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久しぶりなのでヤフーのオークションでジャンクパソコンを買って修理した。もちろん僕の1か月のおこづかいの範囲内なので5000円以下。ただ今回はSONYのVAIO Z 安曇野VAIOなので高品質品。新品の動作品ならば20万円はくだらない高級品。ネットで調べると動作品ならば今でも30000円はする。でも古くて壊れてしまえば1/100!こんな感じ。初めて出たのは2015年。この時にはCPUは第5世代だったので、今となっては物足らないが、これは2016年以降のタイプ。CPUが第6世代だから。しかも同じ第6世代でもCOREi3と言いながら6157Uは2コア4スレッドなので、他機種のCOREi5以上の性能。このタイプが出た当時は普通のノートパソコンがタブレットにとって変わられるのでは?そう言われて各社は色々と考えて試行錯誤している時期だった。結局タブレットはノートパソコンと携帯に挟まれて、iPADは売れたけれど他社は全滅に近い状態になった。中途半端だったから。その中でこのVAIO Zは「試行錯誤」したうちの一つ。SONY独自の技術でノートパソコンとしてもタブレットとしても使える逸品である。よくこんな難しいのを作ったと思う。中途半端だなぁと思う。まぁでもせっかく手に入ったのだから、頑張って修理してみる。僕が期待しているのはヤフオクのページに書かれた説明。スイッチのカチッと感が全くないと言う部分。これって液晶パネルやマザーボードは大丈夫でスイッチが物理的に壊れているだけでは?分解してみると、まさにその通りだった。前の所有者が何をやったのかは不明だが、電源スイッチが「完璧に」壊れていた。仕方ないので半田をはずし、同じタイプのスイッチは手に入らないので、マザ-ボードからリード線を伸ばして外部にスイッチを取り付けることにした。またこのタイプのVAIOはACアダプターが特殊で通常のACアダプターは使えないので、ACアダプター差込口からリード線を引き出し、愛天堂の電源変換プラグを取り付けた。このプラグは安くて標準タイプのACアダプターが使えるので便利。こんな感じ。見ると分かるが、このVAIO ZはFANが2つ付いている。次はOSのインストールだが、変なことに気がついた。第6世代のCPUなのにWindows11が何の抵抗も無くインストールできる!もしかすると、使った手持ちのSSDが以前Windows11で使っていたものだからかもしれないが、インストールの過程でアンマウントされるしフォーマットもされるので違うと思うのだが。まぁでも上手くいったんだから気にしない。概ね何の問題も無く動くのだが、デバイスマネージャーを見ると、ドライバーがあたっていないデバイスが4つ有る。ビックリマークは嫌いなのでデバイスのプロパティを見てみた。ベンダーは8086だから製造元はインテルだな。インテルは4004、8080、8086とCPUの開発を引っ張って来た歴史を大事にしたいのか、ベンダーIDを8086にしている。面白いなぁ。デバイスは9D35なんだけど、これは何だろう?インテルのHPで調べるとチップセットHUBだった。そりゃそうだよなと思う。だって元はWindows8のパソコンなんだもの。Windows11を入れれば入らないのは出る。あちこち調べてやっとここにたどり着けたんだもの、自動で導入されるはずはない。まぁでも原因が分かれば対策はできる。なんとかドライバーを入れた。こんな調子で残りもドライバーを探して入れた。残りはインテルのバーチャルボタンやHIDイベントフイルター及びVFEPだった。するとビックリマークは全て消えた。でも正直なことを言うと最後のHIDイベントフイルター用のドライバーを探していて、なんとあれだけ探しても見つからなかったSONYのドライバーサポートページが見つかった。