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11月20日はわの会の伊豆旅行で、北条氏ゆかりの寺へみんなでバスで行きました。鎌倉の北条氏・源氏ゆかりの寺にはたくさん行きましたが、北条氏は元は伊豆の豪族。源頼朝も平治の乱で敗れて伊豆に流され、伊豆で挙兵して鎌倉幕府の開府につながりました。なので、伊豆は今は単なる観光地ですが、実は日本の歴史の重要な場所なんですね。でも、そう言う感覚が少なくなって単に温泉に入りに来る人が多いのが残念。伊豆までは横浜から結構遠く、電車と違って渋滞の有るバスは時間がかかるのが難点。特に帰りは4時間以上もかかりました。朝も早くから集合して伊豆旅行の開始。最初は韮山です。ここには北条時政ゆかりの願成就院が有ります。願成就院駐車場でバスを降りて付近のお寺を廻ります。ルートは下図。地図を見ると分かりますが、韮山は日本で最初の反射炉が作られた場所としても有名です。本当は行きたかったのですが、今日はみんなでバス旅行。いつかまた来た時にみることにします。願成就院は北条時政により文治5年(1189年)に建立。本尊は阿弥陀如来。頼朝はこの地で源氏再興の旗揚げをします。また奥州征伐の戦勝を祈願して時政が建てたのです。なので「願成就」院。願成就院には時政が建てた醍醐堂と息子の義時が時政の供養塔として建てた南新御堂、そして三代目執権泰時が建てた北新御堂と北条家三代のお寺です。ただ内部は残念ながら写真撮影禁止なので、写真は有りません。写真はお堂や仏像が痛むからではなく、写真を販売する為に撮影が禁止されているようです。大判は1枚2000円もして、小判でも5枚で2500円でした。高い。仏像などの写真を売るのは絵葉書やブロマイドの販売と同じで営利行為なので、所得税の対象となり、宗教行為とは別物なので本来は課税対象なのですが、きっと家庭で拝む為の写真だとか理屈をつけて課税を逃れているんだろうなぁ。統一教会のように高額ではないだけでもマシなのかも。ここの本尊阿弥陀如来坐像、不動明王像、矜羯羅童子(こんがらどうじ)像及び制吒迦童子(せいたかどうじ)像は運慶の作とされている。そう言えば鎌倉殿の13人でも生臭坊主の運慶が生意気そうに色々と言っていたなぁ。あの時の仏像がこれかぁ。確かに単なるおすましした仏像とは違い、表情が人間臭い。ドラマで言っていたように仏像に人間の感情や願いが現れるのかもしれない。なお、不動明王像と毘沙門天像(後出)の胎内に納められていた塔婆形銘札(めいさつ)には、「文治2年(1186)5月3日、北条時政の発願により運慶が造り始めた」という趣旨の記載があり、ドラマで語られていた通りのようなんだけれども、当初は疑問視する学者もいたらしい。それが、鎌倉浄楽寺にある運慶作の不動明王、毘沙門天像の胎内からも同様の銘札が発見され、さらには願成就院の二童子像の胎内からも新たに銘札が発見されたことから、願成就院の阿弥陀如来像・不動明王二童子像・毘沙門天像は運慶の真作であると認められたそうだ。境内左手には時政公の墓所が有る。うーん。墓そのものは小さいけれど、墓所は広くて源頼朝の墓所よりも大きいなぁ。次の成福寺に行く途中に光照寺が有った。ここには有名な頼家公病相の面があるらしい。でも時間が無いし、病相の面は縁起が悪そうなので素通りした。病相の面は気持ち悪いから。その次は成福寺。成福寺は時政の三男坊の正宗(ドラマには出ていなかったかもしれない。印象なし。)が、正応2年(1289年)に建立した。元はここに時政の持仏堂が有りその後8代執権北条時宗の子宗仁が修復し、成福寺としたのだそうだ。なお、ネットで検索していたら「北条」と「北條」の違いについて書いてあるのを見つけた。確かに僕らが学校で習った時には、鎌倉は:北條氏、小田原は:北条氏と習ったし試験に出た。1981(昭和56)年に文部省国語審議会(現文部科学省文化審議会国語分科会)から常用漢字1945文字が発表され、法令、公用文書、新聞、雑誌、教科書などもこれに準拠することとなりました。 以前の当用漢字では條でしたが,常用漢字では条を採用していますから、人名も北条氏に統一されることになり、現在では鎌倉は北条氏、小田原は後北条氏と書き分けています。」と書いてあった。そうなのか。だから僕等は「後北条氏」と言う表現に違和感を感じるのか。確か「後」北条氏って北条早雲が祖で、鎌倉幕府の北条氏とは関係なく、北条早雲も初めは北条を名乗っていなかったんだよね。北条早雲が今川氏家から与えられた駿河国富士郡下「方庄」が名前の元なのだそうだ。ややこしい。鎌倉の成福寺(泰時の子の泰次が建立)は浄土宗だが、ここは浄土真宗。