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私は前から、なぜ「いのち」に「命」という漢字を使うのか? が疑問だった。「命」という漢字は、命令の「命」である。 ところが、あるヨガの書を読んでいるとき、なんとなく、自分なりの理解を得たのである。それが非常に尊いものように思え、この字を当てはめた人の見識の深さに感動した。 生きている状態を、「命」という漢字で表わすが、その生きている状態とは、絶えず「命令」を出している状態ではないだろうか? と思ったのである。 そのヨガの書によると、よい生活を送れば、よい結果が得られ、悪い生活を送れば、悪い結果となる。仏教の善因善果、悪因悪果だが、つまり、よい命令をすれば、よい行為が生まれ、悪い命令をすれば、悪い行為となるというようなことが書かれている。 しかし、はじめから良い結果を得ようとして、命令すると、当初の目論見というものができてしまい、御都合主義、利己主義となり、かえって悪い結果を招くことも多い。つまり、結果的に、悪い命令だったわけだが、だから、良い命令というのは、良い結果が出てからでないと判明しないわけである。 では、善や悪は、結果が出てみないとわからないものなのか? となる。 そのヨガの書によると、そうではない。実は、全てが良い結果となるべき要因なのであり、悪いと思うのは、その時点での捉え方にある。問題は、悪い結果であっても、良い結果につながる命令の根拠にすればよいのである。 この継続のなかに、「命」の意味があるとわかった。 仏教では、「善導」という。だから、悪い結果であっても、将来、良い結果につながる命令を生じさせれば、良い結果となる。 これは悪人正機説の原点でもある。生きている以上は、悪い結果であっても、善導を行える命令ができる。 ここに生命の「いのち」の原点があるように感じた! 聖書の創世記を読むと、神は命じて世界をつくり、それをみて「良し」とされた、とある。 つまり、自分の命令が良い結果を招いたことを覚ったのである。創造してみて、やっぱり、良かったという喜びに溢れた記述に思える。 このような神のような命令ができるようになるために、命令の出し方を学ぶのが、命なのではないか、と思うようになり、「いのち」に「命」の漢字をあてた古代人の奥深い賢さに感動した! 命を生かすのも殺すのも、命令の出し方にある! ちなみに、「命」という字は、「令」に「口」をつけたものだという。だから、「令」という字が元になっている。 「令」という字は、神殿で天や神に人が跪いて祈る形象が起源だという。 神という「命」の見本を授かるという意味が、「令」という字に思える。そこに、口がつくと、命令ができるようになる。 人間だけが、自分に命令できる。動物や植物は、自然、つまり神や天の命令に従うだけである。「口」はない「令(いのち)」の存在である。 人間だけが、口をもった、言葉をもった「令(いのち)」である。 つまり、そのヨガの書から、良き命令を出せるようになることを学ぶのが人生という命である、とわかったような気がした。 そもそも、創世記によれば、宇宙は、神の命令から生まれているわけで、その神が「よし」とされて、全てが「命」となっているので、人間のなかにも、その「命」が存在している。 だから、すでに、良い命令を出せるだけの素質がある。それが良心なのだろう。跪いて、良心の声に耳をすませば、祈りとなり、「令」となる。 「令」に忠実ならば、「生命」となり、忠実でなければ、災いとなる。しかし、災いも転じることで、福となせる。災いを福となるには、善導の命令、呪文が必要となる。
2010年02月26日
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今日、そもそも人間にとって人間である、ということ自体が困難である。というのも、人間は、以前述べた寓話のなかの、3頭の動物に向き合った(食される運命の)カモシカのように見えるからである。 人間を一面化しようとする存在が特殊な動物という形(言語)をとっている。獅子(ライオン)は獅子(ライオン)のままだが、獅子は、自分の仲間の猛獣(ハイエナや狼)を、鷲や雌牛が変容した動物として、身代わり(犠牲)にする。 獅子は、もともと鷲の代わりに、自分と同じ猛獣の仲間のハイエナを犠牲にする。ハイエナは基本的に死んだ生物の肉によって生きる存在で、人間の頭部のなかに生み出され、死に向かって絶え間なく、瞬間毎に、原子論的な断片(素粒子)を供給する、いわば死んだ存在(思考)により生まれる。 (鷲→瞬間的思考→ハイエナ) 従って、アフリカの、ある部族の寓話は、腐肉を食らうハイエナを鷲とおきかえ、更に獅子(ライオン)は、雌牛の代わりに、自分と同じ猛獣の仲間の、没落に相応する(この伝説は黒人文化から生じたから)狼を犠牲にする。このように、鷲をハイエナ、雌牛を狼に置き換えると、寓話のなかには、3頭の別の動物、ライオン、ハイエナ、狼が現われる。 今日、3つの誘惑の呼びかけが対立しあっているが、その誘惑の呼びかけが響くとき、徐々に鷲は地に降りてハイエナとなり、雌牛はもはや聖なる忍耐強さで万有を象ろうとせず、猛獣の狼となり、実際、3つの獣が対立しあっているのは、宇宙的シンボリズム(象徴)とでもいうものである。 そうすると、以前述べた、あの伝説を、つまり黒人の言葉から、現代文明の言葉へと翻訳できる。以前、いわば黒人の心情で語らねばならなかった。―――獅子(ライオン)、狼、ハイエナが 狩りに出かけた。猛獣たちはカモシカをしとめた。ハイエナが最初に分けることになり、ハイエナはハイエナの論理に従って分け、次のように言った、「3等分しよう、三分の一はライオン、三分の一は狼、三分の一は僕のものだ。」 すると、ハイエナは獅子(ライオン)に食べられてしまった。 さてライオンは狼に言った、「今度は君が分けろ。」すると狼は言う、「最初の三分の一は君のものだ、君がハイエナを殺したんだから、ハイエナの分け前は当然君のものだ。次の三分の一も、ハイエナはそれぞれが三分の一を取る、と言ったけど、その遺言通りにすれば、君がハイエナからもらう分だから、君のものだ。最後の三分の一も君のものだ、君は動物のなかで一番勇敢で賢いのだから。」 そこでライオンは狼に言った、「君にそんなに上手な分け方を教えたのは誰だい。」狼は言った、「ハイエナが教えてくれたのさ。」――― この話のなかでの論理は両者(ハイエナ、狼)とも同じだが、現実への適用において、ハイエナの論理を適用するか、或いはハイエナの経験を踏まえて、狼が論理を適用するかでは、全く異なる結果が出てきたわけである。 本質的なことは、現実への論理の適用にある。 さて、この話を、いわば現代文明的な意味に翻訳して、幾らか別様に物語ることもできる。しかし、ここで語ることは常に、文化の大きな流れにおいて重要である。 ここで述べた事実から、この物語を現代的に次のように表現すべきである。―――カモシカがしとめられる。ハイエナは後ろに退き、無言の判断を示す。ハイエナは敢えて最初にライオンの恨みを買うようなことはせず、後ろに退く。ハイエナは無言の判断を示し、背後で待つ。さて、ライオンと狼は獲物のカモシカを巡って闘いを始め、闘いに闘い、互いに酷い傷を負い、傷によって共に死んでしまうまで闘い続ける。さて今度はハイエナが出てくる、カモシカとライオンと狼を、これらが腐敗してしまってから平らげる。――― ハイエナは、人間の知性(論理)の象徴で、人間の本性のなかの死すべき言語を具象化している。ハイエナは、鷲の文明の裏面、カリカチュア(風刺)なのである。 この古い黒人の寓話のヨーロッパ化から炙り出される言語を感じとれば、今日、次のような事実を真に正しく理解すべきであることがわかる。 次のような事実を正しく理解するには、三重の誘惑の呼びかけ、鷲と、獅子(ライオン)と雌牛の誘惑の呼びかけに、人間が自らの箴言を、今日、人間のなかの力と、思考との作用の合い言葉となるべき箴言を対置することを学ばなければならない。 我は学ばねばならぬ、 おお、雌牛よ、 星々が我のなかに啓示する言葉から、 汝の力を。 地球の重力を、単に量り、数え、計測するだけでなく、単に雌牛の物質的な生体機構のなかにある言語だけを学ぶのではなく、雌牛のなかに体現されている言語、雌牛の生体機構から雌牛が体現している言語を畏怖しながら、その言語に囚われず、視点を転じ、上空の高みへと向けることを学べば、地に執着するままでは地球の機械文明となってしまう文化が霊化される。 人間がよく考えなければならない第二の事実は、 我は学ばねばならぬ、 おお、獅子よ、 日毎年毎の巡りが 我のなかに織り込む言葉から、 汝の力を。 「啓示する」という言葉、「織り込む」という言葉に心を留めるべきである。そして、人間が学ばなければならない第三の事実は、 我は学ばねばならぬ、 おお、鷲よ、 大地から萌え出た言語が我のなかに創り出す言葉から、 汝の力を。 このように人間は、一面的な誘惑の呼びかけに、以上の自らの3つの箴言を対置させなくてはならない。 人間のなかにもある一面性を、その意味から調和的な均衡に導ける3つの箴言である。 人間は、雌牛の言語を学ばなければならないが、ただし、雌牛の言語を徹底的に感じ取った後は、雌牛から、天へと視点を移し、星々が啓示する言葉を見上げることを学ばなければならない。 人間は、鷲の言葉に視点を向けることを学ばなければならない。そしてまた、鷲の本性を徹底的に自らのうちに感じ取った後で、その視点で、鷲の本性が人間に与えた言語をもって、大地のなかから発して、萌え出るように、人間の生体機構においても、下から上へと作用する言語を見下ろすことを学ばなければならない。 そしてまた、人間は、獅子(ライオン)のような言語を観ることを学ばなければならない。 人間を組み込んでいる地球生命全体の四季の巡りのなかに、人間を風のなかで取り巻き、稲妻のなかで鋭く見据え、雷鳴のなかで周囲を轟き巡り、嵐を引き起こす言語が、獅子(ライオン)を通じて人間に開示されるように、獅子(ライオン)を観ることを学ばなければならない。 従って、人間が(物質的な視野を上方に向ける代わりに、霊的な視野を下方へと向け、物質的な視野を下方に向ける代わりに、霊的な視野を上方へと向け、物質的な視野を真っ直ぐ東に向ける代わりに、霊的な視野を、東とは正反対の真っ直ぐな西に向け)、上方と下方、前方と後方、霊眼と物質眼を、相互に浸透させ合うことができれば、人間は、上方から鷲の、(地球の)周囲から、獅子(ライオン)の、地球内部から、雌牛の、人間を弱らせる(分裂の)力ではなく、力づける真の呼びかけ(融合の能力)を感じ取れる。 人間がその営みにおいて益々地球文明を向上させ、没落ではなく、進化に貢献するには、宇宙万有との関係について学ぶべき事項は以下である。 (鷲である西(アメリカ)は以下の如く語る。) 我が本質を学ぶがよい! 我は汝に力を贈る、 汝自身の頭のなかに 万有を創り出す力を。 (獅子である中(ヨーロッパ)は以下の如く語る。) 我が本質を学ぶがよい! 我は汝に力を贈る、 巡る大気の輝きのなかに 万有を体現する力を。 (雌牛である東(アジア)は以下の如く語る。) 我が本質を学ぶがよい! 我は汝に力を贈る、 秤、標尺、数を 万有より奪い取る力を。 (そこで人間は以下の箴言を対置させる。) 我は学ばねばならぬ、 おお、雌牛よ、汝の力を 星々が 我のなかに啓示する言葉から。 おお、獅子よ、汝の力を 日毎年毎の巡りが 我のなかに織り込む言葉から。 おお、鷲よ、汝の力を 大地から萌え出で 我のなかに創り出す言葉から。 (シュタイナーによると、人間の魂は創世記、アダムカドモンという巨人だったという。巨人というよりは、巨魂だが、その巨魂が、地球の大気を漂っていたという。