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シュタイナーの講義を読んでいると、 古代人は、非常に家族意識が強い道徳や秩序を重んじる精神性をもっていたことがわかる。 例えば、「病人の衣服の一部を墓場に埋めると、魔法の力が生じて、病人が治癒する」というような迷信が残っている地域がある。 それをそっくりそのまま信じるのは、ある種の宗教か、馬鹿だが、本来、それは迷信ではなかったという。 確かに、そのようなことを実際に行ってみるような恥ずかしい現代人はいないだろうし、科学的といわれる現代の視点から解釈すると、理論的にも、そんなことが起こるはずはなく、単なる迷信になる。 ではなぜ、迷信ではないのだろう。 そのようなことを誰かが昔行って、たまたま治っただけなのだろうか? 実は、病人を助ける必要があるために、人間の助け合い、思いやりを育てるために、古代の村長が考え出した知恵であるという。 古代では死者が尊敬されていたという。死はあらゆる人において平等なので、死を迎えることは、人生最高の出来事で、秘儀参入者が、死者の世界を覗けたように、死に参画することは古代人にとっての栄誉だったという。 対して、生きていることは罪で、悪いことをすると、古代では考えられていたという。 そこで、亡くなった人をすぐに忘れないように、記憶に残すために、死者の形見を残して、そのような形見から、常に故人をイメージ思考することで、病人や弱者に対する思いやりを育てたという。また同時に秘儀参入法の切欠にもなったのだろう。 例えば、日本の通夜の寝ずの番などは、死後の世界に参入する、銅の意識への秘儀参入法に非常に近いものがある。つまり通夜は、古代では栄誉ある儀式だったが、いまでは形骸化してしまっている。 喪に服すというのは、死者とともにあの世に行っている期間なのだろう。だから、この世の人には挨拶を控えるわけである。この世の人生をまっとうする、つまり課題を果たす前に、あの世から挨拶をするのは、神々の用意した運命に対する配慮に欠けるわけである 古代とは異なり、現代では、苦労の多い福祉の仕事は、誰もが嫌がる職場だが、誰かがやらなければ、人間の尊厳や人権が奪われ、社会秩序が乱れてしまうわけで、その嫌なことを自ら背負うことに、その人の精神性の高さを感じるわけである。 古代の霊能者は、精神のオーラがみえたので、精神性の高さを表す色彩、例えば、黄金色や菫色や紺色、輝く白色のオーラが、そのような人の衣服にみえたのだろう。古代人は裸なので、衣服はない。 医師の白衣は、外科の散髪屋からきているというが、それだけではないと思う。宗教者の衣服も同じであろう。つまり、オーラである。それが形骸化して衣服になっているのである。だから、現代は、オーラが暗黒の色なのに、白衣を着ているという矛盾した世界となる。 そのような精神性の高さ、気概さが失われ、嫌なことは誰かに任せ、自分は好きなことばかりするというのが、現代人の獣性を生んでいるわけである。自分でできるのに、やろうという自立した意志に欠け、基本的知識さえも他人に聞くような人間というより、家畜のような人が増殖している。 そして、自分の無知のせいではなく、全てを社会や、世の中のせいにする。 社会福祉がどれだけ発展しているかで、人間の精神性が、ある程度推し量れるだろう。社会福祉を金儲けの道具にしているようでは、獣の精神性に堕落しているといえるだろう。 いま人類は、非常に深刻な時期にきている。 したがって、「病人の衣服の一部を墓場に埋めると、魔法の力が生じて、病人が治癒する」というのは、故人に対する思いやりを育てれば、それが、病人に対する奉仕の、福祉の力となるということを詩的に語ったものであることに気づかされる。
2010年07月29日
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古代人の経験は宇宙に関連していた。古代人にとっての地球は、現代人にとっての地球のような確固とした一貫性をもたなかった。 古代人が、特別好ましい条件下、例えば、火星に住む精神的存在との親しい交流の中で生きるとき、秘儀参入者が第2の人間の(銅の)意識から知覚できるような存在(死者)たちを伴って、月から、ある存在たちが訪れる瞬間があった。 (かぐや姫を彷彿とさせるような話である。古代カルディア人は、火星の霊的な存在と良好な交流をしている際に、死者を伴って、月の霊的な存在がやってきて、出会っていた、というのである。 この出会いは、現代人では、睡眠意識に相当し、現代人も夢のなかで恐らく出会っているのだが、秘儀参入者のように眠らずに覚醒できれば死者との遭遇を意識できるが、その分、苦痛を伴うわけである。このような話に似たものが、カールセーガン監修の映画「コンタクト」にあった。) 古代カルディア人たちは、死後の生活に関する崇高な真実を、このような間接的な形で知った。つまり、古代人は、これらの真実に関する教唆を、外なる宇宙から受け取った。 仲介者の援助なしに死者を追及できる今日(1924年)の秘儀参入者にとって、古代の火星との関係は、もはや必要ではない。秘儀参入者は、死者の経験を遡って順番に、それぞれの経験を逆方向に辿ることができる。 しかし、秘儀参入者が、第2の人間と同化するとき、現象世界よりも遥かに現実的な世界に自分が置かれているのを見出すことが不思議に思えてくる。この現象世界(この世)と、この現象世界での経験の総計が、秘儀参入者が参入する堅固で厳格な事実の世界に比べると、まるで実体がないように見えるからである。 今述べたような方法で、死者に同伴するとき、秘儀参入者は、あらゆる事柄を増幅したスケールで経験する。すなわち、あらゆることがより強烈に現実的な出来事として現れる。その世界に比較すると、現象世界は、漠然とした印象を残す。 秘儀に参入した意識を通して、死者の世界に関係する者には、現象世界は色のついた仮面舞踏会のようなものである。瞑想を通して秘儀に参入し、死者と、上記のように、密接な関係を持った者は次のように言うだろう。 「お前たちは皆、色のついた仮面だ! お前たちに現実性はない。ただ色のついた仮面が椅子の上に座っているのだ!」 真の現実は、物質的な存在領域を超えた処だけに見つけられるが、そのような現実を、私(シュタイナー)の神秘劇で経験できる。その神秘劇に登場するストラーダという役柄は、実在の人物に基づいている。 ストラーダは19世紀の最後の3分の1から20世紀にかけて生きた人物の詩的で非現実的な側面を表現している。ストラーダのモデルは、実際の人生において非常に興味深い男だった。彼の人生の出発点はカプチン修道士会の見習いだったが、哲学のためにその職業を捨て、しばらくの間ドルナッハの修道院に滞在した。 私(シュタイナー)は、彼を神秘劇の中でストラーダに仕立てた。それは彼を忠実に再現したものではないが、ある程度似たところがある。覚えている人もいるだろうが、神秘劇第4番でストラーダは死ぬ。 彼のキャラクターを、更に展開する可能性全てを使い果たした為に、彼を死なせるより他になかった。もし、彼を生かし続けるように試みたなら、続けてペンを取ることができなかっただろう。神秘劇の第5番に彼が再び登場する可能性がなかっただろう。 では、何故そうなったのか? 僧から哲学者へと役割を変えていたストラーダの当の人物が、その間に亡くなったのである。私(シュタイナー)は、その人物に対して深い興味を抱いていたために、(死後も)彼の旅路を、精神世界を通して追求できた。 死後の彼の人物像によりもたらされる印象は遥かに現実的だった。彼の地上での生活と活動は、彼の死後の生活での経験に与ることができる今となっては、もはや興味を起こさせるものではなかった。 そのとき、奇妙な出来事が起こった。人智学徒の何人かが、ストラーダのモデルの顛末に気づいた。彼らは、ストラーダが、おおよそ、ある歴史上の人物の横顔であることを手際よく見つけた。 その探求の過程で彼の未公開の原稿や彼が書き残していた、あらゆる種類の興味深い書類を発見したので、その発見に大喜びするものと思って、それを持ってきたが、そのときには、ほとんど興味のないものだった、というわけである。 一方、私(シュタイナー)が本当に興味を持っていたのは、彼の死後の行為だった。この遥かに現実的なものに比べれば、彼が後に残していった外(物質)的世界に関する資料は、何の意味もないものだった。 それほど骨を折って集めた情報だったが、私(シュタイナー)がほとんど興味を示さなかったので、人智学徒たちはかえって驚いた。そのとき、本当にそれを必要としていなかったからである。今(1924年)も勿論、必要ない。 この世の現実とは、秘儀参入者が、死の門を通った魂を追求していくときに明らかになる崇高な現実に比べれば、空虚なものである、というのは本当である。 死者の魂が、死の門の向こう側で滞在する世界は、秘儀参入者が、肉体を捨て去り、第2の人間と同化するときの短い間とはいえ、その短時間の間に、多くを経験できる。 現象世界に直接に境を接する、あの世の存在は全く疑いのないものである。そこは、死者たちがより豊かに生きる世界である。肉体の放棄による第2の人間を通して、死者を理解するが、それは、意識を喪失したというよりも、むしろ、意識がより深く融合したことを意味する。 もし、意識を心臓の中心よりも上に上昇させるなら、意識は曖昧になり、無意識の状態に近くなる。もし、心臓の中心よりも下に下げるなら、意識は強められる。そのとき、真の世界に参入するが、その結果として必然的に生じる痛みや苦しみに耐えることを学ばなければならない。 とはいえ、もし、この世を取り囲む壁を、勇気と決意を持って突破するなら、死後の世界への参入は確かなものになるだろう。 通常の日常的な覚醒意識から、喉頭にある第2の意識(鉄)、両目の眉間にある第3の意識(錫)、頭頂部にある宇宙に達する第4の意識(鉛)、そして、空間世界とは関係を持たず、時間の世界に連れ戻す心臓より下部の腹部にある第5の意識(銅)に関する理解へと到達した。 この第5の意識レベルを達成するとき、死者たちと同じ逆向きの時間軸(時間が過去に進む世界)を共有し、時間の中を旅することになる。秘儀参入者は空間から出て、時間の中へと足を踏み入れる。 従って、新しい世界を、眼前に開示する別の意識状態の中に、自身を移せるかどうかに、全てがかかっている。地上の人間はいわば1つの隔離された世界の囚人である。 何故なら、たった1つの意識状態しか知らず、他の全ての意識において、睡眠状態にあるからである。もし、それらを覚醒させ、発達できたなら、別の世界を経験できる。 人間は、意識を変化させることで、自身を変化できる、というのが精神的な探求における秘密である。現在行われている通俗の方法による探求や研究により、この世とは異なる別世界へは参入できない。自身が変容を遂げ、意識を、これまでの通常とは異なる別の新しい形態へと変化させなければならない。 (秘儀参入法の名残りが、ヨガともいえる。ヨガは古代の意識の変革方法なのであろう。人間の肉体は日々変化していっているので、現代人が、古代人と同じようなヨガをしても、意識を変えることはできないだろう。 シュタイナーは、太古には、宗教は存在しなかったと述べている。宗教はずっと後になってできたもので、中国人や古代の日本人やインド人は無宗教だったと述べている。 それは、真実を霊能力で直接捉えることができたので、シュタイナーは、イメージ思考と呼んでいるが、宗教のようなまわりくどいものが必要なかったからである。 例えば、老子の出典の「真実を知る者は語らず」のようである。 シュタイナーは古代人の方が精神的に高度で、人間は、次第に堕落してきたと述べている。その代わり、肉体は、古代よりも進化し、悟性が発達し、覚醒意識が生まれたとも述べている。 覚醒意識のお陰で、自他の比較ができるようになり、具象から一般へと抽象的な概念思考が可能になり、法律ができたと述べている。古代人には法律がなく、あの世から命令されるままに、行動したという。 つまり、イメージが現れ、イメージは、神々の命令として理解され、その通りに行動できたわけである。宇宙の秩序がそのまま人間の秩序に置き換わったわけである。 例えば、古代人の言葉には、神々の名が頻繁に出てくるが、それはイメージ思考、つまり命令を意味していたのである。詩などは、その名残りである。 現代風に直訳すれば、例えば、座禅が、「仏陀」等になるわけである。ある意味で「ネット検索する」を「ググる」と言う感覚に近い。 「検索」という抽象言葉よりも、「グーグルで検索する」というイメージが沸くので、具象に近い。電子レンジで「チン」するという言葉なども、古代人の具象的なイメージ思考に近い。ただし、古代人のイメージはもっと具象的で正確である。 しかし、イメージのまま行動するので、逆に、自由意志がなかった。神々の命令に背くことができなかったわけである。勿論、戦うのも、命令である。だから、戦いは神々の代理戦争になる。 それが堕落し、いまでは利己主義者の聖戦という自己宣伝に使われる。抽象概念のせいで、利己心と一体化し、悪魔に堕落したのである。聖書の知恵の実とは、悟性の抽象概念のことであろう。 逆に、神に逆らう自由を人間は得た。しかし、古代人ならわかるが、概念思考を用いる現代人が神の名を語るのは偽りとなる。現代人は神の名を語れないからである。このことをニーチェは、「神は死んだ!」と表現するわけである。 古代ギリシア時代辺りから、古代人の霊能力によるイメージ思考ができなくなり、ソクラテスが「神々との対話」として語るように、いわば秘儀参入が当たり前でなくなった頃から、哲学という、まわりくどい秘儀参入法や、宗教が生まれたというわけである。 考えてみれば、戦争ばかりしている現代人の精神性が高いわけなかろう。土地を奪い合い、人間同士で戦い、競争し、所詮、皆同じ人間なのに、自分たちの優越性を誇示する幼稚性は、高度の知性からみれば、猿に近いものである。 私は、最近、海水魚を飼育しているのだが、海水魚は縄張り意識が強く、特にケンカばかりする海水魚は、水槽を分離するしかなくなる。地球上の国境や国が、このような水槽分離の状況にある。 海水魚にとっては死活問題なのだろうが、飼育者としては、余計な配慮である。 つまり、人間も海水魚に似てきつつあり、精神性を問題にするなら、人間は猿から進化したのではなく、猿に退化しつつあるといえる。 特に昨今の子供虐待や無差別殺人事件等などをみると、猿に近い存在になりつつあるような気がする。実際、加害者の部屋をTVでみたが、とても人間が生活しているとは思えない、掃除を知らない獣の飼育部屋のようであった。 精神が退廃すると動物と似てくるようである。シュタイナーによれば、現代の動物も、高度な精神性を持っていた動物のなれの果てだという。動物は人間より後から発生し、徐々に堕落し、いまの動物となったという。 例えば、ヨハネの黙示録は、かつて高度の精神文化をもつ人類のなれの果てが猿のような獣になることを警告している。 そろそろ、抽象的な概念思考を使い、他者を愚弄するのは止めにすべきであろう。要するに、自分たちの優越性を誇示したい欲求に囚われているだけのものに思える。 そのような思考こそ、幼稚な思考であろう。抽象概念から、具象イメージに向かうべきであろう。お互い理解しあい、共存共栄の道を目指すべきだろう。)
2010年07月29日