武家の寺なのに何故?浄土宗や浄土真宗ってお百姓さんの仏教じゃなかったっけ?NHKのどうする家康では、家康が困っていたじゃん?信長もよくケンカしていたし。と言うか他の大名よりも一向一揆を恐れていた?浄土宗と浄土真宗は仲が悪いと聞いたけれども同じ北条家の同じ名前の寺が何故?(浄土真宗は親鸞が開いたが、元は法然の開いた浄土宗の一派。 浄土真宗は肉食OKの異色の仏教で他派は浄土真宗と名乗るのを嫌ったらしい。 いわゆる一向一揆は浄土真宗を信仰する身分の低い武士や百姓が、 高い年貢を課する領主に対して起こした反乱がもと)宗教ってややこしい。成福寺の本尊は阿弥陀如来像。確かに浄土宗だと思う。浄土真宗はちゃらちゃらした感じがあるからなぁ。これは浄土宗。境内には北条家の墓所が有る。後ろの富士山には雲がかかっていた。バスは韮山を後に修善寺に向かう。バスを降りると楓橋を渡る。竹林の中を歩いて修善寺に向かう。説明板にも有る通り、ここは宗派の移り変わりが激しい。真言宗、臨済宗、曹洞宗って確かに禅宗ではあるけれど、何でそんなに変わるの?ついでに付近の地図を載せる。参考に。ここも写真撮影禁止だったので本尊はネットで公開されているものを借用。立派。ここでは一つ大事な発見が有った。なんとここで5世紀の神獣鏡が発見されたらしい。伊豆市のHPから引用する。これを見ると伊豆には大和王権に従う豪族がいたらしい。つまりヤマトタケルの伝説は本当なのかもしれない。ヤマトタケルは野宿を続けていたのではなく、各地の豪族を政権に引き入れるのが仕事だったのだろう。で、たまには逆らう豪族も居て、焼津では野原に火を放たれて、逆に草薙剣で反攻し滅ぼし、三浦半島では海の神(海賊)に襲われて、弟橘媛が犠牲になって東京湾を渡れたのだ。この鏡はその証拠では?<後日追記>1日だけど後日追記。何故この神獣鏡がヤマトタケルの命と関係あると言えるかと言うと、神話の世界とは言われているけれども神武東征及び国譲りに関係するからである。日本書紀の国譲りでは武甕槌神(たけみかづち)と経津主神(ふつぬし)が、(古事記では建御雷之男神(たけみかづちのお)が派遣される。神武東征では高倉下(たかくらじ:尾張氏の祖)が重要な役割を果たす。みんな東国の出身である。いや高天原の出身だろうと言う人は良く読んだ方が良いと思う。日本書紀では経津主神に従って下る武甕槌神は、天石窟(あまのいわや)に住む神、稜威雄走神(いつのおはしり)の子・甕速日神(みかはやひ)、甕速日神の子・熯速日神(ひのはやひ)、樋速日神の子・武甕槌神(たけみかづち)と有り、天石窟(=洞窟)に住む神はとても高天原の神とは思えない。むしろ千葉県や神奈川県に多い崖に掘った穴=やぐらに住んでいる神のように見える。(古事記では建御雷神に天鳥船神(あめのとりふね)を副えて葦原中国に遣わしたと有るが、 これも出発地は書いていない。)何よりも武甕槌神は茨城県の鹿島神宮の神である。また経津主神は千葉県の香取神宮の神である。両神とも何故九州や近畿ではなく関東に神社があるのだろうか?現代人は九州や近畿だけに古代の国が有ったように考えるけれども、実は関東や尾張にも同時代に大きな国が有ったと考えれば、神話や古代史の色々な謎がとける。大阪で(お日様に向かって攻めて)負けたから攻める方角を変えて熊野から攻めたら勝ったとか、トンビが光ったから勝った等と言うのは非現実的である。恐らくは九州から攻めて来た神武天皇のモデルは大阪で負けて、尾張の勢力と共同戦線を張ったから勝てたのだし、国譲りも九州の神々だけでは近畿の勢力には勝てず、関東の強力な勢力が味方してやっと出雲の勢力が(これはかなわないと)屈したことが、後世の人達の大人の事情で、神話に変形して伝わったのだろうと思う。国譲りでは最初に「天穂日命(あめのほひ)」が派遣されるが出雲勢力に懐柔され失敗する。天穂日命は九州の神だと思う。次に天穂日命の子の大背飯三熊之大人(おおそびのみくまのうし、武三熊之大人(たけみくまのうし)とも)が遣わされたが、父と同じく報告に戻らなかった。これも九州の神だろう。次に「天国玉の子・天稚彦(あめわかひこ)」が派遣されたが、これも失敗した。高天原の神に殺された天稚彦の喪屋が飛ばされた先は美濃の藍見の喪山だと言うから、天稚彦は九州の勢力に協力したが失敗して殺された尾張の勢力だろう。つまり神武東征で協力した尾張の祖の高倉下と同じ立場である。九州+尾張でも近畿の勢力に勝てなかったので、関東から援軍が来た。それが武甕槌神(鹿島神宮の神)と経津主神(香取神宮の神)だったのだと思う。そう考えると、神話は神話ではなく史実を少し書き換えた物になるのである。