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2020年12月19日の僕のブログに、ラジオに周波数カウンターを付けられないかと言う質問が有り、一応お答えをしたのだけれども、「難しい」と言うだけで具体的ではなかったので、「難しいけれどもできる」と言うことで、今回やってみた。元の僕のブログはこれ。秋月の8桁周波数カウンターキットAE-FCOUNT3を作ってみました。 | 日本を征服だ! - 楽天ブログ (rakuten.co.jp)原理そのものは簡単なんだけど、実際に作るのはまた話は別。愛天堂のラジオ周波数表示器きっと [K-M3610]はオフセット(中間周波数455kHz)を除けば、簡単なICを利用した周波数カウンターで、アマチュアが悩むオフセットの与え方と、実際に周波数を拾う際の入力増幅部が内蔵済。なので、恐らく中華のデジタル表示式のラジオの部品を流用したものだろう。周波数を拾う際の入力増幅部が内蔵済でカップリングコンデンサーも付いているので、単に局部発振回路につなげば良い。下の図では(原理の説明なので)6pF程度のカップリングコンデンサー経由としたが、 [K-M3610]では既に内蔵されているので、不要だと思う。ただ上の図では初段のトランジスターVT1のエミッターから局部発振回路出力を取っているが、実際はここの出力は100mV程度しかなく、カウンターの種類によっては小さすぎる。(例えば秋月のミニ周波数カウンターは入力が1V以上無いと動かないので、 エミッター側では動作しないのではないだろうか?)その場合はVT1のコレクターから取ると良い。エミッターとコレクターの出力の差をオシロで見てみたので参考に。コレクター電圧はエミッター電圧の約30倍と写真の中に書きましたが、約40倍の間違いです。やっぱりオシロは2CH有ると便利だと思う。そんな感じで愛天堂のラジオ周波数表示器きっと [K-M3610]をつないだのがこんな感じ。現在ニッポン放送(1242kHz)受信中。 [K-M3610]は実際は局部発振回路の出力電波1697kHzをカウントしているのだけど、表示はオフセット455kHzを差し引いた1242kHzを表示する。便利。7石ラジオK-108B-2の内部はこんな感じ。僕の家はマンションで、音を出すと奥さんにこっぴどく怒られるのでイヤホン端子をつけた。こんな感じで周波数デジタル表示の7石ラジオができたんだけど、実は2つトラブルが有った。上の回路図の局部発振回路ではエミッター注入用部分からカウンターに入力しているが、実はこの7石ラジオは、この部分はバリコンのダイアルが有って半田付けできない。なので実はVT1のコレクターに半田付けした。もう一つはカウンターに関する問題ではなく、局部発振回路の根本的な問題。上の回路図の局部発振回路ではエミッター注入用コンデンサーC2は682(6800pF)なんだけど、今愛天堂で売っている7石ラジオK-108B-2はこれが103(10000pF)になっている。上の回路図はK-108Bの時代のもの。(今はK-108BもK-108B-2同様に103)つまり昔のバージョン。新しいバージョンでは回路のVT1の電流がかなり減ってこのコンデンサーが増えている。改良したんだと思うのだが、僕の買ったのではダメだった。(もしかすると部品のロット調整=例えば品質をそろえにくいコイルのばらつきに伴う調整?)組み立てたすぐでは、高い方の周波数で異常発振した。船の帆のような波形の中をより高い周波数の電波が埋めている、写真を右クリックして出るメニューから「新しいタブで画像を開く」を選び大きい画像で見ると481kHzと周波数が表示されている。455kHzじゃないなぁ。