全7件 (7件中 1-7件目)
1
2023年5月16日に金沢区のHPに書いている「横浜市金沢区の金沢町の地名の由来」は、北条氏が滅ぼした畠山重忠のエピソードが元になっており、それを北条氏の支流である、金沢北条氏が自らの名前として使うのは変なのでは?と書いた。野蛮人の国ならばともかく、礼儀を重んじる武士のとる態度ではないと思うからである。北条義時ならば、そのような由来を元にした名を絶対に許さなかっただろうと思う。横浜市金沢区の金沢町の地名の由来実は似たような話が金沢区のHPの地名の由来のページには有る。「富岡」の地名の由来である。横浜市金沢区わの会11回目のイベントに参加しました。住むからには地元をもっと知りたい。で、少し研究をして、その時にいくつかの代替案を書いた。金沢区のHPにはそのうちの2つが書いてある。金沢区の地名と由来試しに書いてみると、1.この地域には、多くの丘が集まっていることから、 「十三岡」が「富岡」になったという説がある。→何故13の岡なのかが全然分からない。どの岡のことを言っているのだろうか? 13の岬の方がまだ説得力があるが、埋立てられた今となっては証明のしようがない。 そもそもすぐそばにある「鳥見塚」との関係はどのように説明するのか?2.この地に住む長者が狩りで、白い雉を得たので、これを帝に献じた。 そして白雉の例を慰めるために塚をつくった。そこを「鳥見ケ丘」と呼び、 これが「富岡」あるいは「留岡」となった。→この説は説得力が有る。僕もつい最近まではこれが正解だと思っていた。 この説ならば「富岡」と「「鳥見塚」との関係も説明できる。で、僕はその他に次の説を考えていた。3.この付近の岬は東京湾の中を航行する船にとって「山あて」であり重要な位置に在った。 また、三浦氏の御先祖様は三浦の名前を名乗る前は、 この地を中心に漁業や海運業及び水先案内を職とする集団であったのだが、 その昔縄文時代から弥生時代には漁業が主で魚群を鳥によって見つける方法を取っており、 富岡の山は、その鳥達を見つける重要な拠点だったので「鳥見塚」と呼ばれており、 それが後に「富岡」となったと言う説。 この説の根拠は三浦半島の海岸線の遺跡で、鳥を抱いた女性の遺骨が見つかったことである。 城ヶ島には今でも「鵜」の産卵地が有り、六浦や長浜でも鵜が見られる。 鵜は魚群を見つけるのが上手く、日本各地で鵜は魚捕りに使われているからである。 それが「鳥見」地名として残ったのではないかと思ったのである。 金沢には漁業が得意な人達が住んでいたようで、称名寺貝塚ではイルカの骨も出ている。それが奈良県に調査旅行に行った際に新しい知識を得て、また別の説に気づいたのである。4.富岡は古くは天皇家の関東に有る4つの直轄領の一つ久良岐郷の一部で皇室の子孫がおり、 久良岐郷の郡衙は今の磯子区の笹下に有ったとされているが、 祭祀の場はここ富岡に有り、 そのせいで「富岡(元は登美丘)」と呼ばれていたのではないかと言う説である。 古い言い伝えでは桓武天皇の孫娘が三浦半島に派遣されていて、 例えばそのうちの一人は平塚で亡くなり、 彼女を葬ったので「平」の「塚(墓)」が有る所と言うことで平塚と言われるようになった そう言う説がある。 また新編武蔵国風土記には久良岐は将軍家(源氏)の領地であったと書かれており、 平忠常の乱後に平直方(桓武平氏当主で在京軍事貴族)から源頼義に与えられた娘と、 その領地は鎌倉だけでなく、この久良岐だったのではないかと僕は考えている。 何故なら源頼朝の父親の義朝は大庭御厨事件を起こしているが、 大庭御厨は北鎌倉と大船の間付近で鎌倉とあまりに近く、 源氏の領地は鎌倉のより金沢に近い部分だったのではないかと思うからである。<後日追記>ふと気がついたが、いくら源義朝が乱暴者だったとしても、伊勢神宮の荘園で神官達がいる大庭御厨を攻めて領地を奪おうとするだろうか?単なる乱暴狼藉ではなく、裏が有るような気がする。バックに久良岐を持つ朝廷がいるのでは?何よりも伊勢神宮の土地を奪い、神官たちを痛めつけたのに、(国司の源頼清と共謀したからと言う事情はあるかもしれないが)大庭御厨の下司である大庭景宗は伊勢神宮を通じ太政官に訴え、伊勢神宮は、まず義朝の処罰を相模国司に要求するが、国司は「義朝濫行のことにおいては国司の進止にあたはず」と返答している。つまり朝廷側は黙認しようとしている。国司の源頼清と共謀と言うよりはバックに朝廷がいて、元々朝廷の直轄領だった久良岐に加えて大庭も朝廷の物にしようとした?しかもその後、保元の乱では大庭景宗の子達は源義朝の参戦している。簡単に言えば大庭御厨は寄進型の荘園なので下司である大庭景宗は土地を安堵してくれるなら伊勢神宮だろうが源義朝だろうが誰でも良かったのだろうなと思う。加えて朝廷が源義朝のバックにいるのに気がついたのかもしれない。もしそうなら、伊勢神宮から義朝に乗り換えるのも無理はない。何が言いたいかと言うと、上で書いたように源氏の支配地の中心は最初から鎌倉ではなく、むしろ大庭御厨を手に入れる前には金沢の方だったのではないかと思うのである。大庭御厨事件の際には相模国余綾郡中村郷の中村宗平もいるが、中心は三浦義継だったようだったみたいだし。富岡は武蔵国ではあるが、三浦の影響が強かったのではないだろうか?後日追記終わり。 話は戻って、久良岐が天皇直轄領で平直方の領地だったのならば、 その祭司場は非常に大事な場所である。 ここで思いつくのが富岡八幡宮で行われる神楽(四方拝)と湯立神楽(盟神探湯)である。 だいぶ変形しているが、四方拝とは本来は大嘗祭で天皇家が行う宮中祭祀である。 どこの神社でもやって良いと言う性質のものではなく、他の神社では滅多に行われません。 また盟神探湯は煮え立った湯の中に手を差し入れてその者の正当性を判断するもので、 いわば古代のウソ発見器。 それはどこにでもある物では無く、今の裁判所のような所に有った。 盟神探湯(くがたち)は神様の判断を仰ぐのですから祭祀の場で行うのでしょう。 この二つが残っていると言うことは、 この地が久良岐の中の祭祀の場として重要な場所だったと言うことなのだと思う。 そして奈良で見つけたのは桜井市外山区。 この外山とは「とび」と読みます。神武天皇の東征ゆかりの地。 桜井市HPを見ると「鳥見の霊時」と書いてあります。鳥見の霊畤 一度HPを御覧になれば分かりますが、大嘗祭が日本で最初に行われた場所です。 富岡八幡宮で行われる神楽の四方拝の原点が大嘗祭にあるならば、 そしてここ久良岐が朝廷直轄領で平家等の朝廷ゆかりの人間が居たのならば、 久良岐で祭祀を行った場所を「鳥見」と呼び、それが「富岡」の名前の由来で、 付近に残る「鳥見塚」の地名に結び付くのではないでしょうか?金沢区のHPは一度、このことを研究して見直した方が良いと思います。久良岐が古い時代は朝廷の直轄領であったのは間違いないですし、天皇家に白い雉を送る立場にある「長者」はそれなりの地位にある方に違いなく、事務作業を行う郡衙が笹下に有ったとしても、より重要な祭祀の場が富岡ならば、その由来をしっかりと残すべきだと思うので。違うかなぁ?少なくとも「十三岡」よりもずっとまともだと思うけれど。
December 25, 2023
コメント(0)