おそらく関東には近畿の中央政府にも無視できない大きな勢力が居ただろうことが想像できる。何よりも尾張(熱田神宮)には大和王権にとって大事な勢力が居て、そのお姫様がヤマトタケルの命の奥様になり、その一族は大和王権にとっても無視できない存在だったので、今でも熱田神宮に草薙剣があるのだと分かる。皇位継承に必要な三種の神器が皇室になく、熱田神宮に有るのは有力な豪族の物だったからだ。ヤマトタケルが東京湾を渡ったのは、武甕槌神(鹿島神宮の神)と経津主神(香取神宮の神)の子孫の豪族に会いに行ったのだろう。(日本書紀には、卷7景行天皇40年10月の条に、 「爰に日本武尊(ヤマトタケルノミコト)、即ち上総より転じて陸奥国に入りたまふ。 時に大きなる鏡を王船に懸けて、海路をとって葦浦を廻り、玉浦を横切って蝦夷の境に至る。」 とある。 当時の千葉は縄文海進(海が今よりも高く内陸まで入り込んでいた)のせいで、 ほぼ島のような感じだったので、日本武尊は陸奥国へは舟で渡った。 この海を香取海(かとりのうみ)と呼び、香取神宮と鹿島神宮はそれを挟んで対岸に有った。)壬申の乱では天武天皇は尾張の勢力のお陰で勝っているし。大和朝廷は何かあると、いつも尾張に助けられている。そうでなければ、三種の神器の一つである草薙剣は熱田神宮ではなく皇居に有るはずだと思う。余談だが、源頼朝のお母さんは熱田神宮の神官の娘である。何か有りそうな匂いがぷんぷんである。熱田神宮は何故そんなに重要なのか?追記終わり。また北条氏が平直方の源氏の子孫だと言うのは本当かも?(平直方は桓武平氏の当主で、摂関家の家人。平忠常の乱で失敗して、 乱を鎮めた源頼信の息子頼義の武勇に感じて、 頼義に娘と領地である鎌倉を与えて源氏の鎌倉支配の基礎を作った)だって頼朝ほどの名家の坊ちゃんが伊豆の田舎の北条氏の娘を正室にするのは変だもの。側室ならば分かるけど。本当は北条氏も平直方の子孫であるならば、頼朝が政子を正室にするのは理解できるなぁ。<後日追記>古代の千葉の様子があまりにも気になったので、12月6日に富津古墳群に行って来ました。上記鹿島神宮に関連する飯野陣屋跡と5~7世紀の100m超の前方後円墳が多数あるからです。特に藤原鎌足が茨時の鹿島出身で、それにちなむ鎌足桜には行こうと思っていたから。千葉の富津古墳群に行って来ました。見て頂くと面白いかも?境内にはこんなのも有った。えー!金沢区の多くのお寺に棟飾りが飾ってあるのは、このへんが元祖なのか。すごいなぁ。何にでもちゃんと理由(元祖)が有るんだなぁ。修善寺を後に帰り道には独鈷の湯が有った。説明板には、仏具の名は「独鈷杵」とかいて「どっこしょ」と読むが、この温泉では「とっこしょ」と読むと両者を区別して書いてある。でも僕は仏具の方も「独鈷杵」と書いて「とっこしょ」と普通に読んでいると思う。人それぞれだと思う。例えば文化遺産オンラインでは「独鈷杵」と書いて「とっこしょ」と普通に読んでいる。なので「独鈷杵」と書いて「とっこしょ」でも良いのだと思う。最後にバスはワイン工場にも寄ったのだけれど、これはあくまでも「商売」なので省略。ただ、庭園から見える富士山は最高だった。天気が良くて良かった。
November 23, 2023
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11月5日のブログで、翰苑の「倭面土」と魏志倭人伝の「邪馬臺」と「大和」の関係に触れたが。邪馬台国はどこにあったか(その37)邪馬台国と女王国:八俣遠呂智さんのYOUTUBE(一番最後の方に書いてます。)今日、岩波文庫の「魏志倭人伝・後漢書倭伝 宋書倭国伝・隋書倭国伝」中国正史日本伝(1)石原道博編訳を読んでいて、偉い先生でもちゃんと読む人は居るんだなと思った。先生は茨城大学の名誉教授で、この本は昭和58年9月時点で25万5千分も売れているらしいので、ほぼ世の中の通説に近い物なんだと思うのだけど、その中で、この事について検討しており、答えは僕の考えとは違うのだけど、やはりこの関係を調べることが大事だと言う部分では一致している。「邪馬臺国」が正しいのか「邪馬壹国」が正しいのかと言う議論については、私は「邪馬臺国」だと思っていますが、色々と読んでいるうちにちょっと自信が無くなっている。と言うのは「壹」の字は「壱」の旧字体で、呉音で「イチ」、漢音で「イツ」であり、いずれにしても「タイ」ではなく「臺」=「台」の誤写であろうと考える通説が正しいとそう思ったからなんだけど、「イチ」や「イツ」の読み方が新しい読みで、「壹」の字の中に「豆」があることから、「トゥ」と言う読みが古い時代にはあったのでは?そう考えるに至ったからである。