全20件 (20件中 1-20件目)
1
人間が、真実を探求する問題に取り組むなら、人生を通して、つまり思考だけではなく、意志を通して、人間として直接関われる世界へ十分に参加しないといけない。 世界中の人間が、「外の物質世界は、見たり聞いたりできるが、人間は物質世界になることはできない、人間とは、物質になれない存在だ」と、自分に言い聞かせることができるのは、十全なる意識や明確な理解からでなく、ただ深い感情からである。 この深い感情は魂の奥底から来る。 「人間は、外の物質世界を、五感で感じるけれども、外の物質世界とは、人間がなることができない世界だ」という言葉が示唆する意味を熟考すべきである。 例えば、植物を観察すると、春に、最初に緑の芽が出て、夏には花が咲き、秋に向かって熟し、実を結ぶ。植物が生長し、衰え、枯れるのを、つまり、植物の一生が1年の間に繰り返されるのがわかる。また、多くの植物が、幹を構成するために、一定の物質を土壌から吸収するのがわかる。 例えば、昨日の夕方、道端に多くの非常に古い植物を見たが、その植物の一生は、1年に限られず、長い期間に拡張することで、茎の上に新しい成長点を産み出せるように、硬化する物質を多量に吸収したことがわかる。 このように、植物がいかに生長し、衰え、枯れるかを観察するのは人間である。 また、例えば、動物を観察すると、その儚さに気づく。その儚さは鉱物界も同じである。 例えば、雄大な山脈の中に、鉱物が堆積するのが観察できる。そして、身につけた科学的知識により、鉱物もまた、動物と同じように儚い存在であることに気づく。 (自然のなかに永遠はなく、全ては一時のもので、儚く、諸行無常である。) 従って、人間が最終的に拠り所とするのは、例えば、プトレマイオスやコペルニクスの体系や概念、あるいは古代の秘儀や、最近の秘儀から借用した何らかの概念である。 そして人間は次のように結論づける。 「驚異の星々全て、驚くべき複雑な軌道上から光を投げかける太陽や月全てが儚い存在である。」 その儚さとは別に、自然界はまた、他の属性ももっている。もし、人間が、自身を知る存在なら、儚い存在全て、つまり植物、鉱物、太陽、月、星々と人間とが同様に(儚いものとして)構成されている、とは仮定できない。 従って、人間は次のような結論に至る。 「人間は、周囲に観察する儚い存在とも異なる性質をもっている。人間は、自身の存在を理解しなければならない。何故なら、周囲に観察する儚い存在の中に、人間という存在を、見つけることができないからである。」 (古代人は、周囲を幻とし、自分、つまり人間は、周囲の幻とは異質のもので、何か永遠性を含む存在と考え、その永遠性を、自分、つまり人間のなかに求めた。だから、「汝自身を知れ」という格言が生まれた。) 古代人は、古代の秘儀の中で、自身の存在の真実を見つけたい、という衝動を感じる一方で、空間や時間の一時の現象は、大いなる幻想の表現であると感じていた。だからこそ、人間のなかの内なる存在の理解に到達しようと、感覚からくる知覚を超えて見出し得る存在に眼差しを向けた。 そして、古代人は秘儀の中で、精神世界を経験した。精神世界への正しい道をいかに見出すかが、この連続講義の主題でもある。 そこで、現象世界の探求に採用した過程と同じ過程を辿ろうとすることは、容易に想像できる。感覚的な知覚方法を単純に精神世界の探求へと容易に適応できる。 しかし、もし、一般的に、現象世界の探求が幻覚に満ちているとすれば、現象世界の探求方法を精神世界にも適用すれば、幻覚の可能性は減少するどころか増加するだろう。そして、実際、幻覚が増加する結果、その分余計に幻覚の犠牲になる。 また、もし、幻覚から生じる、不明瞭な期待や、漠然とした熱狂、或いは魂の暗い片隅から湧き上がる説明のつかない予感や精神に関する夢のような幻想を心に抱くなら、精神世界は、永遠に未知なものとなる。 それでは、憶測の世界にとどまり、信仰に与ることはあっても、本当の知識を持つことはない。もし、単純に、現象世界の探求方法を、精神世界の探究に採用することで満足するならば、精神性をよく知るのではなく、益々、精神がわからなくなる。このように人間は二重に彷徨う羽目になる。 結局、現象世界が幻想であることに気づいても、もし一般の精神主義者が、ときに行うように、精神世界に対して、現象世界に対する探求方法と同じ方法でアプローチすれば、益々大きな幻想に陥る。 また、現象世界に対する探求法とは別の他の方法でアプローチする場合、明白で明瞭な過程に沿ってではなく、勝手な思いこみや漠然とした熱狂によって精神世界を探求すれば、当然のことながら精神世界は閉じられたままの本となる。 不明瞭な憶測や感情的な熱狂に沿った方法を、どんなに熱心に追求しても、精神世界は益々わからなくなるだろう。第一に幻想が増幅され、第二に無知が増幅されるからである。このような2つの偽の方法に対して、正しい方法を見つけ出さなければならない。精神世界への探求の二つの偽りの方法1.物質世界と同様な探求方法を用いること2.勝手な思い込みや漠然とした熱狂による(主観的な)探求方法を用いること
2010年06月29日
コメント(0)
前回で、シュタイナーの宇宙言語の講義の紹介は終了した。 最後に、簡単に要約すると、宇宙言語とは、この世界をつくっている神の言葉、霊言で、霊言から、物質世界が生まれ、人間の魂は、肉体をもって物質世界で暮らすうちに、霊言を理解できずに、物質世界に染まってしまう、というようなものだった。 そして、人間無理解と人間憎悪からなる物質世界から、人間を解放するために、霊言の理解が必要で、特に、人間の魂の転生に加わらなかった人間無理解と人間憎悪から生まれる文明の腫瘍は2種あり、新興宗教等のスピリチュアルな嗜好文化と、根無し草等の寄生物の文明である、というもので、その治療には芸術教育(シュタイナー曰く「教育芸術」)が重要な役割を果たすという結語だった。 この講義の内容からわかることは、人間の霊魂(死後、魂は、心界に行き欲を捨てて浄化し、霊は神界に行く、転生は、この逆になる。)は、天使に助けられて、宇宙のなかの無知(人間無理解と人間憎悪で、「カルマ」とも呼ばれる。)を集め、肉体をつくり、転生し、人生のなかで、経験を積むことで、無知を解消していく、ということである。 要するに、人間は、宇宙の掃除屋さんなのかもしれない。 また、神々や天使の助けとともに、宇宙の無知という危険な場所に赴いて、無知という爆弾を抱え、処理しに物質世界に向かうという意味では、警備屋さん、もしくは、爆弾を病気、処理を治療に置き換えれば、お医者さんともいえる。 ともかくも、人間は、悪と闘う最前線部隊にいることだけは確かであろう。 では、続けて、物質世界から、霊言を理解する方法を述べたシュタイナーの講義を紹介したい。++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++ 第一講 自然とは大いなる幻想である。「汝自身を知れ」 超感覚的な世界の認識へと導く道に関する連続講義を求められているが、超感覚的認識と、今日の輝かしい成功へと導いた、何年にもわたる、忍耐強い勤勉な探求の果実である、この現象(物質)世界に対する認識とは、本来、相補的なものである。 なぜなら、この現象世界の真実を理解するには、自然科学や歴史科学による、近年になってつけ加えられた顕著な発見を含む人類の知的遺産を、精神世界から導かれた洞察により補強する必要があるからである。 人間が直面する外的な現象世界とは、全面的に精神であると同時に物質でもある。つまり、あらゆる物質現象の背後には、真の主人公である精神の作用(力)を見つけられるはずである。 (現象(物質)世界の背後に、それを生み出す超感覚的な世界があり、その超感覚的世界を洞察力により認識できた人のみが、現象世界に現れる真実を知ることができるという。 現象世界は、いわゆる神々の話す言語からなりたっている。人間はいわば、コンピューターのなかにいるコンピューター言語でできた人工生命と同じに喩えられる。映画「マトリックス」は、人間のこの状況をよく表現していた。) 精神は、空間のないところには存在できない。何故なら、精神は絶えず活動しながら、何らかの時と場所において、物質に活発に浸透するからである。 この連続講義では、人間が住む、この物質世界を、その物理的な環境に関する考察を通して、また、同時に、その背後にある精神の知覚を通して、その全体性をいかに知り得るか、という主題を論議する。そのような論議から、超感覚的認識を達成するための真の方法と偽りの方法について提示する。 実際の主題に触れる前に、超感覚的認識から何が期待できるのか、その目的とは何かについて、何らかの考えを持てるように、主題への導入部を手短に述べる。 第一に、そもそも何故、いま精神(存在)の探求をはじめなければならないのか? 何故、人間は思考し、感じ、実践する存在として、現象世界を、精神そのものとして受容できないのか? (人間は物質を通してしか、現象世界を受容できない。或いは、人間は、他の生物のように、現象世界、つまり自然に溶け込めない。) 一体何故、精神世界に関する認識を達成しようと努力するのか? という疑問を深く心に留めることに、この主題は関係している。 この関連から、古来の概念、つまり、人間が思考し、憧れをもち始めた太古の時代から受け継がれ、今日でもなお世界の根底を探求するときに見つけられる格言(箴言)に言及する。 太古の古く、また時代遅れの概念を基礎として用いるつもりはないが、世界の根底を探求する際に、格言が見つかる機会が生じたときには常に、その格言に対する注意を促したい。 何千年の時を超えて、東方から響いてくる言葉とは、「人類の感覚によって知覚する世界はマーヤ、大いなる幻想である」という格言である。 そして、人間がその進化の過程を通して常に感じてきたように、その格言通り、もし、世界がマーヤ(幻想)であるなら、人間が究極的な真実を見つけるためには、「大いなる幻想」を克服しなければならない、ということになる。 しかし、何故、(太古の)人間は、感覚からくる印象の世界を、マーヤ(幻想)として眺めてきたのだろうか? 何故、今日よりも精神(の存在)に近い太古の時代において、人間が、科学、宗教、芸術、そして実際の生活の育成のために、秘儀が捧げられ(催され)、つまり、純粋に外の物質世界という大いなる幻想に対置して、人間の認識や活動の源泉である真実への道を指し示すことを目的とする秘儀の拠点が生じたのか? 太古の聖なる秘儀の場所で、著名な聖人たちが、弟子を訓練し、幻想から真実へと導こうとした行為を、どのように説明すればよいのか? この疑問に答えるには、唯一、冷静で、客観的な角度から、人間を考察しなければならない。 また、過去から、現代にやって来る別の古い格言「汝自身を知れ!」がある。 先の「感覚世界はマーヤ(幻想)である。」という東方の格言と、「汝自身を知れ!」という古代ギリシアの格言が融合することではじめて、後の人類の間で、精神的な認識を目指す探求が開始された。 結局、太古の秘儀の場において、真実を目指す探求もまた、現象(物質)世界は幻想であり、人間は自己認識を達成しなければならない、という、この2つの格言、すなわち2重の概念に起源をもっていた。
2010年06月25日
コメント(2)

現代文明の寄生物を霊眼で観たり、もしくは現代文明をアストラル光のなかに見れば、1914年には強度の腫瘍形成が見られた。このような腫瘍形成をみた人にとっては、文明全体が寄生物に侵されていたようにみえた。ところが今や、寄生物に加え、また別の存在が登場してきた。 以前、下から上へと作用するノームたちやウンディーネたちの精霊の性質から、寄生衝動を持つ悪の可能性が、人間のなかにも有機的に生じてくる様子を、霊的-生理学的に描写したが、このとき、その反対像(上から下への悪)も生じることを述べた。 このとき、同時に、シルフたちと火(熱)の精霊存在たちを通じて、毒が上からもたらされる。 今日の文明のような寄生的な性質を持つ文明においては、このように、上から、すなわち霊的真実として流れ込むものは、それ自体は毒性をもたないが、人間のなかで毒に変化し、その結果人間は、「ゲーテアヌム」誌に記述したように(3)、不安の中で、霊的真実を拒絶するためのありとあらゆる理由を作り出す。3)「ゲーテアヌム」誌に記述したように:ルドルフ・シュタイナー『魂生活について IV. 魂の勇気と魂の不安における魂の本質』(当初週刊「ゲーテアヌム」誌に発表 1923年11月11日 第III期 11号)、全集版では『現代の文化の危機におけるゲーテアヌム思想 1921~1925年の論文集』GA36 360頁以下)参照。 この二つの事柄は互いに対となり、つまり、下の寄生文化は、元素霊(精霊)的な法則から跳躍して抜け出ることがないため、寄生物を自らのうちに含み、そして上から降下してくる毒や精神性(霊性、スピリチュアリティ)は文明のなかに侵入して人間に摂取され、毒となる。 (現代において、人間は、下からの物質文明の寄生物等の悪と、上からの精神文化の新興宗教等の悪に曝されている。シュタイナーは、前者の悪の総称をアーリマンと呼び、後者の悪の総称をルシファーと呼び区別している。) この事実をよく考察すれば、現代文明にとって究めて重大な徴候を示す真実が得られる。そして、この真実を洞察すると、自ずと、この悪に対する治療手段として登場すべき文化教育が生じてくる。 実際の診断、実際の病理学からラツィオ(原理)に基づく治療法が生まれるように、文化病の診断から治療法が生まれ、一方の診断が他方の治療を引き寄せる。 今日、人類が新たな文明から、いわゆる人間の心情と人間の心に寄り添う文明、つまり人間の心情と人間の心から直接生み出される文明から、再び何かが必要とされることは明白である。 今日、子供が小学校に入ったとき、現代文明という高度な文明に属する文字の形式、例えば、現在ABCとして学ばされる文字の形式に子供を馴染ませるなら、それは子供の心や子供の心情のなかの本性とは関わり合うことはないだろう。 現代文明の形式は、子供の心や心情とは全く関わらないもので、子供がABCを学ばなければならないとき、子供の頭や心情のなかで発達するものは、霊的-魂的に考えれば、人間の性質のなかの寄生生物とでもいえるものである。 (官僚主義が、寄生主義であることが、この講義からもわかる。官僚は、国民の税金に寄生し、予算を消耗することで頭が一杯で、国民の精神的生活や道徳などには無関心である。 社会福祉は重要だと説くが、その実、予算の消費しか頭にない。従って、国民の精神生活は堕落し、退廃し、社会福祉は差別化していき、財政は赤字になり、格差社会の到来となる。) このように、実際、近年(1923年)の教育時代全体にわたって、今日文明から発して寄生的に人間に迫ってくる多数の存在がある。従って、人類は、子供が学校に入るとき、子供の心情から創造を行う芸術教育を開発しなければならない。 芸術教育は、子供に、喜びや落胆等のありとあらゆる感情から生み出される色彩の創造を促し、子供のつくった「喜びから苦悩まで!」