久しぶりにラジオを作ってみようかなと思ってネットで探していたら、AMAZONでRDA5807(FM用DSPラジオIC)をSTC社の8051マイコンで制御する、アクリルケース付きFMラジオが安かったので買ってみることにした。いつもの愛天堂は安くて良いのだけれども、ケースが無くて剥き出しなので困っていたから。僕のおこづかいで買える約2千円程度のお得なラジオである。実はこのラジオは多分日本向けではなく他国向けの物のようで、受信周波数が87.0~108.0MHzである。たぶんそのせいで売れず、安いのだろうと思う。ところが、写真を見ると左上に(VCC、RXD、TXD、GND)の端子が出ている。これは何かというとマイコンの書き換えに使える(多分)端子。なので、いつの日にか勉強して日本国内向けに改造できると思ったからである。FM受信用のユニットは左上のRDA5807が乗っかったミニボードであるが、このRDA5807はレジスターの値を変えれば87.0-108.0モードから76.0-108.0モードに変わる。電源ONと同時に真ん中のSTCのマイコンが初期設定として87.0-108.0モードにしているのを、76.0-108.0モードに変えてあげれば良いだけである。ただ、マイコンのメモリーを読み込んで解析するのは大変なんだけど。もしかすると新たにプログラムを組んだ方が簡単かもしれないくらい。でもチャレンジするのが楽しいので、とりあえずは現状通りで作って、いつの日にかの改造を楽しみにするのである。いつの日にかの改造を楽しみにとりあえず作ってみた。ICの足の幅が大きいので普通に半田付けできる。簡単。でもぼくはもう年寄りなのでルーペで確認しながら半田付けするので時間はかかる。1時間もかかってしまった。でもちゃんと動く。(ふと気が付いたら写真右手の「LED表示用カウンターIC」はシフトレジスターの誤りですね。 すみません)横浜なので、本当はFM横浜(84.7NHz)やNHK神奈川(81.9MHz)、FM東京(80.0MHz)、そしてNack5やbayFMとJ-WAVEも聞きたいのだけれども仕方ない。いつの日にか聞けるようにしよう。ところがなんとFM横浜はギリギリで聞こえた。磯子局が87.0MHzで受信できるのである。らっきー!あとは87.0MHz以上は普通に受信できる。interFM(89.7MHz)、TBS(90.5MHz)、文化放送(91.6MHz)、ラジオ日本(92.4MHz)そしていつものニッポン放送(93.0MHz)はガンガン入る。ある意味昔のAMラジオのカッコいい奴(アクリルケース)と思えば良いラジオかも?ただ、スピーカーは小さいので音質は望めない。でも2千円なので値段相応。電源はUSBと電池(単三2個)のどちらでもOK。ただ、電池は無くなりやすいかも。ちょっと使っているだけで無くなりそう。電流が86mAも流れている。でも百均のUSB充電用アダプター(300~500円)使えばいいのだから問題は無い。デザインはそれなり。裏側を見ると電池カバーが無い。まぁ値段相応なんだと思う。色々といじくっていてなんか面白そうなモードを発見した。前に愛天堂で買ったFMラジオモジュールは周波数ボタンを押しながら電源ONにすると、受信周波数を87.0-108.0モードから76.0-108.0モードに切り替えられたので、これもそうかもしれないと思って色々とやってみたのである。すると、V-ボタンとV+ボタンを同時に押すとLEDが"L"や"H"と表示する。これって何?と思いながら放送を聞いてみると、何となくだけれども"H"の時には雑音が消える。なのでもしかするとスケルチのON/OFF切替なのかもしれない。確認していないので本当かどうか分からない。色々と「値段相応」なんだけど、年寄りのヒマつぶしにはちょうど良いと思う。
December 22, 2023
コメント(4)
13日~15日はふたご座流星群が見られる(はず)。昨日(と言うか今朝)4時過ぎに見ようと思ってベランダに出たら、空一面が雲だった。残念!っと思ったんだけど、諦めないのが僕の良い所。ふと気がついた。YOUTUBEで中継してるんじゃないか?そう横浜が雲だらけでも、日本のどこかは晴れているはず。さっそく探すと「野辺山ライブカメラ」をやっていた。ものすごい星の数。さすが野辺山。望遠鏡じゃないのに満天の星が見られる。そして目的の流れ星もすぐに見られた。およそ5分もしないうちに1個目の大きな流れ星が画面右下で流れた。そして次から次に画面のあちこちに現れて流れて消える。多分1時間に20個くらい流れているのでは?寒くないし、椅子に座っているので疲れないし、部屋は暗くしているので雰囲気は良いし。バックに音楽も流れているし。YOUTUBEだと気にしなければ、全然良いと思う。おすすめだと思います。特に見逃した人はライブカメラだけでなく、過去の配信もある様です。で、それだけならば「良かったね」でおしまいなんだけど、さらに良かったことが!人工衛星見えた!ライブカメラなので、(多分赤道儀的な機能が付いているのだと思うのだけど)星が地球の自転に伴って動かないので、人工衛星が簡単に見られる。画面の右上から左下に向かってゆっくりと目立つ光点が移動して行く。そう思って見ていたら右側から左に小さな光点が移動して行く。この時に気がついたんだけど、動いていると言うことは「静止衛星ではない」と言うことだ。それが色々な方向から色々な方向に移動していると言うことは、何の目的で地球の周りをまわっているんだろう?電波の中継(例えばBSとかCSの電波中継用の人工衛星)や、気象衛星、GPS用の人工衛星、地上施設監視用人工衛星(例えば軍事用)は静止型人工衛星だと思う。移動していると言うことは、ある意味地球をスパンしているのだから、googleMap(あるいはgoogleEarth)用の人工衛星かな?短期間の衛星ならば移動する人工衛星も意味が有ると思うけれど、長期間使われる人工衛星ならば、目的を考えれば静止型人工衛星だよな?動いているのは何の目的を持った人工衛星なんだろう?色々と考えているうちに3個も見つかった。星だと思って見ている光点のうちのいくつかは人工衛星なんだろう。そう言えば北朝鮮の初めての人工衛星は、その後何の音沙汰も無いなぁ。失敗だったのだろうか?それとも機密事項なので黙っている?その後を知りたい。
December 14, 2023
コメント(0)

この記事は12月16日に書いたんだけど、日時の設定を間違えたので9日になっています。申し訳ありません。(以下本文)10月5日に「横浜市金沢区わの会26回目のイベントに参加しました。一人旅金沢区称名寺周辺の古墳?」を書いたんだけど、気になっていたので12月14日木曜日に工事現場を見に行ったら、面白いものを見てしまった。今まで良く見えなかった崖の部分が工事で見えるようになっており、そこに明らかにやぐらと分かる穴と、恐らくはやぐらを加工して作った「お堂」が有ったのだ。その時にはカメラを持っていなかったので、今日16日にカメラを持って写真を撮りに行った。行って良かった。工事の安全の為と言う理由だと思うけれども、やぐらの前は矢板で塞がれ、お堂の方は見えたけれど月曜日には隠されるのだろうと思う。こんな感じ。もし見たい人は早めに行った方が良いと思う。そうしないと見られなくなりそう。<後日追記>年明けに1月1日に見に行ったら、もう矢板で隠されていた。まぁ、子供なんかが侵入すると危ないから仕方ないのかな。最終的にはどうするんだろう?金龍院の所のようにコンクリートで埋めてしまうのかな?せめて写真や説明板で記録を残しておくと良いと思うんだけど。予算が無いのかな?色々と見ていたら、御近所の方が出てこられて説明してくれた。実はこのやぐらとお堂は今回見つかったわけではなく、14年前に見つかっていたのだそうだ。その方から見せて頂いた14年前の写真。その方の説明では、何か重要な物が見つかって、それは現在は金沢文庫に保管されているらしい。下に今日撮影した写真を載せるが、14年前の方がしっかりしている。経年劣化?蓮の花をかたどった立派な祈壇で、比較的最近の物のような気がする。明治時代?確か築地本願寺の入口も蓮の花をイメージしていたと思う。こんな感じ。称名寺のは塗装されていないのが残念だけど、形は奇麗だと思う。いつか金沢文庫に行って、その保管されている物を見てみよう。何だろう?この「お堂」の位置については、10月25日の僕のブログ、横浜市金沢区わの会26回目のイベントに参加しました。一人旅金沢区称名寺周辺の古墳?を御覧願います。<後日追記>色々と調べていたら、このお堂は「宮ノ前横穴墓群」の代表的な横穴墓の入口に似ている。