つまり元の音は「タイ」と「トゥ」の中間ぐらいの発音で、「邪馬壹国」は「ヤメトゥ」と言う発音だったのならば、「邪馬臺国」ではなく「邪馬壹国」だった可能性も有るなぁと思ったからである。でも、中国人でさえも分からない昔の中国の漢字の読みなので、今となっては検証のしようもないから、諦めるしかない。で、11月5日のブログの話題に戻って、「翰苑に書かれた倭面土國王帥升」の「倭面土」と魏志倭人伝の「邪馬臺」と「大和」の3つの関係はイントネーションの違いだけで「やまと」と読み後世のヤマトにつながると思う。倭人の発音を漢字で表現する際に個々の人で聞こえ方が違い、そのせいで表現の仕方が違っただけだと思う。前にも書いたけれども、これは伝言ゲームに近いので、発音の体系の違う倭人と中国人が2人以上連なると必ず発生する仕方ない現象だと思う。例えば、今ではそれを意識する人はほぼいないが、日本人同士でも鼻濁音の理解の話がある。鼻濁音を話せる東北の人が「だいがく」と話しても、それを聞く人が鼻濁音を理解できない人だと「だいがく」は鼻濁音では無くなる。それを鼻濁音を理解できる別の人に話すと、本来は鼻濁音だったのかそうではなかったのかは、もう分からなくなってしまう。同様のことが倭人と古代中国人の間で有ったとすると、古代中国人はより厳密に聞き分けるので大混乱に陥る。なので、恐らく原音は「ヤマト」と言う現代人のはっきりとした単純な音ではなく、「ワメトゥ」とか「ヤマトゥ」とか「ヤマツ」とか色々な可能性が有るのだと思う。「翰苑に書かれた倭面土(ワメトゥ)國」が恐らく原音に一番近く、「大和(ヤマト)」が原音からは一番離れた現代の発音に近いものなんだと思う。少なくとも「ヤマタイ」ではないと思う。では倭国とは一体何か?それと邪馬臺や大和との関係はどうなっているのだろうか?それは明治以降の外国の名前を漢字で書いた例がよく当てはまると思う。「英国」と言うのが何故「イギリス」のことなのかを例にとってみれば分かりやすい。「英国」は「英吉利(イギリス)国」の略である。解説を聞けばなるほどと分かるが、「イギリス」の発音に「英吉利」をあてはめているのは、「ワメトゥ」なのか「ヤマトゥ」なのか分からないけれども、「倭面土(ワメトゥ)」と言う漢字をあてはめた中国人の感覚に近い。子供達に「英吉利」とかいて「イギリス」と読むんだよと言っても信じないだろう。そもそも僕も分からないのだけど、何で「伊太利亜(イタリア)」の「イ」は「伊」なのに、「英吉利(イギリス)」の「イ」は「英」で「伊」じゃないの?発音する人とそれを聞いて漢字で表記する人の違いは複雑なんだと思う。つまり「倭国」と言うのは「倭面土国」の略なのである。いや信じがたいと言う人もいるかもしれないが、僕にはそれが冒頭で書いた石原道博先生の本の中に書かれたエピソードで氷解したのである。先生はこの本の中で「小野妹子」と「蘇因高」の関係を紹介している。Wikiの小野妹子の該当部分を引用する。 『日本書紀』(巻第22)によれば「十五年……秋七月 戊申朔庚戌 大禮小野臣妹子遣於大唐 以鞍作福利為通事」とあり、 推古天皇15年(607年)に通訳の鞍作福利らと共に大唐(当時の隋)に派遣された。 当地において「蘇因高」と呼称された妹子は、 推古天皇16年(608年)4月に隋の使臣裴世清を伴って帰国した。と書いている。つまり「蘇因高」は「小野妹子」の中国名である。えー?何で「蘇因高」なの?と思うかもしれないけれども、先生の解説は明快である。まずは分かりやすい「因高(インコウ)」。もう妹子(イモコ)の音を漢字にしただけである。ただ現代人の発音するイモコではないのだと思う。むしろ「因高(インコウ)」の方が近いのかも?もうこれだけでも、日本人の発音と中国人がそれを聞いた場合の発音が微妙に違うのが分かる。問題は「蘇」の部分である。先生は「小野」の略で、「小(ショー)」が「蘇(ソ)」と言う漢字になったんだろうと解く。古代の中国ではそう言う略し方が多かったのだと先生は書いている。例として中国で墓誌の発見された遣唐使「井真成(いのまなり)をあげている。井真成は西暦717年、19歳で遣唐使として阿倍仲麻呂らと共に唐に渡り、36歳の若さで現地で亡くなった日本人であり、「井」は唐における姓で、元の姓は「葛井」と「井上」の2つの説が有力とされている。つまり古代の中国では、例えば井上は「井」と略して呼んでいたのであろう。つまり「英国」と同じである。このことから「倭国」と言うのは「倭面土国」の略なのだろうと思い、先生のこの本がとても参考になったのである。ただ、長い年月の間に情報が上手く伝わらず、そのことが忘れられたのだろう。