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第9講義で述べたように、医学に可能なのは、遥かな未来において十分に発達した科学となるような学問の最初の基本的導入部を提供する、ということだけである。 けれども、前回述べたような事実が今日(1924年)の精神世界に存在し、地上ではなく、太陽上に生きる存在たちにとって、自然に思える程度に応じて、前回述べた形で地上の意識の中にもたらされる。 実験室での実験方法や教科書の中に解説されているような抽象的な解剖学によって、精神(霊)的な洞察力を発達できる、と考えるべきではない。精神(霊)的な出来事全ては、人間自身により直接経験されなければならない、というのが本質である。 では、何故そうなのか? 前回述べた精神(霊)的洞察力の獲得による霊的現実を、光の中にしっかりと保持できるのは、霊的な現実が人間共通の努力から生じる力ためで、つまり、地上での人間の経験による、過去生の受肉から、導出する力により支えられ、唯一保持されるからである。 (人間のなかには、神「宇宙」の宇宙の創造作業が眠っているといえる。人間が経験を通して、その神「宇宙」の思いを読み解く。いま、人間が喜ぶのは、かつての神が喜んでいたわけで、いま苦しむのは、かつての神が苦しんだわけで、それらの喜怒哀楽を継承しているともいえる。) 精神(霊)的出来事の経験、すなわち、霊的現実が生じるとき、土星と木星の領域の世界に、人智学徒が火星と呼ぶ領域が入ってくる。霊的な現実は、インスピレーション(霊聴力)を通して現れる。そして、秘儀参入者は、インスピレーション(霊聴力、無の)意識をもって太陽へと再帰する。 (子孫は、先祖の経験を再認識し、更には、先祖の先にある族長の経験、更には、族長以前の神の経験にまで霊的に遡れる。前世が、霊視力、先祖から族長が、霊聴力、そして、神の経験が、天神合一力というか、神通力といわれる経験なのだろう。 人間のなかには、いわば神のデータベースが眠っている。それを経験により検索するのが、人間の役目ともいえる。 このような話から、カゴメの唄を思い出す。「カゴメ、カゴメ、カゴのなかの鳥はいついつでやる、夜明けの晩に、鶴と亀がすべった、後ろの正面だれだ。」という唄で、子供が輪になって、真ん中の鬼役を囲んで唄を謡いながらまわり、唄が終わったところで、後ろにいる人物を、目隠しした鬼役に当てさせる遊びである。 このカゴメの唄には、秘儀参入法が隠されているのではないかと思う。カゴメは、籠目で、六芒星のことで、人智学では、アストラル体、つまり霊魂を表す。 鳥とは高貴な存在で、高次元存在、夜明けと晩は日の出と日没で、夜明けの晩とは、電燈のない昔の起きるときと、寝るときの夢の世界。夜明けの晩とは、覚醒時に、夜の月を招きよせることになる。鶴と亀は長寿の象徴で、後ろの正面は、鏡を現す。 すると、この唄は、「伝えろ、伝えろ、霊魂のなかの高貴な存在はいつ現れる、覚醒時に夜の月を招きよせ、千年、万年の前世の人生経験を導いたとき、その経験の鏡として現れる。」という秘儀参入、霊能力の伝達式などをイメージさせる。) 上記の方法は、今日の自然科学を用いた別の方法(道)、つまり、第9講で述べた、月の参入者たちが避けたがる方法(道)である。月の参入者たちは、上記の方法(道)との接触に遭遇するとき、落ち着かなく感じるが、上記の方法に従うべきである。 (何度も書くが、シュタイナーは、自然科学を、霊的な秘儀参入法の検証に用いたのではなく、霊的な秘儀参入時の覚醒意識の保持、つまり覚醒意識の検証に用いたと言っている。 夢であるか無いかを、頬をつねって痛ければ、夢ではないという、いわば現実確認法というべきものがあるが、その類に自然科学を用いたというわけで、夢のなかで、自然科学的思考を保持できるので、覚醒意識を保持したと証明したわけである。) 上記の議論からわかるが、月領域に参入する方法(道)は、古代の秘儀参入者たちには全く適したものだった。月の参入法に関しては、H.P.ブラヴァツキーの著書の中に素晴らしい記述がある。もし、作り話から真実を区別できたなら、著書「シークレットドクトリン(秘密教義)」の中に、多くの重要な真実を見つけることができる。 H.P.ブラヴァツキー http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%96%E3%83%A9%E3%83%B4%E3%82%A1%E3%83%84%E3%82%AD%E3%83%BC%E5%A4%AB%E4%BA%BA けれども、この方法はH.P.ブラヴァツキーが密接に関係していた月のアストラル(星)光(霊光)の領域に参入する方法(道)である。その領域では、高貴な水星の使者が、彼女の解釈を方向づけていた。人智学徒が彼女の論説を追っていくとき、高貴な水星の使者が、絶えず彼女のイマジネーション(霊視力)をいかに正しい源泉(知性)へと向かわせていたか、ということがわかる。 ブラヴァツキーの素晴らしい点は、最初、彼女がイマジネーション(霊視)へと促されるのを感じると即座に、イマジネーション(霊視)が実現する点である。彼女は水星の使者によって秘密の図書館へと導かれる。彼女の中で、ある考えが形を取ると、水星の使者が彼女を、バチカンにより注意深く守られていた本へと導く。 彼女はその本を読み、もし、彼女が読まなかったら、バチカンにより何世紀もの間、用心深く守られてきた為に、彼女にはアクセスできなかったような様々な情報を、彼女の著書の中に見つけることができる。この方法(道)は実際、よく使われた方法(道)で、堅固な内(精神)的コントロール下で達成される方法とは、区別すべき方法(道)である。 もう1つの方法(道)は、以前述べた経過を辿るが、その方法はH.P.ブラヴァツキーがペスト(病原菌)のように嫌った現代の自然科学の方法に依存している。 その方法(道)は、以前述べた形で、つまり、カルマ的な(前世の)記憶を呼び起こすためというより、その記憶をしっかりと保持し、記述するために、カルマ的に人間の能力を発達させる、という点に、拠り所を見つけ出す、ということを十分に意識した上で用いるべき方法である。 今日(1924年)の科学は第9講において、私(シュタイナー)の協力者に言及したときに述べたような人間的な価値に浸透されていなければならない。人智学徒が、真の方法(道)と偽の方法(道)の源泉を見つけることができるのは、定義を通してではなく、具体例を議論することによる。 この連続講義のまとめとして、次の第11講は、残された短い時間の中で、この主題に関し、できるだけ多くの情報をつけ加えたい。
2010年10月29日
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人間世界と精神世界との関連で、第9講で触れた、ベークマン博士との共同研究を挙げる。この研究のなかで、超常現象を正確に記述する試みを行った。内(精神)的な夢の生活に光を投げかける別の探求方法(道)については既に述べたが、その方法と同じく、上記の共同研究のなかの探求方法も精神(霊)的な洞察なしには成立しない。 この探求方法は、探求すべき現象を、精神世界に起源をもつ対応物と直接関係づけるような方法である。 しかし、超常現象は、前回述べたような形で、外界で遭遇する個々の奇跡的な出来事とは関係しない。超常現象が属する領域とは、医学や解剖学、生理学の教育訓練を受け、人間の器官(肺、肝臓他の器官)の外(物質)的形態に関する知覚が、イマジネーション(霊視)的な理解に従い変容を遂げ、徐々に人間という生命体を、イマジネーション(霊視)を通じて洞察できるようになり始めた人が認識できる領域である。 従って、超常現象を理解するには、自然のなかの日常の外(物質)的な現象からではなく、異常な現象と同じ形で働く人間の器官に対して研究できるときである。つまり、超常現象の理解を可能とするには、当初の科学的で、解剖学的な知覚を、生命体へと精神(霊)的に参入することで、変容できる立場にあるときである。 以前、述べた方法では、人間という存在全体を出発点としたが、今回の、いわゆる精神(霊)的解剖学を通じて、個々の器官を直接知覚し、理解することからはじめる方法は、自然科学を戯画化した統計的手法から外(物質)的現象を理解する、偽(いつわり)のアプローチとは対照的に、真の結果へと導くことができる。 上記のことからわかるように、超常現象を議論するためには、上記の霊的な道筋に沿って訓練を受けてきた臨床家の協力が必要だった。更に言うなら、霊(精神)的な観点から解剖学を眺めるなら、霊(精神)的な方法で人間の器官を精神(霊)的に理解できるので、目の前のゴールに対して、心に疑問を抱かなくなることがわかる。 (霊的な解剖学や器官異常を理解する医者は秘儀参入法を学んでいるともいえる。) そして、精神(霊)的な知覚の前に、以前に述べたような内(精神)的な(全体)人間ではなく、勿論まだ漠然としているが、力強く、巨大な姿をした外(物質)的で宇宙的な人間(全体として認識できるのではなく、精神「霊」的な知覚を通じて、各器官が内的に現れるような人間)が明らかになる。 単なる物質的人間ではなく、宇宙的な人間が出現するのは、各器官が精神(霊)的に眺められるからである。 以前、夜の世界(月の領域)を昼に招き入れたのと同じように、この宇宙的な存在(それは完全体の人間ではなく、個々の器官から構成される存在だが)の中に招き入れるのは土星領域の衝動である。 以前の段階では、月の領域が通常の覚醒意識の中に招き寄せられたのと同じように、土星の領域が科学的な知覚意識の中に招き寄せられる。土星の力から、あらゆる器官の中で特別な形で働いている作用を認識できるようになる。土星の働きは肝臓の中では特に強く、肺の中では比較的弱く、頭部では最も弱くなる。 上記のように様々な器官に土星の影響を探す、という人智学徒に課せられた目標を意識できるようになる。 以前、瞑想の段階的な実践により、精神(霊)的に前進(進化)したのと同様に、今度は、土星の探求、すなわち、個々の器官の精神(霊)的構造の探求から、内(精神)的に同化することで、更に木星領域へと到達し、あらゆる器官は、実際、神的-精神(霊)的存在の地上での対応物である、ということが認識できるようになる。 人間は、神的-精神(霊)的存在のイメージを、内に、器官として担っている。 宇宙(太陽系)全体は、最初、土星領域の中に巨大な(1つの)存在(天体)として出現したが、巨大な宇宙的存在(天体)としての人間全体が、何世代にもわたる神々の内(霊)的-生命的な共同作業の総体として現れるのを、霊視から読み解くことができる。 (太陽系は土星からはじまったと、シュタイナーは説く。土星から、太陽、月と地球は分離してきた。ただし、ここで述べる、土星は、現在の天体の土星とは異なる。霊的な土星である。物質的にいえば、熱だけの状態である。 現在の土星も、この霊的土星に類似した状態とはいえる。類似というのは、人間の、子供や大人という成長段階を意味する用語と似た分類という意味である。つまり、土星は、天体の赤ん坊を表す命名といえる。 土星サターンは農業神からきているが、恐らく、種を蒔くという意味だろうが、サタン、つまり悪魔にも使われる。悪魔も未熟で、個的なので、土星と似ているといえる。熱がありすぎると悪魔になるわけだ。) 宇宙(太陽系)の歴史に対しても、精神(霊)的な経験をする過程で、秘儀参入者を支え、守護することができる力により活性化されたように、十全たる意識の中で、正しい方法(道)を追求しなければならない。 宇宙(太陽系)の歴史的な全ての影響は、第一に胎児の段階に現れるが、その出現は一時的である、ということに注意すべきである。 器官のなかの土星の存在を認識することは実際には容易だが、もし、本質的な危険に屈し、つまり、土星領域で生じる全てが、人間の意識から直ちに消失し、そのため、土星領域について熟考できる立場を失う、という本質的な危険に屈するなら、土星領域を記述することや、土星に対する明確なイメージを保持することや、心的なイメージへと形づくることはできない。 さて、今日(1924年)、魂の探求に従事する人たちは精神(霊)を顧慮することなど夢にも思わない。自分たちの方法、つまり、様々な霊媒師や夢遊病者を実験室に呼んでテストしながら研究することを好む。 しかし、精神(霊)的真実は人間のレベル(物質世界)にまで引き下げられることはない。科学的方法で、超常現象に取り組み、徐々に科学的解釈に到達する、と公言する場合は特に真実とは程遠くなる。
