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また、以前からよく述べてきた事実と関連するが、死の門を通って、人間が地球から去った後、結局のところ、人間の頭は分解(分散)され、それから、頭以外の生体組織を、その素材(物質的実質)に従うのではなく、その物質力に従って、分解され、次の地上生(転生)のための頭へと作りかえられる。 つまり人間は本質的に、地球への転生のために、下降を求めることで、その頭を求める。そして、頭は、既にその後の人間の形態に似た形姿を含有しながら、人間の胎児において、最初に形成される。 人間の進化が、頭から形成されるのは(2)、頭部に向かう形成力が、人間を超感覚的な存在から感覚的な生存へと引き寄せ、飛翔(鳥類)世界で活動している作用と密接な親和性を有する事実に関連する。 (2)1921年7月16日のシュタイナーの講義も参照のこと、『人間の生成、宇宙魂、宇宙霊』(GA205)所収。 胎児期に、最初に頭部の組織を獲得するとき、消化器官他の素となる萌芽が、母体のなかに配置され、後の地上生から形成され、完成される。 人間の上方にある頭部の形成力が、熱や空気(大気)と関係するのと同様に、土-水的要素(元素、エレメント)と関係するのは、宇宙進化の後半に人間に加えられた存在で、そのコピーは、頭部形成後の胎児期に、人間に組み込まれる器官となる。 しかし、この土-水分要素(元素、宇宙言語)は、人間には特殊な形で、いわゆる母体のなかで、準備されなければならない。 もし、それが、母体のなかでなく、外界の地球、もしくは地上のなかに分散(分離)され、土-水分要素自身だけで形成するなら、それらは、下等動物の形姿、つまり、両性類や爬虫類、或いは、魚という下等生物を形成する。 蝶が、自らを光存在とみなし、鳥が自らを熱に浸透された空気存在とみなすのは正当だとしても、下等な動物、いわゆる両生類、爬虫類、魚類は、正当な水、あるいは土存在であるとみなすことはできない。 まず、魚を考察する。今日見られるような魚は、外界に出現するとき、外界の形成力に、いわば委ねられ、この形成において、人間では内部から作用する力が、魚には、外から作用する。 魚は主として水の要素のなかで生きる。しかし、水といっても、化学者にとっての単なる水素と酸素が結合した元素だけの存在ではなく、宇宙の可能な限りの、様々な力に浸透される存在のことである。 (水といっても、流体や液体という意味で、宇宙の様々な力の影響を受けるという意味。) 星々の力さえも、水の中には浸透している。もし水が、単なる水素と酸素の均衡を保った均質な結合だけの元素存在なら、水のなかでは、どんな魚も生きられない。 (魚は、実際、水のなかの微生物を必要とすることは、魚を飼育すればわかる。) けれども、蝶が自らを光存在と、鳥が自らを熱に浸透された空気存在だと感じるのと全く同様に、魚も、自らを本質的には土-水存在であると感じる。しかし、魚は体内に吸い込む水を、自らの本性であるとは感じない。 鳥は自らが吸い込む空気を自らの本性と感じる。つまり鳥を、本質的に幾何学的に表現すると、鳥の中に入り込み、至る処に拡がっていく空気を、自分の本性と感じ、この拡がる空気、鳥によって暖められる空気(下図の上参照)は、鳥の本性である。 魚は体内に水を保有するが、魚は自らを水とは感じず、魚は自らを、水を閉じ込める存在、つまり、水を取り巻く存在と感じる。魚は自らを、キラキラ光る水の覆い、もしくは外皮と感じる。 しかし、同時に、魚は、水を、自分の中で出たり入ったりする馴染みのない要素(元素)と感じる。水は魚の中で出たり入ったりすることで、魚が必要とする空気をも同時にもたらすが、魚は空気と水を馴染みのない存在と感じる。 魚は、特に、物質的な魚としては、水と空気を馴染みのない存在と感じる。 とはいっても、魚もエーテル体とアストラル体を持っている。魚の奇妙な性質だが、魚は、自らを(水や空気の)覆いと感じ、魚の中で、水が他の液体的要素と結びついた状態でいることで、魚は、エーテルを感じ、自らが、本質的に、その状態のエーテルのなかで生きていると感じる。 魚は、アストラル的な存在を、自らの一部とは感じない。従って、魚は、エーテル動物と呼ぶべき奇妙な動物である。魚は自身を、水を囲う外皮と感じている。体内にある水を、魚は世界全ての水と連携している存在と感じる。 魚にとっては、いわば体内の至る場所に水分が連動していく。体内の至る場所に水があり、同時に、水のなかに魚はエーテル体を感じとる(上図の下参照)。魚は勿論、この地球上での生においては、言葉を話せないが、もし話せたら、魚は自らを次のように語るだろう。 「私は(水の)覆いである。でも、この覆いとなることで、至る場所に拡がる水やエーテルの要素(元素)の担い手として、水を運んでいる。私は、(水を運びながらも)本当はエーテルの中を泳いでいる。」 続けて、魚は語る。 「水はマーヤ(幻)にすぎない、実在はエーテルで、私は、本当はエーテルの中を泳いでいる。」 つまり、魚は自らの生命を、地球の生命と感じている。この本性が魚の奇妙な所以で、魚は自分の生命を地球の生命と感じ、従って、四季の循環のなかで地球が成す全事象に密接に関わり、夏のエーテル力の放出や、冬のエーテル力の回帰に関わる。 従って、魚は、地球全体の呼吸を感じる。魚はエーテルを地球の呼吸として、感じ取っている。
2010年03月31日
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宇宙進化に従い、これらの被造物は、今日、人間に見せるような姿に発達した。蝶と鳥をみれば、勿論、地上的な形姿をも有しているが、これまでの説明により、蝶は本質的には、光の生物であり、地上的な素材(物質的実質)は、蝶に付着しているだけであることがわかる。 蝶自身が、自分が何モノであるか、を語れるなら、蝶は以下のように告げるだろう。 「蝶が光からなる体を持っていることは、既に述べたが、蝶は、自らに付着されている地球的素材(物質的実質)を、荷物のように、外的な重荷のように感じ、身につけている。」 同様に、鳥は、熱に浸透された空気の動物である。というのも、本質的に、鳥は、体内に拡がる熱に浸透された空気の存在で、その他のものは、鳥が、この世で背負っていく荷物である。 このような動物たち、つまり実際、今日もなお、その光の性質や、熱の性質を、地上的な土の覆いや、水の覆いで包んで維持するだけの生物たちは、地球の進化の最初期(土星紀)に出現した。 土星紀に出現した、これらの生物がもつ形姿は、人間が地上生活に下降する前の、霊界で過ごす時を現世でも見通せる者(霊能者)に、霊界での経験を思い起こさせる。確かに、これらの生物は、地上的な形姿をもつが、地上の素材が(荷物として)付着しているだけである。 しかし、蝶という浮遊し活動する発光存在を正しく思い浮かべ、付着している地上的な実質を、除外して考え、また、鳥を、熱の浸透した空気存在にする翼の溢れる力を、輝く光線として考えるなら、その荷物としての外面の覆い故に、その地上の姿や大きさに見える、このような生物たちは、やはり地上に下降する前の人間を知る者(霊能者)に、人間の地上への下降を思い出させる。 霊界の参入者は、そのとき次のように言う。 「蝶のなかに、鳥のなかに、人間が地上に下る前に生きていた霊の形姿を、いわゆる高次のヒエラルキア(位階)の存在を思い起こさせるものがある。」 (天使のイメージが、蝶の翅や、鳥の翼にあるのは、ここからわかる。) 霊的な理解力をもって、蝶と鳥を眺めると、これらは、まだ地球進化に下降していなかったときに、自らの周囲に存在していた霊の形姿で、それはやがて、小さな存在へと置き換えられた「変容された記憶」なのである。 地球の素材(物質的実質)は重く、克服すべきものなので、蝶は本質的に有している、その巨大な姿を、小さな存在に縮めた。 蝶から地球の素材を全て分離できたなら、蝶は霊的存在として、いわば発光存在として大天使の姿にまで拡がることができる。既に、空中に棲む動物のなかには、霊に即した形で、高次の領域に存在するものの地上的な模像(似姿)を有している。 (宇宙は高次元のフラクタル構造になっているということなのであろう。高次元の像が、3次元では、鳥の翼や蝶の翅、或いは、人間の記憶や思考をつくっている。 ある霊能者によると、人間の背中、つまり左右の肩から、霊線が、先祖へと伸びて、繋がっているらしい。つまり、祖先の霊たちが、現世の人間を、人形劇の黒子や腹話術のように、前に流行ったパペットマペットのような感じで、高次元から、霊感を送っているようである。) 従って、古代の遺伝的な霊視者の時代では、飛行する動物の形姿から、高次の霊的存在の象徴的形姿や具象的形姿を描き出すことは、いうまでもなく芸術的な営みだった。この営みには内的な根拠があった。 根本において、蝶と鳥の物質的な形姿は、その霊的存在の物質的変容に他ならない。霊的存在たちは変容するわけではないが、蝶と鳥は霊的存在たちの変容した模像であるが、ただし、両者は別の存在である。 従って、既に述べたことに遡り、再度、これから述べることを描写したら、更に理解できる。 蝶は本質的に光の生物であり、その生存中から絶えず霊化された地球の素材を宇宙に送り込むという事実を以前述べた。 さて、このとき宇宙に送り込まれる霊化された地球の素材を、通常の天文学の太陽に対する表現をかりて、「蝶コロナ」と呼ぶ。 絶えず「蝶コロナ」が宇宙に放射されているが、この「蝶コロナ」のなかに、鳥類が死ぬたびに宇宙に委ねられる霊的実質が放射され、つまり、鳥類により、霊化された素材が宇宙に放射されていく。 このとき外から、霊的に見ると、蝶類から発する煌めくコロナ(ある循環の法則により、これは冬にも維持される)の光景のなかに、鳥たちから流出する霊的実質が、光線状に入り込んでいくのが見られる。 人間が霊界から物質界に下降するとき、人間を、この地上での生存へと呼び寄せるのは、第一に、この蝶のコロナであり、つまりこの霊化された地球素材の独特の放射である。そして、更に、鳥コロナの光線が、引力のように感受される。 このような事実により、大気圏のなかの生物の高次の意味がわかる。現に、生き活動する場所全てに、霊的存在を探求すべきである。 霊的存在を探求してはじめて、個々の存在領域がいかなる意味を持つのか、という真実に到達できる。 地球は、蝶コロナの光放射と鳥コロナの光線を宇宙空間に送り出すことで、いわば人間を再受肉へと誘う。この事実は、人間が、死と新たな誕生(転生)の間、しばらく純粋な霊界で過ごした後、再び新たな地上生(転生)へと人間を呼び寄せる(1)。(1)新たな地上生へと:シュタイナーによる神秘劇「魂の目覚め」の第八景における新洗礼者の描写も参照のこと、『四つの神秘劇』(1910-1913GA14)所収。 従って、人間が蝶の世界や鳥の世界を見る際、当然の如く抱く複雑な感情の謎を解くのを困難に感じるのも不思議ではない。なぜなら、実際に存在する真実は、人間の潜在意識の奥底深く潜んでいるからであり、実際に存在するのは、新たな地上生(転生)への憧れの記憶である。 (蝶や鳥の飛翔に、人間が魅了されるのは、再受肉する前の地球への転生への憧れに起因するという。蝶や鳥が、人間ができない、霊的実質を霊界に運ぶことができ、地球から、霊界に運んでくるので、その美しさに魅了され、自分も蝶や鳥になりたいと願い、転生を希望するのだろう。しかし、地球で人生を送るうちに、いつの間にか、その憧れを失い、逆に、蝶や鳥になれない自分に絶望する。)
2010年03月30日
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更にまた、蝶、鳥、そして獅子(ライオン)に代表されるような種の後裔に、月紀から、主として消化への傾向を持つ動物たちが加わってくる。つまり、月紀に、例えば、牛によって代表される動物が付け加わる。 では、人間とは対照的に、牛の成長はどのようなものなのか? 牛は、月紀に、まず主に消化器官を形成し、月が(地球から)分離した後で、消化器官から胸部の器官や、独特に形成された頭部が生じた。 人間は頭部から発達を始め、胸部の変容が続き、更に消化器官の変容が続く、獅子(ライオン)は胸部の器官から始まり、頭部の変容が続き、人間と同時に月紀に消化器官を得たが、他方、牛に代表される動物の場合は、最初の原基として、まず消化器官があり、次いで、消化器官、つまり腹部から生え出るようにして、胸部の器官と頭部の器官が形成した。 つまり、人間は頭から下へ、獅子(ライオン)は胸から上と下へと成長し、牛は消化器官から胸へ、そしてようやく頭へと成長する。 この成長の進化過程を、人間と比較すると、いわば上に向かって、心臓と頭に向かって、牛が成長することがわかる。この比較から人間の進化を観ていくことができる。 さて、当然、次のような問いが出てくる。 「地球紀に仲間として、人間の進化に参加するのは牛だけなのか?」 勿論、牛だけではなく、何らかの惑星変容が生じるときは常に、古い存在たちが更に進化し、しかも新しい存在が生じる。牛は月変容(月紀)の最初期にはもう出現しているが、月変容(月紀)の最後に、最初の原基を獲得する他の動物たちも更に加わる。 これらの動物は、例えば、月は(地球と分離し)既に外にあるために、もはや(地球から)去っていく月を経験できない。 つまり、これらの(牛より後の)動物は、この月の分離が引き起こす作用、つまり月がいわば牛の腹部から胸部の心臓と、頭部の器官を引き出す作用を経験できず、(牛より)後に出現する存在たちは、人間における消化器官に相当するような、固定された(進化)地点にとどまる。 このように、元々消化器官だけの存在たち、人間の腹部に相当する段階にとどまっている存在たちが出現する。 鷲と蝶が人間の頭に、獅子(ライオン)が胸部に相応するように、牛が下腹部に相応する。ただし、牛は同時に、上部の器官を、後の進化で、生えさせる動物だが、牛と同じように、両生類及び爬虫類、つまり蟇蛙、蛙、蛇、蜥蜴その他(魚類)の生物は、人間の下腹部の消化器官だけの存在に相応する。 月紀において、純粋な消化器官だけの動物が出現する。 動物の進化 蝶 鳥、ライオン 牛、両生類、爬虫類、魚 地球の進化 土星 太陽 月 人間の進化 頭 頭-胸 頭-胸-下腹部 この消化器官だけの動物たちは、月紀の後半に極めて不格好な形姿で出現し、実際、生ける胃腸、つまり胃と腸管の生物である。その後、地球紀になってようやく、やはりまだ格別、上品にも見えない頭部を獲得した。 蛙や蟇蛙、或いは蛇をみれば、これらが後の時代に消化動物として出現し、人間が、既に得た組織に、消化器官を付け加えた時代になってから現れたことがわかる。 地球紀に、人間が重力と地磁気の下で、四肢を形成すると、このとき無論、亀も(亀を代表として取り上げる)頭を、四肢のように甲羅から差し伸ばした。このように、両生類と爬虫類においては、頭がいかに不格好に形成されたか、ということも理解できる。 このような頭部の形成に関しては、実際、それが正しいにせよ、次のような感情が起こる。 「このような頭では、口からすぐに胃になるので、頭から胃まで、あまり仲介物がない。」 つまり人間を観察し、その本性を、動物の仲間に相同し配分すると、爬虫類と両生類のなかには、人間の消化活動を、相同配分しなければならない。 そして事実、次のような結論に到達する。 「人間が、消化の産物を、腸のなかに持ち巡らすように、宇宙は地球という迂回路をとり、蟇蛙、蛇及び蛙(消化の産物)を、いわば地球の水-土状のエレメント(元素)のなかに、つまり宇宙が形成する宇宙の腸のなかに持ち巡らしている。」 これに対して、人間の生殖と関連する器官、全般に月紀の最後になってはじめて、最初の原基を形成し、地球変容(地球紀)になってようやく発生する器官に、親和性があるのは、魚や更に魚以下の下等生物たちである。 従って、魚を進化において、遅れた存在とみなすべきで、つまり、進化において人間でいえば、生殖器官が消化器官に加えられるときに、ようやく他の動物たちに加わる存在を魚類とみなすべきである。 蛇は本質的に、生殖器官と消化器官の間を中継する存在で、人間の性質から、蛇を覗き込むと、蛇は何を現わすのか? 蛇は、つまり人間でいう、いわゆる腎臓や尿管(導管)を現わし、宇宙進化において、蛇は人間の腎臓や尿管(導管)が形成された時期に出現した。 以上、人間が、どのように頭部から始まり、下へと成長するか、地球が、どのように人間から四肢を引き出し、人間が、四肢を用いて、地球の重力や磁力の均衡をとったか、を追求できる。そして、この人間の下への成長と同時に、様々な動物の種族(集団)が形成された。 霊的観点から、このように、その被造物を伴う、地球進化の正しい像が得られる。