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秘儀参入者が、(覚醒)意識を持ちながら、銅の意識状態に向き合うとき、自分の中に第2の人間の存在を感じる。この経験は重要な示唆を含む。なぜなら、次のような状態に自らが到達できるからである。 「誕生と同時に教育の産物であり、世界を理解する道具である通常の自我は、人生を通して、自身と共にあるが、銅の意識状態から、勢いを得た第2の人間の中に、訓練や瞑想を通して、新たに知覚能力を覚醒させることができる。」 この第2の人間は、実際、特筆すべき存在である。この第2の人間は、目や耳を別個にもつのではなく、それ自体が同時に目であり耳である存在なのである。第2の人間は繊細な知覚能力をもつ感覚器官に似て、通常知覚できない存在を知覚する。そして、世界は突然、豊かなものになる。 まるで、蛇が脱皮するのと同じように、わずかの間(2、3秒の間に多くが経験されるが)に、この第2の人間の、いわゆる「銅」人間は肉体を脱ぎ捨て、精神世界を自由に動き回る。 代わりに、痛みが増す、という代償を払うが、肉体から離れることができる。肉体から離れるとき、更に幅広い経験が得られる。肉体を捨て去ることができる地点にまで達しているならば、死の門を通過した人間を追っていくことも可能になる。 その場合、亡くなった人間の地上的な関係は終焉を迎える。死者は埋葬されるか荼毘に付され、地球との関係を断ち切っているからである。 秘儀参入者が第2の人間とともに、いわゆる超感覚的な知覚と共に肉体を捨て去るとき、死後の魂が辿る旅路を追っていくことが可能になり、そのとき、死者の魂が死後の最初の数年、もしくは数十年かけて、生前の地上における人生を逆向きに辿りながら過ごすことを知る。 秘儀参入者には、これは観察できる事実である。何故なら、秘儀参入者は、死の門を通って、死者の魂を追求できるからである。人間が人生を要約するのにかかる時間は、大体人生の三分の一の長さである。60歳で死ぬ人はおよそ20年かけて人生の経験を要約することになるだろう。 秘儀参入者は、この期間にわたって、死者の魂を追求できる。そして、死後に辿る人間の経験に関して多くのことを知る。 人生を要約するとき、その経験は逆向きになる。そこで幾分簡単な例を挙げる。 死者が、死ぬ3年前に、誰かの横面を引っ叩いたとする。死者は、生前、叩いた相手にウンザリしていたので、怒りを爆発させ、物質的、道徳的な痛みを与えたわけである。 死者は、生前、自分を怒らせ、叩くという、相手に与えた罰により一定の満足を得た。さて、死者は、死後、生前の人生を逆向きに要約する。 死の3年前なので、死後、遡って1年後(3年の3分の1なので)に、この出来事の経験にきたとき、死者は、自分の経験した元の怒りの爆発ではなく、その爆発の餌食になった相手の物質的、道徳的な痛みを(叩いた相手に成り代わって)経験する。 死者は、叩いた相手の感情の中に入り込み、その横面に残った手形を(文字通り)物質的に経験する。つまり、死者は死者が与えた痛みを体験するが、同様のことは、あらゆる行いにもあてはまる。 死者は、死者の行いにより、巻き込まれた人が経験する出来事を、(その人に成り代わって)その通りに経験する。死後、人間の魂が通過する、このような全ての経験を、秘儀参入者は追跡できる。 (死後、生前行った自分の行為を、自分以外の相手の立場から、時間が3分の1になるので、3倍に濃縮され、経験するという。このことをスウェーデンボルグは最後の審判と呼んでいる。 だから、生前、誰かを殴れば、殴られた相手の痛みの3倍の痛みを、最後の審判で経験することになる。この審判は、個人レベルの審判だが、ヨハネの黙示録に預言された最後の審判は、人類レベルのものといえる。 シュタイナーは、人類は昔1つの巨大な頭「脳」だったので、その頭はアダムカドモンと呼ばれていた、と述べている。そのとき、地球は、1つの頭「脳」だったという。 それから、太陽が地球から出て行き、アダムという人間から、動物が分離し、更に、月が地球から出て行き、アダムから、植物が分離したという。 太陽は、以前は、地球と共にあったので、内側から人間に養分を与えていたが、外に出るに従い、外から、地球の1部しか照らすことができなくなり、人間は、受精後の細胞分裂のように、小さくなり、増加していったという。 つまり、アダムという地球全体、つまり人類全体の運命が、個人個人の運命に分派していったようである。聖書の誤解釈のせいで、アダムは1人の人間と想定されているが、これは大きな間違いで、太古の巨大な地球のことで、頭であるという。 いまでも、胎児は頭からつくられるが、それはこのアダムカドモンを意味している。イースター島に残るモアイ像のような巨大な頭の像は、かつての地球の歴史、つまりアダムカドモンに遡る像なのだろう。 やがて、地球は、土星状態から、太陽状態になるが、そのとき地球は、いわば1つの母胎状態にあるので、恐らくエヴァと呼んだのだろう。 やがて太陽のエヴァから、月状態になり、悪への可能性が生まれ、地球状態になると、悪と善に分かれたので、月のエヴァから、悪魔に唆され、知恵の実を食べた地球のエヴァになる。 つまり、聖書は、人類の歴史とともに、地球の歴史を同時に記述しているのである。アダムやエヴァは、個人名ではなく、地球の霊的な名なのであろう。 知恵の実を食べたエヴァから、聖霊の子を宿すマリアに戻ること、つまり地球の霊的な再生が、マリア信仰やイシス信仰に隠されている。 例えば、霊界では音が反対に伝わるので、エヴァ(EVA)は、アヴェ(AVE)になり、アヴェ(AVE)-マリアは、物質界のマリアに、天界のエヴァに戻れ!という意味をもつという。また、オシリスやキリストの伝説も、霊的復活にある。 受胎に関しても、本来、肉体とは無関係で、善意が芽生える、というような精神的な覚醒のことを意味する。簡単に言えば、許容力、寛容精神を身につけることである。) 古代カルディア人たちは、文化的な衝動を秘儀の教えに負っていたので、死後の出来事に関して、現代人よりも遥かに深い洞察をもっていた。 注目すべきは、現代人が、心臓の金意識の中で生きているのに対し、当時の古代カルディア人たちは、実際、喉頭の鉄意識の中で生きていた、という事実である。古代人にとっての自然な意識とは、一種の鉄意識だった。
2010年07月28日
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金と鉄に次いで、錫の金属性やその色や実質に意識を集中することで、秘儀参入者の意識を、錫に同一視できる。すると、意識が更に高いレベルに上昇するのを感じる。もし、十分な準備なしに、この錫の意識段階への参入を遂行するなら、ほぼ完全に気を失い、ほんの僅かな意識の兆候も残らない、という事態になる。 もし、予め前もって十分に準備してから取り組むのなら、この錫の減退した意識状態の中でも自分を保持することは可能で、覚醒意識が肉体から更に遠くに退き、最終的には両目の間にある領域まで達するのが感じられる。 (この錫の意識は、眉間のチャクラ「蓮華」ともいわれている。) そのとき、広大な宇宙の広がりが自身を包み込むが、まだ太陽系の領域の中にいる。とはいえ、地球は遥か遠くの天体のように感じられる。そして、秘儀参入者は、地上に肉体を残し、宇宙へと上昇し、星々の営みに与っていることを確信する。 このような事実全ては、ここに述べるほど単純ではない。これまで述べてきた秘儀参入の道に従うときに経験すること、すなわち、意識を、喉頭や頭蓋底部、或いは眉間に合わせることなどは、これら様々の意識が人間の中に常在している、ということを示している。 (様々な意識はあるが、開発されていないため、眠っている。) 人間は皆、自身の内に、このような意識状態をもっている。しかし、その事実に気づいていない。それは何故なのか? 人間とは複雑な存在である。それは、もし、喉頭組織全体(鉄)に、意識を集中した瞬間、脳や感覚器官なしですませることができたなら、喉頭組織の意識の曖昧な感情、微かで無意識的な感情から自由にはなれないからである。 実際、そうである。このような鉄の意識は、通常の心臓の意識、いわゆる金の意識により覆い隠されている。人間全てが共通して持つ意識であり、人間として成立させている意識の一部だが、人間を構成する意識に与る部分は、地球以外の星々(天体)の中に存在し、地球上には全く存在しない。 錫の意識は遥か宇宙の中に横たわっている。地球が、人間の唯一の住居である、というのは真実ではない。人間の意識を、地球につなぎ止めているのは心臓である。 喉頭を中心にする意識は、宇宙の中(火星)に存在し、更に遥かな宇宙の中(木星)に位置するのは、眉間を中心にした意識(錫)である。すなわち、鉄の意識は火星の領域を包含し、錫の意識は木星の領域を包含する。 金の意識において唯一、人間は地球に属する。人間は常に宇宙に織り込まれているが、金の意識が、その事実を覆い隠しているのである。 もし、鉛もしくは同様の金属について瞑想し、その実質と金属性に意識を集中すれば、完全に肉体を棄て去ることになる。肉体とエーテル体は確かに地球に取り残され、奇妙で遠く霞んだ存在のように見える。 岩の上にのった石コロが岩にとっては何の興味もないのと同じように、肉体とエーテル体を捨てた魂は、それらに、何の興味も起こさせないようになる。意識が頭頂冠(頭蓋の縫合線)を通って、肉体から抜け出たからである。 宇宙の中では、どこを見ても微量の鉛や鉛の気配を常に見つけることができる。この鉛の意識形態は遥かな空間に達する。そして、頭蓋を中心とする意識により、人間は常に完全に無感覚の状態にとどまることができる。 では、例えば、人間が習慣的に生きるような幻想状態を思い描いてみる。現代人は、机の前に座って計算をしたり、文章を書いたりするとき、頭(脳)を使って考えていると思いたがる。実際はそうではない。 地球に属するのは、思考を行う意識的な頭(脳)ではなく、その物質的な側面だけである。頭部の意識は喉頭から上の遥か宇宙まで(火星の軌道領域まで)広がっている。宇宙が顕現する(思考を行う)のは、頭部を中心にした意識だけであり、誕生から死までの人間の条件を決定するのは心臓を中心にした意識なのである。 よい文章を書くか下手な文章を書くか、自分の利益が隣の人の不利益になるかどうか、というようなことは、心臓を中心にした意識により決定される。従って、人間の頭部の意識が地球だけに限定されていると考えるのは全くの幻想である。何故なら、頭部は、実際には、永続的に(地球に対して)無感覚状態にあるからである。 頭部から解放されている「痛み」により、頭部以外の他の器官が、奇妙にも苦しめられるのも、上記の理由による。 この点に関してもう少し述べる。現在の状況(1924年)では、現代人が、この頭部の意識状態になる理由を見つけるときには、自身の分別知的な心臓意識が根絶される、つまり、精神側から、意識全体が崩壊し、完全な無感覚状態に陥るという絶えざる危険に晒されることになる。 このような事実から、人間に関して次のような事実が想像できる。 人間は喉頭(鉄)において、動物界の元型にまで達する意識を発達させる。それはアストラルに属する意識だが、通常の生活において、その意識に気づくことはない。 更により高いレベルでは、植物界の元型に関する意識が両目の領域(錫)にあり、下方に、その意識を映し出すイメージがある。 全ての頂点に冠せられるのは土星の領域に達する鉛意識だが、頭部を中心とした意識は、例えば、人間の書く記事の内容等には注意を払わない。そのような知識等は、心臓を中心とした意識の産物なのである。 とはいえ、頭は、宇宙空間で起こっている事象を完全に意識している。地上の出来事や活動に関する記述は、心臓に端を発するものだが、頭を中心とした意識が集中できるのは、神的存在が、黄鉄鉱の中、もしくは食塩や水晶の結晶の中に自らを顕現する方法に関するものなのである。 秘儀参入者の意識から、例えば、聴衆をざっと眺めるとき、聴衆が、講演の内容を心臓で聞いている間、心臓意識より高次の他の3つの意識が、外なる宇宙にある、ということが明らかになる。宇宙は、通常の地球意識に知られているような活動とは、完全に異なる階級に属する活動の舞台なのである。 宇宙の中で、特に、活発に、遠くへと、広範に放射されるものの中で、人間のために紡がれるものとは、人間の運命の織物、すなわち、カルマである。 このように人間の宇宙に対する関係を通して、徐々に人間を理解できるようになる。すなわち、人間が、外界と根元的な関わりを、いかに持っているか、外から意識を根絶される危険、無感覚へと還元させられる危険に、いかに曝されているか、そして、結局、心臓によって、いかに人間が支えられているか、を理解するようになる。 また、鉄、錫、鉛以外の他の金属に関して瞑想するとき、これまでと精神的なアプローチ(意識の集中方法)は異なるが、同様の手続きを踏むことができる。 例えば、銅の金属としての性質について瞑想するには、それと溶け合い、1つになる必要がある。そのとき、秘儀参入者の魂全体が銅によって、すなわち、銅の色や密度や、その奇妙な筋の入った表面に浸透される。 要するに、銅の金属性に対する魂の反応と完全に同一視される状態になるが、そのとき、経験するのは、無感覚への段階的な移行ではなく、むしろその反対である。 秘儀参入者の内(精神)的な存在全体が、何かで溢れるような感覚を持つ。つまり、反応がより鋭敏になる。銅について瞑想するとき、自身の存在全体に浸透する、という明白なイメージを持つ。そのようなイメージは、心臓より下にある中心から放射し、体全体へと分散する。 まるで、自分の中に第2の体や第2の人間をもつような感覚である。また、内的な圧力を感じる。このとき、いくらかの痛みを伴い、その痛みは徐々に増加する。身体の全てが、まるで内的な緊張状態にあるか、のようである。
2010年07月27日
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さて、鉱物界から、更に学ぶことができる。これまで鉱物の結晶に関する話を述べてきた。既に鉱物の外的な形態に関して議論したが、今度は、鉱物の組成や構造、実質や金属性に関して理解すると同時に、ある種の基本的な金属が、様々な形で安定化の要素として、いかに働くか、を見つけることができる。 この段階から初めて、人間が宇宙といかに関連しているか、を理解し始め、様々な金属の特徴、鉱物という存在の実質に関して学び、前回触れた人間の中にある重心を本当に感じ始める。 これから述べることに関しては、鉱物(物質)界の記述用語を、どうしても使わざるを得ないが、文面の上だけで受け取らないようにして欲しい。例えば、心臓や頭について語るとき、現代の常識的な観点では、物質的な心臓や頭が突如として魔法のように自然発生した存在とみなすが、それらの起源は、勿論、精神である。 従って、人間を、全体性において、すなわち、肉体と魂と精神から構成されている(三位一体の)実体として見るなら、人間の重心は心臓にある、という明白なイメージが得られる。心臓にあるこの重心は、人間を極端に走らせることから防御し、同時に外的な状況によって翻弄されることをも防ぐような安定性を付与する。 もし、前回触れた勇敢な精神を保つなら、結局は、自身がしっかりと宇宙に繋ぎ止められている真実を見つけることになる。 意識を喪失している人は、しっかりとは繋ぎ止められていない。もし、魂にショックを受けた状態(というのも、そのような条件下では、通常よりも痛みを感じやすく、結局のところ、「痛み」とは内的な感情が増幅されたものである)であれば、通常の意識状態にはない。 「痛み」のある状態では、通常の覚醒意識は排除される。 (モルヒネ等の麻酔で、「痛み」を回避できるのは、意識状態を変えているといえる。だから、多用しすぎると、覚醒意識に戻れなくなるわけである。) 人間は誕生から死ぬまでの間、一種の中立的(中間的)な意識状態下に生きるが、これは日常生活での通常の目的にとっては都合がよいが、この意識があまりにも弱く、過度に希薄なものになると、気を失う。もし、気を失わない程度に、その状態が、あまりに濃縮されたなら、結果として「痛み」が生じる。 (物質と精神の釣り合い、つまり均衡から、意識が保たれている。例えば、弦は、節が固定されることで、波の振動として音を表現できる。節の固定を物質の力、波の振動を精神に置き換える。 もし、節の固定部分、つまり物質の力が強すぎると、波の振動は微弱になり、精神は緊張するし、節の固定部分、物質の力が弱すぎると、波の振動が乱れ、精神は乱れる。 意識は、この均衡を統べる秤のようなものなのだろう。) 