宮ノ前横穴墓群は横浜市栄区鍛冶ケ谷二丁目27の鍛冶ケ谷市民の森にある古代横穴墓群遺跡。その昔、㹨(いたち)川沿いに約20群200基存在した㹨川流域横穴墓群の1つ。この横穴墓群の最大の特徴は、羨道(入口)奥の死者の安置場(玄室)が、細長い台形の床面と蒲鉾形天井をもっており、さらに奥の壁に「棺室」といわれる置き棚のような独特の小部屋を掘り造っているデザインで、「鎌倉型横穴墓」と呼ばれるものがある事である(かつては「鍛冶ヶ谷式横穴墓」とも言った)。つまりもしかすると、鼬川は円海山の反対側なので、位置的にここには鍛冶ヶ谷の人達を支配する人がいて、(もし鍛冶ヶ谷で製造された鉄製品がここから船に乗せられたのならばその豪族はここに居たはず)これはその人のお墓であり、奥に「棺室」が有ったのかもしれない。でも(面倒くさがり屋の地方公務員の常で)闇の中に葬られて、コンクリートで塞がれ、確認のしようもない。つまり、そんな横穴墓が下に有ると言うことは、やっぱり上部の山は古墳だった可能性が高い。せっかく行ったのでこのお堂の上の古墳らしき山も見ようと思ったら、工事中につき立入禁止だった。でも実は去年、工事につき立入禁止になる前に撮った写真が有ったのを思い出したので見てみた。そして撮った場所を工事現場の等高線付き地図に落として見た。この山の等高線を見ると、どう考えても人工的に見える。自然の山がこんなにきれいな前方後円墳の形状をしているわけがないと思う。写真1はこんな感じ。この山の等高線の形状からすると、ここは円墳部分だと思う。石室が有るならば、ここを掘ると出てくると思うのだが、かってに掘るわけにもいかないし。撮影当時には気がつかなかったけれども、今意識してみたら前方後円墳の円墳部分に見えるなぁ。写真2はこんな感じ。これも当時は気がつかなかったけれども、円墳部分から方墳部分へ向かう道だなと思う。最後に写真3。これは方墳部を下から見上げた感じ?4枚の写真を張り合わせたのでかくかくだ!で、この部分は神奈川県の工事らしい。ちなみに裏側の円墳部分の崖の工事は横浜市。だから色々と有るのかもしれない。国と県と市って関係が複雑だからなぁ。なお、工事中なので、危険な場所には入らないようにお願いします。それはそうと、色々と調べていてふと気がついたことが有って、今日のテーマと場所は違うのだけれども、金龍禅院の話題を書く。よく「九覧亭跡」と書いたホームページに「太子堂」の写真を載せているけれども誤りである。根拠は下の江戸時代の絵図。この絵は金龍禅院の裏の階段を昇る中段の途中部分の絵だと思われる。何故なら左の東屋と灯籠が歌川広重の絵の当該部分に似ており、遠景部分との関係から地上には見えないから。右手の九覧亭へはさらにもう一回階段を昇るようなので、ここは中段部分だろう。別の江戸時代の絵図には「臥遊亭」と書かれている部分。そして右上の頂上を見ると、明らかに「太子堂」と「九覧亭」は別で離れている。歌川広重の絵も見てみよう。この絵は地震で飛石が落ちる前の絵なので、飛石が中段部分に有る。その両側に東屋と灯籠が有り、それが上の絵の左側の東屋と灯籠と位置が同じなのが分かる。そして、昭和6年の絵を見てみるとこんな感じ。この絵では中段部分は雲がかかっているので様子が分かりにくいが、臥遊亭の字が分かる。なお、江戸時代の地震後の絵図なので、飛石は下に落ちている。(実は飛石は2回落ちている。下のgoogleEarthの写真に張り付けたけど、 17世紀に既に飛石と言われている。恐らく頂上付近から中段付近に一度落ちたのだろう。 それが江戸時代の歌川広重の絵で、飛石は中段に有る。 ところが江戸時代のその後に地震が有って一番下まで落ちたので昭和6年の絵図では今の位置。 つまり飛石は2回落ちたのだ。)そして、頂上の太子堂と九覧亭の位置関係も分かる。これをgoogleEarthに落として見た。恐らくは九覧亭はgoogleEarthの写真の中央付近の平坦地に有ったのだろうと思う。ただ、現在は立入禁止になっているので、入ってはいけない。現在の太子堂付近を「九覧亭跡地」とするのが誤りだと分かって頂けると思う。江戸時代の絵図は当然空中からは見られないので、階段を登る方向から見ていると思う。すると左手に臥遊亭跡地を見ながら、もう一回階段を登ると、左に太子堂、右に九覧亭が見え、江戸時代の絵図は誇張して描くので、歌川広重や冒頭の絵図のような感じになるのだと思う。現在の太子堂付近に九覧亭が有ったと言う人にはこのgoogleEarthの写真を見せてあげて下さい。
December 9, 2023
コメント(0)

12月7日のわの会は金沢区と鎌倉を結ぶ古道である朝比奈切通を見て歩く会だった。朝比奈切通は仁治元年(1240年)11月に鎌倉幕府三代執権北条泰時が工事計画を決定し、翌年の仁治2年4月に着工したと吾妻鏡に書いている。難工事で遅れ気味の為に、泰時自ら現場に出て督励したそうである。竣工時期は不明だが、現代でも残る「小切通」や「大切通」は険しく、切岸として鎌倉防衛の重要な施設であるとともに、房総方面や関東北部・東北からの窓口として物資の荷揚げ港だった六浦と鎌倉を結ぶ、経済的にも重要な通路だったものと思われる。泰時は鎌倉に港を造ろうと画策して和賀江島を造ったが、やはり古くからの六浦の方が便利が良く、後に金沢北条氏を置いたように金沢は鎌倉幕府にとって重要な地だったものと思われる。前にも書いたが、金龍禅院のやぐらからは宋銭等が出土し、三艘は江戸時代に至るまで中国貿易の拠点だったようで、それはこの朝比奈切通が大きな役割を果たしていたのだと思う。ルートは下図の通り。途中に上総之介塔や上総之介邸跡(仮)もある。僕の個人的な説だけれども、上総之介平広常は「上総之介」と言う職名なのだけれども平治の乱で主君の源義朝が負け、主従ともに逃げる際に、義朝が尾張で討ち取られた後は職を失ったはずなので、恐らくは一緒に逃げた三浦義澄などとともに、この辺にいたのだと思う。よく上総に彼の墓が有るはずだと言う議論が有るが、平治の乱後はしばらくは平家に従い、父の常澄が死んだ際に家督争いが発生し(鎌倉時代まで続いたらしい)、さらに治承3年(1179年)に伊東忠清が上総之介として京から下ってきた際に彼と対立し、平清盛から勘当されている。つまりNHKドラマ「鎌倉殿の13人」で描かれたように平家と源氏を両天秤にかける等とは、とても言っていられるような状況ではなく、上総には居られなかったはずだと思う。ではどうしたか?彼が源義朝(頼朝のお父さん)の家来であった際には、そのお陰で多分、本来源氏の領地であった久良岐一帯を彼が治めていたのだと思う。同僚の三浦義澄が三浦半島を治め、千葉氏等が上総や安房を治め、大庭や梶原及び畠山が武蔵一帯を治めたように。源義朝は彼らの頭領だったのだと思う。ところが義朝が死ぬと、それぞれは勝手に自分の領地として跋扈して争い始めたのだ。それで上に書いたように広常も上総からは追い払われて、ここ久良岐に居たのだろうと思う。その屋敷が金沢に有ったのだろう。なので、上総之介広常はこの地で死んだのだ。NHKドラマ「鎌倉殿の13人」ではドラマの都合上鎌倉で、梶原景時と双六をしている際に、飛び越して来た景時に切られたと言うことになっていたが、だったら何故「梶原景時の太刀洗い水」が鎌倉から遠く離れたここに有り、上総之介塔もここに有るのだと思う。ルートの最後の方に、梶原景時の太刀洗い水の傍に広常の屋敷跡とされる場所が有る。多分広常はこの屋敷で殺されたのだ。何故なら梶原景時の屋敷も近くの十二所に有ったのだから。そして殺された原因は小説などに書かれたような「見せしめに頼朝に殺された」のではなく、恐らくは三浦や畠山に謀られて、梶原景時に殺されたのだ。そしてその領地は(兵も含めて)三浦と畠山が取り上げたのだろう。秩父の畠山の領地が何故すっ飛んで遠いこの地に有るのか考えれば分かりそうな気がするが、歴史学者は何故その程度のことが想像できないのだろう。ちょっと想像すれば分かるのに。と言うのが僕の説なんだけど、「見せしめに頼朝に殺された」と言うのは無理が有ると思う。