(コンデンサーを変えた後に455kHzに調整)つまり正常な場合の発振電波が低周波(船の帆の形)で変調されているのである。低い方の周波数では正常なんだけど、バリコンを回して高い方に行くと、僕の場合1500kHz位で「ギャー」と発振する。だから耳に聞こえてひどい。こういう時はコレクター電流が不安定、つまり帰還量が多すぎるのだろうと判断して、旧バージョンの682(6800pF)にしてみたら、正常に戻った。なので周波数が高い方で異常発振する場合は、是非エミッターの帰還用コンデンサーを変えてみると良いと思います。<後日追記>過去の自分のブログを調べてみたら、愛天堂のK-108Bを改善してみた。 | 日本を征服だ! - 楽天ブログ (rakuten.co.jp)でも同じようにこのコンデンサーを変えて異常発振を止めていたのに気がついた。忘れているなんて、耄碌したな。この時は472(4700pF)を使ったみたい。ぼくら低レベルアマチュアは「手持ちの部品を使う」しかないので、682を使ったり472を使ったりするけれど、要は容量が少ないコンデンサーに変えると良いと言うこと。思うに、この手のラジオは少ない部品で最大限の感度を得ようと増幅率をあげるから、増幅率を上げる=発振しやすくなると言うことなので、部品の選択が大きな影響を与えると言うことなんだと思う。つまり、低レベルアマチュアにとっては、勉強になるので面白いけれど、意外に難しいんだなと思う。その点DSPラジオは組立さえ成功すれば必ず鳴るので、初めての人にはDSPラジオの方がお奨めなのかもしれない。
September 26, 2023
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古事記には偽書説が有った。その理由は以下の通りである。(1)続日本紀に撰録の記事がない。(2)古事記が日本書紀に引かれていない。(3)平安時代まで他書で存在が確認できない。(4)序といいながら上表文の体裁をとる。(5)署名が不備である。(6)稗田阿礼が疑わしい。(7)序文の壬申の乱の記事が日本書紀に基づいている。(8)本文に平安朝でなければ書けない記事がある。(9)本文(注)の万葉仮名が奈良朝以後の用法である。(10)序文の日付は仮託されたものである。しかし、このうち古事記本文に関わる(1)(2)(3)(8)(9)については、今ではほぼ否定されており、本文については偽書の疑いは晴れていると言ってよい。例えば(1)等は続日本紀に「書かれていない」だけで「書く必要がなかった」せいかもしれず、それは(2)と(3)も同様である。他書に書かれるのは引用したり、そのことを残す必要が有る場合で、例えばよりボリュームが有り官選である日本書紀が同時代に有れば、巻数にして1/10で朝廷に認められていない古事記は引用し記録に残す必要が無いからである。(8)に関しては、それが「後から追加された」のであれば「偽書」ではなく、今日で言う「追補版」に過ぎない。これは「偽書」とは別の話である。また(9)に関しては後述するが、現在残っている物が原本ではなく写本なので、写本となった目的によっては、「使う人の使い方」により使い易いように修正されただけで、これは「偽書」ではなく「改訂版」である。現代だって「三国志」は原本のまま使う人は皆無で、現代文に訳したり、分かりやすいように「レ点」等を追加して読みやすい漢文にしている。あるいは漢字にフリガナをふったからと言って、それを偽書とは言わないだろう。後述するように現在残っている「古事記(真福寺本)」が、仮に「日本紀講筵」のテキストの写本、または講義のノートだったとしたら、テキストは生徒に分かりやすいように工夫されていた可能性が有るので「偽書」ではない。さらに言えば(9)の議論の元になっているのは、古事記の音仮名と祝詞の音仮名が近いと言う説だが、これは逆に否定する説も多い。