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生涯の好きな曲TOP10を決められなくて、結局TOP50にしたんだけど、その中に入れてないのにどうしてもと言う曲がいくつかあって、特に「愛はかげろうのように」は曲と言うか詞が好きで、YOUTUBEでは西尾紀子さんの訳詞がついたのが大好きです。著作権の関係が有るのですが、まぁちゃんと引用元を示せば良いのかなと思うので、YOUTUBEから引用したと断って、訳詞を載せるとこんな感じです。Hey lady, you lady世の中にはCursing at your life人生に不満のある人がたくさんいるでしょう。You’re a discontented motherそれは 子供に手を焼く母親かもしれないしAnd a regimented wife夫を持てあます妻かもしれないI’ve no doubt you dream aboutそんな人達はきっとThe things you’ll never do手の届かぬバラ色の夢を描いているのでしょうねBut, I wish someone had talked to meだけど ちょっと考えてみてごらんなさいLike I wanna talk to you私がこれからお話するようなことをWhoooa, I’ve been to Georgia and California私はジョージアもカルフォルニアもAnd anywhere I could run心休まる場所を求めて色々なところをまわったわTook the hand of a preacher man And we心優しい男と出会ってmade love in the sun恋をしたこともあったBut I ran out of places And friendly faces Because I had to be freeだけど結局はいつも 恋しい土地や恋しい人々を後にして去って行くの。何故って、いつも自由でいたかったからI’ve been to paradise幸福を味わってはみてもBut I’ve never been to me結局 私には自分ってものがつかめないんですものPlease lady, please, lady Don’t just walk awayねえ お願い もう少し'Cause I have this need to tell you私の話を聞いてもらえないかしらWhy I’m all alone today私が今でも孤独な理由をI can see so much of me Still living in your eyesあなたを見ているとWon’t you share a part of a weary heart私と同じ悩みを持っている女じゃないかって気がするのThat has lived million liesあなたもきっと 偽りをくり返してきた心を癒したいのではないかしらWhoooa, I’ve been to Nice and the Isle of Greeceニースやギリシャの島でWhile I’ve sipped champagne on a yachtヨットに乗りながらシャンペンを楽しんだ日々もあったI’ve moved like Harlow in Monte Carloモンテカルロではジーン・ハーロウのように華やかにふるまったしAnd showed ’em what I’ve got他の女ではI’ve been undressed by kings And I’ve seen some thingsThat a woman ain’t supposed to seeとても体験できないような 誘惑もあったわI’ve been to paradiseそんな幸福を味わってはみてもBut I’ve never been to me私には自分というものがつかめないのHey, you know what paradise is? It’s a lie、ねえ、考えてみて 幸福って何かしら? 幸福なんて本当は嘘A fantasy we create about people and placesas we’d like them to be人間が創りあげた幻想よBut you know what truth is?けどそれなら 真実のものって何かしら?It’s that little baby you’re holding、私達毎日出会う現実は腕の中で眠る赤ん坊の顔やAnd it’s that man you fought with this morning.The same one you’re going to make love with tonightけんかと仲直りを繰り返している恋人の顔That’s truth, that’s loveそれが人間の現実。それが生きていくっていうこと。Sometimes I’ve been to crying For unborn(childrenが抜けてます)時々未来の子供達(生まれてこなかった赤ん坊のことだと思う)のことを思って優い(多分憂いだと思う。それとも儚い?)に涙することもあるわThat might have made me complete But I, I took the sweet life間違っていたかもしれないけれど 私は心地よい人生を選んだつもりだったAnd I never knew I’d be bitter from the sweetこんなに難しいことだとは知らなかったわI’ve spent my life exploring The subtle whoring世の中の汚い部分も経験したけどThat costs too much to be freeどうしても自由になれなかったHey lady, I’ve been to paradiseこの上ないような幸福を味わってもBut I’ve never been to me結局 私には自分というものがつかめなかったからI’ve been to paradise Never been to me幸福を味わっても自分というものがつかめなかったのこんな感じなのですが、結構「深い」と思う。よく、この歌を、I’ve spent my life exploring The subtle whoringと言う部分から「娼婦の歌」と考える人がいるけれど、娼婦は「I’ve been to paradise Never been to me」なんてことは考えないと思う。多分、この歌の女主人公は、男たちを手玉にとって昇りつめた人なんだと思う。でも、どんなにお金持ちになって好きなことができても、それは幸せとは程遠く、むしろ子供や孫達に囲まれて、バカなケンカをする毎日が本当の幸せなのかもと言う歌。指原や末広に捧げたい歌ですね。
June 26, 2023
