全6件 (6件中 1-6件目)
1
蘇我の娘の古事記(ふることぶみ)を読みました。歴史書ではなく、小説として。この本は周防柳氏(女性)の作品で、乙巳の変で殺された蘇我入鹿が実は斉明天皇の子で、その入鹿に娘がおり、入鹿が殺された後は船恵坂(ふねのえさか)の娘として育てられ、その恵坂や兄の小兄(ちいにい)が時代の流れに振り回されて行く中で、彼女も数奇な運命の波に飲み込まれる物語となっている。その運命の流れの中で、蘇我蝦夷の大王記が蝦夷の屋敷の火災時には未完成で、(大王記は天皇紀とも呼ばれ聖徳太子と馬子が編纂を始め、後に蝦夷が引き継ぎ、 乙巳の変で中大兄皇子と中臣鎌足が入鹿を殺し、蝦夷を攻めた際に、 蝦夷の館が焼けた際に「国記」と共に失われたが、 その際に「国記」だけは船恵坂が救い出したと日本書紀に書かれている。)恵坂によって救い出されて秘蔵され、その後誰にも知られることなく恵坂の手により完成し、彼女の手により装丁され、太安万侶により保存されていたものを、弘仁元年(810年)に太安万侶の子孫の多人長が「日本書紀講」第一回を講師として開く際に、日本書紀の参考書としてこれを用い、現代「古事記は本物だけれど序は後年付け足された物で古事記とは別物」とされる「序」を付け加えたとして、歴史書ではなく小説として書いたものである。つまり「稗田阿礼は実は入鹿の娘だった」と言う発想を生かして古事記の成立を小説にしたもので、その点では成功している。でも、入鹿を「鬼」にして登場させてしまったせいで小説としてはワンランク下がってしまい、後半で抒情性が上がって良くなったのに前半が残念なのかなとも思った。多分「稗田阿礼は実は入鹿の娘だった」、「目が見えなかったので誦習した」と言う発想はそのままで、(よく稗田阿礼の実在を疑ったり、 太安万侶が書物として完成させるなら稗田阿礼の「誦習」は必要ないのではと言う人がいるが、 周防先生の書いたように蘇我氏の失われた大王記を彼女が暗記していたのなら、 それはまさに「誦習」であり、稗田阿礼は古事記の編纂に必須の人物である。)高市皇子又は大津皇子と恋物語を繰り広げた(歴史的には登場しないが)ことにして、悲劇性をアップすると小説としてより面白くなったのかなと思う。(本書では彼女の兄=小兄=恵尺の息子と結ばれて、 小兄は壬申の乱の際に彼女を人質に取られて、大友皇子の身代わりになって死ぬ。 その設定も良いと思うのだけれど、 例えば大津皇子の恋人にすれば「古事記が日本書紀つまり藤原氏側史書」に対して 戦いを挑む反藤原氏の象徴になって色々と面白い架空のエピソードを作れたと思う。)でも今のままでも後半は十分面白い。ただ、僕が面白かったのは、頭の固い学者先生がどうしても解決できず(自分に都合悪い事は無視する学者の悪い癖で)、何故「古事記の成立に稗田阿礼が必要だったのか」を解決していないのに、彼女はそれを(小説なので事実ではないかも知れないけれど)、稗田阿礼が入鹿の娘で船恵坂に助けられて娘として育てられて成長し、目が見えないせいで誦習したと言う設定にしてこれを解決し、多人長が日本書紀の参考書として古事記を使い、その際に自分達の先祖の太安万侶の権威を上げる為に「序を付けた」事にしたと言うのが、非情に面白く、正しいかは別として小説としてよく考えられていると思った。彼女、頭が切れるんだと思います。そして何よりも良いと思うのは、世の中に「古事記と日本書紀はどのように違うのか」を書いた本は多いのだけれども、何故、「同時期に内容が違う古事記と日本書紀が存在するのか」を考えたと言うこと。だって「古事記と日本書紀はどのように違うのか」と言う本を書いた偉い先生の言う、「日本書紀は対外向けで古事記は国内向け」ならば、同じ内容でちゃんと日本書紀が完成してから、その和訳本を作れば良い話だし、(もちろん日本語版を先に作って中国語に翻訳しても良い。内容を変える必要は無い。)「日本書紀は正史で古事記は皇室内の女や子供向けの簡略化私本」と言うなら、ますます内容を変える必要は無い。と言うか幼い皇太子が読むと「自分達は暴力で他を滅ぼした悪の子孫」の事実を知り危険である。さらに言えば、敵対する出雲の神々が「国を譲る」なんてあり得ない話を載せる意味が無い。僕は「国を譲る」話は実際に有った話で、古事記の作成された時代にも九州からの征服者の子孫と出雲の子孫の両者が残っており、それを出雲の子孫と九州からの征服者の子孫の両方に伝え仲良くする為に書かれたのだと思う。 (天武天皇は九州系のお妃例えば鸕野讚良皇后つまり持統天皇と出雲系のお妃の子達他が 争わないように「吉野の盟約」を鸕野讚良皇后や皇子達に誓わせている。 つまり古事記の編纂を命じたのが本当に天武天皇かどうかは分からないが、 古事記同様に出雲系や他の豪族にも気を使っている。 但し「吉野の盟約」では草壁皇子が誓いを述べ、他の皇子達はそれに賛同したのであり、 仲良くしろと言ったのではあるが出雲系の子に皇位を継がせようとしたわけではない。 また出雲系の子達は直接的(主役として)には「吉野の盟約」の場にはおらず、 この場に居たのは主に天智天皇の娘達の子がメインである。 天武天皇は天智天皇の娘を4人もお嫁さん?(皇后は1人)にしている。 そして出雲系のお嫁さんの子はは残念なことに娘が多く男子は高市皇子と穂積皇子くらい。 高市皇子の母の尼子姫は宗像の出身で、 出雲大社の大国主命が正面を向かずに宗像の方角を向いているように、 宗像三女神は出雲系である。 氷川神社のように大国主命や素戔嗚尊を祀る神社に同時に祀られている場合が多い。 なお、大国主命は稲佐の浜の方を向いていると言う人がいるが、 大国主命の時代にはまだ「縄文海進」の名残で稲佐の浜は海の底であり誤りである。 今は海から離れている出雲大社は当時は海のそばだったのだ。)でも、日本書紀を作成する時代には残念なことに出雲側は滅ぼされて(あるいは弱くなって)、仲良くする必要が無くなったから日本書紀は「出雲の話が激減している」のだと思う。 (持統天皇つまり鸕野讚良皇后は自分の子や孫だけを大事にして、 彼女の父つまり天智天皇=九州系の血を絶やさないように必死に頑張っている。)それが「古事記と日本書紀が同時代(成立は少しずれてるが)に有って内容が違う理由だと思う。そうじゃなければ説明がつかない。日本書紀が優勢になり、出雲が消え去るのを防ごうと頑張る人達が古事記を密かに支えたのだ。古事記の「国譲り」の場面に次のように書いてある。 僕(あ)も違はじ。この葦原の中つ國は、命のまにまに既に獻りぬ。 ただ僕が住所(すみか)は天つ神の御子の天つ日繼知らしめさむ、 富足(とだ)る天の御巣(みす)の如、底つ石根に宮柱太しり、 高天の原に氷木(ひぎ)高しりて治めたまはば、 僕(あ)は百(もも)足らず八十垧手(やそくまで)に隱りて侍(さもら)はむ。 また僕が子ども百八十神(ももやそがみ)は八重事代主の神を御尾前(さき)として仕へまつらば、 違ふ神はあらじ。(意訳) 建御名方神と事代主命が負けてしまった今となっては私も異論はない。 この葦原の中つ國はもうあなた方天津神に差し上げましょう。 ただ、私が隠居する出雲の国には天津神の天皇のもののように、 尊い天皇のお住まいになる宮殿のように、(掘立柱ではなく)基礎石の有る太い柱を立て、 天にも届く高い千木(伊勢神宮等の屋根の端に有る交差した木)を作って頂けるならば、 たくさんあるものの陰に隠れて大人しくしておりましょう。 また自分のたくさんの子供達は事代主命を天皇の側近として扱うならば、 みんな大人しく従って反抗する神はいないでしょう。つまり古事記の成立段階では事代主命の子孫の出雲の勢力は残っているのだが、日本書紀では、国譲りの場面以降、出雲は大国主命は黄泉の国に行き、事代主は船を沈めて死んでしまいここで出雲は滅んでいるように読めるので、(国を譲っても出雲は滅んではおらず続いている)古事記と内容が変わったことにより、古事記成立から(出雲を書かない)日本書紀成立までの間に旧出雲勢力が滅んだと分かるのである。とすると推理されるのは、乙巳の変と言うのはヤマト王権内の藤原(当時は中臣?)勢力と出雲勢力(蘇我氏)の戦いで、乙巳の変では入鹿を裏切った石川麻呂(乙巳の変までは蘇我、その後石川になった)が、藤原氏に殺された際に、ついに出雲勢力は滅亡し、日本書紀から出雲の真実が消え去るのである。周防先生の「蘇我の娘の古事記」を読んで(先生はそう書いていないけれど)そう思ってしまった。