という若さで亡くなられたことを知りました。日本人に愛唱され続ける名曲を残すために生まれてきた人物、そう思うと、感慨深いものがあります。以下に、【この本からの引用】と【征野の感想】を少々書きます。【この本からの引用】とくにオッチョコチョイの井上がひどかった。外務大臣に返り咲いた彼は、幕末に締結された不平等条約を改正する交渉の下準備として、ヨーロッパのすべてのものを、そのまま日本へ直輸入しようと企てた。【征野の感想】井上というのは、井上馨のことです。当時は不平等条約の改正をめざすことが至上であり、一歩間違えると非常に危ない時代であったと思われます。井上馨はいわゆる「欧化政策」を推進したのですが、鹿鳴館はその最たるものと言われています。手元の別の本によると、「外国人との雑婚による人種改良論までとびだした」そうです。いま振り返れば、皮相な西洋化の方策でしかないと言えますが、当時は必死であったのだと思います。【この本からの引用】神風連制圧に活躍したのは、すでにみたように、長州系の正参謀で少佐の児玉源太郎(24歳)であり、秋月党を粉砕したのも、同じ藩閥出身の乃木希典少佐(28歳)であった。この頃、早くも“陸の長州閥”が形成されつつあったようだ。【征野の感想】不平士族の反乱と総括されているものに、佐賀の乱・神風連の乱・秋月の乱・萩の乱・西南戦争があります。ここに日露戦争時活躍された人物がでてくるのには驚きました。しかし、少し考えてみればそれほど不思議なことであるはずもなく、日露戦争は、これらの反乱の27年後位のことでした。今現在、乃木希典には興味を抱いているので、いずれは関連本を読んでみたいと思います。
2005/06/19
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この本は1996年10月に発行されました。著者の松本健一氏は、1946年生まれの方です。幕末の三舟とは、勝海舟・山岡鉄舟・高橋泥舟(たかはしでいしゅう)です。いままで私は勘違いしており、三舟とは海舟・鉄舟・南洲と思っていました。南洲とは西郷隆盛の雅号です。南洲には「舟」という字を使っていないので、少し考えれば変に思ってもいいはずです。しかし、全く疑問を抱かなかったのは、西郷があまりに偉大であるがためでしょうか。それに対して、高橋泥舟は私にとって馴染みがない人物でした。今回この本を読むことで、はじめて知ることになりました。高橋泥舟(1835~1903年)は、手元の人名事典より肝心な部分を抜粋すると、「時勢を察し鳥羽伏見の戦後には将軍徳川慶喜に恭順を説き、終始慶喜を警護した」とのことです。この高橋泥舟の生きかたですが、慶喜の警護のあと、一度も明治政府に仕官することなく引退してしまいました。主君の前将軍が世に出られぬ身で過ごしている以上、自身は官職に上り栄達を求めることはできぬという姿勢を貫き通したようです。その後は政治の表舞台に現われることもなく、書画の鑑定等で生活したようです。以下に、【この本からの引用】と【征野の感想】を少々書きます。【この本からの引用】勝海舟は「なに泥舟の人物はドーかと云うのか。あれは大馬鹿だよ。当今の才子では、あんな馬鹿な真似はするものかい」【征野の感想】これは、勝海舟が泥舟について語った部分です。「当今の才子」とは、伊藤博文や井上馨をさしているそうです。この部分の前後がどうなっているのかわかりませんが、勝海舟は泥舟のことを批判しているのではなく、伊藤や井上を批判しているようです。また、吉田松陰は伊藤博文のことを「周旋の才あり」と評しているとのこと。周旋とは、「仲に立って世話をすること。なかだち。あっせん。」と手元の辞書にあります。これも、伊藤のことをほめているようではありません。これらをもって、伊藤博文の全てを否定的に考えることはできませんが、若い時の伊藤博文に対する先輩方の評判は芳しくなかったようです。【この本からの引用】晴れてよし曇りてもよし不二の山もとの姿は変らざりけり【征野の感想】これは、山岡鉄舟が詠んだ有名な歌です。いま「有名」と書きましたが、私自身がこの歌を知ったのは、つい最近のことです。この歌は、1872年(明治5年)に宮内省の侍従に就任したとき、いろいろな批判にこたえた文章の末尾に書かれていたとのことです。つまり、鉄舟は幕臣であったのに明治天皇の侍従になったことに対して批判されました。それに対する鉄舟の偽りのない気持ちを詠んだ歌です。「不二の山」は富士山のことです。鉄舟のことをよく知らないままに、この歌を解釈します。「不二の山もとの姿」は鉄舟自身でしょうか。つまり、晴れたり曇ったりするというのは周囲の変化であり、周囲で何があろうと、自分自身は全く変わらないという泰然自若たる気持ちを詠んだのだと思います。
2005/06/18
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この本は1997年9月の発行です。著者の加来耕三氏は、1958年大阪生まれの方です。1998年のNHK大河ドラマには、司馬遼太郎の『最後の将軍』が、原作として採用されたとのこと。しかし、私の記憶にはほとんどありません。なぜかというと、当時は失業中で、大河ドラマを毎週見る余裕がなかったからだと思います。特別な能力やコネがない身には再就職は困難をきわめ、失業期間は8ヶ月強になりました。職業訓練校に半年間通いながらの再就職活動を余儀なくされたものでした。この本を読もうとした経緯を簡単に述べます。さきごろ谷中霊園を訪ねた折に、徳川慶喜の墓所を拝見する機会を得ました。鉄柵に囲われているのですぐ近くまでは行けないが、数メートルの距離をおいて眺めると、亀の甲羅を高くしたような珍しい形の墓が見えました。それで、徳川慶喜のことを知りたいと思ったという訳です。徳川慶喜のことで私が最も印象深いのは、鳥羽・伏見の戦いで慶喜は大坂城に拠っていましたが、出陣するどころか、夜半にいたって江戸に向け、大坂城を軍艦「開陽丸」で脱出したことです。