2010年10月28日
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第9講で、いかに様々の心霊、あるいは極秘的な団体が、時代の要請に従って、自然科学的な手法を戯画化した方法により、外(物質)的な現象を通して精神世界を探求しようと試みているか、を示した。 誤解しないで欲しいが、上記の方法を貶しているのではない。というのも、外(物質)的な現象の観察を通じて、精神世界の真の本性(霊的存在)に対する科学的認識を、人間が熱烈に望んでいることを痛いほど感じているからである。 この講義で指摘したいのは、上記の方法(道)が必然的に、錯誤へといかに導くか、ということと、そして、真の方法(道)の本質とは、いかなるものでなければならないか、ということである。 現代人は、科学の時代に生き、これからも生きていかなければならないので、自然科学の直接的な方法により精神世界を探求したいと考える人たちや、科学的方法以外の純粋に精神(霊)的な方法は信頼に足るものではないと考える人たちがいる、ということもよく理解できる。 そして、上記の人たちは、精神世界とは別に、日常の世界があり、その中で生きる人々や、その社会生活が要求する物質を満たし、この物質社会生活との関係で考え、行動する人々が、いわば物質的に存在するという結論に達する。 日常の世界には何も特別なものはなく、日常を当然のものとして受け入れる生き方なので、科学的探求の分野では外(物質)的な現象、すなわち熱、光、電気、磁気等々が問題になることを主張する。 他方、人生においては、日常にはない異常な状況も生じる。霊媒は、自動筆記を行い、催眠術や誘導の影響下で様々の行為が遂行されるケースも生じる。科学者は、日常の世界の中に、物質的な方法で、未知な世界が現れるのではないか、と疑い、異常な状況の外(物質)的な兆候や、異常現象を説明しようとする。 科学者は、ニューヨークのある住人の考えや経験が、テレパシーによって、ヨーロッパに住む、魂的に親和性のある友人に伝わる異常現象を、日常において、ニュースが無線で伝えられる例で、説明しようとする。 この種の現象に関しては、無数の例を引き合いに出し、自然科学の統計的な手法により研究できるが、上記の科学的方法はいかなるゴールにも、最終的な理解にも導かない。何故なら、精神世界の中に求めるべき人間の本性、すなわち、人間に必須とされる精神的な動機づけを欠いているからである。 心霊現象全ては、それが非常に素晴らしいものでも、外界における雑多な現象の寄せ集めのように見える。物質的方法では、心霊現象、いわゆる超常現象に関する認識や理解には到達できない。超常現象を記録し、通常の領域外の異常とみなし、精神世界に対する仮説を打ち立てても、無意味である。 何故なら、超常現象自体が、源泉を精神世界の中にもち、その真の本性を簡単に漏らすことはないからである。科学者が、いかに霊媒に対して、科学的事実を用いて取り組んでも、精神世界は常に人間世界と共に存在するにも関わらず、その真の本質が明かされることはない。
2010年10月27日
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もし、瞑想を更に探求し、自身の内(精神)的な存在を益々強化し、活性化させるなら、水星(現代でいう金星)の影響に、金星(現代でいう水星)の影響が加わる領域に到達する。 (古代では、いまでいう金星と、水星の命名が逆になっていた。つまり、古代の金星を、現代では、水星と呼び、古代の水星を、現代では、金星と呼んでいると、シュタイナーは指摘している。奥義を隠すためだそうで、古代史研究において、しばしば混乱を与える。 このような置換隠喩のようなことは、神秘学にはよくあり、例えば、シュタイナー曰く、「賢者の石」とは、「炭素」のことであるといっている。炭素はあまりに身近なので、錬金術を素人から隠すために、「賢者の石」と呼んだという。) そして、秘儀参入者が、金星(水星)の影響と接触を持つとき、つまり、金星が昼へと招き入れられ、内(精神)的な夜の中に昇るとき、イマジネーション(霊視)的な光景、すなわち、真のイメージの中に現れた(精神的)存在たちが、霊視による視界から失われ、空になった意識をもって、精神世界に直面することになる。 (イマジネーションという霊視の世界から、インスピレーションという霊聴の世界に参入することを述べているものと思われる。禅では、「仏陀に出会えば仏陀を殺せ」という格言があるが、この格言は、仏陀という霊視の世界を殺して、空の意識の、霊聴の世界に到達せよ、という意味にもとれる。 仏教の空の世界とは、人智学でいう、霊聴の世界、つまり音の世界ということなのだろう。つまり、観音様とは、空の世界の存在を表現しているのでしょう。) 金星(水星)には、精神的存在たちがいる、ということを人智学徒は知っている。参入者は、精神的存在たちが住む金星(水星)領域に到達する。そして、今度は太陽領域が近づいてくるのを待ち受ける。 (仏教でいうなら、まず仏陀が現れ、やがて消え、観音様が聞こえ、そして、大日如来の出現を待ち望むということになる。) これまでの月から水星、金星への到達プロセス全体が、月から再び太陽を経験するための準備であった。一連の準備全てが生じるのは、秘儀参入者が覚醒した昼の意識を保持しながら、外から太陽の影響を受けている日中である。 秘儀参入者は、既に述べた方法(道)を、月から水星、そして金星へと辿る。水星から金星に至るとき、視界が失われ、更に進む。すなわち、それは地球から月、水星、金星、そして、終には太陽へと続く道である。 参入者は太陽の内(精神)的な存在へと参入し、再び太陽を、今度は精神的に眺める。霊的な太陽は、とらえ処がなく、曖昧だが、参入者は、霊的太陽を精神(霊)的に知覚している、ということを実感する。参入者は、太陽の内(精神)的な存在を、充分に知覚する。 次のような乱暴な比較から類推して理解できる。 「遠くに何かあるので近寄ってみる。最初は静止している物体だと思ったが、触れてみると、手に噛みつく。そこで、それは静止した物体ではなく、犬であることが分かる。物体だと思ったが、実は、精神的な存在(霊魂)が宿る生命体だったことに気づく。」 上記のような乱暴な比較により、上述の経験が、現実を根底としているという事実に注目するだろう。地球から出発して、月の影響を通過し、水星(金星)、金星(水星)を通って、太陽を眺める段階へと至る。そこで、太陽は生きた精神的な存在であり、太陽の中には精神的存在が生きている、ということに気づく。 (シュタイナーは、あらゆる天体には、精神的存在が住んでいると述べている。月にも、物質という肉体をもたない、いわゆる霊体が住んでいる、と述べている。 ただし、物質的な月は、月の領域の一部で、境界を示しているだけで、地球と領域を一部、共有している。肉体を持たない死者もまた、月の存在といえる。だから、一般的に冥界と呼ぶのだろう。 つまり、肉体をもつものが、地球人で、肉体をもたないものが、月人ということになる。このような視点から、神話や伝説を考察すると、その意味が通じることがある。 例えば、かぐや姫の竹取物語は、死者の冥界と人間界の交流を描いたものと解される。実際、古代には冥界との交流があったようである。) 上述した方法が、第一に辿ることができる道である。秘儀参入者が進歩するには、この道のどの段階においても十分な覚醒意識を保持する必要があり、保持している限りにおいて、正しい方法(道)の上にいる。 そして、もし、どのような方法であれ、自分の身体を離れ、覚醒意識を失い、そして、眼前で精神的な現実となった宇宙へと参入するなら、霊媒や夢遊病のように、間違った方法(道)の上にいる、ということが十分に明らかになる。 内(霊)的で精神的な知覚に向かう真の方法(道)と、偽の方法(道)との違いを内(霊)的に意識しなければならない。
2010年10月26日
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通常、神秘家は内側(内面)を見る。内省を通じて、神や宇宙、天使や悪魔が調和された感情の発酵を生じさせるが、その内省が到達する先は、せいぜい通常の夢の状態である。その夢の状態では、その状態が性的な局面から来たのか、あるいは知的な局面から来たのか、を判別できない。 その経験は一般に混乱し、漠然としたものである。この経験は、いわば、混沌とした夢を、明らかになるように、照らすことのない、漠然とした雲のような神秘主義であり、秘儀参入者だけが理解できるような、混乱を一層深刻化した神秘主義である。 そのような経験は、シエナのカトリナ他の人々により記述されたように、非常な驚きと詩情に満ちているが、その経験を理解できるのは秘儀参入者だけである。何故なら、経験が何であるか、を本当に知っているのは秘儀参入者だけだからである。 シエナのカタリナ http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%82%A8%E3%83%8A%E3%81%AE%E3%82%AB%E3%82%BF%E3%83%AA%E3%83%8A 従って、もし、計算をしたり、幾何学を研究したりするのと同じように、明晰で明瞭な意識をもって、秘儀に参入したなら、つまり、もし、上述した事項に、十全なる意識をもちながら参入するなら、正しい方法(道)の上にいる。 内(精神)的な月の夜を、外(物質)的な昼の中に招き入れることで実現する場合のみ、真の精神世界を発見できる。月や水星が、外(物質)的な宇宙空間の中に昇ってくるのが現実であるのと同じように、秘儀参入における、月や水星の昇天が、夢のような幻想ではなく、否定できない現実であるように感じる。 十全なる意識をもちながら、精神世界に参入すると、この地上で人間に出会うのと同じように、精神世界で、精神的存在たちに出会うので、それがこの地上と同様に現実であり、幻想ではない、ということが分かる。 精神世界の本性を意識することなく精神的存在を求めるなら、必然的に、間違った道筋に沿う。もし、地上にとどまりながら、霊媒やそれに類する顕現に関する実験に満足し、精神的存在との、精神世界での直接的な接触を持たなければ、その人は、間違った方法(道)の上にいる。 精神世界の中で、意識を覚醒することなく、例えば表面的な神秘主義のように、躓きながら手探りで進み、その成果だけを求めるような全ての活動は、間違った方法(道)の上にいる。精神世界への参入に際して、直ちに、この精神世界を、精神的な現実として経験する全ては、正しい方法(道)の上にいる。 従って、月の領域に関する内(霊)的に生きた認識は、秘儀参入への道の1つの出発点である。そして、そこから、次のような結論に達する。 「太陽(昼)と月(夜)の関係において、通常は、睡眠中に経験する人間の通常の経験を、秘儀参入者は、覚醒生活の中で経験する。」 (秘儀参入者は、意識の上では、眠らない存在といえる。だから、死にもしない。勿論、肉体とエーテル体に受肉できなくなれば、肉体が保存されずに、朽ち果てるので、外見上は、「死」と判別されるが、自我とアストラル体、いわゆる霊魂に覚醒意識がある限りにおいて、死ではない。 古代エジプトにおいて、肉体がミイラとして保存されたのは、秘儀参入者がいつでも、戻って来ることができるためであると解することができる。つまり、ピラミッドは秘儀参入者の場、秘儀参入者が神々と対話するためのいわゆる神殿であることが、この講義の内容からもわかる。 シュタイナーによれば、人間の魂は、転生するために、受肉すべき肉体を、七代前の先祖から、探しているという。七代前といえば、大体、親が25歳位で子供を生むとすれば、25×7=175年前で、大体、2世紀前という勘定になる。 だから、地上での経験を積むために、2世紀前から、霊魂の能力を向上させるための入れ物、つまり肉体の家系を探していることになる。人生が60年とするなら、大体3倍にあたる。人生の3倍もの期間探しまわってやっと念願叶って、生まれてくるわけである。 ある霊能者にいわせると、誕生後、赤ん坊が泣き出すのは、あまりの嬉し泣きだという。