おもしろい。せっかくなので、ここで古事記に(日本書紀も同じかも?)関する秘密を解いてみる。周防先生の本を見ると、船恵坂は蘇我蝦夷に大王記編纂を命じられて、翁達に記憶している昔から伝わる様々な話を聞き取り、それを元に大王記(後に古事記)を書いている。日本書紀の場合も全国に、今で言う風土記的なものの提出を命じ、これにより編纂している。もしかするとこれが僕の古事記や日本書紀の2番目の疑問の答えかもしれない。その疑問とは、「何故出雲の地で国譲りをして葦原の中つ國をもらったのに日向(宮崎)に天孫降臨をし、 宮崎から大和に向かいナガスネヒコに負けて、あげくの果てに熊野に大回りし、 尾張の高倉下に助けてもらって奈良の大和におちついたか?」出雲で国を譲られたのなら出雲に天孫降臨すればいいじゃん。あるいは最初から大和に天孫降臨するか、大和で国譲りすればいいじゃん?この疑問の答えである。その答えとは、我々はどうしても書かれた順番=時系列と考えるので上のような疑問がわくが、もしこれが色々な氏族の翁達に伝わる昔話を、編纂の際に裏付けが取れずに、(各氏族から別の話に書き換えられたと怒られるのが怖くて)受け付け順に単純に並べただけ?それならばあり得るなと思ったのである。つまり、「天孫降臨」や「海彦と山彦」は藤原氏(旧中臣氏)や物部氏や大伴氏の話。国譲りや纏向の大物主の話は古事記では蘇我氏(旧出雲氏あるいは葛城氏)の話。ヤマトタケルの話は尾張氏の話。それらが編纂される際に時代や順番を(各氏族に配慮しすぎて)正しく編集できず、日本書紀では(配慮はしないので)都合よく編集されてしまった結果だと言うことである。実際は天孫降臨時には倭国はまだ出雲のもので、本当はその後以下のように歴史は進んだのだ。島根の出雲生まれの大国主は兄神達に殺されそうになり(神話では2回死んでいる)紀ノ國に逃げ、そこで、同じように出雲から追い出されて吉野辺りを征服して王になっていたスサノオに会い、スセリヒメを嫁にもらいスサノオの国の権力を手にして大和(纏向)に新しい出雲の国をつくり、島根の出雲の兄神達を逆襲して征服し、日本の西側半分をまとめて平和な生活をしていた。そこに天孫たちが攻めて来たがこれを懐柔したり撃退したりして退けた。ところが天孫たちは負けた後に紀伊半島を迂回し東日本の尾張をはじめとした勢力を味方にして、ヤタガラスや高倉下達(尾張の祖)とともに大和に攻め込んで出雲に戦いを挑んだ。出雲勢力は最初は自分達が優勢だと思っていた。ところが、九州勢力に味方した東日本のタケミカヅチやフツの神が強く、国を譲ることにした。なので国譲りで活躍したタケミカヅチやフツの神を祀る神社は西日本ではなく、タケミカヅチの神(鹿島神宮)とフツの神(香取神宮)として東日本(関東)にある。両者は戦いにより国を譲ったのではなく、話し合いにより譲ったのでしばらくは共存し、そのせいで、いつも枕元に置くように言われたはずの八咫鏡は伊勢神宮に有り、三輪山は残った。(箸墓は第7代孝霊天皇皇女の倭迹迹日百襲姫命の墓で、 彼女は大物主命(出雲の事代主命)の妻であり、 亡くなって箸墓を造る時、昼は人(大和朝廷側の人達)が造り、 夜は神(出雲の神々)が造ったと伝わっている。つまり政略結婚ですね。 纏向遺跡は昔は「大田遺跡」と呼ばれていました。 古事記に崇神天皇に命じられて大物主を祀る神官に命じられた大田田根子の里だったからです。 つまり纏向は出雲の大田田根子が住んでいたんですね。今でも地名が残っています。)国譲りの後は、大国主は生まれ故郷の島根の出雲に大きな神殿を造って戻り、事代主は九州勢力の娘(倭迹迹日百襲姫命)と結婚して政権内に残り葛城氏の祖先になり、九州から攻め上って来た勢力はヤマトタケルの息子の仲哀天皇や麛坂皇子と忍熊皇子を滅ぼし、応神天皇・仁徳天皇以下の王朝を築いたが、応神天皇の支持勢力の丹波の支族が九州勢力の一部と結んで継体天皇を立てて新しい王朝を築き、19年かけて大和の出雲の勢力を退けて、王朝を確立し、磐井の乱で九州のうちの反継体天皇勢力を滅ぼし、現皇室の基礎を築いた。壬申の乱では白村江の戦いで弱体化した九州+丹波王権=大友王子に対抗して尾張+出雲勢力が大海人皇子をたてて勝利して、新しい王朝を築いた。しかし、元九州勢力の中臣氏(藤原氏)が天智天皇の娘の持統天皇を担ぎ上げて、他の勢力を退けて、石川氏や大津皇子等を滅ぼし、藤原氏全盛の世を作り上げた。これが本当の歴史の流れである。つまり大国主の東征と出雲(纏向)の成立→天孫降臨(宮崎)→九州勢力東征→九州勢力敗退→東日本勢力(尾張等)の参加→出雲(纏向)の国譲り→ヤマト王権成立(大和)が正しい流れなのだと思う。但し、日本書紀の成立の際には蘇我氏(出雲)やヤマトタケル(尾張)を歴史から葬りたいので、歴史の改竄や消去が行われ、順序やつじつまが合わなくなってしまったのだ。ここで気になるのはヤマトタケルと景行天皇である。古事記では景行天皇の段は景行天皇の親子関係を書くのみで、事績はヤマトタケルの話だけ。日本書紀では逆に古事記でヤマトタケルが行った九州征伐や出雲征伐が、景行天皇の九州行幸や出雲の兄弟げんかとして載っている。多分ヤマトタケル=景行天皇は尾張の王で、それ故古事記ではヤマトタケルが熊襲を征伐し、日本書紀では景行天皇が九州に行幸して熊襲を平定するのである。親子で2回も九州征伐をする必要が無いし、そもそも天孫の故郷である九州(特に宮崎:日向)に何故熊襲が居る?垂仁天皇(活目入彦五十狭茅天皇)の一族と思われる一族の生目古墳群は宮崎に有るし。(活目と生目に何らかの関係が有りそうなのはよく言われるし、 宮崎の西都原古墳群の男狭穂塚・女狭穂塚の名前が垂仁天皇の奥さんの狭穂姫命と そのお兄さんの狭穂彦王と関係がありそうで仕方ない。)ヤマトタケルは東国から尾張に帰った時に妻の宮簀媛(みやずひめ)に草薙の剣を預けるが、宮簀媛は尾張(多分氷上国=日高見国)の人で、それ故に草薙の剣は熱田神宮にあるのである。熱田神宮は昔は氷上山の姉子神社(宮簀媛の里)に有り、その後今の熱田に移った。またヤマトタケルの子の仲哀天皇の子達(麛坂皇子と忍熊皇子)は九州から攻め上った応神天皇のお母さんの神功皇后に殺されている。壬申の乱の際に尾張が大海人皇子の味方をしたのは、彼らが、自分達を裏切った九州系の天智天皇や藤原氏と大友皇子と敵対していたからだと思う。(九州にすればヤマトタケル=景行天皇は自分達を攻め滅ぼした悪人だし、 尾張にすれば神功皇后+応神天皇は尾張から政権を奪った宿敵だから)このように色々な氏族に伝わる昔話を並べただけで時系列は関係無いと考えると、色々な疑問(従来は神話なのでつじつまが合わないとされてきた)が解決するのである。だって三種の神器は皇位継承の大事な物なのに「形代」を使うなんて言い訳にしか聞こえない。大事な物で、天皇一代に一回の大事な時にしか使わないのだから本物を使うのが正しいと思うし、天照大御神に枕元に置くようにと言われたのならば、ちゃんとそれを守るべきでは?つじつまが合わないもの。自分達の祖先神の教えは守らなくては。(本当は三種の神器はヤマト王権の成立に関わった4王朝の象徴なんだと思う。 八咫鏡=九州の王朝 草薙の剣=出雲及び尾張(出雲の支族で国譲りでは九州の味方をした)の王朝 八尺瓊勾玉=越(丹波を含む)の王朝現皇室は継体天皇の末裔なので、八尺瓊勾玉だけは本物を身近に置き、九州の勢力と出雲の王朝と尾張の王朝と丹波の一族の子孫でもあるので、八咫鏡(伊勢神宮)と草薙の剣(熱田神宮)の「形代」を持っているのだと思う。縄文時代の日本の文化は東日本の方が優位だった(縄文時代の遺跡は東日本が多い)のだから、日本の神話の中に東日本の事がもっと出ても良いと思う。(稲荷山古墳の刀の話も有るし)景行天皇の事績とヤマトタケルの事績は古事記と日本書紀でだぶっており、古事記でヤマトタケルが行ったことが日本書紀では景行天皇の事績になっていたりする。もしかすると2人は同一人物で、ヤマトタケルは(別の書では天皇と書かれているらしい)東日本の大王で、彼がその後日本の天皇になった話を景行天皇の話として書いてある?だって日本書紀とは違い、古事記の方は景行天皇の話は少なくヤマトタケルの話が多い。九州の勢力が吉備の勢力と手を結んで、尾張のヤマトタケルの子の忍熊皇子と麛坂皇子を滅ぼし、応神天皇が皇位についたのではないかと思う。