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愛天堂のarduinoシールドDSPラジオK-5807SLDは昔作って一応動作はするんだけど、1つの放送局しか聞けず、ボリュームも無い状態だったので、今回改造してみた。5月27日に後継品のK-5807SLD2を作ってプログラムを作ったら上手くいったので、今回もいけると思ったからだ。愛天堂のarduinoシールドDSPラジオ K-5807SLD2を作ってみた。スケッチ(ボリュームプログラム付き) | 日本を征服だ! - 楽天ブログ (rakuten.co.jp)でも実はそんなに簡単ではなかった。3日も悩んでしまった。1日目は実はK-5807SLDのせいではなく、3500円で買ったDELLの「電源が入らない」ノートパソコンのせいだった。付属のACアダプターを差し込むと、ACアダプターにはLEDが付いており、電源ONの状態だとリング状に点灯するのだが、差し込んだ瞬間に消える。何度やっても同じ。ノートパソコンを分解してみて、電源ラインを調べると抵抗値がゼロ。つまりどこかでショートしている。あちこち調べるが分からない。一番あやしい電源ライン入口付近のコンデンサーを外してみることにした。「バシッ!」手が滑って、コンデンサーは外れたのだが、周辺のいくつかの小さな抵抗と小さなコンデンサーを吹き飛ばしてしまった。万事休すである。見つからない。なんせ0.6mmX0.3mmと言う小さい部品である。くしゃみをするくらいでも飛ぶ。僕の実力では1.6mmX0.8mmつまり、いわゆる1608タイプの物ならば扱えるが、0603タイプは老眼の僕には厳しい。ピンセットで挟んで力が強すぎると割れたりする。YOUTUBE等で見ると、大きな部品、例えばICやMOSFETなんかだとヒートガンの熱風で半田を溶かして外すが、そもそも小さい抵抗やコンデンサーはヒートガンの熱風では半田が溶けた瞬間に吹き飛ぶ。大事な部品を無くしてしまい、落ち込んでその日は寝てしまった。2日目はノートパソコンはあきらめて倉庫にしまって、K-5807SLDに取り組んだ。後継機種のK-5807SLD2はスイッチが3個あるのにK-5807SLDは2個しかない。なので、例えば局の選択にスイッチを1個使うとボリュームは上げるだけか下げるだけになる。何でスイッチを3個にしてないんだ?と思いながら、とりあえず、SW1とSW2がインターフェースD11とD12を使っているのでD13に、10kΩの抵抗とスイッチSW3をつないで、上記5月27日に作った後継品のK-5807SLD2用のプログラムをインストールしてみた。但し、K-5807SLD2はインターフェースアドレスがD5とD6とD7なので、それはD11とD12とD13に修正して。動かない。さっそく、5月15日でやったようにLED点滅プログラムを適度に挿入して、どこに欠点があるのか調べてみた。この時点では、1局だけは聞こえるのだからハードウエアには間違いは無いと思っていたから。すると、while ( digitalRead(13) ==1){ digitalWrite(1,HIGH); };の部分で止まってない。つまりvoid loop を永遠に繰り返してLEDが順番に点灯・消灯している。つまりwhileの条件式digitalRead(13) ==1が成立してないのが分かった。何で?もしかしてハードウエアに欠陥が有る?半田付けがおかしいのか?調べたけれど間違ってはいない。でも調べてみて一つ分かった。10kΩでプルアップしているはずなのにD13の電圧が1.82Vしか出ていない。ちなみにD11とD12は3.3Vである。その時にひらめいた。だから愛天堂のK-5807SLDはスイッチが2つしかないのか。きっと愛天堂も最初はスイッチを3個にしたんだけど、うまく行かなかったんだ。じゃぁK-5807SLD2は何で3個なんだ?うんK-5807SLD2の方はアドレスがD5とD6とD7だな?そうかD13は使えないんだ。そう気がついてD13ではなく、D10を使うと動くようになった。多分だけれどもarduinoUNOはD13にテスト用のLEDがつながっている。赤色のLEDは順方向電圧が1.8V位なので、それより高い電圧はクリップされるのか。だからD13は入力用に使うには少し工夫が必要だし、通常は使わないんだ。愛天堂はその辺がよくわからないもんだから、K-5807SLD2ではD0からD13の真ん中で中途半端な位置で使いにくいD5~D7を使ったんだ。なのでその結果を受けて下のように改造した。なお、せっかく改造するので、アンテナ周りの感度UPを行った。元はイヤホンアンテナとして動作させようと思っていたらしく、イヤホンのアース側をアースから3.3μHで浮かしてFMINにつないでいるが、これはL出力とR出力のインダクターが省略されているのでかなり感度がおちる。FMラジオモジュール [RDA5807M]のデータシートを読むと、L出力、R出力及びアースには100MHzで600Ωになるインダクタンスを直列に入れろと有る。でも今のK-5807SLDはそうなっていない。また100MHzで600Ωになるインダクタンスを僕は今は持っていない。なので、L1=3.3μHを外してFMINとイヤホンのアースを結ぶラインを削り、イヤホンのアースをアースにつないだ。つまりイヤホンアンテナはやめて、FMINにワイヤーアンテナを付けたのだ。またL1の有った所にはFM用のバンドパスフィルターを付けた。バンドパスフィルターはこんな感じ。MD0505Uはコアとして真鍮?のネジが入っているので、ある程度のインダクタンス調整が可能。FM放送を聞きながら最高感度に調整できるが、高い周波数の局ではコアが抜けてしまうかも?その場合は24pFを22pF等に交換すると良いと思う。あとは5月27日のプログラムを、D5~D7のPINアドレスをD10~D12に変更するだけ。完成品はこんな感じ。愛天堂のキットは間違いが多いが、どうもお姉さんの試行錯誤の過程が想像でき(例えば今回はK-5807SLDのスイッチが2個の理由)それを探るのが本当に楽しい。千円以下のキットで、コナン君の気持ちを味わえるのはうれしい。
June 24, 2023
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YOU TUBEは素晴らしいと思う。今まで知らなかったことは分かるし、それが動画なので頭にすぅーっと入る。学校の勉強のダメな所は、紙に書いた字だと「読んで考えなくてはいけない」ところである。いや考えるのは大事なので「ダメ」とは言い過ぎかもしれない。ごめんなさい。でも何も考えなくても理解できるのはすごいことである。宗教の人がこの方法を使うと怖いと思う。何も知らない子供なら、何も考えずに信じてしまうだろう。アンパンマンだけでなくバイキンマンが好きな男の子さえいるくらいである。ちょっと将来が心配。まぁ難しいことは置いておいて、YOU TUBEで昔好きだった曲を聞くのがすごい楽しみである。いつも思うのだけれど、介護施設や老人ホームに「懐メロコーナー」を作って、おじいちゃんやおばあちゃんに開放すれば、きっとみんな長生きできると思うのに。そこでYOU TUBEを聞きながら、僕の生涯で一番好きだった曲を集めてみた。テレビ番組じゃないけれどTOP10を選んでみた。でも作業を初めてびっくりした。TOP10を決めるのはすごく難しい。TOP20でも無理。TOP50まで広げてやっと収まったが、まだ20曲位は残っている。僕って意外にも音楽が好きだったんだなと感心した。理系なのに。でそのTOP50は以下の通り。順序はかなり悩んだので日によって変わりそう。1.中森明菜:スローモーション 明菜ちゃんはジャニーさんとメリーさんに壊された。2.中森明菜:セカンド・ラブ この頃まではふっくらして素直な娘だったのに。芸能界怖い。3.弘田三枝子:人形の家 彼女も色々と噂はあったけれど曲そのものが良い。4.玉置浩二:行かないで 「李香蘭」の場面付バージョンが特に良いです。5.まちぶせ:石川ひとみ 彼女も周囲につぶされて病気になりましたが大好きでした。6.スコール:福山雅治 福山さんは良い曲が多いのですがこれが一番好き。7.Too Far Away:水越けいこ 水越恵子時代よりも水越けいこ時代の方が好きです。8.