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教育基本法の改正が必至の情勢だという。そこで疑問。直近の選挙で焦点となったのは郵政民営化で教育基本法ではない。自民党に投票した人だって教育基本法の改正なんていうことは頭になかったはずである。それではこれについてどんな形で民意が問われたのだろうか。やらせミーティングは論外としてもきちんとした世論調査や公聴会も行なわれた形跡がない。そもそもマスコミは政争としてこれを報道しても肝心の改正の中味についてはほとんど報道していない。義務教育年限の規定が削除されたり、伝統の尊重について書きこまれたことが、将来どんな影響を及ぼすかなどもっと議論をしなくてはいけないことではないか。世の中には沢山の法律がある。新たに起きた状況に早急な施策を行なうための法律であれば、急いで制定する必要があるであろうが、教育基本法は憲法と同様に全国民の価値観にかかわる法律である。議論もしない、内容についてのろくな報道もない、民意も問わない…こうした中での改正は必ず将来に禍根を残すのではないか。
2006年11月30日
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その昔、北海道には国策として多くの炭田が開発され、石炭を運ぶ鉄道も縦横にはりめぐらされた。やがて時代は移り、炭田は閉鎖され、鉄道も廃線となっていった。石炭全盛の時代には賑わっていた多くの町もいまでは昔日の面影もない。夕張市もそんな市の一つだ。財政破綻の責任は住民が負うということで、行政サービスは次々と縮小され、負担ばかりがぐんぐんと増えていくという。サラリーマンならすぐにでも逃げ出したくなるが、夕張市の場合は農家なども多くそう簡単にはひっこせないだろう。なんかこれって全国的規模での過疎地いじめではないか。そしてたぶんこれは夕張市だけの問題ではない。今後あれくらいの財政破綻をおこしそうなところはまだある。それは本当に「住民」の責任なんだろうか。まるで過疎地に住んでいるオマエが悪いといわんばかりの話である。これではいくら定年帰農とかIターン就農なんていっても、田舎で農業なんて怖くてできやしない。夕張市の財政赤字はたしか何百億だったか。人工衛星でいえば一回分の金額だ。そしてあの北朝鮮へのコメ支援にかけたお金やODAにばらまいているお金はいくらになるのだろうか。※こんなふうに地方分権がすすみ財政破綻も自治体の自己責任なんてことがつづくと、どうなるのだろうか。住民が行政サービスのよい自治体を選ぶように自治体も税金を沢山はらってくれる住民をよぶようになる。そうなると余裕のある住民がよろこぶ施策には力を入れるが、セーフティネットのような施策についてはあえて削減する自治体が続出するのではないか。A市の生活保護窓口では職員が申請者をどなりつけているがB市では親切に相談にのっているとなれば困窮者はB市に殺到する。そうなればB市としては財政上困ったことになるからである。なにがなんでも地方分権がよいというのではなく、過疎地も都市も、豊かな人もそうでない人も、ともに生かすような方向を考えるべきであろう。※※郵政造反組の復党にからんでマスコミはさかんに「国民の反発」をあおっている。でもこれで怒っている人ってどのくらいいるのだろうか。小泉劇場の刺客作戦は民主党を脇役にしてしまったという点で大成功だったが、刺客自体はさして支持を得ていたわけではない。まあ、名前があげないが、中にはけっこうムカつくタイプもいたりするしね。復党けしからんというよりも、刺客ザマアミロくらいの声の方が実はサイレントマジョリティじゃないのかな。
2006年11月29日
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いじめの問題も議論していたらしいなんたら会議で、いじめた子供の出席停止措置なんていう提言が出されたらしい。現場はますます混乱するだろうなあ。出席停止をするかしないかが学校の判断に委ねられている上、出席停止の間、そのいじめっ子は何をしていろというのだろうか。学校で恐喝をやるかわりに平日の昼日中から老人を対象にひったくりでもやるとまた別の問題になったりして…。そのうち出席停止になった子供の心のケアをなんていう自称専門家のとんでも発言がでてくるかもしれない。なんかこういう議論をみているとじれったくてたまんない。そもそもクソガキの犯罪を「いじめ」とよんで。学校が悪いの教師が悪いのといっているから議論があさっての方向にばかりいってしまう。恐喝、暴行、強制猥褻。こんなのは校内でやろうが町中でやろうが犯罪には違いない。被害者はスクールカウンセラーなんていうわけのわかんないところにいくよりは、すみやかに警察に相談をすればよい。そして警察も、今の犯罪被害者相談受け付けに加えて、児童や生徒専用の「校内犯罪被害者相談室」を設けて気軽に相談に乗るようにすればよい。これで「いじめ」とよばれている犯罪の大半は解決する。学校の教師のやることはただ一つ。警察の捜査に協力し、被害者が損害賠償請求を行なう際にはその被害者にも情報提供をすることである。犯罪をひたすら教育の問題としてしまうこと。これがボタンのかけ違いではないか。
2006年11月28日
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プロ野球人気の凋落、特にテレビ視聴率の低迷がいわれて久しい。いろいろな原因があるのだろうが、テレビの視聴率に限って言えば、案外家族の変化というものがその背景にあるのではないか。※視聴率というのは世帯単位に調査している。たしか500世帯くらいだろうか。だから同じ視聴率といっても、世帯の中味が変われば結果が変わるのは当然であろう。今、すごいいきおいで増えているのは単身世帯である。これも若者の一人暮しや未亡人の老女の一人暮しだけではなく、中年の一人というのが増えている。そしてまた子供が巣立った後の夫婦二人暮しや、中年になった息子や娘と老親との世帯も多い。つまり家族という言葉で普通イメージする両親と子ども二人というのは少数派なのである。子供と両親の家族と、中年の息子と老母の家族とでは団欒の中味もテレビの見方も違う。※子供の小さい家庭であれば、ビール片手に父親がひいきのチームを応援して、それを周りで母親や子供達がわいわいいいながら見るというのはよくある光景かもしれないが、子供が成人していたりすればたぶんテレビも別々であろう。一人暮しでプロ野球を見ても、なんとなくつまらないし、それなら別のものを…となっても不思議ではない。そういえば野球と同様、大相撲の視聴率も低下しているようだが、これも同じ様な背景なのかもしれない。※この一方、Jリーグ観戦でサッカー場に足を運ぶファンは多いという。テレビを見ていると、若者だけではなく、中年の男性などが一人で応援に来ているのも多いようだ。皆でもりあがり、刹那的な連帯感に酔う。スポーツそのものよりもそうした祝祭的雰囲気に魅力を感じる人が多いのではないか。なんか孤独な人が増えている…なんて思うのは考えすぎなのだろうか。