だって崇神天皇以降は実在の天皇とされているが、垂仁天皇と景行天皇の間、景行天皇と成務天皇の間及び仲哀天皇の親子関係は明らかに変だもの。景行天皇の次の天皇である成務天皇は何故か「近江志賀高穴穂宮」に都しているし、日本書紀では垂仁天皇の墓は大和に有るが、他では近江に有ると言う説も有る。成務天皇は自分の子ではなく弟のヤマトタケルの子の仲哀天皇を「皇太子」にしている。近江に都を造った段階で明らかに九州系の天皇で景行天皇とは結びつかない。またなんで景行天皇が平定した熊襲をその子のヤマトタケルが再度征伐に行くのかも分からない。さらに言えば出雲猛のエピソードは古事記ではヤマトタケルの事績なのに、日本書紀では兄弟げんかで原因と結果は景行天皇の事績に載っているし、どちらが本当?多分景行天皇=ヤマトタケルで、だから2人の事績はダブったり混乱しているのだと思う。これらも、古事記や日本書紀は各氏族に伝わる昔話を集めて編纂した際に、時系列やお互いの関連を調査検討しなかったせいだと思う。いや、もしかすると藤原不比等が一番抹殺したかったのは実は出雲よりも尾張なのかもしれない。ヤマトタケルと景行天皇はその抹殺する作業から発生した混乱の産物かも?なんせ僕は藤原不比等の本名は「不比等」ではなく「史(ふひと)」で、(「史」:大和(やまと)朝廷の官職名で、後に姓(かばね)となった。語源は「書人(ふみひと)」)彼は政治家になる前は文官だったのでは?と思っている。だから父親は戦犯藤原氏なのに壬申の乱後に殺されなかったのでは?と思っている。そうでなければ、いくら持統天皇に守られていたとしても、首を切られていてもおかしくない。また日本書紀が藤原不比等の死の直前に完成したのも、彼が史で、一番大切にしていたことを部下達が知っていたからだ。以上が周防先生の「蘇我の娘の古事記」を読んで思いついた結果である。だって島根で国譲りをして葦原の中つ國をもらったのに、そっぽの宮崎に天孫降臨して、さらに大阪付近で戦って負けて、くるーっと回って熊野から攻め上がるなんて二度手間、いや三度手間だもの。変だよ。
April 26, 2023
コメント(0)

3月15日に書いた「愛天堂のRF増幅器RFAMP9018-2TRを作りました。」の中で、RF増幅器RFAMP9018-2TRはそのままでは動作しないが、元になる回路図を参考に一部抵抗値等を変えれば動作することを確認した。但し、その際にオシロスコープの使い方を間違えたせいで、最初は動作していないと勘違いしてしまい、恥ずかしい感じだったが、まぁ僕は「低レベルアマチュア」なので、「これも一つの勉強だ。いつか研究して何故そうなのかを研究してみよう」と思ったのだが、悔しいので色々と調べて4月19日のブログでは、オシロスコープの入力容量が周波数が高い為に200Ωくらいの低インピーダンスになるせいだと一応の結論を出したが、そのことはその事として原因の一つではあると思うのだが、いまいち納得できなかった。その後悩みに悩んでふと気がついた。そう言えばオシロの解説書の中に、CH1とCH2を不適切に接続すると、CH1とCH2はオシロスコープの内部でつながっているので、壊してしまうので注意が必要だと書いてあった。うん???CH1とCH2がつながっている?そう言えば今までの実験ではコンデンサーを介しているので。発振器とRF増幅器のアースはつながっているなぁ。さらに言えばオシロスコープも。これが原因かも?それを防ぐにはどうすれば良いか?一番最初の発振器の設計の際に考えたように、タンク回路のコイルからM結合(トランス結合)にして信号を取り出せば良いのでは?コレクター側からC結合(コンデンサー結合)で信号を取り出すのでは、つながる回路からの影響が発振回路へ与える影響はバッファーで防げるけれど、その逆の発振器出力が後につながる回路に与える影響は防げないのでだめなのかも?そう思い、新たにM結合の発振器を作ることにした。どうせ退職した老人はヒマなので大丈夫。回路はこんな感じ。前は横着にもコイルを自分では巻かず、既製のインダクターを使用したが、今回は愛天堂の「IFTきっと」と言うフェライトコアとボビンのキットを使った。0.08mmのポリウレタン銅線を約30回くらい巻くと目的の33μHになる。目的の周波数に合わせて巻き数を変えると良い。7MHzならば28回巻き位だと思う。巻き方(整列巻きとか)によっても変わる。コアを調整すると±0.5MHz位は動かせる。抱かせるコンデンサーは20pFx2個程度。僕は今回は他の目的に使うので6MHzにしたので22μFx2個にした。難しいのは帰還用のコンデンサー。僕は手持ちの関係から5pFにしたが、発振が強すぎるのかもしれない。ベースの部分をオシロで見ると2倍波が出ていた。何とかしようと思ったけれど、手持ちのコンデンサーは5pFが最小だし面倒くさい。仕方ないのでコイルの2次側の波形を見た。えー!奇麗なもんじゃん。ならこのままでも良いか?低レベルアマチュアの良い所である。高レベルアマチュアなら納得が行かないだろうし、プロならば恥である。で結局このままで行くことにした。でも不思議なのは出力電圧。発振器の電源は単三2個つまり3V。なのに15Vp-pもの出力が出ている。トランス結合だからではない。トランスは巻き数比は逆に電圧は下がるはずなのに。ラジオのトランジスター回路のパスコンの耐圧は少なくとも電源電圧の4倍以上にすると言うあの理論と言うか経験則の理由が分かるなと思う。出力が電源の5倍じゃん。今回は特別なのかもしれないが4倍くらいは普通にあるのかも?これをRF増幅器につないでプローブのX1とX10で出力が変わることが、M結合でも再現するかやってみた。但し発振器M結合の出力はアースはRF増幅器と0.01μFを介して共通(つまり直流的には非接地)で、発振器回路のアースとは(高周波トランスで縁が切れているので)切り離し、さすがに15Vp-pは過大なので3.3kΩをかませてある。プローブX1の場合。入力1Vp-pに対して出力は0.7Vp-pくらい。RF増幅器が1段目も2段目もコレクター接地なので電圧増幅率が1のはずなので、途中に結合コンデンサーが有ることを考えるとこんなこのかなと思うのだけれど、入力側のプローブをX10にするとびっくりする。入力が0.4Vp-p位に減って、出力が2Vp-pくらいに増えている。つまりC結合でなくM結合で発振器とRF増幅器がアースが切り離されていても再現している。ならば発振器とRF増幅器のアースが共通だったせいではないな。とするとオシロスコープ内でCH1とCH2がアース等でつながっているのが原因か?調べてみることにした。まずRF増幅器入力部にCH1とCH2両方をつないでみた。但し、発振器とは完全に縁を切る為に発振器のアースは何もつながず宙に浮かせた。こうすると3.3kΩを抱かせなくても小さな出力を得られるし、空中線の電波に近い。CH1とCH2はほぼ同じ波形で出力を分け合うので小さい。2Vp-pくらい。 (写真を撮った時は2/3くらいと思ったんだけど、いま書いていて再考したら1/2位ですね。 また、大変な間違いをしていますね。 出力を分け合うので小さいと言うのは当然のことではなく間違いです。 多分これが原因です。 CH1とCH2で分け合っていると言うことは このオシロは測定器でなく負荷になっていると言う事。 測定器が負荷になっているのはちゃんと測定できていないと言うことです。 テスターで100Vの電圧を計った時にテスターの内部抵抗が低くて70Vと表示されるような感じ 測定器は被測定回路に影響を与えないように使わないといけない。)次にCH1だけで入力部と1段目出力(結合コンデンサー後)と出力を計り比較する。そうすればCH2の影響は無いはずなので、オシロ内部でのCH1とCH2の干渉かどうか分かる。まずは入力部CH1とCH2両方をつないだ時は2Vp-pだったが4Vp-pくらいになっている。2つで分け合っていないのだから当然か?次に1段目出力。結合コンデンサーの後ろ。うーん少し小さい。1.7Vp-pしかない。これは1段目の出力を結合コンデンサーと2段目の入力インピーダンスで分圧した結果なので、1段目がコレクター接地ならば電圧増幅率は1なので理論通りかも?次は出力部。えー!ちゃんと増幅されている。5Vp-pくらい。2段目の入力は1.7Vp-pなので2段目だけで3倍くらいは増幅している。エミッター接地に比べると小さいけれど、コレクター接地では1倍のはずなのでちょっと不思議。