地球が土星であったときは、熱の状態で、太陽のときは、光に満ちた大気の状態で、月のときは、水のような液体の状態であったという。やがて、アダムカドモンから、植物が分離し、動物が分離し、地球紀になり、地上に、人間が誕生したという。 地上の人間は太陽の光の影響下にあり、住む場所によって、太陽光の影響が異なるので、様々な人種や民族が生まれたという。色でいえば、7色で大別できるという。九星の白・黒・碧・緑・黄・赤・紫の7色や、陰陽五行の陽(太陽)、月(陰)、土星、火星、水星、木星、金星の7種の組み合わせを源流としているようである。 そもそも、占いとは、太古では太陽光の影響を、宇宙言語で解き明かす学問なので、特に、アトランティス時代は、生命学として、人智学でいうエーテル体を解明する学問として、発展し、様々な生命や地球を制御したという。それも、アトランティスの大破局の大洪水により、失われたそうである。 ではなぜ、残っているのかというと、霊能者がアカシャ年代記を読み解くことを通して、少しづつ再現されてきたという。いまでも、当時と環境や状態こそ違うが、太陽光の影響は言語として存在しているからである。 宇宙言語を詳しく理解できなくても、いま世界が、アメリカ、ヨーロッパ、アジアに三分割されそうにあることがよくわかるだろう。アメリカは、自分たちを鷲の如く、先を行く者とし、ヨーロッパは、自分たちを獅子の如く、百獣の王たる自然「遺伝」の申し子とし、アジアは、自分たちこそ、雌牛の如く、権力に相応しき者とし、それぞれが熱望している。 つまり、アメリカは先進志向、ヨーロッパは統治志向、アジアは権力志向であり、それぞれがその一面性を望むと、世界は分裂し、人類は弱体化し滅亡してしまうのである。つまり、一面志向ではなく、お互いが譲り合い、多面的に融合的にならないといけない。)
2010年02月26日
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更にまた、鷲の誘惑の呼び声が西洋(アメリカ)を誘惑するなら、鷲の思考方法と心情を、地球全体に広げるだろう。 この鷲の思考方法と心情のなかに自分自身を一面化するなら、かつて存在していた世界、いわゆる地球の出発点である、地球の初めに存在し、地上を超えた世界と直接結びつきたいという衝動が、人類のなかに全般的に生じてくる。 そのとき人類は、人間の自由と独立のなかで獲得した経験を消し去りたい衝動を得て、人間の筋肉や神経のなかの、神々が生きる無意識な意志のなかだけで生きるようになる。 つまり、原始的な状態、太古以来の原始的な霊視へと退行していく。人間は、地球の始まりへと戻ることで、地球から離れ去ろうとする。 (米国の宇宙志向や、地球から出て、火星に移植を目論むような宇宙計画的発想は、鷲の誘惑的言語のせいかもしれない。つまり、米国の鷲の文明が進むと、人間は非常に無責任になり、地球から逃げ去ろうとする欲求が生まれてくるようである。 この事は、評論家や学者というのは、本質的には無責任で、発言の誤りは認めても、その責任をとろうとしないことからもわかる。市場原理主義が過ちだとグリーンスパンは認めたが、いまだにその責任は回避している。 そして、また、鷲の文明に特徴なのは、懐古主義で、宗教的なところである。米国ほど宗教が混在している地域はなく、日々新たな宗教が生み出されてもいる。) 厳密な霊視では、この鷲の言語は更に、草を食む雌牛が絶えず一面的な声で、人間を誘惑することにより裏づけられ、その声は、次のように語る。 「上を見るな、全ての力は地より来る。大地の作用のなかにある全てに精通せよ。汝は大地の主となろう。汝は、汝が地上で獲得するものを永続的なものにするだろう。」 さて、人間がこの誘惑の声に屈するなら、以前述べた危険、地球文明の機械化という危険を除去することはできないだろう。 なぜなら、消化動物のアストラル的な言語は、現存するものを永続的に、不朽にするからである。 (一方)獅子(ライオン)の生体機構からは、現存するものを永続させず、現存するものを出来る限り素早く過ぎ去らせ(変容させ)、絶えず四季等の循環の繰り返しの戯れにし、天候や、太陽光の戯れや大気のなかへと上昇させる力が出現する。 獅子の文明は、上述のような特徴を現わすものになるだろう。 空中を漂っていく鷲を、真に理解をもって観察すると、鷲の翼に、地球の出発点に存在していた言語の記憶を担っているようにみえる。鷲の翼のなかには、まだ天から、地球内部へと作用していた様々な力が篭められている。 霊視で言うなら、いかなる鷲のなかにも数千年前の地球を見て取れる。また、鷲は、せいぜい獲物を捕るため以外には、物質性をもって、地球に触れることはなく、いずれにせよ、その独立生活の充足のために、あまり地球に触れることはない。 鷲が、この独立生活を維持するとき、空中を旋回する。なぜなら、鷲は、地上で生成されたものに関心がないからである。 鷲は、様々な大気の力により、歓喜と熱狂を得ているので、地上の生活を軽蔑し、地球がまだ現在の地球ではなく、初めの地球の頃の、まだ様々な天の力に貫かれていたときの、つまり、まだ地球自体が、様々な天の力のなかで生きていたような状態のなかで生きようとするからである。 鷲は、誇り高き動物で、地球の固体形成の硬い進化には参加せず、この固体化する地球進化の影響から身を離し、そして地球の出発点にあった様々な力とだけ一体化する動物である。 以上、これらの真実を、宇宙の謎の解明のために、万有宇宙のなかに書き込まれた巨大な文字とみなすことができたなら、これら3つの動物が与えてくれる教えとなる。 なぜなら、根本において、万有の宇宙のなかのいかなる存在をも宇宙言語として読み解けるなら、文字となるからである。つまり、宇宙言語と文字との相関を読み解ければ、万有宇宙の謎を理解できる。 例えば、コンパス、或いは定規で計測したり、秤で量ったり、数えたりする行為から熟考し、その観測行為に意味をもたせても、やはり結局全ては、断片に過ぎない一部を組み合わせていることになる。 断片を組み合わせ、全体とするには、雌牛の生体機構を、その内的な霊性において理解するときである。 (単語をただ並べても、文法を通じて、その意味が伝達されなければ、文にはならない。) そして、この霊視こそが、万有宇宙の秘密を読み解くことになる。そして、この万有宇宙の秘密を読み解くことが、宇宙(マクロコスモス)と人間(ミクロコスモス)を理解することに通じていく。 この霊視が、現代の秘儀参入の叡智である。これは、今日の精神生活の深層から語られる真実である。
2010年02月18日
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では、一体、雌牛の生体機構の秘儀参入(イニシエーション)は何をもたらすのか? この問いは非常に奥深く、途方もなく意味深い。雌牛の秘儀参入は何をもたらすのか? 例えば、機械を組織化(構成)する方法は、個々の機械に応じて非常に異なる。しかし、まだ不完全で、原始的な機械が、徐々に、その基本作用の振動に基づく形で発展すると、つまり、機械のなかの振動を利用し、この振動、発振に基いて、周期的に経過する運動を通じて、その機械の効果が得られるようになると、全てはそのような共鳴振動装置になっていく傾向となる。 (元々固有の振動が異なる個々が、次第に共鳴し、集団化し、振動を合わせるようになる共鳴現象は、ホタルの求愛の集団点灯や、心筋細胞の鼓動の集団振動のなかに見つかり、複雑系やカオス工学で研究され、機械化に応用されつつある。) 全ての機械は、このような共鳴的な機械に収束していく。 ところが、一端、このような相互作用を行う機械を、雌牛の生体機構のなかでの栄養分の割合から学べる方法で構成すると、その機械によって、地球上に創り出された小さな地球の振動が、地上で生起する振動や、地球の上部(大気)にある振動と共鳴し、共振して経過するようになる。 すると、この太陽系において、適度に秩序を保つべく調律された、いわば天空の音楽たる弦が、その振動において、同じ空間の別の弦が鳴らされると共鳴するように、この地球系と共振しなければならないようになる。 (シュタイナーによると、太陽系の天体の軌道から、天空の音楽がつくられるという。つまり、天体の軌道は、宇宙の弦であるわけで、超弦理論の発想とダブルところがある。超弦理論は重力統一理論なので、重力は、雌牛の消化機構を研究するとわかるのかもしれない。) これが、この雌牛の呼び声が東洋を誘惑する場合、実現する共鳴振動の恐ろしい法則である。 その結果、東洋の文化が、説得力のある手法で、アメリカと中部ヨーロッパの精神性に欠けた純粋な機械文明に浸透していき、その現象を通じて、宇宙万有の機械的体系(システム)に正確に適合する機械的体系(システム)が、地上に生み出されることになりかねない。 同時に、空気(大気)の作用や、循環の作用、そして星々の作用等の全てが、人類の文明のなかで根絶されてしまう。 例えば、四季の移り変わりを通じて人間が学ぶもの、つまり春に芽生え、萌え出る生命や、秋に死滅し、衰えていく生命に、人間が参加することで体験する経験等は、人間にとって意味をなくしてしまう。 ガタガタと振動する機械の音や、その反響(エコー)等が、地球のメカニズムに対する反応として、今度は宇宙から地球へと流れ込んで来るようになり、この機械音の振動による反響が、人間の文明を貫いて鳴り響くようになるだろう。 現在作用している一部を考察すれば、次のように自ら結論できる。 「現在の人類の文明の一部は、この恐ろしく没落的な目標に通じる道の途上にある。」 (つまり、天からの恵みである自然の作用が、人間の大地からの自然破壊の作用により、妨げられ、地球の循環体系を変化させてしまう。すると、四季がなくなり、冬に暑かったり、夏に寒かったりするようになるという。 自然破壊による温暖化理論が20世紀からあるが、最近になって寒冷化理論が議論されてきている。つまり、全体として温暖化、寒冷化するのではなく、温暖であるべきときに、寒冷であったり、逆に寒冷であるべきときに、温暖になったりする、極端な現象が頻発していくものと思われる。 だから、大まかに平均的にみれば、季節感が次第に失われていくわけである。これは神々が描いた人類の進化構想から外れることを意味する。神々の進化構想から外れるのは、人類が悪魔の闇の領域に入ることになる。つまり、悪魔という堕天使の存在に堕落するのである。) さて、もし、中部ヨーロッパが獅子(ライオン)の語る言葉に誘惑されるなら、確かに、これまで描写したような危険はなくなる。 (獅子により雌牛が食われるから。以前、述べたアフリカの、ある部族の話だと、ライオンが、狼を食うことを意味する。) そして、機械文明は次第に、また大地から消えていくだろう。 獅子の言語に誘惑されると、確かに機械文明にはならないが、人類は(獅子の如く)一面的な強さで、風雨のなか、つまり四季の循環のなかに生きるように委ねられるだろう。人間は四季の循環のなかに、はめ込まれ、特に呼吸リズムと循環リズムの相互関係のなかで生きざるを得なくなる。 人間は、その不随意(不自由)な生活が与える経験を自らのうちに育てていくだろう。いわば人間は胸の性質を特に発達させるだろう。 しかし、胸部を発達させることで、人間は、実に誰もが自分自身だけ(の力)で生きようとし、誰も現在の幸せ以外の他の誰かを気にかけることがなくなる、といったような利己主義が地球文明に到来する。 この獅子の誘惑の言葉に曝されているのは、中部ヨーロッパの文明である。中部ヨーロッパの文明は、利己主義的な生活を、地球文明に課すようになるだろう。 (19世紀の植民地支配が始まったのは、まさに西ヨーロッパである。ポルトガル、スペイン、フランス、イギリスといった植民地支配体制が広まったのは、この獅子の誘惑の言葉を象徴する出来事といえる。 植民地支配体制の人間は、非常に利己主義的であることがわかる。ある意味、インドの独立は、獅子と雌牛の戦いともいえる。また、昨今のヨーロッパでの炭素税なる概念も、獅子の利己主義的性格を意味しているともいえる。)
