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2023年5月15日に愛天堂のarduinoシールドDSPラジオK-5807SLD2を作った記事を書いた。愛天堂のarduinoシールドDSPラジオ K-5807SLD2を作ってみた。スケッチ(プログラム付き) | 日本を征服だ! - 楽天ブログ (rakuten.co.jp)その後、ジャンク箱を見てみたら、何ともう一個発見!でもアンプK-2822がもうない。どうしようかなと思ったけれど、もったいないからアンプなしのプログラムを作ってみた。このdspラジオシールドに使われているICのRDA5807は実はアンプ内蔵。僕は耳が悪いのでだめだけど、普通の人ならばそのままスピーカーが鳴らせる。しかもソフトで音量を制御できる。(レジスターに数値を書き込むだけ)。なのでやってみた。1.5週間もかかってしまった。苦戦した理由は5月15日のプログラムは一般的によく使われるTEA5767用のプログラムで、RDA5807はTEA5767の発展的セカンドソースなのでそのまま使え、多くの場合は大丈夫なのだが、これが盲点だった。RDA5807はレジスター05Hを見ると0000~1111(2進数。10進数になおすと0~15)の値、つまり16段階に調整できる。ところがTEA5767にはこの機能が無い。当然、TEA5767用のプログラムには用意されていない。過去の先輩たちのプログラムを見ると、ちゃんとRDA5807用のプログラムを使っている。さっそく先輩達にならってRDA5807用のプログラムライブラリーを探して来た。RDA5807M.hと言うライブラリー(メインプログラムに組み込む小プログラム)である。それを使ってプログラムをさっそく書き込んでみる。動かない。ボリューム以外はTEA5767用のプログラムなら正常に動くのでハードウエアの問題ではなく、ソフトウエアの問題なんだけど、試しにプログラムの途中にLEDの点滅プログラムを挿入してみる。昔アセンブラ(機械語のプログラム)でよく使ったテクニックである。要はメインのプログラムの中にLED点滅プログラムを挿入しておくと、LEDが点灯する所まではプログラムが正常に動いていて、点灯しない所に問題が有るので、そこを探すと言うテクニックである。パソコンの場合はデバッガーと言うのがそれをやってくれるのだけれど、この手のプログラムではちょうど良いのが無いので仕方ない。(ちゃんとした開発環境を構築すれば立派なデバッガーはあるけれど予算が無い)LEDは5色もあれば十分だし、実は受信中の局の表示用に9つのLEDを実装している。5月15日の製作では5色しかないので5局で諦めたが、よく考えたら、従来FM5局をPIN0~PIN4、ワイドFM4局をPIN8~PIN11に設定してやれば、9局表示可能なのに気がついたのである。完成品はこんな感じ。ケースが有った方が良いかなぁ?写真の中の「自作コイルと24pF」は付けた方が良いです。感度が耳の悪い僕でも分かるくらい違います。付ける箇所は、4番PIN(FMIN)と2番PIN(GND)の2つの間です。自作コイルはこんな感じで巻きます。えー!7回巻きじゃない?そうなんです。巻き回数を間違えたので、上の写真を見ると分かるように目いっぱい広げて調整しました。(一番大事な局、例えばFM横浜=中間の局の受信中に広げたり狭めたりして最大感度に調整する)6回巻きで十分です。プログラムはチェックは上の写真の9個のLEDのうち5個を使った。するとメインプログラムを開始する前のセッティング段階で止まっている。かなり悩んだ末にやっとわかった。RDA5807M.hと言うライブラリーは愛天堂のこのシールドでは使えないみたい。さんざん悩んで見つけたのが、RDA5807.hと言うライブラリー。「M」が付いていない。これを使うと以下のスケッチ(arduino用プログラム)が動いた。SW1(No7)を押すと次の局に移り、ボリュームはSW2(No6)を押すとアップ、SW3(No5)を押すとダウンします。スイッチ3つなのでMUTEは無し。---------------------------------------------------------------------------------------#include <arduino.h>#include <radio.h>#include <RDA5807.h>#include <Wire.h> RDA5807 radio;void setup(){ Wire.begin(); pinMode(0,OUTPUT); pinMode(1,OUTPUT); pinMode(2,OUTPUT); pinMode(3,OUTPUT); pinMode(4,OUTPUT); pinMode(8,OUTPUT); pinMode(9,OUTPUT); pinMode(10,OUTPUT); pinMode(11,OUTPUT); pinMode(5,INPUT); pinMode(6,INPUT); pinMode(7,INPUT); radio.setup(); radio.setBand (2); radio.setFrequency (9300); radio.setVolume(10); digitalWrite (0,LOW);}void loop(){ int v = 6; //INTERFM radio.setFrequency (7650); radio.setVolume(v); while ( digitalRead (7) ==1){ delay(200); if ( digitalRead (6) ==0){ v = v + 1; }; radio.setVolume(v); delay(200); if ( digitalRead (5) ==0){ v = v - 1; }; radio.setVolume(v); digitalWrite (0,HIGH); }; digitalWrite (0,LOW); delay(500);//FMTOKYO radio.setFrequency (8000); radio.setVolume(v); while ( digitalRead (7) ==1){ delay(200); if ( digitalRead (6) ==0){ v = v + 1; }; radio.setVolume(v); delay(200); if ( digitalRead (5) ==0){ v = v - 1; }; radio.setVolume(v); digitalWrite (1,HIGH); }; digitalWrite (1,LOW); delay(500);//JWAVE radio.setFrequency (8130); radio.setVolume(v); while ( digitalRead (7) ==1){ delay(200); if ( digitalRead (6) ==0){ v = v + 1; }; radio.setVolume(v); delay(200); if ( digitalRead (5) ==0){ v = v - 1; }; radio.setVolume(v); digitalWrite (2,HIGH); }; digitalWrite (2,LOW); delay(500);//NHKYOKOHAMA radio.setFrequency (8190); radio.setVolume(v); while ( digitalRead (7) ==1){ delay(200); if ( digitalRead (6) ==0){ v = v + 1; }; radio.setVolume(v); delay(200); if ( digitalRead (5) ==0){ v = v - 1; }; radio.setVolume(v); digitalWrite (3,HIGH); }; digitalWrite (3,LOW); delay(500);//FMYOKOHAMA radio.setFrequency (8470); radio.setVolume(v); while ( digitalRead (7) ==1){ delay(200); if ( digitalRead (6) ==0){ v = v + 1; }; radio.setVolume(v); delay(200); if ( digitalRead (5) ==0){ v = v - 1; }; radio.setVolume(v); digitalWrite (4,HIGH); }; digitalWrite (4,LOW); delay(500);//TBS radio.setFrequency (9050); radio.setVolume(v); while ( digitalRead (7) ==1){ delay(200); if ( digitalRead (6) ==0){ v = v + 1; }; radio.setVolume(v); delay(200); if ( digitalRead (5) ==0){ v = v - 1; }; radio.setVolume(v); digitalWrite (8,HIGH); }; digitalWrite (8,LOW); delay(500);//BUNKAHOUSOU radio.setFrequency (9160); radio.setVolume(v); while ( digitalRead (7) ==1){ delay(200); if ( digitalRead (6) ==0){ v = v + 1; }; radio.setVolume(v); delay(200); if ( digitalRead (5) ==0){ v = v - 1; }; radio.setVolume(v); digitalWrite (9,HIGH); }; digitalWrite (9,LOW); delay(500);//RADIONIHON radio.setFrequency (9240); radio.setVolume(v); while ( digitalRead (7) ==1){ delay(200); if ( digitalRead (6) ==0){ v = v + 1; }; radio.setVolume(v); delay(200); if ( digitalRead (5) ==0){ v = v - 1; }; radio.setVolume(v); digitalWrite (10,HIGH); }; digitalWrite (10,LOW); delay(500);//NIPPON radio.setFrequency (9300); radio.setVolume(v); while ( digitalRead (7) ==1){ delay(200); if ( digitalRead (6) ==0){ v = v + 1; }; radio.setVolume(v); delay(200); if ( digitalRead (5) ==0){ v = v - 1; }; radio.setVolume(v); digitalWrite (11,HIGH); }; digitalWrite (11,LOW); delay(500);}---------------------------------------------------------------------------------------ちょっと長い。なお、面倒くさかったのでボリュームの上限と下限の制限はしていない。レジスターが0000~1111なので0000より下、1111より上にはいかないと思ったから。ライブラリーの方に含まれていると思ったから。(いいわけ)本当はダメかもしれないけど。まぁいいか。なお、RDA5807.hは古いライブラリーなので環境によっては使えないかもしれない。その時はごめんなさい。
May 27, 2023
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わの会の他のメンバーは恐らく既に見学したことがあるのだと思うのだけれど、金沢八景駅裏の権現山公園にはまだ行ったことが無い。他のメンバーに追いつくために一人で行ってみることにした。権現山公園は確か昨年までは工事をしていて、昨年4月1日に完成開園したらしい。工事中に作業員のおじさんに、工事現場内の「やぐら」は大事な遺跡だから壊さないでねとお願いした記憶があるけれど、今回見に行くとちゃんと保全していたので安心した。公園内には入るとまず「旧円通寺客殿」がある。客殿は、公園内にあった東照宮の別当である円通寺があった場所で、1868(明治元)年に神仏分離令により廃寺となっが、茅葺屋根の客殿が残されていた。客殿は東照宮が再建された1802(享和2)年あるいは1843(天保14)年に建築され、東照宮を詣でる身分の高い参詣客を迎えるために使われていた。式台玄関や、書院造りの奥座敷などが格式高く、「葵の御紋」が見られる。明治維新後は円通寺の住職であった木村家の住宅として使用されていたが、2015(平成27)年に木村家から横浜市へ寄贈。1997(平成9)年に横浜市認定歴史的建造物、2016(平成28)年に特定景観形成歴史的建造物となっている。ただ説明板によると昔の客殿は構造的には同じだが、配置と向きが違っており、その理由は謎らしい。僕は想像ではあるが、海及び東照宮との関係からそうなったものと思う。今の配置と向きは東照宮へ向かう階段との関係から「社務所」としては正しい配置と向きだが、東照宮の「別当寺」と言う立場から考えると、円通寺的には(東照宮には気を使うけれど)「うちは東照宮の上の立場」的な意識が有って、東照宮の「社務所」として扱われるのは我慢ができなかったのだろうと思う。ただ、東照宮と言う以上、徳川家には気を使わなくてはいけないので、こっそりと黙って配置と向きで抵抗していたのだろう。(別当寺とは朝廷が仏教を中心に考えるようになってから、 神仏習合が行われていた江戸時代以前に、神社を管理するために置かれた寺のこと)横浜市の人は多分これ(社務所に見える)には気がついてはいても書けないだろうなぁ。でも、確かに、今の配置では独立したお寺と言うよりは「東照宮の社務所」だよなぁ。東照宮にお参りした後におみくじを買いに寄る感じ?僕が円通寺住職なら、明治維新になった瞬間に徳川家には気を使わなくなり東照宮は壊して、お寺として門構えを設けるなぁ。それともその時に寺もやめた?1868(明治元)年に神仏分離令により廃寺と書いてあるなぁ。だから横浜市の人も考えて、お寺なのに門は復元して作らなかったのだと思う。微妙!(東照宮の門(東照宮なので鳥居ではない?)も円通寺の門も無いはずは無く、 江戸時代の絵図を見れば場所は分かるのだから、 造れなかったのか、造らなかったのかどちらかである。 もしかすると京浜急行の敷地内で「造れなかった」と言う可能性はあるが。)客殿の内部にも色々と面白いものが有る。座敷を見ると書院造を意識した造りになっている。(明り取りの窓や面取り角柱と違い棚は書院造の特徴)掛け軸は現代の方の作品である。名の有る方かもしれない。本紙「鳶尾」とかいてあるが描かれているアヤメににた植物は鳶尾と書いて「いちはつ」と読む。裏手には中間部屋と物置が有る。左側の物置には雨戸が7枚有り、昔の「カギ」を見ることができる。そう言えば長崎の僕のおばあちゃんの家にもこんな雨戸があったような気がする。客殿を出ると向かい側には案内所があり、説明員の方がおられる。僕は脇の木村家のお墓の写真を撮影していて「個人の方所有なので撮影禁止です」と怒られた。お姉さんなので素直に従う。境内には案内板がたくさん有り、中世や近世(つまり江戸時代)の金沢の絵等も有った。中世の金沢の絵。さすがに金沢区役所とは違い、横浜市はちゃんと調べている。「山あて」のことを書いてある説明板は初めて。偉い先生の本にはたまに書いてあるけれども、一般の公務員で御存知の方はまずいない。説明板ではこの権現山や室の木のことを書いているが、僕は「野島」や「マサキ鼻」や金龍禅院の裏山や富岡八幡宮の「八幡山」がまさにそうで、それ故それぞれの地に神社がつくられて、他地域には無い珍しい「舟にのったお稲荷様」があると思っている。