の色彩の、紙への表出を促すものである。 このとき子供が心情を繰り広げながら、紙に表出した色彩は、表現者である人間と結びつき、いかなる寄生の余地もないものとなる。 このような芸術を通しての教育は、指や鼻のように、人間から自ずと(器官等の一部として)創出するものであるが、他方、文字を通じて高度な文明の成果に導かれることから、人間が受容する教育は、寄生物へと至るだろう。 人間の心情や心に非常に近いものと芸術教育とが結びつく瞬間、スピリチュアルな文化をも、人間のなかで毒にならずに、人間にもたらされる。 第一に、現代の文明は癌に犯されている、という診断を経て、次いで治療、つまり、ヴァルドルフ学校教育に到達する! ヴァルドルフ学校教育は、別段、特別、特殊に構成されているわけではない。そこでは、医学的思考と全く同じ思考法から、文化に関して考察しているだけである。 従って、以前述べた事実、つまり、人間は本質的に下方からの栄養摂取から、治癒を経て、上方への精神的(霊的)発達へと進むこと、そして、教育は、精神(霊)へと移行された(翻訳された)医学と見なし得ることが、特殊なケースに適用されている。 しかし、文化の治療法を発見するなら、とりわけ厳粛さをもって、芸術教育を強調すべきである。なぜなら、この文化の(腫瘍)治療というのは、ヴァルドルフ学校の教育しかいま(1923年)は考えられないからである。 このような関連を見通すだけでなく、この関連において、このヴァルドルフ学校教育を実践的に強化拡張しようと試みるなら、それがどのような気風なのかを考察できるはずで、そして今(1923年)、文明の癌の共通の帰結として、中部ヨーロッパに生じている出来事を、自身で確実に理解でき、文明の癌が、実践的ヴァルドルフ学校教育を、不可能にしないまでも、恐らく非常に危うくする状況であることに気がつく。 芸術教育により文明の癌を治療する考えを、振り払ってはならない。いまだ可能な場所では、文明のガン治療を行うために、芸術教育に働きかけようという衝動にしなければならない。 実際、今日(1923年)、そのような衝動を何倍にも増すために、1913年のヘルシンキでの連続講演会(4)で、ある霊的な認識から、私(シュタイナー)はウッドロー・ウィルソン(5)の劣等性に関して述べた。4)1913年のヘルシンキでの連続講演会:ルドルフ・シュタイナー「バガヴァッド・ギータの秘教的基盤」(GA146 全9講 ヘルシンキ 1913年5月28日-6月5日)参照。5)ウッドロー・ウィルソン:Woodrow Wilson 1856ー1924 アメリカ合衆国大統領。シュタイナーは上述のヘルシンキでの講演会、1913年6月1日の講演で彼について述べている。 ウッドロー・ウィルソンについて、シュタイナーは「バガヴァッド・ギータの秘教的基盤」で、ウィルソンの論文("What is progress?")に言及しながら批判している。 ウィルソンによれば、ニュートンの時代には、重力に関する考えが社会の概念、国家概念にも影響を及ぼしていたが、天体力学の概念を人間の性格に適用するのは不十分で、現代は別の考え方をしなければならない…そしてウィルソンは、ニュートンの概念では不十分で、生体についてのダーウィニスムの法則を{社会に}適用しなければならない、と主張する。 シュタイナーは、ダーウィニスムのような純粋に物質的生体組織に由来する法則では不十分で、今日必要なのは、魂的、霊的(精神的)法則であるとし、ウィルソンの観点を、現代に多く見られる、人智学に敵対する「半端な(部分の)論理」(halbe Logik)の実例として批判する。シュタイナーによれば、人智学的世界観は、半端な論理ではなく、透徹した包括的思考で、全体に参入する論理を前提とする。進化も、ウィルソンのようなダーウィニスムの意味ではなく、霊的な意味で考えなければならない、と説く。 ("Die okkulten Grundlagen der Bhagavad Gita" P.87-89) 別の講義でも、さまざまな関連で、しばしばシュタイナーはウィルソニスムを批判している。 ウィルソンはそのとき多くの文化人たちにとって一種の世界の主なる神となっており、今日(1923年)ようやく人々は、気づきはじめ、彼の間違いに関して幾らかの明確な理解も出てきたが、そのときの状況は、当時(1913年)文明の癌に関して語られたことに全くあてはまる。 当時(1913年)文明の腫瘍に関しては全く上述したような状態で、今日(1923年)、我々の時代に適合することに関しても、全く同様の状態で、いわば眠っている状態といえる。 文明の腫瘍に対して、相応しいのは何と言っても治療的な覚醒であり、人智学は真の文化を目覚めさせる全ての衝動、人間の真の文化の覚醒のための衝動を含んでいる。 これがこの連続講義の最後に述べたかったことである。 (シュタイナーの説く進化論は、ダーウィンとは根本的に異なる。ダーウィンは、人類がサルから進化したと説いたが、シュタイナーは精神の進化を根本においているので、人間がサルから進化するはずがないと、説いている。 人間がサルから進化したのなら、サルよりも優れる知能や道徳性を与えた何者かがいるはずである。現に、サルに人間が知識を授けると、サルは知性を発揮するようになるが、自ら知性を発揮するようにはならない。人間のようなサルを上回る知性的存在の介入がないと、不自然である。 それにダーウィンの理論だと、サルの方が、人間より長く地球に存在しているのに、人間だけが、なぜ人間に進化できたのかが不明である。もし、ダーウィンの進化説を採用するなら、サルから人間にした知性的存在の介入を説明しないといけないだろう。 対照的に、シュタイナーの進化論は明快で、サルはサルの魂から進化し、人間は人間の魂から進化したという立場をとる。サルの魂は、サルという肉体に憑依してしまったために、人間のようには進化できなかったというわけである。 では、サルの魂と人間の魂の違いが問題になるが、サル、つまり一般的に動物は、集団魂で、人間は個人魂であるという。人智学では、動物には、自我がないが、人間には自我があるとする。 また、人間の自我は、7柱の神々、つまり太陽霊により与えられたという。このような人類の進化については、高度な霊能者なら、人智学では秘儀参入者なら、神界「精神界」にあるアカシャ年代記を読み解くことから、わかるという。 現代人には想像を絶するトンデモな話だが、たとえ、シュタイナーが現代でいう誇大妄想症だとするなら、その誇大妄想が何処からくるのか、の少なくとも心理学的研究にはなるだろう。 私は、現代の物質主義的万能機械社会に対する警告、アンチテーゼとして、神秘学を現代人にもわかるように解説する立場をとっている。 いずれにせよ、どんな立場をとろうとも、究極的に行き着く処は、普遍的真実であるのに変わりはないだろう。究極的真実に到達するまで、人類の歩みに安住の地はない。現状において人類が無知であることは確かなのだから。)
2010年06月24日
コメント(0)
さてしかし、何世紀も経過するうちに地球人類の現在の進化にとって、何か非常に奇妙なことが生じてきた。霊界では、人間無理解の力と人間憎悪の力全てが、新たな人間形成、新たな人間形姿のために使い果たされることはなく、その残余ができる。 この残余が、この数世紀の間に地球へと流れ込んできて、その結果、地球の霊的な大気圏、いわゆる地球のアストラル光とでも呼べるもののなかに、混入し、その総和のなかに、人間に対して外から現われてくる人間憎悪と人間侮蔑の衝動が見られる。 これらの衝動は、人間の形姿にはならなかったもので、地球の周囲のアストラル光のなかを巡り流れている。これらの衝動は人間の中へと作用するが、今のところ(20世紀初頭)、個々の人間には作用しない。 これらの衝動は、地上で、人間たちが互いに形成するなかに作用を及ぼす。 これらの衝動は、文明のなかに作用を及ぼす。これらの衝動が文明の内側に引き起こした現象を、1914年の春ウィーンにおいて(2)、私(シュタイナー)は、 「現代文明には、霊的な癌、霊的な腫瘍や潰瘍が混入している。」 と語らざるをえなかった。2)1914年の春ウィーンにおいて:ルドルフ・シュタイナー「人間の内的本質、死と新たな誕生との間の生」(GA153 全6講 ウィーン 1914年4月)参照。文明が霊的な潰瘍に冒されていることについてシュタイナーは第6講で語っている。 シュタイナー『人間の内的本質、死と新たな誕生との間の生』(GA153)の邦訳は『死後の生活』(高橋巌訳 イザラ書房)。 現代文明の霊的な癌:「今日(1914年)では、消費を顧慮しないままに、市場のための生産が続けられている。私(シュタイナー)が論文「霊学と社会問題」において述べた意味ではなく、生産された商品は全部、市場の仲介を通して倉庫に集められ、そして売買されるのを待っている。 この傾向は益々顕著になっていくだろう。そして(なぜ、今このようなことを言うのか、直ぐにわかっていただけると思うが)この傾向は自己を破滅させるまではやまないだろう。 社会生活の中にこのような生産方式が導入されると、それによって人類社会の秩序の中に、生体に癌が発生するときと全く同じことが生じる。全く同じ癌が、いわゆる文化の癌が人類社会に発生するのである。 今日(1914年)の社会生活を霊視するなら、癌への傾向を発見する。今、至る場所で社会的な腫瘍、潰瘍形成への恐ろしい素地が作られつつある。これは現実を直視する者にとっては、非常に憂慮すべき状況である。(中略) 自然という創造の場においてはなくてはならないものが、今述べたような形で社会の中へ入ってくるときには、それは癌を発生させる。」(第六講 205-206頁) 死と新たな誕生との間の現象を扱ったウィーンでの連続講演会において、文明の癌のようなことを語ったが、当時の人々が好んで耳を傾けることはなかった。けれども、それ以来、人々は、当時の発言が真実であったことを、幾分経験することになった。 当時(1914年)の人々は、文明を通じて流れ込んでくる腫瘍について、よく考えることなく生きていた。当時の人々は、文明の腫瘍、潰瘍形成が真に存在することがわからず、ただ腫瘍、潰瘍形成は1914年から突発した。 今日(1920年)、それは全く損なわれた(失われた)精神的(霊的)文明の実質として姿を現わしている。 文明のなかに生きているものを、統一ある精神的(霊的)形成物とみなすこともできる。現代文明にとって、明らかなのは、人間形成の際に使用されなかった人間憎悪と冷酷さの流れが入り込み、それらが現代文明の寄生物として生き抜いている、ということである。 現代文明は、何か根深く寄生物を持っている、それは、まるで寄生生物、細菌に冒された生体組織の一部のようでもある。人間の思考に蓄積されたものが、人間との生きた結びつきを持たないまま存在しているかのようである。 極めて日常的現象に、この寄生物がいかに現われているかを、少し考えてみる。 例えば、熱心に学ばなければいけない人が、既に学ぶべき内容が解答として与えられているので、自ら熱中して自主的に学ぶのではなく、ただ試験に通るために、或いは模範的な公務員を演じる云々のために椅子に座り、学ぶようなものである。 (魂の抜け殻のような外見だけの存在と化してしまうのだろう。アニメの銀河鉄道999ではないが、機械人間になることを意味する。) その人が、生活から受容するものと、その人の魂において本質的に、精神的(霊的)なものとして受容する渇望能力との間に、もはや基本的な繋がりが無いわけで、これはちょうど飢えを感じない人間が、絶えず食べ物を自分の中に詰め込んでいるのと同じである。 これでは、食物は、体内で、以前述べたような変化を遂げず、食物の本質において、人体の余計なお荷物となり、とどのつまり、体内で、他ならぬ細菌を呼び寄せる状態になってしまう。 現代文明において、人間から切り離されたままの状態の多くは、ヤドリギ(寄生植物)とでも呼べるもの(霊的に考えて)で、人間の心情のなかの根源的な衝動から生み出したものに寄生し生きている。 その多くは、この文明の寄生物として(いわば根無し草の如く)生きている。
2010年06月23日
コメント(0)
死の門に歩み入った後、人間の形姿が溶解していくのを追求できれば(物質的形姿が最初に溶解する)、確かに死後の人間の形姿は、生前の物質的形姿に似てはいるが、やがて、霊界への真夜中に近づくと、セラフィム、ケルビム、トローネの領域に到達し、その内(精神)的な性質や内(精神)的な本質を通じて、本質的には道徳的な形姿の顕現が出てくる。 次いで、以前述べた驚くべき変容(メタモルフォーゼ)が起こり、人間の形姿が溶解する。 しかし、人間形姿の溶解は本質的に重要ではない。一見すると形姿は溶解するように見えるが、実際は、高次世界の霊的存在たちが、人間と共同して働き、人間は自身、及び自身とカルマ的に結びついている人たちと共に(他の人間にも働きかける)、生前の形姿、つまり過去の地上生での形姿から、霊的に、次の受肉(転生)の形姿となる素因を作り上げる。 (物質的形姿、つまり外見は溶解するが、代わりに、次の転生への形姿がつくりあげられている。ただ物質的形姿しかみた記憶「経験」がないため、みえないだけのようである。) この霊の形姿は、第一に、次の物質生(転生)において胎児として人間に与えられる肉体の原基に結びつく。また一方で、天の霊界では、足や脚が、頭部の顎(あご)に変化し、腕や手が頭部の頬骨に変化し、前世の人間の下部全体が、後の転生の頭部形成のための霊的原基へと変化する。 (この講義から、人間の頭部が、前世の人生を表していることがわかる。恐らく、顔相占いは、太古の霊能者が、顔から前世を読み取ったのが形骸化したものだろう。) このような変容(メタモルフォーゼ)が起こる様子は、宇宙認識と同時に、人間が体験する最も驚愕な事実である。 はじめに、全宇宙の模像が創造され、それから、道徳全てが加えられ(勿論、以前述べた非道徳な冷酷さ全てが取り除かれた後だが)、これらが形姿へと分化していき、(霊的)存在が、生成へと変化していく。 更に、人間が霊の形姿として変化を続け、再び第二ヒエラルキアの領域、第三ヒエラルキアの領域に戻っていく。 この変化した霊の形姿に(霊の形姿は根本的に来世の頭部の原基に過ぎないので)、胸部器官となる原基や、四肢や腹部の代謝器官となる原基が加わらなければならない。 では、これらの器官が加わるための衝動は何処からくるのか? この衝動は、人間が、死の門をくぐり、転生への道へとむかう前半で、第二及び第三ヒエラルキアの存在たちが慈悲深くも、人間から拾い集めたものである。これらの存在たちは、人間の非道徳性から、この衝動を取り出すが、この衝動を再び下降させることで、人間のリズム(胸部)や代謝-四肢の原基を形成する。 死と新たな誕生との間の後半期に、人間は、物質的生体組織のための霊的成分となる素を受け取る。胎児のなかに、この霊の形姿が入り込み、物質力やエーテル力となる原基を運び入れるが、この物質力やエーテル力は、人間無理解や人間憎悪として過去生から携えてきたもので、四肢は、過去生から霊的に形成される。 