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2023年9月26日のブログのコメントのやり取りで、やまさんに約束したのでトラッキング調整用発振器を作ってみた。6石スーパーラジオや7石スーパーラジオを作った場合、近くに電波の強い放送局が無いと、ラジオはちゃんとできているのに放送が見つからなくてラジオ作成に失敗したと勘違いし、バリコンのトリマーやOSCコイルの赤いコアを無駄にいじくったり、特に残念な結果になるのが黄色、白、黒のIFTコイルをいじくってしまい、かえってダメな方向になってしまうからである。IFTは事前に調整しているのでいじくらない方が無難なんだが、心理的に不安になるとどうしてもいじくってしまい、暗黒の世界に陥ってしまう。僕が中学生の時には「技術家庭科」と言う授業があり、その中で電気のことを習った。他にも本立てを作ったり、ホウレンソウ炒めやみそ汁を作ったりして、自分で造った本立ては大人になっても使っていたのだけど、あれは今はどこにあるのだろう?その中でラジオの原理も習った。例えばスーパーヘテロダインラジオの原理。この時に何で「中間周波数」に変換するのかとか、検波の原理を知った。そして「ラジオは作っただけではダメでトラッキング調整をしなければならない」と習った。多分、今の若い人は「トラッキング調整」って何か知らない人が多いのではないかと思う。ラジオを作った際にはまずは回路図とプリント基板を眺めて部品のチェックをする。でも、最初は抵抗やコンデンサーは特殊な記号や色で管理されているので分からない。「103」と書いたコンデンサーが0.01µFだと分かるのは相当に慣れてからだし、抵抗のカラーコードは難しくて、技術家庭科の先生はよく試験に出した。こんなの覚えても社会に出て使う機会はないのに迷惑な話である。でも僕等には確実に点数が取れる問題なので勉強した。だって毎年出るんだもの。部品チェックが終わったら、電源を入れてみる。でもこの時には、実は電流チェック用ランド部分が接続されておらず、このランド部分にテスターをあてて、流れる電流チェックをしてからランドを半田で埋める。電流のチェック後本来ならば弱い出力かもしれないけれど放送を受信できるはず。でもトラッキング調整前なので音が小さい。東京ならばニッポン放送なんかが入るが、地方で放送局が遠いと分からない。その時に習った「トラッキング調整」要はラジオの感度調整が必要になる。大人になった今ならばその意味とやり方は分かるんだけど、中学生の僕には分からなかった。もしかすると都市伝説で本当は違うのかもしれないけれど、NHKは第一放送と第二放送が各地方でMWバンドの上端と下端に有り、これは「公共放送であるNHKが地方の電気屋さんがラジオ修理をする際に使う為」らしい。地方の電気屋さんなので測定器なんて持っていない。なのでNHKを使って調整するのである。IFT(中間周波数トランス)は工場で作る際に455kHzに調整済みだが、アンテナコイルやOSCコイルは一応調整はしているが、組立時の状況で浮遊容量等が変わるので、現地での調整が必要になる。それにNHKを使うのである。中学校の教科書に有ったグラフなんだけど、コイルとバリコンと周波数の関係が分かる。通常のANTコイルは630µHが多いので、630μHの例にしようかとも思ったが、今回はOSCコイルを製作するので330μHにした。ここでバリコンが0-80pF変化する物だとすると浮遊容量(基盤のライン等で発生する容量)の20pFを加えて容量は20-100PF変化する。するとOSC(局部発振)発振周波数は緑色の線になり980-2060KHzになる。受信周波数はこれから中間周波数455kHzを差し引いた525-1605kHzである。この時にOSCコイルやバリコンのトリマーを動かすとインダクタンスや容量が動き、受信周波数の範囲や値が変わる。これがトラッキング調整の第一段階で、測定器が無い場合はNHK第一と第二でこれを行う。これを見ると(都市伝説化もしれないが)NHK第一と第二がMWの上端と下端にある理由が分かる。受信周波数が定まると次は感度の調整をする。実はこちらを先にやらないと、そもそもNHK第一と第二が見つからない場合もある。トラッキングレスバリコンはこれをやらなくても良いようにANTとOSCの容量カーブを調整してあるので、ANTとOSCの容量が違うのだが、等容量バリコンを使う場合はANTとOSCで周波数が違うので、そもそもカーブは一致しない。なので大事な周波数(例えば好きな放送局)で最大感度にしたり、あるいはなるべく全体的に同じ感度になる(商品はどこで使われるか分からないのでこちら)ように平均化する。ちょっと作図が難しくて適当では無いかもしれないが、イメージはこんな感じ。これがトラッキング調整第2段階である。この調整がスーパーヘテロダインラジオの製作のだいご味で、調整すると感度が劇的に上がる。但し、その為には何らかの信号を受信して感度の上がり方を見ながら調整しなければならない。ところが地方の電気屋さんなんかは測定器は持っていないからNHKを聞きながらやるしかない。でも地方で放送局が近くに無いと、そもそもNHKを聞けないので調整できない。自信の無い場合は組立に失敗したと思ってしまうのである。それを解決する為の「トラッキング調整用発振器」を今回作ってみた。高周波発振回路はキリが良い周波数でバンドの中央に近い1MHzとした。回路はコルピッツ発振器やハートレー発振器も考えたが、使い慣れたAMラジオの局部発振回路をそのまま流用した。この1MHzを別に作った低周波で変調する。変調用の入力は上の回路図左端の「入力」。ここに増幅器付きのマイク回路をつなげばAMトランスミッターとしても使える。