2010年03月29日
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従って、人間の頭部や蝶の宇宙言語のような関連事項を、霊視者として観察するなら、実際、途方もない真実を学び、次のような結論に到達する。 「秘密、つまり人間の頭部の土星の秘密、最古の秘密を徹底的に究明するなら、この頭蓋内部において、原始、力をもって、宇宙を統べていた宇宙言語(神、ロゴス)が、今度は人間に知識を与える能力となっている。」 (哲学とは、「知を愛する」という意味ももつが、原始に、宇宙を統べていた、いわゆる愛の言語のロゴスが、地球の進化とともに、部分的に、下降して、人間の頭部を形成したので、いわば、宇宙の翻訳者である人間という知性体となった。 人間が自然「神秘性」を感じ、知職をもてるのは、神の働きからであり、人間が思考できるのは、神の恩寵といえる。このような一連の進化事項を、聖書では、エデンの園から追放されたアダムとイブの話で暗示している。) そのような人間は、外界の至る処に見られ、照射される存在に、注目し、蝶を、研究すべきである。 「人間よ、汝自身の頭部の奇跡を学び知るには、外なる自然において、蝶が宇宙から発生する奇跡を探究するがよい。これが霊視的宇宙観察が与えてくれる偉大な教えである。 (古)土星紀から(古)太陽紀へと進化が更に進むと、更なる形成、熱が大気(空気)へと変形(進化)し、つまり頭部が空気変容した存在が生じ、これは後になって、人間の胸部という形成物となり、いわゆる将来、人間の呼吸-心臓の形成物となる精妙な実質に組み込まれた。 つまり、(古;以下、「古」は省略)土星紀に存在するのは、まだ根本的に人間の頭部を示す変容(進化段階)である。勿論、頭部とは後にとる形姿である(当時はまだ熱だけの存在)。 (風邪をひいたり、体調が悪いと、熱が出るのは、土星紀の人間が再生しているともいえる。人体の再生が、頭の熱人間からはじまるからだろう。熱が出て、眠ると、意識状態も、太古の土星状態に戻るので、コンピュータでいうリセットがはじまるのだろう。) 人間が太陽紀に到達すると、頭-胸人間が得られ、これは、現在人間の胸部に組み込まれている。 しかし、既に土星紀の最後と太陽紀の最初期において同時に、鷲を代表とする存在(鳥類)に発見すべき宇宙言語が既に出現している。 鳥類は太陽紀の前半に生じ、太陽紀の後半には、本質的な胸動物、例えば獅子(ライオン)のような(代表的には獅子「ライオン」だが、その他の胸動物も含まれる)胸動物の最初の原基が生じる。従って、これらの動物の最初の原基は太陽紀まで遡る。 このような事実から、高等動物と人間の形成そのものに、いかに著しい違いがあるかがわかる。猿類も含む過渡的な動物についても、後に少し述べるが、いまのところは包括的な概念を与えておくだけにとどめる。ここから、人間形成と高等動物形成にも、著しい違いがあることがわかる。 人間では第一に、進化においては頭が形成され、その他のもの(胸部や腹部や四肢等)は、いわば頭部形成に付属する付属器官となる。人間は宇宙進化においては、頭から下方へと成長(進化)していく。 これに対して、獅子(ライオン)は、例えば太陽紀の後半に、まず胸動物として出現した動物で、当時はまだ非常に小さな萎縮した頭部を持つ力強い呼吸動物であった。太陽が後になって、地球から分離し、外から作用するようになるときになってようやく胸から頭が生じた。 (シュタイナーは、このような事実は、アカシャ年代記を読み解くことでわかるといっている。アカシャ年代記とは、宇宙のあらゆる出来事がそっくりそのまま消滅せずに書き込まれた歴史書といえるもので、宇宙のいかなる出来事も、形跡として、いわば年輪の如く残り、有能な霊能者なら、それを辿ることができるという。 ニュートン力学の作用反作用の法則と似て、宇宙にある作用を与えると、その反作用として記録され、残るわけである。だから、自分が行ったことは、必ず、巡り巡って、その反作用として、戻ってくる。この事を自業自得といい、4次元空間では、左に行けば、右から返ってくるので、自明のことである。 我々の3次元空間は、4次元空間の一部であり、作用反作用の法則が、3次元空間では、時間の経過として現れているが、4次元では、ニュートン力学のように同時に現れる。だから、4次元的思考から、いわば予言ができる。) つまり獅子(ライオン)は、胸から上に向かって発達していくという成長をし、人間は頭から下へ向かって発達していくことで成長する。これは全進化における著しい違いである。 地球の月変容(月紀)へと更に進むことにより、無論、後の時代になって角質状になるとしても、当時、月は水変容(状態)を示し、月は水(液)性であるが故に、はじめて人間は、下へと向かう更なる成長の継続を、この時点から必要とするようになった。つまり、消化組織(システム)の原基が形成された。 太陽紀、光を透して波打ち、輝く空気(大気)状のものしかない間は、人間も栄養摂取のためには下に向かって閉じた呼吸器官さえあればよく、人間は頭部-呼吸器官存在であった。 さて月紀において、人間は自らに消化組織を組み込む。それと同時に人間は、頭、胸、下腹部存在となるに至ったわけである。そして月においては全てがまだ水(液)状の実質であるため、人間には、月紀に、水中を泳ぐのに使用する突起(こぶ)があった。 (クラゲ人間という感じか?) 腕や脚に関して述べることができるようになるのは、地球紀になって重力が作用し、特に重力の方向に置かれた、いわゆる四肢が形成されてからのことである。つまり、腕や脚は、地球紀になってから生じた。 けれども人間は、月紀には、後の時代とは、まだ全く別様に作られていたとはいえ、消化器官が形成され、この消化器官は、まだ(後に発生する)四肢の自由による恣意的な動きの処理に仕える必要がないように作られていた。 このときの消化器官はまだ根本的に、いまとは別の消化器官であり、これが後に、地球紀の消化器官である現在に似た消化器官に変容した。とはいっても、人間は月紀の間に消化器官を自らに組み込んだ。
2010年03月26日
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さて、地球での生存において、人間と結びついている動物、植物、鉱物の存在に対する考察に移る前に、今回は、人間自体の進化に着目し、幾つかのイメージを思い描く。これらのイメージ形成法は、講義、もしくは著書で行なってきた、様々な説明から周知だが、一度、ここで改めて再考する。 今日、外(唯物)的な科学から学ぶなら、通常、次のようなことが考慮される。 「植物界、次いで動物界、人間界、いわゆる高等生物が、生命のない、いわゆる無機的な物質、或いは力から、どのように発生してきたか、を探究しなければならない。」 進化を、真相から観ると、根本的に、この考えとは別種の事実が明らかになる。いわゆる著書『神秘学概論』から読み取れるように、今日、人間は、(地上の存在のなかでは)最長の進化を経てきて、その進化は土星紀まで遡れる存在であることが明らかになる。 従って、人間は(上記の存在のなかで)、この地球進化のうちで、最古の被造物である。太陽紀になって、ようやく動物界が、月紀になって、植物界が、人間界に付け加えられ、そして今日、存在する鉱物界は、本質的に、地球の成果であり、地球進化期になって、はじめて付け加えられた。 さて、今日の(鉱物的)形態をとっている人間を見て、次のような問いかけをする。 「では、進化史上で、人間のなかで、最古の部分は一体何なのだろう?」 人間の最古の部分とは頭部である。人間の頭部が、最初の原基(素質)を受け取ったのは、地球がまだ土星変容(土星紀の段階)にあった時期であった。言うまでもなく土星変容(土星紀)は、ただの熱実質からのみ成立し、人間の頭部も、沸き立ち、息づき、波打つ熱の存在であった。 その後、太陽紀には気体の形状をとり、月紀の間は液体状に流動する実体であった。そして、地球紀に骨の含有物を伴った固い鉱物の形態を獲得した。 従って、次のような結論に到達する。 「今日、勿論のことながら、外(唯物)的認識では思い描くのが困難な、人間の頭部の実体は、この熱からなる実体の後裔である。」 以前の話から察知できるが、この人間の頭部の形成と同時に、(古)土星紀の間に、蝶の原基が生じた。蝶以外の他の昆虫も、後に更に詳細に考察するが、まずは蝶にとどめる。 従って、土星紀から今日の地球紀までの進化を追求すると、次のような結論に到達する。 「人間の頭部の精妙な物質的形姿(フォルム)が原基として形成され、同時に、空中を飛び交う蝶全てが形成される。」 (人智学では、地球紀前半を火星紀、後半を水星紀とも呼ぶ。物質的に降下するのが火星紀、霊的に上昇するのが水星紀で、アクエリアスの時代といわれている。仏陀は水星人と呼ばれ、仏陀の思想が復活し、弥勒菩薩に受け継がれるという説もある。) 更に、この両方(人間の頭部と蝶)の進化は進む。人間は内面化し、その結果、益々、魂的存在を顕現させる存在、つまり内から外へと進む存在となり、それをイメージ的に表現すると、自らを内から外へと放射しながら進化する存在である。 対して、蝶は、宇宙が、美という積み荷を、外面的に、蝶として降ろしている、とでもいうべき存在である。蝶の翅の鱗粉には、以前述べた形で、いわば宇宙における美と荘厳として存在する全てが飛来し付着している。 つまり、蝶という存在は、いわば上なる宇宙の美の鏡像のように思い描くべきである。 人間は上なる宇宙を、自らのなかに受け入れ、自らのうちに閉じこめ、その内部で魂となり、いわば宇宙の収縮から、人間の頭部としての形姿を得て、魂となり、その後、外に向かって放射することで、その結果、内から外へと形成された頭という宇宙言語が得られるが、他方、蝶においては、外から内へと形成された宇宙言語が得られる。 人間の頭部;内から外への宇宙言語 蝶;外から内への宇宙言語
2010年03月26日
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古代の人間たちは、この霊的マグマから身を守り、この蝙蝠(コウモリ)の残存物が人間に対して支配力をふるわないように、(外界から)人間自らを内的に遮断するため、秘儀のなかにも、特定の呪文があった。 というのも、人間は、空気のなかの酸素や窒素だけを吸い込むのではなく、この蝙蝠(コウモリ)の残存物も吸い込んでいるからだが、今日の人類は、この蝙蝠(コウモリ)の残存物から身を守ることを考慮せず、例えば、臭い匂いやタバコの煙に対しては、非常に敏感だが、この蝙蝠(コウモリ)の残存物に対しては極めて鈍感である。 人類は、この蝙蝠(コウモリ)の残存物を飲み込み、その際に、吐き気さえも感じない。全く奇妙な話で、なぜなら、それ以外の悪臭等に非常に神経質な人間が、霊的に下劣な残存物を飲み込むからである。 ともかく、このように、蝙蝠(コウモリ)の残存物は、人間のなかに入っていくが、物質(肉)体とエーテル体には入らず、アストラル体のなかに入る。 さて、ここで奇妙な関連に辿り着くことがわかる。秘儀参入学から、宇宙の至る処に、関連をみつけられるが、これら蝙蝠(コウモリ)の残存物は、以前述べた、龍(悪霊)として描写される存在が最も好む食物である。 ただ、これら蝙蝠(コウモリ)の残存物は、はじめ、人間のなかに吸い込まれ、そして、その人間が本能を、蝙蝠(コウモリ)の残存物に浸透(共鳴)させるとき、龍が、その人間の本性のなかに、その最良の拠り所を得る。 蝙蝠(コウモリ)の残存物が、人間の内部を撹乱する。 (コウモリの残存物は、マッチポンプのマッチの役割を果たすという。) そして、龍は、この最良の拠り所を貪り喰い、太る。勿論、霊的に述べているのだが、龍は人間に対して支配力を得て、様々な形で支配する。今日の人間もまた、この蝙蝠(コウモリ)の残存物の人間への浸透(悪魔のマッチポンプ)から身を守る必要がある。 この龍の企てから、人間は新しい「ミカエルと龍の闘い」の形として防御する必要がある。 ミカエル衝動を、霊的に描写するように(2)受け入れると、人間は内的に力づけられ、食物を欲しがる龍から、ミカエルの像が、人間を守るので、人間は大気圏内の極めて不当な蝙蝠(コウモリ)の残存物から身を守ることができる。 2)ミカエルと龍の闘い(ミカエル衝動):GA229「四つの宇宙言語(イマジネーション)における四季の体験」(1923年10月3日から10月15日)などの内容と関連するものと思われる。 宇宙的な内(精神)的関連から、引き出される真実を前にして、臆せず尻込みせず、この宇宙的な内的関連(言語)に本当に参入するなら、防御できる。というのも、今日、一般に知られている調査や探求の形では、いかなる真実にも導くことはなく、大抵、夢見るようなもので、正にマーヤ(幻)しか導かないからである。 物質的存在と雖も、全て霊的存在に浸透されているのが真相で、その領域においてこそ、是非とも真実を探求する必要がある。真実に近づけるのは、上述したような、事実を観察するときだけである。 あらゆる存在とは、善、もしくは悪のためにあり、全ては、それぞれが他の存在と、いかに関連するのかを認識できるような形で、宇宙的関連の内部に配されている。 唯物論的思考の人間にとって、蝶は飛び、鳥は飛翔し、翼手類の蝙蝠(コウモリ)も飛ぶようにみえるが、このような見方は、芸術的センスのほとんどない人間に見られるもので、自分の部屋一杯に、調和なくバラバラの内的関連の全くない、ありったけの絵画を掛けるような場合と同じである。 一般的な世界観察者にとって、世界(宇宙)を飛翔していく存在に対して、内的関連性を見つけられないのは、そのような人間には、内(精神)的な関連性(芸術的調和)が見えないからである。 (芸術的感性のない者は、芸術を評価できないということで、例えば、骨董などの美術品の真贋を鑑定できないのと同じである。) けれども、宇宙の全ての存在は、自らの場所に立っている。なぜなら、これらの存在は、自らの場所から、宇宙全体との内(精神)的な関連性を有しているからである(「自由」の真の意味)。蝶であれ、鳥であれ、蝙蝠(コウモリ)であれ、全ては宇宙のなかに何らかの意味を伴って配されている。 今日、このような霊的な知見を嘲笑したい人間は、嘲笑すればよい。このような事実を嘲笑する人間は、既に、別の事実も嘲笑した。近年(1923年)の著名な学術会員たちが次のような判断を発表した。 「隕石などというものは存在しない、なぜなら天から鉄が落下することなどありえないから云々。」 今日述べたような蝙蝠(コウモリ)の機能について、この著名な学術会員たちが嘲弄しないとはいえないが、とは言え、実際、霊的な認識で、文明を再考する点において、こういった嘲笑等全てが、上述した真実を揺るがすことはないだろう。
