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今日(1924年)、秘儀参入を行うには、ある程度、年齢に依存する。例えば、人生にまだ期待がもてる37歳で秘儀参入を始める場合を取り上げてみる。 瞑想や意識集中他の修行を、指導の下、もしくは教則本に基づいて、自分で実行し始める。瞑想、もしくは主題を繰り返し実行することで、はじめに、地上での生活を振り返ることができる能力を獲得する。 地上の生が1つの纏まった織物の形で、精神の(内的な)眼の前に現れる。物体が3次元空間の中に置かれているように、例えば、教室のなかの前2列の椅子と、椅子に座っている人たち、向こう側には机、その後ろの壁というように、全てを遠近法によって、同時性の中で見る。 このように、秘儀参入の初段階において、「時間」に参入することになる。時間の経過が、空間的なイメージを与える。 さて、37歳のときに自分を振り返り。36歳のとき、35歳のとき、そして、誕生のときに至るまでの経験を振り返る。参入者は、心の眼の前に1つの織物を、時代を遡りながら見る。 秘儀参入の初段階の人生を37歳から逆向きに振り返ることを考えてみると、誕生から大体7年目の歯の生え替わりの時期までを第1期、そして、7歳から14歳、つまり思春期までを第2期として振り返ることができる。そして次に、14歳から21歳を第3期、そして37歳までの残りの人生を、第4、5期として振り返ることができる。 参入者は、人生をパノラマのように、いわば時空間的な透視能力をもって探求できる。空になった覚醒意識から生まれる意識を、この知覚に加えることができるとき、ある種の知覚能力が参入者を貫き閃く。 参入者は洞察を獲得するが、その洞察は非常に広範な形態を取る。誕生から7歳までの第1期の経験、14歳から21歳の第2期、そして、その後の経験は、参入者の中に異なる反応を喚起する。7年毎のそれぞれの時代が独特の反応を示し、それ自体が独自の視覚力をもつ。 では、次に、63、64歳の人について考えてみる。そのような人は37歳以降の年代を振り返ることができる。 21歳から42歳までは比較的均一のように見えるが、それ以降は違ってくる。42歳から49歳まで、49歳から56歳まで、そして56歳から63歳までの、その人の知覚には重要な違いが生じる。 これら7歳毎の経験全ては、参入者の成り立ちの枢要な部分になっている。それらは地上における人生の精神的な側面を表している。もし、参入者が、この精神(内)的な視覚を発達させるなら、参入者は、自分の様々の洞察力が、ある特定の年代の自身の存在レベルに依存している、ということを理解するだろう。 第1期の最初の7年間は7歳から14歳までの第2期とは異なる洞察を参入者の中に目覚めさせる。14歳から21歳までの思春期の第3期、21歳から42歳までの第3、4期は更なる相違を、そして、更に後の第5期以降に属する、それより前の第3、4期とは多少異なる洞察力をもつ年代が続く。 人生の経験に関する記憶像をもつ能力を獲得すると同時に、その記憶像を消し去った空の意識から導かれる洞察力を獲得したものといま仮定してみる。 そのとき、インスピレーションの力が働き始め、結果として、もはや物質的な視覚を通じてではなく、精神の眼である新しい視覚器官を通して、人生の年代を探求できる。 もはや、魔法のように、様々な出来事があった人生の特定の年代のイメージを出現させるのではなく、インスピレーションを通して、精神(霊)的な眼(心眼)や耳で、知覚する地点へと到達した。 あるときは7歳から14歳までの期間の人生を超感覚的に眺め、別のときは49歳から56歳までの期間を、外界で眼や耳を使って聞き、知覚したのとちょうど同じように、超感覚的に聞く。インスピレーションの世界では、7歳から14歳までの期間、そして42歳から49歳までの期間から導かれる力が使われる。 この世における様々な人生の期間(年代)が異なる認識器官になる。上述のように、霊(精神)的な視覚の範囲は、ある程度、年齢に依存する。 37歳では、秘儀参入の経験を一次情報として語ることが完全に可能だが、63歳になれば、更に深い知識から語ることができる。何故なら、高齢になるほど、若いときとは異なる別の感覚器官を発達させているからである。 人生の特定(約7年毎)の期間が(霊的)感覚器官を創造する。 さて、ブルネット・ラティーニやアラヌス・アブ・インスリスのような人物を、書籍に載っているような情報からではなく、超感覚的な知識から記述することを考えてみる(これらの人物の例は、この講義のなかで既に述べているので、既知のはずである)。 もし、37歳になったとき、上述の人物を描写するなら、睡眠中の覚醒意識の中で、上述の人物と精神的に関係していることを発見するだろう。参入者は、隠喩的に言えば、仲間の人間と語るように、上述の人物と語り合うことができる。 不思議なことに、精神的な事柄について、上述の人物と語ることができるのは、現在(1920年)の叡智と精神性のレベルからである。そのとき、参入者は、上述の人物から非常に多くのことを学べることを知る。上述の人物に耳を傾け、伝えようとしている内容を信頼して受け入れなければならない。
2010年08月31日
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現代人は、睡眠中、肉体とエーテル体から離れているので、いかなる精神的存在と出会う経験(感覚器官をつくらない限り)を持つ可能性もないが、そのような形で、現代の文化生活全体を秩序づけることに一定の満足を見出している。 現代の文化を罵倒し非難するつもりは毛頭なく、その時代特有の不可避的な状態といえる。後に、その意味について議論するつもりだが、さしあたり、現代を上記のような状態として受け入れる必要がある。 太古の時代では、アストラル体と自我は、覚醒状態でさえ、今日に比べて肉体やエーテル体に遥かに緩く結びついていた。秘儀参入者たちもまた、自身にとって自然だった4体(自我、アストラル体、エーテル体、肉体)の緩い結びつきに頼っていた。 実際、遥かな過去では、ほとんど全ての人が秘儀に参入できたが、人間という地位を越えて、(天使の地位にまで)上昇可能だったのは、それよりも過去の時代の、古代インドや古代ペルシャの時代だった。 (シュタイナーの歴史分類でいうと、今から約1万年前のアトランティス時代に大洪水で破局し、現代まで続くポストアトランティス時代がはじまる。 そのポストアトランティス時代の第1期が、古代インド文化期、第2期が、古代ペルシャ文化期で、その頃は、人間の上位に位置する天使の地位まで秘儀参入できたらしい。 続く、第3期の古代エジプト文化期になり、まだほとんどの人が秘儀参入できたが、人間の地位を超えてはできなくなったという。古代エジプトのピラミッドなどは、秘儀参入の神殿と考えられる。 そして、第4期の古代ギリシア-ローマ文化期になり、一部の秘儀参入者しか、秘儀参入できなくなり、そのため、秘儀参入学が、形骸化し、ギリシア哲学となったようである。 やがて第5期の現代も含まれる、第5文化期になり、もはや全ての人が秘儀参入できなくなり、形骸化した哲学や宗教が、秘密結社や宗教組織をつくるようになり、やがて、神の叡智とはほとんど関係のない、人間独自の利己的で、唯物的知性の時代が訪れる。) 古代ギリシア-ローマ時代以降の後の時代(第4文化期)において、秘儀参入の為の候補者の選定は、肉体やエーテル体から退くことにほとんど困難を感じない人たち、すなわち、アストラル体や自我が、比較的高度の独立性に富む人たちの間に限られた。 秘儀に参入するためには、予めある条件が必要とされた。この条件とは、参入者の能力に相応しい最高レベルの秘儀への参入を妨げるものではなかったが、ある段階を超えて、参入を成功に導くかどうかは、参入者が、アストラル体と自我の中で、独立性を、比較的容易に達成するか、或いは、苦労して達成するか、にかかっていた。 この条件の選定は、参入者の成長や天性の能力により決定された。この世界に生まれて来る人間にとって、誕生から死まで、この世界に依存することは、ある程度避けられない。 では、現代人も、もし、秘儀に参入するとき、同様の限界に左右されるのか? という疑問が生じるが、その問いの答えは、ある程度、左右される、である。 この講義では、精神世界へと導く真実の方法と偽りの方法について十分かつ明確な説明を加えるつもりなので、今日の秘儀参入への途上に横たわる困難について指摘しておきたい。 古代人は、秘儀参入者になるにあたり、その(生まれつきの遺伝的に)自然に備わった資質に依存していた。現代人もまた同様に、秘儀参入の入口に連れていくことはできる。 実際、適切な魂の訓練を通して、精神的な視覚(心眼)を発達させ、精神世界を知覚できるように、アストラル体と自我を形成できる。しかし、この精神的な視覚(心眼)を完全にし、完成させるためには、今日でもなお、別の極端に繊細で微細な感覚器官に依存している。 現代人にできるのは一歩一歩先に進むことだけなので、いま、これから述べることについて、次の第7講の内容を把握する前に、最終的な結論を出さないようにして欲しい。
2010年08月30日
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人間が日常生活の中で経験する第3の状態は、夢のない睡眠である。 では、その状態を思い浮かべる。 肉体とエーテル体がベッドに横たわり、アストラル体と自我が、肉体とエーテル体の外にある。肉体とエーテル体からの残響や名残は次第に止む。人間が精神世界に住むには、アストラル体や自我の中に限られるが、必要な感覚器官がない為に、何も知覚できない。 何も知覚できないので、闇に囲まれ眠ることになる。夢のない睡眠とは、自我とアストラル体の中に生きながら、周囲の広大で壮大な世界を知覚できない、ということを意味している。 例えば、目の見えない人の場合を考えてみる。その人は、色や形に関する知覚をもたない。色や形の知覚に関する限り、眠っていることになる。 さて、知覚(感覚)器官を持たずに、アストラル体と自我の中に住む人を考察する。精神との関係において、その人は、眠っていることになる。 夢のない睡眠の状態にある人間とは、以上のような存在である。 意識集中や瞑想の目的はアストラル体と自我の中に精神(霊)的な眼や耳(感覚器官)を発達させることにある。 霊的な感覚器官を開発した人は、周囲の精神の豊かさがみれるようになる。そのような人は、通常の意識状態は睡眠の中で失われ、瞑想や意識集中を通して、睡眠から覚醒することにより、精神(霊)的に知覚できるようになる。 自らで開発できない場合、元々、与えられていなかった感覚器官を組み込む必要がある。霊的な感覚器官を獲得したとき、精神世界への参入が可能になり、通常の、目や耳という感覚器官を通して物質世界の生活に与るように精神世界の生活に与れる。 以上が秘儀に参入する真の認識である。外(物質)的な方法により、精神(霊)的な知覚に向け、準備することはできない。 (霊的感覚器官は、物質的方法では獲得できない。) すなわち、参入者は第1に、通常の非常に混乱した内(精神)的な生活を、効果的に組織化することを学ぶ必要がある。 (秘儀参入の前段階において、自らの人生の精神的な総括が求められる。従って、秘儀参入には、少なくとも35歳「7歳×5段階」以上の人生経験「主に精神的な体験」を必要とするといわれている。 誰も他人の人生を生きることはできず、自らが自らの課題を背負って生きているといえる。) さて、人類の歴史においては、秘儀参入に向けて誰かを選抜して準備させる、ということがいつの時代でも行われてきた。しかし、極端な唯物主義の時代、すなわち15世紀以来今日に至るまで、秘儀参入は、ほとんど中断されている。この間に、秘儀参入の真の意義は忘れられた。 秘儀への参入なしに、人々は、認識に対する欲求の満足を望んできたため、物質世界だけが適正な探求の場であると、徐々に信じるようになった。 しかし、実際のところ、物質世界とは何なのか? 人類が、物質的側面だけを考慮しても、物質世界と折り合いをつけることはできない。物質世界は、物質を満たす精神(霊)を理解できたときに、はじめて理解できるからである。人類は、再び、この認識を取り戻す必要がある。 今(1924年)、岐路に立っている。世界は分裂し、益々混乱の様相を呈している。しかし、人智学徒は、この混乱、逆巻く闇、全てを破壊しようとする暗黒の衝動の真っ只中で、人間の中に、新しい精神(霊)性を目覚めさせようとして苦闘する精神(霊)力の存在に気づいている超越論的な認識をもつ人がいる、ということも知っている。 そして、人智学が将来準備するものは、唯物的な時代の騒乱の真っ只中でも、まだ聞くことができる、この精神(霊)の声に耳を傾ける、という姿勢である。 人間は、いつの時代も、精神世界を知覚する方法で、人間という組織体を発達させようと努力してきた。時代によって、条件は変化するが、古代カルディア時代、もしくはブルネット・ラティーニの時代を振り返ると、人間は今日に比べて肉体やエーテル体にもっと緩やかに結びつけられていた、ということが分かる。 人間が、肉体やエーテル体にきつく固定される、というのが当然の推移である。つまり、それは、今日の教育から考えれば、避けられないことである。 いずれにせよ、多くの場合、歯が生え替わる(7歳)前に、読み書きを学ぶように強いられるので、どうしても、精神的存在たちとの交流が期待できない。 天使や精神的存在たちは読み書きができない。読み書きは人間進化の過程で、物質的な条件に対応して発達してきた。そして、もし、現代人が全体として、純粋に(唯物論的)科学の探求へと方向づけられているなら、肉体やエーテル体から退くことが困難になることは明らかである。
2010年08月27日