従って、四肢は、霊的な過去生の人間無理解や人間憎悪の物質的な模像にすぎない。 このような霊的な見地から、物質界に必要とされる観点は、これまでとは本質的に全く異なる種類の感性を身につけなくてはならないことがわかる。 なぜなら、上記に示唆されたような形で、人間において、霊から物質になっていく存在を見究めることができなくてはならず、骨のなかには、非道徳な冷酷さが、物質的模像の状態で生きていて、血液のなかには非道徳な憎悪が物質的模像として生きている、ということに耐えなくてはならないからである。 いわば、このような事実を全く客観的に眺める術を改めて学ばなくてはならない。 とはいえ、このような事実を覗き込むとき、人間は、人間の内(精神)と外の自然との違いにようやく気づく。 以前、植物界で言及した事実、つまり分解された人間の良心が、植物界の花のなかに認められる事実を思い起こせば、外界にある存在は、いわば、人間の魂の像(鏡)であることがわかる。 従って、逆に、人間の内にもつ物質性のものは、外なる自然とは親近性を持たないような力である。 骨が骨となれるのは、骨が、(外界で)鉱物として現われている炭酸石灰や燐酸石灰を憎み、鉱物から後退し、自身のなかに収縮して、(人間のなかで)外の自然のなかの炭酸や燐酸石灰とは別の存在になることによる。 人間が物質的形姿を持つためには、人間の物質性のなかに憎悪と冷酷さがなくてはならないという見解まで跳躍できなければならない。 このような事実から、人間の言葉は、内(精神)的な意味とでも呼べるものを獲得する。人間の骨がある堅さをもつのは、骨としては良いことで、骨は、霊的な冷酷さの物質的模像として堅さをもつ。 もし、逆に、人間の魂がある種の堅さを持っていたら、社会生活にとって良いことにはならない。 人間の物質的本質(肉体)は人間の魂とは全く異なっていなければならない。 人間が人間である可能性、つまり人間の物質的本質は霊魂(精神的)とは異なる、という可能性は、上記の事実に負う。人間の物質的本質は、周囲の物質的自然とも異なり、上述した変化が不可欠なのは、この世で社会生活を送ることに依る。 かつて、「宇宙論、哲学、宗教を扱った講座」で(1)述べた事実に対して、人間とヒエラルキア存在との結びつきのために、上記の不可欠な補足を加えなければならない。1)「…講座」で:ルドルフ・シュタイナー「人智学における哲学、宇宙論、宗教」(GA215 全10講 ドルナハ 1922年9月6日-15日)参照。さらにルドルフ・シュタイナー『宇宙論、宗教、哲学』(GA25 ゲーテアヌムにおける「フランス講座」のための論文集1922年9月6日-15日)参照。 シュタイナー『宇宙論、宗教、哲学』(GA25)の邦訳は『霊界の境域』(西川隆範訳 水声社)に所収。 上記の講座と同様な出発点を、これまでの講義の内容から獲得した現段階に至ってはじめて、上記の補足を加えることができる。 この地上において、鉱物界、動物界、植物界の個々の存在とは何であるか、また、この地での物質的な自然の出来事と人間の営みが時と共に経過していくのを、霊眼で見通すのとちょうど同じように、人間は、時とともに経過していくヒエラルキア存在の営みを覗き見ることができる。 このように霊界での死と新たな誕生(再生)との間の生活を見つめると、人間が、この地上で誕生から死までの間に行なう人生を伝記的に記述できるのとちょうど同じように、霊界での生活を、事細かに記述できる。 そして、人間が死の門を通過していくときに、人間を通じて霊界に持ち込まれた人間無理解と人間憎悪に基づく全てが、再度人間に付与され、そこから、それを高貴なものに改良しながら、人間の形姿が創造されることは、本質的に、望まれるべきことである。 (宇宙の進化のためには、抵抗力も必要であるということなのだろう。シュタイナー曰く、宇宙の善は、真の善であるために、善に対抗する悪を生み出したという。真の善とは、悪や抵抗力をも克服できる善であるという。 有能な統率者が、周囲に反対勢力を確保し、諫言を歓迎するのに似ている。徳川家康は、周囲に反対者、つまりご意見番を配し、諫言を求めたという。)
2010年06月22日
コメント(0)
物質的な冷酷さは、雪や氷のなかにある。実際、雪や氷は、この上位にある非道徳の霊的(精神的)な冷酷さの物質的な模像にすぎない。自分の前に両者を置いてみると、比較できる。 前回述べたような高次のヒエラルキア存在のお陰で、死後、人間は、人間無理解と人間憎悪を取り去られた状態を保つが、その間、人間が徐々に形姿を失っていく様子、いわば形姿が次第に溶解していく様子を、霊眼で追求できる。 イマジネーションという霊眼では、人間が死の門を通って行くとき、本質的にまだ、この地上にいたときと同じように見える。なぜなら、この地上で人間が自らのうちに担っている構造は、いずれにせよ、粒子のような形状、つまり原子のような形状で、人間のなかにある実質だからだが、人間の形姿は、本質的には、霊的な存在である。 (この実像は、超弦理論で考えると、イメージしやすい。超弦とは、例えば弦楽器の喩えで説明するとわかりやすい。弦は、節をつくり、固定することで、振動し、音を出す。この振動し音を出す部分が、いわばエネルギーをもつので、物質をつくる粒子となる。 対して、節の固定部分は、静止しているので、エネルギーをもたないが、ポテンシャルとしては振動の可能性を秘めているので、いわば負のエネルギーとなり、ゼロという境目の境界条件を与え、空間をつくりだす。 つまり、この空間をつくり、境界条件をつくりだす節が、霊的部分といえる。超弦理論は、この原理を数理的に置き換えたもので、超弦理論のM理論には、D-ブレインという空間をつくる境界条件が出てくる。 節がなくなれば、静止点がなくなり、振動できず、音が出ないので、つまり、霊的部分がなくなれば、物質的部分も、消滅していくのである。) このような真実に関しては明白に理解すべきで、本質的な人間の形姿を、物質的にイメージするのは全くのナンセンスで、本当は、人間の形姿を、霊的にイメージしなければならない。霊的なイメージのなかに物質的な存在が、いわば小さな粒子として内部の至る場所にある。 空間による力の融合がなければ、バラバラに崩れて一塊になってしまう粒子を、形態に従って結合させ、力体として表出している。1人1人の髪の毛を掴んで、人間の力の融合体である形姿を取り除けるなら、物質体とエーテル体は、砂山のように崩れ落ちるだろう。 人間の体が、砂山のように崩れないのは、崩れないように、力を配分された融合体という形姿を持っているからで、この形姿は、何ら物質に由来するのではなく、霊に由来する。 実際、人間は霊として、この物質世界を動き回っている。人間が物質だけから成る、というのはナンセンスで、人間の形姿は純粋に霊的である。物質は、大凡の表現として、一山のパン屑に相当する。 しかし、この形姿を、人間は死の門を通過していくときもまだもち続ける。この形姿は仄かに光り、煌き、色々な色彩に輝く。次第に、その形姿は失われていき、最初は、頭部の形態を失い、次いで他の部分も徐々に溶解していく。 そして人間が完全に変容して宇宙の一種の模像のようになるのは、死と新たな誕生との間で、セラフィム(熾天使)、ケルビム(智天使)、トローネ(座天使)の領域に至る時である。 死と新たな誕生(転生)の間、人間を追求していくと、上記のように、人間の形姿を上から下へと徐々に失っていきながらも、人間が更に動き活動しているのが見られる。 しかし、いわば最後の足が失われると同時に、素晴らしい霊の形姿が形成され、それはまるで自らが全天球の模像のようで、同時に、次の転生で、自分の身体となるのを準備する未来の頭の原型となる霊の形姿である。 ここで人間は、下位のヒエラルキア存在のみならず、セラフィム(熾天使)、ケルビム(智天使)、トローネ(座天使)といった最高位のヒエラルキア存在たちが関与する活動に織り込まれる。 このとき何が起こるのか? このとき起こるのは、実際、人間にとってイメージできる最も驚愕すべきことである。なぜなら、このとき、人間の下部(手足)として残った生前の人生の経験が、次の転生の身体の頭部に変容するからである。 (死後、人間は頭部から、消えていき、最後に手足が残るが、その手足を元に、次の転生の頭部が、最高位のヒエラルキア存在、つまり神々によりつくりだされるという。) 人間が地上を動き回るとき、表象(イメージ)や思考を担う器官は、貧しい頭部である。しかし、思考は同時に胸部の同伴者でもあり、また特に、思考は四肢の同伴者でもある。 従って、頭部だけで思考するのではなく、例えば、四肢で思考し始める瞬間、カルマの真相全てが、開かれる。人間が、カルマについて無知なのは、この本来、表面的(皮相的)な器官、つまり脳だけで思考するからである。 例えばもし、指で思考し始めるなら(頭部の神経の思考よりも遥かに明快に、手足の指で思考できる)、もしくは、非物質(霊)を用いたり、または四肢等で思考し始めた途端、その思考はカルマの思考となる。 (現世の人生経験は人間の下部の四肢として、死後残り、来世には、それらが頭と変容するので、つまり、四肢を用いた思考は、来世には、頭をつくりあげるので、前世の経験を引き継いだ思考となり、前世の経験はカルマをつくるので、カルマの思考となるのだろう。) 手を使って、モノを掴むだけでなく、手で思考するとき、人間は手の思考と同時に、自らのカルマを追求していく。そして、特に、足で歩くだけでなく、足で思考するとき、特別、明瞭にカルマを追求できる。 人間が地上で、これほど偏狭なのは、人間がその思考全てを頭部の領域に閉じ込めているからである。しかし、人間は、人間全体の器官をも用いて思考できる。 もし、人間がもつ器官全体を用いて思考するとき、中間部(胸部)において、素晴らしい宇宙の叡智を獲得できる。そしてまた、下部、つまり四肢全般においては、カルマを獲得できる。 例えば、この地上を歩いている人間を観察し、無関心に陥らずに、その歩行の美しさ、もしくは歩行の特徴を追求するなら、また例えば、手を動かし、手の動作を解釈して、どの指の動きにも人間の内にある精神を極めて素晴らしく証左する事実(精神を忠実に表現する動作)を見つけるなら、実際、多くを成し遂げていることに気づく。 (頭以外の器官も思考しているが、同時に実行もしている。頭だけが、思考しか行わない。頭だけが、思考をしているというのは錯覚で、そのまま実行しないで、他の器官に命令するので、思考として意識に上り、頭だけしか考えていないという錯覚に陥る。 例えば、スポーツ選手はなぜ練習するのか? と問うなら、思考し同時に実行するプロセスを、ゲームに瞬時に適合するためであることがわかる。 オリンピックがギリシア哲学からはじまったのは、思考が頭だけに限定されないことをギリシアの哲学者たちが知っていたからである。古代インドでは、ヨーガという形で、古くから、頭以外の思考法が探求された。) とはいっても、人間の運動、つまり、歩行し、掴み、指を動かす動作に、霊的存在が関与するという事実は、ほんの小さな顕現に過ぎない。何しろ、全器官を使って思考するとき、道徳的な人間全体が運動し、同時に、当人の運命も共に運動し、更にまた当人の霊全てが共に運動するからである。 (日本語では、「全身全霊に誓って」という表現があるが、この表現の真の意味が、この講義から理解できる。つまり、全身と全霊の全てを使って思考し、行動するという意味である。 宇宙の道徳に従ってという意味にも要約できる。現代人は、安易に、このような表現を形式的に使っているが、とんでもない深い意味が隠されている。 英語教育もいいが、利益に走る語学教育よりも、その前に、道徳を重んじる国語教育を行う必要があるだろう。私見だが、昨今の軽薄な風潮は、英語教育にあるように思われてしかたない。 勿論、外国語をしゃべれるのはよいことだが、逆に母国語を軽んじるのでは、意味がない。 昨今の英語の表現でも、「クール」という本来「冷たい」という意味の単語が、俗語で「かっこいい」という意味に使われるのは、時代の流れとはいえ、非道徳的冷酷さを意味しているようで疑問に思う。 いつの間にか、日本語にも浸透しているところが危ないように思える。言葉には意味があり、そのなかに隠された精神があるのだから、理由もなく外見的、形式的に使うのは、確かに、表現の自由も必要だが、社会道徳を乱す由縁となるだろう。 使うなというのではなく、意味をわかって使って欲しいのである。ちなみに、「クール」を調べると、アフリカ系アメリカ人のブルワーカ層で始まった俗語らしい。だから、その社会の背景や感覚を理解するために使うのならよいと思う。)
2010年06月21日
コメント(0)
いわゆる死者たちが歩み入っていく超感覚的世界のなかに、今日(1923年)絶えず見られるのは、人間無理解と人間憎悪が、直接的に作用すれば、人間の進歩が阻まれるような動向ばかりである。 このような動向は一体何に由来するのか? この由来を知ろうとするなら、今日の生活をよく観察すればよい。人間たちは、互いにすれ違っても、他人の特性などを知ろうすることはほとんどない。 そもそも、今日の人間たちは、多くの場合、誰もが自分が正しく良く見られよう、というような有様なのではないだろうか? (シュタイナーは1923年に、この講義を行っているが、すでに自分が良くみられたいという社会の到来がいまから80年前にあったとは驚愕でもある。つまり、人間の精神は、少なくとも80年前とほとんど変わらない、もしくは、この傾向が深まっている現代では、逆に退化していることがわかる。) そして、他人が少しでも異なった様子をしていると、愛情深く、その人のなかに入り込んでいく(興味や関心をよせる)のではなく、この人は間違っていると判断するだけで、その際、結局、その判断の背後にあるのは、「この人は、私のようになるべき」と呟くことである。 (特に、日本の社会は、このような閉鎖的な社会である。他人と違うことを恐れ、自分と異なる意見を排除したりする。日本人というワクにはめたがる傾向にもある。 その背後には、人間無関心や人間憎悪が存在するともいえる。昨今のクレーマーの精神的背景には、この人間無関心や人間憎悪が存在しているのではないだろうか?) このような背後の非道徳な冷酷さが常に意識されているとは限らないが、これは社交上の交流、人間の社会的なつき合いのなかに潜んでいる。 今日明るみに出ている人間の言葉の表明(マスコミ)とでも呼べるなかには、他の人間の理解につながるものは、ほとんどない。 人間が必要な事柄を、自分がいかに考えているか、世界に向かって大声で騒々しく主張するが、その際、その背後にあるのは、大抵の場合、全ての人間は、自分のようになるべきである、ということに他ならない。 (要するに、新興宗教の教祖の勧誘に酷似している。例えば、広告等は、商品を買いなさいという勧誘である。) その際、周囲とは全く別な様子の人間がやってくると、直ちに、たとえ完全に意識しなくても、その人間は敵であり、反感を覚えさせる人間となる。 