2010年03月25日
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蝶に関して、更にもう少し言及すると、蝶は霊化された物質的実質を絶え間なく宇宙に与えるので、蝶は土星作用の申し子である。 さて、以前、土星は太陽系の記憶の大いなる担い手であることを述べた(1)。1)土星は記憶の大いなる担い手:詳細はシュタイナーの1923年7月27日の講義(『秘儀参入学と星認識』[Initiationswissenschaft und Sternenerkenntnis] GA228)参照。GA228『秘儀参入学と星認識』の第1講(1923年7月27日)によれば、土星は太陽系の活力ある記憶。木星は宇宙の創造的、受容的思考。火星は言語を発する衝動に関係する。金星は地球から発する全てを愛で満たし宇宙に返す。水星は宇宙的思考。月は遺伝力の担い手。火星、木星、土星は人間を解放する惑星、金星、水星、月は人間に運命を定める惑星。これらの惑星間にあって、調和をつくりだすのが太陽。 蝶は、土星という惑星の想起(記憶)能力と関連する。霊化された物質的実質は、蝶のなかに生きている想起(記憶)的思考である。 鳥は(これも既に述べたが)全体として本質的に(人間に対する)1つの頭部で、宇宙空間を貫いて飛翔していく。熱に浸透された空気のなかに、鳥は本質的に生き、いわば飛翔する思考である。 人間が、思考として持つ、実際、熱エーテルに関連する本性は、人間のなかの鳥の本性、鷲の本性である。 「鳥は飛翔する思考である。」 「蝙蝠(コウモリ)は、飛躍する宇宙の夢である。」 従って、次のような結論に達する。 「地球は蝶により織りなされ、蝶は宇宙の記憶である。鳥類は宇宙の思考である。そして、蝙蝠(コウモリ)は宇宙の夢である。」 蝙蝠(コウモリ)として、空間を飛び、通り過ぎるのは、実際、飛躍する宇宙の夢である。夢が黄昏の光を愛するように、宇宙は、蝙蝠(コウモリ)をして、空間を通過させることで、黄昏の光を愛する。 記憶という持続的な思考が、地球を取り巻く蝶の帯のなかに具現化されていることがわかる。現在という瞬間のなかに生きる思考は、地球を取り巻く鳥の帯のなかに見てとれる。夢は地球の周囲に飛び回る蝙蝠(コウモリ)として具現化しているのがわかる。 上述のように宇宙言語のフォルムへと深く入っていき、蝙蝠(コウモリ)を見ると、「夢を見ること」に親和性があるのがわかる。蝙蝠(コウモリ)に対しては、次のような考え以外の見方はできない。 「汝は、やはり夢を見ている。けれども、それは本来、ここに実在するものではなく、夢が通常の物質的世界から生じるように、自然(界)の別の被造物から生じたものである。」 つまり、次のような結論に到達できる。 「蝶は生きているうちに、霊化された物質的実質を霊の国へと送り込む。鳥は死後、それを送り込む。」 では、蝙蝠(コウモリ)は何をするのか? 蝙蝠(コウモリ)は、霊化された(物質的)実質、特に、指の間に張られた皮膚のなか(蝙蝠の翼)に生きる霊的実質を、生存中に分泌するが、それを宇宙に委ねるのではなく、地球の大気中に分泌する。 その蝙蝠(コウモリ)の翼により、絶え間なく地球の大気中に、霊の真珠とでもいえる霊的実質を生じさせる。 さて、このように地球は、蝶が霊的実質を放射することで、その持続的な煌きに取り巻かれ、鳥が死後発する霊的実質が迸(ほとばし)るが、蝙蝠(コウモリ)が、自ら霊化した実質を、大気中に分泌し、この大気中の奇妙な含有物が、地球へと反射される。 この大気中の奇妙な含有物は、飛んでいる蝙蝠(コウモリ)を見るとき、常に見つけられる霊の形成物である。事実、蝙蝠(コウモリ)は、彗星のように常に背後に尾のような形成物を付けている。 蝙蝠(コウモリ)は霊的実質を分泌するが、(霊の国には)送り込まず、地球の物質的実質のなかに押し戻し、大気中の空中へと反射させる。 飛んでいる物質的な蝙蝠(コウモリ)を、肉眼で捉えられるように、この蝙蝠(コウモリ)に相応する霊的形成物が空中を飛び、空間をバタバタと横切っていくのを捉えることができる。 そして、空気は、酸素、窒素、その他の構成要素から成立することを(唯物科学の知識から)知っているが、それで全てではなく、それらに、蝙蝠(コウモリ)の霊的影響が加わり、成立している。 風変わりで逆説的に聞こえようとも、この蝙蝠(コウモリ)の夢の類は大気中に小さな幽霊を送り込み、それらはやがて一塊に一体化する。大地の下の、ドロドロとした粥状の溶岩を、地質学では、マグマと呼ぶが、蝙蝠(コウモリ)の分泌物に由来する大気中の、いわゆるマグマに関しても同様に語ることができる。 今日でも、例えば、物質的(化学的)な悪臭に敏感な人たちがいるように、遺伝的な霊視がまだ存在していた古代では、この霊のマグマに対して非常に敏感であった。 悪臭と同様に、この霊マグマは下劣で、遺伝的な霊視者が活躍した古代では、蝙蝠(コウモリ)から生じる空中の産物に対して敏感であった。 (いまでいう、花粉症や化学物質過敏症のようなアレルギーのことだろう。)
2010年03月19日
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今度はいわば3番目の種類といえ、大気を下降し地表近辺にくると、ある生物に到達する。地球進化のある特定の時期、例えば月がまだ地球と共にあり、地球から分離していなかった時期には、存在できなかった生物である。 この生物も、やはり大気(空気)の生物で、空中に生息するが、本質的には既に、地球に固有な、地球の重力に完全に依存する生物である。蝶はいまだ地球の重力には依存せず、蝶は喜んで光エーテルのなかを舞い飛び、自分を光エーテルから生まれた被造物だと感じている。 鳥は、空気を体内で暖め、暖かい空気から、重力を克服し、暖かい空気が冷たい空気に運ばれ、鳥は地球の重力を克服する。 確かに、その素性からすれば、空中に生息せざるを得ないが、もはや空洞の骨ではなく、髄に満たされた骨を持ち、鳥が持つような空気袋も持たないので、地球の重力を克服できない動物は、蝙蝠(コウモリ)である。 蝙蝠(コウモリ)という動物は奇妙な動物である。蝙蝠(コウモリ)は、体内にあるものから、地球の重力を克服できない。蝙蝠(コウモリ)は蝶のような光さながらの軽やかをもたず、鳥のような熱さながらの軽さをもつわけでもなく、蝙蝠(コウモリ)は地球の重力に屈し、筋肉と骨のなかに自らを感じる。 従って蝙蝠(コウモリ)にとって、例えば、蝶をつくり、蝶を生かすエレメントである、光のエレメント(宇宙言語)を不快と感じる。 蝙蝠(コウモリ)は黄昏を好み。蝙蝠(コウモリ)が飛ぶには空気を用いざるを得ないが、(光のエレメントが不快なので)光を含まない空気を好む。 (確かに、蝙蝠は光のない洞窟を棲家としている。) 蝙蝠(コウモリ)は黄昏に身を委ね、本質的に黄昏の動物である。蝙蝠(コウモリ)が空中で身を支えることができるのは、幾分風変わりに見える翼、実際、それは翼ではなく、指の間に拡張した皮膚で、いわゆるパラシュートをもつことによる。 このパラシュートにより、蝙蝠(コウモリ)は空中で身を支え、重力に対して釣り合いをとり、この浮力から重力を克服する。 重力から浮力という釣り合いをとる事実から、蝙蝠(コウモリ)は完全に地球力(重力)の領域に係留される。蝶の翅を、物質的-機械的構成に従い、つくることはほとんど不可能で、鳥の翼も同様に不可能だが、蝙蝠(コウモリ)の翼は、地上の力学と機械学に従い、完全に構成できる。 蝙蝠(コウモリ)は、光に浸透された大気(空気)を好まず、光がほんの僅かだけ残る黄昏の大気(空気)を好む位である。 蝙蝠(コウモリ)が鳥と区別できるのは、鳥は、本質的に、空中の存在で、禿鷲でさえ、例えば子羊を捉えるとき、子羊があたかも気圏(空中)の端にいる存在として、上空から見、地面に描かれた存在のように知覚するからである。 しかも、鳥の欲望と意志は、例えば、子羊めがけて向かってくる禿鷲の飛行のなかにあり、そのダイナミクス(動力学的)な飛行をみれば、実際、そのなかに、その欲望と意志を感じとれる。 蝶は地上の存在を、総じてまるで鏡に映るかのように見、蝶にとっては、地球は鏡であり、蝶は宇宙のなかにある存在を常に見る。 従って、蝶がヒラヒラと飛ぶのをみるとき、次のような結論に到達する。 「蝶は地球に注意を払わない、蝶にとって地球は鏡だからである。」 地球は蝶に、宇宙のなかにあるものを映し出す。鳥は地上の存在に無関心で、空中の存在を見る。 蝙蝠(コウモリ)という存在に至って初めて、自らの飛行を横切り、通過する地上の存在を知覚する。蝙蝠(コウモリ)は光を好まないので、本質的に、自らが見る全ての存在に接触されるのを不快と感じる。 従って、蝶と鳥は霊的な方法で視覚を得るが、天から降下した最初の動物は、地上的な方法で視覚を得る必要があるので、視覚を遮断し、視覚に触れるのを不快に感じる。 蝙蝠(コウモリ)は、視覚を好まないので、視覚に触れられ、視覚を意識させられると、具現化した不安とでもいうべき感情を抱く。 蝙蝠(コウモリ)は視覚を意識したくないので、事物の傍らを、瞬時に掠め飛ぶ欲望に満ち、視覚を得たいが、視覚によって気分を害されたくない、という風に、瞬時に身をかわすような(覗き見するような)行動を取る。 蝙蝠(コウモリ)は、瞬時に身をかわしたいため、驚異的に聴覚が発達している。事実、蝙蝠(コウモリ)は、自らの飛行が危険に晒されないかどうか、絶えず、自らの飛行に聴覚を研ぎ澄ませる動物である。 蝙蝠(コウモリ)をみれば、蝙蝠(コウモリ)の聴覚が「宇宙の憂鬱(反響)」に適合させられていることがわかる。「憂鬱(反響)」という宇宙言語が蝙蝠(コウモリ)の聴覚をつくる。 蝙蝠(コウモリ)の聴覚は奇妙な構成体で、世界を密かに通過し、「宇宙の憂鬱(反響)」に正確に適合させられている。これらの事実全ては、蝙蝠(コウモリ)を、霊的に考察した関連のなかで観察するときに初めて理解できる。 蝙蝠の宇宙言語;聴覚が「宇宙の憂鬱(反響)」に適合 (「宇宙の憂鬱」というと意味がわかりにくいが、コウモリの聴覚は、超音波を介して行われるので、反響定位という概念から、宇宙の反響を聞き取るように、できていると解釈すればよいだろう。)
2010年03月18日
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蝶は本質的に、その外側の覆いから内部に入り込む管(気管)を通してのみ呼吸し、この管が幾らか膨らむことで蝶は飛んでいるときに空気を貯えることができ、蝶は常に呼吸しなくても、すむようになっている。 蝶は本質的に、常に、蝶の内部に入り込んでいる管を通じて呼吸する。 内部に入り込んでいる管を通じての呼吸により、蝶は、吸い込む空気と一緒に、空気のなかにある光も同時に、体全体に取り入れる。このような呼吸においてまた、鳥との大きな違いがある。 図で示すために、高等動物と比較する。高等動物は肺を持っている。肺の中へと酸素が入ってきて、心臓を迂回して、肺で血液と結びつく。血液は、このような嵩高い(高等)動物の場合、人間もだが、酸素に接触するためには、心臓と肺に流れ込まなければならない。 蝶の場合は、全く別様で、次のように示される。 「蝶では、体の隅々に管(気管)が入り込み、更に枝分かれしている。そして、酸素が隅々に入って行き、酸素自身も枝分かれし、空気が体内の隅々に侵入する。」 人間や、いわゆる高等動物では、空気は肺に入っていくが、蝶では、外の空気は光を携えたまま、体内全体に広がる。 鳥は空気を空洞の骨内部に行き渡らせるが、蝶は外に向かうだけの光動物ではなく、空気に担われてきた光を、体全体に行き渡らせるので、蝶は内的にも光である。 鳥は本質的には、内的に暖められた空気の存在で、蝶は本質的には、光の存在と描写できる。 鳥の宇宙言語;暖められた空気 蝶の宇宙言語;光 蝶の体は光から出来、蝶にとって熱は重荷で、荷物である。蝶は、光のなかを舞い飛び、その体を完全に光から作り上げる。 蝶が空中をヒラヒラ飛ぶのを見るとき、本当は光の生物が飛んでいると見るべきで、蝶は自らの色彩や、自らの色彩の戯れを喜ぶ光の生物なのである。 蝶のなかの光以外他のものは衣装であり荷物である。地球の周囲の存在たちが、本質的には何から成り立っているか、ということを洞察すべきで、というのも、外見的な現出は幻想で、人間を欺くからである。 今日、顕教的に叡智を学んだ人たちは、例えば東洋の叡智から学んだ人たちは、世界をマーヤ(仮象、幻影])というが、ただ、「世界はマーヤ(幻想)である」、とだけ言うのなら、何の意味もない。 つまりは、どのように世界がマーヤ(幻想)であるのかを、個々別々に解き明かす必要がある。 世界がマーヤ(幻想)であることを理解できるのは、鳥の本質を、外見的に現出している姿とするのではなく、内面の本質、つまり空気の生物であると知るときである。 (秘教的に、叡智を学ぶ必要がある。秘教とは、言い伝えや教えられることを、鵜呑みにするのではなく、自らの魂の深層と照らし合わせ、吟味することにある。 人間の魂は、樹木の年輪のように、過去の経験が潜在意識として地層のように積み重なっているので、深く潜行するために、表面を手掛かりに、現れていない内面を捉える観想を行うのである。 例えば、赤色の布をみたとき、その布には、赤色を除いた他の色全てが吸収されたので、赤にみえると考えるわけである。だから、プラスのエネルギーの背後には、マイナスのエネルギーが隠されているともいえる。また、例えば、誰かがお金を儲けた分、他の誰かがその負債や損を負うわけである。) 蝶の本質も、外見的に現出するような姿ではなく、飛び交い、色彩の戯れへの喜びから出来ている光の生物である。地上の塵のような物質的実質が、色彩の戯れに貫かれることで、霊的な宇宙空間への霊化の初段階となり、蝶は、その翅に生じる霊化の初段階である色彩の戯れへの喜びの表現形態となる。 鳥と蝶から、いわば2つの霊化の段階が得られ、この地球の周囲の光エーテルに生息するのが蝶で、この地球の周囲の熱エーテルに生息するのが鳥である。
2010年03月17日