2010年02月18日
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それでは、東洋文明が、西洋文明を凌駕するとき一体何が起こるのか? このとき起こることは以下のようなことである。 前世紀(19~20世紀)の経過に伴い、人類は、地上において、外(唯物)的科学の影響下にある技術や、外(物質)的技術の生活を獲得した。実際、あらゆる分野における技術は驚異的である。 自然力は、技術においては、生命のない形態で作用し、そして、人類は、この自然力を担ぎ出して、いわば徹底的に地球上に文明の層を形成するために役立たせ、これらは秤、標尺、数という権力となった。 (権力の「権」という字の意味は、測るという意味で、秤、標尺、数を意味する。) 秤、物差し、量る、数える、測定する。これらの行為が、今日、外(物質)的科学を本職とする現代の科学者、現代の技術者の理想である。 「存在を証明するものとは何か?」 と問われた著名な物理学者(数学者でもある)が以下のように答える、という事態にまで、現在、人類は達している。 あらゆる時代の哲学者たちは、「そもそも現実とは何か?」という問いに答えようとしてきたが、この著名な物理学者は、次のように答える。 「測定可能なものが現実である、測定不可能なものは現実ではない。」(1)1)(誰のことを指すのか)確定できない。可能性としては、物理学者エルンスト・マッハ(1838-1916)か、シュタイナーが言及することの多い数学者・物理学者アンリ・ポワンカレ(1854-1912)のことと思われる。 この答えはいわば、あらゆる存在を次のようにみなす理念といえる。 あらゆる存在は実験室に持ち込んで、重さを量り、測定でき、このような測定を前提にした科学が技術のなかに流入するのだが、この科学とみなされている理念とは、この量り、測定し、数えた行為により現実となった観測量(基準値)から組み立てられる、とする理念である。 いわば、数、寸法、重さが、文明全体の方向づけを行うように作用すべき存在となった。 (権力が、人類を規定する要因となったのである。これは非常に恐ろしいことである。人類は、権力という概念の奴隷と化したわけである。従って、人類の進化は、ダーウィンの唯物的進化論の権威化に置かれる。なにしろ、この論理下では、測定できないものは存在しないのである。だから、権力のないものは、存在するに値しない、とされる。) さて人間がただ単に悟性をもって、測定し、数え、重さを量る限りは、とりたてて不都合はない。確かに人間は利口だが、宇宙万有の賢さには遥かに及ばない。 従って、測定し、重さを量り、数えるという観測行為に関して、いわば宇宙万有に対してディレッタント(趣味、遊び)的に行う限りは、特に不都合にはなり得ない。 (机上の空論は、机上でやっている分には害は及ばないということだろう。学者は研究室に閉じ込めておくに限る。) しかし、今日の文明が秘儀参入に変貌するなら、もし、実験室での観測行為が、秘儀参入の心情に進展するなら、不味いことになる。 この危険が起こり得るのは、秤、物差し、数という記号のなかに成立している西洋文明が、何と言っても東洋で起こり、つまり本質的に、雌牛の霊的な生体機構のなかに生きている言語が、秘儀参入学を通じて究明され、溢れるときである。 なぜなら、雌牛の生体機構に参入し、体重の八分の一の栄養分が、地上における重力(量り、測定し、数える、というような全観測行為により理解される)の負荷に負っていることや、この大地の重力を、雌牛のなかで霊的に組織する言語を学べるからである。 そして、また、雌牛が牧場に横たわり食物を消化するなかに、宇宙からもたらされた驚異をアストラル的に顕現させている生体機構を知れば、量り、測定し、数えた観測行為により基準量を1つの体系に組織化する方法を体得できる。 また、そのことから、他文明全ての障害を克服し、一層ひたすら、量り、数え、測定して、その物質文明から生じる以外の全てを消滅させるような文明、つまり、唯一、そのような機械的文明だけを全地球に与えることができるからである。 (全てが、工場のオートメーションの如く機械化され、一部の人間が支配者となり、その他大勢の人間が奴隷化するような物質文明の地球家畜化計画を述べているのだろう。 一部の支配者とは悪魔に他ならず、悪魔は、人間を使ってこの計画を達成しようと目論んでいるようである。ジョージオーウェルの小説や、シオンの議定書で、オカルト愛好家には有名な話である。 そういえば、UFO絡みの話で、キャトルミーティレイションという牛の生殖器や血が盗まれる事件が、米国で多発して話題になったが、このシュタイナーの雌牛の消化と関係しているのなら、ゾッとする話でもある。 UFO絡みの話では、グレイという目の大きな宇宙人が話題になるが、私の個人的意見では、土の精霊のグノームを霊視したイメージと思える。グノームは、夢のなかに出てきたり、死後、肉体からエーテル体を切り離し、エーテル体のエキスを抽出する仕事を行うという。 だから、死神や地底人と間違われる。グノームは満月が嫌いで、満月になると鎧のような毛を被るというので、狼男のモデルではないか、とも思う。)
2010年02月18日
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しかし、いま、人間は、普遍的な世界の進展に従い、宇宙の進化に、ある種の危険がさし迫っている時代に生きている。それは(鷲、獅子、雌牛という)一面的な作用が、現に人間のなかに一面的に現われてくる、という危険である。 14、15世紀以来、近年に至るまで、この地上の人類進化において、鷲の作用は人間の頭部を一面的に利用しようとし、獅子(ライオン)の作用は人間の胸部のリズム統合を一面的に利用しようとし、雌牛の作用は、人間の腹部の新陳代謝と、四肢による地に対する作用を一面的に利用しようとする事態が益々強まってきている。 いわば人間が宇宙の様々な力によって三分割されようとしている。 そして宇宙の様々な力のうちの1つが、常にその他の作用を制圧しようと懸命になっている、というのが現代の徴(シルシ)である。鷲は、獅子(ライオン)と雌牛を突き落として、その力を無効にしようと懸命になり、同様に他の二者も、その都度、自分以外の両者の要素を無意味なものに貶めようと躍起になっている。 そして、現代では、人間の潜在意識に対して実に絶え間なく、極めて誘惑的存在が働きかけている。誘惑的なのは、ある関連を通して、それが美しいからである。意識の表層(顕在意識)においては、今日の人間は、それを知覚しない。 しかし、人間を誘惑しようとする三重の呼びかけが宇宙を貫いて、人間の潜在意識を波立たせ、鳴り響かせている。 現代の秘密というのは、鷲の領域から、鷲を、鷲足らしめる言語、鷲にその翼を与える言語、鷲の周りをアストラル的に漂っている言語が、地上へと鳴り響くことである。人間の潜在意識に聞こえてくるのは、鷲の本質そのものであり、この言語は、心を惑わす呼び声である: わが本質を学べ! 我は汝に力を贈る、 汝自身の頭のなかに 万有を創り出す力を。 鷲は、上述のように語る。この叫びは、今日の人間を一面化しようとする上からの誘惑の呼びかけである。 続いて第二の誘惑の呼び声がある。これは中間の領域からやってくる。そこでは宇宙の力が獅子の本性を形成し、宇宙の力が、獅子の本性を構成する。そして、そのリズムの均衡、つまり呼吸と血液循環の均衡を、太陽と大気の合流から生じさせる。 この合流から、いわば獅子の感覚のなかで大気を振動で満たす言語、人間自身の律動組織を一面化しようとする言語、この言語が今日の人間の潜在意識に向かって誘惑的に語りかける。 わが本質を学べ! 我は汝に力を贈る、 巡る大気の輝きのなかに 万有を体現する力を。 獅子(ライオン)は上述のように語る。 現代人が考える以上に、人間の潜在意識に語りかける、上述の声には影響力がある。地上での様々な人間の生体機構は、これらの作用を受容するように組織されているからで、例えば、鷲の声によって、特に誘惑され、惑わされやすいのは、西洋の住人である。 特にアメリカ文化は、その地に住む人類の特殊な(生体)機構を通じて、鷲が語る誘惑に曝される。 (米国の象徴が白頭鷲であるのは、この証だろう。潜在的に語りかける言葉を、人間はその意味も知らずに、国の象徴に選択するわけである。人間心理のなかのこの現象は、シュタイナーのクリスマス講義での、クリスマス祭の前倒し、つまり1月6日→12月25日の変更から理解できる。) 中部ヨーロッパの古代文化(ギリシア、ローマ)の多くを自らのなかにもち、例えば、人生の解放のために、ゲーテをイタリア旅行へと導いた文化の多くを自らのなかにもつ中部ヨーロッパ地域の住人は、特に獅子(ライオン)が語りかける言語に曝される。 (イングランド王家の紋章や、南フランスおよびイングランドにまたがるアンジュー帝国の紋章やノルマンディ公の紋章に、獅子、つまりライオンが用いられているのが、この証だろう。つまり、中部ヨーロッパには、獅子の領域からの言語に曝され易いので、無意識のうちに、獅子に魅了され、貴族は獅子王という象徴を用いて自分の力を誇示する。) 特に、東洋の文明は、雌牛が語りかける言語に曝される。他の動物(鷲と獅子)が両者共に、宇宙の領域から鳴り響くように、(雌牛は)地の底深く、とでもいう場所から、轟き、叫びながら、鳴り響いてくるが、それは雌牛の重量(重力)のなかに生きる言語である。 (インドで、牛が神聖とされ、禅でも十牛図が有名で、牛祭りが多いのが東洋の特徴でもある。また、日本では、牛ばかりでなく、特に山が神聖とされるが、山は地の象徴であり、牛に代わる言語にも思える。つまり、地から鳴り響く言語に曝されている。地から天に向かう宇宙言語は、龍でも象徴される。) これは実際、既に以前描写したように、鱈腹、草を食した牛の群れが、独特の大地の重力に身を捧げるような形で、この大地の重力下にある言語、つまり、その重荷のために、毎日、自らのなかで、体重の八分の一を交換しなければならない、という状況下に生きるという事実を表現するような格好で、横たわるのを牛に見てとれる。 この事実に加え、太陽、水星、金星、月の影響下に、雌牛の栄養摂取機構で生じる地の底からの言葉が加わる。その言葉は、地底の魔物のように轟き、鳴り響く。そして、次のような言葉の響きから、牛の群れの欲求を満たす: わが本質を学べ! 我は汝に力を贈る、 秤、標尺、数を 万有より奪い取る力を。 雌牛は上述のように語る。この誘惑の呼び声に特に曝されるのは東洋である。 ただし、それは次のような意味である。 東洋はヒンズー教における古くからの牛崇拝があるので、確かに最初は東洋に、この雌牛の誘惑の呼び声に曝されるが、実際、この誘惑の呼び声が人類を捉え、この誘惑の声から生じる言語が勝利を得るほどになると、この東洋から作用する言語が、中部ヨーロッパ文明と西方のアメリカ文明を抑え、それらが、自らの前進を阻む、没落を引き起こす文明であると告知する。 そのとき、大地の魔の力が一面的に地球文明に働きかける。
2010年02月18日