2006年11月26日
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詩のように美しい恋愛映画である。若い男女がいて、二人の間には愛があって、ただ二人をへだてるのは2年という時間だけ。この設定がなんともいえない。別の時間を生きる男女といっても絶対に会えないという壁ではなく、さりとてすぐに会えるというわけでもない。そういう意味でこの2年というのは絶妙なのである。そしてとうとう2年のときをへだてて文通をしていた男女はお互いに会うためにデートの約束をする。女にとってはすぐの時間だが、男にとっては2年以上も先の約束である。でも約束の時間に男は来ない。何が起こったのか…というあたりでストーリーは急展開する。最後のシーンはややわかりにくいのだが、ちょっと不思議な恋愛映画ということで、まあよいでしょう。なんかこういう話って日本だったら日常の中のタイムパラドックスSFという感じで藤子・F・藤夫なんかが書きそうである。※今時の男女は携帯やメールでいつでも連絡をとれるし、会おうと思えばメールで通信しただけの相手ともすぐに会うことができる。そんななかで2年の時を隔てた手紙だけの愛というのは携帯やメール全盛時代の強烈なアンチテーゼなのではないか。また、主人公の男女は、共に一人暮しなのだが、女はカップ麺をすすっているのに、男はけっこうおいしそうなパスタを作って食べる。そんなシーンなどは短編映画をみているようで面白い。そして女は文句なしに美人なのだが、男の方は日本ではまず芸能人にはならないような風貌で、ち日韓でちょっと容姿の好みが違うのかなとも思ったりする。それにしても、あの海辺のコテージのイルマーレ。ぜひ行ってみたいし、一日くらいならとまりたいけど、あそこに住みたいとは思わない。海の荒れた日は怖いし、津波などのときはひとたまりもないだろうから・・・。※※(昨日の追記)昨日の日記で書いた「銀河英雄伝説」は民主主義とはなにかという問いかけがあるから大人の観賞にもたえる小説になっているように思う。それがなければ、いくらキャラが魅力的でも、機動戦士ガンダムなどとあまりかわらない。その意味で「銀河英雄伝説」の中では、実は扇動政治家トリューニヒトが最も成功したキャラなのかもしれない。
2006年11月26日
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物語のジャンルに架空歴史物というのがある。このタイプには現実の歴史をふまえて、その歴史のもし…を発展させたタイプのものと、全くの架空の歴史をえがいたものとがある。前者の例としては、もしモンゴルがヨーロッパを征服していたらという仮定ではじまる「モンゴルの残光」(豊田有恒)がこれに含まれるだろうし、後者の例としては「皇国の守護者」があげられる。この手のものは破天荒なアイディアよりも、架空の歴史をかりて文明批評や歴史批評をおこなうものが多く、典型的なSFとは一線を画するように思う。※「銀河英雄伝説」も舞台は広大な銀河系であるが、物語の性格としては、スペースオペラというよりはこの架空歴史物に分類されるであろう。星間戦争を背景にしながらも、物語の中心はあくまでも19世紀のヨーロッパを思わせる帝国内の権力闘争や自由惑星同盟内の政争だからである。そしてテーマの一つはこんな問いであろう。民主主義とは本当によいものだろうか。遠未来の話のわりには自由惑星同盟の扇動政治家なんかいやにリアルで、自らは安全な場所に身を置きながら好戦的な言辞で人気を博すなんて現代の話といってもよいくらいだ。あの小泉人気なんてのも衆愚政治の極みのようであったが、民主主義がたやすく衆愚政治に流れるなんてのも構造的なものなのかもしれない。※「銀河英雄伝説」は主要キャラ毎にファンがいるというが、キャラの魅力も人気のある理由だろう。コミックの絵もよくイメージにあっているし、特に超絶美形で豪奢な金髪の持ち主ラインハルト閣下などは、あれ以外のイメージって想像もつかない。まあ、私としては、アンネローゼへの想いを内に秘めながら常に一歩さがってつきしたがうキルヒアイスの方が好みなのだが(笑)。最近発売されたコミック外伝の廉価版もなかなかよかったけど、小説の文庫本版はいつでるのだろうか。文庫だったらこころおきなく電車の中で読めそうである。とびとびに小説やコミックを読んだが全巻通読はまだやっていないので。(最近コンビニなどで売っている廉価版コミックの外伝もなかなかよかった。)
2006年11月25日
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フリーターやニートの人々が再チャレンジできないのは、正社員に対する身分保障があつすぎるからだという議論があるらしい。いったん正社員にすると解雇しにくいので採用を躊躇せざるをえないというのがその理由である。一見もっともらしいが、行き着く先はなんのことはない。ほとんどの人のフリーター化である。現在検討されている労働法改正なども金銭給付で解雇できるようにすることが案にふくまれているそうであるが、これなども同じ方向であろう。今だって解雇に関する紛争は最終的に金で解決することが多いが、判例上「解雇権濫用の法理」があり、自由に解雇できない中で金で解決するのと、最初から雇う側の権利として金で解雇できるというのとではまるで話が違う。解雇が自由になったとしたら何が起こるであろうか。親族など経営者と個人的つながりのある人、一握りのエリート(いわゆるゴールドカラー)は終身雇用社員として大切に育成されるが、ほとんどの社員は人生設計もたたないまま使い棄てられる時代が到来する。今以上の格差社会であり、人材の劣化である。フリーターやニートが問題であるのならそういう人達が安定した正業につくための方策をさぐるのが筋であるはずなのに、なぜ上を下にあわせるような議論をするのだろうか。※この上を下にあわせる議論は雇用の分野だけではない。生活保護給付給付額が「一般の貧困層」よりも手あついからといって切り下げの議論がでてくる。さらにその額が年金よりも多いのは問題だといって年金額程度に抑える議論もでてくる。なんか世の中全体が江戸時代ではないが「上みてくらすな下みてくらせ」という方向にすすんでいるようでいやな感じ。※そしてまた、庶民がこんな下みて暮すような議論に血道をあげている間も、特権層の特権だけはしっかりとまもられる。市役所の会議で弁当が支給されるのはけしからん、小中学校の教員の給料も高すぎるなんていう議論の一方で、大使を三年やれば家がたつなんていう外務官僚の特権はどうなっているのだろうか。ある週刊誌がこの問題をとりあげたところ、この系列の新聞社、テレビ局までもが外務省取材で不利益な扱いを受けているという。他の役所と違い、外務省は国際情勢についての重要情報を握っている。このように、マスコミに対する強い影響力や力をもっているものの特権や利益はまもられ、他のところでは、下にあわせろといわんばかりの施策が行なわれる。これのどこが「美しい国」なのだろうか。