ただ、先生の説の中でちょっと違うかもと思う部分はいくつかある。例えば「蘇因高」の「蘇」の部分である。先生は「小野」の略だと考えているが、僕は「蘇我」の「蘇」だと思う。上記の日本書紀の記述の中で「大禮小野臣妹子遣於大唐 以鞍作福利為通事」と書いている。鞍作福利は通訳なのだそうなんだけれども、「鞍作」って乙巳の変で蘇我入鹿が殺された時に彼のことを「鞍作」って呼んでいるなぁ。この遣隋使を派遣したのは推古天皇であり、推古天皇は蘇我氏の一族と言ってよいほど蘇我氏と関係が深い。小野妹子は隋の煬帝からの返書を百済で紛失しているのに罰をうけていないし。小野妹子は蘇我氏と何らかの関係が有るのではないだろうか?乙巳の変で蘇我入鹿が殺された時には、みんな入鹿のことを鞍作と呼んでいる。小野妹子が遣隋使で中国に行ったのは607年頃で乙巳の変は645年だから、遣隋使で中国に行った鞍作と入鹿は別人だとは思うが、鞍作が個人名ではなく、後世の「矢部=矢など武器を作る氏族」のように一族の名前ならば、この鞍作は蘇我氏の人間だなぁ。もしかすると「蘇因高」の「蘇」は「蘇我氏の蘇」ではないだろうか?小野妹子の出自は諸説あり、どれもなんだかきな臭い。隋の煬帝からの返書を百済で紛失したのは、何らかの政治的要因が有り、それ故に罰を受けなかった?しかもそれは蘇我氏からみ?つまり小野妹子は蘇我氏に縁の深い人間では?男なのに「子」って変なんだけど、鞍作=蘇我入鹿のおじいさんも蘇我馬子って「子」が付いているし。もしそうだとすると、日本書紀はそれを隠す為に小野妹子の名前を変えた?本来の名前は蘇我妹子であり、中国では「蘇我君」を略して「蘇君」と呼ばれていた?なので「蘇我妹子」→「蘇因高」になった?うーん、ちょっと信じがたい部分はあるけれど、藤原不比等だからなぁ。日本書紀には色々と不思議な部分が有るから、案外とそうかもしれない。と言うか、そう考えると面白いなぁ。
November 19, 2023
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秋葉原の東京ラジオデパートに遊びに行って、490円のarduino nano3を見つけた。LGT8F328Pと言うAtmel ATMega328P互換品を使ったnano3もどきで、USBインターフェースもついており、(動けば)大変お得である。さっそく使ってみた。ネットを検索すると、まずはATMega328Pとは違うのでボードを認識させねばならない。その為にはarduinoIDEの設定メニューから、ボードマネージャーのURLを設定しなければいけない。ところがである。ネットで見たURLは使えない。上のように「追加のボードのマネージャーのURL]に書き込んでも設定されないのである。なんとなく古い情報なのかなと思い、別の情報を調べる。すると「Laduino_HSP_Latest.rar]と言うファイルが必要なようである。さっそく検索してダウンロードして、解凍した。解凍したファイル・フォルダーの中に「LGT]と言うフォルダーが有るのでこれをコピー。これをprogramufiles(86)の中のarduinoフォルダーの中のhardwareフォルダーにコピーする。するとarduinoIDEの中にLGT8F328Pと言うボードが選べるようになるので、これを使う。すると通常のarduinoを使う時と同じプログラム(スケッチ)が使えるようになる。さっそくLチカをやってみた。ボード上のLED(青:D13)と外付けのLED(緑:D11)を1秒間隔で光らせる。ごくふつーに使えるなぁ。490円と安いので(実は前は300円で買えたらしい)、今度また買って実験してみよう。ちなみに裏表の様子と、参考にarduino nanoのピン配置を載せる。写真の上で右クリックして「新しいタブで画像を開く」と別タブで拡大できます。参考に。
November 17, 2023
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ヒマなので、ドラクエVを久しぶりにやった。忙しい人には申し訳ないが、この手のゲームが一番経済的で良いヒマつぶし。1円もかからずに(電気代はかかるか)結構楽しい。ドラクエVは途中「結婚イベント」が有るので有名。幼馴染のビアンカと結婚するか、大富豪の娘のフローラと結婚するかいつも悩む。なので、直前でセーブして置いて両方やる。でも冷静に考えればビアンカだよな。だって小さな頃から一緒に戦ってきたんだし、フローラには恋人候補がいて、彼はフローラを助けようと大やけどまでするんだから。まぁゲームだからセーブして置けば(セーブは3つまで可能)両方できるんだけど。