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哺乳動物の骨や人間の骨をみれば、髄(液)で満たされているのがわかる。髄(液)で満たされている理由について述べていく。 鳥の骨は空洞で唯一空気に満たされている。従って、人間の骨内部を観察する限り、人間は髄(液)から成り、鳥は空気から成り、鳥のいわば髄にあたるものは、純粋な空気である。 例えば、鳥の肺を考えてみると、この鳥の肺のなかに肺から出ている多数の袋、いわゆる空気袋が発見できる。鳥が呼吸するとき、肺のなかへと(空気を)吸い込み、この空気袋のなかにも空気を満たす。そして空気は、この空気袋から空洞の骨のなかへと入っていく。 従って、鳥から筋肉や羽根等全てを外し、骨も取り去ると、空気から成る動物となる。この動物は、肺の内部を充填する空気と全骨内部を充填する空気の形(フォルム)をもつ。この、いわば空気からなる動物のイメージを、形(フォルム)として思い浮かべると、鳥が得られる。 鳥の筋肉-骨内部に、いわば空気鳥がおさまっている。さて、内部に空気鳥が存在するという理由だけで、鳥が空気の存在と同等になるのではなく、鳥が呼吸し、呼吸を通じて熱を生み出すことにある。 鳥は、この熱を、全肢のなかに保有する空気に伝えることで、外界の環境に対して、熱の温度差を生じさせる。鳥は内熱と、外熱との温度差をもつ。 大気の外熱と、鳥自身の内部にある空気に与える熱との間の温度差のなか、この熱のエレメント(素質[宇宙言語])の温度差のなかに、鳥は生きる。 もし、鳥の体はどういう状態なのか? と、鳥に尋ねるなら、鳥は次のように答えるだろう(鳥の言葉を解するなら、以下の鳥の答がわかる)。 「例えば、人間が荷物を、両手や背中や頭で背負うように、自分も、この硬い骨や筋肉という、いわば荷物を背負っている。」 というように、鳥は、その硬い物質的な骨や筋肉を、常に背負う荷物として語るだろう。 (徳川家康は、人生とは、重い荷物を背負って歩くようなものだ、と言っているが、このような鳥の視点でいえば、人間の魂にとっては、人生や肉体が、荷物なのかもしれない。) 人間は、荷物を、右手や左手や、その他身体の部位で抱えるが、荷物を身体とはいわない。自分が、担ぐ荷物を、まるで自分の身体のように述べるようなことはほとんどない。 人間が荷物を担ぐものとして感じるように、鳥は、暖められた空気を、自分の身体として感じ、地上の生存で担う荷物(硬い骨や筋肉)とは異なるものと感じている。 この暖められた空気のような、いわゆる本質的な鳥の空気体を覆っている骨は、鳥の荷物である。従って次のような結論に至る 「根本的に言って、鳥は全くの熱エレメント(元素霊[宇宙言語])のなかで生きる、そして蝶は光エレメント(元素霊[宇宙言語])のなかで生きる。」 蝶が霊化する物質的実質全ては、蝶にとって、霊化前は、荷物というよりも、荷物の素材とでもいうべきもので、これは蝶の実体から、更に遠い存在である。 つまり、この蝶の領域まで上昇することで、物質的方法で判断できない存在に到達する。この領域を物質的方法で考察するのは、例えば、人間を次のように描くのと同じである。 「髪の毛から、頭にかぶる帽子が生えたり、両腕や背中に背負う荷物、例えばリュックサックが、背負う人間の身体になり、その結果、リュックサックが、人間の身体として、後方へと成長していき、背中にいわば瘤をもつように描く」のに相当する。 荷物を、その人間の一部として描くなら、それは、鳥に対して従来抱いている想念を、画家として、表現した絵に当たる。 鳥へのその想念は、鳥の本性を表わしたものではなく、鳥の荷物を描いているにすぎない。鳥もまた本質的に、あたかも自分が酷く重い荷物を背負っているように感じている。というのも、鳥は本心では、重荷などもたず、暖かな空気だけの存在として、世界を巡り流離うことを、望んでいるからである。 世界を巡り流離う以外は、鳥にとっては、本来重荷である。そして、鳥は、この重荷を霊化し、霊化した貢ぎ物を、死後、宇宙へともたらし、霊の国へと送り込み、また、蝶は生きているうちに、この霊化を行なう。 鳥は、上述したような形で呼吸し、空気を用いる。蝶はまた異なっている。蝶はそもそも、いわゆる高等動物がもつような装置を用いて呼吸するのではなく、高等動物とは実際、嵩高な(嵩張っている複雑な)動物で、本当は高等な動物などではない。
2010年03月16日
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鷲に代表される鳥に関して、以前、次のように結論づけた。 「鳥は、死後、霊化された地球(の物質的)実質を霊界へと運び去ることができ、鳥は、地球(の物質的)実質を霊化し、人間ができないことを行なうことで、宇宙での生存の課題を果たしている。」 人間も、頭のなかで地球の物質的実質を、ある程度までは霊化したが、人間は、この地球の素材(物質的実質)を、死と新たな誕生(転生)との間に生きていく世界のなかに携えていくことはできない。 というのも、頭のなかの、この霊化された地球の素材(物質的実質)を霊界へと持ち込むなら、言語を絶した、耐え難い、やむことの無い破壊的苦痛に耐えなければならない。 鷲により代表される鳥の世界は、霊化された地球の素材(物質的実質)を運ぶことができ、実際、この運搬から、地上と地球外との間に関係が生み出される。地上的な素材(物質的実質)は、まず、いわばゆっくりと霊へと移され、そして鳥類は、この霊化された地上の素材(物質的実質)を万有宇宙に委ねるという課題をもっている。 従って、いつか地球がその存在(状態)の終わりに到達したとき、次のような結論に到達するだろう。 「地球の素材(物質的実質)は霊化された。鳥類は、霊化された地球素材(物質的実質)を霊の国に戻すために、地球(という状態)の経済全体のなかにいた。」 蝶に関しては幾らか事情は異なる。蝶は鳥よりも更に多く地上の素材を霊化する。鳥は何と言っても、蝶よりも遥かに大地の近くにいる状態にある。このことは後に述べる。 蝶が太陽領域を外れずにいることで、霊化された地球の素材(物質的実質)を、鳥のように死後ようやくではなく、まだ生きているうちに、絶えず地球の周囲に、譲渡するほど、霊化させることが可能である。 究めて、様々に飛び交う蝶の世界に貫かれ、この蝶の世界が宇宙に譲渡する霊化された地球の素材(物質的実質)を、絶え間なく宇宙空間に放射している地球を思い浮かべられるとき、宇宙の全経済のなかに、真なる偉大な存在があることがわかる。 このように、地球のまわりの蝶の世界の領域を、上述した認識から、全く別の感情をもって観察できる。 このヒラヒラと舞い飛ぶ世界のなかを覗き込むことができると、次のような結論に到達する。 「汝(蝶)、舞い飛ぶ存在たちよ! 汝(蝶)は太陽光よりも良いとさえいえるものを発する。汝(蝶)は霊光を宇宙へと放射する。」 実際、霊的存在は、唯物論的科学からはほとんど考慮されない。そのため、唯物論的科学は実際、宇宙経済全体に属する、このような事実に行き着く手懸かりさえも全くもたない。 とはいえ、物質的な作用が存在するのと同様、宇宙経済も存在し、しかも宇宙経済は物質的な作用よりも本質的である。 というのも、霊の国への放射は、地球が崩壊しても、作用を続けるからで、今日の科学者がつくるものは、結局、地球と共にその終焉を迎える。従って、ある観察者が外の宇宙に座して、長い間、観察を続けるなら、その観察者は、霊化した物質が霊の国へと絶え間なく放射する現象が生じるのを見るだろう。 その観察者は、地球が、自身の本質を宇宙空間へと放射するのを、そして、迸(ほとばし)り、輝きを発し続ける火花のように、鳥類全てが、その死後に輝かせる霊光が、この万有宇宙へと光線の姿で放射していくのを、更に、この迸る鳥の霊光と、煌く蝶の霊光を、見るだろう。 このような事実は、同時に次のような事実を導く。 宇宙の別の星界に目を向け、別の星(天体)から放射されてくるもの(光)が、観測機で観測できる値や、天文学者が望遠鏡のなかで捉えられる観測値だけであると信じるべきではなく、また地球から宇宙空間へと放射される光も生命の結果であり、それと同様に、別の星界から地球へと放射されてくる光もまた、別の世界の生命の結果である、ということである。 今日の科学者たちは、ある星を見て、発火した無機的な炎や、それに類する物質的存在(電磁波)を想定するが、勿論、この想定は全くのナンセンスである。というのも、そこで見ている存在は、生命をもち、魂を与えられ、霊化された存在の結果だからである。 さて、地球の周囲を取り巻いている蝶の帯から、再度、鳥類に注目する。これまでの既知の事実をイメージすると、境界で接した3つの領域が得られる。更に、その上部には別の領域があり、また、その下にも別の領域がある。 人間は、光エーテルや熱エーテルをもつが、熱エーテルは、本質的に2つの領域、つまり2つの層があり、1つは地上的な熱層、2つ目は宇宙的な熱層であり、この2つは絶えず浸透し合っている。 実際、人間は1種ではなく2種類の熱をもち、地上的な、地球的な起源である熱と、宇宙的な起源である熱をもつ。これら2つは絶えず互いに浸透し合っている。更に熱エーテルに接して空気があり、続いて水と地が、そして、熱エーテルの上方には化学エーテルと生命エーテルがある。 (人間のもつ2つの熱の動的平衡が乱されると、風邪をひくという。風邪をひくと発熱するのは、このせいである。) さて、いま、蝶類をとりあげると、蝶類は主に光エーテルに属し、光エーテル自体が、輝きの力をもち、蝶の卵から幼虫を引き出す力となる。この光エーテルの輝く力は本質的に幼虫を引き出し、鳥類の場合とは、異なり、鳥類には、あてはまらない。 鳥は硬化質の卵を産む。この卵は熱によって孵化されなければならない。蝶の卵はもっぱら太陽の本性(光)に委ねられるが、鳥の卵は熱の領域にまで至る。鳥は熱エーテルの領域に存在し、鳥は、本質的に空気を克服している。 蝶も空中を飛翔するが、蝶は根本的に全くの光の被造物である。そして、蝶は、光に浸透された光-空気存在(状態)の内で、空気存在(状態)ではなく、光存在(状態)を選択し、蝶にとって空気は、単なる運び手にすぎない。 空気は、蝶が、いわばその上を漂っていく波の媒質で、蝶のエレメント(資質)は光である。 鳥は空中を飛翔するが、本質的に鳥のエレメント(資質)は熱で、空気中の様々な熱の強弱により、鳥はある程度空気を克服する。実際、鳥もまた、過分な空気存在である。
2010年03月15日
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この講義は、宇宙の現象や本質の内的な関連を扱っているが、既に物質的な現象界しか関心のない人には、さしあたり予想もつかないような様々な事実が判明するのがわかるだろう。これまで見てきた事実は、根本において、いかなる存在も(2、3の例で示したが)、その現存の課題を、宇宙的な関連全体のなかにもつ、ということだった。 さて今回、既に述べた存在を、もう一度眺め、前回から続けて、蝶について述べた事実に注目してみる。植物の本質と相対する蝶の性質を展開し、そして、蝶とは、本質的に、太陽光に属し、外惑星、つまり火星、木星、土星の力によって修正された上で、太陽光に属する存在である、と述べた。 従って、蝶を、その本質において理解するなら、上方の宇宙領域を見上げ、次のような結論に到達する。 「宇宙のなかの上方の領域が、地球に、蝶の本性を贈り、蝶の本性を恵みとして地球に授けた。」 さて、この地球に与えられた恵みは遥かに深くまで到達する。以前の内容から、次のような結論に到達する。 「蝶は、本質的に、地上での生存に直接参加せず、太陽の熱と輝きの力が、地上での(蝶)の生存のなかで働き、その範囲内に、間接的に参加するだけである。」 しかも、蝶は、卵を、太陽の領域から外れない場所、つまり、太陽の影響力内の領域に産みつけ、つまり蝶は、卵を、地球ではなく太陽だけに委ねる。それから、火星作用の影響下で、幼虫が這い出て、勿論、太陽作用は変わらず存在し、そして、木星作用下で、蛹が形成される。 蛹から這い出、翅の色彩の煌きのなかで、土星力と太陽の輝きの力が1つになり、地球の周囲に蝶の飛跳が再現する。 このように、本質的に、土星の影響力が、地球(状態)の内部や地球(状態)の周囲に、蝶の様々な色彩のなかで直接活きるのを見る。しかし、宇宙のなかでの生存において問題となる本質は、二重性(霊と物質の二極性)をもつ、という事実も思い出される。 純粋に二重の意味で、地球の物質的実質を扱い、更に霊的実質も扱うが、奇妙にも、人間はその新陳代謝組織に関しては霊的実質を根底にもち、頭部の根底を成すのは物質的実質である。 人間の下部(腹部や四肢)の性質においては、霊的実質が物質力や重力他の地上的な力の作用に浸透されている。 地上的な物質的実質が新陳代謝や循環や神経活動他を通して、人間の頭へと上方に運ばれ、地上的な物質的実質が、思考やイメージのなかに反映され、超感覚的な、霊力に浸透されている。 従って、人間は、頭のなかには霊化された物質的実質を持ち、新陳代謝-四肢組織のなかには、地上化された霊的実質をもっている。 さて、特に、この霊化された物質的実質は蝶のなかに見つけられる。本質的に、蝶は太陽の領域に止まることで、地上的な物質的実質を、(比喩的に言って)いわば微細な塵のような状態で、自らのものにする。 また、蝶は太陽に加工された地球の物質的実質から食物を調達する。蝶が自身の本質に結びつけるのは、太陽に加工されたものだけで、あらゆる地上的な実質から、精妙なものを選び出し、完全に霊化する。 実際、蝶の翅(はね)に注目するなら、その根本にあるのは霊化された地球の物質的実質である。蝶の翅が色彩に浸透されることで、蝶の翅は霊化された地球の実質となる。 蝶とは本質的に、霊化された地球の物質的実質のなかでだけ生きる存在である。しかも霊的に見てわかるが、蝶は、自らの色彩豊かな翅(はね)の真ん中の胴体を、ある意味、軽蔑している。なぜなら、蝶の注意力や蝶の集合魂は、自らの翅の色彩を喜び、享受することに安らぎを感じているからである。 その翅の煌く色彩に驚嘆しながら蝶を追いかけるのと同様に、その色彩に対して湧き上がる歓喜に驚嘆しながら、蝶を追いかけることもできる。このような空中をヒラヒラと飛び交う歓喜や驚嘆のような霊性に対する喜びや色彩の戯れに対する喜び(感動)は、根本的に子供のときに開発されるべきである。 この点において、蝶は全く驚くべき形で印象付けされているが、その根底にはまた別の事実がある。
2010年03月12日