2006年11月23日
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教育基本法の改正が今国会で行われるらしい。深い疑問と落胆を禁じえない。だいだい法律というものには情勢に応じて適切な施策を行うために制定改正される技術的法律と、そうした法律の背後にあって理念的なものを定める基本法とがある。基本法、ましてや教育に対する基本法の改正は国家全体の理念を決めるもので、対決の中で拙速に行うものではないのではない。この改正には、やらせミーティングなどの世論操作の疑念もあるし、なによりも先の選挙で与党が圧勝したのは郵政民営化の是非を問うたからで、教育基本法はなんら争点にはなっていなかった。他にも課題が山積みしている今日、なぜ教育基本法の改正を急ぐのだろうか。マスコミにも問題がある。教育基本法の改正は「愛国心」だけではない。「自主性」の文言が削られたり、義務教育年限を明記した部分が削られたりもしている。この意味や、考えられる影響をなぜ報道しないのか。こうした報道の抑制が、「改正で何が変わるの」とか「愛国心?別にいいんじゃない」といった雰囲気づくりに貢献しているように思えてならない。そしてまた、教育基本法の改正は憲法改正の前哨といった感じで、憲法もまたこんなふうにばたばたと改正されていくのだろうかと怖くなる。今の憲法がよいとも思わないが、合意なきままの拙速は、やはり問題である。※※「プラハの春」読了。一応お奨めの部類であるが、丁寧な国際情勢の描写と少女漫画的というか宝塚的(実際、宝塚で舞台化されたが)な恋愛描写がなんともミスマッチだった。偏見かもしれないけど、ほわほわした乙女チックロマンや宝塚の甘い恋物語に夢中な人というのは御自身ではさしたる恋愛経験のない人が多いようだ。この作者も実は女性にはさしてもてなかったのではないかとつい想像してしまう(違っていたら申し訳ない)。※オーストリアがオーストラリアと混同されるというので、日本の国名を変更するらしい。でも、まぎらわしい国名って他にもある。イランとイラクなんてのはどうなのだろうか。アメリカの州にもグルジヤ(ジョージア)があるし、日本の市町にもUSAやハワイ(合併で消滅)がある。
2006年11月22日
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昨日の毎日新聞の夕刊トップ記事。あれはいったいなんなのだろうか。代理出産と病気腎移植の話をならべて「倫理よりも患者」とかきたてる。そもそもこの二つ、まったく別の話でそれをいっしょくたにした上で、ともに倫理に反しているという前提で記事をまとめる。なんかこれってあざとい世論誘導ではないのかなあ。そういえば日本ではじめて人工授精児が生まれた時、母親の実名をかきたてたのもこの新聞だった。外務省機密漏洩の西山記者もそうだけど、なんかあんたらのやることの方がよほど倫理に反しているのではないの?不妊治療が議論になるたびに倫理の問題をいう人は多い。でもこの問題は本来は個々人の生命観や宗教観に委ねるべき問題ではないか。それを他人が非難したり批判したりする方がよほど「倫理に反している」ような気がする。金銭報酬がからむ事案などはちょっと悩ましいが、それ以外の個人の自由意思で行なう部分については、そもそも規制だのなんだのという方がおかしいように思う。※こんどは別の新聞の話。産経新聞の朝刊にある曽野綾子のエッセイに大いに共感。関東の人間、というかたぶん今の日本人の大半は童話差別など見たこともないし実感もない。たしかに昔「破戒」という小説をよんだことはあるが、これだって差別の深刻さというよりも、明治にはそんなこともあったんだくらいの認識でしか読まなかったように思う。だいたい維新からまもないあの時代だって主人公の青年と元武士の男は同じ職業について同じ給料をもらっていた。童話出身の名士も登場する。差別ってそんなに深刻なのだろうか。ましてや今の時代である。童話地区といったって3代も4代も同じ地域に住んでいるなんて人の方がイまでは珍しい。この能力主義の時代に童話だなんだって人を区別してたら区別する方が損するだけだろう。「今も続く深刻な差別がある」といいたてて、自然消滅しつつある「差別」をほりおこすよりも、限られた資源は障害、病気、犯罪被害などで本当に苦しんでいる人のところに向けた方がよいように思うのだが。
2006年11月21日
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児童虐待が増えているらしい。かっては様々な問題の受け皿になっていた親族や地域間の助合い…そうしたものはとうになくなり、弱いところにひずみがしわよせされていく。児童だけではない。家庭内の老人虐待だって表にでない事案や言葉だけの事案を含めればかなりの数になるのではないか。老人もそうだけれども、児童についてももっと施設がいるはずだ。けれどもそうした施設の新設というのは政策的に抑制されているらしい。行き所のない子供達。そして子供にあたるしかない親達。そんな親の中には生活保護を受けたり、精神を病んでいたりする人も多いという。子供の数によって生活保護給付額は変わってくる。なかには保護費増額のために子供をつくる親もいるらしい。これって少子化以上の大問題ではないのだろうか。少子化対策といって税金をばらまくくらいなら、虐待を受けている子供達が少しでもまともに育つように、そちらの方に税金をまわせないものだろうか。※※韓国の新聞(朝鮮日報)では北朝鮮の核問題についてのこんな見とおしが掲載されていた。もし北朝鮮が日米との国交正常化で経済をたてなおすための巨額の経済援助がうけられると判断するのなら核放棄の可能性もあると。そうだとしたら北朝鮮の核問題の対話による解決というのは、核放棄のみかえりに巨額の経済支援をするということではないか。経済支援といったってあの国の経済を立て直すための支援となればそれこそ天文学的な額になるだろう。米国と北朝鮮の国交締結はありうるのだろうか。米国が北朝鮮と国交締結を行なった場合、日本が国交を結ばないという選択はありうるのだろうか。ピョンヤン宣言はまだ生きているのだろうか。教育基本法よりもこちらの方がよほど重要な政治課題ではないのか。可能性としてはどのくらいあるのかわからないが、米国と北朝鮮との国交が締結され、やがて「バスにのりおくれるな」とばかりに日本も北朝鮮と国交を結び、当然のように巨額の経済援助が税金から注ぎ込まれる。そんな事態になってもよいのだろうか。