変調に使う低周波はトラッキングに使うので音声周波数が良いが、安定した低周波音を使う方が良く、また僕は耳が悪く高い音は聞こえないので400Hz近くにした。(ギターの調音に使う音叉は440Hzで低い「ラ」の音)回路はコルピッツ発振器やハートレー発振器は適当なインダクタンスの手持ちがなかったので、CR位相発振回路にした。最初はまずOSCコイルの作成。愛天堂のコイルキットを使った。これって慣れると(巻き数とインダクタンスの関係が分かると)便利。上の写真は見づらいかもしれないがブレッドボードはコイルの足とピッチが合わないので、抵抗の足の切れっぱしで延長足を取り付けている。ブレッドボードは愛天堂のチビのブレッドボードを使用した。大きなブレッドボードにいきなり高周波の回路と低周波の回路を作ると煩雑になるので、2つのブレッドボードに分けて作ると動作チェックが簡単になる。各々のボードが上手く動作したら、CR位相発振回路の出力を高周波発振回路の入力につなぐ。それで総合チェックする。プワーンと言う音がラジオから聞こえれば成功。よく教科書等で見る発振回路は変調していないから同調しても音がしないので、トラッキング調整用発振器としては使えないが、これならOK!これでうまく行ったので9月26日のブログで作った周波数カウンター付きラジオで聞いてみた。愛天堂の7石ラジオK-108B-2にラジオ周波数表示器きっと [K-M3610]を付けてみました。 | 日本を征服だ! - 楽天ブログ (rakuten.co.jp)特別にアンテナを付けなくても、結構強力な電波が出るので「空中線出力」でOK.このカウンター付きラジオは非接触型周波数カウンターとして使えるかも。高周波発振回路の出力波形はこんな感じ。ちょっと色々な定数が低めだったようで、OSCはコアを回すと800-1100kHzくらい変化した。CR位相発振回路の出力波形はこんな感じ。これが難解だった。CR位相発振回路の発振周波数はf=1/2π√6XCXRのはずなので、C=103(つまり0.01μF)とR=15kΩでやってみたのだが(予定では433Hzだった)全然違う周波数になった。そこでカットアンドトライと言うか我が家に有る抵抗とコンデンサーの中で組み合わせを変えて、何とかC=473(つまり0.047µF)とR=12kΩで上手くいった。(456.9Hzになった。)これをユニバーサル基板に実装した。oscコイルは足がユニバーサル基板とピッチが合わないので、斜めにすると上手くいきます。これで近くに放送局が無い地方でも、この「トラッキング調整用発振器」さえあれば、とりあえず1Mhzで最高の感度に調整ができるし、トラッキングレスバリコンのラジオであれば全周波数で感度が高くなると思います。最後に456.9Hzの低周波で変調された1MHzの高周波の波形をオシロで見てみた。なんか思ったのと違う!と言うか左下に表示された周波数が搬送波(1MHz)でも変調波(456.9Hz)でもない。何で?恐らく、オシロの周波数が、1MHzと456.9Hzではレンジで4つも違うので、同時に表示するのは無理なんだろうと思って、レンジを色々と切り替えてみた。上の写真では200µs/divだったのを500µs/divに切り替えたのだけどより変!ネットで調べてみたら、そもそもデジタルオシロは安物の場合、メモリーが少ないと予想通り両方を表示できないらしい。高級なオシロスコープが欲しいな。でもお小遣いが少ないので無理だろうな。
October 30, 2023
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今、横浜市金沢区の称名寺では横浜市が防災工事をやっている。横浜市は都会で住宅事情が厳しいので、山や丘を削って住宅を立てているせいで、切り立った崖が多い。横浜市ではないが逗子市ではマンションの立っている山の脇の道路が崩れて、数年前に女子高校生のお嬢さんが亡くなったことがニュースになっていたが、横浜市内にはその危険性が有る場所が山のようにある。工事中の写真を撮って来た。擁壁が無く、地肌が剥き出しである。雨が降って地盤がゆるくなったら、崖が崩れて下の住宅は壊滅すると思う。と言うか、確かそう言う崖の下に住宅を作るのは禁じられていたような気もする。法律ができる前から建っていたなら、「既存不適格」なので仕方ないのかな?でも、死んじゃったら既存不適格も何も無いから法律は守るべきだと思うんだけど。まぁ、多分そう言うわけで崖っぷちを改修しているんだと思う。そのこと自体は僕には無関係なんだけど、工事計画の看板を見て驚いた。この山「前方後円墳」じゃん!この地図である。等高線を見ると見事な形をしている。自然の山がこんな奇麗な形をしているわけがない。どう考えても人工的に前方後円墳の形状に形を整えていると思う。横浜市の教育委員会は知らないのかな?と言うか、ここは「周知の埋蔵文化財包蔵地」だと思うんだけど、(例えばすぐ近くに「称名寺貝塚」が有る。)法律に有る土木工事に伴う調査ってやったのかなぁ?しかもその麓には、僕の理論通りにお寺(多分元は神社)が有る。僕の理論とは、神社のうち古いものは、元は古墳つまり地元の豪族の墓を守る建物で、概ね古墳の麓には何らかの形で神社が残っている。但し、仏教が伝来して朝廷が国の宗教として認めた際に神社は寺に変えられて、三浦半島ではそれに抵抗した勢力(多分三浦氏)がおり、三浦半島のお寺には「注連縄が飾ってあったり」、場合によってはお寺の本堂の前に「狛犬が居る」のである。最初に見た時には驚いた。で、この古墳?の麓には「大宝院」が有る。これも僕の理論通りに「観音堂」がある。何故か分からないが元神社のお寺は「観音堂」になりやすいみたい。大宝院は札所三番大宝院は称名寺塔頭の一つで称名寺境内の右側の小道を入ったところにある。