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昆虫の卵が地球の影響下にあると、幼虫は植物の葉に変容させられ、植物の萼として収縮した言語は、本質的には蛹が変容させられている。 更に、鱗翅類として発生する言語は、植物の場合、花のなかに展開される。蝶-昆虫界全般と植物界との間に、このような密接な関係があるのも驚くにはあたらない。 (宇宙言語が、上位の太陽-火星、木星、土星に翻訳させると、昆虫の幼虫、蛹-繭、成虫-蝶になるが、下位の地球-月、金星、水星に翻訳されると、植物の葉、萼、花となる。) 従って、本質的に、昆虫や蝶の根底をなす霊的存在は、次のように語る。 「下方の地球には、我々(昆虫)に近い存在(植物)がいる、この存在(植物)と親しみ、結びつかねばならない。この存在(植物)の樹液などを味わい、結びつかねばならない。この存在たちは、我々(昆虫)の兄弟だからである。」 「この存在(植物)は兄弟である。地球に下降し、地球によって繋ぎ止められ、別の生存状態を受容した兄弟なのである。」 また他方で、植物に魂を吹き込む霊的存在が、上空に、蝶を見て、次のように語る。 「蝶は、地球の植物のなかで、天に近い存在である。」 このような事実からわかるように、宇宙の理解は、抽象論では成立しない。抽象論では理解不十分である。 なぜなら、宇宙において働いている存在は、偉大な芸術家だからである。宇宙はあらゆる存在を、深い意味において、芸術家の感覚を満足させる法則に従って形成する。 抽象的思考を、芸術家の感覚のなかで変容させる以外、誰も地球に下降させられた鱗翅類、つまり植物の本質を理解できない。 太陽光や様々な天体力により、空中へと持ち上げられた植物の花の内容を、抽象思考では、それを蝶として、そのなかに理解できない。抽象的思考に再び芸術的な働きを与えることができなければ、宇宙の謎を理解できない。 とはいえ、自然物と自然存在との、この意味深な内的親和性に注目するなら、何か途方もなく精神を高揚させる事実が浮かび上がることに変わりがない。 本来、昆虫であるべき存在が、植物のままに止まるのを見て、そして同時に、アストラル的存在が、その植物の花を統べる様子を見ると、何か特別な真実がみえてくる。 それは、花のなかで、植物は地上的存在を抜け出そうと努力しているという真実である。植物の天への憧れが様々な色彩に煌く花びらを統べている。植物は自分では、この憧れを満たすことはできない。 そこで植物に向かって宇宙から、蝶が放たれる。植物は蝶を見つめ、蝶の中で自分の望みが叶えられるのを見る。植物界の憧れが、昆虫、とりわけ蝶の世界を観ることで鎮められる。この事実は、地球を取り巻く驚くべき結びつきである。 満開の花々の色彩が、その色を宇宙に放射することで示す切なる願いは、植物に向かって鱗翅類が、その色彩を、煌かせて、近づくことにより、植物にとって、その憧れの認識実現のようになる。 地から熱を放射する憧れ、更に、天から放射されてくる満足、この「憧れ」と「満足」との相互作用が、植物の花の世界と蝶などの鱗翅類世界との交流である。この真実こそ、地球の周囲に洞察すべきものである。 さて、宇宙言語の植物界への移行が得られたので、人間から動物に至った観察を次回から拡張できる。植物界を組み入れることができて、次第に、人間と地球全体との関係へと到達できる。しかし、そのためには、飛翔する空中の植物、つまり蝶から、地に固着している蝶、つまり植物へと、いわば橋が架けられることが必須である。 大地の植物は地に固着している蝶。蝶は飛翔する植物である。 この地に結びつけられた植物と天に解き放たれた蝶との関係を認識できて始めて、動物界と植物界との間に橋を架けることができ、更には、ある種の無関心性や、あらゆる俗物性や、お決まりの自然発生云々がどうであったか等を語り続ける俗物性を見下すこともできる。 これらの散文的概念では、神々が創造を続ける万有宇宙の領域に到達できない。この領域に到達するには、散文的概念を芸術的概念に転換し、更には次のような真実をイメージできるようになって始めて可能となる。 「太陽だけに委ねられ、天から生まれた蝶の卵から、後になって植物が生じる様子を、太古では太陽だけに委ねられていた蝶の卵が、現在は地球に委ねられることで、この蝶の卵が変容させられ、植物が生じる。」
2010年03月11日
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今度は、後半の2つの変容、月変容(月紀)と地球変容(地球紀)が、いかに共作用してきたかを考察する。 さて、蝶の卵は地球に委ねられないとはいえ、やはり次のようなことを指摘しなければならない。 月変容(月紀)、つまり第三の変容が始まった頃、蝶はまだ今日のような形態ではなく、地球も、現在ほど太陽に依存してはいなかった。 太陽は元々第三の変容(月変容、月紀)の当初は、まだ地球と共にあり、その後、はじめて分離した。従って、当時は、蝶もまだ、その胚を地球に委ねないほど脆くはなかった。蝶はその胚を地球に委ねることで同時に太陽にも委ねていた。 (太陽が地球と合一していたから。) 最初の二つの変容(土星紀、太陽紀)においては、昆虫界の遠い祖先に限って語ることができる。とはいえ、宇宙の、外惑星や太陽に委ねるということは、当時はまだ、地球に委ねることだった。 地球が濃密化し、水(液体)を獲得し、地球が月の地磁気の力を獲得してはじめて、事態が変化し、差異が生じてきた。 さて、上図のようにイメージすると、熱-大気(光)は上に属し、水-土(地)は下にある。 この変容(月紀-地球紀)において、地球に委ねられる運命にあった(蝶の)胚(卵)の運命を想定すると、一方の胚(卵)は地球に止まり、他方、別の胚は、地球(のなか)ではなく、地上(大気)の太陽に委ねられる。 さて、第三の変容、つまり月変容(月紀)が起きたとき、地球に止まった胚を想定してみる。この胚は水的な地球-月作用の影響下に入り、同様に、他方では、昆虫の胚が太陽や太陽より外にある惑星(外惑星)の影響下に入る。 そして、地球に止まった胚が土(地)-水作用の領域に入ったため、これらの胚は植物の胚となった。そして上に委ねられた胚は、昆虫の胚となった。 第三の変容が始まったとき、つまり、太陽から月-地球への変化を通じて、このように、植物の胚が地球進化の第三変容(月紀)の内部に発生した。 地球外の宇宙の影響下に得られた昆虫の変態、つまり胚から幼虫に、そして蛹を経て蝶となる進化全体を、上図のように追求でき、また、太陽ではなく、地球の影響下で生じてくる種子は、胚が地球に委ねられることで生じ、もはや蝶になる変容を遂げず、植物の根をはじめに生じる。 上方の昆虫(太陽と火星、木星、土星)=下方の植物(地球と月、金星、水星) そして、上方の火星からの力のなかで幼虫が卵から這い出てくる代わりに、下方では葉が生え、葉は上へと向かって螺旋状の軌跡に沿って生えてくる。 つまり、植物の葉は、地球の影響下に入った幼虫である。這っている幼虫をみると、上方に相応する下方の、つまり植物の葉に対応する。 植物の葉は太陽領域から地球領域に移された胚、つまり種子により根から変容して生じるが、この葉に対応する宇宙言語が(月から)得られる。 上方の昆虫の火星状態(幼虫)=下方の植物の月状態(葉) 更に上昇すると、萼として、その位置に次第に収縮し、(いわば昆虫でいう)蛹のような形態が生じる。そして、その最後に、いわば鱗翅類として、花及び花のなかが発生し、上空の蝶と同様に色とりどりの花のなかに変容を遂げる。 そして、生命の円環が閉じ、蝶が卵を産むように、花の中には、将来のための種子が発生する。 この上下の対応図から、上空の蝶は、空中に持ち上げられた植物と理解できる。卵から鱗翅類(の成虫)に至る蝶は、地球の影響下では、植物と同じ存在だが、太陽の外惑星と共に太陽の影響下にある。 種子は、地球から月の影響を受け、葉になり、更に金星の影響から、萼となる。そして、水星の影響から、花となり、また地球の影響へと戻る。種子は再び地球の影響下に戻る。 このような事実から、次のような自然の大いなる秘密を現わす2つの句を対置できる: 植物を見よ 植物は地球により 繋ぎとめられた蝶。 蝶を見よ 蝶は宇宙により 解き放たれた植物。 植物―それは地球(大地)により繋ぎ止められた鱗翅類である! 鱗翅類―それは宇宙により地球(大地)から解き放たれた植物である! 蝶や、昆虫全般を、胚から、飛びまわる成虫に至るまで眺めるなら、それは空中に持ち上げられた、宇宙により、空中に形成された植物である。植物を眺めるなら、それは下(地)に繋ぎ止められた蝶である。
2010年03月10日
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蝶は、何らかの形で、太陽との関係を保てないような場所には卵を産まない。従って、蝶が地上に卵を産みつける、と言うのは、不味い表現である。蝶は、太陽と関係をもてない場所には断じて卵を産まず、蝶は太陽の影響下に卵を産みつける。 蝶はほとんど地球に降りてこない。地上のなかの太陽の影響が存在する場所に、蝶はその卵を産みつける場所を探すため、この蝶の卵は太陽の影響下にあり、蝶の卵は地球の影響下にはない。 次いで、この蝶の卵から幼虫が這い出てくる。つまり幼虫が出てきて太陽の影響下に止まるが、太陽以外の他の影響も共に受ける。まだ他の影響を共に受けないうちは、幼虫は這い出てくることができない。この他の影響とは火星の影響である。 蝶の卵;太陽、 幼虫が這い出る;火星 地球を思い浮かべ、そして火星が地球の周りを回転するなら、地上全ての場所に火星の流れがあり、止まり続けることがわかる。火星の場所が問題なのではなく、地上に、火星領域があること、そして幼虫が這い出てくるとき、幼虫は火星領域下の影響において這い出てくる、ということが重要である。 それから、幼虫は蛹になり、自らの周囲に繭を作り出し、繭を得る。 繭は幼虫の太陽への献身であり、このとき紡がれる糸は太陽光線の方向に紡がれることは以前述べた。幼虫は光に曝され、光線を追い求め、紡ぎ、暗くなると一端中断し、また紡ぐ。繭(シルク)は、全て本質的に、宇宙的な太陽光、つまり物質的実質(マテーリエ)に浸透された太陽光である。 (シルクの輝きは、太陽光という宇宙言語を体現したもの、つまり太陽光であることがわかる。) 例えば、絹の衣服に用いられる蚕の繭を手にするとき、絹のなかにあるものは、正しく太陽光であり、蚕の物質的実質が紡ぎ込まれた太陽光である。自身の体から蚕は、太陽光の実質を太陽光線の方向に紡ぎ込み、そして、紡ぎ込むことで、自らの周囲に繭を作り出す。 けれども、繭形成には、木星作用が必要である。太陽光線は木星作用によって修正される必要がある。 幼虫が繭を紡ぐ;木星 そして、既知のように、繭や蛹から這い出てくるのは、蝶であるが、蝶は、光に運ばれ、光に輝く鱗翅類である。 蝶は、丁度、繊細な光しか射し込んで来ない繭や蛹と同じクロムレック(環状列石)のなかの暗い部屋を後に残し出て行く。古代ドルイドのクロムレックに関して、蛹からの蝶の飛翔の意味をかつて述べたことがある。 このとき、太陽は土星の影響下に入り、そして土星と共にあることで、太陽は、鱗翅類が空中で様々な色彩に輝くように、光を空気のなかに送り込むことができる。 蝶の舞い(色彩);土星 従って、大気中を飛ぶ無数の蝶の群を眺めるとき、その内側にある宇宙言語について、次のような結論に到達する。 「蝶は、根本的に地球の産物ではなく、蝶は天(宇宙)から地球へと産み落とされた存在である。」 蝶は卵を、太陽から地球へやってくる太陽光下の外には携えない。宇宙は地球に無数の蝶の群を贈る。土星は蝶に色彩を与え、太陽は、光による支援力他により引き起こされた飛翔力を与える。 実際、蝶のなかに、太陽と太陽の外惑星(火星、木星、土星)との共同作用により太陽系に存在し、この地球上へと拡散された小さな存在とでもいうべき宇宙言語を読み解かなければならない。蝶を代表とする昆虫全般、または蜻蛉他の昆虫たちは、土星、木星、火星及び太陽からの賜物である。 もし太陽の向こう側にある外惑星(土星、木星、火星)が太陽と共に、地球に、この昆虫界という贈り物を与えてくれなかったなら、地球は、たった1つの昆虫さえも、蚤一匹たりとも生み出せなかっただろう。 事実、土星や木星や火星や太陽は、非常に物惜しみせずに、昆虫界を飛翔させたが、これは地球進化が体験した最初の2つの変容(土星紀、太陽紀)の御蔭である。 (土星紀-太陽紀→太陽と外惑星「火星-木星-土星」→昆虫界の変態をつくる。)
2010年03月10日
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前回の結論から、次のような結論に到達できる 今日の地球を眺めると、「地球は、内部に、固体を生じさせ、本質的に地磁気により繋ぎ止められた内的な月を持っている。」 内的な月とは、実際、固体全般が存在するように、質量を持つように作用する本体で、実際、重力とは、液体的状態(流体)から、固体を作り出す存在である。 また、地球の本質とは、多種多様な形態、例えば地下水や、水蒸気、或いはまた雨となって上昇し下降するような形で再現される液体(流体)をもち、更に、その周囲に、気体をもち、土星紀の名残である火(熱)に貫かれた、いわば火球をもつ存在である。 従って、今日の地球においても、上空に太陽-土星、もしくは土星-太陽の遺物(名残)を指摘できる。従って、次のように結論できる。 「光に浸透され、輝く暖かい空気(大気)のなかの存在全ては、土星-太陽(の遺物)である。」 上空を見上げ、光に貫かれている空気(大気)を見ると、この空気が、土星作用や、太陽作用や、その後の時の経過(月紀、地球紀)に従い、太陽変容(太陽紀)の残響である大気圏として発達してきた事実が浮かび上がる。上空を見上げ、霊的に考察すると、上記のような宇宙言語が得られる。 また、地下に眼を転じると、後半の2つの変容(月紀、地球紀)の間に生じた遺物(名残)の継承が上空よりも多く得られる。重量、固体、もっと良い言い方をするなら、重力や質量等による固体形成へとつながる力が得られ、そのなかの液体をみると、そこに月-地球の遺物(名残)が得られる。 いわば地球という存在の、この2つの部分(上空と地下)を厳密に区別できる。『神秘学概論』を再度このような観点から通読するなら、太陽変容(太陽紀)が月変容(月紀)へと移行する箇所における、その表現全体を通じて、意味深い区分けが入るのがわかる。 (上方の地球と、下方の地球の間に、物質による境界である大地が生まれた。) このように今日でもなお、上方の存在、つまり土星と、下方の存在、つまり地下的-月-液体との間に、一種の鋭い対極(コントラスト)がある。つまり土星-太陽-空気(気体)と、月-地球-水(液体)とを完全に区別できる。一方は上、他方は下である。 地球の上方(土星-太陽)、地球の下方(月-地球) 地球進化においては、全般的にみて、地球に属する全てが共に進化したため、このような関係を、秘儀参入学から洞察すると、第一に思い浮かぶのは、昆虫の世界の多様性である。この飛跳し煌く昆虫界を、単なる感情からでも、地球の上方として、土星-太陽-空気(気体)と、ある種関係づけざるを得ない。 蝶を熟考(凝視)すると、蝶は、光に貫かれ輝く大気のなかを、煌く色彩をみせて舞い飛び、蝶は空気の波に運ばれ、蝶は本質的に、(下方の)月-地球-水(液体)には、ほとんど触れないことがわかる。蝶のエレメント(本質)は上方にある。 地球進化とは、いかなるものかを更に研究すると、小さな昆虫の場合特に、奇妙にも、地球変容(地球紀)の最初期へと到達する。今日、光に貫かれ輝く大気のなかで、蝶の翅として煌く本質(言語)は、最初、土星紀に、元基として自らを形成し、次の太陽紀に進化した。 今日もなお、蝶が光-空気の創造物足り得る要因は、このとき生み出された。太陽が光を放射するという天分は太陽自身に帰せられるが、太陽光が、物質のなかに、火や煌く要素を生じさせる天分は、土星-木星-火星作用(太陽系の外惑星)に帰せられる。 (太陽が、太陽系のエネルギー源で、物質にエネルギーを与える変容源は太陽系の外惑星にあるという。) 従って、蝶の本性を地上に捜し求めるなら、結局、蝶の本性は理解できない。蝶の本性のなかで働く力は、上空に捜すべきで、太陽や、木星や、土星の下に探究すべきである。 この驚くべき蝶の進化の詳細を探求すると(既に、以前、この蝶の進化を人間との関連において、いわば記憶の「宇宙的」体現として述べたが)、蝶は、第一に、光に煌きながら空気に運ばれ、地球の上空を舞い飛ぶことがわかる。 蝶は地上に卵を産む。(霊的感性のない粗雑な)唯物主義者は、「蝶は地上に卵を産む」、と言う。なぜなら、現在の唯物科学の影響下では、そもそも重要な(霊的な)事柄が研究されていないからである。問題は次のような点にある。 「蝶は卵を産むとき、一体誰(何)に卵を委ねるのか?」 さて、蝶の卵が産みつけられる場所を、詳細に研究してみると、蝶の卵は太陽の影響から、遠ざけられることがないように産みつけられることがわかる。地球への太陽の影響は、太陽が地球を直接照らす場合だけに存在するわけではない。 すでに何度も注意を喚起したことだが、農民たちは冬の間ジャガイモを地中に置いて土で覆う、なぜなら、夏の間に太陽熱や太陽光としてやってくる生命力(宇宙言語)は、冬の間は地球の内部にあるからである。 地表ではジャガイモは凍りついてしまう。ジャガイモを土の穴に埋め、その上に土を被せると、冬の間中、太陽の作用が地中にあるため、ジャガイモは凍りつかず、生命力を保持した良いジャガイモのままに止まる。 冬は、夏の太陽の作用を地下に求めなくてはならない。例えば、12月に、地下のある程度深い場所に行けば、7月の太陽の作用が得られる。 太陽は、7月には、その光と熱を地表に放射する。熱と光は徐々に地下深く入り込むので、12月に、7月の太陽力による地表体験を探すのなら、穴を掘らなくてはならない。従って、7月に地表にあった太陽力は、12月には地下のある程度深い場所にある。 その場所にジャガイモを置くと、7月の太陽下に埋め込まれる。このように、太陽は粗雑な唯物論的知性で探される場所だけに存在するのではなく、本質的に、太陽は多くの領域に存在する。ただ、この事実は宇宙のなかの季節によって厳密に統御されている。 (3次元空間の太陽だけでなく、4次元以上の太陽が存在する。)