2006年11月20日
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教育基本法の改正では愛国心が明記されるそうであるが、国民が愛国心を持つようにするなんてのは実は簡単である。国家が国民を愛すればよい。国民が、この国に生まれて幸福だと感じ、政治や行政が一人一人の国民を大切にしていると思えば、自然に国を愛するようになるのではないか。※こうした国家と国民の関係について鋭く問いをなげかけたのが、2002年9月17日に金正日が認めた拉致事件である。金正日が拉致を認めたことも衝撃的なら政府がはるか前から拉致を確認していたらしいことも衝撃的であった。そしてさらに驚いたのは生存が確認された被害者5人についても政府は積極的に守ろうとはしなかったことである。「一時帰国」した5人についてさる外務省高官は北朝鮮に戻らないと困るとまで言っていた。その高官はさらに栄進していまでは結構な地位についている。私は、愛国心云々なんていうのは、この拉致事件の真相が明確になり、政府外務省の責任がきっちりと検証されてからでもよいと思う。※そしてまた愛国心と並んで明記される「伝統の尊重」というのもよくわからない。だいたい伝統というのは尊重するものなのだろうか。時代を超えて評価され残ってきたものが伝統であって、今まで評価されてきたからといって、これからも評価するかどうかは別問題である。伝統芸能や伝統習俗などは情報としては保存しておく必要があるが、毎回死人がでるようなどっかのお祭りなど、未来永劫続けていかなくてはならないというものでもあるまい。古き因習はたちきり、よき伝統は残しておくということであれば、わざわざ書くほどのこともないのではないか。それともこれも愛国心とセットにして、日本の伝統とされる天皇制を維持強化するための教育の根拠とされるのだろうか。※今の内閣はとにもかくにも教育基本法を改正しようとやっきになっているが、前回の衆議院選挙では教育基本法の改正は争点にはなっていない。野党の反対をおしきり、やらせミーティングまでも行なって、なぜそんなに改正を急ぐのか、そこのところがどうもよくわからない。うがった見方をすれば憲法と共に戦後民主主義の理念をささえてきた教育基本法を改正することは憲法改正へのステッピングストーンなのかもしれない。そうだとしたらなおさらもう少し時間をかけ議論する必要がある。
2006年11月19日
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国がひたすらすすめようとする裁判員制度。これっていったいどんなメリットがあるのだろうか。憲法にはたしか苦役からの自由というのがあったはずだ。なにも苦役というのは強制的に石運びをさせるようなものばかりではない。みたくもない死体写真をみせられたり、死刑の決定に関与させられるのだって、考えようによっては立派な苦役ではないか。石運びの重労働は終わった後にビールがうまいかもしれないが、死体写真や死刑判決はへたすりゃ一生うなされる。裁判員制度になぜ憲法違反の声がでてこない?※裁判員制度の疑問はこればかりではない。死刑か無期かが問題となる重大事件の多くは性犯罪がらみだ。宮崎勤事件しかり、大久保清事件しかり。そうなれば当然裁判員は多くの被害者のプライバシーに関する情報にふれる。宮崎勤事件でも大久保清事件でも殺害された被害者以外にも多くの被害者がいた。世の中は広いようで意外に狭い。またいくら守秘義務を課したところで雑談や井戸端会議まで規制できるものではない。これだけ個人情報の保護や犯罪被害者の人権に対する関心がたかまっている時代に、被害者のプライバシーを侵害し、余計な苦痛を与えるような制度がなぜできるのか。もし自分や自分の家族が被害者だとしたら、裁判員の関与など望むのか?※そして最後にマスコミにはたぶんでてこない裁判員制度の問題点をあげよう。もし裁判員にあたったら引き受けるかと聞かれれば、私は絶対にいやである。法曹とよばれる人と話をしたことはあるし、その多くは立派な人なのであるが、中にはそうでない人もいる。いかにも専門家を鼻にかけて「ホーテキにはそうなんですよね。」というのを決め台詞にしたり、なんか挫折を知らない優等生という雰囲気で周囲を見下した視線でみたり…と。まあ、給料を稼いでいる浮世稼業の中でそういう人と付き合うのなら人生修行と割り切れるのだが、余計なところでそんなのには出合いたくはないというのもまた人情である。※※恐喝、強制猥褻、暴行といった犯罪を被害者も加害者も中学生で、それが学校の中で行われたというだけの理由で、「いじめ」とよんで犯罪とは別物のように考えるのってすごく変ではないか。そしてそれがあたかも学校や教師だけに責任があるように語られて、犯罪を行なった少年自身の責任を問う声が聞こえないのもおかしい。同じ火を扱う仕事でも花火職人と消防士はまるで違う。なんか「いじめ」の問題で学校や教師ばかりを糾弾する議論というのは、花火職人に火災消火を期待するようなものではないか。防火や消火は消防士にまかせて、花火職人は美しい花火を創る仕事に専念したほうがよい。※※コンビニで「皇国の守護者」というコミックを衝動買。美形敵キャラというけど、そもそも敵キャラが美形ばかりというのも斬新だ。でも、こういう漫画自体はあまり好きではないけどね。
2006年11月18日
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教育基本法の改正案が衆議院を通過したという。政争としてこの法律をとりあげることは多いのだが、肝心の改正内容についてはほとんど報道されていない。具体的にどんなところをどう変えて、変えたことにより何がどうなるのか。例えば愛国心を書きこむことによって、教育の内容はどう変わるのか。伝統の尊重と書くのはよいが、伝統とは具体的にどういうものをさして、そしてそれは因習とどう違うのか。教育の理念なんてものは、かなりの部分、社会的合意がないと実現は難しい。それをこんな対決法案にして、最大野党の欠席の中で改正してよいのだろうか。いじめ、学力低下、履修もれ等教育をめぐる問題は喧伝されるが、こうした問題が教育基本法の改正で解決するとは思えない。憲法とならんで戦後民主主義の理念を形作ってきた教育基本法について議論は多いにするべきだが、こんな短期間で十分な世論調査や議論も行なわずに改正というのはあまりにも拙速な感がする。※※漫画家のはらたいらさんが亡くなった。どの新聞も「クイズダービー」のことばっかり書いているけど、これって故人にとっては不本意ではないのかなあ。まるで作家の野坂なんとかさん(まだ生きていたっけ?)が亡くなったとき「オモチャのチャチャチャ」の作詞で知られる…と書かれるようなものだもの。