駅:布施明 元々は竹内まりやが明菜ちゃんに書いた曲。でも布施明が良い。9.春なのに:柏原芳恵 ユーミンが芳恵ちゃんに作った曲。芳恵ちゃんも苦労人。10.夜間飛行:八神純子 彼女の曲はみんな好きだけど、これがNo.111.思い出のセレナーデ:浜田朱里 天地真理バージョンも好きだけど朱里ちゃんの不幸さが好き。12.いちご白書をもう一度:バンバン ユーミンの名作。カラオケは「学生集会へも」が難しい。13.ウィズアウト・ユー:ニルソン 洋楽は分けようと思ったけど邦楽的なのでこちらに入れた。14.ロード:THE虎舞竜 曲そのものは10位以内だと思う。でも高橋ジョージがなぁ。15.小さな鳩:ダニエル・ヴィダル 故郷で目の前1mで見た彼女が生涯最高の少女だった。16.セーラー服と機関銃:薬師丸ひろ子 野生の証明で彼女を見ていっぺんで大好きになった。17.廃墟の鳩:ザ・タイガース ジュリーより加橋かつみが好き。年を取った彼バージョンです。18.Superbird:ニールセダカ 洋楽だけど邦楽的なのでこちら。日本でだけ流行ったそうです。19.非情のライセンス:天地茂 あのニヒルさが僕ら恰好付け少年にはたまらなかったです。20.冬が来る前に:紙風船 男の方存在感なし。女性の時代が来そうな予感がしました。21.結詞 井上陽水 陽水は良い歌が多くて迷ったけれど、これが最高傑作。22.糸:中島みゆき 彼女も良い歌を作る。ポプコンで時代を歌った時は最高だった。23.また君に恋してる:坂本冬美 ビリーバンバンバージョンも好きです。いいちこも好き。24.河のほとりに:谷山浩子 夢の中で猫の森に行きました。25.終着駅:奥村チヨ ちょっとバーのママっぽいけど、時代かなと言う感じです。26.碧い瞳のエリス:玉置浩二 彼は恐らく日本で一番歌がうまい歌手です。でも周囲がなぁ。27.思い出は美しすぎて:八神純子 水色の雨も好きですがドライブ中にかけてたこの曲が一番。28.シングルアゲイン:竹内まりや 彼女は大好きですが、明菜ちゃんをいじめた旦那は嫌い!29.夜の銀狐:斉条史朗 とあるスナックのママとよく歌ってました。奥さんには秘密。30.Stairway to Heaven:Led Zeppelin 移民の歌は邦楽的ではない。ギターのネックが2本?31.愛はかげろう:雅夢 若い頃はおセンチでした(古語)。32.わかって下さい:因幡晃 カラオケで歌うと、しばらくのどが痛かった。33.なごり雪:イルカ 女の人って容姿だけじゃないと思いました。34.水鏡:鈴木一平 僕のカラオケの十八番です。カラオケビデオのお姉さんが美人。35.難破船:中森明菜 加藤登紀子の名曲。それを明菜ちゃんが芸術の域まで高めた。36.神田川:かぐや姫 熊本の下宿がこの歌の通りでした。銭湯に行くのが寒かった。37.夜明けのスキャット:由紀さおり すごく綺麗な曲でした。日本では少ない感じの歌。38.旅立ち:松山千春 頭がハゲなければなぁ。政治家と仲良くなりすぎたバツだよ。39.Glass:河村隆一 河村さんイケメンだけど、意外にまともな普通の人なんだよな。40.渡良瀬橋:森高千里 江口洋介暗殺計画が持ち上がるほど僕らの間では残念な出来事。41.旅愁:西崎みどり デビュー時は本当に初々しかった。今のアイドルとは全然違う!42.青い影:ProcolHarum 青いと言うより「真っ青」が正しい。歌詞が難しくて意味不明。43.もののけ姫:米良良一 米良さんが迷走。売れすぎたな。米良は熊本に多い苗字。44.哀しみの終わる時:ミッシェルポルナレフ 彼も良い歌が多い。井上陽水は彼のまねをした。45.シクラメンのかほり:布施明 布施明がオリビエハッセーと結婚した時にはびっくりした。46.君をのせて:井上あずみ 初めて名古屋に単身赴任した時の歌。牧さん元気にしてる?47.22歳の別れ:風 熊本で家庭教師をした時のお嬢さんが好きだった。48.DEPARTURES:globe 小室さんがなぁ。彼の周囲の女の子はみんな不幸になるみたい。49.雪の華:中島美香 すごく良い歌。歌そのものはパクヒョシンの方が上手いかも?50.人生が二度あれば:井上陽水 両親が亡くなった今聞くと涙があふれます。親不孝者だから。じつはこれ以外にも好きな歌はたくさんあって迷ったし、歌い手も迷った。「駅」は竹内まりやのオリジナルも良いし、明菜ちゃんも良い。水越けいこは、ヨーソロとか水彩画とか移る季節なんて大好きだし。谷村新司の群青も良いし。映画だと砂の器も良いし。ドラマでは高校教師も入れたかった。洋楽だとビートルズやPFスローンの孤独の世界やプレスリーも良いし。まぁ、でも割り切ってこの50曲が暫定のTOP50と言うことになった。全部好きだなぁ。
June 20, 2023
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2020年12月19日に「邪馬台国はどこにあったか(その18)」として、自説である「邪馬台国宮崎説」をまとめてみたが、邪馬台国はどこにあったか(その18)まとめ | 日本を征服だ! - 楽天ブログ (rakuten.co.jp)その後の研究により、いくつかの誤認と新事実が明らかになったので、今回見直しをしてみた。その誤認と新事実の話をする前に、何故本居宣長以来何世紀もたつのに邪馬台国と卑弥呼について何も明らかになっていないのは、何故なのかを考えてみる。それが今回の誤認と新事実につながるから。邪馬台国畿内説は魏志倭人伝は「東と南を間違えて書いた」として自説を主張し、(そうしなければ近畿方面にはいけない)邪馬台国北部九州説は魏志倭人伝は「距離を間違えて書いた」として自説を主張するが、(そうしなければ九州から飛び出してしまう)どちらも自分に都合の良い部分を信じて都合の悪い部分を「間違えて書いた」と主張する、かなり子供っぽい論理展開である。逆に言えば、それが魏志倭人伝が「間違えて書いた」と主張するのであれば、「方角も距離も間違えて書いた」場合や「方角も距離も正しい」と言うパターンは無いのか?僕の「邪馬台国宮崎説」は「方角も距離も正しい」ことを前提にしたものである。但し、里程は1里を70~80m(短里と呼ばれる)と考えているし、方角は(地図が有ったとは思えないので)国の方角を記述しているのではなく、歩き出す方角や舟をこぎ出す方角を書いていると考えている。僕が何故そう考えるか?それは三国志の編者である陳寿の書き方を見れば分かる。例えば帯方郡から狗邪韓国への水行は「從郡至倭 循海岸水行 歴韓国 乍南乍東 到其北岸狗邪韓國 七千餘里」つまり郡(帯方郡)から倭に至るには海岸に沿って水行し、韓国を経由して、乍南乍東(南へ行ったり東へ行ったりして)倭国の北岸である狗邪韓國へ至る。7千里である。この一文だけで、僕の主張する里程と方角に対する理論の正しさが分かる。帯方郡(今のソウル付近)から狗邪韓国(今の金海市付近)までは約560kmであり、これを7000里で割ると、1里は80mである。よく1里=300~400m(長里)と主張する人がいるが、それは別の時代や別の地方の話で、少なくとも陳寿はこの本の中では1里=70~80m(短里)で書いている。これは三国志の中の他の地域でも同じである。例えば、曹操と張飛が対峙した時に、張飛が大声を出した時に曹操軍は30里しりぞいている。長里ならば12kmである。張飛の軍(と言うか一党?)はたかだか20人である。曹操の大軍が大声くらいで12kmも退避?僕はこれは短里であり、つまり2.4km程度だと思う。その方が現実的である。と言うか実距離ではなく「相手が見えなくなる距離」を30里と言ったのだと思う。