ドラクエVはまたモンスターを仲間にできるのが特徴。これまではその発想は無かった。でもドラクエV以降は、「スラリン」が可愛いとモンスターも人気者が出て来て、それが後のポケモンにつながる。このドラクエVで「モンスターと友達になる」発想が生まれなかったなら、ポケモンは無い。そして僕はいつもスライムナイトを味方にする。多くの人がそうするみたい。スライムナイトはそこそこ強くなるし、呪文も覚える。他のモンスターとは違い装備をまとえるので防御力も攻撃力も高い。僕はメタルキング系の装備を彼に与えているので、火や冷気にもビクともしない。また途中まではイエティとキメラも重宝する。彼らは「こごえるふぶき」が使えるので、MPを消費しないで全体攻撃ができる。なので彼らがいれば馬車の中の主人公の息子や娘は安全にレベルアップできる。ただ早めに「上限に達してしまう」のが難点。イエティはすぐに教会で「もう十分に強い~」と言われるようになる。なので彼らは途中まで弱い主人公一行のレベルアップの為の仲間。そう言う意味ではスラリンなんかも「趣味性」が強い。元々は弱いモンスターなのに、何故か終盤まで活躍する。なんせ回復呪文まで使え「ルーラ」まで使える。スライムなのに過去の町を覚える脳みそが有る?ただドラクエVは本来子供向けなので簡単に終わってしまうのが難点。昔から難しいのはFF系でドラクエ系は楽しさが強み。FF系も後にチョコボ等モンスター?を仲間にできるようになり、クエストも楽しさを重点にするようになったが、元々はFF系はシビアー。ラスボスだってドラクエ系は何となく愛嬌があるが、FF系は怖いと言うか醜い。坂口さんの好みかな?まぁそれはそれとして、僕のドラクエVはジャハンナの教会でセーブして最終ダンジョンに向かった。そこでは強力なモンスターが待ち受けていたが、僕は既にレベル58で十分強い。中ボスのヘルバトラーなんか3ターンで無傷で圧倒。僕(ぷんぷん)とスライムナイト(ピエール)で攻撃して、息子(ちゃんぷ)は回復係。あっという間に終了。すぐに奥の大魔王ミルドラースとの対決に向かう。最初は第一形態。助っ人の悪魔神官も出てくるが、無視してミルドラースを攻撃する。実は防備が良すぎて悪魔神官の攻撃が効かないのだ。攻撃を受けても息子(ちゃんぷ)の賢者の石と祝福の杖ですぐに回復するので心配ない。息子は星の腕輪で素早さをアップしているので、回復が上手くいく。MPは残しておきたいので主にアイテムを使う。これもあっという間に倒してしまう。するとミルドラースは第二形態になる。これはそこそこ強い。特に気をつけないといけないのは、息子に強力な魔法を使わせないこと。魔法がはね返されて大ダメージを負ってしまう。大きなダメージを受けると回復に手間取ってその間攻撃ができず、ミルドラースは瞑想をして回復してしまう。彼は瞑想で回復しながら強力な攻撃をしてくるので、絶え間なくダメージを与え続けるのが大事なのだ。でも大丈夫。僕達は十分に強い。ミルドラースを倒してしまう。あれ?第一形態に戻っている?ミルドラースを倒すと「ごほうびイベント」が始まり、今まで旅してきた場所を神様(龍王)が案内してくれて、各地で歓迎される。FF系と違うのは、こういう「微笑ましい」部分だと思う。FF系はシリアスだから。ごほうびイベントが終わるとCASTなんかの画面が始まる。懐かしい名前が続く。堀井雄二は今でも活躍されているのだろうか?鳥山明さんは好きだったなぁ。ちょっとエッチな所が大好きだった。パフパフやってみたいなぁ。すぎやまこういちは確か一昨年亡くなったんだよな。みんな向こうの世界に行っちゃう。なんか懐かしくて良かった。
November 14, 2023
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11月10日は横浜市金沢区わの会のイベントで亀ヶ谷・扇ヶ谷の名刹を廻りました。当日は雨で、カメラのレンズが曇ってしまい、このブログの写真も若干ボケていますが、久しぶりの北鎌倉で、ゆったりとしてよかったです。ルートは下図の通りで、北鎌倉駅に集合し、明月院→長寿寺→亀ヶ谷→岩船地蔵堂→英勝寺を廻り、鎌倉駅時計台広場で解散でした。歩く距離はたいしたことは無いのですが、坂が急で大変です。逆ルートで、鎌倉駅→北鎌倉だったら地獄だったと思います。亀ヶ谷坂は鎌倉側はものすごい急坂ですから。最初は明月院です。下の説明板は入ってすぐの石碑そばの説明板で、この正門には関係ないのですが、明月院の説明にちょうど良いので載せています。この明月院は「あじさい寺」として有名で、6月頃にはお姉さん達でにぎわうのですが、今日はシーズン的にアジサイは無く、しかも雨でした。