自分の部下が命をかけて戦っているときに、これはないでしょう。それから、慶喜が父徳川斉昭から受けたスパルタ教育がすごいです。例をあげると、慶喜の寝相の悪さを矯正するため、枕の両側に剃刀の刃を立てさせたとのことです。そのため慶喜は、思い切り寝返ると頭や顔が剃刀で切れたとのことです。以下は気になった箇所の【この本からの引用】と【征野の感想】を少々書きます。【この本からの引用】春浅み野中の清水氷り居て底の心を汲むひとぞなき【征野の感想】この短歌は、安政の大獄を断行した井伊直弼が残したものです。凍結しているのは表面だけで、その下には温暖の泉が湧き出ているのだが、人はそれを汲みとってはくれない。そんな意味のようです。また、井伊直弼は桜田門外の変で浪士に襲撃されましたが、事前に襲撃されることを知っていたそうです。どちらかというと悪いイメージの井伊直弼ですが、この人物にちょっと興味をもちました。機会があったら関連本を読んでみたいです。【この本からの引用】文久元年(1861)年10月20日朝、和宮の輿は桂宮邸を出発した。「攘夷を実行し、幕政を改革して、公武一和の施政を行なう」よう、天皇から将軍家茂に伝達する使命を帯びての関東下向であった。【征野の感想】これは、和宮降嫁の場面です。政治的なことは置いといて、当時の都から江戸への距離を想像するとすごいものがあります。惜しまじな君と民とのためならば身は武蔵野の露と消えぬともこの短歌は、和宮が江戸へ下る途中に詠んだものです。この短歌からも江戸の遠さが感じられますが、実際にはどれ位かかったかというと、次のとおり。10月20日朝に桂宮邸を出発した後は、江戸に入ったのは12月1日とのこと。変な例えですが、現代日本の学校の夏休みと同じ位の日数をかけて、ようやく到着しているのです。この距離には、ただただ驚くばかりです。
2005/06/12
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この本は平成8年11月の発行です。南洲翁遺訓は旧庄内藩(現在、山形県鶴岡市)の藩士達が鹿児島に引退していた西郷隆盛を訪ねて教えを受け、西郷が生前に語った言葉や教訓を記録して作成したと伝えられています。つまり、南洲翁遺訓は薩摩人の手ではなく、旧庄内藩の藩士達によって刊行されました。それはなぜか。庄内藩は江戸守護職であり、京都の守護職の会津藩と、それに参加した桑名藩と並んで、幕末に徹底的に官軍と戦いました。そのために、戦後は強い処分を受ける覚悟でしたが、意外にも極めて寛大な扱いを受けました。どうしてこうなったのかを調べたところ、西郷の指示があったとのこと。という訳で、庄内藩ではあげて西郷ファンになったそうです。『「南洲翁遺訓」を読む』で、著者は「西郷の反省力」を述べています。西郷の汚点として、幕軍を戦争に引き込む為に江戸の薩摩屋敷を根城にして、相楽総三などを使って、彼らに江戸市中での放火や強盗をさせたということがあります。先程書いたように、庄内藩は江戸守護職であったので、結果として薩摩屋敷を焼き、それが鳥羽伏見の戦いに結びつきました。さらに、西郷は、後に相楽総三を使うだけ使って、火付け、強盗まがいのことをさせた人物が官軍として生き残るのは、官軍にマイナスになると考えたようで、偽官軍として死刑にしました。このことは、西郷を苦しめたようで、庄内藩に対する寛大な扱いにつながったようです。これらから思い出すのは、劉邦に仕えた用兵の天才である「股くぐりの韓信」の「狡兎死して走狗煮られ、飛鳥尽きて良弓蔵れ、敵国破れて謀臣亡ぶ」という言葉です。これはどういう意味かというと、走ることの速いウサギが死んでしまうとこれを追う必要がないから足の速い犬が殺されて煮て食われてしまう。鳥がいなくなれば立派な弓は必要ないから仕舞い込まれてしまう。敵国が破れてしまうと役に立つ家来もいらないから殺されてしまう。と、こんな意味です。こういうことは、殺されることはありませんが、サラリーマン社会でもよくあります。(笑)
2005/06/11
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この本は2004年2月の発行です。著者の伊藤ユキ子さんは、島根県出雲市生まれの方です。昨日に続いて古事記関連のことを書きます。まずは、ヤマトタケルノミコトのことです。この本では、「西のクマソタケルを征するやいなや、さっそく東国の平定を命じられるヤマトタケルノミコト、時に猛々しく、時にもの悲しく語り継がれる古事記の英雄譚」と書かれています。ヤマトタケルノミコトは粗暴であったがゆえに、父である景行天皇に疎まれ、西征を命じられます。見事に平定するも、父帝は労をねぎらうどころか、「東方の12の国の荒ぶる神や、朝廷に背く者どもを従わせて平定せよ」と今度は東征を命じられます。東征の前に、叔母であるヤマトヒメに、「父は自分に死んでほしいと思っておいでなのだろうか」と、あふれる涙をおさえられずに語ります。それでも苦労を重ねて何とか東国を平定するも、最後は疲れ果て、「倭は 国のまほろば たたんづく 青垣山 隠れる 倭しうるはし」と歌い、息絶えるという内容です。・ ・・たしかに、もの悲しいです。現代のサラリーマンの世界にも似たような話は結構ありそうですが。(・_・;)最後に稗田阿礼について書いておきます。稗田阿礼は、古事記の土台となる「勅語の旧辞」を「誦み習った」とされる人物です。この稗田阿礼が男性か女性かということで、意見が分かれているようです。以下に男性説と女性説のそれぞれについて書いてみます。今回の『神々が宿る悠久の大地 古事記の原風景』の著者の伊藤ユキ子さんは、男性説をとられています。この本からの抜粋では、稗田阿礼は「目にしたものはすぐさま言葉にすることができ、耳にしたものはしっかり心に刻みこむことができる、28歳の聡明な舎人だったと」のこと。ちなみに、舎人は、「天皇のそば近くに仕え、雑用などをつかさどる役人」です。次は女性説です。『古事記の世界』西郷信綱著(岩波新書)によると次のとおり。「阿礼を女性だと最初にいった学者は平田篤胤だが、これにたいし今日でも阿礼を男の学者と見る説がまだかなりひろくおこなわれている。(中略)平安初期の文献に稗田阿礼をアマノウズメの後なりと注してあるのは、やはり千鈞の重みをもつ。古事記の内容そのものから見ても、阿礼は女性であるに相違ない」とのこと。