2段目もコレクター接地で電圧増幅率は1のはずじゃなかったの?何でコレクター接地なのに電圧が増幅されているのかは分からないけれど、CH1(入力)とCH2(出力)両方を同時に使って測定した場合と、CH1(入力)とCH1(出力)を別々に測定した場合では違っており、プローブX10の場合はCH1(入力)とCH1(出力)を別々に測定した場合と同じなので、こちらが正しい結果だと分かり、CH1(入力)とCH2(出力)両方を同時に使う方法はダメで、プローブX10にするとそれが軽減される(オシロの静電容量が減って入力インピーダンスが増える)のでうまくいってたのだと分かった。これでCH1とCH2が(恐らくはオシロ内でアースが共通なせいで)干渉しているのが原因で、プローブをX10にするとそれが改善されるので正しい?測定ができるのだと言うことが分かった。つまり4月19日に検討して分かったプローブの入力容量の件は原因を誘発した「要因」ではあるが、「原因」そのものではなく、真の原因はCH1とCH2はオシロの中で(高周波的には)つながっており、1MHz位までの低い周波数では問題ないが、高い周波数ではプローブX1では入力インピーダンスが低くて、CH1とCH2が干渉してしまい正しい測定ができないが、プローブをX10にすると入力容量が減って入力インピーダンスが高くなり、CH1とCH2の干渉が減るので、正しい測定に近づくのだと分かった。紆余曲折したけれど結論が出て良かった。でも何でコレクター接地なのに電圧が増幅されるのだろう?あの不思議な回路のせいなんだろうけれど、あの回路を使うとベース入力でエミッター出力でも「コレクター接地じゃない」事にできるのか?研究が必要だなぁ。<後日追記>コレクター接地だからゲインが取れないと言うのは僕の思い込みだと気がついた。電圧増幅率は確かに1なので無いのだけれども、電流増幅率は1+hfeなので、それを電圧として取り出せば良いのである。いつも使っているエミッターフォロワーの場合は負荷がスピーカーなので、電流の変化はその小さなインピーダンスのせいで、気がつかない程度の電圧変化にしかならならない(入力とそれほど違わない)が、この回路ではエミッター抵抗が1kΩ弱も有るので、そこそこの電圧変化として取り出せるのである。なので「何でコレクター接地なのに電圧が増幅されるのだろう?」と言うのは誤りで、十分そこそこ増幅された結果が出るのだと思う。良かった。でもやっぱりRF増幅器としては2段ともコレクター接地と言うのは変かな?<後日追記>RF増幅器としては2段ともコレクター接地と言うのは変かな?と思ったので、5月7日に改良版を作りました。その際に「このRF増幅器の改良版なのだから」と考えて、全面改良に近いけれど、プリント基板はいじらずになるべく今入っている部品を使い、10kΩの抵抗1本と10pFのコンデンサー1本の追加だけで20dB強のゲインが出ることを目的として作ってみました。興味が有る方はそちらもご覧ください。
April 24, 2023
コメント(0)

3月15日に書いた「愛天堂のRF増幅器RFAMP9018-2TRを作りました。」の中で、RF増幅器RFAMP9018-2TRはそのままでは動作しないが、元になる回路図を参考に一部抵抗値等を変えれば動作することを確認した。但し、その際にオシロスコープの使い方を間違えたせいで、最初は動作していないと勘違いしてしまい、恥ずかしい感じだったが、まぁ僕は「低レベルアマチュア」なので、「これも一つの勉強だ。いつか研究して何故そうなのかを研究してみよう」と思ったのだが、ネットで調べると、いくつかのページに解説が載っていた。特に「Electrical information」さんの「パッシブプローブの等価回路」と、テクトロニクスさんの「プロービングの鉄則」は非常に参考になった。それで勉強した結果、僕の予想は半分正しくて半分間違いだったことが分かった。半分間違いだったのは、 RFAMP9018-2TRの入力抵抗が大きいので プローブもX10として入力抵抗を上げなくてはいけないと言う予測は無関係ではないが正しくは無かった。X10つまり10MΩは十分大きく、これが原因ではない。半分正しかったのは、オシロスコープの使い方(入力インピーダンス:入力抵抗ではない)が影響を与えていると言うことだった。テクトロニクスさんのページにある解説の一部を載せる。(OWONさん(オシロのメーカー)僕が間違っていました。ごめんなさい。 よく調べるとオシロのプローブにトリマーがついていました。)そう、抵抗では無くて静電容量が効くのである。僕等低レベルアマチュアが通常使う1MHz程度までならば、あまり気にしなくても大丈夫だし、秋月で売っているオシロスコープのキット程度でも使えるのだけれども、さすがに7MHzにもなると入力容量のインピーダンスはすごく小さくなるのである。上の例でオシロスコープの入力容量+同軸ケーブルの静電容量+浮遊容量=100pFとすると、Z=1/2ΠfCなので、Z=1/2X3.1415X7X1000000X100÷1000000000000 =227(Ω)つまり上に書いたように200Ωのインピーダンスで出力を受けているに等しい。1MΩの入力抵抗なんてこれに並列になると無いに等しい。で何故X10にすると改善するかと言うと、上の図で言えば9MΩとC1が直列に入って全体としての静電容量が11pFつまり1/10になって入力インピーダンスが10倍(正確には9倍)に上がるからである。答が分かると「なるほど」なんだけど、その事実を知るまでは低レベルアマチュアには難しい。じゃぁX10にするだけでなくプローブの前に直列にコンデンサーを入れれば良いのでは?実はそれも難しい。抵抗とコンデンサーが並列・直列に並ぶのでベクトルまで考えなくてはいけないみたい。つまりそのコンデンサーでの信号の減衰と位相の変化が効きすぎて波形や大きさが変わる、つまり正しい測定ができなくなるのである。よくオシロスコープでラジオの局発(OSC)の波形と周波数を測定する際に、発振回路に影響を与えないように「なるべく小さなコンデンサーを介して」オシロにつなぐが、実は1MHz程度ならば大丈夫なんだけれど、アマチュア無線の周波数くらいになるとちゃんと適切な値のコンデンサーを選ぶ必要があるかも?今回それを実験してみることにした。またついでに3月15日のブログで作った発振器にバッファーを付けて、これも実験した。まずは発振器の出力を受ける側のインピーダンスが低い(小さい)とどうなるか?こんな回路で実験した。3月15日の7MHz発振器を利用した。オシロスコープの入力インピーダンスを可変にするのは無理なので、並列に1MΩ、300kΩ、100Ωを並列に抱かせて影響を調べるのである。まぁちょっと考えても分圧比が低くなるのだから波形は小さくなるのは分かるのだけど。まずは1MΩで受けた場合。ちょっと波形が汚いかな。下側がゆがんでいるからエミッター抵抗のせいかな?電源電圧が3Vと低いから仕方ない。5V以上の方が良いかも?抵抗を300KΩにすると、振幅が若干減ったけれども波形はそれほど変わらない。つまり出力がこの抵抗で分圧されるはずなのにあまり変わらないと言うことは、出力抵抗が300kΩに比べてかなり小さい、多分10kΩくらいなんだろうなと思う。これを、今回抵抗とコンデンサーによる低インピーダンスと言う違いはあるが、似たようなインピーダンスの抵抗(100Ω)に置き換えて試してみた。本当は200Ωとか220Ωが欲しかったんだけど、手持ちが100Ωしか無かった。仕方ない。周波数は抵抗なので当然変わらないけれど、振幅は小さくなった。だから、オシロで波形を観測する場合は、「インピーダンスの低い所の出力を高いインピーダンスで受ける」ことが大事なんだと思う。つぎに出力を被測定回路につなぐ場合の結合コンデンサーの影響を調べてみた。こんな回路。まずは5pFのコンデンサーをつないで、そのコンデンサー経由の出力。なお、この出力はバッファーを付けてしまった後に実験したので出力と言うのはバッファー経由。やっぱり電源が3Vと低いので下側がダメなのかなぁ。コンデンサーを150pFに変えてみた。うん?振幅が大きいし波形が改善されている。何故だろう?