もし広常が三浦や畠山を押さえていて、彼らの上に立っていたのならば見せしめになるが、当時の彼は財力や兵力は有っても、三浦や畠山を従えていたわけではなくほぼ同格。上総の地を追われて不安定だった広常の領地と兵力が欲しかった三浦と畠山の陰謀だろうと思う。そのせいで、この辺は遠く秩父から来た畠山や三浦半島が本拠の和田が、広常の死後にここを(鼻欠地蔵を境界として)分割して治め、かつ延々と両者は争い、最終的には北条が漁夫の利を得たのだ。わの会のメンバーはまずは大道中学校バス停に集合した。この辺は元は和田の領地。少し東側の大道小学校脇には「和田の谷戸」が残っており、その西側には和田義盛の父の杉本義宗の名の残る「杉の谷戸」も残っている。(小泉又二郎誕生地碑付近から山側に入った付近に両谷戸は有る)鼻欠地蔵が相模と武蔵の国境になっているのは、元は三浦と畠山がここいら付近で手を打ったせい。と言うことで鼻欠地蔵からスタート。道路を渡って反対側から写真を撮ればまだマシだったんだろうけれど、下からでは何も分からないただの崖。三浦半島は元は海の底で、マントルの活動のせいで盛り上がった土地なのでほぼ堆積岩。しかももろいので雨風で削れてあとに残りにくい性質なのである。その証拠は下の写真を見れば分かる。往年の姿を偲ばせる絵とその説明、そしてここが海の底だった証拠の貝殻である。関東で固くて使える石は伊豆や秩父に行かないと無い。上の写真を見るとよく分かると思う。なので、僕が金沢区の古墳だと思っている山の石は地元の石ではなく伊豆から運んで来た石で、何故伊豆から石を運んで来たかと言うと、伊豆から来た豪族がここに住み着き、死んだ時に古墳を造って故郷の伊豆の石で石棺や石室を造ったから。地元の民衆はその事を覚えていて「伊豆の三島明神が石に乗って降りて来た」等と言うのである。まぁ証拠が無いので、今は僕だけの主張なんだけど、そのうちに(石と言う物証が有るので)裏付けを取ってみたいと思っている。鼻欠地蔵を後にして西へ進むと上総之介塔が有る。ガイドさんは「ただ上総之介」と書いてあるだけなので、どの上総之介かは分からないと言っておられたが、他の上総之介の墓は上総に有るので、平広常しかいないと思う。(本当は確か泰時の時代に六浦で首を切られた上総之介がいるが)道路を渡ってガード下をくぐり、朝比奈切通へ向かう。切通(小切通)手前に峠の石塔群がある。庚申塔みたいな感じである。それにしても関東の場合は三猿が多い。九州から関東に来た時までは「見ざる言わざる聞かざる」は日光東照宮だけだと思っていたら、関東の場合、どこにでもある。九州でもある所には有るけれど、こんなに町中には無い。僕は三猿は語呂合わせの産物だと思っていたのだが、実は違うのかもしれない。通常は「~しない」と言う意味の「ざる」と「猿」の語呂合わせ、そして「申(さる)」と「庚申」の「申」の語呂合わせ、これが起源だと思っていたら、世界各地にもあるらしい。じゃぁ日本語の通じない国に有るならば語呂合わせと違うじゃん!そして足元に「三猿」の像を置くのは天台宗の系統のもので、それが山王信仰と習合して庚申信仰になったせいらしい。そうかだから日枝神社や日吉神社など山王信仰が多い関東で広まったのか。次はいよいよ朝比奈切通(小切通)である。切通が防衛施設だと言うのがよく分かる写真。こう言う斜面を切岸と呼び、切通だけでなく陣地の周囲にも造る。兵は斜面を登るのに精いっぱいで相手を攻撃できない。防衛側は重力を利用して物を落としたり、隠れながら矢を射かけてものすごく有利。映画の「300」を思い出す。スパルタ王レオニダスがたった300人のスパルタ兵で100万人のペルシア兵と戦うドラマ。いくら100万人いてもここを通過できるのはせいぜい横10列。無敵の300人がいれば後ろの99万9千9百90人は戦いに参加できない。まぁ無敵でもスタミナがどこまで続くかと言う話は有るのだけれども防げる。屈強な兵士を置けば鎌倉は守られたのだと思う。そこを登って行く途中に熊野神社が有る。左に行けば熊野神社なんだけど、今日はお年寄りが多いので諦めて右へ行く。ただガイドさんは右下の資料で説明してくれた小さなお堂。熊野神社の分れ道を過ぎると朝比奈切通(大切通)に着く。この付近にはあちこちにやぐらが有る。中にはその中に阿弥陀様を飾っていたりする。頂上付近には道造供養塔もあった。朝比奈切通を造るきっかけ、つまり北条泰時の話や朝比奈三郎が一夜で切り開いたとか、そう言う話は誰でも知っているが、実はこの切通は近世まで実用的に使われており、何度も修復されて来たので、その時々に頑張った人達の供養塔があちこちに有る。これはそのうちの一つ。また左側の壁には仏様が刻まれているが、その壁に穴がいくつか開いている。これはここに建物が有り、それを支えていた梁が差し込まれていたものであり、多分ここには宗教施設かもしくは場所的に茶屋的なものが有ったのだろうと思う。僕の実家の近くにも「旧茶屋」と「新茶屋」と言うのが街道沿いに有り、「旧茶屋」は峠に有ったから、ここも同じだろうと思うのである。その先には南無阿弥陀仏と刻まれた仏像が有った。これも読むと安永時代の道の造営の際の世話人等の名前が刻まれている。そして次の写真が重要。新編相模国風土記稿に書かれたお坊さんが亡くなった際に造られたお地蔵さんらしい。僕の田舎の九州には「青の洞門」と言うのが有る。山國川と言う川の崖っぷちを命がけで歩いていた村人を見た、曹洞宗の僧禅海が洞門(トンネル)を一生をかけて掘ったと言う話である。この話を元に菊池寛が「恩讐の彼方に」と言う本を書いたのだけど、実際にそう言う涙を誘う話が有るんだなと、ちょっと感動する。まぁおセンチな感情を後にして、ここからは下りになるのだが、金沢から鎌倉への下りは厳しい。年寄りは転びそうになる。数日前に降った雨が染み出て流れて滑る。お母さんたちが苦戦していた。ガイドさんは足を横にすると危ないので縦にしてつま先に体重をかけてと言っていた。例えばスキーのボーゲンと同じなので頭では分かるのだけれど、実際は恐怖心からその通りにするのは、けっこう難しいのかなとも思った。写真の右側のお姉さんは左足に体重が乗っていないのですべりそう。なんとか下り終えると三郎の滝(朝比奈の滝)が有る。朝比奈の山の水を集めて流れて来た小川が滝になって落ちているのである。鎌倉時代にもあったのであろうか。ここを出て右に行くと金沢街道に出るのだが、左に行くとまた山に入る。その途中に上総之介の屋敷跡とされている空地がある。資料等が残っていないので推測でしかないが、梶原景時の太刀洗い水との位置関係から、そうかもしれないと思わせる。ここの少し下流に梶原景時の太刀洗い水は有る。鎌倉時代には川はこんなに深くなく歩いて渡れたのだろう。と言うか流れ自体は浅いので、切通工事の際に道路側が下がったのかも?この梶原景時の太刀洗い水を見ても広常暗殺は景時の単独犯だと分かる。なので犯行は絶対に鎌倉幕府の建物の中では無いと思う。建物の中ならば大騒ぎになって大捕り物状態だからこんな所で太刀を洗うはずはないし、周囲に人がいるはずだから。僕は景時はここの上の上総之介の屋敷で寝ていた広常の寝込みを襲ったのだろうと思う。なので吾妻鏡は広常暗殺前後の記録が丸ごと無いのだと思う。さてあと少し。次は光触寺。このお寺は時宗の開祖である一遍上人が開基である。本堂脇に一遍上人の像もある。御本尊は阿弥陀三尊像で、なんとその裏には十六堂と熊野神社が有る。本堂の外ではなく、中のしかも御本尊の裏側である。十六堂にはものすごく大きなお釈迦様の顔があり、胴体から下は無い。御本尊の裏側なので畏れ多いので写真は撮影しておらず、ガイドさんの資料。ここには塩嘗地蔵が有る。本日のサブタイトルに書いている塩の道である。六浦の塩売り達が鎌倉に塩を売りに来るたびにお地蔵様にお塩をお供えしていたのだが、帰りに見るといつも無くなっていたと言う言い伝えがあるお地蔵様なのだそうだ。お地蔵様ってお塩が好物なの?ちなみにそれで金沢街道は塩の道と呼ばれていたのだそうだ。光触寺を出ると川の脇に大江広元邸跡がある。大江広元はNHKドラマ「鎌倉殿の13人」でも要所要所で活躍していたが、元は京都出身の文官で、無骨物ばかりの鎌倉幕府を事務面から支え、13人の中では目を患いながらも最後まで生き延びた人である。家に帰ってから思いついたことなんだけど、この大江広元邸跡って元は梶原景時邸の跡なのではないだろうか?彼の屋敷は十二所に有ったと伝わっているらしいから。つまり大江広元も平広常暗殺劇の黒幕の一人?わの会はここを最後に十二所バス停で解散したが、僕は例によって最後に一人単独で大江稲荷に行ってみた。僕は長崎の両親の実家にもお稲荷様が近くにあるのだけれど、僕自身が北九州の門司区の大里(昔は内裏だったらしい)御所町の御所神社裏のお稲荷様の傍に捨てられていたのを母が可哀そうにと拾って帰ったのだそうなので、お稲荷様には縁が深いと思い、よく御挨拶に行く。犬は怖いんだけどお稲荷様は好き。