本尊の聖観音は、かって金沢文庫に展示された折に、足の裏から二枚の木札が出てきて、その墨書名から延宝8年(1680)に修理されていることがわかっている。室町時代には称名寺二代目住職釼阿の弟子で四代目住職の実真の隠居所になっていた。この頃は、北條氏はすでにほろび、関東公方だった足利基氏の代官の庇護で寺領をいただき、同時に関東公方の祈願所になっており、金沢大宝院として独自性を保った寺院だったことが、新編武蔵風土記稿に記載されている。江戸時代になると称名寺の塔頭の一つとして徳川幕府の保護のもとにあり、本尊聖観音立像は観音堂に安置され、所願成就の金沢札所第三番霊場として賑わっていた。明治の廃仏毀釈で一時廃寺となったが、明治30年(1897)伊藤博文が横浜の平沼専蔵に出資させ、ここに金沢文庫閲覧所と書庫を作った。大正12年(1923)関東大震災で倒壊した。 その後、当時の庫裡の一部を本堂に転用し、聖観音を安置していたが、平成23年頃、聖観音は称名寺に保管、現在は誰も住んでいない老朽化した建物が残っている。現地の様子。え?肝心の観音堂が見当たらない?御心配なく。左手の茂みの中に隠れていました。ただ、写真で見るとまだ大丈夫そうに見えるけれども近くで見ると今にも壊れそう。敷地の中には、今は住職はいるけれど無住なので入れない。門の外に縁起を書いた板が置かれていた。うーん、読めない。住職も何とかしたいのだろうと思うけれどもお金がないんだろうな。教育委員会がなんとかしてあげれば良いと思うんだけど。そうそう、古墳?と思う山と大宝院及びこの後に行く予定のやぐらの地図を載せる。大宝院の上に見える原っぱの下から称名寺のハイキングコースが有るので、そこから古墳?の山に登れる。上の工事計画案を見ると載っているので参照に。ただ周囲は崖っぷちなので相当に危険。なので登るならば自己責任で。古墳?のくびれ部分から円墳部に向かうと、円墳部は少し高くなっておりいかにも古墳らしい。周囲が崖っぷちなので、登るならば自己責任だが、都会のど真ん中で古墳に登れるのはうれしくて興味津々。ただ、自力で掘削できるはずもないので、想像にしかすぎないが、この石なんか石室の一部が地上に現れているのではないかと思えて仕方ない。三浦半島は元は海底で、それ故に岩は砂岩が多いのだが、これは火山岩。つまりこの付近の石ではない。他所から持って来た石。なのでそう思うのである。ただ、自力ではどうしようも無いので、今は妄想でしかない。古墳?を降りると本日のメインイベントのやぐらに向かう。前にも見に来たのだが、その時は称名寺裏山のハイキングコースを歩くのがメインで、疲れていたので、今回再度確認に来たのだ。前の時には「金沢町」の地名の由来が、通説は「畠山重忠が釜利谷に秩父から製鉄関係の職人を連れて来た」のが由来なんだけど、北条氏は畠山重忠を滅ぼした張本人であり、その畠山重忠の事績を元に金沢の地名をつけて「気持ち良い」だろうかと思ったので見に来て、今回再度調べて、それは武士として恥ずべき行為であり、無いなと再確認した。恐らくもう一つの「この辺は掘ると金気=多分古墳の出土物が出る」のが金沢の由来だと思う。横浜市金沢区わの会一人ぼっちのイベントに参加しました?(その1)称名寺裏山の散策 | 日本を征服だ! - 楽天ブログ (rakuten.co.jp)それは上記の古墳?だけではなく称名寺付近には「大塚」と呼ばれた恐らくは古い古墳や、これから行く「やぐら又は修法壇」が有るからである。<後日追記>金沢町付近が畠山重忠の領地だったのなら、それで良いのではと言う人もいるので、それはあり得ないことを証明する。1.まず仮に畠山重忠の領地だったとしても、北条氏が畠山重忠を滅ぼした段階で、 彼の事績に基づく地名を残すことはあり得ない。 平和な現代とは違い生死を争う時代なので、そんな優しさは無い。2.和名類聚抄によれば鮐浦は久良岐郡の一部とされており、畠山重忠領ではない。 (鮐浦は六浦の古名。誤って鮎浦と理解する人もいるが、 「鮐」をよく似た字の「鮎」と勘違いしただけ。 このことは新編武蔵野国風土記にも書かれ「あゆ」ではなく「ふく」であると書かれている。3.新編武蔵野国風土記には、かってここは将軍家の領地であったと書かれている。 北条も足利も将軍ではないので、明らかに源氏のことであり、 恐らく金沢八景や弘明寺に頼朝や政子の事績が残っているのはそれが原因だと思う。 新編武蔵野国風土記の該当部分を載せる。 左側部分である。画像の上で右クリックして出るメニューから「新しいタブで画像を表示」で 別のタブで拡大して読めるので参考に。4.畠山重忠の事績が残っているのは「釜利谷」であり、新編武蔵野国風土記にも書かれた通り 釜利谷と金沢町は古来はっきりと分かれている。 もし畠山重忠の事績が原因ならば、釜利谷の方が金沢町になっていたはずである。つまり畠山重忠が金沢町と名付けたり、彼の事績が原因で地名がついたと言う可能性は無い。称名寺本殿裏には広い草原(くさはら)があり、湿地帯になっている。そこに「古墳の造出」らしき部分が有る。手前のスロープを見るとどう考えても人工物であり、奥にやぐら又は修法壇があるので、恐らくはここは祭祀の場であり、元は古墳の造出(つくりだし)だったのだと思う。造出は古墳の円墳部と方墳部の境目のくびれ部分に作られた出っ張りで、古墳では古い時代では方墳部で祭祀が行われていたが、古墳の大型化と共に方墳部が大きく高くなったせいで、祭祀の場を麓につくるようになり、例えば今城塚古墳(継体天皇の墓)では、ここから祭祀物が出土している。名古屋の断夫山古墳の例を載せる。今城塚古墳(継体天皇の墓)の例も載せる。6と7の部分で「儀式の場」と書かれている。画像を右クリックして出るメニューで「新しいタブで画像を開く」と別タブで大きくできる。