お稲荷様はその名前通り、本来は田んぼの神様なんだから。普通キツネは泳がない。富岡八幡宮に「祇園舟行事」が残っている理由が分かるなぁ。八幡宮になる前には、ここには海の神様=蛭子様(恵比寿ではない)がいたんだと思う。金沢区役所の担当の方はぜひ読んでいただきたいと思う。境内の片隅には最初に書いた「やぐら」が残っていた。工事のおじさんが横浜市の担当者に連絡してくれたのかもしれない。保護されて良かった。説明板までついていた。金沢区と言うか横浜市はもっと市内のやぐらをPRしても良いと思う。やぐらは鎌倉だけのものじゃない。鎌倉ではやぐらは「お寺の中にあるもの」なんだけど、金沢区ではお寺以外の場所にも有る。これは鎌倉のやぐらより、横須賀や金沢のやぐらの方が先に有って、鎌倉の場合には、そのやぐらが「仏教に飲み込まれた」と言う証拠だと思う。つまり元は宗教に関係なく造られていた物が、仏教の時代になって法華堂と融合したと言うこと。「こっちが元祖なんだぞ!」って自慢しても良いと思う。境内を見ると、真ん中に階段が有り、奥の東照宮跡まで続いている。案内板によると、江戸時代の絵図にもその様子が残っており、再現したらしい。真ん中の上の古絵図を見ると、円通寺脇から階段が東照宮まで続いている。うん?東照宮の階段の下にはちゃんと「鳥居」があるじゃん!(写真を右クリックして出てくるメニューから別のタブで画像を開くと画像を別タブで開ける。 するとそのタブを右上の「…」のメニューで拡大できるので200%位は拡大できる。)東照宮なので鳥居じゃなくて門だと思ったけれど。どうして鳥居は再現しなかった?神社ではなく公園だから?公的な機関が特定の宗教遺物を再現してはいけないから?まぁ色々な理由はあるかも知れないけれど、もったいないなぁ。うん??円通寺には鐘もある。同じ理由なんだろうなぁ。しかも円通寺は正面(東:海側)を向いているし、一応東照宮の階段とは独立している形になってる。これならば、円通寺と東照宮は独立しているので、円通寺を社務所とは思わないかもしれない。普通、そうだよなぁ。謎でも何でもないや。境内から東照宮に続く階段には脇道が有って、その先には「横井戸」が有る。僕等の子供の頃は川の源流を探しに山に登ると、源流の付近では木に耳をあてると水の流れる音が聞こえた。(耳が悪くなった今は聞こえない。)大木の下には水が流れていることが有り、昔はそのような大木は神様として祀り、場合によってはその大木の下には水がわいていた。(もしかしたら銭洗い弁天もそうかも?)こういうのって大事なんだと思う。今の子供達にも教えてあげたい。でも僕はもう耳が聞こえないからなぁ。江戸時代に東照宮になる前には、ここはこの井戸が神様だったんじゃないだろうか?最後にここを上まで登ると権現山かお伊勢山に行けるかと思って奥まで登ってみたが、まだ整備中と言うことでカギがかかっていた。いつか奥の方まで工事が終わったら登ってみよう。降りる時に下を見下ろしたら、円通寺の全景が見えた。屋上を庭園にしており綺麗。桜の咲く時期に来ると良いと思う。帰りに瀬戸神社に寄ってみた。客殿の中に有った東照宮の説明板に、かって東照宮に有った石灯籠が瀬戸神社に有ると書いてあったから。今回初めて知ったのだけれども、瀬戸神社の入口にあるこの2つの石灯篭が東照宮の石灯篭だったのだ。石灯篭をよく調べてみた。写真の右の方は良く分からなかったが、左の方は読める。「久世大和守源廣之」と読める。確かに客殿の中の東照宮の説明板に書いてあった通りだ。東照宮は金沢の御代官八木次郎右衛門重絲によりこの地に勧請されて以来、金沢の歴代領主に大事にされてきたが、寛文2年(1662年)には久世大和守廣之から32石が東照宮に奉納され、この石灯籠はその翌年に寄進されたものだそうです。360年も立ってるんだ!その後、米倉氏領になったりした後、東照宮は明治10年に瀬戸神社に合祀されたのだそうです。だから瀬戸神社にあるんだ。今まで知らなかった。勉強になったなぁ。
May 18, 2023
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2023年4月1日のブログで、横浜市金沢区の金沢町の地名の由来は金沢区のホームページには下のように書いてあるが、これは明らかに誤りであると書いた。横浜市金沢区わの会一人ぼっちのイベントに参加しました?(その1)称名寺裏山の散策 | 日本を征服だ! - 楽天ブログ (rakuten.co.jp)<金沢区のホームページ>昭和期の歴史学者・金沢文庫長、関靖(1877-1958)は、『かねさわ物語』で、鎌倉に幕府が開かれて、この地に秩父の金沢村から鍛冶匠が移住してきて、その時に地名がついたという説を紹介している。どうしてちゃんと確かめる(裏をとる)ようにしないのかなと思う。4月1日にも書いたように、この「秩父の金沢村から鍛冶匠が移住してきて」と言うのは、畠山重忠が「釜利谷」の地に鍛冶匠を連れて来た時の話で、釜利谷は重忠が北条義時に討たれるまでは畠山の所領だった。釜利谷に有る東光禅寺には畠山重忠が祀られており、東光禅寺は鎌倉の東光寺が移設した寺。そしてその時に釜利谷に鍛冶匠が来たので金沢と言う地名になったと言うのだが、それが誤りであることは、新編武蔵国風土記の下の写真の部分を読むとすぐに分かる。同じ六浦庄の中で、「釜利谷」と「金沢」は「両郷」つまり別の郷として区別されている。両郷が区別されていないなら、釜利谷に鍛冶匠が来たことが由来になる可能性はあるが、区別されているのならば、「隣町の出来事が由来となって我が町の名前がついた」ことになる。あり得ない話である。恥も外聞もない。ましてや畠山重忠は自分達が滅ぼした相手なのに、「金沢」北条氏と呼ばれて気持ち良いだろうか??では何故、金沢と言う名前になったか?もう一つの説は、「この地に砂鉄が取れる沢が有ったから」と言うものである。これもちょっと違うのかなと思う。理由は金沢区が区制50周年を記念して発行した「図説かなざわの歴史」と言う本の次のページ金沢町つまり寺前等称名寺付近は三方を海に囲まれており「砂鉄の取れる沢」はあり得ない。「砂鉄の取れる沢」と言うのは、上流に砂鉄を含む地層から形成された山とそこから流れる川があり、下流に沢が形成された場所である必要があるからである。ちなみに付近では釜利谷の西側に有る「円海山」がそれにあたる。なので畠山重忠は釜利谷に鍛冶匠を連れて来たのである。これは僕の妄想ではなく、考古学的調査により証明されている。円海山の西側には鼬(いたち)川が流れ、それは柏尾川につながり大船に至る。途中には「鍛冶ヶ谷」等の鍛冶や火にちなむ地名が多く、古代、この辺で製鉄が行われていたのだろうと想像するにかたくない。(釜利谷も円海山麓で鍛冶匠がいたので釜利谷の釜がついたのかも?)地図を載せる。上の地図の中にある「上郷深田遺跡」と言うのがその製鉄遺跡で、昭和61年9月1日から発掘が開始されて製鉄関係の炉が18か所、製銅関係の炉が1か所見つかり、その遺跡は出土した土器などから7世紀中ごろから9世紀頃の遺跡であることが分かっている。しかも発掘の報告書を読むとすぐ上の円海山付近を掘ると砂鉄が取れるのだそうだ。つまり畠山重忠が鍛冶匠を秩父から連れてくる前からここでは製鉄が行われていたのだ。なので金沢区のホームページに書かれた金沢文庫長、関靖先生が唱えた説は、この発掘が行われた前に唱えられたものなので、情報量が少ない当時なら仕方なかったと思う。例えばこの事実が分かった後ならば「氷取沢」は元は「火取沢」だったのでは?と言う人が、出て来たとしてもおかしくはなかったかもしれない。だって「氷」なんてとれないもの。「火」を取る人達が住む沢なら分かるけれど。でも僕には「火取沢」と主張するだけの根拠は探せない。未来は何か根拠が見つかるかもしれないが。<後日追記>その後付近の言い伝えを調べていたら、長浜付近は鉄くそ(製鉄等の際に出る鉄くず)が出るらしい。(金沢の歴史案内:家田洋文氏著を参照)僕の予想通りだと思う。円海山から流れる川が有るからである。だから現在の金沢町ではなく釜利谷や長浜など円海山から流れる川が有る地域が「金沢」なら、それは金沢の地名の由来として正しいのである。