December 9, 2023
コメント(0)
僕の邪馬台国=宮崎県小林市またはえびの市説について、いくつかの疑問を持つ方がおられたので、それに対して回答を考えるうちに今まで不明確だった部分が明らかになって来たので、せっかくだから書いてみることにした。疑問として多いのは次の5点である。1.倭国之極南界也の件 通説ではこれを「倭奴国は倭國の極南界である」と解釈するので、 倭國の範囲は金印と言う物証のせいで福岡だと分かっている奴国よりも北のはずだから、 北部九州や近畿など北の方であり、南九州はありえないと言う疑問である。2.自女王國以北 其戸數道里可得略載 其餘旁國遠絶 不可得詳の件3.次有斯馬國 次有巳百支國~次有奴國 此女王境界所盡の件4.其南有狗奴國 男子為王 其官有狗古智卑狗 不屬女王の件 2.~4.の疑問は、魏志倭人伝に斯馬國から奴国までを女王国に属する国々と書いており、 ならば、その後に登場する狗奴国は女王国の南のはずだと考えられるので、 狗奴国の官のクコチヒコが菊池彦ならば、狗奴国は現在の熊本県菊池郡付近だと考えられ、 女王国は熊本よりも北側のはずだと言う疑問である。 しかし魏志倭人伝を読むと狗奴国が女王国の南に在るとは書いていない。 「其の南」と書いているだけなので、「其の」の読み方次第でガラッと変わってしまう。5.自郡至女王國 萬二千餘里の件 不彌國までは道のり距離で書いているのに、帯方郡から女王国までを直線距離とするのは 変ではないかと言う疑問である。それぞれ、検討してみた。1.倭国之極南界也の件 これはもう数百年に及ぶ通説なので、疑問に思われるのはもっともなんだけれども、そもそもこれは後漢書の中の光武帝が奴国の王に対して「漢委奴国王」の印綬を授けた経緯について書かれた文の一部。関連する部分の原文は以下の通りです。(原文)建武中元二年倭奴国奉貢朝賀使人自稱大夫 倭國之極南界也 光武賜以印綬(意訳)建武中元二年(西暦57年)、倭の奴国が貢を奉り朝賀した。使者は自ら大夫である。倭国をこれ最南端まで極めた(征服した)。(なので倭国の支配者と認めて欲しい。)と称した。(それを認めて)光武帝は(漢に属する倭の奴の国王と言う)印綬を賜った。 従来は「倭國之極南界也」を「倭奴国は倭國の極南界なり」と読んでいた。しかし僕は倭の五王の記録を読むうちにこの通説に対して疑問を持つようになり、検討した。<後日追記>説明が不足していると思うので追記すると、この疑問の元になったのは「倭王武の上表文」である。倭王武(雄略天皇に比定される)は中国の皇帝に自分の地位と称号を認めてもらう為に、上表文を送っている。それには以下のように書かれている。(但し和訳文) 我国は,はるか遠いところにあって,宋そうからいえば海外の国になっている。 私の父祖達は,自から鎧・兜に身を固かため,山や川をわたり歩いて, おちついて休息するひまもありませんでした。 そのおかげで,東では蝦夷(えみし)の55か国を平らげ西では熊襲(くまそ)の66か国をおさえ, さらに海をわたって朝鮮半島の95か国を従えました。つまり、倭王を唱えるには少なくとも倭国全てを征服したと言う説明が必要だし、安東大将軍を名乗るには朝鮮半島も征服したと言う説明が必要だったのである。なお、ここで北部九州説の方には申し訳ないが、倭王武の上表文から倭の五王の時代にはすでに王権は大和に居たことが分かる。何故なら、「東では蝦夷の55か国を平らげ,西では熊襲の66か国をおさえ,さらに海をわたって朝鮮半島の95か国を従えました。」と書いているからである。倭の五王が九州に居たならば、西では熊襲の66か国をおさえと言うのは南のはずだからである。西では熊襲の66か国をおさえと言うのは、景行天皇の事績のことであろう。 倭の五王の讃・珍・済は「安東将軍」の称号を授けられている。しかるに高句麗の高璉は征東大将軍、百済の夫余腆(日本書紀では直支王と書かれている)は鎮東将軍を与えられている。上手く称号を使い分けている。倭王は高句麗に対して下に見られている。どうしてか? 中国にとって、朝貢して来る中では高句麗の方が上で、倭国を東方の支配者とは認めない。つまり冊封体制に於いて中国から与えられる称号は名誉称号ではなく、実際の地位として厳密に評価していると言うことである。 そのことを考えると単に「倭奴國は倭國の一番南側にある」などと言う自己紹介に近い話を光武帝に報告しても「漢委奴国王」の称号など与えられるはずは無い。周囲諸国を全て征服し他に脅威となる国が無くなったから奴国王は倭の王として認められたのだ。だから「南界」を極めたと言う説明が必要だったのだろう。 また、それは客観的な視点で証明されなければいけない。なので、奴国の使者はこの時に倭国はこれ最南端まで極めたことを証明したのだと思う。その為には南の端まで征服したことを証明するのが一番である。その過程で使者は征服した国々を説明し、生口として連れて行ったそれらの国の元の王達に説明させたのだと思う。これならば光武帝も信じるだろう。 今までの通説は生口は奴隷であるとか戦争の捕虜であるとして説明されてきたが、単なる捕虜を貢物として贈られても、中国側には迷惑でしかない。 戦争での捕虜の扱いが大変(反逆したり逃げる)なのは現代でも同じ。管理が大変なのだ。奴国の人にとっては人質の役を果たすだろうが、中国人はもらっても何の役にも立たない。困るだけ。 そして恐らくその時の説明記録は(印綬を与えた理由の記録として)残されたのだ。それを元に(あるいはそれを元に書かれた今は残っていない魏略を使い)後漢書は書かれたのだ。 また魏志倭人伝もそれを元に女王国までの紹介文(北側の国々)として書いたのだと思う。なので、使者の実際に行った不彌國までの行程と明らかに書き方が違い、伝聞形式になっているのだ。 帯方郡から不彌國までは魏の使者が実際に行った行程なので、方角+行動記述+距離=目的地」で書かれている。例えば「東南陸行 五百里 到伊都國」。これは実際の行動を記録として書いたのでこの形になっている。 対して投馬國や不彌國は目的地と方角+行動記述+距離の形である。例えば「南至投馬國 水行二十日」のように。これは投馬國はどこに有る?と言う質問に対して答えたので、最初に目的地が書かれてその後に行動の内容が書かれるので、この形式になるのだ。 つまり陳寿は魏志倭人伝を書く際に根拠なく書いたのではなく、手に入る最新のデータ、つまり使者が実際に行った記録から不彌國までを書き、使者が実際には行ってない投馬國や邪馬台国までは、「漢委奴国王」を与えた際の記録から書いたのだ。 なので、基づく資料が違うので両者は書き方が全く異なり、後者は伝聞形式なのだ。(陳寿の元にした光武帝の記録が直接的な物ではなく、 現代には残っていない光武帝の記録に基づいた魏略等の文書で間接的な物だった可能性は有る。) 不彌國までは魏の使者が訪れていたと言うのは現代の大使館の業務を考えると容易に分かる。 