赤兎馬が1日に千里走るのと同じであり、千里は実距離ではなく「すごい」と言う意味である。では「相手が見えなくなる距離」を30里と言ったのは何故か?地球は丸いので、おおよそ600m離れれば高さ1mの物は地平線に隠れる。なので30里=2400m離れれば4mの物が地平線下に隠れる。つまり馬に乗った張飛の高さを2.5mとすると、目の高さ1.5mの歩兵から張飛が見えなくなる。それで30里=「相手が見えなくなる距離」としたのであろう。なので三国志を編集した陳寿は短里つまり1里=70~80mを使っているのだと思う。方角も同じである。目的地の方角を示すのであれば「乍南乍東」は必要の無い表現である。歩き出した(この場合はこぎ出した)方角が目的地とは違うので、わざわざその理由(乍南乍東=南に行ったり東に行ったり)を書いている。つまり陳寿は目的地の方角を書いているのではなく、歩き出し(又はこぎ出し)た方角を書いている。ちょっと横道にそれたが、本題の今まで僕が誤認していたことと新事実。新しく手に入った「魏志倭人伝以外の中国の史書からの反映」とは後漢書のことである。范曄『後漢書』(五世紀前半中頃に成立)巻八十五・東夷列伝第七十五・倭の条に、「建武中元二年 倭奴國奉貢朝賀 使人自稱大夫 倭國之極南界也 光武賜以印綬」と書いている。その中で重要なのは光武帝が金印を与える理由につながる「倭國之極南界也」である。僕はこれは陳寿が魏志倭人伝の中で、魏の皇帝が卑弥呼に「親魏倭王」を与えた理由を書くに至った原因と同じだと考えている。「後漢書」と言いながら成立は三国志の方が100年ほど早い。明帝の頃に既に事業は始まっており、それは「東観漢記」として一旦はまとまるが、同時代の編纂であるため記述に制約がある(大人の事情がある)点、多数の人の編纂を経たため一貫性に欠ける点に問題を抱えていた。それを東晋の時代に范曄がまとめたのである。なので陳寿が後漢書を見て「親魏倭王」の印を与えた経緯を書いた訳ではないが、同じ立場として重要なこと(何故金印を与えたか)を記したのである。「倭國之極南界也」については「倭國の極南界なり」と理解する学者が多かった。奴国は福岡付近に比定されているので、奴国が倭国の極南界ならば倭国は福岡から出ず、この文章の読み方が不適切なので、漢時代の奴国と魏志倭人伝時代の邪馬台国の関係が分からず、それが邪馬台国の位置と関係が有るのだとは読めなかった。中国語は英語と同様に理論的な言語である。情感重視の日本語とは違い文法が厳密。例えば主語や述語が無い文章は少ない。例えば学者先生の主張する読み方(倭國之極南界也)=倭国の極南界なりの場合の主語は何だろう?主語を「奴国」と考えられる可能性はあるが、「倭奴國奉貢朝賀」と「倭國之極南界也」の間に「使人自稱大夫」が挟まっており、主語「奴国」と述語「極南界也」の間に別の主語「使人」と述語「稱」が挟まっているので、文法にうるさくない日本語ならばあり得るが、文法に厳しい英語や中国語ではありえない。もし「奴国」を主語とするならば、ちゃんと「倭國之極南界也」の前に「奴国」を書くだろう。また別の主語として「使人(の住む場所)」とし、「使人(の住む場所)」は倭国の極南界なりと読む可能性はあるが、もし無理やり「使人(の住む場所)」を主語とするならば、述語として「住(極南界に住む)」か「居(極南界に居る)」と言う動詞が有るはずだが無い。英語や中国語は話し言葉では主語をよく省くが、書き言葉では省かない。ましてや「後漢書」は史書である。正しい文法で書かれたはず。ではどう読むのが正しいのであろうか?そもそも「倭國之極南界也」を「倭国の極南界也」と読むのがおかしいのである。どういうことか。漢和辞典で「之」と言う字を調べるとすぐに分かる。「之」音読み=シ、訓読み=これ、こ(の)、の、ゆ(く) 意味=①ゆく。いたる。 ②これ。この。指示・強意の助字。 ③の。 主格や修飾の関係を表す助字。と書いてある。つまり「之」を「の」と読むのは日本人だけで、中国人は「の」とは読まず、(「の」は訓読みなので中国人は「倭国の極南界也」とは読まない。)意味的にも多くの場合は「の」と言う助詞としての使い方よりも「これ」と言う場合が多い。現に後漢書でも、この部分の少し前には次のように使われている。以為持衰不謹便共殺之建武中元二年倭奴国奉貢朝賀使人自稱大夫 倭國之極南界也後ろの方を「倭国の極南界也」と読むのならば、前の方も共殺之建武中元二年を、「共殺の建武中元二年」と読むのだろうか?歴史学者は漢文を読めないのだと思う。後ろの方は「持衰が謹まずと為すを以ってさらに共にこれを殺す。建武中元二年~」である。つまり「之」を「これ」と言う意味で使っているのである。ならば、「倭國之極南界也」も「倭国これ南界を極める」だろう。使人は自らを大夫と称し、(自分の国である)倭国は南の端まで征服したと主張したのである。これは「自分を倭国の王だと認めてくれ」と言う主張とその理由の主張であり、光武帝はそれを認めて金印を与えたのである。まぁその辺は范曄が文章が下手だったと片付けるにしても、何でこれ=奴国は倭国の極南界也=が金印授与の理由になる?歴史学者はものごとを理論的に考えないし、政治にうとい(あるいは無視する)人が多い。金印を与えた背景や時代を考えるべきだと思う。そうすると読み方が変わってくる。「極」が動詞で「極める」と読むのである。つまり「倭國之極南界也」を倭国の南界を極めるなりと読むのである。つまり倭の地を南の端まで平定した=実質的に倭国の王となった=よってそれを光武帝が認めた、だから「漢委奴国王」の金印を与えたのである。金印の文字を「漢の伊都国王」と読むのはこの事から無理が有る。他にも国があるのに何で何の為に金印を与えた?となるのでこう読めない。金印は記念品として与えたのではない。政治的意図が有って与えたのである。だから思いつくままに漢字を読むだけではいけないと思う。漢の光武帝の「極地政策(誰にその付近をまかせるか)」を考えるべきだと思う。その理由から、後年倭の五王が朝貢した際には「安東大将軍」の称号を資格なしと断られている。(438年に倭の五王の一人である珍は 「使持節 都督 倭・百済・新羅・任那・秦韓・慕韓六国諸軍事 安東大将軍 倭国王」 の承認を要求したが、「安東将軍倭国王」以外は却下された。 なお、武は「安東大将軍倭国王」を許されたらしい。これは倭王武の上表文で、 東は毛人(蝦夷)を征すること55ヶ国。西は、衆夷(熊襲)を服すること66国。 渡って海北(朝鮮)を平らげること95国と主張したのが評価されたのだと思う。 つまり南界を極めたと主張するのと同じ論法である。)話は戻って、「倭國之極南界也」の「極」を極めると読むと、僕の邪馬台国宮崎説が事実になる。倭国の南の果てつまり宮崎や鹿児島まで倭国は平定していたのである。それを陳寿は知っており、また倭国大乱後に卑弥呼が倭国の女王になったのを知っていたので、邪馬台国とその北側の国々を無理にでも(たとえ倭人に聞いた話でも)調べて書いたのである。<後日追記>上の論理を考えていたら、ものすごく大事なことに気がついた。魏志倭人伝は、不彌國と女王国の間の国々についておかしな書き方をしている。「自女王國以北 其戸數道里可得略載 其餘旁國遠絶 不可得詳」(意訳) 女王国より以北は、その戸数や距離のだいたいのところを記載出来る国(伊都国等)もあるが、 女王国のかたわらの国いくつかの国々は遠くて情報もなく、詳しく知ることは出来ないと断ってから、「次有斯馬國(途中略) 次有烏奴國 次有奴國 此女王境界所盡 其南有狗奴國 男子為王 其官有狗古智卑狗 不屬女王 自郡至女王國 萬二千餘里」(意訳) (女王国の北側には斯馬國(途中略) そして烏奴國があり、そして有奴國がある この奴国までが女王に従う国々である。 