2005/06/05
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この本は、1999年に「本の旅人」誌上に連載されたものです。著者の阿刀田高は、昭和10年、東京生まれの作家です。この本を読もうとしたのは、古事記について知りたかったからです。私自身は、古事記の内容についての知識はほとんどなかったのですが、今回この本と他に数冊の本を読んだところ、なかなか面白い読み物であると思いました。今日と明日の2日間にわたり、古事記の事を書いてみます。古事記は、712年に成立した、日本文学史上もっとも古い作品です。第40代天武天皇が編纂を思いつき、第43代元明天皇の時代にやっと完成したとされています。もう少し詳しく書くと、上中下の全三巻から成り立っており、上巻(かみつまき)は神の時代、中巻(なかつまき)は神と人の時代、下巻(しもつまき)は人の時代のことが書かれています。そして著者は、稗田阿礼と太安萬侶です。稗田阿礼が語り、それを太安萬侶が聴きとって漢字で書いたということです。以下は、面白かった箇所についての感想文です。まずは、天石屋戸(あめのいわやと)です。天照大御神は、乱暴な弟のことを嘆き悲しみ、天岩屋に引きこもります。しかし、外のにぎやかさが気になり、また、「あなたよりすてきな神様がいらしたからよ」との言葉につられ、わずかに戸を開けると、そこには鏡に映る自分の姿。それを、私よりすてきな神様と勘違いしてしまう。・・・神様と現代の私たちはずいぶんと似ており、親近感がわいてきます。次は、海幸彦と山幸彦です。兄である海幸彦の大事な釣針を、弟である山幸彦が失くしてしまったことから、浦島太郎的な物語が展開するのですが、これもまた面白かったです。
2005/06/04
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この本は2002年7月の発行です。著者の佐藤寛氏は、1946年東京生まれの方です。山岡鉄舟(1836~1888年)は、幕末・明治前期の剣客・政治家です。最も有名なところでは、江戸城無血開城の立役者で、西郷隆盛と勝海舟のトップ会談を実現させ、江戸を戦火から救った幕臣でした。 戦後の教科書から消された山岡鉄舟ですが、戦前の教科書には「江戸の市民も兵火の災からまぬかれることが出来たのである」と、書かれていました。鉄舟ファンから見ると、西郷と海舟を引き合わせたからこそ無血開城が実現したわけで、もしもこのプランニングが失敗していたら、日本は内乱状態になっていたはずであるとのことです。確かに、山岡鉄舟への現代の評価は低いように思えます。更には、書の達人でもあったようです。面白いところでは、あんぱんの「木村家」の屋号の大看板を揮毫されました。以下は、【この本からの引用】と【征野の感想】です。【この本からの引用】鉄舟は浴室で身体を清めて白衣に着替えた。そして結跏趺坐のまま、「静かに昼寝がしたい」と伝え、近親者以外を隣室に移し、すすり泣きが家中に響くなか、そのまま瞑目大往生した。時刻は午前9時15分。【征野の感想】これは、胃ガンだった鉄舟が大往生する様子です。武士道の体現者らしい鉄舟が見えます。すごいですね。【この本からの引用】鉄舟は生涯を通じ、人の話を熱心に聞くことによって、相手を引き付けている。けっして人より新しい思想や考え方、人より卓越した論理的戦略を口にして相手を引き付けているわけではない。もちろんその後、要職に就いているが、人をその地位で引き付けていたわけではない。いくら極貧の生活をしていようとも、なぜか人は鉄舟の周囲に集まる。相手の話を熱心に心で受け止める姿勢に、人は鉄舟の虜になるのである。このときも鉄舟は目を輝かせ、相手を見つめながら話を聞いていたに違いない。【征野の感想】なぜか人が集まってくる人物、私達の周囲にもいるはずです。私などは、人が逃げないようにするのに精一杯です。(笑)
2005/05/29
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この本は1996年12月の発行です。著者の陳舜臣は、1924年、神戸市の生まれの作家です。「十八史略」は、手元の辞書によると次のとおりです。「十七史に宋史を加えた十八史を摘録して初学者の読本とした書。元の曾先之(そうせんし)撰。元刊本二巻。明の陳殷の音釈本七巻」初学者向きと言いますが、かなりの大冊です。通読するには、中国史の素養がある程度必要です。独創性よりも啓蒙に重点を置いたもので、多くの人が「十八史略」によって中国史に親しんだそうです。日本では、現時点はともかく、江戸時代から学生の必読書とされてきたとのことです。この『小説十八史略』から、王安石(1021~1086年)に絞って書いてみます。王安石の漢詩に「鍾山即事(しょうざんそくじ)」があります。これは次のとおりです。 澗水無声遶竹流(かんすい こえなく たけをめぐって ながれ) 竹西花草弄春柔(ちくせいの かそう しゅんじゅうを ろうす) 茅簷相対座終日(ぼうえん あいたいして ざすること しゅうじつ) 一鳥不鳴山更幽(いっちょう なかず やま さらに ゆうなり)かつてNHKラジオの『漢詩への誘い』という番組で、この王安石の詩が朗読されるのを聴き、静けさの中に生活する王安石を想像し、どのような心境であったのかと色々と思いを巡らしました。