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♪ 刻々と死に近づいてゆくゆうべ深層およぐくじらを想う 図書館で富岡多恵子の本を検索していたらこんな本がヒットした。河合隼雄の対談集で、その対談相手5人が興味深い人ばかりだったので、迷わず借りて来た。「虚構と現実の接点で(筒井康隆)1990・10/人間はどこへ向かっているのか(L・ワトソン)1988・7/死の臨床から(K・ロス)1985・5/ジェンダーと文学表現(富岡多恵子)1990・11/人間を超えたものの存在(遠藤周作)1985・10」それぞれ、夢・儀式・死後の生命・性差・日本文化などについて語り合っている。 河合隼雄(かわいはやお)1928年~2007年。兵庫県生まれ。ユング派臨床心理学の第一人者。京都大学理学部卒、京都大学名誉教授。国際日本文化研究センター所長、文化庁長官を務める。独自の視点から日本の文化や社会、日本人の精神構造を考察し続け、物語世界にも造詣が深かった。 著書に、『無意識の構造』(中央公論社)、『ユングの生涯』(第三文明社)、『影の現象学』(講談社学術文庫)、『昔話と日本人の心』(岩波書店、1982年大仏次郎賞)、『明恵 夢を生きる』(京都松柏社、1992年新潮学芸賞)、『こころの処方箋』『猫だましい』『大人の友情』『心の扉を開く』『縦糸横糸』『泣き虫ハァちゃん』、『河合隼雄著作集』(岩波書店)など。 訳書に、ユング『人間と象徴』(河出書房新社)、『ユング自伝』(共訳・みすず書房)ほか。 筒井康隆(小説家、劇作家、俳優。ホリプロ所属。小説「虚人たち」で泉鏡花文学賞など受賞歴多数。「時をかける少女」「文学部唯野教授」ほか。2002年紫綬褒章受章。執筆活動のかたわら、舞台、連続テレビ小説などに出演。日本芸術院会員。1934年9月24日 -) 読んだことないが、文壇のカリスマ的存在で矢鱈に幅が広くて荒唐無稽だったり、文学とひとことでは言え表せないハイレベルの作家ということぐらいは知っている。対談を読んだ今、「文学部唯野教授」なんて読んでみたいと思っている。 ライアル・ワトソン(イギリスの植物学者・動物学者・生物学者・人類学者・動物行動学者。 1939年4月12日 - 2008年6月25日) ずいぶん昔に「風の風物詩 上・下」を読んでいて、その面白さに虜になってしまった経験がある。とにかく行動範囲が広く世界中を歩き回って、自分の目で見たものを自分の言葉で表現する。 対談のコミュニケーションの話しの中で、木と木がお互いにミュニケーションしているとい話が出てくる。細かいことは省きますが、昨年だったか、NHKの特集番組番組で「そういうことが分かって来た」と、最近の発見のように放送していた。この記事は1988年のもので、36年前にはすでにそのことは知られていたわけだ。 キューブラー・ロス(アメリカ合衆国の精神科医。1926年7月8日 - 2004年8月24日) 名前は、臨床患者の体験を研究している女性の医学博士として知らない人はないくらいの人。体外離脱などの研究所として有名なアメリカのモンロー研究所とセットで記憶している。 富岡多恵子(詩人・小説家・文芸評論家。日本芸術院会員。1935年7月28日 - 2023年4月8日) 小説家の車谷長吉が本当の小説家として、3人の名(小川国夫・松谷みよ子・富岡多恵子)をあげているうちの一人。詩人だったが小説家に転向している。男と女、家族、ジェンダーなどについて語り合う。 遠藤周作(小説家。日本ペンクラブ会長。日本芸術院会員、文化功労者、文化勲章受章者。1923年3月27日 - 1996年9月29日) この中でもっとも興味深く、面白かった。 臨床心理学を研究し、実際にカウンセリングなどを行っている河合氏は、人の話を良く聞くことが重要だと言われているがほとんどが表面だけのことしか聞けていない。重要なのはその背景にあるものであって、現象として表に現れているものだけで判断してはいけないという。 子どもが苛めをしたり、万引きをしたり、親を鬼婆と罵ったりしても、それは表面的なことであって、単純に先生や学校、親や環境が悪いというようなことで済ませられるものではないと。「私の父は変なおやじでした」と言われたときに、ああお父さんが悪いというような判断をしてしまうと、そのところに固定してしまう。「私のお父さんは、こんな嫌なやつはいない」と言われた時に、そうじゃないかもしれない。言われたこと+「かもしれない」という方を聞いていないといけない。人の話を聞くということがどんなに大変か。 かといって相手の苦しみに同化して、引っついてしまってもだめで、近くも遠くもない距離をとっている必要があると。 *学校にカウンセリングの人を配置したりして、「問題のある子どもの話しをよく聞く」ということをしていても、子どもは「ぜんぜん分かっていない」とシラケている。それはただ表面的なことを聞いているだけで、深層の心理には触れないまま素通りしているためなんだね。なんの解決にもならないし、却って不信感を募らせることになってしまう。全身全霊で話を聞かないといけないし、それはとても大変なことだということを知らされている。 本当に分かってあげることができれば、その子の苦しみがすごく減る。当人は自分の苦しみ+分かってもらえない苦しみが加わっている。それだけでなく、「おまえはサボっている」とか「お前は悪い子だ」という非難を受けている。分かってあげても苦しみは減らないが、苦しみの孤独感からは解放されると。 人の心の影の部分。秘密というものが生きる力になっていることも少なくないという。お婆さんの嫁いじめでもそれを無くすると途端に元気がなくなってしまったりする。背徳にしても本人にとっては生きる力になっている。自分の今の人生は本当の人生かどうかを問うているわけだし、ウソつきにしても、ひょっとして本当の幸せが欲しいという感情の表れかもしれない。しかし、このマイナス部分は無くすことができないが、プラス面に変形することはできると。 *確かに浮気している時の精神状態には緊張感があり、それが仕事にも反映して、いい仕事ができたりすることを知っている。秘密やウソの背景や深層心理には刮目すべきものが隠されているのは確かなようです。女は案外そういうものへの洞察があって、見抜いていて見て見ぬ振りをしていたりする。 弱い者いじめには快楽がある。学校教育が悪いとか、家庭教育が悪いとかいうけれども、根本問題はそこにあると。快楽がエスカレートしていって収容所のアウシュビッツになる。性的欲望の中ではサディズム、マゾホズムになる。こういうものはちっちゃな子供にもあるし、大人だってそういうシチュエーションに置かれれば、実際に起こって来る。だれの心にもある。 それはユングのいう元型的なもので、自分で意識しているものを超えたもっともっと深いところに本当の自己みたいなものがある。そこにさえまだ影があるのだと。 われわれはその影の部分から逃れて生きている。それは世間体とか常識とか、女房にしかられるとかいうようなことがあって、辛うじて守られている。今はそういうものがだんだん脆くなってきた時代で、人間の意識がすごく拡大してきている。その守りがなくなってきているため、影の部分に下降していく可能性が高くなっている。 その影を知ってしまった人たちがいて、闇を抱えた状態でカウンセリングを受けに来る。 社会に反する行為、あるいは悪を露出させるような事件がものすごく出てきた。それは人間がちょっと放漫になりすぎているから。自分で何でもできると思いこみ、自分中心に考えて、何をやってもいいと思って疑いもしない。人間以外のものの存在を、心の中に持つことができるかどうか。 *全体を包み込むようなものとしての、母性のようなものがあって、父性などはなから無かった日本社会。30年以上前の対談から何も変わっていないとも言えるし、どんどん変わりつつあるともいえる。 *「人間がちょっと放漫になりすぎている。」とは、多くの人が思っていることでしょう。一神教の厳しい戒律があることで壮絶な世界のなかでも生き延びられる。一方の多神教のような無神教のような日本人は絶対的に縋ることができるものを(一部を除いて)持っていない。「お天道様が見ている」といった感覚も薄れて、不審、不信の渦巻く社会。自然に対峙して謙虚に、本来の在るべく姿を見つけていくしかないように思う。2024年度大学入門ゼミ・学科基礎ゼミナール推薦図書
2024.06.24
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♪ 直線のつづく日高の海沿いをヒッチハイクせし半世紀前 安静にして過ごすと言っても微熱があって体調は万全じゃあない。出来ることと言ったら本を読むことぐらいだ。 最近、目が悪くなって小さい字が読みにくくなった。カミさんの拡大鏡を借りて読んでみると、おお読みやすいじゃないの。眼鏡を掛けている上に重ねて使うので使い勝手は良くないが、目が疲れないのがいい。 ちょうど分厚い本を読み掛けていて、あまりに長いので貸出期間を延長してもらったものがある。ゆっくり読ませてもらおう。明治初年、北海道の静内に入植した和人と、アイヌの人々の努力と敗退。日本の近代が捨てた価値観を複眼でみつめる、構想10年の歴史小説。装画:山本容子 627ページ数もある。 この連載時期は朝日新聞を取っていたはずだが、新聞小説にはまったく興味がなく読んでいない。連載が有ったことすら記憶にもない。 3世代前の御一新後、北海道へ入植した人々とアイヌの人々との美しくも悲しい物語。「北の零年」が、明治3年5月13日(1870年6月11日)に起こった庚午事変に絡む処分により、明治政府により徳島藩・淡路島から北海道静内へ移住を命じられた稲田家と家臣の人々の物語であるのに対して、この「静かな大地」はほぼ同じ時期の徳島藩の陪臣(家来の家来)である淡路衆の話である。徳島藩に疎んじられつつも反骨と気位をもって気高く、知性をもって生きて来た人々の物語だ。 立場が違う故に、描かれている内容が違う。「北の零年」は見るには見たがあまりいい映画とは思えなかったのを覚えている。朝日新聞の連載が終わった2年後に制作された映画で、そのいきさつはWikipediaに詳しく書いてある。 朝日新聞の連載小説(2001年6月~2002年8月)を単行本化 池澤夏樹の真骨頂。構想10年とかで克明に調べ上げ、史実に基づいて書いてあるのはもちろん。アイヌの人々の思想と哲学に共鳴し、心酔した主人公・宗形三郎の生きざまが、娘が思い出を語る形で書かれているて、近代以降の文明批判としても優れたものになっている。 時代に翻弄され足掻いてもどうしようもないものに果敢にち立ち向かていく。主人公の思想・思考と和人との葛藤や、家族とアイヌの生活のなかで変化してゆく情勢。北海道開拓の黎明期に信念を貫き通した純真無垢な男の生きざま。晩年の人間としての矛盾や、自我を通していくことへの心の揺らぎが胸に刺さる。 こんな長編になるとは思っていなかっただろう。書いても書いても書ききれない。それは作者・池澤夏樹の思いでもあるだろう。あらすじは書かないでおくが、最後に2編の短い物語が載っているので、その1編を載せておきます。これを読めばこの本で作者が書きたかった事の幾分かは分かると思います。民話の体裁に仕立てた池澤氏の創作のようです。「熊になった少年」 昔、あるところに少年がいた。 黒い目のきらきらとした、心の気高い、敏捷でしなやかな身体を持つ少年であった。 少年の一族は狩りを業とした。 少年の祖父も父も伯父も叔父も、その朋輩たちもみな熊を狩って暮らした。男が獲った熊を持ち帰ると、女どもは熊の皮をなめし、肉を干し、熊胆(くまのい)を作った。その合間には山に行って木の実や草の根を採った。 だが、彼らは心正しいアイヌではなく、ねじくれたトゥムンチの族(やから)であった。 彼らは熊を獲って、熊の魂を送らなかった。 本来ならば狩りをする者は獲物の魂を手厚く神の国に送る。獲物に向かって、自分のような者の手にかかってくれてありがとうと礼を述べ、自分たちの一族の腹を満たしてくれてありがとうと述べ、その魂が無事に神の国に帰って、またいつか多くの肉をまとってやってきてくれるよう心を込めて祈る。それがアイヌのやりかただ。 だが、少年の一族はアイヌではなくトゥムンチだったから、そういうことを一切しなかった。彼らは、熊の方が自分たちのところに来てくれるのだとは考えなかった。彼らは自分たちが強いから、だから熊が獲れるのだと信じていた。熊を獲った後では送りの儀式などはせず、負けた熊を蔑み、勝ち誇って家に戻った。 小熊の扱いはもっとひどかった。春の母熊を獲ると、子熊を連れて帰る、そこまではアイヌと同じだ。だが彼らは子熊を大事に育てはしなかった。かわがって、一番よい食べ物をやって慈しんで育てはしなかった。彼らは子熊に残り物ばかり与えて、虐めて嬲(なぶ)り、半端に育てて、大きくなると殺して肉にした。それに際していかなる儀礼も行わなかった。 アイヌならばこんな無理無体な話は聞いたことがないと憤慨するだろう。熊に対してこれほど礼を失したふるまいはないうと言うだろう。だが、彼らはアイヌではなく、心のねじれたトゥムンチであった。 従って熊が自ら彼らのところに来ることはなかった。彼らの手にかかって神の国に行こうと来ることはなかった。彼らは奸計を用いて熊を欺き、獲物とした。彼らの狩りの知恵は奸知と呼ばれる知恵であった。 少年はしかし、このようなふるまいを疑わずに育った。なぜならば、少年の祖父も父も伯父も叔父もそうして狩りをしたから。 少年は自分が偉大な狩人になる日を待った。 春のある日、叔父たちが熊狩りから戻った。子熊を一頭連れていた。 少年はその熊の世話を命じられた。世話といっても大したことはない。檻に閉じこめて残り物をやっておけばいいのだ、といわれた。 言われる通り少年は残り物を子熊のところに運んだ。何もない時は水だけ飲ませた。子熊は痩せてみじめだったが、少年はそれでいいのだと思っていた。 時おり大人たちが通って熊を虐めた。檻の間から棒でつつき、熊が怒って棒に噛みつくと笑った。熊は愚かだから棒には噛みついても棒を持つ手に噛みつくことを知らぬと言った。その後でさんざん熊の頭を殴った。 少年はそれを見ているうちに心に不思議な思いが湧くのを覚えた。哀れみのような、憤りのような、悲しみのような思いだった。熊に対してこんな思いが湧くとはおかしいと思った。トゥムンチの言葉に情がが移るという言いかたはない。 やがて子熊は痩せたまま大きくなり、殺された。少年は悲しみを覚え、それを隠した。自分は父や叔父と違って心が弱いのかもしれないと考えた。偉大な狩人になるためにはこの心の弱さに克たなければならない。しかし殺された熊への思いはなかなか消えなかった。 叔父たちについて熊狩りに行く日が来た。少年はまだ弓矢は持たせてもらえず、長い棒を持って後からついて行った。 叔父たちは山の中をすばやく走りまわって熊の足跡を探した。湿った土の上に新しい足跡を見つけ、こっそりとそれを追った。 やがて遠くに熊の姿が見えた。若い木々と笹の茂る間に黒い姿が見え隠れsた。とてもとても大きな、強そうな熊だった。 叔父たちは風を確かめた。風は横から吹いていた。自分たちの匂いが熊に届くことはないと信じて、足を早め、間合いを詰めた。 屋の届くところまで寄って射ようという心づもりだったのに、いきなり風が背中に回った。 熊は何か知らぬ匂いがするので、立ち上がって風を嗅いだ。そして、遠くにいる人間に気づいた。こちらに向かって走りはじめた。 叔父の一人が矢を射た。矢は外れた。もう一人の叔父が矢を射た。それも外れた。熊は猛って向かってくる、マキリやタシロを抜く暇もなく、叔父たちは大きな熊に殴り殺された。 次に少年の方を向き、寄ってきて、立ち上がった。少年は自分も叔父たちのように殺されれるかと思って身を縮めた。 しかし熊は向かってくるわけではなく、ただ少年を見ているばかりであった。少年もじっと熊を見た。怖いと思う気持ちが失せていた。 やがて熊はわずかばかりの首を動かして、従いてこいと合図し、歩き出した。少年はその後を追って歩いた。 山を二つ越えて着いた大きな熊の巣穴に二頭の子熊がいた。子熊は少年を見て毛を逆立て、うなり声をあげた。しかし母熊がたしなめるとおとなしくなって、少年に近づき、匂いを嗅いだ。 その日から少年は熊たちと一緒に暮らした。 母熊が獲って来た食べ物を子熊と分けて食べる。筍などは自分たちでも掘る。夜は兄弟とくっつきあって暖かく寝る。 昼間、母親がいない時、子どもと少年は巣穴の近くで転がり合って遊んだ。熊の遊びは乱暴だから、少年はよく兄弟に引っかかれた。すると。その傷の跡からは黒い毛が生えた。少年の身体は傷だらけになり、そこから生えた毛で体がふさふさと覆われた。身体は丸っこくなり、顔も変わって鼻面伸び、少年は熊になった。 母親は三頭の子を分け隔てしなかった。少年は人間だった頃のことを次第に忘れ、すっかり熊の心になって兄弟と一緒に暮らした。山から山を歩いて愉快な日々を送った。 秋になった。母熊と三頭の子は川に行って鮭を獲った。川の中に入って遡上してくる鮭を長い爪で引っかける。岸へ上がって、鮭を足で押さえ、まず内臓と筋子を掻き出して喰う。その後で身を食う。また川に入って鮭を獲る。 秋の終わりには鹿を獲ってたらふく喰った。朝から晩まで木の実を喰った。そしてよく太ってから、穴に入ってうつらうつらと冬を過ごした。 春になると、母親はは子供たちを追い出した。もう一人前なのだから独りで生きて行けと言って、遠くへ追い立てた。戻って甘えようとすると、したたか殴られた。 元は人間の少年であった子熊は兄弟とも別れ、山の中で独りで生きた。大人の熊になった。 ある日、熊は人間の男に会った。乱れた風の吹き募る日で、匂いに気づいて逃げる間もなく男と対峙していた。殴りかかろうとしたが、そこで一瞬だけ気遅れを感じた。男が矢を射た。 矢は熊の右肩に刺さった。 男の射た矢が右の肩を射抜いた時、熊の身体に異変が起こった。 黒い毛が全身からはらはらと抜け落ち、丸っこい身体は細くなって、顔も変わり、熊は人間の若者に戻った。 その右の肩には矢が刺さり、血が流れていた。 若者は傷を押さえて立ち上がり、矢を射た男の方を見た。そして、ほんの少し前、熊であった自分がこの男に殴りかかるのをためらった理由を覚った。男は若者の父親だった。 父親の方もこの若者にかつての息子の面影を見い出した。 二人は連れだってトゥムンチの村に戻った。 やがて肩の傷は癒え、若者は熊として暮らした日々のことををみなに語った。 そして、熊を獲った後では、熊の魂が間違いなく向こう側に行けるよう、送りの儀礼を行ってほしいとみなに頼んだ。 だがそれを聞いた人々はあざ笑った。自分たちはトゥムンチだ。そんなアイヌのようなことができるかと言った。自分たちには力がある。熊などこちらから見つけだしていくらでも狩ってやる。 そう言って今までのように熊を狩り続けた。 熊の魂は宙に迷ったけれど、若者はどうすることもできなかった。 若者はトゥムンチの村を出た。しかし行くところはなかった。もう熊の身体ではないのだから熊たちのところには戻れない。結局のところ自分は熊にはなり切れなかった。父の矢で人間に戻されてしまった。 若者は山の中で一人で暮らした。毎日、どこかで狩られているかもしれない熊の魂のために送りの儀礼を行った。 熊の姿を見ないまま儀礼を行うのは心許なかった。一人で暮らすのは寂しかった。 寂しさは積もって悲しみになり、悲しみは積もって絶望になった。若者は死を願った。 一部始終を見ていた神々は、若者の魂を若いまま迎えてやることにして、その旨を伝えた。 若者は高い高い崖の上に行って、身を投げた。 その身体は大地に当たって砕け、やがて朽ちたけれども、魂は正しき者の国に生まれ変わった。 それでも、吹雪の夜には、熊になりきれなかったわかものの嘆きの声が聞こえると人々は言う。 トゥムンチは今も送りの儀礼をしない。
2024.05.16
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♪ 鞭に血を流され心洗われん智の巨人なる鶴見俊介の 鶴見俊輔なんか読むようなタマでもない私が、ふと読んでみたくなって図書館で借りて来た「新しい風土記へ」。9氏とともに、歴史について、戦争について、言葉の力・表現について、自らの依るところについて、縦横無尽に語り合う。贅沢な思索のひととき。 無知蒙昧のわたしには知らないことだらけの内容ではあったが、智の大家たちの生きざまと覚悟、その知性の背後にある諸々のものに、(多少なりとも)触れることができ、共感するものがあった。 中身が濃いのでかいつまんで解説など出来ないが、知らないということの愚かさというものを痛感させられる。文を引用して知ったかぶりで書き述べることはさすがに憚れるので、具体的な内容には触れないでおきます。 特に最後のⅢ章「聞きたかったこと、話したかったこと」が興味深かった。─「思想をつらぬくもの」池澤夏樹 ─ 鶴見俊輔が、試験の成績がいいのと頭がいいのは別問題だと言い切れるのは、不良少年で小学校を出る時はビリから6番目だったのが、15歳でアメリカに渡り、3年後にはハーバード大に入って1年で上位10%に入る優等生という、破格の実績があるから。それが、親父が「一番病」ということもあって、劣等感からうつ病になったりしている。 しかし、「結局、不良少年だったことが、自分を支えている。学校を二度も放り出され、小学校しか出ていないことが、私を支えてきた。」と述懐している。まあ、名門の出であることに変りはないし秀才であることも事実だし、あまり指針にはならない・・。 池澤夏樹は、「小学校に入ってから大学を中退して、一度ギリシャへ出るまでの間、ずっと何か居心地がが悪いと思っていた。」その後もふらふらしていて、ついに組織というものになじまないと気付く。「同人誌も作らないし、結社もつくらない、クラスメートとも親しく遊ばない。要するに一人でいる限り、何とでもなるが、誰かと何かをやろうとすると、およそだめである点において、僕は非常に非日本人的な性格なんです。」 ああ、俺と同じだ、同類がここにいる・・。 祖父が東大法科、父が東大文学部であるにもかかわらず、ひたすらそういう部分から逃げ続けてきたという。30歳で初めて海外に出て、太平洋の小さな島へ行ったとき、ものすごい解放感があった。これでやれると思った。それ以来、日本をずっと出たり入ったりしている。★ セルフメードで生きていく。鶴見「遊びがあるからこそできることがある。たとえ眠っていても、自分を支えて前に進めてくれるものが、想像力である。」 明治以降の日本の教育システム、それこそ軍人でさえ学科の成績で決めていくということに、大きな問題意識があり、それがこの国のあり方にも及んでいく。「夜郎自大」なんて言葉に初めて出会った。”自分の力量を知らない人間が、仲間の中で大きな顔をしていい気になっていること” と、辞書にある。