気絶状態での意識喪失、そして、「痛み」の影響での緊張状態等は、正常から外れた両極端な意識状態を示している。 この両極端の意識は、鉱物界における結晶の実質を理解するようになる前の、鉱物界に対する秘儀参入者の反応、すなわち、気絶状態において、自分が絶えず宇宙の中に解消されてしまうかのような感情と、または、痛みの影響下で、自分が崩壊してしまうか、のような感情を示している。 (喜怒哀楽を育てなかったために、覚醒意識における自己喪失と同時に感情も失い、空虚感が押し寄せる場合と、喜怒哀楽が利己主義と一体となっていたために、覚醒意識における自己喪失と同時に、感情の保持が困難になり、感情の矛先を向ける対象を喪失する場合といえる。) この両極端の意識に走りそうなとき、安定性を付与する全てが心臓の領域に集中しているという事実が、秘儀参入者には感じられる。 そして、もし、秘儀参入者が既に示したレベルにまで自身の意識を発達させていたなら、通常の覚醒意識を支援し、幾分雑な表現になるが、「当たり前な」意識にしている存在は、地球上に細かく分散し、他のどの器官に対するよりも、特に心臓に対して直接的に働きかける黄金、すなわち金の元素である、ということが分かる。 これまでの講義から、鉱物の形成、結晶化に関する知見を得た。今度は、その実質、その金属性を知ると同時に、金属が人間にいかに働きかけるか、を認識する。 外界では、特に鉱物界において金属が結晶として形成されるのを見ることができる。同時に、内(精神)的には、地球上に細かく分散した金の力が、人間の心臓を維持し、日常生活における通常の覚醒意識を支えている、ということが分かる。 金は人間の心臓という中心点に働きかける。この知見を基にして、更なる鉱物に対する探求をスタートさせる地点に立てる。 もし、既知の金属である金を取り上げ、その色や固さ、またその成り立ちや構造に関するあらゆる側面を探求すると同時に、その経験を内(精神)的な現実へと変化させたなら、金は心臓に関係している、という事実を見つけるが、別の金属、例えば鉄と鉄の性質を探求するなら、また鉄が人間にどのような影響を及ぼすか、を見つけることができる。 黄金には調和をもたらすような、緊張と対立を解消させるような効果があるために、人間は、黄金によって平衡状態を取り戻すことができる。 もし、秘儀参入者が、金の全ての側面に精通した後、鉄に心を集中させたなら、つまり、宇宙全体を忘却し、鉄という金属だけに意識を集中することで、いわば内的に鉄と溶け合い、鉄と1つになるなら、あたかも自分の意識が心臓の領域から上方に移行するかのように感じる。 意識が心臓から喉頭へと上昇するのを追っていくときに、覚醒意識を保ちながら、十分に精神的な訓練を遂行していれば、害はない。そうでなければ、多少の眩暈を感じる。秘儀参入者の意識が上昇するとき、強力な内的な活動、高次の覚醒意識を発達させている、という事実により、この状況を認識できる。 この上昇する意識の中に、徐々に自分を移行させるとき、動物の集合魂が見られる世界に接触する。鉄の金属性に(覚醒)意識を集中することで、アストラル界に参入できる。 秘儀参入者が、金属の形態に精通するとき、高次の精神的な存在たちの領域に至る。すなわち、金属の実質や金属性に精通するとき、アストラル界、すなわち魂の世界に参入する。意識を喉頭へと上昇させると同時に、新しい領域の中に現れ出るが、このような意識の移行が起こるのは鉄に意識に集中したからである。 そのとき、もはや自分が以前と同じ人間であるとは感じない。もし、この状態が十分に明晰な意識の中で達成されたなら、それまでの自分の自我を超越し、エーテル界に自我が参入したと感じる。秘儀参入者にとっては、もはや地球は消滅し、興味のないものとなる。 惑星の領域に上昇し、そこをいわば住居にする。このようにして、徐々に肉体から退き、宇宙の中に組み込まれるようになる。金から鉄への道は宇宙へと続く道となる。
2010年07月23日
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鉱物の結晶構造が、高次世界への素晴らしい探求の鍵を与えるとき、秘儀参入者が経験するのは、上方から流れくだる宇宙的な植物のエネルギーとは対照的な、下方から流れあがる宇宙のエネルギーである。 秘儀参入者は、至る所にエネルギーの流れや、それに対抗するエネルギーの流れ、或いはまたあらゆる方向から1点に向かう宇宙的なエネルギーの流れを見る。植物の場合、上から下へと向かう宇宙エネルギーに対する抵抗を提供するために、地球から植物として生えてくる。 鉱物の場合、全宇宙からやって来る、宇宙エネルギーの流れの自由な相互作用によって創造されたことが分かる。鉱物-結晶世界の場合、植物とは違い、地球からは何も反射されない。全てのエネルギーが鉱物自身の要素のなかで反射される。 例えば、山の中で水晶を見つけたとすると、通常、それは垂直に立ち、その元の部分が岩の中に埋め込まれているだろう。水晶が岩の中に埋め込まれるのは、妨害的要素として働く、地球的な、アーリマン的な力の介入によって説明できる。 実際、水晶は、(宇宙の)あらゆる方向からくる精神的な要素による圧力によって形成される。つまり、宇宙空間の中では、様々な反射から生じる結晶面の自由な相互作用による多様な結晶を見ることができる。 全ての結晶面が完全な図形として形成された各々の結晶自身は、1つの小さな世界となる。 さて、多数の結晶型、例えば、立方体、四面体、八面体、斜方晶系、十二面体、単斜晶系、三斜晶系等、実際に考え得るだけの、あらゆる種類の構造がある。 結晶構造を検証するとき、宇宙エネルギーの流れがいかに1点に集中し、相互作用することで、例えば、先端が六角錘になった六角プリズム形の水晶、または立方体の形をした食塩の結晶、もしくは十二面体の形をした黄鉄鉱の結晶が形成されるかを記録できる。 結晶のどれもが、上述した宇宙エネルギーの流れから形成される。そして、宇宙空間には、地球にある様々な結晶の数と同じだけ多くの宇宙力があり、すなわち、本当に結晶の数と同じだけの多くの世界があり、秘儀参入者は、宇宙の無限性を洞察し始める。 結晶構造 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B5%90%E6%99%B6%E6%A7%8B%E9%80%A0 (宇宙には、結晶の形の数に相応する数の力があるという。) 秘儀参入者は、例えば、食塩の結晶を見るとき、精神的な原則が宇宙の中で働いているのが分かる。食塩の結晶は全宇宙に浸透する精神的な現実の顕現であり、自身で1つの世界なのである。 食塩 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A1%A9%E5%8C%96%E3%83%8A%E3%83%88%E3%83%AA%E3%82%A6%E3%83%A0 (食塩の結晶構造は、面心立方格子で、配位幾何構造は、八面体) プラトン立体 http://www.c-player.com/ad00178/thread/1100069765734 また、十二面体を検証することで、宇宙には、空間に浸透する何かが存在している、ということ、すなわち、結晶とは、ある1つの世界全体が刻印され、顕現したものである、ということが分かる。 色々な結晶構造をみることで、各々の結晶自身が1つの世界である無数の存在を、人間は見つめている。従って、地上の人間は、自身から、次のように結論づける。 「地球という領域は、多数の世界の活動が、集中する焦点である。」 実に様々な存在の思考と行為が、地上における人間の思考と行為の中に映し出されている。数学的-空間的な結晶という形態の無限な多様性の表現の中に、多様な存在による活動の複合点が見つけられる。 秘儀参入者は、結晶の中に神の存在を認識する。この宇宙の崇高な秘密が人間の魂を捉え、宇宙に対する尊敬や崇拝の感情として現れるほうが、理論的知識を、知識的基盤から人為的に集めることよりも遥かに重要である。 人智学は、人間が、この「宇宙と1つである」という感情に導くものでなければならない。人智学を通して、神的な存在が織りなす働きを、どの結晶の中にも知覚できるようになるだろう。そうなれば、宇宙的な知識とその理解が人間の魂全体に溢れ始める。 (人間は、幾何学を志向すべきであろう。幾何学を学ぶことで、宇宙の秘密を理解し、尊敬の感情をもつことが必要なのであろう。現代人に欠落している徳性といえる。 人間のなかに、神性があるのに、それを活用せずに、つまり生きた知性を育成せずに、専門家といわれる死んだ知識を頼みに利用するのは、愚の骨頂といえる。依存心ばかりが膨らむだけである。 自分で解決できなければ、根本的解決にはならない。多くの現代人が、自ら理解せずに、死んだ知識を利用するこの盲点に陥っている。) 人智学の使命とは、知的能力だけに訴えるのではなく、人間全体を照らし出し、人間が全体として宇宙に包含されている事実を示すと同時に、宇宙に対する尊敬と崇拝の念を、人間の中に呼び起こすことなのである。 世界の中のいかなる対象やいかなる出来事にも、人間の心と魂から出る無私なる奉仕の精神が向けられるべきである。その無私の奉仕に対しては知識や理解という報償が与えられるだろう。 秘儀参入者は、全てである宇宙と関わり、結晶-鉱物世界の顕現として個々の結晶を見るとき、満足感に満たされる。しかし、同時に、既に述べた恐怖と不安の状態が、即座に戻ってくる。 秘儀参入者は、結晶の世界のなかの神的な秩序を見つける前、恐れに満たされていた。 神的なインスピレーションを受容した世界を理解するとき、恐怖や不安の感情は消滅するが、しばらくすると、再度、不可思議な胸騒ぎが心を捉え、結晶の全形成過程は実体のないもので、ただ部分的支柱を提供するに過ぎない、という恐怖(猜疑)心が再起する。 例えば、既に述べた2種類の結晶、つまり食塩と、金属の結晶である黄鉄鉱を取り上げる。黄鉄鉱の結晶は、堅固な支柱を提供でき、耐久性があるような印象を与える。一方、食塩の結晶は、堅固な支柱に見えず、実体がないので、自らを支えるには、食塩の結晶を支柱とするのは不可能で、突き抜け、落下するように感じる。 要するに、ある種の形態に関して、一度、秘儀参入者を捉えた恐怖、つまり、地球が無になり、深淵の上に吊り下げられているような恐怖は、最終的には克服されていなかったのである。 この恐怖の感情は明白に道徳性を示唆している。この恐怖が舞い戻ってくるとき、自分が過去に犯した全ての罪ばかりでなく、これから犯す可能性のある罪にも気づかされることになる。 この恐怖心は、秘儀参入者を引きずり下ろす、いわば鉛の錘として働き、鉱物の結晶が、今にも、自分を飲み込み、眼前に広がる深淵の中へと、投げ込むようなイメージを与える。 秘儀参入者は、この時点で、更なる経験に備える準備が必要である。様々な経験の総和は、人間に勇気を持つことを要求している、ということが分かる。 秘儀参入者は、勇気から、確信を持って次のように宣言する。 「私は堅固につなぎ止められている。私は自分が繋留されている場所から漂流しない。私という存在の重心は今や私自身の中にある。」 人生全体を通して、結晶の世界に直面し、利己主義といういわば鉛の錘が(利己主義とは常に非道徳な罪だが)魂の上にのしかかる瞬間ほど、自信や道徳的な勇気が必要とされるときはない。 そのとき、自分を吊り下げている、透明な無の空間が、恐ろしい警告を発する。 そのときもし、しっかりと立ち、自信を保っているなら、次のように言うことができる。 「私の中には神の火がある。私は消えたりしない。何故なら、私は神性な本質に与(あずか)っているのだから。」 もし、この発言が、単なる理論的な確信からではなく、具体的な経験によるのならば、秘儀参入者は自足し、自身の足で立つ勇気を持つ。そのとき、秘儀参入者は決意し、更に先に進むための準備を整えたことになる。
2010年07月22日
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第3講人間の意識状態に関係する鉱物世界の形態と実質 第2講で試みたことは、精神的な訓練や瞑想を通して、高レベルの意識を発達させるときの人間の魂の経験に関する理念を示すことだった。同時に、通常の覚醒意識によく見られる不調和で混乱した夢の経験を、覚醒意識での生活における完全な意識的で具体的な経験へと変化させることができる、ということも示した。 (現代人は、覚醒意識が発達しているので、感覚による物質世界の意識レベルを唯一のものだと思い、物質世界以外の世界にも、もちこんでしまうため、不調和で混乱した夢をみる。つまり、物質世界の投影として、霊界をみてしまうが、本当は、物質世界が、霊界の投影であると、シュタイナーは説く。) 第2講で述べたように、覚醒意識を保ったまま、睡眠中も、眠らずにいれば、通常の覚醒意識に、ある程度連なる(高次の)意識レベルを達成できる。 そのとき、例えば、高次の魂界、すなわちアストラル平面と関わりを持つ動物界を、その全体性において知覚することになる。 (動物の背後の種を統べる存在を知覚する。) 次に示したのは、(物質世界の)感覚からくるイメージを脱ぎ捨てた十全なる覚醒意識、つまり、この(秘儀参入の)第2段階の高次意識レベルにおいて、星の世界に到達し、地球を覆う植物の真実を、星の世界から初めて知るようになるとき、植物界の全体性が顕現する有様を知覚できる、ということだった。 (例えば、禅の空の意識など。) そのとき、地球から生えているように見える植物は、植物へと滴り落ちる露のように輝く、星の世界の壮大さや偉大さを映すイメージであることに気づく。 実際、天空にある全ては、人間が、感覚によるイメージを取り払い、高次の意識をもって理解するとき、実質的な現実を担う形態、色、もしくは音となる。 そのとき、地球を省みると、植物界が実際には宇宙のイメージ、もしくは宇宙的な行為を映すイメージである、ということを知覚する。 ここにおいて、一方では星の世界を、他方では植物界を観察するときに遭遇する特別な現象に注意を払う必要がある。 この特別な現象を、全く内(精神)的な経験の観点から、正確に生起する通りに、つまり、直接的かつ精神的な経験や探求によって明らかになるままに、ここに記述するつもりである。 ここに記述する事実を裏付ける文献やその他の伝統も存在しないが、これまで述べた方法で精神的存在を探求するなら、知り得る特別な現象について、最初に指摘する。 では、次のような像を思い描いてみる。 上方に星の世界が、下方に地球がある。そこで、探求を開始する地点を、観察地点と呼ぶ。もし、既に述べたような第2段階の意識、つまり星の世界や植物界の真の存在を見ることができる意識に達しているなら、宇宙には元型(モナド)が存在し、その元型が、鏡に写るイメージのようではなく、生命をもった植物の形で地球に映し出されている、ということを確かめることができる。 もし、硬い地球がなければ、植物も存在し得なかっただろう。それは、鏡が光を遮る障害物として働く(でなければ、鏡は反射できない)のと同じように、植物が地球上に存在するためには、地球は(植物の)反射媒体として働かなければならない。 このような事実を更に追求できる。すなわち、この第2段階の意識、すなわち(物質界の)感覚によるイメージから独立した覚醒意識を発達させた後、更に、魂の内(精神)的な強さである、全被造物、全生物に対する愛の精神の発達に向けて、次の一歩をも踏み出すことができる。 しかしながら、この新しい力の獲得が、認識へと向かう確かな力として認められることは滅多にない。 もし、この宇宙の、極めて別様に構成されている領域が、以前のように星々で輝いているようには見えずに、まるで異なる世界としてみえ、この精神的な存在たちが住む場所となっている領域に参入した後、愛の力が、秘儀参入者の心と魂を満たすならば、 或いは、もし、いわゆる宇宙の精神的な大海への航海へと乗り出した後、自らの精神的、魂的、肉体的な自己同一性を保持し、無限の愛と献身の力を全存在に拡張できるなら、自らの洞察や理解を、段階を追って完成に導くことができる。 