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さて、もし、夢のイメージが、参入者の意識に溢れるのを、あまりにも安易に認めるなら、精神世界の真実に参入する代わりに、容易に、幻想世界の中で、幻想を夢見るようになる。実際、秘儀参入を望む者は、知的であると同時に極端に強い自制心を持っていなければならない。 そのためには、参入者に何が求められるかを想像してみる。もし、精神的探求について、つまり、精神世界に到達する方法について語るなら、以下のような点に注意しなければならない。 精神世界に対する理解に向け、第一歩を踏み出すなら、その使命に対する真の熱情を示す必要がある。 内(精神)的な昏睡、内的な無関心や怠惰は、その達成の途上にある障害物である。内(精神)的生活を活動的にし、活発な反応を示す必要がある。しかし、また同時に、白日夢の中で自らを失い、幻想の糸を紡ぎ出すという危険もある。 参入者は、想像力の翼に乗って天空を駆け巡ることができなければならないが、他方では、慎重さと真摯な判断力から、この内(精神)的活動と応答を沈静化できなければならない。 秘儀参入者は、上述した両方の性質をもたなければならない。自らの感傷に耽ることと同様、知性の支配に屈し、全てを理屈でかたづけるのも望ましくない。参入者は、これら両極端の間で釣り合いをとれなければならない。 参入者は、夢をそのまま見れると同時に、地上に足をつけていなければならない。参入者が精神世界に参入する際は、創造的で、ダイナミックな、イマジネーションの世界に参加しながら、同時に自身をしっかりとコントロールすべきである。 参入者は豊かなイマジネーションに恵まれた詩人としての受容性をもちながら、その誘惑に負けないようする。精神的な知識を求めるには、創造的な衝動により常に点火されると同時に、ファンタジーの世界へと流されないように、実践的な常識により、自身をコントロールできなければならない。そうすれば、参入者は、幻想の餌食にならず、精神的な真実を経験できる。 このような内(精神)的な魂の有様こそが精神的探求においては決定的に重要である。古代の夢意識に関して熟考し、それが精神世界から混乱したイメージを魔法のように出現させる意識であるということに気づけば、同時に、精神的な叡智の獲得のためには、現代人の夢のような状態にとどまろうとする自身の個性全ての力を、魂の活力に変えなければならない、ということにも気づく。 夢を活力ある精神的叡智に変えるときにはじめて、精神世界に参入する意味を知る。 以前、夢が精神的存在を魔法のように出現させる、と述べた。この事実は、夢意識が、肉体的生活から導かれるイメージをも魔法のように出現させる、という叙述に矛盾するようにみえる。 しかし、肉体は単なる物質ではなく、精神に完全に浸透されている。 例えば、美味しいそうな御馳走が目の前に出され、食べようとするけれども、その御馳走に支払う金が全くない、というような夢を見るとき、その人の消化器官の真に精神的、アストラル的な内容が食事という象徴化されたイメージとして示されている。 精神は肉(物質)体の中にその座をもっているという事実にも関わらず、夢の中には常に精神的要素しか存在しない。夢は常に精神的な要素を含むが、それは肉体に関係した精神的要素である、ということが非常に多い。このような事実に気づくことが必要である。 例えば、蛇の夢を見るとき、蛇のトグロは消化器官や頭部の血管を象徴している、という事実を理解しなければならない。 秘儀参入者は、このような秘密に到達しなければならない。魂の中で発達させられる、これらの親密で、微妙な要素に関する理解に到達するには、秘儀参入学を通じて、精神的な探求に目覚め、上述してきた事実に、綿密な注意を払う必要がある。
2010年08月26日
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さて、通常、睡眠中に、夢を見る人の状況はどのようなものか? 眠りに落ちる過程を具体的に想像してみる。肉体とエーテル体がベッドの上に取り残され、アストラル体と自我は物質的な乗り物から抜け出す。この瞬間、アストラル体はまだ肉体とエーテル体に同調しながら振動している。 アストラル体は1日中、眼や耳という感覚器官のあらゆる内(精神)的な活動、あるいは、肉体やエーテル体の機能のなかの意志の働きに参加していた。アストラル体や自我は、これら全ての活動に与っていた。 アストラル体と自我が肉体とエーテル体を去るとき、その振動は継続する。その日の経験は、アストラル体と自我の振動の継続により、周囲の精神世界と接触するが、その接触から、精神世界と外的に振動を継続するアストラル体との酷く混乱した相互作用が生じる。 夢を見ている人は、このような酷く混乱した全相互作用に捉えられ、その混乱を意識する。その人が携えていった全てが、その人に衝撃を与えた後、その振動は継続し、夢になる。 従って、物質世界での現実の理解に、夢がほとんど貢献しないことは明らかである。 では、秘儀参入者の状況とはどのようなものか? 秘儀参入者は、肉体とエーテル体から抜け出すとき、持続する振動やその名残を抹消できる。従って、秘儀参入者は、肉体とエーテル体から発生する全てを抑制する。 更に、秘儀参入者は、意識集中、瞑想、そして「空になった意識」を通じて、いわば精神的な眼(心眼)や耳のような感覚器官を魂のなかに獲得する。そのとき、秘儀参入者は、自身の内部で生じることでなく、外の精神世界の中で起こっている出来事を知覚する。 そのとき、夢の代わりに精神世界を知覚し始める。現代の夢の意識は古代の精神的な知覚に相応するが、現代の夢は、混乱した知覚である。 秘儀参入者が、この内的なアストラル体の器官、超感覚的な視覚と超感覚的な聴覚を初めて獲得するとき、肉体やエーテル体から発せられる残響やその名残を抑制するために、絶え間ない努力と衝突の中に、自分が置かれているのを見出す。 秘儀参入者がイマジネーション(霊視)の世界に入るとき、すなわち、精神的存在に関する先験的な知覚を獲得するとき、夢自らが主張するのを防ぐための絶え間ない戦いが生じる。参入者を惑わし、夢のようなファンタジーへと解消させようとする夢と、精神世界の真実を表現する知覚との間に、絶え間ない相互作用が生じる。 秘儀参入者なら誰でも、いつか、この衝突に関して熟知するようになる。精神世界に意識的に参入する瞬間、再び物質世界の残映が生じ、この妨害的なイメージが精神世界に関する真の像に侵入するのを経験する。この強烈な内(精神)的な衝突を克服するには、忍耐と努力しかない。
2010年08月25日
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第6講秘儀参入への認識、覚醒意識と夢の意識 これまで人間の魂の力から発達する様々な意識状態に関して述べてきた。秘儀参入への認識は、現代人の世界認識が、これらの様々な意識状態に由来する、という事実に依存している。 第6講は、人間の世界に対する関係が、どのようにして、これらの様々な意識状態によって決定されるかを確かめてみる。 最初に、1つの意識レベル、いわゆる現代人の日々の覚醒意識が、日常生活にとって最も相応しいものであることを考えてみる。 これからの時代において、この通常の覚醒意識に加えて、更に2つの意識状態を発達させる可能性があるが、さしあたり、それらの意識は、現代人の当面の目標である、知識の獲得という直接的な目的に対して有効な判断力を提供することはできない。 更に発達させる意識の1つは、人間が、その中で日々の生活での経験を回顧したり、精神的存在の生活に関する微かな暗示を受ける夢の意識状態である。 しかし、通常の夢の生活の中では、これらの経験や暗示は、過度に歪められ、互いに相関しないグロテスクなイメージや象徴が、あまりにも多く混じり込んでいるため、夢の意識状態からは何も学べないでいる。 もし、秘儀参入の知識の助けをかりて、人間が夢を見るときにいる世界を知ろうとするなら、その答えはおよそ以下のようになる。 「人間は、通常の覚醒生活において、科学の研究対象でもあり、感覚により知覚可能な肉体、すなわち物質体をもっている。これは人間の成立における第1の構成体であり、誰もがよく理解していると想像しているが、後で見ていくように、実際には、今日最も理解されていないものである。 第2の構成体はエーテル体だが、これについては著書、特に『神智学』の中で詳細に記述した。エーテル体、もしくは形成力体はデリケート(微細)な組織であり、通常の視覚で見ることはできない。 エーテル体を知覚できるのは、死者を死後数年にわたって追跡できる第1の意識状態を発達させた人だけである。エーテル体は、全体的に、組織が独立した物質(肉)体に比べて、密接に宇宙に結びついている。 人間を成り立たせる第3の構成体は(古い表現に拘れば)アストラル体と呼ばれる。アストラル体は、感覚には知覚不能な組織で、エーテル体と同じようには知覚できない。 もし、今日、外界の知覚に用いている認識力をもって、或いは死者と接触する第1の超感覚的意識による洞察力をもって、アストラル体の知覚を試みても、アストラル体が位置する場所に見つけられるのは、空虚、或いは真空でしかない。 要するに、人間は感覚により知覚可能な物質(肉)体、既に示されたような形で行う意識集中や瞑想を通して発達可能な力に基づくイマジネーション(霊視力)により知覚できるエーテル体をもっている。 けれども、これらの力をかりてアストラル体を知覚しようとしても、遭遇するのは虚無、何もない空間だけである。 この虚無を、内容で満たすには、以前述べた『空になった意識』を達成する必要がある。すなわち、感覚からくるイメ-ジを忘れ去り、思考や記憶が沈黙させられても、なお、その存在を意識するという方法で、十全たる覚醒意識もって、その世界に直面しなければならない。 そのとき、この虚無の中に、人間の第1の精神的な乗り物、すなわち人間のアストラル体がある、ということを知る。 人間という組織を構成するものには、更に自我がある。自我を知覚するには、空の意識を段々と発達させなければならない。 睡眠中、夢を見るとき、肉体とエーテル体は、精神世界に滞在するアストラル体と自我から分離している。もし、人間が、アストラル体と自我だけの存在だったら、現代人のような通常の覚醒意識を知覚できない。 人間が、周囲の物質世界から、覚醒意識を用いて、外的なイメージを知覚できるのは、肉体に眼や耳を付与されているからである。現在の人間の進化段階においては、肉体と異なり、通常の覚醒意識の生活では、アストラル体や自我は、眼や耳のような感覚器官を付与されていない。 従って、人間が、肉体とエーテル体から出て睡眠中の夢の状態に入るとき、物質世界において、眼や耳という感覚器官を取り去られた肉体と同じように、周囲が暗くなり、何も聞こえなくなる。 しかし、アストラル体や自我が、いつまでも感覚器官を持つことなく、すなわち、眼や耳という感覚器官のない魂に留まるように意図されたわけではない。著書の中で述べたような精神的な訓練を通して、精神的な感覚器官を、アストラル体や自我の中に目覚めさせることができる。 従って、秘儀参入に伴う洞察を通して、精神世界を覗き見れるようになる。そのとき、人間は、肉体とエーテル体から離れ、肉体やエーテル体の中で物質や、ある意味、エーテル的存在を知覚するのと同じように、精神的な存在を知覚する。このような洞察を達成する人が、そのとき、秘儀参入を達成する。」
2010年08月24日
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最近、ホメオパシーが巷を賑わせているのに危惧を感じ得ない。ホメオパシーは宗教ではないからである。 シュタイナーの講義からもわかるが、ホメオパシーを利用するには高度な知識が必要とされるので、素人同然の現代人がとても利用できるような代物ではない。 現代に対しては、現代医療が最優先なのである。だから、「代替」医療という命名があるわけである。研究段階に過ぎないもので、病気と診断された時点で、その治療に利用するのなら、臨床データをとり、専門家を納得させないとダメでしょう。 巷を賑わせている朝日新聞の記事を読んでみると、確かに、朝日には偏見からくるホメオパシーへの悪意を感じさせるものがあるが、これはホメオパシーに無知なので仕方ないことでもある。 問題は、ホメオパシーとは関係のない、なぜ、現代医療において、最優先される治療法を適応しなかったのか?にある。 とどのつまり、現代医療に対する不信感があるわけだ! 現代医療に対する不信感を利用して、ホメオパシーという言葉が新興宗教のように利用されているのが問題といえるだろう。 まず、現代医療に対する信頼の回復を優先すべきだろう。安易な治療法を選択するのではなく、病気と深刻に向き合うべきである。 病気に対する予防法、健康法を周知徹底させるべきだろう。 朝日の記事には、悪性リンパ種と、新生児の欠乏症について、まるでホメオパシーが殺したかのようなものだったが、どちらも、現代医療に対する不信感には問題提起がない。 勿論、ホメオパシーをこれらの治療に用いることには大反対である。日本には漢方があるので、代替医療なら、漢方から始めるべきで、その記事によると、患者は西洋医療を拒否したというが、ホメオパシーもハーネマンが歴史的には創始者なので、事実上、西洋医療なのである。 とにかく、ホメオパシーに対する曲解が横行していることは確かである。 問題となっている悪性リンパ種については、悪性リンパ種は、悪性と命名されているように、治癒困難なもので、リンパ種の細胞形から、ホジキンリンパ種と非ホジキンリンパ種に大別され、ホジキンなら、抗癌剤投与で、患者の自然治癒力を刺激し、回復させることも可能だが、抗癌剤投与のために、かえって体力を失わせ、死期を早める恐れもあり、ホジキンリンパ種は、自然治癒例もいくつかあり、抗癌剤の効果なのかも疑わしいという議論もある。 また非ホジキンリンパ種ならば、更に悪性度が高く、現代の医学でも抗癌剤投与か、放射線療法か、またその併用かで、5年生存率も高くない。 そもそも、現代医学でも、自然治癒力を回復させて治癒にもっていっているので、ホメオパシーだけが効果がないというのは、背後に、現代医療に対する不信感があり、それがホメオパシーに対する差別的な見方になっている。 しかし、ホメオパシーをうたいながら、偽物が横行している現状をみれば、現代医療の怠慢を隠すツールとしてホメオパシーが使われていることがわかる。 そもそも、ホメオパシーというのは、治癒原理を意味するもので、アロパシーに対しての対極療法の命名であると私は解釈している。 アロパシーは、悪いものを除くという概念だが、ホメオパシーは、悪いものを取り込んで抵抗力を高めるという、悪を利用する方法を医学的に用いたものに思うからである。 だから、抗癌剤だって、人体を致死させない量の毒を投与しているので、実はホメオパシーといってもよいと思う。 抗癌剤も、その原理だけでいえば、実はホメオパシーといえる。抗癌剤は細胞を殺す薬なので、本来、毒である。放射線もそうだし、ただ致死量に至らないだけの量を人体に投与しているわけである。 従って、ホメオパシーが問題というよりも、現代医療に対する信頼回復を薦めるべきであろう。現代医療に不信感があるから、古代や中世の真の意味を理解せずに、安易に、もってきて使ってしまうわけである。 真のホメオパシーは、病気を治すことよりも、病気からいかに健康な身体をつくり、その克服法を通して、人間の精神の進化を育成するかにある。 病気が治っただけでは意味がない。そりゃ、苦悩が除かれれば、一時の喜びが訪れるだろう。しかし、真の目的とは、病気といかに向き合い、戦ったか、その意識をしっかりと記憶にとどめ、獲得したかにある。
2010年08月21日