確かに、人生の3倍もの期間探索して、やっと成就するわけだから、あまりに嬉しくて泣き出すのも無理はない。) 秘儀参入者は、月の影響を、まるで、外(物質)的な存在であるか、のように意識するようになる。参入者は、夜を昼の中に招き入れ、参入者の精神の目(心眼)には、夜空を見上げるときに通常見られるような星が散りばめられた夜空ではなく、水星という惑星が昇ってくるのが映る。 そして、もし、著書「いかにして高次の世界を認識するか」に書かれている指示に従い、真のイマジネーション(霊視)を発達させることに成功していたなら、そのイマジネーション(霊視)の世界が、覚醒生活の間、現実として、月(や水星)の領域の中に現れてくる。 水星の影響が及ぶ領域に参入すると、イマジネーション(霊視)は、水星の(精神的)存在たちに移行する。参入者は、現実味に欠けたヴィジョン(幻想)を経験するのではなく、イマジネーション(霊視)によるヴィジョン(イメージ)を知覚するが、イマジネーション(霊視)はそれぞれ対応する(精神的)存在たちに移行する。 従って、もし、大天使についてのヴィジョン(霊視)を持つかもしれないが、正しい秘儀参入の道に沿って十分に前進していなければ、大天使の存在は、そのヴィジョン(霊視)のままにとどまる。実際に大天使との接触を持ち、真の大天使が、そのヴィジョン(霊視)の中に現れるには、もっと進歩した段階に、参入者が到達している場合だけである。 (例えば、遠くからみると、雲のようにみえる存在も、近寄れば、水滴であることがわかるのと同じだろう) 大天使のヴィジョン(霊視)よりも前の段階では、内に月の光を経験していても、大天使の存在を知ることはなかった。しかし、水星の領域に達すると、大天使は現実のものとなる。上述のように、秘儀参入者は、実際に精神を知覚する世界へと視覚世界が移行する中で、水星の影響を意識するようになる。 上記の事実を常に強調すべきで、上述した秘儀参入法を、正しい形で達成するには、完全に意識的である必要がある。
2010年10月22日
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人間の中で、秘儀に参入する意識が夜明けを迎えていることを示す最初の経験とは、正誤2つの方法(道)のうちの正しいほう、つまり進化へと導く方法(道)、夢の世界の意識的な認識へと導く方法(道)に従う、ということである。 そして、既に指摘したように、上記の経験は必要なステップであり、もし、(夢の状態の中で)意識的になるなら、外界は昼間にも関わらず、自分の中に夜を担う、という事実に気づく。昼なのに、内(精神)的な夜が、自分の中で目覚める。 上記の秘儀に参入する意識が目覚めるとき、外(物質)的な目と外(物質)的な事物の認識にとっては昼間だが、この昼間に、夜の月の精神的な光が煌き、辺りに浸透し、照らし始める。そして、精神が輝き始める。 上記のように、内(精神)的な努力により昼の意識の中に夜の意識を持ち込む事実を悟る。 このような事実が、他の活動が昼間に意識的に遂行されるのと同じように、堅固な意識の中で、生じるとき、つまり、いわゆる寝ずの番をする人間が、夜の月の活動を昼間の覚醒経験へともたらすことができるとき、その人は、正しい道を歩んでいる。 もし、十分に意識的でないまま、何らかの存在が自分の中に参入するのを許し、内(精神)的な惰性から、夜の経験が、昼の意識中に生じるようなら、結局、その人は、霊媒主義につながる間違った道の上にいる自分を見つける。 従って、本質的なのは、十分に意識的であると同時に、経験を十分にコントロールしていなければならない、という点である。 現象や経験よりも、どのように反応するか、が決定的要素なのである。もし、通常の夢遊病者が、屋根等の天辺に登っているとき、十分な意識を発達できれば、その瞬間に、秘儀参入を経験するだろう。 夢遊病者に向かって目を覚ますように叫ぶと、夢遊病者は屋根から地面に落ちてくるが、それは、覚醒意識を発達できないからである。もし、落ちるかわりに、十分に覚醒意識を発達させ、維持できたら、夢遊病者は、秘儀参入者になるだろう。 秘儀参入の意識とは、夢遊病者の中で病理的に発達させられる状態を、全ての面で健全な道筋に沿って発達させる、ということなのである。 (とどのつまり、正しい道とは、他者の奴隷にならない、ということだろう。意見であっても、鵜呑みにせず、自分なりに納得し、肉付けしないといけない。つまり、自分なりの解釈や土台を自分でつくることが必要とされる。 そもそも、西欧の学問は、中世のリベラルアーツに由来するが、人智学では、秘儀参入法だが、リベラルアーツとは、人間を束縛するもの、時代や環境の奴隷とするものからの解放のための訓練を意味していた。自然からの解放と自立が主題である。 一言でいうなら、日本語では、「鵜呑み」にしないこと。鵜呑みとは、鵜飼の鵜で、鵜のような存在にならないことがイメージできる。また、リベラルは、日本語では「自由」だが、自由とは、自らに由来するものと解釈でき、つまり、自分なりの解釈、土台を自分でつくること、という意味にとれる。 人間を束縛するものは、悪魔で、鵜飼でいうなら、鵜飼である。鵜は鵜飼の奴隷である。日本語は非常に曖昧なので、イメージの言語ともいわれるが、このような貴重な言語を先祖が残してくれたにも関わらず、昨今の日本人は、奴隷のような連中ばかりである。カネに使われ、奴隷化してしまっている。 日本語は非常に神秘的な言語に思える。恐らく、日本語をつくった者は秘儀参入者だったのだろう。) 上記のように夢遊病者と秘儀参入者の違いから、精神世界では、真と偽の差が紙一重であることがわかる。物質世界では、真と偽を区別するのはそれほど困難ではない。常識に訴え、経験を積めるからである。 精神世界に参入する瞬間、真偽の区別が極端に困難になる。真偽の区別は、自制と内(精神)的な覚醒状態に左右される。更に言うなら、昼間、内なる夜を覚醒させるとき、その月の光は、外(物質)的な放射の性格を徐々に失う。 昼間の夜の経験はどちらかというと外(物質)的ではなくなり、内(精神)的な居心地のよさ、というような一般的な印象をもたらす。けれども、何か別の存在も意識するようになる。素晴らしく輝く水星の光が、この精神的な夜空を照らす。 水星という惑星が、昼の中へと誘われた夜の中に本当に昇る。といっても、その水星は、物質的側面の水星ではない。何故なら、そこに生きる生命の存在に気づくからである。水星の居住者である生きた精神的存在たちをすぐには意識できないが、水星が現れる形から、自分は精神世界と関係している、という一般的な印象を持つ。 (水星といえば、仏陀がよく水星と呼ばれることから、仏教徒の秘儀参入者には、仏陀が現れるのかもしれない。禅では、仏陀に出会えば、仏陀を殺せ、という格言があるが、仏陀の外的姿ではなく、内的な姿、つまり、水星の生命力を感じる、秘儀参入法の極意の伝達なのかもしれない。) 精神(霊)的な月の光が、参入者の内で、生命を与える普遍的な賦活力、いわゆる人智学徒がその一翼を担う賦活力になるとき、水星という精神(霊)的な惑星が、昼の覚醒意識の中へと導かれた夜の意識のなかに徐々に昇ってくる。 水星は、煌く黄昏の中から出現するが、そこから浮かび上がるのは、人智学徒が水星の神的存在と呼ぶ存在である。秘儀参入者は、水星の神的存在を、絶対的に必要とするが、その理由は、もし、その存在がいなければ、混乱が始まるからである。 第一に、上記の存在を、つまり、水星に属する存在と人智学徒が確信している存在を、精神世界の中に見つけ出す必要がある。 上記の神的存在(水星)を意識することを通じて、自らのうちから目覚める「第2の人間」を、意のままにコントロールできるようになる。そのとき、もはや夢遊病者のような、躓きながら、あてもない道を行くのではなく、神の使者である水星の導き手により、精神世界へと続くはっきりと規定された道に沿って導かれるようになる。 従って、もし、精神世界への真の道を見つけ出したいなら、まず、自分を導き、方向づけするのに助けとなる明確な経験を通過する必要がある。
2010年10月21日
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通常の覚醒意識の状態にある人間に関する限り、(物質)世界に対する関係、太陽や月に対する関係を記述する必要はないだろう。人間が昼の意識や夜の意識の中で、どのように生きているか、を思い出せば、誰にでもわかる。 通常、混乱した夢の意識との関係で、秘儀参入者のように、内なる魂の力を強化し始める瞬間、つまり、この夢の意識を、現実を理解する道具へと変化させることに成功した瞬間、覚醒時に集積された月の力が自我の中に存在している、ということに気づく。 秘儀参入の認識を通して、実際に夢を現実に変化させた瞬間、人間の中にいる第2の存在を感じ、この第2の存在の中に、月の力が生きている、ということを知る。 秘儀参入意識の初期段階において、自らの中に、月の力が存在し、その力は、第1の人間の中におさめられた第2の人間を、その中で常に発達させようとしている、という事実に気づくようになるが、そこで衝突が生じる。 覚醒意識ではなく、睡眠中に、上述した第2の人間の中で、月の力が内(精神)的に活性化し始め、この内的な力により第2の人間が、自然へと解き放たれる。 つまり月の存在により第2の人間が夜に解き放たれ、睡眠中の受動的状態の中で、夢の意識が覚醒し始め、通常の第1の人間の中に隠された第2の人間が、月の光の中で第1の人間を連れて、辺りを彷徨い始める。 これが、眠りながら歩行するという特徴をもつ夢遊病的状態の真相である。 月が外を照らすとき、魔術的な力、つまり自然の力とは種類が異なる変則的な力との接触を持つ第2の人間を覚醒させることが可能になる。第2の人間は辺りを彷徨い始め、減退した意識状態の中で眠りながら歩行する人間として、通常の覚醒意識とは異質の形で振舞う。 (狼男の由来は、この第2の人間にもあるのだろう。土の妖精にも、似たような由来があるが、特に満月のときに、姿が変わるという点で。) 上記のような夢遊病者は、通常なら、ベッドに横たわったままだが、この場合は、辺りを彷徨い、屋根に登ったりするが、本来、夢遊病者が探し求めているのは、実際には、肉体の外側で経験すべき領域なのである。 (夢遊病者は、物質界ではなく、夢の「月」の世界、つまり、死後の世界を求めている。) 上記の意識状態を、意識的かつ内的な経験にし、正常な道筋へと導くとき、秘儀に参入する意識への第1歩を踏み出すことになる。けれども、この場合、接触するのは実際の外(物質)的な月の影響ではない。 第2の人間の意識を発達させるのを可能にするのは、人間の中にある(内的な)月の力である。この第2の人間が彷徨い出るのを何とかして阻止しなければならない。第2の人間が亡霊のように彷徨い出て、間違った方法(道)に従ってうろつく危険性が常に存在する。第2の人間はコントロールされていなければならない。 遍歴する可能性のある第2の人間が身体内にとどまり、肉体と関連する正常で当たり前の意識に結びついた状態で秘儀に参入する意識を獲得するには、内(精神)的な安定と自己自制が不可欠である。 内(精神)的に強化された月の本性がつくり出した第2の人間が、自らを解き放つのを阻止するように、絶えず努力しなければならない。第2の人間は、新陳代謝のなかの、蠕動運動、すなわち胃その他の器官に関係する全てに強く引きつけられ、重く圧し掛かる。
2010年10月20日