そして、動物界と植物界に十分に精通したとき、鉱物-結晶世界を探求できる立場にはじめて立つ。このとき以前と同じように、観察者の注意を、地上の鉱物界から、宇宙に関する思考へと向けるように促されるのを感じる。 そして、そこでも再び、活力ある生きた現実として、植物界の元型(モナド)に近い存在を見つけるが、今度、示される像は、全体として植物界のもの(自我)とは異なっている。 そのとき、宇宙の生命ある現実、つまり、地上で見られる鉱物-結晶の世界は、宇宙の中で働く精神的な原則(神々)が創造したものである、ということを知るようになる。鉱物-結晶は、段階を追って地球に下降してくるが、(植物のように)地球によって反射されるのではない。 この点が植物との決定的な違いである。 意識を鉱物-結晶世界に関する思考から宇宙へと上昇させ、再び地球を振り返るとき、もはや地球は鏡として働いてはいない。つまり、観察者の視界から、地球が消滅しているような印象を持つ。 鉱物の場合、植物のように、下方にある地球が、高次の存在たちを反射している、とは言えない。地球は反射媒体として働いているのではなく、(鉱物に対しては、)消滅しているように見える。 鉱物-結晶世界によって喚起される精神的な光景について瞑想するとき、つまり、精神的な霊眼(心眼)を宇宙空間から地球に向けるとき、恐ろしい深淵の上で、無(虚無)に吊されているように見える。このとき、待ちの態度を保持すると同時に、自らを堅固と支え、心を平静に保つようにしなければならない。 この待ちの期間が余りにも長引くようなら、恐怖心は増幅され、恐怖に駆られるようになるだろう。そのとき、秘儀参入者の足下にもはや地面はない。 従って、もし、その深淵の彼方に向けて、能動的な歩みを進めることを可能にする心の状態、いわゆる自制心を維持できなかったら、全く未知な感情によって、パニック状態に陥ってしまうだろう。 この恐怖心に打ち克つために、精神的な視界(霊眼)では、もはや存在しない地球を超えて、遥か彼方を見なければならない。 そのとき、宇宙に関連した鉱物界の側面ばかりではなく、環境全体に対する関係についても熟考するように強いられる。もはや秘儀参入者にとって地球は存在しなくなる。鉱物界を1つの全体として見るべきである。 そのとき、秘儀参入者は、動物界や植物界だけでなく、鉱物界、特に結晶構造をもつ鉱物を超感覚的に知覚する能力をも発達させる。なぜなら、鉱物の結晶構造は、高次世界への探求を望む者にとって、観察や研究のための素晴らしいフィールドを提供するからである。 (結晶構造のなかに、高次世界の秘密が隠されている。プラトンは、自らつくった学院の門前に、「幾何学せぬ者通るべからず」と掲げたのは、このような意味をもつのだろう。 プラトンの図形は有名だし、プラトンのイデア論は、3次元世界から4次元世界、更には高次元世界をイメージする方法である。 古代ギリシアの賢者は、人類から次第に霊能力が失われていく危機感をもったという。ソクラテスからプラトン、プラトンからアリストテレスへと受け継がれたのは、霊能力を回復させる秘儀参入法であるという。 人間の構造が変わるにつれ、霊能力も異なるものになり、秘儀参入法もまた時代に応じて変わらざるを得なくなる。 だから、仏陀の時代の悟りの方法、つまり八正道が、現代にもそのまま通用するわけではない。時代に応じた、更には個人個人に応じた、悟りの方法がある。 中世の西洋の薔薇十字の方法なども、聖堂騎士団が、保持した聖杯の方法なども、また様々な秘密結社が試行し採用した方法なども、霊能力の再獲得に他ならない。 映画「スターウォーズ」をみると、この事が、非常にわかりやすく表現されている。「フォース」というのは、叡智、霊能力のことであろう。「ダークサイド」は黒魔術である。)
2010年07月21日
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秘儀参入の中間段階に達すると、植物界の奥に横たわる真の形態や存在たちの運動、流れる大宇宙が地球の表面に反射していることを知るようになる。 鏡を覗き込むとき、自身が鏡に映し出されるのを見るが、鏡に反射されている像は、自身の外見的な形態であり、魂ではない、ということを人智学徒は知っている。 この自身の鏡への反射と比べて、天は、地球にそれほど明瞭に反射されるのではなく、黄、緑、青、赤や白の植物の花の色として映し出される。植物は、天の反射された像、影のように微かな天の反映なのである。 秘儀参入の中間段階に達し、1つの新しい世界を知ると、その高次世界には、「植物を統べる人間」、すなわち植物の自我意識を付与された存在を見つけることができる。 従って、現象世界とアストラル界の他に、また第3の世界、真の精神世界をつけ加えることができる。星々は、この宇宙の雫であり、植物は、宇宙が反射したイメージである。 植物の外見が、真実を表現しているのではない。すなわち、植物は、この地球上における、外見的な表現が、その実体ではなく、無限に多様な豊かさとの関係から、1つ1つの星々が雫のように輝き出している超越的な宇宙が反射した像に過ぎない。 そして、人間の場合、植物とは違い、高次領域にある植物の真の存在である自我意識を、自分の内に担っている、ということに気づく。 植物の場合、自我意識は精神世界に滞在し、地球へとイメージを送り込み、地球によって地球の実質で満たされるが、人間は、植物が精神世界に残してきた、この自我意識を、精神世界の鏡像である地上生活へと持ち込んでいる。 (映写機を自我意識、スクリーンを鏡像とし、映写機とスクリーンとの関係から考えると、植物は、映写機を天国に置いて、地上をスクリーンとして、映像を投影する体系だが、人間は、地上に映写機を持ち込み、個別に映像を投影する体系といえる。 或いは、コンピュータの歴史に詳しければ、植物が、オフコンもしくは、メインフレームと呼ばれた古い大型コンピュータで、人間を、パソコンに喩えることができる。 この喩えから、植物の死と、人間の死も比較できる。植物の本体、つまり映写機は、天国にあるので、死はないが、人間は、地上に持ち込んでいるので、死があり、それも個別的な死となる。 勿論、植物の映写内容、つまり一生は、種で同じだが、人間の映写内容、つまり人生は、個人的で、多種多様となる。だから、人間の人生が多種多様なのは、自我の死があるからといえる。) 人間の魂の本性(自我)もまた、高次世界に属しているが、人間は、それを鏡像の世界に持ち込む。人間は、植物とは違い、単なる像ではなく、地球上においては、魂を持った精神的存在でもある。 (植物は、神の像、つまり影絵のような存在だが、人間は、神の子で、進化すれば神になれる素因をもつ。) 人間は、地球上において3つの世界に参加している。人間は物質世界に住んでいるが、自我意識を持った動物は、ここには見つけられない。動物の自我は、同時に人間も住むアストラル界に存在する。 人間は、このアストラル界をも物質世界の中に持ち込む。また第3の世界、真の植物存在が住む精神世界にも、人間は住んでいるが、植物が自我を反射した像だけを地球に送り込んでいるのに対して、人間は魂的生活の現実を、地球に持ち込んでいる。 従って、次のような結論に至る。 地球上において、肉体と魂と精神をもつ存在とは人間である。 動物は、地球上において、肉体と魂を持ってはいるが、その精神は物質世界に境を接する第2の世界(魂界)にあるため、現実性がない。 植物は、魂は第2の世界(魂界)に、精神は第3の世界(精神界)にあるため、物質世界に反射された精神の像が地球実質に満たされた身体だけを持つ存在である。 (シュタイナーは、物質現象界の上位に「魂界」があり、「魂界」の上位に下位神界「精神界」があり、下位神界の上位に上位神界があることを説いている。 人間は、本来、精神界にあるべき自我を、物質界に、また本来、魂界にあるべきアストラル体を、物質界に持ち込んでいる。魂界と、物質界の中間領域に、エーテル界があるようだ。スウェーデンボルグが説いた精霊界だと思われる。) 以上の事実から、いま自然における3つの世界を理解し、人間が、自身の内に、これら3つの世界をもっていることを知るだろう。人間は、植物(の自我)が、星々に起源をもつ事実をある程度感じている。植物を見るとき、秘儀参入者は、自ら次のように語る。 「この地球上に、星々が反射した像、その真実性から分離された像だけを表している存在が植物である。」 夜、星々に眼差しを向けるほど、次第に、高次世界の中に、植物の真の存在を見るようになる。地球から天を仰ぎ、宇宙と地球が1つであることを知覚するとき、自然界を、1つの全体として包括的に見ている。 そのとき、人間としての自身を振り返って、次のように語る。 「植物においては天に在る要素(自我)を、人間は、地球的な存在の中へと分離した。人間は自身の中に、物質界、アストラル(魂)界、そして精神界を担っている。」 客観的で、明瞭な知覚を発達させ、様々な領域を通過しながら精神界に至るまで自然を追求することや、人間に対する洞察を、精神的な本質に至るまで獲得することなどが、精神的な探求において踏み出すべき最初の一歩である。
2010年07月20日
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前回のように、秘儀参入者は、例えば、動物の世界を媒介にして、別の世界を知るようになる。しかし、更に高次の精神世界をよく知るには、また別の意識形態が必要になる。 霊視を獲得するには、現代人の夢見る浅い睡眠意識を覚醒意識の生活へともたらさなければならないが、この新しい覚醒意識により、動物界の精神的な構成に対する洞察を獲得できる。 霊視による別の世界、つまり第二の世界は、魂の世界、あるいは物質的な世界と区別するために、魂界またはアストラル界と名づけられる。人間は、別の意識形態を通して、このアストラル界を知るようになる。現代人は、日常的に存在する世界とは異なる世界への洞察を、また別の意識を通して獲得しなければならない。 魂の生活を更に強化し、活性化することが可能である。つまり、先に触れた著書に記述されているように、集中や瞑想を行うだけでなく、強化された魂の内容を再び排除するように努力できる。 魂の生活を強化し、思考と感情を強めるという、最も骨の折れる努力の末に、それを再び変化させ、最終的に無に帰すことができる地点まで至ると、「空になった意識」と呼ばれる状態に帰着する。 さて、通常、「空になった意識」の状態は睡眠を誘発する。このことは次のような実験でも確かめられる。はじめに被験者から全ての視覚イメージを取り除き、闇の中に置く。次に、全ての聴覚イメージを取り除き、沈黙に包まれるようにする。そして、他の全ての感覚イメージを奪うように努めれば、徐々に、被験者は、眠りに落ちる。 もし、予め、思考や感情を強化していれば、睡眠は誘発されない。意識を、意志の働きにより、空にしていたなら、闇に置かれ、視聴覚を閉ざされるような場合にも、起きたままでいられる。そのとき、秘儀参入者には、現象世界はもはや存在しない。 通常の思考や記憶は忘れ去られ、空になった意識をもつ中には真の精神世界が直ちに侵入してくる。通常の覚醒意識が、感覚世界の色や音、熱で満たされるように、精神世界が、この空になった意識を満たす。意識を、意識的に空にするときにだけ、真の精神世界に取り巻かれる。 また、新しい空の意識と、真の精神世界との関係を、特別活動的に理解するために役立つものが、外界の自然の中にある。 動物界を、霊視により、通常とは異なる形で知覚することで、通常の覚醒意識よりも一段高い(夢見る浅い睡眠の)意識に気づいたように、動物界とは全く異なった形で構成されている植物界の中に、この新しい高次レベルの空の意識を認識できる。 では、通常の覚醒意識には植物界はどのように見えるか? 緑々とした牧場のあちらこちらに鉱物的な地球の中から花々が咲きでているのを見ると、活動的な緑のなかに、青や金、赤や白の花々、つまり、目の前に絨毯のように広がる植物界の美しさの中に喜びを感じる。 地球が花と植物に彩られ、まるで光り輝く衣に包まれるのを見て、心を躍らせ、喜びに満たされる。 そして、目を天に向ければ、眩しく輝く太陽、透き通った昼間の空、もしくは曇った空がある。しかし、現代人は、天と地球の間、つまり、花々に彩られた野原を見下す行為と、空を見上げる行為との間に何らかの関係がある、ということに気づいていない。 昼間、目の前に広がる花のカーペットを見て強烈な喜びを感じた後、例えば、夏の一日が終わって、夜の幕が下りるのを待つことを想定してみる。目を天に向け、空一杯に広がる様々に輝く星座として星々が配列されているのを見ると、新しい歓喜が天から、人間の魂を捉える。 このように、昼間、地上を覆う植物を見下ろせば、(精神的な)喜びと歓喜で、心を満たすことができ、そして、日が暮れて、夜空を見上げれば、昼間に青く見えた空も、光り輝く星々に満ちているのがわかる。 人間は、魂に現れる美しい空を見て内(精神)的な喜びを感じる。この事実が、人間の通常の覚醒意識による反応である。 もし、空の意識で、眠らずに、覚醒したまま、真の(善なる)精神世界に浸透された意識を完成させたなら、昼間、植物に覆われた地球を探求し、夜には煌めく星々を見上げるとき、次のように覚ることができる。 「確かに、昼間、地球に散りばめられた花々の豊かな彩りが、私を喜ばせ、魅惑したが、実際のところ、私は、何を見たのだろうか?」 「天にある無数の星々を見上げると、地球的な内容全てが除去され、空になった覚醒意識には、星々が輝き煌めく以上の存在であり、実に様々な形態をとるものとして顕れる。」 「何故なら、天のあの高次の領域には、素晴らしい真実の世界、すなわち壮大で力強い崇高な運動と流れが至る所に存在しているからである。」 このような光景を前にして、感謝と尊敬に満ちたなかで頭を垂れ、その崇高さを認識するとき、秘儀参入者は、秘儀参入の中間段階に到達する。 人智学徒は、植物の起源が高次の領域に横たわっていることを知っている。これまでは、煌めきと輝き以上のものではないと考えていた星々が、実は、真の植物存在であり、空の意識から、それを初めて見るが、例えば、この空の意識から、スミレの花をみたなら、それはスミレではなく、朝露の中にあるスミレの花の上の一滴の露を見ているような感覚となる。 そのとき、1つの星の中に、いわば1つの輝く露を見るが、実際には、運動し、流れる力強い世界がその背後に横たわっている。秘儀参入者は今や、植物界の真実を知る。 それは地上ではなく、壮大で力強く、崇高な大宇宙の中に見いだされる存在である。そして昼間、彩り豊かな花のカーペットの中に見ていたイメージは、実は、高次世界が反射したイメージなのである。
2010年07月16日