そうか、出力が結合するコンデンサーとオシロスコープで分圧されるんだけど、コンデンサーのインピーダンスは静電容量地の逆数になるので、5pFの場合はオシロの方の分圧分が小さく、150pFの場合はオシロの方が大きいんだ。じゃぁプローブをX10にしたらどうなるんだろう?5pFの場合は、えー!変形してるし振幅が小さくなっている。何で?150pFの方はどうだろう?レンジが違うので5pFのプローブX10の場合よりは振幅は大きいけれど波形はゆがんでるな。やっぱりコンデンサーで結合するのは高い周波数の場合は難しいなぁ。また、回路に影響を与えないように小さなコンデンサーを使うと言うのも、単純じゃないなと思った。周波数カウンターをつなぐ場合は波形が乱れようがカウントさえされれば良いので回路に影響を与えないように小さなコンデンサーを使うと言う方法はありだと思うのだが、オシロの場合は波形が変形してしまうと何をやっているのか分からなくなるからなぁ。条件によってはコンデンサーによる結合は有りだと思う。例えば発振部分とバッファーの間もコンデンサーで結合しているんだから影響は有るんだけど、発信部の出力インピーダンスとバッファー部の入力インピーダンスの大きさに差が少なく、結合コンデンサーの影響も比較的単純なので、振幅は減少するが波形の乱れは少ない。でもバッファー部の出力と5pFのコンデンサー経由の出力は両側のインピーダンスが違うし、また抵抗とコンデンサーが並列と直列の複雑な組み合わせなので波形も測定する場所で変わる。出力の結合コンデンサーの両端を比べてみた。振幅は1/30くらいになっているし、波形も違う。難しいなぁ。じゃぁどうしよう?「Electrical information」さんやテクトロニクスさんのおすすめは、差動プローブ等能動型プローブの使用である。説明書を読むと僕の使っている「パッシブプローブ」は値段は安いけれど色々問題が有り、低い周波数で使ったり条件の良い時は良いけれど、高周波では問題が出るみたい。でも差動プローブは高いんだよな。僕のおこづかいでは無理。多分一番良いのは、コンデンサーで結合するのではなく、電波で飛ばすのが良いのだと思う。だって学校で実験する時には、SG(シグナルジェネレーター)に標準アンテナをつなぎ、発射した電波を受信側もアンテナで受けて測定したもんなぁ。あの方が実際の状態に近いし、正しい測定ができるのだと思う。コンデンサーやダミーロードを使った実験は再現性が難しそうだ。<後日追記>4月24日にさらに追加実験をして、これが原因を誘発した「要因」ではあるが「原因」そのものではないことが判明した。真の原因はCH1とCH2はオシロの中で(高周波的には)つながっており、1MHz位までの低い周波数では問題ないが、高い周波数ではプローブX1では入力インピーダンスが低くて、CH1とCH2が干渉してしまい正しい測定ができないが、プローブをX10にすると入力容量が減って入力インピーダンスが高くなり、CH1とCH2の干渉が減るので、正しい測定に近づくのだと分かった。4月24日を参願います。
April 19, 2023
コメント(0)

僕が修理して遊ぶのは、1か月のおこづかいの範囲なので、高くても3000円程度なんだけど、今回調子にのって少し高いのに挑戦した。最初は修理がうまくいかなくて失敗したなぁと反省したけれど、何とか挽回したので書く。こんなパソコン。ASUSの2020年2月発売のX545FAと言うパソコンでCPUは第10世代。デスクトップパソコンは今は第13世代が出たけれど、ノートパソコンはまだ第12世代がメインなのでそれほど古くは無い。こんな感じだった。いつもは3000円位なのでちょっと冒険した感じだけど、見た目はまだ奇麗だ。説明書きの「通電はしているが電源が入らない」と言うのは変な日本語で、通電しているなら電源は入るけど「起動しない」の間違いだろうと突っ込みたいところ。ACアダプターをつなぐと確かに起動しない。しかもバッテリー充電状態を示すLEDが橙色で点滅している。ASUSの場合はこれは「電源には接続されているが充電していない」エラーの表示である。え?バッテリーが抜かれている?ちょっと心配しながら分解してみた。写真はバッテリーを外した状態なので実はバッテリーは有ったのだが、事態はずーっと深刻だった。バッテリーをマザーボード本体に接続する接続端子がマザーボードから取れている!何でヤフオクで通常2万円はする第10世代ノートパソコンが4600円なのかが分かった。多分お店の人にはお手上げだったのだろうと思う。でも僕は低レベルアマチュアで恐れを知らないやつなので逆に燃えてしまった。絶対に復活させてやるぞ!さっそく状況を正確に調べると、接続端子はかなり強い力で引っ張ってとれたようだ。想像でしかないがこんな感じだと思う。バッテリーがらみで調子が悪かったので、お店の人はせめてメモリーとSSDを取り、少しだけでも元を取ろうと思った。その時にスペック上は8GBあるはずなのにメモリーソケットには4GBしかない。じゃぁマザーボードの裏側にもメモリーが有るのに違いない。分解して取ろう。マザーボードを外すにはバッテリーを外さなければいけないが、なかなか外れない。えーい力技だ!バキッ!かくして接続端子は壊れてしまい裏側にあるはずのメモリーはオンボードで取れなかった。仕方ないので接続端子は接着剤でつけておこう。僕が調べた時に本来半田で固定されているはずの接続端子に接着剤がついてたのはだから。多分そうだったのだろう。また最初に調子が悪かったのは、BIOSがらみだと思う。BIOSのアップデートに失敗したのかパスワードを外そうとして失敗したのか。多分そんなところだろうと思う。何故それが分かったかと言えば、後述するが有線LANと無線LANが使えない状態だったから。BIOSプログラムが壊れているのか、後からBIOS設定をしようとしても項目が無かった。まぁ愚痴はそのくらいにして修理に取り掛かった。接続端子からの配線はマザーボード側もペリペリと剥がれて半田付けもできない状態だった。仕方ないのでラインを追って半田付けできそうなところを探す。途中スルホール(マザーボードの表と裏をつなぐ導体でできた穴)が有って大変だったが、ようやくラインがつながる抵抗を見つけた。裏側だった。ここに電線を半田付けする。配線をこんな感じで全て半田付け可能な場所に半田付けしたら、その電線を元のソケットにつなぐ。でも動かない。どうもお店の人が力任せに使ったせいでこれ自体が使えないみたい。仕方ないのでソケットを買おうと思ったが良いのが無い。ふと気が付いて、愛天堂で買ったピンヘッダーとソケットを利用することにした。これって2.54ピッチなので半田付けが楽でいい。ちょうど良かった。お奨めです。ここで大事なのは配線の記録と表示。バッテリーからの配線は赤赤空白黄緑黒黒なんだけど、8ピンなのに配線が7本しかない。最初この「空:配線が無い」場所が分からなくなって途方にくれた。ちゃんと記録しておくのは大事である。バッテリーが充電可能になるとBIOSが動いた。BIOSが動くとUSBで動くUBUNTUが使える。僕はwindowsをインストールする前にはいつもUBUNTUでテストする。えー?有線LANも無線LANも認識していない!CPUが第10世代のCOREi3-10110Uでメモリーが8GBなのは確認できたけど。トホホ。せっかく良い性能の高いパソコンなのにLANが使えないと意味が無い。1晩寝て考えてふと気が付いたのは、BIOSのアップデートに失敗したのかパスワードを外そうとして失敗したのか分からないけれどBIOSを修復すれば使えるようになるのでは?さっそくASUSのホームページで調べてみた。日本のメーカーは意地が悪いのでWindows上で使うBIOSプログラムしか用意していないが、外国のメーカーはお客さんからのクレームが多いので親切な対応をしており、ちゃんとBIOSの中でアップデートが可能になっている。さっそくホームページからダウンロードしたファイルをUSBメモリーに入れて、BIOSの中でEzFlashと言うBIOS書き換え用システムで書き直した。すると運よく有線LANは動くようになった。無線LANはダメ。もしかすると無線LANの基板が悪いのかもと思い手持ちのものと交換したが、最初の一瞬だけ動いたのだけどすぐに認識できなくなった。でも一瞬動くと言う事はハード的な不具合じゃない。BIOSのせいだ。もしBIOSのせいだったらWindowsさえインストールできれば問題は解決するはず。