大使館の業務は母国からの意志を相手国に的確に伝えると言うのは当然の話だが、それ以外に当該地に来ている母国の人間の管理が有る。現地の人間の安否は大使館が管理する。 母国から派遣された技術者や僧侶達の管理だけではなく、自分の意志で倭国に来ている人も管理するので、不彌國にいる母国人に会い、健康状態などを聞いて母国の親類等に伝えるのも役目なのだ。不彌國に中国からの渡来人が居たことは魏志倭人伝の以下の文から分かる。 伊都国などほとんどの国は国の規模を示す戸数を「戸」で書いている。「到伊都國 官日爾支 副日泄謨觚柄渠觚 有千餘戸」のように。しかし不彌國だけは、「東行至不彌國 百里 官日多模 副日卑奴母離 有千餘家」と「家」で書いている。これは不彌國の家が木造の高床式住居だったからだ。ちなみに伊都国等の住居は竪穴式住居である。近年吉野ヶ里の発掘が進み、ここの王の住居は大きい竪穴式住居で高床式の政庁に「通勤」していたことが分かったそうだ。なので、不彌國には渡来人が住み、彼らは倭人とは住む家が違っていたのであろう。 以上から「倭奴国は倭國の極南界なり」などと自己紹介をしたと言う記事を、後漢書がわざわざ書くはずは無いと判るだろう。金印をもらうと言うことはそんな安易なことではない。ちゃんと奴国が周辺の国々を征服し、倭の王としてふさわしいと認められたから金印を授けられたのだ。従って、この文は 「倭国をこれ最南端まで極めた」と言うのが正しいと思う。(ちなみにこの話は倭の五王の時代まで尾を引いている。 中国に送られた使者は北や東の国々も征服したと主張している。 つまり「後漢の時代に南界を極めたことは分かったが東にはより強い国があるのだろう?」 と言われたのに違いない。なのでしょっぱなに東の国々まで征服したと説明したのだ。 この頃までは卑弥呼の時代の(狗奴国との戦いの)記憶が中国側にも日本側にも残っており、 倭の五王としては、その後にちゃんと「日本統一した」と言う説明が必要だったのだ。) また、これは証拠が無く感覚の問題だが、「之」を「の」と読むのは訓読みつまり日本人の読み方である。 中国でも「の」と言う助詞として読める使い方もするが、それは多くの場合はこの「の」を「これ」に置き換えても通じる。なので、「之」を「の」と読むのは間違いではないが、日本人の便宜上の読み方だと思う。2.~4.自女王國以北 其戸數道里可得略載 其餘旁國遠絶 不可得詳の件 これは1.が前提条件で、陳寿が光武帝の時代の記録を元に女王国までの北側の国々のことを書いたと考えれば、すぐに分かる。 女王国までは奴国が北側から順に南に向かって征服して行ったので、その記録は奴國→女王国になっており、女王国を中心に考えればそこまでの国は「北側の国」になるのは当然だ。 使者が実際に行った不彌國までは別の資料つまり使者の復命書を元に書いているので、北から順に書いているのだが、光武帝の時の記録から書いた投馬國や邪馬台国は、そのせいで南から北へ向かって書いているのだ。 ここで多くの人が「女王国は狗奴国の北側では?」と考えるのは、1.が正しい場合は成立しない。陳寿が元にした記録は「倭国大乱前の記録」なので魏志倭人伝当時の物では無く古いからだ。 魏志倭人伝の当該部分には、 次有奴國 此女王境界所盡 其南有狗奴國 男子為王 其官有狗古智卑狗 不屬女王と書かれており、其南としか書かれておらず、女王国の南とは書いてない。 倭国大乱の前には狗奴国も奴国に征服された国の一つであったとすれば、狗奴国も女王国の北側の国の一つだったのだ。それが魏志倭人伝の時代には分かれて女王国に従わない国になっていたのだと思う。 僕は倭国大乱の原因は奴国の王位継承権の争いで、女王国に対する狗奴国の王は卑弥呼の弟だったのだろうと考えている。古事記や日本書紀に書かれている通り天照大御神と素戔嗚尊です。 つまり陳寿は魏志倭人伝を書く際に使った光武帝時代の記録を最新のデータを考慮して、それつまり狗奴国は今は女王国に従っていないことを考慮して、(狗奴国も北側の国であるが)奴国までは女王国に従っているが狗奴国は従っていないと書いているのだ。 つまり其南の「其」は「次有奴国」の「次」と同様に前に書かれている国、つまり奴国を指しているのだ。ただ、狗奴国は奴国の北に位置するのではなく南に在り、ただ女王国に従う国であるかどうかで分けているので、「次」と書かれた国々とは違い「其南」と書いたのだ。 よく奴国が2つ有るのはそれぞれ違う国だと解釈する人がいますが、もしそうならば中国の辺境の防衛上また貿易上大事な情報なので、陳寿は「奴国は2つに分かれた」とか「元々2つ有る」と素直にかくはずですが、その様子が見られないのは奴国は1つしかなく、同じ奴国なのだけれども記載の元になる根拠資料が2つなので2回出てくるのだと思う。 そのことは「晋書」宣帝紀を見ても分かる。「晋書」には正始元年(240年)春正月に「東倭重譯納貢」と書いている。倭ではない。東倭である。この正始元年は魏志倭人伝にも書かれているが、有名な年で、帯方郡太守の弓遵が建中校尉梯儁等を倭国に派遣して、百枚の鏡等の返礼品を贈った年である。魏志倭人伝の記述から分かる。「景初二年六月 倭女王遣大夫難升米等詣郡 求詣天子朝獻 太守劉夏遣吏将送詣京都 其年十二月 詔書報倭女王曰」 景初3年(239年)に魏の明帝が亡くなり、元号は景初から正始に変わっている。つまり魏は倭國のことを知っていたはずである。それなのに「倭」ではなく「東倭」と断っているのですから別の国である。そして中国側は朝貢を断っている。 つまり奴国が2つあるのならば、中国側にとっては大事な情報なので、何らかの形で区別するか、そのことを書くと思われるのだ。 古事記や日本書紀に書かれた「誓約」は相当に厳しい2国間の人質の交換だったと考えている。例えば出雲大社の大国主の命は西側を向いています。つまり奥様の故郷であり、自身の祖先の地である宗像の方角である。祖先の須佐之男命の娘達の居た所である。 よく稲佐の浜を向いていると言う人達がいるが、縄文海進で海面が高かった当時の稲佐の浜は海の底である。 大国主の命は戦えば国を譲らなくても勝てた可能性が有るのだが、母国である宗像の人達の指示に従って諦めたのだろう。なので大国主の命は西を向いて座っており、その傍らには見張り役の神々が確か5柱だと思うが、座っているのだと思う。5.自郡至女王國 萬二千餘里の件 これも1.が正しく、陳寿がそれを元に書いているのであれば、現代の地球儀で計ればすぐに分かる。1里が70~80mであれば12000里つまり900kmくらいでほとんどピッタリ。 紀元前2世紀頃に書かれた周碑算経を見ると、中国人は地球が丸くてその周囲の径が4万kmであったことを知っていたのが分かる。彼らは島国の日本や山に囲まれた西洋の国々とは違い、広い大平原に居たので、地平線に沈む遠くの景色から地球が丸いことを知っていたのだ。 周碑算経を見ると太陽の高度と季節及び時間から、緯度や経度を算出していたようである。なので鬼道を操る卑弥呼の弟子達に、必要な知識を与えて、秋分の日や春分の日の太陽高度や方角(日の出や日没の位置からの角度)を計らせれば、簡単に位置が分かったものだと思う。現代人は古代中国人をなめているが、紀元前2世紀にそれほどの知識を持っていたのだ。鬼道については色々な説があるが、当時の人達にとって重要な儀式を操る宗教的なものだったようなので、天文的な知識は持っていただろう。 「女王国の北側の国々」の話は後漢時代の倭人の説明記録なので、「自女王國以北 其戸數道里可得略載 其餘旁國遠絶 不可得詳」と倭人は道里を知らないから郡から不彌國までを里程で記したのに対して「日数で表記せざるを得なかった」が、倭人の説明の記録は伊都国あるいは不彌國から女王国や投馬國までの範囲の話なので、「郡から女王国までの距離」は西晋の皇帝達へのサービスとして里程を書く必要が有った。なので、陳寿は天文学者達の力を借りて「郡より1万2千里」と書いたのだろうし、陳寿が後漢時代の倭人の説明を根拠に書いている事情を知る皇帝たちはやむを得ず許したのだ。 