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獅子(ライオン)は、血液の循環に対し、呼吸の抑制を対置するので、血液の循環が、絶えず呼吸の流れを刺激する。この事実は、獅子(ライオン)の口の形のなかにも、見てとれる。 獅子の口には、血液リズムと呼吸リズムとの驚くべき関係が、その形の通りに現われている。これはまた、自らのうちに安らぎながらも大胆に外に向けられている鋭い視野を意味する。 独特な獅子(ライオン)の視線からも、この事実を見て取れるが、この獅子の視野のなかに生きる言語はまた、人間の本性では、頭部とは違う要素、つまり頭部や新陳代謝組織との間を仲介する胸部、もしくは心臓組織や律動組織のなかに生きる言語である。 従って、本質的な太陽の作用をイメージすると、人間の胸部の心臓とその一部である肺を、太陽の領域におけるその活動範囲のなかに置くように、人間を描くべきである。すると、この太陽の作用を通して、人間の胸部の領域に獅子の性質が得られる。 (ここで興味深い話が思い出される。ある霊能者によると、恐竜が絶滅したのは、太陽の過活動による、心筋梗塞にあるという。その霊能者によると、ちょうど、それと同じくして、いま太陽の活動が活発化するようで、これから、人間も心筋梗塞が多くなるような預言をしている。 このことは、太陽の黒点周期との関連の研究成果にもみられる。 そういわれれば、ヨガがブームになったりするのは、呼吸法や精神統一法、つまり、心臓の活動の制御を目的としているわけで、不安要素や恐怖心をどれだけ鎮静化し、安定をはかるかが今後の人類の生活の課題になってくるものと思われる。) 次に太陽よりも、内惑星の、つまり地球に近い惑星へと移ると、はじめに水星領域に至る、この領域は、特に人間の新陳代謝系、つまり新陳代謝組織の精妙な部分に関わり、そこでは吸収消化した栄養分をリンパ性の物質に変成し、血液循環のなかへと送り込んでいる。 太陽-胸部 水星-腹部のリンパ節 更に進むと、次に金星の作用領域へと至る。この領域は、人間の新陳代謝系の粗雑な部分で、摂取した食物を消化加工している胃-腸の部分である。 金星-腹部の胃-腸 更に進むと、月の領域へと進む。このような帰結を、今日の天文学で示されているような惑星を用いて描写しているが、別の描写でも可能だが、いずれにせよ、月の領域に至り、月と関係する新陳代謝は、そのプロセスのなかで人間に作用し、人間は月の作用領域から、生殖的、遺伝的な力に至る。 月-腹部の腎-泌尿器-生殖器 このように人間を全宇宙のなかに据えた。太陽が、水星、金星、月と一致して実現する宇宙的な作用に着目することで、前回まとめた事実でもある、雌牛により代表される動物の受容力を含む領域へと参入する。 ここで知ることができる言語は、太陽の力だけで造る言語ではなく、太陽の力が地球に近い惑星(水、金、月)を通じて、地球にもたらされる言語である。太陽と内惑星との共和力全てが、大気を貫いて流れ込むだけでなく、地球の表面に様々な形で浸透し、大地から上空へと作用する。 そして、この大地から上空への作用は、雌牛の生体機構のなかに、外的に具現化した領域に属する作用である。 雌牛は消化の動物である。しかし雌牛は同時に、次のような方法で消化を遂行する動物である。 この消化というプロセスのなかに、真に地上を超えた存在(天使)の地上的な模像(象徴)があり、雌牛の消化全体が、全宇宙を見事に象り(かたどり)、同時にアストラル性に貫かれている。 以前既に述べた、この雌牛のアストラル的な生体組織(宇宙言語)のなかに全宇宙があるが、全宇宙はその質量(重力)により支えられ、全宇宙は、地球の質量がその効果(重力)を現わすように設計されている。 例えば、雌牛は毎日、その体重の八分の一の食物を必要とするという事実を考察すればよい。人間は二十分の一で満足でき、それでも健康を維持できる。 雌牛は、その生体機構を完全に満たすためには、地球の重力を必要としている。雌牛の生体機構は、物質が重力に従うように方向づけられている。雌牛の場合、毎日、その重量の八分の一を交換しなければならない。 この割合が、雌牛を、その重量において地球に結びつけるが、その一方で、雌牛は、そのアストラル性を通じて、同時に、天の模像、宇宙の模像でもある。 従って、雌牛はヒンズー教の信奉者にとって(以前述べたように)崇拝に値する対象である。なぜなら、ヒンズー教の信奉者は次のような理念に生きるからである。 「この地上に、雌牛は生きている。この地上に生きるだけで、雌牛は、物質的な重量、つまり質量のなかに、地上を超えた宇宙、と言える存在(言語)を象っている」。 ヒンズー教の信奉者の意味で語るなら以上になる。 そして、この理念から、人間の本性が、正常な生体機構を得るには、人間が、鷲、獅子(ライオン)、雌牛のなかに一面化された、これら3つの宇宙の作用に調和をもたらせるとき、つまり人間が真に鷲の作用、獅子の作用、雌牛の作用の統一合流体であるときであるのがわかる。 人間は、鷲、獅子、雌牛の統一合流体である。
2010年02月17日
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前回、鷲に代表される上空の動物、ライオンに代表される(上空と地底の)中間の動物、牛や雌牛に代表される地底の動物たちの関係について学んだが、今回からは、これら動物界を代表する3つの動物に対する人間の内的な形態上の関係について明白な観点から、人間と宇宙との関係に言及する。 空の領域から、その特殊な能力を引き出してくる、空の動物全体の本質が、人間の頭部の組織に相当する事実を、以前言及したが、再度、この空(大気)の領域に視線を向け、空の領域を見上げる。 すると、この空の動物が、上空の動物足り得るのは、太陽光に貫かれた大気の御蔭であることがわかる。 空の動物の生存は、主に太陽光に浸透された大気の御蔭である。太陽光に貫かれた大気は、その事実を通じて、いわばこの空の動物により引き寄せられた。以前、翼の形態化が本質的に大気に由来する事実を述べた。この空の動物は、いわば大気の本性を、その外(唯物)的な存在性(形態化)のなかに有している。 外界が、この空の動物を通じて作り出す言語が、この動物の翼のなかに具現化されている。そして、この太陽光に貫かれた空気(大気)から作り出される言語が、鷲の(翼の)ように、外から、その本質をもたらすのではなく、人間の神経組織のなかを刺激するように、(人間の)内部を刺激すると、瞬間の思考、つまり現時点での直接の思考が生じる。 マクロ宇宙にある太陽光に満ちた大気は、地上では、鷲の翼となり、人間内のミクロ宇宙では、瞬間的思考になる。 宇宙言語;太陽光に満ちた大気(鷲の翼、瞬間の思考) このような(霊的な)観察から明らかになる事実により、高い場所へと視点を向けてみると、平衡状態にある大気と、そこへと差し込む太陽光が顕れる。しかし、このような場合においても、太陽そのもの(本性)を観察できない。 実際の太陽は宇宙の様々な領域と関係を結んでいくことで、その能力を保持するからである。 以上の霊的(宇宙)言語に対する認識をもって、太陽の作用を、いわゆる獣帯(黄道十二宮)と関係づけることで、これまで述べてきた関係を表記できる。 つまり、(黄道上の)獅子座、天秤座、蠍座から、太陽光が地球に差し込むとき、その太陽光は(その都度)地球にとって異なる言語を意味する。また、太陽光は、この太陽系の他の惑星への反射の強弱により、地球にとっては、異なる意味を持つ。 つまり、この太陽系の様々な惑星に対して、様々な関係が生じる。火星、木星、土星といった、いわゆる外惑星(天動説では太陽の外にある惑星)の影響下にある太陽光と、また水星、金星、月といった、いわゆる内惑星の影響下にある太陽光では、異なった関係が生じる。 さて、鷲の生体機構を知るには、特に、太陽と土星、木星、火星の、いわゆる太陽と外惑星との共同作用において、太陽(光)の能力がどれくらい修正されるか、その強弱を見る必要がある。鷲は、ユピテル(ジュピター、木星)の鳥である、と伝説が語るのも、この共同作用に理由がある。 木星(ユピテル)はそもそも外惑星の代表として存在している。この場合、重要な事実をイメージ(絵画)的に表わすなら、万有の宇宙においては、土星や木星や火星が占める領域を指し示さなくてはならない。 いま、これら外惑星の領域、つまり土星領域、木星領域、火星領域を眼前に置いてみる。すると、これら外惑星からの太陽領域への参入が見つけられ、いわば、太陽系の最外部に、太陽と火星-木星-土星の共同作用が得られる。 そして、次に、輪を描いて空中を飛ぶ鷲をみれば、次のような真実に到達できる。 「太陽から大気を貫いて流れ込む能力、従って、太陽と火星、木星、土星との共同作用から成り立つ力が、鷲の全形態、つまり鷲の本質のなかに生きる力である。」 鷲の本質=太陽と火星-木星-土星の共同作用 しかし、この力は同時に人間の頭部形成のなかにも生きている。だから、人間をその真の存在に関連づけ(地上では人間は、大宇宙のミニチュア像として存在している)、宇宙(マクロコスモス)のなかに据えるなら、人間の頭部に関しては、鷲の領域に据えなければならない。 つまり、人間の頭部に関しては、鷲の領域を思い描くべきで、鷲の領域から上昇力と関連する宇宙言語が、人間のなかに与えられた。 獅子(ライオン)は、本質的な意味で、太陽がいわば自身の力を展開する太陽の動物を代表している。獅子(ライオン)が最もよく繁殖するのは、太陽の外にある星々(火、木、土)と、太陽の内にある星々(月、水、金)が、太陽に対して影響を及ぼすことが最も少ない天体配置にあるときである。 (天動説では、地球を基点とし、月、水「金」星、金「水」星、太陽、火星、木星、土星と外にいくので、太陽より内の惑星が、月、水、金、外の惑星が、火、木、土となる。古代人は、肉体の外にも魂を広げることができたので、霊能をもち、天動説に従っていたという。 やがて、霊魂が、肉体のなかにすっかり入ってしまったので、霊能を失い、物質的な論理性を発揮し、天動説ではなく、地動説に従うようになっていった。地動説と天動説の大まかな違いは、地動説は、物質的な天体だけを星とみなすが、天動説では、天体と天体の間の領域全てを、天体域とする。 また、天動説では、その天体の住人を基点とする。だから、太陽の住人にとっては、太陽が基点になる。だから、太陽の住人にとっては、天動説も地動説も基点が太陽になるので、似たようなものになる。) このとき、前回述べた奇妙なことが起こる。つまり、大気を貫く太陽力が、獅子(ライオン)のなかの呼吸組織を活気づけ、この呼吸組織が、血液循環リズムと、静的リズム(線形)ではなく、その動的リズム(ダイナミズム、非線形)により、完全なる均衡状態を保つようにする。 獅子(ライオン)では、呼吸リズムと血液循環リズムは、見事に均衡する。(呼吸リズムと血液循環リズムは、線形現象ではなく、非線形現象で、平衡に至るようである。)
2010年02月16日