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夢の意識状態が、間に横たわる2つの対極の意識(覚醒意識と空虚な睡眠意識、つまり夢を見ない深い睡眠意識)について考察する。 アストラル体と自我から、肉体とエーテル体が分離した状態にある睡眠中の人間を観察するなら、睡眠に落ちてから目覚めるまでの間、肉体とエーテル体から退いた太陽の影響が、アストラル体と自我の中に繊細に保持されているのがわかる。 人間は、起きてから眠るまでの間、太陽を外的に経験し、雨により、太陽の影響が覆われているときでも、太陽を意識している。それは、周囲の事物のお陰で、事物から反射された太陽光を知覚できるからである。 覚醒時の生活全体を通して、外から事物を照らし出す太陽の影響に人間は曝されている。睡眠の状態に移行する瞬間、太陽は自我とアストラル体の中で輝き始める。人間は精神の目(心眼)で太陽を知覚する。 睡眠中、太陽は人間の内部にある。よく知られているように、ある鉱物は光を照射され、光を吸収した後、暗い部屋の中に放置されると、周囲を照らすようになる。霊視すると、人間の自我とアストラル体も同様の形式である。 覚醒状態では、ある程度外的な太陽光に圧倒されているが、睡眠中は、太陽光が浸透することで、輝きを発し、照らし始める。 蛍光 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%9B%8D%E5%85%89 要するに、覚醒時、人間は外的な太陽の力の影響下に生きるが、睡眠中は、寝起きの瞬間に至るまで、人間自身の内に担う太陽の力の影響下にある。人間は、睡眠中、太陽を内にもち、肉体とエーテル体だけが後に残されるが、それらは、内(自我とアストラル体)に保持された太陽光によって、外の精神世界から照らされる。 事実、保持された太陽光を外から、皮膚に作用させ、もしくは感覚器官に同化させることで、身体に活気や活性化した成長力を供給している。 実際、睡眠中、アストラル体や自我は、肉体やエーテル体の外にあり、太陽光は、まず皮膚を照射し、それから、目や耳を通して神経系に同化させる。 睡眠という現象は、上記のようなものである。太陽は人間の自我とアストラル体から輝き、皮膚を照らし、感覚の扉を通って人間へと参入する。 月の力は、新月、満月によらず(というのも、月の影響が、月相により変化するといっても、常に存在するので)、人間の肉体とエーテル体に外から侵入してくる。従って、睡眠中は、自我とアストラル体から来る太陽による肉体とエーテル体への働きかけと同時に、肉体とエーテル体に対する月の働きが見られる。 睡眠の状態は、宇宙との関係で、上記のように特徴づけられる。睡眠中、人間の内(精神)的生活は、太陽と、そして外(物質)的な生活は、月と関係づけられる。というのも、アストラル体と自我は外にあるとはいえ、実際には、内(精神)的な存在だからである。 覚醒(起きている)時の生活では、睡眠中の状況とは逆になる。覚醒時、月の影響が、内(精神)的存在全体に浸透する一方で、太陽の影響は、外から、身体の中に侵入する。従って、覚醒時の生活では、太陽の影響は直接、肉体とエーテル体に浸透し、内なる自我やアストラル体は蓄えられた月の力に左右されている。 つまり、覚醒時の生活では、肉体とエーテル体の中に、太陽の力が外から浸透し、内(精神)には、蓄えられた月の力が浸透し、睡眠中は太陽が、覚醒時は月が、アストラル体と自我に居住し、覚醒時は太陽が、睡眠中は月が、肉体とエーテル体に居住する。 徹夜や、睡眠を犠牲にし、翌日まで飲酒し、2日酔いを招いても、上記の影響はやはり存在する。というのも、人間が自然の法則をあえて無視しても、自然の慣性力、宇宙的な継続性のお陰で、事象は自然の進行に従うからである。 覚醒時 睡眠中 肉体とエーテル体 太陽 月 アストラル体と自我 月 太陽 昼間眠り、夜起きる場合、月の影響は、夜の覚醒生活では、自我とアストラル体の中で活動する。太陽の影響もまた、身体に浸透するが、太陽光の経験は、夜の街灯から身体に差し込む光や、野宿して星を見上げるときの、星の弱い光等の経験による。 (現代人は、蛍光灯などの人工灯により覚醒生活が長い傾向にあるといえる。それがある意味、物質主義的なモノの見方を誘導しているのかもしれない。) とはいえ、睡眠中に蓄える太陽の力や、覚醒時に、内(精神)に浸透する月の力は至る場所に存在する。肉体とエーテル体に関しては、覚醒時と睡眠中では、立場が逆転する。 生まれてから死ぬまでの通常の覚醒意識は、上記の太陽と月の力の転換に負っている。 さて、次に、人間が高次の意識形態を達成するとき、どのように状況が変化するか、を考察する。 というのも、秘儀参入者の太陽や月に対する関係は徐々に変化するが、上記の宇宙に対する関係の変化を通して、精神世界への道(参入方法)を見つけることができるからである。
2010年10月19日
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第10講 地球外の宇宙が人間の意識に及ぼす影響 第9講は、精神世界への異常かつ病理的なアプローチに関して、内(精神)的な深い理解を通じて参入する方法(道)、すなわち、夢の世界に秘儀参入する方法(道)と、夢遊病者や霊媒師が、実際に外(物質)的に表現する現象を、自然科学的な手法を戯画化した方法を用いて、探求する方法(道)について述べた。 第9講ではまた、真に秘儀参入の認識を獲得するなら、上記の2つの方法(道)を意識的に追求しなければならない、ということを指摘した。第10講では、この問題を更に綿密に検討すると同時に、人間の意識や存在全体を左右する宇宙的な影響を探求する。 人間に及ぼす影響の中で、地球の影響を除けば、太陽と月の影響が卓越している、ということが容易にわかる。一般に、人々は、上記の事実に対して、ほとんど無関心だが、今日(1924年)では、太陽の放射がなければ地上には何も存在し得ない、ということは科学者にさえ明らかな事実である。 太陽の力は植物の生命を地球から魔法のように出現させる。太陽の力は、全ての動物の生命と人間の肉体及びエーテル体にとって不可欠である。太陽の働きは、現代人でも、真剣になって探せば、様々な場所に見つけ出せる。 つまり、太陽の力は、人間をつくる高次の構成体にとって、決定的に重要な存在だが、月の影響に対しては、現在でも、それほど関心がない。月の影響が今日まで残っていても、しばしば迷信という形であり、月の力に対する正確な認識は、しばしば、月の影響に関する迷信により、曲解されたものになっている。 今日、科学の分野で働くような人は、自分は迷信とは無縁であると信じているから、月の影響が何らかの意義をもっているとは考えず、月の影響に対して真剣に考察しようとも思わない。 しかし、月の不思議な力が、詩的なイマジネーションを刺激することに気づいている詩人たちや、月の光の下で熱い思いを交わす恋人たちだけでなく、各々が異なる形だが、地球に対する月の影響について予感する賢者たちも、少数だが存在する。そして、月の力の影響は非常に教示的である、ということも証明できる。 19世紀中頃のドイツにシュライデンとグスタフ・テオドール・フェヒナーという2人の教授がいた。 フェヒナーは人間と広範な自然領域での神秘的な働きに関する科学的探求に傾倒していた。彼は、特定地域での降雨量が月の満ち欠けに関係している、ということを示すデータと統計的な証拠を集め、降雨量が月の満ち欠け(月相)により変化する、という結論に達した。 彼は当時の科学理論に反する彼の立場を迷うことなく主張した。大学の同僚であり、著名な植物学者であるシュライデン教授の見解は異なっていた。彼は、「フェヒナーの考えは馬鹿げている、月の影響について語るのはナンセンスだ」、と断言した。 さて、両教授は既婚者で、当時、彼らが住んでいた大学街の雰囲気は、まだ家族的だった。当時、衣服の洗濯のために、主婦たちは雨水を貯める習慣があった。月の影響を議論していた両教授だけでなく、彼らの妻たちもまた、上記の問題の核心に迫ろうとしたが、ある日、フェヒナー教授が妻に次のように言った。 「シュライデン教授は降雨量が月の満ち欠け(月相)に影響される、ということを信じようとしない。お前には、ある月の周期に、シュライデン教授夫人には、別の月の周期に雨水を集めてもらいたい。シュライデン教授は月の満ち欠けが影響する、ということを信じていないのだから、異論ないはずだ!」 ところが、シュライデン教授夫人は、フェヒナーの説による、降水量が少ない月の周期の担当に乗り気ではない!ことを、フェヒナー教授夫人に告白した。 大学も家族も2つに分かれて、論争は続いた。 マティアス・シュライデン http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%86%E3%82%A3%E3%82%A2%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%A4%E3%82%B3%E3%83%96%E3%83%BB%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%87%E3%83%B3 グスタフ・フェヒナー http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B0%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%95%E3%83%BB%E3%83%95%E3%82%A7%E3%83%92%E3%83%8A%E3%83%BC さて、この出来事には、科学的根拠がある。人智学の方法により、月の影響について調べると、単なる迷信の名残ではなく、太陽と月の強力な影響に関して、科学的な事実として語ることが可能なのがわかる。 上記のエピソードから、通常の覚醒意識をもつ現代人が、上記の降雨量と月相の関係というテーマに関して知ることが可能な事実全てを言い表している。 現代人はいわば地球、太陽、月の影響下に生き、基本的には、意識もまた依存している。何故なら、既に指摘したように、星や太陽、そして月の、外見(物質)的な側面は決定的な要素ではないからである。 太古の時代、月の領域には、人類の教師だった月の存在たちが隠れ住んでいることは、既に強調した。 太陽の領域にも非常に多くの精神的存在たちが隠れ住んでいる。地球が人類の宇宙的なコロニー(植民地)であるように、全ての星は、精神的存在たちのコロニー(植民地)である。既に指摘したように、現代人は、誕生から死までの間、ほとんど地球、太陽、月の影響下のみに生きている。 今獲得すべきものは、人間が太陽と月の影響下に生きるときの精神的、魂的、そして物質的条件に関する正確な知識である。
2010年10月18日
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最も重要なことは、月の秘儀とそれに関連する全てに浸かった古代の秘儀参入学を超越し、隠された秘儀参入者の認識を実り多きものにするため、自然科学の成果(この講座では、自然科学による知性的な征服まで言及しているが)が利用できるときに、唯一到達できる魂の内(精神)的状態を発達させる、ということである。 他方、同様に重要なのは、夢遊病者、もしくは霊媒師が、トランス状態で元素霊に取りつかれるとき、エクトプラズムという形態の中で生じている事実、を確かめるために行われる生半可で混乱した実験を、特別な秘儀参入の探求の場にかえる、ということである。 というのも、上記の2つの方法(道)は、本当は同一のもので、つまり、無意識な夢から、意識的な夢への現出が必要であり、意識的な夢の現出は、自然科学が、鉱物(物質)的側面において唯一知り得る外界への意識的な理解から生じるからで、いわゆる心霊研究が提案する方法は、生半可な探求であるからである。 科学の時代に生きている現代人にとって重要なのは、精神的探求において、上記の方法(道)を追求し、無意識な夢の世界の対極にある別の世界(意識的な世界)を精神的に探求する、ということである。 夢遊病者や霊媒師や、秘儀参入は、日常の生活では見られない異常現象である。夢遊病者や霊媒師等の筆記や動作、会話や味覚は、通常の人間のものではない。それは、アストラル体と自我が、肉体とエーテル体の外にあり、(本来の自我に)捨てられ、宇宙(あの世)の影響下に、肉体とエーテル体が置かれていることによる。 霊媒や夢遊病等の異常現象の出現時には、通常の自然の働きを反映した物質的、もしくはエーテル的な顕現ではなく、精神世界から進出する存在に直面する。 というのも、結局、霊媒師自らが指示を出しているのか、もしくは、霊媒師が何らかの星座、天候、金属の影響を、エーテル体の中に受容し、その影響下にあるか、ということが区別できないからである。 霊媒という乗り物が、魔術的目的のために精神的存在(元素霊)の用途に供されている、ということを心にとどめておく必要がある。 心霊研究協会は外(物質)的な実験により探求しようとするが、精神的存在に関する知識なしに、夢遊病者や霊媒等の顕現(憑依)の研究はできない。 