ものすごく腹が立った。これが最初に見つかったんだったら苦労はしなかったのに!SONYの意地悪。最終的にはこんな感じ。全て完成しての感想なんだけど、これを2016年頃に買った人は鼻高々だったんだろうな。まず液晶画面がすごい。13.3型ワイドIPS液晶 高演色LEDバックライトWQHD(2560 x 1440)、タッチパネル機能搭載付今のパソコンでも(高い機種じゃないと)ないと思う高機能。普通のノートパソコンの液晶表示は1366X768が普通なんだから。4倍?Webカメラはフロントが92万画素、リアが799万画素。フロントが通常のノートパソコンレベル799万画素は4Kなんだよね。キーボードは押すと青く光る。キレイ!ちょっとうれしい。
July 29, 2023
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2023年7月6日はわの会のイベントで鎌倉宮と瑞泉寺に行った。いつもと違い、鎌倉駅ではなく目的地に近い「岐れ道」バス停に集合した。ここから約2.5km歩く。ルートはこんな感じ。一直線なので間違えない。最初は鎌倉宮。但し鎌倉宮そのものは何回も行ったので、今日は「護良親王」関連中心。鎌倉宮は明治天皇が護良親王の遺跡(幽閉されていた土牢等がある。)跡に建立した神社。護良親王は後醍醐天皇の第3子で鎌倉幕府打倒に活躍した。建武の新政で後醍醐天皇は護良親王を征夷大将軍に任命したが、急進派の親王は後醍醐天皇や足利尊氏と対立し、逮捕されて鎌倉に送られた。足利尊氏の弟の直義はこの辺に有った東光寺の土牢に親王を9か月間も幽閉した。その際に瑞泉寺裏山で自害した北条高時の遺児の北条時行が鎌倉奪回に攻め込んで、敗走する直義は家来の淵辺義博に命じて親王を殺害した。淵辺義博は護良親王の死に顔の恐ろしさにおののき、理智光寺付近の藪に首を投げ込んだが、理智光寺住職が手厚く山に葬ったらしい。なお、護良親王の死に関しては色々な伝説が有り、護良親王は土牢に幽閉されていたのではなく東光寺に幽閉されていたとか、(これは有りそう。東光寺は今の鎌倉宮付近に有ったらしい。)淵辺義博は親王を殺せずに、藪に首を捨てたと称して海路で宮城県石巻に逃がしたとか、と言う伝説がある。今日はそこも回る。鎌倉宮は広い。さすが明治天皇建立の御宮様。まずは鎌倉宮裏の護良親王を幽閉したと伝わる土牢。確かにいやしくも後醍醐天皇の第3子である護良親王を幽閉するにはちょっと抵抗があるかも。その時の様子を描いた絵がこれ。首を切ろうとする淵辺義博の顔がそれほど怖くない。この人なら助けてくれそう。でも、隣のお姉さんは誰?裏には鎌倉宮の碑が有る。そばには皇族の皆様の御手植の木が有ったが写真は省略。鎌倉宮右手、土牢に至る道筋には宝物殿が有り、親王関連の品々が有る。明治天皇の建立のせいか、東郷元帥や乃木希典や山本五十六の書いた額が飾られている。鎌倉宮を後にして理智光寺跡に行く。左下の絵には淵辺義博が藪の中に捨てられた親王の首を恐れて、刀も捨てて逃げる様子が描かれている。(土牢では優しそうに見えたのに助けてくれなかったのか)この首を理智光寺の住職が拾い上げて綺麗にして山に葬ったのだそうである。宮内庁の管理なのだが、現在は令和元年の台風による崖崩れの為に立入禁止になっている。親王が殺害されたのは北条方に政治利用されては大変だと言う判断からだそうだけど、後醍醐天皇も自分の子供を打ち首にするのはいたたまれなかっただろうなと思う。理智光寺の次には永安寺跡に行ったが、私有地であり今では何も無く空き地なので略。また理智光寺と永安寺の間には源頼朝が建てたと言われる永福寺跡があるのだが、これは修復前なので今回は見送られた。ただ、僕ともう一人の方は解散後に行った。後述。次は瑞泉寺。