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さて、2つ目の意識が、最初の意識につけ加えられる。覚醒意識で見る夢は、日常生活における通常の知覚よりも高次の知覚形態を取るようになる。充分に覚醒した意識状態により、日常生活の現実に、高次の現実が付け加えられた。 睡眠中の通常の夢では、現実感が失われている。つまり、ファンタジーに担われた現実の断片のみが与えられるが、上述したような覚醒時の夢では、個々の人間の形態や植物、もしくは動物等あらゆるものが明示され、現実としてそこにあり、人間の行為は十全なる意味を持つものとして捉えられる。 このような全ての対象が、日常的な現実に真の現実をつけ加え、豊かなものにする。 通常の覚醒意識による知覚に、2つ目の意識(霊視)がつけ加えられると、以前とは異なった光の中で世界を見始めるが、このことは動物の世界を見るときに最も衝撃的に示される。動物の世界を霊視すると、以前とは、あまりにも異なった世界として現れるため、実際、これまでは一体何を見ていたのだろう、と訝るほどである。 それまでは動物界の一部、その外見的側面だけを見ていたことに気づく。動物界を霊視すると、これまでの世界に、新しい、1つの全体としての世界がつけ加わる。夫々の動物の種、例えば、ライオンや虎等の種全体の中には、人間に近い存在が横たわっているが、人間との比較で、この存在を示すのは困難である。 従って、次のように考えてみる。 例えば、自分の両手の指全部にある長さの紐を結びつけ、そのそれぞれの紐の端に様々の色の模様のボールをつけることで、自分の身体(の感覚)がボ-ルまで延長するものと想像する。 いま身体に10本の紐が結びつけられている。さて、ボールが、自由にあらゆる方向に動くように指を使って紐を操作する。同時に、今度は足の指にも10本の紐で10のボールをつけ、手と同じことをしてみる。 次に、空中に跳び上がったりして、足の指を上手に使って、20のボールから素晴らしい形を生み出してみる。このように、それぞれの手と足の指は先端についたカラーボールまで長くなった。 つまり、20本の紐とボールを用いて、身体を広げた全体が、人間という形態の一部であり、その全体が魂によるコントロール下にあると想像する。 それぞれのボールは別々の実体だが、全てのボールを探求する瞬間に、それが1つの全体を構成している、という全体のイメージが浮かび上がる。これらのボールや紐全ては、手足の指と違い、人間の肉体の一部ではないが、その全てが一つの全体を形成し、人間が、いま、それをコントロールしている。 上述したような方法で、ボールや紐を操るとき、例えば、霊界にあるライオンの魂と、それに結びついたボールのような個々のライオン(物質界)が、全体として1つの統一体を形成しているというイメージが浮かび上がる。 以前は、20個のボールしか見えていなかったわけで、20個のボールはボール自身の1つの世界を表していた。そこに、活動の主体である人間を加えると、新しい状況が生まれる。 人間の知覚に関しても、この喩えと同じで、物質現象界では、個々のライオンがそれぞれ独立して動き回っているのを見るが、いわば、それらは独立した単位として、そこにあるボールに喩えられる。 次に、自我意識を付与されたライオンの魂、すなわち精神世界において、人間に似た存在に見えるライオンの魂と、一見したところ、動き回るボールのように、手足からつり下げられた個々のライオンを見れば、自我意識を持った、ライオンの魂は、これらの個々のライオンとして表現されていることがイメージできる。 このような喩えから、動物世界における、あらゆる生物の高次の形態を知覚できる。動物はその成り立ちの中に人間に近い何かを、つまり人間の魂とは異なる領域に属する魂的な性質をもっている。人間は、人生において、どこに行くにしても自我意識をもつ魂を担っている。 人間には、自我を誰かれなく押しつける自由もある。個々のライオンにはそれがない。ところが、このお互いに対立する自我が属する領域に接して別の領域が存在している。 精神世界では、ライオンの魂たちは、人間の魂と全く同じことをしている。ライオンの魂にとって、(物質界の)個々のライオンは紐の先についた多くの運動するボールにすぎない。そのため、秘儀参入者が新しく獲得した意識(霊視)を持って動物界の真の本性を見るとき、ちょっとしたショックを受けることになる。 秘儀参入者は、新たな世界に参入し、自ら次のように言う。 「人間もまた、この別の世界(精神世界)に属している。しかし、人間は、自我意識を地上(物質世界)に引きずりおろしている。」 動物は、自我意識を、集合魂、或いは種の魂として、後(精神世界)に残してきている。地上(物質世界)で見ることができるのは、四つ足の存在だけである。 人間は、動物が精神世界に残してきた自我意識を、地上へと持ち込み、その結果、動物とは異なる形態を獲得した。人間のなかに生きている自我意識もまた、この高次世界(精神世界)に属しているのだが、人間は、それを地上に持ち込んでいる。
2010年07月15日
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前回述べた夢と身(肉)体との関係(正夢)はどのように説明すればよいのか? 前回述べたように、歯痛に関連した経験全体が、夢のなかで1つの像によって象徴化される。夢のなかで、歯痛は損傷、もしくは腐食の兆候を示す白い杭(柱)になった。夢のなかのイメージから、人間は、自身の有機(肉)体の中に実際に存在する障害等に気づく。 また、例えば、不安で落ち着かない気持ちから、窒息しそうな部屋の中にいる生々しい夢を見ることもある。 そのような夢から覚めてみると、突然、気づかなかった、部屋の隅にあるストーブが非常に熱くなっているのに気がつく。部屋が暑くなりすぎ、夢の中で、なぜ自分が息ができなかったのかを知る。 夢のなかで息ができなかったのは、部屋があまりにも暑かったせいである。そのときは、動悸と脈拍の速さから目覚めるが、その異常な脈拍が、夢の中では、物質世界的に象徴化されたのである。 身(肉)体に、何らかの機能的な障害があると、夢のなかで、それに気づくこともあるが、昼間の覚醒意識のように直接的な形で気づくのではない。夢のなかの象徴的イメージを通して、現代人は、自らの身体の異常に気づく。 また例えば、外から太陽が照りつける夢を見るかもしれない。そのとき、日差しを不快に感じ、通常なら日光を歓迎するはずなのになぜか不安になる。 目が覚めてみると、隣家が火事になっているのに気づく。物質世界の出来事が、夢のなかでは、そのまま表現されるのではなく、象徴的形態の衣をまとう。 このように、自然で創造的なイマジネーションが夢の中で働き、すなわち外界の事象が、夢の中に反映するのがわかる。けれども、このような事実に拘る必要はない。 夢はいわば生命を獲得し、夢自身の内的な意味と本質的な現実性を帯びることができる。 また、夢のなかで、外界のいかなる事物にも関連づけることができないものを見るかもしれない。このような夢に関して、段階を追ってアプローチすれば、全く異なる(異次元の)世界が夢の中に示されていることがわかる。 すなわち、悪魔的であったり、美しい妖精のようであったり、外界とは全く別の存在に、夢のなかで遭遇する。夢のなかの像として現れるのは、現象世界の事物だけではない。全体として、日常生活とは異なる(異次元の)世界が夢の中に侵入してくる。 感覚を拡大することにより知覚可能な形態として、超感覚的世界を夢に見ることができるからである。 このように、今日、人間の意識は、通常の覚醒意識の生活に並行して夢の意識生活をもっている。実際、この夢意識への傾向こそが人間を詩人にする。夢を見ることができない人間は、あまりよい詩人ではない。 なぜなら、詩人、或いは芸術家であるには、夢の意識生活のなかのイメージを、覚醒意識の生活における想像的なファンタジーへと翻訳できなければならないからである。 例えば、外界の対象物から、その象徴的な表現を引き出すような夢、窓から部屋に差し込む日差しが隣家の火事を象徴するような夢を見る人間なら、次の日に創作活動を欲するような思いに駆られるだろう。 そのような人間は、潜在的な音楽家である。また、心臓の動悸を、加熱したストーブとして経験する人間は、次の日にモデルを題材にした絵画の描写や建築デザインに向かいたいような気にさせられるだろう。そのような人間は、潜在的な建築家、彫刻家、もしくは画家である。 夢と芸術家の創作意欲は、お互いに関連している。つまり、通常の覚醒意識との関係においては、上述したような形で関連しあっている。けれども、また、更に先に進むことができる。 「いかにして超感覚的(高次)世界の認識を得るか」(著書)や著書「神秘学概論」(著書)に書いたように、通常の覚醒意識は、ある種の精神的な訓練(後述)に取りかかることで発達させることができる。 ある明確な概念や言語上の関連に心を集中することで、思考、感情、意志の精神的な生活全体に新しい生命と活力を与えることができる。訓練を通して、思考は事実上、はっきりと見ることができる現実に、感情は生きた実体となる。 そのとき、現代での秘儀参入の第一段階が始まり、夢意識を、覚醒意識の生活へと持ち込む。しかし、この点において容易に誤解が生じる。 昼間起きているときに見る夢(白昼夢)に自然と耽るような夢は度外視して、同じ昼間の夢にも関わらず、感情や思考を、より活発に活力あるものにすることで、十全なる(覚醒)意識を保持したまま夢を見続けられるようになれば、秘儀参入の最初のステップを踏み出す。 この段階に到達した者には次のようなことが起こる。いままでよりも変化に敏感になり、覚醒意識の生活においては真面目で感覚が鋭い人と同じで、仲間に関しては、通常の(覚醒)意識に現れる、鼻の形や目の色、髪が整っているかどうか等々を見るが、また一方で、周囲に何かいままでとは別の何か真実を夢に見はじめる。 すなわち、仲間のオーラや、仲間との関係に関する精神的な意味を夢に見るようになる。この段階に達したら、いわば、精神の目(心眼)を持って見るようになる。十分な覚醒意識において、意味のある夢、現実に合致した夢を見るようになる。 (デジャヴ、予知夢をみるということなのだろう。) また朝目覚めるときにも、夢は終わることがなく、一日中続き、また睡眠の中で変化させられるとはいえ、その精神的な意味(充実)に満ちている。 秘儀参入者は、人間の魂の真の性質、自らの行動の精神的な源泉を見る。でなければ、単なる夢の名残、もしくは通常の夢に関連した活動の中に生きるが、それでも、この段階に到達した者のみる夢は精神的な現実である。
2010年07月14日
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太古の聖人の意識とは、オーラを感知でき、今日では消滅している意識状態であり、またその意識は、現代では夢をみない深い睡眠に比肩されるような意識である。 もし、その意識状態を、歴史的に眺めるなら、現代の自身の意識とは非常に異なった意識に遭遇するのが分かる。また、時代を遡るほど、今日の意識との違いは大きくなる。 例えば、太古の聖人の意識と比較してみると、現代人の通常の(覚醒)意識は自慢できるような代物ではない。現代人は、夢のない深い睡眠の中で経験する事象を全く重視していないが、それは通常、現代人が、その経験に関して、ほとんど何も語れないからである。 (霊能者にいわせると、睡眠中に、人間の魂は、霊界に行っているらしい。シュタイナーも同様に説いている。) 今日では、夢のない深い睡眠の中で経験した事象に関して、語る能力のある人間は非常に稀少である。現代では、夢の生活はファンタジー(幻想)であり、脳が勝手に作り出した想像であり、唯一頼りにできるのは、起きているときの覚醒意識の状態である、と考えられている。 古代カルディア人たちにとって、現代人の覚醒意識万能主義のような態度は、与り知らぬものだった。 前向き(ポジティヴ)な行動へと誘う新鮮で活動的な、(現代人の意識状態でいうなら)夢を見る浅い睡眠の意識生活に連なる、古代人の子供の意識は、まだその子供が天国に住んでいる状態にあり、子供が口にするのは神から出た言葉である、と考えられた。 古代人が、子供の言葉に耳を傾けたのは、子供が精神世界からの豊かな情報をもたらしていたからである。 (天使のイメージがしばしば子供「幼児」で描かれるのは、古代人の、この意識を表しているのだろう) 時の経過の中で、古代人は、地球段階の意識状態に到達したが、人間は、オーラの中で、まだ魂の存在、精神的な存在だった。当時の賢者や聖者が享受したのは、上記の意識状態だった。 古代人が、賢者や聖者の言葉に耳を傾けるとき、それが精神世界(神界、天国)からの伝言であるということを確信していた。 また、秘儀において、益々高次世界へと上昇した秘儀参入者たちに関しては、50歳になったとき、純粋に太陽的な要素を超越し、精神世界に参入した。 つまり秘儀参入者は「太陽の英雄」から「父たち」になり、人間の精神的な故郷(エデンの園)との交わりを持つようになった、と言われた。 以上の事実を述べたのは、歴史的な観点から、人間がいかにして、これらの様々な意識状態に与るようになったか、を示したかったからである。 意識状態に関する探求を続けるにあたり、今日の人間がもつような夢のない深い睡眠に関しては、後述し、先に、現代人の日々の生活の、十分に意識的な、周囲の対象を見たり、他人が話しかけるのを聞いたり、会話を交わしたりするような、覚醒状態について検証する。 それから、現代人が「眠っている」と考えている睡眠状態を取り上げる。睡眠状態で見る夢は、しばしば現代人を驚かせ、もしくは素晴らしく自由にさせるので、もし、現代人が、通常の健全な状態にあるなら、この夢は、通常の日常生活の一部ではなく、自らの想像力の働きによってつくり出され、万華鏡のような様々な視覚効果をもつ形で、人間の意識の中に無理矢理、押し入ってきたものである、と言わざるを得ない。 情緒的でないタイプの現代人は、ほとんど夢に注意を払わず、逆に、迷信的な現代人は、夢を物質的な形で説明しようとするだろう。迷信を信じることもなく、また、夢をありふれたものと見なさない詩的才能に恵まれた人間は、上記の万華鏡のような夢に関する意識を持っている。 なぜなら、腐敗していない人間の本性の深みから現れてくる夢は、迷信的な人間によって迷信に帰せられるような重要性をもたず、例えば、山が隆起し、長い年月を経て再び消滅していくのと同じように、人間の本性的な魂の生活から、経験が霧や雲のように生じることを示すような性質をもつからである。 ただ、夢のなかでは、全てが速やかに生じるのに対して、宇宙のなかでの夢のイメージはゆっくりと組み立てられ、ゆっくりと消えていくという違いがあるだけである。 (人間のなかでは、全てがすみやかに動くが、宇宙では、ゆっくりと動く。霊界では、時間の経過が早いが、現世では、時間の経過が遅いという意味だろう。) また、夢には別の特徴がある。例えば、周囲がヘビだらけで、身体にもヘビが巻きついている夢を見ることがある。 例えば、コカインの常習者は、上記のようなヘビに関する夢を誇張された形でみるかもしれない。この悪徳な犠牲者は、起きている覚醒時でさえ、身体の様々な場所からヘビが這い出すのを感じるだろう。 自身の生活を細やかに観察するとき、上記のような夢が身体内の何らかの障害を示すことに気づくだろう。ヘビの夢は消化に関する何らかの障害を示し、腸の蠕動運動が、のたうつヘビとして夢の中で象徴的に示される。 また、例えば、散歩に出かけ、上部が損傷した白い杭、或いは石柱が立っている場所に遭遇する夢を見るかもしれない。夢の中で、この上部の損傷に不安を感じ、自分の歯が痛んでいるのに気づいて目覚める!こともあるかもしれない。 このような夢をみる人は、無意識のうちに歯の1本に指をやりたい衝動に駆られる(この話は、現代人に関する話で、太古の人間はこのような夢から超越していた)。そして、今日の一般的な人間は、歯医者に行って悪い歯を詰めてもらおうと決心する。
2010年07月13日