何故ならば、昔はBIOSの制御はWindows起動後も引きずっていたが、今はWindows起動後はBIOSからWindowsに完全に制御がうつるはずだから。つまりBIOSに不調な部分が有っても、Windowsに制御が移ってしまえばいいはずなのである。さっそく有線LANを使って(更新プログラムのインストールがあるのでネット環境が必要)Windows11をインストールした。何故か無線LANも動いている。そうBIOSの中のブートローダーさえ動けばあとはWindowsが頑張るから大丈夫なんである。Windowsが動くようになったので色々なソフトで遊んでみた。まずはFinalReality。オジサン世代には懐かしいベンチマークソフト。30年くらい前のベンチマーク。秋葉原のショップでは新しいパソコンはみんなこれでデモをやっていたなぁ。次はデビルメイクライ4これは20年位前のベンチマークソフト。当時の僕の安物パソコンだと、ギリギリ動くけどカクカクだったなぁ。ノートでこんなにスムーズに動くようになるなんて。と言うか今になって気がつくのは恥ずかしいけれど、スムーズに動くのは当たり前で、それよりも大事なのは「表現力」なんだと思う。20年前には気づかなかった色や詳細部分が今ならよく分かる。タイルは1枚1枚色が分かるし、草の花びらさえも見える。攻撃の稲妻?もこんな感じだったんだなぁ。昔の安物パソコンだと光るだけだった。4600円が無事に修理できて安心した。
April 13, 2023
コメント(0)

4月6日は令和4年度第8回目(総会が4月14日にあるので今回が令和4年度最後の会)だった。もう鎌倉は何回も来たのだけれども、ガイドさんの配慮のお陰で同じ場所にはダブらず、毎回新しい知識が得られるのがうれしい。今回は扇ヶ谷付近をメインにまわった。下のルート図を見ると分かるように、ちょうど鎌倉駅と北鎌倉駅の中間位の横須賀線沿いで、古く鎌倉時代以前は亀谷(かめがやつ)ていたのが、鎌倉時代後期くらいから扇ヶ谷(おうぎがやつ)と呼ばれるようになったらしい。当初は英勝寺付近の狭い地区の名前だったのが、室町時代に関東管領上杉定正が屋敷を構え「扇谷殿」と呼ばれるようになってから、この地域全体が亀ヶ谷から扇ヶ谷に名前が変わったのだそうだ。今日のルートはこんな感じ。鎌倉駅から北鎌倉駅までJR一駅分歩いた。まず鎌倉駅から今小路を寿福寺まで歩く。手前に八坂神社が有る。ここには何回も来ているのだけれども、よく見ると新しい事実に気がつくのがうれしい。この神社を建てたのは千葉常胤の次男の師常であるが、彼は常胤から「相馬御厨(今の茨城県取手市付近)」を譲り受けて相馬を名乗るようになる。また一説には平将門の後裔の相馬師国の養子になって相馬郷を継いだとも言われる。江戸時代に相馬則胤が書き写した「御家伝書」には、将門が関東地方を占領して相馬郡に都を建てたこと、将門が戦死した後、その子孫は流刑に処せられたが、文国の時に赦されて常陸国に住み、さらに下総国相馬郡に帰ったこと、文国の子孫師国に跡継ぎが無かったため千葉常胤の二男師常を養子に迎えたことなどが記載されていたそうだけど、そもそも証拠が無く、元になる伝承に将門が相馬に「都」を築いた話や相馬の馬追を将門が始めたとか書かれ、子孫が祖先のことを良く書いて自身の系図を飾る話は多いのでちょっと信じがたい伝説ではある。ガイドさんはこの養子説を説明しておられた。でもWiki等によると以下のように書いてある。相馬御厨は元は平常晴から千葉常重に譲られ、常重が伊勢神宮に寄進したものであるが、藤原親通や源義朝から脅かされる。(えー?源義朝って源頼朝のお父さんじゃん?)(この辺は千葉常胤の寄進状に残っており、物証が有るので真実だと思われる。)千葉常胤はこれを回復し、再度伊勢神宮に寄進するが、平家政権になると、佐竹義宗に奪い取られてしまう。これを奪回するために、千葉常胤は源頼朝を利用した。そうテレビや小説を読むと何で千葉常胤が源頼朝を助けたのか分からないが、ちゃんと理由が有るのである。だって千葉氏は平良文の子孫で平氏だし、義朝とケンカしてその義朝は平治の乱で死んだし、頼朝に味方する理由が全く無いから。この時代に損得が伴わない協力関係などあり得ず、何らかの利益があったから味方したと考え、その後も得た利益を保持する為に頼朝や北条氏と協力したと考えるのが自然だと思う。話が脇道にそれたが、要は師常は千葉氏の傍流である。で、今回発見したのは境内に有る小さな神社である。「九曜紋」がついていること。千葉氏と言えば月星紋が有名。千葉氏は平将門の子孫平良文が始祖なのだが、幕末の千葉道場の当主北辰一刀流の千葉定吉も月星紋を使っていた。今でも北辰一刀流の紋は月星紋である。(北辰って北極星のことです)これは平安時代に平将門が天慶の乱を起こした際に千葉氏の祖先である平良文も味方し、敵兵に囲まれて絶体絶命になった際に空から降って来た星に力を得て助かった故事による。もちろんあくまでも伝説なんだけど、以来千葉氏は妙見菩薩を信仰するようになる。妙見信仰とは、夜空に輝く北極星と北斗七星に対する信仰で、奈良時代に伝わったらしい。平良文が星の力で助かったと言うのは伝説だが、彼がその信仰により助かったのは本当だろう。かの源頼朝も観音像を常に身につけており助かったらしい。信じる者は救われるのである。また、付け加えるならば日光東照宮の陽明門がこの信仰に従って造られているのは有名である。自分で撮影した写真ではないが、ネットに有った写真を載せる。合成写真ではなく固定したカメラを長時間開けて撮影したものらしい。(世界ふしぎ発見かも?)関東の武士の間では妙見信仰が流行っていたのかなぁ?まぁそれはそれとして、江戸時代の千葉氏は月星紋だったらしいのだが、古来は違い、太平記には「千葉は月に星」羽継原合戦記には「月に九曜は千葉之介」と書かれているらしい。え?八坂神社の境内の小神社の紋は九曜で、真ん中に穴が開いている?ここにロウソク等の明かりを点すと「月に八曜=九曜」になるのではないか?だから今回面白いなぁと思ったのである。違うかなぁ?大幅に寄り道したのでわの会に戻る。次はすぐ傍の寿福寺の角の庚申塚と今小路の道標である。まずは庚申塚庚申塚とは道端などに「庚申(かのえさる)」を祀ったもの。庚申とは十干と十二支とを組み合わせたものの第五七番目。また、それに当たる年、月、日。もとは道教の守庚申より出た庚申 (かのえさる) の年または日の禁忌行事を伴う信仰。庚申の夜には人の体内にいる三尸 (さんし) の虫がその体内を抜け出して、天帝にその人の罪過を告げると信じられ,これを防ぐため道士たちは不眠の行を行なった。これが守庚申で,日本の民間信仰では庚申待,庚申講として伝えられている。悪いことをしなければ防ぐ必要も無いと思うのだけど、人間だからなぁ。ちなみにこの庚申塔の側面には「川上 藤沢宿 川下 八幡」と書かれており、次の写真で分かるが、すぐ下を流れる小さな川に昔は「勝の橋」と言う橋が架かっており、この川をさかいにした道しるべの役割もしていたようだ。ここを起点に鎌倉市役所の辺りまで伸びる道は今小路と呼ばれている(いた?)元「勝の橋」が有ったと言う印に道標が残っている。でも何で康申搭にも道しるべが書かれているんだろう?ここを北側に行くと英勝寺が有る。本来は今日のルートに含まれなかったのかも知れないけれど、せっかくだから写真を載せた。英勝寺の手前を横須賀線の反対側に抜けると、扇谷上杉管領屋敷跡がある。説明が大変なのでガイドさんのメモをお借りする。上杉と言うと上杉謙信を思い出すが、上杉氏は扇谷・宅間・犬懸・山内の4家に分かれ、この扇谷上杉家は後北条氏に滅ぼされたる。その際に越後に逃れたのが山内上杉家で、上杉家は越後守護(関東管領も持って行く)になる。上杉謙信はその家臣の越後「守護代」長尾為景(三条長尾家)の四男として生まれた。その後、関東管領上杉憲政の養子となり山内上杉家の家督を譲られ(「上杉」姓と憲政の「政」の1字を与えられ)、上杉 政虎(うえすぎ まさとら)と改名し、山内上杉家が世襲していた室町幕府の重職である関東管領を引き継いだらしい。新潟(それもかなり西側)に居るのに「関東管領」なんて変だなと思っていたがつながった。上杉謙信が(関東に居ないのに)関東管領と言う名前ばかりの職を継いだのは、きっと北条や武田や今川を攻める時に「名目」が欲しかったんだなと思う。扇谷上杉屋敷跡を過ぎると次は浄光明寺に向かう。