問題は「序」の方で、学者先生の議論も主にこちらである。それは(4)(5)(6)(7)(10)なのだが、これは一理有るものが多い。ただそれらは逆に、後述するように、序は元々古事記の序では無く、「たまたま日本紀講筵の場で一緒になってしまった」のであれば、古事記は偽書ではなく、それを後世に伝えた「真福寺本」の解釈に誤解があっただけなのだと思えるのである。他の書を見ても古事記の成立した時代、序文の有る書などはなく、恐らくは何らかの事情で(多分「日本紀講筵」でテキストとして使う際に)加えられ、それを生徒が(先生は古事記の序として話したつもりはないのに)古事記の序として扱ってしまったか、生徒自身も先生は古事記の序とは思っていなかったのだけれども、紙を節約して1枚の紙に書いたせいで、後輩に引き継がれて後世に伝わるうちに、いつの時代にか古事記の序として定着したのである。日本書紀そのものの講義の記録は「日本書紀私記」として残っているが、テキストとして使われた古事記に興味を持った人がいて、ノートに書き記して残したのでそのようなことが起こったのではないだろうか?それがよく分かるのは、「序を併せたり」と言う部分である。本当に古事記の序として残っていたならば、わざわざこうは書かない。「序を併せたり」などとは書かずに、そのまま序からスタートするはずである。「序」とは「序章」の意味であって続く「第1章」と区別される内容である。「序巻」ではない。「序巻」だけ独立した書なんて、まぁ普通は無い。「序巻」なら「上巻」とは独立するので写本のようになるならば「序を併せたり」と書くが、「序章」は通常「上巻」の中に含まれるので、「序を併せたり」とは書かない。紙を節約して本来別の物であった「上巻」と「序?」を続けて書いたのが誤解の始まりである。現存する古事記の取り扱いが誤解の原因ならば、古事記偽書説自体が無くなってしまう。古事記自体に罪が有るのではなく、後世の人が余計な物を一緒に書いたせいで誤解を生じた。そう思うのである。それを書いてみる。現存する『古事記』の写本は、主に「伊勢本系統」と「卜部本系統」に分かれる。以下はWikiからの引用である。現存する『古事記』の写本で最古のものは、「伊勢本系統」の南朝: 建徳2年/北朝: 応安4年(1371年)から翌、南朝:文中元年/北朝:応安5年(1372年)にかけて真福寺の僧・賢瑜によって写された真福寺本『古事記』三帖(国宝)である。奥書によれば、祖本は上・下巻が大中臣定世本、中巻が藤原通雅本である。道果本(上巻の前半のみ。南朝:弘和元年/北朝:永徳元年(1381年)写)、道祥本(上巻のみ。応永31年(1424年)写)、春瑜本(上巻のみ。応永33年(1426年)写)の道果本系3本は真福寺本に近く、ともに伊勢本系統をなす。また伊勢本系統を除く写本は全て卜部本系統に属する。祖本は卜部兼永自筆本(上中下3巻。室町時代後期写)である。ここで僕が注目したのは「日本紀講筵」である。日本紀講筵は日本書紀が天皇に奏上された養老4年(720年)の翌年に、朝廷の主催で第一回目が開かれたと釈日本紀に書かれている。お披露目だろう。実際の講義が始まるのは平安時代に入って弘仁3年(812年)からである。天皇は嵯峨天皇。その後10世紀半ばまでに7回開かれたらしい。その際の講義記録として残されたのが「日本書紀私記(日本紀私記とも)」で、博士(講義する先生)と生徒の質疑も載っている。日本紀講筵でまず重視されたのは漢文体で書かれた日本書紀の読み下しだった。第2回目日本紀講の私記に残された文を読むと、「天地未剖、陰陽不分」を「安女津知以末太和可礼須(アメツチイマタワカレス)、女乃子遠乃子和可礼奴止岐(メノコヲノコワカレヌトキ)」と読み下している。この読み下しに際して古事記が活用されたらしい。