でも釜利谷や長浜は昔から金沢とははっきりと別の村として区別されている(上記参照)ので、製鉄とは関係なくついた地名だと思うのである。後日追記終わり上の地図を見た人は、いや「図説かなざわの歴史」の地図がおかしいのであって、あんなに海が内陸まで侵入しているはずは無いと主張する人の為に、江戸時代に作られた「新編武蔵国風土記」に書かれた江戸時代の金沢の地図を紹介する。手子神社付近までは海である。そう言えば手子神社の近く小泉(こずみ)付近を書いた金沢八景の絵図(小泉夜雨)を見ると、海がすぐそばじゃん!釜利谷には今でも宮川が流れる。量は分からないが昔は砂鉄が取れたのかもしれない。また畠山重忠が釜利谷に鍛冶匠を連れて来たのは、原材料の砂鉄のせいだけではない。鉄は重いのである。人力で運ぶのは大変である。川と海が近くて船が使える(海が近かった昔の)釜利谷には地の利が有ったのだろう。話は戻って金沢の地名の由来だけれども、僕は3番目の説だと思う。金沢町付近では、かってこの付近に古墳またはやぐら(横穴墓を含む)がたくさん有り、掘ると金属製品(副葬品)が出たためだろうと思う。「沢じゃないじゃん!」と言う方には「漢委奴国王の金印」の話を紹介したい。金印は志賀島で農民が田んぼを耕していて見つけたと言うことになっているが、江戸時代の藩主への報告書では「三方を大きな石で囲まれた中で見つけたと書かれている。志賀島にはそんな大きな石は無い。恐らくは須玖や岡本付近の古墳を盗掘したのである。つまり石室の中に有ったのだ。ただ盗掘なら提出した農民は死罪なので彼らの上司が志賀島の田で見つけたことにしたのだろう。ウソも方便である。ここも同じで墓をあばいて見つけたと言えば死罪なので、沢で見つけたことにしたのだろう。なので「金沢」と言うことになったのだろう。ちなみに3番目の写真は現代の金沢区であるが、なかに「佐野大和先生の修法壇」と「長浜みはらし公園」と書いてある。長浜みはらし公園は僕が古墳だと信じている「塚」である。(文化財地図には未記入)横浜市金沢区の富岡八幡宮は古墳だよ!(その7)金沢区長浜みはらし公園の鉄塔 | 日本を征服だ! - 楽天ブログ (rakuten.co.jp)佐野大和先生の修法壇と言うのは、能見台付近の住宅地開発の際に壊された「塚」で、「これは古墳だと思うが、学界ではなかなか認めてもらえないので修法壇と言う事にしよう」と先生が「横浜市文化財調査報告書富岡町における修法壇の調査」報告書に書いた塚である。(これは文化財地図に記入有り)この付近には称名寺の西側にもかって「塚」が有り、大塚と言う地名が有ったらしい。<後日追記>金沢の歴史案内:家田洋文氏著によれば、この大塚は現在(昭和初期)は既にないが、浅間山裏手前に有ったそうで、古より貴顯(きけん:身分が高く貴いこと)の塚として伝わり、また付近の山々に百八の塚有りと言われたそうである。やっぱりそうだったのかと思った。佐野大和先生の考えられた通り、この付近にはたくさんの塚(古墳)が有ったのである。ただ、宅地造成が続き、みんな無くなってしまったのだと思う。とすると、長浜みはらし公園の塚は大事な古墳なんだなとあらためて思った。後日追記終わり。3番目の写真にも書いたが、ここは鎌倉から六浦港を経て久良岐郡衙に至る拠点地域だったのだ。六浦の港を経由する関東一円の物流品、釜利谷の鉄、きっと長者がいたのだろうと思う。だからこの道沿いに古墳がたくさん有ってもおかしくはない。「佐野大和先生の修法壇」付近は禁足地だったらしいが、豪族のお墓が有ったからだろう。だから金沢と言う地名になったんじゃないかな?<後日追記>NHKの歴史探偵を見ていたら、北条氏と伊豆の砂鉄の関係を放送していた。それを色々と考えていたらふと気がついた。上に書いたのはもしかしたら僕の思い込みが少し有るのかもしれない。伊豆から鉄が出て(砂鉄が取れると言うことは伊豆には鉄の鉱脈が有る。)、円海山も砂鉄が採れるのならば、もしかすると鉄の鉱脈はもっと大きくて円海山だけではなく浅間山も鉱脈が続いているのかも?もしそうならば、過去には浅間山からの川は柴の方にも流れていた可能性が有り、その場合には金沢からも鉄が採れてもおかしくは無い。上の<後日追記>に書いた長浜付近は鉄くそ(製鉄等の際に出る鉄くず)が出るらしいとは、(金沢の歴史案内:家田洋文氏著を参照)円海山からの流れのことではなく浅間山からの流れが過去には有ったかもしれないからである。今の地図を見ると、長浜側は長浜(親水)公園から川が流れだしており、これは過去には能見台不動池につながっていたのではないかと思ったので、家田洋文先生の言う通り、長浜なら鉄くそが出てもおかしくはないなと思ったのだが、その川はさすがに長浜見晴らし公園の有る山は越えないと思うので、それをもって金沢にも鉄が出ると言うことはありえないと思っていたが、(金沢町側に水の流れは来ないから)でも鉄を供給する土地が円海山だけではなく、この辺一帯の山がみんなそうならば、例えば宮川等も昔は砂鉄が採れたのかもしれない。その場合金沢町からは少し離れるが金沢文庫駅付近が砂鉄の産地だったとしても不思議はない。そう言えば金沢文庫駅付近は「赤井」と呼ばれるなぁ。もしかすると昔は鉄が採れたから井戸の水も赤みがかっていたのかも?つまり円海山だけではなく、この辺一帯の山が鉄の鉱脈の上に有るならば、金沢町(と言うか金沢文庫駅周辺)は砂鉄が採れ、そのせいで金沢と呼ばれたのかもしれない。まぁでも、先生の言う畠山重忠が秩父から製鉄の職人を連れて来たから金沢と言うのは無いな。<さらに後日追記>そう思って調べていたら、「赤井」の地名の由来は本当に井戸水が鉄分で赤いからだった。NPO法人 横濱金澤シティガイド協会の「かねさわ地名沙」に書いてあった。ちょっと記事を紹介する。「弘法大師空海が関東方面に来られた時、水不足に困り地下水を利用する知識が無かった村人に疫病がはやり苦難にあえいでいた。お大師様は、この地に井戸を掘られ、井戸水を真言密教でお加持すると、たちまち赤くなり…」。今も正法院庫裏の一隅に、石組みの四角い井戸があります。と書いてある。また『新編武蔵風土記稿』には、「赤井村は久良岐(くらき)郡の南にあり、當村(とむら)及宿、坂本の3村、 古(いにし)へ釜利谷の一郷なりしこと、 村の名義は、村内正法院境内に赤井と稱(称)する名水あるに因(よっ)て起れりと云(いい)、 地形高低ありて山間に水田を開き、山上に陸田あり、田畑相半し、 土性(どしょう)は赤土砂交、或いは野土等なり、 民家七十件、農耕の暇には薪を伐出して生産をたすく、村内に係る一條の往還あり」と書いてあるらしい。「土性(どしょう)は赤土砂交」ってつまり砂鉄が出るってことじゃん。NPO法人 横濱金澤シティガイド協会のおかげで疑問が解決してしまった。やっぱり畠山重忠は関係ないし、僕の考えていた古墳も関係ないな。金澤は大昔は砂鉄の産地だったから金沢と呼ばれるようになったんだ。疑問が解決して良かった。
May 16, 2023
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arduinoは電子回路制御の勉強に非常に役に立つのだけれども、いきなりロボットとか作るのは難しく、かと言って簡単な入門用のプログラムの作成と言うと、いわゆる「Lチカ(LED点滅)」プログラムではすぐに飽きてしまう。両者の間の中間程度の難しさのプログラムが少ない。ただ、世の中にはハイレベルな先輩が多くいて、役にたつプログラムを作り、ライブラリーとして提供してくれているので、これを上手く利用すると比較的簡単に面白いプログラム(arduinoではスケッチと言う)ができる。特にラジオではTEA5767(あるいはその互換品のRDA5807)と言うFM用IC用のプログラムが、たくさん世の中には存在する。愛天堂のDSPラジオキットK-5807SLD2は、arduinoのシールド(簡単に接続できる汎用インターフェース式の基板)にRDA5807を用いた性能が良くて簡単なラジオキットである。ただ、愛天堂のHPを見るとハードウエアはちゃんとできているのだけれども、ソフトウエアは「1つの放送局だけしか受信できないプログラム」しか紹介していない。これは意地悪をしているわけではなく、世の中に提供しているプログラムの多くはアマチュアのみの使用を許可しており、著作権の話から、お店ではプログラムを提供できないのだと思う。