ここは鎌倉幕府第6代執権北条長時の開基、開山は真阿であり、元は浄土宗。その後後醍醐天皇の勅願所となり、さらに足利尊氏が立てこもって新田義貞率いる官軍と戦う決意を固めたとされる所である。入って右手には仏殿がある。説明板に書かれているようにここには元は本尊の阿弥陀三尊像が有ったが今は収蔵庫にある。観音堂(収蔵庫)内は写真撮影禁止だったので外形のみ。外人さんが写真を撮って怒られていた。でも外人さんには何故写真撮影禁止なのか分からないと思う。元々外気にさらされているから保存上の話じゃないし、宗教上の話ならば、他の写真撮影可能なお寺と何が違うのかが分からない。つまり理屈じゃないから、物事を理屈で考える外人さんには理解不能だと思う。僕も別な意味で、宗教法人が税金を免除されている理由を考えると、筋が通ってないと思う。ちゃんと拝観料を取って税金を払うのが正しいのではないだろうか?宗教法人は変な所が多すぎると思う。恐らく(ここの仏様あるいは神様は尊いとしか言えず他に)説明できないのではないだろうか?どの仏様が偉いとかどの神様が偉いとかキリストだとか非科学的で子供でさえ信じないだろうし、収入が少ないとか奉仕の話では、漁師やお百姓さんだって税金を払っているのだから。あまり言うと宗教の人に怒られるのでそのくらいにして、裏山には網引き地蔵が有る。「やぐら」の中に安置されているこのお地蔵様は、由比ガ浜の漁師に引き上げられたと言う伝説がある。正和2年(1313年)の命が刻まれているそうである。また、網引き地蔵の左手からさらに登ると歌人藤原定家の孫の冷泉為相の墓が有る。次は相馬師常のやぐら(墓)師常は今日の最初に行った八坂神社を建てた人である。彼は人望が有った人のようで、主の分からないことの多い鎌倉のやぐらの中で、地元の人に厚く保護されて「相馬二郎師常の墓」だと分かっている数少ないやぐらである。入口は現在は塞がれており中は見えないのでガイドさんが説明してくれた。中には供養塔や納骨穴が有り、何よりも羨道がある。学者先生方は、やぐらは横穴墓とは関係なく仏教施設だと言うが、やっぱり僕の考えのとおり、やぐらは元は横穴墓で仏教が伝わった際に法華堂の理念を取り入れ、新しい形で、他の地域とは違った宗教観からつくられた埋葬施設なんだと思う。何よりも羨道があるじゃないかと思う。横穴墓の特徴である。そのことは話は前の浄光明寺に戻るが、今回証拠が見つかった。浄光明寺仏殿横に大伴家墓所が有る。鎌倉の大伴家は鶴岡八幡宮の神主家なのだが、もともと「大伴」は「大きな伴造(とものみゃっこ)」という意味で、名称は朝廷に直属する多数の伴部を率いていたことに因む。また、祖先伝承によると来目部や靫負部等の軍事的部民を率いていたことが想定されることから、国の軍隊組織としての物部氏と共に朝廷の親衛隊として軍事を管掌していたと考えられている。つまり仏教伝来までは神様を祀る家で、何でお寺にお墓が?と言う感じなのである。でも仏教を受け入れて火葬にするのが国の方針になったので仕方がなかったのだろう。でもやはり神様は捨てられず、やぐらの中に建てられた墓は笏状で鳥居が刻まれており、ささやかな抵抗を試みていたんだと思う。(「笏(しゃく)」は現代の神社の神職も使う木製の板でお寺とは最も対極にある道具)でも日本の神様は仏教に負けて、「権現様」として仏様や菩薩様が姿を変えて日本に現れたのが「神様」と言うことになった。また神社はお寺に負けて、「別当寺」に管理されるようになるんだよな。僕は仏教は元々の日本の豪族(神)達の力を弱める為に、持統天皇以降の朝廷が保護し広めていった、政策的な宗教だと思っている。だからそこで「古墳時代」は終わり、地方の豪族達のお墓である古墳は作られなくなった。でやぐらもその産物だと思う。元々、神様の時代の御先祖様の御墓である横穴墓が仏教の伝来時に無くなりそうだったのを、関東の武士達はやぐらの中に五輪塔を作ったり納骨して、横穴墓を仏教の法華堂のように扱い古くからの御先祖様の祀り方を守った。仏教と神道の融合した関東独特の宗教施設なんだと思う。で浄光明寺には網引き地蔵の横には「アパート式やぐら」が見られる。それどころか、この後に行く薬王寺には現代人でさえやぐらの中に納骨堂を作っているのである。だから近畿の文化を基準にしてやぐらを考えてはいけないのだと思う。さて浄光明寺をあとにして先に進むと岩船地蔵が有る。僕は大姫が好きなので、ちょっとお参りしてきた。「オンタラクソワカ」である。次は薬王寺。薬王寺はかつては、梅嶺山夜光寺と称し、真言宗の寺院であった。永仁元年(1293年)日蓮の弟子日像により、日蓮宗に改宗した。寛永年間(1624年 – 1645年)、徳川忠長室松孝院の援助で不受不施派の僧日達が再建し、大乗山薬王寺と改称したと説明された。寺は徳川家との縁が深く、寺紋には三つ葉葵の紋が使われて格式が高く、一般町民の埋葬は許されない寺だったらしい。墓所内には家康の孫の松山城主蒲生忠知の正室(松壽院)とその娘(梅嶺院)の宝篋印塔がある。そして日蓮大聖人像。ここを出て亀ヶ谷坂(切通し)を通って北鎌倉駅まで歩いた。鎌倉駅から北鎌倉駅までJR横須賀線1駅分歩いてちょっと疲れたけれども色々と分かって良かった。勉強になったと思う。
April 8, 2023
コメント(0)

わの会のメンバーは過去に登ったことがあるのだと思うけれど、入会して2年半の僕は称名寺裏山に登ったことがない。なので一人だけで登ってみることにした。本当は桜が満開だったからなんだけど。横浜市金沢区の「金沢」と言う地名の由来にはいくつかの説がある。 金沢区役所のホームページには次のように書いている。 昭和期の歴史学者・金沢文庫長、関靖(1877-1958)は、『かねさわ物語』で、 鎌倉に幕府が開かれて、この地に秩父の金沢村から鍛冶匠が移住してきて、 その時に地名がついたという説を紹介している。 「金沢」は古くは「かなざわ」ではなく「かねさわ」と呼ばれていた。本当だろうか?関靖先生の仰るように、釜利谷町の辺りでは鍛錬時に出るカスが錆びた“カナクソ”が発見されている。なので釜利谷町の辺りで砂鉄による製鉄が行われていたのは間違いないと思う。でもまてよ。新編武蔵国風土記を見てみよう。えー??釜利谷と金沢ははっきりと区別されているじゃん!Wikiで調べてみよう。 古くは武蔵国倉城郡(後の久良岐郡)六浦荘という荘園が設置され、 国衙(こくが)や郡衙の支配を受けない私有地だった。 六浦・金沢(かねさわ)・釜利谷・富岡の4郷から成っていた。やっぱり金沢と釜利谷は別じゃん。だったら釜利谷で製鉄の跡が見つかったんなら「釜利谷こそ金沢と名付けるべき」だと思う。実は鎌倉時代初期釜利谷の領主・畠山重忠は、本拠の埼玉・秩父地方から職人を移住させ、武具などを製作させた。これが関靖先生の言う「鎌倉に幕府が開かれて、この地に秩父の金沢村から鍛冶匠が移住してきた」と言うことなんだけど、金沢郷は畠山重忠の領地ではない。なので金沢郷の領主が他人である畠山重忠の事績を元に「金沢」と名付けるはずが無い。織田信長が武田信玄の領地を「偽尾張」と名付けたら武田家は怒ると思う。ちなみに金沢区の隣の栄区の上郷町には「上郷深田遺跡」と言う製鉄施設の遺跡がある。ここは出土遺物の特徴から飛鳥時代から平安時代の製鉄遺跡と推測されている。つまり畠山重忠が秩父地方から職人を移住させる前から横浜市南部にはあちこち砂鉄による製鉄が行われていたのではないだろうか?鍛冶ヶ谷と言う地名も有る事だし。それが根拠ならば「製鉄が行われており砂鉄が取れたので金沢」と言うのはあると思う。でも「畠山重忠が秩父地方から職人を移住させたから金沢」はあり得ないと思う。なのでこの説は明確に誤りだと思う。だって金沢区役所はホームページに、 『倭名類聚鈔』に「鮎浦」(布久良)とある。 「鮎」は「?」の誤字で、「河豚」のことで、口が小さく、 腹が大きい形が平潟湾のかたちに似ていることからこう呼ばれるようになったのであろう。なんて平気で書くような所があり、よく区長さんが怒らないと不思議に思う。考古学的な知識が全くないまま(単なるうわさ話のレベルで)書いているから、信用できないのである。ちなみに「?」と有るのは、「鮐(ふぐ)」の異体字で、確かに環境(パソコン)に依存する字なので使いにくいのは確かだが、それは情報弱者の弁解で、例えばヤフーニュース等ではこのような時には、「●」と書いてすぐその後に「●は魚偏に八の下に口と言う字」等と注意書きを書く。