この造出のすぐ上にやぐら又は修法壇が有る。色々な史料では、これを「やぐら」と書いており、僕も最初はそう思ったが、本当は、この称名寺裏山は元は古墳で、このやぐら又は修法壇はその部下の陪塚だったんじゃないかと思う。それが荒らされて穴だけになっていたのを、鎌倉時代に再利用されてやぐらとなり、さらにそれが称名寺ができた際に廃止されて、修法壇として利用されたのだと思う。何故そう思うかと言うと、場所と形状が鎌倉の瑞泉寺の書院庭園と似ているからである。わの会で瑞泉寺に行った際の記録を参照。横浜市金沢区わの会22回目のイベントに参加しました。鎌倉宮と瑞泉寺 | 日本を征服だ! - 楽天ブログ (rakuten.co.jp)もしこの称名寺裏の湿地帯の草っぱらが元は池だったならば、(元が池だったので今でも湿地帯になっている?)本堂の裏に池が有り、その向こう側にやぐらが有ると言う構図が瑞泉寺と全く同じである。そして瑞泉寺のやぐらが(今の人は誰もそうは言わないけれども)修法壇であったならば、宗派は違うけれども、称名寺は真言宗(密教)なので修法壇が有ってもおかしくはないなと思う。称名寺は北条実時が六浦荘金沢の屋敷内に建てた持仏堂から発展が起源とされている。実時の孫・貞顕の時代に三重の塔を含む七堂伽藍を完備した大寺院として全盛期を迎えた。実時の持仏堂はどこにあったのだろう?当時の墓は(火葬にした場合でも)北条政子や実時のやぐらがそうであるように、やぐらの中に五輪塔を立てて死者をやぐらに祀っていた。持仏堂なので違うかもしれないけれども、もしかしてこの石室を再利用したやぐら又は修法壇が実時の持仏堂だったんではないだろうか?称名寺の本堂のま裏で(もし草っぱらが池だったのなら)位置関係が適切なので、(上の方のGoogleMapを見ると見事に本殿のま裏であり、意識して本殿を造ったと思える。)このやぐら又は修法壇が実時の持仏堂だったような気がしてしょうがない。位置関係が良すぎるもん。
October 25, 2023
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PanasonicのFZ-B2をヤフオクで買いました。FZ-B2は2014年10月に発売された7インチの「TOUGHPAD」の後継機で、150cmの高さから落としても大丈夫と言う僕ら工事現場の人間には評判のタブレットだった。しかも6面でそれをクリアーしている。150cmと言うのは要は僕の身長が170cmだから持っている状態からならば、どんな風に落としても大丈夫だということ。工事現場向き!携帯でも落とし方によっては大丈夫だが、6面は無理。たいていガラス面はヒビが入る。買ったFZ-B2はこんな感じ。もういかにも現場のおっさんが持ってそうな感じ。ただこれは2016年に発売されたMk2なので大幅に性能U'Pしている。CPUはCeleronN2930からATOMX5-8550になり、ベンチマークはおよそ1.3倍!カメラは200万画素から800万画素になり4倍!さすがMk2。使ってみると速くて軽い。タブレットも進化したなぁと思う。でもパソコンゲームをするのには重い。カクカクする。でも7インチのタブレットでパソコンゲームをするバカはいないと思う。携帯用のゲームはさくさく動く。なのでOK!で、買った一番の目的は古墳等の探検に行く時の携帯用。カメラが800万画素しか無いけれど、800万画素って3264×2448程度普通のカメラと変わらないしLEDライトが付いている。僕の携帯は1600万画素なので、その方が機能は上だが落として壊したら大損害。これは落としても壊れないし防水。水の中でもOK。強者はお風呂の中で使うらしい。なので山の中で古墳を探す場合には強い味方である。おもちゃとして考えれば133円(税込み)は安いなぁ。
October 17, 2023
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10月8日のわの会は追浜の浦郷を巡る会でした。ここは三浦半島のつけ根で金沢八景も近く、たくさん寺社が有ります。かって浦郷には榎戸湊が有り、榎戸湊は海上交通の要衝として鎌倉時代から栄えた地でした。鎌倉は砂浜なので港が造れず、北条泰時は和賀江島(人工島)を造り港としようとしましたが、当時の技術ではなかなかうまく行かず、ここから六浦が鎌倉の外港として使われました。今回の寺社巡りは三浦三十三観音の第二十二番札所である観音寺をメインとし、そこへ至る道「観音道」を歩く。ルートはこんな感じ。例によって図を右クリックして出るメニューから「新しいタブで画像を開く」を選ぶと、別のタブが開き画像を拡大できます。追浜駅を出て直進し、右へ曲がると雷神社古址があります。もう何回も来ましたが、雷が落ちたと言われるびゃくしんの木はちょっと不思議です。写真には写っていませんが左手に由来を書いた石碑が有り、永禄2年(1559年)この木に落雷し、木は黒焦げになったのだけれども居合わせた女性12人は無傷で助かったのはこの木のお陰と、雷神社が一時ここにあったのだそうだ。500年近くも残っているびゃくしんがすごい。ここをさらに奥に進んで行くと正光寺がある。御本尊はこんな感じ。このお寺自体はごく普通の浄土宗のお寺なんだけど、久しぶりに浄土宗の紋を見た。「月影杏葉(つきかげぎょよう)」七蕊(しん)である。僕の実家は浄土宗でお寺さんも浄土宗なので子供の頃に見たことがある。法然上人がお生まれになった漆間家の紋杏葉に、宗歌・月かげの月を配したものなのだそうだ。どこの宗教でもそうだけど、内部でごたごたしていて、同じ浄土宗の紋でも周囲の月輪が無いお寺さんもある。ここは正統派みたい。正光寺を後にして、自得寺へ行く。開山の聞叟玄令和尚は鎌倉五山の一つ浄智寺の住職の明僧別伝禅師の弟子である。