2006年11月16日
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どうもよくわからないのだが「贅沢品にかぎった」経済制裁というのは効果があるのだろうか。報道によると北の将軍様は贅沢品を部下に下賜して支配していたというのだが、だからといって贅沢品の輸出を禁じれば北の将軍様が困るというのはいかにも漫画的な話だ。あの国家が、あの体制が存続するかぎり輸出規制もなんのその、人民を搾り上げた金で世界のあちこちから贅沢品などいくらでも手に入る。そんなわけで日本政府がやろうとしている贅沢品にかぎった経済制裁というのも、なんかポーズだけという気がしてならない。※そしてもう一つわからないのは国交正常化という言葉。韓国の統一相は「米国はなぜ北朝鮮の望む国交正常化をしないのだろうか」といっているらしい。正常なんて言葉を使えば無条件でよいもののように聞こえてしまうけど、じゃあその国交正常化の効果というのはなんなのだろうか。米国と北朝鮮が国交を締結した場合、日本と北朝鮮が国交を締結しないことは可能なのだろうか。そしてもし日本と北朝鮮とが国交を締結した場合、巨額の経済支援は、やはり行なわなければならないのだろうか。韓国の統一相もそうだけれども、どうも米国と北朝鮮との国交締結を望んでいる人というのは、米国と北朝鮮の国交樹立、日本と北朝鮮との国交樹立、日本から北朝鮮への経済支援という図式を描いているように思えてならない。日本の金で経済的に再建された北朝鮮との平和統一なんていうことを考えているとしたら、あまりにもムシがよすぎるのではないか。ちょっといいかげんにしろといいたくなる。
2006年11月15日
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代理出産などの不妊治療に関する論議で必ず出てくる議論がある。将来、代理出産で生まれたことを子供自身が知ると悩むのではないか…という議論である。そりゃあ悩むだろう。だって人間って生まれてきたこと自体が悩みの種なのだもの。代理出産で生まれたと知れば悩むし、人工授精や対外受精で生まれたと知ればそれもまた悩みのたねである。でも、そんな生れに伴う悩みは、別に不妊治療で生まれた子供ばかりではない。不倫によって生まれた子も悩むだろうし、不和の両親のもとに生まれた子も悩む。そしてまた立派すぎる両親のもとに生まれれば、それもまた悩みの種かもしれない。不妊治療で生まれた子供の悩みばかりをことさら大きくとりあげて、それを不妊治療に反対する論拠とするのはおかしいのではないか。そしてまたそんな人にかぎって出生前診断には猛反対する。障害児に生まれたからといって不幸とはかぎらないのではないかとかいって。もし、生れを自由に選べるのだとしたらどちらを選ぶのだろうか。代理出産や対外受精で生まれてくるのと障害児として生まれてくるのと。私なら躊躇なく前者を選ぶし、大抵の人がそうではないか。
2006年11月15日
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福島知事選の結果を中央の政局と関連づける意見がめだつけど、あまり関係ないのではないか。知事選も含めて自治体の選挙は党よりも人という色彩が強い。今度の福島知事選はタマが悪かった…ということにつきる。あの刺客をくりだした小泉劇場選挙の後遺症できらびやかな勝組女には選挙民は食傷している。それなのにあの女弁護士をかついだセンスというか、そっちの方がちょっと心配である。選挙は風向きしだい、やってみなければわからないといわれるが、今度の福島知事選にかぎっては意外性というのはあまりない。※民主党の方はこの選挙結果で元気がでちゃったのかもしれないけど、大真面目で核保有論議を批判している鳩山氏をみると、この政党に政権を託すのはますます危なっかしく思えてくる。唯一の被爆国だから核については論議もすべきではないという意見もあるが、唯一の被爆国ということと核論議もしてはならないということとが、どう理論的に結びつくのかさっぱり分からない。結論は核を保有せずであっても、核保有の可能性も含めて議論することを禁ずる理由はないし、むしろ政治家のような責任ある立場の人こそこうしたことは議論しなければならないのではないか。それとも国政の場では「核」などというおそろしい言葉は一切口にしてはいけないとでもいうのだろうか。ちょうどそれは、正月に「火」とか「死」という言葉を避け、結婚式には「別れる」「きれる」という言葉をさけなければいけないように。
2006年11月14日
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いじめ関連で小学校校長が自殺したという。いじめを金銭トラブルといって放置していたことが非難されていたらしいが、あんなのは「いじめ」ではなく「恐喝」という犯罪行為である。学校が放置していたのがけしからんではなく、警察は何をしていたんだ…というのが正常な議論ではないか。幼稚園や保育所ならともかく小学校高学年にもなれば学校が児童の行動をすべて把握するなんて不可能である。そんな中で起きる犯罪行為まで学校が悪い、先生が悪いといわれていたら、教師も校長もいくつ神経があったって足りやしない。いじめ対策はただ一つ。恐喝、傷害、強制猥褻などの行為はきちんと犯罪とよび、教育問題ではなく治安の問題として語ることであろう。この児童による長期恐喝事件も被害者の母親が警察に相談して明るみになったというが、犯罪被害を受けているときに頼りになるのは警察であって学校ではない。それにしても教育基本法改正は政治日程に上っているのに、少年法の改正はいつまじめに議論されるのだろうか。いじめ対策、規範意識の醸成といった諸々の問題を考えると少年法の存在こそが元凶のように思えてならない。被害者の人生を奪っても口をぬぐって幸福になる権利を保証する少年法というのはとんでもない悪法にしかみえない。
2006年11月13日