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実に、人間はミクロコスモスであり、外の大宇宙(マクロコスモス)の秘密を含み持っている。つまり、人間が内(精神)から見る、思考や、感情や、意志や、記憶のイメージを、また別の側、つまり外から、マクロコスモス的に見ると、これらを自然界のなかに再認識することになる。 この事実から、真実を見渡せる。この真実は、思考では理解できない。思考では、真実というのはどうにでも解釈できる。思考が尊重するのは論理だけだからである。 しかし、論理では、現実における究めて様々な事実を覆い尽くせない。このような現実を具象的に理解するために、次のような喩え話を最後に述べ、更に次回の説明につなげていく。 アフリカの黒人部族、フェラタ(フルベともいう。中部アフリカのプール[Peuhls]族)には、多くを具現する実に素晴らしい喩え話がある。―――あるとき、ライオンと狼とハイエナが旅に出かけ、1頭のカモシカに出くわした。カモシカはこの動物たちの1頭に殺された。3頭の動物たちはお互い親しかったので、殺されたカモシカを、ライオン、狼、ハイエナの間で、どう分け合うか、ということになった。まずライオンがハイエナに向かって次のように言った、「君が分けろよ」、と。 ハイエナにはハイエナの論理があった。ハイエナは、生きた肉ではなく、死んだ肉に執着する動物である。ハイエナの論理は、勇気というよりむしろ臆病さによって決定される。ハイエナは、その臆病さがどれ位あるかに応じて、論理という形で現実的処理に向かう。 ハイエナは次のように言った、「カモシカを3等分しよう。1つはライオン、1つは狼、1つはハイエナ、つまり自分が貰う」と。 するとライオンはハイエナを殺してしまった。さてハイエナはいなくなり、また分け前の問題が生じた。 ライオンは狼に向かって言った、「御覧、狼くん、今度は違った分けかたが必要だね。今度は君が分けてくれ。どういうふうに分けるんだい」。 すると狼は言った、「そうだね、今度は違った分け方が必要だね、もう前みたいに夫々等分というわけにはいかないだろう。 君が、ハイエナの分を取り除いたのだから、ライオンとしての君は当然、ハイエナの貰う三分の一を貰らわなくちゃいけない。次の三分の一はハイエナが言ったように、君のものだ、そして最後の三分の一も君がとらなくちゃいけない、君は動物のうちで一番賢くて勇敢なのだから」。 さて狼は以上のように分けた。するとライオンは言った、「その分けかたを君に教えたのは誰だい」。狼は次のように言った、「ハイエナが教えてくれたのさ」。するとライオンは狼を食べてしまわずに、狼の論理に従って、3等分した分全てを取った。――― この喩え話のように、ハイエナが分ける場合や狼が分ける場合でも、数学的な論理や、主知主義的分割法は同じで、ハイエナも狼も三分割するような割り算を行った。しかし、両者は、この知性的分割法、つまり算数を、異なる方法で現実に適用したのである。それによって、運命もまた本質的に変わったわけである。 ハイエナは分割法と現実との対応において、狼とは異なったので食べられてしまった。狼は、ハイエナの論理との関係で(狼自身が、ハイエナから習ったと言っている)、この同じ論理を全く別の現実と対応づけたので、食べられなくて済んだが、狼は、この同じ論理を、ライオンが狼まで食べてしまう必要性がもはやなくなるように、現実へと結びつけた。 ここからわかるように、ハイエナの論理は狼にもあるが、その現実への適用において、その知性や論理は、全く異なった結果となる。 このように、知性や論理は、あらゆる抽象化を伴う。抽象化を様々な現実に適用する形に応じて、宇宙での、あらゆる事柄を為せる。従って、ミクロコスモスとしての人間とマクロコスモスとの対応のなかのリアリティ(現実性)にも着目すべきである。 人間を論理だけで観察するのではなく、主知主義的知見から、宇宙規模の芸術的知見への転換をはかることで到達できる感覚をもって観察すべきである。 主知主義的知見から芸術的把握への、いわばメタモルフォーゼ(変容)を遂行し、芸術的感性を、認識原理として育成できれば、人間のなかに人間的な形で、つまり無機質な形ではなく、有機的に生命をもった霊的存在(宇宙言語)が、外のマクロコスモス、つまり大宇宙のなかに見つけられる。 そのとき、真の感覚をもって大宇宙(マクロコスモス)と人間(ミクロコスモス)との親和性(宇宙言語)を見い出せる。
2010年02月13日
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蝶や蛾という昆虫の成長プロセス全体を、産卵する鳥の成長プロセスと比較してみる。 鳥の内部では、更に(太陽光が)変容させるプロセスによって、石灰質の殻が卵の周囲に形成される。蝶・蛾では、卵、幼虫、繭として分割された全体のプロセスを、鳥の場合、一連の連続した変容とするために、鳥の内部では、石灰質が用いられる。 (つまり、昆虫では、4つの物質的形態の卵-幼虫-蛹-成虫を通過して成虫になるが、鳥では、その形態を4つに分けるのではなく、一連の連続した成長を遂げるために、はじめに硬い石灰質を卵の殻として用いる。余談だが、昆虫の4つの変態は、地球の四季にも似ている。) 例えば、このように鳥の卵のように、直接、硬い殻を円く形成するような作用に、太陽光の内部(霊光)の全プロセスが集約されている。 昆虫のような別々に分けられたプロセスが、鳥の卵に集約されることにより、鳥の場合、発生プロセス全体が全く異なったものになる。 鳥の成長では、成鳥になる前の巣立ちの段階、つまり第3の段階までの実現が、蝶や蛾の場合、分割されて現われる。つまり、蝶や蛾においては、卵形成、幼虫形成、蛹形成-繭形成へと分割される。このように外的に霊視できる。第3段階から蝶や蛾(の成虫)が這い出してくる。 鳥の発生プロセス(硬い殻の卵形成)=蝶・蛾の発生プロセス(卵形成、幼虫形成、蛹形成-繭形成) いま、この鳥の成長プロセス全体をアストラル的に探求すると、何が見えるか? このとき、鳥は、その全体の成長プロセス形成のなかに人間の頭部を示す。つまり、人間の思考形成器官を、鳥は示す。 宇宙言語(アストラル);鳥の発生プロセス(卵形成)=人間の頭部(思考形成器官) では、鳥と同じように空中に棲息するが、その発生形態が、更に複雑な蝶(および蛾)は何を示すのか? 蝶(及び蛾)が示すのは、いわば人間では、頭部の機能の継続プロセスである。頭部の思考力をいわば人間全体へと広げるプロセスである、という事実に辿り着く。そこでは、自然のなかの鳥の成長とは別の現象が、人間に起こる。 人間の頭部のなかに、エーテル体とアストラル体をつけ加えれば、ただし変容した状態だが、(鳥の)卵形成のなかにある宇宙言語に非常によく類似する。 もし、この蝶や蛾のプロセスを失い、人間が単に頭部の機能だけしかもたなかったなら、瞬間的思考しか形成できない。思考が、人間のなかを下降し、人間全体として活動できず、記憶として再び浮上することもなくなる(いわゆる記憶喪失の状態)。 外界に沿って形成する自分の瞬間的な思考を見て、鷲を見上げると、賢い人間は次のように悟り、呟く、 「鷲の翼のなかに、外界に物質化した人間の思考を見る。私という人間のなかで、鷲の翼は思考となる。しかし、それは瞬間的な思考である」、と。 人間のなかに記憶として携えている思考に着目するなら、そこでは複雑なプロセスが起こっている。勿論、物質(肉)体下では、霊的な形だが、一種の卵形成が起こっている。勿論、これはエーテル的な言語では全く別の形で、外(物質)的には幼虫の形成に似ているが、アストラル体では内的に蛹形成や繭形成に似ている。 人間の瞬間的思考=鷲の翼、 人間の記憶形成=物質体下の霊的な卵形成 →エーテル的な幼虫形成→アストラル的な蛹形成や繭形成 知覚の際に、思考を解き放ち、その記憶を(身体の)下方へと送り込むプロセスは、丁度、蝶(及び蛾)が卵を産むときと同じような状態である。 この変化は、いわば、幼虫に生じるプロセスに類似する。つまりエーテル体の生命(幼虫)が、霊光に自らを捧げ、内的には、アストラル的な繭の織物で、思考を織りなし、その繭の織物に記憶が現出する。 鳥の翼を瞬間的思考のなかに見るなら、様々な色に煌めく蝶(および蛾)の翅を、人間の記憶的(想起的)思考のなかに、霊的な形で出現した言語と見なす必要がある。 瞬間的思考=鳥の翼 継続的な記憶的思考=蝶(及び蛾)の翅 このように外界を見渡すと、途方もなく自然という存在が、人間に親和性を持つ事実が感じられるだろう。このように宇宙言語を考えると、人間の瞬間的思考の世界を、飛翔する鳥のなかに見ることができる。 このように宇宙言語を認識し、記憶にとどめると、人間のなかに生きている記憶像の世界を、太陽光のなかで、仄かに光りながら舞い飛ぶ蝶のなかに見ることができる。
2010年02月12日
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さて、宇宙言語を霊的に読み解くことで、意志(牛)、感情(獅子)、思考(鷲)が、外の大宇宙のなかに、いかに探求され得るか、その照応であるミクロコスモス(人間)のなかに、いかに探求され得るか、がわかる。 しかし、人間のなかには、更にまだ色々な別の力があり、外の自然にも、様々な別の存在がある。ここで、次のような事実に注目する。 それは、蝶、蛾となっていく生き物が成し遂げる、1つの変容(メタモルフォーゼ)である。 蝶(や蛾)は卵を産む。卵から幼虫が出てくる。幼虫が卵から這い出てくる。卵は、誕生後のその生物の原基全てを、円く閉ざした殻(枠)のなかに含み持つ。 さて幼虫が卵から出る。幼虫は光に浸透された大気(空気)に触れる。この空気(大気)は幼虫が旅立っていく環境である。ここで、この幼虫が、太陽光に浸透された空気のなかで、実際どのように生きているかを考察する。 夜ベッドに横たわってランプを灯すと、蛾がランプに向かって飛んできて、光(火)を目指し、飛んで光(火)のなかで死ぬような現象を探求してみる。光は蛾に作用し、蛾は死を求める欲望に屈してしまう。このような事実から、生物に対する光の作用がわかる。 生物は、光のなかに死(変容)を求め、それに屈する。 (飛んで火にいる夏の虫という悪い意味の諺もあるが、本来は、火の有り難さを表現するものに思われる。つまり、火「光」が生命の灯であることを意味する。夏の虫にとっては、火「光」が、死に場、つまり死を美しくさせる場である。光に向かって、生命は跳躍する。) さて、幼虫は(この事実をいまは警句的に示唆し、次回、もう少し厳密に考察していく)上方の光源、つまり太陽まで到達し、その光(火)のなかに突き進むことはできないが、幼虫の本心はそこにある。 蛾はベッドの傍らで炎のなかに身を投げ、命を失うが、蛾が死んでも炎を欲するのと同じくらい強く、幼虫もそれを望んでいる。蛾は炎のなかに身を投げ、物質的な火のなかで死を迎える。幼虫も同じように炎を、太陽からやってくる炎を求めるが、幼虫は太陽に身を投げることはできない。 光と熱への移行は、幼虫においては霊的な存在にとどまっている。太陽の作用全体が霊的(宇宙)言語として幼虫に移行する。幼虫は、太陽光線を追い求め、日中、太陽光線と行動を共にする。 蛾が光に突進し、蛾として有する全物質を光に捧げるように、幼虫も、幼虫として有する全物質をゆっくりと光のなかに織り込んでいき、夜には中断し、また昼に織り、自分の周囲に完全な繭を紡ぎ織り上げる。 従って、繭の内部の糸の内部には、流れ込む太陽光のなかで、幼虫が紡ぎ続け、幼虫自身の実質から織り上げた霊的(宇宙)言語がある。次に、蛹となった幼虫は、物質に変化させた太陽光(霊的言語)を、自身の実質から周囲に織り上げる。 蛾は、物質的な火(太陽光)のなかで急速に燃え尽きるが、幼虫は自らを捧げながら太陽光のなかに突き進み、追い求める太陽光の、そのときどきの方向に向かって自らの周りに太陽光(霊的、宇宙言語)の糸を織りなす。 蚕蛾の繭をとってみると、繭は、太陽光(宇宙言語)から織りなされ、幼虫自身の実質を通して、太陽光から紡ぎ出され、絹として物質化されている、ということがわかる。 繭により、空間が内的に閉ざされている。この繭の内部では、外(物質)的な太陽光はいわば克服されている。同じように、太陽光から、クロムレック(環状列石)のなかに、入り込んでくる存在(この現象についてはドルイドの秘儀に関する説明の際に述べた)は、内(精神)的な太陽光である。 (精神的な太陽光を古代の日本では霊光といったようだ。だから、環状列石の遺跡があるところでは、太陽光である宇宙言語の解析が行われていた。アトランティス時代では、その場所は、神託所とされ、7つの天体にちなんで、土星、太陽、月、火星、水星、木星、金星と呼ばれていたという。) 幼虫が蛹になるまでの太陽光は、物質力を行使し、幼虫が繭を紡ぎ出すよう導いてきたが、蛹後は、内(精神)力を行使して、(繭から)這い出し、成虫となる蝶や蛾を創出する。 このような変態を通して新たなる循環が始まる。この昆虫の変態は、いわば卵から孵化し、成長し、成鳥になる鳥の成長プロセスが、4つの形態(卵→幼虫→蛹(繭)→成虫)に主に分割されて現われた宇宙言語である。