奴国の南には狗奴国がある。王は男で狗古智卑狗と言い女王国には属さない。 (魏志倭人伝は魏志韓伝とは違い「倭人伝」つまり国ではなく倭人の住む地域の説明なので、 女王国に属さない狗奴国も女王国の北側の国の一つとして説明している。 なので「其南有狗奴國」の「其」は直前まで説明している「奴国」を指している。) 帯方郡より女王国までは(直線距離で)12000里である。 (下でも説明しているが女王国と投馬國には使者は行っておらず、聞いた話なので、 伊都国や不彌國への行程は含まず、帯方郡から女王国への直線距離である。)こう書いている。単純に考えれば、不彌國までの行程に続けて、不彌國の南には(女王国までの間に)次の国が有ると書くのが普通。何故「自女王國以北」と書くのかがずーっと疑問だった。でも今回分かった。今までは女王国や投馬國への行程を伊都国か不彌國で倭人に聞いたのを書いてと思っていたが、実は後漢書に書かれている「倭國之極南界也」の説明を「使人」が光武帝に説明した際に、その証拠として南界を極めるまでに征服した国々の名前を説明していた、その記録が残っていて、陳寿はそれを読み魏志倭人伝の「女王国の北側の国々」を書いたのだ。なので、こんな書き方になったのだと思う。今まで疑問に思っていたことが一つ解決した。後日追記終わり。<さらに後日追記>後から読み返して、ふと気がついた。そう言えば魏志倭人伝は帯方郡から不彌國までは「北側から順に不彌國まで書いている」のに、何故「不彌国から女王国へ至る間には斯馬國(途中略) 次有奴國がある。」書かなかったのか?もしかすると陳寿が持っていた「帥升の時代の記録」では狗奴国は奴国の支配下だったのでは?なので「奴国の部分で女王国に属する国の境」は陳寿が後から付け加えた?そう考えれば、全ての疑問に答えが出る。帯方郡から不彌國までは北側から順に書いているのは中国の使者がたどった道だから。それ以降は「女王国の北側の国」としたのは「帥升が南界を極めた証拠として挙げた国々」だから南界の女王国の北側だから。帥升の時代までは狗奴国も奴国の支配下だったので帥升の記録では女王国の北側の国。ただ、女王国と狗奴国が戦争をしていると言う新しい情報が入ったので陳寿が付け加えた。だから狗奴国は女王国には属さないが、北側の国として書かれている。これってやはり、卑弥呼は天照大御神で狗奴国の王はスサノオノミコトなんではないだろうか?(古事記ではスサノオノミコトは高天原から追われて海を渡り新羅(だと思う)に行き、 そこがイヤだったので日本に戻って出雲をつくったことになっています。)元は(姉弟なので)同じ邪馬台国の一員だったが、弟は離れて戦いになった?神話そのものでは?さらに後日追記終わり。<さらにさらに後日追記>僕の邪馬台国宮崎説でみんなが疑問に思いそうなことを解説してみました。以下のリンクを御覧願います。邪馬台国はどこにあったか(その40)邪馬台国宮崎説の疑問に対する検討その中で、特に狗奴国が女王国の南に在るはずだと言う従来の考え方が誤りである証明をして、狗奴国の男王が卑弥呼の弟であればどうなるかも検討してみました。以下のリンクを御覧願います。邪馬台国はどこにあったか(その42)女王国の北側の国とは?邪馬台国はどこにあったか(その44)卑弥呼の「以て死す」とはどういう意味か?魏の使者は投馬國と邪馬台国には行っていない。それは不彌國までの行程の書き方と投馬國及び邪馬台国への行程の記述方法の違いから分かる。不彌國までは「東南陸行 五百里 到伊都國」のように、「方角」+「動詞」+「距離」+「到達地」と言う書式で書かれている。これは実際に行動したことを記述する書式であり、記載の「方角」に「動詞」したら「距離」行った所に「到達地」があると言う場合に用いられる。対して投馬國と邪馬台国は「南至投馬國 水行二十日」のように。「方角」+「目的地」+「動詞」+「距離」と言う書式で書かれている。これは人に聞いたりした場合等実際には行ったことはないけれど、こうすれば行けるらしいと言う場合に用いられる書式である。記載の「方角」に「目的地」は有り「動詞」すれば「距離」で行けると言う場合に用いられる。魏の使者が投馬國と邪馬台国に行っていれば不彌國までと同じ書式で書かれるはずであり、書式を変える必要は無い。実際に行った訳ではなく不彌國もしくは伊都国で倭人に聞いた話なので書式が違うのである。実際に行った訳ではなく、漢の時代に奴国の使人が説明した記録が残っており、それを書いた物だから書式が違うのである。とすると陳寿が「自郡至女王國 萬二千餘里」=帯方郡から邪馬台国までは12000里と書いたのは伊都国や不彌國を経由した距離ではなく、本当に帯方郡から邪馬台国への直線距離なんだと思う。こう考えれば邪馬台国北部九州説(近畿説も同じだが)の弱点である、「距離を間違えて書いた」と言うのも間違えたのではなく素直に読めば宮崎に着く。googleEarthで調べた帯方郡(ソウル)~邪馬台国(宮崎県小林市)は約900kmである。短里(1里=80m)ならば12000里は960kmなのでほぼ正しい。この時代に3Dの地球上の距離が測れたのかと言うのは誰しもが持つ疑問だが、紀元前2世紀ごろに書かれた「周碑算経」には、太陽高度や季節と星の位置から距離を測る方法が書かれている。卑弥呼に緯度経度や太陽高度や星空の知識が有ったかどうかは不明だが、なんせ「鬼道をよくあやつる」人なので、教えれば必要な情報(秋分の日の太陽高度や星座の位置:これから緯度経度が分かる)を得たり、それを魏の使者に伝えることは容易だっただろう。以上が2020年12月19日以降に分かった新事実と魏志倭人伝以外の中国の史書からの知識である。これを元に模索していたら、2020年12月19日時点ではどうしても分からなかった邪馬台国の北側の国が判明した。好古都(かこつ)國はどうしても分からなかったが、鹿児島なのだと分かった。昔は桜島のことを鹿児島と呼んでいて、水夫(かこ)が多く住んでいたからそう呼ばれた。つまり水夫(かこ)の津(つ=港)である。同様に「かこ」の島が桜島つまり鹿児島である。投馬(とぅま)國は「薩摩(さつま)」の音から鹿児島だと思っていたが、実は西都市(妻=つま)だと分かった。この辺は明治時代まで「美々津(みみつ)」と呼ばれており、これは魏志倭人伝の投馬國の記載「官日彌彌(みみ)」の官名に一致する。彌彌(みみ)の津(港)である。呼邑(こゆう)國は熊本県人吉市だと思っていたが西都市「児湯(こゆ)」だと分かった。2020年12月19日時点では邪馬台国は宮崎市だと考えていた。宮崎市の生目(いきめ)古墳群の名称が、魏志倭人伝の邪馬台国の記載「官有伊支馬(いきめ)」の官名と同じであるためだが、実は垂仁天皇の日本書紀に書かれた和名「活目天皇(いくめのすめらみこと)」とも一致して、古事記に書かれた天孫降臨の場所(高千穂峰)と神武天皇の故事から小林市の方が適当と思い修正。つまり卑弥呼は女王だが独身で、仕えた男が伊支馬であり垂仁天皇はその子孫だと考えたのだ。しかも上記はそのまま古事記や日本書紀につながる。これが邪馬台国=宮崎県小林市説の決定打になった。もし卑弥呼と邪馬台国の話が事実で古事記と日本書紀につながるのならば、それは古代の天皇やその業績の中に何か関連する記述が残っているはずである。例えば上に書いた垂仁天皇のお名前がそれである。とすると古代の天皇の業績の中にも何かあるのではないか?垂仁天皇の子である景行天皇は、熊襲が貢物をしなくなり逆らったので九州巡幸をするが、巡幸と言う言葉で分かるが、自ら戦争はしていない。崇神天皇時代の四道将軍や景行天皇時代のヤマトタケルから分かるように普通は部下を派遣する。