2024.04.20
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♪ 猫なるは人たらしなる希生物暗に主役の爪を隠せり 今読んでいる「作家と猫」(平凡社刊)が、とっても面白い。 今も昔も、猫は作家の愛するパートナー。昭和の文豪から現代の人気作家まで、49名によるエッセイ、詩、漫画、写真資料を収録。笑いあり、涙ありの猫づくしのアンソロジー!著作者一覧 猫好きなら納得の、膝を叩いてうなずいたり、驚いたり、感心したりで、もうたまらんです。その一部を抜粋してみます。★開高健 言葉を眺めることに疲れてくると私は猫をさがしにたちあがる。猫ほど見惚れさせるものは無いと思う。猫は精妙をきわめたエゴイストで、人の生活と感情の核心へしのびこんでのうのうと昼寝をするが、ときたまうっすらとあける眼はぜったいに妥協していないことを語っている。 媚びながらけっして忠誠を誓わず服従しながら独立している。気ままに人の愛情をほしいだけ盗み、味わいおわるとプイとそっぽを向いてふりかえりもしない。爪の先まで野生である。これだけ飼いならされながらこれだけ野獣でありつづけている動物はちょっと類がない。★向田邦子 「マハシャイ・マミオ殿」 マハシャイはタイ語で「伯爵」のこと 偏食・好色・内弁慶・小心・テレ屋・甘ったれ・あたらしもの好き・体裁屋・嘘つき・凝り性・怠け者・女房自慢・癇癪持ち・自信過剰・健忘症・医者嫌い・風呂嫌い・尊大・気まぐれ・オッチョコチョイ・・。 きりがないからやめますが、貴男はもことに男の中の男であります。私はそこに惚れているのです。 向田は、東京都・青山のマンションで3匹の猫と暮らした。一人暮らしを始めた時に実家から連れてきたメスのシャム猫の「伽俚伽(かりか)」、旅行先のタイで一目ぼれしたコラット種のオス「マミオ」とメス「チッキイ」。伽俚伽とチッキイが相次いで死に、向田が台湾での飛行機事故で亡くなった時、その帰りを待っていたのはマミオだけだった。〈猫と一緒に暮らしていると、だんだん猫に似てくる。歩くとき足音を立てなくなる。怠けものになり、団体で行動するのが大儀になる。誰かに忠誠を誓うのが面倒になり、薄目をあけてあたりをうかがい、楽なほう楽なほうと考えるようになる。年とともに肥えてくる〉「オール讀物」★永六輔 ピーター、ティミィ、ボサノバ、ワルツ、タンゴの5匹の猫を飼っている。 5匹ともネズミをとらない。ネズミがいないからではなく、いてもとらないと断言出来る。 猫というのは生まれて初めての体験がその習性になるからである。つまり、生まれて最初の食べ物が親猫のとったネズミでなければ以来ネズミを喰べない。 だからネズミにじゃれることはあっても決して敵として戦うこともなく、その時点で野生は失われている。★伊丹十三 長々と犬と猫の違いを描いた後・・ うろ覚えであるが、たしかジャン・コクトオの言葉にこういうのがあったと思う。「女は猫と同じだ。呼んだ時には来ず、呼ばないときにやって来る」 中略 コクトオのいうとおり猫というものは、最良の意味において女と似ている。 全く人間を無視したり、憎たらしいほどのよそよそしさと、膝に乗っかって喉を鳴らしたり、人の顔を見上げたり、満足げに尻尾を振ったりする時の甘ったれた愛らしさとを、猫はなんと巧みに使い分けることだろう。 そうして、また、この使い分けのなんという配分の良さ、タイミングの良さ。まったく天衣無縫という他ない。 中略 実に猫というのは偉いものではないか。あんなに何の役にも立たぬ、いや、純実用的に考えるなら邪魔っけな存在でしかない筈のものが、おのれの魅力だけで世を渡っている。犬のように人間に媚びるわけじゃない。なんとも我儘放題に、むしろ、その家の主のような態度で世を渡っているではありませんか。そんなことは私にはとてもできない。 ここまで書きかけたが、とても長くなりそうなので・・。あまりに面白い話がたくさんあって、とても書ききれるもんじゃない。 特に、男の書いたものなどは別格で、「暴王ネコ ── 大佛次郎」、「猫の喧嘩(ごろまき)── 小松左京」は猫の別の面をみせてくれて面白い。 谷崎潤一郎の「客ぎらい」もおもしろく、猫のしっぽが自分にもほしいという、まったく納得の名分であります。吉本隆明の文も、猫の奥深い魅力、神秘的なところに魅かれるし、三谷幸喜の「おっしー」を抱いて・・・/最期に見せた「奇跡」には思わず涙が・・。井坂洋子の「黒猫のひたい」はもう、涙なしでは読めない。 つづきはまたいずれ書くとして、この辺で止めておきます。猫好きは是非、手に取って読んでみてください。
2024.04.17
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♪ 独居だと思いいしなり放埓の吉野山人一家をなせり 季節の変わり目のせいか、頭がスッキリしない。まるで霞が掛かったような、あるいは黄砂にまとわりつかれているような不快な感じ。 夜はよく眠れているはずなのに、低気圧のなかで行き場を失った雲のような、どんよりとした朝の目覚め。花粉症が無いだけましだけれど、なんとも不如意な春隣り。 何をやっても気が晴れない。昨日の天気図はそれほど悪いわけでもないが、上空の大気は不安定だったのだろう。今日は南岸低気圧が通過して、またまた1日雨の不機嫌天気。◆ ◆ ◆ 前登志夫の「羽化堂から」を読んでいる。NHK歌壇2003年4月号からNHK短歌2008年4月号までの5年間にわたって掲載されたものを書籍化したもの。 吉野の山家の生活をしながら、「ひだる神」(山道を歩く人や森林で働く人にとり憑く悪霊)や大峯駆けをする人、宇多の又兵衛桜、今昔物語や猪猟の名人の話などなど、山暮らしのなかでの逍遥と邂逅の日々を古今の逸話を交えながら綴っていく。 折々に詠んだ自作の歌を引きながら、それにまつわる山人(さんじん)の生活や、山にしかない体験の日々。その浮世離れした話に引き込まれている。早々に「お花見」に思いがいったのもこの吉野の話に惹かれてのこと。前登志夫没後十年 その歌世界の紹介と作品朗読 どのページを読んでも面白く、同じ匂いをかいでいるような気分になる。都会には無いアニミズムとか自然主義とかいうようなものとは違う、もっと根源的なところでその精神性に触れる。 2003年4月~2008年4月までの5年間というと、77歳から82歳の亡くなるまでの時期にあたる。今の私で言えば、2年後から先のことになる。私が短歌を始めたのが2006年5月、NHK短歌を購読し始めたのが2008年5月からなので、完全にすれ違っていて接点がほとんどなかったことになる。 ただ、この本の中では今の私の年齢的に近く、琴線の振れる感覚や、孤独な山住みにおのれの生き方を手探りし、若き頃に自分の正体が分からず苦しんでいたことなど、私の心の中を見ているようだ。高度経済成長へ突進する世相と、時代の表層で観念的な政治闘争をつづける時流のエネルギーが日本文化の大切なものを憎み軽蔑しているのを眺めながら、谷行の仕置に遭っているという思い。それと同じようなものを、私も抱きながら苦悶していた。 放浪生活をしたり、グラフィックデザインから伝統的な絞り染めの世界に180度転換したり、社会の動きとは真逆の人生を歩み始めた自分と、同じけものの匂いがする。★ ★ ★ *おたまじゃくし群れゐる水にかげりつつ髪(ほの)かに過ぐる春の山人(やまびと) *みなかみに筏を組めよましらども藤蔓をもて故郷をくくれ *山の樹に白き花咲きをみなごの生まれ來につる、ほとぞかなしき *いくたびか虹たつ日なれ一家族靑草原に叫びつつゐる (歌集 縄文紀) わたしの歌の世界はどこか現代ばなれしていると批判され、一首のなかに息づいている時間がゆっくりして、現代のテンポに合わないとも言われるという。自分ではどこか賢しらなところがやりきれないと。 50年昔に感銘し、幾たびか引用もしたという、小林秀雄「實朝(さねとも」の、「秀歌が生まれるのは、結局、自然とか歴史とかいふ僕らとは比較を絶した巨匠等との深い定からぬ『えにし』にうおる。さういう思想が古風に見えて来るに準じて、歌は命を弱めていくのではあるまいか。」今でも私はこの短歌観を大切にしているという。 手の内の見える賢しらな短歌表現の仕掛けなどに、うたのこころは在るのではあるまい。コマーシャル言語のように、刺激的で普通の意味性に今の短歌はたよりすぎているのではないか。もっと茫洋として掴みどころのない時空が欲しい。現代人はみんな迅速に解答を求めすぎるのではあるまいか。短歌の世界に解答などは無い。ゆっくりと時間が熟れてゆくだけなのだ。 確かに最近の歌は、ライブ感覚でラップでも歌っているかのような日常をそのまま切り取ったような歌が多い。歌というより散文に近い。「虚というものがあって初めて小説となる。歌もまたしかり。」といったのは車谷長吉。わざわざ短歌にするまでも無いものを語呂合わせの様に詠んで、短歌を詠っている気になっているものがあって、いささか厄介な時代になったものだと思う。 【前登志夫】 略歴(Wikipediaより) 奈良県吉野郡下市町広橋にて、1926年(大正15年)1月1日生まれる。 2008年(平成20年)4月5日)逝去(82歳)。 1955年(昭和30年)、『樹』50首で第1回角川短歌賞最終候補(安騎野志郎名義)。1958年(昭和33年)に、角川書店『短歌』四月号にて、塚本邦雄・上田三四二らと座談会「詩と批評をめぐって」に参加。1964年(昭和39年)第一歌集『子午線の繭』出版。この頃より、テレビ・新聞・雑誌等で吉野を語ることが多くなる。1974年(昭和49年)大阪の金蘭短期大学助教授に就任。1980年(昭和55年)に歌誌『ヤママユ』創刊、2006年(平成18年)に第20号を刊行。1983年(昭和58年)以降、吉野に住み家業の林業に従事しながら、同地を中心に活動を展開。アニミズム的な宇宙観・生命観を表現した短歌を詠み続けた。歌集のほかに、吉野をテーマとしたエッセイ集も多数執筆した。2005年(平成17年)、日本芸術院会員となる。「受賞・候補歴」 1965年、『子午線の繭』で第9回現代歌人協会賞候補 1978年、『縄文記』で第12回迢空賞 1988年、『樹下集』で第3回詩歌文学館賞 1992年、『鳥獣蟲魚』で第4回斎藤茂吉短歌文学賞 1998年、『青童子』で第49回読売文学賞 2003年、『流轉』で第26回現代短歌大賞 2004年、『鳥總立』で第46回毎日芸術賞 2005年、 全業績により、第61回日本芸術院賞文芸部門、併 せて恩賜賞「人が年をとる意味とは、さりげなき日常の風景のなかにほんとうの貌(かお)と出会うことかもしれない。」と彼はいう。 心に、たくさんの水脈のような襞を刻み、その襞をさまざまなものが流れたり沈潜したりしている。それらを言葉にすることは容易ではない。書くたびに内容は変り、書くほどに曖昧になって行く。自然と対峙し対話するような時にひょっこり顔を出すものがあって、沈潜していたそのものがその本当の貌なのかもしれない。下市町にある前登志夫の自宅=2023年10月1日、奈良県下市町広橋 生前の前登志夫(1995年の12月ごろ)。 本や雑誌で埋め尽くされている。
2024.03.05
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♪ 基礎代謝の減って海馬の虚ろなり記憶は過去に紛れゆく日々 最近はよく本を読む。昨日まで読んでいたのは「白洲正子、前登志夫」の共著。対談とお互いを随想している構成になっている。吉野の魅力と桜の話、古典の話、西行の話、魂の話など、吉野の山中に住む前登志夫を訪れた白洲正子との、大家二人による肝胆相照らした出色の語らい。さび付いた頭にワサビを塗りこめられているような、襟を正すべく心持で読んでいた。 難しい、聞いたことのないような話がたくさん出て来るが、こっちは無学な凡人なのだから当然うろうろするばかりだ。それでも、随所に胸をツンと突くものがあって面白かった。 《西行は、数奇という無償の行為に命を賭けていたのである。だから歌によって法を得ることができたので、幽玄だのにかまけて花道を学んだところで、ろくなことはないといいたいのである》という白洲正子のたけ高い文章は、西行の「虚空の如くなる心」の精髄を見事に言いあてておられる、と前登志夫が書く。 正子が西行を「持って生まれた不徹底な人生を生きぬき、その苦しみを歌に詠んではばからなかった」といい、「風の吹くままにいきているような人間像として捉えている。」とも書いている。「現代に美しいものが生まれにくいのは、誰も彼も己れを表現することに急だからであろう。『分は人なり』というけれども、文ばかりでなく世の中のあらゆるものは黙っていても。自分の姿しか映してはくれない。」白洲正子青山二郎に「韋駄天お正」と呼ばれていた。 物事を徹底的に突き詰めていく “白洲正子” の審美眼を、その道の多くの大家が証明している、言わずと知れた白眉なる随筆家だ。 1910(明治43)年、東京生れ。実家は薩摩出身の樺山伯爵家。学習院女子部初等科卒業後、渡米。ハートリッジ・スクールを卒業して帰国。翌1929年、白洲次郎と結婚。1964年『能面』で、1972年『かくれ里』で、読売文学賞を受賞。他に『お能の見方』『明恵上人』『近江山河抄』『十一面観音巡礼』『西行』『いまなぜ青山二郎なのか』『白洲正子自伝』など多数の著作がある。 前登志夫の名前は知っているものの、氏の短歌とまともに向き合ったこともないし、著作も読んだことがなかった。もちろん、吉野の山中に住み歌を詠み続けている著名な歌人だということは知っていた。しかし、NHK短歌で目にすることも少なく、その歌に出会う機会はあまり無かった。 「前登志夫」1926年~2008年 奈良県生まれ。歌人、詩人。本名、前 登志晃(まえとしあき) 同志社大学経済学部中退。戦後、故郷吉野を離れて詩人として出発。吉野に帰郷ののちも、民俗学・日本古典に親しむ一方で詩作を続ける。1955(昭30)年、前川佐美雄に入門し短歌に転じる。1956年、詩集『宇宙駅』出版後、 父祖以来の山村生活に定着し、自然を背景とした土俗的な歌をつくる。1964年、歌集『子午線の繭』は大きな評価を受けた。 1965年、『子午線の繭』で第9回現代歌人協会賞候補 1978年、『縄文記』で第12回迢空賞 1988年、『樹下集』で第3回詩歌文学館賞 1992年、『鳥獣蟲魚』で第4回斎藤茂吉短歌文学賞 1998年、『青童子』で第49回読売文学賞 2003年、『流轉』で第26回現代短歌大賞 2004年、『鳥總立』で第46回毎日芸術賞 2005年、全業績により、第61回日本芸術院賞文芸部門、併せて恩賜賞 それで今回の読書本をきっかけに、著作の一つをメルカリで買った。図書館にもあったが、読むのに時間がかかりそうだったので買うことにした。 代表的な歌の数々がネットにアップされてもいるが、単なる歌集ではないところに興味があった。1 非在の草庵(非在の草庵/死者と眺める ほか)/2 仙に近づく(愚かな番外/仙に近づく ほか)/3 雪にたかぶる(早春の雪の香/山人の挽歌としての花 ほか)/4 居眠り翁(山の稜線を眺めつつ/キツツキの穿った穴の下で ほか)/5 花折りのわれは旅人(ことしの花だよりは/故郷の春の風 ほか)【前 登志夫】『51選』知っておきたい古典~現代短歌! から抜粋かなしみは明るさゆゑにきたりけり一本の樹の翳らひにけり暗道くらみちのわれの歩みにまつはれる蛍ありわれはいかなる河かおお!かなかな 非在の歌よ、草むらに沈める斧も昨夜(きぞ)の反響杉山に入りきておもふ半獣のしづけさありて二十年経る 寒の水あかとき飲みてねむりけりとほき湧井の椿咲けるや銀河系そらのまほらを堕ちつづく夏の雫とわれはなりてむほのぼのとわれ気狂ふや夏草にさびしく汗は噴き出づるかな山霧のいくたび湧きてかくるらむ大山蓮華おおやまれんげ夢にひらけりほのぼのとわれ気狂ふや夏草にさびしく汗は噴き出づるかな山霧のいくたび湧きてかくるらむ大山蓮華おおやまれんげ夢にひらけり 本を読んでも最近は記憶に残っていかない。海馬が食欲を無くしてしまい、取り込もうという意識がないようだ。ちょっと情けない状態ではある。 でも、何か一つでも引っかかるものが有ればメモしておくし、読んでいる最中は面白く思っているのでそれはそれで良いかなと。
2024.02.14
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♪ 好奇心に現生人類旅発ちぬもっともっとにもっとを重ねて 人類は、およそ500万年前、東アフリカに誕生したといわれる。その後、アフリカを飛び出した人類は、百数十万年前、アジアに広がり、極北の地を経て南米大陸の最南端、パタゴニアに達している。 基本的には熱帯性の動物であるヒトは、自らを太古のアフリカから解き放ち、アジアを経て、広大な新大陸へ旅をした。この重要な旅はコロンブスの航海をはるかに凌ぎ、人類がこれまで体験した中で、最大級の冒険にランクされている。この偉業を超える人類の旅は、他の惑星に移住するまで再現されることはあるまいといわれている。 このアフリカから南米大陸に広がる5万キロに及ぶ、壮大で画期的な人類の大遠征を、英国生まれの考古学者ブライアン・M・フェイガソンは〈グレートジャーニー〉と呼んだ。 因に、コロンブスがアメリカ大陸に着いた時には、地球上の3分の2にモンゴロイドが住んでいたと言われていて、それがっという間に白人が支配してしまったのだ。 1990年、人類拡散の〈グレートジャーニー〉を逆ルートから、自分の脚力と腕力だけでたどる〈グレートジャーニー〉を計画。そして実行したのが「関野吉晴」だ。 南米最南端パタゴニア・ナバリーノ島からビーグル水道をカヤックで漕ぎだしたのは1993年3月5日。ここを出発点として、アメリカ大陸を北上、ベーリング海峡を渡り、ユーラシア大陸を横断して、人類誕生の地であるタンザニア・ラエトリに到着したのが2002年2月10日。足掛け10年の旅。 その壮大な旅に向かうまでの間、一橋大生として探検部を創設し、アマゾンに行き来して、南米だけで実質9年滞在。その間、アマゾンに行くには医者になることが一番都合が良いと、紆余曲折を経て九大の医学部へ27歳で入り、アマゾンへ行き来しながら33歳で卒業し医者に。44歳になってからこの大航海に出ている。 ただ単にルートを踏破するのが目的ではなく、それぞれの地で寄り道しながら現地の人々との交流を楽しみながら、その地と人々の生活を体現することに重点が置かれている。 私と同じ歳だと知ったのは、この本を読んでからのこと。 テレビで〈グレートジャーニー〉の放送が有り、彼の名前はその時から知ってはいた。しかし、私も脱サラして嘱託の身から解放され、さあこれからという時期だったこともあり、あまりテレビなど見る余裕がなかった。その上、何となく “テレビ局の企画番組” ぐらいに思っていたので関心が薄かったのも確か。行く前、最中、その後と時間軸に沿って・・。最後は4人の応援団の話で結ばれている。 ここに出てくる人々はアマゾンやアステカ、アフリカやアラスカなどを訪れ、狩猟採集、牧畜に農業など、その実態と歴史を研究しているその道のオーソリティーばかり。いかに原住民が豊かなこころで生活しているか、そしてまた、サルを通して人間の本質を研究や、「われわれはどこからきて、どこへ行くのか」を問い、言わずもがなの共通のテーマとなっている。目からうろこの話が満載で飽きることがない。ONYONEより 以前、ここにも書いた民俗学者・宮本常一の主宰する「日本観光文化研究会」-観文研-に、彼も所属していたことを知った。さもありなんと納得し、70年代の熱き日本の若者を、自分を含めて改めて再認識している。 高度成長期の日本に飽き足らず、“開発という破壊” を訝しみ、“寄らば大樹の陰” を嫌い、“滅私奉公の名残の社会” を忌み、“自分の意思で判断し行動する”ことを旨とし、学歴なんかくそくらえと、“独立独歩の許される時代の到来” を賛美していた。 南こうせつの「神田川」を聞く前の1970年、万博会場で3カ月(5~7月)バイトして資金をかせぎ、日本中を放浪していたのは21歳の春だった。