2010年02月10日
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獅子は消化(器官)を霊的存在にまで導けない。鳥にあっては尚更である。鳥では消化の営みはほとんど完全に物質的存在に止まる。鳥にもエーテル体の消化器官が存在するのは勿論だが、鳥の消化器官のなかにアストラル性が見られることは非常に稀で、ほとんど見つけ出せない。 これに対して、雌牛において、消化器官をアストラル的に見ると、非常に崇高な存在で、1つの宇宙を形成する。 そこで、今度は人間のなかに雌牛に似た言語を見つけ、更に雌牛が一面的に形成している「照応」というべき、ある種のアストラル的な肉化を見るなら、人間では、それが消化器官のなかと消化機構の継続、つまり四肢のなかに調和的に付加され組み込まれている。 宇宙言語;崇高な宇宙→雌牛の消化→人間の消化器官と四肢 従って、高い上空の鷲のなかに見る言語と、直接空気(大気)を享受する獅子(ライオン)のような動物のなかに見る言語と、牛のような動物が、その消化器官のなかで作用を継続し、地下の地の力と結びつくとき、つまり、人間が上空を見る代わりに、地下深い場所を見下ろし、それに対する充分な理解をもって、雌牛の本質に迫るときに見れる言語の、以上の、鷲、獅子、雌牛の3つの言語が、人間のなかで統合されて1つの調和(ハーモニー)を形成し、それらは互いに調停し合う3つの形態をなす。 つまり、人間の頭部における鳥の変容(メタモルフォーゼ)と、人間の胸部における獅子(ライオン)の変容と、人間の消化器官及び四肢機構、そして四肢機構においては更に大規模な変容がなされるのは勿論だが、この消化器官と四肢機構における雌牛の変容の3つの言語をもつのが人間である。 今回、このような事実を見て、本質的に人間は自然全体から生まれ、しかも自らのなかに全自然を担っている事実、いま示したように、鳥の領域、獅子の領域、雌牛の本性を自らのなかに担っているという事実に辿りつくなら、人間は小宇宙(ミクロコスモス)である、という様々な抽象説が記述する内容を成立させている個々の要素(言語)を獲得できる。 人間は確かに小宇宙(ミクロコスモス)であり、そして大宇宙(マクロコスモス)も人間のうちにある。空中に生息する動物、地球の周囲を循環する空気(大気)のなかに、主要な生息要素(エレメント)を持つ動物、そして大地の下の重力のなかに、主要な生息要素(エレメント)を持つ動物、これらの動物は全て、人間において調和した全体性を成立させ、共同的に作用している。 なので、人間は、鷲、獅子(ライオン)、雄牛または雌牛の統合であると、霊的(宇宙)言語で解釈される。 このような事実を比較的新しい秘教学の観点から研究し、洞察すると、しばしば述べたことだが、古代の遺伝的な霊視による宇宙の洞察に対して、大いに尊敬の念が生じるだろう。 例えば、互いに調和し相応しながら1つの全体として人間を形成する鷲や、獅子(ライオン)や、雌牛もしくは雄牛から、人間が成立する事実に関する力強い像(イメージ)に対して、大いに尊敬の念が湧いてくるだろう。 だが、個々の衝動、つまり例えば、鷲の周囲に漂う様々な力のなかにある衝動や、獅子(ライオン)の周囲に漂う様々な力のなかにある衝動や、雌牛の周囲に漂う様々な力のなかにある衝動について論じる(この議論は次回にもできるが)前に、内的-人間的な言語と外の宇宙のなかに存在する言語との、もう1つ別の照応(コレスポンデンツ)に関して述べる。 さて、今では、既知の知見に従いイメージできる。人間の頭部を、その性質に従ってイメージすると、つまり人間の頭部は、鳥類を観察することで、また人間の胸部、つまり心臓の鼓動、呼吸は、自然のなかの秘密として理解するなら、獅子(ライオン)を観察することで、また人間の新陳代謝機構は、牛の身体構造と生体機構を観察することで理解できることがわかる。 (ここでいう観察とは、霊視的観察であるのはいうまでもない) なので、人間は、頭のなかには思考(鳥の翼)を担うもの、胸のなかには感情(獅子の口)を担うもの、新陳代謝機構のなかには意志を担うものをもっているといえる。 なので、鳥類と共に宇宙を織りなし、鳥の翼に現われているイメージ、地球のまわりを巡り、獅子(ライオン)において心臓の鼓動と呼吸との内的均衡の生になかに見つけられる感情世界、これは人間では幾分和らげられてはいるが、内(精神)的な大胆さ(ギリシア語は、「大胆な」という言葉を心臓や胸の特性を表わすために作り上げた)を示すが、人間は魂的にも、このイメージと感情世界の模像である。 そして人間の主に新陳代謝機構のなかに占める意志衝動を見つけ出し、これを外的に形態化すれば、雌牛のなかに肉として形態化されている霊的(宇宙)言語が出現する。 今日グロテスクで逆説的に聞こえる話や、宇宙における霊的な関連に関して、もはや全く、理解が失われてしまった時代にとっては、狂気の沙汰と思われるような話でも、古くからの風習が示唆する、ある秘めたる真実を含んでいる。 あのマハトマ・ガンジー(ロマン・ロランが、ドキュメンタリー的な書物において、あまり芳しくない記述をした(4))の活動は確かに外に向かうものだったが、その当事のインド民族の内部では、彼はインドへと伝播し、進出した、いわば古いヒンズー教に対峙する、18世紀の啓蒙主義者のようであり、彼のその啓蒙主義的なインド主義においてもなお牛の崇拝だけは守った、ということはやはり注目に価する現象である。4)マハトマ・ガンジー:Mohandas Karamchand(Mahatma) Gandhi(1869-1948)インド独立運動の指導者。ロマン・ロラン「マハトマ・ガンジー」エミール・ローニンガーによりフランス語から訳されたもの、ロータフェル出版。エルレンバハ・チューリヒ、ミュンヘン、ライプツィヒ、1923 牛に対する崇拝を捨てることはできない、とマハトマ・ガンジーは述べている。周知のように、インドでの政治活動のためにイギリス人から6年の重禁固刑を負わされた彼が、牛の崇拝を捨てなかったのである。 まだ比較的霊的な文化のなかに強固に維持されている、このような事実を理解できるのは、上述の秘教的関連を知るときだけである。 つまり、消化動物の雌牛のなかに、遥かに大きな秘密が生きている事実や、雌牛のなかで地上的になった故に低次の存在となってしまった、気品あるアストラル的な言語が、いかに崇め得る存在なのかを、真に知るときだけである。 このような事実から、ヒンズー教における雌牛に対する宗教的崇拝というものが理解できる。秘教的な理解とは逆に、合理的、主知主義的に錯綜した概念を、この崇拝の解釈に加えても、このような事実は決して理解できない。
2010年02月09日
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従って、実際次のように結論できる、 「鳥によく似た霊的(宇宙)言語、鳥に変容(メタモルフォーゼ)した存在を、人間のなかに探すなら、人間の頭である。獅子によく似た霊的(宇宙)言語を、人間のなかに探すなら、循環リズムと呼吸リズムが互いに出会う胸の辺りである。」 さて、地球の直接の環境である空中に鳥類として出現する宇宙言語と、その上空の鳥類と共に生き、いわば空気(呼吸)の循環として出現する宇宙言語の獅子から、今度は、目を転じて、牛を考察する。 他との関連で既に何度も指摘したが、牧場で牛の群れが満腹して横たわっている光景をみる際、牛のその1つ1つの姿勢、例えば目の表情、動きなどに、消化という営みが表され、観察できるのは魅力的である。 例えば、その牧場で物音をたてた場合、横たわっている雌牛をみると、雌牛が頭をもたげるが、その頭をもたげる動作のなかに、頭が重くて、上げるのが容易ではない、という感情があり、その鈍い動作のなかには全く特別な宇宙言語がある、ということがわかるのは、実際驚くべきことである。 このように牧場において頭を高く上げることが煩わしそうな雌牛を見れば、次のように結論できる。 「この雌牛は、草を食べること以外に、頭を上げなくてはならないことをいぶかっている。『草を食べてもないのに、一体何で頭を上げる必要があるのか。』 草を食べていないときに、頭を起こすことは無駄な行為であると、雌牛は感じている」。 この様子を見れば、この動物が頭を上げる行為のなかには、次のことが含まれていることがわかる。 この動物が頭を上げる動作に、消化が含まれているだけでなく、雌牛が頭を上げるように獅子(ライオン)が頭を上げることは想像できないので、消化は(雌牛の)頭部の形のなかに含まれている。 そこで更に進み、この動物の全身の形態への考察に入っていく。実際、雌牛は、過度に成長した消化器官の動物である。消化の(リズムの)重さが血液循環に負荷をかけるので、頭部と胸部の呼吸を圧倒する。 この動物は全身が消化機関である。この事実を霊的に見て、上空の鳥に一端眼差しを向けてから、雌牛を見下す場合、実際、測り知れない不思議さが生じる。 (牛は頭も消化器官なので、全体が消化器官となる。対照的に、鳥はほとんど頭部しかない。) 雌牛を、物理的に上空へと高く持ち上げても、雌牛が鳥にならないのは言うまでもない。 しかし、地球に隣接する大気のなかの光-熱状態のなかに雌牛を運ぶと同時に、次に雌牛における物質的存在を熱状態に適している雌牛のエーテル的形姿へと変容できたなら、そして雌牛を更に持ち上げ、アストラル的存在にまで変容できたなら、そのとき、遥か上空で雌牛は鳥になる。 つまり、アストラル的に雌牛は鳥になる。 ここで驚くべき事実が心に浮かんでくる。つまり、この事実を洞察すると次のような結論に至る。 「上空で鳥が、自らのアストラル体からアストラル的に得ている宇宙言語、つまり以前述べたように、その翼の形態化に働きかける宇宙言語(太陽光)を、雌牛は、その肉のなか、つまり、(消化のための)筋肉や、骨のなかへと送り込んだ。」 鳥でのアストラル的な宇宙言語が、雌牛では物質的になった。アストラル界では確かに異なって見えるが、本質は、鳥の翼と、雌牛の頭は同じである。 更にまた、逆に、鳥のアストラル性に属する(宇宙)言語を下降させ、その際、エーテル的(宇宙)言語や物質的(宇宙)言語への変化を引き起こすなら、鷲は雌牛になる。なぜなら、鷲でのアストラル的言語は、消化時(物質化)には大地に横たわる雌牛の肉と化し、物質体と化すからである。 というのも、驚くべきことに、アストラル性を雌牛のなかで進化させると、それは消化となり、実際、消化時の雌牛は非常に美しくなる。アストラル的に見て、この(雌牛の)消化の内部には何か途方もなく美しい言語がある。 通常の俗物的概念から俗物的理想主義に浸って、消化の営みを最低次の行為とするなら、霊的観照という高い見地から、この雌牛の消化の営みを見るときとは相反したものとなり、間違い、偽りを犯すことになる。 牛の消化は美しく、崇高な、途方もなく素晴らしい霊的(宇宙)言語である。 下から上;雌牛の肉→エーテル化(気化)→アストラル化→鳥のアストラル体 上から下;鷲のアストラル体→エーテル化(気化)→雌牛の肉(物質化)
2010年02月08日
