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ヤフオクでASUSのVIVOBOOK S14 を入手したので、optaneMEMORY(オプテインメモリー)を導入してみた。(日本のパソコンを扱うマスコミは英語を変に訳すので信じていません。 過去にアメリカのグラフィックボードの会社のS3(エススリー)をエスキューブと読み、 S3社の社員がそれはどこの会社か?と驚いたと言う経緯が有る。 また最近ではSATAを「サタ」と読み、ではIDEは「イデ」と読むのかとからかわれるほど、 カッコつけばかりに走るので信用が出来ないのである。 なのでマスコミはoptaneをオプタンと読むが僕はオプティンと読む。)optaneMEMORYはOptaneメモリーとはIntelとMicron(Crucial)が共同で開発した高速メモリー技術「3D XPoint」を採用した不揮発性メモリの事です。不揮発性メモリとはパソコンの主記憶でよく使われるDRAMが、コンデンサーのように貯められた電荷の有無によって「0」や「1」を記憶するのとは異なり、フラッシュメモリーやSSDと同様にフローティングゲートMOSFETの配列で構成されている。この為、DRAMよりはアクセス速度が遅いがSSD等と同等の応答速度を持ち、HDD等に比べると圧倒的に速い。では、他のSSDとは何が違うか。「3D XPoint」と言う技術名称がすべてを表している。記憶セルを選択する際のラインは、RAS(行アドレス)とCAS(列アドレス)の2つの信号が必要で、この2つの信号を流す縦横のマトリクスが必要なので、平面の行列状レイアウトでは3本目の配線を配置する余地がない為に、立体的な構造が必要になるが、3本目の配線を埋め込む方法が難しかった。これを下のように解決したのが高速メモリー技術「3D XPoint」である。intelの技術資料なので著作権の心配はあるが、僕らアマチュアは営利目的じゃないので、技術の紹介目的ならばのっけてもいいかな?この技術により通常のSSDやフラッシュメモリーに比べて大容量化が容易になり、垂直にメモリセルをつなげる構造の通常のSSD等に使われる3DNAND技術に比べ、3次元クロスポイントは製造の難度は低いのでintelは大儲けをするはずだったのだけど、このメモリーは、「DRAMに比べると読み書きの速度は遅く、 読み出し速度はNANDフラッシュメモリとあまり変わらない」、「DRAMに比べると書き換えサイクル寿命が短い」、「3D NANDフラッシュメモリに比べると記憶密度が低い」といった短所があり中途半端だった。それをintelも熟知していたので、intelはoptaneMEMORYをDRAMとNANDフラッシュの間に位置づけ、HDDと組み合わせて、HDDの高速化を図る戦略に使おうとしていた。しかしOptaneMEMORYを活用するには、対応するプロセッサに加えて、OSやソフトウェアの書き換えも必要であり、そうしたハードルがあることなどで、残念ながらOptaneメモリを用いた製品展開は市場に受け入れられなかった。開発者がどんなに良い製品を開発しても市場論路の方が優先するのである。テレビ録画技術のベータがVHSに勝てなかったのと同じである。でも僕はいつかは使ってみたかった。そう言う時に、ヤフオクでASUSのVIVOBOOK S14 を入手したのである。実験するしかない。買ったのはこんな感じ。起動不良で画面が映らないとのことだったが、すぐに治った。多分バッテリーが完全に放電していて、起動時にPOSTが長引いたのが原因だろう。さっそくOptaneMEMORYをヤフオクで探した。まぁ手頃かな?僕のおこづかいでも買える値段。SSDを買おうとすると128GBでも1400~1500円はするけれども、これは16GBなので、勘違いするアマチュアがWindowsをインストールするには小さいと考えて手を出さないので安い。実はHDDと組み合わせて使うので、キャッシュメモリーみたいなものだから16GBで十分。分解したVIVOBOOKに組み込んだ。ついでにメモリーを8GBに増量した。元の4GBは裏側に隠れているのか見えないがOK.本当はOptaneMEMORYを取り付けているM2スロットにSSDを付ける方が良いような気もするが、今回はOptaneMEMORYの実験がメインテーマなのでこのまま。取付けた後に大事なのはBIOSの設定。これをやらないとOptaneMEMORYを認識しない。ASUSのBIOSはカッコいい。デスクトップの場合もかっこいいがノートパソコンでも良い。日本のメーカーのBIOS(UEFI)は僕らアマチュアの気持ちを理解していないのでダサい。このメインの画面からアドバンス画面に入る。SATAの設定は通常AHCIなんだけれども、この機種のBIOSではOptaneMEMORY対応のメニューがあるので選択する。その後にOptaneMEMORYに関する設定が必要なので下の画面から、PCIe接続されたOptaneMEMORYを設定する。僕のOptaneMEMORYは中古だったせいなのか、古いデーターが残っていたので消去した。そうするとWindowsにintelから入手したOptaneMEMORY用のソフトが使えるようになるので、認識していることを確かめて設定する。ここでOptaneMEMORYの立場と言うか役割が分かる。HDDが149GB(実際は160GBなんだけどあれこれとパーテーションを消費するので少ない)、OptaneMEMORYが13GB(同上)なので、149+13=162GBかと思ったら、容量は足されるわけではなく、キャッシュとして使われるようで149GBのまま。(上の写真の49GBと書いてあるのは149GBのワープロミスです。)OptaneMEMORYは読み出しの速度向上に使われるのでそうなんだと思う。で、実験であるがWindowsの起動時間は以下の通りHDDに比べて格段に速くなった。HDDだけでWindows11インストール直後 ログイン画面まで3分11秒 Windows安定まで6分03秒 多分、認識できていないハードが2つ有るので、起動時にそれを探しているか。 インストール直後なので色々なダウンロードや更新が進行している最中なので遅い。試しに2回ほど再起動後に再測定したらちょっと速くなった。 ログイン画面まで1分22秒 Windows安定まで3分18秒これがOptaneMEMORY導入後には1/3くらいになった。 ログイン画面まで0分28秒 Windows安定まで0分53秒圧倒的な速さである。僕のデスクトップパソコンは完全にSSD化しているのでもっと速く、 ログイン画面まで0分18秒 Windows安定まで0分28秒なので、やっぱりSSDの方が速いかなと言う感じではあるが、OptaneMEMORYもそれなりに速いんだと思う。大容量SSDは結構高いので、大容量HDD+OptaneMEMORYの方が圧倒的に安く、そう言う観点からすればOptaneMEMORYも有りかなと思う。でも、intelは商売にならないと判断したのか、OptaneMEMORYから撤退したんだよな。まぁ仕方ないかな?技術的な話だけでは世の中ダメだから。SONYのベータは松下(ビクター)のVHSに負けたんだよな。おんなじだ。
March 26, 2023