例えば日本書紀に出てくる「陰上」と言う言葉を、古事記の美蕃登(ミホト)と言う古語を参照して「ホト」と読むとしたらしい。ヤマトの古い言葉をよみがえらせる為に古事記を使ったのである。えー!朝廷の日本紀講筵で古事記が使われたと言う記録が残っているなら、古事記が偽書のはずはないじゃん!この辺の事情が分かってきたので、また奈良県奈良市此瀬町の茶畑から安万侶の墓が見つかり、(墓誌も発見された)現在では古事記自体が偽書だと言う考えは無くなったらしい。では序は何なのか?僕はこれは日本紀講筵で古事記を使用する際に、古事記の(内容はともかく)書き方や使われている古語が正しいものであることを、証明する為に博士(先生)が自分の家に伝わる文書を生徒に見せた物だと思う。恐らくそれは和銅5年(712年)に古事記が元明天皇に奏上された際の奏上文だったと思う。先生は信頼に足る本だと言う説明の為に天皇に奏上された物だと証明する文を付けたのだ。それが生徒に伝わって書き写されていくうちに、生徒により分かりやすく、その時代の書き方や後年の事実が書き加えられたのだろう。いやもしくは博士自体が書き直しの作業をしたかもしれない。なんせ弘仁3年に開かれた第2回日本紀講筵の講師は多人長(おおのひとなが)だから。彼は太安万侶の子孫である。彼の家には古事記が伝わっていただろうし、奏上文も伝わっていただろうから。御先祖である太安万侶が苦労して元明天皇に奏上した古事記が、藤原不比等の策略によってボツにされた無念を晴らしたかったのかもしれない。あるいはそれは無理だとしても、太安万侶の名と古事記を残したかったのかもしれない。なので、古事記自体は偽書ではなく若干の追補改定は有ったかもしれないが本物で、序は実は序としてつけようとしたのではなく、古事記が天皇に奏上した由緒正しい本だと言う証明の為の奏上文が、何らかの事情で「古事記の序」として誤解されたものだと思う。
September 24, 2023
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今日9月7日はわの会でした。今回は横須賀に遠征して、NPO法人よこすかシティガイド協会の協力で、三浦半島の津久井地区を見て回りました。まずはルートですが京急長沢駅に集合して荘厳寺、東光寺、往生院、法蔵院と浅間神社を巡り、最後は津久井駅で解散です。僕はちょっと元気が余っていたので、その後長沢公園に有る長沢1号墳にも行きました。緑がわの会のコースで、赤が解散後に僕が独自に行った長沢1号墳へのコースです。まずは荘厳寺に向かいます。京急沿いは小山なので大変だし、歩く距離は少ない方が良いので団地をつっきります。団地を出て少し行ったあたりに庚申塚が有ります。神奈川県の人には見慣れた風景なので気にも留めないでしょうけれども、九州から来た僕には、なかなか慣れません。村境に立てられることが多く、よそから来る「悪いもの」一切を防ぐ神様です。また、庚申信仰そのものは中国の道教からきており、60年に一回やってくる庚申(かのえさる)の年に営まれる行事で康申搭もその時に建てます。人の体内にいる三尸という虫が、庚申の夜に人が眠るのを見澄まして天に昇り、天帝にその人の罪を告げる。すると、天帝はその人を早死にさせると伝えられています。従って長生きするためには、その夜は眠らないで身を慎みます。これを守(しゅ)庚申と言い、これを行う「講」をたてるのです。庚申の日には夜籠りをして慎みます。この更新塚の傍に荘厳寺が有ります。三浦半島は当然三浦一族の世界だと思っていたら、このお寺には北条のミツウロコ紋が有ります。荘厳寺は鎌倉円覚寺の高僧岳雲祖松禅師が応永年間に創建したからだそうです。本尊は大永5年に作られた十一面観音菩薩像です。小さくて見えない。