景行天皇の記事を見ても多くは地元の豪族が三種の神器を掲げて服従を誓って出る。逆にその地元の豪族の敵を退治するくらいである。Wiki景行天皇より引用 周防国の娑麼(さば、山口県防府市)に着くと神夏磯媛という女酋が投降してきた。 神夏磯媛は鼻垂,耳垂,麻剥,土折猪折という賊に抵抗の意思があるので征伐するよう上奏した。 そこでまず麻剥に赤い服や褌、様々な珍しいものを与え、 他の三人も呼びよせたところをまとめて誅殺した。 同月、筑紫(九州)に入り豊前国の長峡県に行宮(かりみや)を設けた。 そこでここを京都郡(福岡県行橋市)と呼ぶ。福岡県には今でも「みやこ郡」が残っている。それにしても九州にはあちこちに「女王様」が居たのですね。卑弥呼と間違えそう。なので僕は九州の南側地域及び東側地域は景行天皇(つまり垂仁天皇)の祖先の地であり、地元の(自身の出身族)を助け、それに敵対する九州西側の「熊襲」を退治しに行ったのだと思う。それならば部下に任せるのではなく自身が巡幸した説明がつく。部下を寄越すとおじさんやおばさん親戚一同からさんざんにいわれそうだから。それが何故魏志倭人伝が古事記や日本書紀につながることになるか?垂仁天皇や景行天皇の祖先が宮崎に居たならば、熊襲は狗奴国と考えることができる。邪馬台国と狗奴国の子孫は景行天皇の時代まで戦っており、景行天皇は九州までその決着をつけに行ったと読めるからである。いや狗奴国は邪馬台国の南にあるはずと言う人もいるが魏志倭人伝を良く読めば分かる。原文は、「自女王國以北 其戸數道里可得略載 其餘旁國遠絶 不可得詳 次有斯馬國~途中略 ~次有烏奴國 次有奴國 此女王境界所盡 其南有狗奴國 男子為王 其官有狗古智卑狗 不屬女王 自郡至女王國 萬二千餘里」と書いている。狗奴国は邪馬台国の南にあるはずと言う人は、この書が何故「魏志倭人伝」なのか理解していない。陳寿は魏志倭人伝の最初の部分で、「倭人在帶方東南大海之中 依山㠀為國邑 舊百餘國 漢時有朝見者 今使譯所通三十國」と書いている。またすぐそのあとで、「從郡至倭 循海岸水行 歴韓国 乍南乍東 到其北岸狗邪韓國 七千餘里」と書いている。つまり倭は邪馬台国の仲間だけではなく、魏と付き合いのない70国も含めて倭と考えている。だから魏志「倭人」伝なのである。「魏志韓伝」は魏志「韓人」伝とはしていない。であれば「自女王國以北(女王国より北の国)」は、「此女王境界所盡(女王国に属する国の境界)」までではなく、女王国に属さない狗奴国も含まれるはずであり、「其南有狗奴國(その南に狗奴国が有る)」の「其(その)」は奴国のことである。とすると狗奴国は奴国の南で女王国の北側、つまり熊本付近になる。これは魏志倭人伝の狗奴国の記述にも合う。「其官有狗古智卑狗 不屬女王(その官狗古智卑狗と言う者あり 女王国には属さない)」である。昔から言われている「狗古智卑狗=菊池彦」によく合致して矛盾しない。つまり狗奴国は熊本の菊池付近が中心だったのである。上記の<さらにさらに後日追記>のリンク先願います。こう考えると魏志倭人伝の邪馬台国と狗奴国の争いが、古事記や日本書紀の景行天皇巡幸につながるのである。ここまでの魏志倭人伝に書かれたに邪馬台国に関する記述を一つの地図にまとめてみた。(上図は右クリックして出るメニューから「新しいタブで画像を開く」を選ぶと、 別タブで大きな画像として見られます。)邪馬台国畿内説や邪馬台国九州北部説は魏志倭人伝の記述のうち一部だけを取り出して自分に都合よく解釈しているのにすぎない。魏志倭人伝に書かれたに邪馬台国に関する記述を全て網羅した人はいないのではなかろうか?特に倭国の様子を書いた後に陳寿がしみじみと書いた以下の部分は大事である。(原文と意訳) 諸國文身各異 或左或右 或大或小 尊卑有差 計其道里 當在會稽東治之東 (女王国までの)道のりを計算すると、まさに(中国の)会稽の東の魏の治所から東にある。会稽の東の魏の治所とは、会稽の東側にある魏の治める所つまり現在の江蘇省蘇州市辺り(分かりやすく言うと南京市辺り)の東側である。(俗説で言われる会稽郡東治県は後世になってからの地名であり、 魏の時代にはまだ呉の領域である。 ただ、魏の末期には魏に組み入れられ魏の領域になった。)邪馬台国近畿説の主張するように南と東を間違えているのならば、(南→東つまり90度左回りならば、東→北なので)邪馬台国は北京の辺りに有ったことになってしまう。見直し後の帯方郡から邪馬台国までの地図を(北側の国も含めて)書いてみた。北側の国は奴国の帥升が南界を極める過程で征服した国々なので、厳密に言うと奴国と邪馬台国の間に有る国々だが、概ね北側にある。またそれぞれの国の古代の状況等もまとめてみた。見づらい場合は画像の上で右クリックして出るメニューで「新しいタブで画像を開く」を選ぶと、別タブで開けるので、自由に拡大できるので参考まで。
June 18, 2023
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2020年4月14日に書いたブログで愛天堂ラジオK-7613AにカウンターK-3610Sを組み合わせて、元々はAMラジオを短波ラジオに改造した。愛天堂ラジオK-7613AにカウンターK-3610Sを組み合わせてみた。 | 日本を征服だ! - 楽天ブログ (rakuten.co.jp)但し、その時にはコイルの製作は途中で未完のままで終わっていたのを今回完成まで持って行った。今回はコイルの製作にNSBコンバーターの考え方を取り入れて実用性を増すようにした。それはバリコンに直列にコンデンサーを入れて周波数の変化範囲を制限したのである。AMラジオのコイルだけを短波の周波数に合わせて小さくすると、周波数の変化範囲がすさまじく大きくなり、バリコンを少し動かすだけで放送局を通り過ぎてしまい受信調整が難しい。MWの場合は520kHz~1620kHzと言う3倍の変化量でも、バリコン1度あたりの周波数変化は6kHz程度だが、短波の場合3MHz~9MHzの3倍の変化とすると、バリコン1度あたりの変化は33kHzになってしまい、ちょっと触れただけで100kHzくらいは動いて同調し辛い。なのでバリコンに直列(実際はコイルに直列)にコンデンサーを入れて調整するのである。その際にいちいち計算するのは大変なので、EXCELで簡単な計算表を作った。パラメーターが多すぎると滅茶滅茶になるので、コイルとバリコンと直列コンデンサーと浮遊容量しか計算していないが多分大丈夫(いい加減)これに基づいてコイルを巻いてみた。OSCコイルは半田付けが難しい。でも例えばピンセット等で固定してやれば楽である。上の写真の中にコイルとコンデンサーの接続が書いてあるがタップ用の足部分で両者を接続する。これをLCメーターでインダクタンスを測定する。81μHと表示されている。これが間違いだった。実際に回路に組み込むと4.2MHz~4.8MHzとかなり低い周波数になる。何となくおかしいと思いながらANTコイルも計ってみた。こちらも回路に組み込んでディップメーターで計ると4.2~5.3MHzである。何で???色々と考えて気がついたのは、もしかすると測定器(LCメーター)で使われる周波数と実際の同調回路の周波数の違いのせいかも?この手のLCメーターは内部に発振回路と標準コンデンサーが有り、試料のコイルと共振させて周波数をカウントして逆算してインダクタンスを表示するのだけれど、LCメーターで使われている低い周波数ならば問題にならないコイルの色々な成分が、実際に使う7MHzと言う高周波では邪魔をして、測定時とは条件が変わりずれているのかも?