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中国の古い書に「山海経(せんがいきょう)」と言うのが有る。Wikiによると「せんがいきょう」だが中国の発音は難しいので、人によっては「さんかいきょう」とも聞こえるかもしれない。だって現代の日本国内の発音だって耳の悪い僕にはよく分からない。東北の人には大学(だいがく)の「が」と学校(がっこう)の「が」は別の音に聞こえるそうだが、僕にはまったく区別がつかない。だから読み方に関してははっきりとは確信が持てない。奈良時代までの日本では母音は8つ有ったらしいのだけど今は5つしかない。「い」と「ゐ」、「え」と「ゑ」が違うと言われても分からないのである。平安時代の人は明確に別の音だと区別していたらしいのだけど、今じゃ同じ音だもの。(僕は両親が長崎県人なので英語の授業では「s」と「th」の区別が分からなくて苦労した。 「R」と「L]の違いなんて今でも分からない。 先生は舌を上顎に付けるとか説明してくれるのだけど、元々耳の方が対応できてないので、 テクニックだけ説明されても無理なんである。理屈じゃないものだもの)まぁそれはそれとして「山海経」はWikiによれば、中国大陸で書かれた地理書。戦国時代から秦朝・漢代(前4世紀 - 3世紀頃)にかけて、徐々に付加執筆されて成立したものと考えられており最古の地理書(地誌)とされる。そうなのだけど、これが何故「邪馬台国はどこにあったか」に関係あるかと言うと、倭国について書かれた最古の記述が有るからである。中に、 「蓋國在鉅燕南 倭北 倭屬燕」と書かれており、基本的には蓋國について書かれた物だが、倭の名前が出てくる最古の書である。意味は、「蓋國は大いなる燕の南にあり、倭国の北に位置する。倭国は燕に属する」と言うことである。ここには大事なことが2つ有る。一つは、蓋國は大いなる燕の南にあり、倭国の北に位置する。これにより、紀元前4~3世紀の倭国の位置が分かる。蓋國については書かれた本が少なく、よくわかっていないが今の韓国付近らしい。燕は時代により(同じ名前だが)違う国であり位置も違う為にちょっと複雑だが、Wikiによると、「燕」は現在の中国河北省北部(現北京及びその周辺)に位置した青銅器時代の都市国家の名であったが、(多分日本では弥生時代)これが東周期に領域国家に発展したことによって河北省北部全体を指すようになった。以後、歴史的にこの地域に建てられた国名、地方名、行政区名が燕を称し、農耕定住地域の華北と牧畜の卓越する満州・内モンゴルの両社会を媒介する地域であった。河北省そのものの雅称でもある。と書いている。続けてWikiには各時代の「燕」についても書かれている。燕 (春秋) 周により封建された都市国家から春秋時代から戦国時代にかけて領域国家として発展し、七雄の一つに数えられた(紀元前1100年ごろ - 紀元前222年)陳勝・呉広の乱期の燕秦末期に韓広が擁立されて名乗った(紀元前209年 - 紀元前207年)臧荼・ 楚漢戦争の燕上記の燕の武将であった臧荼が秦末の動乱で西楚の覇王となった項羽に封建された(紀元前206年 - 紀元前202年)盧綰の燕前漢初期に劉邦と同郷の盟友の盧綰が上記の臧荼に替えて諸侯王として封建された(紀元前202年 - 紀元前195年)公孫氏 (遼東)の燕三国時代に公孫淵が魏からの自立を企てて名乗った(236年 - 238年)時代的には紀元前4~3世紀頃であれば春秋期の燕だとは思うが、魏志倭人伝の時期、すなわち公孫氏の時代にも燕が有ったのならば、もしかすると地域としては同じ地域なので春秋時代の燕の王族の子孫とか、春秋時代の燕と公孫氏のたてた燕の両方の燕には何らかの関係があったのかもしれない。まぁそう言う訳でそれを現代の地図に落としてみた。蓋國は燕の南にあり倭国の北にある。え?地図では南ではなく東では?そう言われるかもしれないが、これは僕の作画能力不足のせいなのでごめんなさい。燕は上の地図よりもずーっと右側にまで伸びており、もっと大きい。Wikiには「満州・内モンゴルの両社会を媒介する地域」と書かれており、もっと現代のモンゴル側まで広がっていたのだろうと思う。それが何を意味するか?この付近は(地図には落とせなかったが)紀元前2世紀末前漢の「玄菟郡」の有った所である。僕は「因幡の素菟」はこの辺りから日本に渡って来た渡来人(兎:ウサギではなく菟)と、倭国の「和珥(わに)氏」の祖先の争いが神話として後世に伝わったものだと思っている。(動物のウサギに例えたのは古事記の作者の遊び心だと思う。 玄菟郡の「玄菟」と古事記の因幡の素菟の「素菟」に「人」の字を付け加えてみれば分かる。 玄人菟(玄人:くろうと)ウサギと素人菟(素人:しろうと)ウサギだもの。)燕が滅びた後に残された人達が玄菟郡におり、最初(倭国が燕の属国だった頃)は仲の良かった玄菟郡の人達と倭国の和邇氏の祖先が、居場所の無くなった燕の人達が倭国へ渡ろうとした際に戦ったのではないか?それで、向こうの島から渡って来たウサギがワニに襲われて丸裸になるのである。そう思っている。<後日追記>僕には証明する能力(と言うか説得力のある資料が無いので)何とも言えないが、場所と時代的には密かに生き延びた秦の人達の可能性さえもある。この場合魏志韓伝に書かれた新羅の前身の「戦乱を逃れた秦の子孫」だった可能性も有る。参考の為に魏志韓伝の該当部分を下に載せる。辰韓伝の出だし部分である。 「辰韓在馬韓之東 其耆老傳世自言 古之亡人避秦役來適韓國馬韓割其東界地與之」 意訳: 辰韓は馬韓の東にある。 その地域の古老は、代々伝えて次のように自ら言う。 いにしえの逃亡者で、秦の労役を避けて韓国にたどり着き、 馬韓がその東の外れの土地を割いて与えたのだと言う。 「有城柵 其言語不與馬韓同 名國為邦弓為弧賊為寇行酒為行觴相呼皆為徒 有似秦人非但燕齊之名物也 名楽浪人為阿殘 東方人名我為阿 謂楽浪人本其残余人 今有名之為秦韓者」 意訳: 其の国には城柵がある。その言語は馬韓と同じではない。(つまり他所から来たと言うこと) 国(コク)を邦(ハウ)となし、弓(キュウ)を弧(コ)となし、 賊(ソク)を寇(コウ)となし、行酒(カウシウ)を行觴(カウシャウ)となし、 お互いを呼ぶのは、みな、徒(ト)とする。秦人に似た言葉遣いであり、 単に燕や斉の言葉が伝わったというものではなくその人達が逃れて来たのかも知れない。 楽浪人を阿残と呼ぶ。東方の人は自分のことを阿(ア)という。 楽浪の人達は、元は自分達と同じ一族で、 彼らは自分達とは違い楽浪に残った人だというのである。 今この国を秦韓とする者もいる。(つまりこれを書いた陳寿は秦人の末裔だと思っている。)もしかすると彼らが日本に渡って来て秦氏の祖先になった第一号で、後世、日本書紀等に書かれた弓月の君(応神天皇14年)等の秦氏が渡って来たのは、この第一陣(素菟:白兎)が日本に居るのを頼って来たと考えられるのかもしれない。北部九州の「宇佐八幡宮」には色々と言い伝えが残り、記紀では神武天皇が東征の折にここに立ち寄り、地元の菟狭津彦命(ウサツヒコノミコト)と(菟狭津媛命ウサツヒメノミコト)のもてなしを受け、その傍らに(宇佐氏に殺された)和爾氏の祖先の「首塚」があるのもウサとワニに関係あるし、やっぱり素菟(しろうさぎ)と和邇(わに)は戦ったのではないだろうか?で、両方とも朝廷の家来になったので生々しいのは書けないから、2つの氏族は昔は戦ってたけど大国主命が和睦に導いたんだよねと言う話を、おとぎ話にオブラードに包んで記録に残したんだと思う。後日追記終わり。当時の倭國は「海洋国家」だったのだと思う。東洋のバイキングである。歴史学の先生は考え方の応用がきかないので、国家の成立は農耕に伴うとしか考えないが、要は.集団とリーダーが発生すれば、その規模が大きくなっていけば国家は成立する。最初は同じ舟に乗る男たちの間に上下関係が発生し、その舟が船団を組むようになれば船団の長が必然的に発生するのである。やがて船団同士が争えば、最終的に王が出てくるのは当然の成り行きである。北欧でバイキングが国家を形成できるのならば東洋で同じことが起こってもおかしくない。(イギリス王室の御先祖様であるウィリアム1世(ノルマンディー公ギョーム2世)は、 セーヌ沿岸一帯を荒らしまくっていたヴァイキングの王で西ノルウェー北部メール地方出身 つまりバイキングである。日本とイギリスって何故か似ているなぁ?)その場合重要なのは「海洋国家」なので海を中心に国家が発展すると言うことである。海の南側の集団と北側の集団が争って、戦って一つになるか話し合いで一つになるか、いずれにしても海を挟んで国ができる。貿易の収益は大きいから話し合いによって国が成立するかもしれない。それが古代(初期の)倭国だったのではないだろうか?農耕と言う固定概念に縛られていると、現代の国境をどうしてもイメージするが、海洋国家ならばむしろ対馬海峡を挟んだ日本と韓国にまたがる国が自然だと思う。だって相当に後の世になるけれども、「倭寇」がいるじゃん。