上記の精神的関連を調べる必要がある。霊媒師や夢遊病者が生じさせる現象と、その背後にある精神的な基礎を観察する必要がある。 霊媒師や夢遊病者を通して示される、憑依現象は、他の霊媒的な現象とも関連している。霊媒師がトランス状態において、人間的、あるいは宇宙的な影響下で、ある行為を行うとき、つまり、肉体やエーテル体がある行為を遂行するとき、それは人間を病気にする有毒な植物の中で生じているプロセス(過程)とは、一時的とはいえ、別の要因により決定されているが、同様のものとなっている。 霊媒的、或いは夢遊病の状態の中で示されるのは、外見的、かつ一時的な病気という仮面を被っている。 ある観点から言えば(この観点に関しては次の第10講義で詳細に議論する予定だが)、霊媒や夢遊病の現象の中に見ることができる(必ずしも見る必要はないが、常に見ることは可能)特徴は、病気の中でも生じることで、それは、その病人の自我とアストラル体が何らかの異常な形で、ある器官から、或いは身体全体から立ち去り、別の精神的存在の影響により置き換えられている、ということに要因がある。 太古の時代では、上記の霊媒や夢遊病と病気の関連に気づいていたので、秘儀は常に治療と関連していた。そして、太古の人々は、今日ほど詮索好きではなかった為、霊媒や夢遊病者に興味を示す必要性を全く感じなかった。 というのも、霊媒や夢遊病者の行為は、病気と同じ状態で、よく知られたものだったからである。霊媒や夢遊病者のような出来事は、医学的な観点からのアプローチがなされたが、このアプローチは、現代人が再び獲得すべき立場である。 自然現象や自然科学を通じての中途半端な方法で、精神的存在にアプローチする、間違った方法も正しい形に修正して追求しなければならない。全ての現象、特に人間や動物の病理的な状態を通じて表現される全ては正しい見通しの下に再び見直されるべきである。 そのときはじめて、心霊研究協会が探求を望むような現象を調べることができる立場に立つ。 そして、いま(1924年) この研究分野は人智学協会によって開かれた。病理的な現象の研究に際し、その病理的現象を通じて、精神世界への扉が開かれるような形で、研究を行うことが可能になった。 このような研究が可能になったのは、イタ・ベークマン医師と共同で、この研究分野を、心霊研究からは無視されてきた正しい道筋に沿って発展するように努力してきたからであり、また、イタ・ベークマン医師が、有能な医師としての知識だけでなく、医療上の所見から精神(霊)的な洞察をも併せ持ち、またそこから真の治療へと直接に導くだけの先験的な治療の才能をもっていたからでもある。 従って、人智学徒の前に横たわっているのは、上記に示した領域の探求の為に従うべき方法(道)である。人智学徒は、自らの努力により、秘儀参入する自然科学となる、真正な秘儀参入の医療を発達させねばならない。 人智学徒の努力の末に、多くの偽りの方法(道)とは、はっきりと区別される真の方法(道)が、全ての人々に示されることになるだろう。そして、ベークマン医師との最初の共著により、踏み出すべき第一歩がいまここに示される。 このような関連から、指摘すべきことは、真の方法(道)と偽りの方法(道)との違いは、例証を挙げることで端的に示される、ということである。 以前、精神の領域を再び自然科学の領域(分野)に結びつけるような芸術的な方法(道)を見つけ出すべきである、ということを述べた。今、付け加えるべき方法とは、自然現象に関する探求と関係する正しい方法(道)であり、すなわち人智学の方法(道)を最初に探求してはじめて、芸術に向かう正しい方法(道)を見つけ出すことができる。それは、現代文明のおかれた状況から本質的なことである。 というのも、人類は特に病理現象の発生の中に見られる精神的存在の活動を確信できてはじめて、つまり、精神が物質の中で作用し、自らを示す事実に関する明白な証拠があるときにはじめて、芸術の中に、精神が活発に浸透している、ということを認識するが、今日(1924年)の芸術という分野において、人類は、以前述べた橋を架ける状況とは、いまだ程遠い段階にいるからである。 人類が、精神(霊)的存在を、直接世界に提示できるのは芸術作品の形であるという考えに対する心からの情熱を十分に醸造できるようになるには、恐らく、自然界における精神の活動に気づくようになるときだろう。 次回は、自然界における精神の活動について、更に詳細に述べる。 (シュタイナーは、精神的存在を、物質的に解釈しても無意味というわけで、それは、芸術的に解釈すべきであると提案している。 この観点は尤もなことで、例えば、自分の感情を物質的に表現する位陳腐なことはない。第一、自分の感情を、外からそのまま捉えることができないからである。 しかし、現代は、恐るべきことに、人間の感情さえも、貨幣に換算しようとしている。つままり、悪魔の策略に嵌ってしまっているのである。魂を悪魔に売り渡してしまっているのである。カネが入ればうれしいという気持ちが、これに該当する。貨幣の奴隷となってしまっている。)
2010年10月15日
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近年になって、神智学協会ではなく、自然科学の権威者により扱われてきた心霊分野、すなわち心霊探求の領域が開かれた。これらの自然科学者による心霊探求は、科学的背景から、限定的な潜在性の霊能力を持つ者たちを探求することで遂行され、精神世界の本性を確かめるために統計的手段や霊媒による実験を用いた。 人間の魂が、別の存在により保有(憑依)されている間、通常の意識状態にはない、完全な無意識状態、もしくは減退した意識状態で、手足を動かしたり、電気信号に反応したりするときに、何が生じているのか、等について、客観的に探求しようとする試みが、あらゆる種類の団体で、様々の観点から行われた。 上記の実験において、そのような方法で意識を減退させられた人々の反応が記録されてきた。 (現代でも、似たような実験、つまり、霊能者といわれる人たちの脳の活性化等を調べているが、唯物論である限り、進歩はないだろう。実際、リラックスしたときに出るアルファ波という脳波が多く出る傾向にあるというような結果しかない。 アルファ波は、覚醒意識と関係しているようで、秘儀参入法は、覚醒意識を促進することに基本があるから、アルファ波を促進することと唯物的には捉えられる。) この種の探求に熱心な人が、私(シュタイナー)に勧めたことは、内(精神)的な世界の現象を、客観的に探求するために、私(シュタイナー)と私(シュタイナー)の探求成果を、心霊実験の為に提供すべきである、という主張だった。 これは、およそ、次のような発言と似た状況である。 「私は数学のことはわからないので、数学者の言うことが本当かどうかを確かめるため、数学者を実験室に連れていこう。偉大な数学者かどうかを示す実験をやってみるのが一番だ!」 いま、問題としている探求分野は、人間の内(精神)面に参入しようとする正しい試行ではなく、単なる科学的方法を漫画化し、外(物質的な)面から、夢遊病者や霊媒を探求しようとする現代的試行の分野のことである。 なぜなら、もし、本当に人間の内面に参入するなら、霊媒や夢遊病という現象の中に観察できる事実は、外(物質)的な乗り物の肉体とエーテル体からなる自動人形であるということで、すなわち、科学的な心霊探求家の探求は、精神(霊)的真実ではなく、本来の探求対象である心霊が、置き去りにした外(物質)的な乗り物にすぎない、ということに気づくはずだからである。 (霊魂をドライバー、肉体を自動車に喩えるなら、自動車を精密に調べても、ドライバーは理解できないのと同じである。 霊媒や夢遊病は、自分ではなく、代わりにプロのドライバーを連れてくるようなものである。超能力が発揮されるのは当然だが、本人ではないし、本人の人生が、無意味になる。) そのような心霊研究家は、精神世界の精妙な側面を考慮しないで、しばしば内(精神)的な経験だけでなく、見て、知覚できる物質的な形で、精神的存在を感じ取ろうとする。 この種のアプローチは、以前、既に正しい精神の探求方法を述べたが、さも、そこから生じたかのように思わせるが、全く別の形をとる。心霊研究家は、肉体の中にあるキリストの精神的な姿を求める振りをしながら、実は、精神(霊)的存在の直接的な顕現を、外界の中に見つけることを欲する。 物質世界を、上記のような外界として認め、精神(霊)的存在が、本当に存在する場所、勿論、物質世界にも関わるが、本質的には、物質世界に浸透した精神(霊)的領域の中に求めるべきである。 物質世界に浸透した精神(霊)的領域には、更に別の領域がある。健全な状態にある人は、内(精神)的な経験の領域と外(物質)的な知覚との間、また(参入者のみる)混乱した夢の世界と霊媒や夢遊病者の異常な世界との間にある隔たりを結ぶ橋を架けなければならない、という感じを持つが、これら2つの世界の統合から、お互いを実り多いものにすることで、芸術が生まれた。 つまり、芸術では、外的な形態(姿)に精神が浸透し、精神的な内容が、外的な形態(姿)をまとっている。 神智学協会が、通常の人間を、精神的な実存であると喧々諤々な議論に忙しくしている間、人智学協会では、秘教的な流れを「芸術」に向けるような衝動が生じた。そして、神秘劇とオイリュトミーが生まれ、言語造形の芸術が発達した。 オイリュトミー http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%82%A4%E3%83%AA%E3%83%A5%E3%83%88%E3%83%9F%E3%83%BC これらは、人智学協会において発展した他のものと同様、精神的存在と物質の間の隔たりに橋を架け、秘儀参入者がみる混乱した夢の世界と霊媒や夢遊病者の異常な世界とを、意識により結びつけようとする衝動が、実りをもたらした。これら2つの世界は芸術において意識的に融合した。 いつか、上記のことが理解されるだろう。マリー・シュタイナー婦人が実践しているような言語造形が、かつてまだ人間が本能的、精神的であった時代に享受していたようなレベルに回復するとき、人々は、人智学学徒の努力の目的を理解するだろう。 マリー・シュタイナー http://homepage.mac.com/satokk/marie/marie.html 当時の人々にとっては、空虚で抽象的な表現よりも、言葉のリズムと韻がより重要だった。リズムと韻を再生しなければならない。そして、再び、オイリュトミーを、古代のときのように回復させるのは、魂と精神からなる真の人間が、その動作を通じて展開する芸術(ダンス)にある。オイリュトミーから学ぶことができるのは、古代人のリズムと韻のようなことなのである。 従って、最初に芸術の中で、参入者が参入する目的もなく彷徨う夢の世界から、霊媒や夢遊病者が盲目的に躓きながら歩き回る世界への橋を架けなければならなかった。今日の唯物的な時代では、混乱した夢の世界を見る参入者は孤独な省察の中に取り残され、精神的存在を表現し、明らかにする実質的な形態や構成については何も知ることがない。 そして、夢遊病者たちは、霊媒師としての名声を享受しているかどうか、また共産主義者たちのように理想的な国家理論を発明しているかどうか、ということが、いかなる害を及ぼすか、などを気にすることもなく自分の人生を生き、そして、霊媒師もそうだが、あらゆる種類の夢想的な顕現を周囲の世界に撒き散らしている。 夢の世界を見る参入者も夢遊病者も、精神的存在(悪魔)に関するほんのわずかな疑いを持つこともなく現代の世界を生きている。 物質から精神に、そして精神から物質に導く橋を再び見つけ出すことが本質であり、まず芸術の分野において、この橋を見つけ、半分、無意識な状態で躓きながら彷徨うのではなく、通常とは異なる精神状態から、運動を通して芸術に対する感覚を発達させなければならない。 従って、オイリュトミーは、真なる内(精神)的な源泉を、秘儀参入の中にもち、言語造形という芸術において実践する全ては、その同じ源泉から生じている。そして、人智学徒は、ドルナッハで、予定された舞台芸術が催されるとき、舞台芸術の精神的なイメージを再び回復するように努めることになるだろう。 長い間、俳優は、どうすれば舞台上で最大限の現実性を表現できるか、という課題に注意が払われてきた。このテーマに関する90年代の議論は全く漫画的だった。 シラーの劇の登場人物たちが、英雄風な台詞を演説調に話すとき(結局、当時は自然主義が勝ちをおさめたが)、手をズボンのポケットに入れるべきかどうかという問題が(というのも、それが現代的なファッションだったからだが)議論された。 従って、精神世界の探求の為の正しい方法(道)を見つけだす、ということに関しては色々な理屈があるが、芸術の方法(道)に従うのが健全な基本方針である。 シラー http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%89%E3%83%AA%E3%83%92%E3%83%BB%E3%83%95%E3%82%A9%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%B7%E3%83%A9%E3%83%BC