<後日訂正>共振させて周波数をカウントしてインダクタンスを測定しているのではなく、100kHz程度の交流電源を使って「インピーダンスからインダクタンスを求めている」そうです。と言うことは「LCメーターで使われている低い周波数ならば問題にならないコイルの色々な成分が、 実際に使う7MHzと言う高周波では邪魔をして、測定時とは条件が変わりずれている」状況は、よりひどいと言うことじゃん!コイルの等価回路はこんな感じである。例えば7MHzではCpが無視できない大きさでLに並列になってに加わり、銅線抵抗と鉄損が影響して時定数が狂えば想定とは違う発振状態になるのかもしれない。OSCコイルとANTコイルともにLCメーター表示で計算される周波数の半分になっている。つまりCpが並列と考えるならバリコンの容量とCpが近くなればあり得る話である。2つのコイルともに半分なので、相関があり、理論と一致するかもしれない。そう考えてLCメーターの値は無視して、OSCコイルはカウンターの表示で調整した。コイルはコアを抜いた状態でバリコンをminにすると(つまりMAX周波数は)約7.2MHzだった。コアを最大に押し込んだ状態でバリコンをNAXにすると(つまりmin周波数は)約5.8MHzだった。ANTコイルはディップメーターで計って調整することにした。ディップメーターは共振周波数でディップ(メーター値が下がる)するので同調周波数が分かる。古いディップメーターで若い頃に無理して買ったTRIOのDM-6。今でも使えるが誇りまみれ。ANTコイルは5.6~7.5KHzが同調周波数だった。なお写真を拡大して見ると分かるけど、ANTコイルもOSCコイルも基板には半田付けしていない。基板にヘッダーの受け側を半田付けして、それに差し込んでいる。つまり「プラグインコイル」方式になっている。これによりANTコイルとOSCコイルを差し替えれば、AMラジオにもなるし、短波ラジオにもなる。しかも短波ラジオは狙った周波数に特化可能なので同調の調整がしやすい。バーニヤー感覚でバリコンを回せる。バリコンの全範囲でトラッキングを取ることは難しいが、特定の周波数ならばそこだけ最大感度に調整すれば良いので、強力な受信機ができる。場合によっては(定数が確定したら)ヘッダーの受け側を外してコイルを半田付けすると良い。思うに広い範囲を受信できる10万円の受信機を1台作るよりも、狙った周波数を受信できる2千円の受信機を10台作る方がお得なのではないだろうか?何よりもコイルを計算通り巻くのは低レベルアマチュアの僕には難しいが、ある程度の予想をして多めに巻いておき、実際に動かしたりディップメーターで計りながら巻き戻して行く際に、半田付けではなく差し込み式なので、自由に調整できるのはうれしい。コイルの位置を調整する代わりに巻き数を調整して最大感度に調整ができる。ヘッダーの受け側の感じはこんな感じ。ほこりをかぶっている。ながくほったらかしにしてたからなぁ。こんな感じで完成したので6.055MHz(ラジオNIKKEI第1)を聞いてみた。驚くほど高感度で、MWのNHKよりもよく入る。またバリコンの回転角度に対する周波数の変化も、バリコンの回転角度1度が5.6kHz程度なので調整がしやすい。2020年4月からの宿題がやっと完成した。理論的にはアマチュア無線7MHz帯も受信可能だが、この辺のアマチュア無線はSSBだと思うのでBFOが必要。いつか作ってみようかな?
June 16, 2023
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久しぶりにヤフオクでノートパソコンを買った。もちろん年金生活の僕なので新品ではない。それどころかジャンク(がらくた)ノートパソコンである。こんな感じ。ジャンクで投げ売りされた一番の理由は上半身(液晶部分)を支えるヒンジが壊れていること。そのせいでお店は売り物にならないと考えてメモリーとSSD(記憶装置)を外して別に売っている。で、僕は最初は液晶さえ正常ならば他の液晶が壊れたジャンクパソコンに流用できると考え、概ね3000円くらいまでなら頑張るつもりで入札した。僕の1か月のおこづかいの範囲である。(液晶パネルは新品だと10,000~30,000円もするが、安い中古を探すのは大変。 なのでジャンクパソコンから流用する。 今回のLENOVOのL380の液晶は標準は1366X768のはずなのに、 何故か1920X1080つまりHDタイプだった。大満足!)届いたパソコンに電源を入れて驚いた。ちゃんと動く。おぉー!CPUはCOREi5-8250Uだ。第8世代!4コア8スレッドだ。一昔前の第7世代のCOREi7つまり前世代の最高CPUを上回る。(第7世代COREi5は4コア4スレッド。COREi7さえ4コア8スレッドである。)さすがに昨年発売になった第12世代パソコンにはかなわないが、その前の第11世代のCPUとは動作周波数くらいしか違わない。第11世代は現役で今でも販売中。翌日ヤマダ電機に行ったら第11世代のノートパソコン売ってた!動作周波数はゲームをするのでなければ、ほとんど気にならない。officeやネットならば動作周波数よりもコア数とスレッド数が効く。つまり現役ノートパソコンとそれほど変わらない。ヒンジさえ直れば。またもっと大事なのは第8世代CPU以降はWindows11が標準でインストールできること。第7世代以前は(むりやりしないとインストールできず、サポートが無い。)一応BIOSと言うかUEFIに付随する機能テストを実施した。この辺がLEMOVO製品のしっかりとした部分である。富士通やNECは売るだけでサポートしないのでこういう大事な機能が無い。なお、LET’sNOTEはしっかりしているのでついている。届いたパソコンのヒンジはこんな感じ。富士通などのパソコンはこのヒンジが弱く、昔は新しいパソコンを買わせる為にわざと弱く作っていると噂されるくらいよく壊れた。写真のLENOVOのヒンジは富士通のヒンジの3倍くらい分厚いので修理可能な気がする。液晶側も見てみた。うわー!ネジ留め部分は液晶側と一体成型だけど蹴飛ばせばこわれそうな構造だ。と言うかノートパソコンなんだから蹴飛ばすことはありえないか?最初は「プラリペア」で成型し直すか接着剤でくっつけるか迷ったけれども、それでは弱い。ドリルで穴を開けてナットで挟み込むことにした。良心的な製品だと思う。富士通などはコスト削減の為にプラスチック製なんだけどこれは硬質アルミ製なので丈夫。穴あけが終了したらねじ止め。比較の為に普通のネジと「低頭ネジ」を使ってみた。目で見て分かるくらい高さが違う。普通のネジでは液晶パネルが閉まらないので、全部低頭ネジに取り換えた。さらに、それでも少し隙間ができるので2枚重ねていたワッシャーも1枚に減らした。2枚重ねていたのは2枚上の写真で分かるようにヒンジの穴が大きいから。1枚だとはずれそうな気がしたのである。でも低頭ネジの頭が大きいので1枚でも大丈夫だった。こうして(見た目は悪いけれど)パソコンとしては優秀なノートパソコンが手に入った。COREi5-8250Uは通常時の動作周波数は1.6GHzしかないが、ターボブースト時は3.4GHzまで跳ね上がり、デスクトップパソコンと遜色ない。つまり羊の皮をかぶったオオカミである。普段は大人しいので低消費電力で、いざと言う時は黒ヒョウのように駆け抜ける。それに解像度が1920X1080つまりフルHDだからなぁ。通常よく売っている1366X768の2倍の精密さ。きめ細かい描画が可能。ちなみに地デジは1440×1080、BS/CSやブルーレイは1920×1080なので、これは地デジよりも1ランク上だな。ちょっと良いかも?