寺宝の木造十王座像は横須賀市指定重要文化財である。上の写真は横手に置いて有ったかっての主棟鬼飾りである。お城で言えばしゃちほこみたいな物。この付近のお寺にはこれを飾っている所が多い。何故?次は豊海稲荷へ行く。ここの周囲にはやぐらがたくさん有る。写真右はそのやぐらを「物置」に使っている。罰当たり!自分に都合悪いので「やぐらではない」と主張する。そのうちに後悔するだろう。僕の理論だけれど、やぐらの前身は地域の人達の横穴墓で、鎌倉時代に仏教と習合したもの。なので、お墓にゴミをかぶせているようなものであるから、自分達の御先祖を汚している。そして(細い山道を歩いて大変だったけれど)観音寺に着く。観音寺には木造十一面観世音菩薩立像が有るのだが無人で物騒なので閉鎖され見学はできない。ガイドさんに写真を見せていただいた。ここで上の写真を見ると、前述の豊海稲荷の周囲のやぐらについて書いたように、こういう地域の寺社は古くは地元の偉い人の墓を祀ったもので、仏教が日本に伝来して国教になった際に習合したものだと分かる。つまり元々は神社だったのであろう。本堂に(観音堂なのに)注連縄がかかっている。つまり元は神社だったのが、仏教に負けて観音堂になったのである。その上に観音様の前に「鏡がある」。神社みたい。だいたい観音様の前に「鏡がある」のは変だと思うが、三浦半島ではこれが普通。鏡は恐らく仏教伝来前の「神様の時代」から伝わるもの。それが観音様と仲良く並んでいるのである。なお、この本尊十一面観音像は元は九州日向の国に祀られていたものだそうだ。それがある人の夢枕に観音が現れ、「有縁の地に行き衆生の災難を除き難産を救い子育ての観音として衆生を見守りたい」と告げられたので東国に向かい、深浦の地で難破して、ここがお告げの地として、岩窟を掘り観世音を祀ったのだそうである。「やぐら」じゃん!それにしても僕の理論、この三浦の地には九州から海人族が進出し住み着いた。そのせいで、横穴墓の風習が三浦半島には多く、仏教伝来時には仏教化に抵抗して、神仏習合では無くて神仏混淆として、神社とお寺のあいの子のようなお寺がたくさんできたと言う理論に合うなと思う。ここから降りて行くところに庚申塚が有る。三浦半島には庚申塚が多いなぁ。それに「見猿・言猿・聞猿」がいる。庚申塚の原理とちょっと矛盾するような気もするけれど、これも三浦半島には多い。僕は徳川家康も、本人が生まれたのは岡崎だけど、本人が自称するように源氏の家系で、祖先は関東じゃないかと思っている。なので、日光東照宮には三猿が有るのだと思う。瀬戸神社裏の東照宮もそのせいだと思う。本当に秀吉から江戸への移封を命じられた時にイヤだったのならもっと抵抗したはず。それが案外、仕方なくも有るけれど江戸に住み着いたのは父祖の地だからではないか?何の根拠もないけれど、そんな気がする。家康は源氏の子孫なのでは?観音寺の山から下りて次は能永寺。能永寺には十王信仰にかかる地蔵十王図があり、横須賀市指定重要文化財になっている。但し見られないので、ガイドさんが写真を見せてくれた。写真下。能永寺の前は今は内陸だが、鎌倉時代には海で榎戸湊が有り、鎌倉の外港だった。明治期まで海運に使われていたらしい。また海辺だったせいかもしれないが、寺の裏手は縄文時代後期の貝塚の跡があり、写真下のようなもりや釣り針、そして写真には無いが、土器や土偶が発見されている。やっぱりそうだよなと思う。集落が突然できるものではなく、昔から有った集落がだんだんと大きくなるのだと思う。三浦一族はこの辺に住み着いた海人族の子孫で、その豪族の娘が京から来た三浦氏と結びつき、地域の大豪速三浦氏になったのだと思う。なおここ能永寺にも自得寺と同様に主棟鬼飾りが飾ってあった。宗派も違うのに何で同じように飾ってあるのだろう?三浦半島には多い。ここで気がついた。え?三浦の紋(丸に三本線)とは違う。折敷に三文字。独自の紋だ。これは三浦の紋ではなく、一遍上人の生家河野家の家紋である。そうなのか。次は正観寺。境内には薬師堂が有り、榎戸薬師と呼ばれている。智証大師が諸国修行の折に走水から榎戸湊に上陸した折に、風光明媚なこの地が有縁の地としてここに庵を結び、薬師堂の薬師如来は大師の作と伝えられている。また、境内には「ヘビノネゴザ」と呼ぶ貴重なシダが自生している。最後は独園寺。ここでも僕の理論。三浦氏の祖先は海人族と言う証拠の一つ「蛭子」神が飾ってある。見た目は「恵比須」様だけど、本来は「蛭子神」だったのだと思う。全国各地に伝わる「海から流れ着いた神様(又は仏様)」と言うのは海人族の名残だと思う。それが金沢の地はその土地の成立から(海人族の痕跡が多く)、各寺社に蛭子様がいるのだと思う。他の土地では考えられないもの。わの会はこの先のニッサン傍で解散したが、せっかくなので僕は足をのばし、夕照橋近くの野島公園(室の木)へ行った。ジープ山の見学である。ジープ山は可哀そうに(海軍に?)削られてしまっているが、航空写真で上空から見ると前方後円墳の形状をしている。散々に壊されて跡形も無いので、誰も信じないが、すぐ隣には室の木遺跡が有ったので、近隣のこの山も同様な古墳だったのではないかと僕は思う。上の図のジープ山と室の木遺跡は(この地図が昭和初期で破壊前なので)きれいな古墳形。室の木遺跡と言うのは千葉や磯子にも同名の遺跡が有る。いずれも海沿いの場所だが、古くからビャクシン科の「ねず」が「むろ」と呼ばれたようであり、砂地や花崗岩地帯などの地味の痩せた土地に自生し、幹は直立して高さ二~三丈に達するという。「社松」の語が暗示するように海岸地方に自生する「ねず=むろ」は海民にとっては神の天くだる「寄りしろ」であり深く崇敬された。その木が有るので「室の木」だったのであろう。つまり海人族の歴史で有る。