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今度は空中に生息する鷲から目を転じ、また別の代表を見るために、獅子(ライオン)のような哺乳動物を考察する。獅子(ライオン)を真に理解するには、獅子が、その環境に生きるのに、いかなる喜びと満足を持っているか、ということに対する感覚を発達させる場合である。 獅子に似ていない動物は、獅子ほど驚くべき秘密に満ちた呼吸を行わない。動物という存在にあってはいかなる存在も、呼吸リズムと循環(代謝)リズムが一致している。 ただ、循環(代謝)リズムは、代謝リズムに準じている消化器官により重く(遅く)なり、呼吸リズムは、脳の形成という軽さに到達しようと上昇を目指すことにより、軽く(早く)なる。 鳥の場合では、鳥の呼吸のなかに生きている霊的(宇宙)言語が、同時に頭部にも生きている、という状態にある。霊的(宇宙)言語において、鳥は全くの頭そのものであり、鳥はいわば外(物質)的に、宇宙のためにその頭を担っている。鳥の翼の形(エーテル体)が鳥の思考の霊的(宇宙)言語である。 美に生きることのできる正しい自然感情にとって、本質的に実に生き生きと具象化した、内的に生気を得た人間の思考が、鳥の翼と親和性を持っている、ということほど心を動かすものはない。 (人間は太陽光から与えられる宇宙言語により思考するが、鳥は、それを翼として飛翔させる。人間は翼をつくれないので、思考により、代替的な飛行機をつくり、空を飛ぶ。) このような事実において内(精神)的実践(瞑想等)が可能な人は、自分が、いつ孔雀のように考えているのか、いつ鷲のように考えているのか、いつ燕のように考えているのか、が正確にわかる。一方はアストラル的(思考)で、他方は物質的である(鳥の翼)ということは別として、これらは驚くべき仕方で対応している。 つまり、思考と翼は、アストラル体と物質体として対応している。 なので、次のように結論できる。 「鳥は、非常に(頭部の)呼吸を主とする生を営んでいるので、他の器官の、血液循環他が、ほとんど消失(退化)している」、と。 消化(代謝)の(リズムの)重さ(活動)全般、血液循環の重さ(活動)すら、鳥にあっては、自ら感じることを排除され、存在しない。 獅子の場合、呼吸と血液循環の間に、ある均衡が成立している。勿論、獅子の場合も、血液循環は(リズム的に)重く(遅く)なっているが、それでも、駱駝や牛ほど重くはない。これら(駱駝や牛)の場合、消化が、血液循環に非常な負荷をかける。 獅子の場合、消化器官がこれらの動物と比較して非常に短く、しかもできるだけ速く消化が行われるような構造になっているので、消化が循環に対して、酷く負荷をかけることはない。また他方で、消化器官に対して、獅子の頭部では呼吸と循環のリズムの均衡が維持されるように頭部のリズムが展開している。 獅子は、内的な呼吸リズムと心臓の鼓動リズムとが、内的に釣り合いを保ち、内的に調和し合う、この2つのリズムを最も多くもつ動物である。なので、獅子は、獅子の主観的生活とでも呼べるリズムに入り込むと、独特の形で、ほとんど際限のない貪欲さで、餌食(餌)を飲み込み、つまり獅子は餌食を下方の腹部に送り込む作業に幸福感を感じる。 獅子が餌食に対して貪欲なのは、獅子にとっては他の動物よりも遥かに空腹を苦痛と感じるのは勿論だが、餌食に貪欲であるからといって、獅子がことさら美食家足ること、多く味わうことに執心しているわけではない、なぜなら獅子は呼吸と血液循環の釣り合いから満足を得る動物だからである。 獅子は、深い内的満足感をもって、呼吸の流れを自らのうちに取り入れることで、呼吸に歓びを感じ、獅子の大食が心臓の鼓動を調節する血液のなかへと移行し、この心臓の鼓動が呼吸と相互に関わり合ってはじめて、また、大食した結果、呼吸と血液循環との内的均衡を自らのうちに感じてはじめて、獅子は自らの獅子的要素のなかで生きる。 要するに、獅子は血液が拍動しながら上昇し、呼吸が波打ちながら下降していく、という深い内的な満足を得るとき、獅子(ライオン)存在として生きる。この打ち寄せる2つの波動(リズム)の相互の接触のなかに獅子(ライオン)は生きる。 獅子(ライオン)の走る様、跳躍し、頭をもたげ、見つめる様を見れば、そのリズムの均衡から出現する霊的(宇宙)言語と、再び均衡に至るリズムとの、絶え間ないリズムの交替へと全てが還元することがわかる。 この独特な均衡における獅子(ライオン)の眼差し、それは自らの代謝リズムから多くを見、自らの呼吸リズムから内的な克服を生み、その循環リズムでの相対する働きの克服を見つめるが、この獅子の眼差しほど秘密に満ちた気分にさせるものはない。 獅子(ライオン)が外に向かって見る眼差しは、すなわち、呼吸リズムによって、完璧な形で行なわれる心臓の鼓動の克服である。 形態化を芸術的に把握するセンスを持つ者は、その心臓の鼓動が、口の処まで上昇すると、呼吸により、その鼓動を押し止めている、獅子(ライオン)の口の構造を見るとよい。この鼓動と呼吸の相互の接触を心に描き出すなら、獅子の口という霊的(宇宙)言語に至る。 つまり、獅子の口とは、心臓の鼓動リズムと呼吸リズムの均衡調整(制御)を表している。 心臓の鼓動リズムに対する、呼吸リズムの克服を、獅子の口と呼べる。 (獅子が百獣の王といわれるのは、この高度なバランスのせいかもしれない。エジプトのスフィンクスは獅子に似ているが、高度なバランスの象徴、つまり霊性「呼吸」と物質性「血液、鼓動」の秤「はかり」のような存在と思われる。) 獅子(ライオン)は胸部器官に他ならない。実際、獅子は、その形姿やその生態のなかに、胸部の律動組織を表明する動物である。獅子は、この心臓の鼓動と呼吸の交替を、その心臓と肺との相互関係において表わすように組織化されている。 宇宙言語;獅子の口→胸部律動器官→鼓動(心臓)と呼吸(肺)の均衡形成の表明
2010年02月08日
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鳥は長い惑星的(惑星進化的)な歴史を経てきている。鳥は、例えば駱駝などより遥かに長い惑星的歴史を経てきている。駱駝はどの鳥よりもずっと後になって発生した動物である。駱駝のように、地上に縛りつけられた動物は、最も後になって発生した動物である。 鷲、禿げ鷹といった自由に空中で生きる鳥たちは、非常に古い地球の動物である。鳥は、太陽紀、月紀、地球紀の創世初期には、創世初期以後の地球紀になってから、鳥のなかへ入って内から外に向かい皮膚にまで移行していったエーテル体(形成力)を、それ自体として有していたが、今日の翼や、角状の嘴のなかに見れるエーテル体(形成力)は、本質的には後になってから完成された。 鳥における、外的存在(翼や嘴)の起源は比較的遅く、鳥が頭部の性質を比較的早期に作り上げたことによりもたらされ、地球進化の後の時代になってから、鳥が持ち込んだ様々な条件下において、鳥は、翼としてみえるものを唯一、外的に付け加えることができた。この翼は、例えば月や地球により、鳥に与えられたものだが、その他の鳥の性質は、それより遥か前の時代(土星紀、太陽紀)に由来する。 しかし、更に意味深い側面がある。空中の鳥、堂々と彼方へと飛び去る鷲を考察すると、いわば外に現われた恩寵の賜物のように、太陽光線の作用から、鷲に翼を与え(他の作用に関しても述べていくが)、その角状の嘴を与えたことがわかる。 この鷲がどのように空中を飛んでいるかを考察する。このとき鷲には、ある力が働きかけている。太陽というものは、通常話題にするような物理光や熱の力のみを持っているのではない。ドルイドの秘儀に関して述べたとき(3)に、注意を喚起したことだが、太陽からは霊(生命)力も放射されている。(3)1923年9月10日の講義「ドルイド祭司の太陽秘儀参入と月存在の認識」(「秘儀参入学と星認識」GA228に所収)参照。 この様々な霊力に目を向けなければならない。様々な鳥類に、多様な色彩と、独特の翼の形態を与えるのは、この太陽の霊力である。太陽の作用を、霊的に見通せば、鷲がなぜあの翼を持つのかが理解できる。 このように、この鷲の本性に正しく沈潜し、霊的な存在をも含む内的で、芸術的な自然理解の発展を理解するなら、また、後に述べる他の衝動により強化された太陽衝動からの芸術的創造活動を霊視できるなら、 更に、鷲が卵から這い出す前から、この太陽衝動が鷲へと溢れ漲り、その魔術(変容)力を翼へと顕現させる創造力を霊視するなら、 或いは本質的に良い言い方をするなら、その魔術(変容)力を筋肉の形態へと送り込む様を霊視するなら、そして、一体、この力は、人間にはどのような作用を及ぼすのか、 と問うなら、人間にとって、その脳を、思考の担い手にする力の存在を意味する。 なので、鷲を考察すると、次のような結論に至る。 「マクロコスモス、大いなる自然を正しく見れば、鷲は翼を持ち、それは様々な色で、多彩な翼をもつ。この翼のなかに生きる力は、人間の脳を思考の担い手にすることで、人間のなかに生きる力と同じである」、と。 つまり、「人間の脳に皺(しわ)を刻み、脳が、内的な塩の力、思考の基礎である塩の力を取り入れることを可能にする力、人間を思考の存在にするために、人間の脳を創り出す力、これは空翔る鷲に翼を与える力と同じ力である」、と。 (映画「2001年宇宙の旅」で有名な人類を進化させる「モノリス」とは太陽のことに他ならない。) この霊的(宇宙)言語を理解すると、人間は思考することで、自らのうちに、いわば鷲の翼の代用品を感じつつ、(鷲に)親近感を生じるようになる。 物質的(3次元)レベルから、アストラル的(4次元以上)レベルへと上昇すると、次のような逆説的な発言をせざるを得ない。 「物質界においては、アストラル界では思考形成を引き起こすのと同じ力が、翼の形成を引き起こす」、と。 (天使が翼をつけているのは、思考レベルが高いことも意味するのだろう。高次元世界では叡智を意味する存在が、物質界では、翼になる。) この力は鷲に翼の形成を生じるが、これは思考の形成の物質相である。この力は人間には思考の形成を生じさせるが、これは翼の形成のアストラル相である。このような霊的(宇宙)言語の内容が、驚くべき方法で民族の言霊のなかに表現されていることがある。 一つの翼を上部で切り取り、その内部に存在する霊的(宇宙)言語を取り出すとき、ある民族は、これを「魂」と呼ぶ。確かに、このような「魂」という命名に、外面(物質)的な形態をイメージする人もいるだろうが、「魂」は外面(物質)的な形態ではなく、真実を洞察できる者にとっては、一つの翼が、何か途方も無い存在を包含し、思考の形成に関する秘密を内包しているものにみえる。 宇宙言語;鷲→鳥→翼(3次元)=脳=思考の形成(4次元以上)=魂
2010年02月04日