守口市のアパートでは、3畳一間の裸電球に机の変わのリンゴ箱、寝袋で過ごした日々が懐かしい。関野吉晴Webナショジオ 科学者と考える(地球永住のアイデア)パタゴニアのチャルテン山(フィッツロイ峰)。レンズ雲に朝日が当たり、濃いピンク色に染まった。(写真提供:関野吉晴)モンゴル草原で出会い、今も付き合いを続けている遊牧民一家。アマゾンのヤノマミと。レアホ(饗宴)での踊りを前に化粧して待機。〈グレートジャーニー〉の後の2004年、日本人がどこから来たのかをテーマとする〈グレートジャーニー 日本人の来た道〉をスタート。 日本人の祖先がこの列島にやって来たとされるルートをたどる旅を敢行。まる1年かけて、シベリアからサハリンを経て北海道に上陸。2005年1月27日には氷結した間宮海峡を徒歩で横断、同8月10日には宗谷海峡をシーカヤックで渡った。その後、チベット、中国、インドネシアを経て朝鮮半島を縦断し、日本に向かう途中でこの対談は終わっている。 1972年3月に最初のアマゾン遠征から帰国した僕は翌年、再びアマゾンに向かいます。ペルーの英文誌で「文明を避けて暮らす先住民がいる」と書かれた記事を読んだのがきっかけでした。飛行機に乗れば、世界のどこへでも行ける時代に、未踏の地がまだある。心が躍りました。読売新聞 企画・連載「時代の証言者」マチゲンガ族との交流は、寝食を共にして3か月にも及ぶ。マチゲンガ族と一緒の一枚。 アマゾン全域をゴムボートで下ったりし、南米だけで実質9年滞在している。一々関心することばかり。原住民とのコンタクトは手慣れたもので、アマゾンでもアンデスでも「泊めてください、何でもしますから」といって仲良くなってしまう。同じものを食べ、狩りにも同行し、同じ生活をする。そこから見えて来るものは、人間の本質と現代文明の影の部分。 南米は多様性があって、アマゾン、アンデス山脈、砂漠、パンパ、パタゴニア、ギアナ高地など世界の一番の地形が全部そろっている。アンデス高原の快適な暮らしと、チベット高原の厳しさとの対比など面白いし、ボノボはチンパンジーよりも人間に近いとか、ー40℃でも慣れることが出来るとか、日本列島は緯度の幅が広くてパリから北アフリカまで入るとか、アイヌと沖縄人は遺伝子レベルで似ているとか、シベリアのタイガの荒廃がすさまじいとか・・・、どのページを読んでもとにかく面白い。 私は、1度ならず2度借りて、延長もしたくらいだ。書きたいことはたくさんあるが、とても書ききれるものではない。実際に手にして読んでもらうしかない。 関野 吉晴(せきの よしはる) 1949年東京都墨田区生まれ。武蔵野美術大学教授(文化人類学)。一橋大学在学中に同大探検部を創設し、1971年アマゾン全域踏査隊長としてアマゾン川全域を下る。その後25年間に32回、通算10年間以上にわたって、アマゾン川源流や中央アンデス、パタゴニア、アタカマ高地、ギアナ高地など、南米への旅を重ねる。その間、現地での医療の必要性を感じて、横浜市大医学部に入学。医師(外科)となって、武蔵野赤十字病院、多摩川総合病院などに勤務。その間も南米通いを続けた。 1993年からは、アフリカに誕生した人類がユーラシア大陸を通ってアメリカ大陸にまで拡散していった約5万3000キロの行程を、自らの脚力と腕力だけをたよりに遡行する旅「グレートジャーニー」を始める。南米最南端ナバリーノ島をカヤックで出発し、足かけ10年の歳月をかけて、2002年2月10日タンザニア・ラエトリにゴールした。2004年7月からは「新グレートジャーニー 日本列島にやって来た人々」をスタート。シベリアを経由して稚内までの「北方ルート」、ヒマラヤからインドシナを経由して朝鮮半島から対馬までの「南方ルート」を終え、インドネシア・スラウェシ島から石垣島まで手作りの丸木舟による4700キロの航海「海のルート」は2011年6月13日にゴールした。1999年、植村直己冒険賞受賞。 グレートジャーニーを最初は「人類400万年の旅」と言っていたが、500万年前の骨が見つかったり、チャドで700万年前の骨が発見されたりしている。「1967年、ケニアの人類学者リチャード・リーキーはエチオピアのオモ川周辺で2つの頭蓋骨(部分)を発見した。それが2005年に、19万5000年前のホモ・サピエンス(現生人類)のものと判定された。当時はまだ、人類発祥の地は約20万年前のアフリカ東部と考えられていた。しかし2017年には、西部のモロッコで出土した頭蓋と顔面、顎骨を含む現生人類の化石が31万5000年前のものと判定されている。 そのため今日では、現生人類の故郷は特定の地域ではなく、アフリカ大陸のあちこちにあると考えられている。フランスの化石人類学者ジャン= ジャック・ユブランに言わせると『エデンの園は、おそらくアフリカそのもの。ものすごく広くて大きい』。」私たち人類はいつアフリカ大陸を離れたのか(東洋経済 ONELINE) ミトコンドリアの遺伝子研究ができるようになり、新たな事実が発見されるようになっている。
2024.01.30
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♪ しみじみと孤を味わいて饒(ゆた)かなり独座大雄峰の富士山 最近読んだ本。この2冊は私の感性に近く、心情的な価値観と問題意識にとても共感でき “そうだそうだ” と相槌を打ちながら楽しく読んだ。*「時の余白に」読売新聞コラム(2006年4月~2011年9月)をまとめたもの。*「悔いなく生きる」東京スポーツ紙連載エッセー(2008年~2019年)をまとめたもの。「時の余白に」は読売新聞社の美術担当の記者っだった芥川喜好(きよし)さんの文章だけに、過不足ない手慣れた文章に引き込まれる。あまり表に出ない、地味ながら地に足を着けて自分に向き合って生きている美術家ばかりが登場する。 それらの人々の、他人と比べず独自の生き方を貫いている姿が、私には同じ血の流れているものとして読んで素直に共感でき、とても心地よかった。 版元の「みすず書房」の紹介文「ジャーナリズムの言葉は、届かせること、そして理解を生むこと、つまりよき媒介者として機能することこそすべてである。媒介とは、ただ右から左へ接続することではなく、どう言い表わせば伝わるか、どう表現すれば他者は理解するかを、考え続けることである。つまり書き手であると同時に読み手でもあるような両義的な感覚が求められる。双方向への想像力である。」*「有名になりたい欲」自分というものがない人間ほど他人に認められたがる。名ばかりで中身のない人間ほど自己顕示をしたがる。それが現代人の有名病だと。*「太古の野生の森や草原に生きた脳を持って、私たちは今日、都市生活を営んでいる」 森を研究し健康の増進と森の再生を目指している日本の生理学実験を国際会議で発表する人。*今の日本の現状を「非社会性」を憂え、上昇志向をやめて自分たちの気質に合った緩やかな社会にしていかぬ限り、心の荒廃はつづく。中程度の国を目指して個人がもっと心理的に落ち着くことが肝要と訴える教授。*「仰ぎ見る幹と枝、枝と葉、その織りなす複雑な空間にひかりが満ち風が起こり、こちらをすっぽり包んでくれる。動から自由な、別次元へ突き抜けていくような世界」をずっと描いてきた画家。*「作るとは自分のなかから出てくるものを見極める事。だから独り。独自独歩の道しかない。そう定めていれば何も慌てることはありません。」と語る巨木の造形家。*「高貴高齢」と自認して「ブリキの円空」と言わしめたプリミティーフな彫刻を作り、「ハプニング」を得意とする。「泡沫桀人列伝」を著した人。 などなど、いかなる組織にも集団にも属さず、特定の立場や利害にかかわることなく、一人で思考を突き詰めていく人たち。どの人物も清々しいほど独りを貫いている。その人間のあるべき姿を活写してが奥が深い。 叱咤され、勇気づけられ、私の軟弱なこころの中に清涼な水が流れるような、心地よい読後感に包まれていた。「長年、美術の世界を取材して感じていたことですが、ものの中心付近というのは、分厚い保護膜に包まれてしばしば腐っていたりするものです。その点、周縁部は吹きさらしであり、風通しもいい。そこからものを眺めれば、見通しもいい。人の動きもよく見える」(あとがき)☆「悔いなく生きる 男の流儀」 男が悔いなく生きるためには、ある流儀が必要だ。それは人生のテーマを作ることであり、その思想、行動を恐れないことだ。そのテーマということについて、書いておきたい。(まえがきより) 芥川賞受賞作家の高橋三千綱のエッセイ集で、バンカラな生きざまを述べ乍ら、政治家の実名前を出して忌憚なく書いているところに共感を覚える。 自分の体験をもとにしながら、世の中を袈裟掛けにするような文章が心地い。しかし、文章は外連味のない中に、時おりパンチが打ち込まれる感じで、根底に人間愛があって読みやすく好感が持てた。 私は彼のようなバンカラでも偉丈夫でもない。私がハツカネズミだとしたら、彼はヌートリアぐらいの差があるだろう。いやいやもっと大人物なのかもしれない。1948年1月5日生まれなので、ちょうど1歳年上だ。 東京スポーツ新聞社在職中に小説を執筆し、1974年に「退屈しのぎ」で群像新人文学賞を受賞。退職後は文筆業に専念し、78年に「九月の空」で芥川賞を受賞。多作で知られ、青春小説、時代小説から、趣味のゴルフに関する著書、自身の闘病経験をつづった作品まで、幅広いジャンルで執筆活動を続けた。 最期は肝硬変と食道がんで、2021年8月17日に亡くなっている。男の流儀で酒と競馬を愛し、女を傍らに据えてバンカラをやり通した、昭和世代の最後の無頼派作家なのかもしれない。 こんな本まで書いていて、サービス精神と書くことへの執念がみてとれる。生きていることは書くことであり、人生全てが書くことと一体化していたような人だったようだ。
2024.01.11
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♪ 重ねきし選択の一つに苛まれ今にしなれば一つのさだめ 最近、読んでいる本に「選択の科学」というのがある。ずいぶん前、黒川伊保子氏の本の中に「マジカルセブン」という言葉が紹介されていて興味を待った。それは「選択の科学」という本に紹介されていると。ずっと気になっていたがなぜか先送りしていて、この度ようやく図書館で借りて読むことに。 ジョージ・ミラー心理学教授が論文「マジカルナンバー7 +-2:われわれの情報処理能力の限界」の中で、自分が「ある整数に苛まれてきた」と告白している。 この「選択の科学」の著者が、ライフワークである「選択」の研究で、幼児を対象にした実験をしていく中で「6」という数字に突き当たる。ミラー博士が関心を持ったのは、7という数字と、人間に処理可能な情報量との関係だった。そこからヒントを得て、さまざまな実験をしていく。 そして選択肢が「6」+-2を超えると途端に結果が悪くなることを実証していく。もっとも知られたものは「ジャムの研究」。 スーパーマーケットでのジャムの実験で、「ジャムの品揃えが豊富なときより、品揃えが少ない時の方が、お客が実際にジャムを買う確率が高い。」この論文が発表された時は、世論でかなりの反発が有ったらしい。 しかし、認められるようになっていく。 人には自分で選択したいという欲求がある。選択肢がある状態を、心地よく感じ、「選択」という言葉は、いつでも肯定的な意味合いを帯びている。選択肢が多ければ多いほど良いはずだと思う。しかし、良い面もあるが、得てして混乱し、圧倒されてお手上げ状態になる。☆ 幼稚園の3歳児を対象にした実験。 部屋に、おもちゃをこれでもかというほど入れて一人ずつ自由に遊ばせる。半分の子どもには自分で自由に選ばせて遊ばせる。一方の半分には遊ぶおもちゃを指定して遊ばせる。 その結果、一方の集団は夢中で遊び、終了時間が来た時もまだ遊び足りなさそうだった。そして、もう一方の集団は、気もそぞろで、あまり意欲がわかないようだった。選択はモチベーションを高めるのだから、おもちゃを自分で選んだ子供たちの方が楽しんだに決まっている。ところが、結果はその逆だった。選択肢が多すぎて、選んでいる内に嫌になってしまった。 小学校1、2年生を一人ずつ部屋に入れて、マーカーを使ってお絵かきをさせる。一部の生徒には二つの選択をさせる。6つのテーマ(動物、植物、家など)の中から1つを選ばせ、それを描くマーカーを6色の名から1つ選ばせた。残りの生徒には、どのテーマを、何色を使って描くかをこちらで指定した。 この結果、自分でテーマと色を選んだ生徒は、作業にもっと時間を掛けたがり、選ばなかった生徒よりも(独立的な観察者の判定によれば)「良い」絵を描いた。☆ ラットを迷路に入れて、真っすぐな経路と、枝分けれした経路のどちらを選ぶかのある実験。どちらの経路を通っても、最終的にたどり着く餌の量は同じ。複数回の試行で、ほぼすべてのラットが、枝分かれした経路を選んだ。 ボタンを押すとエサが出ることを学習したハトやサルも、複数のボタンがついた装置を選んだ。ボタンが1つでも2つでも、得られるエサの量は変わらなかったにもかかわらずだ。 別の実験で、カジノのチップを与えられた被験者は、ルーレット式の回転盤が1つあるテーブルよりも、2つのまったく同じ回転盤のあるテーブルでチップを賭けたがった。賭けることが出来るルーレットは1つだけで、ルーレットは3つとも全く同じものだった。 選択したい欲求は自然なこころの動きであり、生き残るために欠かせない働きだからこそ発達した。線条体のニューロンは、まったく同じ報酬であっても、受動的に与えられた報酬よりも、自分から能動的に選んだ報酬に、より大きな反応を示す。☆ 心理学に軸足を置きながら、経営学や経済学、生物学、哲学、文化研究、公共政策、医学などをはじめとする、さまざまな分野を参照し、多くの視点でつづられていく。 例えば、ミネラルウォーターとして売られているものは、単なる水道水であるとか、コカ・コーラとペプシ・コーラはほとんど同じ味である。イメージ付けされて、違うと思い込んでいるだけだと。 トヨタ自動車でもあったフルチョイスの自動車。ドイツのメーカーにもあって、実験した。選択肢が多いオプションから順に選んでいき、最後は最も少ない選択肢のオプションへ移って終わったグループと、その逆に最も少ない選択肢のオプションから選んだグループ。どちらも同じ8つのオプションで選んでもらった。 結果は、多い順に選んだ方はすぐに疲れてしまい、既定のオプションですませるようになり、結果的に出来上がった車に対する満足度は、少ない順に選んだグループに比べ、低くなってしまった。好みがハッキリしている場合はそれを指針として進められるため、それ以外に集中できる。選びやすいものから取り組むのが得策という事がわかる。 息子(次男)が車選びになかなか結論を出せずにいる。明確な好みがないため目移りして決められないのだ。それで「まずは排気量、そしてメーカー、その次は車種、そして色へ」と「選択肢の少ないもから順に決めていくといい」とアドバイスしてやった。こだわりがあるものが有ればそれが最優先になるのは言うまでもない。☆ 心理学から病理学、老人問題まで幅広く、権利と抑制などさまざまな例を引いて、7つの疑問に応えるべく論を尽くしている。 *なぜ選択には大きな力があるのだろうか、またその力は何に由来するのだろうか? *選択を行う方法は、人によってどう違うのだろうか? *私たちの出身や生い立ちは、選択を行う方法にどのような影響を与えるのだろうか? *なぜ自分の選択に失望することが多いのだろうか? *選択というツールを最も効果的に使うには、どうすれば良いのだろうか? *選択肢が無限にあるように思われているとき、どうやって選択すればいいのだろうか? *他人に委ねた方がよい場合はあるのだろうか? その場合だれに委ねるべきか、そしてそれはなぜだろうか? NHK白熱教室でも話題になったらしい、この盲目の女性教授の研究を書籍化した本書は、多岐にわたっていて、その内容を詳しく述べることはできません。 出版社内容情報「社長が平社員よりもなぜ長生きなのか。その秘密は自己裁量権にあった。選択は生物の本能。が、必ずしも賢明な選択をしないのはなぜ?」拡大します とに角面白い。思い当たることも多いし、選択の可能性を「認識」できることが選択する以上に重要であることも納得できる。子育てに置いても、自由に選ばせることが良いかと言えば、そうではないことも分かって来る。 人生は「選択」を積み重ねることで成り立っている。その背景には複雑な社会のワナが有ったりして、純粋に自己が反映されていなかったりもする。 その時どきの選択によって、進む道筋が作られていく。生理的な、知的な、宿命的な、必然的な、さまざまな反応として種々の選択をして生きている。
2024.01.06
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♪ ユーラシアに死者を見ながら飯を食う見えて見えないパラレルワールド こんな本を借りてきた。 図書館の毎月やっている企画展示コーナーで、作者の名前「レオ・レオーニ」に魅かれて・・。読んだことはないが、名前だけは絵本作家として知っていた。その絵本作家が変わった表題の本を出しているのに目が止まった。大した意味もなく、好奇心ってやつで・・。「平行植物」って何だ? 表紙の絵からすると平行に立っている木のようなイメージだが・・。 それが、そうではなくて「パラレルワールド」と同じコンセプトによるもので、現実には実在しない、概念上の植物のことらしい。「自然が芸術を模倣するのか、芸術が自然を模倣するのか・・? 幻想の庭・想像の山野に繁茂する 数奇な植物たちの博物誌。」 どの分野に属するか判別しにくい本であり、作者自身が黒子(くろこ)となって “植物である前にことばであった” 植物群のフィクション。幻想の植物ではなく、むしろ幻想そのもの──に対して存在しない植物群を通じて説得力のある、詩的な意味で測ることが出来る賢個さというものを与えようとした幻想そのもの・・・ 学術書の体裁をとって事細かに記されている、その飽くなき執着心には驚かされる。ところどころにある注釈が本の内容に信憑性を与える役割をして・・。作者が永年温めてきた概念とそれを基にして描いた絵も載せてある。 数世紀にわたって徐々にではあるが、しかし、確実に勝利をおさめてきた植物研究の大いなるプログラムは、最初の<平行植物>発見のニュースによって激しくゆさぶられる運命にあった。この未知の植物の発見は、恣意的かつ予測不可能なものとして、最新の植物学の成果のみならず伝統的な論理構造さえも脅かすかのようにみえたし、現在に至っても事情は変わらない。 フランコ・ルッソウリは次のように記述している。「これらの有機体は、物理的な実在としてあるときはグニャグニャしており、あるときは多孔性、またあるときは骨質でありながらもろいというように、実にさまざまな性質をもち、まるで何らかの重大なる変身を盲目的に期待するかのように成長する。とがった角状の突起があったり、ペチコートやスカートの縁飾りのごときひげ根や雌しべをひらひらさせたり、粘液質あるいは軟骨質の関節部をもっていたりするこれらの奇妙な植物は、結局のところ正体があいまいで、強いていえば未開の神秘的なジャングル植物の一種かもしれない。だが、それらは現実の自然界ではいかなる種にも属さず、もっともプロフェッショナルな接ぎ木法でさえもそれらを生ぜしめることはできないだろう*1」*1 フランコ・ルッソーリ著「数奇植物」(イル・ミリオーネ社、ミラノ、1972年)・・・・・・・ こんな感じで、そのものについての様々な実態と論理的な裏付けが述べられていく。 今朝はここまでにしておく。あまりにも意表を突く話で、これらのものを根拠立てて [空想の中に実在する] ことを証明すべく知識と想像力を総動員して書き上げた本。かいつまんで紹介するなんて出来ない。 興味のある方はぜひ手に取って読んでみてください。「板橋区立美術館」で、2020年10月24日(土曜日)~2021年1月11日「だれも知らないレオ・レオーニ展」が開かれたようだ。「レオ・レオーニ」1910年、オランダのアムステルダム生まれ。家はユダヤ人の裕福な家庭で、コレクターの叔父の影響で、パブロ・ピカソやパウル・クレーなどの芸術に囲まれて育った。 イタリアのファシスト政権誕生と人種差別法公布により、アメリカ合衆国に亡命し、フィラデルフィアの広告代理店NWエイヤーに就職する。ニューヨークで複数の新聞社で美術担当編集者、グラフィックデザイナーとして働きながら、美術学校や大学で講義を行い、各都市での巡回展も開いた。 1945年にアメリカ国籍を取得し、1953年にはアスペン国際デザイン会議の初代会長を勤める。エリック・カールの才能を見出し、ニューヨーク・タイムズ広報部への就職を世話した上、編集者を送り絵本の仕事も勧めた。 1959年、孫のために作った絵本『あおくんときいろちゃん』で絵本作家としてデビューを果たす。wikipediaより 世界各国の賞を受けている絵本 平行植物(油彩) 「誰も知らないレオ・レオーニ展」illustrationより☆ 架空といと言えば、村上春樹の処女作「風の歌を聴け」に出てくるデレク・ハートフィールドも架空の人物だ。彼は、ごていねいにも「あとがきにかえて」として、デレク・ハートフィールドとの出会いのことなどを詳しく書いている。よく読むとどうもウソっぽい感じがしてくるが、この部分も含めて小説になっているというわけだ。 また、「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」はパラレルワールドだし、彼の小説にはパラレルワールド的な要素も多い。 奇しくも、最近読んだレオ・レオーニと村上春樹には多分に共通点があるようにみえる。最近、偶然にしてもそういうものがつながって目の前に現れてくるのが何だか不思議でならない。