何も残っていないじゃんと言う人もいるかもしれないが、単に金沢区の怠慢である。それはすぐ後に10月11日に関東学院に行って分かった。図書館に室の木遺跡から出た「縄文時代前期後半の土器」が飾ってあった。こんなの誰も知らないじゃん!しかも同じ図書館の中に「室の木遺跡発掘調査資料」が生のままで置いて有った。図書館の人に聞くと忙しくてまだ整理ができていないそうである。こうして歴史上の大事な物は失われて行くのだと思う。逗子の長柄桜山古墳群は国指定の前方後円墳で有名だけど未だにブルーシートに覆われている。国指定で全国的に有名な前方後円墳でさえもそうなんだから仕方ない。で、そんな大事な室の木遺跡が近隣に在って形状が(今では壊れているが)前方後円墳なので、僕は何か残っているのではないかとヒマな時には見に行くのである。緑の線が削られる前の形状だと思う。昭和初期の前掲の地図ではお団子二つだが、これも1500年もたったものなので、その前は緑の線。そして今回思ったのだけど、前はやぐらだと思っていた四角い穴は、一時期はやぐらの時期も有ったかもしれないが、その前は石室だったのではないか?何故なら、位置が高いから。後世の人が作った穴ならば、作業効率や完成後の使用の際の便利さを考えれば、位置が高すぎる。元が古墳に伴う石室で方墳部に有った物が(盗掘などの際に)壊れて、それが(別の所に使う為に)石を取って、石が無くなったのでこんな形状になったのではないか?そう思った。山の側壁を見ると、この辺に多い砂岩の層別が観測されるので、その上に石室を作ってさらに上を土で覆っていたのだろう。それが石室を除いたので土は崩れ、だんだんと壊れて今の形になった。多分そうじゃないだろうか?金沢区の教育委員会の人に解明を期待したい。
October 12, 2023
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邪馬台国宮崎県小林市説を検討する為に色々な本を読んでいたら、大平裕氏の「天照大神は卑弥呼だった」と言う本を見つけたので読みました。まぁ多くの邪馬台国関連本同様に非論理的な「答え合わせ理論」です。「答え合わせ理論」とは僕の作った言葉で、学者先生が落ちいりやすい偏った証明方法です。どういう事かと言うと、まず思いついた結論から、「この説が正しいのならこうなるはずだ」と言う証拠を考えて、それに合う証拠を探し、見つけたらそれを補強する証拠を探して、「やっぱりこれで正しかったのだ」と結論付ける方法です。そのこと自体は、ある意味正しいのですが、これは刑事事件で言うと「状況証拠だけで殺人事件を解決する」方法です。状況証拠は外堀を埋める方法で、外堀が有るからと言ってその内側に城があるとは限りません。例えば外堀の内側には、実は内堀が有り、外堀と内堀の間に有る櫓(やぐら)を探しているだけかもしれないのです。つまり城を探していることにはならないのです。状況証拠だけでは城を探していることにはなりません。と言うと何を言いたいのか分からないと言う人も多いので、高校の教科書に載っている論理学を使って説明します。今、A→Bが正しいとします。この時に「詐欺にあいやすい人」は、B→Aも成立するのだと勘違いします。このB→Aは「十分条件」としては正しいのですが、「必要条件」ではありません。単なる逆命題で、論理学的には誤りです。この必ずしも正しいとは限らないが正しいように思えると言うのが状況証拠です。高校の教科書では、はっきりと「逆は必ずしも真ならず」と否定しています。やっぱり聞いても分からないと言う人の為に具体例で書きますと、魏志倭人伝に書かれた卑弥呼の居た時代は3世紀中頃なので、卑弥呼の都は3世紀中頃に有った。これは正しいと思います。(A=卑弥呼の都、B=3世紀中頃に有った)しかしその逆は成立しないのです。例えば、纏向遺跡は3世紀中頃に作られた遺跡である。だから卑弥呼の居た都だ。これは成立しません。(B=纏向遺跡は3世紀中頃の遺跡、A=卑弥呼の都)これは下の図で容易に分かります。Aの中の要素は必ずBにも含まれるのでA→Bは成立するが、Bの中の要素はAに含まれる①も有るが、②のようにAに含まれないものがあるので、B→Aは成立しないのである。つまり魏志倭人伝の時代つまり3世紀中頃に邪馬台国だけしかなかった場合は、纏向遺跡は邪馬台国の都と言えるのですが(①の場合)、もし邪馬台国以外の国が有った場合は、纏向はその国の都かもしれないのです(②の場合)。邪馬台国以外の大きな国と言えば、狗奴国は魏志倭人伝に載っていて確実に有ったので、(僕はそんなことは無いと思いますが)纏向が狗奴国の都だったとしてもおかしくはないのです。いや邪馬台国が一番大きかったので邪馬台国だと頑張る人もいるでしょうが、現に卑弥呼は魏に助けを求めている、つまり狗奴国は邪馬台国同等に大きかったのだと思います。ですから纏向が3世紀中頃の遺跡だったとしても、邪馬台国の都である証拠にはなりません。いや三角縁神獣鏡神獣鏡がある。景初3年と書いてあるからに魏からもらった鏡だ。それも纏向=邪馬台国の都説と同様です。A=卑弥呼がもらった鏡は景初3年頃のものだ。B=だから卑弥呼の鏡は景初3年と書かれている。A→Bこれが正しいとしても、纏向=邪馬台国の都説と同様に、逆命題を考えると、B=景初3年と書かれた三角縁神獣鏡神獣鏡が有る。A=だから三角縁神獣鏡神獣鏡は卑弥呼の鏡だ。B→Aは成立しません。景初3年と書かれた鏡には、卑弥呼の鏡以外の場合(簡単に言えば国産鏡)が有るからです。現に三角縁神獣鏡は中国からは1枚も出土しておらず、三角縁神獣鏡を有名にした「黒塚古墳」では、枕元には「画文帯神獣鏡」が置かれて大事にされ、三角縁神獣鏡は辺りにばらまかれて、粗末に扱われています。つまり三角縁神獣鏡も証拠にはなりません。これらが僕の言う「答え合わせ理論」です。