嘉暦2年(1327年)夢窓疎石開山の臨済宗円覚寺派のお寺である。鎌倉公方歴代の菩提寺であり、」鎌倉五山に次ぐ関東十刹の第一位。え?鎌倉公方の菩提寺なのに少し低くない?と言う気がした。でも良く読むと、鎌倉公方と室町幕府との対立や成氏の古河逃亡により衰退したとあり、夢窓派禅林の拠点も同じ夢窓疎石開山の円覚寺梅院に移されたと言うことなので、お寺の世界にも色々とあるんだなと思った。本尊は釈迦牟尼如来様。禅宗のお寺様らしく派手さが無い。僕は金色やけばけばしさに囲まれたお寺は嫌いなので、この方が好き。そもそも仏教は無の境地などと言いながら派手なお寺が多いのは変だと思う。夢窓疎石は僧であるとともに石立僧と呼ばれ、造園に関しても造詣が深く、この寺の庭園は書院庭園の元祖的な存在だと言われている。岩庭で、滝・池・中島などを岩盤に配置し、右手の滝は上に貯水池まであるそうだ。ガイドさんの説明によれば、月夜には池に映った月が素晴らしく美しいそうだ。でも昼間に見ると、池が浅く濁っていて、岩庭なので植栽が無く寂しい。何よりも池とお寺の建物の間に木々が立ち、建物から池を眺めるのには邪魔。美的感覚の違いなんだと思うけど、本当に綺麗かなと感じた。むしろ夢窓疎石がこの庭を造ったのは別の目的なのでは?とさえ思った。鎌倉に多い「やぐら」は元々は三浦半島に流れ着いた海の一族が海蝕洞を墓にしたのが基で、それが三浦半島に多い「横穴墓」に発展し、それが仏教の伝来に伴い、墓から法華堂のように役割を変えたものだと思っているが、それはさらに発展して御修法の場になったんじゃないかと思い始めている。そのきっかけは「元寇」である。元寇は1274年の「文永の役」と1281年の「弘安の役」の2回、中国の元が日本海を渡って攻めて来た戦いであるが、2回目の弘安の役の際に攻めて来た艦隊は当時世界最大(約4400隻)の艦隊で、確かに鎌倉武士が強かったと言うことはあるが、元・高麗の、文永の役での死者は13500人、弘安の役では船は200隻しか残らず、約16万人のうち3万人弱しか祖国に帰れなかった。鎌倉武士が強くても馬や矢では船を攻めることは難しく、被害を大きくしたのは台風である。2回とも何故か元・高麗軍は台風のシーズンに来て、特に弘安の役では風雨に流された兵士は鷹島に避難して、そこで後日捕虜となった者が3万人もおり、船はほとんど沈み、兵士は飢えて、散々だったらしい。この時に鎌倉では(実は京都でも)寺社で祈祷が行われており、寺社は自分達の祈祷が元の大軍を滅ぼしたと宣伝したらしい。日本では古くから「祟り」の概念が有る為に、これは貴族社会だけでなく武家に広まる。これが御先祖や死者を弔う場であったやぐらにも影響を与えたのではないかと思う。元寇に際して祈祷を行ったのが1281年、瑞泉寺創建が1327年。瑞泉寺創建前には、鎌倉の僧達はここで相手を呪う儀式をしたのだろう。NHKの鎌倉殿の13人でも阿野全成(頼朝の弟)は頼家を呪い殺そうとしていたなぁ。そして北条高時が東勝寺で自刃して鎌倉幕府が滅亡したのが1333年。え?鎌倉公方歴代の菩提寺と言うので室町時代の創建かと思ったら鎌倉時代末期の創建じゃん。だったら北条高時の首塚も近いし、元は北条一門供養の場だったとしてもおかしくはない。瑞泉寺裏山から登った先には北条高時一門の首塚(北条首やぐら)がある。何故そんな所に、北条の敵方の鎌倉公方の足利基氏の菩提寺があるかと思っていたんだけど、ここは鎌倉公方の菩提寺であるとともに、北条一族の供養の場だったのかなとも思う。そして、同時に元寇の際にはここで、御敵退散の祈祷が行われたのではないだろうか?うん?順番は逆か。元々は北条の祈祷場(元寇時に使われた)が有り、そのせいで北条高時の供養もここで行われ、それを知っている足利一門はここを鎮魂の祈祷場にした。そうなのではないか?瑞泉寺の庭園を見た時にそう思った。