でも僕は低レベルアマチュアなので問題は無く、レベルもちょうど良いので、頑張って作ってみることにした。ただし、その際にせっかくだから(耳の悪い僕用の)アンプを付けることにした。RDA5807はプログラムを組めばUP、DOWNのスイッチで音量調節ができるが、僕はやっぱりボリュームで調整する方が好きなのでアンプが良いのである。アンプは愛天堂のK-2822にした。このアンプは安物のラジオ等によく使われる「2822」と言うICを使ったステレオアンプで、音質調整はついていないが、低電圧の単一電源で動作する便利なアンプ。音にうるさい人には向かないが、耳の悪い僕には値段が安くてちょうど良い。また市販のラジオはオートスキャン+メモリー付の物が多いが、自分で作る場合には必要な放送局は周波数が分かっているので、オートスキャン+メモリーで選局するのはナンセンス。放送局の周波数はプログラム中に書き込んだ。ただ、残念なのは手持ちのLEDが5色しかないので、放送局は5局になってしまった。箱入りにするならば、同色のLEDでも箱に放送局名を書けば何局でも使えるのだけれども。ラジオを作るよりもケースを作る方が大変だからなぁ。仕方ない。今回使ったDSPラジオキットK-5807SLD2とアンプK-2822はこんな感じに接続する。選局表示用のLEDはみっともないけれどK-5807SLD2に直付けした。なお、図中の「妨害電波防除用」コイルとコンデンサーは電源がACアダプターや電池なら不要。電源をパソコンのUSB端子からとる場合、パソコンから出るものすごい不要電波がFM放送の受信を妨げるので、これを防ぐ為のもの。コイルの作り方は2021年8月28日のブログの最後の所で書いたコイルの作り方と同じ。Φ6mmのミニドライバーの柄の部分(直径約6mm)にΦ0.4mmのスズメッキ線を6回巻いた物。コンデンサーは24pFを使った。FM横浜を聞きながら最大音量になるようにコイルを広げたり狭めたりした。AMAZONのFMラジオキットを作りました。改造もあるよ! | 日本を征服だ! - 楽天ブログ (rakuten.co.jp)出来上がったのはこんな感じ。やっぱりケースが有った方がいいかな?そうそう書き忘れるところだった。選局は最初はニッポン放送を受信して、SW1を押す度に、FM東京→NHKFM(横浜)→FM横浜→TBS→ニッポン放送→FM東京とローテーションする。周波数はプログラム中にMHz単位で書き込めば良い。LEDの色数から5局なんだけど、5つのブロックは相似なので、もし他の色をもっていたらブロックを増やせば局数は増やせる。ボリューム用のSW2とSW3を使わなかったせいでデジタルポートは2つ空いているし、デジタルアナログ兼用ポートも有るので十分対応可能。僕もあと1局=文化放送は増やしたかったな。なお、プログラムはもしLEDを持っていなくてLEDを付けてない場合にでもそのまま使える。(arduinoはピンに信号を送り続けるかもしれないが、LEDが無いので反映されないだけで、 ラジオの複数局受信機能はSW1読み出し用のデジタルピン7が生きていれば、 SW1を押すたびに次の局に移るので大丈夫。)スケッチ(arduino用プログラム)は下のような感じ。-------------------------------------------------------------------------------------#include <Wire.h>#include <TEA5767Radio.h>TEA5767Radio radio = TEA5767Radio();void setup() { // initialize digital pin LED_BUILTIN as an output. pinMode(0, OUTPUT); pinMode(1, OUTPUT); pinMode(2, OUTPUT); pinMode(3, OUTPUT); pinMode(4, OUTPUT); pinMode(7, INPUT); Wire.begin(); //OMAJINAIradio.setFrequency(93.0); digitalWrite(0,LOW); digitalWrite(1,LOW); digitalWrite(2,LOW); digitalWrite(3,LOW); digitalWrite(4,LOW);}void loop(){ //FMTOKYO radio.setFrequency(80.0); while ( digitalRead(7) ==1){ digitalWrite(0,HIGH); }; digitalWrite(0,LOW); delay(1000); //NHKYOKOHAMA radio.setFrequency(81.9); while ( digitalRead(7) ==1){ digitalWrite(1,HIGH); }; digitalWrite(1,LOW); delay(1000); //FMYOKOHAMA radio.setFrequency(84.7); while ( digitalRead(7) ==1){ digitalWrite(2,HIGH); }; digitalWrite(2,LOW); delay(1000); //TBS radio.setFrequency(90.5); while ( digitalRead(7) ==1){ digitalWrite(3,HIGH); }; digitalWrite(3,LOW); delay(1000); //NIPPON radio.setFrequency(93.0); while ( digitalRead(7) ==1){ digitalWrite(4,HIGH); }; digitalWrite(4,LOW); delay(1000); }-----------------------------------------------------------------------------------------うーんこのブログ、スぺースや改行が消えちゃうなぁ。ardinoIDEに書き込む際には適当にスペースと改行を追加してください。これをarduinoIDEを使ってarduinoUNO(僕の場合は互換品びんぼうでいいのU3S)に書込む。それにしても愛天堂もいくら安いとはいえ、「びんぼうでいいの」とはすごいネーミングだな。書き込みが上手くいかない場合は、たいていはarduinoIDEの設定がうまくいっていない。ぼくも久しぶりに使ったせいでボードがWiFi用ESP32になっていたのに気づかず、しばらく悩んでコーヒーを飲んで心を落ち着ける時間が必要だった。ばかだと反省した。でもちゃんと動くようになったし、今聞いている局名がLEDで表示されるので便利。久しぶりにプログラムを組んで勉強になった。<後日追記>僕は本当はぐるりと回すボリュームが好きなので、上記のアンプが良いのだけれども、RDA5807は普通の人にはアンプなしでも十分に大きな音で聞こえる。(僕は耳が悪い)5月27日のブログでアンプなしバージョン用プログラムを作ったので、アンプなしが好きな、と言うかボタン式ボリュームが好きな人は下記を参照願います。愛天堂のarduinoシールドDSPラジオ K-5807SLD2を作ってみた。スケッチ(ボリュームプログラム付き) | 日本を征服だ! - 楽天ブログ (rakuten.co.jp)
May 15, 2023