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銀という金属の背後にある秘密は非常に特殊である。 銅の背後にある宇宙的な衝動が、第1の高次レベルにある意識を人間の中に覚醒させ、水銀の背後にある別の宇宙的な衝動が、星の世界、つまり人間の死と転生の間に滞在する精神世界(精神界)に関係する第2の高次レベルにある意識を覚醒させるが、銀という金属の本性は、全く異なる段階の意識を覚醒させる。 銅や水銀の本性に対して採用した同じプロセスにより、銀に対する参入者の意識関係を強化し、高めるなら、参入者は、内にある更に奥深い組織に関係するようになる。 人間は水銀によりリンパ液の循環システムと関係づけられるが、銀によって今度は、宇宙の循環、宇宙の精神(霊)性に関係づけられるようになる。 参入者の銀に対する関係を強化することは、前世から生き残っている全ての力(形成力)や衝動との直接的な接触をもたらす。 もし、人間が銀の奇妙な性質に意識集中するなら、自らの内部の血管中の液体の循環だけでなく、血流に乗った熱の循環にも関係する力に意識集中することになる。 そのとき、参入者は、人間としての地位を、血液中の熱の循環に、つまり物質ではあるが同時に血液中の精神的要素でもある内的な熱を感じる。 そして、人間の地位が、その内的な熱に負っていて、この熱の中には、前世からの力が活発に働いている、ということに気づく(ときとして、内的な熱を感じる前に、気づく場合もある)。 銀に対する関係の中に表現されるものは、血の熱的活動に影響を及ぼす要素、そしてまた前世との精神的な結びつきを提供する要素である。 従って、銀は、前世から現世まで生き残っているものを、思い出させる金属としての効能を保持している。というのも、血の循環のなかの熱の顕著な多様性は、物質世界から導出されたものではなく、また、元素(精霊)界や星の世界からも導出されたものでもないからである。 星の世界は血液の循環の道筋や方向性を決定するが、その血と共に循環する熱の中には、前世からの賦活力が働いている。人間の関係のなかで、銀の力が示されるときは、直接、この力に訴えかけていることになる。 上述のように、銀の秘儀は人間の前世に関係している。銀は、精神が全てに浸透している事実、物質世界においてさえも、精神が浸透しているという驚愕すべき例の1つである。銀を正しく理解する者は、銀が人間の繰り返される地上生の象徴であることを知っている。 (そういえば、「銀河」の「銀」は、この銀の性質にちなんで名付けたのだろうか?) 従って、銀の秘儀は、生殖とその秘密に結びついている。何故なら、人間という存在が、世代から世代へと繰り返されるのは生殖という過程を通してだからである。 以前の地上生(前世)の中にあった精神的存在(霊魂)は、生殖過程を通して再び受肉する。これは血の秘儀と同じ秘儀である。血の秘儀、血の熱の秘儀とは銀の秘儀のことである。 今や人間の正常な状態に関して知るようになった。次に、異常な状態に関する探求へと進む。 さて、血は、自身の熱を、人間の現在の環境からではなく、前世において通過した領域から取り出さなければならない。 では、人間の血の熱が、前世に霊的に結びつけるものにより活性化されず、現在の環境の影響を受けることを想像してみる。その場合、結果として病理的な状態が生じる。 病理的な状態が生じるのは、血の熱に結びつく全てが、その自然な関連から、すなわち以前の地上生(前世)から切り離されるからである。 発熱とは何か? 人智学の立場から言うと、発熱は人間の肉体が、輪廻転生との関係を断ち切ったために生じるのである。もし、患者の肉体が、以前の受肉から切り離される危険に陥るというような形で、外界により働きかけられている、という病理的状態が、確かめられたならば、医者は、銀を処方し、治療すべきである。 この種の非常に興味深い例が、最近(1924年)、アーレスハイムのベーグマン医師の医院で見られた。精神生活においては、今述べたような状態が突然生じることがある。 血液のなかの奇妙な特性のために、人間の肉体が外的な状況を通して、前世の受肉から生じる突然の遊離(幽体離脱)に脅かされる。このようなことが、最近、ベーグマン医師の医院の、ある患者に起こった。 痙攣していた患者が突然予期せぬ高熱、通常の医学が言うところの原因不明の熱を発した。ベーグマン医師は、先験的な理解から、直ちに銀による治療を施した。 ベーグマン医師の話から、その患者が宇宙(カルマ)的関連の病理を完全に示していることが明らかになった。このような病気から、人間の精神的な進化に結びつく要因と、病理的な状態に導く要因との間の相互作用に関して、また、病理的な状態を、いかに処置すればよいかを学べる。 では、秘儀参入者が、地上での以前の生(前世)を探求できる、というのはどういう方法によるものなのか? 通常の人生のように、前世に結びつけられ、カルマに沿っている(巻き込まれる)限り、通常の覚醒意識で前世を振り返ることはできない。前世の影響は現世の中で感じ取れる。 自身のカルマを、カルマの影響の下に成就し、自身の人生はカルマによって決定される。自らの人生を通常の覚醒意識なしには、振り返ることはできないが、もし、前世を探求したいのなら、しばらくの間、自身の覚醒意識の限界を捨てなければならない。 (覚醒意識の限界というのは、主観のことで、主観を超えることが、前世の探求には必要である。) そして、前世を客観的に見ることが可能になったとき、自身を振り返ることが可能な位置に立てる。 勿論、全く正常な方法で現状に復帰できなければならないのは当然である。復帰できなければ、秘儀に参入したのではなく、精神異常の人になってしまう。 これは霊的進化の過程で生じる現象である。前世につなぎ止める舫い綱を解く必要がある。異常な場合や病理的状態では、病気がその働きをおこなう。 病気とは、人間の精神的な視覚やその他の意識レベルを達成するために、通常は、高次の領域において達成すべき意識を、異常な形での表現したものなのである。 もし、血液が、人間のその他の組織から切り離され、それ自身の意識(というのも、血以外の他の器官が各々の特別な意識状態をもつように、血も自身の意識をもつからである)に支配されるなら、つまり、血以外の他の組織による縛りから自由になるなら、この異常な状態の下で、ただし無意識にだが、前世を振り返ることになるだろう。 意識的に振り返るためには、まず通常の覚醒意識なしで人生を振り返ることができるようにならなければならない。病理的な状態で振り返るときには、通常の覚醒意識との結びつきが保たれている。 このように、例えばカルマに関連する全ての病気に対する素晴らしい治療法となる銀という金属の特性に関する探求は、銀の秘儀から発して、その他の深遠なる秘儀へと導く。 人間における様々な意識状態に関連した、金属の本性について語ってきたが、今度は、これらの意識状態に対する探求を、これらの意識状態を通して到達できる別の世界との関連へと広げていく。 次の講義では、霊的な知識に向かう正しい方法に関する更なる詳細な探求を提示する。
2010年08月20日
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もし、実際に、中間領域(死と転生の間の生活)に起源をもつような器官に関係する障害が、人間の中で発生したなら、その障害を修復するような力を活性化する必要がある。 例えば、中間領域に起源をもつ循環器系の不具合を持つ患者が、医師に受診する場合を仮定する。医師は、循環器系が精神世界との結びつきを断ち切られているような患者に直面することになる。その事実が、その患者が辿った経緯である。 精神要素と物質的診断との関係は、第4講で示唆したような意味で理解すべきである。誤解のないように再度繰り返すと、この患者の循環器系は精神世界から、酷く断絶しているという診断になる。 では、どう処置すべきか? 循環器系と精神界(精神世界)との結びつきを回復するように、体内に金属性を導入する、というのが正しい処置である。金属性とは、人間に対する水銀の作用のことである。 水銀は、人間に対して、精神界から唯一つくられる器官が、精神界との関係を断ち切ったとき、その関係を再度修復させるような形で働きかける。 こうして、意識状態に関する知識と疾患に関する知識との間に存在する、多少とも危険な関係と同時に必須でもある関係を、一方の知識が他方に移行することで、理解できる。 このような事実関係は、古代の秘儀において決定的な役割を果たしていた。第4講で触れたような事実にも光を当てる。 では、次のようなことを考える。 自然の秘密に関する女神「ナチュラ」の教えを通して、その存在に気づいた古代の精神的な視野が失われていた時代に、ダンテの師であるブルネット・ラティーニが、スペイン大使の地位を離れ、興奮状態の中で帰ってきた。 生まれ故郷に近づき、彼の党のゲルフ党の運命が伝わってきたとき、彼の興奮は高まり。彼は、上記の事実全てを、若干の発熱から生じる意識状態で経験する。実は、水銀の金属性が周囲から、彼に働きかけていた。 では、この「若干の発熱」を、どう理解すればよいのか? それは環境中の水銀、すなわち、宇宙全体に細かく分散した水銀の影響を感じる、ということを意味する。ブルネット・ラティーニはこの影響を経験した結果、人間がそのような経験に与ることができない時代であったにもかかわらず、精神界に近づくことができた。 こうして、人間の中には、自然科学が見つけるものや死後数年以内の死者と接触を持つ参入者が見つけるものが存在するだけでなく、人間の根本的な存在は、更に遥かに崇高な存在、すなわち死と転生の間に生きる純粋に精神的領域にも関係している、ということが理解できる。 通常の科学的な手続きにより、例えば肝臓や肺の形態を理解できるが(その知識は、粗雑な物質的側面において、科学的に知られているに過ぎない)、もう一段高次のレベルの知識をもってすれば、感覚器官の構造を理解できる。 けれども、秘儀に参入する知識を通して、アプロ-チする以外、直立な姿勢をとる人間の循環器系が示す奇妙な特徴や不思議な金属の特質への理解は不可能である。 このことは、秘儀参入の知識なしに、これまで述べてきた意味での病気の本性の理解は不可能であるということを示している。何故なら、金属が病気を治癒できるのは、その物質的性質を基にしたものではないからである。 金属の物質的特質に関する理解をもってすれば、脳の損傷を治癒することは可能だろう。しかし、循環する液体による障害の治療は不可能である。ただし、このような表現は、実際、厳密に正しいわけではない。 何故なら、金属の物質的特性により、治療できるのは脳の最も粗雑な部分だけだからである。脳内には液体も循環しているので、現実、金属だけで脳の損傷を治療できるわけではなく、金属の精神(霊)的特性の知識の援助があってはじめて可能となる。 「確かにそうかも知れないが、今日の医学の成果を、人智学の芸術治療では、どのように説明するのか?」という質問があるだろう。 その質問に対する回答は以下である。 「医学に治療が可能なのは、治療に際して、金属の精神(霊)的要素に関する古代からの伝統的な知識の記憶を保持しているからである。」 医学が治療の際に、使用している知識は、伝統的な知識と、ほとんど役に立たない純粋に物質的な発見の組み合わせである。 もし、唯物主義が伝統的知識の犠牲の上に立って勝利をおさめたなら、科学療法だけでは、いかなる治癒効果もなくなるだろう。 今、新たに精神的存在にアプローチしなければならない、何故なら、太古の超感覚的な能力に関する古い伝統は徐々に失われつつある、というような人間進化における転換点に立っているからである。
2010年08月19日
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第4講で述べたように、女神「ナチュラ」は、古代ギリシアの「ペルセポネ」と同じ存在である。 参入前の女神の眼差しは、地球へと向けられていた。すなわち、女神は、死後間もない死者の生活に関する経験のように、まだ地球の領域に結びつく存在を明かした。 参入後の今、女神は「振り返り」、参入者の下方に地球や元素(精霊)界、上方には星の世界がある。地上で、植物や動物に囲まれていたように、今、参入者の周りには星の世界がある。 参入者はもはや壮大な星の世界を目の当たりにしても、自分が、ちっぽけな存在であるとは感じない。そのときの参入者は大きくなっているので、星の世界を、ちょうど地上での周囲の環境との関係で感じていた大きさと同じように感じる。 秘儀参入者は、自らの身の丈が大きくなると同時に、星の世界へと成長する。とはいえ、ここでの星は地上から見上げるような星ではない。いま、この星は、精神的存在たちの居住地であることが分かる。 つまり、参入者は、既に述べた世界、すなわち、錫という金属の特性を通じて意識集中し、覚醒した世界の中にいる。 既に述べたように、水銀や錫との間には内(精神)的な関係がある。水銀は、人間のある部分に働きかけ、それを分離し、外的、物質的には星の世界として表現される精神世界へと持ち込む。 けれども、参入者は、自らの意識状態が変化した為、いまや異なる世界の中にいる。すなわち、その意識は、もはや感覚(五官)や脳により決められるのではなく、水銀という金属が、人間から引き出した意識により決められる。 参入者は、全体として異なる世界の中に、すなわち、星の世界の中にいる自分を見つける。また、この事実を別の方法でも表現できる。 「星の世界」という言葉は空間的な存在を暗示するが、上記の新しい意識レベルの達成を通じて、誕生から死までの間の空間(物質)的な存在の世界を後にし、死から転生までの間に滞在する中間的な世界に参入する。 (恐らく「中間的」という言葉は、空間と、時間の「中間的」な存在という意味であろう。アインシュタインが表した4次元時空間をイメージするとよいかもしれない。 空間というと、静止しているイメージだが、時空間というと、動的イメージで、流体を思い浮かべるとよいだろう。 4次元時空間とは一言でいえば、流体のことである。物体の質量は、流体と流体が衝突し均衡状態になったものか、流体が回転し、滞留した状態と考えればよい。内部角運動量のスピンなどは、それを如実に示している。 アインシュタインは、光の流体を想定し、静止した時間よりも、光速度を基準にしたのである。ただし、相対論は、ミクロとマクロの世界しか適応できない理論である。) この事実が水銀の隠された秘密である。つまり、水銀は人間を現象世界(物質界)から引き離し、中間的な世界への扉を開くが、それが可能なのは水銀が人間のある部分、つまり地球から導入されたのではない、中間的世界(精霊界)の存在たちにより、人間の中に植え付けられたある部分と内(精神)的な関係をもっているからである。 秘儀参入者が経験する水銀という液体の循環は、死から転生までの間に通過する世界により決められる。 (余談だが、空海が真言宗を伝教した地域は、水銀の産出が豊富な場所だったという。空海は、水銀の霊性を知っていたのかもしれない。) いま、ある別の事実について知るようになる。