なので幽界(洞窟)と人界の間に池が有るのである。だって「庭園の奥に何で御壇を伴った洞窟がある?」のか説明がつかないもの。単なる庭園なら洞窟は不要だし、池と建物の間に木々は植えないと思う。恐らく、洞窟内で御修法が行われ、それを建物の中の足利氏は池越しに見て、北条氏の鎮魂を行っていたのだろうと思う。御修法とはこんな感じ。密教では洞窟内でやる場合が多いらしい。密教だけではなく禅宗でも行うが、その場合は洞窟ではなく本堂で行うみたい。庭園の中に洞窟が有るのはそのせいでは?洞窟入口中央付近に御壇があるし。単なるお寺の庭園に何故御壇が有る洞窟があるか?それが大事だと思います。瑞泉寺を後にして、みんなは鎌倉宮で解散した。でも僕はせっかくなので、永福寺跡に行った。永福寺は源頼朝が建てたお寺。上の写真の池の向こう側に建物は有ったらしい。まだ修復前なので何もない。永福寺は源義経、藤原泰衡など、頼朝の奥州攻めで亡くなった武将たちの鎮魂のため、平泉の中尊寺二階大堂等を模して建立され、建久5年(1194年)に二階堂・薬師堂・阿弥陀堂の三堂が完成しました。鎌倉幕府から手厚い保護を受けましたが、応永12年(1405年)に焼失し再建されてません。昭和58年から平成8年まで発掘調査が行われて建物の遺構は確認されたが、いまだ再建はされず、代わりに?AR永福寺と言うバーチャル永福寺をスマホで見られるらしい。話はもどるが、ガイドさんが見せてくれた源氏と北条氏と足利氏と新田氏の系図は、みんなどこかでつながっていて、何で親戚同士殺し合いをして首を切っていたんだろうと思った。いとこの子や孫は、もう他人と言う感じだろうな。だから平気なのか。よく「戦国時代」と言うけれど、もう鎌倉時代からすでに戦国時代だったんだなと思う。だって、鎌倉殿の13人を見たら、鎌倉時代って範囲を関東に限定した戦国時代で、北条氏の天下(関東)統一の物語だもの。よく調べると奈良時代も近畿限定の天下統一の戦国時代だったみたいだし、日本って(と言うか世界中みんな)戦いの絶えた時代はないのだなと思う。今は平和でいいな。
July 16, 2023
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2023年6月18日に「邪馬台国はどこにあったか(その18.3まとめの見直しR4年度ついでに魏志倭人伝と古事記日本書紀の関係)」を書いた後に、邪馬台国はどこにあったか(その18.3)まとめの見直しR4年度ついでに魏志倭人伝と古事記日本書紀の関係 | 日本を征服だ! - 楽天ブログ (rakuten.co.jp)ネット上でものすごい記事を発見してしまった。これが本当ならば、邪馬台国=宮崎説は完璧なのかもしれない。それは魏志倭人伝の中の次の記述について書かれたものである。(原文と意訳) 男子無大小 皆黥面文身 自古以來 其使詣中國 皆自稱大夫 夏后少康之子封於會稽 男子はおとなも子供も皆顔と体に入れ墨している。古来、その使者が中国に来たときには、 みな自ら大夫と称した。夏后の少康(夏王朝の五代目の王)の子は会稽に領地を与えられると、 斷髪文身 以避蛟龍之害 今 倭水人好沉没捕魚蛤 文身亦以厭大魚水禽 後稍以為飾 髪を切り体に入れ墨して蛟龍の害を避けたが、 今の倭の水人は、海に潜って魚や蛤を捕ることを好み、 入れ墨は(少康の子と同様に)大魚や水鳥を追い払うためであったが、後世の今は飾りである。 諸國文身各異 或左或右 或大或小 尊卑有差 計其道里 當在會稽東治之東 諸国の入れ墨はそれぞれ異なって、左にあったり、右にあったり、大きかったり小さかったり、 身分の尊卑によっても違いがある。 (女王国までの)道のりを計算すると、 まさに(中国の)会稽の東の魏の治所から東にある。有名な「倭人はみんな刺青をしていると馬鹿にしている」と評判の悪い記述部分である。