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ヒポコンデリーというのは世の中には多い。ちょっとした身体の異常をなにか重要な病であると心配して悩む状態である。自分自身ちょっとそんな傾向があるので検診や人間ドックは機会があれば必ず行なうようにしている。ところで体の病については心配していても、心の病というのはどこか他人事と思う人が多いのはなぜだろうか。まあ、ぼかしてかかざるをえないが、心の病というのも怖い。職場のQさんとしておくが、彼女はどこにでもいそうな若く愛らしい容姿の女性だった。その彼女が隣室の部屋の音がうるさいと苦情をいうようになったのはいつからだろうか。特に騒ぐような人や声の大きい人もいるわけがないのに、何か声が聞こえるらしい。そのうち仕事の能率も落ちてきたなと思っていたら、突然、ある日、目で宙の一点をみすえたまま大声で何かをしゃべりはじめ、周囲の人が動かそうとしても、身体が硬直したようになってどうしても動かない。急遽入院することにしたのだが、ああいう症状をみたら、昔の人ならきっと何かがとりついたと思うに違いない。※心の病気の治療とか予防というのは、どの程度解明されているのだろうか。本人や周囲の人の苦労は身体の病気も心の病気もかわるところはない。そういえば知人からこんなことを聞いたことがある。その人の知合いについての話であるが、大学生だった息子さんが突然精神を病み自殺未遂のはてに両手か両足を切断したまま寝たきりの生活をおくっているという。裕福な家庭で当時としては恵まれた大学生という身分にあった青年の人生の暗転を思うと暗澹とした気分になる話である。体の病気もさることながら、心の病気にも罹らずにいるというのも僥倖というものかもしれない。※※いじめが教育問題として急浮上しているが、どうもよくわからない。だいたい「いじめ」などとぼかしていうからいけない。恐喝、傷害、強制猥褻等とちゃんと行為に応じた言葉を使うべきではないか。だったらいじめの効果的な対策はただ一つ。警察に校内犯罪被害者相談窓口を設け、暴力的被害を受けている子供はすぐにそこに相談できるようにするのである。可愛いわが子に補導歴がついたり場合によっては逮捕されるかもしれないとなれば、いじめる側の親だってわが子の行状に関心を払うであろう。少なくともいじめられた子供の「心のケア」のためにスクールカウンセラーを派遣するなんてのよりも何倍も効果がありそうである。
2006年11月11日
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著作権の期間を延長するという議論があるらしい。ここで注意しなければならないのは、50年とか70年とかいっても、これはあくまでも起算は著作者の死後ということである。つまり、この議論は著作者に対する恩恵というよりも、その子孫にどこまで財産的権利をみとめるかという話で、素人風に考えれば祖父や曽祖父が大芸術家だからといって、子孫がいつまでもそれで恩恵をうけるのはおかしいという気がする。あの文化勲章の年金だって一代限りなのだから…。画家や小説家が孫やひ孫の経済生活まで考えて著作にファイトを燃やすとも思えないし、著作権を延長したからといって、新しいものが生み出されるわけでもない。すぐれた作品はできるだけ早く社会の公共財として開放した方がよいのではないか。現行の著作権の死後50年だってちょっと長すぎると思っている。※※日本の核保有を議論することが「議論」になっている。中味はともかくとして「議論」自体がけしからんという議論自体(ややこしい)が変ではないか。国家の安全に責任をもつなら議論は当然行なってしかるべきだし、議論自体がけしからんなんていっている政治家の方がよほど政治家の資格がないように思う。それにしてもあの非核三原則なるものができた時期は冷戦の真っ最中で米ソの核の均衡で世界は支配され、日本の周辺には貧しく遅れた国家しかなかった。当時に比べれば国際情勢は天と地ほども激変しているのに、いまだにこの法律でも憲法でもない非核三原則が金科玉条となっているのは変な話である。
2006年11月09日
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著作権の期間を延長するという議論があるらしい。ここで注意しなければならないのは、50年とか70年とかいっても、これはあくまでも起算は著作者の死後ということである。つまり、この議論は著作者に対する恩恵というよりも、その子孫にどこまで財産的権利をみとめるかという話で、素人風に考えれば祖父や曽祖父が大芸術家だからといって、子孫がいつまでもそれで恩恵をうけるのはおかしいという気がする。あの文化勲章の年金だって一代限りなのだから…。画家や小説家が孫やひ孫の経済生活まで考えて著作にファイトを燃やすとも思えないし、著作権を延長したからといって、新しいものが生み出されるわけでもない。すぐれた作品はできるだけ早く社会の公共財として開放した方がよいのではないか。現行の著作権の死後50年だってちょっと長すぎると思っている。※※日本の核保有を議論することが「議論」になっている。中味はともかくとして「議論」自体がけしからんという議論自体(ややこしい)が変ではないか。国家の安全に責任をもつなら議論は当然行なってしかるべきだし、議論自体がけしからんなんていっている政治家の方がよほど政治家の資格がないように思う。それにしてもあの非核三原則なるものができた時期は冷戦の真っ最中で米ソの核の均衡で世界は支配され、日本の周辺国は貧しく遅れた国家しかなかった。当時に比べれば国際情勢は天と地ほども激変しているのに、いまだにこの法律でも憲法でもない非核三原則が金科玉条となっているのは変な話である。
2006年11月09日
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「プラハの春」の中では、ヒロインや学生達の言葉として、真の社会主義とか社会主義の再生とかいう言葉がくりかえしでてくる。真の社会主義をうちたてることで社会主義の崩壊を救うというふうに。そうなると「プラハの春」はたぶん西側の多くの人が想像していたような社会主義の否定ではなく、社会主義内の改革運動だったということになる。その意味では、社会主義という思想の枠内での一種の宗教改革運動ともいえたわけである。後年、冷戦体制が崩壊したとき、チェコも含めて、東欧の人々はあまり社会主義に未練をもっているようにはみえなかった。もしかすると「プラハの春」は後年の東欧民主化の先駆というよりは、社会主義が21世紀に生き残る機会でもあったのかもしれない。連帯と平等という社会主義の理念は残しながら、市民的自由は抑圧せず、市場経済もとり入れ経済の活力も維持していく。そうしたことが本当に可能なのだろうか。だとしたらそれは北欧などにみられる高度福祉国家とどこがちがうのだろうか。「プラハの春」ではそれが可能だったのだろうか。もし可能だったのであれば、ソ連の介入によってそれがつぶされたのはまことに残念というほかはない。※当時の国際情勢についての緻密な描写や筆力は本当にすごいと思うけど、東独美女と主人公の日本人の恋愛の描写はいかにも少女漫画的で荒唐無稽で…まあ、読んでいるうちにそのミスマッチもこの小説の魅力かなと思ってきたけれど。
2006年11月08日