2010年10月14日
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さて、霊媒や夢遊病の現象は、肉体の状態が正常である限り、正常である。何故なら、歩行や運動、モノを掴む能力、すなわち、いかなる種類であれ、外的活動を遂行できる能力は、誰でも、肉体を使って、魔法や夢遊病のようにマネできるからである。 けれども、このような活動は肉体だけに限定されるべきで、エーテル体まで及ぶことがあってはならない。もし、肉体に限定されなければ、正常な状態から、異常な状態に移行することになる。 従って、秘儀参入者の霊視は、完全に自身(自我)の内に生きるが、霊媒師や夢遊病者は、自身(自我)の外にいる。霊媒者や夢遊病者の肉体とエーテル体は、幾分、自動人形と同じ形で機能し、働きかけることができるが、それは、霊媒者や夢遊病者自身の自我やアストラル体が、コントロールを失うからである。 その結果、霊視している参入者の場合に、内なる精神世界が創造されるように、霊媒師や夢遊病者の場合には、外界の自然や、いわゆる形態の世界や、その起源、知覚可能な全ての時空に関係する全てとの合一が生じる。 (外界は幻想で、外界を作り出している存在は、アーリマン的存在であり、霊媒や夢遊病になると、これらの存在と共鳴する関係になり、霊魂を売り渡すことになる。仏教的にいえば、執着を生じる。 すると、死後も、この世にとどまろうとし、自縛霊や地縛霊、浮遊霊等の悪霊となり、高次の世界を目指すことをやめてしまう。 外界が幻想なのを理解するには、例えば、液体と気体の境界の液面のようなもので、外界が構成されていることを理解すればよい。液面は常に変化し、ある液面に拘っていると、結局、ないものねだり、となる。) 秘儀参入者が、夢の世界に参入するとき、形態のない(非物質の)状態、絶えざる変容の状態の中に浸されるが、夢遊病者や霊媒師の指示の下で、意志が行使される世界に、秘儀参入者が肉体とエーテル体をもって参入するとき、その世界では、全てが物質界のように、明確な輪郭や形をもっているのがわかる。つまり、外界からの影響の結果として、生じる全てが、非常な正確さをもって遂行される。 これは、通常の夢の世界に対する反定律の世界である。つまり、それは、夢遊病者にとっては、夢の活動という行為が、そのまま自然に外界となった世界である。夢としての行為、夢に似た状態の中での行為、単に内(精神)的な経験に留まらない夢の世界である。 秘儀に参入する立場から見ると、この反定律の世界は最も興味深く、意義深いものである。 (全てが錯誤からなっている精神的な自慰行為の世界といえる。餓鬼の世界なのだろう。鬼という言葉は、古くは、「物質」という意味をもっていたようである。) 秘儀参入者が夢の世界をイマジネーション(霊視)により解き明かそうとして参入するとき、ある困難に遭遇することは既に述べたが、そのとき、参入者は、もはや重力の影響下にはなく、自らの足下には、堅固な地面はない、と感じる。 夢遊病者も、無意識的に、重力のない世界に参入するが、秘儀参入者が、この世界に参入する場合には、意識的にアプローチしないといけない。参入者は常に意識の損失を感じ、絶えず、この損失の可能性に直面するが、完全な意識を保持するために、自分自身を堅固に支えなければならない。 (自立心や独立心が必要なのだろう。人生のトラブルもなるべく自力で解決するのが望ましいようである。しかし、多くの人は、弱いので、誰かに頼ろうとしたり、依存心を膨らます。すると、死後、容易に悪霊の餌食になる。) もし、秘儀参入者として、死者の世界に深く参入するなら、物質世界での通常の存在たちと同じように、死者の世界でも、分別をもって、同時に知的に前進していかなければならない。秘儀参入者は、通常の人生を生きるのと同様、精神世界においても、完全に意識的な生活を送るという事実に背くべきではない。 何故なら、もし、ほんの一瞬でも、物質世界から離脱したことを、周囲に想像させるようなことがあれば、高慢な態度を取り始め、仲間の人間から、むしろ変わり者と思われるからである。そして、仲間は、「とうとう、こいつは気が狂った」、と言うだろう! 物質的感覚の世界が、周囲の至る場所に存在するのと同じように、至る場所に存在する精神世界を通過するとき、完全な意識を保つために、自分自身をしっかりと支え続けなければ、上記のようなことが生じる。
2010年10月13日
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夢を覚醒意識でみる状態の正反対が、夢遊病や霊媒の状態である。覚醒意識をもって、夢を見ている秘儀参入者は、完全に自我とアストラル体の中に生きる。夢遊病者や霊媒者は、アストラル体の中では意識的な知覚をもたないが、秘儀参入者は、肉体とエーテル体の外にいるときにも、完全に自我とアストラル体の中に生きる。 秘儀参入者は、自身の存在の中に突き落とされ、その中に浸されるが、そのとき、自身の存在は、現世とは別の世界と関係づけられる。このように、秘儀参入により夢を見ている霊能者は、いわば自身の存在の中に、従って宇宙の中に、そして、ある程度、自身の肉体組織の中にも参入している。 その正反対が霊媒師と夢遊病者である。人間が、霊媒や夢遊病の状態になるのは、自我とアストラル体が肉体とエーテル体の外にあるときだけだが、この場合、既に指摘したように、自我とアストラル体は未知の存在に乗っ取られている(盗り憑かれている)。 従って、霊媒師や夢遊病者は、物質的身体(肉体)をもってはいるが、自我とアストラル体は、肉体とエーテル体の外にあり、別の存在に取り込まれ、抑圧されているのが実態である。 そのため、霊媒師は、正しい方法で肉体とエーテル体に影響を及ぼすことができないが、秘儀参入者は、例えば夢をみない睡眠状態にあるときでさえ、肉体とエーテル体に影響を行使している。 (簡単にいえば、自分を自分と認識できない者は、ニセモノで、自分を認識しながら、あの世を語れるのが秘儀参入者である。俗世間で、霊能者といわれるのは、大体、自分を自分でなく、憑依させて語らせている霊媒なので、悪霊に盗り憑かれているだけといえる。 従って、当たる占いほど、性質の悪い悪霊に盗り憑かれているわけで、それを金銭に代え、生計を立てているのなら、悪霊に魂を食われていることになる。生きながら、地獄にいるのと同じである。) 人間の霊魂は、覚醒時には、内側から肉体とエーテル体に浸透し、睡眠中には、肉体とエーテル体への侵略を外側から防いでいるのである。 上記の事実は、もはや夢遊病者には当てはまらない。霊媒師や夢遊病者は、肉体やエーテル体をコントロールできず、いわば遺棄された領地のようになっている。 (霊魂が悪霊に食われているので、自らが無法地帯となり、地獄と化しているわけである。) 現代において、通常の霊魂として、あるべき姿をしている人の場合、肉体とエーテル体に影響を及ぼすのは、植物や鉱物の力(作用)だけである。もし、鉱物の力(作用)、すなわち地球の鉱物力(作用)が、肉体に影響を与えなかったなら、鉱物力(作用)に依存する現代人が歩行し、運動することは不可能だっただろう。 鉱物世界の力(作用)に与ることは許され、つまり、その状態が正常なのだが、鉱物世界の力(作用)が、エーテル体の中に入り込むべきではない。 同じことが植物にも当てはまる。あまり強すぎなければ、植物の力(作用)が、エーテル体に働きかけることはある程度許容される。しかし、動物の感覚を刺激する力(作用)や、他の人間の力(作用)が、人間の身体、特にエーテル体に影響を及ぼすことはもはや許されない。 (いわゆる他力本願は悪といえる。レイキと称する治療などは、百害あって一利なし。物質や植物の力を使っての治療でなければ、一切は、悪霊のする業で、霊魂が食べられてしまう。 そのような意味で、宗教教団はすぐに解体すべきである。非常に危険である。実際、キリストがやったことは、その時代にあった全ての宗教教団の破壊だった。 そもそも、霊魂は、自らの能力を開発するために、この世にくるものと考えられるので、他の力を利用するのは、自分の能力がその分、未開発になるので、本来の目的を失うことになる。要するにズルはよくないということ。) 動物や地上的な人間の力が、霊媒師、もしくは夢遊病者の肉体やエーテル体に働きかけるのは、上記の規律が放棄されるときである。 肉体やエーテル体が周囲の影響を受けるようになる。夢から思考が、環境中に移行するのと同じように、霊媒や夢遊病の場合には、人間から、意志が引き離され、環境と融合する。 霊媒者や夢遊病者に指示し、立たせ、歩かせることができる。例えば、ジャガイモを差し出し、おいしい梨であるとか、その他のものであると示唆もできる。 (催眠術は非常に危険な、黒魔術ともいえる。) 霊媒者や夢遊病者に命令するとき、人間として、霊媒者や夢遊病者の肉体と直接的な関係を持つのと同時に、霊媒者や夢遊病者のエーテル体とも直接的な関係を持つことになる。 霊媒者や夢遊病者は、通常の人間と同じような肉体にのみ反映されるべき物質的環境を、エーテル体の中にも持ち込んでいる。従って、通常の人間は、夢に似た状態の中で、自身を、霊媒者や夢遊病者内の精神世界に譲り渡すが、霊媒者や夢遊病者は、エーテル体をも、外界の自然に譲り渡す。 (ここで思い浮かぶのは、十戒である。例えば、以下の意味に置き換えられる。 1.主が唯一の神であること→自我が主体であること。 2.偶像を作ってはならないこと(偶像崇拝の禁止)→ 自我以外の主体をつくらない。 3.神の名を徒らに取り上げてはならないこと→宗教儀式を徒らにやらない。 4.安息日を守ること→正しい睡眠を行うこと。 5.父母を敬うこと→肉体を大切にすること。 6.殺人をしてはいけないこと→自我を喪失しないこと。 7.姦淫をしてはいけないこと→霊媒にならないこと。 8.盗んではいけないこと→霊媒をしないこと。 9.偽証してはいけないこと→占い等をしないこと。 10.隣人の家をむさぼってはいけないこと→植物力や鉱物力以外の力を行使しないこと。というように、自我を大切にすべきことを説いているようにかわる。学問は、自我の意識強化の訓練によい。)
2010年10月12日