明月院は平治の乱で戦死した首藤俊道を息子の経俊が供養する為に建てた明月庵が起源で、その後北条時頼がここに最明寺を建てて仏門に入り、その子の時宗が禅興寺をここに建て、禅興寺の搭頭として明月院と号した上杉兼方が建てたものらしい。正門を中に入った所に拝観口が有る。このお寺は庭と座敷が綺麗なので、それを見て楽しむと良いと思います。まずは庭です。大きさはそれほど大きくは無いのですが、綺麗に手入れされ、奥に見える富士山?は実は右手の植え込みの方にも、もう一つ有ります。何で富士山が二つ?と思って調べてみましたが、分かりませんでした。後ろを振り向くと「方丈」の額が掲げられた仏堂が有ります。仏堂の手前の間には有名な「さとりの窓」が有ります。奥の円形のさとりの窓は紅葉の季節にはきれいな赤い風景が見えるのですが、今年は暑さのせいか紅葉は見えませんでした。わの会が11月にここに来ることを計画したのは、ここの奇麗な窓が目的だったと思うのに。綺麗な座敷で、ここに座って紅葉を眺めながらアイスクリームを食べると幸せだろうな。仏堂の奥の方には聖観世音菩薩像が祀られている。仏堂の次は上杉兼方の墓と瓶ノ井に行く。瓶ノ井は工事中だった。写真右手がそう。明月院には鎌倉最大の「やぐら」が有る。やぐらの中の宝篋印塔は上杉兼方の墓と言われているそうだ。写真では見づらいが、奥の壁には十六羅漢と思われる浮彫の像が有り、この明月院やぐらは、そのせいで羅漢道と呼ばれる。さらに進むと北条時頼の墓が有る。帰りに拝観口の脇の川を渡る時に面白いものが。このお寺を訪れるのはお姉さんが多いので、お寺の方も心得ている。なんか、ほのぼのする。明月院を後にして、亀ヶ谷坂を目指すと途中に長寿院が有る。不幸にして入場できない日だったみたいで、入口は閉鎖されていた。(金・土・日が拝観できる日で、11月10日は金曜日なのでOKのはずで、 わの会は通常木曜日に開催される所をわざわざ金曜日に変更したのに開いてなかった。 聞けば雨天は閉鎖するらしいので、そのせいかも?)上を向いて撮影するとカメラに雨があたってぼやける。カメラ大丈夫かなぁ?創建は足利尊氏で、境内裏山の尊氏の墓には遺髪が埋葬されているそうだ。また境内には奈良県の古刹円成寺から、室町時代に建立された多宝塔を大正時代に改造移築した観音堂があるらしい。写真右上は本尊の釈迦如来像、右下は観音様。門から本堂は見ることができた。写真右は「五重塔」を背負った亀趺(きふ)。「佛頂尊勝陀羅尼」碑と言うらしい。五重塔の土台になっている生き物は亀かと思ったら、贔屓(ひき、びし)と言う龍の子だそうだ。龍には9匹の子どもがいるとされているが贔屓はその長子で、重いものを背負うことを好むのだそうだ。でも亀そっくり。長寿寺の山号は「宝亀山」。中興開基の基氏は足利尊氏の第四子で幼名を亀若丸と言った。最初、だからこの辺は亀ヶ谷と言うのかと思ったら、そうではなく、この付近は鉱泉が湧いて湿地が多く、蛇や亀が多く、建長寺の大覚池にいた亀が「たまにはこの世を見てみたい」と思って亀ヶ谷の急坂を登ったが、頂上までは行く事ができずに引き返したことから「亀返坂」と呼ばれていたのが、いつの頃からか亀ヶ谷坂になったと言う話なのだそうである。足利基氏以前から亀ヶ谷なんだ。いやー、龍の子よりも亀の方が色々と納得しやすいんだけど。長寿寺の中には入れなかったが、裏口から中のお庭を見ることができた。長寿寺をあとにして、少し坂を登ると亀ヶ谷坂の頂上に着く。本当に北鎌倉側から来て良かった。鎌倉側からはこんなに急な坂。亀ヶ谷坂を下って行くと途中に延寿堂地蔵尊が有る。でも時間が無かったので素通りした。ただ、入口にもお地蔵さんがおられたので、入口のお地蔵さまにお参りした。坂が急でくたびれたので仕方ない。坂を下りきると岩船地蔵堂がある。去年鎌倉殿の13人のテレビを見ていた時にも来たが、頼朝の娘の大姫を祀る地蔵堂。あのNHK大河ドラマで大姫の唱えていた変な呪文を思い出すなぁ。ここでJR逗子線のガード下をくぐって左へ行くと鎌倉方面への道が有る。その途中に智岩寺稲荷が有る。鳥居の下に説明板が有るのだが、この説明板がややこしい。これを読むと、このお稲荷様が頼朝がお祀りしたお稲荷様だと勘違いしてしまうのだが、あれ?去年佐助稲荷に行った時にも同じような話が有ったなと思いだした。隠里稲荷は佐助稲荷では?と同じ?じゃぁどっちが本当の隠里稲荷なんだろう?調べてみたらやはり佐助稲荷が隠里稲荷と言うのが正解らしい。なんかややこしいな。最後は英勝寺に着いた。英勝寺は鎌倉唯一の尼寺。開山の玉峯清因は水戸家の初代徳川頼房の娘で、開基の英勝院尼は太田道灌の四代子孫太田泰輔の娘。