2010年03月09日
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これまでは、霊視的な方法で、地球状態、宇宙状態、動物界のそれぞれと人間とのつながりを考察してきた。 これからも、この考察を先へと進めるが、今回からは、今後、関心事となる広範な領域への導入部とし、今回、はじめに示唆する事実は、著書『神秘学概論』のなかで既に叙述したが、宇宙における地球の進化を問題にするなら、地球の太古の土星変容(土星紀)を出発点とすべきである、ということである。 この土星変容(土星紀)は、そもそも、この太陽系に属する全てが、まだ、この(古い)土星のなかに含まれていた状態としてイメージできる。土星紀から月紀に至る、この太陽系の個々の惑星は、当時は、まだ、この古い土星(この天体は、熱エーテルのみからなる)のなかで溶解した天体であった。 つまり、まだ大気の密度(質量)すらも獲得できず、熱エーテルそのものである土星は、後に独立した形態を取り、様々な惑星へと個別化される全てを、同じ熱エーテル的に溶解した状態で含んでいた。 次いで、地球進化の第2番目の変容として、地球の古い太陽変容(太陽紀)と呼べる状態を区別できる。太陽紀では、土星の火球から徐々に光が流入し、光によって輝き煌く空気球の太陽が形成された。 更に第3番目の変容があり、前の状態(土星紀、太陽紀)が繰り返された後、形成され、当時、まだ(現在の)地球と(現在の)月とを包含していた太陽が一方にあり、更に、それとは他方に、土星紀に、分離された土星を、一部とする外的な空間(これも『神秘学概論』に書かれている)があった。 しかし当時、この月変容(月紀)では同時に、地球や月から、太陽が分離する、ということが起こった。そして何度も記述したように、今日、お馴染みの自然領域は、当時には存在せず、特に地球は鉱物塊を含まず、地球は、いわば角質のような状態で、固体(鉱物)成分が角質状に溶け合い、液状になり、月からは、角質状の岩の塊がいわば突出していた。 続いて、今日の地上の状態である(地球)状態が、第4の変容として誕生した。 さて、これら4つの変容を順に描いてみると、最初に土星変容(土星紀)、つまり後に、この太陽系に含まれる天体全てが、まだ溶解した熱体であった時代があり、(それから)太陽変容(太陽紀)、月変容(月紀)、そして地球変容(地球紀)となった。この4つの変容を2つに分けることもできる。 土星から太陽への進化において、第一に、気体へと進化した状態をどのように扱うべきか、考察する。進化は火球から始まり、火球が変容し、空気球へと凝縮する。この空気球は既に光に浸透され、光に煌いている。火球から、光に満ちた空気球への変容が、最初の進化である。 更に、月紀において、その当初の役割を継続し、果たす進化が行われる。というのも、月が果たす役割は、角質状の岩石を形成可能にすることだからである。月は地球紀に放出され、月は衛星となり、月の内力を地球に残す。 例えば、重力(重さを与える力)は、物質的な関係から、月によって置き去りにされた力に他ならない。 月自身は(衛星として地球から)去ったが、もし、この古い月の包含物の遺物(名残)を置いていかなかったら、地球は重力を育成できなかっただろう。月は宇宙空間におけるコロニーであり、この事実については、もう随分前に霊的観点から述べた。 月は地球とは全く異なる実質をもっているが、月は地球に、いわば広義の地磁気を残し、地球の力、特に地球の重力とみなされる引力等は、月が残していったものである。 従って、次のような結論に至る。 「例えば、土星状態と太陽状態を2つの円として描き、両者をまとめると、根本的に、光に浸透され輝く、熱の変容体となる。そして今度は、月状態と地球状態を2つの円として描くと、月に担われた液体的変容は月紀に形成され、更に地球紀にも残り、そして固体は、重力を通じて出現した。」 以上2つ(ずつ)の変容は、本質的に、かなり明白に区別され、この点において明確に理解すべきことは、かつて存在したものは全て、後の存在の内部にも潜んでいる、ということである。 (人間の魂にも、かつての魂の層があり、内観等でその層に到達すると、前世の経験が蘇る。) 土星紀の火球は、熱実質として、その後の全変容の内部に残っている。もし、今日の地球内部をくまなく移動するなら、至る場所で、熱(マグマ)にぶつかるように、この熱は、土星進化紀の名残(遺物)である。 また、大気(空気)、或いは気体状の物体が見つけられる場所に、太陽進化紀の名残(遺物)が得られる。太陽に貫かれ輝く大気を見渡すとき、太陽進化の感情に満たされ、次のような自覚に到達する。 「この太陽に貫かれ輝く大気のなかに、太陽進化紀の名残(遺物)が存在する。」 もし、この太陽進化紀が存在しなかったら、大気と、外界の太陽光線との間に、親和性が存在しなかっただろう。かつて地球は、太陽と結びつき、気体状の地球内部から、太陽光が輝きを発していた。つまり地球が、その内部の太陽光を宇宙空間に放射する空気球であった事実を通じて、その後の変容である現在の地球変容(地球紀)が可能となった。 やがて、(太陽が地球から分離し)地球は、大気圏に囲まれ、外から太陽光線が、大気圏へと差し込んでくるようになった。 従って、この太陽光線は、地球の大気圏に深い内的親和性をもっている。この太陽光線は例えば、今日の物理学者が大まかに語るような、例えば、気体状の大気中を貫く小さな照射粒子(プラズマ)のような光線だけでなく、大気と深い内的親和性を有する。そして、この親和性は、かつて太陽進化紀(太陽紀)に共に存在した残響に他ならない。 このように、以前の状態を繰り返し、多種多様な形で後の状態に入り込むことで、全ては互いに親和関係にある。全般的に見て、著書『神秘学概論』のなかに見つけられるように、また今ここで手短に描き出したように地球進化が進行していくうちに、地球上や地球の周囲、そして地球内部の存在全てが発生してきた。
2010年03月08日
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いままで述べてきた、人間の潜在意識にある感情は次のように描写できる。この感情は人智学や秘儀参入学の活力から把握される。この感情は、次のように自覚される。 「人間の本質を認識すれば、もし地球上に人間しかいなかったら、地球が必要なものを得ることができず、正しい時期に地球から霊化された物質的実質が取り除かれ、霊的実質が与えられるということに対して、人間は無力で絶望的にならざるを得ない。」 (人間は、地球に負債を負わせることはできるが、その返済能力がない。) 本質的に、人間と地球との間の、このような対立を感じ取らざるを得ない。この対立は究めて悲痛で、人間が地球上で人間であろうとするほど、地球は人間によって益々地球でなくなるほどの悲痛である。 人間と地球はお互いを用いてはいるが、人間と地球は互いに支え合うことができない! 人間が必要とするものが地球から失われ、地球が必要とするものが人間により失われる。もし、人間と地球を結ぶ周囲の環境が生じてこなければ、人間と地球との生のつながりに関して、人間は安心していられなくなる。 従って、次のように自覚される。 「霊化された地球の(物質的)実質を霊の国へと持ち去ることは人間にはできないが、この課題を成就するのは鳥の世界である。」 更に、「人間は、地球に対して、霊的実質を与えることができないが、反芻動物や、その代表の牛はできる。」 このような感情により、宇宙はいわば1つの全体系として完結する。人間だけを見ると、地球の現存に関する危うい感情が入り込んでくるが、人間の周囲にある動物等を見ると、(その存在から)再び安心感が得られる。 このような知見から、ヒンズー教のように深く霊的存在に帰依していく宗教的世界観が牛を崇拝することに、さほど驚きを感じなくなるだろう。なぜなら、牛は地球を絶え間なく霊化し、牛自身が宇宙から取り出してくる霊的実質を、絶えず地球に与え続けるからである。 この牛のイメージの本質を現実化すると、草を食んでいる牛の群の下で、大地(地球)がいかに喜びを感じ、生きているか、草を食む牛たちがいることで、宇宙からの栄養の確保が約束され、いかに元素霊(精霊)たちが、その下で歓呼の声を挙げているか、という描像が浮かびあがる。 また、上空には、飛翔する鷲の周囲を漂いながら、踊り歓呼の声を挙げる元素霊たちの空気(大気)の輪が、本質的描像として浮かび上がる。 そのような描像から、霊的真実が再現され、そしてその霊的真実のなかに物質的実質を発見し、その大気(空気)のオーラのなかに、鷲として継続されている宇宙言語が、そして、そのオーラのなかに、元素的な空気(風)の精(精霊)たちと空気中の火の精(精霊)たちの歓声が含まれているのがわかる。 また、宇宙の本質をもつために地上的存在に抵抗する、牛の独特のオーラを見ると、このオーラのなかに、地(土)の元素霊たちの上機嫌さを感じるだろう。元素霊たちは、大地という闇のなかで生き続けるために、失ってしまったものを、再び、ここで目にすることができる。 実際、牛のなかに現われている宇宙言語は、この地(土)の精霊にとって太陽である。地中に住む元素霊たちは物質的な太陽に歓びを感じることはできないが、反芻動物のアストラル体に歓びを感じることができる。 このように、今日の書物には載っていない別の自然史がある。 では、今日の書物に載っている自然史の最終結論とは、一体どんなものなのか? それは、アルベルト・シュヴァイツァーの著書の続編(1)に他ならない。実際、この続編の前書きは、近代精神の産物の、非常に悲しむべき序章といえる。 というのも、私(シュタイナー)が当時論評した彼の第1巻には、少なくともまだ、我々の文化に欠けているものをつけ加えるための力と洞察があったが、この続編の前書きには、それをも失くしてしまった内容なので、事実、本当に悲しむべき序章である。(1) アルベルト・シュヴァイツァーの著書の続編:『文化哲学 1. 文化の没落と復興』(ベルン、1923年)「文化の外見上の局面と現実の局面」という題のシュタイナーの論評は、全集版『現代の文化危機のさなかにあるゲーテアヌム思想 週刊「ゲーテアヌム」からの論文集1921-1925』(GA36 100頁以下)に所収。 アルベルト・シュヴァイツァー:Albert Schweizer 1875-1965http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%83%99%E3%83%AB%E3%83%88%E3%83%BB%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%83%90%E3%82%A4%E3%83%84%E3%82%A1%E3%83%BC プロテスタント神学者、哲学者、医師、音楽家。1913年よりガボン(アフリカ西部の共和国)のランバレーネで派遣医師。シュヴァイツァー「ルドルフ・シュタイナーとの出会い」も参照のこと。これは『ルドルフ・シュタイナーの思い出』(エーリカ・ベトゥレ、クルト・フィール編 シュトゥットガルト、1979年)に所収。33頁以下。 というのも、この文章のなかで、シュヴァイツァーは、「自分が、結局、知からは何も与えられない、人間は認識とは別に、何処からか、世界観と倫理学を獲得しなければならない」、ということを見抜いた最初の人物であると豪語しているからである。 さて、第一に、認識の限界については既に充分語られてきたし、自分を認識の限界について語った最初の人物であると思うことは、それ自体で既に近視眼的である。認識の限界については既に自然科学者や哲学者たちが、様々な表現で語ってきたのだから、この巨大な誤謬を最初に発見したなどと自慢するには及ばない。 しかし、この自慢を度外視しても、シュヴァイツァーのような卓越した思想家(第1巻に関する限りは、やはり卓越した思想家である)が、次のような結論に至ったという真実は揺らがない。 「人間が、世界観や倫理を持とうとするなら、知や認識は全く問題にもならず、これらは人間に何1つ与えはしない。」 今日の書物に載り、公に認知されている知見や認識の基になる様々な科学体系等は、世界のなかに意味を発見する(シュヴァイツァーの言うように)ことに通じていくことはない。 というのも、結局、このような人物たちが世界を眺めるように眺めるなら、実際、次のようなこと以外に何も浮かんでこないからである。 「鷲という動物の紋章を作ることができる、という点は別として、鷲の飛翔は(獲物を探しているだけで)意味がないとか、雌牛が牛乳を(人間に)与えてくれることは、確かに地上的(食糧)として有用であるとか。」 このような認識からは、人間もまた、単なる物質的存在でしかないので、物質的有用性しか持たず、世界(宇宙)全体にとっては、いかなる意味も与えない、ということになる。 それ以上進もうとしなければ、その人は、世界において意味が現われてくる水準(レベル)に到達できないことは言うまでもない。霊的存在や秘儀参入学が世界(宇宙)について語ることへと、人間は移行していく必要があり、そうすれば、この世界(宇宙)の意味を発見できるだろう。 しかも、あらゆる存在のなかに驚くべき秘密を発見することにより、そのとき、この宇宙の意味が発見される。 その秘密とは、鷲や牛の死と共に起こる秘密や、そして、この両者の間に、獅子(ライオン)が存在し、獅子(ライオン)は自らのなかで、呼吸リズムと血液循環リズムの調和を通じて、霊的実質と物質的実質の均衡を維持しているという秘密であり、 また、獅子(ライオン)は、いま述べた上と下へのプロセスを正しく生じ(均衡)させるために、どれだけの鷲が必要で、どれだけの牛が必要であるかを、それら動物の集合魂を通して調整する、といった秘密である。 このように、太古では、この3種の動物、鷲、獅子(ライオン)、雄牛もしくは雌牛は、驚異的な霊能的認識から生み出され、これらの動物と人間との親和性が感じ取られていた。 このような秘密を見通すなら、人間は次のように自覚できる。 「鷲は、人間の頭にはできない課題を、(人間に代行し)取り除いてくれる。牛は、人間の新陳代謝や四肢組織を通じて、果たせない課題を(代行して)取り除いてくれる。獅子(ライオン)は、人間の律動組織を通じて果たすことのできない課題を(代行して)取り除いてくれる。」 「このように、人間と3種の動物から宇宙的絆全体が生成する。」 人間は、3種の動物を代表とする宇宙的な絆のなかに組み込まれ、生きている。 人間は宇宙における深い絆を感じ取り、人間を織り込み、周囲を取り巻いて波打ち、うねる、その存在を統括する力が、本質的にいかに聡明であるか、という認識を学ぶ。 さて、以前述べた3種の動物に対する人間の関係を探究したことで、出現した事実を以上のようにまとめることができた。