王安石は、この江寧の鍾山で亡くなりました。漢詩人としての王安石は以上ですが、政治家としての王安石はどうだったのでしょうか。王安石の新法の最大の柱であった「青苗法」は、国家が農民に低利で金を融資するものでした。「健全な農民」の層を厚くすることが目的で、換言すると、納税負担をもつ農民を増やすことでした。貧農の救済により総合的は国富増強を目指していたわけです。しかし、この「青苗法」は成功しなかったようです。なぜかというと、第一に、当時の貧農がなぜ貧農であるかというと、地主や豪族が高利で貧農に貸し付けをしていたからです。当然、政府によりうまみのある仕事を失うことには反対しました。第二に、例えば司馬光は、道義論により反対しました。つまり、「国家が金貸しをしてよいものだろうか」というものです。その他にも、さまざまな理由で反対する者がいたようで、「王安石が嫌いだから反対」というのも、当然あったようです。中々、政治というのは難しいものです。
2005/05/28
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この本は1996年5月の発行です。著者の吉田ルイ子さんは、1938年生まれのフォトジャーナリストとのことです。この本も昨日の『未来を信じて 南アフリカの声』と同様に、南アフリカ関連の本ですさっそく、以下に、【この本からの引用】と【征野の感想】を書きます。【この本からの引用】南アフリカは、日本の4倍以上の面積がありますが、人口は3900万人の、広い広いアフリカの国です。【征野の感想】意外と広いですね。アフリカ大陸の南端に位置するので、それほど大きいとは思いませんでした。【この本からの引用】1994年6月、総選挙のすぐ後に南アフリカを訪れたとき、ソウェトでネルソン・マンデラ大統領が「10年間の義務教育制をきみたちにあげよう。」という演説をされました。【征野の感想】アパルトヘイト時代の教育は、白人には11年間の義務教育制度があって、黒人には1年もなくて、しかもそれが有料だったとのこと。マンデラ大統領になってからは、すべての子どもたちに10年間の義務教育が保証される制度ができたとのこと。そうはいっても、この本が書かれた1996年頃は、まだまだ学校数が不足していたようです。人種隔離政策というのは重すぎて、感想は書きにくいです。【この本からの引用】金やダイヤモンド、プラチナなど鉱物資源が豊富な近代産業国南アフリカの場合、すべての産業が都市に集中しているために、地方とくに不毛の元ホームランドでは、農業もできず、都市に出稼ぎにでる事で、生活のための現金収入を確保して、家族に送金しなければならなかったシステムが、アパルトヘイトを支えてきたのだといえます。【征野の感想】ここも重いです。白人は家族とともに生活ができますが、黒人の場合は、お父さんは単身赴任という形で、都市に働きに出て行く。残された家族は、農業に適さない追いやられた土地で生活する。感想は書けないので、ここではお父さんの言葉を書き写します。「さびしいなんていうものではありません。心をさかれるように、つらいです。毎晩寝るとき、家族ひとりひとりの名まえをいって、おやすみ、と声をかけるのです、もう20年以上それがつづいています。でも、いままで、それが南アフリカの黒人の男が働くために、支払う代償だと、教えられてきたのです。」
2005/05/22
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この本は2002年9月の発行です。著者のティム・マッキーは、カリフォルニア州在住です。南アフリカに4年間滞在し、ジョハネスバーグの多人種学校で歴史と英語の教師を務められたそうです。この本は1998年頃の南アフリカのティーンエイジャーたちにインタビューをし、それをまとめたものです。1994年にネルソン・マンデラ大統領がアパルトヘイトという人種隔離政策を終わらせましたが、その後の南アフリカの変化を、著者は目撃されています。この本を読もうとした理由は、南アフリカがプラチナの全供給量の4分の3を占める国であるからです。私自身がプラチナを投資対象としているので、この国のことをもっと知る必要があると思うからです。このような理由でこの本を手にしましたが、内容からして10代の若者を対象にして書かれた本と見受けられます。ちなみに裏表紙には、全国学校図書館協議会選定、日本図書館協会選定、厚生労働省社会保障審議会推薦児童福祉文化財に指定されるなど、内容は国からのお墨付きです。以下は、【この本からの引用】と【征野の感想】です。【この本からの引用】アパルトヘイトは、南アフリカの白人以外の人種の中にも不平等を築きました。【征野の感想】大きく分ければ、白人とその他。実際には、もっと細かな階層のある社会であったとのことです。すなわち、白人、インド人やカラード、黒人という階層で、黒人をもっとも劣った人種とみなしていたとのこと。この辺は南アフリカ史を学ばないとわかりにくいので、ここでは書きませんが、この本から教えられることが大でした。【この本からの引用】南アフリカの11ある公式言語の・・・【征野の感想】これには驚きと同時に、自分の視野の狭さを痛感しました。公式言語が11あるということですが、それは、英語・アフリカーンス語・ズールー語・コサ語・ツワナ語など。ちなみに国際連合の公式言語は、英語、フランス語、ロシア語、スペイン語、アラビア語、中国語の6ヶ国語のようです。言語をめぐる問題に私は明るくはないが、1つの国に多くの公式言語がある場合の翻訳・通訳というのは、かなりコストがかかりそうですし、どのようなことになるのか想像しにくいです。たとえば、大統領がスピーチをする時は、まあ英語を使うとしても、それをテレビ中継する際には、画面が字幕だらけになりそうな。。。これ以上書いても、想像力のなさを露呈するだけですので、もう止めます。