2023.11.20
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♪ 〈霜降〉の塵一つなき天空ゆ光りを受けて猫ねむりおり 今日から二十四節季の「霜降」。気温がぐっと下がり、空気中の水分が凍って草木の表面や地面につくと霜になる時期。11月7日までの15日間。 二十四節季1年を24等分したもので、前は「寒露」で次冬になる「立冬」になる。二十四節季は、その日を言う場合と15日間をさす場合とがある。(All Aboutより) 霜が降りるには「地表面」が氷点下、地表面よりも高い位置で観測する気温が3~4度位であることが多い。北国や山里では露が霜に変わり、だんだんと冬が近づいている。 今朝は、朝露が降りて瓦が濡れていた。気温は10~11度くらいでしたが、こんな風に屋根が濡れていたのは今季初めて。季節は瓦の上にも姿を現してくる。 空気中の水分が結露する露。秋の終わりから冬の早朝に降りやすい。冬には凝結して氷の霜になるわけだ。北海道や山間部などでは、まさに霜が降りるころ。実際、今朝は旭川で「初霜」が観測され、北海道だけでなく、本州の内陸でも、霜がおりるほどの冷え込みになった所があるらしい。 ☆ 産卵を済ませたカマキリは昨日のうちにいなくなり、透明に近いふわふわの卵は茶色く硬くなっている。来年の孵化を楽しみだ。 たくさんの赤ちゃんカマキリが、次々に孵化して団子状になってぶら下がっている様子はなかなか面白い。滅多に見る機会が無いので、ぜひその瞬間を逃さず写真に収めたいものだ。 10月27日~11月9日は読書週間。 何をするにも快適な季節の到来です。スポーツに精を出す人、冬を前にしてのガーデニングにいそしむ人、趣味がある人にとっても無い人にとっても心地のいい日々がしばらく続く。 普段あまり読書をしない私ですが、先だってから読んでいるものがある。あの名プロジューサーといわれた久世光彦の小説「蕭々館日録(しょうしょうかんにちろく)。東大文学部美学科卒だけあって小説を書くことは大きな喜びだったようだ。 特に夏目漱石に傾倒していたのか、「吾輩は猫である」をもじったような設定で、5歳の麗子という岸田劉生の麗子像をモデルにした女の子が主人公。その子の眼からみた家族とその友人知人の様子が描かれていく。 知識をひけらかすようなところが随所に有って、聞いたこともない人物や話がいろいろ出てくる。大正末から昭和初期が舞台で、実在した作家が実名で出てきて、登場人物との関係が語られる。史実に基づいていて、「九鬼」は芥川龍之介、「児島」は小島政二郎、「蒲池」は菊池寛をモデルにしているという。それらの作家の文章が、作品中に引用されていたりする。 5歳の麗子は齢の割に、やけに利発で物識りで、浅学の凡人など及びもつかないことを言う。 知見の広さと、才能豊かな自信に満ち溢れていて、頭に詰まっているもの吐き出さないではいられないという感じ。 あらゆる知識を総動員して、好きな文学を小説にすることの喜びが本全体に満ちている。好き勝手なことを書いて、文学を志した先輩・後輩諸氏、文士・文学界に「どうだい面白いだろう」と喧嘩を売っているかのような印象さえある。 小島蕭々宅の書斎を舞台に、正月からの1年間を日記風に描いたもの。5歳の麗子は九鬼(芥川)に心酔していて、後半以降(十二章、十三章)あたりになるとその溺愛が、久世さんの芥川龍之介に対する思いが乗り移っているようで、なんとも切なく素晴らしい。読んでいて九鬼の風貌が、黒ずくめで痩せていた奇人(悪魔と呼ばれていた)パガニーニの姿と重なって来た。 380ページと長いし、誰でも楽しめるかどうかは分からないが、文章地力は確かだし、なんとも言えない魅力がある。 昭和2年の6月7月は異様な猛暑で、華氏九十三度六分(摂氏約34度)もあって大変だった様子が出てくる。33年振りのことらしい。扇風機もクーラーもない時代で、さぞかし大変だったろう。 いい季節なのはアランとて同じこと。本箱の上には上がらず、日が射す床に寝そべって、朝寝の体制に入った。 写真を撮ったら、何を思ったかシャッター音に反応して、近くまで寄ってきてゴロリ。一人で寝るのがあまり好きじゃない、甘えん坊のアラン。そのうち暑くなって、仕方なしに涼しい場所へ移動するのだろう。
2023.10.24
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♪ 味付けをされし缶詰記憶という具の入れ方でラベルが変わる 夕べも涼しかった。ベッドに行くと直ぐにアランがやって来て、甘えた声ですり寄ってきた。そのまま横になって、朝まで一緒(途中で暑くなって、いなくなったようだが戻っていた)。去年まではこんなことはなかったのに、何かが変わっている。 涼しくなったので何をするにも快適だ。しかし、この先暑さがちょっとぶり返し、10月に入るとぐっと秋らしくなるらしい。そんな変化もお愛嬌。大して苦にもならず読書にも身が入る。☆ 先日借りてきた「窓から逃げた100歳老人」がなかなか面白い。100歳の誕生日パーティーに老人ホームから脱走するスウェーデン人「アラン・カールソン」の話。この主人公の名が「アラン」というところも気に入った。 1905年の生まれた年からの体験を間間に挟みながら、100歳の現在が偶然を基に展開していく。その書き方はよくあるもので珍しくはないが、随所で体験した話が壮大でおおいなる出鱈目なところが笑わせる。 お酒(ウオッカ)が大好きで、宗教と政治が大嫌い。ひょんなことから手にした大金入りスーツケースをめぐって、ギャングや警察に追われることとなり、途中で知り合ったひと癖もふた癖もあるおかしな仲間とともに珍道中を繰り広げる。 一方、過去のアランは爆発物専門家としてフランコ将軍やトルーマン、スターリンと日夜酒を酌み交わしては、歴史上の人物と重大シーンにひょこひょこ顔を出しては、手柄を立てたり危険な目に遭ったりする。拡大します。 アランの逃避行と100年の世界史が交差していく、二重構造どころか多重構造のドタバタコメディ。壮大な政治風刺、小気味いカリカチュア。歴史に詳しい人も、詳しくない人ならなお更興味深い。その “20世紀の歴史の影にアランあり” という痛快活劇の出鱈目加減に大いに笑わされ、心地いいったらありゃしない。面白いと思わないのは、ガチガチの石頭の現実主義者か、ウィットを理解しない曲がったことが嫌いな常識人かな・・? 最初、2014年7月発行という比較的新しい本であるところが意外な気がした。しかし、そのことで100歳に対して親近感も感じられるし、20世紀の歴史も身近な話として読むことが出来る。 3分の2まで読み終えた。はてさて結末はどうなるのだろう。
2023.09.26
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♪ 五十音駆使して描く億万の心は重き星のかがやき「私はなんて幸せなんだろう。」梶井基次郎の「檸檬」を読んでいて、何故かそういう思いが湧き上がって来た。 この何とも言えない文章に酔いしれたのか、麦焼酎のオンザロックを飲みながながらなのでアルコールが作用したのかもしれない。ローランドカークのレコードが掛かっていたことも何か影響しているのか。 冒頭から梶井基次郎と言えば「檸檬」というぐらいの代表作が出てくる。何とも言えない味のある文章。その時代背景が妙に心地良く、描かれる情景や心情に安らぎさえ感じる。 檸檬を手に入れ、幸せ感に酔いしれているその心のありさま。文章は端的でありながらも様々なものを思い起こさせる不思議な重さがある。丸善で画集を積み上げた上に、檸檬を密かに置いて帰って来る。そこに至るまでの心のうごきと終わり方。憎いほどにうまいと思う。 最後まで読んで、なんだか知らないが幸福な気持ちが湧き上がってきた。饒舌でもないが淡白でもない。この時代の空気が、現代社会では失われてしまったおおらかさを伴って浮かび上がってくる。 懐かしい詩情が文章全体にただよっている。これが、世代や個性の違う数多くの作家たちに支持された文章なのかと、心に響いてきた。 私は、毎日のブログを日記のつもりで書いていて、エッセイを書いている意識はない。なので、出だしをどうしようとかどう展開させようとかを考えたことはない。それでも毎日書いているからには上手くなりたいとは思う。この「檸檬」を参考にするつもりはないが、どこか心の栄養にはなるに違いない。他の短編も楽しみになって来た。☆ この日掛けていた、ローランド・カークの「The Inflated Tear(溢れ出る涙)」は、私の好きなアルバムの一つで、こちらも「檸檬」に通じる何かがあるような気がする。 カルテット( トロンボーンが入る)。'68年発表アルバム。クレオール・ラヴ・コール"以外はカークのオリジナルこの時は、無意識になんとなく選んで掛けたのでまったくの偶然だ。実際にはBGMで、じっくり聞いていたわけでもないが、こころの何処かに波動が伝わったのだろう。 盲目のマルチリード奏者であるローランド・カークは、サックス、マンゼル、ストリッチと3管のマウスピースを同時に咥えて演奏したりする鬼才。独特のアフリカン・アメリカン・ミュージックの何とも言えない雰囲気の演奏は、何だか分からないままに心地い。 ローランド・カークは他にももう一枚持っている。始めて掛けた時に何だか知らないが、“懐かしい” という感じがした。不思議な気持ちにさせてくれるアルバムだ。The Return Of The 5,000 lb. Man マルチ・インストゥルメンタリストにして、アドリブを取ればハード・バップの一線級のプレーヤーに引けを取らない。フルートを吹けば声と楽器の音を混ぜる独特の表現など、ユニークで圧倒的な実力と個性のジャズママンだ。 ローランド・カークは1935年生まれ。1歳か2歳の時、看護婦が誤って薬品を大量に彼の眼にこぼし、盲目になってしまったという。 梶井基次郎は1901年(明治34年)生まれ。長く結核を患い、31歳という若さで亡くなっている。磯貝英夫「梶井基次郎─鑑賞『檸檬』 「檸檬」で作者が遂行したのは、倦怠した心情の広がりが詩的感受性に澄みきわまる一瞬の緊張を取り上げて、生活的、思弁的な雑音を排除すること。散文的拡散から詩的凝集へという推移。心情的陰影が分析的な散文体によってくっきりと刻み込まれた。鋭敏な詩的感受性こそは彼の生来のすぐれた資質。それが純粋に抽出され、散文の方法によって定着されたのが「檸檬」である。(私的に要約)
2023.07.11
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♪ 美醜など石ころにもある愛しさは生きざまにあるハナカマキリよ ウォーキングで太田川に行ったついでに、孫の誕生日プレゼント用に「世界のキレイでこわいいきもの」という写真集を買った。猛毒! 凶暴! 見た目がこわい! 水辺や陸に生息する139種。オブトサソリ、コモドオオトカゲ、アカハライモリ、パラダイストビヘビ、スローロリス、スカンク、ヒクイドリ、カンムリクマタカ、カバ、ヒグマ、コバルトヤドクガエル、ハリセンボン、オニカサゴ、ドクウツボ、カツオノエボシ、キロネックス、ホホジロザメ、イリエワニ、ラブカ、ジャイアント・ホグウィード、ザゼンソウ、ツキヨタケ、カエンタケ 美しい写真と簡潔で分かりやすいキャプション。1980円とちょっと高かったが、15㎝×15㎝サイズで見やすいし、興味深いいきものの姿に魅かれた。いきものの写真は拡大します。米粒大の小さなクモアスクレピアス(唐綿)の花の蜜を吸っているツマジロスカシマダラ。 中央アメリカから南アメリカからチリまでの南端から最も一般的に見られ、北はメキシコやテキサスまでの中南米諸国(新熱帯区)に生息。羽根には3種類の反射防止構造を持ち、非常に高い透明度を獲得している。 我が家でも咲かせているアスクレピアス(唐綿)は、オオカバマダラの食草でもある。ツマジロスカシマダラがやって来るとはどこにも書いてなかったが、この写真の花はまさしく唐綿だ。日本に生息する「ツマグロヒョウモンチョウ」もこの花の蜜を吸いに来るという。これなんかキレイとはとても言えないけど・・☆ ここ三洋堂は品ぞろえが豊富で、その規模に合わせていろんなものを扱っている。名古屋駅の高島屋ゲートウェイにある三省堂ほどではないが、いまどき貴重な本屋さんだ。けっこう気に入っていて、ウォーキングの目的地にしてときどき出かけるようにしている。 ヤング向けから主婦、中年男性まで幅広い本が揃っている。行くと何かしら買いたくなる。地元の夢屋書店など規模が小さい店は入荷しない本があるが、ここに行けば間違いなくある。2001年の開店で22年の歴史があり、特集イベントなどもやっているようだ。 【販売】本、CD・DVD、TVゲーム・トレカ・キャラくじ・グッズ、文具・雑貨・お菓子【レンタル】CD・DVD・コミック 以前はところどころに椅子が置いてあって、座ることが出来た。疲れた足を休ませるのに都合が良かったが、大幅な模様替えしてからはそれも無くなってしまった。 疲れたら電車で帰る手もあるが、やはり往復歩かないと距離が出ない。最短距離で4.7㎞ほどで、遠回りして帰ると10㎞ほどになる。 最近は腰椎の一カ所に痛みが出るし、けっこう疲れを感じるようになった。寄る年波には勝てないなんて思うようになってはなぁ、まだ山登りにも行ってないのに。 そばで新築の内装工事をしている大工さんが久しぶりに顔を出し、「鈴鹿の御池岳に行って、疲れましたわ~」と、嘆いていた。まだ若いのに「普段使わない筋肉を使うのでねぇ、やっぱり鍛えてないとダメですわ」と。 4カ月は続けないといけないトレーニング。次の定期券を買って “続けていかんと” という気になっている。
2023.06.27
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♪ 雑草という名の花の一つかなあまたの歌を残して逝かん 図書館には月刊誌「角川短歌」はないが「短歌研究」はある。本を借りに行ったついでに見ることはあっても借りてくることはなかった。それが、今月は5月号とこの「短歌研究年鑑2022」を借りてきた。 1年間に出版された総合誌の作品の展望と、歌集歌書の展望などから始まって、特集記事、歌人名簿、年刊歌集を網羅。歌人たちにとっては欠かせないものなのでしょう。歌集歌書展望は名の知れた歌人たちが歌集をひも解き、心に残った歌や注目した歌を3~7首ほど選んで感想を述べている。 まったく勉強不足の私にとって、こういう世界はヒマラヤの頂上ぐらい遠い存在だった。他人に難癖付けられるのが嫌であくまでも自分勝手に好きなようにやりたい私。すべてにおいて共通のあり方でもある。しかし、そんなことで上達するはずもない。他人の作品と意見から得る諸々のものを排除し、悪癖と視野の狭さが災いしていずれ行き詰まる。 だからと言ってそれをすればよくなるかと言えば、飛躍的に成長するものでもないだろう。ある種のタイミングでピタッと一致すればこそ、砂地に水が浸み込むように体に入って来るというもの。そんなタイミングが、今の私に来ているのかもしれない。 この分厚く細かい文字でびっしりと埋まった本を、ありがたいと思いながら読んでいる。歌集を買えばいいのだろうが、数も多いしどれも高い。ほんのエッセンスだけだとしても、知らない世界に誘ってくれるこの本は、興味深くメモをしながら読んでいる。 短歌に興味を持った時点で(17年前、57歳)こういうことをしていれば、今頃は歌集を何冊か上梓していたかもしれない。しかしまあ、軽自動車1台分ほどかかる自費出版なんて出来るはずもないし、そんな野望もモチベーションも持ち合わせていない。 日記に重しを付けて、単なる記録だけではないものを書き残したい。いや、残したいのではない。初めての連続である今、この時、心の中にあるものを、三十一文字で表現したい。限定された文字数にありったけのものを動員していかに表現するか、それが面白いというだけのこと。
2023.04.26
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♪ まだ飽きず見限りもせず続けおり三十一文字の井戸深くして 2010年(平成22年)8月12日に64歳で亡くなった河野裕子さん。乳がんの再発というなかで、産経新聞の紙上で家族エッセーを始めた永田和弘、河野裕子夫妻と息子・淳夫妻、娘・紅。その日常をリレー形式で繋いでいった。それらを一冊にまとめて、彼女の死後に出版された本を読んだ。「歌なら本音がいえるから」。乳がんの再発した妻・河野裕子の発案ではじめた夫・永田和宏と子どもたちとのリレーエッセー。我が家の糠床のこと。息子の子どもたちのこと、長く飼った老猫の失踪、娘の結婚。そして最後の言葉…。愛おしい毎日、思い出を短歌とともに綴りながら、家族はいつか必ず来るその日を見つめ続けた。 今更、永田・河野夫妻のことを書くまでもないのですが、子二人を含めた家族全員が歌人。個々の想いや家族の状況などを歌に託して世に出して「サザエさん一家」と呼ばれ、家の中のことをみんなが知っているという歌人ならではの、稀有な存在。 河野裕子さんの代表歌はたくさんあって、いろんな書物や歌の指南書などに引用されている。あまりにも高名な歌人なのに、私はその歌集すら読んだことがない。寡聞浅学のド素人。そんな私でもとても共感できる歌の数々。*たとへば君ガサッと落葉すくふやうに私をさらつて行つてはくれぬか*ブラウスの中まで明るき初夏の日にけぶれるごときわが乳房あり*あるだけの静脈透けてゆくやうな夕べ生きいきと鼓動ふたつしてゐる*たつぷりと真水を抱きてしづもれる昏き器を近江と言へり*君を打ち子を打ち灼けるごとき掌よざんざんばらんと髪とき眠る*しらかみに大き楕円を描きし子は楕円に入りてひとり遊びす*ゆく道に独活はさびしき人に似て束ねられてゐる夕ぐれのくに*水蜜桃(すいみつ)の雨のあを実のしろうぶ毛ふれがたくしてひとずまわれは*死ぬことが大きな仕事と言ひゐし母自分の死の中にひとり死にゆく*新聞紙かぶりて寝をり裏山がゆっくりと息するを身に感じつつ*とかげのやうに灼けつく壁に貼り付きてふるへてをりぬひとを憎みて*睡いねむい私のからだは背屈(くぐま)り鉛筆につかまって指さき動く*蝕の夜の女人の影の重なりの重なる闇ゆ鶏(かけろ)は鳴けり*手をのべてあなたとあなたに触れたきに息が足りないこの世の息が (『蟬声』、辞世) そう誰もが「先生」ではなく「裕子さん」と、親しみを込めて呼んでいる。多くの人に支持され愛された歌人はたくさんいるが、こんな人は他にいないようだ。「偲ぶ会」に当って、永田氏がエッセーにその辺りのことを詳しく書かれている。日本中の短歌愛好家が、どれほど彼女の死を悲しんだのか、どれほど多くの人に愛されていたのかがよくわかる。拡大します。 今年は短歌に対し新鮮な気分で歌を詠んでいきたい気になっている。それで、地元の図書館の短歌研究会に参加してみようと思う。そんな想いと重なって、このような歌人を身近に感じるようになっている。 河野さんの死後に見つかった日記をもとに、永田さんが2人の青春を振り返った『あの胸が岬のように遠かった』(新潮社)を刊行している。 死去の後、遺品を整理する中で十数冊の日記を発見。「すぐに開くことはできず、10年ほど経ってから読み始めた」というそれには、高校生の頃から大学時代に2人が出会い、やがて結婚するまでの7年間の濃厚な時間が残されていた。彼女の心の中に「N」という青年の存在があった。 永田さんは短歌結社「塔」を主宰し、宮中歌会始選者を務めるなど歌人として活躍しながら、細胞生物学者として世界的な業績を収めてきた。「河野と出会い、かけがえのない時間を過ごしたことが、自分の人生の中で大きな意味があったと思います」と。 文芸雑誌「波」での連載時から話題を呼び、テレビドラマ化されて昨年の3月にNHKBSで放映されている。 永田氏の映像はYouTubeなどで観られるのに、河野裕子さんのものがまったく無いのはどういうことだろう。ご本人が認めなかったのだろうか。声を聞いたことがないので、その語り口を聞いてみたいのだが・・
2023.04.08