このような場所には、人間理解や道徳に対する熱情が欠け、愛が欠如している。道徳や愛が欠けているのと同じだけ、非道徳な冷酷さや人間憎悪が、その場所で死を迎えた人間とともに死の門を通過していき、人間を引き留める。 (自縛霊を大量に産出している。宗教が流行るのは、自縛霊が大量に産出するからかもしれない。私は、宗教なんかないほうがよいと思っている。宗教が必要のない社会が、理想だからである。 宗教があるというのは、同時に改めるべき悪があることを保証しているからである。また、宗教があっても、悪がなくならないのは、宗教が嘘である証拠でもある。 宗教を利用して、自分の地位を高めている人間がいるからでしょう。人類を指導するような預言者は、ホームレスか、最下層の社会生活を自ら進んで送らないと嘘になる。 救うのなら、底辺から救わないと嘘になる。どんなに偉いことを言おうとも、自分の手を汚そうとしない人間は信用できないわけです。 現にキリストや仏陀はホームレスですし、仏教では本来の出世とは出家のことで最下層に落ちるという意味らしいです。ホームレスでなければ少なくとも他人に食わせて戴いているわけで、偉そうなことをいえる身分ではないでしょう。) しかし、死後、人間が最初に出会うのは、第三ヒエラルキアの存在たちで、つまりアンゲロイ(天使)、アルヒアンゲロイ(大天使)、アルヒャイ(権天使)である。 なぜなら人間が進化することは、人間自身の目標だけでなく、全宇宙秩序の、叡智に満ちた宇宙秩序の目標でもあるからである。 人間が死の門を通過して死と新たな誕生(転生)との間にある世界へと入った後の最初期、第三ヒエラルキア存在は、人間たちに近づき、人間無理解から来る冷酷さを慈悲深く人間から取り去る。 そして、人間が死の門を通過して前回描写した形で霊界に持ち込んだ非道徳性を、いかに、この第三ヒエラルキアの存在たちが負担してくれるかがわかる。 人間憎悪の残余を、人間は更に長い間運んでいかなければならず、この残余が人間から完全に取り去られるのは第二ヒエラルキアの存在、つまりエクスシアイ(能天使)、キュリオテテス(主天使)、デュナメイス(力天使)の恩寵による。そのとき第二ヒエラルキア存在は、人間憎悪による残余全てを人間から取り去ってくれる。 (非道徳な冷酷さ、つまりエゴイズムを糧として生きてきた人には、それらが取り去られることは、奪われることだと錯覚するので、地獄のような苦しみを味わうことになるようである。) 次いで、そのうちに人間は、死と新たな誕生との間の領域で、私(シュタイナー)が神秘劇において、霊的な生存期間の真夜中と呼んだ(2)、セラフィム(熾天使)、ケルビム(智天使)、トローネ(座天使)という第一ヒエラルキア存在たちが滞在する領域に、ほぼ到達する。(2) 私が神秘劇において霊的な生存期間の真夜中と呼んだ:ルドルフ・シュタイナー『四つの神秘劇』(GA14)所収の『魂の目覚め』第四景及び第五景参照。 人間が前もって第三ヒエラルキアや第二ヒエラルキアの存在たちによって、人間無理解、すなわち非道徳な冷酷さと人間憎悪を、慈悲深くも取り除かれた状態にされていなかったら、人間が内から完全に破壊されることなしに、つまり消滅することなしに、このセラフィム(熾天使)、ケルビム(智天使)、トローネ(座天使)の領域を通過できない。 このようなことからわかることは、人間が、宇宙全体の進化に貢献できる衝動に結びつきを見つけるために、物質やエーテルを元々あるべき場所から、霊界に(非道徳性として)持ち込んでしまうので、高次ヒエラルキア存在たちに負担してもらわざるを得ない、ということである。 とはいえ、このような事実全てを見通し、このような非道徳の冷酷さが霊界で意のままに活動する様子を見るとき、この霊的(精神的)な冷酷さと、その下位にある物質的な冷酷さとの親和性を判定する術も獲得できる。
2010年06月21日
コメント(0)
人間は実際、魂のなかに、人間愛と熱情、つまり他の人間を理解しようとする道徳熱への萌芽を有している。ところが、生体組織の固体の構成部には、非道徳な冷酷さ(卑劣さ)を持っている。 この冷酷さ(卑劣さ)が、いわば、霊界から、人間の物質的な生体構成をひきつけて固める(造形)力となる。そして、人間のなかには、つまり自らのなかには、憎悪への衝動を担っている。これは、霊界から血液の循環を引き起こす力である。 (非道徳な冷酷さ、卑劣さが、所有欲となり、物質的な肉体を形作るのかもしれない。また嫉妬や憎悪などが、血の循環を高める力となるかもしれない。) そして、人類は、もしかすると非常に愛に満ちた魂や人間理解を切望する魂をもって世界を進んでいくかもしれないが、他方で、魂は、潜在意識の底で、人間がもともと肉体を担えるように、身体のなかに流れ込み、衝動を与える冷酷さ(卑劣さ)が潜んでいるのである。 (肉体を担えるように人間の魂の根底に流れる力が、ルシファーの悪魔の衝動といわれる。聖書では、蛇に唆され知恵の実を食べたと記述されている。この悪魔の作用は、エゴイズムとして現れる。) いま始終、冷酷さに関して語っているが、これは非道徳(精神的)な冷酷さのことで、ただし、これは熱エーテルという迂回路を経て物質的な冷酷さに移行できる。 人間の底深い潜在意識には、非道徳な冷酷さと憎悪が潜み、人間の魂のなかに、肉体の冷酷さと憎悪を持ち込むのは容易で、その結果、人間の魂がいわば人間無理解を感染させられたようになる。 人間無理解は、非道徳な冷酷さや人間憎悪の帰結である。このような訳で、人間は道徳に対する熱情、すなわち人間理解や愛を、元からまず自分のなかに育成しなければならない。人間理解や愛を育成することで、(肉)体からくる人間無理解や非道徳な冷酷さを克服しなければならない。 さて、以下の事実は否定できないことだが(霊眼には極めて明確に示される)、15世紀とともに始まり、一方においては主知主義的、他方においては唯物論的になった現代の文明に結びつき、その文明を存続させているのは、魂の根底のなかの多くの人間無理解と人間憎悪である、ということである。 人間無理解と人間憎悪は想像を絶するほど多い。なぜなら、無意識のなかに、人間無理解と人間憎悪がどれほど存在しているか、本質的に、人間は死の門を通過して、はじめて気づくからである。 死後、人間は、霊-魂を、物質的身体-肉体から引き離す。人間は物質的身体-肉体を脱ぎ捨てる。冷酷さの衝動、憎悪の衝動は、このとき、単なる自然力、いわゆる自然の法則であることが判明し、実際、単なる自然力なのである。 例えば、死体をよく見てみる。また霊眼で、エーテルの死体をも、よく見てみる。このとき、両者は、もはや植物や石(鉱物)のように、道徳的な判断を生じさせない。道徳的な判断を生じさせる中に入り込んでいた存在は、自然力(自然法則)へと変化したわけである。 (他の生よりも、自分の生を優先させる非道徳さは、つまり肉体は、霊魂が離れることで、自然力へと変わり、崩壊する。つまり、秩序という道徳律を失えば、崩壊せざるを得ない。) しかし、人間は、生きている間、道徳的な判断を生じさせる非道徳な冷酷さの多くを吸い込んだ。人間は、この非道徳な冷酷さを死の門を通って携えていく。 このように自我とアストラル体は後退し、物質体とエーテル体のなかに繰り返し、深く沈み込んでしまったために、生きている間には気づかないまま残ったものを引き出して、携えていく。 (自我とアストラル体が、物質体やエーテル体のなかに、人間無理解や憎悪のために、深く沈み込むことは、アマテラスの岩戸隠れの日本神話にも描かれている。 また、人間は、性善説か、性悪説か、という議論がよくなされるが、人智学によると、魂は神から戴いたもので、性善で、肉体は、祖先から、生きるために、他を蔑ろにしたカルマを含んだ経験として戴いたもので、性悪であることがわかる。 つまり、人間は、性善と性悪の狭間に成立する存在で、善を希求しながら、悪に染まり、悪を克服していく宿命を課せられた人生を送る運命にあるといえる。 東洋哲学風にいうならば、善と悪の狭間で生きる生命を与えられるのが宿命、肉体から非道徳の冷酷さを受け継ぎ悪に染まる性悪が運命、悪を背負い悪を性善により克服するのが立命ともいえる。) この自我とアストラル体は、魂のなかに蔓延っていた人間に対する人間憎悪と冷酷さの衝動全てを、霊界へと携えていく。 従って、以上述べたことから次のような結論に至る。 「人間の近代の文明において、更に、これからも述べる様々な事柄を通じて、人間のなかに、いかに多くの人間無理解と人間憎悪が植え付けられるか、人間が死の門を通過していくときに、はじめて気づく。」 なぜなら、今日の人間は、この両衝動のうち非常に多く、途方もなく多くを死の門を通過して運んでいくからである。 死後、人間が共に携えていく多くは、本来は、物質のなかにあるべきもので、本来は、物質(肉)体やエーテル体を完成すべき霊的な残余である。 人間は、もともと物質世界に属する残余を、人間無理解と人間憎悪のなかに含み、霊界へと持ち込み、しかも、霊的な形で持ち込むのである。 (人智学が身近でない人には、肉体とエーテル体の区別が曖昧な人がいるだろうが、唯物的にいえば、肉体は、物質で、エーテル体は、相互作用、つまり力といえる。 素粒子物理学では、物質はフェルミオンという粒子からなり、相互作用はボソンという粒子からなると実証されている。 ちなみに、フェルミオンとボソンを入れ替える対称性理論が、超対称性で、例えば電子は、エレクトリーノになるが、理論では可能だが、実証は恐らく不可能に思われる。) 更に人間無理解と人間憎悪を、死と新たな誕生(転生)との間の時期を通じて、ずっと携えていることは、人間にとって、決して良いことではない。 なぜなら、死後、更に人間が、人間無理解と人間憎悪を持ち運ぶ必要があるなら、人間は全く前進(進化)できず、死と新たな誕生(転生)との間に、進化する際に、前へ進む度に躓いてしまうからである。 (人間無理解と人間憎悪にいつまでも染まっている魂は、霊的には、自縛霊になるようである。)
2010年06月18日
コメント(0)
さて、前回の内容から、いま意味深い問いを投げかけることができる。確かに、以下に述べるような問いはいつも投げかけられるわけではないが、誰もが口先まで出かかっているような問いである。 それは「人間愛と人間理解が人間の共生の本質的な衝動なら、その反対の人間無理解と人間憎悪が、一体どうして、人間の社会秩序の内部に生じるのか?」という問いである。 この問いは、秘儀参入者たちの、人間に関するなかでも最大の関心事である。秘儀参入学は、原初(太古)の時代に、この問いを最重要のものとみなしていた。しかし、この秘儀参入学は、太古にはまだ、この問いの解明の背後に到達できる手段をもっていた。 今日通用している科学から、人間を観察するなら(神に創造された魂には、本質的に人間理解と人間愛の素質があるわけだから)、実際次のような問いが投げかけられる。 「人間理解と人間愛が自明だとするなら、社会秩序の内部で働かないのは一体なぜなのか? もしくはまた、人間無理解と人間憎悪は一体何処からやってくるのか?」 そしてまた、人間無理解や人間憎悪を、精神的(霊的)な存在や魂のなかに捜すことができないなら、人間は、自ずと、物質的-身体(肉体)のなかに捜さなくてはならない。 とはいっても、今日通用している科学でも、人間の物質的-身体の、血液、神経、筋肉、骨とは何であるのかを答えているが、骨をどんなに長く眺めることができても、今日の自然科学の目だけで見るなら、「骨が人間を憎悪へと誘惑する正体である」、と言うことはできない。 もしくは、今日探求されているような知見に従って、どんなに血液を調べても、今日の自然科学の手法では、血液が人間を人間無理解へと誘惑する正体である事実を確認できない。 秘儀参入学が原初的(太古の)状態だった時代では、勿論、現代の認識とは全く異なっていた。その頃、人間の物質的-身体を眺めると、遺伝的生まれつきな霊視によって精神(霊的)の対応像がそこに得られた。 今日、人間が精神について語るとき、せいぜい抽象的思考に関する知見を語るだけだが、いまでは、そのような知見が人間にとっての精神(霊)となっている。 そして、人間にとって、このような抽象的思考が進行して、あまりに浅薄になると、言葉だけが残され、フリッツ・マウトナー(1)のように『言語批判』を書くようなことになる。(1) フリッツ・マウトナー:Fritz Mauthner 1849ー1923 作家、哲学者。『言語批判論集』全3巻(シュトゥットガルト、1901)参照。 このような言語批判を通じて、そうでなくても充分浅薄になってしまった精神(霊)を、単なる抽象的思考へと完全に蒸発させてしまう可能性も出てくる。 これとは対照的に、遺伝的生まれつきな霊視に浸透された秘儀参入学は精神(霊)を抽象的思考のなかには見なかった。 秘儀参入学は精神(霊)を形態のなかに見た。形態の具体的イメージ自身が語り、また音を発する存在のなかに精神(霊)を見た。 秘儀参入学は精神(霊)を、生きた活動のなかに見た。精神(霊)を、生きた活動のなかに見ることで、物質、つまり骨や血液もまた、精神性(霊性)において見ることができた。 この秘儀参入学においては、今日の骨格という考えや表象(イメージ)は存在しなかった。今日のような骨格は、解剖学者、もしくは生理学者、或いは、設計等を行う建築技師により、構築物のように見なされている。 しかし、骨格は現代人が考えるようなものではない。骨格というのは、いままで説明してきたように、鉱物が熱エーテルにまで消化(気化)され、熱エーテルのなかに霊的ヒエラルキア存在の力が介入し、それから骨の形態(フォルム)が映し出される(刻印される)ことにより形成されたものである。 (喩えるならば、印鑑のようなものであろう。天使の印鑑が、人間の肉体をつくる。) 骨格を正しくみれる秘儀参入者に対して、骨格は霊的な起源を密かに明かす。そして実際のところ、骨格を今日の形態(フォルム)、つまり今日の科学が観察する形において、骨格を観る科学者は、「ここに、印刷されたページがある、文字のような図形が印刷されている」、という発言に似ている。 その科学者は、文字の形を書くが、もはや文字を読めないので読まない。文字の形象のなかに表現されている意味を、その根底にあるものと関係づけることなく、文字の形を書くだけにとどまる。 (例えば、現代のCDやDVDディスクを、記録が読めないので、皿や鏡として代わりに使うのと同じである。間違った副次的使用が多数を占めてしまい、その使用法が主流となり、本来の用途が隠されてしまうわけである。) 今日の解剖学者や自然科学者は、あたかも骨が示唆している真実など何もないかのように、形だけの骨を記述している。しかし、骨は、霊から発した起源を仄めかしている。 (骨をみて占う呪術師は、古代の秘儀参入者が堕落した姿といえる。文字を読めないのに、読んでいる振りをしているだけで、儀式として堕落してしまっている。宗教的儀式の意味を説明できない宗教者は失格ともいえる。 