陳寿が魏志倭人伝を書いた際に、道のり距離と直線距離を混在したのは仕方ないことだと思う。基づく根拠資料が違う物だったからである。道のり距離で書かれた部分は派遣された使者の実際に歩いた行程の距離であり、直線距離で書かれた部分は光武帝時代の記録で倭人の説明を聞いて書いたので距離の記録が無く、仕方ないので(想像にすぎませんが)上に書いたような方法で推測したのであろう。 中国の使者は女王国までは行っていない。彼らは観光旅行ではなく大使館の人間として倭国に来ているので、もし必要であれば卑弥呼に伊都国まで来いと言う立場だったのだと思う。 なお、「會稽東治之東」についても書いた方が良いと思いますのでちょっと書く。Wikiの地図を見て「會稽東治之東」は呉の領地だと思うかもしれないが、Wikiの地図は三国が激しく戦っていた頃の地図である。陳寿が魏志倭人伝を書いた頃には既に蜀は滅び、呉も小さくなっており、なんと魏も西晋に禅譲して既に存在していない。 三国志は一応西晋の忖度もあって魏に近い記述になっているが、書かれたのは魏が無くなってから。なおかつ陳寿は元は蜀の人間で、そのせいで一時は三国志の編者をクビになりそうになったそうだ。 資料が無く、想像にすぎないが以下のことが正しいのだと思う。後漢書で言う「会稽東冶」つまり東冶県は、永安3年(260年)以降は建安県に属するようになっており、三国志の成立は概ね280年以降とされているので、もし陳寿が書くならば「会稽東冶」ではなく「建安東冶」と書かれていたはずである。「会稽東冶」は誤記であり、後漢書の方は「後漢」にこだわった後漢書の編者が誤って「会稽東冶」と書いてしまったのだろうと言うのが通説になっており、今では「會稽東治之東」が正しいとされている。 その場合の「會稽東治之東」なのだが、確かに場所の確定は困難なのだが、ここで言う「會稽」とは魏志倭人伝の当該記述の直前の「夏后少康之子封於會稽」の「會稽」を受けていると思われる。 この「夏后少康之子封於會稽、斷髮文身以避蛟龍之害。」という文章は、「史記」の「卷四十一 越王句踐世家 第十一」に登場する文章を引用している。「越王句践。その先は禹の苗裔にして、夏后帝少康の庶子なり。会稽に封じ、以て禹の祀を奉守す。文身・断髪し草來を披きて邑とす。」である。 ここで言う夏は現在の河南省商丘市夏邑県で南京から見ると少し北西なのだが、「斷髮文身以避蛟龍之害」から海辺だと考えられるので、南京の東あたりだと考えられる。なので、僕はおおよそ南京の東と考えたのだ。そうすると「會稽東治之東」は會稽の東の魏の治むる所の東と読め、地球儀を使って東へ進むと宮崎県あたりになる。以上、邪馬台国=宮崎県小林市またはえびの市説に対する疑問の回答である。
December 6, 2023
コメント(0)

11月20日にわの会のバス旅行で伊豆に行った時に、修善寺で三角縁神獣鏡が発掘されたことを知り、平塚市の三角縁神獣鏡と併せて、関東にも古い時代に大きな勢力が居て、国譲りに出てくる建御雷神(たけみかづちのかみ)の神や経津主神(ふつぬしのかみ)は、一般的には高天原の神のように思われているが、古事記や日本書紀には、どこに住んでいるとは書いておらず、またどこから来たとも書いていないし、建御雷神は鹿島神宮に、経津主神は香取神宮に祀られており、九州や近畿の神様ではないので、実は関東に有った日高見国の神様で、国譲りや神武東征に際して、九州(日向)の神様の味方をしに近畿までやってきたのだし、その後の世にヤマトタケルノミコトが関東までやって来たのも、関東の地の豪族(建御雷神や経津主神の子孫)に会いに来たのだろうと考えると、この地には既に弥生時代から有力な勢力が居たのだろうと考えるにいたったと書いた。わの会で伊豆北条氏ゆかりの寺へバス旅行しました。(後ろの方に地図付きで書いています。)しかしブログに書いたきりでは誰にも信じてはもらえないので、実際に証拠(古代に大きな勢力がいたことが分かる古墳や発掘品)を見るべきだと思い、今回千葉県の富津古墳群を見に行くことにしたのだ。なお、より北側の芝山古墳群には2022年7月23日に既に訪問している。千葉の芝山古墳群に行って来ました。ここも立派な古墳が有り、特に大きな特徴のある埴輪が有名である。もっとも田中先生のように「ユダヤ人埴輪」などとは思わないが。富津古墳群はJR内房線青堀駅の周囲に集中している。東京に結構近いのに、ほとんど知られていないが、100mを超える大きな古墳がたくさん有る。全部は一日では見ることができないので、計画を立てて下の地図のルートで廻った。なお、横浜からはそごう1階のバスセンターから高速バスで木更津へ行き、そこからJR内房線に乗り換えると便利。年寄りの僕の足で約4時間で廻れた。若い人ならば3時間コースだと思う。内裏塚古墳や九条塚古墳には円墳部頂上まで登れる。ただ、割見塚古墳等は私有地なので入れない。事前に頼むと入れるそうなのだけど、難しいので今回はあきらめた。なお、上の地図を右クリックして出るメニューから「新しいタブで画像を開く」を選択すると、別のタブで大きな地図を見られるが、九条塚古墳や稲荷山古墳等ははっきりと前方後円墳であることが分かる。関東のすぐ近くに、こんなにたくさんの100m超えの前方後円墳が有るんだなと感心する。まずは青堀駅に行く。駅の東側ロータリーに「古墳の里 ふれあい館」がある。小さな施設なんだけど、付近の古墳や飯野陣屋の写真がたくさん有り、ここで予備知識を得てから廻ると迷わないし、何よりも行きたい古墳を選べる。もしここで勉強して行かなければ4時間では廻れなかったと思う。ふれあい館に入ると90歳位の元気なお婆ちゃんが居て、飯野陣屋の説明をしてくれた。と言っても僕は耳が聞こえないので、もっぱら資料を眺めただけなんだけど、お婆ちゃんは死んだ僕のお袋に似てて、元気で良いなぁとうれしかった。そこで分かったのは飯野陣屋跡には三条塚古墳が有り、ここは乙巳の変で中大兄皇子とともに蘇我入鹿を倒した中臣鎌足のお祖父さんの里なのらしい。知らなかった。と言うか、知っていたら上記の「関東には弥生時代から大きな勢力が有り、国譲りや神武東征で活躍した建御雷神や経津主神は実はここに居て、2人は鹿島神宮や香取神宮に祀られた」と言う仮説の有力な証拠だと分かっていたのに。飯野陣屋跡の資料を撮影したので載せる。もしかすると付近で売っている所が有るのかもしれないけれど分からないので撮影した。江戸時代で既に幕府から新規の城の建造を禁止され、城ではなく陣屋なのだけれども本丸と二の丸、三の丸まである。えー!御屋敷は三条塚古墳のすぐそばに在って、今は神社になっているんだと感心した。ルート的には内裏塚古墳と九条塚古墳の間くらいだなと思い、寄ることにした。ルート的にはまずせっかく駅のそばなので、反対側つまり西のロータリーの上野塚古墳に行こう。なお、「うえの」ではなく「うわの」古墳である。元は手前のロータリーの部分まで有ったらしいが、JRが半分に削ったらしい。後から行く古塚(こづか)古墳もJR内房線に削られて半分になっている。「国鉄」はひどかったらしい。と言うか金沢区の古墳も全部京浜急行に壊されているしなぁ。でもさすがにちゃんと古墳だと分かってからは整備されて、削られた壁面に近所の古墳の様子をタイルで表現している。内裏塚古墳は結構古いタイプの古墳みたいだな。大阪の百舌鳥古墳群の古墳と似ている。上野塚古墳はちょっと後みたい。ヤマト王権から禁止令が出たあとなので、方墳部が小さくなり帆立貝型に近くなっている。他にも有る。えー!立派な前方後円墳じゃん!これらがみんな100m超なの?世界遺産の百舌鳥古墳群に負けていないじゃん!古墳時代の千葉って、もしかして近畿よりも大きな勢力が居たのでは?じゃぁヤマト王権成立時は今まで九州と近畿の2大勢力って感じだったんだけど、本当は尾張(断夫山古墳や高蔵寺等にたくさん古墳が有る)やここを含めると、当時の日本にはたくさん大きな勢力が居たってことじゃん。