写真を右クリックして出るメニューから「新しいタブで画像を開く」で別のタブで写真が開き、それを拡大すると観音菩薩の頭の11面の菩薩様が見られるかと思いましたが、無理でした。残念!本堂には運慶作と伝わる不動明王像が有ります。胎内に智証作と伝わる愛染明王像が有ります。珍しい。初めて見た。境内左手に長州藩士田中則久の墓が有ります。長州藩は嘉永6年(1853年)に三浦半島西海岸一帯の警備を幕府から命ぜられたのだそうです。現代風に言えば、本社から遠地出向を命ぜられて、現地で死んだ可哀そうな人のお墓かも?荘厳寺には不思議なことが有ります。お寺なのに本堂前に「狛犬」が居るのです。しかも「天邪鬼を踏んでません」。優しい狛犬だなぁ。狛犬は元々はインドの仏寺で結界を守っているものが日本に伝わったものなので、お寺さんに有るのはある意味正しいのですが、日本のお寺さんには滅多に有りません。逆に神社にはほぼ全て有ります。インドの仏寺から伝わったものなのに何でお寺には無くて神社に有る?いつも不思議に思っていたのですが、お寺でも狛犬が居る所は有るんだなぁ。境内を見ると可愛いレリーフがたくさん有ります。ここの狛犬は「結界を守っているのではなく仏様のお供をしている?」のかもしれません。荘厳寺を後にして東光寺に向かいます。この付近は横浜から1時間かからない場所なのに、周りは畑だらけです。周囲は「いちごハウス」がたっており、大きな葉っぱのイチゴが育っていました。そこからちょっと入った所に浅間神社が有ります。神社はここを登った所に有るので、時間が有れば行くのですが、今日は時間が無く、御年を召されたメンバーが多いので、鳥居まででおしまい。ここを登って浅間神社を経て、三浦富士、砲台山、武山へのハイキングコースがあるそうですが、今日は残念ながらおあづけです。それらの山々が荘厳寺から東光寺に至る道から見えます。目立って高い山ではないので分かりにくいのですが、写真を右クリックして出るメニューから別のタブで画像を表示して拡大すると、中央の山の上に鉄塔が分かります。写真内の左上が砲台山で鉄塔が有るのが砲台山と分かると、左手のちょっと高い山が武山、右手の少し形が綺麗な高い山が三浦富士でしょう。いやハイキングコースと言っても結構大変そうだなぁ。東光寺は真言宗のお寺です。開山は行基だそうです。本当だろうか?しばらく荒れていたのを津久井次郎義行(三浦義明の弟)が上野阿闍梨と祈祷所としたそうです。その後阿闍梨明尊が鎌倉時代初期に再建したのだそうです。その津久井次郎義行の墓が東光寺の裏手に有ります。津久井次郎義行は源頼朝の石橋山合戦に兄三浦大介義明と共に出兵しましたが、時おそく頼朝軍は大場景親に破れ敗走していたため仕方なく引き返し、多々良四郎と共に久里浜から房洲に渡って頼朝にめぐり逢い、以後頼朝軍に従って、三浦一族として源氏に功績をあげました。中央五輪塔が義行の墓だと言われています。荘厳寺の紋は北条の紋だったけれど、ここは三浦の紋だ。ガイドさんの説明書には、三浦義明が伊豆大島に流された源為朝の元に弟の津久井次郎義行を派遣したと書いているが、義行自身の経歴は何も残っておらず、彼は武士と言うよりは海運業をメインとした商人的な存在だったとする説もある。いずれが正しいかは資料が残っていない今となっては不明。東光寺は面白いお寺さんで、境内に猿田彦大神が祀られています。そのせいか、入口の仁王門に「注連縄」がかけられています。えー?仁王門に注連縄???よく「神仏習合」と「神仏混淆」を同じだと書いた本がありますが、間違いです。「神仏習合」は、「阿弥陀如来の垂迹を八幡神」「大日如来の垂迹が伊勢大神」とする本地垂迹説が台頭して、「仏教が主、神道が従」として神前での読経や神に菩薩号を付ける行為などを行ったものですが、ここでは「仏教が主、神道が従ではなく、対等です」従って仏教と神道が対等に混ざった「神仏混淆」なのだと思います。