日本海沿岸から中国の沿岸までを荒らしまわった「倭寇」は、日本人も韓国人も中国人も居たらしいから、海洋民族に陸の国家は関係ない。板子一枚、波の上に成立する人間関係に陸上の国境なんて関係ないのである。だとすると上の地図は正しいのではないだろうか?確かに「山海経」だけだと、信頼のおけない怪しい本だと偉い先生方が言うかもしれない。でも同じことを魏志倭人伝でも後漢書でも、書いている。魏志倭人伝にはこう書いている。從郡至倭 循海岸水行 歴韓国 乍南乍東 到其北岸狗邪韓國難しいので意訳すると、郡(帯方郡)より倭に至るには海岸に沿って水行(舟で進んで)して韓国を経由して、南へ進んだり東へ進んだりして倭国の北岸である狗邪韓国に着く。つまり現代の釜山・金海市にあたる狗邪韓国は海洋国家倭国の北岸だったのである。よく「其北岸」を韓国の北岸と主張する人がいるが、どう解釈しても「北」ではない。ただ、政治的理由で朝鮮半島に倭国の一部が有ったことを認められない人達が主張し、それに忖度しているだけである。僕らアマチュアには忖度する理由は無いのでどうでも良い。それが間違っているのを承知の上で、ウソをつかなければいけない学者先生が気の毒である。後漢書にも次のように書かれている。建武中元二年 倭奴國奉貢朝賀 使人自稱大夫 倭國之極南界也 光武賜以印綬建武中元二年(AD.57年)、倭奴国、貢を奉じて朝賀す。使人自ら大夫と称す。倭国の極南界なり。光武賜うに印綬を以てす。←光武帝(こうぶてい:劉秀:中国後漢の皇帝)この光武が大夫に与えた印綬が有名な志賀島で発見された「漢委奴國王」と刻印された印綬。ここで僕がかねてから不思議に思っており、気になっていたのが、「倭國之極南界也」である。どういう意味であろうか?これには色々な説があるのだが、どれもウソくさい。ほとんどがこじつけである。人によっては「奴国が倭国の中の南の端っこ」なので大夫は倭国の極南界から来たと読むが、邪馬台国近畿説の皆様も邪馬台国北部九州説の皆様も、奴国つまり今の福岡県が倭国の南端と言うのはおかしい!と考えて滅茶滅茶な理論を出す。例えば北部九州説の古田大先生は、大夫が「倭国の南端まで極めた(つまり鹿児島まで征服した)」ので、倭国の実質的な王になって一帯の主となったので、それを認めて一帯(倭国)の王と認め、「漢の倭(連合国)の主体国である奴国の王」であることを証明する印綬、「漢委奴國王」を与えたと主張している。(「委」は倭の略字)ある意味正しいと思う。でも何となく漢文的におかしいような気もする。文意通りならば、漢文では「倭國之極南界也」ではなく「極倭國之南界也」と書くのでは?<後日追記>僕が古田武彦大先生の説を「ある意味正しい」と思ってしまうのは、僕が邪馬台国=宮崎県小林市説だからである。奴国の王が倭国の南の端の宮崎まで(小林市は鹿児島県との県境=南端)征服し、それをもって倭国統一を果たしたので、漢の皇帝にそれを認められて印綬を貰ったのならば、自説が認められたも同然だからである。ただ漢文的には上で書いたように「倭國之極南界也」ではなく「極倭國之南界也」と書く、そう思うので自分の中で葛藤するのである。なお、付け加えるならば、小林市は瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)が天孫降臨された高千穂峰のふもとで、神武天皇のお生まれになった幼少期をすごされた佐野神社が有る所で、ここから宮崎市に降りて行った所に素戔嗚命や天照大御神が生まれた禊(みそぎ)池が有り、ここに居た皇孫のお孫様が山幸彦で、鹿児島付近にいた海幸彦に勝ち家来にしたのならば、魏志倭人伝が古事記や日本書紀にそのままつながるなと思っているからである。(Wikiによると宮崎県日南市:宮崎と鹿児島の県境:の鵜戸神宮は、 創祀の年代は不詳であるが、古代以来の海洋信仰の聖地で、 社伝によれば本殿の鎮座する岩窟は豊玉姫が主祭神を産むための産屋を建てた場所。)豊玉姫は瓊瓊杵尊と木花開耶姫の子である火遠理命(ホオリ=山幸彦)と結婚して、神武天皇の父である鸕鶿草葺不合尊(ウガヤフキアエズのミコト)を生む。真の姿は八尋の大和邇(やひろのおおわに)であり、鸕鶿草葺不合尊を生む際にワニであること見られて恥じて龍宮へ帰った。豊玉姫が和爾氏の御先祖様の御姫様ならば海幸彦と山幸彦の神話も夢のような話ではなく、宮崎に居た山を生活基盤とする人達と鹿児島に居た海を生活基盤にする人達の、2つの国が争い、やがて勝利した山幸彦が負けて家来になった海幸彦を家臣にして、大きな国になったことが伝わるうちに神話になったのだと思う。皇室では今でも重要な祭祀で隼人が舞を舞うらしい。(隼人舞:かっては大嘗祭等で舞われた。)後日追記終わりなので僕は「倭國之極南界也」は素直にそのまま読めば良いと思う。上の地図で言えば倭国の北岸は狗邪韓国で、南側は奴国が極南界と考えれば素直に読める。上の地図通りであり、倭国は対馬海峡を挟んだ両岸の国だったと言う事である。もう一つは魏志韓伝である。魏志韓伝は魏志倭人伝同様に三国志の中の「魏書」東夷伝韓条の通称である。その中で、馬韓の項の出だしにこう書いている。韓在帯方之南 東西以海為限南與倭接韓は帯方(郡)の南に在り、東西は海で限りとなし南は倭と「接する」。つまり韓国は南側は倭国と(陸上で)接していたと言うことである。これも政治的な理由から認めたくない人達は色々と屁理屈をこねるが文章上明らかである。つまり、魏志倭人伝の記述と合わせると「狗邪韓国」は倭国で、倭国の北岸であり韓国と接していたのである。政治的なと言うのは、かって教科書に書かれていた「任那日本府」の存在である。韓国からの猛抗議を受けて、今の教科書には載せられないらしく、その他の本でも「任那日本府」は禁句で、今は伽耶とか加羅と呼ぶ。いやこの呼び方そのものは正しいのだが、ちょっとヒステリー気味。(Wikiにはこう書いている。 任那日本府(みまなにほんふ)は、古代朝鮮半島にあったとするヤマト王権の出先機関 ないし外交使節、またその学説。 『日本書紀』を中心に、複数の古文書にそれらの存在を示唆するような記述がある。 1991年(平成3年)、日本の「前方後円墳」と類似した様式の墓が朝鮮半島南部で発掘され、 倭系集団の存在が浮上した。 2010年(平成22年)に日韓歴史共同研究委員会は、 任那日本府(原表記「在安羅諸倭臣等」)に関しては、 史料を無視してでも、その存在を極小化したい韓国側と、 史料に基づいて大和王権への臣従関係が認められるとする日本側と対立し 共通見解の確定には至らなかった。)恐らくはこの狗邪韓国こそが任那日本府や伽耶の前身だったのだろうなと思う。日本とか韓国だとか言うからいけないのである。日本でも韓国でもなく、日本であり韓国でもある古代倭国と思えば良いのだと思う。倭国の北側の海岸に居た人達が後年百済をつくり、倭国の南側に居た人達がヤマト王権をつくった。なのでヤマト王権は何回も百済を助け、百済の王は七支刀をヤマト王権に贈り、(七支刀は奈良県天理市の石上神宮に伝来した古代の鉄剣)白村江では無理を承知で百済の救援に向かったのである。話は戻って、山海経から分かる大事なことの2つ目は、山海経の頃から既に倭国が有り、その存在が中国(燕)にも認められていたと言う事である。そしてその当時から倭国は海を越えて交易を行っていたと言うことである。歴史学者の先生の説明は、記憶中心で想像や応用を考えないので、後漢書に記載されたAD.57年の朝貢があたかも最初の交流で、それ以前には倭国は海外との交流があったことを話さないので、講義を聞く我々素人は紀元前つまり弥生時代の倭国の貿易事情を考えられないが、山海経に書いて有るように倭が燕の属国であったならば既にその頃から朝貢しているはず。歴史の先生に想像力があるならば、その説明をするべきだと思う。それが後の魏志倭人伝や後漢書につながるのだから。歴史は「流れ」だと思う。何故後漢書や魏志倭人伝に朝貢の記録が残っているか。それは中国の歴史に関係あるから。何の脈絡も無くいきなり朝貢が始まったのではない。後漢書の朝貢の記事は、漢の前の燕からそれを滅ぼした秦、そして春秋を経て前漢になり、その間中国の戦乱を見守って朝貢を中断していた倭国が後漢になったので朝貢を再開した。つまりいきなり帥升が始めたわけではなく、相当に古くから倭国は中国と付き合いがあり、後漢が滅んで三国時代になって魏が主となったのを見極めて卑弥呼が朝貢したのだと思う。つまり倭国の王達はちゃんと中国の情勢を読んでいたと言うことである。絶対に蛮人ではない、ちゃんと中国の情勢さえも見ていると言う事を認めたからこそ、それぞれの時期の中国の知識人と政治家は見極めて史書に記したのだと思う。だから魏志韓伝とは扱いが異なり、ちゃんと国として扱われているのだと思う。なので山海経はもっと研究されるべきなのかなと思う。