2005/05/21
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この本は、1982年2月の発行です。著者のリチャード・ルビンジャー氏は、現在はアメリカの大学教授をされていると思います。また、著者は1969~1972年までの3年間、日本に滞在し、英語の教師として働いていたそうです。私塾は江戸時代の教育機関の一つですが、18世紀を通じて発展したようです。都市には続々と私塾が生まれたようで、朱子学以外のいわゆる異学各派の学問をする武士たちも増加していったようです。これが、寛政異学の禁につながる遠因の一つになったと思われます。ここで、広瀬淡窓の私塾である咸宜園の19世紀当時の様子について、少し書いておきます。入塾者の平均的な姿は、16~21歳で入塾し、平均2~3年間、在塾していたとのこと。咸宜園は漢学塾ですが、蘭学を学ぼうとするにも、まず漢学的な素養が必要だったとのこと。なぜならば、蘭書を学ぶにも、蘭書が漢訳されていたからです。以下は、この本を読んで気になった箇所の【引用】と【感想】です。【引用】学問に精出すばかりでなく、賭け事に興じ、町に出ては酒も飲み、女と戯れ、また役人や市中の人びとをからかい、いざこざを起こすような存在であった。【感想】全部か全部そうではないのでしょうが、塾生といえども若者には変わりがありません。今も昔も、人間がそれほど変わるはずもなく、親近感を覚えます。こういった状態なので、咸宜園では、厳しい規則が細かに定められていたようです。一例を挙げると、「髪を不結、帯を不結して、外出並に礼謁、不可致事」「小歌浄瑠璃吟詩之類、禁之候事」などと。
2005/05/15
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この本は1992年8月の発行です。著者の多田建次氏は1947年生まれの大学教授とのことです。この本を読もうとしたのは、江戸時代の教育機関に興味を抱いたからです。以下のとおり、江戸時代の教育機関は大よそ5つのタイプに分類できるそうです。1、幕府、諸藩の学校2、郷校、教諭所3、寺子屋4、心学舎5、私塾この中から藩校について少し書いてみます。藩校で学ぶのは武家の子どもたちですが、大体7~13歳頃までに入学し、数年間在学した後、おそくとも20歳前後で退学したとのこと。入学した者は、まず四書五経の素読から学習をはじめたとのこと。その後、内容についての講釈をきき、さらに進むと、今日のゼミナールにあたる会読や輪講に出席したとのこと。また、藩校内に武道場をもうけている藩では、そのかたわら、剣・槍・弓・馬・柔術などの武芸の稽古をしたとのこと。以下は、この本を読んで興味を惹いた箇所の【引用】と【感想】です。【引用】真面目に勉強しているのは師匠の前の寺子のみ、あとはいたずらの限りをつくしている。【感想】これは、渡邊崋山の『一掃百態』という画の寺子屋の場面では、師匠の前の寺子だけが、真面目に勉強している様子が描かれているそうです。考えてみれば当たり前のことで、昔も今も勉強が好きな子どもが多いはずはないですね。(笑)
2005/05/14
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この本の発行は1989年5月です。著者の守屋洋氏は1932年生まれの中国文学者です。『大学』をはじめて手にしたのは、平成15年7月です。それが2年近くもツンドク状態だったのですが、最近になり読み終えることができました。内容自体がなじみのない語句に満ち満ちていますので、なかなか骨が折れましたが、いつまでも細部にこだわってもいられません。今回をもって大学関連の本からは、一旦距離を置くことにします。今日は『大学』の冒頭の「大学の道は、明徳を明らかにするに在り。民を新たにするに在り。至善に止まるに在り。」について書いてみます。ここは大学の3綱領と言われる部分ですが、意味は次のとおりです。第一は、人間であるからには、だれでも天から授かった立派な徳をもっている。だが、せっかくの徳も人欲によってくもらされてしまうから、そうならないように、つねに磨いていかなければならない。第二に、自分を磨いたら、こんどはそういう努力をまわりの人々に及ぼしていく。自分ひとりよしとする態度は許されない。第三に、そういう努力をふだんに継続し、最高のレベルに保つことである。この「明徳」ですが、学校名に結構使われていますね。例えば、明徳義塾中高等学校のホームページを開き、学校紹介をクリックして、校訓をクリックすると、やはり校名の由来は『大学』です。ちなみに、明徳義塾出身の大相撲の横綱の朝青龍のしこ名は、朝青龍明徳(あさしょうりゅうあきのり)です。
2005/05/08
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この本の初出は昭和49年です。著者の間野潜龍氏(1923~1981年)は、大阪生まれの文学博士でした。4月24日の日記に、次のように書きました。「昌平黌(しょうへいこう)を始め全国200有余の藩学、数種の有名私塾および万余におよぶ寺子屋に至るまで、ほとんどすべてが、朱子の四書集註を主として講義せられたとのこと。」と。江戸時代のある時期、朱子(1130~1200年)の四書集註というのは、教科書的な存在であったようです。朱子が著した四書集註とは、四書(大学・中庸・論語・孟子)の解説本です。朱子は四書の中の『大学』を最も重視し、解説本の『大学章句』を著しましたが、その辺のことを書いてみます。『大学』は章次に錯簡があり、文章にも誤脱があると朱子は考え、これを改定することにし、最初の1章を経とし、後の10章をその註釈の伝としました。