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教育論議についていつも不思議に思うのは理念や手法についての議論はあっても教科毎の議論というのが、英語教育以外にはほとんどなされていないことである。中学校のデータで9科目の点数をみると面白い傾向があるという。どの教科もできる子はたいてい他の教科もできるという相関があるのだが、特に関係の深いのが数学と理科、英語と社会の組合せでこれら4教科に比べると国語はやや関係が薄いという。高校になって古典が本格的に入ってくれば違うのだろうが、現代国語というのは勉強量や勉強の仕方とはあまり関係のない科目のようである。ちょっと乱暴な議論をすれば数学や理科は才能(talent)に依存する部分が多く、英語や社会はやや勉強量や記憶力に依存する面が大きい科目なのではないか。かっては教育論議の中心になっていた習熟度別の教育なども、実はこうした教科毎の特性を踏まえて議論する必要があり、一律にクラス分けするというのは雑な議論であろう。※最近世界史を高校必修とするだけではあきたらずに、日本史も必修にしろという議論があるという。たしかに世界史が必修で日本史がそうでないというのは理屈からすればおかしいが、そもそも社会科系の科目は必修にする必要があるのだろうか。重要だからすべての子供が学校でやらなければいけないというものでもない。義務教育段階での底上げと共に才能の発掘という要請の強い数学や理科。学校で適時に教育を行なうことが必要な外国語。こうした教科と社会科は違う。歴史というのは必要なときにさしたる負担もなくいつでも学べる科目で興味のない高校生に必修をおしつけるのは無駄なのではないのだろうか。子供も高校くらいになれば能力も関心も多様となる。社会科にかぎらず高校の教科というのはもっと選択の余地があってもよい。※
2006年11月07日
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日本は6ヶ国協議に参加すべきではないと北朝鮮は言っているそうである。またぞろどこかの夕刊紙が「日本だけがかやの外」とか「安倍政権の失策」とかいっておおはしゃぎしそうな展開になってきたが、そもそも6ヶ国協議って何なのだろうか。核放棄の見かえりに北朝鮮を支援しましょうという場ではないか。難民がどっとおしよせそうな中国や吸収統一か民族永久分断固定化かの辛い選択を迫られそうな韓国が北を必死で支援するのはもちろんかってである。しかし日本が国民の税金から何兆円もの支援をあの体制の延命のために行なわなければならない理由はどう考えてもない。北朝鮮を支援するための相談を行なうのが6ヶ国協議なら、抜けたところで大いに結構という気がするのは私だけ?※同じ様なことは「対話による解決」という言葉にも感じる。対話による…というとそれだけで他の手段よりもアプリオリによいものであるかのように思いがちだが、それは対話の相手が理性のあるまともな国家である場合だけだ。北朝鮮を相手の対話とは要するに核放棄のみかえりになんぼあげますということだけではないか。一時的に暴発を防ぐための対話なら必要な場合もあるのかもしれないが、あの体制を日本の税金でささえるはめになる対話ならごめんこうむりたいものである。日本の財政事情はたたでさえ厳しい。そうした流れの中で、まるで瀕死の鳥の羽をむしるように障害者や生活保護受給者、難病患者などの公的支援もどんどん削られている。どんな利権があったって、あの国家を日本国民の税金で支援することだけは納得がいかない。※そこで気になるのはピョンヤン宣言。あの中には日本の「過去の清算」が詳細に書かれている。核実験で空文化したというのならともかく、あれについては政府はどう考えているのだろうか。今の政権で国交正常化で多額の経済支援というのはとんでもない話だが、政権が変わったような場合にもあの宣言を盾にして巨額の「経済支援」を要請されたらたまらない。拉致事件だけではなく、覚醒剤密輸や円偽造など、どうみてもこちらの方にこそ賠償請求権があるようにしかみえないのだけれども。
2006年11月05日
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いじめ対策としてある人のブログで学校への相談などは一番後回しにして、まず警察、人権擁護機関、そして金があれば弁護士への相談を考慮すべきであると書いてあった。けだし名言である。そもそもいじめを教育の問題、学校の責任とするから、ひたすら学校は隠蔽する。恐喝の被害者の家を校長が訪れ土下座をして警察には訴えないように頼んだなんていう笑えない話もある。いじめは断じて教育の問題などではない。犯罪であり、損害賠償の対象となる不法行為である…まずこの認識から出発しないといじめの問題は解決しない。※問題は、犯罪にも損害賠償が問われる事案にも該当しないようなケースである。悪口や仲間はずれの類がこれにあたる。これこそがまさに教育の課題で、教師は集団になじめない子供やぽつんと離れている子供にめくばりする配慮をぜひしてほしいものだが、それとても限界があるだろう。ちょっと暴論かもしれないが、中学校の生徒管理について、皆仲良くしなければならないという発想を脱却してはどうなのだろうか。具体的な提言としては、部活動の必修や気のあった者同士での班活動などの縮小である。性格的に集団活動の苦手な子供や大多数の子供から見て異質なところのある子供、気の弱い子供やおとなしい子供・・・そうした子供がよくいじめの標的になる。このタイプのいじめというのは大人の世界でも往々にしてみられる。それなのに、なぜ公立中学でこれほどいじめが問題になるのか。私立中学や高校ではある意味同質の生徒が集まっており、公立中学ほど雑多な集団ではない。大学なら好きに授業を選び気の合った人とだけつきあえばよい。職場にいけば大人同士の関係としておのずから常識という抑制もはたらく。※私もそうだったから、よくわかるが中学生くらいの年代の頃って、今の時期が永遠につづくかのようについ錯覚してしまう。だから不運にも「いじめられる」側になってしまった中学生も自分で自分を追い詰めてしまうのだろう。もしいじめられる側であれば、仔細にいじめた子供のやったことを日付、証拠があれば証拠(医者にいけば診断書も書いてもらえるし、壊された物があればその物自体や修理の記録)も付して書きとめておこう。そして警察で対処できることか、人権問題として対処できることかを、できれば信頼できる大人とも相談して検討してみよう。警察の問題、壊された物の代金請求や慰謝料など損害賠償の問題になるのならそれで対処すべきである。また、それ以外の場合、悪口や無視などであったら、ぜひ学校の友人関係以外の世界をもつことをお勧めしたい。勉強に打ち込むのもよいし、読書もよい。学校外の塾やクラブに居場所を見つけるのもよい。いずれにしても中学生時代は人生のほんの一瞬。すぎてしまえばあっという間である。
2006年11月04日
