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「無垢の歌、経験の歌」 (『群像』1982年7月号) 今回読んだのはこのうちで 「自選短編」(岩波文庫) に収められている、 「無垢の歌、経験の歌」・「怒りの大気に冷たい嬰児が立ちあがって」・「落ちる、落ちる、叫びながら…」・「新しい人よ眼ざめよ」 の4作でした。
「怒りの大気に冷たい嬰児が立ちあがって」 (『新潮』1982年9月号)
「落ちる、落ちる、叫びながら…」 (『文藝春秋』1983年1月号)
「蚤の幽霊」 (『新潮』1983年1月号)
「魂が星のように降って、跗骨のところへ」 (『群像』1983年3月号)
「鎖につながれたる魂をして」 (『文學界』1983年4月号)
「新しい人よ眼ざめよ」 (『新潮』1983年6月号)
お父さん!お父さん!あなたはどこへ行くのですか?ああ、そんなに速く歩かないでください。話しかけてください。お父さん、さもないと僕は迷い子になってしまうでしょう。(P482) 「無垢の歌、経験の歌」 の始まりあたりで、語り手の 「僕」 がヨーロッパを旅しながら、1冊の本を手に入れます。
駅構内の書店で見つけてきた「オクスフォード・ユニバーシティープレス」版のウィリアム・ブレイク一冊本全集その本を開いたシーンにこんなふうに書きつけられています。
障害のある長男と父親の自分との、危機的な転換期を乗りこえようとして書いた小説で、僕が訳してみたものである。そのような特殊な仕方でかつて影響づけられた詩人の世界に、あらためて強く牽引され、そこへ帰っていこうとしてること、それはやはり他ならぬ息子と自分の間に新しくおとずれている、危機的な転換期を感じ取っているからではないか?(P482) 作中の 「僕」 は、連作の始まりの作品をこんなふうに語り始めますが、ヨーロッパから帰国した 「僕」 を待っていたのは、 「僕」 を迎えに来て、成田から世田谷に至る車に同乗した 妻 のこんなことばでした。
イーヨーが悪かった。本当に悪かった。 こうして、 新たな危機 が語りはじめられました。
イーヨー、夕ご飯だよ、さあ、こちらにいらっしゃい。 「イーヨーが悪かった」 という 妻 の言葉で始まった新しい危機は、この文庫に所収されているだけで、ほぼ 200ページ 、単行本で考えれば 七つの作品 によって 「イーヨーと家族」 の生活が 「僕」 によって書き継がれてきたわけですが、その最後に、初めての寄宿生活から帰ってきた イーヨーと家族 のあいだにおこった事件です。
ところがイーヨーはレコード・スタンドにまっすぐ顔を向け、広くたくましい背をぐっとそびやかして力をこめると、考えつづけた上での決意表明の具合に、こういったのだ。
イーヨーは、そちらにまいりません!イーヨーは、もう居ないのですから、ぜんぜん、イーヨーはみんなの所へ行くことはできません!
僕が食卓に眼を伏せるのを、妻が見まもっている。その視線の手前なお取つくろいかねるほどの、喪失感に僕はおそわれていた。いったいどういうことが起こってしまったのか?現に起こり、さらに起こりつづけてゆくものなのか?しだいに足掻きたてるほどの思いがこうじて、涙ぐみこそしなかったが、カッと頬から耳が紅潮するのを、僕はとどめることができなかったのだ。
イーヨー、そんなことないよ、いまはもう帰ってきたから、イーヨーはうちにいるよ、と妹がなだめる声をかけたがイーヨーは黙ったままだ。
性格として一拍ないし二拍置くように自分の考えを検討してから、それだけ姉に遅れてイーヨーの弟が次のようにいった。
今年の六月で二十歳になるから、イーヨーと呼ばれたくないのじゃないか?自分の本当の名前で呼ばれたいのだと思うよ。寄宿舎では、みんなそうしているのでしょう?
いったん論理に立つかぎり、臆面ないほど悪びれぬ行動家である弟は、すぐさま立って行ってイーヨーの脇にしゃがみこむと、
光さん 、夕ご飯を食べよう。いろいろママが作ってくれたからね。と話しかけた。
はい、そういたしましょう!ありがとうございました! (P639~P640)
Rouse up, O, Young men of the New Age ! set your foreheads against the ignorant Hirelings! 2022年 が終わり、 2023年 が明けていく深夜、このシーンを読んでいた シマクマ君 の胸に湧きおこったのは 1964年 、 「個人的な体験」 を書いた、 大江健三郎 という作家の中に流れた 20年の歳月 でした。そして、立て続けに湧き上がってきたのは、初めて 「個人的な体験」 を読んだ 1973年 から、 シマクマ君 自身の中に流れた 50年の歳月 でした。
眼ざめよ、おお、新時代(ニューエイジ)の若者らよ!無知なる傭兵どもらに対して、きみらの額をつきあわせよ!なぜならわれわれは兵営に、法廷に、また大学に、傭兵どもをかかえているから。かれらこそは、もしできるものならば、永久に知の戦いを抑圧して、肉の戦いを永びかしめる者なのだ。(P641)
あなたは何をしてきたのか? 作家自身 が自らに問いかけているに違いない、そんな問いの前に立ちすくむような読後感でした。現実に、ちょうど、年がかわるという時間の中にいたせいもありますが、この年齢になって読み返してあらためて気づく、 大江健三郎 という作家の作品の底に流れている 「悲歎」 と、にもかかわらず、あくまでも 「希望」 を希求する力強さのせいでしょうね。静かな文章の中にある驚くべき喚起力に促されるまま新しい年を迎えました。
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