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古代人たちは、月の領域への探求や、月の領域での死者たちとの出会い、そして、月の領域から、人間の世界が、どのように見えるか、について多くの語るべき事実を持っていたと同時に、真の探求者である太古の秘儀参入者や月存在たちに支配される世界への活発な興味が、古代には常に存在していた。 コペルニクスは、太陽中心説を、地上的意識による観点から打ち立てた。古いプトレマイオスの体系は間違いではなく、月の領域に関する意識の観点から見ると正しい。 (プトレマイオスは、太古の暦で、要するに旧暦といえる。) さて、古代の探求者、すなわち月領域の秘儀参入者に特徴的なのは、古代の探求者の活動が、月の領域に限られている、ということである。 現在(1924年)の人智学協会が以前は神智学協会の一部であったが、神智学協会は、最近になって設立された多くの同種の協会と同じく、豊富な文献を収集しているが、この文献を参照するなら(正しいか間違いかはさしあたり重要ではない)、月の(精神的)存在との関係で探求可能な、今述べている月の世界、いわば月の領域の世界への言及がなされている、ということがわかる。 神智学協会で働いてはどうか、という提案があったとき、その提案は、私(シュタイナー)にとって重要な意味を持っていたが、当初、ある困難に直面した。それは、神智学協会では、研究や文献が月の領域だけに限定されている、ということがわかったからである。 (シュタイナーは、このために、神智学協会と袂を分かつ。) 上記の文献は、確かに多くの間違いも含んでいたが、H.P.ブラバツキーの著作には、ユニークで非常に重要な事柄が特に多く含まれていた。しかし、H.P.ブラバツキーの著作の中に見つけられる全ては、月の領域との彼女の交流と、月の領域に犠牲行為として滞在することを、自ら選んだ秘儀参入者と彼女との関係のなかで決定された。 私(シュタイナー)は、月領域に滞在する秘儀参入者の多くを知るようになったが、同時に、月領域に参入する精神が、更に、月領域を超えて発達したいという人間の望みに、無関心であることを保証することもわかった。 1906年から1909年にかけて書いた「神秘学概論」の中で、月、太陽、土星という、地球の太古の受肉状態を記述したが、私(シュタイナー)の記述は、月の受肉状態だけで終わることなく、遥か昔の土星の受肉状態にまで遡って地球を記述した。 一方、神智学に関係する、上述のような月の内容を語った秘儀参入者全ては、月と太陽の間で説明を完結させ、実際には、月領域にまで地球の受肉を辿っただけだった。月より前の地球の受肉まで遡るべきである、という私(シュタイナー)の趣旨のいかなる示唆にも無関心か、ときには苛立ち、反発の感覚をもって、迎えられた。 月までの秘儀参入者は、月より前の道は、超えることのできない障壁によりブロックされているため、不可能である、と断言した。当然、その理由を理解することは最重要であり、無関心ではいられない。更に親密になって、まもなく明らかになったのは、月だけの秘儀参入者たちは、現代の科学的な観点に対して敵意や反感を持っている、ということである。 月だけの秘儀参入者たちは、ダーウィンやヘッケル、彼らの追随者たちの考えを紹介されると、非常に憤慨し、その考えは、子供じみて、馬鹿げたものだと見なし、関わりを持つのを拒否した。当初は、ゲーテの考えには、それほど反感を示さなかったが、結局、彼も現代の科学者の言葉で語っているとして、退けられた。 要するに、科学者たちの考えは、月までの秘儀参入者たちにはアピールしなかった。月を超えて、太陽や土星の領域にも参入できるということを、初めて理解したのは、私(シュタイナー)が1906年から1909年にかけて、現代科学の思考に没頭し、イマジネーション(霊視力)を吹き込んだときである。 私(シュタイナー)は、科学的な概念、すなわち、ヘッケルやハクスレーの思考法に基き、それを認識の手段として用いたのではなく、現代科学の観点がいまだ存在せずに、科学的思考とは別の、(死者の)夢の世界にイマジネーション(霊視力)を持ち込んだ。 そして、高次の覚醒意識が達成可能な時代に、秘儀参入者たちが遭遇した限界を克服するための内(精神)的な動機づけに、科学的思考法を用いた。 ハクスリー http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%88%E3%83%9E%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%98%E3%83%B3%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%8F%E3%82%AF%E3%82%B9%E3%83%AA%E3%83%BC ヘッケルhttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%AB%E3%83%B3%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%BB%E3%83%98%E3%83%83%E3%82%B1%E3%83%AB 著書「神秘学概論」の中で、私(シュタイナー)は、通常、外界だけに関係するハクスレーやその他の人々の完全に意識的な科学的観点に、内(霊)的な意味を浸透させると同時に、それをイマジネーション(霊視)の世界に持ち込んだ。 そのとき、土星、太陽、月という、一連の(地球の転生)全体が理解でき、太古の秘儀参入者の認識を地上で探求することが可能になった。 月を超えて、太陽や土星への参入が、いかに生じたかを、理解するために、この講義で、この認識方法をいま記述している。 結局は、その方法も、個人(主観)的な説明にすぎない、と言う人がいるかもしれないが、月を超える場合、そもそも個人(主観)的要素は、実際、完全に客観的になる。 著書「神秘学概論」に対して向けられた批判は、その本が数学の教科書のように書かれ、そこで議論された進化の方法全体が、いわば数学的な公平無私の態度で記述されている、というものだった。 しかし、本に記載した方法は、私(シュタイナー)が霊視により正確に記述した通りで、この方法は、コペルニクスやガリレオの時代以来存在し、ゲーテにより豊かにされた思考様式が、通常、イマジネーション(霊視)の中に存在する魂の同じ状態に結びついている、という状況のなかに起源がある。 秘儀参入者たちが常にアプローチ可能であった領域を、私(シュタイナー)が土星の起源まで遡って辿ることができたのは、上記の起源に由来する。 次のような例からもわかるが、上記の方法は、曖昧な意識でアプローチした出鱈目ではなく、明確な覚醒意識のなかの思慮深さをもってアプローチし、容易に無思慮が取って代わる場合、(憑依を受けるので)注意を喚起することに重点がある。 自我のみで接触を持つのが、通常の夢の状態だが、同時にアストラル体でも接触する場合が、上記の例である。 では、「神秘学概論」の中で提供した情報は、現代の自然科学と、どう違うのか? という質問に対する答えは、現代の科学者は、自我にアピールできるだけで、自我を手放すとすぐに眠ってしまい夢を見るのに対して、私(シュタイナー)は、自然科学の概念をも夢の中に持ち込むことができ、記述すべき精神世界に、アストラル体を持ち込むことができる、という点で異なる、というものである。 上記は、正誤を正確に見分ける方法であり、真の方法(道)と、偽りの方法(道)の相違を、恐らく正確に示すのに役立つ1例だろう。 (この部分は非常に難解だが、要するに、シュタイナーは、現代科学の思考法を覚醒意識の確立に用い、その覚醒意識を、月の意識を超える意識にも適用することで、月の領域を超え、太陽、土星の領域まで到達できたとしている。 だから、科学的思考法から、月の領域を超え、太陽、土星の領域に到達したのではなく、覚醒意識の強化のために、科学的思考法を用い、覚醒意識を強化したために、月の領域を超えたというのである。 逆説的にいえば、科学的思考法を毛嫌いする秘儀参入者は、覚醒意識を強化できないために、月の領域を超えられない。)
2010年10月08日
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さて、自我と同時にアストラル体でも経験できる知覚法は、特に古代の秘儀の場において、超感覚(霊)的世界の探求という目的のために高度に進化した。それが退廃した形だが、中世とその後の時代全体を通じて、更に進化した。 その知覚法は、近代では、実質的に消滅しているが、通常の夢の中で、覚醒時の意識的な状態にとどまる方法については、太古の秘儀の教師たちから、精神的な方法、もしくは伝統を通して教えを受けてきた人々が、疎らに存在していた。 そのような秘儀参入者は、いつの時代でも、精神世界に参入できたが、その試みは危険に満ちたものだった。イマジネーション(霊視力)的な認識をもつ秘儀参入者が、通常の夢の世界に浸るとき、直ちに物質世界とのつながりを失うと同時に、意識を失い、無の中に沈み込むような感じを持つ。 まるで堅固だった地面が、足下で崩れ落ちるかのように、もはや重力に引きつけられていないかのように感じる。内(精神)的な解放の感情、宇宙の海の中に吹き飛ばされたかのような、もはや堅く地面に結びつけられていないために、自分に対するコントロールを容易に失ってしまうかのような感じを経験する。 著書「いかにして高次の世界を認識するか」の中で述べた精神(霊)的訓練の目的は、この危険を回避する方法である。正しい方法で、瞑想に取り組む者なら誰でも、魂の「翼」を発達させることができ、重力を克服して、翼を広げることができるということがわかる。 秘儀参入者が足下の物質的、エーテル的な大地を失うにも関わらず、アストラル体と自我の「翼」を発達させていない場合には、危険な状況が生じる。イメージ的に表現しているが、人智学徒には、この意味がわかるだろう。 危険は十分に現実的で、精神(霊)的訓練の結果、参入する世界のために、怠りなく準備するなら、あらゆる危険を排除できる。肉体とエーテル体を通して物質世界に与るのと同じように、精神世界に徐々に参加できるようになる。 精神世界に多少とも参加できる状態とは、遥か太古の人間の(意識)状態なのだが、今日では、この状態を精神的訓練の実行により達成しなければならない。 太古の人間の意識状態は、現代人の覚醒意識とは対照的に、以前、記述したようなカルディア人たちの間で見られた精神(霊)的な視覚(霊視力)、すなわち、現代人の通常の夢の意識とは異なる、イマジネーション(霊視力)的な知覚状態に自然に(生まれつき)恵まれている、というようなものだった。 他の人間に出会ったとき、古代人は、他の人間の物質的な輪郭を知覚しただけでなく、周囲のオーラについて、いまでいうなら、夢のようなイメージを持った。実際、そのイメージは、本物のオーラであり、いまでいう単なる主観的な幻想ではなかった。 太古の人々の、肉体のオーラを知覚するという才能に加えて、別の能力(この2つの能力はお互いに関連している)、肉体に受肉していない精神的存在のオーラを知覚可能にする能力を併せもっていた。従って、精神的存在の姿を、いわゆる「夢見た」。 ここで、太古の人間の知覚と現代人の知覚の違いに注意すべきである。つまり、太古の時代では、現代の肉体に相当するものを知覚するときには、その周囲のオーラを、現実的な夢の中でイマジネーション(霊視力)的に知覚した。 太古人が精神的存在の、いわゆる天使や元素霊に遭遇するとき、はじめから、そのオーラについての精神的な知覚をもち、その存在の姿を「夢見た」。 最初期の画家たちは、上記のような霊眼を用いて描いたが、現代人は、その事実に気づいていない。 古代の画家たちは、精神的存在を見て、その存在に相応する形態(姿)を「夢見た」。天使(アンゲロイ)のヒエラルキア(位階)に属する存在は、ほとんど人間に似た姿で、大天使(アルヒアンゲロイ)については、身体は明確ではないが、明確な翼と頭をもつ姿として、権天使(アルカイ)は翼の生えた頭だけをもつ姿として描かれた。 (天使は、肉体をもたずに、エーテル体、アストラル体、自我、霊我の存在で、大天使は、肉体、エーテル体をもたずに、アストラル体、自我、霊我、生命霊の存在で、生命霊が翼に相当する。 権天使は、自我が最下位で、霊我、生命霊、霊人間の存在で、自我が頭に相当し、頭だけしかない。また、自我しかないので、眼だけの存在として表されることもある。 叡智の眼とは、権天使の存在を表すシンボルでもある。霊我「マナス」、生命霊「ブッディ」、霊人間「アートマ」は人間が進化して手に入れるべき、三種の神器で、これを三角形で示すなら、三角形に眼を記したシンボルは、権天使、つまり時間を司る神を意味する。 エジプトのピラミッドは、トート神、つまり時間を司る神を信仰して、神殿としてつくられているが、恐らく、権天使の預言を受け取った秘儀参入の場なのだろう。) 古代の画家たちが、上記のように描写したのは、その姿を「夢見た」からである。太古の人々にとっては、上記のような洞察力は、現代人が今日、他者の姿を、自然な姿として見るのと同じように自然だった。徐々に失ってきた、超感覚(霊)的な能力を、人間は精神的訓練により再び獲得すべきである。 しかし、太古人にとって、超感覚(霊)的な能力は自然で、精神的訓練により再び獲得するのは比較的容易だったことから、そのような課題が何年にもわたって精力的に探求されてきた。 (古代遺跡等は、そのような課題のための精神的訓練の、いわゆる秘儀参入の場ともいえる。)