それもまたブルネット・ラティーニが女神「ナチュラ」の影響下に受け取ったものだが、それは、宇宙的な液体の循環に関連した「液体の循環の中に人間は生きている」という事実を意識するようになる、ということである。 人間は、いわゆる肉体という乗り物を、感覚から導かれた意識とともに脱ぎ捨てることで、死から転生までの間に滞在する世界にいる自分を発見する。 そして、次に、液体の循環の本性に通じるようになると、この内的な活動が、つまり死と転生の間に滞在する領域が、自身の気質、例えば、多血質、胆汁質、憂鬱質、粘液質という性質をいかに決定したか、という事実を理解しはじめる。 (多血質、胆汁質、憂鬱質、粘液質は、シュタイナーが分類した人間の4つの気質、つまり性格のことである。血液型分類に似ている。) 人間は、自身の成立について単に感覚に頼るとき以上に、深い洞察をもつことになる。もし、粘液質に生まれたなら、例えば、自らの鈍感さや無精さが前世の死と、今回の誕生との間の経験により決定された、ということに気づく。 しかし、物質的な液体循環の中に、自らを現わす気質との関連で、別の要因を考慮する必要がある。この液体の循環に含まれる要素を少し考えてみる。 解剖学や生理学の分野では、主として物質が問題になるが、物質は、精神の表現に過ぎない。この液体の循環に関連する精神的要素は物質世界のものではなく、死と転生の間にある人間に浸透する世界から発するものである。 様々な気質を省みれば(女神「ナチュラ」が気質の存在とその本質に対して、ブルネット・ラティーニの目を開かせたことは、彼にとって圧倒的な経験だったが)、死と転生の間の(第2の世界での)生活が、液体循環と関連する、これら4つの異なる気質の本性を決定した、という事実を結論づけられる。 もし、更に深く探求するなら、運命を司るカルマがその中で役割を果たしているのが分かる。 たとえ、この特筆すべき液体金属である水銀の物質的側面を熟考しても、第2の世界での水銀の作用に関して理解するには、水銀の隠された秘密、すなわち「液体の水銀の僅かな1滴が、秘儀参入者に奥深い秘密を明かす」、という箴言を充分に意識する必要がある。 この滴(しずく)は、死と転生の間の世界に起源をもち、その世界に負う器官構造の中に、精神(霊性)を浸透できる。 このように、世界のあらゆる事物は相互に織りなされ、関係づけられている。物質は幻想で、また物質の観点から、精神もまた幻想であり、抽象に過ぎない。 実際には、物質は精神に、そして精神は物質に織りなされている、というのが真実である。
2010年08月18日
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目や耳のように人間の身体の周囲に配置された器官は、元素(精霊)界と絶えず連絡を取り、死後、数年経た死者を知覚している。この元素界に関する知覚が失われるのは、知性が介入するからである。 人間の周囲に配置された感覚器官は、精神界(世界)や、死者の世界を仲介するが、その土、水、火、空気の元素(精霊)界は、知性的な(覚醒)意識により消し去られる。 結局、人間は明瞭に規定された輪郭を持つ物質界、すなわち誕生から死までの間に滞在する世界だけを見る。 物質界とは非常に異なって秩序づけられた第2の世界が本当に存在する、ということは確かだが、この世界は、人間の知性により消し去られ、人間が眺めるのは、ただ日常意識にとって見慣れた世界だけなのである。 そのため、現代人は第4講で述べたような瞑想を行う必要がある。過去、そのような瞑想の後、金属を摂取した。金属摂取については第4講で述べた。 高次の意識レベルに到達するには、第一に、知性を消し去り、感覚器官により仲介される知覚を精神化しないといけない。動物の場合、大脳が発達していないため、このような知覚に与れるが、自我意識をもたないため、その知覚は精神ではなく、原始的な魂の力にのみ浸透されている。 動物は人間のように、精神(自我意識)が感覚を照らしたときに知覚される対象を、周囲の世界に知覚しない。動物の知覚は人間の知覚と同種だが、劣ったもので、個別のものになっていない。 (人間のように「私」という自我がないために、動物には、「私」という対象がない。例えば、公私混同していて、所有欲のない人間は、動物に近いといえるかもしれない。) 金属について、つまり鉱物界の実質に関して、これから述べることは、必要な注意と共に受け取って欲しい。第4講で、金属の性質を通じて、魂を内的に活性化させる方法について、言い換えれば、金属との内的な交流を、道徳的な意味で発達させることが、現代人の精神的な発達における枢要部をなしていると述べたとき、同時に注意を促した。 効能化された金属の人体組織に対する処方は本来臨床医の役目である。従って、既に議論した以外の金属の未知な要素について、これから述べることを、必要な注意と共に受け取って欲しい。 特に水銀の秘儀は精神面から世界にアプローチする人たちにとって、すなわち物質的な実質の中に精神の働きを知覚できる人たちにとって特別な重要性をもっている。ただし、金属の水銀は、人智学において、一般的に「水銀」という言語を用いる対象の一部に過ぎない。 人智学では、「水銀」とは液体金属の性格をもつ全存在の総称である。現代人に御馴染みの今日の自然界に、常温で、このような性格に与る金属、つまり「水銀」と見なされる金属はたった1つ、つまり水銀しかない。 けれども、今日の水銀は、「水銀」という種を構成するものの1つに過ぎない。人智学では、「水銀」とは水銀のような性質をもつ全存在を包含している。今日の水銀は、人智学の「水銀」の典型例に過ぎない。 (人智学では、太古の、金属が熱で相転移し、流動化していた状態も、水銀と呼ぶ。例えば、いまでも、金属を高温で熱して、流動化させた状態も、水銀と呼ぶわけである。 つまり、人智学から、古代の命名法が理解できるので、それに倣い、液状の金属を、水銀と呼んでいるようである。古代の命名法は、現代の金属の物質的性質よりも、どちらかというと形態に重きを置いているように感じられる。) この「水銀」には奥深い秘密がある。人間に対する水銀の影響とは、物質界の全ての印象や、また元素(精霊)界からも、人間(の感覚)が引き離される、というものである。 人智学徒は物質界から脳のような器官が生まれたのを知っている。同時にまた、この感覚界から他の多くの器官が生じたが、特に、物質的な生活には不可欠の一連の腺組織全体が生じた。 更に言えば(感覚器官に関しては既に述べた)、第2の意識レベルに関係する世界として記述した世界からも、多くの器官が生まれた。銅と鉄は人間を、この第2の意識レベルに引き上げる。 しかし水銀の影響はそれとは異なる。水銀は宇宙の中に必然的に存在しなければならない。水銀は実際、微細な拡散状態で普遍的に存在している。人間はいわば水銀の大気に取り囲まれている。 水銀を通常量以上吸収した瞬間、人間は物質界と元素(精霊)界から生じた全器官を中和しはじめる。人間のアストラル体がいわば刺激され、アストラル界から生じた器官のみに頼るようになる。 従って、基本的に手で触り感じとれないほど繊細な、水銀の特徴的な要素である、液状の金属という性質のなかの、人間に関係する要素に、意識を集中する瞬間、参入者は「第3の人間」に浸透される。 銅との関係を通じ、内的な緊張をつくりだすと同時に、肉体を捨て去れば、死後間もない死者たちを数年にわたって追跡できるような第2の人間に浸透されるようになる、ということは既に述べた。 水銀は、銅より遥かに魂のなかの綿密に織られた組織に貢献する全てを引き寄せる。水銀の影響を通じて、まるで新陳代謝器官全体が把握されるか、のようである。水銀の力強い金属の流動的な影響を経験するとき、様々な管組織を通じて流れる液体の循環の様相に、突然、注意が向くようになる。 その影響は気持ちのよいものではない。というのも、参入者は、まるで心と感覚を失ったかのように、いわば内的な発酵状態になり、乱流のなかに脈打つ生命の運動の中にいるように感じるからである。終いには、この内的な活動が、外の活動と1つになるのを感じる。 既に記述したように、この状態は内(精神)的生活の意識的訓練により生じる。水銀の活動的な影響を通して、人間は、脳の存在を感じなくなる。脳は空虚な空間になるが、その方が精神世界の知覚にとってはよい。何故なら、脳は、精神世界の知覚という目的には全く役に立たないからである。 参入者が実際に感じるのは、身体全体に浸透する水銀の運動と活動である。とはいえ、この発酵は最初、内(精神)的な消耗に苦しみ、苦痛に満ちたものである。 参入者の内(精神)的な活動が、あらゆる処で外的な活動と結びつけられる。地球を離れ、元素(精霊)界が下方にあるのを感じ、全ての存在が流れる蒸気を吐き出すが、この流れる蒸気からなる空気の中に、精神的な存在が住んでいる。 そのとき、ブルネット・ラティーニが、生きた存在として記述した女神「ナチュラ」が、「振り向く」のを感じる。
2010年08月17日
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第2の世界(死後の世界)から生まれる自然法則は、(現代人が通常考えるように)知的に構成されているのではなく、精神的存在に関係している。秘儀参入者に語りかける女神「ナチュラ」が第2の世界から洞察を指し示し、伝える。 このように超感覚的(死後の)世界の存在を通して、人間を取り巻くリアリティ(現実)に関して学ぶことができる。秘儀参入者は、自然法則により決定される純粋に抽象的な世界から、精神的存在の世界へと上昇する。 超感覚的世界では、もはや実験や分析により自然法則に至るのではなく、異次元世界の存在たち、知識や理解を仲介する存在たち(何故なら、人間としてまだ学ぶべきことを、その存在たちが知っているからである)がいることを感じる。 (異次元世界の存在たちも、かつては人間という存在だったという。人間の1つ上が天使で、かつての人間のなかで、進級できたのが、聖霊で、降級したのが堕天使の悪霊となるようだ。 天使は、人間のように肉体に宿ることができないので、悪霊は、人間の魂にちょっかいを出し、憑依したりするわけである。死後、人間の魂は、このような悪霊の餌食になることが多いという。 悪霊は、生前に悪そうな人間をみつけてちょっかいを出し、誘惑し、死後にその魂を刈り取るというような巧妙さをもつ、いわばマッチポンプというわけである。特に、宗教団体系は、悪霊の格好の餌食で、カモにされやすいようである。) 秘儀参入者は、上述した正しい方法で精神世界に参入する。もし、眼や視覚神経、鼻や嗅覚神経、耳や聴覚神経という感覚器官のみを授けられ、これらの神経全てが、その神経の出発点(超感覚的世界)で結びつけられていたなら、酸素、水素、窒素その他の元素や、生まれてから死ぬまでに知覚する(物質界)全てを意識することはなかった、ということに気づく。 人間は、元素(精霊)界を覗き、その周囲の至る所に土、水、空気、火(の精霊)を知覚していただろう。そして、土(固体)と、(土「固体」という形態の派生である)粗雑な物質、もしくは、水(液体)と、(水という形態の派生である)液状物質の間に、更なる区別をつけようなどとは少しも思わなかっただろう。 (現代の科学がやっていることは、例えば、人間の生活様式に対していちいち名前をつけるようなものといえる。病名をつける行為などは、この分別知的な行為に近いといえる。) 人間は、物質的感覚を持った存在として元素の世界に通じている。しかし、この講義で既に述べた事実を認識すれば、4大元素の上に、更に区別することは、人間の中で同時に、頭蓋空間へと駆け上る感覚神経を、更に差別化し、特殊化し、その差別特化した領域において、閉じた脳(ニューラルネット)を組織化するための第1の兆候(情報伝達)を形成する、ということに気づく。 その結果、現代人は、それ以上深く自身の中に入らない。つまり、現代人は外に向かうようになり、誕生から死までの間に経験する記憶を、土、火、空気、水という4つの元素の性質の上に蓄積する。 (差別、区別化することで、脳の神経細胞も同時に差別、区別化される。シュタイナーは、脳の神経細胞と、白血球は同じものと考えている。魂により思考するとき、脳の神経細胞は半分活動停止するという。 半分活動を停止「麻痺」することで、その再生能が、思考となるようである。だから、睡眠中、神経細胞は活発に活動するので思考できないという。逆に、白血球は起きているとき活発に活動し、睡眠中は活動を停止するという。 脳の神経細胞が死滅した部分は、白血球により補充され、やがて、死滅領域が多くなると、死を迎えることになる。魂は、肉体を損傷させることで、経験を得ているわけで、肉体の回復が芳しくないと、魂は肉体を捨てざるをえなくなるわけで、それが死である。) 大脳は頭蓋空間へと駆け上る感覚神経索の段階的な変容に基づいて発達する。人間の中で、自身へと押し戻される、この大脳は、誕生から死までの生活にだけ意味がある。精神世界に関する理解に、知性はほとんど重要ではない。 この世界と境を接する最初の精神の領域に参入するときでさえ、知性は沈黙する。大脳は、高次の知覚を妨害する器官なのである。しかし、知性が沈黙させられても、感覚的な経験からは人間は逃れられない。そのため、感覚を精神化し、イマジネーション(霊視)を獲得しなければならない。 通常の過程では、感覚に導き出された外界のイメージは、感覚として受容され、それらを知性が抽象的で死んだ思考へと変化させる。もし、知性を沈黙させても、感覚を通して世界を経験できれば、あらゆる対象をイマジネーション(霊)の形で受け取れる。 (イメージ思考を発展させるとイマジネーション、霊による思考が可能になるようだ。イマジネーションとは、例えば、製品をみれば、その設計図が思い浮かぶようなものである。だから、生物の場合は、その生物の過去の歴史がわかるわけである。 シュタイナーは、イマジネーションの上位にインスピレーションがあるとしている。インスピレーションは、よく芸術家や、発明家、学者が「閃く」という表現をするように、新たな発想、着想が沸くようなものだろう。 例えば、製品をみれば、マニュアルをみなくても、使用でき、有用性がわかり、更によい製品を発明できるようなものだろう。生物の場合は、その生物の将来を予測できるわけである。 インスピレーションの上に、更に、インテンションがある。インテンションになると、そのものと同化してしまう感じである。) 参入者は、このことを意識し、通常生活における覚醒意識を、より高次で、より精神化された状態へと発達させることで、ついには人生に対する深い洞察が得られる、ということに気づく。
2010年08月13日