2010年03月08日
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今度は、以前から観察してきた、鷲と反対の別の対極、つまりヒンズー教徒に崇拝されている牛という対極に眼を転じる。確かに、牛は、鷲に対する正反対の極である。鷲が人間の頭に非常によく似ているように、牛は人間の新陳代謝組織に非常によく似ている。 牛は消化動物である。奇妙に聞こえようとも、この消化動物は本質的には霊的実質から成り立ち、食された物質的実質は、この霊的実質へと引き入れられ、混入される。つまり、牛のなかには霊的実質があり、物質素材が、霊的実質が存在する至る場所に入り込み、霊的実質に摂取され、加工消化される。 物質的実質の霊的実質への混入を徹底して遂行するには、牛の消化の営みは念入りで徹底的である。牛の消化は考え得る限りの徹底した消化であり、この点で、実際、牛は消化に徹底した動物であるように気を配っている。 消化に関して、牛は完璧な動物である。事実、牛は、牛という動物としての存在の核である自我を、宇宙から地球の重力圏へと引き下ろす。 血液の重量と全体重との比率を、牛と同じにする動物は存在しない。(他の動物は)体重に対する血液の比率が、牛よりも多いか少ないか、いずれかである。 そして重量は重さと、血液はエゴ性(利己性)と関係がある。ただ、人間だけがもつエゴ(利己)ではなく、人間のエゴに近い、個別に類似する霊的言語と関係がある。 血液は人間を人間にし、動物をも動物にし、更には高等動物にする。従って次のような結論に至る。 「牛は宇宙の謎を解いた完璧な動物である、といわれるのは、血液の重さと全体重の重さとの正確な比率をどのように保つのか、という謎を解いたからである。」 太古の人々が獣帯(黄道十二宮)を「獣帯」と名づけた理由がある。獣帯は12の部分から成り、いわばその全体が12の個々の部分に分けられている。宇宙や獣帯からやってくる力は、諸々の動物のなかで、その動物自らを(言語として)形づくる。 しかし(十二宮以外の)他の動物たちはそれほど厳密に、獣帯の力には従わない。牛は、その体重の12分の1が血液の重さである。 (以前、牛は、体重の8分の1を常に交換していないと生きられないと、シュタイナーはこの講義で述べている。血液は、全体重の12分の1なので、12分の1で、8分の1の輸送力が必要となる。「(1/8)/(1/12)=3/2の1.5倍の力が必要となる。」 牛の場合血液の重量は体重の12分の1だが、驢馬の場合は僅か23分の1、犬の場合は10分の1である。どの動物も異なった比率になる。人間の場合、血液(の重量)は体重の13分の1である。 (人間の13分の1の13という数は、しばしばキリストと十二使徒の数として象徴される。) この事実からわかるように、牛は、動物という存在全体を、宇宙言語として自らの重量のなかに現わすことを、可能な限り、徹底的に表現することを目指してきた。 この講義から、牛は、本来、天的な存在を、物質的実質のなかに具象化し、それは牛のアストラル体に見て取れる、と述べてきたが、牛自身のこの血液と体重の重量比率のなかに、獣帯の12分割を正確に維持し表現していることが現われている。 牛の内部は宇宙を象っている。牛においては、全ての霊的実質のなかに、地球の様々な力が取り入れられている状態にある。地球の重力は牛のなかの獣帯の比率で分割されることを余儀なくされる。 地球の重力は、その12分の1をエゴ性へと展開させることで応じざるを得ない。牛は宇宙全てを地上的な比率のなかに押し込み、牛がその霊的実質のなかにもつ地上的比率のなかに表現する。 以上のように、牧場に横たわっている牛は、事実、霊的実質であり、この霊的実質は地球の物質的実質を自らのうちに摂取し、吸収し、自らに似たものにする。 牛が死ぬと、牛自らのうちに担っている霊的実質は、地球全体の生命の恵みとなるために、地球の物質的実質と共に、地球に摂取される。従って、牛に対して、次のような感情を持つのがよい。 「汝は、地球が必要とする霊的実質を絶え間なく与え続けているのだから、供犠の動物である。汝が地球に与えなかったら、地球は、この先存続できず、硬化し、干からびてしまうだろう。汝は地球に絶え間なく霊的実質を与え、地球の内的な活動や内的な生命力を回復させている」、という感情である。 そして、地に、牛のいる牧場をみて、上空に、飛翔する鷲をみるとき、注目すべき一対の両極が得られる。 一方の極とは、鷲で、鷲は霊化されてしまったために地球にとって使用不可能となった地球の物質的実質を、死後、彼方の霊の国に運び去る。そして、他方の極とは牛で、牛は、死後、地球に天の霊的実質を与え、地球を回復させる。 鷲は、地球にはもはや使用できず、霊の国に戻す必要のあるものを、地球から取り除く。牛は、地球が回復力として絶えず必要としているものを、霊の国から、地中にもたらす。 ここで、秘儀参入学から浮かび上がる感情を知るだろう。というのも、通常、以下のように信じられているからである。 「秘儀参入学のようなオカルトを研究しても、結局、その研究から得られるのは妄想以外の何者でもない。感覚的な観念で頭を一杯にするのと同様に、超感覚的な観念で頭を一杯にしているだけである。」 ところがそうではない。秘儀参入学において、先に進めば進むほど、以前は予感や予期もしなかった、どんな人にも無意識に存在している感情を、魂の奥底から引き出すようになり、あらゆる存在を、以前、感じ取っていたのとは別様に感じ取るようになる。 (潜在意識から、引き出してくるので、世界観が変わっていく、ということだろう。)
2010年03月04日
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人間が地球に対する負債者であるという前回の事実から、霊眼を通して観ると、はじめに、遥かに悲痛な感情が人間の魂(の根底)に横たわっている、ということがわかる。 次に、非常に長大な時間を眺めるか、もしくは、宇宙システム全体の進化を見渡すときのみ、次のような展望が開かれる。 「例えば、地球がいつの日かその最後を迎えるとき、地球紀以後の人類の進化段階、いわゆる木星紀、金星紀、ヴァルカン星紀の進化段階において、人間は、この罪をいわば清算し、罪を脱することができるだろう。」 個々の地上生活を、人間が全うするだけで、つまり、地球人となり、地球に居住し、地球から、その実質を引き出すだけでも、そのような事実を通じて、人間はカルマを、世界のカルマや宇宙のカルマとして生み出している。 (宇宙の体系は、全て自業自得といえる。宇宙が1つの体系として関連している限り、自分が、他の誰かになしたことは、必ず、自分に返ってくる。この事実は、3次元空間では、事象が時間のように順序づけられているので、容易にわからないが、4次元では、時間がなくなり、全てが同時に起こっているので自明である。 4次元では、例えば、左に進めば、右から帰ってくるし、前に進めば、いつの間にか、後ろから帰ってくるのである。この事は、波動の波の周期で考えると理解しやすい。周期を円にすれば、円を進んでいくと、元に戻るからである。 いわゆる生命現象は4次元だが、あまりに進むと、元に戻ってくる。例えば、子供は親に育てられるが、親になると、子供を育てるというような例が典型である。子供と親の形をなくすと、お互いに育て、育てられている関係であることがわかる。ただ、それが3次元空間だと、時間により配されるので、移り変わるだけである。) ここで人間から目を転じ、その他の自然にも目を向けることができる。 すると、なるほど人間は、地球に対する負債者としてカルマの罪をいわば積み重ねざるを得ないが、それでも宇宙の本質を通じて、絶え間なく調停がなされている、ということもわかる。 このような霊眼から、驚くべき存在の秘密を統合してはじめて、真に、宇宙の叡智をイメージとして、自らのものにできる秘密へと参入できる。 では、人間の考察から眼を転じ、これまで様々に考察してきた他の存在を再考する。 鷲に代表される動物として、地球に出現してきた鳥の世界を再考する。鷲に関しては、鳥の世界の代表として、いわば鳥の世界の特性と力を統合した動物として述べてきた。 そして、鷲を観察することで、結局は、宇宙的関連における鳥の世界全体に負っている責任を観察できる。だから、鷲についてはこれからも続けて述べるが、これまで述べてきた事実とは、鷲の本質(宇宙言語)は、人間では、頭部に相応し、人間の頭のなかの思考を作動させる力が、鷲では、翼を作動させている、というものだった。 従って、鷲の翼では、太陽光を含んだ大気(空気)力が作用している。鷲の翼において煌めいているのは、光に浸透された大気(空気)力である。 (大気力は、四大元素では、「風」と呼ばれている。古代中国では、「気孔」である。) さて、この大気力に幾らか厄介な特性をつけ加えることもできるが、やはり鷲という生物は、その宇宙的現存に関して注目すべき特徴を持ち、つまり、いわば鷲の皮膚として外側にある翼の形成のなかに、この太陽の作用に貫かれた大気力が作り上げる宇宙言語全てが潜んでいる、ということである。 人間は、鷲が死ぬときはじめて、鷲のなかで起こっている事実に気づく。 鷲が死ぬと、牛の反芻する徹底的な消化と比べて、鷲の消化がいかにも奇妙で表面的である事実がはじめて明らかになる。多くの動物種の代表として、牛は真の消化動物である。牛においては徹底的な消化が行なわれる。 牛とは対照的に、どの鳥もそうだが、特に鷲は表面的に消化する。いわば消化の始まりが全てで、ほとんど発端ともいえる消化のみである。全体の機能から見れば、鷲では、本質的に消化はいわば副業で、鷲の全内部では、消化は二次作用として扱われる。 鷲においては、その未発達な消化に対して、逆に(主要な)徹底的(進化的)プロセスを示すのは、鷲の翼に用いられる造形である。他の鳥の場合は、もっと強力である。遥かに繊細に、羽毛のなかで造形される。従って、このような羽毛は、本質的に、驚異的な宇宙言語の文法(構造物)ともいえる。 (羽毛は服に使われると身体を温めることからもわかる。) つまり、羽毛のなかには、地上的な物質的実質とでもいえる存在が強力に現われている。この地上的な実質を、鷲は地球から取り出し、上空に存在する力(太陽光)によって霊的に浸透させるが、(人間とは異なり)鷲は再受肉を要求しないので、鷲に独占されることはない。 従って、上空(天)の霊力を通じて、地上の(物質的)実質から生じる翼のなかの生成物(霊化された実質)により起こる事象が鷲を困らせることはなく、更に、霊界に、その生成物が作用しても、鷲を困らせることもない。 だから、鷲が死んで、その翼も崩れていくと(鷲以外の鳥にもあてはまるが)、そのとき霊化された地上的な物質的実質が、霊の国に入り、再び霊的実質へと変化させられることがわかる。 以前、述べたように、人間の頭部は、鷲と奇妙な親和関係にある。人間に不可能なことを鷲は可能にする。鷲は、霊力を通じて、地球において霊化した物質的実質を、絶え間なく地球から運び去る。 鷲の翼=人間の頭=霊化された物質的実質 鷲は、この生成物を霊界に運べるが、人間にはできない、それ故、人間は、地球に負債を負う。 人間が、憧れや独特の感情をもって、飛翔する鷲を見つめるのは、ここに理由がある。たとえ鷲がその実質を地球から搾取しているにも関わらず、地球から疎遠な存在のように、また地球よりも天に関わっている存在のように、人間は感じる。 しかし、鷲はどのように物質的実質を取り出しているのだろうか? 鷲は、地球にとっては、単なる略奪者にすぎないやりかたで、物質的実質を取り出す。地球における自然の法則のなかでは、更に、鷲が略奪者以上の何かを得ることは見込めない。 そもそも鳥類全般が様々な物質的実質を奪うように、鷲は、それを盗み取り、奪い取る。しかし、鷲は、死後、それを清算する。鷲は物質的実質を、地球から奪うが、上空(天)の領域にある霊(太陽光による大気)力により、それを霊化させ、そして死後、略奪し霊化したこの地球の力を霊の国にさらっていく。 鷲の死とともに、霊化された地球の物質的実質が霊の国へと引き入れられる。 動物が死んでも、その生命は完結しない。動物の意味は万有宇宙のなかにある。鷲が物質的な鷲として飛翔すれば、いわば、それは鷲という存在の1つの形象にすぎなく、鷲の全体のなかの物質的な鷲として飛翔しているだけである。 しかし、鷲(霊的な鷲)は死後も飛翔する! 死後、鷲の本性である霊化された物質的実質が彼方へと飛翔していき、霊の国の霊的実質と1つになる。 このような事実を見通すと、万有宇宙における驚くべき秘密に到達する。この事実からはじめて、地球の動物等生物の様々な形姿の存在理由を問うことができる。 生物の形姿は、それ自身の意味をもつだけでなく、全て宇宙全体においても意味があり、大きな、非常にとてつもなく大きな意味がある。 (宇宙は階層「フラクタル」構造をしていることが、現代宇宙論でもわかっている。階層構造とは、入れ子構造で、例えば、ロシアのマトリューシュカ人形のように、人形のなかに同じ人形が小さくなって入っている構造である。だから、個々の存在は、本来、宇宙の存在と同じで、規模が小さいだけである。だから、個々の存在は宇宙により決まっているともいえる。)
2010年03月03日