教科書には何で載っていないの?学校や学者先生って信じられない。上野塚古墳を堪能した後はJRを渡って内裏塚古墳へ向かう。でっかい。周濠まで含めると約185mもあるらしい。ちょっとした小学校よりも大きい!しかも近畿の古墳とは違い、ここは墳丘に登れる。登り口に有る説明板。読むと、上野塚古墳で思った通り、この古墳は近畿の百舌鳥古墳群の履中天皇陵の同型で2/5スケールらしい。大きさはかなわないけれど、十分に大きいじゃん。しかも「同型」と言うのが気になる。学者先生の説が正しいならば、当時の人達は字も読めない野蛮人だったそうなんだけど、そんな時代に「同型」?字が読めないのに設計図が有ったの?もう、学校や学者先生の説って信じられない。しかも調査の結果、円墳部の高さの2/3までは自然の砂丘を利用しているらしい。僕の仮説=古墳は平地に無理に作るのではなく自然の地形を利用して造るので、横浜市内の古墳は山を利用して尾根を削って古墳にしたものが多く、平地よりはむしろ山の上に有る場合が多い=と言うのが正しいような気がする。だから秋葉山古墳も長柄桜山古墳も山の頂上に有るんじゃん!これが分かっただけでも今日の調査旅行は実りが有ったなぁ。学者先生の言うことは信じてはいけない。内裏塚古墳の石室は円墳部分の頂上に有ったらしい。今はもうなく、代わりに石碑が立っている。この石碑は石室の天井石だったらしい。実は古墳の頂上には別に「珠名塚」と言うのが有り、石碑があるらしいのだが気づかなかった。この次に来た時に探そう。珠名塚とは万葉集の1738番歌に「上総の末の珠名娘子を詠める一首」と言う連歌が有り、この辺にはすごい美人が居て、彼女のために付近は大騒ぎになったと言う言い伝えがあり、その歌は高橋虫麻呂の代表作だったそうなのだ。この辺の豪族の娘さんだったんだな。環奈ちゃんみたいだったんだろう。内裏塚古墳を後にして飯野陣屋跡に向かう。飯野陣屋跡は周囲を堀に囲まれている。堀を渡って中へ進む。上の写真の左手の小さな社付近に御屋敷が有ったらしい。そしてその後ろが三条塚古墳。左手の建物が本殿。三条塚古墳の周囲には神社やお稲荷様がいくつかある。僕の仮説=神社の起源はその地の豪族の墓つまり古墳の守り屋で、それが神社に発展し、仏教がやって来た後は仏教に負けて寺に変わった所も有り、そのせいで三浦半島の寺には狛犬が居たり、寺の中に神社が有る場合が有る=が実証されてる。駅前のふれあい館に有った史料によれば、この古墳は調査済みで、石室が発見されて、鏡などの副葬品が発見されたらしい。鏡は乳文鏡で、馬具や金銅製のイヤリングも有るなぁ。写真は無いけれど直刀も有ったらしい。ここには面白い伝説が有り、飯野陣屋跡の中の東屋に説明板が有った。一番下が特に面白い。鎌足桜の説明である。今から約1400年前に、ここには中臣鎌足の祖父の狩野長官が住んでいたらしい。彼は50歳を過ぎても子に恵まれなかったので、近くの高倉観音に参ると娘ができた。この娘が常陸国鹿島に嫁ぎ、そこで子が生まれた際に白狐が現れて神秘の草刈鎌を授け、その鎌に由来して子に「鎌子」と名付けたのが、後に中臣鎌足となったらしい。後年中臣鎌足は藤原鎌足になるのだが、彼がこの地に(白狐に)お礼参りに来た際に、土手に刺した桜の杖が根付き、その桜の木を地元の人が「鎌足桜」と呼んだのが由来らしい。本当だろうか?話のストーリーからすると、お祖父さんは中臣姓ではないので鹿島の家が中臣なんだろう。すると鹿島は九州から来たのか?それ故に日向から近畿に攻め上り国譲りをした際に、鹿島神宮や香取神宮の主は協力した?それならば話は合うなぁ。では何で藤原鎌足の子の不比等はそれを日本書紀に書かなかったのだろ?何か事情が有るのだろうか?書いても何の差支えも無いような気がするが。いや、でも全体的に古事記や日本書紀は尾張や関東のことを極力書かずに無視しているなぁ。この話だけじゃないぞ。熱田神宮に草薙剣が有るのが何か関係しているのかなぁ?源頼朝のお母さんが熱田神宮の神官の娘で、頼朝が関東に幕府を開いたのはそれが関係する?謎は深まるばかり。<後日追記>説明不足のせいで誤解されるといけないので、一応補足説明。「藤氏家伝」において出身は「大和国高市郡藤原(奈良県橿原市)」とされていることは、いくら低レベルアマチュアの僕でも知っている。その場合の父親は中臣御食子で母親は大伴昨子の娘の大伴智仙娘である。しかし中臣の家は相当に複雑で、学者の間でも異論がたくさん有る。例えば有名な所では、(学者ではなく作家だが)関裕二先生は藤原鎌足を百済の王子「豊璋」と本に書いている。この本は結構信憑性が高く、一時は僕もそうだと思っていた。その他に有名な所では「大鏡」に常陸国鹿島(茨城県鹿嶋市)の出身だと書いている。これが上記の鎌足桜の根拠である。「大鏡」と言えば、平安時代に書かれた紀伝体の歴史物語である。「紀伝体」なので、どうしても史書と同様に考えてしまうし、漢語・仏教用語を交えて書かれており、相当に知識と教養のある人が書いたと考えてしまう。なおかつ、時代的に藤原氏全盛期の本なので、藤原鎌足のことを嘘は書けないと思ってしまう。なので、この鎌足桜が気になるのである。飯野陣屋跡の近くには割見塚古墳が有る。でも私有地なので入れない。仕方ないので諦めたが、ふれあい館に有った写真だけを載せておく。飯野陣屋跡を出て九条塚古墳へ向かう。途中に亀塚古墳と武平塚古墳が有る。亀塚古墳は方墳である。周囲は全部前方後円墳なのになんで方墳?(実は割見塚古墳も方墳だそうです。)僕はきっとここで関東の勢力と出雲の勢力の戦いが有ったのだと思う。一時期出雲の偉い人がここに居たのだろう。でもすぐに滅びた。その人の墓だと思う。方墳は出雲の古墳の形式だから。次は九条塚古墳。これも結構大きい。しかも登れる。くびれ部分がはっきりしている前方後円墳である。この説明板を見ると、いつもの僕の説がここでも証明される。学者先生は「方墳部は元々は円墳部に祀った人の祭祀の場なので、円墳部が高い」と言うけど、尾張や関東の古墳では円墳部よりも方墳部の方が高い古墳が結構ある。僕はこれは方墳部の持つ役割のせいだと思っている。古墳は死者を祀るだけではなく、引継ぎの儀式である役割が大きいのだ。恐らく、儀式はまず死者を円墳部に納棺する所から始まり、それが終わると次代の王者は先代から引き継いだ王家の象徴を手にして、円墳部から方墳部へ渡り、そこで自分が後を継いだことを麓の民衆に見せるのだ。なので、方墳部は高くないと民衆に自分を見せる効果が無い。なので方墳部は高くつくるのだ。学者先生はそれが分かっていない。王は民衆に自分を認めさせるのがもっとも大事なことなのだ。九条山古墳を後にして稲荷塚古墳へ向かう。途中に姫塚古墳が有るらしいのだが、既に壊れておりよく分からない。稲荷山古墳も大きい。ここでも上りたかったんだけど、内裏塚古墳や九条塚古墳と違い田んぼや草むらがあり、「マムシが居ます」と言う看板がたくさん有ったので、怖くてやめた。それにもう暗くなりつつあり、残りの行程を考えると時間が無かったので。稲荷山古墳も大きい。周濠が二重になっており約202mもある。この富津古墳群のそれぞれの古墳はみんな100mを超える。なんでここは見に来る人が少ないんだろう?近畿と比べてもそん色ないのに?稲荷山古墳を後にすると次は古塚古墳なんだけど、周囲はもう暗い。写真はまだ明るいじゃんと思うかもしれないけれど、これはカメラの性能が良いから。実際はもう暗い。僕のカメラはシャッター速度は遅くなるけれど、相当に暗くても映る。こうして富津古墳群を見て廻ったのだけれど、実は弁天山古墳と言うのがまだ有ったらしい。時間が無かったので諦めたが、次回に行こう。ふるさと館に有った弁天山古墳の資料を載せる。本当に立派な古墳ばかりだったと思う。これほど大きな古墳を造れる豪族が居たのに何故古事記や日本書紀には何も書いてないのだろう?藤原不比等にはまだまだ秘密が有るなぁ。
December 5, 2023
コメント(0)
全7件 (7件中 1-7件目)
1


![]()