1章で明徳を明らかにすること、2章で民を新たにすること、3章で至善に止まること、4章で本末、6章で誠意、7章で正心と修身、8章で修身と斉家、9章で斉家と治国、10章で治国と平天下を説明しました。ここには5章がありませんが、補うという形で5章を挿入しましたが、これは格物致知について書かれた部分です。手元の岩波文庫(金谷治・訳注)によると次のとおりです。謂わゆる知を致すは物に格るに在りとは、吾れの知を致さんと欲すれば、物に即きてその理を窮むるに在るを言うなり。蓋し人心の霊なる、知あらざること莫く、而して天下の物には、理あらざること莫し。惟だ理に於て未だ窮めざること有り、故にその知に尽くさざること有るなり。是を以て大学の始めの教えは、必ず学者をして、凡そ天下の物に即きて、その已に知るの理に因りて益々これを窮め、以てその極に至ることを求めざること莫からしむ。力を用うることの久しくして、一旦豁然として貫通するに至りては、則ち衆物の表裏精粗、到らざること無く、而して吾が心の全体大用も明らかならざること無し。此れを物格ると謂い、此れを知の至ると謂うなり。【感想】朱子の言うところの窮理の精神は、現在の日本でも生き続けているように思います。資源のない日本がこれだけ国になれたのは、物づくりに秀でた職人気質の国民性にあると、よく言われることです。物事を、とことん窮めようとの精神は失いたくないものです。
2005/05/07
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この本は2002年6月の発行です。著者の富増章成氏は、1960年生まれの方です。この本の15章では、朱子学と陽明学について書かれています。この章を読んで思ったこと、特に朱子学について書いてみます。朱子は既に唱えられていた「理気二元論」の影響により、万物は理と気とからなると考えました。例えば、目の前の鉛筆は、鉛筆の「理」とその材料としての「気」によって成り立っていると。もちろん、人間も「理気二元論」からとらえられるとしました。即ち、天からの本質としての「本然の性」を与えられていると。これを「性即理」といいます。そして、「本然の性」は善そのものであるので人間の本質は善であると考えました。しかし、これは「気質の性」によて濁らされているために悪をおこなってしまうと考えたのです。何だかわからなくなってきましたが、「本然の性」=「理」で、「気質の性」=「気」ということでしょうか。(汗)そこで、人間の本質たる善を発現するためには、「居敬窮理」が大切であると朱子は説きました。「居敬」とは、心をあれこれと散らして奪われている態度をあらため、常に心を注視して感情の激動を抑え、「本然の性」を守るということです。「窮理」とは、儒学の経典を読むことにより、「理」を窮めていくことです。こうやって書いてみても、よくわかりません。王陽明先生も、竹の「理」を窮めようとしましたが、果たせずに病気になってしまわれたのですから、考えすぎるのは良くないです。(^_^;)
2005/05/01
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この本は昭和61年10月の発行です。著者の守屋洋氏は1932年生まれの中国文学者です。近思録は中国南宋の朱子と呂祖謙が共同で編纂して1176年に刊行したものです。内容は、北宋の4人の哲学者のことばから、学問に志す人にわかりやすく、かつ修養になるものを選び出してまとめたものです。日本では、朱子学の入門書として、江戸時代から広く読まれてきた古典です。『「近思録」の読み方』を読んで最も惹かれた箇所は、読書法を書かれた部分です。それは、近思録の致知篇に次のように書かれています。「書は多く看るを必せず。その約を知らんことを要す。多く看てその約を知らざるは書肆のみ。」現代語訳では、「必ずしもたくさん読む必要はない。肝心なのは、書かれているポイントをつかむことである。数だけこなしてもポイントをつかまない読み方をしていたのでは、本屋のおやじと同じだ」というのです。これは反省させられますね。日々多量の本が出版される今日、私を含めて、一冊の本を熟読玩味する習慣をもつ方は少ないのではないでしょうか。時には1冊の古典とじっくり格闘する時間を持ちたいものです。近思録が刊行された当時は12世紀ですが、当時の読書法の主流は、古典を繰り返し読み、そこに説かれている教えを心に刻みつけるものでした。2月27日の日記に書きましたように、安岡正篤先生も同様に説かれています。更に、読書を3つの段階に分けています。即ち、1、内容を熟読玩味する。2、心に刻みつける。3、実践して会得する。最も実際には、ここまで理想的な読書は簡単ではないと思います。そして何よりも、今からでは遅すぎるという問題があります。(笑)本来は、自己形成の過程で実践するべきことですから。ただ、それを言ってしまってはどうにもなりません。せめて少しでも、理想とする人物に近づけるように修養したいものです。(汗)
2005/04/30
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この本は昭和46年の発行の、四書(論語・孟子・大学・中庸)のうちの一つである『大学』をわかりやすく説明された注釈書です。著者の諸橋轍次氏(1883~1982)は、新潟県生まれで主著に『大漢和辞典』があります。この本が発行された昭和46年には、著者は88歳位です。著者は99歳に老衰でお亡くなりになったという大往生でした。諸橋轍次氏に興味を抱かれた方は、新潟県南蒲原郡下田村のホームページの「漢学の里」をご覧下さい。『大学』は儒教に関する経典で、学問の目的を明示し、その目的を達成する方法を、簡明にまとめています。『大学』には、三綱領八条目があります。三綱領とは、明徳・親(新)民・止至善です。八条目とは格物・致知・誠意・正心・修身・斉家・治国・平天下です。