神道の祖である物部氏が、仏教を広めて支配階級を独占しようとした蘇我氏に敗れ、以降朝廷が仏教を支持した為に神道(神社)はすたれて、神社は寺の下に置かれました。日本の神様は元は「八百万の神」と言う言葉が示すように、それぞれの地域に神様が居て、地域の人がそれを敬ってうまれたもので、蘇我氏と朝廷は権力を中央政府に集める必要から仏教を広めようとしたのです。なので、鎌倉をはじめとした関東では中央に対する反発からなかなか仏教は広まらず、「頼朝の火葬」くらいから初めて(中央の朝廷との妥協から)仏教が広まって行きます。八幡太郎義家を祖先とする源氏が八幡大菩薩を称えて仏教を広めていくのです。でも関東は三浦をはじめとしてしばらくは古くからの習慣を大事にします。鎌倉に多い「やぐら」は仏教伝来前から有った横穴墓の風習を仏教の法華堂に融合したものです。鶴岡八幡宮の宮司一族の大伴氏の墓所は鎌倉の浄光明寺のやぐらの中に有りますが、やぐらの中に建てられた墓は笏(しゃく)状で鳥居が刻まれています。鳥居を刻んだ墓なんて日本中他所に有る?鎌倉だけでは?横浜市金沢区わの会19回目のイベントに参加しました。(扇ヶ谷の足利・徳川ゆかりの地を行く) | 日本を征服だ! - 楽天ブログ (rakuten.co.jp)荘厳寺の本堂前の狛犬同様に、この付近の宗教事情は色々と有るのかもしれません。東光寺を後にして、往生院に行く。ここは後述の法蔵院の末であまり見る所は無かった。(お葬式あるいは法事をやっている最中だったので、迷惑をかけないよう遠慮し早々に退散した)ガイドさんの資料を載せる。往生院の次は延々と歩いて万代会館へ行く。僕は新潟に2年X2回もいたので、ついつい「ばんだい」と読んでしまうが「まんだい」である。ここも中には入れずガイドさんの資料を載せた。次は津久井駅そばの康申搭。ここには岩船地蔵も居る。岩船地蔵は中部から関東に多い「舟に乗った地蔵の石像」である。ガイドさんが岩船地蔵の説明をしてくれた。栃木県下都賀郡岩船町に、死者が集まる霊場と言われる岩船山高勝寺と言う寺が有り、享保4年にここの地蔵を輿に乗せて村送りを行ったらしい。(岩船山の名前の由来は山の頂が舟のような形をしているからだそうである。写真参照)この際に造立されたのが岩船地蔵で、元々は海とは何の関係も無かった。それが何故か津久井等海の近くの村では海難除けの地蔵として信仰されるようになり、年月が経つ間に、元々の高勝寺との関係も忘れ去られたらしい。そう言えば、横浜市金沢区には蛭子神(元は海の神様が外国の恵比寿様と習合した)が多く、富岡八幡宮や金龍院に飾られているし、野島のお稲荷さんは舟に乗っている。田んぼの神様のお稲荷様が舟に乗っているのは、元は海の神じゃなかったこの岩船地蔵が今では海難除けのお地蔵さまになっているのと同じ?庚申塚を過ぎると次は法蔵院。ここは結構大きい。しかも近代的?元久元年(1204年)明円の開山で当初は天台宗だったが、今は浄土宗である。鎌倉のお寺さんだけじゃないけど、禅宗から浄土宗や真宗に代わった寺は多い。本尊は阿弥陀如来なので、確かに浄土宗っぽい。ここで懐かしい物を見た。我実家は九州なんだけど、浄土宗である。東京の人はこだわらないけれど、浄土宗の数珠は2つの輪が交差している。だから実家に法事に行く際は本当はこの数珠を持って行かなければいけないのだけれど、非常に高いので、今は普通の数珠で勘弁してもらっている。このお寺は非常に進歩的なので、仏具が色々と変わった者が多い。ウルトラマン木魚。初めて見た。まぁ、一説によると木魚は「眠気覚ましの為に叩く」そうなので、形にはこだわらない。また、木魚は叩かれて「煩悩を吐く」から口を開けているのだそうだけど、口を閉じているウルトラマンは、きっと煩悩なんて無いのに違いない。また、写真のウルトラマン木魚の奥には白い木魚もあった。