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5月4日は令和5年度第1回目のわの会でした。今回は金沢区を飛び出して、三浦半島横須賀市の衣笠(と言うか大矢部)に遠征し、三浦一族のゆかりの寺をまわりました。その中でいくつか貴重な発見が有り、僕の研究の「三浦一族の父方は桓武平氏:平良文流だけれども母方は古代黒潮に乗り九州から来た海人族だ」と言う仮説と、「海人族である三浦一族は最後まで仏教化に抵抗し、妥協策としたのがやぐらと言う埋葬施設」と言う仮説の有力な証拠が見つかったのが成果でした。でもこれはわの会の主旨とははずれているのかな?今日のルートはこんな感じ。距離はたいしたことはないのですが、遠征なのでそもそもスタート地点が遠く、寝坊がちな僕には朝がつらい。京浜急行の横須賀中央駅で降りて「長井」行のバスに乗り衣笠城跡バス停で降りる。この衣笠城跡バス停は名前がおかしいと思う。「矢部」が正しいと思う。だって「衣笠山公園」も「衣笠城址」も遠く離れていて、何故「衣笠城跡」バス停なの?バス停から見た「衣笠城址」。相当に遠い!まぁでも、衣笠城址付近にはバスの乗降客が少ないとか事情が有るのかもしれない。ここから最初のお寺である満昌寺まで歩く道すがら、ガイドさんが付近の地名の由来などを教えてくれた。この付近は大矢部とか小谷部と言い、矢部郷は三浦氏惣家の屋地である。三浦義澄は「矢部次郎」、義澄の後室は「矢部尼公」と呼ばれていた。僕が毎週見ていた「鎌倉殿の13人」で哀川翔の娘の福田桃子が演じていた北条泰時の妻の初は三浦義村の娘で後日「矢部禅尼」と呼ばれたそうだ。で、その地名「矢部」と言うのは、ここが矢を作る人達の里だったことに由来するらしい。ガイドさんはその説明をしながら「矢竹」について教えてくれた。福田桃子ちゃんは演技がうまいし、いい子なんだけど美人じゃない.。でも可愛い!矢竹は実は竹ではなく笹の仲間。タケ(竹)と名に付いているが、成長しても皮が桿を包んでいるため笹に分類される(大型のササ類)まっすぐで節が出っ張って無いので加工しやすく、昔は矢に加工して用いられた。矢の他、筆軸、釣り竿、キセルの羅宇、装飾用窓枠に利用されている。ところで「矢部」の「矢」はそれで分かるが「部」は何かというと古代日本の「部民制」の一つ。王権への従属・奉仕、朝廷の仕事分掌の体制である。例えば卜部は元々は占いを行う人達の集団で、土師部は窯業を行う人達の集団だった。律令制が始まるとともに「部」は失われて、人々の姓として残ったらしい。説明を聞いているうちに満昌寺に着いた。満昌寺は源頼朝が挙兵した石橋合戦敗戦後に、千葉に逃げる頼朝や三浦一族を救う為に衣笠城に籠城し死んだ三浦義明を弔う為に頼朝が建て、奥には義明の墓が有る。境内はこんな感じ。あまり有名じゃないみたいだけど、義明の墓や国指定重文の木造三浦義明像の有る宝物殿に至る階段脇には33体の羅漢様が有る。この階段を登った所には宝物殿が有り、国指定重文の木造三浦義明像がある。写真撮影が禁止されていたので、説明板の画像を載せる。義明は亡くなった僕の父親にそっくりな顔をしている。先祖は九州から来たのではと思った。宝物殿には当時の刀等も展示されており、古代のまっすぐな刀ではなく反りが入っている。最も古い反りは「腰ぞり」と言い、平安時代から鎌倉時代初期のもので根元近くに反りが有り、鎌倉時代中期になると「中ぞり」と言い、中央近くにそりがあるが、ここに有ったのは多分「腰ぞり」だと思う。(そりの無いのを「剣」、そりの有るのを「刀」と呼び、日本刀の特徴)西洋の剣はたたきつけたり刺したりするのでまっすぐだが、日本刀は「切る」為に引くことから反りが生まれ、またこの反りによる重心位置の移動から、重量よりも重くなったり軽くなったりする。日本刀が実用性が高く、芸術性にも優れた物に発展した元である。宝物殿のさらに奥には三浦義明公の墓が有る。中央が義明の墓(形式から鎌倉末期~室町時代)で、右の五輪塔(同鎌倉末期)が奥様の墓らしい。左手奥の板碑(いたび)は少し緑色をしているが、これは秩父の石の特徴で鎌倉末期のものらしい。他のお寺に有る三浦一族の墓が宝篋印塔ではなく方形や円形の石を積み重ねた五輪塔なのに、義明の墓だけが鎌倉時代末期あるいは室町時代に多分建て替えられたのは何故だろう?もしかしたらと思うのが次の写真である。義明の墓のすぐ隣に義明の子孫たちが建てた石宮と鳥居である。三浦一族は和田合戦と宝治合戦で滅びたと思われがちだが、北条泰時の奥さんの矢部禅尼のお陰で一部は「佐原氏」等として後世に生き延びている。宝治合戦で全滅した場所の頼朝法華堂跡の上には大江広元、その子で毛利氏の祖となる毛利季光、源頼朝の子ともいわれる島津忠久の墓(やぐら)がある。毛利季光は三浦泰村の妹を妻として宝治合戦では三浦方として戦い戦死しているが、その子孫は広島や山口で大きな一族になっている(毛利輝元なんかも子孫)。島津忠久は源頼朝の子とも言われるが、その根拠は島津家伝であり15世紀以降のもの。それ以前には全く書かれた物が無く、吾妻鏡には何も書かれていない。彼は平家討伐の功から頼朝の推挙により摂関家領島津荘下司職に任命されたことにより、島津氏は以降鹿児島薩摩藩を治めることになる。彼は毛利の長州(関が原で負けて安芸広島は奪われた)と共に明治維新を戦う島津の先祖である。(あれ?長州と薩摩の先祖が何で頼朝の法華堂の傍に並んでいるんだ???偶然?)三浦は和歌山にも子孫がいる(後述の近殿神社参照)。つまり日本の海を根拠にした地域に三浦の子孫が残っているような気がする。また、もっと面白いのは「お寺の中に神社が有る」ことである。お寺が最初に有りその中に神社を造ると言うのはキリスト教会の中にモスクを造るようなもの。ちょっとなぁと思うけれど、日本はその辺にはこだわらない国なので、神仏習合のこともあり、最初に神社が有り、その神社が地元で大事にされていた場合には寺が神社を飲み込む場合は有る。僕は仏教と神道と言うか寺と神社の関係は相当に複雑なんだと思っている。例えば神仏習合では、日本古来の神様は仏様が姿を変えたものとして、例えば「八幡大菩薩」などとして明らかに神様なのに仏教理論の中に紛れ込ませようとする。そう言うごまかしをせざるをえないほど仏教側の攻撃は厳しく、神様側も抵抗したのだと思う。鎌倉の浄光明寺の大伴家のやぐらが良い例である。浄光明寺と言うお寺の境内のやぐらの中に神社の神主さんの使う笏の形の墓を作り、その表面には鳥居を刻んでいる。相当に抵抗しているのだと思う。そもそも「やぐら」そのものが、神様たちの仏教に対する抵抗である。やぐらは元は横穴墓が原型で、横穴墓時代には石棺を穴の中に置いて死者を祀っていたのを、仏教に妥協して、火葬して骨壺を五輪塔等とともに穴の中に納めたものである。三浦一族をはじめとした関東南部の人達は仏教の前は神様を信じていて、死者は横穴墓に祀っていたのだと思う。近畿地方とは根本的に違うのだ。そして彼らは元は九州の方から来た人達の子孫なんだと思う。三浦半島には弥生時代から古墳時代に作られた海蝕洞を利用した遺跡がたくさん有り、(間口遺跡をはじめとして30か所以上の遺跡が有る。)それは住居の場合も有りまたお墓の場合も有り、白石洞窟遺跡のように隆起海蝕洞が多い。僕が特に関心を持っているのは「鳥を抱いた老婆」の遺骨が発見された海蝕洞遺跡である。食べられた鳥ならば人骨と一緒には葬られない。大事な鳥だから一緒に葬られたのだ。城ヶ島にはウミウがたくさんいるのは有名だが、昔の人はウミウなど鳥が海上を飛ぶのを見て魚群の位置を知り、彼女はその知識に秀でた部族の中心人物(例えば卑弥呼のような女王)だったのではと思っている。女王=祭司長に率いられた国は九州に多いので、海蝕洞遺跡(後世のやぐら)の存在も合わせて、僕は三浦半島には黒潮に乗って九州から来た海人族が居たと思うのである。それは横穴墓と言う埋葬形式から分かる。沖縄では現代でもその名残が残っている。亀甲墓である。完成型のやぐらだと思う。また鹿児島をはさんだ宮崎の古墳にもその名残が有る。生目古墳群第21号墳である。後から出てくる三浦義村を祀る「近殿神社」の名前の由来が、殿(王)の近くに祀ると言うのが由来ならば、薬円寺周辺のやぐらは、まさに殿(王)である三浦一族の墓(やぐら)が近くにあったからだと思う。話は戻って三浦義明の墓が鎌倉時代末期に改装されたのは、これに原因があるのだと思う。つまり義明の墓は元は仏教ではなく神様として祀られていたのだ。それが鎌倉時代末期になると、世の中は完全に仏教の世の中になり、義明の墓も存続をはかる為に仏教形式にする必要が生じ、子孫たちは必至の思いで改装したのだ。義明は鎌倉幕府創建の立役者なのでそうして改装されたが、他の三浦一族は鎌倉幕府にとっては逆賊なので改装はかなわず石積みの五輪塔なのだと思う。満昌寺の次は三浦義村を祀る近殿神社に向かう。説明板に書かれた通り、社殿右手裏には八つの石宮が有る。写真では見づらいかもしれないが、両側の灯籠と左端の石宮には三浦の「丸に三つ引紋」が刻まれている。