March 18, 2023
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愛天堂のRF増幅器RFAMP9018-2TRを作ってみた。ラジオの前段に付けてSW(短波)の電波を増幅する増幅器のキットである。愛天堂のホームページのタイトルのせいでFMも増幅できるように読めるが、下の回路図を見ると分かるようにFMは102のコンデンサー経由でスルーしているので、FMは増幅していない。さすがは愛天堂のお姉さん、よく分からないキットを売ってくれるのでうれしい。最初は入っていた部品を使って、ホームページに書かれた部品配置図通りに作ったけれど、どうも動作していないっぽい。どこかで仕入れて来た回路図を元にお姉さんがプリント基板を作ったようなのだが、そもそも、その回路図と部品配置図に書かれた部品が合っていない。黒い字がオリジナルの回路図で、赤い字が愛天堂の部品配置図の数値。コンデンサーの値にも変な所があるけれど、特に抵抗値が相当に変。1段目のエミッター抵抗が100kΩなんて、元々たった3Vの電源の中で電流はいくらなのか?コレクター抵抗1kΩと合わせて考えると無理が有ると思う。多分、元の100Ωのままで良いのでは?しかもベース入力でエミッターから出力を取っているので多分コレクター接地なのだが、そのエミッターから10μFと100kΩで+3Vにつながっているのは何?エミッター接地増幅回路ならバイパスコンデンサーによりエミッターを接地するのは分かるが、もしこれがコレクター接地の為の回路ならばコレクターから遠ざかる100kΩは変なのでは?つまりR24も元の回路図の100Ωが正解では?そもそも何でコレクター接地増幅回路を初段に持ってきているのだろうか?簡易なオーディオの出力をトランス等を使わずに直接スピーカーにつなぐ際に、コレクター接地増幅回路を終段に使うのは出力インピーダンスを下げる為で、これはコレクター接地増幅回路(エミッターフォロワー)の出力インピーダンスが低い特色を、上手く生かした回路なので理解可能なのだが、初段に使うのは何故?いやもしかするとコレクター接地増幅回路(エミッターフォロワー)のもう一つの特色、入力インピーダンスが見かけ上、エミッター抵抗のHFE倍になることを利用して、アンテナに対する入力インピーダンスを上げようとした?でも、その場合にしてもコレクター接地増幅回路(エミッターフォロワー)2段は無いと思う。せっかく初段でインピーダンスを稼いでも、コレクター接地増幅回路(エミッターフォロワー)は電圧利得が1しかないし、電流利得は有るけれどそれを取り出す為の仕組みが2段目に無いのでゲインはどうなるのか?さらに言えば、アンテナはMCXにしろテレスコピックアンテナにしろインピーダンスは50Ω。入力インピーダンスはそこまで上げなくても良いのでは?突っ込み所満載である。まぁでも、お姉さんは夜なべしてこれを作って、もう頭が働かない状態だったのかも?ならば仕方ないので、実験をしながら改造してみることにした。まずはエミッターから10μFと100kΩで+3Vにつながっている回路の意味を調べる事にした。こういう場合は抵抗やコンデンサーを頻繁に取り換えるのでブレッドボードが使い易い。まずは回路の意味を調べるには元になる信号が必要なので7MHz付近の発振器を作った。下の写真の小さな基盤がそう。コイルは固定インダクターを使ったコルピッツ発振器。ブレッドボードに刺すので配線にはみんな半田付けの際に出た抵抗の足を半田付けしている。7MHz発振器の回路はこんな感じ。計算と少し違うけれども多分ストレー容量のせいだと思う。コイルが固定インダクターなので調整ができないので、コンデンサーで調整するしかない。また、当初は固定インダクターではなく自分でコイルを巻こうと思っていたので、「実際の出力」のように2次側配線が有るようになっているが固定インダクターなので、「テスト時出力」から信号を取り出している。それが写真の「直出力」。じゃぁ「直」じゃないのも有るのかと言うと、それを抵抗で分圧したのが「1/42出力」。弱い信号も必要かもと思って1/42に落とした信号出力を作った。でもこれが間違いだった。分圧に使った抵抗が大きすぎて、発振出力を受ける測定機に悪影響を与えているみたい。できればちゃんと後段にバッファーを付けて負荷の影響を無くすべきだったと反省した。だって負荷をつなぐと周波数が変わるんだもの。ダメ。でも簡易実験だから良いか?分圧するのは試験する(この発振器の出力を入力する愛天堂のRF増幅)回路の電源が3Vだから、増幅前の入力信号電圧が100mVでも(RF増幅回路の増幅率が)10倍なら出力が1Vなので、小さな信号じゃないと出力がオーバーしそうな気がして必要だと思ったんだよなぁ。まぁ愚痴はこの位にして出来上がった発振器の出力を見る。画面をキャプチャーすれば良かったのに、カメラで写したので斜めになっています。残念。7.032MHzで2.7Vp-p位が出ている。もちろんこれが最終形なので、最初からうまくいったのではない。特に教科書と違ったのは帰還量を調整する5pFのコンデンサー。教科書ではあたかも同調回路の18pFと22pFだけで周波数が決まるように書いてあるけど、実際はこの帰還用コンデンサーの値でも結構変わるし、何よりも波形は電源が3Vと小さいのでみるみる変わる。歪まないように最大にするのは大変。さらに言えばコレクターは抵抗にするとうまくいかない。1mHのインダクターにした。次に実験用のコレクター接地増幅回路(エミッターフォロワー)をブレッドボードで作った。愛天堂の小さなブレッドボードは安くて良いが部材のバネ性能がダメなのかすぐダメになる。だからお金の有る人はちゃんとしたブレッドボードを買った方が良い。でも安いからなぁ。で、実際に7MHz発振器からベースに信号を加えてエミッターの波形を見てみた。色が分かりにくいが、赤が入力で、黄色がエミッターの出力である。レンジが違うので、あたかもゲインが1のように見えるが実際は1/4になっている。黄色の波形の下が歪んでいるのはエミッターの抵抗値が不適切なので、電源の範囲を超えているのだと思う。次にエミッターに10μFと100Ωをつないだ場合の出力を見てみる。なお、100kΩは問題外なので省略して100Ωのみ写真を載せる。おぉー!出力が入力に近い。理論通り。この現象(コンデンサーで直流的な接地位置と交流的な接地位置をずらすと上手くいく)は、エミッター接地増幅回路で、エミッター抵抗に並列にバイパスコンデンサーを入れた時の感覚に似ている。教科書ではエミッターフォロワーでは電源を介してコレクターにつながるので、特にコレクター抵抗にバイパスコンデンサーを入れていないけれども、低周波数ならばそれでも問題は無いのだけれども7MHzともなると電源インピーダンスが効く?ただコレクター抵抗に直接並列にコンデンサーを入れられないのでこのような工夫をしている?何となくそんな気がする。だってエミッター接地増幅回路ではエミッター抵抗に並列にバイパスコンデンサーを入れるし、ベース接地増幅回路ではベース抵抗に並列にバイパスコンデンサーを入れるのだから、コレクター接地増幅回路でも何らかの処置が必要だと思うのだよな。これが実用回路なのか。エミッター出力につながる不思議な回路がコレクター接地のバイパスコンデンサーだと判明し、次に2段目の回路をエミッター接地増幅回路で作ってみた。愛天堂の基盤をなるべく生かして抵抗やコンデンサーだけ変えるように考えたので、下のような回路にした。ブレッドボードに組み立てて7MHz発振器から信号を加えてみた。7MHz発振器の分圧出力は1/42じゃなくて1/10くらいが良いかも?1/42だと弱すぎて不安定。