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当時の人間に、深い印象を与えたのは、幼児期の最初の6、7年を振り返り、受肉以前に間違いなく住み、神的な要素に包まれていた霊界の記憶を思い出し、そして、7歳から14歳の間に精神的な卵の中から現れ、ついには20歳になったとき、人生の前半期の過程が最終的にいかに完成するかを知覚したことだった。 古代人自身が、地上の存在であると実感したのは、20歳に達したときだった。そのとき、はっきりと昼と夜の違いに気づいた。 古代人は、自分の中で6から7年毎に起こる発達上の周期的な変化を観察したが、これは月の相に一致していた。28日周期の月の相は、古代人自身の6から7年という生活体験の期間に対応していた。 古代人は1ヶ月という月の相が人間の生活においては28年(4×7年)という期間に相当するものと感じていた。古代人は、このような対応を7年毎に1ヶ月を挿入することで、暦の中に表現した。 要するに、古代人の数え方は月に基づき、太陽ではなかった。 (古代の暦が陰暦である理由が、この講義からわかる。) 更に言えば、外界の自然を、今日、現代人がみるように、明瞭に規定された、精神を欠いた存在として見たのではない。古代人が昼と夜の両方に観察した自然は精神的なオーラに浸透されていたものだった。 今日、現代人は明確な昼の意識をもっているが、夜の睡眠中には何も見えない。このことは、現代人が昼と夜の交代を生じさせる太陽に重きを置くことに表現されている。 (日本の八百万(やおろず)の神々という信仰は、正にここでいう古代人の見方であり、それは月をもとにした陰暦の生活から生じたものと考えられる。) 古代カルディア人たちの秘儀の叡智においては太陽ではなく月が強調されたが、それは月の相が、古代カルディア人自身の成長を成熟に向け忠実に反映していたからである。古代カルディア人は、自身の成長の段階毎に(子供、若者、大人として)、自らが異なった形で構成されていると感じていたが、今日の現代人はもはや、このような段階毎の成長を経験しない。 現代人が、自身の過去の人生の前半期を、7年毎に振り返ってみても、最初の誕生からの7年と、その次の7年の間に、それほどの違いがあったとは思わない。今日の子供たちは、古代と比べて、あまりにも賢く、現代人の子供とうまくやっていくのは、古代人の子供には、ほとんど不可能だろう! 現代の子供に太刀打ちするためには、古代人には、特別に、教育方法を工夫しなければならないだろう。現代の子供は大人と同じくらい賢く、どの年齢層の人間も同等に賢いように見える。 古代カルディア人たちはそうではなかった。当時、子供たちは、まだ精神世界に結びつけられていた。当時の子供たちは成長しても、精神世界を忘れず、オーラの卵の中から出た後で、初めて地上的な存在になった。 従って、古代人の計算は太陽ではなく月を基に、天上に観察した7つの周期に、4つの相を掛け合わせて計算した(7×4=28)。このように、古代人は月の相に従って、7年ごとに1ヶ月(閏月)を余計に暦として登録した。 文明史における、閏年のような、外的な徴候(シルシ)、つまり、現代人が4年ごとに1日を挿入するのに対して、古代カルディア人たちは7年ごとに1ヶ月を挿入したという事実は、古代人の昼の意識が、夜の意識からはっきりと分けられていなかったばかりか、相前後する人生の7年毎の成長段階の諸期間を通して、古代人が、意識状態の大きな相違を経験していた、ということを示している。 今日、現代人は、朝、目覚めたとき、眠い目をこすりながら、「よく眠った」と言うが、古代カルディア人たちの場合、21歳、もしくは22歳になったとき、やっと、自分は目覚めた、と感じた。古代人は、21、22歳になって、世界をはっきりと見るようになり、「私は、いままでずっと眠っていた」と感じた。 その覚醒意識は、古代人が50歳になるまで保持され、年老いたとしても、以前のボンヤリした状態に戻ることはなく、以前にも増して十全で明確な視界を発達させることが信じられていた為、20歳になった後に獲得した意識を保持しながら、睡眠の領域に入っても、高度に超感覚的な能力を有する老人たちが聖人として尊敬された。 以上のように、古代カルディア人たちは3つの意識状態に通じていた。現代人は2つの意識状態を経験するが、それに加えて、夢を見る浅い睡眠の状態として特徴づけられる3つ目の意識状態がある。 つまり、覚醒、睡眠、夢見る睡眠意識である。古代カルディア人は、現代人のように、この3つの意識を毎日経験したのではない。古代人は減退した曖昧な意識状態を20歳になるまで経験し、そして意識的に覚醒した状態を(20歳から)50歳になるまで経験した。 そして、古代カルディア人は、50歳を超える者に関して、地上的な意識を精神世界へと持ち込み、他の人間よりも遥かに多くのことを知り、賢くなる段階に達した、と言えるような状態があった。 古代では、歳をとった老人は、聖人として尊敬されていた。今日では、老人は老いぼれていると考えられている。この大変な違いは人間の根幹に関わっている。人智学徒はこのことに関して明確に理解していなければならない。何故なら、人間にとって途方もなく重要なことだからである。 人間はたった1つの意識状態を通して世界を探求するのではない。人間が真の世界を知るには、例えば、古代カルディアの子供たちに共通していた意識形態を通じて、理解するときだけである。その意識は、現代人の夢をみる浅い睡眠の状態に似たものとはいえ、活動的で、当時の人間を行動へと駆り立てることができた。 当時のその意識状態は、今日では病理的な状態(夢遊病)と考えられるものである。当時では、逆に、あまりにも「無味乾燥的」で当たり前な、今日の覚醒意識は知られていなかった。 いま、「無味乾燥的」という言葉をあえて使っているが、それは人間の物質的な側面だけに注目し、まるでそれが唯一の存在か、のように表すのが、「無味乾燥的」な表現だからである。勿論、上記のような事実は容易に認められるようなものではないだろう。 しかし、真実である。古代カルディアにおいては、人間は物質的な実体だけではなく、上述したようなオーラを付与された存在として感知されていた。そして、聖人たちは物質を超えて人間の魂を覗き見ていた。
2010年07月12日
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第2講3つの世界が映し出すイメージ もし、精神的な探求に関する理解を発展させたいなら、第一に、人間の魂が経験できる様々な意識状態に関して明白な考えをもたなければならない。 今日、地上での通常生活において、人間は明瞭に規定される意識を享受しているが、この意識は、人間が覚醒時と睡眠時の間に、明確な区別を経験するという事実により特徴づけられる。 この意識は、時間的にはそれほど一致しないが、およそ太陽が地球の周りを1周するものと想定した長さ、つまり地球が、中心軸上で1回転(自転)する長さに対応している(天動説)。 とはいえ、現時点では、このような太陽と、覚醒意識との対応は、ある程度、遮断されている。それでも、例えば、生活体系が秩序立っていた、それほど遠くない過去を振り返ってみるなら、当時の人々が、およそ日の出から日の入りまで働き、日の入りから日の出まで眠っていた、ということで分かる。 今日、この秩序だった生活様式は、部分的に損なわれている。実際、昼間眠り、夜起きている、というように生活習慣を逆転させていた人々も知っているが、その理由を尋ねてみると、その多くが詩人や作家で、次のように答えたものである。 「生活習慣が逆転するのは、仕方がない。逆転した生活習慣と、文学的な執筆活動とは切り離せないものなので。」 というような答えだが、夜、そのような詩人に出会ったとき、詩を書いているのを見たことは一度もない! さて、ここで強調したいのは、今日の意識にとって最も重要なのは、「昼間に相応する時間帯に起き、暗い間に相当する時間帯に眠る」、という生活習慣である。 この意識形態に多くの事柄が結びついているが、なかでも、感覚に対する知覚に特別の価値を置くこと、つまり、「感覚知覚が、現代人にとっては第一義的な現実になる」、ということが、この意識形態に結びついている。 そしてまた、感覚知覚から、思考に目を転じるとき、思考を、感覚知覚という現実を欠いた微かなその反映として眺められる。 今日、現代人は、椅子を1つの現実とみなす。椅子を床の上に置くことができるし、椅子が立てる音を聞くこともできる。椅子の上に座ることもできるが、椅子という思考(イメージ)は現実とはみない。 思考が頭の中にあると信じ、思考のなかの椅子をばんと叩くことを想像しても、何も聞こえない。椅子という思考の上に座れるとも信じていないが、このように思考を非現実なものとして信じることは現時点での人間の構成(進化度合い)からすれば正しい。 例えば、この講義を行っている教室に椅子は椅子でも、椅子の思考だけしかなかったら、腰を休めることができない! また、その他の多くのことが、太陽の軌道周期と関係した、この意識の経験と結びついている。 しかし、生活体系が、例えば、以前述べた古代カルディアの秘儀により秩序づけられ、方向づけられていた人々にとっては、状況は、全く異なっていた。古代の人々は、今日の意識とは非常に異なった意識レベルで生活していた。 少し卑近な例によって、古代の生活習慣と、現代との違いを描き出してみる。現代の暦では、1年には365日が割り当てられている。しかし、この割り当ては全く正確というわけではない。もし、1世紀もの間、1年を365日で数え続けたなら、そのうち太陽の歩調から逸脱してしまう。 つまり、太陽の軌道に追いつけなくなるので、4年毎に1日を、閏年として挟みこめば、比較的、長期間に渡っても、太陽の軌道とのおよその(地球の軌道との)一致を取り戻す。 では、遥かに昔の時代、例えば、古代カルディア人たちは、この暦の問題にどのように対処していたのだろうか? 古代カルディア人たちは長い間、近代の方法に似た計算法を用いたが、近代人とは別の方法で到達した。古代カルディア人たちは1年に360日を割り当てていた為、6年毎に、1ヶ月を挟みこんだ。 一方、現代人は4年毎に1日をつけ加え、閏年として計算する。従って、古代カルディア人の場合、各々が12ヶ月からなる6年の後、13ヶ月からなる年が続いた。 現代の学者たちは、このような事実を記録し、確認したが、現代との年代の計算法の違いが、人間の意識に関する奥深い変化に結びついていることには気づかない。4年毎に余分な1日を置く代わりに、6年おきに1ヶ月を挟みこんだ古代カルディア人たちは、現代人とは全く異なる世界観をもっていた。 古代人は、昼と夜の違いを、現代人とは同じように経験しなかった。以前、触れたように、古代人の昼間の経験は、現代人の経験のように、明確で活発なものではなかった。 もし、現在の意識を持った現代人が、この(いま講義を行っている)教室に入ってきて、周囲を見まわすなら、勿論、いまここにいる聴衆の何人かは近くに、他の別の人々は遠く離れている等々、距離の違いはあっても、明確に規定された輪郭を持つ対象として、人々を見るだろう。 古代カルディアの秘儀から霊感を受けていた人々の間では全く違った。当時、例えば、座っている人物を、今日の現代人が見るようには見なかった。というのも、当時、現代人のように、輪郭と遠近感をもって、対象が明瞭に見えることは稀であり、当時の人間は、自らの一部であるオーラの雲に包まれていたからである。 現代人の世俗的な見方でも、明確に規定された輪郭をもって、椅子に座っている個人と、その人々全体を、また人数をも数えることができるほど、対象が明瞭に見えるのに対し、例えば、古代カルディア人たちは、椅子と椅子の間にある通路の左右に続く、椅子の列から流れる霧の塊に似た一種のオーラの雲に包まれている人間の残像のような曖昧な対象を見たはずである。 ここにも、あそこにも、至る所に雲があり、そして少し暗い領域があり、その暗い領域が人間の存在を示していただろう。 上述のような、オーラの雲のような類の視覚経験は、古代カルディア時代の初期のものだが、後の時代には異なってきた。古代カルディア人たちは、昼間、曖昧で漠然としたイメージの暗い領域だけを見ていた。 古代カルディア人は、夜にも、昼と非常に似たイメージを、睡眠状態にもかかわらず見ていた。何故なら、古代人の睡眠は、現代人の睡眠ほど深くはなかったからである。現代でいえば、夢を見る浅い睡眠に近い状態だった。 今日では、もし睡眠状態なら、睡眠中の人間は、座っている他の人間を見ることができない。古代には、現代のような深い眠りは知られていなかった。古代人は、左右に続くオーラの雲の視覚的な形態と、その中にある光の点としての個人とを同時に見た。 従って、当時、昼と夜の知覚に関して、今日ほど顕著な違いはなかった。この理由から、現代人のように、昼間には日の光があり、夜にはない、という違いに気づいていなかった。古代人は、昼間、太陽を素晴らしいオーラに包まれた光り輝く球として見た。 古代人は、次のように思い描いていた。 下方には地球があり、地上の至る所に水、もっと高い所には雪がある。そこはユーフラテス川の源と考えられる。この大地全ての上に空気が、更に高い所には、最も美しいオーラに包まれて東から西へと旅する太陽がある(上図参照)。 古代人が太陽に関して抱いていたイメージとは次のようなものだった。 今日で言えば、何か漏斗に似た存在を想像し、夕方になると太陽はこの漏斗の中に降り、朝再び現れ出たと考えられた。 実際、古代人はこの漏斗の中にある太陽を見た。夕方、太陽は、大まかに、緑がかった光輝く青色の中心が、赤味を帯びた黄色の後光に包まれているように見えた。 朝になると、太陽は、光輝く中心が後光に包まれ漏斗のようなものの中から現れた。それから、天蓋のようなところを横切って旅し、深い色合いを帯びて、西の水平線から漏斗の中に潜り込み、漏斗の向こうから後光を放射した後、視界から消えた。 古代人にとって、太陽は暗く、黒かったために、漏斗、もしくは穴のような空間として、太陽を語った。実際、古代人は、物事を見た通りに正確に記述した。
2010年07月09日
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古代のカルディア時代から、更に時代を溯れば、前回述べたような話、つまり、イアやマーダック=ミカエル、アプシューやティマートだけを、当時の人々は語っていた。 当時の人々はまた、一見「風変わりな」秘儀の教師たちが星々や太陽の運動について教える情報を、毛嫌いした。つまり、当時の人々は、当時、不可視のものではなく、太古の超感覚的な能力を通して、明らかになり個人化され、象徴化された形態とはいえ、明確に見ることができるものだけを、探求することを望んだ。 (現代とは全く逆で、当時は、マーダック=ミカエルのような出来事が、可視のもので、現代の天文学等の知識が不可視のものだった。) 当時の人々は、秘儀参入者であった教師たちや、その弟子たちが獲得していた知識を拒絶した。その後に、太古の叡智が東(アジア)から徐々に広まり、重視される時代がやって来た。 精神世界の存在たちによる顕現、例えばマーダック=ミカエルの行い等についての多くの蓄積がなされたが、同時に、次第に、図式等で表せる概念、例えば、「太陽が中心にあり、惑星がその周りを円や楕円を描いて回転する」事実なども重視するようになった。 やがて時の経過の中で、精神世界、すなわち悪魔や神々の世界に関する洞察が失われ、代わりに、今日、誇りにし、近代が始まった頃に絶頂に達した理知的な知識が育成された。 悪魔や神々といった精神的な存在が自明であった太古の人々によって、今日の現象世界が拒絶されたように、今日、人間は、精神的な存在が拒絶される時代に生きている。 人智学徒は、天文学者や天体物理学者、或いは動物学者や植物学者が教える知識と並行して、再び精神的な洞察から導き出される精神的な事実に関する知識が受容される時代を予見する立場にあるべきである。 神々や悪魔のような精神的存在が受容される時代は、今や差し迫ったものであり、もし、人智学徒が自らの使命を成し遂げ、特に、芸術の宗教的な源泉や芸術を通じての治療を再び見つけ、来るべき時代の準備をし、その時代を迎えなければならない。 (アクエリアス「水瓶座」の時代と神秘学では予見されている。物質崩壊が進み、精神主義が再興するという。) 太古の時代では、精神的な存在が人々の間で受け入れられ、物質的な世界が拒絶されたが、それに続く次の時代には、逆に、物質が育成され、精神が抑圧された。 丁度そのような繰り返しの流れから、今や外界に関する広範で包括的な知識が、それは十分尊敬に値するものだが、秘儀の教えに関する新たな知識へと変容させられるべき時代が来なければならない。 今日の物質科学により、人智学徒が、せいぜい発掘する幾つかの断片を残して、古代の壮大な精神性が、構造的に引き裂かれた今、再び、精神性を見つけなければならない。ただし、過去の歴史を詳しく検討するとき、光を当てるあらゆる対象については、十分に明確な理解が必要である。 宗教的な感情に染められた新しい創造的な芸術や新しい芸術的な治療を通して、人間へと浸透する新たな精神の知識を通して、再び精神へと返る方法を見つけなければならない。 世界の基盤と原則を、その全体性において理解させ、偏狭な唯物主義者ではなく完全に統合された人間として、仲間の幸福と啓蒙のために働く人間に関する理解を、人類に与えることができる秘儀を、人智学徒が、新たなものにすべく努力できるように、という希望をもって、これまで三つの例を示してきた。 (とどのつまり、シュタイナーは、精神世界に対して、物質世界と同様な探求方法を用いれば、幻想に益々幻惑されるだけで、このような幻惑の精神的な存在をアーリマンと呼んでいるが、 また、逆に、勝手な思い込みや漠然とした熱狂による主観的な探求方法を用いると、新興宗教のような何も理解できない無知に陥るだけで、このような無知の奴隷をつくる精神的存在をルシファーと呼んでいるが、 その両者の極端な方法ではなく、中庸的方法を用いることを薦め、アーリマンとルシファーの中立的な精神存在を、キリストと呼んでいる。つまり、キリストは、アーリマンとルシファーの仲裁に立つ和解や均衡の存在としている。 余談だが、最近、TVでよく統計データ紛いの比率表が持ち出されるが、無作為に意見を抽出しているというが、それこそ怪しいものである。そもそも無作為という行為そのものが作為である。無作為ではなく、中立的な立場にある意見こそ重大視すべきであろう。 なぜなら、当事者が、自分たちの都合や利害関係で、意見すること、例えば、極端には、いわばサクラに成りすますことなど考えられるからである。 例えば、相撲の中継が話題になったが、相撲関係者は利害が絡むし、相撲ファンも、ほぼ大変が「見たい」という意見を占めるわけで、中継に対する意見調査をするなら、問題は、利害関係者以外の大衆に迷惑が及ぶ是非なのであるから、少なくとも、当事者や相撲ファンを除かないとおかしい。 社会道徳のために、自らの欲望をいかに規制し、制限できるか、が人間としての精神の主題であろう。社会全体のことよりも、自分たちの趣向を選択するのは、自由とはいえないと思う。 忍耐力を重視した相撲という国技が、単なるエンターテイメントに堕落するのなら、もはや消滅しても仕方ないと思う。相撲の精神とは何なのか? 再考すべきだろう。)