まず最初に纏向遺跡が邪馬台国だと仮定して、纏向が邪馬台国の都ならば、どういう証拠があれば良いかと考えて、纏向遺跡のできた時代は3世紀中頃に違いない。おー!やっぱりそうだった。正しい。卑弥呼のもらった鏡には景初3年と書かれているはずだ。おー!書かれた鏡が有った。それを証拠だと思ってしまったのです。でもこれは状況証拠であって、例えば刑事裁判ではそれだけでは犯人の特定はできません。話は最初に戻って、大平裕氏の「天照大神は卑弥呼だった」もほとんどがそうです。但し、大平裕氏は相当に勉強しています。記紀を始めとした資料は詳しく解説しているし、九州の地理には相当に詳しいです。あちこちに実際に足を運び研究したようです。なので、僕的には邪馬台国北九州説の否定の為の資料には使えます。大平裕氏の「天照大神は卑弥呼だった」の副題も「邪馬台国北九州説の終焉」ですから。大平裕氏は邪馬台国北九州説に対して感情的なくらい攻撃的です。特に安本美典氏に対する議論は激しくて、ケンカでもしたのかと思うくらいです。例えば大平裕氏は国譲りについて、北九州から(島根の)出雲を攻めるのは無理が有り、東側から攻める方が正しいと説きます。まぁ、確かにそうかなとは思いますが、これは完全に「答え合わせ理論」です。まず国譲りの場所が島根の出雲であると言うのが仮定条件だし、国譲りに際して北九州から島根の出雲に攻め上ると言うのも条件です。そもそも北九州に邪馬台国が有ったと同時に、北九州や近畿以外に邪馬台国候補が無いからこの2つを比較すると言うのが絶対条件です。南九州邪馬台国説や阿波邪馬台国説は全く考慮しない(僕も阿波説は無理だと思うが)のです。この3つの条件の仮定のどれかが誤りだったならば、何も証明していないことになります。国譲りの場所が島根の出雲であると言うのは現代の歴史学の通説なので良いかもしれません。でも僕は違うと思っています。大国主命は記紀を読むと、越の奴奈川姫を娶った後に大和を目指したと書いています。 (『古事記』では出雲国(今の島根県)の大国主命(おおくにぬしのみこと)が 沼河比売(= ぬなかわひめ?)に求婚に来た、とあり、 また、『出雲風土記』では天の下造らしし大神(大国主命)が 奴奈宜波比売(=ぬなかわひめ?)の命と結婚して御穂須々美(みほすすみ)命を生み、 この神が美保に鎮座していると記されています。)つまり大国主命は国譲りの際に島根の出雲に居たのではなく大和に居たかもしれません。国譲りの有った場所は古事記では「出雲国の伊那佐之小浜」であり、日本書紀では「出雲国の五十田狹之小汀」です。島根の出雲の「稲佐の浜」とはどこにも書いていません。島根の出雲の「稲佐の浜」は弥生時代までは「縄文海進」のせいで海の中です。恐らくはこの頃には大国主命は大和に着いており、そこに新しい出雲を築いていた。そこは今の奈良県宇陀市の「伊那佐山」のふもとの芳野川のほとりの八咫烏神社付近です。この時代の「小汀」は海の浜だけではなく、川の砂浜もそう呼ばれたようですから、ここが「出雲国の伊那佐之小浜」だったのでしょう。ただ、僕のこの説は「答え合わせ理論」でしかなく、証拠にはなりません。正しい証拠を見つけるのは難しいなぁ。1700年もたつからなぁ。ただ、古事記ではスクナヒコの神が去った後にこれからどうしようと途方にくれた大国主命の前に新しい神(実は大国主命のもう一つの姿)が表れて助けてくれます。古事記には次のように書かれており、大国主命は御諸の山(三輪山)に祀られたことが分かります。 ここに大國主の神愁へて告りたまはく、「吾獨して、如何かもよくこの國をえ作らむ。 いづれの神とともに、吾はよくこの國を相作らむ」とのりたまひき。 この時に海を光らして依り來る神あり。その神の言りたまはく、 「我が前をよく治めば、吾よくともどもに相作り成さむ。 もし然あらずは、國成り難けむ」とのりたまひき。 ここに大國主の神まをしたまはく、「然らば治めまつらむ状はいかに」 とまをしたまひしかば答へてのりたまはく、 「吾をば倭の青垣の東の山の上に齋まつれ」とのりたまひき。 こは御諸の山の上にます神なり。つまり、大国主命は越の奴奈川姫を娶った後に大和の三輪山の近くに居たのです。(倭の青垣の東の山=御諸の山=三輪山です。倭の青垣とは奈良盆地を取り巻く山々で、 古事記の中では何回も出て来ます。)あくまでも神話ですが。(国譲り自体が神話だから信頼性は同じようなもの?)北九州から島根の出雲に攻め上ると言うのも相当に無理が有ります。大平裕氏ほどの人ならば当然知っておられると思いますが、大国主の奥さんはたくさんいますが、多紀理毘売命(たぎりびめのみこと『日本書紀』の田心姫命『播磨国風土記』の奥津嶋比売命)は須佐之男命の娘で宗像三女神の長女です。宗像の奥都島(おきつしま)に鎮座しています。つまり北九州の首領と大国主命はごく近い親戚なのです。また、出雲大社(過去には杵築社)の大国主命は正面を向いて座っていません。(これは有名な話です。)どちらを向いているか?宗像の方角、つまり多紀理毘売命の居る方角です。島根県の人は「稲佐の浜」の方角を向いていると主張するでしょうが、「稲佐の浜」は大国主命の時代には海の底ですし、そちらを向く理由が有りません。自分を祀ってくれる人を無視してまで西を向くのは、それなりに理由があるはずです。自分の祖先の地で奥さんが居る宗像の方を向いているのでしょう。つまり北九州の勢力が出雲を攻めると言う条件もありえないのです。(証拠が無いので単なる妄想でしかありませんが、 そう言えば出雲の祖である素戔嗚尊(スサノオノミコト)は姉の天照大御神とケンカして、 高天原を追われたんだよなぁ。 卑弥呼が天照大御神ならば、 出雲の大国主命の祖先である素戔嗚尊が宗像に居て、 そこを追いだされて出雲の国に行ったとしてもおかしくはないなぁ?)