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また、例えば、多くの聴衆の前に立つことをイメージしてみる。精神世界に参入する瞬間、多くの聴衆の明瞭に規定された、その全ての輪郭が消滅する。その代わり、超感覚的なイメージの形で投影された聴衆の魂と精神を知覚する。 そして、周囲の神秘的で精神的なオーラが次第に、参入者を包み込み、新しい世界、死者が死後、居住する世界が生じる。そのとき、参入者は、別の事実に気づく。 すなわち、もし、いま参入した、この中間的世界が至る所に存在していなかったら、人間は、目や耳を、つまり感覚器官をもたなかった、という事実に気づく。 化学者や物理学者たちが記述する世界は、人間に感覚器官を提供できない。従って、もし、死後の世界がなければ、人間は見ることも聞くこともできなかっただろう。 もし、死後の世界がなければ、人間の中に感覚器官を組み入れることは不可能だった。 ブルネット・ラティーニがスペインから生まれ故郷のフィレンツェ近郊に戻る途中、若干の発熱に苦しみ、この中間的世界への扉を開けたとき、彼が発見した驚くべき事実とは、上記の事実だった。 彼は人間の感覚器官が、この別の世界(死後の世界)の賜物である事実に、すなわち、もし、この中間的世界(死後の世界)が感覚により経験される世界(現世の物質界)に浸透していなかったら、人間の感覚は全く発達していなかったという事実に気づいた。 人間という地位は、人間の感覚器官を、この第2の世界、いわゆる、この中間的世界との結びつきに負っている、という事実により決定されている。 この第2の世界はいつの時代にも元素界(精霊界)と呼ばれてきた。その世界では、酸素、水素、窒素等々の言葉は意味をもたない。これらの言葉は誕生から死の間の世界(現世)にだけ適用可能である。第2の世界では、土、水、空気、火、光等々の精霊について語ることだけが意味を持つ。 というのも、水素、酸素等の特質は、感覚とは全く無関係だからである。科学者が、例えば、スミレやアギ(セリの一種)の香り、つまり、一方は善い香りで、他方は極めて不快であるという香りを、その化学的組成に従って名づける化学名は、何1つ意味をもたない。 第2の世界においては、香りや臭いとして現象化する全ては精神化される。第2の世界の立場から記述するなら、臭いは、希薄化された空気、精神によって完全に浸透された空気(精霊)である。 人間の感覚は精霊界に根ざすので、そこではまだ、土、水、火、空気について語ることに意味がある。 人智学徒は、これまで誤解されていた知識を正しい理解へと発展できる。自らを論理的、客観的であるとし、古い時代の素朴な観点は捨て去ったと主張する現代の哲学者は、このような事実を前にして、どのような態度をとるのだろうか? 現代の哲学者は、昔の概念は原始的で、当時、人々は粗雑な元素である土、水、火、空気についてだけ語ったが、今日(1924年)ではその4つ、5つの元素だけでなく、70から80の元素(現在では103)が知られている、と主張する。 さて、もし、古代ギリシア時代の典型的な観点をもつ人が、現代に生まれ、自ら(古代ギリシア)の観点について訊かれたなら、次のように答えるだろう。 「現代人は勿論、現代の方法で、現代の観点から酸素や水素のような元素について語るが、古代ギリシア人が4つの元素だけで、全てを理解していたことを忘れている。 現代人は、元素(精霊)界の構成に気づいていない。現代人は、元素(精霊)界について、もはや何も知らない。現代人の言う72や75の元素全てが存在していたとしても、感覚器官は決して生まれてこなかっただろう。 何故なら、感覚器官は4つの元素から構成される元素(精霊)界から生まれてくるからである。感覚器官を備えた人間の体が、どのように組み立てられているのか、について現代人よりも、よく知っているのは我々古代ギリシア人である。」 ブルネット・ラティーニのように秘儀参入に向けて第1歩を踏み出した古代人が受け取ったイメージについて推測するには、これらのイメージが魂や精神の生活にとって、どのような意義をもっていたかを、つまりこれらのイメージにより、魂が受ける活動的な刺激や、その予期しない衝撃的な影響に、注目する必要がある。 もし、これまでのイメージ感覚のリアリティを信じてきた人が、そのリアリティは、人間の感覚器官をも創造できなかったという事実と、そのリアリティの背後には、これまで述べてきた全てが存在している、という事実を見つけるなら、その影響は、計り知れない大変なものとなる。 現代人が通常抱いているような自然に関する古ぼけた不毛な概念をいつまでも長引かせるなら、古代の叡智のような知識や理解を発達できない、ということに気づくことが重要である。 この第2の世界に参入するとき、あらゆるものが生命の身震いを始める。参入者は例えば、次のように自分に言い聞かせる。 「感覚的な経験を通して、自分が知っている山は全く活気のない存在のように見える。自分はこれまで、その山が生命力に浸透されている事実に全く気づかなかった。今、その真相が明かされる。 以前、静的で不活発のように見えた雲の中に、これまで気づかなかった生きた生命が躍動しているということが今、明らかになる。 あらゆる全てが活気づけられ躍動し、波打ち脈打つ生命の中で、根本的な真実が明らかになる。」
2010年08月12日
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第五講金属の本性を通じての魂の内(精神)的な活性化 人間が日常生活の覚醒(金の)意識とは異なる意識状態をいかに発達できるか、そして、古代のような知識や活動分野においては、今日のような意識をもたなかったという事実に対して、人類の進化の歴史から、豊富な証拠がいかに提供できるか、ということを示してきた。 次に、10世紀、11世紀、12世紀に生きた学者たちの意識と、当時、例えばシャルトルの学院における知識の涵養方法との間の関係に注意を促した。このような古代と中世の知識関係から、現在の意識レベルとは全く関連しない知覚形態がいかに生じてきたか、ということも指摘した。ダンテの師、ブルネット・ラティーニがその代表であった。 第4講では、更に前の時代、例えばエフェソスの秘儀の時代における人間の宇宙に対する関係を呼び起こした。それにより、当時、今日の通常の科学的な覚醒(金の)意識状態に、ある程度関連するとはいえ、全体として異なる(鉄、錫、鉛、銅の)意識状態がいかに優勢であったかを知った。 さて、少し脇道にそれた後、更に探求を続ける。既に金属の特性が、つまり鉱物元素の基本的な物質性が人間とその意識状態にいかに関連しているか、ということを示した。すなわち、金属の銅に対する人間のなか(消化器官)の関係を示した後、いわば死後間もない死者の経験への参加を可能にする意識状態について記述した。 ここで、ブルネット・ラティーニが発熱の後、半ば病理的な状態の中で経験したのは、実は、このような知覚形態であった、ということに気づく必要がある。 彼が記述した全て、すなわち女神ナチュラのインスピレーションを通してやってきた知識全ては、死後間もない死者の経験に与れる意識状態(日常の覚醒意識に密接に関連する)の中で、真に獲得できる。 第4講で、その意識は、より現実性の高い状態であった、と述べた。人間は、現象世界に比べて、より力強く、より光り輝く世界に、つまり、全ての存在に更なる完成を与える世界にも住んでいる。 人間は、この銅の意識により、死の門を通って間もない魂の経験に与る可能性をもっている。 同時に、この死後の世界の奇妙な特徴が明らかになる。今述べた銅の意識状態をもって、死後の世界に滞在するとき、日常生活での通常の経験の観察はもはや不可能になる。 この世に生まれる直前の生活、すなわち、生まれる前の、まだ精神世界にいた頃の経験だけを見る。従って、この意識状態の中では、通常住んでいる世界から引き離される、ということに気づく。 では、一体、それがどういうことなのか? を示す。 ある日に、ある人が生まれたとする。もし、その人が40歳のとき、銅の意識状態を達成したなら(銅の意識は第3講で説明した)、その人の知覚はもはや現在の経験や30歳、或いは35歳の時の知覚にも関連せず、ただ生まれる直前の経験を振り返れるだけとなる。 その人は、生まれる前の経験を、自分自身に関しても、他の人に関しても知ることができるが、生前の日常的世界のなかの存在は理解できない。日常的世界は人間に関する理解だけに限られる。 例えば、動物は、日常生活の見慣れた物質的な姿では現れない。直上の世界(欲界)を覗くと、動物の集合魂と呼ばれる存在を知覚できる。いわば動物の種のオーラを見ることになる。 そして、現在の唯物的な時代では完全に無視されているものが、人類にとって最高に重要なものが、その世界に見出される。 もし、ベルナルドゥス・シルベストリ、アラヌス・アブ・インスリスやその他のシャルトルの学院の教師たちにより、生きた存在として描写された存在、すなわち女神「ナチュラ」として常在していた存在に触れるなら、たとえ最高の大学であらゆる学問に関する全ての現代的な知識を学んでいたとしても、自分が計り知れないほど無知であると感じられるだろう。 現在の知識は誕生から死までの世界だけに適合するもので、死者を死の門の向こう側まで追跡できる意識をもって精神世界に参入するとき、その知識はもはや有効ではない、と感じられる。 例えば、化学を探求するとき、その知識の総計は誕生と死の間の世界(現世)にだけ有効である。いわゆる化学は、秘儀参入者が死者と共有する世界では重要ではない。現象世界で獲得する全知識は、死から新たな生(転生)の間の、この中間的状態(死後の世界)では価値がなく、単なる記憶として残るだけである。 銅の意識をもって参入すると、「いま参入している、この中間的な領域に関する直接的な意識を私はもっているが、あれほど多くを学んだ日常的世界は、逆に私の意識から霞んでしまった」と感じる。この別の世界が、参入時には、目の前に広がる。 例えば、日常的世界において、目の前に薄っすらと山が現れてくる状況をイメージする。やがて、山は力強い印象を与える。遠くから見ると、山は太陽光を反射し、その輪郭や岩肌の様子が分かる。少しずつ近づき、足を踏み入れると、山の表面の堅さが感じられる。そして、そのとき、堅固な地面の上に立つ自らの現実性に何の疑いも感じない。 さて、しかし、中間的世界(死後の世界)では、堅固としている、太陽光を反射して輝く存在として記述できる全ての対象も、意義を持たなくなる。つまり、日常的世界の山の記憶から何かが流出し、それが何処までも大きくなり、別の種類の現実性を印象づける。 例えば、通常状態の日常生活では、山の上に雲がかかっているのを見ることがある。雲は水蒸気の凝縮によるものであることに何の疑いもない。中間的世界では、このような現象もまた(日常の)現実性を失い、何か別の現実性が雲から現れる。 別の現実性は、山や雲が徐々に視界から消えるに従い現れる。山と雲はただ漠然としているだけでなく、山と雲という組み合わせの中から、同時に新しく形態を与えられた現実が生まれる。このような現実は、この中間的世界における全ての対象に当てはまる。
2010年08月11日
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秘儀参入の教師と弟子との会話は続く。 「もし、お前よりも、長く起きている者がいたなら、お前が眠っている間、その者は植物や、山々や、雲や星、つまり、ペルセポネの外的な顕現を、今のお前と同じように知覚するだろう。幻覚は、我々の認識の中にある。 ペルセポネが幻覚なのではない。山や植物、雲、そして星々における彼女の創造的な活動が幻覚なのではない。それらを見る、お前の認識が幻覚なのだ。そして今、眠るときが来た。 生命の神秘の器官である、お前の眼を通って、コレー-ペルセポネがお前の中に入ってくるだろう。」 上述の会話は、活力をもって経験された為に、活力をもって描写された。そのため、睡眠中でも、その光景を感じ取れたばかりでなく、聴覚や感覚が消滅する中で、ペルセポネが参入者の目を通り、魂と精神が退いた参入者の肉体とエーテル体の中に潜入してくるのがわかった。 人間は、覚醒時、下方の世界に生き、睡眠中は、上方の世界に生きる。睡眠中の参入者の目を通って、ペルセポネが参入者の肉体とエーテル体の中に入ってきた。 彼女は、眠りの支配者プルートとともに、参入者である弟子の肉体とエーテル体の中に滞在した。弟子は睡眠中、ペルセポネとプルート(ハーデース)の活動を経験した。弟子は、受け取っていた教えにより、コレーが目という通路を通って入ってくるのを知覚するようになった。 弟子にとってこの出来事は、生きた現実となった。そして、弟子は睡眠中のプルートとペルセポネの行為を経験した。弟子がこの出来事を経験している間、教師は形態の世界に関係する相応の経験を持った。 プルート http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%97%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%83%88 ハーデース http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%BC%E3%83%87%E3%83%BC%E3%82%B9 (神話によると、ペルセポネは、ハーデース、つまりプルートに冥界に連れ去られたという話になっているが、これは、上述の、秘儀参入者の睡眠中の体験を物語っているのだろう。つまり、神話とは、秘儀参入者が、秘儀参入時の経験をそのまま記述したものなのだろう。) そして、教師と弟子がこの世で再会するとき、各々が自身の特別な洞察をもっていた。師と弟子が植物や木々について議論するとき、師は、植物の形態がいかに生じるかを記述した。 何故なら、その情報は、睡眠中、師に明らかにされていたからである。師は葉や茎の配置や、自然界の全てについて、天の上方から地上に下って働く形成力(エーテル力)について詳細に議論した。 弟子は、大抵、師と異なる洞察を経験したが、師が植物の、例えば、クロロフィルや浸透圧の神秘について語る事実を追っていくことができた。このように、会話はお互いを補強し合った。 これらの秘密は、この女神ペルセポネの活力ある描写の中に、下方世界での睡眠中に明かされ、上方世界とは違う彼女の別の側面が、人間の魂に明らかにされると同時に、その中に参入していった。 このように遥かな太古の時代には、弟子は教師から、教師は弟子から学んだ。その教えは、一方では、精神から魂に関するもの、他方では、魂から精神に関するものだった。この共通となった経験を相互に交換することで、師と弟子は、知識の最高度の飛躍に触れた。 この最深の洞察を分かち合い、荘厳な並木道を歩きながら、森の最深部へと徐々に向かい、並木道が視界から消え去り、やがて暗い緑の森の上に、東の空に輝く夜明けの星から光の矢が投げかけられるとき、師と弟子の心は喜びに満たされた。 秘儀参入の師と弟子は、現代人が自然と呼ぶ領域に、短い時間とはいえ、滞在していた。そして、師と弟子が、上記の事柄に関して話し合うときは、確かに、ペルセポネと会話していた、という意識があった。 また、秘儀参入者は、後にペルセポネの神話になったイメージ全てが、実際に、人間の自然に関する知識の隠された源泉である、ということを知っていた。 ペルセポネに関する生きた知識に染まっていたエフェソスの秘儀に関連した会話がいかに心強いものであったかは、いまはただ不完全にしか示すことができない。けれども、時を経るに従い、このような知識は、今日、自然として知るような抽象物へとトーンダウンしていき、フィオーレのヨアキムのような人物が、このような知識の悲劇的な喪失を嘆いた。 人間や宇宙の精神的な本性に関する理解へと導く道程を理解するには、人間が到達可能な範囲にある様々な意識状態に注意を払い、それを特徴づけるだけでなく、これらの意識状態が人間進化の過程でいかに変化してきたかを理解しなければならない。 また、エフェソスの神殿で秘儀に参入していた秘儀参入者の会話に情報を与えていた知識が、現代人の知識とはいかに異なっていたか、そして、フィオーレのヨアキムやアラヌス・アブ・インスリスのような人物と交わされた会話が、現代とは、いかに異なっていたかを、また、現代人が精神的な訓練を通して、今日再び達成し、獲得しようとして苦闘する知識、その知識は、外から内へと、上方から下方へと、そしてまた逆に、内から外へと、下方から上方へと導く形態を有するが、その知識が、現代とはいかに異なったものであるかを理解しなければならない。