2010年07月08日
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「シュタイナーのからだの不思議を語る」という本はお勧めである。 その本のなかの、「病気とはなにか、死とはなにか」の章は必読である。その本のなかで、現在、パニック症候群と呼ばれているなかの一つの「広場恐怖症」の要因は、子供のときの教育を通して植えつけられたケースがあると述べている。 この広場恐怖症は、心魂のなかの重荷を、告白や懺悔により取り除かれると、治癒にむかう、と書かれている。 要するに、人間の身体は、精神からつくられることを、シュタイナーは力説している。 さて、「死とはなにか」であるが、シュタイナーは、聖書にあるパウロの言葉を用いて、簡潔に説いている。 パウロの「死は罪の報いである。」の罪とは、現代人が考える意味の「罪」ではないという。神学が唯物論者に捻じ曲げられて解釈されてしまったので、本来の「罪」の意味が現代人には通じないようになったというのである。 で、シュタイナー曰く、本来の「罪」とは、「利己心、我欲から発するもの」のことであるという。 生命の進化目的の頂点に、個別意識の獲得がある、ということを、古代の賢者たちは生命や動物を洞察して、その結論を得た。 つまり、霊魂が、個別意識を獲得するためには、全体から、何かしらを分離しなければならない。 このようなイメージは非常に困難だが、私には、この本の章を読んでいるとき、ローソクの火がイメージとして浮かびあがった! 暗闇に、ローソクの火を点すと、ローソクの火から、灯りが確保でき、周囲と差別化され、個別的意識が浮かびあがる。 しかし、ローソクの火を点すには、火となるローソクが必要で、ローソクは火を点すために、その犠牲となる。 従って、個別意識の獲得、つまり、この本のこの章にある「個的な生は土台を消耗する」ということに気づかされる。 パウロの「死は、個別意識の報いである。」となる。 人間が、利己心、我欲から発するものを、獲得するために、死が必要なのである。 それはすなわち、霊魂が、個別意識から、私的な経験を得るためには、死が必要なのである。 人生を味わい尽くすには、死がなければならない。私なりのこの書のこの章を読んだ後の結論である。 少々わかりにくいかもしれないが、別の角度から、説明する。 創造には、産みの苦しみが伴う。全体を発展させるには、先んずるものが必要で、特定部分を自由に多様的に、解放的に、いわば個別的に発展させなければならない。 つまり、拡大する前に一度、縮退しないといけない。ジャンプするには、身を屈める必要があるように、壁を突破するには、縮退してエネルギーを貯めないといけない。 この動作から考えれば、縮退に当たるのが、個別意識の獲得であり、それに伴う、死であり生である。つまり、利己心や我欲という悪を、善に転じるプロセスが死なのである。 利己心や、我欲が、宇宙全体の奉仕や宇宙への帰依を生み出すには、死という作用が必要である。或いは、死という最後があるからこそ、利己心や我欲が意味をもつのかもしれない。 逆説的にいえば、死があるからこそ、どんな悪人にもなれるともいえる。 さて、今度は、病である。病とは何か? 人間の個別的生は、自然や宇宙を縮退したものである、というのが、死の結論である。 人間のなかには、自然が詰まっている。 従って、人間の病気には、自然と人間との関係がどこかギクシャクしていることが挙げられる。 文字通り、自然でないわけだ! この本のこの章には、生命の大原則が書かれている。 「生命プロセスが下降から上昇に転じるときに毒を受け取ると、その毒は身体に組み込まれる。」 この言葉だけではわかりにくいので、この例を、犬の免疫で解説している。 アフリカには、毒をもつハエがいるので、妊娠した犬を連れて行き、そのハエに刺させ、その犬が出産後に死ぬようにすると、その母犬からうまれた子犬は、毒に対する免疫をもつようになる。 古代の医師は、例えば、自己犠牲的に蛇の毒を摂取し、自分の唾液を蛇にかまれたときの薬としたというように、このような原理を自己犠牲的に活用し、毒に対する免疫を獲得してきたという。 つまり、自分の身体のなかに、悪を取り込んで、悪を浄化し、善に転じる作用、抵抗力、免疫力、自然治癒力をつくるわけである。 このような方法から、人間は強靭な肉体をつくっていったようである。 現代とはまるで逆の発想である。現代では、悪を避ける傾向にあるが、古代では悪を取り込み、味方にする傾向にある。逆転の発想といってよい。 従って、シュタイナーは、人間が健康であろうとするのなら、病気を避けてはいけない、と説く。 病気は、人間を健康にするための、手段であり、条件であるという。 病気の結果、人間は強くなる。 病気を与えられて悔やむなかれ! 病気を与えられて喜ぶべきなのだ!! この本を読んでいるときに、TVでは、事故で頭部以外不随になった教師の話をやっていた。 その教師は、どうしても教え子と一緒に卒業式をやりたいために、不随の身体を精神力で、歩行可能な位まで回復させたという話である。 精神に不可能なものはない。なぜなら身体は精神からつくられるからである。 フィヒテは、「人間は、あるべきものになれる。私にはできない、と言うとき、その人は、欲していないのだ!」と言っている。 ゲーテは、「自然は、多くの生命を有するために、死を発明したのだ。」 「力強い健康を生み出すために、自然は病気を作り上げた。」と言っている。 死や病気は、人間の進化のための必須の神器なのだろう。 しかし、現状を見る限り、人間は、神に向かうよりも、益々奴隷のごとく、獣になっているように思える。悪に怯えるばかりである。それでは益々悪が増えるだけである。 コンピューターの奴隷になっている人間のいかに多いことか? コンピューターがなくても、人間は生きていけるのに、いまや、ないと生きていけない人間ばかりである。コンピューターに、現代人は精神を売ってしまった奴隷なのではないのか? 少なくともコンピュータぐらい自分で使いこなせなくてどうするのだろうか? と思う日々である。
2010年07月08日
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さて、では、秘儀の精神から、包括的な世界認識に至る探求の方法と、現代で試行されている方法とを比較してみる。 この比較により、この包括的な認識へと導く方法との関係から、人間は、自身の方向性を見つける位置に立つことになる。 数千年前の太古の世界では、その神的な基盤、もしくは神的本質に関して、現代の権威ある学識者が語る方法とは、全く異なる方法が語られていた。 例えば、近東(東ヨーロッパ;エフェソス[1]の秘儀のことかと思われる。)の秘儀において崇高で壮大な知識が栄えた数千年前の時代を振り返ってみる。その知識の特徴を簡潔に記述することで、その本性を綿密に覗き見てみる。 [1]エフェソスhttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%95%E3%82%A7%E3%82%BD%E3%82%B9 古代カルディアでは、次のようなことが教えられていた。 「人間の魂の力の可能性を、最大限に引き出すには、睡眠時(意識が朦朧とし、周囲の世界が忘却の彼方にあるとき)と、覚醒時(明確な視力をもち周囲の世界を意識しているとき)との素晴らしい対比に、精神の目(心眼)を向けなければならない。」 数千年前の古代では、生活のなかで、交互に入れ替わる睡眠の状態と覚醒の状態は、今日とは異なった形で経験されていた。 当時の睡眠は、今ほど無意識なものではなく、また覚醒時の生活は、今ほど十分に意識的ではなかった。睡眠中、人間は、力強く、絶えず変化するイメージや、活発な流れや動きの世界を意識していた。当時の人間は、神的な基盤や、宇宙の本質に通じていた。 睡眠中に意識が霞むのは人間が進化した結果である。数千年前の、覚醒時の生活は今日のように明確で明瞭なものではなかった。今日のように、対象が明瞭に規定された輪郭を持たず、曖昧としていた。 古代では、対象は、精神的な特質を様々な形で放射していた。現在のように、睡眠から覚醒への不意の移行は存在しなかった。当時の人間たちは、睡眠と覚醒の状態を識別できた。 当時では、覚醒時の生活環境を、「アプシュー」と呼び、覚醒時の生活における鉱物、植物、動物間の明確な区別を鈍らせる、睡眠時に経験する活発な流れや動きの領域を「ティマート」と呼んだ。 さて、古代カルディアにおける秘儀の学院では、睡眠中、ティマートの流れや動きに与るとき、(覚醒時の)鉱物や植物、もしくは動物たちの中で、意識的な生活を送っているときよりも、真実や現実に近い、ということが教えられた。 ティマートはアプシューに比べて、神的基盤に近く、人間界と密接に関連していた。アプシューは、ティマートよりも、離れた処にあった。ティマートは、人間に近い処で、何かを表現していたが、時間が経つにつれ、ティマートは変化を被った。 そして、秘儀の学院で学ぶ弟子たちに、次のような事実が知らされた。 ティマートの活発な流れと動きの中から悪魔のような形、人間の頭に馬の身体をもった存在や天使の頭に獅子の身体をもった存在が現れた。それらの存在は、ティマートが織りなす中から生じ、人間に敵対するようになった。 そして、力強い存在のイアが世界に出現した。耳を持つ現代人なら誰でも、いかに、「イ」、「ア」という2つの母音のつながりが、「イア」という力強い存在を指し示しているか、を感じることができる。 つまり、古の秘儀の教えによると、ティマートの悪魔が強力になったとき、人間を助けるために、人間側に立った存在を、「イア」は指し示している。 イア(IA)、もしくはエア(EA)は、「ソフ(Soph)」という接頭語が、後につけられ、ソフ-イア(SOPH-IA)、つまりソフィア(Sophia)になった。 イアの大よその意味は、「抽象的な叡知、あらゆるものに浸透する叡知」である。ソフは(大体において)存在状態を示唆する小詞である。 (哲学のフィロソフィアは、このソフィアに、フィロがついているが、フィロとは、「共感する」とか、「共にする」とか、「認識する」とか、「愛する」という意味もあるようで、だから、「神という叡智に浸透される」という意味になる。 或いはまた、人智学的にいえば、「神界に参入する」という意味にもなるだろう。哲学とは、神界への参入法、或いは、キリスト教的にいえば、神の叡智を受け入れる聖杯になる方法といえるだろう。 現代では、哲学とは、「思考すること」という意味が大きいが、古代では、思考は、神の叡智の存在を意味し、神からくるものなので、神から言葉を受け継いだ、「預言者」という意味が強いようである。) すなわち、全てのものに浸透する、どこにでも存在する叡知の、Sophia、Sophea、Sopheiaが、母親として、当時ではマーダックとして知られ、後にミカエルと呼ばれるようになった息子を、人間を助けるために、遣わした。 ミカエルは、天使の位階を権威として付与された。叡知であるイアの息子マーダックと同じ存在で、つまりマーダック=ミカエル(大天使)である。 秘儀の教えによると、マーダック=ミカエルが偉大で強力だった為、全ての悪魔的な存在、人間の頭を持つ馬や天使の頭を持つ獅子の形をした存在等の、波打ち、蠢く悪魔の形をした存在たち全ては、強力なティマートとして合体し、連合して、マーダック=ミカエルに対抗した。 マーダック=ミカエルは非常に強力なので、嵐に命じて世界中に風を吹き荒れさせた。対して、ティマートにより体現された悪魔的な出来事全てが活発な現実のように見え、当時の人々は、実際に、その出来事を体験し、(伝説として残る話を)ありのままに見た。 夜(睡眠時)から誕生した全ての悪魔的な力を体現するティマートは、人間の敵の強力なドラゴンとしてイメージされた。 そして、この怒りの火を吐くドラゴン存在がマーダックの前に進出した。ミカエルは初め、様々の武器で、ドラゴンを打ちのめし、ついで、ミカエルの嵐のような力の全てを、ドラゴンの内臓へと送り込んだ為、ティマートはバラバラに砕けて飛び散った。 そして、ドラゴンを退治することで、マーダック=ミカエルは、ドラゴンの中から上なる天と下なる地を創造した。こうして、天と地が生じた。 (なんだか、ウルトラマンを髣髴とさせるような話でもある。 とある霊能者によると、ウルトラマンは、牛寅「鬼門の北東の方角」マンを意味し、牛寅の鬼門からくる魔物を退治するスサノオを表現するという。スサノオは、西洋でいえば、大天使ミカエルに準えることもある。 ウルトラマンが幼児に人気があるのは、前世の古代に生きたときに、マーダック=ミカエルの存在が、魂の奥底の経験の記憶として残っているためなのかもしれない。) 秘儀の教えとは、以上のようなものだった。叡智イアの長男がティマートに打ち勝ち、ドラゴンの一部から、上なる天を、また別の一部から下なる地を作り出した。 もし、現代人が、天空の星々に目を向けるなら、そこに見るのは、ティマートの恐ろしい深淵からマーダック=ミカエルが人類のために、天に造り出した一部なのである。 また、もし、鉱物化された地球から植物が生え、その下方の鉱物が形成され始める地中を見るなら、そこには叡智イアの息子が、人類のために再創造した別の部分が見出される。 古代カルディア人たちは、上記のように、世界の形成期を、つまり、無形から形が形成された時代を振り返った。古代カルディア人たちは、創造の工房を覗き見ると同時に、活動的な現実を知覚した。 これら全ての夜に出没する悪魔やモンスターたち、すなわち波打ち織り成すティマートの存在たちは、マーダック=ミカエルによって上なる天体と下なる地球に変えられた。 太古の人間は、その古い魂の属性を通して、自身の処へと来た全てを、上記のような形態としてイメージした。 つまり、マーダック=ミカエルによって、悪魔たちの皮は、輝く星々に変えられ、また、ティマートの組織は、地球に生え出る植物や鉱物などに変えられた。当時の人々は、このような情報を知識と考えた。 また、秘儀の祭司たちは、弟子たちが示す魂の力を探求することで、(弟子の)将来を予想した。そして、弟子たちが十分な魂の力を発達させたとき、今日の子供たちが学校で最初に教えられるような基礎知識、「地球は太陽の周りを回り、宇宙は星雲から形成される」、というような知識を理解する段階に達した。 古代では、上記のような現代の基礎知識は、堅固に守るべき秘密とされた。他方、公然と教えられていた知識は、上述したマーダック=ミカエルの行為等の知識だった。 今日の学校や大学(秘密の遵守が要求されることもない)では、また小学校においてさえも、コペルニクスの体系や天文学や宇宙物理学などが教えられている。 しかし、太古の時代において、現代の基礎知識からくるような課題に取り組むことを許されたのは、聖人たちだけで、それも長い準備を経た後だった。今日では、小学校の教科にもなり、どの小学生も知っている基礎知識を学ぶことができたのは、当時は秘儀参入者たちだけだった。