私の中途半端な理解では三綱領八条目の解説は困難ですし、あまりにも長くなりそうですので、ここでは詳しくは書きません。一つだけ問題点となったことを書いておきます。それは、『大学』の本文には、「知を致すは物に格るに在り」という部分の説明が欠けており、このことが後々に王陽明先生により陽明学が創始される遠因になったということです。私達が儒学と言っているのは、だいたいが南宋の朱子による朱子学を指していますが、朱子は、「知を致すは物に格るに在り」を次のように解釈しました。いわゆる「知を致すは物に格るに在り」とは、われの知を致さんと欲すれば、物についてその理を窮むるにあり。この調子で書いていると切りがないので、この先はまたの機会にします。以下は、この本を読んで気になった箇所の【引用】と【感想】です。【引用】四書という書は、・・・徳川時代などはすべての人々の必読書となった観があり、・・・【感想】四書が必読書とのことです。一体に徳川時代の学校というか、教育はどうなっていたのだろうという疑問を持ち続けています。私自身の怠慢もあり、なかなか調べないのですが、この本に少し書かれていました。昌平黌(しょうへいこう)を始め全国200有余の藩学、数種の有名私塾および万余におよぶ寺子屋に至るまで、ほとんどすべてが、朱子の四書集註を主として講義せられたとのこと。なるほど、四書が必読書というのも頷けるような気がしてきました。
2005/04/24
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この本は昭和63年6月の発行ですが、書かれている内容は、安岡先生が昭和15~19年にかけて書かれたか話されたことをまとめたものです。当時の安岡先生の年齢は42~46歳でした。この本のまえがきである「新版刊行に当って」にありますように、この本は「今日の厳しい国際社会の中に立つリーダー達に痛切な示唆を与える35篇を収録し」たものです。よって、私のようなものが読んで感想を書くのは、いささかおこがましい気もします。私などと異なり、安岡先生の著書を読まれるリーダーは政治家にもおられます。経世瑣言を検索したところ、例えば、代議士の中川秀直氏の公式サイトにも、この本から引用された部分がありました。以下はこの本を読んで気になった箇所の【引用】と【感想】です。【引用】「我々の親たちは常々人を評しては腹が出来ているとかおらぬとかいったものである。ところが我々の代になって、しばらくこの腹ということがあまりいわれずに、頭が善いとか悪いとかいうことが人を評する標準になっていた。この頃世の中の窮迫が深刻になって、その匡救が真剣に策せられると共に、またこの腹がという言葉が次第に耳に入るようになってきた。」【感想】まず、この本が書かれた昭和15~19年は戦中です。安岡先生の親の代というと、安岡先生の生まれた1898年から計算すると、幕末から明治の初めに生まれた方々に該当すると思います。この「腹が出来ている」という人物を評する言葉ですが、少なくとも私自身の回りでは全く使われていません。いいのか悪いのか判然としませんが、時代の流れを感じます。【引用】二宮尊徳と合せて皆さんにお勧めしたいのは、千葉の大原幽学という人です。【感想】大原幽学記念館が千葉県にありますが、私は近くの道路を何度となく車で走りましたが、そこに入ったことはありません。私自身千葉県生まれの千葉県育ちですが、知っているのは大原幽学の名前だけです。ちょっと恥ずかしいですね。大原幽学は、江戸後期の農民指導者ですが、安岡先生は、藤樹・尊徳・幽学の3人を郷学3先生と評されています。郷土に素晴らしい人物がいたのは、嬉しいものです。
2005/04/23
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この本は平成4年11月の発行です。著者の岡田武彦氏は1908年生まれですので、安岡先生よりも10歳年少になります。3月27日の日記に、『王陽明』安岡正篤(MOKU出版)の感想を書きました。自分自身の知識不足のため、『王陽明』を全く理解できなかったので、今回は陽明学の勉強をしようということで、この本を手にしました。まあ、まだまだですね。陽明学は明代の中国で起こったわけですが、清代になってからは識者が陽明学を批判したため、中国では衰退しました。しかし、日本で陽明学の花が咲いたとのことです。その理由は以下のとおりです。日本に陽明学が入ってきたのは、徳川幕府の時代でした。そもそも陽明学というのは朱子学を批判する形で登場したのですから、本来ならば、朱子学を官学としていた徳川幕府は、陽明学を弾圧しても良かったはずです。しかし、弾圧するようなことをしなかった、つまり儒学全般に対し、非常に包括的であったとのことです。以下はこの本で気になった箇所の【引用】と【感想】です。【引用】私が静坐に関心を持つようになったのは、今から20数年前のことである。それ以来静坐が人間の主体性の根底を培うに欠くべからざるものであることを痛感するとともに、・・・・【感想】この静坐ですが、これがよくわかりませんでした。読み方は、「せいざ」です。同じ読み方をする正坐とは違います。手元の辞書によると、正坐は「姿勢正しく、足をくずさずにすわること」で、静坐は「心身を安定させて、静かにすわること」であると。この本では、静坐で必要なのは、「腰骨を立てて座ること。身体を静かにして心を自然に静まるのをまつ。心を静かにしようとしてはならない。」とのこと。静坐がわかるまで、まだまだ時間がかかりそうです。
2005/04/17