それが普通の感覚(インターネットの常識)であり、「?」はちょっと恥ずかしいと思う。信用のおける機関ではちゃんと書いてある所もある。現在の国土地理院の前身である内務省の書物では正しい字で書かれている。これが正しい字。「?」や「鮎」ではない。ちゃんと「布久良」と書いている。まぁそれはそれとして、もう一つの説は、この称名寺付近は昔からちょっと掘ると金属片が出たことから「金沢=金が出る沢」とした、そう言う古くからの言い伝えに基づくものである。ただ、ここで「金属片」と書いたように、砂鉄ではなく本当の金属片の可能性があるのである。実は称名寺裏山のうち、もと浅間山と呼ばれた支脈(今は宅地化して残っていない)の寺前に、かって「大塚」と呼ばれる塚(小山:古墳の場合もある)があり、有名な横浜の考古学者赤星先生が調査し、「史蹟名勝天然記念物第七集第十号(昭和7年)」でかわらけや古銭が出たと報告しているそうなのである。先生はこれを称名寺関連の出土物だと推測しているが、吾妻鏡によれば、鎌倉幕府以降埋葬の簡略化が命じられ、寺社の神職や僧侶は「塚」は造らなくなった(代わりに火葬しやぐらに埋葬)はずなので、僕は「塚」から出土するかわらけや古銭は神職や僧侶の関連の物では無いと思う。塚ではなく「やぐら」から出土したのならば鎌倉時代のものであるが、塚から出土したのならば、鎌倉時代よりも前のもの、あるいは鎌倉時代の物ならば称名寺関連ではなく、古いしきたりを守る武士の物だろう。と言う訳でせっかく称名寺裏山に登るので、それらに関係ある物は見つからないかと考えた。ルートは下の通り。ずっと尾根伝いである。甘く見ていた。大変だった。御年を召された方や女性にはお勧めしない。平面距離はたいしたことは無いが、アップダウンがすごくて死にそうになる。シーサイドラインの海の公園芝口で降りて称名寺正門に向かう。桜が満開で仁王門までは桜のアーチを進む感じでうれしい。ただこの道は参道ではあるが住民の方の生活道路でもあるので車の往来が多いのが欠点!突き当り手前左側に光明院が有る。この表門は趣にあふれ、金沢文庫のせいもあって横浜市内で造営年代の分かる最古の門。しかも桜の咲く今は最高だと思う。称名寺の仁王像は有名である。鎌倉時代の作(1323年)だそうでヒノキの寄木造り高さ約4m。東日本では有数の大きさ。願主は称名寺2世の剱阿で、作者は大仏師として法印院興そのほか院救、快勢、長賢らだそうだ。最近、「称名寺聖教」の紙背文書より、院興が称名寺の仁王像制作に起用された経緯がわかる文書(順忍書状)が見つかったそうだ。仁王門手前を右の道に進み、突き当りを右に行くと市民の森ハイキングコース入口がある。ここが最初の昇り。スイッチバックを登る。僕は不思議な人間で、行く先々で鳥や動物が迎えてくれる。川合玉堂の館跡ではリスが、鎌倉薬王院ではウグイスが迎えてくれたが、今日はリス君。人に慣れているのか、こっちを見ている。危ないからよそ見をしないように。最初に登ったこの山は称名寺裏山の中で東側、日向山と言う。昔はこの山で初日の出を迎えたのかもしれない。ここで本当は先代一門次郎入道の墓があって、そこによるべきだったのかもしれないが道を間違えてスルー。北条実時の墓に着いてしまった。説明板を読むと真ん中が実時の墓(宝篋印塔)で左右が一門の五輪塔だそうだ。やっぱりそうだと思った。鎌倉時代、つまり称名寺関連の埋葬施設ならば「塚」じゃないじゃん。だから「大塚」は鎌倉時代前のものか、あるいは称名寺に関係ない武士の墓だと思う。ここを西に進むと称名寺裏山のうち中央の山、稲荷山である。称名寺の真裏になる。さらに西に進むと八角堂がある。ここは金沢山になる。ここで称名寺の八角堂は鎌倉時代から有ると思っていた僕の勘違いが判明した。(もちろんコンクリート製なので鎌倉時代の物そのものではないが、 関東大震災で倒れる前には木製の八角堂が有ったのだと思っていた。)僕は八角堂は能見堂と同様に古くからある称名寺の施設だと思っていたのだが違った。八角堂は昭和10年(1935年)に大橋新太郎(おおはし・しんたろう)氏に寄付されたもので、称名寺の創立者・北条実時の660年忌を記念して、境内の金沢三山に観世音菩薩を100体配置したお参りコースを作り、金沢山の頂上に八角堂を作ったものらしい。新太郎氏は、大正12年(1923年)の関東大震災で倒壊した金沢文庫の再建にあたり、昭和3年(1928年)に多額の寄付を行った方だそうだ。しかも八角堂の下には高さ8尺(約2.4メートル)の地下室があって、たくさんの棚が設けられており、これは一般人の分骨を預かるためのもので、大橋一族の分骨も納められているらしい。納骨堂じゃん!しかも地下に穴を掘って骨を納めているのなら「塚」じゃん!とすると寺前に有った「大塚」は称名寺関連では無いのかもしれないけど、この付近には塚を作って人々の骨を埋める習慣が有り、それが「塚」で、地元の有力者の中にはその習慣を何らかの形で伝えており、八角堂はそれが復活した物なのかもしれないなぁ?しかし気になるのは脇の小さな祠の形状。大船に有った源義高(義仲の息子)と大姫(頼朝の娘)の墓に似ているなぁ。鎌倉時代の墓?八角堂から金沢八景の景色が綺麗に見える。良い所だと思う。この見晴らし台を先に進むと称名寺への下り道と台の広場への分かれ道が有る。僕は大塚に関係あるものがあるかも知れないので台の広場に向かった。台の広場への道は途中で二手に分かれるが左の方へ行く事。右は階段で大変であり、左はゆるい坂道で上の写真のうち下の写真右手坂を1m登れば、簡単に台の広場(上の写真のうち上の写真)に着くからである。帰りは下りなので僕は階段の方を歩いてみた。(ルート図参照)八角堂の近くの分かれ道まで戻って称名寺方面まで下る。途中に観音様が有る。ここは昔の「経塚」である。観音様の脇にはお墓があるが、400年を過ぎていないお墓は写真には撮らない。一説によると400年たたないお墓には霊が残っている可能性が有るらしいので。迷信深い?上の写真左の石碑に「経塚」と書かれており、昔は「経塚」だったらしい。そこに後年人が墓を造り、その脇に観音様を建てたものと思われるが、仏罰を恐れないで大胆だなぁと思った。宗派によるのかなぁ?さらに下って行くと阿字ヶ池に着く。池の中に美女石がある。かってはこの美女石の脇に姥石が有ったらしいのだが、今は無い。称名寺本堂でお参りして裏側に抜けると草の茂った広場がある。右側ではたくさんの人が桜見をしていたが、左側は湿原で水が有るので人は少ない。この写真の中央の茂みの中に僕の今日の目的の場所がある。実はここにやぐらがあるのである。(佐野大和先生の本で知りました。)このやぐらが特殊なのはやぐらにしては入口が狭く奥行きが長いこと、そしてすぐ脇に古墳のそばにある「造出」そっくりな構造が有ることである。まず入口が狭く奥行きが長いことから、やぐらではなくやぐらが成立する時代より前の横穴墓だと思う。横須賀市走水の白山神社の裏に有る横穴墓そっくりである。やぐらの場合、中に五輪塔を設けたりする関係から高さを必要とし、奥行きは長くない。この形状から考えると木棺か竹棺を納めた横穴墓ではないだろうか?そして造出が何故有るのだろう?僕はこの稲荷山は崩れた古墳の跡で、古代にはこの造出部分で祭祀を行っていたのではないか、そしてこの横穴墓は古墳に付随した(古墳の主の子孫の)墓ではないかと思っているのである。宮崎の生目古墳群第21号墳の発掘調査で分かったように、昔は大王は古墳を造り、家来や子孫はその周囲に横穴墓を造っていたからである。参考に僕が生目古墳群第21号墳を見学した時の記事は次の通り。リンクをクリックすると見ることができ、「戻る」ボタンで戻って来れる。邪馬台国はどこにあったか(その25)検証旅行その3 | 日本を征服だ! - 楽天ブログ (rakuten.co.jp)また魏志倭人伝にも書かれている。卑弥呼が亡くなった時に塚を造り、その脇に彼女に従っていた女達も埋めたと。ここは、さすがに卑弥呼ほど昔ではないので「殉葬」は無いと思うけれど、子孫がその周囲に墓を造ることはあったんじゃないかなと思う。で、金沢にはあちこちに墓が有り、掘ると墓の副葬品の金属が出たのではないだろうか?その言い伝えが金沢の地名になったのではないだろうか?そう思った。
April 1, 2023
コメント(3)
全6件 (6件中 1-6件目)
1