ブレッドボードではそれなりにちゃんと動作した。それに気をよくして愛天堂の基盤の方もそれに合わせ抵抗やコンデンサーを取り換えてやり直し。ところがである。何故か動かない。調べると、信号は弱いなりに1段目のエミッター出力までは動作している。しかし何故か2段目が全く動作していない。仕方ないので、再びブレッドボードでエミッター接地増幅回路のみ作って信号を加えてみた。ブレッドボードではちゃんと動作している。(写真の中のIc=1.54AはIc=1.54mAの間違いです。ごめんなさい。)もしかすると最初にこの基盤が動作しなかったのは2段目のせい?(愛天堂の基盤はトランジスターがS9018でブレッドボードは2SC1815なのが関係ある?)愛天堂の基盤に回路図とは違う誤りが有るのかもと思い調べようとしたが、何度も半田付けして何度も半田吸取り器で部品を外しているので基板のパターンが見えない。なので基板の配線パターンに欠陥が有っても分からない。後の祭り。悔しいが一旦はあきらめた。でも日を置いて、今度はオリジナルのように2段目もコレクター接地増幅回路にして、「不思議な回路」をつけてみた。但し100kΩではなく100Ωで。また愛天堂の部品配置図の抵抗値ではなくオリジナルの抵抗値で。その時の信号入力と信号出力。何故か入力信号に対して出力信号が「減衰」しているが出力は出るには出るようになっている。入力側、出力側ののレンジはともに500mV/divなので入力2Vp-p出力0.8Vp-pである。何故か減衰している。ここで(偶然だけど気が付いて)オシロの入力側プローブをX10に切り替えてみた。えぇー?何故かうまくいっている。入力が1Vp-pで出力が2.8Vp-p。何故か入力がX1の時に比べて半分になり、出力が約3.5倍に増えている。何でコレクター接地増幅回路の2段接続でゲインが1のはずなのにこんなに増幅されているの?本来ならば喜ぶべき所なのだけれども、自分の予想と違っているのでちょっと不満。<後から追記>単に入力側のプローブをX1からX10に変えた時に何らかの操作をしなければいけないのに何もしていないのが誤り?と思ったけれど、取扱説明書によれば、特に操作の必要は無く自動で対応すると書いてあるので違うと思う。何よりも出力側は何もいじくっていないのに、明らかに増えている。だから操作の誤りではないと思うが、測定方法の誤りの可能性は有る。入力が半分になっているからだ。最初に発振器の分圧用の抵抗が大きすぎたと書いたのが原因か、RF増幅器の入力抵抗が大きいのが原因か分からないけれど、その辺に原因が有ると思う。上で(偶然だけど気が付いて)なのは、実はコレクター接地増幅回路の入力インピーダンスが高いと言うことに気が付いたから。このオシロの入力は1MΩ15pFなのでその影響を受けているのかもしれないと思ったから。いずれこの謎に挑戦してみようと思うけれど、今日はここまで。<後日追記>4月19日のブログで上記のプローブX10にするとうまくいく理由を解析しました。RF増幅器の入力抵抗が大きいのは関係ありませんでした。僕の測定技術が幼稚なせいで、オシロの入力の15pFが大きく効いているのが一つの原因ですが、4月24日にさらに実験して、真の原因は同じ回路内でアースを共通にした場合、CH1とCH2を同時に使うと、CH1とCH2はオシロの中で(高周波的には)つながっているので、1MHz程度以下の場合には問題ないのだが、7MHzもの高い周波数になると、15pFのコンデンサーは低いインピーダンスになり、(オシロスコープの入力インピーダンスが15pFでもそれに同軸ケーブルの静電容量や 浮遊容量が加わると100PF位になりこれは交流的にインピーダンスは200Ωくらいなので)CH1とCH2が干渉して正しい測定ができないが、プローブをX10に設定するとこの100pFが1/10くらいになり干渉が減るので、正しい測定に近づくのだと分かった。もしこれが7MHzじゃなくて100MHzだったらどうなるんだろう?安物のオシロスコープが200kHzくらいしか使えない仕様になっているのが分かったなぁ。オシロの使い方に悩んでいる人は御覧ください。それにしても測定器の使い方のせいで実験がうまくいかないなんて考えなかった。色々と分かるので、実験は面白いなぁ。(学生時代は嫌いだったけど)<後日追記>書店に行って電気関係の棚を見たら驚いた。「電子工作マガジン」最新号が出ていて、このRF増幅器の記事が出ていた。世の中には僕以外にも愛天堂のファンがいるんだなと思い嬉しくなっちゃった。でもちょっと注意が必要かな?と思ってしまった。上の方にも書いたけれども、このRF増幅器の回路はオリジナルが正しくて、愛天堂のお姉さんは勘違いをしているんだと思います。オリジナルの回路を愛天堂のお姉さんの計画した数値に置き換えた回路図を再掲すると、緑で書いたようにエミッター抵抗の100kΩなんてかなり常識はずれな数値で、エミッター電流(コレクター電流にほぼ同じ)が0.03mAなんて言う微小電流でも、エミッター電位が電源電圧3Vを超えてしまいます。(簡単なオームの法則)また一般的な数値のVbe=0.7VでhFE=100として電源電圧3Vの時の連立方程式を解くと、Ib=0.226μA、Ic=22.6μA(通常あり得ない微小電流)となりますが、その時の各所の電圧は、コレクター電圧2.98V、ベース電圧2.98V、エミッター電圧2.28Vになります。ベース電圧=コレクター電圧なので遮断領域つまりこのトランジスターは小電力増幅域でなく、入力信号は増幅していないのだと思います。なので完全に間違いなのだと思います。でも実験された方は「雑音が減った」とおっしゃっています。何故だろうと思い、実験時の写真を見ました。電気工作マガジン75ページの写真です。え?ワイヤーアンテナをワニぐちでMCX端子のアンテナ側ではなくコモン側につないでいる?BCLラジオにつながる出力がSWINではなくFMINにつながっている?MCX端子は下の写真のように本来同軸ケーブルでアンテナにつながる端子で50Ω不平衡です。愛天堂のお姉さんはこれも面白い実装の仕方をしています。上の写真下側の写真を見ると分かりますが、(ちょっとたとえが大胆ですが)テレビのアンテナ入力と同じ感じです(実際は少し違う)。なのでコモン側をアースにつなぐべきかと思うのですが、どこにもつながっていません。なのでワイヤーアンテナのワニぐちはどこにもつながっていないのではないかと思います。変だと思うのですが、設計者の愛天堂のお姉さんも夜なべして疲れていたのだと思います。なので雑音が減ったのは(若干ではありますが)、ワニ口でBCLラジオにつながる配線がアンテナ長を伸ばしたせいなのかもしれません。だって増幅できるはずが無い回路ですから。そんな感じなのですが、このキット自体は確かに表面実装抵抗やコンデンサーやトランジスターの半田付け練習に最適。使用目的ではなく、半田付け練習用におすすめです。
March 15, 2023
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愛天堂のラジオをよく作っておられる「やまさん」からコメントを頂いた。愛天堂のDSPラジオK-5807LCが間違っているので、最初は鳴らなかったが、調べて鳴るようにしたと言うコメントである。さっそく僕も調べてみた。愛天堂のホームページの回路図(FM用IC:RDA5807FP)の周辺部分は下の通り。ところが、やまさんの言う通り基板が間違っていた。と言うかそもそもホームページに載っている部品配置図さえもおかしい。下の通り。基板の裏側を見ると、電池のマイナス側がアースにつながっておらず、何故かアンテナにつながっている。基板表を見るとこんな感じなるほど。アンテナ用のオーディオジャックのコモンを通して電池のマイナスにアースがつながってるのか?でもそれだとFMINがアースに落ちてしまって電波入力がアースに逃げてダメじゃん。ホームページの回路図(上に示した)ではFMINはアースにはつながっておらず、100pF経由でアンテナにつながっているぞ?回路図と合ってないじゃん!そうかだからやまさんは、間違っているので鳴らないと言ったのか。