June 6, 2023
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6月1日は金沢区わの会のイベントで、熊野神社から八景島アジサイロードを巡った。八景島には何度も行ってるし、もう知り尽くしていると思っていたら、ちょっとしたヒントで思わぬ発見が有った。アメリカンアンカレッジ記念碑の存在は知っていたが、その意味については知らず、今回、実は金沢は明治維新において重要な位置を占める場所だったんだと知った。浦賀や下田にペリーが来たのは学校で習うんだけど、実は金沢も同じくらい大事な場所であり、何で教科書には載っていないんだ?と思ったのだ。今回のルートはこんな感じ。シーサイドライン海の公園柴口の駅からまずは熊野神社に向かう。途中、この辺の現在と過去の地形の変化についてガイドさんから説明が有った。この辺は海辺で、崖っぷちが海まで迫っていたらしい。上が現在の付近の地形で、下が昭和初期である。熊野神社の下はすぐに海である。海に浮かぶはしご状の物は海苔の養殖かなぁ?昭和初期にはもうそんな技術があったんだ?この付近の地名である柴(小柴)は、応長元年(1311年)に起きた大津波の際に、熊野神社のお陰で住民たちは難を逃れ、この地が罹災者たちの「越し場」となったことから、「こしば(小柴)」とつけられたものらしい。熊野神社は山の上に有り、長い130段ちょっとの階段の下に鳥居が有る。脇には「水神社」と「稲荷大明神」がある。金刀比良(金毘羅)さんは四国の有名な金毘羅さんがそうであるように船乗りの神様で、(こんぴらふねふね、おいてにほかけて、しゅらしゅしゅしゅ!と言う歌が有名)ここも柴漁港の人達にとって大事な神社であり、7月19日に行われる熊野神社の例大祭とは別に、水神社独自に春に水神社大祭が行われる。熊野神社は9月に湯立神楽を行うが、水神社も水神社大祭時に湯立神楽を行うそうだ。左手には稲荷大明神が有る。それにしても熊野権現様と金毘羅さんとお稲荷様が並ぶなんて、珍しいと思う。熊野さんとお稲荷さんは仲が悪いんじゃなかったっけ?熊野三山の三柱って、スサノオとイザナギとイザナミだよな。それに対してお稲荷様は渡来系の秦氏だからなぁ。節操ないなぁ。右側の鳥居をくぐって熊野権現へ至る階段を半分くらい登った所の脇に石仏不動が有る。もう神様仏様のオンパレードだなぁ。近くにお不動様の由来を書いた板が有り、それにお不動様は今泉のお不動様から分霊されたもので、西暦1800年代に願主は久良岐郡小芝村の彌太郎さんと元五郎と書いてある。その後明治15年に講を立てたらしい。漁業関係者は信心深いからなぁ。130段強の階段を昇りきると本堂がある。境内の脇には秋葉大権現も有る。いやー本当に神様のオンパレード。僕の田舎では神様や仏様はたくさん並べるとけんかするから並べてはダメと言われるんだけど?この近所では大丈夫なのかもしれない。熊野神社を後にして、熊野神社の別当寺であった宝蔵院へ向かう。途中に柴隧道が有る。短いトンネルだけれども、称名寺まで続いている。これが無いとぐるーっと大回りすることになるので便利。宝蔵院は真言宗のお寺で、昔は熊野神社の別当寺だった。お寺巡りは宝蔵院までで、この後は八景島に向かう。かなり歩いたのだけれども、昨日まで雨だったのでそれほど暑くはなく気持ちいい。八景島はアジサイロードのアジサイが旬で、あちこちでアマチュアカメラマンが撮影中。また、八景島中心部にはバラ園が有り、バラも最盛期だった。バラの中でもミスターリンカーンは僕のお気に入り。お花が好きな人は是非、今来るべきだと思う。一番きれいな季節だから。そうそう、バラ園から下る所に特別なアジサイが有る。八景ブルーである。2013年の八景島誕生20周年記念アジサイ祭で発表された八景島オリジナルのアジサイ。ここを下って東側の海岸に出るとアメリカンアンカレッジ記念碑が有る。何も知らないで来ると、単なる海の景色を眺める近代的東屋なんだけど実は歴史的名所。一般には知られていないが、明治維新のきっかけになったペリー来航の際、来航1回目は浦賀に上陸して日本国民を驚かせたペリーが、翌年、2回目に来航した際に幕府と交渉する為に長期に船を停泊可能な場所を求めて、深さが約24m強とちょうどよく江戸城にも近いこの地を選んだのらしい。説明板が有る。えー!日米修好通商条約ってここで締結されたの?教科書には下田って書いてなかった?下田奉行が手続きをしたので下田だと勘違いしやすいけれども、実はここだったのである。また説明板に書かれていることを読んで、これがヒントになって長年の疑問が解けてしまった。その疑問とは「何故江戸城の無血開城が行われたか?」である。戊辰戦争は新政府軍が若干有利になった時期ではあったが、それまで360年も日本を治めて来た徳川家の力は大きく、徹底抗戦をすれば戦いは長引くはずで、会津藩他徳川恩顧の諸藩が逆転する可能性はあった。なのに何であっさりと開城したか?よく平和的に江戸の町を火の海にしないようにと考えたからと言うが世の中そんなに甘くない。このアメリカンアンカレッジの説明を読むと理由が分かった。少しでも江戸に近い場所で幕府と交渉したいからここに停泊したと書いてある。もしかしたら薩長の後ろには英国や米国がいて、江戸城は艦砲射撃の的になるからではないか?つまり、陸上の薩長との戦いで居場所を大阪城や江戸城に限定されていた徳川は、大阪城や江戸城を海から艦砲射撃で攻められると居場所が無くなるのである。江戸城開城前に(長州が新政府軍になる前に)長州は下関戦争で英国艦船にコテンパンに負け、幕府もそのことを知っているので、蒸気船と言う速くて射程の長い大砲を積んだ新兵器の存在を知り、昔からの陸上での戦いだけでは勝てない時代になったのを知り、恐らく途方にくれたのである。そう言えば、幕府軍が最後に立てこもった函館の五稜郭も艦砲射撃で攻撃されている。現代で言えば核兵器や弾道ミサイルのような感じで防げない脅威だったのだと思う。そう考えて当時の江戸城付近の海を調べた。今は埋立てられて皇居(江戸城)は海から遠いが、当時は海から2~2.5kmしかない。海上の軍艦の大砲で十分に届く。薩長に味方する英国の軍艦が艦砲射撃をして江戸城から追い出されれば、幕府軍は薩長の陸上軍に挟まれて壊滅するだろう。つまり徳川は薩長と言うよりは、その陰に居た英国に負けたのだと思う。歴史とは皮肉なもので、実は徳川家康は大阪冬の陣で英国製の大砲で勝っている。南側に有る真田丸でさんざん苦しめられた家康は北側の川の中州の備前島に砲台を設け、ここから英国製カルバリン砲で大阪城を攻めた。砲弾は大阪城の淀君のいた千畳敷を直撃し侍女が死んだ。それで淀君は諦めて家康と講和をしたのである。それまでは陸上戦では拮抗状態で簡単には負けない状況だったが、いくら強い兵隊がたくさんいても、その兵隊の頭の上を飛んでくる砲弾には意味が無い。近代兵器の恐ろしさを知ったのである。幕末の江戸開城も陰には新しい兵器による新しい戦闘方法が有ったのだと思う。学校の教科書ではそんな戦争の仕方や(英国が味方したなどと言う)政治的なことを教えないので、学生には本当のことが分からないのである。仕事もしていない坂本龍馬以下おおぜいの浪人が何故幕末に活躍できたか疑問に思う人がいるが、ようはグラバー等の外国の人間が彼らを手先として金銭を与えて暗躍していたからである。もともと仲の悪かった薩長が一致して新政府軍を作ったのは、英国や米国の暗躍によるものだと思う。(何の力もない坂本龍馬が何か言った位では大人は動かない。)特に長州は下関戦争でコテンパンに負けて色々と考えたのだと思う。学校の教科書に書かれているのは表向きの「公式発表」だけで、本当は表面には出てこない、裏側のどろどろしたたくらみが有ったのだろうと思う。だから日本は「アヘン漬け」を免れたのだと思う。単なる力任せなら中国と同じになっただろう。英国や米国の暗躍とそれを利用する頭の良い新しい時代を切り開く力を身につけた維新の志士。もっと裏側を知りたいと思った。その辺が分からないと「何故、誰が坂本龍馬を暗殺したか?」は分からないもん。
June 6, 2023
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