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中学時代の恩師に教わった言葉に、「君は川流を汲め 我は薪を拾はん」があります。この言葉を黒板に書かれ説明をされましたが、当時の私には表面的な意味がわかるのが関の山。広瀬淡窓の言葉であると教わったと思いますが、全く思い出せません。ただ、この言葉だけが、いつまでも消えずに私の記憶の中で生き続けています。恩師はこの言葉を通して、クラスの皆で協力することの大切さを教えたかったのだと思います。安岡先生の著書を読んでいると広瀬淡窓が時々出てくるので、もう少し広瀬淡窓について知りたいと思い、このたびこの本を読んでみました。さて、「君は川流を汲め 我は薪を拾はん」の出典は、広瀬淡窓の「休道詩」(きゅうどうし)と称されている次の七言絶句の第4句です。休道他郷多辛苦同袍有友自相親柴扉暁出霜如雪君汲川流我拾薪広瀬淡窓は私塾を開いていたましたが、諸国から勉学に集まった門人たちの、故郷を遠く離れた寂しさと、お互い同志の慰め合い、助け合いの生活が展開していく状況を詠まれています。
2005/04/16
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晩年の安岡先生は、折にふれて「わが畢生の仕事として、古今の文献を渉猟して、東洋宰相学を書き遺したい」と洩らしておられたそうです。もう少し詳しく書くと、「東洋宰相学」、「東洋人物学」、「禅と陽明学」の3部作を書き遺したかったとのことです。しかし、この望みは叶わずに他界されたため、安岡先生のお弟子さんが昭和23年に刊行された安岡先生の『政治家と実践哲学』の一部を改めたものを、『東洋宰相学』と改題して刊行されました。この本は、以上のような経緯で、昭和63年に発行されました。この本では、清末の哲人政治家・曽国藩(そうこくはん 1811~1872年)について書かれています。安岡先生と交流があった蒋介石(1887~1975年)も、非常に曽国藩を尊敬していたそうです。曽国藩は15年にわたる太平天国の乱の鎮圧に功績を挙げましたが、軍陣から子にあてた手紙の内容には、非常に感銘をうけました。一部を以下に書き写します。「父は官に仕えること20年になるが、別段宦官の気習にも染まず、飲食起居みな昔のごとく寒素で、倹は家風である。それでも衣食には十分である。贅沢は決してしない。官吏と謂うものは贅沢になるのは何でもないが、一度贅沢しておったものが再び倹約に返るのは容易なことではない。お前はまだ年が若いのであるから、今から贅沢の習慣をつけてはならぬ。怠惰の習慣をつけてもならぬ。何の事にかかわらず贅沢と怠惰とで破滅せぬものはない。お前は朝も早く起きて読書習字につとめ、祖先以来の名を辱しめぬ人物になる修養を積みなさい」こういったことを書かれているわけで、哲人政治家といわれるのも最もかなと思われます。私がこの手紙の中で特に惹かれるのは、「贅沢と怠惰とで破滅せぬものはない」という部分です。
2005/04/10
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この本は2003年4月10日の発行です。著者の李登輝氏は、1923年生まれの元台湾総統(12年間)で、安岡正篤先生(1898~1983)よりも、25歳年少になります。安岡先生と台湾の関係では、蒋介石(1887~1975)と交流があったようです。たとえば、戦後に安岡先生は占領軍による逮捕者リストに入っていたそうですが、蒋介石が、安岡先生ほどの碩学を戦犯指名するのは間違いだとアメリカを説得して、戦犯リストから外させたとのことです。李登輝氏は新渡戸稲造氏に私淑してきたそうです。新渡戸稲造氏は旧5000円札の肖像の人ですが、私も含めて多くの日本人には、いまひとつ知られていない人物と思います。今回は、この新渡戸稲造について、少し書いてみようと思います。新渡戸稲造(1862~1933)は武士の出身で、妻はアメリカ人のメリー(1857~1938)です。著書に、『武士道』(1900年)がありますが、当初は英語で書かれたそうです。これの翻訳書が日本に出たのが1908年とのことです。なお、武士道という言葉が一般的になったのが明治時代の後半らしいので、この『武士道』が影響を与えたものと思います。「武士道はその表徴たる桜花と同じく、日本の土地に固有の花である」 という書き出しで始まるこの本を通して、 当時、未開の野蛮国と見られていた日本にも、 武士道という優れた精神があることを、世界の人々に紹介することになります。『武士道』はやがて、ドイツ語、フランス語、 ロシア語など、多くの国語に訳され、 新渡戸の名は一躍、世界の知識人に知れ渡ったとのことです。素晴らしい日本人ですね。
2005/04/09
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この本は平成15年8月20日発行で、著者の畠山武氏は1924年生まれの方です。この本を読もうとしたきっかけは、安岡先生が次のように語っていたとのことからです。「大正・昭和の陸軍大将の宇垣一成という人物は、顔の造作の一つひとつはつまらなかったが、全体としてはいい顔をしていた」それで宇垣一成(うがきかずしげ)の写真が載っているこの本を手にしたという訳です。もとより、安岡先生がどのような時に、宇垣一成の顔のことを語ったかは定かではなく、何歳の宇垣一成の顔のことを語ったのかもわかりません。誰でも人生で最も輝いている時期というのはいい顔をしているはずです。宇垣一成のその時期というのは、おそらく1930年頃からの7年位でしょうか。年齢にして60歳代です。また、安岡先生と宇垣一成の年齢差は、安岡先生(1898~1983年)で宇垣一成(1868~1956年)だから、宇垣一成の方が30歳の年長になります。まずは宇垣一成の顔ですが、この本に載っているのは、60歳位と晩年の85歳位の2葉の写真です。拝見しての感想は、丸顔で威厳のある顔ですね。一如庵(宇垣一成生家)が公開されています。一如庵は、こちらです。
2005/04/03
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