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♪ ゆうべ見し夢が重なりゆくように文字に昇りく鏡花の世界 読むべきものを前にして、そのいずれもが面白そうでウキウキ、わくわくしている。今日も明日も冬型の気圧配置で北西の風が強く、寒い一日。 こんな日は、炬燵にぬくぬくしながら本など読んで過ごすのが、老人の心と身体にとってはモアベターであり、正しい時間の食べ方なのです。「文藝春秋3月号」は、芥川賞受賞の2作品が全文掲載されている。これは昨日買って来たばかりで、他の記事をパラパラとめくって読んでみたりしているところ。 「梶山秀之」についての随筆があって、彼の本は読んだことがなくポルノ作家ぐらいにしか認識していなかったことが恥ずかしくなった。 あの文春砲を当初から打ち続けていた「梶山軍団」のリーダーとして活躍。それだけでなく、自動車業界「黒の試走車」を書き、産業スパイ小説という新分野を開拓。小説誌、週刊誌、新聞を舞台にジャンルも多彩。流行作家にのし上がったて、月に1千枚、最高で月産1千3百枚を記録したというから恐れ入る人。 昭和44年の文壇の所得番付で、松本清張をおさえて一位になっている。そして、「先輩作家の書いた恋愛小説を読破し、そこに欠如しているものが、セックスにおけるノウ・ハウと看破。《同じ書くなら、現代で考えられうる、あらゆる変態性欲の生態を火薬のように詰め込んでやる。世の偽善面したやつらの前で、大爆発を起こしてやれ》と、その分野に切り込んでいったという。 取材先の香港のホテルで突如吐血し、死去したのが享年45歳だった。生前、総計で11万2千6百12枚を書き、死後も120冊以上が文庫化され、累計130万部を超えたという。 こういう話がつづられている巻頭随筆は、いつも最初に読む。今「舞い上がれ」にも出ている「松尾諭」も寄稿していて、自身が忙しい中で小説を2冊出した経緯などが書かれている。 「GLOBE」には、死んだ人の亡骸を文字通り “土にして大地に返す” という、画期的で理想的な手法が紹介されている。埋葬のあるべき姿に、我が意を得たりとばかりに手を打った。いずれ詳しく書きたいと思う。 好きな泉鏡花の今回は、現代語に訳されたもの。その絢爛で幽玄な、鏡花独特の文章は現代語に訳されたからと言って色あせるものではない。古い書物にはかながふってあるのが目障りで、それが無い方がスラスラ読めると思うがしかたがない。 状況描写にうっとりしながら、懐古趣味でもないのにその言葉の操りにつられて面白く読んでいる。もう終盤に差し掛かっていて、貸出期間を延長してもらいもう一度あたまから読み返そうと思っている。
2023.02.20
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♪ トルネード、マサカリそしてサブマリン ドーンと個性が光っていたっけ 梅雨時は家に籠っていることも多くなる。そんな時は読書にいそしむいいチャンスでもある。今を名を馳す作家の登竜門である「芥川賞」を、文藝春秋掲載時とおなじ審査の経過とともに網羅してある「芥川賞全集」というのがある。そんなのがあることを最近知った。 読書にいかに疎いかの恥をさらすようだけども、事実だからしょうがない。高井有一の本を読んでみたくなり、図書館で検索したら出てきた中の一つにこれがあった。受賞作「北の河」は、1965年第54回の受賞だったが、そんな古い本はことごとく閉架になっている。しかし、この全集は日本の小説コーナーにデーンと鎮座していて、いつでもすぐに借りられる。柴田翔の「されど われらが日々」もこのとき読んだ。 それで気をよくして、次はもう少し新し目の平成6年(1994年)第111回受賞作品から掲載されている「十七巻」を借りてきた。28年前からの受賞作は、読んではいないがよく知っている題名と名前が並んでいる。 ずっと小説を読むという趣味はなかったし、文学というものには縁遠くて年に数冊読むか読まないかという程度だった。しかし、ブログで毎日文章を書くようになってからは、小説というものに興味が湧いてここ最近は受賞作掲載の文藝春秋を毎回買って読んでいた。 しかし、最近の小説には何か物足りない感じがするのは、自分が年を取ったせいだと思うに至り、もう少し前の、自分が40代のころのものを読んでみたくなった。好きな時代の興味ある作家の出世作を自由に選んで読めるというのは有難いこと。この年になって、その作家たちの若かりし頃の作品に触れ、自分の心が若返えっていくのが分かる。6本の内の5本目。あっさりなくなった。 今回は先ず川上弘美の「蛇を踏む」から読み始め、柳美里の「家族シネマ」を読んだ。次は辻仁成の「海峡の光」を読もうと思う。ソファーで読んだり仕事部屋の机で読んだり、ベッドで寝転んで読んだりと、その時の時間と気分によって場所を変えて・・・。 選考の評が文藝春秋に掲載されたそっくりそのまま載っているので、それぞれの選考委員によってこうも評価が分かれたのかと驚かされる。時代によって入れ替わっている選考委員の個性も、そこにそのまま表れているのが面白い。 巻末には受賞作家の年譜も網羅され作家のその後の足跡を知るのには便利この上ない。このシリーズにはまさに文藝春秋の姿勢と意気込みが込められ、日本文学の過去と未来が凝縮されている。 * ウクライナ応援の思いを込めて、背景を国旗の色にしています。
2022.06.22
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♪ 圧倒と破格の出会いアマゾンの画文に浸る炬燵に入りて 「ピラルクー」という孫が気になっている淡水魚最大の魚。開高健の「オーパ!」という本が手元にあるので、切り取ってあげると言ってあった。1978年出版で、「PLAYBOY日本版」連載当時から大きな反響を呼び、発売後には社会現象にもなったものだ。3年後には18刷までされれ、2021年1月には完全復刻眼が出ているぐらいのものだから、その人気たるやまったく衰えを知らない不朽の本だ。 そんな本を安易にページを切り取ってやるというのは、ファンからしたら鼻つまみ者だろうなぁ。 オーパ! 何事であれ、ブラジル人は驚いたり感嘆したりするとき、「オーパ!」という。 本の内容を書いていくととんでもなく長いものになりそうなで、写真だけにしておきます。順不同で、ランダムに載せますが、どのページも男があこがれる刺激的な内容にあふれていて、復刻版ができる理由も分かります。自分が出来ないことへの憧れと嫉妬が、逆惚れという形になっているのでしょう。 本文のあとの「蛇足」で、『この時点で「今から20年前にはサンパウロ周辺の川にも魚がたくさんいて、たとえばアカリなどは川底がまっ黒に見えるぐらい棲んでいた。しかし、汚染ですっかり姿を消してしまった。」という話が出てくる。こういう、魚が小さくなった、少なくなった、姿が見えなくなったという話を地球の裏側まで出かけていって聞かされると、親しさ(?)と同時に底知れぬ恐怖や憂鬱をおぼえさせられる。いよいよ地球もおしまいかと、考えさせられるよりさきに、痛覚として感じさせられるのである。』とあって、なんとも不自然な存在の人間が自然と織りなす悲喜こもごもを、痛く考えさせられて、後を引く。 今では、相当な奥にまで行かないと見られない貴重な魚となっていたり、不法伐採などが横行してアマゾンの木が、森が失われているという。また、砂金を取るため水銀を使い川に捨てるために、貝や魚に水銀が蓄積され、アマゾン川の水銀汚染問題が深刻になっているという。 1964年11月、朝日新聞社臨時特派員として戦時下のベトナムへ行き、最前線に出た際に反政府ゲリラの機銃掃射に遭う。総勢200名のうち生き残ったのは17名で、一時は「行方不明」とも報道されるも辛くも生還している。この時のルポタージュ、『ベトナム戦記』を発表、その後3年をかけて凄烈な体験をもとに小説『輝ける闇』を執筆。『夏の闇』『花終わる闇(未完)』とともに3部作。 帰国(1965年2月24日)後は小田実らのベ平連に加入して反戦運動をおこなうも、ベ平連内の反米左派勢力に強く反発し脱退。過激化する左派とは距離を置くようになる。 釣りキチとして日本はもちろんブラジルのアマゾン川など世界中に釣行し、その名を高らしめたのがこの「オーパ!」や「フィッシュ・オン」だ。食通でもあり、この本の中にもそういう話が八章の「愉しみと日々」に出てくる。 最後のページがいかにも開高健らしい。「飲むだけ飲み、食べるだけ食べ、人びとは眉をひらきにひらいて微笑して手をふり、東西南北へ散っていった。空と地平線にそそりたっていた、塔のような、帆船のような、大爆発のような積乱雲は輝かしい白皙を失い、たれこめる雨雲に犯されて,夕陽があちらこちらに傷のように輝いている。私はナイフの刃についた脂と血を新聞紙でぬぐって革鞘に納める。 暗くなりかけた木立のなかをゆっくりと歩く。土が匂い、葉が匂う。これからさき、前途には、故国があるだけである。知りぬいたものが待っているだけである。口をひらこうとして思わず知らず閉じてしまいたくなる暮らしがあるだけである。膨張、展開、奇異、驚愕の、傷もなければ黴もない日々はすでに過ぎ去ってしまった。手錠つきの脱走は終わった。羊群声なく牧舎に帰る。 河。森。未明。黄昏。 魚。鰐。花。 チャオ!・・・」 太く短く生きた開高健に、「オーパ!」と声を上げて盃をかがけることにする。 孫にはピラルクーの画像をネットで検索して、ケント紙にコピーしてあげようと思う。
2022.02.10
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♪ 冬ならば寄せ鍋がいい食うたびに違う食感ベストセッセイ 自分はエッセイを書いてる意識など全くないけれど毎日こうして文章を書いているので、エッセイストみたいだと言ってくださる方がいる。単に日記の延長で書いているに過ぎないのだが、内容は確かにバラバラだしたまに文体を変えたりもするので面白がってくれているようです。 そんなことが関係しているわけでもないのですが、エッセイ集を読むのが好きで時々図書館で借りてくる。今は2017年版の日本文芸家協会編の「ベストエッセイ」を読んでいる。新聞や雑誌などに掲載されたものを拾い集めてあり、その書き手は千差万別で内容もバラバラなところがいい。脈絡なく次の文章へと移っていくのが、文章が比較的短いものが多いので寄せ鍋をつついている感覚に近い。 おもしろい話ばかりだが、高橋源一郎の文章にこころをいたく揺さぶられた。 次男に脳障害の危機がおとずれ、医師に「おそらく重度の障害を背負って生きることになるだろう」と言われる。それまでは、親戚にそういう子供がいて、その子の話はしないし会いたくもないと思っていた。自分の子供がそうでなくてよかったと心底思う。久しぶりに祖母に会っても、誰だか分からず、人間もこうなってはお終いだなぁなんて思っていた。 それが、医師の言葉を聞いて、混乱し否定しようとし、それでも最後に、そのすべてを引き受けようと決心する。その瞬間、人生で一度も味わったことのない大きな、「喜び」と呼ぶしかない感情が溢れたという。なぜあれほどの「喜び」が生まれたのか。次男が急性の小脳炎になって生死の淵をさまよっていたとき、「弱さの研究」を始めたのは、その理由を知りたかったに違いないと気付く。 それから今まで自分の知らなかった場所に出かけ、社会から「弱者」と呼ばれる重度の心身障害をもった子の親、筋萎縮症の難病をもち仕事を辞めて24時間介護をする父親に話を聞いた。その二人ともが、自然に、当然であるかのように(打ち合わせをしたわけでもなく、そのような話しを促したこともなく)、「いい人生です。わたしは感謝しています。素晴らしい子どもです。もし、彼(女)にあの運命が訪れなかったら、わたしはいまよりずっと傲漫な人間だったでしょう。彼(女)のおかげで、わたしはやっと、他人の苦しみを理解できる人間になることができたのです」 そのことがいえるまでに、多くの時間がかかったのは事実だ。こういう風にいえない人もたくさんいるだろう。でも「それ」はあるのだ、起こるのだ。「弱さ」のほとりでは。「考える人」冬号 と、ここまで書いてネットでググってみたら、彼は離婚歴4回もあり、5人目の妻という事になる。離婚原因が彼の浮気というのがほとんどらしい。そして、人生相談ではこんなとんでもない回答をして、世間から批判を浴びたりします。拡大します この他にも、ギャンブル依存症についてのご質問に「依存症の患者は、ギャンブルの何に惹(ひ)かれるのだと思われますか?理解し難いかもしれませんが、実は「徹底的に負けること」です。負けて負けて負けて死に近いところまで行くこと。それが、彼らの(無意識の)願望です。そこまで追いこまれ、ぎりぎりのところで死から生に戻ってくる。」なんていう回答をして、「ギャンブル依存症問題を考える会」代表、田中紀子氏に「私が目にした中で、史上最悪の、無知と無理解、その上、無責任で残酷な回答だと思いました。」と言わしめている。「エッセイにも嘘が混じる」というのは以前にも書いたことがありますが、人間は多様性のある生き物ですから、一つや二つの面をみてその人を判断することはできません。たとえ評価することがあって、評価するのはその人間の一部分を評価するに過ぎない。千人1万人の人全部を納得させることなど出来ない以上、批判を恐れず自分に正直であることがもっとも重要なことだと思う。 世間の目を忖度して、本当のことを言わない人が世の中には溢れていて、さもそれが当然と考えている。 この「ベストエッセイ」は様々な分野の人が、様々な視点でその人なりの意見なり感想を述べているという意味で、人間の多様性のほんの一部でも垣間見られるところが面白いのです。たとえそこに少し嘘が混じっていたとしても。
2022.01.29
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♪ バーチャルのショップ立ち上げ視界なき海へそーっと笹船を出す「草枕」の冒頭部分は、“智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい。” と、七五調でリズムよくシビアな世相描写から始まって、ググーっと襟元を掴まれる。 異国の文化に接したことで必然的に持って生まれた才能が湧きあがって、至高の日本文学をものにすることになったのでしょう。 初の小説「吾輩は猫である」の翌年に「坊っちやん」を出し、その5か月後に6冊目の本として出版された。日本語の最も特徴的な韻律を、いつか使いたいと思っていたのだろうか。 次へ進むと七五調はなくなって、“住みにくさが高じると、安い所へ引き越したくなる。どこへ越しても住みにくいと悟った時、詩が生まれて、画ができる。”と、有無を言わせぬ説得口調になって迫って来る。 私は漱石の本の中で「草枕」が一番好きだけれども、その「智と情と意」について難解な言葉を駆使して続けられる文章は一度読んだだけでは理解できない。そこがまた噛めば噛むほどに味が出てくるスルメの様で、飽きてしまうということがない。 そんな「草枕」が頭の中に住み着いていて、脈絡なくこんな文章に引っかかったりする。「私は貝になりたい」というフランキー堺主演の映画があったけれど、「カタツムリになる」というのも良いかもしれない。「殻に身を潜めて、やかましい連中を黙殺できるし、蹴飛ばされてもすぐまた地面にそっと密着できる」というところで、安倍元総理を思い浮かべてしまったのは脳のいたずらでしょうか。「草枕」では、シェレーの雲雀の詩を思い出して暗唱したその詩が紹介され、その訳がこれまた七五調になっている。「前をみては、後えを見ては、物欲しと、あこがるるかなわれ。腹からの、笑といえど、苦しみの、そこにあるべし。うつくしき、極みの歌に、悲しさの、極みの想、籠るとぞ知れ」こうしないと詩にならない。 カール・ブッセ「山のかなた」の上田敏訳も七五調で、そのリズムは演歌にも交通安全標語にも受け継がれていく。 フランシス・ポンジュの「確実でもの静かなこの前進の態度以上に美しいものはない」、これを七五調にアレンジしてみると、「確実にしてもの静か この前進の態度こそ 生きるにまさる美はなかり」 ああ、またあの難解な文章を読みたくなった。
2022.01.27
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♪ 類が呼ぶ柵なんか捨て去って自然と語り酒と遊ぼう「吉田類の酒場放浪記」でおなじみの吉田類の著書「酒場詩人の流儀」を読んだ。あの酒場で飲んでるだけの顔の大きないかつい男が何者か全く知らずにいたので、心底驚いた。この本は「新潟日報」の朝刊連載にされた「晴時計」「酒徒の遊行」と、夕刊連載の「酒縁ほっかいど」をまとめたものらしい(2011年~2014年)。スペースの都合で文章は短いが、端的に無駄なくまとめられていて小気味いい。 彼は、海外滞在を経てある時期に旅へと関心が移っていき、北海道のすばらしさを知って以来、北海道の雄大な自然と湧き水の虜になってゆく。大雪山に遊び、登山の趣味もいや増す中で全国を飛び回って、主催する句会や仕事の仲間との交流や旅が、人生そのものの柱になって行く。そこに欠かせないのが「酒」というわけだ。 新聞連載を意識しすぎの感があるものの内容は多彩で、旅と酒と俳句はもちろん、山歩きや渓流釣り、映画や音楽、古代史などにも及んで、その守備範囲の広さと博識なことに驚く。イラストレーターが本業という割にはその手の話はあまり出てこない。「吉田類の酒場放浪記」(BS-TBS、毎週月曜21:00-22:00) 3歳の時に父親と死別。小学生の頃に絵を習い始める。初めて俳句を詠んだのも小学生の時。かねてから憧れを抱いていた京都に小学校卒業と同時に移り住み、中学・高校時代を過ごす。その後ニューヨークやヨーロッパ等を放浪しながら絵を勉強し、シュールアートの画家として主にパリを拠点に約10年間活動。30代半ばで活動の場を日本に移し、イラストレーターに転身。1990年代からは酒場や旅に関する執筆活動を始めるかたわら、俳句愛好会「舟」を主宰。 また登山も趣味にしており、テレビ番組の企画等で山に登ることも多い。「吉田類のにっぽん百低山」など。独身・一人暮らし。「類」の名前は通称(Wikipediaより)。【目次より】I 酒徒の遊行聖なる酔女/危機と向き合う/心が通う瞬間/ファーブルの丘便り/老ハンターの教え/新潟美人論/天使の分け前/イワナの影を追って/幻からの生還/県民性って何だろう/富者の品性/もっと夕陽が見たくて ほかII 猫の駆け込み酒場黒潮の匂う岬/揚羽蝶の幻影/翡翠を抱く姫/流氷に乗った天使/天空の落人ルート/被災地の春雨/美しき菩薩の彫像/酔い酔いて雲の峰/夏空に消ゆ/旅人の視点/ディオニュソスの一夜/古事記伝説の地へ ほかIII 酒飲み詩人の系譜淡雪の夢/月はおぼろに千鳥足/日本海のエキゾチックな風/ああ、愛しのぐい呑み/四万十川の揺り籠に揺られて/星と通信する男/されど大衆酒場考/歌は楽しからずや/酒縁の到る処に青山あり/でも越後の地は麗しい ほかIV 酒精の青き炎神々の遊ぶ庭/めざせ北の酒どころ/かっぽ酒にほろ酔う/寒風に挑む“輓馬"/アルプスの日々/民謡は北前船に乗って/酒精の青き炎/北の大地の光と影/妖精の棲む森へ/白銀の愉しみ/祭りのルーツ/春は小走りに北上す ほか 俳句が載っているのは最初の章だけで、その後は一切掲載されなくなっているのが残念だ。 飼い猫の話が2度出てくる。ほろ酔いで帰宅中に拾った子猫が寂しがり屋で、一人ぼっちにさせられず一心同体で登山や渓流釣りにも同行し、八ヶ岳、東北、北海道と長距離旅をしている。同行した旅行期間は十数年にもなるという。類は友を呼ぶのか。 後年、仕事の事情が変わって猫を残して外泊すると、そのたびに猫は睡眠も食事もとらないことが判明している。オス猫で毛の色から「からし」と名付け、ある時、「1回きりでいいから人の言葉でしゃべっておくれ。神様には内緒だかね」。すると「にゃもらみにゃらむにゃ」と、およそ猫とは程遠い声を発したという。その後、いたずらっ子のような仕草で膝の上から逃げ去って、それ以後は一度もそんな声は出さなかったと。 独身であるがゆえに許されることも多いだろ。「吉田類の酒場放浪記」ではただ酒を飲んで肴をつまむ姿しかない彼だが、この本のガタイに似合わずなんとも人間味のある話の数々。読み終わった後、俳句と酒、登山と旅という、男の愛するものにとっぷり浸かった人生に、こころがが震えるほどの羨ましさが私の体中に広がっていた。奇しくも、私と同じ1949年生まれ。
2022.01.22