仕方ないので上の基盤の裏と表の写真の中に赤く書いたように、電池のマイナス側はアンテナから切り離し、直接アースに落とした。(基板裏の赤記入参照)また基板表のアンテナ用オーディオジャックのコモンの穴周辺4か所でアンテナとアースがショートしているので削って切り離した。すると何とか強い電波の局は受信可能になった。でもなんか変。RDA5807は5767等と同じで優秀なDSPラジオIC。もっと感度は良いはず。(愛天堂の他のラジオだと僕の住んでいるあたりならば、 76.5MHzから93.0MHzまでで 15局くらいは入る。 NHKなら千葉や東京、横浜最遠は静岡まで入る。 だからもっと電波の弱い局でも入るはず。)なのでデータシートを調べてみた。モデル回路はこんな感じ。うん?ESDはまぁ高級なラジオじゃないのでなくても良いとして、FMチョークコイルは何で無いんだ?この回路は実はイヤホンアンテナ用の回路なので、イヤホンのコモンをアンテナとして100pFを経由してFMINに電波が入力されている。またイヤホンのL(左)とR(右)にはフェライトビーズ(100MHzで1.5kΩ)を入れて、ここからの電波が入ってノイズにならないようにしている。だからテレスコピックアンテナならば、イヤホンのコモンはアースに落としてアンテナから100pF経由でFMINに入力すれば良い。それが愛天堂のお姉さんの理論であり、半分は正しい。(お姉さんはオーディオ用のジャックとアンテナ用のジャックを勘違いして、 本来オーディオ用のジャックのコモン部分をアースにつなぐつもりで、 アンテナ用のジャックのコモンをアースにつないでしまったのだろう。)と言うかデータシートが意地悪い。FMチョークと書いてあるのが悪い。これは多分単なるチョークコイルではなくバンドパスフィルタを構成しているのだと思う。計算してみれば分かる。100nHのコイルと24pFのコンデンサーの並列による同調回路なので、1/2XπX√(100nHX24pF)=102.74MHzなのでストレー容量を考慮すると90MHz前後が中心のバンドパスフイルターなんだと思う。RDA5807FPのデータシートのブロックダイアグラムを見ると書いてある。左側部分である。LNAはラインリニアーアンプもしくは単にリニアーアンプだと思う。つまりIC単独のままでは非選択増幅になるので、FMチョーク(この言い方が変)と24pFを入れて選択増幅にしろとそう書いてあるのだと思う。(厳密な選択増幅器だとツインTだとかになるのだと思うけど値段的にこれで十分)つまり、これが無い今の愛天堂のお姉さんの回路は、高周波増幅段の同調回路が無いラジオの状態なんである。それでも受信できるRDA5807FPは優秀なDSPラジオICなんだと思う。<後日追記>誤解を招く表現を書いてしまったので補足。100nHと24pFを入れるのはFigure9-1の注意書きでは、Audio commonとLNA input commonの間となっているのに何故FMINとアースの間なのか?だけれども、Figure9-1ではAudio commonとFMINは100pFを介して接続されており、LNA input commonはアースなので、等価的に大丈夫です。なので愛天堂の別のラジオではこんな風になっている。これはテレスコピックアンテナとイヤホンアンテナの切替が可能なタイプのラジオだが、そのどちらの場合でも100nHと24pFはFMINとアースの間に入るようになっている。だから僕は基板表と裏の赤いパターン削除のようにして、FMINはアースから浮かし、間にコイルとコンデンサーを入れた。コイルは適切なのが手に入らないので自分で巻いた。だいたい直径5mmくらいならば6回巻き位で良いと思う。ただこれは僕がTBSラジオが好きだからで周波数が90MHzより高い場合なので、80MHzとか低い方ならば7~8回巻いた方が良いと思う。巻き数が多い分には、ラジオを聞きながら「広げれば良い」ので調整が可能だからである。巻き数が少ないと調整ができない。で完成するとこんな感じ。(すみません。上の写真のコンデンサーを22μFと書いているのは22PFの間違いです。 手元に24pFが無かったので22pFにしたのです。結構いい加減でダメだなぁ。)ちゃんとNack5(79.5MHz)も聞こえる。100nH+24pFの効果である。なお、表面実装型のICや抵抗、コンデンサーの半田付けはこんな感じでやると簡単。いきなり半田ごてでつけようとすると暴れて上手くいかないから。まずは1本の足を仮付けしてやるのである。字が間違っている。方側ではなく片側である。ごめんなさい。抵抗やコンデンサーはいきなり半田付けは難しいので、まずは基板のパターンの片側だけ半田を付けて、抵抗やコンデンサーを乗せて半田ごてを押し付けて固定する。安定したら反対側にも半田を付けて固定するのである。ICは1本の足で仮付けして反対側の足に半田を流す。足と足の間が狭く、1本づつ半田付けするのが難しいから。上手くいったら反対側にも半田を流して固定する。上手くいったら、片側の半田を溶かしながら、基板を持って半田を叩き落す。するとレジスト(緑色の塗装)は半田をはじくので、不要な半田が落ちる。片側の半田が落ちたら、ICはちゃんと固定されているので、今度は反対側を溶かしながら半田を叩き落すと、上の写真のように足の部分だけ半田が残る。なお、慣れないと熱が足りずに足と基板の半田付けが不完全な場合が有るので、最初のうちはこの後に半田ごてには半田を付けずきれいにした状態で、1本1本熱を加えると不完全だった半田付けが再度溶けてくっつく。また、半田の叩き落し方が下手だと、足同士が半田でブリッジしてしまうが、これも半田ごてで足を温めながら「半田を引っ張る」と自然に余分な半田はこてについて離れる。また慣れないと叩き落した半田が基板の表面に付くことがあるが、つめでひっかくと簡単にはがれるので(半田の量にもよるが)心配はない。なお、ICの半田付けは抵抗など他の部品が無い状態で先にやった方が良いです。叩き落した半田が引っかかるから。こんな感じである。なお、お金が有る人はこんなことをする必要は無い。クリーム半田を使えば半田ごてを難しく使わなくても簡単に半田付けできる。上の方法はクリーム半田を買えない貧乏な僕のやり方で邪道なので念のため。やまさんのお陰で勉強になりました。<後日追記>もし既に半田付けが終わって後の祭りになっている場合の処置を考えてみた。アンテナ用のオーディオジャックを半田吸取り器で外そうとすると大変な事態になる。なのでその時はテレスコピックアンテナは諦めて、ワイヤーアンテナ(50~60㎝)にして、アンテナ用のオーディオジャックはお飾りにするのである。あんまり良い方法ではないが、半田吸取り器で上手く外せない場合はこれしかないと思う。
March 8, 2023
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2月のわの会は座学でビデオの鑑賞だけだったのでブログはお休みしたが、3月は京急富岡駅に集合して川合玉堂別邸(ニ松庵)跡や富岡八幡宮を見学した。ルートはこんな感じ。最初は旧川合玉堂別邸(ニ松庵)庭園を見学した。近くにこんな良い所が有ったのかと言うくらい奇麗な所で、季節柄梅が綺麗に咲いていた。幹事さんやガイドさんが丁度梅が咲く今の時期を選んでくれたのだろう。良かった。川合玉堂(1873~1957年)は愛知県一宮市生まれの日本画家で玉堂は画号である。彼は後に第二次世界大戦中に疎開する御岳(現青梅市)に「偶庵」と言う住まいを立て住んだが、大正6年(1917年)にここ富岡にも別邸を立てて別荘・画室とした。邸内に2本の松が有ったことから「二松庵」と名付けられたこの別荘で、彼は夏と冬を過ごし、富岡の風景や人々の暮らしを描いている。主屋は、平成7年に市指定有形文化財(建造物)に指定されましたが、平成25年10月の主屋焼失に伴い、建造物としての文化財指定は解除され、平成28年度、庭園としての価値を評価し、新たに市指定名勝に指定されています。一般開園は毎月第一土曜日の午前10時から午後3時までですが、今回は特別に今日木曜日に団体での見学と言うことで開園して頂いたようです。入口の説明板にその辺を詳しく紹介してありました。