2010年07月07日
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さて、三番目の例として、植物学者や動物学者はあらゆる植物の形態に関する素晴らしく詳細な知識、入手可能な知識を得ることができる、ということを挙げる。 生化学者は植物の中で生じるプロセスを記述でき、人間の新陳代謝の中でいかに食物が消化され、血管によって栄養が運ばれ、組織の壁の中へと吸収され、更に血液によって神経系へと運ばれるか、をも述べることもできる。 優秀な解剖学者、生理学者、生物学者、或いは地質学者はマーヤ(幻想)の世界を広い範囲に渡り網羅できる。 しかし、もし、科学者たちが、その知識を人間の治療や医療の目的に使うなら、或いは、もし、人間の外見、もしくは内的な構成から、人間の本質的な存在へと探究を進めるなら、それは不可能で、決して到達できない壁にぶつかるだろう。 (ソクラテスは、この壁のことを「無知」の壁と呼んだという。神々との対話ができる真の賢者「秘儀参入者」でなければ、この「無知」の壁にぶつかることを、無知の知と呼んだという。) しかし、次のように反論する人もいるだろう。 「けれども、精神世界には何の興味も持たない唯物論者の医師も沢山いる。それでも、医師たちは自然科学の方法に従って、患者を処置し、結果を出しているではないか。」 確かに、医師たちは結果を出しているが、実は、医師に治療が可能なのは、医師もまた(伝統に基づいた)古い世界観の上に立っているからである。太古、治療法は秘儀から導き出された。 そして、太古の治療法全ては、顕著な特徴をもっていた。もし、現代人が、太古の処方箋を見たなら、大変複雑であることが分かるだろう。太古の伝統により規定された特定の目的のために、太古の処方を用いる人には、かなりの能力が要求される。 もし、太古の医師のところに行って、その処方箋はどのようにして作られたのですか、と訊ねたなら、「はじめに化学実験を行い、物質がどのように振る舞うか、を様々な方法で(臨床実験で)検証してから、次に、その方法を患者に適用し、その結果を書き留めた。」とは、決して答えないだろう。 太古の医師には、逆に現代のような処方は思いもよらぬものだろう。太古の時代は、どのような能力や状況が卓越していたのか、に関するいかなる考えも、現代人は持ち合わせていない。当時の医師は次のように答えただろう。 「私は、秘儀の教えに基づいて設置された実験室(と呼べるかどうかは分からないが)に住んでいる。私が処方を思いつくときには、その処方は、神に負っている。」 太古の医師の立場は、実験室のなかに醸し出された雰囲気全体を通して、精神世界と密接に交流している、という点に関しては、全く明確だった。 太古の医師にとって、精神的な存在が、実験室に居る、ということは、科学者が実験室に居るのを現代人が確認できるのと同じくらい明確なことだった。 太古の医師は、精神的な存在の影響を通して、高次元に到達し、他の方法で可能な治療よりも多くの治療を達成できる、ということを知っていた。そして、太古の医師は、自然認識からではなく、神の口述に従って、複雑な処方箋の作成へと進んだ。 秘儀の学院では、人間の理解には、マーヤ(幻)の世界と自分とを同一視するのではなく、神界の真実へと参入できなければならない、ということが知られていた。 外界に関するあらゆる知識をもっているとはいえ、今日の人間は秘儀から導き出された知識をもっていた太古の人々に比べて、神界の真実から、遥かにかけ離れた処にいる。再び、神界への真実に戻る道を見つけ出さなければならない。 三番目の例から明らかなのは、現代人が、治療法を追求するとき、たとえ可能な限り幅広い自然に関する知識(つまり、マーヤ「幻」の世界に関する知識だが)をもっていたとしても、再び、人間の生と運命に関する未解決の問題に直面することになる、ということである。 現代人が、いくらマーヤ、いわゆる大いなる幻想の立場から人間を理解しようとしても、或いは、治療目的のために要求される「汝自身を知れ」の立場から理解しようとしても、人間の理解において一歩も先には進めないだろう。 (シュタイナーによると、ソクラテスの「無知の知」とは、人間が、秘儀により神から叡智を伝授されない限り、どんなに知識を得ようとも、人間の理解は進展しないということを主張したものだという。 シュタイナーは、秘儀による神からの叡智の伝授は、神界に参入することで、得られると説いているが、神界は、日常世界、つまり物質界にも混じり込んでいるので、特別な修行など必要なく、いわば日常生活を通した精神的鍛錬で、神界に到達できるとも説く。 人間が、死後、次の転生までに、自らの欲望や、己という利己を捨てれば、神界に達することを、以前の講義のなかで、紹介したが、死んでなくても、いわば、生きながらにして、非常に道徳的な人間、自己犠牲を厭わない人格を帯びることで、そのまま神界に到達できるというわけである。 神界の基本的性質は、自己犠牲にあるという。神界では、もはや自己がないので、犠牲のみ、無償の愛があるという感じなのだろう。 聖人といわれる人たちは、神界から、その才能を受け継ぎ転生してきた教師と、神秘学では、いわれる由縁なのだろう。自己を捨てるとは、禅では無我の境地に喩えるが、日本の古来からの思想には、神秘的要素が豊富である。 例えば、武士道も、自己を捨て、天に仕えることを目的としているし、武士が、身体を鍛えるのは、身体の悪「居つく」を克服するためと思われる。切腹は、ある意味、身体に犯された精神を解放するためともとれるし、天に対して、身体を捨てる犠牲でもある。) 従って、以上の例に照らして、次のような結論に至る。 マーヤ(幻)の世界と「汝自身を知れ」の間にある隔たりに橋を架けようとする人が、たとえ宗教的な感情、もしくは創造的な芸術家として、或いは治療家や医師として、人間にアプローチしても、唯一の出発点が幻想の世界であるなら、その瞬間、自分が無の前に立たされている事実に気づく。 マーヤ、すなわち大いなる幻想に対する知識である外界の自然に関する知識を超越する知識形態を見つけない限り、無力である。 (ソクラテスの「無知の知」の真の意味。)
2010年07月06日
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では、これまで、人間は世界に関する知識を、いかに芸術を通して表現してきたのか? 古代人は、芸術に対するインスピレーションを秘儀の教えに負ってきた。自然及び自然の様々な側面に関する人間の知識は、その時々の理解水準に関係していたが、同時に、精神的な洞察によっても豊かなものにされてきた。 古代ギリシアを振り返ってみれば、このような事実が分かる。今日、彫刻家や画家はモデルを使って仕事する。少なくとも最近(1923年)まではそうだった。芸術家は、模写、もしくは模倣に取りかかる。 しかし、古代ギリシアの芸術家たちも、同じ行為をしたように言われているが、そうではない。古代の芸術家はむしろ人間の精神的な形態を、自分の内に感じ取った。 もし、腕の動作を、彫刻で表現するなら、外界は、精神的な内容により満たされ、あらゆる物質的な対象物は、精神から創造されたという事実を、古代の芸術家は知っているので、作品中に、その精神を再構築しようと努めた。 ルネッサンスの時代に至ってもなお、画家はモデルを使わなかった。創造に刺激を与えるためにモデルは活用された。当時の画家は、腕や手を動かす存在を先験的に知っていた。画家が描く動作の表現に、この事実を見つけることができる。 外界の存在や(マーヤ)幻の世界を皮相的に表現しても、理解を前進させることはない。外界を皮相的に表現することで、深く人間を見るのではなく、外界の対象だけに関わり、そのことから、人間の外にいる単なる傍観者に留まる。 芸術の観点から言えば、もし、マーヤ(幻)の世界を超越することに失敗するなら、人間の本性に関する恐るべき問題に直面し、いかなる答えも得られないだろう。 古い秘儀への参入に際し、秘儀参入者は弟子に対し、 「もし、お前がマーヤ(幻)の世界の中にとどまるなら、お前は人間やその他のいかなる自然領域の本質的な存在にも参入できない。お前は芸術家になることはできない」 という事実が明らかにされた。芸術の領域では、「汝自身を知れ」という明確な定言を弟子に思い起こさせ、その後で精神的な知識の必要性を感じ始めさせる必要がある、ということが知られていた。 しかし、全く唯物的な彫刻家もいるではないか、という反論もあるだろうが、いずれにしても、当時の芸術家は、単なる素人ではなく、自分たちの行為の意味を知っていた。また、どうすればモデルから秘密を引き出せるのか、そして、どうすれば、作品の人物像や題材に、秘密を付与できるのかを知っていた。 実際、それは真実だが、では当時の芸術家が、一体どこから認識を導き出してきたのか? この能力が、芸術家自身から来るのではない、ということに多くの人々は気づいていない。当時の芸術家は、自分たちより前の芸術家たちに、その能力を負っていたが、その芸術家たちもまた、その先駆者たちから、受け継いだ。 つまり、芸術家は、(先輩からの伝承である)伝統に基づいて働いたのだが、この事実を認めたがらない。自分の力で成し遂げたことを主張した。 当時の芸術家は、古の巨匠たちが、いかに模倣し、制作したかを知っていたが、最初期の古の巨匠たちは、秘密を秘儀の精神的な洞察から学んだのである。ラファエロやミケランジェロは、まだ秘儀に参入し、秘儀から秘密を獲得できた人たちから学んだ。 (ギリシアの芸術家たちの方法は、武道にも類似している。武道のカタが、一種のモデルで、そこから、自らの動きの根本、精神を再構築するといえるからである。オリンピックは、ギリシアの哲学者によりはじめられたらしいが、この講義で述べられている芸術家の方法の披露の場といえるのだろう。) けれども、真の芸術は精神から創造されなければならない。他に方法はない。人間の問題に触れる瞬間、大いなる幻想に対する知覚は人生の様々な問題や人間の運命に対する問いへの答えにはならない。 もし、芸術と芸術的な創造の源泉へと遡るなら、精神世界への洞察を再発見しなければならない。
2010年07月02日
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これまで述べた意味での、大いなる幻想に関する知識を真の自己認識で置き換えるのは、ほとんど不可能なほど困難で、更に、精神の理解のための真なる方法に向けて、たとえ、その準備を前提としても、幻想に陥っている状態で、真の自分に関する漠然とした感情全てを克服し、真実で明確な知覚に到達するのは、ほとんど不可能であることを心に留めておく必要がある。 この事実が何を意味しているかを偏見なく眺めてみる。ダーウィン、ハクスレー、スペンサー、その他の科学者による近年の科学上の発見に対して、精神世界に関する洞察を有する者(神秘家)は、唯物論者よりも、深い賞賛と尊敬の念を感じる。 つまり、ダーウィンらの科学者やジョルダーノ・ブルーノ以降の科学者は、古代の神秘家たちがマーヤ(幻想)の世界と考えた現象世界に関する洞察を得るために惜しみない努力を行ったからである。 とはいっても、ダーウィン、ハクスレー、スペンサー、コペルニクス、ガリレオ他の科学者により持ち出される理論を受容する必要はない。彼らの望むように宇宙を理論づけさせておけばよい。しかし、彼らの議論に引き込まれる必要はない。 けれども、これらの科学者が示した人間、動物、植物の中の特定の器官、または鉱物界に関する特別な問題に対する事実に即した詳細な探求への途方もない衝動を認めないわけにもいかない。 科学者の刺激的な探求の結果、腺組織、神経、脳、肺、肝臓等々について、近年、多くの知見が得られるようになった。実際、科学者は最高度の尊敬と賞賛に値する。 とはいえ、実生活における、このような知見は、人類をただある一定の知識水準にまで連れて行くに過ぎない。この意味を示すために、以下に三つの例を挙げる。 例えば、これらの知識から、受胎した卵細胞が胎児へと次第にいかに発達していくか、またいかに様々な器官が段階を追って展開するか、また皮膚近辺の小さな器官から、複雑な心臓へと循環システムがいかに構築されるか、等をどこまでも詳細に探求でき、示すことができる。 また人類は、植物の有機的な発達を根から花、そして種へと探求でき、そして、探求による事実に基づいた情報から全宇宙に適用できる宇宙理論も構築できる。 天文学者や宇宙物理学者たちは既にそのようなことを行っている。彼らは、自律的な発生が可能な星雲が段階的に明確な形態を取ることで、そこから、いかに宇宙世界が現われるかを示す宇宙理論を打ち立てた。 しかし、この宇宙体系全般に対する理論形成にも関わらず、人間の本性に対する、「汝自身を知れ」という定言に、いかに応えるか、という問題に、結局、再び直面することになるだろう。 もし、ただ鉱物、植物、動物、或いは例えば人間の腺組織や循環系に関する知識に限定される自分を知るだけなら、誕生として入り、死として離れる世界(この世)だけを知ることに限られる。しかし、人間は結局、自分は一時的な、この世界に限定されてはいない、と感じている。 従って、壮大さと完成度をもって、外界に関する知識から、産出される全てを目の前にして、人間という存在の根本から、この外界全てが誕生から死までの間に限って肯定できる、と答えざるを得ない。 しかし、本質的な自分、真の本質というものを知っているだろうか? 肉体の様々な器官から大いなる幻想の世界しか理解できない人間は、自身や自然に関する知識が道徳や宗教との関わりを持つ瞬間、沈黙せざるを得ない。 「汝自身を知れ、汝何処より来たりて、何処へと去るか、汝の最奥の存在において知るために!」 という定言や、この定言に対する認識の問題に対しては、宗教との関連が持ち出される瞬間、限定的な理解度では答えることができない。 弟子が秘儀の学院に入るに際し確信したのは、宗教が問題になるときには、感覚的な観察を通して、いかに多くを学ぼうとも、その情報は人間の本性に関する大いなる謎に対し、いかなる答えも与えはしない、ということだった。 更に言えば、人間の頭の構造や腕や手の特徴的な動きや、立ち居振る舞いについて、いかに正確な知識を持ち、或いはまた、動物や植物の形態に関する感覚的な観察を通して、唯一、知ることが可能だが、瞬時に理解できないわけで、また、それらの情報に対して芸術的な表現を与えようとする瞬間、解答不能な問題に直面する。 (仏教の説く「分別知」のことで、「分別知」では、物質界は表現できても、精神界は表現できないという意味なのだろう。)
2010年07月01日
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