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♪ 知られざるもの多くして神秘なる付加価値もちて死にゆくもよし 昨日4日のつづきです。どうしても書いておきたかったのがまだあってのことで、どうぞ悪しからず。 パガニーニは同時代の音楽家(ツェルニー、ロッシーニ、シューベルト、ベルリオーズ、ショパン、シューマン、リスト、ブラームス、ラフマニノフなど)、そしてそれ以降の音楽家に多大な影響を与えている。当時の演奏を聴いた著名な音楽家(作曲家)の逸話が残されていて、それだけ見ても如何に彼が凄い音楽家だったかが分かります。「パガニーニの影響を受けた音楽家たち」■フランツ・リスト:『私は“ピアノのパガニーニ”になる』 ウィーンでパガニーニの演奏を初めて聴いた若き日の青年リストは、その神業的なヴァイオリン演奏妙技に衝撃を受け思わず、ひと目もはばからずにそう叫んだという。 その後、一日の半分を練習室ですごしひきこもるようになる。 毎日ピアノの猛特訓に明け暮れ、超絶技巧の世界にのめり込んでいったリストは やがて、≪パガニーニのラカンパネラの主題による華麗なる大幻想曲op.2≫ を作曲している。■フランツ・シューベルト『こんな桁違いの天才は、もう二度と現れないだろう!』 パガニーニの超絶技巧を見終わったシューベルトがこう叫んだと伝えられている。それは1828年3月29日のウィーンでの出来事であった。その時演奏された作品は「ラカンパネラ」の原曲、「ヴァイオリン協奏曲第2番 ロ短調 op.7」だった。■ジョアキーノ・アントーニオ・ロッシーニ オペラ王として一世を風靡したロッシーニは、生涯たった三回しか泣かなかったが、その一回はパガニーニの演奏を聴いて号泣した時だった。■ロベルト・シューマン『若いイタリア人作曲家の中でも最高水準』 彼(=パガニーニ)の作曲した「カプリース第2番」の主題だけでも、芸術家としての地位はゆるぎないものだと悟った。シューマンは法科大学に在籍し、法律家になるか音楽家になるか悩んでいた。彼が音楽家の道を選ぶきっかけとなったのが、フランクフルトで聴いたパガニーニの演奏だった。 晩年、精神異常をきたして、真冬のライン河で投身自殺を図り精神病院に収容されたシューマンが、死の直前に最後の情熱を傾けたのがパガニーニの「24のカプリス」のピアノ伴奏付の編曲だった。■フレデリック・ショパン ショパンが19歳の時が初めての出会いで、ワルシャワでの11回の公演のほとんどすべてを聴きに行っている。初期を代表する技巧的な作品「12の練習曲集」作品10を書かせることになった最大の動機は、パガニーニの超絶技巧だったと見られている。■カール・ツェルニー『世界中どこを探しても、あの青白い病弱な男ほどヴァイオリンという楽器でたくさんのことをやってのけた芸術家はいない。かれはどんなピアノよりもうまく高音のパッセージを弾きこなしたが、あの純粋で透明な音色はピアノならばモシュレスかカルクブレンナーほども名手しか実現できないものだ。あの感激は一生忘れない。一度聴いた人は誰しもがそうに違いない。』■ヨハネス・ブラームス『ヴァイオリン作品としては当然のこと、音楽作品としても偉大な才能』 パガニーニの「カプリース」を聴いて、こう述べた。■エクトル・ベルリオーズ『まるで彗星だ! あんなに忽然と芸術の大空に炎をあげて登場し、その長い軌道上で戦慄のような驚きを与え、そして永遠に消え去った天体はいまだかつてなかった』『ひとりの男がホールで私を待っていた。鋭い目、長い髪、人間離れした顔の男…かつて目にしたことのない、一目見るだけで心をおののかせた、モノに憑かれた天才…、、、それがパガニーニだった』オペラ作曲で有名なベルリオーズが、親友でもあったパガニーニとの出会いをこのように語った。■フランツ・シューベルト『わたしは、彼のアダージョに天使の声を聴いたよ…』 パガニーニのみごとな演奏を聴き終えたシューベルトが、感激と感嘆とともに吐いたセリフ。 金銭に関して後先考えず無頓着な彼は、その時のパガニーニの高額なチケットを買うために、自分の家財道具をなんの迷いもなく売り払ったという。 しかも自分の分だけでなくその金で友人の分まで買い与えたという。 しかし、パガニーニの派手な超絶技巧に対してではなく、あくまでも “アダージョ” の音色の美しさ、むせび泣くような “カンタービレ” に感動している。歌曲王にして史上最強高ノメロディーメーカーと評されたシューベルトさえこうだった。■ロドルフ・クロイツェル(フランスのヴァイオリニスト)『難しいパッセージを「二重音」や「フラジオレット奏法」で以っていとも簡単に弾くので、私は大いに驚き、まるで悪魔の幻影でも見ているかのように錯覚した』 ドイツの詩人ハインリヒ・ハイネの「フローレンス夜話」で、主人公が聴いたハンブルク公演の印象を語るシーンに書いた。「地獄から上がってきたようにみえる黒い風体の人間が舞台に現れてきた。それが黒い礼服に包まれたパガニーニであった。黒の燕尾服と黒のチョッキはおどろおどろしい形で、地獄の作法によって決められたペルセポネーの館のものであるかのようだ。やせこけた足のまわりで黒いズボンが落ち着きなくだぶついていた。彼が一方の手にヴァイオリンを、もう一方の手に弓を下げ持って、ほとんど地面に触れそうになりながら、聴衆を前にしてとてつもなく深いお辞儀をすると、彼の長い手はいっそう長くなったように見えた。あの懇願するような目つきは瀕死の病人の目つきなのであろうか。それも、そこにはずる賢い守銭奴のあざけりの下心が含まれているのであろうか」 パガニーニがウィーンに到着したときはすでにモーツァルトもベートーベンもいなかった。ベートーベンはその約1年前に亡くなっている。
2021.12.05
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♪ オペラ座に湧きあがりおる熱水の黒く冷たきパガニーニの血よ クラシック・ファンならニコロ・パガニーニの名前を知っている人は多いでしょう。私も超絶技巧のヴァイオリンの名手だということは知っていました。フランツ・リストの「ラ・カンパネラ」を超絶技巧のピアノ曲だというところまでは知っていても、原曲がパガニーニのヴァイオリン曲だと知っている人は少ないのではないでしょうか。 リストと言えば「超絶技巧」「ピアノの魔術師」などといった言葉を連想しますが、そもそも超絶技巧を目指したきっかけは、ニコロ・パガニーニのヴァイオリン演奏を聴いたことが始まりと言われています。その時彼は「私はパガニーニになる」と言ったそうです。 右はドラクロアによる《ヴァイオリンを奏でるパガニーニ》 この本は面白かった。日本初のパガニーニの伝記として書かれたもので、全身黒ずくめで「悪魔」というイメージを利用してブランディングに徹した、天才の生きざまを綴ってその類まれな天賦の才能を余すところなく描いて見せてくれる。 1782年生まれで、5歳の頃からヴァイオリンを弾き始めた。父親が才能に気づき金が稼げると思って師につかせ本格的に習い始める。13歳になると学ぶべきものがなくなったといわれ、その頃から自作の練習曲で練習していた。それら練習曲はヴァイオリン演奏の新技法、特殊技法を駆使したものと言われている。 蜘蛛のような腕が異様に長く、やせ細った不気味な風貌と無表情で無口。黒いマントに身を包んで、ロウソクが灯る薄暗い舞台に登場し、固唾をのんで静まりかえる観客をじろりとにらみつけると、観客は震えあがったという逸話を聞くだけで、興味をそそられる。 詳細は本に譲るとして、印象深かったことを書き記しておくことにします。先ず病弱だったということに驚いた。(幼少時に重度の麻疹(はしか)で体が膠着して動かなくなり、両親が死んだと思って白布に包むとピクピクと動き出したというエピソードがある) その彼が19世紀のヨーロッパを熱狂させ、魅了させてパガニーニ現象(パガニーニ・ショック)をもたらし、当時の音楽家のみならずその後の名だたる作曲家に多大な影響を及ぼしたという事実を知ってただもう畏まってしまった。そして、ひれ伏すように彼の虜になってしまった。19世紀のヨーロッパ イタリアという国がまだ存在せず、ローマ、ベネチア、ナポリなどと並んでジェノバという都市国家に生まれ育ったパガニーニ。1797年にナポレオン軍によって統一され、リグーリア共和国となり、イタリアという統一国家が誕生したのは1861年(明治維新の7年前)、パガニーニ没後21年後のことだ。 1789年のフランス革命がきっかけとなったと言われるが、その時彼は6歳でヴァイオリンの才能を発揮し始めたころという。 その超絶技巧には見る者を魅了して心を鷲掴みしてしまうという凄さは、今の時代でも彼を超えるものはない事からすれば、当時としてはとんでもない事だっただろう。14歳の時、街の貴族の詩人宅であった晩餐会で、その驚異的な腕を披露。さまざまなメロディを困難な二重奏で演奏し、さらに、その途中にフラジョレット(倍音奏法)の速いパッセージを挿入して驚かせている。 彼の特徴の、高速スタッカート、スピッカート(弓を弾ませる)、ダブル・フラジョレット、左手のピチカート、広域にわたるアルペッジョ、スコルダテゥーラ(変則調弦)など特殊奏法のオンパレードは彼独自のものと言われるが、オーギュスト・フレデリック・デュランという当時のヴァイオリニストからヒントを得たともいわれている。 若いころはイケメンだった彼は多額の報酬も得るようになり、博打と女に狂う時期があった。一旦(1801年)数年間を田舎に引きこもった後、1804年に宮廷楽士のの職に就く。そこからは破竹の勢いで名を馳せて、ナポレオンの2人の妹と浮名を流したりしている。 4本の弦のうちG線(最も太い)とE線(最も細い)だけで男女の愛憎を表現して見せたりし、1本でもできるかと言われて後にナポレオンの誕生日に披露したのが、ヴァイオリン(5弦)とオーケストラのための曲「ナポレオン・ソナタ」だ。1807年 ソロ・ヴァイオリニスト就任1808年1月1日 室内管弦楽団が解散し宮廷弦楽四重奏団となりヴァイオリニスト兼フェリックス・バッキオッキ王子のヴァイオリン教師に任命される。その立場に満足せず12月宮廷を去る1809年 更にヴァイオリン演奏法の追求に専念する1813年10月29日 ミラノのカルカノ劇場での演奏会は批評家をして世界一のヴァイオリニストと称賛される。ミラノにおける37回の公演は全国の注目を集める1816年 ミラノのラフォントに住む1818年 ピアチェンツァのリピンスキに移住1820年 慢性の咳などで体調不良となる1823年 梅毒と診断される1824年 のちに愛人となる歌手のアントニア・ビアンチに出会う。翌年二人の間に息子アキル出生(1837年認知)1825年 健康状態の不安定は続く 年譜はWikipediaのもの その後、イタリア半島での演奏ツアーを始めいよいよ「比類なきキャラ」を確立してゆく。「無伴奏ヴァイオリンのための二十四のカプリス」やいくつかの変奏曲を除けば大衆を唸らせるものがなく、何かが足りないと気付いた彼は、技巧だけでなくいかに自己を演出するかを考え、自作のヴァイオリン協奏曲の制作に取り掛かっていくことになる。 現在、6曲のヴァイオリン協奏曲が知られていて、この時期に作られているものばかりとか。 著作権など存在しない時代なので、勝手に使われたり盗作されたりするのを恐れ、演奏会のたびに自作の譜面をオーケストラのメンバーに配り、パート譜を配るのは演奏会の数日前(時には数時間前)で、演奏会までの数日間練習させて本番で伴奏を弾かせ、演奏会が終わったらか自ら回収していた。オーケストラの練習ではパガニーニ自身はソロを弾かなかったため、楽団員ですら本番に初めてパガニーニ本人の弾くソロ・パートを聞くことができたという。Niccolo Paganini Violin Concerto No.1 María Dueñas 16 years old You TubeへDima Slobodeniouk conductor、Lahti Symphony Orchestra 16歳とは思えない堂々たる演奏で、弓の“馬の尾毛” が何本も切れ、パガニーニが好きでたまらないという風な熱演に、思わず引き込まれてしまった。 1827年。ローマ教皇レオ十二世から「黄金拍車勲章」を授与され、悪魔ならぬ騎士(ナイト)となってイタリア半島を飛び出してヨーロッパ進出。栄光の名声を不動のものにしていく。1828年3月29日ウィーンでの公演は大成功を収め、皇帝フランチェスコ2世からセント・サルヴェーター勲章を受け巨匠の名誉を授与される。フランクフルト・アム・マイン、ダルムシュタット、マンハイム、ライプツィヒ、プラハと公演し1829年3月4日ベルリンデビュー1831年3月9日 パリ公演、6月3日ロンドン公演し1833年まで英国全土で公演1832年 ジェノヴァに戻る1834年 肺疾患により衰弱、20人の欧州の著名な医師が診察するも治療困難。パルマのヴィラでほとんど過ごし、時々パリを訪れる1838年 声が出なくなる1839年11月 健康の為ニースに行く1840年 春、上気管支炎、ネフローゼ症候群、慢性腎不全を患い亡くなる パリのオペラ座で11回の公演だけで16万フランも稼いだという。今に換算すると、ざっと1億6千万円ほどにもなるという。チケット代を通常の2倍にしても市民は競って買い求めたと言う。興行師などいない時代で、会場を探し、広告を出し、チケットを売り、プログラム構成や演出もすべてを自分でやったというからすごい。 既存のオーケストラがほとんどない当時は、基本的には演奏家自らが自腹を切って楽団員を集めてオーケストラを編成したという。1829年のベルリン公演では自作の協奏曲を演奏するため25人のオーケストラを編成したが、彼ほどの財力があっても25人が限度だったという。 オペラ座公演には毎回、音楽家はもちろん、画家、作家、詩人などの芸術家から、王侯貴族、政治家、銀行家まで、あらゆる階層の著名人が集まったという。 ある批評家・劇作家は、「所有物を売り払え。全部質に入れてでも彼を聴きに行け! 最高の驚嘆。最高の驚き。すばらしい奇跡だ。もっとも信じられないこと。最も異常で、かつ起こったことがないこと! タルティーニは夢で悪魔が悪魔のソナタを弾くのを見たというが、悪魔は紛れもなくパガニーニだ!」 と評している。24のカプリス パガニーニの演奏・楽曲は、リストやシューマンなど当時の作曲家に多大な影響を与え、以後様々な作曲家がその主題によるパラフレーズや変奏曲を書いた。特に『24の奇想曲』の最終曲「主題と変奏 イ短調」や『ヴァイオリン協奏曲 第2番』の終楽章「鐘のロンド」は繰り返し用いられた。【24の奇想曲 Op.1】*ロベルト・シューマン パガニーニのカプリスによる練習曲 Op.3 (6曲) パガニーニのカプリスによる練習曲 Op.10 (6曲)*フランツ・リスト パガニーニによる超絶技巧練習曲集 S.140 (6曲) パガニーニによる大練習曲 S.141 (6曲)*フェルッチョ・ブゾーニ パガニーニ風の序奏とカプリッチョ【第24番「主題と変奏」】*フランツ・リスト パガニーニによる超絶技巧練習曲集 S.140 より第6曲 イ短調「主題と変奏」 パガニーニによる大練習曲 S.141 より第6曲「主題と変奏」*ヨハネス・ブラームス パガニーニの主題による変奏曲 イ短調 Op.35(2巻)*セルゲイ・ラフマニノフ パガニーニの主題による狂詩曲 イ短調 Op.43(ピアノと管弦楽)【鐘のロンド】*フランツ・リスト パガニーニの「鐘」による華麗な大幻想曲 S.420 パガニーニによる超絶技巧練習曲集 S.140 より第3曲 変イ短調「ラ・カンパネッラ」 パガニーニによる大練習曲 S.141 より第3曲 嬰ト短調「ラ・カンパネッラ」(一般にピアニストのレパートリーとしての「鐘(ラ・カンパネッラ)」はこの曲を指す)*ヨハン・シュトラウス1世 パガニーニ風のワルツ Op.11 もし、今の時代にパガニーニが現れたら、いや、もし今がパガニーニの時代(日本で言えば江戸時代)だったら・・・ 明日につづく
2021.12.04
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♪ 夕映えや無数の無名の無意識の一人となりて歴史を刻む‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 雨が降り続いています。少し前線が下がって中休みかと思いきや、これから先もぐずついた天気がつづきそうです。20日(金)以降は、太平洋高気圧が次第に西へ張り出してくるため、前線は北の方へ押し上げられていく予想ですが、西日本には暖かく湿った空気が流れ込みやすくなり、週末にかけても強雨や大雨のリスクが続くらしい。 明日からの庇の工事はちょっと遅れることになりそうだ。小雨ぐらいなら問題ないが19日の06-12に3㎜、12-18に5㎜、21日にも12-18に5㎜降る予想があり、22日(日)は一日中そこそこの雨らしい。それに台風も心配だ。 大雨で避難を余儀なくされている方々には本当にお気の毒で心が痛みます。それを免れるなら、せめて読書に没入するのもいいかもしれませんね。以前のブログ(2019年4月28日)にはこの記事を添えてクダグダ書きました。今はコロナで外出も控えている人も多いでしょうが、誰とも会話を交わさずに過ごす方法としてこういうのもいいなあと思うんですね。お盆休みは終わってしまったけど・・・拡大します 天気が悪いのに真夏日となってかなり蒸し暑いようなので、環状線なんかに乗って本を読んで過ごすというのも案外良いかも知れない。図書館などは3時間までとか時間制限があったりします。地下鉄など一旦ホームに降りて気分転換し、別の電車に乗り直したりね・・・。 どどっと人が乗って来たり、さーっと降りて居なくなったりと、けっこう変化があって面白いんじゃない? 自動化されて切符には時間が記録されているだろけど、時間制限があるとは思えないけどどうだろう。知らない駅で一旦降りて散歩してお茶飲んで、また続けるっていう風にすれば問題ないし、それはそれでいいんじゃない? ちょっとぐらいの雨なら苦にならない。都会とその周辺の人、時間が有り余っている人に限るけどね・・・
2021.08.17
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♪ 真っ白な入道雲が変幻しどうだどうだと見下ろしている‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ “天才”アラーキーのエッセー集「荒木経惟 実をいうと私は、写真を信じています」を読んでいる。いろんな媒体に書いたものを集めたものなので、時代やテーマ、書いている年齢も、抱いている興味も私情も熱気も信条も変化に富んでいる。 電通の社員の身で、会社のスタジオを使って過激なヌード写真なんぞを撮っていて、上司に見つかり首になってから彼の写真まるけの人生が始まる。それが私が放浪の旅から帰って新しい仕事に就いたころと重なっている。自分の事で精一杯だったこのころ、彼の存在など微塵も知らなかった。80年代に入って、名前は知ることになるものの実態には触れることもなく噂を耳にするだけ・・。 図書館にたまたま企画コーナーに並べてあり、興味を持った。卑猥なことばや俗語がたくさん出てくるこの本を並べた司書に乾杯。こういう本は酒を飲みながら読むに限る。ボンベイサファイアをオンザロックでやりながら、工事の騒音の中でアラーキーの常識、良識を逸脱した世界へ、いざ闖入とまいりますか。冒頭の70年代後半の「写真術入門」は面白く読んだ。そのうち文章が怪しくなっていく。酔っぱらいながら書いているのか、下らんダジャレが頻発してクサくなった。90年代のものはさすがに面白い。写真を撮るだけ撮りまくって知り尽くした男の、本音と写真愛が筆に乗り移り、明確に持論が述べられていって読み応えがある。読んでいくにつれこちらの感性も揺さぶられ、ここの写真のようにかき乱されている。論理武装などせずにストレートに写真論を述べる。その実践に基づく言葉には説得力がある。彼はセンチメンタリストでその上にナイーブ。だからこそ写真が撮れる。その徹底的な写真愛に圧倒されて「ヤッタモンガカチ」を思い、止めなかったものが最後に勝つという王道をつくづく思い知らされている。 「写真には撮った本人が必ず出る」という。何をどう撮ろうとも、それを選んでシャッターを押した本人が感じたものがそこにはある。しかし、モノを見るときの脳は余計なものを見えないようにフィルターを掛けているので、見えなかったものが写っているということが往々にして起こる。だからといってそれは単なる偶然などではないし、ましてや神の力などでもない。 私もしょっちゅう写真を撮ってブログに載せているわけですが、日記としての記録という意味とインサートカット的な要素もあって、あまり良い写真を撮ろうとは思っていない。シャッターチャンスを無視しているわけはないし、それなりに取捨選択もしている。 撮った写真には私の目と心が映し出されているわけで、否応になしに私情が写り込んでいるわけです。
2021.08.02
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♪ 咲く花に心趣(こころおもむけ)匂わせる黄色いばらの咲く家のひと‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ カズオ・イシグロのノーベル賞受賞第一作「クララとお日さま」を読んだ。近未来のSF小説で、主人公はAF( Artificial Friend 人工親友)と呼ばれる人型ロボットのクララ。都市の雑貨店で売られ、召使として使われる。娘ジョジーのために買われていった家の日々の生活が丁寧に描かれていく。そのクララ特有の感性と学習能力でジョジ―の日常の様子を観察することで、よき理解者として、より人間を理解できるようになっていくクララ。幼馴染とのやりとりにおいても、間に入ってよき相談者となり援助していく。 AIがつかさどるクララの脳は、見るものすべてを変化し続ける「ボックス」に分割して再構成することで理解するように出来ている。心も持っていて、人間を理解しようとながらそれなりの良し悪しの判断もする。 太陽の光から「栄養」を得ているクララは、店にいたときも自分の立ち位置から、空を動くお日さまを見ており、迷信的ともいえるほどお日さまにすがろうとするところがある。ジョジーが困惑する状況に巻き込まれと神に似た力を求め、祈る姿が愛おしい。人間とロボットの中間に位置し、着かず離れずの様子がていねいに描かれている。 現在と同じ格差社会で、裕福な家の子どもは遺伝子編集を通じて知性の「向上処置」を受ける機会に恵まれ、処置を受けられない子には優れた大学へ進む道が閉ざされている世界。人工知能が日常的なものになる中で、人間の本質は何ら変わない様子が悲しい。 機械は人間と同じ前提に基づいて動くわけではなく、人間の欲望や都合をAIに投影することは危険だし間違っているということが、最後のところで提示される。テーマは、臓器提供者として育てられるクローン人間の生を描いた『わたしを離さないで』に近いものがあるようだ。 ちょっと冗長な感じがして最終章で、命の尊厳とは、人間らしさとは何かを突き付けてくるまで耐えきれない読者も居るのではないだろうか。 Knopf(アメリカ)出版 Faber & Faber(イギリス)出版 この赤い表紙から受ける印象はどうでしょう。日本の装丁と比べると、如何にも売るための脚色が顕著で、メルヘンチックな絵がイシグロのイメージとマッチしておらず、ちょっとやり過ぎの感がある。「時空を超えて伝わる『感情』を描き出す」『WIRED』VOL.19より転載されたもの上のインタビュー記事から抜粋 ここ数年、文学や映画が、単なる気晴らしである以上の役割を見出しづらくなっているように感じもしますが、わたしの作品は、「あなたがもし同じような状況にあったら、同じように感じますか?」という問いを、読者のみなさんに投げかけるものだと思っています。その問いを投げかけることがわたしの仕事なのです。そして、人びとがそうやって感情や想いを分かち合うことはとても大事なことだと思っています。 小説の主題となっている「感情」が適切に伝わることが、わたしには大事なのです。わたしが小説を通してやりたいのは、時代や空間を超えて伝わる「感情」を描き出すことです。それは、普遍的で、変わることのない感情です。それができていると自惚れるつもりはありません。むしろ、野心と言うべきもので、それがわたしが最初からやりたかったことなのです。 また、映像とくらべて小説は「記憶」を記述することに長けていると思います。記憶の曖昧さ、不合理さ、そのリアリティを、ことばは、むしろ映像よりも的確に捉えることができるように思います。小説においては特定の時代や空間が設定されますが、そうした設定自体が重要なわけではありません。そこで描かれる感情や記憶といった心の作用こそが大事で、そこにこそ普遍性があるのです。