入口は趣のある茅葺屋根で昔の画室付き邸宅にふさわしいと思います。傍には御岳の玉堂の亡くなった地に建てられた玉堂美術館の紹介説明板も有ります。庭園の中に入ると、主屋は焼けてしまったので建物の基礎等だけが残っています。2枚の写真を張り合わせたので若干変形していますが、手前の出っ張りが玄関です。右上に四角い箱状のコンクリート製(石かも?)の構造物が見えます。何だろう?付近に焼ける前の室内の状況を移した写真が有ったので分かりました。囲炉裏です。木造家屋で床が多分60cm位上がっていたようなので、このような構造になっており、マンションに住んで囲炉裏などしらない僕にはちょっと不思議な感じの構造物でした。またこの当時の写真の中には玉堂の作品(長閑:のどか)も有り、なんとその中に登場する玉堂が溝を刻んだ石臼が傍らに有りました。昔の人は石臼さえも自作していたんですね。庭園内はのどかな林の中に在り静かなので、なんとリスが遊んでいました。ガイドさんは良い時期を選んでくれたと思います。生き物が遊び始める季節です。季節と言えば、梅が綺麗に咲く時期です。富岡の隣町の杉田は江戸時代から上流家庭の女性達が梅を楽しんだ杉田梅園が有名ですが、ここにも見事な梅がありました。日本画家の玉堂が絵に描いた梅とはもう世代が違いますが、新たに植えた梅も綺麗です。参加者の皆さんも盛んに写真を撮っておられました。また、玉堂がここに別荘を建てた理由のもう一つは東京湾に臨む眺めの良さです。昔はここに東屋が有り、(今は埋立てられて景観を損なっていますが)良い景色だった?そう思います。それにしても東屋を「四阿」と書くのはさすが風流人だと思います。二松庵をあとにして、次は明治の元老たちの別荘跡の見学です。ガイドさんが見せてくれた史料(下の写真)によると、この付近には伊藤博文や井上馨ほか多数の政治家が別荘を持っていたようで、ここ富岡で閣議が開けたと言われていたそうです。(ガイドさんの史料をお借りします)別荘跡地見学の最初は井上馨と伊藤博文別荘の跡地。両者はすぐ近く。裏表です。伊藤博文の仮寓の跡地には目印は無いのですが井上馨別荘跡地は駐車場で目印が有ります。また当時使われていた井戸が残っています。伊藤博文仮寓跡地を見たあとは富岡八幡宮へ行きます。鳥居の右側には昔ここに有った「金波楼」と言う料亭の跡地が有ります。金波楼は日本で最初の株式会社として創設された料亭ですが関東大震災で倒壊したそうです。この先には「海水浴発祥:宮の前海岸跡」の碑があるのですが、以前ブログに載せたので略。また、富岡八幡宮に関わる古い小さい社と地元の有力者だった田沼邸も有りますが略。いよいよ富岡八幡宮です。富岡八幡宮では宮司さんがパワーポイントを使って説明して下さいました。神社の宮司さんがパワーポイントを使うなんて時代は進歩したものです。最初は付近に有る青ヶ台貝塚の写真と説明をしてくれました。青ヶ台貝塚は金沢区釜利谷東四丁目41付近にあった貝塚で、昭和16年に遺跡と考えられる場所の東側にあたる部分を発掘し、縄文時代中期の竪穴住居跡が3軒発見されました。その後、昭和42年に阿王ヶ台団地造成の事前調査として瀬戸神社の先代の宮司であり、先の調査にも従事された佐野大和(さのひろかず)氏を中心とした調査団による3地点の発掘調査が実施されたそうです。(宮司さんの説明に僕が調べた情報を追加してます。)佐野大和氏は國學院大學の教授でもあり考古学者で日本大学で祭祀考古学の講義をしておられ、僕が今読んでいる最中の横浜市教育委員会の文化財報告書(昭和42年!)の著者でもあります。富岡八幡宮の宮司さんは佐野大和先生のお知り合いなのかもしれない。(宮司さんも佐野さんと言うお名前らしいので御家族? そう言えば鶴岡八幡宮の神楽は八家ありそのうち一家は佐野流といったような気がする)もしかすると富岡八幡宮の宮司さんがこの辺の古代の歴史に一番詳しいのかもしれません。だから宮司さんも八幡山が古墳だと思った時期が有ったのかもしれません。ただ、立場上色々と難しいし忙しいので僕が聞いても答は「ただの山です」と言うことでした。宮司さんの説明はその後富岡八幡宮の歴史や情報に続き、色々と面白い話が聞けました。現在の本殿・拝殿は関東大震災の時に旧本殿が倒壊したので今の場所に移したもので、元はより入口に近い塀のような構造の有る場所にあったのだそうです。そう言えば伊勢神宮にお参りした時にも古殿地ってあったなぁ。あそこは20年に一回建て替えるので、その為に次回建設地を古殿地としており、古殿地は20年前に本殿が有った場所であり、かつ20年後に新しく建てる候補地なんだよな。また本殿は覆殿になっており、覆屋内にある本殿は安土桃山時代の1586年建立。また、鶴岡八幡宮が1624~1626年に社殿を造替した際、その本殿の扉を当社の本殿内陣の扉として移設したというのが下の写真です。由緒ある扉です。由緒あると言えば、富岡八幡宮は建久年間(1190年~1199年)源頼朝が摂津国難波の蛭子神(西宮神社)を勧請し、安貞年間(1227年~1229年)に八幡神が合祀されたという由緒ある八幡宮です。また八幡宮の山が応長の大津波から富岡地区を守ったことから「波除八幡」の別名を持ち、広く江戸方面からも信仰を集め、深川・富岡八幡宮へ分霊された事は有名です。ご神宝には横浜市指定文化財の八幡神像(画)もあります。パワーポイントの写真をブログに載せることについて一応御許可は頂いたが転載は不可です。他には有名な木造の狛犬等もあります。富岡八幡宮では2月と11月に「卯陪従(うべえじゅう)」と呼ぶ伝統神事が行われ、その際に湯立神楽が奉納される。これには僕は毎年(2月か11月どちらか)見に行っています。写真は「射払い」で四方拝の舞の後に四方・天地に矢を射払って厄災を退けるものです。また7月には祇園舟行事が行われます。祇園舟は横浜市の無形文化財第1号に指定されています。青茅の舟に罪穢れを託して沖合遠く流しやるもので、全国各地で6月に行われている茅の輪(ちのわ)くぐりや夏越の祓の神事と同様、心身共に清々しく祓え清めて暑い夏を迎える、昔ながらの行事です。僕は頼朝が西宮から胡神を勧請した事実と、八幡宮となった経緯から考えて、ここは元は久良岐屯倉(奈良時代頃の天皇家の領土)の役所であったのではと思っています。(Wikiの「寺」の項を読むと、中国の漢の明帝の時代には寺は役所のことで、 遠方から来た客を休ませる場所だったらしいと「藤井正雄『仏教早わかり事典』日本文芸社」 には書いてあるそうです。なので仏教が日本に渡って来た頃にはそうだったのだと思います。 仏教伝来前には無かった神社ができたのは仏教に対抗する象徴として神社を造ったもので、 またそれで、蘇我氏と物部氏が仏教と寺の建設の受容で争ったのだと思いますし、 神社を推す物部氏の一部も(宗教ではなく建物として)寺を造ったのでしょう。 なので12神将等仏像は武装しており敵がいるのだし、後世まで僧兵がいたのだと思います。)後世の久良岐郡の郡衙は上大岡の付近(弘明寺付近と言う人もいる)にあったのだが、それは源氏が滅んだ後の話で、八幡太郎義家がこの付近に根拠を持ったと言うのは、実はこの屯倉の関係だと思っています。(新編武蔵国風土記にも「久良岐は将軍家の土地であった」と書かれています。 これが頼朝後なのか頼朝以前のことなのかは不明)そのせいで、頼朝のお父さんの源義朝はお爺さんの源為義に命令されてここに居たのだし、義朝の家来だった上総之介広常の首塚が朝比奈に有るのだと思っています。「上総之介」なんだから墓が千葉に有ってもおかしくないのに朝比奈にあるのは、義朝が平治の乱で負けて、京で三浦義澄等と一緒に源義朝の下で戦って逃げて来た後に、広常がこの辺を守っていた(単に横取りした?)からだと思っています。広常が殺されたのは、NHKドラマで言われていたような綺麗ごとではなく、頼朝にとっては「自分と父親の義朝を見捨てて逃げたイヤな奴」だったし、しかも自分の領地を横取りしてのさばっている奴が耐えられなかったからではないでしょうか?しかし頼朝はせっかくこの地を取り戻したのに、三浦(と言うか和田義盛)に乗っ取られ、金沢区には大道小学校裏の「和田の谷戸」が、浦郷に和田山がと言う地名が残っているように、実質は和田義盛が手にしています。さらに和田義盛は頼朝の死後、「上総之介」にして欲しいと欲をかいており、実質的な領主だけでなく名目上も自分の物にしようとたくらみ源実朝に断られたのでしょう。そのせいで和田合戦が起こり、最終的には金沢は北条氏が手に入れたのだと思う。北条氏が源氏一族を滅ぼしたのは、実は源氏の持っていた鎌倉や金沢の土地が欲しかった?違うかなぁ?今の歴史の教科書はきれいごとしか載せていないせいでつじつまが合わず、本当はもっとドロドロとした理由があったのではないでしょうか?こんな感じでわの会は終了した。おかげで富岡八幡宮の重要性がさらに確認できたと思います。