2010年08月10日
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では、参入者たちの会話はどのようにして行われたのか? 第一に、秘儀参入者である教師の牧師がいた。師は、形態の世界での偶然性、その世界に存在するものの間の相互作用に関して語る能力を精神的な衝動から受け取っていた。師が秘儀参入者としてもつ知識から語るとき、大体次のようなことを弟子に語っただろう 「今は黄昏時、精神世界を明らかにする眠りが、まもなく我々を捉える。お前の人間としての形態を、その全体性において見なさい。我々の足下には植物が、我々の周りには黄昏時の伸びゆく影が、神殿の森には曖昧で虚ろな緑の光があり、空には一番星が輝き始めている。 上なる天と下なる地にある生命の多様極まりない偉大さと荘厳さを見なさい。次に、お前自身を見て思い出せ! お前の中には全宇宙が生き、活動しているという事実を! 全ての精神的な働きや、お前の内的な生命の変化と偶然が、1日のどの瞬間においても、豊富な事実や、お前という存在の無限の変化を目撃しているという事実を! お前という小宇宙は、お前が眼で見、知性で理解する大宇宙よりも、空間的に限定されているとはいえ、その神秘と不思議さにおいて、より豊かであることを知りなさい! そして、この世界をお前の中に感じ、認識することを学ぶのだ! お前は、地球から星々に続く大きな世界を、お前の小宇宙的な世界から眺めているということに気づきなさい! そして、眠りがお前を捉えるとき、お前はもはやお前自身の体、お前自身の世界の囚人ではなく、今お前が目の前にしている世界、地球や星々を包み込む世界の住人になるのだ! お前の魂と精神は肉体を去り、お前は星々の輝きと地球の放射に与ることになるだろう。お前は風に乗り、星の輝きとともに思考しているだろう。お前は今や、精神の世界に住み、お前であった小宇宙的な自分を振り返るだろう!」 (睡眠中、自分の1日の行動を、外からみることになる。つまり、起きているときは、自分の内側から外を経験し、寝ているときは、自分の外側から内を経験する。) 太古の時代には、教師は弟子に向かって、上記のように話すことが可能だった。何故なら、外の世界の知覚は、現在のように明確に規定されず、睡眠中の生活がまだ完全に空虚ではなかったからである。 太古の睡眠生活は、まだ経験に満ちていた。この睡眠状態に言及し、教師が次のように言うとき、それは現実を語っていた。 「お前は今、プロセルピナ、ペルセポネ、あるいはコレーとともにある。コレーは星々の中に、太陽の輝きの中に、月明かりや成長する植物の中に住んでいる。 あらゆる場所で、ペルセポネの活動を見ることができる。何故なら、彼女は宇宙の衣を織ったのだから。 そして、その全ての背後にはデメテル、すなわち彼女の母親がいる。ペルセポネは母親のために、お前が外的な世界として見る、この宇宙の衣を織ったのだ!」 秘儀の教師は「自然」という言葉を使わず、ペルセポネ、あるいはコレーについて好んで語った。 ペルセポネー(ペルセポネ) http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9A%E3%83%AB%E3%82%BB%E3%83%9D%E3%83%8D コレー http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B3%E3%83%AC%E3%83%BC デーメーテール(デメテル) http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%87%E3%83%A1%E3%83%86%E3%83%AB (恐らく、デメテルは自然という女神の三位一体の存在で、プロセルピナが物質界、ペルセポネがエーテル界、コレーがアストラル界の、それぞれ自然を表し、デメテルは神界の自然に相当するということなのだろう。)
2010年08月09日
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プロセルピナ(現代用語では陳腐に聞こえるが)とは、古代人にとっての「自然」を意味し、その自然の生命の半分が天上の世界にあり、あとの半分は、人間に、物質的、感覚的な面だけを現しながら、天上にある生命の半分は、人間が睡眠中に滞在する世界とはいえ、人間の睡眠が真の現実を欠いているために、今日では、もはや人間が活動できない領域で生きる「自然」なのである。 自然に関する知識は、古いギリシア神話の中で、ペルセポネとしての生きていたものの残響だが、現在の概念は抽象的で、現代人がこの様な事実に気づくことはない。 悲しみに満ちた表情の中世の知識人たちが、ペルセポネについて知っていたという事実、当時はまだ、ペルセポネを知ることができたという事実は、時間の経過とともに、認識方法(秘儀参入法)がいかに変化したか、を示す。 この講義のはじめに述べたが、このような事柄の微妙な違い、に対する正しい感情と感覚を発達させることが可能なのは、かつて存在していた知性を、時代を遡りながら振り返るときだけである。 いま、このような例に言及したのは、古代の知の形態を蘇らせるためではなく、かつての時代に卓越的であった、上記のような知識に対する注意を喚起するためである。 もし、フィオーレのヨアキムやハンビルのジョンらによって語られるような、「今日、我々が、自然と考えているものは、精神的に理解できないが故に、我々の目から隠されているが、それはかつてプロセルピナとして知られていた。」という言葉を、正確に把握するなら、 またもし、このプロセルピナの神話(何故なら、唯一神話として生き残っているからだが)を、現代人の中で新たなものにするなら、この神話によって生じるイメージは、これまでの人間との関係に関するイメージを呼び起こすことになる。 それは、人間が女神「ナチュラ」の抽象的な側面(現代)も、悲劇的な側面(中世)も知らなかった時代のイメージ、すなわち、プロセルピナ-ペルセポネ自身を、輝く美と悲劇的な陰鬱において見ていた(太古の)時代のイメージなのである。 では、彼女は、遥か昔の、彼女の最盛期には、どのような側面において現れたのか? その最盛期とは、プラトン哲学の時代でも、ソクラテスの対話の時代でもなく、更に遥かに昔の、ギリシア文化の最盛期よりも、知識が遥かに活力のある時代だった。 既に現在の立場から議論し、この連続講義の中で更に詳細に議論する予定のテーマを正しい観点から眺められるように、人間進化のプロセスの中で、知識が纏ってきた様々な形態に向き合ってみる。 説明は簡素で不完全にならざるを得ないが、ギリシアの哲学者ヘラクレイトスが、「暗く、陰鬱な」(何故なら、彼が秘儀参入することで得ていた知識全ての上に、後になって、魂的な闇が降りてきたからだが)と自らで呼んだ秘儀参入の秘儀の本性に向き合ってみる。 ヘラクレイトス http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%98%E3%83%A9%E3%82%AF%E3%83%AC%E3%82%A4%E3%83%88%E3%82%B9 秘儀(参入)の発達の時代、すなわちギリシア人たちがイマジネーション的な視界(イメージ思考)を獲得し、神話を創造する為に、秘儀に依存していた時代を、そして、ヘラクレイトスが秘儀に参入していた頃のエフェソスの秘儀を眼前に思い描いてみる。 エフェソスには太古の時代からの知識がまだ残存していたが、その知識はホメロスの時代(紀元前800年代)にまで、そして、衰弱した形とはいえ、ヘラクレイトスが秘儀に参入した時代(紀元前500年辺り)にまでも生き残っていた。 ホメロス http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9B%E3%83%A1%E3%83%BC%E3%83%AD%E3%82%B9 エフェソス http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%95%E3%82%A7%E3%82%BD%E3%82%B9 エフェソスの太古の秘儀はまだ精力的に活動していた。その東側の、自然の豊かな恵みを象徴する女神「ディアナ」、すなわち豊穣の女神の彫像によって飾られていた神殿には、極めて力強い精神的な雰囲気が存在していた。 ディアナ http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%87%E3%82%A3%E3%82%A2%E3%83%8A_(%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%9E%E7%A5%9E%E8%A9%B1) アルテミス神殿 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%83%86%E3%83%9F%E3%82%B9%E7%A5%9E%E6%AE%BF 弟子が秘儀に参入し、エフェソスの神殿における儀式から力強い秘儀の衝動を受け取った直後に会話がもたれるとき、存在の重大な秘密、奥深い精神的な秘密が言葉によって弟子に授けられた。このような深遠な会話は、儀式の参加者が神殿を立ち去った後も続いた。 瞑想へと、自然が誘う黄昏時、参入者たちは、神殿の参道を通り、エフェソスの神殿から扇状に広がり、遥か遠方で次第に暗い緑の木々の中に消えていく道を、森へと歩いていただろう。幾分不十分だが、この種の会話がどのようなものかを、以下に示してみる。 当時の秘儀に、部分的にでも参入した人にとって、弟子が男女どちらであれ、会話を持つことは可能だった。その後、直ぐに奪われることになるとはいえ、当時の両性間における権利の平等は今日よりも、遥かに生きた現実であった、ということが認められる。 従って、エフェソスでは、男女の弟子について語ることができる。そして、参入者たちの会話の中には、神話のなかのペルセポネの精神的な側面に関する生き生きとした興味があった。
2010年08月06日
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さて、いま示そうとしているのは、詩的なファンタジーなどではなく、全くの事実であるが、今(1924年)でも素晴らしい聖堂が立っているシャルトルの学院において、アラヌス・アブ・インスリスが、当時、学生に向かい、自然について、次のように語るのをイメージできる。 「自然とは、近づこうとすれば、離れていく存在である。今、人々は、別の方向にエネルギーを向けるが、かつての聖人たちがもつ自然に関する先験的な理解には、もはや与れない。聖人の目には、自然とは、精神をもち、岩を形成し、植物を地球から生え出させ、宝石のような星を天に輝かせるような、あらゆる場所で働く壮大な存在だった。 あらゆる場所で無限に偉大な存在が働いていた。自然は、自らの素晴らしい形態を、いわば自然という織物を編む女性として現した。古代人たちは、このような出来事を先験的に経験した。 古代人の書き記したものから、熱、光、色、生命が顕現する全ての中で、織りなし働く自然が、いかに古代人の目に映ったか、を今でもイメージできる。 古代人は、女神『ナチュラ』が、直接的知覚を通して、唯一、その真の本質を知ることが可能な神的-精神的な存在である、ということに気づいていた。」 アラヌス・アブ・インスリスのような人物は、シャルトルの学院において、弟子たちに、上記のような概念をまだ提示できた。 とはいえ、秘儀参入者たちは、人間が、女神「ナチュラ」との結びつきを失ったため、もはや抽象的で、生命のない存在と見なされる自然を、生命と活力に溢れた存在として見ていた為に、古代の概念が徐々に薄れ、死に絶えるのを見なければならず、その顔には、悲しみと悲劇が書き込まれていた。 また、有名なダンテの師、ブルネット・ラティーニのような人物に関する話を挙げる。彼は旅の途上、ある不思議な運命的な事件によって、意識の変化をきたすような発熱に苦しんだ。この出来事は、彼の生まれ故郷から最後の教皇派が放逐されたときに、彼が被った苦しみに比べて遥かに大きく、彼の成長にとって重要なものだった。 彼は、この意識変化のお陰で、まだ、女神「ナチュラ」に関する知覚を持つことができ、彼の著書「知識宝庫」の中に、彼女に関する事実の記述を可能にした。 彼は、生まれ故郷フィレンツェに向かう旅の途上、寂しい森のまっただなか、ある丘に到達し、その丘の上で、女神「ナチュラ」が織機に向い、自然を織っている姿を見つけ、それをイメージ的な記述により表現した。 そのとき、彼女は、人間の魂にとって、思考、感情、意志がいかに重要であるかを、四つの気質と五官機能の本質的な性格から、彼に明かした。 それにより、彼の精神と魂の目が開かれた。抑圧された病理的状態の影響下に、スペインから故郷フィレンツェに向かう旅の途上で得た、この経験は1つの精神的な現実だった。 この内(精神)的な変容の結果として、彼は四大(火、地、水、空気)精霊の織りなす生命や、惑星の流れと動きや、肉体から出て宇宙の中に現れる魂を見た。彼は、これら全てを、女神「ナチュラ」自身による精神的な教えの影響下で経験した。 これらの経験は、当時の人々によって、今日よりも優れた明晰さと具体性をもって記述された。当時の知識人は同時に、古代人が、この知識を別の方法で経験していたこと、そして、時の経過とともに、それが徐々に失われた、ということを感じていた。 