三浦の人々にとっては衣笠よりもこちら矢部が大事だったのだろう。説明文に書いてあるように「衣笠山では遠隔不便な為」ではなくここが本拠地だったからだろう。これに関して地元の研究家である「島崎良章氏」の本を見つけた。なんと地元大矢部のセブンイレブンで著書を販売している。ついつい買ってしまった。上の写真に「近殿神社は元は裏山を御神体とした浅間神社だった」と言うのはこの方の本による。「矢部郷御鑑帳」に大矢部の総鎮守は昔から浅間神社で、享和年中(1801~1803年)に紀州藩家老三浦長門守為積により「近殿神社」に替えたとあるらしい。ほら、上の方にも書きましたが、三浦は福田桃子ちゃんのお陰で生き延びて、和歌山にも子孫がいたし、為積は長門守つまり長門(山口)を名乗っているんですよね。石宮の奥の擁壁はすぐに裏山につながり、そこが三浦にとって大事な殿(王)の山で、そこに近いから「近殿」神社だったんだと思います。この島崎良章氏と言う方はものすごい研究家で、単なる思い付きではなく沢山の史料を調べ、それらを比較検討し、総合的に判断して本にしておられるので信頼性は高いと思います。たとえ東大の偉い先生でも、地元の事に関しては情報が限られるので、地元の優秀な研究家の方が信頼がおける場合がままあるものです。彼がそうだと思います。ところで、「近殿神社」は地元では「ちかたじんじゃ」と読まれているようです。これは境内の石柱(右側)の「近殿神社」と言う字にフリガナが有り「ちかた」とある為です。但しこれは最近になって造られたもので由来が分かりません。ただ、三浦義村を祭神にする神社に根岸の「千片(ちかた)神社」と、鴨居の「近戸(ちかと)」神社があり義村を祀る神社として「ちかた」としたのかもしれません。しかし、元は地元の総鎮守であり為積により無理やり義村を祀る近殿神社に替えた経緯から、島崎良章氏は「ちかたじんじゃ」と言う呼称を認めたくないものと思います。しかるに「新編相模国風土記」には「知加度能美也宇志牟也志呂(ちかとのみやうしむやしろ)」(島崎良章氏は「みやうしむ」を明神(みょうじん)と読んでいます。)と書かれていますので、1801~1803年に建てられたのならば、その前には「ちかとの」と言われていたのかなと、僕もそう思います。だって、近くにたくさんやぐらが有って、三浦一族の人々が祀られており、石宮には三浦の丸に三引紋がついているんだもの。石宮は近殿神社創建以前から有るんだし、殿=三浦氏の近くに有る神社なんだから。島崎良章氏の本に書かれた記事の中でもっと面白いのは衣笠城址についてだけれども、それは後ろの方の「義明の腹切松」で書きます。近殿神社を過ぎて、次は薬王寺跡。ここは今は建物は無く「薬王寺旧跡」の説明板と義澄の墓がある。上に書かれた双式板碑は満昌寺宝物殿に有った(撮影禁止だったので写真は無い。)この付近は研究により下の写真のように大きな池と寺院が有ったと言われており、池田や大御堂の地名が残っている。ガイドさんが説明資料を見せてくれた。中央の瓦出土と書かれた地点から出土した瓦は、島崎良章氏の本によれば、京都の壬生寺、鎌倉の極楽寺と全く同じ瓦(同范の瓦)だそうで、近年、1210~1220年頃に大阪の堺で焼かれて大矢部に運ばれたことが分かったそうです。しかもその年代は和田義盛が薬王寺を建てたとされる時期と一致しているそうです。とすると、やっぱり近殿神社は和田義盛が建てたのならば三浦義村の神社にしたのは無理がある。地元の人にして見れば義村は仇だもの。三浦長門守為積にしてみれば自分達が生き延びたのは義村(と言うより福田桃子ちゃん)のお陰だからここに建てたかったのかも知れないけれど、地元の人達にとっては抵抗が有るよな。義澄の墓を南に行くと薬王寺の山門跡がある。右手の小さい石塔は痣地蔵と呼ばれており、痣のある人がさすると御利益があるそうだ。ここを南に大きな道路を渡ると清雲寺が有る。なお、この道路は昔は古東海道で、鎌倉から走水に続き、そこから上総へ渡る経路だったらしい。だから鎌倉から千葉にいたるまで一族がいた三浦氏は、ここに本拠地を置いたんだなと思う。清雲寺はこんな感じ。ここには三浦初代為通から三代義継までの墓が有る。満昌寺の義明の墓とは異なり、古い石積みの五輪塔である。満昌寺の義明の宝篋印塔はやはり特別だな。これらは古いけれども有る意味伝説の墓である。新編相模国風土記に記された三浦一族の古墳(やぐら)の中に有ったものをここに移したらしい。戦争中に軍の弾薬庫にされ、今は自衛隊の敷地の中に有って立入禁止の三浦氏やぐら群である。後で(個人的に行ったので)そこで書く。本堂には国指定重文の木造毘沙門天立像と本尊の木造観音菩薩像が有る。写真は市HPより引用。ここでうれしかったのは旧本尊の木造毘沙門天立像の前に「御鏡」が有ったことである。仏教寺院の本殿の毘沙門天の前に「御神鏡」である。写真撮影はだめだからネットで探すようにと言われたので、下の写真はネットから借用した。ネットから借用したので解像度が低くはっきりとは見えないが、丸い鏡が有ることが分かる。やっぱり三浦氏は相当にあとまで仏教ではなく神様を信じていたのである。だから仏教寺院ではなくやぐらに亡くなった方を祀る儀礼が残ったのである。確かに鎌倉にやぐらが多いのは事実だが、それは鎌倉幕府の基礎を築いた三浦一族がここ大矢部から鎌倉に祭祀を持って行ったからである。元は三浦の祭祀だったのである。だから宝治合戦で北条と戦い自害した三浦泰村のやぐらは源頼朝の法華堂の脇にあるのである。今回の「三浦一族ゆかりの寺を巡る」ではこれを確認できたのが一番うれしかった。清雲寺を後にすると最後は「三浦義明の腹切松」である。清雲寺近くに「腹切り松公園」がある。今回の寺社巡りで何回も出てきたが、義明は頼朝や三浦一門を逃がす為に衣笠城に籠城した。え?でも待てよ最初の写真で分かるように「衣笠城跡バス停」から衣笠城まで結構遠い。しかもこの腹切り松はバス停からさらに東側である。籠城した義明は衣笠城で腹を切らずにここまで逃げて来て腹を切ったの?たかだか数千人余りの敵軍なんだから、ここまで逃げられたのならば、腹を切る必要は無く、もっと逃げて隠れたらいいじゃん?誰でもそう思うだろう。近殿神社のところで予告したが、島崎良章氏の本に書かれた記事の中でもっと面白いのは衣笠城址についてである。氏は吾妻鏡に書かれた衣笠城は、現在の衣笠城址の山上でなく、ここ矢部に有ったと考えている。清雲寺付近に中陣が有り、尾根上の「上の道」の東木戸口(大手)を義澄と義連が、西木戸を和田義盛が陣を張って守ったと読めば地勢に合うけれども、現在の衣笠城址では該当する地形が無いからである。(東西の木戸口は大矢部の古地図にある)そう考えれば清雲寺の近くの腹切り松付近で腹を切ったと言うのは事実に合う。東木戸の義澄・義連や西木戸の和田義盛などは既に上総に逃げ、清雲寺付近は周囲を畠山重忠達に包囲されていたと考えれば、もはやこれまでと覚悟を決めた場所にふさわしいからである。多分、島崎良章氏の本が正しいのだと思う。偉い学者先生よりも地元の研究者である。ここが最終見学地点で、この公園で解散してみんなはバスで帰ったが、僕は最後に大事な目的が有り、解散後に一人で「円通寺と三浦一族のやぐら」を見に行った。何度も書いたように、僕は三浦一族は仏教伝来後も古くからの横穴墓に死者を祀る祭祀を続け、鎌倉幕府が開かれた後も横穴墓をやぐらに替えて、横穴墓の石棺を火葬・骨壺に替えて、古くからの風習を守って来たと考えており、学者先生方はやぐらを鎌倉のものと考えているが、実はそれは三浦半島が発祥の地で、三浦一族がその風習を鎌倉に持って行った為に鎌倉中に広まったと考えている。だって北条氏の政治力に負けて最後は宝治合戦で滅びたけれども、鎌倉幕府は実際は三浦一族が作り上げたものだもの。円通寺跡及び三浦一族のやぐらは自衛隊の敷地なので入れない。なので門にカメラだけ差入れた。ここは新編相模国風土記の107巻に書かれている。ここに清雲寺に移設された三浦一族の墓(やぐら:風土記では「古墳」)が有ったらしい。横須賀市は、もう自衛隊は既に使っていないのだから地元に返還して欲しいと陳情しているが、国の方がまだ整理がついておらず、横須賀市の方も跡地計画や予算が未整理らしくそのままである。早く返して欲しいなと思う。
May 9, 2023