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ニュースとは起きるものではなく作るものだ。この頃こんな風に思うことがある。アライグマが立ち上がったとか、矢のささったカモがおよいでいるとか、アザラシがどっかの川に迷い込んだなんてのはヒマネタでちょっととりあげるのならよいけど、どうみても全国規模の「ニュース」にするほどのものではない。それだけではない。鉄道事故が起こればやたらにオーバーランがニュースになる。あの事故の直後、どこそこの駅で電車が何メートル行きすぎたなんて言うのをさも重大事のように報道していたが、さすがに最近この手のニュースはない。これは、オーバーランがなくなったのではなく、ニュースにしなくなったというだけなのだろう。そしてまたエレベーターの事故が起きれば、こんどはエレベーターの閉じ込めがニュースになる。何年も前のシュレッダー事故が突然大報道されるようになったと思ったら、経済産業省の家電製品に対する規制の強化が発表された。そう考えると、最近問題になっている飲酒運転やいじめ自殺だって、そういうものが急に増えたというよりは、ニュースにされだしたという感じがして、なんか裏があるのではないかと、ついかんぐってしまう。※※憲法9条グッズの会というのがあるそうである。会まで作らなくても、憲法9条を日本の財産として絶賛する人は多い。でもよく考えてみるとなんか変だ。戦力の保持と交戦権の放棄。つまり国家の役割の一つである防衛という機能をみずから放棄しているのが、これってつまり外敵が攻めてきても、日本国は国民を守りませんといっているわけである。自分達つまり国民を国家は守らないと宣言しているのが憲法9条なわけで、なんでこれがそんなにありがたいのかしら。さらに不思議なことに、この9条をありがたがるだけではあき足らず、最近では「平和写経」というのをやっている人もいるらしい。なにやら憲法の条文を平和を願いながら墨で書くのだそうである。参照 http://www.enpitu.ne.jp/usr4/45126/diary.html昔の人は百万遍阿弥陀様の名を唱えれば本当に阿弥陀様が来てくれると信じていた。今だって平和を何遍でも唱え憲法を写経していれば本当に平和がやって来ると考える人がいても不思議ではない。ここまでくれば一種の信仰なのだろうけど、後生の人はこれを評してこういうに違いない。20世紀後半から21世紀にかけての時代、憲法9条を聖典のようにあがめ、平和を唱えていれば平和が実現すると信じている人々がいた。これは「平和念仏」といって日本のプロ市民だけにみられる一種の奇習である。
2006年11月02日
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「プラハの春」(春江一也)を読んでいる。役人が仕事の合間に初めて書いたとはとても思えない小説だが、金髪超美人との恋愛については、なんか願望というか妄想みたいな感じで読んでいてなんとなく気恥ずかしい。それにこの女性との恋愛に限らず主人公がやたらに美化されているのもちょっとね…。小説の主人公に作者の理想が投影されるのはよくあることだけれども、この主人公のように明らかに作者がモデルで作者の分身という場合には、あからさまに美化されるとかえって違和感があるものである。この作者の他の作品は知らないけど、「プラハの春」についてはここまで小説にしなくても、多少の想像も交えた準ドキュメンタリータッチのものでもよかったような気がする。ただ、それだと宝塚で舞台化されることはたぶんなかっただろうけどね。※北朝鮮が6カ国協議に復帰するという。いよいよ制裁で窮地に追い込まれたということだろうか。そしてまた米国通貨偽造についても一部事実を認め始めたという。通貨偽造というのは一国の経済秩序を脅かす犯罪で、米国通貨を偽造したということは、中東のテロ集団とは別の方法で米国に弓をひいたということに他ならない。通貨偽造を認めたから許せということかもしれないが、かえって米国の姿勢を硬化させるのではないか。「プラハの春」を読んだせいかもしれないが、北朝鮮の問題は、中国による軍事介入、そして傀儡政権の創設という形で決着がつく可能性もあるのではないのだろうか。自由化の春をつぶす軍事介入ではなく、凍土の収容所国家をややましな収容所国家とするための軍事介入である。
2006年11月01日
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いよいよ日本が本格的な人口減少局面に突入したことがあきらかになった。これで少子化対策を叫ぶ声はいっそう高くなることだろう。しかしちょっと待ってほしい。年金、介護と高齢化に伴う問題は赤ん坊が増えて高齢化率、つまり人口の中で高齢者の割合が減ることで解決できるのだろうか。高齢化問題は今生きている高齢者、そしてこれから高齢者になっていく人々の問題である。いくら赤ん坊が増えようがこうした高齢者や高齢者予備軍が消えるわけではないことをお忘れなく…。※だいたい65歳から遊んで暮せる金を支給する年金制度なんて、そもそも人生60年時代だった頃の制度であって、それをこれだけ長寿化した時代に維持しようなんて無理があるように思う。もちろん多少の経過措置は必要であろうが、年金制度はそれこそ労働能力を喪失した際の保険に特化し、元気な高齢者には、むしろ雇用対策に政策の力点を移したほうがよいのではないか。それに今の年金制度では他に資産や所得もある裕福な老人ほど多額の年金を受給している。こうした高齢者については年金辞退を叙勲資格の際に考慮したり、年金辞退者に何らかの名誉的措置を行なうなどのことも考えられないのだろうか。※そしてまた介護の問題。今だって介護現場には人が集まらないのに、これから生まれてくる子供が介護の現場にくるわけがないではないか。少子化対策といって児童手当や医療補助などでばらまくお金があるのなら介護現場の待遇や労働環境完全にもっと本腰を入れてほしいものである。高齢者の便の匂いを「サリン」といった介護職員が非難されたことがあったが、なぜ介護職員の待遇や労働環境を問題視した議論は起きなかったのであろうか。かくしマイクで介護職員のぼやきを録音し、職員を袋叩きにする行為は、決して介護環境の向上には役立たないのではないかと思う。※少子化で活力が失われるとか、子供の声が路地からきこえないのは寂しいとか、そんな理由で人口減少をマイナスとしてとらえる論調には大いに疑問である。高齢化対策イコール出生率の向上ではない。政策の目標は、あくまでも高齢化対策であって、出生率の向上自体が政策の目標となっている現状は、はっきりいておかしいと思う。
2006年11月01日
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