霊的な文字を読める霊能者からすれば、儀式以前の問題で、一目瞭然なのであろう。空海は真言宗を開いたが、真言とは、霊的な文字ということだろう。真言宗とは、霊的な文字を読む読解法の秘儀参入学といえる。 またソクラテスは、霊的な文字を読む行為を神々との対話と呼び、神々と語れない者を無知といったため、怨みをかったようである。例えば、葬式にお経を唱えるのは、死者との会話といえる。つまり、別れの言葉がいつの間にやら形骸化し、代弁するという形で、堕落し、商売にかえたのだろう。 ある霊能者にいわせると、お経などを唱えても、死者には伝わらないという。死者に伝えるには、生前と同じ会話や気持ちが大切だという。現代は、お釈迦さんが言ったように、盲目の世界で、まさに末法の世であるわけだ! 親戚縁者には、死者は49日のうちに訪問するというのはどうやら事実のようである。亡くなっているのに、なぜか生きているように死者を思い出すのは、死者が心のなかを訪問しているようである。) 物質的な自然法則、エーテル的な自然法則の全ては、霊から発し、霊が起源である。全ては、霊(精神)界の存在に関する文字のようなものである。自然法則を、霊界に由来する文字に解釈できてはじめて、上記のような事実が理解できる。 更に、霊眼を用いて、人間の物質的な生体組織へと目を向けるとき、最初に知覚するのは、あらゆる時代の秘儀参入者たちが(真の秘儀参入者が)、霊界へと境界を越えて最初に知覚するもので、ゾッとするような、最初は耐えるのが非常に困難なものと語ってきた領域に属する存在である。 人間は大抵の場合、自分にとって努力する価値がある、と思われる対象によって、喜びを感じたいと思うものである。しかし、霊的な現実、すなわち、真実に精通するならば、人間は恐怖を通過していく必要がある。 なぜなら、解剖学的-生理学的に、眼前に置かれている人間の形姿(肉体)に関しては、霊界においては、非道徳な冷酷さ(卑劣さ)と憎悪という2つの要素から構築されている、ということに気づくからである。 (精神界では、最も醜悪なものが、逆に物質界の肉体を形作っているという。骨や骸骨をイミテーションとして飾るのはよくないとされるのは、このせいかもしれない。 逆に、戦争や戦闘で、骨や骸骨を象徴にするのは、この非道徳な冷酷さと憎悪が蔓延しているせいかもしれない。骨や骸骨は、人間の恐怖の象徴なのかもしれない。)
2010年06月17日
コメント(0)
人体組織において、外界-自然のものが、いかに変化させられるか、例えば熱エーテルにまで変化する鉱物の場合、非常に激しい変化だが、この変容がわかると、自然的な人間、有機的に組織された人間のなかに生きるものが、霊的(精神的)な存在と、結びついていることが認められる。 例えば解剖学や生理学分野の一般的な手引き書にある描像に従い、考察されているように、人間というのは主に固体の構築物であり、外界に在る自然の成分を摂取し、体内には、ほとんど変化させないままにとどめることを想定するなら、始終、霊的な存在へのかけ橋が欠落していることに悩むのは当然で、外界の自然の人間内にあるものから、人間の本質的な魂に従い、結びつけられているものへと架けられねばならない橋が欠けていることになる。 第一に、固体の物体と思われている骨組織や筋肉組織と、例えば、道徳的な宇宙秩序との結びつきを見つけることはできない。例えば、現代人ならば、次のようにいうだろう。 「骨組織や筋肉組織の固体物質は自然からできたものであり、道徳的な宇宙秩序は自然とは全く異なるものである。」 しかし、人間のなかには、あらゆる種類の実質が存在し、全ては、筋肉や骨というよりも、むしろ揮発性の霊的実質を経る必要がある、という事実を明確に理解するなら、その揮発性、エーテルの霊的実質は、道徳的な宇宙秩序の衝動と結びつくことを認めるだろう。 人間が天に向かってもつ結びつき、つまり宇宙の霊性や、高次ヒエラルキア存在たちに向かってもつ絆にまで導くなら、これまで述べてきた考えを引き継ぐ必要がある。 そこで、これまでは外界の自然からはじめ、考察してきたが、これからはむしろ、人間のもとで精神的(霊的)-道徳的に作用するプロセスからはじめる。 精神的(霊的)-道徳的という言葉は、現代の文明にとっては実際、既に多少とも習慣を表わす概念にもなっている。人間の本質において、道徳的-精神的存在に対する根源的で基本的な感情は次第に衰退していった。 例えば、現代文明では、その全教育法に従い、益々次のように問いかけるように命令する。 「常識とは何か、習慣とは何か、掟とは何か、法とは何か」等である。 現代文明は、人間の衝動として、例えば、純粋に良心の発露に基づく衝動として発する行為に向かうことが、少なくなっている。現代文明において次第に益々衰退していったものは、このような内的な自身への方向付けと目標設定である。 (自身のなかの良心に基づいて行動するのではなく、外の社会的な生活における利益損得に基づいて行動するようになった。) 従って、結局、精神的-道徳的なものは、今日多少なりとも慣習的-伝統的なもののなかに生きるようになってしまった。 (人間内部にある精神的存在に対する敬いや感謝が、外界の宗教的建築物、神社や寺、教会等の文化や儀式、儀礼になってしまった。本来は、こころのやりとりが重要なのだが、外面的な形や金銭や外的な表現にとってかわった。 例えば、日本の葬式の戒名や墓などが典型だろう。戒名は、あの世の人間になったという意味で新しい名前をつけるようで、この世との未練をなくすためのようである。それがいつの間にか、高額なほど価値があるような俗世間の習慣に堕落するわけである。 墓石なども、同じで、本来、気持ちや心の問題であり、金銭などは無関係のものである。どんなに高価な墓石だろうと、子孫の感謝や敬いが、あの世の本人に気持ちとして伝わらない限り、成仏できないようである。 あの世の世界は、人間の心の世界なので、心しかみえないようである。心が、土台となるから、この世からの感謝や敬いがなければ、あの世での生活は地獄となるようである。だから、感謝や敬いの念を先祖に心底から送るのがよいらしい。外ではなく、自らの内側に送るわけである。) 古代の世界観、特にまだ遺伝的な生まれつきの霊視に支えられていた世界観は、人間の内部から成熟した道徳的衝動を引き出した。このような道徳的衝動はいまでも存在してはいるが、今日では伝統的な儀礼になってしまった。例えば、道徳的世界観が非常に伝統的な儀礼になってしまったことに関して明白に理解すべきである。 勿論、道徳的世界観に関する伝統に対して、異論を述べるわけではない。ただ、例えば、一体、十戒はどのくらい古いものか、をよく考えてみる。いまでは十戒は古代の記録資料と教えられている。 根源的で基本的な人間の本性から、かつてのデカローク(十戒)のように、いまでも、普通に、湧き出てくるように見えると、現代人は言えるだろうか? 或いはまた、人間たちを社会的に結びつけ、人から人へと社会的な糸をつなぐ道徳-精神は、一体何から湧き出てくるのか? 人類における道徳-精神の本質的源泉として存在するものは、「人間理解」と唯一呼べ、或いはまた「相互の人間理解」、更には、この人間の理解に基づく「人間愛」である。 社会生活において役割を果たしている、人間の道徳的-精神的衝動が成立する際に、注意深くその周辺を観察してみるとよい。このような道徳的衝動が基本的に人類から発した至る処では、それは人間理解と人間愛から生じた、ということを見つけるだろう。 後者は本質的に、人類の内側で、社会的に精神-道徳を促進させる。そして根本において人間は、精神的(霊的)存在である限り、人間理解と人間愛を発達させることで、他の人間たちの間で生きている。
2010年06月16日
コメント(0)
けれども、正に示すべきことは、鉱物が、霊的な存在を受容できるために、人間は、鉱物を熱エーテルにまで消化しなければならない、ということだった。そして、霊的な存在の受容後、鉱物から人間が構築される。 人間が幼児のとき、以前述べたように、鉱物を熱エーテルにまで消化できる力がまだ全くない。 以前述べたが、幼児は、(鉱物の代わりに)ミルクを摂取できるように、ミルクは既に熱エーテルになる変化が生じるように予め準備され、容易に変化しやすいので、幼児に飲まれたミルクは、その形成力と共に素早く頭部に浸透し、幼児に必要な(霊的)形態(フォルム)形成の衝動を発達でき、幼児の全体の生体組織形成は頭部から発していく。 幼児からの成長後も、この形態(フォルム)形成力を保持しようとするなら、ミルク摂取は良くない。なぜなら、幼児のとき、(ミルクが)頭部に浸透することで、歯の生え替わりまでに存在する頭部から全身に放射される形成力が、歯の生え替わり後の年齢から、もはや存在しないからである。 歳をとってからは、頭部以外の生体組織が形成力を放射しなくてはならない。そして、頭部以外の生体組織の様々な形成力は全く特殊に、頭部とは異なる作用を受容することにより、その推進性が促進される。 人間の頭は丸く閉じられている。この頭のなかに肉体形成のための衝動がある。その他の身体においては、内に骨があり、(骨を基盤として)形成力は外にある。頭部以外の身体においては、形成力は、外から刺激される。 人間が、ミルクを摂取すると、幼児のうちは、頭のなかの形成力が刺激されるが、歯の生え替わり以後になると、その形成力はもはや無くなる。 では、成長(歯の生えかわり)後の形成力を、外から更に刺激するには、一体何をすべきなのか? もし、例えば、頭が頭蓋冠により閉鎖されていることでできる作用、つまり、頭が完全に内部で行う作用を、外(界)的な形に変えることが可能ならよい。 頭の内力は、ミルク摂取に対して良い。エーテルに変化したミルクが幼児の頭のなかにあるとき、ミルクは頭の内力の推進に良い基礎を与える。例えば、ミルクのような作用が必要だが、ミルクは、(幼児の)体内ではつくられず、外でつくられる。 自然のなかには、頭蓋冠のない頭が存在する。つまり、そこでは、幼児の頭の内力と同じ力、つまりミルクを必要とし、ミルクの形成力を生み出せる力が働いている。 その力とは、幼児が、ミルクを熱エーテルの状態に移行させ、熱エーテルから、頭部を作り出す力だが、そのような内力と同じ力が、自然のなかで外から作用している。 その力、つまり、頭蓋冠のない頭、このあらゆる方向に開いている頭というのは、実は蜂の巣である。 蜂の日々の営みとは、本質的に幼児の頭の内部の営みと同じだが、ただし、蜂の営みは外界にある。人間は、蜂(ミツバチ)の支えとして、せいぜい巣箱を与えるだけだが、その巣箱は閉じておらず、外から作用する。 (ミツバチは花粉を集めてくるが、花粉には、火の精霊が宿るので、鉱物消化後の熱エーテルの状態と重なる。) 更に蜂の巣の内部には、既に外的な霊的影響の下に、人間の頭の中で霊的影響下にある力と同じ力がある。 蜂の巣の内部には蜂蜜があり、人間が蜂蜜を摂取し、年配になってから蜂蜜を食べると、蜂蜜は、外から形成力を与える必要性に応じて、幼児のときに、ミルクが頭に与えてくれたのと同じ形成力を与えてくれる。 幼児のうちは、ミルク摂取により頭からの造形力を促進し、歳をとってからでも猶、造形力が必要なときは、蜂蜜を食べればよいが、とはいえ、多量に食べる必要はなく、蜂蜜から適度に形成力が得られる分量だけとればよい。 上記のように、外なる自然を完全に理解すれば、人間の生命を促進させる衝動の供給方法を外なる自然から見つけることができる。 では、美しい子供たちと、年老いた美しい人々のいる国を想像するなら、それはどんな国でなければならないか? それは「乳と蜜の流れる」国(1)でなくてはならない!(1)「乳と蜜の流れる」国:旧約聖書「出エジプト記」3-8など。モーゼがエジプトからイスラエルの民を導いていく土地についてこの表現が与えられている。 太古の遺伝的な(生まれついての)霊能力から、人々が憧れる国について、上記のように語ったのも不当ではなく、実際、それは「乳と蜜の流れる」国なのである。 (美しい子供たちは、乳、つまりミルクの形成力から生まれ、年老いた美しい人々は蜜、つまり蜂蜜の形成力から生まれるという意味なのであろう。) このような単純な言葉が、遥かに深い叡智を含むことがあり、可能な限り、力を尽くして、真実を探究し、「乳と蜜の流れる」国に関するような深い叡智の充溢した太古の聖なる真理の言葉を発見する以上に素晴らしい体験はない。 なぜなら、実に美しい子供たちと美しい老人たちがいる国は、類稀なる国だからである。 人間を理解するには、自然を理解することが前提となっている。自然の理解は、人間の理解のための基礎を与える。最下位の物質が、最高位の精神的(霊的)な存在まで通じているところでは、自然界、鉱物、動物、植物界が下位の極に、ヒエラルキア存在が、もう一方の上位の極にある。
2010年06月15日
コメント(0)