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愛天堂のRF増幅器RFAMP9018-2TRは抵抗さえ適切にすれば、増幅率は小さいけれど一応動作するのが4月24日の実験で分かったけれど、やっぱり「コレクター接地2段増幅回路」はやっぱり変な発想だと思うので、なるべく元のプリント基板を使用して、元から入っている部品を使って(位置の変更は有り!)、できる事ならば20dB程度の利得が得られるように改造することにした。回路は元のプリント基板を生かしつつ、エミッター接地回路2段増幅回路とした。但し、元から入っている部品を使うとすると部品点数は増やせないので下図の回路にした。この回路は部品点数が少なく、かつ負帰還がかけやすいと言う優れモノである。(図の中のQ1のエミッター抵抗kΩと言うのは1kΩの書き間違いです。 Q2のコレクターからQ1のエミッターに負帰還をかけています。)そして僕がこの回路が好きな理由は、バイアス計算が簡単だと言うことである。図中の緑のラインを追ってみると分かるが、R4→Q2VBE→10kΩ→Q1VBE→1kΩの電圧のラインを見ると、10kΩはQ1のVBEを作っているだけなので合わせて0.65Vとすると簡単に抵抗値が求まる。しかも10kΩによりQ2のコレクターからQ1に負帰還がかかって安定する。2kΩと1kΩは初めから部品として入っている。10kΩは初めからの部品には入っていないが、Q2のコレクターからQ1のエミッターまで距離が有り足が有る部品が必要なので追加。部品配置図は下図の通り。元のプリント基板にはほとんど手を加えていない。(赤の部分は別。これは発振トラブルにより追加した。)上の回路図と部品配置図を見ると分かるが、当初はQ1のエミッター抵抗(R23の所)と10pFは無かった。ところが世の中は甘くない。さすがにトランジスター2段増幅もするとゲインが大きすぎて発振するのである。発振回路を狙って作ったわけではない。高周波における発振は、僕のような低レベルアマチュアが作った場合ひんぱんに起こる。発振は、出力の一部が入力に戻って起こる。会議室でマイクがスピーカーに近い場合に起こるハウリングと同じ原理。あれの高周波版。ハウリングの場合は音を介して起こるが、この場合は電波を介して発生する。対策としてはハウリング対策とほぼ同じ、1.出力と入力をできるだけ離す。(物理的な距離よりも静電容量的な意味:並行ライン等)2.ゲインを押さえる。(これは場合によっては増幅器としては本末転倒)3.目的とする周波数以外をカットする。 (発振は浮遊容量が原因な場合が多いので思いがけない周波数で起こる。)他にもあるかもしれないが、通常はこの3つ。まずは3.をやってみた。中華のラジオは高周波増幅を非同調式増幅回路で行う場合が多く、回路が簡単で部品が少ないのは良いが、発振してしまうと大変じゃないのかなと思う。アマチュア無線等の受信機は、目的の周波数が限定されるので同調式増幅回路が多い。入力部分に同調回路が有ると、不要な発振周波数の電波は入力を通過しないので発振しない。なので上の回路図と部品配置図のように約7MHzに同調するコイルとコンデンサーを付けた。でも発振は止まらなかった。なので2.のゲインを押さえる方法をやってみた。そもそも今のゲインはどのくらいあるのかも気になったので、入力部を見てみた。約80mVP-Pくらい有る。出力部が4Vp-pだったので約1/50が出力から入力に戻っている。逆に言えば50倍に増幅されている。えー!34dBも増幅している?発振していなければ目的達成なんだけど。ゲインを減らすには10kΩを小さくすれば良いのかなと思ったので3.3kΩに変えてみた。あまり変わっていない。でもふと気がついた。この10kΩって直流用の負帰還であって、交流的にはあまり効かないのでは?それでやってみたのが上の回路図と部品配置図の10pFと1kΩである。すると発振は何となく消えた。何となく波が見えるけれど、周波数が全然違うし40mVp-p位しかない。なので良しとした。この状態でゲインがどのくらい取れているのか見てみることにした。4月24日の実験で作った発振器を使い、なるべく電波に近い状態にするために、配線はつながないで、コイル同士を近づけてみることにした。交流負帰還用の10pFが立っている!それにしてもこの発振器は強力だと思う。電源が単三2個つまり3Vなのに15Vp-pも発生するし、ちゃんとRF増幅器に届く。RF増幅器入力部の波形。ちょっと波形に問題があるが、電線類はつないでおらず空中線だけなのに100mVp-pもある。これを増幅した出力部の波形はこんな感じ。概ね4Vp-pも出ている。約40倍の増幅、つまり32dBのゲインが得られている。大満足だと思う。これを愛天堂のDSPラジオ「K-6955V2DB」につないでみた。うん?様子が変?と言うか、SWだけじゃなくFMまで聞こえなくなっている!なんで???もしかしてと思い、RF増幅器の出力部つまりK-6955V2DBのSWINの波形を見てみた。えー!また発振している!それも別の周波数でよりひどく!がっかりしたけれど、かりかりしても仕方ない。心を落ち着けてコーヒーでも飲みながら考えよう。しばらく考えてふと気がついた。K-6955V2DBもRF増幅器も、同じアンテナを使用してそれを各コンデンサーで分けている。K-6955V2DBはこんな感じ。RF増幅器側はこんな感じ。どちらもFMINとSWIN(SW出力)はコンデンサーでつながっているし、また配線が接近しているから、高周波的には至近距離だ。つまりSW用の出力は2つのコンデンサー経由でFMIN(つまりANT)経由でSW入力に戻るのでは?ハウリングじゃなかった発振の原因(対策)1.入力と出力が近いと言うことでは?ならSWINとFMINは完全に切り離せばいいのでは?やってみたらうまくいった。部品配置図に有るようにFMINはK-6955V2DBのFMINにはつながず、K-6955V2DBの方もANTからSWINにつながるC6の102のコンデンサーを外し、K-6955V2DBのANTはFM専用、RF増幅器のANTはSW専用にして分けた。するとRF増幅器の出力部つまりK-6955V2DBのSWINの波形はこんな感じに改善された。発振が止まっている。この状態で完成である。RF増幅器は電池とともにDSPラジオK-6955V2DBの「地下階」にした。FMアンテナの差込は上で、SWアンテナの差込は下といちいち差し替える手間はあるがOK!この改良型の場合は発振が止まっているので7MHz用のコイルとコンデンサーもいらないので外す。実はSWは複数のバンドに分かれており、どうせラジオNIKKEIしか聞かないと思って、6MHz~7MHz用に7MHz用のコイルとコンデンサーを付けたのだが、発振しないのであれば9MHzや15KHzも聞けるように外した方が良いなと思い直したのである。結局、中華のラジオと同じ非同調式増幅回路になっちゃった。さっそくベランダで聞いてみる。DSPラジオK-6955V2DBはすごく優秀なラジオで、特にFMはこの程度のアンテナで隣の千葉や静岡県のFM放送まで聞ける。(我が家は横浜市)オートスキャンでスキャンするとだいたい18局くらいがメモリーに記録される。AMも既製品のラジオでは聞くことができないTBSラジオが普通に聞こえる。短波(SW)も6.055KHz、6.115MHzともにNHK-AMやニッポン放送と同じ位の感度で聞ける。なので、実はRF増幅器の効果は良く分からなかった。元が良く聞こえない放送局ならば効果が分かりやすいのだけれど。でも一つ収穫が有った。多分ゴールデンウイークの土曜日午後だったせいも有るのだと思うのだけど、7.14MHz付近でアマチュア無線で交信してらっしゃる方の声が聞けた。SSBなので音声がモガモガと言う感じで変なんだけど、受信はできた。またCWらしき音も聞こえたんだけど、これはVFOが付いていないラジオで聞けるのは変かな?それともDSPラジオではCWも聞けるのだろうか?ネットを見るとプログラムを工夫すると聞けると書いてあったけれど、このラジオはそう言うプログラムなんだろうか??分からない。まぁうまく行ったような気がする。
May 7, 2023
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