最後の北九州と近畿以外にに邪馬台国が有ったと言う仮定に至っては、ほとんど非論理的です。答え合わせ理論の最大の欠点ですが、自分の答え(及び対立候補)以外は全く目に入らない、そんな無茶苦茶な議論からスタートするのは論理的に変です。これこれこういう根拠でここが邪馬台国だと言う主張ならまだしもですが、これこれこういう根拠でここは無いと言う主張は、自分の主張する場所以外の日本全国を対象に全て消し去らなければいけません。邪馬台国北九州説を否定するのに北九州に邪馬台国が有ったと言う仮定をするなんて。どういうことなのかなと思います。いやふと気がつきましたが、北九州から出雲を攻めるのは、最終目的地である大和の途中にある国なので必然性が有りますが、大和から出雲を攻めるのは何のメリットも有りません。後世の製鉄技術がそれなりに発達した時代ならば「鉄素材の獲得」はメリットですが、この時代にはその技術が無く、朝鮮半島から鉄素材を入手する時代です。その為の水揚げ地を確保するのならば、出雲ではなく丹後の方が有力で、船の寄港地を確保と言うのであれば、何も攻め滅ぼす必要は無く、同盟すれば済む話です。だから大和から出雲を攻める必要は有りえません。ただ、大平裕氏も正しいと思うことはたくさん書いています。一番納得するのは、邪馬台国までの行程が「水行10日陸行1月」とあるのに、邪馬台国北九州説だと3日かからないで、しかも水行しないで着いてしまうことです。なので、邪馬台国北九州説はあり得ないと思います。では奴国は邪馬台国とどういう関係なのか?それは大事なことだと思います。僕はそれは魏志倭人伝に書いてあると思います。次の部分です。 東南陸行 五百里 到伊都國 官日爾支 副日泄謨觚柄渠觚 有千餘戸 丗有王 皆統屬女王國 郡使往來常所駐 (意訳) (末盧国から)東南に陸上を五百里行くと伊都国に到着する。 官はニキといい、副はセバコ、エキコという。千余戸が有る。 かって王がいたが、みな女王国に従属している。 (帯方)郡の使者が往来し、常に住んでいる所である。 東南至奴国 百里 官日兕馬觚 副日卑奴母離 有二萬餘戸 (意訳) 東南、奴国に至る。百里。官はシバコと言い、副はヒナモリと言う。二万余戸有り。ここで僕は通説とは違った読み方をしています。「丗有王 皆統屬女王國」は、通説では代々王がいる。皆女王国に従っている。と読みます。つまり通説では卑弥呼の時代にも伊都国には王が居て、その王は卑弥呼に従っている、そう読めてしまいます。でも理論的に変です。後の方で出てくる女王国も狗奴国も王の名前を書いているのに、伊都国や奴国の王の名前は書いていません。中国の使者が自分が住んでいる伊都国の王の名前を知らないはずは無く、官や副官の名前まで書いているのに王の名前を書いていない?変です。これは過去には王はいたのだが、「卑弥呼の時代には王が居なかった」からだと思います。魏志倭人伝の書き出し(最初の部分)にこう書いています。 倭人在帶方東南大海之中 依山㠀為國邑 (意訳) 倭人は帯方東南の大海の中に在り。山や島に囲まれて国邑を為す。この国邑とは何でしょうか?国ではありません。「国」はちゃんと「伊都国」のように国として書いてあります。辞書を見ると、国邑は「国と村。また、諸国。地方。」と書いています。つまり、伊都国は後世の例えば「筑紫国」の場合の国のように、将軍の下の「大名」しかいない諸国と同じです。王はいないのです。つまり伊都国の官や奴国の官は、伊都国や奴国に王が居てその王の官ではなく、全て女王に対する官なのです。つまり伊都国や奴国は「国」ではありますが「諸国」であって、王はいなかったのです。<後日追記>隋書倭國伝には次のように書かれている。 「魏時譯通中國三十餘國 皆自稱王」 つまり魏の時代には中国と交流のある国が30余国有り、皆王を自称していると読める。 これを読むと邪馬台国=倭国と考える人は伊都国や奴国にも王は居たはずだと考えるだろう。 しかし文章を読むと分かるように、これは魏志倭人伝に書かれたことを参照したもので、 狗奴国の王について書かれた部分を読んで倭国内には複数の王がいると考えたものであり、 伊都国や奴国など邪馬台国の中の個々の諸国の王の存在を言っているものではない。 現に狗奴国には王が居たのだから、魏志倭人伝と隋書倭國伝の記載の間に齟齬は生じない。 恐らくは狗奴国以外にも「日高見国」にも王は居ただろう。 ここでの主張は「邪馬台国の中の国には卑弥呼以外に王は居なかった」だろうと言う事で、 倭国の中の邪馬台国以外の国に王が居なかったと主張するものではない。つまり伊都国も奴国も「諸国」であって邪馬台国の一部だったのだと思います。では何故狗奴国には王がいるか?女王国に従っていなかったからです。狗古智卑狗は女王国の官ではなく、狗奴国王の官だったのでしょう。ここで気になるのは、伊都国と奴国の官が似ていることです。泄謨觚(セバコ)と兕馬觚(シバコ)とは良く似ています。もしかして倭人にとっては同じ官で、中国人が聞き間違えたのではないでしょうか?まぁこれは本題には関係ない冗談の世界です。いずれにしても伊都国や奴国が王の居ない諸国だったのならば、女王国が北九州つまり伊都国や奴国の近くに有ったのならば国として分ける必要は有りません。(王はおらず官しかいないのですから)2万戸もある奴国はともかく、千余戸しかない伊都国は国として独立する必要は有りません。水行10日陸行1月も移動に時間のかかる遠方だから国が違うのです。なので邪馬台国北九州説は無いなと思います。(また陸行1月が真実ならば邪馬台国は内陸部に有ったのだと思います。 海の近い北九州なら舟で行った方が便利です。)
October 4, 2023
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