March 7, 2023
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ヒマなのでジャンクのパソコンを修理して遊んでいたら、我家にはデスクトップ3台、ノートパソコンが140台もある。その他に30年以上前のPC-6001やPC-8801、同SRなんかもある。デスクトップから外して引退したマザーボードにはCPUがCeleron300Aの物なんかもある。知っている人はこのCeleron300Aと聞くと懐かしくて涙をこぼす人もいるのではないだろうか?Celeronは本来廉価版のはずだったのだけど、構造がシンプルな分耐久性能が高くて、ものすごいクロックアップが可能で、皆がクロックアップに挑戦して、それ専用のマザーボードさえ販売されていた。(今のCOREiシリーズのKタイプなどとは違いメーカー非公認で素人が勝手にやっていた)ベースクロック(元は66MHzを100MHzまで可能)を上げるだけではなく倍率も変えられて、人によっては(知識の有る人は)デュアルCeleronにさえ挑戦していた。懐かしい。それはそれとして、僕のおこづかいの範囲(5000円)で買えるジャンクが3台有ったので買い、動作しないジャンクだったので、それぞれの使える部分だけ集めて2台の動作品を作った。まずは1台目3833円と高かったがCPUがCOREi5-6300Uとそれなりなので買った。ヤフオクの出品者の説明では、 ベゼル(液晶フレーム)が破損しています。 DVDドライブカバーが破損しています。 通電しますが起動しません。 バッテリーありません。とのことだったが、実は出品者の勘違いでヒンジの破損が全ての原因で、それを無理して開けようとしたせいで液晶フレームが破損したのだった。それと後述するが、これと3台目は電源は入るが起動しないパソコンだった。原因は「本体とHDDのひも付け」。NECの企業向けノートパソコンによくあるセキュリティ対策で、本体とHDDのひも付けを行い、特定の(つまり元々の)HDDを外すと他のHDDは使えない、そう言う対策品なので、電源を入れても真っ暗なままでロゴさえも表示されない物だった。また、WiFiが写真のようにケーブルが破損しているだけではなく基板も無かった。2台目はこれ。これは安かった。11円ならば送料を含めても1011円。これはヤフオクの出品者の説明では、 右のヒンジ付近が破損してます。(画像参考) キーボードの半分以上のキーが反応しません。とのことだったが、何と幸運なことに動作品だった。ただ、NECのこのタイプのパソコンのキーボードの新品は3000円以上するし中古も同程度。本体よりも高い部品購入になってしまう。だが3台のどれかから函体とキーボードを貰えば良いのでSSDを1400円で買って、(No.3からもらった)Windows10をインストールするとこれは完成可能。3代目はこれ。まぁ1000円以下なので部品取りならば妥当な金額。これはヤフオクの出品者の説明では、 通電 ok (ランプ点灯) 起動 △ (電源ONはできましたが、その後の動作が不明) メモリ、ハードディスク入れてチェックしていない動作不明品の為ジャンク扱いになります。 キーボード周りはかなりキレイでした。外観も大きな破損はなさそうです。とのことだったが、パッドが効かなかった。説明ではCPUはCeleron4205Uなので第8世代つまりWindows11インストール可能品だったが、実物を調べるとCeleron3865UでWindows11はインストールできないタイプだった。ヤフオクでは良く有る話で出品者には悪気はないのだが知識が無く間違えたようだ。NECのサイトでPC-VK18AAG1を調べるとCeleron3865Uと書いてあるのだけれど安いのでOK。このパソコンもNo.1同様に「本体とHDDのひも付け」がかけられており起動しない。この3台目から函体下部とキーボードをNo.2へ渡し、上半身つまり液晶部分のケースとWiFi基盤をNo.1に渡した。これにより、完動品1台と起動しないけれど一応の完成品?とCeleron3865Uのマザーボードができた。起動しない完成品?は「本体とHDDのひも付け」が原因なので後述。ところで3台とも型番が違うのに2個1や3個2ができるのかと心配するかもしれないが、昔のNECとは違い、今のNECの技術陣は弱体化しているので大丈夫である。自社では作っておらず、キーボードや液晶パネルやマザーボードは中国製で、それを組み合わせて色々なシリーズを作って販売しているだけなので、各部品は共通なのである。マザーボードはCPUの違いとSSD用の端子の実装の有無の違いだけである。マザーボードに「LENOVO」とシルク印刷されているのが情けないが、3個2をたくらむ僕にはうれしい。なので送料を除けば6000円程度で2台のパソコンができてしまった。第6世代CPUなので今でも一般的な用途ならば十分に使える。で、本題はここからである。1台は完成品だが起動しない。それは「本体とHDDのひも付け」が原因ではないかと思っている。何故ならBIOS(又はUEFI)は起動するし、USBメモリーを使ったUBUNTUは動くから。HDDに原因が有るのかもと思い複数のHDDと取り換えてみたが変わらない。なので本体側に原因がある。しかもHDD端子やその周辺に異常は無い。さらに言えばBIOS(又はUEFI)のセキュリティ項目に変な項目があり、Bootシークエンス以外にリモート時のキー参照ドライブが選べる。多分この項目で選んだドライブ(多分HDDか管理者指定のUSB)が必要なのだろう。どうしようかと悩んだが、ふと気が付いた。USBからUBUNTUは起動するじゃん。じゃぁUSBにWindows10をインストールすれば良いのでは?幸いにしてこの機種は5個もUSB端子が有るので、1個をWindows専用にすれば良い?早速やってみた。使いそうにない後ろのUSBを利用して、ここにダイソーで買ったUSB延長ケーブルのオス側を切り離したケーブルをつないだ。反対側のメス側は元のHDD収納部(SSDかも?)に置いてUSBメモリーをつなぐ。こんな感じになる。元はSSDだったのかもしれないと言うのは7mmのHDDさえも入らない薄さだから。刺してあるUSBFlashメモリーにはWindows10をインストールしてある。そのやり方は過去に紹介しているので参照してください。ヒンジが壊れたLIFEBOOK U536を修理してUSB-Windowsを試してみた。 | 日本を征服だ! - 楽天ブログ (rakuten.co.jp)若くてかわいかった頃の秦さんの写真も有ります。すると見事にWindows10が動くようになった。ただ最初は動きが鈍い。これは設定が終わって更新されるまでなので我慢。SSDじゃないので仕方ない。でも最新版までの更新が終わり、インストール時のtempファイルのクリーンアップが終われば、快適に動くようになる。インストールや更新時にはOSとは別にかなりの容量が必要になるが、それに対応できていないのである。なのでインストールや更新時が終わってそれに使っていた容量が無くなれば、正常に動くようになる。写真左はREGZAのHDMI端子。液晶の不良なのか本体の不良なのか調べるのに便利。僕は水越けいこさんが好き。彼女は歌がものすごくうまい。でもその人生はずーっと苦難の連続。障害の有る息子さんを抱え、ひどい旦那には逃げられて大変だと思う。頑張って欲しいな。
March 1, 2023
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