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さて、前回までは、宇宙言語の前置きとして、地球の四季を宇宙言語として理解するのに必要な秘教学的知職を、シュタイナーの講義からまとめた。 春に天から地へと再生力の宇宙言語が発せられ、夏にそれは最高度の表現形態へと到達する。地に住む魂にとっては、それは夏至の日に、天界へと到達する想いを巡らす出来事となり、それが夏至祭として人間の魂の根底に残された。 そして、秋になると、今度は、展開力から収縮力へとむかい、冬には、新たな生命を育むために、内なる太陽である霊性という宇宙言語を冬至祭として魂の根底に感じるようになる。 このような四季の宇宙言語を、年(歳)神が語るのを、古代の霊能者は読み解いたということであった。 今回からは、四季から更に宇宙言語を読み解く領域を広げる講義のまとめをおこないたい。+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++ 秘教学が行なっている考察において、しばしば言及され、「四季とミカエル問題に関する連続講義」(1)(GA229 四季の宇宙的イマジネーション)においても、ある役割を果たしたのは、「人間という存在は、その構成全体や、その生の関連全てにおいて、本来、小宇宙であり、マクロコスモスに対するミクロコスモスを示し、人間は実際自らのうちに、宇宙の法則性全て、宇宙の秘密全てを含み持っている」ということであった。1)ルドルフ・シュタイナー「四つの宇宙的イマジネーションにおける四季の体験」(1923年10月3日から13日にドルナハ、10月15日にシュトゥットガルトで行なわれた七回の講義、GA229)参照。*邦訳は「四季の宇宙的イマジネーション」(西川隆範訳 水声社) ただし、この抽象論の完全理解は容易ではない。いわば宇宙の多様性な秘密のなかに奥深く入り込んでから、この秘密を人間のなかに再び見つけ出さなければならない。 さて今回は、この秘密を、一方では、ある出発点から宇宙を見て、それから他方において、人間がいかに小宇宙として大宇宙の内部に存在しているかを理解するために、人間を見るというように観察していく。 勿論、大宇宙に関して語れる秘密とは、常に小さな断片(フラクタル)でしかない。完全な存在を叙述することは不可能で、そうするには観察に際して少なくとも、全宇宙を隙間無く歩き回らなければならないからである。 最初に、人間の頭上に出現する存在に目を向けてみる。人間の周囲において、動物という系列のなかで、その生をいわば空中で営んでいる存在、しかも非常に際立った方法により、空中で生を営んでいる動物類を見てみる。つまり、鳥類である。 空中に生息し、その生存の条件を空中から得ている鳥という存在が、大地に接して生息し、或いは地下に生息しさえする他動物たちとは本質的に異なって構築されている、ということに誰も異論はないだろう。 鳥類を見るとき、一般的な人間にとっての通例の見解に従うと、鳥の場合にも、頭部、四肢他に関して記述するのが当然だが、根本的に、この記述は非芸術的な観察方法である。 既にしばしば注意を促してきたことだが、本来、真に宇宙という存在に精通するなら、主知主義的な理解に止まることはできず、主知主義的理解から、次第に、芸術的に宇宙を把握することに移行していかざるを得ない。 さて、鳥類を、芸術的に(宇宙言語として)理解するには、他の動物の頭部と比較して、実際に極めて奇形化している鳥の頭部なるものを、真の頭部であるとは理解できない。確かに外面的、主知主義的に観察すれば、鳥は1つの頭と1つの胴体、そして四肢を持っている、と言える。 しかし、よく考えてみれば、例えば、ラクダの脚やゾウの脚と比して、鳥の脚はいかにも萎縮しているようにみえ、また、ライオンやイヌの頭に対して、いかにも鳥の頭は萎縮しているようにみえる。 このような鳥の頭部のなかには、(他動物一様の)規定通りの頭部とされるものがほとんど存在せず、つまり鳥の頭部のなかには、根本的に、イヌやゾウやネコの場合のような、前方の口吻部以上のものは、ほとんど存在していないようにみえる。 哺乳動物の口の部分が少しばかり複雑になったもの、これが鳥の頭である。それに哺乳動物の四肢に相当するものは、鳥の場合には完全に萎縮している。確かに、非芸術的観察方法では、四肢に関しても単純に、前肢が変形して翼になった、としている。 しかし、このように鳥の翼が変形した前肢であるというのは、非芸術的な見方であり、イマジネーション的でない見方である。自然を真に理解するなら、宇宙の内奥へと入り込み、このような芸術的想像力をもっと深く、とりわけ、その形態化への様々な力と、様々な形成力において観察しなければならない。 単純に鳥も頭と胴体と四肢を持つ、というような見方では、決して、例えば鳥のエーテル体を観ることを真に理解できるには至らない。というのも、イマジネーション的に観ることを通じて、鳥においての物質的存在を見ることから、鳥においてのエーテル的存在へと移行すると、エーテル的な鳥にあっては頭しかない、という真実に至るからである。 エーテル的な鳥から即座に理解できることは、鳥という存在は、他の動物の頭、胴体、四肢とは比較できず、鳥は単に頭だけの存在、それも変形された頭だけの存在として理解する必要がある。 従って、本来の(エーテル体でいう)鳥の頭は、単に(他動物の)口蓋と前方の部位の口の部分を示すにすぎず、更に後方へ続くもの、骨格のうち肋骨や脊椎に似て見える部分全ては変容され、変形されてはいるが、やはり頭とみなすべきものである。 そもそも鳥の体全体が、(動物の)頭部に相当する。実際、鳥を理解するには、惑星としての地球進化(☆2)を、遥かな太古の昔まで遡っていく必要がある。 (2)「アーカーシャ年代記より」(1904ー1908、GA11)、および「神秘学概論」(1911 GA13)の「宇宙進化と人間」の章に見られるシュタイナーの基礎を成している記述を参照。
2010年02月02日
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人間は、年(歳神)が啓示するイメージを理解する必要があり、「人間の内的性質」に参入する眼(霊眼、心眼)を持つ必要がある。そうするとき、人智学は、心臓や肺や脳といった人間有機体の全部分に書かれた文字を通して、人間に、宇宙の秘密の解き明かし方を示すだろう。 それは、古代、歳神の霊感を受けた者によって、古代の秘密が、発芽する植物や、動物、そして、それらの地上での生を、ロゴスの文字として読み解かれたのと同様である。人智学徒は、人間の内(精神)的存在を覗き込むことができなければならない。人間の内(精神)的存在は文書にならなくてはならない。 人智学徒は、そのような解明文書から、人間の進化行路を読みとる。そのとき、人智学徒は、その進化の意味と目的に献身しなければならない。そして内(精神)的ヴィジョンによって、様々な霊力として人間性の進化に織り込み、流れることを望む存在と一体となる必要がある。 この進化は永遠に前進しているので、ゴルゴタの秘儀と聖夜の秘儀を、各時代毎に新たに経験しなければならない。 人智学徒は、クリスマスの夜に、ベツレヘムで生まれた肉体(イエス)を自ら希求した霊性(キリスト)が語ったことを充分に経験しなければならない。 「見よ、我はいつも汝と共にいる、地球の日の終わりまで。」 充分に経験が成就したそのとき、人智学徒は、人間という存在を通して、絶えずロゴスが啓示するものを聴く霊的な耳(霊聴力)をも持つ必要がある。かつて古代の人間が歳神の霊感に耳を傾けることができたように、人間は、この人間性の神、つまり、キリスト自身の霊感に耳を傾けることができるようにならなければならない。 経験し尽くしたそのとき、人間は、聖書で伝えられたキリスト=イエスの地上における霊的な漂泊(滞在)について観想するだけでなく、それ以来、地上の生にある人間と(キリストが)一体化し、聴こうとする耳(霊聴力)をもつ人々には絶えず自らを顕すことを理解するだろう。 現代の人間は、古代で、かつてクリスマス祭が秋のミカエル祭に続いたように、いわば秋ともいえる19世紀の3分の2が終わった時代に始まったミカエルの啓示の次に、(冬である)聖なるクリスマス祭が来ることを理解できるようになるだろう。その事実によって、人間は地上の(進化の)道程に必要な霊の誕生を理解するようになるだろう。 そうすれば、結局、霊化された地球は、地球の将来の存在形態(木星紀)や状態(エーテル体)に移行できるだろう。 現代人は、年間行事として、ミカエル祭の後にクリスマス祭があるだけでなく、魂の深みのなかの自らの人間性から、19世紀の3分の2が終わった時期のミカエルの啓示を理解し、ミカエル祭からクリスマス祭に至る真実の道、いわば、まさに知ろうと努めている霊性に浸透される道を求めるべき時代に生きている。 真実の道に到達するとき、次のような福音書の言葉 「我は、汝らに言いたいことが沢山あるが、汝らは、いま、それに耐えられない(それを容認、認識できない)」を理解するだろう。 今、人間性は、キリストが述べることに、耐えられる組成(容認、認識できる人体構造)になっている。人間は、ゴルゴタの秘儀に関して、進化を阻むような無味乾燥の(物質的)文字により記された内容だけを指し示し、時代を超えて生きた姿で自らを現す、秘儀の力を望まない存在(悪魔)に耳を傾けるだけではいけない。また、現代は、世界の春が訪れるとき、平安(平和)でいることを望む人々に耳を傾ける時でもない。 世界の春を、現代人は、外的な、物質的自然の最も輝かしい栄光で啓示しているが、その霊性は啓示できない。 (シュタイナーがいいたいことは、このままの冬である限り、平和の春ではなく、闘争、戦争の春が訪れるといいたいようである。このままの冬とは、なぜ、物質世界が、雪により閉ざされ、不毛地帯と化したのか、を考えず、ただ単に、雪「物質」集めや雪合戦を楽しむような表層的な見方しかない人々を指す。) 現代は、ミカエル祭から冬至の祭への道を見つけ出さなければならない時である。そして、この冬至祭は「霊性の日の出」を含むべきである。 人間と地球の進化において、今日、外(物質)的生や、外的文明や、外的文化に光があるという錯覚に身を任せるなら、この道を見つけ出すことは決してないだろう。 そういう処には闇がある、ということを悟らなければならない。しかし、この闇のなかに、キリストがイエスを通じて世界にもたらすことを意志した光を求めなければならない。 羊飼いと東方の三王(賢者)が、クリスマスの夜に飼い葉桶のなかに道を求めたのと同じ献身さで求めるなら、ただし、同じ献身では、まだ幾らかボヤけているが、次第に明確になってくる文字を通じて人間という存在を読み解ける足跡を辿るなら、そのとき、聖夜のキリストの神秘を新たに祝うことが赦されるだろう。しかし、それは、「闇」に光を求める意志を持つときにのみ生じる。 今日、世界を明らかにせず、光をもたらす代わりに闇という不明瞭さを醸し出す体系をしばしば「科学」という名で呼ぶ。(ちなみに、「明らかにする」という言葉は「光の明るさ」から来ている)。こうした闇は光を理解しなければならない! (物質科学は、本来の光、霊性の科学に目覚めないといけない。) 心の感情の深みで、また意志の最強の力で闇に霊の光を見つけ出そうとするなら、そのとき、その光は、偉大なクリスマスの夜に羊飼いと三王(賢者)にイエスの誕生を告知した星のように輝くだろう。 人智学徒は、クリスマスのイメージを、人間の歴史的進化のなかにおさめることができるようにすべきである。新しいメシアを、新しいキリストを待つ必要はない。 自然を通して人間に多くが啓示されてきたが、この数世紀のなかで、人々を物質の闇の中へと導いてきた。だから、いまも生き続けるキリスト=イエスの生きた理解によって、今も人間に啓示できる事実を待たなければならない。 このように、クリスマスのイメージを、伝統的な年中行事に固定せず、ベツレヘムの星のように、人類の進化の道を照らし出してくれるように、流動的に変え、行う必要がある。 クリスマスイヴに、述べたかった事実は、この光、この輝く星についてである。人智学により純粋だが弱々しくも霊感として授けられた意志と、聖夜に人類全てに最も確実に真実として照り輝く星を追いかけるもう1つの意志とを結合することを確実に行うことをいま望むべきである。 深く、そして親密な静寂のうちで、この光に浸ることは、現代にとって最も深い、そして最も真実のクリスマスにおける奉献である。他全ては、実は、この真実のクリスマスの感情の外的徴候(しるし)にすぎない。この思いを、クリスマスイヴから、クリスマスの朝まで担うことができる。 そのとき、この聖夜は、単なる象徴でなく、生きた力の象徴となる。また、この聖夜が、どれほど深く、あらゆる真実の人間において、未来へと導いてくれると同時に、人類は、真のクリスマスの精励、世界史的クリスマスの夜にベツレヘムに生まれる肉体(イエス)への受肉を意志した、あの霊性への精励である、霊的努力と結びつくように、将来、心を砕くことになるだろう。
2010年02月01日
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