古代の秘儀に関する知識を復活させるには、病理的状態を生起させる必要があった。そして、当時の秘儀参入者は、女神「ナチュラ」の真のイメージを活力あるものに保ちたい、という抑えがたい衝動を感じていた。 人間の自然認識に対する態度全体を振り返ってみるとき、現代人の自然に対するアプローチが抽象的であり、自然が法則のカタログになっているのを感じる。これらの法則を、ある程度でも、全体的に関連づけ体系化されたものとして見ることができれば、現代人は、それを誇りに思うかもしれない。 しかし、つい2、3世紀前を振り返れば、自然現象(昇り、沈む太陽から、鉱物や植物に伝わる熱や、全ての生命が成長し繁殖する中に活発に働く熱)のなかに生き、織りなし、働く神的な存在と、人間との間には生きた関係があった、ということが分かる。 女神「ナチュラ」の活動を考慮する中世の科学とは、現代とは対照的に、異なったものだった。シャルトルの学院から講義を終えて出てくる学徒たち(大半はシトー修道会員だったが)の雰囲気は、今日、講義(教)室から出てくる学生たちの雰囲気とは大分違っていた! 当時の学徒たちの反応は、絶対的な活力があり、女神「ナチュラ」の内(精神)的存在の表現だった。そして、有名なダンテの師、ブルネット・ラティーニのような人たちが書き記した中には、学徒たちの反応と同じ、活力ある現実(女神ナチュラ)が映し出されていた。 その活力ある創造的時代の精神を容易に想像できるのは、特徴あるダンテの「神曲」によるが、その素晴らしく絵画的な記述は、運命(カルマ)的な出来事のお陰で秘儀に参入した師のブルネット・ラティーニによるイメージ的な記述からインスピレーションを、彼が受けたことによる。 神曲 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E6%9B%B2 そして、シャルトルの学院やその他の学院は、当時授けられていた教育の多くを、フィオーレのヨアキムやその他の秘儀参入者たちに負っていたのである。 当時、「ナチュラ(自然)」という言葉は、抽象的な意味で使われていなかった。「ナチュラ」は外的に、感覚知覚可能な現象の中で創造的に働いていたが、存在のヴェールをかけられ、人の目に触れないように示されていた。 また別の要素も考慮すべきである。これまでと同様にまた、詩的なファンタジーではなく、基本的に真実を記述することになるが、例えば、いま、古参の学生としてアラヌス・アブ・インスリスの講義に出席し、議論に参加しているものと想定する。 他の学生たちが去った後、アラヌス・アブ・インスリスと二人だけで、色々な問題について議論しながら歩くとする。 そのとき、会話がある特定の話題、つまり、現象世界の中に自らを現すとはいっても、一般人には隠されている女神「ナチュラ」に関する話題に及んだとする。 そのとき、議論に熱中していたアラヌス・アブ・インスリスは次のように語るだろう。 「もし、我々が、睡眠時に、かつての太古人たちがもっていた意識状態に今でも与っていたなら、自然の隠された側面との、我々の対話は継続されていただろう。いまでは、睡眠は、我々を忘却へと導くが、古代人たちは潜在意識において、自然の隠された側面と接触していた。もし、我々が、古代人たちの超感覚的な睡眠を再び経験できたなら、我々は女神『ナチュラ』を知るだろう。」 もし、同じような状況下で、フィオーレのヨアキムと親しく話をしていたなら、彼は次のように答えただろう。 「我々の睡眠は内容を欠いている。意識が消されているのだ! だから、全ての被造物の中に、織りなし、働く女神『ナチュラ』を知るのは困難である。古代人たちは、彼女の隠された側面と、目に見える側面に気づいていた。 古代人は『ナチュラ(自然)』という言葉を使わなかった。古代人は、我々が曖昧に感じることはできるが、その存在を知ることのない存在が女神「ナチュラ」だとは主張しなかった。古代人は彼女を別の名前のプロセルピナ、もしくはペルセポネと呼んだ。」 プロセルピナ http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%97%E3%83%AD%E3%82%BB%E3%83%AB%E3%83%94%E3%83%8A 当時、「自然(ナチュラ)」の女神のことはよく知られていた事実だった。上述した女神「ナチュラ」は、抽象的な「自然」の概念に変化した。 ベルナルドゥス・シルベストリやアラヌス・アブ・インスリス、ハンビルのジョン、そして、特にブルネット・ラティーニのような人たちの魂の中に生きていた「自然(ナチュラ)」は、古代人たちが「プロセルピナ」、すなわちデメテル(全宇宙)の娘として見ていた女神が変化したものだった。 ギリシャ・ローマ神話 http://www.psn.ne.jp/~bds/category/greece.htm ギリシア神話・伝説ノート http://web.kyoto-inet.or.jp/people/tiakio/antiGM/antiGM.html (上記の「ギリシア神話・伝説ノート」によれば、「ギリシア語のmeterは『母親』の意味である。Deはデルタdeltaつまり三角形で、ギリシアの聖なるアルファベットで、『女陰を表す文字』として知られる女性性器のしるしである。インドのヨーニ・ヤントラYoni-Yantra『女陰のヤントラ図形』と同じである。」という。 恐らく、デルタは、聖なる三角形を意味し、メテルは、母親なので、「聖なる三角形の創造者」という意味になる。そこで、「聖なる三角形」とは何かというなら、やはり「三位一体の創造神」を意味するものと思われる。デメテルは、三位一体の創造神ということになる。 また、三角形が、「女陰のヤントラ図形」を表すことから、ヤントラ図形とは、音響を視覚化したもので、阿吽「あうん」の呼吸では、「ん」を表し、踏ん張るときに発せられる言葉で、身体を中性に導くことがヨガからわかっている。 私には、三角形は、高次元のものが3次元に現れる象徴のようなイメージに思われる。余談だが、デルタといえば、数学の微分の記号を表すが、微分は、高次元の3次元化「物質化」を表す演算なのかもしれない。生命的なものが、物質化される感じがある。)
2010年08月05日
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主として物質的な観点をもつ現代の医学と人智学との間の今日の関係は、遠い過去での、この両者の関係とは同じであるはずがない。 いずれにしても、この両者の関係は続いていくに違いないが、今日では別の形態を取ることになる。精神的探求の真の方法と偽りの方法を区別できるかどうかは、これまで述べてきたような事実を知っているかどうか、にかかっている。 何世紀にもわたる知識に対する人間の態度全体を簡単に振り返ってみることは、既に議論してきた事実に対して、更なる光を投げかけるための援助となるだろう。 人類の進化を振り返ってみると、知識や探求に対する考え方が、古代とは非常に異なっているのが分かる。今日(1924年)の、熱力学、電子工学、そして生物という知識の分野で、近年になって成し遂げられた膨大な進歩は、自然、自然史、自然科学、そしてまた、英国では、自然哲学の名の下に分類されている。 今日の学校では、自然は、極めて抽象的な形で教えられている。自然は「自然法則」(という名)の総計と考えられ、子供たちに期待されているのは、それを覚えることである。そして、この勉強からくる抽象的な性質は生活の中にまで持ち込まれる。 今日、最も熱心な生徒にとってさえ、自然科学がどんなに冷たく、抽象的であるかを考えてみるとよい。例えば、植物学では、植物や植物の種に関する植物学的な1連の用語を、そして、動物学では、動物や動物の種の名前、或いは分類の記憶が強要される。 生徒たちは記憶してもすぐに忘れ、試験のために何度も何度も最初からやりなおす。そして、試験が終われば、しばしば完全に忘れてしまうために、再び必要になったときには、参考書等で調べる。今日の生徒が敬愛する人物に対する敬愛の関係を、植物学や動物学に対しても持っている、とはとても思えない。 自然は、今日、何か曖昧として不明瞭な重力や熱、電気や磁気の法則、いわゆる機械的な法則のカタログになってしまっている。自然科学が扱うのは、通常、主に鉱物や植物の研究だが、それに加え、未知の植物や動物、また人間の肉体の生命やその内的構成を含んでいる。 要するに、今日の自然科学や自然哲学は、人間が既に知っていると主張する多くの対象と、いまだ全く未知の多くの対象を含んでいる。 さて、今日の自然科学や哲学により、人間が自信を持てるようになるとは、ほとんど言い難いが、恐らく、それらの成り行きは、以下のように進行するだろう。 全てが非常に曖昧に、複雑に錯綜しながら、かつ、思考は非常に皮相的で抽象的になっていく。今日、抽象化された「自然」と呼ばれる存在を習得しようとして果敢にも努力しているが、同時に、多くの人が、このようなアプローチに多少とも無関心になっているのも確かである。 もし、自然科学として、学校で教えられる情報に対して、積極的に反抗する若者の世代に属さなければ、好意的な中立の立場を取ることになるが、いつの時代も、同じ訳ではない。ここで、数世紀前の知識に対する態度がどのようなものであったかを、簡単に特徴づける。 9、10、11世紀、そして、12世紀や13世紀に至るまでを振り返ってみるなら、数の上では稀少だったとはいえ、今日でいえば博識者と呼べるような人たち、例えば、ベルナルドゥス・シルヴェストリス、シャルトルのベルナールやアラヌス・アブ・インスリスのような、11、12世紀の代表的な学者と判別できる人たちが、有名なシャルトルの学院で教鞭をとっていたという事実に遭遇する。 シャルトル学派 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%83%AB%E3%83%88%E3%83%AB%E5%AD%A6%E6%B4%BE シャルトルのベルナール http://en.wikipedia.org/wiki/Bernard_of_Chartres 当時、これらの人たちはまだ、有名な中世の秘儀参入者のフィオーレのヨアキムや、当時世に知られた特筆すべき人物のハンビル(ラテン語でアルタビラ)のジョンのような秘儀参入者、いわゆる自然の背後の秘密の存在に対する奥深い洞察を有する人たちとの交流を持てるほど十分に恵まれていた。 ヨアキム主義 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A8%E3%82%A2%E3%82%AD%E3%83%A0%E4%B8%BB%E7%BE%A9 フィオーレのヨアキム http://www5e.biglobe.ne.jp/~occultyo/yoakim.htm http://100.yahoo.co.jp/detail/%E3%83%A8%E3%82%A2%E3%82%AD%E3%83%A0%EF%BC%88%E3%83%95%E3%82%A3%E3%82%AA%E3%83%BC%E3%83%AC%E3%81%AE%EF%BC%89/ 他にも大勢の人たちの名前を付け加えることができるが、これらの人たちの名前に触れたのは、その時代の精神を喚起し、当時支配的であった知識に対する態度を特徴づけるためである。 そのような人たちの精神的な観点に参入するなら、当時の自然に対する概念が、現代人とは完全に異なっていた、ということが分かる。 今日の典型的な植物学者、病理学者、もしくは歴史学者の場合、その態度は、解剖学的、もしくは病理学的な自然の神秘に対する深い関心からなるではなく、例えば、前の晩のダンスパーティーの記憶を反映したものになっている。 つまり、自然の神秘よりも、生活の楽しみについて、多くを習う! フィオーレのヨアキム、アラヌス・アブ・インスリス、もしくはベルナルドゥス・シルヴェストリスの目を覗き込む場合、今日とは全く異なった。彼らの表情には悲劇が書き込まれていた。 彼らは、取り返しのつかない喪失を被った時代に生きている、と実感していた。そして、益々この喪失に気づくことで、彼らの心は悲劇的な悲しみで満たされた。 また彼らの表情に書き込まれていた喪失感、つまり、古代の秘儀を探求したい、という熱望を、その場で目撃していた指、現代の退廃した世界から見れば「神経質」で敏感な指と見なされるような指を見たなら、過去に存在していた古代の叡智を生き返らせたいという憧れに気づかされるだろう。 彼らは、弟子のために、古代の場面を魔法のように現出できる瞬間があったが、それは幻想のような像に過ぎなかった。
2010年08月04日