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頭部の霊力-物質的実質と、下腹部の物質力-霊的実質との動的平衡の乱れにおいて、働いている作用は、前回示したような性質の存在が根底にあり、人間は、自らを、この動的平衡の乱れのなかに感じるが、今日の通常の意識では、この動的平衡の乱れは、本質的に当初は、潜在意識内に止まっている。 つまり、既に、人間のなかに、この乱れは存在するが、潜在意識下なので、日常の一種の生活の気分(趣向)として現われてくる。 この気分を、完全に意識化させるには、やはり霊的な観照しかないが、この霊的観照でも、以下のように描写できるだけである。 いわゆる今日の秘儀参入学(人智学)から、物質的実質を必要とする、主要で、本質的な器官は、人間の頭であり、人間は、頭を使って、物質的実質を霊力で貫ける、という人間の秘密を知ること。 次に、四肢-新陳代謝における本質は、霊的実質であり、霊的実質を存続させるには重力や斥力他の物質力を必要とする、という人間の秘密を知ること。 そして、このように霊的に、人間の秘密を見通した上で、更に地上的な人間を省みること。 この3つの霊的な観照から、自分が人間として、本質的に、地球に対して途方もない負債を抱えた存在だと自覚する。 まとめると、 1.人間の頭部は、霊力に貫かれた物質的実質からなる。 2.人間の腹部は、物質力に貫かれた霊的実質からなる。 3.以上の霊的な認識を獲得し、地上的な人間を省みると、自らが地球に対して負債を抱えた者だと自覚する。 というのも、人間は、人間としての直立を維持するために、ある条件(重力や物質力)を必要とするが、この条件(重力や物質力)を通じて、人間は、本質的に、地球の債務者となる。従って、人間は絶えず地球から何かを奪い取っている。 (人間が地上で暮らし、生計を立てるには、カネや食糧が必要になるが、同時に、人間は、これらに依存することになる。だから、地球から、カネや食糧を奪うために、人間は自然を破壊している。 人間が物質力を使う代償に、人間は物質力に依存することになる。例えば、薬を使って病気を治すと、その薬への依存性が高まる。) つまり、人間は、以下のように自らに言い聞かせる必要性に気づく。 「人間が地上生活をおくる間、自らのなかに担う霊的実質は、本質的には、地球が必要とするものである。」 「人間は死へと赴くとき、この霊的実質を地球に残していかなければならない。なぜなら地球は自らの更新のために絶えず霊的実質を必要とするからである。」 (物質が変容するには、エネルギーが必要で、エネルギーは霊的実質からなり、現代の科学でいう、いわゆる負のエネルギーからなる。負のエネルギーがなければ、正もないので、負債を負うものがなければ、財産も得られない。地球は、本来与えられるべき霊的実質を、人間が占有したため、勝手に物質力を用いられた被害者といえる。) しかし、人間は、霊的実質を残していくことができない。 (もし、残せるのなら)人間は死後、人間の道を歩めなくなるからである。 (霊界に参入できなくなる。つまり成仏できなくなる。) 人間はこの霊的実質を死から新たな誕生(転生)までの間の継続のために携えていかなくてはならない。なぜなら人間には、この霊的実質が必須であり、この霊的実質を、死後も携えていなかったら、死後、いわば(この宇宙から)消滅してしまうからである。 (エネルギーを奪われるということになる。ブラックホールに飲み込まれるという感じか?) 人間が成し遂げるべき変容は、人間が四肢-新陳代謝を成り立たせている霊的実質を死の門を通過して霊界へともたらすことにより成し遂げられる。人間がもし、本質的に、地球に対して負っている負債を地球に返してしまったら、人間は将来の受肉を受けることができなくなる。 (この人間の秘密は、キリストの再生の意味のようである。「汝の行いが、血となり、肉となる」とキリストは言ったが、正確にいえば、次の転生、つまり再生の生命の素となる、という意味だろう。太陽霊キリストが、地上に受肉したのも、死後、霊的実質を携えていける人間が少なくなりつつあったのを、増やすためにあり、死後の世界では、キリストの再生活動は、いまも続いているという。) だから、人間にはできない。人間は負債者のままに止まる。これは地球が(物質性から霊性への変容の)中間状態にある限り、いかなる手段によっても改善できない事実であるが、地球の終わりになれば、事態は変わる。 ともかくも、霊視をもって人生を見つめるなら、通常の生活が与えてくれる、単なる苦しみや悲しみ、または幸福や喜びのような感情を持つだけでなく、霊的な存在を観ることで、宇宙的喜びや悲しみといった宇宙的感情が生じてくる。 秘儀参入とは、このような宇宙的悲しみ、例えば、次のように、自らに言い聞かせざるを得ないような悲しみの出現が同時に生じてくる経験である。 「地上における人間の身体を直立に維持することで、自らを地球の負債者へと形づくらざるを得ない、もし、宇宙的に全く公正であるなら、本来は地球に与えなければならない霊的実質を、地球に与えることができない、という悲しみである。」 頭部のなかにある物質的実質に関しても同様である。全体の地上生活を通じて、霊力が頭部の物質的実質のなかで働くことにより、この物質的実質は、(人間のために)地球から疎遠になる。実際、人間は自らの頭の維持のため、地球から、この物質的実質を奪い取らなければならない。 しかも人間は、人間であるために、この頭の(物質的)実質に、地球外(天)の霊力を絶えず浸透させなければならない。そして人間が死ぬと、地球は、自ら疎遠になった人間の頭部の(物質的)実質を、また引き取らなければならないわけだが、地球にとって、この事は究めて有害になる。 人間が死の門を通過して、その頭部の(物質的)実質を地球に引き渡すと、この実質は、全く霊化されてしまい、自らのなかに、既に霊的な成果を担っている。だから、この実質の作用は、根本的に地球生命全体を毒し、本質的に、この地球生命を害する。 (人間は、地球の子ではなく、本質的には、太陽の子なので、太陽の子が、地球にお邪魔し「訪問」に来ているわけで、人間をお世話する分、太陽からの地球の取り分が減ってしまうのである。だから、釣り合いをとるには、地球が、人間から、その分「霊的実質、つまり太陽のエネルギー」を請求すればよいのだが、人間は無一文で与えることができないので、地球が負債を抱えることになる。) 従って、以上の事実を見通すなら、人間は次のような結論に至る。 「人間が、頭部の(物質的)実質を携えて、死の門を通過して行くのが公正となるだろう。なぜなら、この(霊化した物質的)実質は、本質的には、人間が死から新たな誕生(転生)の間に通過していく霊的領域(霊界)に、遥かに適合するからである。」 (しかし)人間は行えない。というのも、人間が、この霊化された元々地球の(物質的)実質を携えて行ったなら、人間は死から新たな誕生との間の、自らの進化全てに敵対する存在を絶えず作り出すことになるからである。 もし、この頭部の霊化された実質を携えて行った場合、人間に起こり得る事実は、究めて恐るべきもので、これは、死から新たな誕生(転生)への間の人間の霊的進化を無に帰するように絶えず働きかける。 従って、このような事実を見通すなら、次のような結論に至る。 「この事実によっても、人間はまた地球に対して負債者となる。」 地球の御蔭で、人間が手に入れながら地球にとっては使用不可能にしてしまった(霊化した物質的)実質を、人間は、後に残して行かざるを得ず、携えていくことができないからである。 (太陽の住人が、地球にやってきて、地球のエネルギーを使って、ゴミを捨てていくようなものである。) 人間は、地球に置いていくべき霊的実質(エネルギー)を地球から奪い去り、自分が携えていくべき、地球にとっては使用不可能な(霊化した)物質的実質(経験、叡智)を、自らの土(物質体、肉体)の塵とともに、この地球に委ねるが、地球は、その全生命、全存在として、この人間の残した実質により法外な苦しみを与えられる。
2010年03月01日
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前回は、再度、ある霊的観点から、人間を万有宇宙のなかに据えようと試みたが、今回からは、いわばその全体を総括できるような考察を行う。 人間は、物質的生活の範囲内で地上に生き、自然界の法則や人間という形態へと多種多様な形で形態化される地球の物質的要素を通じて生じる出来事や事象に囲まれている。 あらゆるもののなかに、地球の物質的要素が存在している。いま、この物質的要素を、後に、これとは正反対の要素にも言及するので、地球の多様な形態化の基本成分として、地球の「物質的実質」と呼び、これとは正反対の要素として、宇宙の「霊的実質」と呼び、両者を区別する。 (宇宙論の正のエネルギーに対する、負のエネルギーの概念と似ている。) この霊的実質は、例えば、自身の魂の基礎を成すが、通常、宇宙においては、物質的な形態化に霊的存在として共に結びつくような形態化の基礎を成す。 (質量=エネルギーのアインシュタインの相対論の概念と似ている。) 物質的要素、或いは物質的実質に関して語るだけでは完結しない。例えば、高次ヒエラルキア(位階)存在たち(神々)を、宇宙の全体像のなかに配することを考察する必要がある。これらの高次位階存在(高次存在)は、地の実質(物質性)を占有しない、高次存在の身体とでも呼べるなかには、地の実質(物質性)をもたない。 従って、人間は、地上的(3次元)存在が見れるので、物質を知覚するように、地球外の存在をも見ることができれば、人間は霊的実質を知覚できるだろう。 今日、霊的実質に関しては、ほとんど知られていないため、物質界と同時に霊界にも属している地球存在、つまり人間のことだが、あたかも人間が物質的実質しかもたないかのように語られている。 しかし、これは間違いで、人間は、自らのなかに霊的実質と物質的実質を担い、しかも非常に独特な形で、いわゆる霊的事象に慣れていない人が驚愕するような形で、人間は自らのなかに霊的実質と物質的実質を担っている。 例えば、人間に運動を可能にさせる存在、すなわち人間の四肢に運動をさせ、そして四肢から発し、新陳代謝活動として体内へと継続される運動、つまり、人間内の、このような運動を可能にさせる存在を考慮する場合、物質的実質を主として語るなら、間違いとなる。 (運動を起こすエネルギーを与える存在を指すようである。) 正しい観点から、人間を語るには、人間のいわゆる、この低次の性質の根底には、根本的に霊的実質が存在することが理解できないといけない。従って、人間をイメージ的に描くならば、以下のような帰結となる。 「下部人間(下腹部や四肢)の本質は、霊的実質から形成され、頭に向かって上に進むほど、人間は物質的実質から形成されるようになる。」 異様に聞こえようとも、脚については、以下の帰結となる。 「脚の本質は、霊的実質から形成される。」 (脚はエネルギーからつくられるという。頭部にいくほど、質量からつくられるという。) 異様に聞こえようとも、頭部へと進むに従い、霊的実質から、物質的実質に移行させるように、人間を描く必要があり、物質的実質は特に人間の頭に含まれている。 (シュタイナーは、医学的講義で、この物質的実質を結晶化のように述べ、例としてクリスタルや珪酸を挙げている。クリスタルスカルといえば、水晶髑髏のことだが、世界に13個あるという伝説があるが、13という数は、キリストと十二の使徒を意味する。13個集めると宇宙の謎が解かれるという伝承もあるが、キリストと十二の使徒の叡智を集めると、世界の意味がわかるという意味かもしれない。) この頭部に対して、霊的実質が特に見事に広がっている、といえる場所は、人間がその脚を伸ばす空間、もしくは、その腕を差し伸ばす空間である。腕と脚にとって肝心なのは、この霊的実質が腕と脚を満たしている、ということで、腕と脚の本質は、実際、霊的実質からなる。 (霊的実質、つまりエネルギーがなくなると、脚や腕が衰えるわけである。シュタイナーは、その喩えとして、燐を挙げ、燃焼の能力を指摘している。霊的実質の火の玉が燐であるという説はここからくるのだろうか?) 実際、腕と脚では、その物質的実質は、いわば霊的実質のなかに浮かんでいるだけで、他方、頭は実際、いわば物質的実質から緻密に形成された存在である。だから、人間は、人間をつくる、このような形成物において、実質を区別するだけでなく、その形態化に用いる力も区別する必要がある。そして、この際、霊的な力(以下霊力とする)と地上的-物質的な力(以下物質力とする)を区別しなければならない。 さて、力の場合には、実質とは丁度逆になっている。四肢と新陳代謝にとって、実質が霊的である一方、その内部の力、例えば脚に対する力は、重力で、物質的である。そして頭部の実質は、物質的である一方、頭の内部で働く力は霊的である。 霊力が頭を貫いて流れ、物質力が四肢-新陳代謝人間の霊的実質を貫いて流れている。 人間を完全に理解するには、人間の頭部と胸部のいわゆる上部領域の本質は、物質的実質で、霊力に浸透され(呼吸において最低次の霊力が働いている)、胸部の上部領域から下を区別し、その領域を下部人間とすると、その内部では、物質力が働き、霊的実質から形成される構図を描く必要がある。 ただ、言うまでもなく、明白に理解すべき事実は、このような構図から、人間が、どういう状態にあるか、ということにある。 人間は、その頭の性質を生体組織全体へと広げているため、頭は確かに、霊力に貫かれた物質的実質だが、この頭の本質全てを人間の下部にまで広げ伸ばすことを通じて存在する。 (頭部から、下部組織に、結晶化「秩序」の力を伝えようとする。) 対して、(下部の)内部では、物質力が働き、その霊的実質を通じて、人間性(運動)を、逆に上部人間に向かって、上へと送られる。 (四肢-腹部を通じて、上部へと、燃焼-破壊化「無秩序」の力を伝えようとする。) このように人間に作用する力と実質は、相互に浸透し合っている。 (昨今の流行からいえば、動的平衡状態にある。それも、物質性と霊性の動的平衡である。) だから、人間を理解するには、上述のように人間を、物質的-霊的と、実質-力の両者のいわゆる動的平衡状態にあると見なすときだけである。 また、この状態の理解には、大きな意味がある。 というのも、外的現象から目を転じ、内的な本質に参入すると、例えば、人間においては、この実質と力に則った動的平衡の配分に不規則性が生ずることが許されないことが示されるからである。 例えば、人間においては、純粋な霊的実質のなかに、物質的要素や物質的実質が侵入すると、つまり例えば、本来、頭部に導かれるべき物質的実質が、新陳代謝組織のなかで停滞し、あまりに優勢になりすぎて、新陳代謝がいわば頭部の本質に浸透されすぎると、人間は調子が悪くなり、特定の型の病気が生じてくる。 そこで、この病気を治療するための課題は、このような霊的実質のなかに広がる物質的実質の形成を、再び弱め、駆逐することになる。 他方、消化組織に固有な、物質力に浸透されている霊的実質という性質が、上部の頭へと送られると、人間の頭は、過度に霊化され、頭部の過霊化が起こる。 この場合も、病的状態を呈するので、物質力が霊化されずに、充分頭部に届くように配慮しながら、(頭部の)物質力を促進する力を、頭部に送り込む必要がある。 健康な人間と病んだ人間を区別するには、このような霊的観点に着目すると、実際役に立つことがすぐに理解できるが、単なる外観だけでなく、真相を問題にする必要がある。しかし、このような動的平衡の乱れに関して、更に本質的に、また全く別の作用も働いている。
2010年03月01日
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