たまたま倭人の刺青の話を書いている時に、そう言えば中国でも夏王朝の時代には刺青の話があり、それは会稽の付近の話だったなと書いているのである。陳寿は馬鹿にするつもりは無く、現地からの報告をそのまま書いただけだと思われるが、大事なのはアンダーラインの部分である。実は後漢書にも同じような表現が有りそちらには、下のように書いてある。(原文と意訳) 其地大較在会稽東冶之東 その地(邪馬台国)はだいたい会稽郡東冶県の東にある。同じじゃん!と思う人は良く見て欲しい。魏志倭人伝は「治」で後漢書は「冶」である。字が違うせいで意味が変わり、場所も変わる。(本によっては誤記をそのまま引き継いで「冶」としている本もあるが、誤りである。)魏志倭人伝の場合は、「会稽の東部地域の魏の治むる所」と解釈し、(会稽山近くの東側の魏が治めていた所、つまり会稽東治と解釈され)現在の江蘇省蘇州市辺りから東の方へ行った所となる。つまり九州の熊本か宮崎付近。後漢書の場合は「会稽郡東冶県」という解釈で、これは福建省福州市辺りとなり、ここから東の方とへ行った所となる。つまり沖縄あたり。「会稽の東部地域の魏の治むる所」と「会稽郡東冶県」は全然別の場所なのである。現代の「愛知県東海市の横須賀町」と「神奈川県横須賀市」が同じ横須賀でも全然違うのと同じである。両者は解釈の違いだけなのに、南北で600kmも離れている。下の図の通りである。邪馬台国近畿説論者も北部九州説論者も、自分達に都合が悪いので無視しているが、こうしてみると魏志倭人伝を書いた陳寿は正確に書いている。この記述に関しては多くの学者が後漢書の「冶」は「治」の誤記だと認めている。つまり魏志倭人伝は邪馬台国を宮崎県小林市付近だと考えて書いているのである。<後日追記>実は学者先生達は上記のように「後漢書の「冶」は「治」の誤記だと認めて」いるのに、解釈は「邪馬台国)はだいたい会稽郡東冶県の東にある」と言う解釈のままである。何で?と思うのだが、それが学者先生の性なので仕方ない。でも、中国人はちゃんとそれを訂正している。隋書を見ると分かる。 (原文) 古云去樂浪郡境及帶方郡並一萬二千里在會稽之東 (意訳) 古くから楽浪郡境を去り帯方郡に及ぶと云われている。並ぶこと一万二千里。会稽の東に在り。つまり後漢書の誤りを認め、誤解を無くすために「會稽之東」としているのである。中国人が(後世の人達が間違って伝えないように)訂正しているのに、日本人がそのままにしているのは変だと思う。後日追記終わり。復習の為に上記の2023年6月18日の、邪馬台国はどこにあったか(その18.3)まとめの見直しR4年度ついでに魏志倭人伝と古事記日本書紀の関係 | 日本を征服だ! - 楽天ブログ (rakuten.co.jp)を見てもらうと分かるが、多くの学者が事実と認めている不彌國までの行程の後、(ここからは僕の説だが)大宰府付近まで来ている筑後川の支流の宝満川を南に水行し、筑後川と有明海を10日間水行後に、熊本県の八代かまたは水俣で上陸して、九州山地を1か月かけて進めば宮崎県小林市に着く。九州山地は険しいが、たとえば八代からならば球磨川沿いに進めば川沿いはなだらかである。球磨(人吉)やえびのを経由すれば山越えとなる部分は少ない。また、その経路上に「女王国の北側の国々」を想像させる地名が今でも残っている。(6月18日のブログを参照願います。)しかも、中国の使者は邪馬台国までは実際には行っておらず、倭人に聞いたまま書いており、陳寿は倭の奴国王の帥升が倭の南界を極めた(つまり倭を最南端まで征服した)時の記録を元に書いているので、帯方郡から不彌國までは北から南へ書いているのに、不彌国から女王国までは、女王国から北側に書いているのは、帥升が南界を極める際に通った経路だからだと分かるのである。それ故に帯方郡から女王国までの距離である12000里は、陳寿がわざわざそう断っているように、伊都国や不彌國経由の距離ではなく直接距離なのである。