次に、動物にアプローチするとき、明白に理解すべき事実は、動物自身がまず消化を行っている、ということで、動物がまず植物を摂取する、ということである。 まず、草食動物を考察する。動物は、自らのなかに植物を摂取している。 動物の植物摂取もまた非常に複雑なプロセスである。なぜなら、動物が植物を自らのうちに摂取するだけでは、動物は、そもそも、植物に対して、(相反する)人間的形態を対置できないからである。従って、動物のなかでは植物は下から上へ、上から下へと転ずることができない。 (動物のなかでは、植物は霊化できない。) また動物の脊柱は地球の表面に平行であるため、消化の際に生じる事実は、植物は、動物のなかでは全くの無秩序状態になる、ということである。 動物の体内では、下位(根)が上位へ、上位(花)が下位へ転じようとするが、(脊柱が地面と平行しているので)停滞してしまうので、動物の消化は人間の消化とは本質的に異なったものになる。 (「食べてすぐ寝ると牛になるぞ」と昔の人にいわれた記憶があるだろうが、この意味は、動物の消化と人間の消化、つまり消化時の、脊柱が地面と垂直か、平行か、にあるのだろう。) 動物の消化の場合、植物としての生命(霊)は停滞し、その帰結として、動物には、植物に対して「宇宙の彼方へのお前の憧れを満足させるがよい」という約束が守れない。従って、植物は再び地上へと投げ返される。 しかし、上位と下位の逆転が起こる人間の消化の場合のように、上から宇宙霊たちが、霊力と共に進入してくる代わりに、動物の場合、動物の生体組織のなかから、植物は地に投げ返されるので、即座に植物のなかへと、ある元素霊(精霊)たちが進入する。 地に戻された植物のなかに進入する元素霊たちは、不安や恐れの霊たちで、その担い手たちである。 従って、霊的な観照を用いて、この奇妙な事実を追求すべきである。動物自らが、快楽のうちに食物を取ると、食物摂取の流れが一方に向かうが、他方で、恐れの元素霊たちの流れが、植物摂取の流れに向かっていく。 動物の消化管を通じて、消化の方向に継続的に食物摂取の満足感が流れ、この流れに相対して、恐れの元素霊(精霊)の恐ろしい流れがやってくる。 この元素霊も、動物たちが死ぬときに後に残るものである。例えば四つ足の哺乳動物たちにも、この事実はあてはまり、これらの動物が死ぬと、もっぱら恐れの元素霊から構成された存在が、同時に死ぬので、恐れの流れが「甦る」。 動物と一緒に恐れが死ぬ、ということは、すなわち恐れが甦る、ということである。 肉食獣の場合、草食動物と一緒に「恐れ」を食べている、ということになる(草食動物の「恐れ」もろとも)。肉食獣は獲物を引き裂き、満足感をもって肉を食べる。肉食への満足感に対抗して、不安や恐怖が流れ込む。 植物を食べる動物たちは死に際して、はじめて、この恐怖を発するが、肉食動物は生きているうちに恐怖を流出させる。 従って、ライオン、トラといった動物たちのアストラル体は、恐怖に浸透されているが、この恐怖は、さしあたり生きているうちには感じない。 しかし、肉食獣は死んだ後、食欲の満足感に対抗して、恐怖が蓄積しているので、この恐怖と闘う。従って、肉食動物たちの魂は、集合魂として、死後、人間が経ていく世界よりも、遥かに恐ろしいカマローカ(欲界)を通過するが、それは肉食動物が、既に有する、この貪欲な性質故である。 (人間の場合も、食欲が旺盛な場合、地獄のような恐ろしい欲界を通過するようである。) このような事実を、別の意識から体験できるように想像するだろう。例えば、唯物論的喩えから、人間を、動物の立場に置き、肉食動物がどのように体験するか、というように考察し、このようなカマローカが、人間には、どの様なのか、更に、カマローカの体験によって、人間を、肉食動物と同じように評価し始めるなら、そのような思考は唯物論で、動物崇拝となるので、人間は、動物の性質に身を置くことになる。 世界(宇宙)を理解するなら、このような事実も理解すべきなのは確かだが、全宇宙に対して唯物論者が非生命な物質に感情移入するように感情移入してはならない。 (このような間違った感情移入を、神秘学では、黒魔術と呼ぶようである。) このような事実を理解する時点で、魂(霊)的に語る他はない問題が始まる。なぜなら、人智学は決して扇動的に、イデオロギーを支持したり、或いは、反発したりするのではなく、真実を提示するだけだからである。 自分の生活のために、どんな結論を導き出すか、は個人の問題で、人智学は教義や規定を与えるのではなく、真実を語るだけだからである。 (要するに、シュタイナーが言いたいことは、何を食べるなとか、何を食べろとか、そのような推奨はしない、ということである。何事も、自主的に、自らの意志と判断で行わない限りは、悪い影響を与えるだけである。依存心が膨らんでしまうだけである。そして、何々教と、教祖を祭り上げることになる。) 従って、決して、狂信的な人のために、植物の消化や動物の消化から導かれる、いわば戒律等を提示することはない。つまり、上記のような観点から、戒律的な菜食主義や、肉食他について述べるつもりはない。 何を食べるべきか、のような命題は、徹頭徹尾、各自が考慮し、検討すべき領域に置くべきで、各自の体験領域に置かれることで、本来価値をもつものだからである。 クドイと思われるように述べるのも、人智学から、なんらかの食餌法等を支持する意見が出てこないようにするためで、実際、人智学は、様々な食餌法の意味を解き明かすだけである。
2010年06月12日
コメント(0)
植物はある特殊なプロセスを経ていく。例えば、(霊眼により)人間の植物摂取をイメージ的に描いてみる。根から葉を経て花に向かっていく流れがあり、次いで、植物が気体になる際、植物の根が上に向かい、花が下に向かう、というように、イメージが完全に逆転する、ということが体験できる。 根が地中で生きることで、植物は地に繋がれるが、根は(人体内では)逆に上昇を目指す。人体内では、根は極めて強く上へと霊的な存在を目指し、花の努力を引き離す。 実際、人間が植物(の根)を、下へと展開していくイメージとして思い描き、この下に展開していく根が、(人体内)へと摂取される結果、花という上の存在が下に、根という下の存在が上になり、いわば[ひっくり返されたハンカチ]となる。 植物は(人体内では)完全に逆転している。植物は、(霊的には)自身のなかで、下のものが上に、上のものが下になるように自らを形成する。開花まで成長した植物は、いわば物質的な欲求のなかで、光を食し、物質を光にまで上昇させた存在である。 光を食し、物質を光まで上昇させたことで、今度は、地上へと下にとどまらなければならない、という罰を受けなければならない。 根は地上の奴隷だったが、ゲーテの植物の変容論〈1)からわかるように、根は同時に、(進化のうえで)自らのうちに植物の全ての本性を担い、上方を目指す。 (1) ゲーテの植物の変容論:ゲーテ『植物の変容(変態)』(J・W・ゲーテ『自然科学論文集』所収)参照。 もし、人間が頑固な罪人であるなら、人間は罪人で在り続けようとする。 植物の根は、地に繋がれている限り、太った銀行家の印象を与えるが、人間に食べられると即座に根は変化し、上を目指す。一方で、物質を光へと至らせた花は、下へと、とどまらなければならない。 従って、植物の根は、人間に食べられると、根自身の本性に従い、人間の頭部を目指す。他方、花が食べられると、下腹部の領域にとどまり、新陳代謝全体においても、頭部の形成に関与するまでに上昇することはない。 このように植物を食すると、奇妙で不思議な光景が得られる。人間が植物を食べるとき(勿論、植物全体を食べる必要はなく、上述したようにゲーテの変容論を参照すれば、植物の個々のどの部分も植物全体を含んでいることがわかる)、植物は人間のなかで気体へと変化する。 植物は、体内では、上から下へと植物的に進化し、上から下へ向かって、いわば花を咲かせるような気体へと変化する光景となる。 古代の遺伝的な霊視により、このような事実が知られていた時代には、植物の外的性質に応じて、人間の頭に、どのような影響をもたらすか、もしくは、どのような植物の根が、霊への「憧れ」を持つことを強く告示するのか、が吟味されていた。 人間に食べられた植物は、完全な消化において、人間の頭にいき、頭の中へと進入し、頭のなかで霊的(精神的)宇宙を求め上昇し、宇宙との必要な結びつきをもつ。 (霊的な修行者、例えば仏教徒が、菜食なのは、この講義からわかるように、植物を消化し、頭部において霊的存在との結びつきを高めるためである。菜食者が、直観力に優れるのも、この事実からわかる。) 既にアストラルに強く浸透されている、例えば莢果{エンドウなどの豆科植物の実}植物の場合は、実であっても下腹部の領域にとどまり、頭部まで上昇しないので、睡眠を浅くし、同時に覚醒時も頭をボンヤリとさせる。 ピュタゴラス学派の人々(2)は思考を純粋に続けようとしたため、頭部の機能を用いて、消化を助けないように、豆を禁じた。(2)ピュタゴラス学派の人々:ピュタゴラスによってクロトン(南イタリア)に組織された倫理的-宗教的生活形式のための教団。その閉鎖的な貴族的、保守的立場のために迫害されたが、4世紀初頭まで存続した。アリストテレスは、ピュタゴラス派は数学と真剣に取り組んだ最初の人々だった、と伝えた。オルフェウス教徒にならってピュタゴラス学派の人々は、魂の輪廻と再来を教えた。 (シュタイナーは、豆類もそうだが、ジャガイモも、思考の道具である頭部の働きを、消化に用いてしまうので、思考できない人間、つまり奴隷を生じさせる、と述べている。ヨーロッパに、思考できない奴隷のような扇動者が増えたのは、ジャガイモのせいだとも言っている。 ジャガイモは食べれば食べるほど、麻薬のように虜になり、思考力を奪っていくというようなことを述べている。ちなみに、ジャガイモは根ではなく、茎が発達したものと述べている。ポテトチップ愛好者には、耳が痛い話だろうが、援護として、塩は、鉱物なので、適度に塩をまぶせばよいだろう。 豆類やジャガイモに塩をまぶすのは、かろうじて思考力を失わないためなのかもしれない。しかし、真の思考を続けるには、ピュタゴラス学派のように、豆やジャガイモを禁止するのがよいかもしれない。) このような事実から、自然のなかの存在から、人間との関連、しいては、人間のなかで生じている事象との関連が予感できる。 本質的な精神的(霊的)参入学を知れば、人間の消化の場合(確かに牛の消化の場合は異なるが、後述する)、植物摂取を考察するだけで、矛盾なく説明できるのが、唯物論的科学には不思議に思えるだろう。 植物は摂取されるだけでなく、残らず霊化される。植物は、霊化により、最下位(根)が最上位(花)へ、最上位(花)が最下位(根)へと転じられるように形成される。このような逆転現象以上に大きな変容は考えられない。 また、人間は、最下位が最上位へと、最上位が最下位へと転じられない植物(人体のなかで、下位の「根」は上へと、上位の「花」は下へと逆転すること)を、僅かな少量でも食べるなら、直ぐに病気になる。 このような事実から、人間は、霊(精神)が作り出さないものは、何も自らのうちにもたない、ということがわかる。 なぜなら、人間が摂取する物質に、まず1つの(霊的)形態を与えねばならず、その結果として、霊(精神)が、影響を及ぼせるからである。 (もち手や取っ手がないモノをもてないのと同じだろう。)
2010年06月11日
コメント(0)
地球紀の進化において、植物の根の中にある性質は、月が、まだ地球と共にあった時代(月紀)に、与えられた素質であるという事実に至るとき、その理由を理解する必要がある。 月がまだ地球と一体になっていた時代(月紀)には、地球の内部の月に固定された力が、非常に強く作用していたために、植物はほとんど根だけだった。 月がまだ地球と共にあって、地球が、現在とは全く異なる性質をもっていたとき、根は、非常に力強く下に向かって伸びていた。 このような事実から、次のような結論に至る。 「下へ向かって植物の根が力強く伸びていた。一方、上に向かっては、植物は万有宇宙を仰ぎ見るだけであった。」 細かい繊毛のように、植物は、万有宇宙への衝動を送り出していた。従って、次のような結論に至る。 「月がまだ地球と共にある間、月は地球のなかに含まれていた。月の様々な力は、植物を地上に繋ぎとめていた。」 当時、植物のなかに移行されたものが、その後も、植物の中の原基となって留まり続けた。 ところが、月が地球を離れた時期以来、それまでは、僅かに小さな衝動が、遥か宇宙を伺い見る程度だったが、月が離れるに従い、万有宇宙の光の彼方への「憧れ」が開いていき、花が誕生した。 従って、植物界にとって、月が(地球から)出ていくことは、いわば一種の解放だった! とはいえ、この場合にも注目すべき事実は、地上のもの全ては、霊に起源を持つということである。 (古)土星の時代(『神秘学概論』での記述を参照)、地球は完全な霊で、ただ熱エーテル的要素のなかで生きる、全くの霊的存在であった。地上は霊的存在から形成されてきた。 さて、植物を見るなら、植物は、その形態のなかに、活動的な進化の記憶を携えている。植物は根のなかに、地球や、物質的-実質になる原基を担っている。 植物の根を見ると、「霊的な存在から、地上的-物質的な存在が発生したことで、植物は生成できた」と語っているようにみえる。しかし、地球が月の重荷から解放される瞬間、植物は、再度、光の彼方に戻ろうと努める。 さて、人間が、植物を食物として摂取するとき、外界の自然において、植物が既に始めた進化を、正しく継続する機会や、宇宙の光の彼方のみならず、宇宙の霊の彼方にも戻ろうと努める機会が、人間を通して、人体のなかの、植物に与えられる。 従って、人間は、以前述べたように、植物を、空気や気体にまで駆り立てなければならなく、植物が、光-霊の彼方への「憧れ」に沿えるようにしなければならない。 (人間の中には、神から与えられた精神「良心」があるので、植物を摂取することで、植物が思い描いていた天や神への「憧れ」を、人体内で、叶えることができるような神殿にならないといけない。 鉱物を火にし、植物を空気にし、天から霊を招き入れるような身体をつくることが人間の役目なのである。従って、人間の身体は、神輿であり、神殿であり、そしてキリスト教でいえば、聖杯にあたる。) 草原に出かけると、草花、植物の花々が、光を求めている事実を見つける。人間は植物を食べる。人間は、体内に、外の環境とは全く異なる世界をもっている。外界で植物が、花々のなかに顕現させている「憧れ」を、人間は自らのなかで成就できる。 (人間は、生前行った善に応じて、死後、自らの良心により、裁かれる。良心は生まれる前に神から与えられるので、いわば、神「良心」と人生を旅している。鉱物や植物を摂取し、人体を健康体である神殿として、人体内で火や空気の形にして、神霊を招き入れるのは、この講義から供養ともいえる。食事は、儀式ともいえる。) 人間は、自然のなかに広がっている植物の「憧れ」の世界を見る。人間は植物を食べ、植物の「憧れ」を、人体のなかで精神的(霊的)世界に対峙させる。 人間は、植物が地上よりも軽い気体の領域のなかで、精神的(霊的)な存在に向かっていけるように、植物を、気体の領域(風、空気の精霊)へと高めなければならない。 (食事前に、お祈りや感謝をするのは、この講義から理に適ったものであることがわかる。食事は、人体を神殿とした神事だからである。 シュタイナーによれば、キリストの最後の晩餐は、皆で同じものを食べるという神事的な儀式を意味し、裏切り者のユダも、同胞であることを、宇宙の歴史において、悪も善と共にあることを意味したものであり、キリストの最後の晩餐は、悪が善から分かれた宇宙の歴史を示しているという。 悪は、善が更なる善となるために必要であるという。つまり善も善に進化し続け、とどまらないという。どことなく、老子の説く意味と似ている。)
2010年06月10日
コメント(0)