非常に珍しい。白く塗ってしまったら「木魚」の意味が無いような気がする。山門は元は鎌倉光明寺の山門だったのだそうで、龍の彫刻は左甚五郎作なのだそうだ。彼の彫刻はみんなそう言う伝説があるが、あまりに真に迫っているので動き出すと言われるが、ここの龍も時化の夜に海を渡って房総に行くと言う伝説が有り、逃げ出さないように左目に「目打ち」として五寸釘を売っていると言われ、「目打の龍」と呼ばれている。後から気がついた。写真って右目じゃん!左目はどうなっているんだろう?わの会の最後は津久井駅の裏手の浅間神社である。この神社とは関係ないかもしれないが、三浦の人達は海越しに本物の富士山が見えるのに、何故「三浦富士」なんて名付けたのだろう?浅間山で良いじゃないかと思う。何か事情が有るのかなぁ?わの会はここを最後に津久井駅で解散した。でも、僕はせっかく長沢まで来たのにただで帰るのは惜しいと思い、もう一か所を見に行くことにした。長沢1号墳。古墳である。正直な所、ここだけを見に来るのはちょっと無理かなと思うのだけど、今日はわの会のついでなので、本当にちょうど良かった。長沢1号墳は京急長沢駅の方が距離的には近いのだけれども、道が無い。何も知らないで行くと近くに熊野神社が有るので、これを目標にしがちだが、間違いである。熊野神社側には古墳につながる道は無い。むしろ駅の北側から津久井駅の方に向かい、京急の線路を立体交差で渡り、ぐるーっと回った方が確実に行けるので、こちらの道をお勧めする。今回はわの会が津久井駅で解散したので、津久井駅から歩いた。長沢1号墳は長沢公園の中に有る。公園自体が小さいので、古墳を理由に公園整備したのかも?古墳そのものは破壊されてしまったのでレプリカが復元されている。等高線が入った図を見ると分かるけれども、説明では「円墳」となっているけれども、僕には「帆立貝型前方後円墳」のような気がする。前方後円墳は時代と地域及び埋葬者の地位により、形状と規模が違うのだけど、古墳時代は後期に近くなると、大きな古墳を造ることが禁じられて、特に方墳部分は小さくなり、帆立貝型になってくる。周濠から祭祀に使われた土器等が発見されたと書いてあるが、溝の中で祭祀を行うはずは無く、祭祀は方墳部分で行われて、その後周濠に捨てられたと思う。この古墳には写真にも書いたが、頂上付近に2つの木棺が埋められていたらしい。九州などでは木棺が2つある場合は夫婦の場合が多いが、関東では埼玉の稲荷山古墳の周囲の古墳でもそうだが、兄弟の場合が多い。ここでも2つの木棺の埋められていた跡の穴からは2つの剣が出ており、兄弟である。(主人と家来の場合は2つを並べない)ここに埋葬された人達は(逗子の長柄桜山古墳もそうだが)海を見下ろす山の上に祀られた。横須賀市の教育委員会の説明にも書いているが、海の一族の2人だと思う。かれらはこの付近の海を支配していたのだ。きっと三浦一族の母方の祖先だと思う。三浦一族の父方は桓武平氏、つまり京都から流れて来た人達だが、地元の人達の協力無くしては、なにもできない。きっと地元の有力者の娘を嫁にもらい、中央と地元を結ぶ役割を果たしていたのだろう。そう考えると、金沢区の海沿いの山々にだって古墳が有ってもおかしくは無いし、現に僕がこのブログで書いている、「横浜市金沢区の富岡八幡宮は古墳だよ」シリーズで紹介している古墳らしきものもそうかな?そう思うのだけど。違うかな?横浜市金沢区の富岡八幡宮は古墳だよ!(その10)夏島付近の調査後の考察 | 日本を征服だ! 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September 8, 2023
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