2021.05.14
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♪ 歯応えの楽しみを知り生き越しの世に柔らかきものの溢れて‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ カミさんが、読み終わったのでどう?と、小川糸の「ライオンのおやつ」を勧めてきた。タイトルからすると何だか悍ましい感じだけど、どうもそうじゃないらしい。パラパラと捲ってみて、あんまり自分から進んで読むタイプの本じゃなさそうだ。 でも、「今年は今までとはちょっと違う生活を心がけよう」って思っているので、読んでみようかという気になった。 ホスピスで最期を過ごす女性の話で、亡くなるまでの1ケ月間の出来事が平易な文章で語られていく。その文章が私にはまだるっこくて、比喩のベタなところとか、子供の話し言葉に文章語の漢語が使われていたりすることとかが気になった。 淡々と良いことだけが描かれていることやその内容が嘘っぽく思えてしまうこともあり、ストーリー性に重点が置かれているせいか、登場人物の心を読者に想像さる余地なく文章で書いてしまったりするところがある。心の深い部分があまり詳しく描かれていないことにも不満が残った。少し教条的というか説明的なところがあり、教えてあげようようとする傾向もあってやや興ざめしてしまった。想定した読者が中高生くらいなのかも知れない。 読み終わってから小川糸がどんな人なのか作者紹介をみると、意外なほどに評価が高いので驚いた。オフィシャルサイト「糸通信」のプロフィールには・・・ 1973年生まれ。 2008年『食堂かたつむり』でデビュー。以降数多くの作品が、フランス語、英語、韓国語、中国語、スペイン語、イタリア語などに翻訳され、様々な国で出版されている。『食堂かたつむり』は、2010年に映画化され、2011年にイタリアのバンカレッラ賞、2013年にフランスのウジェニー・ブラジエ賞を受賞。 2012年には『つるかめ助産院』が、2017年には『ツバキ文具店』がNHKでテレビドラマ化された。 2019年『ライオンのおやつ』が「本屋大賞」第2位に。 その他著書に『喋々喃々』『ファミリーツリー』『リボン』『あつあつを召し上がれ』『にじいろガーデン』『サーカスの夜に』『ミ・ト・ン』など。 最新刊は『とわの庭』。 あの多部未華子が主演だった「ツバキ文具店」は観ていたので、この作者だったんだと今頃気付いて驚いている。 噛み応えのない材料で作られた、ちょっと甘みのある料理が好まれる昨近。そんな社会にリンクするように、平易で引っ掛かりのない文章が好まれる時代なんだと改めて思い知った。 私が図書館で借りる本はことごとく閉架にあって、ほとんど読まれなくなっているものばかりなので、こっちが如何に時代に逆行しているを思い知ったりもしている。 彼女の本がフランス語、英語、韓国語、中国語、スペイン語、イタリア語などに翻訳され、様々な国で出版されていることからすると、世界中が同じような傾向にあるということなのかも知れない。それが良いことなのか良くない事なのか、簡単に判断することは出来ないけれど、文章の読解力が落ちていると言われて久しい。 あまり本を読まない時代にあって、如何に読んでもらうかを小説家や出版社は否が応でも求められている。この本も出版社と綿密に打ち合わせした上で出来上がったものかも知れない。意に反して、不本意ながらもそれを受け入れて、売れる本、評価される本を書き続けている小川糸を悪く言うことは出来ない。「今年は今までとはちょっと違う生活を心がけよう」との思いがこの小説家と出会うことになったわけだ。こんな調子で、FB 仲間が信条の一つにしている「まず受け入れてみる」というのも、新しい自分との出会いのために心に置いている。
2021.01.14
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♪ フルートに付いて離れぬチェンバロの音懐かしく耳を離れず‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 小川洋子の「密やかな結晶」を昨日、ようやく読み終えたところ。馳星周の「少年と犬」の後だったこともあって、その架空の内容にちょっと戸惑った。ものは有るのに記憶だけが消えてゆくという状況を思い描くことが出来ず、読んでいるうちに眠くなったりするので、時どき疑問が湧いて少し戻って読み直したりしながら最後まで??が付いて回る感じの一週間だった。もう一度ゆっくり読み直す必要がありそうだ。 ある島で記憶狩りというのがあって記憶がどんどん消滅してゆくという話。秘密警察が監視の目を光らせている。次に何が消えていくのかは誰も分からない。そんな中で、その記憶の対象となったものをこっそり隠している存在と、記憶を失わずにいられるRという人物との関わりの中で様々な体験をして行く「私」。 タイプライターを習ってタイプライターに言葉を奪われ、その先生に幽閉されて声まで失い、最後は存在さえもなくなっていくて「私」が並列で語られていく。それは「私」が来ている小説で、失われていく話ばかりを書いているという入れ子の形になっている。 日本では1994年に発行され、今年ブッカ―国際賞の最終候補6作品に残った作品。受賞を逃したので話題にもならず、図書館の閉架に眠っていたもう忘れられているような本。翻訳者は「トランプ政権下で真実が失われ、コロナ禍で日常のあらゆるものが消え去るのを目の当たりにした。時を超え、異なる文脈で新しい意味を持った」「神話のような響きがあり、寓話(ぐうわ)でも、ディストピアでもある」と評している。 小川さん自身も、「未来を予言して書いたわけではなくむしろその逆で、アンネ・フランクの日記を土台にして、過去を向いて書いた。それがコロナの時代を迎え、じつは過去ではなかったと思うようになった」「時代は変わっている様でも人間は変らなくて、小説はその変わらないところを書いていくという気がしている」と語っている。 英題The Memory Police 当初5月に予定されていた受賞作の発表はコロナ禍で延期され、オンラインで8月26日に発表されたらしい。テッド・ホジキンソン選考委員長は「私たちは、みなが経験しているこのディストピアの時代に共鳴し、そのさらに先を行く時を超えた価値を持つ作品を求めてきた。そしてそれは十分に報われた」と説明している。 確かにこのコロナ禍で読むとリアルなイメージをもって読むことができて、失う事の意味を問いかけて来る。心の底の方にある「死」のイメージと触れ合ってもいるようでもある。 「生きるとは失う事」でもあって、「記録には残らないが、記憶に残るプレー」のように「記憶を生かせておく事」「記憶と共に生きること」が豊かに生きることの鍵なのかも知れない。 私は、忘れてしまわないよう記憶しておくために毎日、日記と共に短歌を詠んでいるのかも知れない。記録する行為は、記憶することに繋がっているとつくづく実感しています。
2020.11.07
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♪ かたわらに猫が寝ている朝のベッド泣きながら読む「少年と犬」‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 今年の上半期の直木賞受賞作品「少年と犬」。婆さまが借りて読み終わったのをまだ期間内だというので急いで読み始めた爺さま。同じ主人公の犬をテーマにした短編6編の本は、簡明な文章で簡潔に書かれていて、読むのが遅い爺さまでも3日ほどでほぼ読み終わるところまで来ていたようです。でも、最後の章は今朝、このブログを書くためにのために起き抜けに読んでようやく読了となったところです。 この最後の章の「少年と犬」が一番良かったらしく、途中から涙が止まらなくなっていた。そばに横になっている僕をときどき見ながら、顔両手で拭ったり洟をすすったりしていた。ネタバレになるので内容は言わないけれど、幼子と幼犬の出会いから始まったワンダーランドに最後は拍手を送っていた。 読み終えた爺さまは、そばで寝ていた僕もうらやましいような、嫉妬さえおぼえるような顔をし、背中をそっと撫でて、PCのある部屋へ向かいました。 シェパードと和犬の雑種が、岩手・釜石市から日本海回りで日本列島を縦断する話になっていて、最後は九州・熊本にたどり着く。男と犬、泥棒と犬、夫婦と犬、娼婦と犬、老人と犬、そして最後に収められている。 実は、この「少年と犬」は最初に書いたものなんだそうです。「オール讀物」に2017年十月号に掲載され、その後2018年四月号・七月号、2019年一月号、2020年一月号と続く。単行本となるに当たってあえて最後に持ってきたという。それだけ完成度が高く思入れと、犬の持っている素晴らしい能力を描き切っているという自信もあって、最後に読んでもらいたいと考えたようです。 読んでみて、なるほどその目論見は成功していて、これが最初だったらその後のものは二番煎じ的な感じがして拍子抜けしたかもしれない。爺さまは、本を読み始めてすぐにその飾り気のない修辞に重きを置かない文章に少し物足りなさを感じてたようですから。 雑誌の、間を開けた連載ということからか、同じパターンが出てくるので一冊の本として読むにはどうかなぁという気分にもなったようで、「この章だけでも十分だなぁ」なーんて元も子もないような事を言っている爺さまは、犬を飼ったことがないんです。 とにかく、頭のいい犬「多聞」への愛情たっぷりの筆運びと、犬の洞察と心底からの畏敬の念が全編に溢れていて、犬好きには堪らないで本でしょうね。審査委員の中にも「犬を持って来るなんてずるい」と言った人がいるとかで、セラピードッグのことやら犬に癒される独居老人などの話題にも事欠か社会で、共感を呼ぶことは間違いなしの犬ものがたり。 馳星周さんは、バーニーズマウンテンドッグという大型犬と暮らしはじめ、四半世紀になるという。犬たちの暮らしを優先するため、東京から軽井沢へ居を移し、現在も二匹との朝夕長時間の散歩を欠かさないという、根っからの犬好き作家らしい。 柴犬の小次郎がどんな犬に育つのか、犬とて個体差・個性が違うので固定観念は捨てて考えないといけない。たまに孫ちゃんが連れて来たときだけ遊ぶのでは物足りなくなるかもなあ~。 猫そっちのけで犬に愛情が移ってしまうなんてことは、ないと思うけど、今朝の爺さまの様子を見てるだけにちょっと心配になるなぁ・・ このブログは8月22日より、飼い猫ピピの目線で書いています。タイトルの頭に ◇ が付いてますが一部例外があります。 日によって文体が違ったりしますが、そのうち一つの形に収斂していくと思いますのでそれまでは、未熟さを面白がりつつやり過ごして頂けるとありがたいです。
2020.11.01
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♪ 三日月の山の真上に掛りおり串田孫一と語りたる月‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 串田孫一の「山のパンセ」を読んでいて自分も通ったことのある懐かしい場所が出てきて、引き込まれていくのが嬉しかった。それは、松本電鉄の終点「島々」から徳本峠(とくごうとおげ)を抜けて上高地に抜ける、クラシックルート。 昭和8年に窯トンネルが竣工するまで上高地への主要アクセスで、近代登山を日本に伝承したウォルター・ウェストンもこのルートを経由し上高地へ入ったという由緒あるコース。 串田孫一の記述は1960年7月のことで、それがなんと島々谷をたった一人で、わざわざ夜を選んで歩いている。その理由は自分でも良く分からないままに歩いているというところが彼らしい。(30年前にも来たことがあるらしい。) ジュウイチの声を聞きながら、足元を照らす懐中電灯をときどき消したりして、あたりの夜の中から谷の繁みのありさまが月の光で薄く見えて、夜の谷を歩く意味を味わいながら歩いて行く。二時間歩いてもちっとも疲れない。この時の彼は46歳だったはずで、もっとも脂の乗り切った体力も気力も充実していた時期だろう。 休んでいるそばを鼬鼠が通り、コノハズクの声を聞きながら、周囲何キロかの中に一人の人間もいないことを喜んでいる。そして「二股」から廃道になっている北沢へ入ってみようかなどと考えている。遡行したことのないまだ残雪があるだろう夜の道を、登って見たくなるというその精神には驚かされる。翌日に上河内(上高地)であるウェストン祭に出席する必要があって午前中に行きつくには無理と諦めたらしい。 沢を右に左に何度も渡り、早く着きすぎるのもどうかと思って敢えて休憩をしながら、ザックを枕に寝転んだりする。沢の源流に近いところでは、老木が倒れて草に埋もれ、新しい蔓草が這っている青くさい繁みを踏み越えてゆく。荒れた道を歩きながら単調さから救われたと、却って喜んでいる有様。 そのうちとうとう道を見失ってしまう。強引に進むも大岩に先を止められ、引き返すも元の所へは戻れなくなった。諦めて寝てしまおうかと谷に下りてみると、一本の丸木橋に出会ってホッとする。そこで懐中電灯の電池を交換したりして、その丸木橋を渡り出したとこれで電灯が消えてしまう。球が切れたらしいが、そのまま橋は渡ったらしい。しかし、どうやってその真っ暗な中で橋を渡ることが出来たのか分からないという。 灯りが無ければさすがにそれ以上は無理となり、その沢近くで夜が明けるのを待つしかない。この機会に、なぜ夜を選んでこの谷を登って来たかということの続きを考えようと思っても、流れの音が何も考えさせてくれない。 道を失い、灯りを失い、全く夜に征服されてしまった彼は、星を眺めて、1時ごろだろうと推察して腹をくくっている。 まったくもってこの時の彼の姿が、彼の山への想いを如実に表している。大正から昭和初期の徳本峠 この徳本峠(標高 2135m)がなぜ懐かしいかと言うと、たしか高校3年生の夏休みに同級生幾人かと同じコースを通って上高地に行ったことがあるからです。1967年(昭和42年)の52年も前のこと。この時のメンバー全員が山には全くの素人で、一日で上高地に行けるものと思っていたけれど途中で草臥れてしまった。この峠が2000m以上もあるという事を知らなかったのかもしれない。沢沿いに場所を見つけてビバークしてしまった。どんな道で、どういう気持ちで登ったかなんて、まったく覚えていないという情けない思い出だ。 覚えているのは、歩き始めて立ち寄った集落の店のおばさんに「鉄砲水に気を付けなさい」と言われたこと。よほど無知な連中と見えたのだろう。それで、テントを少し高いところを選んで張ったりした。それから、徳本峠を越えて上高地に向かう道道ですれ違う人と挨拶する、その反応が上高地に近づくにつれて悪くなっていくというのが妙に引っ掛かった。 メンバーのうちの3人程は体力が余っていたらしく、未明に起き出してどこかへ登って来たとか言っていたのがちょっと癪に触ったこと。テントサイト前の梓川を、対岸まで泳いで渡った猛者もいた。手を数分も入れていられないような雪解け水だ。対岸で「心臓が止まりそうだった」と言いつつ、再び泳いで戻ってきたのには皆が呆れていた。私はペンタックスを持っていたので当然写真の係りとなり、135mmの望遠レンズ(まだズームレンズなんてなかった)などぶら下げて歩き回っていた。今ではこんな立派な看板が立っている。彼が見たら嘆くだろうし、もう絶対に足を向けないだろう。 そんなこんなの上高地行の記憶と余りにも違う串田孫一の姿。彼が歩いた7年後のことになるけれど、その時すでに上高地は観光地化されていて、バスで簡単に行けるというので夏休みともなれば大勢の人が押し寄せていた。 その後、1972年ごろのゴールデンウィークに、奥飛騨温泉郷一重ヶ根に1泊してヒッチハイクで上高地まで行ったことがある。ずいぶん無茶な計画だったけれど、乗せてくれる車があり首尾よく観光客の溢れる中へ入って行った。宿の予約もしてなくて、確かスキーヤーズベッドかなにかに泊ったと思う。風呂が男女交代で入るようになっていて、どれほどの混み具合かを見にいった。男性の時間だと思い込んで、いきなり大きな引き戸を開けたら女性の悲鳴が上がってビックリなんてこともあった。 その後、確か新穂高ロープウェーに乗り、雪が数センチ積もっていたのを覚えている。串田孫一の水彩画 この「山のパンセ」を読んでいて、串田孫一の山への愛着と、お仕着せの決められた生活を嫌い、一人を好み(孤独を好むのではない)行き当たりばったりで体験するハプニングを楽しむところなど、私の感性とよく似ていることがわかり、嬉しく思う。 山好きはみんなこういう風なところを持っていて、フラッと出掛けて行くんじゃなかろうか(本格的な登山は別にして)。山という気の遠くなる長い時間を内包して聳え立っているものと、そこに生きている樹々や、そこに暮らしている動物たちをこよなく愛でる気持ち。誰のセイにもせずただ黙然と存在するものたち。それらに対する畏敬の念というか、生かされている自分との対話の中で哲学せざるをえないことの奥深さを、静かに感じている。 クラシックルートとは、その名の通り古くから使われてきた道のことを指し、そのほとんどは本来は登山道としての役割で作られたのではなく、生活道として開拓された道。今では、多くの登山者が山頂を目指す登山道として使っているけれど、もともとは歴史の教科書に登場するような人物が敵から逃れるために使ったような道だったり、地元の人の生活を支える生活路だったりする。 また、登山道として古くから使われている有名なルートや地元で定番のルートをクラシックルートと呼ぶこともある。
2020.10.25