次に、植物界を見てみる。霊眼を用いて、地球を覆う植物を観察し始めると、植物界というのは、実際、人間を様々に魅了するものを持っている。草原、もしくは森のなかに出かけ、ある植物を根ごと掘り起こす。このとき、掘り起こした植物を、霊眼で眺めると、実際、素晴らしく魅惑的な構成をもつことに気づかされる。 根は本質的に、地のなかで膨らむ、性質をもつことが判明する。植物の根は、人間の眼前に、その粗野な姿を次第に見せるほど、実際、何か恐ろしく地のものである。なぜなら、植物の根、特に、カブの根は、実際、いつも肥えた銀行家を髣髴とさせるからである。 そう、カブの根は、大きく太って、自分に満足している。根は地中の塩を自らのなかに摂取し、地を自分のなかに取り込んだ、という感情から、心地よく感じている。地のなかで、本質的に、このカブの根ほど満足しているものはなく、カブは根の代表である。 根とは対照的に、花を見てみる。霊眼を用いて花と向き合うとき、本質的に、花は、柔和な希望を宿しているときの人間の魂のように感じる。汚れない春の花をみると、根本的に、春の花は希望の息吹で、憧れの化身である。 事実、人間が繊細な魂の感覚を充分にもてば、周囲の花々の世界には何か驚くべきものが溢れ出していることに気づく。 例えば、春にスミレ、もしくは、水仙や鈴蘭、または黄色い花を咲かせる小植物を見て、心を奪われると、これら春に花咲く植物たちが、皆、次のように語りかけようとしているかのようにみえる。 「ああ、人間よ! あなたたちは、本当は、そんなにも純粋に汚れなく、希望を、精神的(霊的)な存在に向けることができる!」 精神的(霊的)な希望の本性、もしくは敬虔さに身を沈めた希望とでもいうべきものが、春の花々のどれからも芽吹き萌え出てくる。 次いで、春よりも遅咲きの花々に目を転じる(早速、極端なイヌサフランを取り上げる)。例えば、魂の感覚により、軽い恥じらいの感情を持つことなく、イヌサフランを眺めることはできない。人間の希望が極めて様々な不純さに浸透され得ることを、イヌサフランは警告している。 イヌサフランはあらゆる方向から、人間に向かって次のように囁きかけている。 「あなたの希望の世界を御覧なさい。おお人間よ! あなたはなんと容易く罪人になることができるのか?」 さて、植物界は、上記のように、本質的に人間の良心を映す、いわゆる外なる自然の鏡である。人間内の一点から発してくるような良心の声が、様々な植物の花の形へと分かれ、花として与えられている、と考えることほど詩的なものは考えられない。 様々な花が、四季を通じて、上記のように人間の魂に様々な形で語りかける。人間が植物界を正しく眺める術を知れば、植物界は、拡張した良心の鏡であることがわかる。 このような事実に注目するなら、植物の花を眺め、いかに花が、本質的に、万有宇宙の光の彼方(広がり)への憧れであるか、 地球の希望を万有宇宙の光の彼方に向けて流出させるために、花が、いかに形態として上方へと成長していくか、 そしてまた、逆に、下方へといかに太った根が、植物を地に繋ぎ止め、いかに根が植物から絶え間なく天への憧れを拭い去り、大地の安楽さに形成し直そうとするか、等を照合することが、人間にとって、とりわけ重要になることがわかる。
2010年06月09日
コメント(0)

外界から摂取された食物は、体内では全て徹底的に加工される必要がある、ということを知ってはじめて、人間の本性を垣間見ることができる。 従って、外界のある物質を取り、これが人間の生にとって価値があるかどうか調べるとき、さしあたり通常の化学(分析)では調査できない。なぜなら、知るべき事実は、ある外の鉱物を熱エーテルの揮発(浄化)にまで至らせるために、人体組織はどれくらい多くの力(エネルギー)を使わなければならないか、ということだからである。 人体組織が、摂取物を熱エーテルまで変容できなければ、外的な鉱物は人体組織のなかに沈殿し、熱へと移行させられる前に、硬い地球物質になってしまい、人体組織に疎遠なままの無機的な物質として人間の組織に残ることになる。 鉱物が人体に残るのは、例えば、体内で鉱物化されて、糖(外界でも有機的だが)として人間のなかに生じる食物を、熱エーテルの揮発までに至らせることができない場合である(糖尿病)。すると、それは、全生体組織が全て関与していれば、もたらされるはずの熱エーテルの状態になる前に、人体の組織のなかに沈殿するので、厄介な糖尿病が発症する。 つまり、いかなる物質、いわゆる非生命体の場合でも、例えば、食塩の摂取のように既に体内で塩という物質を形成しているか、もしくは砂糖の場合のように、体内で、糖を形成するか、のいずれかだが、非生命体を人体組織が、どの程度、熱にまで至らせることができるか、に注目し、熱にまで到達できるなら、地上に根を下ろした生体組織も、霊的宇宙との結びつきを見つけることができる。 糖尿病の場合に、生じているような、人間のなかで、加工されないままに留まっている沈殿はいずれも、その人間が、自分のなかにある物質のために、宇宙の霊的な存在との結びつきを見つけられないでいる、ということを意味している。 これは、外から人間に摂取されるものは、体内では完全に加工(消化)し尽くされる必要がある、という普遍的原則の個別的な適用の1つにすぎない。 健康に配慮するならば、特に、外界の状態のままにとどまるもの、最小の原子に至るまで、人体組織によって加工され得ないものは、何1つ人間のなかに入っていかないように注意を払わなければならない。この事実は物質だけに関わることではなく、例えば力にも関係している。 例えば、外界の熱や、物を掴むときに感じる熱や、(呼吸で取り込む)空気のもつ外熱等の熱は、人体組織により摂取されるとき、実際、変化させられ、人間のなかの熱が、外界とは別レベルにあるようになる。 外界の熱が持つ熱レベルは、人間の体内に取り入れられると、内的に幾分変化させられなければならない。外界の熱のなかの、まだ体内の熱になっていない部分は、生体組織が介入していく必要がある。どんなに微量な熱量にも生体組織が介入していく必要がある。 「寒いなかを歩き、寒気があまりに大きいため、或いは寒気が大気の運動や風となって揺らぐために、(人体に)必要とされるほど迅速に宇宙の熱を、自身の熱に変化させることができない。」 このような場合、人体自らで、熱を起こすことができないので、(人体はいわば)外から暖められるような木材、もしくは石のように、宇宙からの熱により暖められる、という危険に陥る。 外熱を、単なる客体のように、自らのなかに流入させるという危険に曝されてはならない。あらゆる瞬間毎に、皮膚から、ただちに熱を捉え、自身の熱とする状態になければならない。それができないと、風邪をひく。 これが風邪の内的な経過である。風邪とは、生体組織によって占有されなかった外熱による中毒である。 外界にあるもの全ては、人間にとっては毒であり、人間が自身の力を通じて、占有することによりはじめて、有用なものとなる。 (アレルギーなども、外界物を体内で占有できなかった場合なのだろう。) なぜなら、唯一、人間により、様々な力が人間的な形で高次ヒエラルキア存在のところまで上昇していくが、外界における力は、元素霊(自然霊)たちの下にとどまるからである。 人間においては、自然霊たちから、人体組織を通して、仕事を、高次ヒエラルキア存在に委託可能にする、という驚くべき変化が起こる必要がある。この事実は、鉱物が完全に熱エーテルに変化させられるときにだけあてはまる。 (とある霊能者のブログによれば、人間の胸には、「∞」の形で、自分の魂と、神からの魂「内在神」が交流しているらしい。この講義からもわかるように、人間は、高次ヒエラルキア存在「神」と、外界の現象とをつなぐ交流の場でもあるらしい。 その霊能者によると、神輿「みこし」とは、このような内在神と自分という交流を示す人間の本性をモデル化したものらしい。 従って、神輿は、人間のことで、神輿に収められている三種の神器とは、人智学からいえば、霊我「マナス」、生命霊「ブッディ」、霊人「アートマン」という、人類が神になるために必要な霊的器官といえる。 三種の神器は、人間自身のなかに眠っているのである。様々な経験を得るたびに、開発されていくのだろう。) のようなイメージか?
2010年06月08日
コメント(0)
これまで述べてきた事実から、宇宙と人間の関係は、今日の様々な概念に従って描写される事実とは、全く異なることがわかるだろう。 実際、次のように安易に考えられている。 「人間が、周囲の生物環境、つまり鉱物界、植物界、動物界から、摂取する食物は、科学者が研究して発表するような、いわば外(物質的)的な新陳代謝プロセス(物理変化や化学変化の総体)を通して、人体のなかで継続され、消化される。」 このような安易な考察は、全くの見当違いである。明白に理解すべきことは、皮膚内でのプロセス全ては、外とは異なっている、ということで、皮膚から内部の人体には、外界とは全く異なる世界が存在する。 この事実に気づかない限り、相も変わらず、生体から切り取り、手を加えた人工物のなかや、その他、様々な物質的方法で研究される物質が、どうやって人体組織のなかで、化学変化を継続していくのか、という考察を続け、人体組織自体を、外界の物質的プロセスが、複雑に配置された存在のようにみなすだけである。 このような取り組みから脱するには、これまでの考察で述べた事実、例えば、「鉱物は全て、人体のなかでは、熱エーテルへと置き換えられる必要がある」、ということを知ればよい。 すなわち、鉱物として、人体組織のなかに入り込んでくる食物は、少なくとも、ある期間、純粋な熱として、しかも自身の熱として、体外の周囲の熱を超えて、上昇する熱と1つになるように、変容、変化させられなければならない。 生体組織のなかに、塩、もしくは他の鉱物を摂取するなら、なんらかの形で熱エーテルという形態(フォルム)をとる必要があり、しかも人体組織の構築と形成に用いられる前に、その形態(熱エーテルのフォルム)を取らなければならない。 つまり、人体組織の外部に、何らかの鉱物(ミネラル)があり、この鉱物が、ただ、人体に入り込んでいき、人体の骨から歯他の組織を形成すると想像するなら、全くのナンセンスである。 人間の形成の際に、再現される(物質的な)形態は、第一に完全に揮発的な熱エーテルの形態(フォルム)へと移行される必要があり、熱エーテルから次いで、姿を変え、人体組織のなかでの活動的な形成として出現する形態に再現されなければならない。 (人間形成は、技術の習得と同じで、技術をそのまま持ち込むのではなく、まず技術を自分なりに解釈に分解し、自分のものとしないといけない。 自分のものとして、技術を自分なりに発展させることで、技術を習得できる。 単純なモノマネではなく、自分にあったモノマネで、自分なりに発展させていくような、いわば彫刻や芸術作品と同じものといえる。) しかし、人間内での再現には、更に全く別の存在も結びついている。例えば、堅い固体の形態(フォルム)の食物が、口中で既に、液状の水に変化し、更に熱エーテルへと変化していく場合を考察する。 この食物は、最初に液状の水の形態(フォルム)に移行することで、人間のなかで、次第に(浮力をもつことになり)重力から自由になり、地上の重力と疎遠になることを通じて、熱エーテルの形態(フォルム)に達し、天(上)や宇宙の彼方から来る霊的(精神的)な存在(の力)を自らのなかに受け入れる準備が完全になる。 つまり、鉱物が人間のなかで、どのように用いられるか、を考察するなら、次のような結論に至る。 「鉱物を摂取すると、人間のなかに入り込む。人間のなかでは、液体他を経て、熱エーテルへと変化する。この熱エーテルには、宇宙の彼方から、放射し、流れ込んでくる力を、自らのうちに受け入れようとする極めて大きな傾向をもつ。 万有宇宙の様々な力が、熱エーテル化された地球の(物質的)実質を貫き、霊化させる霊力として、霊力自らを形成(顕現)する。 熱エーテル化された地球実質は、宇宙の様々な力の助けをかりて、人間の形成のために用いられる霊力を、はじめて肉体のなかに招き入れる。」 従って、以上のように考察すれば、古い意味で、熱を火と呼ぶとき、次のような結論に至る。 「人間に摂取される鉱物は、人間のなかで、火の性質にまで高められる。」 火の性質とは、高次のヒエラルキア存在の影響を、自らのうちに受け入れようとする傾向をもち、更にまた、この火が人間内の全領域に流出し、新たに硬化することで、人間のなかの個々の器官の実質的な基礎を形成する。 (地球の地殻をつくってきた火山の噴火と似たようなものかもしれない。) 人間自らが摂取する食物のなかで、外界のままの形、いわゆる地上にあるままにとどまるものは何もない。全ては変化し、特に鉱物界からの食物全ては、霊的-宇宙的な力を、自らのうちに受容し、霊的-宇宙的な力の援助により、再び硬化して地上的な形態となるまで変化する。 従って、体内の骨から、一片の燐酸石灰を取れば、同じものを例えば、外界の自然のなかにも見つけられるが、この体内の燐酸石灰は、例えば、実験室のなかで調合して生成されるような燐酸石灰ではない。 体内の燐酸石灰は、外界から摂取された鉱物を、体内で熱エーテルの状態に移行する間に、宇宙の様々な力を招き入れ、人間の形成に介入した(霊)力の助けをかりて、生み出された燐酸石灰なのである。 従って、人間は、生涯にわたって極めて様々な実質を用い、年齢に応じて組織化される形態に従って、非生命(鉱物)体を熱エーテルに変化させる。一般的に、幼児はまだ非生命(鉱物)体を熱エーテルに変化させることはできず、幼児の生体組織のなかには、まだ充分な力がない。 幼児は、人間の生体機構に近いミルクを摂取しなければならず、ミルクを熱エーテルに至らせる。幼児期の間に不可欠な肉体形成を展開するために、幼児はミルクの造形力を用いることができる。 (シュタイナーは、ミルクには、造形力があると説いている。蜂蜜には、ミルクよりも強い造形力があるが、幼児には、強すぎて、かえって毒となるということも説いている。 この造形力は、六角形の象徴で表されるという。ミツバチが六角形を基にした巣をつくるのと、石英「クリスタル」が、六角形の形で析出することが、その証であるという。神秘学では、六角形は、アストラル体を現し、上下の2つの正三角形の六芒星で表記される。)
2010年06月07日
コメント(0)