2010年10月07日
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第九講 精神世界への異常な道とその変容 この連続講義を、睡眠中の通常の夢に対する探求から始め、誕生から死までの間に住む世界(現世)とは異なる世界への参入を可能にする更なる意識状態の考察へと話を進めてきた。 そして、霊媒的な意識とは、人間が夢遊病の状態で経験する意識であり、霊媒の状態とは、常に、この夢遊病的な性格をもつが、このような状態に関しても議論した。 さて、通常の夢と、霊媒的な、通常とは異なる世界への参入に対する両方の経験は、通常の日常生活でも、魂の状態から、真の姿のまま見ることができる。その魂の状態が、真の参入方法(道)、もしくは偽りの参入方法(道)へと分かれていくのは、魂の状態が促進されるときである。 では、睡眠中の夢の生活を再度検証してみる。 人間が通常の覚醒意識の覚醒状態から睡眠状態に移行するとき、夢をみることで、アストラル体が睡眠状態にある間、エーテル体や肉体の中にある経験の残響が記録される、ということを以前の講義で見てきた。 混乱を生じさせるような、途方もない夢の経験が続くが、そのプロセスを正しく説明できるのは秘儀参入者だけである。何故なら、精神世界の本性に深く参入できない者は、通常、混乱した夢の経験にただ当惑するだけだからである。 また秘儀参入者が行う、瞑想や意識集中の訓練を通じて、夢の生活のいわば横糸が、高次の意識の縦糸に織りなされる可能性を見てきた。 従って、驚くほど混乱した夢の世界に移行した人間(秘儀参入者)を目の当たりにすれば、その人にとっては、通常の日常生活と同じ位に現実的な夢の生活の中にあり、またそれと同等の完全な意識を保持している、ということがわかる。 そして、秘儀参入者が、死者を、死後の存在として追跡可能な別の世界に対する洞察力を獲得するとき、物質世界に比べて遙かに大きな現実性を有する世界に包まれていることを実感する。 さて、問題は、秘儀参入者が接触する世界の真の本性とは何か?ということである。 この問題については既に述べたが、第9講では、別角度から、この問題に触れてみる。 かつて地球には、肉体ではなく、肉体よりも繊細なエーテル体に住み(受肉し)、従って地球を包むエーテルの中に受肉できた偉大な教師たちが生きていた、ということを、以前の講義のなかで述べたが、その教師たちはインスピレーション(霊聴力)を通じて、人間を指導し、地球上の古代文明の基礎を築いた。 適切な(高次の)意識状態により、太古の時代を振り返るなら、上記の教師たちが人類と生活を共にしていた、ということがわかる。 その後、人類の教師たちは月の領域へと退き、今日では、月の領域から、地上に生きたことのない、あらゆる種類の存在(元素霊、精霊)たちを、教師自らの目的に従わせているだけである。 教師たちは、この元素霊たちの中に生き、死の門を通過した人間たちに自らのカルマにどう対処すべきか、を教えながら働きかけている。精神世界に参入するとき、最初に関わってくるのが、この元素霊たちである。 この地上の生活での社会や社会関係を無視できないのと同じように、高次の認識に到達するには、元素霊のような別の存在たちと、共に働かなければならない。 太古の時代に、地上の人間の教師であった月の精神(霊)的存在と、その月の存在が従える元素霊という存在たちの援助を得て、人間の世界に直接境を接する精神世界を探求しなければならない。 その精神世界で、かつての地球の時代と、かつての人間の受肉への鍵を見つける。そのとき、かつて地上に生きていた人物たちを、カルマ的な関連の有無に関わらず、見つけることになる。 上記のような事実を示し、この意識レベルを更に発達させることで、今日ではもはや地上には受肉していない、ブルネット・ラティーニ、ダンテ、アラヌス・アブ・インスリス他の存在たちと次第に接触するようになる秘儀参入法について、以前指摘した。 従って、この意識状態は、夢の状態から照らし出された、半透明に光る(未発達な)認識である。通常の生活では、夢は単なる基礎的、初歩的認識を示しているに過ぎない。 さて、秘儀に参入者と、通常の意識レベルで生きる人間との違いを示すのは非常に簡単である。 通常の睡眠状態下では、人間の肉体とエーテル体が後に残され、アストラル体と自我は、身体の外にある。夢の状態での経験では、自我だけが本領を発揮する。夢の中で経験する出来事が、肉体とエーテル体の外にあるアストラル体に属することは確かだが、通常の意識という意味では、自我だけが夢を経験できる。 ところが、秘儀参入者は、自我と、特にアストラル体により経験できる。従って、秘儀参入者と、普通に夢を見る一般人との違いは、後者が肉体とエーテル体の外にあるときには、自我だけで経験するのに対して、秘儀参入者は、アストラル体によっても経験する、という事実にある。
2010年10月06日
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次に、元素霊たちは、神経網、すなわち思考形成を司る神経器官に入り込む。その結果、霊媒師は活発に反応し始めるが、それは「自我」の支配下にあるべき場所が、元素霊たちに取って代わられたからである。 微かで影のような要素である脳の残存重量や、色や音の感覚の名残は、ファントム(幽体)のようにとらえられる。何故なら、この約20gの重量は、実際、ファントム(幽体)であり、人間のなかの内(精神)的存在に侵入してくる微かな色の影はファントム(幽体)のようなものだからである。 元素霊たちが、このファントム(幽体)の中に入り込み、霊媒師が深い昏睡状態になることで、霊媒師の体が全く受動的になると同時に、本当は「自我」により浸透されるべき(通常は「自我」が入るはずの)、微かなファントム(幽体)のような影の中に存在する全てが、元素霊たちの中で活動するようになる。 人間が霊媒者になれるのは、通常の人間にとって役立つ能力(覚醒意識)が、昏睡や不活性化により阻止されると同時に、上述のファントム(幽体)が活性化されるときだけである。このような事実は、例えば、霊媒の筆記の様子(自動筆記)から観察できる。 勿論、霊媒師は、脳のように、体内全ての重量が、通常よりも、軽くなっていなければ自動筆記できない。 何故なら、元素霊が筆記できる状況とは、重量をもつ物体全てが液体という媒質中に浮かび、軽い感覚他の感じを与え、そのため、重力に左右されない状況、通常は「自我」が筆記する領域だからである。 そのとき、霊媒の中で、すなわち人間ファントム(幽体)の中で、筆記の支配権を握っているのは元素霊なのである。 霊媒現象全般において、別世界(異次元)の侵入が見られる、という事実は否定できない。別の世界(異次元)のアーリマン的な存在たちは、霊媒を介して遂行される動作の中に参入できるように、第7講義で述べた影響(放射)の中にも参入できる。 人間の身体の、特に腺組織の領域には強力な液体的影響(放射)が存在している。元素霊たちは液体的影響(放射)の中だけでなく、呼吸的影響(放射)や光的影響(放射)の中にも介入できる。 化学的影響(放射)の場合だけは、化学的影響(放射)を利用する人間と、その影響の中に入ってくる元素霊たちとの間に意識的な交流がある。この交流から始まるのが黒魔術で、前回述べたような形で入り込んでくる元素霊たちとの意識的な共同作業である。 霊媒師や霊媒師を用いた実験を行う人たちは、実際に生じているプロセスに気づいていない。しかし、黒魔術師は、元素霊たちを、自身の目的のために、人間の、特に自身の化学的影響(放射)の中に誘い込んでいることを十分に意識している。 従って、黒魔術師は、無数の元素霊に取り囲まれ、秘密とされた化学的衝動を、現象世界において用いることを、自身の化学的影響(放射)を通じて、もしくは実験室等で香木を焚くことで可能にしている。 このように、ベラドンナが未知の世界に参入することで、有毒になるのと同様に、精神世界が、霊媒を通して、誕生から死までの間に住む人間の世界に参入する、ということを学ぶ。 基本的には、人間の意識、つまり十全なる自我意識が抑圧されるとき、もしくは麻酔や昏睡状態にあるとき、或いは実際に気絶しているときには常に、憑依の危険が存在している。 睡眠ではなく、何か別の要因により、人間の意識が抑制されるときには絶えず元素霊たちの世界に曝される危険性が存在する。次の第9講義では、上記の事実が、人間の生活において、いかに重要な役割を果たしているかを見ていくことにする。
2010年10月04日
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さて、眼は外界を見るための器官である。眼の中に配された視覚神経は脳に結びつき、色を感じ取る基盤を与えている。唯物主義者は、視覚神経がどのように色の感覚を脳に伝え、その情報を何処で解き放つか、を説明する。 唯物論者は、そのプロセス全体を、船の荷役、もしくは鉄道輸送に喩える。視覚神経に外から情報が「積み込まれ」、神経により輸送され、その情報が、脳のある場所で下ろされ、脳の情報処理の中に入っていく、という感じである。 勿論、上記のような説明は、上記のように粗雑ではないが、結局、上記のような話である。しかし、事実を述べるなら、上記の説明とは全く違う。 視覚神経の機能は色の感覚を脳へと運び込むことではなく、ある地点で、色の感覚を分離することなのである。色は物質表面にのみ存在する。視覚神経の機能とは、色の感覚が、脳に近づくに従い、その色の感覚を絶縁し、そのため、実際、脳には、色の感覚がなく、微弱な色だけが脳に到達するようにする、という機能である。 (免疫反応と同じで、抗原に対して、抗体を分離し、充てることを意味する。抗原抗体反応を理解できれば色の感覚もわかる。だから、抗原に対する、抗体を持ち合わせていない場合、その抗原、すなわち色は認識できないことになる。 更に簡単にいえば、トランプを使ったゲーム、例えば、同じ絵柄をめくる「神経衰弱」のようなゲームのようなものだろう。神経衰弱は、記憶力を競うゲームだが、色彩等の感覚を理解させるための道具が由来なのではないだろうか? トランプは、カバラが由来なので、トランプゲームも、恐らく秘儀参入者がつくったのだろう。例えば、4つのマークのスペード、ハート、ダイヤ、クラブは、土、水、風、火の4大元素霊に由来する。) 神経衰弱 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E7%B5%8C%E8%A1%B0%E5%BC%B1_(%E3%83%88%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%97) 色の感覚だけが絶縁されるのではなく、あらゆる種類の外界との関係もまた絶縁される。聴覚と視覚は感覚器官に関連する。脳の近傍では、視覚神経と聴覚神経、そして熱を感じ取る神経が、皮膚の周囲に存在する色や音や熱等全てを減弱させている。 (感覚は、神経が司っているが、神経が液体化して、血液となったと考えれば、感覚と免疫が、同じシステムで働いていることがわかる。) この感覚の関係は、脳の重量の1500gに対する20gの関係と同じである。というのも、脳の重さ20gは、ほんの僅かな印象しか与えないからである。この重さが人間に残された全てである。 感覚を通じて、例えば、素晴らしい夜明けの光景を取り込むとき、後脳は、その光景の微かな残影、ボンヤリとしたイメージだけをとらえる。そのボンヤリとした影に注意を払わなければならない、何故なら、「自我」が入ることができるのは、その残像だけだからである。 「自我」が隔離され、霊媒的な力が現れる瞬間、元素霊たちが、この微かな残影像や、聴覚のなかの僅かな音の中に入り込む。この悪魔的存在は、外界に対する感覚や知覚を忘却し、「自我」がいなくなった場所に滑り込み、霊媒に取り憑く。 (ウイルスが免疫監視網を突破するのと同じで、霊媒に取り憑く悪魔的な元素霊は、自我の感覚網を突破する。)
2010年10月01日
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