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♪ 本を読む機会をくれしCOVID-19(コビッド)をそんなこんなで手なずけてやる‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 私はストーリーよりも文章そのものを楽しむ方なので、本を読むのが非常に遅い。本を読む醍醐味はその文体や表現の面白さを味わい、作者が言わんとしていることを斟酌するところに意味があると思っている。またそれが、作者と読者がつながることができる唯一の方法でもあると信じている。 この「車で移動する時のように主題と筋ばかり追い、歩きながら足許の言葉の『織模様』を愛ではしない。」というくだりを読んで、「まったくだ!」と手を叩いて共感した。 この三島由紀夫の「文章読本」は、1959年(昭和34年)中央公論社より刊行されたというから、この風潮は今に始まった事ではないらしい。その事にまた驚いた。 1959年というと、この年にフジテレビやテレビ朝日や各地方局が開局し、週刊少年マガジンや週刊少年サンデー、週刊文春などが週刊誌も相次いで創刊。それまで月間ペースで更新されていた連載作品や連続番組が徐々に週刊ペースへと移行し始めた頃という。 キューバ革命、メートル法実施、令和天皇ご成婚、アラスカ・ハワイがアメリカ合衆国の州になる、伊勢湾台風、第1回レコード大賞。 前58年には、読売テレビ・関西テレビが開局、東京タワーがオープン。翌60年には、抱っこちゃんブーム、安保闘争、カラーテレビ放送開始、浅沼社会党委員長の暗殺などがあった。 ちょうど日本が高度経済成長(1954年-昭和29年12月から1970年-昭和45年7月までの約16年間)につき進み始めたころで、じっくり本など読んでいる気分じゃなくなったという事なのだろう。 「文章読本」は最初、谷崎潤一郎が読者向けに文章の書き方、読み方を分かりやすく記した文章講座の随筆集として出したものがあって、川端康成や三島由紀夫をはじめ、他の作家も同じタイトルを踏襲した文章講座をそれぞれ出版しているのだという。 三島の『文章読本』の特徴は、「素人文学隆盛」の風潮で誰でも作家になれる形式の安易な文章入門書が跋扈していることに反対し、本物の作家にしか書けない「観賞的文章」を解説することで、レクトゥール(普通読者。小説を娯楽で読む者)であった人を、作家としての必要条件であるリズール(精読者。小説の世界を実在のものとして生きて深く味わう者)へと導くことを主眼においている。と、Wikipediaにある。 約60名の日本人作家と、約50名の外国人作家の文章について解説し、日本語の特質や、散文と韻文の違い、短編小説と長編小説の文体、評論や戯曲の文章、翻訳の文章の特色などが紹介されているらしい。 決して読書家なんかではない私は、こういう本を読んだことがない。今更ながら読んでみたくなった。図書館には、中央公論社の1979年版が閉架に眠っているらしい。借りたくても現在はCOVIT-19のために閉館中で、借りることができない。 思考を停止させて他力本願の隷従社会。自分では考えようとせず、(例外を除けば)指示待ちや忖度することで仕事しているつもりの国や地方の公務員たち。この機会にじっくり本を読むことを勧める知識人も多いわけですが、肝心の図書館が休館しているというバカげた状況を作り上げて知らんぷりだ。 モノが有り余っているのに心が貧しい現代社会。何故そうなのかを考えるいいチャンスじゃないか? 今回の新型コロナは、われわれにその絶好の機会を与えてくれていると、プラスに考えればいい。経済の落ち込みばかりを言うのではなく、思考の転換を求められていると思うべきじゃないかな。
2020.03.15
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♪ 鏡花譚に時をささげる暖冬の月ぬったりとまるみを帯びぬ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 泉鏡花が好きで「鏡花幻想譚」2を借りてきた。明治35年に発表されたものだが、新字新仮名づかいで書かれている上、すべてにルビが振ってあるので読むのには困らない。 それでも独特の文体と文法で、ちょっと難解なところも有ったりするが、それがまた面白いのです。内容よりもその字面というか文章そのものが芸術的で読めば読むほどその魅力が露になっていく感じがして、言葉そのものに興味がある私にはとても読み応えを感じられて楽しいのです。鏡花幻想譚 短編が4つ(女仙前記、きぬぎぬ川、薬草取、海異記)載っていて、フレーズの丁寧な解説まで入っているが、それは無くても良いかなと思う。特に印象深いところをコピーしたので載せてみます。 一度も彼の本を読んだ事のない人にとっては何とも難解な文書に思えるに違いないが、句読点で句切ったフレーズが畳みかけるようなテンポで進んでいく、そのスピード感が心地いい。拡大します 文末の所々に入る七五調がその心地よさを浮き立たせ、小気味いいリズを生み出している。町田康の文章にも相通ずるものがあるが、簡潔で余分な言葉を削ぎ落した鏡花の文章とは随分違う。 夜叉が池、高野聖、天守物語は文庫で読んだ。まだまだ読んでない作品がたくさんある。それらは「青空文庫」にたくさん収録されている。 新字新仮名のものが多いが、新字旧仮名、旧字旧仮名のもある。作品によっては両方載せてあるものも。今の段階で208作品を閲覧できる。借りた本にある「薬草取」が載っているので、その冒頭のところを・・「青空 in Browsersで縦書き表示。PC、スマホ、タブレット対応」 拡大します 読もうと思えばいつでも読めるわけだが、パソコンやタブレットで本を読むというのはどうも好きになれない。本を広げて栞を挟み、時に数ページ戻って読み直し、疲れて伏せて、コーヒを飲み、テーブルで、炬燵で、ベッドで、その日の気分で色々と。 *小村雪岱による装丁の豪華本をいつか読んでみたいものだ。 日本人はストーリーばかりを追って読む人が多いらしいが、文章そのもの、言葉に込められた意味、作者の内面などストーリー以外にも本を読む醍醐味があり、そんなところに引っ掛かりながら読む私は読むのが非常に遅い。 ちょっと長いのを借りて来ると読み切れなくて、延長することが少なくない。その点、今回のような短編集はいくら難解な文章でもわけはない。
2020.02.05
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♪ 湖の底に眠りて色褪せし奇奇怪怪の謎をひもとく‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 返却のため2週間振りに図書館まで3.2㎞ほどを歩いて行った。本を持っているし汗もかくので走るのは自重したが、長い登り坂があって、そこだけはスイッチが入った。 最近は、風呂上りにスクワットを80回ほどやっているので少しは自信がある。軽々ととは行かなかったが何とか登り切った。 それで借りて来たのが、あの名高い「虹をつかむ男」(ジェイムズ・サーバー)が収録されているミステリー短編集。読んだことないのでどんなものかと思って・・。二度映画化されていて、題名を知っているだけで観た事がない。数年前の『LIFE!』という映画も知らない。 書庫に眠っていて紙も古びた、今は昔の物語。ちょっとした辞書ぐらいのボリュームがある。 世界ミステリー全集18-37の短編(傑作短編集) 1972年(昭和47年)から早川書房より刊行された全集で、1979年に再版されたもの。従来の古典的作品を網羅した全集から脱却した編集で注目を浴びたものらしい。 「虹をつかむ男」は原題が「ウォルター・ミティの秘密の生活」。最初、読んだ時はさっぱり意味が分からず、二度三度読んで(短いので苦にならない)、風采の上がらない中年の恐妻家ウォルター・ミティの、奇抜な空想というか妄想辟を描いているらしいことがようやく分かった。ああこれが有名な「虹をつかむ男」なのかぁ・・。しばらく呆気に取られていた。 ある時は命知らずのパイロット、またある時は高潔な射撃の名手、そしてある時は凄腕の外科医・・・ 最初の所に出て来る「シリンダーの音が速さを増していった。タ・ポケタ・ポケタ・ポケタ・ポケタ・ポケタ」の表現がえらく気に入った。剥き出しになったエンジンが動いているところを見たことがあるが、正しくこんな感じ。 この短編を映画化したくなる気持ちはとても良く分かる。余分な説明がなく何の脈絡もなく話が進んでいく。どんな風にでも料理できそうな素材が並んでいて、確かに映画に向いていると思う。 作品一つ一つに著者の略歴がつき、タイトルとは別に「張込み」「トリック」「密室」などとカテゴリーが付記されている。これから読み進めていくわけだけれど、知らない作家ばかりなので先入観なしに楽しめる。 原著の発表順に並べられている、1950年頃からの四半世紀(おおむね戦後から編纂時まで)の37作品は次の通り。ジャングル探偵ターザン(エドガー・ライス・バロウズ)死刑前夜(ブレット・ハリデイ)虹をつかむ男(ジェイムズ・サーバー)うぶな心が張り裂ける(クレイグ・ライス)殺し屋(ジョルジュ・シムノン)エメラルド色の空(エリック・アンブラー)燕京綺譚(ヘレン・マクロイ)後ろを見るな(フレドリック・ブラウン)天外消失(クレイトン・ロースン)九マイルは遠すぎる(ハリイ・ケメルマン)魔の森の家(カーター・ディクスン)この手で人を殺してから(アーサー・ウイリアムズ)北イタリア物語(トマス・フラナガン)百万に一つの偶然(ロイ・ヴィカーズ)少年の意志(Q・パトリック)懐郷病のビュイック(ジョン・D・マクドナルド)五十一番目の密室(ロバート・アーサー)ラヴデイ氏の短い休暇(イーヴリン・ウォー)探偵作家は天国へ行ける(C・B・ギルフォード)燈台(E・A・ポー&R・ブロック)女か虎か(フランク・R・ストックトン)おとなしい凶器(ロアルド・ダール)長距離電話(リチャード・マシスン)歩道に血を流して(エヴァン・ハンター)死刑執行の日(ヘンリイ・スレッサー)死者のポケットの中には(ジャック・フィニイ)白いカーペットのごほうび(アル・ジェイムズ)火星のダイヤモンド(ポール・アンダースン)ヨット・クラブ(デイヴィッド・イーリイ)クライム・マシン(ジャック・リッチー)一滴の血(コーネル・ウールリッチ)ジョン・ディクスン・カーを読んだ男(ウイリアム・ブルテン)最後で最高の密室(スティーヴン・バー)アスコット・タイ事件(ロバート・L・フィッシュ)選ばれた者(リース・デイヴィス)長方形の部屋(エドワード・D・ホック)ジェミニイ・クリケット事件(クリスチアナ・ブランド) この厚さでも収録数が多いので文字が小さい。全部を読み切れるかどうか・・・。
2020.01.23
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♪ キ・コの声、オノレ・ツチノト下につき、イ・ヤム・スデニは半ばなり。シ・ミは上まで伸びへびとなる。‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 阿刀田高の「日本語の冒険」には言葉に関わるおもしろい話が満載だ。 その中の一つに「漢字の覚え方を考えてみた」というのがあって、いろいろ載っている。その中のこれはと思うものを・・。 例えばこんなもの。ちょっとそのまんまの感があって、面白味には欠けるが役には立ちそうだ。「キ・コの声、オノレ・ツチノト下につき、イ・ヤム・スデニはなかばに、シ・ミはみなつく」 これは漢字の覚え方なんだね。つまり、 己 ・・・ キ・コ・おのれ・つちのと 已 ・・・ イ・や-む・すで-に のみ・はなはだ ゆえ 巳 ・・・ シ・み へび これらの字の成り立ちは、 「己」 人の腰をかがめて膝を折って平伏している恰好。おのれを低くしている形で、相手に対するおのれの態度を表した象形文字。 克己(こっき)・知己(ちき)・一己(いっこ)・自己・利己 「已」 農具の「すき」を象ったもの。或いは、以と同じ形声文字とも。 已上(いじょう)・已降・已往・而已(じい、のみ)、已(や)むを得ず、死而後已(しじこうい)ー 死してのちやむ 「巳」 胎内にある人の子の象形。本義が已の字にうつり、専ら十二支の一つとしてのみ使われる。 上巳(じょうし)・元巳・初巳 七五調の語呂に合わせると、もっと自然な流れになる。たとえば、「キ・コの声、オノレ・ツチノト下につき、イ・ヤム・スデニは半ばなり。シ・ミは上まで伸びへびとなる。」 漢字の覚え方では、 壽 ・・ 士(さむらい)の笛(フ・エ)一吋(いんち)で壽になる。 始 ・・ 女の無口(ムロ)は始めだけ 淑 ・・ 水の上、小さくまた(又)いで淑やかに 暴 ・・ 日と共に水も暴れる 梯 ・・ 木に弟が梯子をかけてのぼってる 踵 ・・ 足の重さが踵にかかる 窃 ・・ 穴を切り窃(ぬす)むはよくある手口なり 牽 ・・ 玄(くろ)は(ワ)よい牛 牽(ひ)く力強し など、他にもいろいろ載ってましたがこじつけが強すぎて、あまり面白くなかった。 語呂合わせで覚えるための参考書も出ている様で、そちらの方が面白いかも。 「貸」 「代わりに貝を 貸してくれ」 「貧」 「分けた貝 貧しい人に あげましょう」 「貴」 「中でも一番 貝が貴重」 「貪」 「今すぐに 貝を食べたい 貪欲に」 【署】 「四人の者が 署名する」 【奏】 「三人と二人で 演奏する」 【憩】 「舌を出す 自分の心は 休憩だ」 【鶏】 「ノッケから 夫の鳥は 鶏(にわとり)だ」 【璧】と【壁】「完璧な玉木君に 壁土ン(カベドン)された」 【匿】と【惹】「匿名の若い医者に 心惹(ひ)かれる」 【賄】と【賂】「ユーロで賄賂(わいろ)かい!」 【戴】と【載】「異性を頂戴! 車に記載」 【颯爽】 「風に立つ、大きな4つの目」 【藁】 「草の下の高木ブー」 【挨拶】 「挨拶代わりに両手でムリヤリ3回食った」 【団欒】 団地の木の上で言いました。「2本の糸を持って来い」 【盥(たらい)】 お皿に、水を入れて、両手でゴシゴシする 【翻弄】 「番長に羽根(羽)がついたら王様サ」 【麒麟】 「その鹿もとなりの鹿もきりんです」 なんてものが色々紹介されている様ですね。 こんな語呂合わせで漢字を覚えるのは邪道だという人がいますが、言葉遊びの一つとして楽しんで覚えるのは、悪いことじゃないでしょう。 言葉を好きにならないと出来ない事ですから、後からその成り立ちが分かればそれはそれで楽しい。先ずは遊び心で好きになるというのが一番ですね。
2018.11.27
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♪ 憧れの空中ブランコ揺れてゐるまだ覚めやらぬ浅き夢なり‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 文学青年でもなんでもなかったN氏は最近になって務めて本を読むようになった。 川端康成の「雪国」を読みたくなって、PCで図書館で検索してみたら児童書の他はこれしかなかった。特別本として一般図書の書架には並べていないものらしかった。横光利一も読んでみたいと思っていたところなので、お誂え向きだと思って予約し、後日取りに行く事にしたのだった。 それで先日、図書館へ行って借りて来たこの本が、やけに立派で驚いた。菊版のぶ厚いもので第5集にあたり、●川端康成●横光利一●岡本かの子●太宰治 四氏作品が網羅されている。 天の部分には金泥が施してあり、表表紙にも箔押しの花唐草模様があしらってある贅沢な本だ。 ●川端康成 伊豆の踊子/禽獣/雪国/名人/山の音/みずうみ/掌の小説 より/弓浦市/片腕 /末期の眼/横光利一弔辞/美しい日本の私 ●横光利一 日輪/蠅/春は馬車に乗って/上海 /機械/旅愁 第一篇(抄)/微笑/洋灯/新感覚派とコンミニズム文学/純粋小説論 ●岡本かの子 母子叙情/鶴は病みき/東海道五十三次/老妓抄/家霊/河明り/雛妓/食魔 ●太宰 治 思い出/富岳百景/走れメロス/東京八景/津軽/お伽草紙 より/トカトントン/ヴィヨンの妻/桜桃/斜陽/人間失格 これだけの内容を2週間で読むなんて不可能だし、全部読む必要もないだろう。N氏は取りあえず一番の目的である「雪国」から読み始めた。ノーベル賞作家の文章や如何に? 彼は直前に東野圭吾を2冊を一気に読んだ後、その筋立てと展開の上手さに関心はしたが、登場人物の心が襞の部分までは描けていないと思った。ミステリーなので必然的に人が殺されるわけだが、その殺人の部分での心模様がすっ飛ばされていて、安易に人が死んでゆく感じがどうにも面はゆいと感じている。 やはり純文学を読まねば! と、遅れてきた文学愛好爺の彼は思うのだった。 果たして、冒頭の有名な書き出しはもちろんの事、随所にその繊細で奥深い表現が現れてはその言葉の美しさにただただ感心するばかり。これぞ文学だ! これほどの表現の出来る作家は他にいやしない、いや他に知らないと言った方がいいか。大して読んでもいない文学を、何も知らない彼が言える立場にはないのだ。 松本清張の「砂の器」にしてもこの「雪国」にしても、このころの小説の背景は昭和時代が大きなウエートを占めているのは確か。特に戦後は、小説のテーマとなる様々な問題が人々の根底に、幾重にも渦巻いていた。 翻って現代を見てみると、複雑になり過ぎた上に表面的な情報が溢れ駄々洩れして押し寄せて来る。そんな中で、すれっからしになった感覚が、刺激ばかりを求めて彷徨っている。虚も実も同じ土俵でルール無視の相撲を取っている。 読書家でもないN氏は、同じノーベル文学賞受賞のカズオ・イシグロの「私を離さないで」もつい最近読んだばかり。こちらは現代か近未来の架空の世界を描いている。新旧入り混じってあれこれと味見している彼は、もはや現代を舞台に純文学を書くのは至難じゃないかと思っている。「私を離さないで」のように架空の舞台設定で書くしかないのかと思えて来たりするのだった。 もちろん、芥川賞は、毎春秋2名の作家(例外もある)を輩出していて、N氏も毎回、受賞作の載る文藝春秋を買って読んでいる。純文学とは言い難いものも多くあって、もはやその純文学という言葉さえ死語になっていくのかも知れないなどと、知りもしない文学について呟いている。 池井戸潤が『果つる底なき』で第44回江戸川乱歩賞を受賞したあと、本が思ったほど売れないこと訝っていた。自分の小説が急につまらなくなり、目指すべき小説とは何か、面白い小説とはなんなのか・・行き詰まりを感じていた、と。 ある時、天啓のように閃いたんだとか。それは登場人物をどう書くかという根本的な部分。それまでの小説が詰まらないのは、人と向き合っていなかったからだ、と気づく。登場人物に一人一人に敬意を払うこと。読者はその登場人物の生き様に感動するのだということ。それはストーリー以上に重要なのだと。それを意識して書くようになってから、ベストセラーがつぎつぎと生まれていった、と。 人物を如何に描くか。純文学に求められるものを果たして人々は歓迎しているのかいないのか。昭和文学全集など今や読む人は高齢者ばかりで、若い人たちには縁遠いものになってしまっているんじゃないか。さすれば当然、芥川賞に求めれれるものも違ってきているということになる。 N氏は本を書きたいと思っている。 何の根拠も、手立ても才能も、何もないのに、だ。運動音痴のジジイが空中ブランコをやりたいと言っているようなものだろう。 ある作家は、構想5年、執筆3年、手直し1年なんて、執念とモチベーションの集積の結果が小説だというようなことを言う。そんなに長い時間をかけていたら命が尽きる。 写真画像のピクセルをギュギューっと縮小する様に、状況はそのままに時間を圧縮するわけにはいかないものか・・・・・・ Nさん、それって、小説になるかも・・・東直子さんが書きそうなテーマじゃない?
2018.11.21
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♪ おもむろに涙湧ききて目を閉じてなを溢れきてうろたえにけり 朝、電車の中でいつものように本を読んでいた。 新潮新書・五木寛之の「人間の覚悟」の残り7~8頁のあたりを読んでいて、何だか知らないうちに涙が溢れ出てきた。 文章に感動したとか琴線に触れたというのでもなく、悲しい話でもないのに。 それは、ある実験で、一本のライ麦の苗が、三か月の間に砂だけ入れた木箱の中に延べ一万一二〇〇キロメートルもの根を張っていた、という記述の部分だった。 水だけを頼りに六十日間生き続けるために、懸命に根を張って命を支えていたライ麦。 その麦に対して、色が冴えないとか、穂が付いていないとか文句を言う気にはなれない。生きつづけるというだけで、ものすごい努力があったのだと彼は言います。 一本の麦でさえ、それくらいの根を張って必死で生きている事を思えば、私たち人間が今日一日を生きるためにどのくらいの根を人間関係に、世の中に、宇宙にはりめぐらせているかと。 この辺りへきて、無性に生きている事への愛しさというか、喜びとも感謝とも違う嬉しさのような真綿で心を包んでいるような心持が湧きあがってきた。それで自然に涙が湧いてきて、それ以上読むことができなくなってしまった。 本を閉じ、目を閉じると、なをいっそうその感覚か湧きあがって来て涙が溢れそうになるので、目を開けて必死で涙をこらえる始末。 ほほぼ満員の電車の中で、座席についてはいるものの隣にも人がいます。何だか恥ずかしいし、そんな事で涙が溢れて来たことに内心とまどい少々うろたえました。 先日の、「すずめ」がやけに可愛く愛しく輝いて見えたこと、と繋がっているような同じところから湧きあがってくるような感覚。 しばらくは放心状態でぼーっとしていた。 憑きのものが取れたような感じもあり、心がすごく軽くなっているのが分かる。 最近は、物事に対して許せる範囲が広がっている事も確かで、以前なら訝しげに見ていたものでも、彼等は彼等なりに一生懸命生きてるんだと思える。 そして、あまり腹も立たない自分がいて、それをもう一人の自分が見ている感覚がある。 何かが、自分の中に起こっているような気がします。普通の人にとっては大したことではないかも知れませんが、私にとっては非常に大きな出来事です。 最近は、全くと言っていいぐらいストレスのない生活をしているので、それがいい方向へ向かっていくことになっているのかも知れません。 本はこのあと、人は水も空気も酸素も消費して、さらに精神的なきずなも必要、孤独感を癒すことも、喜びも悲しみも必要だ。そうやって八方に見えない根を広げて生きている。 眠っている間でも免疫の体系は生きつづけて、体は働き心臓を動かし、体を維持している。一日生きるだけでものすごいことをしている。生きているだけで偉大なことなのだと思います。 その人が貧しくて無名で、生き甲斐がないように思えても、一日、一カ月、一年、もし三十年生きたとすれば、それだけでものすごい重みがあるのです、と。 「人はいかに生きるかを問わない」と、最終章に向かって文章は進んでいきます。
2009.03.13
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