外界における自然は、偉大な宇宙的治癒プロセスである。ただ自然を人間に応用する必要がある。 この適用の深層には、マクロコスモスとミクロコスモスの驚くべき関連があり、様々な形で述べてきた事実は、実際、深い真実でもある。 汝自身を認識しようとするなら あらゆる方向に向かって宇宙を見るがよい。 宇宙を認識しようとするなら 汝自身のあらゆる深みを覗き見るがよい。 (ギリシア哲学の主題が、「汝自身を知れ!」であったように、人間とは、宇宙の全てを含んだ小宇宙なので、宇宙を知るには、人間自身を知ればよいことになる。 人間は、自分を知るため、更に自分を通して、宇宙を知るため、自分として生まれてくる。) 実際、マクロコスモスとミクロコスモスの関係を、あらゆる事象に応用できる。 「人間を治療するなら、あらゆる方向に向かって宇宙を見よ! 宇宙があらゆる方向に、いかに癒しを繰り広げているか、に目を向けよ! 宇宙の秘密を病気と治癒のプロセスとして認識するなら、人間の本性のあらゆる深みを見下ろせ!」 この関係を、全ての人間に応用できる。大いなる自然に着目し、この大いなる自然との活動的な関係のなかで、人間を見なければならない。 今日、慣れ親しんでいる自然の認識は、この関係とは程遠く、全く別物である。可能な限り、自然から離され、認識に至る視界さえも、自然(本体)から遮断してしまい、人工物が作り出される。 自然から切り離した調査対象を、小さな机上のガラス下に置き、視野は、外界の自然を眺めずに、顕微鏡と呼ばれる、ガラスのなかを覗き込む。 この顕微鏡は、ある意味、顕無鏡と呼べる代物で、大いなる自然から、観察対象が、もはや(切片として)切り取られているからである。 それに、その機械下で、観察対象を拡大することは、実際、精神的(霊的)な認識にとっては、自然のなかから、観察対象を分離し、切断するプロセスを生じさせ、そのプロセスを逆に拡大させる行為と同じである、ということをほとんどの人は知らない。 例えば、人間のごく小さな一部を観察できるように切り取って、その内部を拡大するには、実際、観察すべき人間の小片を採取するために、人間から、その部分を切り取り、それを適度に拡大する行為に相当する! その行為は、プロクルステス(1)よりも遥かに奇妙でおぞましい。もし、人間の一部を切り取って、{顕微鏡の}円筒の下で、その小片を拡大するように、人間を拡大できたら、プロクルステスを超えた行為となる。1) プロクルステス:ギリシア神話で別名ポリュペモンあるいはエレウシスのダマステス。ポセイドンの息子で、客をベッドに寝かせ、ベッドが短すぎるとわかると、その客のはみ出た四肢を切り落とし、そうでないときは、客の手足を引き伸ばした。ギリシア語では「引き伸ばす男」の意。エレウシスの宿屋の主人で、旅人を鉄のベッドに寝かせては、旅人がベッドより小さいとはみ出した部分を切ってしまい、長さが足りないと背丈を引っ張って伸ばして殺してしまう。英雄テセウスによって殺される。ブルフィンチ『ギリシア・ローマ神話』(大久保博訳 角川文庫)など参照。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%97%E3%83%AD%E3%82%AF%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%82%B9%E3%83%86%E3%83%BC%E3%82%B9 それでもまだ、その一片が人間である、とでもいえるのか? 勿論、その一片が人間だと言えないだろう。同様に顕微鏡下に真実はない。拡大された真実は、もはや真実ではなく、見せかけの形成物である。 人間は自然から離れてはならず、自身にだけ視界を閉じ込めてもいけない。勿論、顕微鏡でも、それなりには有益だろう。しかし、真の人間認識にとって、何よりも第一に、自然から分離した観察は、真の人間認識からも、大いに逸脱していく。 真の人間認識は、これまで示唆してきたように探求する必要がある。栄養摂取プロセスから治癒プロセスを経て、最も広い意味での人間教育や世界教育に通じていく必要があり、栄養摂取から治癒を経て文明や文化へと進むべきである。 なぜなら、真の人間認識は、人間の栄養摂取のなかに集約されている物質的プロセスや、また(宇宙、天体の)回転(循環)に由来し、人間の律動プロセスのなかに集約されている治癒プロセスや、更に、上からきて人間の神経-感覚プロセスを通じて集約されている教育プロセスの、3つのプロセスの全ての基盤となるからである。このように宇宙は三段階に打ち建てられている。 このような真の人間認識を、一種の基礎として述べ、この上に更に構築していき。実際、このような出発点から上昇し、いわば実際の生活における出来事の取扱い、更に、ヒエラルキア存在の認識へと移行可能な道への参入法を述べていく。
2010年06月04日
コメント(0)
前回解説した通り、血液と神経の間にある関係を通して、治療や治癒プロセスの分野に参入できる。 人間のなかには、本来全てのプロセスが存在しなければならないが、何処かで甚大に病んでいるプロセスは、別の場所で、本来、健康に貢献するために存在すべきプロセスなのであり、それは単に間違った形で、間違った場所にもたらされただけである。 (要するに、適材適所というべきものか?) なぜなら、どんなプロセスも全く存在しなかったなら、人間は生きていけないからである。人間は炎症を患うことができなかったら、生きていけない。なぜなら、炎症を呼び起こす力は、血液のなかに、常在すべき必須のものだからである。 以上の事実を考察すれば、人間が本来の認識において獲得する全ては、真の人間認識から生じてこなければならないことがわかる。 また、このような考察から、近代の教育学が、非常に抽象に走って、かなり無意味なものになっている理由がどこにあるのか、がわかる。本来、教育学とは、人間のなかの、ある種の病理学的なプロセスと、その治癒の可能性を出発点とするように進めるべきである。 例えば、脳疾患の治癒の可能性を探るなら、粗雑な(霊的な方法なら、「繊細」だが、物質的プロセスによるという意味で、「粗雑」という言葉を使った)脳の治療法のなかに、教育芸術において厳密に実行すべき方法がある。 従って、将来、真の教員養成機関を設立するなら、実際、教師たちに病理学的-治療学的方法を教え、教師たちが、まず具象的な事実を手懸かりに、思考を訓練すべきである。 なぜなら、真の教育学を理解するには、物質に根ざした事実を手懸かりにするほうが多いからで、また、教育芸術的治療法において、事物がどのように作用するかを知ることほど、治療、特に内(精神)的な病気の治療にとって有益だからである。 また、物質への架け橋を見つければ、教育的な治療方法で、同時に薬をも見つけることができるからである。 例えば、子供によく見られる消化における障害に起因する、ある種の怠惰な徴候を、教育的に対処するための正しい教育的手段が見つかれば、その教師は、非常に奇妙な内(精神)的な傾向を洞察できるようになるだろう。 もっとも、これには、教師が、真剣に教育に生きる覚悟がある場合であって、表面的に教育を学ぶだけで、学校が終わったら夕方には「居酒屋」等に座り込み、学校であったことなど一切を忘れてしまう、というような場合でないのは勿論である。 教師が、教育に真に生きるとき、消化不良に起因する怠惰な子供に与える措置の効果をみていくことから、頭部のプロセスの全作用や、頭部のプロセスと下腹部のプロセスとの関係全体の傾向を洞察できるようになる。 そして更に、鉱物学において、例えば、銅が土壌中で、物質(銅化合物)を形成するとき、銅において起こっているプロセスを研究するなら、以下のような結論に到達する。 「銅鉱石になるときに銅が行なう全てにおいて、つまり銅鉱石、或いは他の鉱石になる生成において、教育者が、生徒と共に行うことを、銅(の力)は土の中でやっている!」 教育者自らが行なう模像が、紛れも無く銅プロセスのなかに見える。教育者としての行為に関して、直観的感情や本能に適した明解さ(霊眼)を獲得し、更に魅惑されながら自然を眺め、外界では、自然が大規模に教育的な治療を行っている、ということを知るのは極めて魅力的である。 (自然の教師が、自然を教育している。) つまり、何らかの石灰プロセスを通じて何か良くない(病的な)事象が生じる可能性のある処に、何らかの形で銅プロセスが(その抑制として)組み込まれていることを知るのは魅力的で教育学的であろう。 宇宙言語;石灰プロセスの対極にあるのは銅プロセスである。 この銅プロセスや他の地球におけるプロセス内部の、鉱石の形成プロセスのなかにも、継続的な治癒がある。従って、黄鉄鉱等の鉱物を見つけると、この鉱物こそ、地球が病むことを想定し、予め自然が行った正しい治療法(の証)で、人間の治療の本質も同じである、という素晴らしい真実がわかる。 (熱帯魚の病気の治療にも、銅が硫酸銅溶液という形で用いられるのは興味深い。) このように自然のなかの霊たちは、ヒエラルキア存在(天使)以下、(以前述べた)元素霊(精霊)たちに至るまで、他ならぬ生命のなかに、病気をもたらすプロセスを阻害するプロセスを出現させ、自然の癒し手(ヒーラー)として治療を継続的に行っている。 このような阻害プロセスを見つけるには、実際に、自然現象から(物質的に)読み取るしかない。 なぜなら、人間が、外界で生じる事象を見て、種々の物質を薬剤とみなし、加工するとき、次のような疑問をもつからである。 「鉄はどこに現われているか、種々の金属は、鉱脈のなかの、どこに現われているか?」 このような疑問から、環境を研究すれば、金属(鉱物)が、自然により様々な加工をされ、現われるとき、金属の内部には、治癒プロセスがある、ということがわかる。 つまり、治癒プロセスを含む金属を取り、人間の生体組織のなかへと(そのプロセスを)継続させれば、外なる自然が、人間の前に示してくれた治療法を再現できる。 (自然は地球の医者であり、自然から、その治療法を学び、人体に取り入れるなら、人間も治療できる。) 実際、宇宙(世界)を貫く法則全てを理解するには、栄養摂取や、癒し、精神性(霊性)を正しく研究すべきである。なぜなら、自然においては、絶えず病がもたらされ、絶えず癒されているからである。
2010年06月03日
コメント(0)
以前、イギリスの聴衆のために行なった教員講座において示唆した事実を取り上げる。それは、学校での教師の学生指導が、一種の普遍的な人間形成法の実践にもなる、というものである。 学校教育上の措置は、後の年齢になって、例えば、新陳代謝における不健康な沈殿、もしくは不規則な吸収などを引き起こす原因となる、という注意の喚起を促したい。 つまり、教育者が行う精神的な教育が、人体の下方に継続され、治癒的、或いは、逆の病的効果をもたらす。上方の精神性からくる治療の他方の対極の下から上を目指す力が、新陳代謝プロセスである。 従って、今日(1923年)、包括的(全体的)な人間認識から1つの医学体系を生み出す必要があることもわかるだろう。そのことを実感している人もいる。とはいえ、このような医学体系が事実上形成されて、はじめて何かが達成される。現在、これは最大の急務の1つである。 今日(1923年)、治療学の手引き書をみると、大抵の場合、新陳代謝組織から開始されることはなく、或いは、あっても極めて稀であることがわかる。しかし、新陳代謝組織から開始すべきで、さもないと、そもそも病気の本性がどこにあるのか、を診断する術を学べない。 以上のことから、事実上、栄養摂取プロセスが治癒(循環)プロセスに、治癒(循環)プロセスが精神的(霊的)プロセスに、そしてまた再び、精神的(霊的)プロセスが治癒(循環)プロセスに移行できることがわかる。 もし精神的(霊的)プロセスが直接、新陳代謝障害を引き起こすなら、精神的(霊的)プロセスもまた生体の中間組織(循環プロセス)により癒す必要のある段階に移行している。 これら全てのプロセスは、人間のなかで互いに入り交じり移行し合い、全生体機構が、いわば1つの驚くべき変容体である。 例えば、人間の血液の、素晴らしい循環全体のなかのプロセスを取り上げてみれば、これは一体どんなプロセスといえるのか? さて、最初に、血管のなかを流れる血液を、他の人体組織から切り離して把握し、人間の形姿や血管組織として筋肉組織に繋がり、また骨組織他などの、つまり固体形成を貫いて液状に流れている存在として把握する。 血液の液状的性質に注目する。勿論、血液とは別の液体も人体に存在するが、いま血液だけを考察する。この流れる液体のなかの内部で、絶え間なく生じているのは一体どんなプロセスだろうか? 液状の血液のなかで生じるプロセスと同じプロセスが、いずれかの方向に、例えば人体のなかの壁、或いは骨格、いわゆる何か堅固につくられた形成物に襲いかかることもあり、すると、血液のなかに入るべきプロセスが、血管壁、或いは筋肉や骨の内部の何処かの何らかの被覆器官のなかに侵入することになる。 すると一体どういうことになるのだろうか? このとき、これは炎症の徴候を示す衝動となる。液状の血液のなかでは、通常、正常なプロセスだが、炎症性の徴候として現われてくるプロセスは、継続的に流れる血液のなかで生じるべきプロセスであるのに、正しくない場所、すなわち血液の周囲に形成された固体からなる場所に押しやられたプロセスである。 絶対的に正常で健康なプロセスが、別の相応しくない場所に配属され、置かれると、病気をもたらすプロセスとなる。 例えば、ある神経組織の病気は、人体組織全体のなかでは、神経組織は、血液組織の対極として置かれているのだが、本来、血液中にあるべき正常なプロセスが、神経組織へと移行した経験を強いられている、ということなのである。 血管の通路のなかでは、正常なプロセスが、神経の通路へと侵入していくと、神経の通路では、極めて僅かな侵入の場合でも起こり、その僅かな侵入が、炎症の発端に捉えられ、神経組織を様々な病んだ形にする。 神経のなかには、血液のなかとは全く異なるプロセスが、いわば反対のプロセスがある。 血液のなかには、燐的な存在に進むプロセスがあり、その燐的プロセスが、血液の周囲の隣接する組織に侵犯していくとき、炎症を発症するプロセスとなる。 (炎症とは、本来、血液のなかで起こるプロセスが、神経組織に侵犯している状態である。) また、逆に、神経通路におけるプロセスを探求し、神経のなかで起こるプロセスが、周囲の別の隣接する器官や血液のなかにも侵入し移動していくとき、人間は、あらゆる腫瘍形成への衝動が生じ、この衝動が血液のなかにもたらされる結果、血液が不健全な形で、他の器官を養うと、腫瘍が形成される。 (腫瘍形成には、栄養血管という、腫瘍に栄養を送る血液が特異的につくられることが、いまでは分子レベルでわかっているが、また、この栄養血管を埋めて、兵糧攻めにする治療法などもあるが、この講義から、神経組織の発達が深層で関わっているかもしれない。 シュタイナーは、遠まわしで、腫瘍ができるのは、自我の分裂によると語っている。満足いく睡眠がとれずにいると、アストラル体と自我が、睡眠中に霊界に行くことができずに、肉体にその一部が残ってしまい、残った一部が、戻ってきた自我と協調できずに、分離し、腫瘍化する、というような話をしている。 つまり、睡眠中に、1日の経験を霊界に報告に行くのだが、後ろめたい出来事とかがあると、その経験を覆い隠してしまう。報告し終わって帰ってくると、その経験は、もはや自分の一部とはならずに、独立してしまい、拒絶反応として残ってしまう。 喩えるなら、上司に自分がよくみられたいがために、嘘の報告をして、自分を過大視させ、後で大きな問題が起きて、嘘が露わになるようなものである。) 従って、次のような結論に達する。 「いかなる腫瘍の形成も人体組織における本来あるべき正しくない場所で変容させられた神経プロセスである。」 このような事実からわかるように、神経のなかで進行するプロセスは神経のなかにとどまるべきで、血液のなかで進行するプロセスは血液のなかにとどまらなければならない。血液に所属するプロセスが、隣接する組織へと移動すれば、炎症が起こる。 神経に所属するプロセスが隣接する組織に移動すれば、腫瘍形成という通俗名のもとに総称される、あらゆる形成が起こる。従って、神経組織のなかの様々な経過(プロセス)と、血液組織のなかの様々な経過(プロセス)の間に、正しいリズムが生じる必要がある。 一般に、呼吸リズムが血液のリズムとコントラストをなすだけでなく、循環する血液のなかには、血液から出ていくと炎症プロセスとなるような繊細なプロセスもある。 また呼吸が血液循環とある関係となることが必要であるように、この繊細なプロセスも隣接する神経のなかで生じることとある関係になる必要がある。血液リズムと神経リズムの間で、この関係が妨げられるやいなや、再度、元の関係になるように立てなおす必要がある。
2010年06月02日
コメント(0)
全20件 (20件中 1-20件目)
1