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恐らく、次のような反論があるだろう。 著書「いかにして高次の世界を認識するか」には、前回述べた、銅に対する意識反応を発達させる為には、どのような準備段階を踏むべきか、に関する示唆がないではないか? 確かに、著書のなかでは、銅については、原則的に特別触れてはいないが、その方向性は与えている。現代人が、どのようにして結晶や植物等の精神的な存在の中に参入していくべきか、に関する記述があり、その予備的な訓練法を示している。 勿論、銅の本性に関して、どのように瞑想すべきか、の情報は与えていない。そのためには1冊の本、というより1つの図書館が必要になる。既に方向性を与えているので、例えば、自信を生起するための訓練や、何か特別な主題や対象に集中するときの訓練も必要なかった。 そのような訓練は、実際、銅の本性に関して述べる内容により既にカバーしている。銅の本性に関して瞑想すべきである、というような特別な記述はない。朝夕に瞑想する目的のために、単純な主題を選ぶべきである、というようなことを示唆した。 それは実質上、銅の本性に関する瞑想と同じなのである。単に瞑想の主題として、銅の金属としての性質を引き合いに出しているにすぎない。 例えば、もし「光の中に叡智が放射する」というような特別な主題に関する瞑想を、熱心に実行するなら、内(精神)的な生活に決定的な影響を及ぼすだろう。また銅の本性をあらゆる角度から探求し、その物質的な側面に意識集中しても、同等の効果が得られる。 人智学のアプローチは、第1に道徳的な立場から、第2に物質および科学的な立場からなされるが、科学者でない限り、道徳的な立場から精神世界に参入する方が遥かによい。 従って、事物は、その正しい関係性において見る必要がある。というのも、現代人が、精神世界への洞察を得る為に、無批判に、古代の方法に従うのは間違いだからである。外的で、物質的なアプローチを、より道徳的で、精神的なアプローチに置き換える、というのが現代での正しい道筋である。 肉体組織の発達と同時に自然に対する人間の関係全体も変化している。今日の人間の血液や体液の組成、また肉体的な構成全体が古代カルディア時代とは異なっている。このような事実を解剖学的な分析により証明できない。 その第1の理由として、解剖学者は死体解剖に、そのほとんどの時間を費やすことが挙げられ、最近(1924年)、学会は、警告を発し、「もっと沢山の死体を!」とも騒ぎ立てている。生命の隠された秘密を探求するには、死体が不足していると、解剖学者は考えている。 けれども、このような調査の遂行にあたって、古代カルディア人の死体を調達するのは容易ではない! その第2の理由としては、いま(1924年)の粗雑な技術をもってしては、生命の隠された秘密に対する答えを見つけることはできない、からである。それは精神的な方法によってのみ探求し得るものである。 現代人の肉体が古代人とは異なって構成されていることから、次の点を明確にしておく必要がある。今日でも、物質を高度に効能化させること、例えば、金属のポテンシャル(潜在力)を向上させる調製が可能だが、その理由は一体何処からくるのか? その理由は、人智学が有する現在の自然の在り方に対する深い洞察からくる。もし、人体の本性を真に理解しているなら、その機能を、既にこれまで述べた金属(錫、銅、鉛等々)によって変化させられる、という事実を知っている。第一に、金属が意識状態を変化させる、ということを示した。 しかしながら、今日、そのような変化が、いくらか世俗的な表現で、通常の生活でさえも、身体の中で生じる、ということに人々も気づいている。 例えば、第3講で指摘した銅の作用を放射する領域での変化を経験する場合を想定する。そのような変化全ては、消化器官の障害の中、つまり、新陳代謝系の中の、主として栄養分の代謝や消化に関係する器官の障害として投影される。 このような病気と呼べる人体組織における障害全ては、異なる意識状態の喚起にも結びついている。このような事実が示唆する全てを心にとどめるべきである。 さて、では、病気が生じる意味とは何なのか? 第3講で、現代人にとっての、通常の状態である覚醒意識の中心は心臓にある、と述べた。別の意識状態は、心臓以外の他の器官に関連しているが、それらの意識は絶えず潜在意識のなかにとどまっている。 喉頭から脳までの範囲を含む喉頭の(鉄)領域は、第3講で述べた通常の覚醒意識に連なる他の意識状態の中に常在している。上記の消化器官近傍の領域(銅)は死者と同じ時間軸を共有している。 人間は絶えず、この銅の意識状態にも与っており、生前、個人的に知っていた人の死後の経験を共有するが、それは心臓ではなく、心臓の「下」の消化器官近傍の領域で経験される。 従って、当人は、このような経験に関しては何も知らない。そのような経験は、無意識の中に、覚醒意識の敷居下(の潜在意識)にとどまっている。人間が死者と精神的な結びつきを持つ、この領域で、例えば消化不良のような障害が発生するとき、心臓より下の、この銅の意識が変化し、過度に活発に作用し始める。 では、胃の不調のような異常はどのように説明できるか? 物質的な観点から見れば、それは、臨床医の診断のための兆候に過ぎない。ところで、ここに提示する観点は、医学による純粋な物質的アプローチに反対するものではない。このアプローチの価値を充分認め、評価している。 正統的な医学を侮ったり、批判したりする道楽家や素人、もしくはいかさま師の態度は、人智学徒としては取らない。その発見を完全に受け入れる。 胃の不調を訴えるとき、医学的に、その兆候を診断することは可能だが、胃が不調な状態の結果として、死後間もない死者の生活に与ることが可能にもなっている。 勿論、治療開始前に、医学的診断がなされるが、精神的な立場から、胃が不調な人は、地上で知っていた魂たちと死後の精神的な結びつきを保持する必要性を感じている、と言うこともできる。しかし、当人は心臓の下に横たわる銅の意識に参入できないので、死者との交流に気づかない。 胃の不調の精神的側面とは上記のようなものである。死者に過度に強く引きつけられるために、胃の不調が生じる。そのような条件下では、当人は死者に支配される。第3講で示したように、物質世界に比べて遥かに現実的な死後の世界からの影響を人間は強く受けている。 例えば、眼の前に天秤があるものと想像する。一方が重くなり、針が振れても、もう一方の天秤皿に負荷をかけることで、ゼロ値の均衡を回復できる。 過度に強く死者に引きつけられ、それに全く気づかないほど、心臓下の銅の意識に対する異常な感受性を発達させた人に見られる非平衡状態は、上記の一方の側に負荷をかけられた天秤に似ている。つまり、その反対側に同等の負荷を加えることで、平衡を回復できる。 もし、心臓下の銅の意識があまりにも活発なら、代わりに(心臓を中心とした)他方の喉頭の鉄の領域における意識を減退させる必要がある。心臓は中央に位置し、心臓は調整者であり、天秤棒を振れるようにするクサビ型の支点である。 (平衡をとるのだから、鉄の意識を強化すべきと思うだろうが、胸部を中央とした上半身と下半身は、逆に作用するので、鉄の意識のある喉頭は上半身なので、胃がある下半身のとは反対に、減退させないといけない。) つまり、銅の服用により、平衡が回復できる。現代人の身体は、喉頭が銅に反応するような形で構成されている、ということを既に指摘した。 新陳代謝系と喉頭システムは天秤の両側のように密接に関連している。一方はもう一方により調整される。銅を、適切に処方し、服用するなら、患者は幾分、死者の領域から退くことで、健康を享受する方向に向かう。でなければ、益々、銅の領域に同化する。これが治療の精神的な側面である。 従って、人智学徒は、今日、全ての物質が物質的な側面と同時に精神的な側面をもっている、ということを知っている。古代の秘儀参入者たちは、弟子たちの為に、秘儀参入の際、(薬剤投与という)物質的な側面を利用できたが、それは弟子たちが広範な訓練を経た後でのことだったのである。 今日ではもはや、同じような方法で、銅の服用等を使用すべきではない。今日では、道徳的な属性における領域でのみ、魂の開発を行い、物質的な属性は医師の領域に委ねるべきである。 物質の物質的な側面に精通し、それに関する詳細な研究を行う機会をもつ者が、その情報を、物質の道徳的な側面に関する知識により補完するのは重要である。 現代の物質的認識や、精神的な方法を用いる分野での精神的な認識に関して、このようなことを厳守すべきである。人間の肉体は、時間の経過に伴って根本的に変化してきた。 物質の道徳的な側面に関する知識とその物質的な側面に関する知識との間にかつて存在していた密接な関係が、いまは失われてしまったが、それを再び回復しなければならない。ここで、この失われた関係についてもう少し述べていく。
2010年08月03日
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第4講秘儀における意識の変容による別世界への探求 人間の様々な意識レベルに関係する、鉱物界の形態、実質、金属性に関して述べてきたが、ある金属まで意識を拡大する前に、人智学の立場を完全に明確にしておく必要がある。 これまで述べたことから安易に想像されるのは、通常の覚醒意識とは異なる意識状態を引き起こす方法として、意識に関係する金属を、栄養摂取することを推奨していると思われることである。 精神的な訓練や鍛錬により、精神的な洞察を達成する方法に関して議論するときに、次のような発言をよく耳にする。 「別世界の事物や他の意識状態を知るのは大変結構だが、推奨されているような訓練の実行は、あまりに困難で、時間がかかりすぎる。」 恐らく、このような発言をする人は、訓練を始め、しばらくすると、生活上の直接的な要求が介入し、自身に染み込んだ習慣を犠牲にしたくないので、次第に情熱を失い、訓練を何時の間にかやめてしまうのだろう。 このような人が、何も達成できないのは当然である。精神的な訓練が、あまりにも無価値な退屈のものに思うのだろう。 例えば、ある金属の性質が、高次の意識レベルに関係している、というようなことを聞くと安心する。死者との精神的な絆を保つために、銅を若干摂取すればよいなら、その方が容易で、銅の摂取から高レベルの意識を発達させることを考えるのである。 当然のことながら、当時は秘儀参入者が同伴し、その指導下に行われたという違いがあるにせよ、古代の秘儀に採用されていた訓練も、大体同じようなものだったと聞くと、余計に、そのような考えが魅力的になる。 このような事実を聞くと、どうして、金属摂取による古代の訓練を復活させないのか、と不思議に思うわけである。けれども、古代人の肉体的組織全体が、現代とは異なって構成されていた、という事実を見落としている。 当時のいわゆる古代カルディア時代の人間は、現代のような知性(悟性)を欠いていた。今日のように自ずと考えが浮かぶのではなく、古代人は、インスピレーションを通して、考えがやってきた。 (シュタイナーは、現代人は、悟性による概念思考で、古代人は、霊性によるイメージ思考と呼んで、分類している。仏教の説く、分別知と英知の違いと同じである。 分別知は、基準となる概念を定義して、同じものと異なるものを区別する分類的で、抽象的なもので、英知は、概念による思考ではなく、全てが異なりながら、そっくりそのまま対象に同化でき、そのものになりきる包括的で、具体的なものである。知というよりも、情に近い。 つまり同化というか、同情や共感で、いわば演技力にも近いようにみえる。シュタイナーは、英知は、中国人と古代日本人の知性に近いもので、例えば、遠近法を使わずに、光と影を書かない絵の描き方にあるという。 幼児が描く絵は、イメージ思考によるものに近いのだろう。浮世絵や水墨画などは、遠近法がなく、光と影というよりも、琳派といわれる秩序と混沌を主題にしている。要するに物質空間の視覚ではなく、精神の心眼から描いているのである。) 例えば、現代人が、赤い薔薇を、自分で創造し、みているのではなく、赤い薔薇のイメージを外界から受容してみえているという事実に気づいているのと同様に、古代人は、外界の対象物を通して、思考が伝達されている事実、つまり、思考が人間に吹き込まれ(インスパイアされ)ている、という事実に気づいていた。 このことに関しては、古代人の肉体組織、特に血液の組成もが、現代とは異なって構成されていた、という事実の中に、その根拠を見つけることもできる。 そのため、古代の秘儀参入者が、精神的訓練の遂行を助けるために、以前述べた金属を高度に効能化した形で、今日、ホメオパシーと呼ぶ処方に従って服用することができた。 例えば、古代カルディア時代の人間が、高度に効能化された銅を処方された場合を想定する。服用前に(当時、よくやられたことだが)ある特別な精神的訓練を遂行するように指導された。高度に効能化された銅の摂取前、何日間というより、何年にもわたるトレーニングが要求されたのである。 古代人の肉体的な構成が、現代人とは異なっていた為に、その訓練を通して、血流に乗って循環する、高度に効能化された銅が細かく分散し、秘儀参入者の上半身に及ぼす効果を前もって辿ることを学んだ。 このような注意深い精神的な訓練の後、銅が投与されたとき、自身の言葉に熱が加わった、という内的な感情を持ったが、その理由は、秘儀参入者自身の喉頭と、喉頭から脳に続く神経の中に熱を生じさせていたからである。 さて、古代人は肉体的な構成が異なっていた為に、自身の中で生起しているプロセスに対して、非常な感受性を持って反応できた。もし、今日、現代人が、高度に効能化された銅を、古代人と同条件下で服用しても、勿論、効果はあるが、喉頭への作用以上のものは生じないだろう。 このように、当時の人間の肉体的な構成は、現代人のとは異なっていた、という事実の理解が重要である。そうすれば、古代では日常的に行われ、中世でもなお、よく行われた処方であっても、薬剤の服用により、別の意識状態を生じさせようなどとは思わなくなるだろう。 現時点での唯一有効な方法は、以前述べた銅の(霊的)本性を、いわゆる本質的な霊的存在を、内(精神)的に感じ取り、その感性により、銅の磨かれた色や硫酸銅溶液中の銅の挙動に対する敏感な反応を発達させることなのである。このような反応に意識集中し、瞑想することで、この銅の精神的反応が正しく行われている事実を確認できる。 (錬金術師というのは、金属の精神的本性に、意識集中できる者ともいえる。つまり、秘儀参入者のことでもある。古代では、現代人が普通にもつ覚醒意識、つまり金の意識をもたなかったので、金の意識に到達できる者は、高度な錬金術師でもあろう。 古代当時は、金の意識をもてるものは少数で、しかも秘儀参入により獲得したものだけが、金の意識を元にした悟性を発揮でき、悟性による知識を習得できた。悟性による知識といえば、概念を基にした思考が挙げられる。 概念を基にした思考とは、同類項を認識する知識で、形が異なっていても、同じものとみなすもので例えば、地面を流れる細い水と太い水を、同じ「川」と認識し、「川」という概念を確立し、そのような概念から展開する思考である。 古代人は、このような思考ではなく、例えば、地面を流れる細い水や太い水から、同じものという概念を確立せずに、そのままのイメージを認識し、記憶し、展開する、シュタイナー曰く「イメージ思考」を用いたようである。現代人でいうなら、さしずめスポーツ選手が行うイメージトレーニングに近いものといえる。 話は逸れるが、プロ野球のかつての長嶋選手のような感覚派と野村選手のような理論派の違いともいえる。つまり、イメージ思考では、概念がないので、説明できない。ただ、きた球をバッと打つとしか擬音で表現するしかないわけで、感覚派は、イメージ思考といえる。概念思考は、概念で伝えることができるので、理論派になるわけである。 イメージ思考と概念思考の違いからくる野球の打者の違いは、例えば、イメージ思考はストライクとかボール、或いはカウントとかに拘らず、自分が打てる球を打つ傾向にあり、概念思考は、逆に、ストライクとかボール、或いはカウント等を考えて打つ傾向にあることが考えられる。 法律や国家は、概念思考の産物なので、古代人には、なかった。シュタイナーにいわせると、中国人と古代日本人は、古い民族の末裔だという。日本は欧米化してしまい、概念思考が強いが、中国はいまだにイメージ思考が強いように思える。 イメージ思考とは、感情移入に近い。つまり、対象に感情移入し、思いやりを育てることなのである。日本人は、欧米化のために、この精神を忘れてしまったのは非常に残念である。 欧米が宗教が必要なのは、元々、この意識に乏しいからで、日本人が「無宗教」といわれるのは、相手がどう思うか、相手ならどうなのか、というような感情移入からくる思いやりを大切にしてきたからである。 日本は、「恥」の文化だと欧米人は評するが、恥ではなく、イメージ思考の文化だったからである「過去形」。)
2010年08月02日
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