その場合、女王国の北側の国々は(女王国に属さない)狗奴国を含むことになるが、それは、陳寿が魏志韓伝とは違い、「倭条」ではなく「倭人条」としていることから、単に邪馬台国とそれに属する国々だけではなく、属さない狗奴国等についても書こうとしており、その理由は、狗奴国が帥升の時代までは「奴国の支配下にあった国」で、倭国争乱後に女王国に属さなくなったからだと思う。(6月18日のブログにも<さらに後日追記>として書いた。)僕は古事記や日本書紀は、その編纂にあたって各豪族達や地方の支族及び皇室内に残る文書や口伝を集めて、資料としたと思っている。その際に、あまりに古くて信頼性の無い資料は捨てようとしたが、どうしても大事なもの、例えば天皇家の始祖の話は捨てられなかったので、神話の形にしたのだと思う。いやしくも正史とするならば、天皇も御覧になるはずである。その際に「何でこの話は無いの?」とか「これは信じて良いの?」と言う話になる。その辺を解決する手段が「神話として書く」方法であり、それならば神話には何らかの隠れた事実が有ってもおかしくは無い。僕は「邪馬台国=宮崎説」が真実ならば、景行天皇やその父親の垂仁天皇の祖先は宮崎県小林市から奈良県へ来た人々であり、その事実が(うまく伝わらなかったので)神話になっているのだと思う。垂仁天皇は日本書紀には和名を「活目天皇(いくめのすめらみこと)」と書かれている。宮崎市には「生目古墳群」がありそれは禊(みそぎ)池=伊弉諾尊が天照大御神を生んだ場所と高千穂峰を結んだ線上にある。魏志倭人伝の女王国の「官」の名前は「伊支馬(恐らくいきめ)」である。この3つの「いきめ」には何らかの関係が有りそうである。また魏志倭人伝に書かれた投馬(恐らくはとぅま)國の「官」は「彌彌(恐らくはみみ)」だが、宮崎県は明治時代までは美々津(みみつ)県と呼ばれており、西都原には「妻(つま)」と言う地名が残っている。美々津を彌彌(みみ)の津(みなと)と考えれば西都原古墳群は投馬國の王族の子孫の墓では?古事記や日本書紀にはさらに連想される記述が有る。例えば「神武東征」そのものは神話であるが、何らかの似たような話は有ったのだろう。「トンビが光った」くらいで戦に勝てるはずは無い。しかし、大阪に上陸した際には一敗地にまみれた神武天皇が熊野に迂回したのは、恐らく尾張に味方を求めたからであろう。高倉下(たかくらじ)などの話である。八咫烏と言うのは大和付近の土地事情に詳しく情報通の忍者的な一族だろう。「尾の有る人」がたくさん出てくるのは、神武天皇達と刀の持ち方が違い後ろに下げた人達、「ふつのかみ」や「たけみかづち」を祀る神社が関東に有るのは、彼らは九州から来たのではなく、尾張の要請で加勢に来た関東の一族だからだろう。そう考えると実は「神武東征」は現実的な話なのである。國譲り前に天照大御神を裏切った「天若日子」は美濃の藍見の喪山で亡くなっている。島根県の出雲ではないのである。多分、藤原家には都合が悪いので、全て消されているが尾張には大きな国が有ったのである。僕はそれは「日高見の国」であり、名古屋の「断夫山古墳」はその首領の墓だと思う。ヤマトタケルの奥さん、宮簀媛(みやずひめ)のお父さんの墓かもしれない。彼女の住んでいたお父さんの館は「火上山(氷上山とも言う。ひかみはひだかみに通じる)」にあった。そして、帥升時代には奴国に従っていたのに女王国には従わなかった狗奴国の王は、卑弥呼=天照大御神とすると、弟の須佐之男命で、奴国の覇権争いが倭国争乱なのかもしれない。古事記や日本書紀に書かれた神話は魏志倭人伝につながっているのではなかろうか?
July 9, 2023
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