彼女は家康から「お梶」の名をもらい戦場までお供をしていたが、彼女がお供をすると連戦連勝し、関ヶ原の勝利を祝って「お勝」の名をもらったらしい。そして出家した際に名を英勝院と改めたのだそうだ。元は太田道灌の屋敷跡なので、今は入れないが大きな門が有り、太田道灌屋敷跡の碑が有る。写真真ん中がそう。入るのは写真上の小さな門から。入って右側には書院が有り、藤棚がある。ここは白藤が有名で満開の頃は見事だそうだ。英勝院の由来の所で、家康と太田道灌の名前が出たが、その関係が分かる。織田、浅井、豊臣、徳川って敵同士だけど、血縁関係がすごい。こんな親戚同士で殺しあっていたんだなぁ。英勝院の中には金毘羅さんもある。写真は撮らなかったが、何でお寺さんに金毘羅さん?関東は本当に神仏混淆がすごい。英勝院本堂。なお、右側の石碑は上の方の写真の開かずの門の所に有るので念のため。本堂の4面には十二支の獣が各面3体筒彫られている。僕はひつじ年なので羊だけ写真を載せる。写真下は本堂の中の天井に描かれた天女達。実物はもっと鮮明。雨なので仕方ない。本堂の中の本尊は阿弥陀如来である。本堂(仏堂)を奥に進むと山門が有る。ここに説明板が有ったので載せる。英勝寺の字が第108代後水尾上皇の宸筆だと書かれているが、さすがに立派。山門の脇の建物の中に唐門が有る。これは国の重要文化財で、痛むといけないので、建物の中に保存されているようだ。彫刻などが、さすがに江戸時代のものなので見事。ガラス越しなのでちょっと不鮮明なのが残念。山門の裏手を右に行くと聖観音菩薩像が有る。美人だと思う。失礼をお許し願います。その脇の崖に三霊社権現(洞窟)がある。中に入ってみた。洞窟の中央に写真の石仏が有る。一応おまいりしてきた。英勝寺の住持は代々水戸藩主の娘達が務め、ここは水戸御殿と呼ばれたそうである。
November 13, 2023
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邪馬台国のことを研究して行く中で参考になる中国の史書はいくつかあるが、今回、後漢書の中の倭国に関する記述を調べてみた。後漢書は魏志倭人伝よりも約150年後にできた史書であるが、内容は魏志倭人伝に書かれた卑弥呼の時代よりも200年前の後漢の時代である。何故これが重要かと言うと、福岡の志賀島で見つかった「漢委奴国王」の金印を倭の奴國の王(当時は王と言ったかは不明)がどういう経緯でもらえたかが分かるからである。中国歴代王朝は倭国や高句麗等の周辺の国々を力だけではなく政治的に支配下におく為に、冊封体制と言うのをしいていた。周辺諸国の支配者は、自分の支配力の確立の為に中国王朝の権威を借り、中国王朝は周辺諸国の政治的安定化を図る為に、周辺諸国の信頼できる王を認めて金印等を与えて周辺諸国の支配を認めていた。その為に周辺諸国の王達は中国王朝に使者を送り、自分の立場を説明し認めてもらおうとした。でも、例えばその支配範囲は中国王朝の調査により限定され、必ずしも希望通りとはいかなかった。例えば倭の五王も朝鮮半島の高句麗等との対応上、また自国の諸豪族との関係上使者を送っている。Wikiより抜粋する。朝鮮半島諸国との外交を有利に進め、なおかつ4世紀後半以降獲得した朝鮮半島における権益に関して国際的承認を得ることも遣宋使の重要な目的であった。5世紀の倭の五王はそれぞれ南朝の宋に対して、いずれも官爵を要請したことが知られるが、その政策の背景には、高句麗の南下に対抗して、朝鮮半島における軍事権を確保しようとする意図があったことが指摘されている。この倭王の官爵要請は、中国王朝から冊封されることによって、中国王朝を中心とする政治的秩序構造に参加し、それによって自国の権威を高め、高句麗に対抗しようとしたものであり、このことを最も明確に示しているのが、かの有名な武の上表であり、武の上表には、倭は宋の遠辺に位置するその藩国であり、宋のために周辺の小国を平定して宋の範囲を拡大したことが記載されており、これは宋を天下の中枢とみなし、宋による世界秩序を至上の秩序とする態度に外ならない。倭王たちは宋帝に朝鮮半島の軍事的支配権を承認してくれるよう繰り返し上申し、438年に珍は「使持節 都督 倭・百済・新羅・任那・秦韓・慕韓六国諸軍事 安東大将軍 倭国王」の承認を要求したが、「安東将軍倭国王」以外は却下された。451年に南朝は百済の一字を名乗る済に対して倭本国、新羅、任那、加羅、秦韓、慕韓の軍事的支配権を承認し、武も「使持節 都督 倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事 安東大将軍 倭王」を授与されたが、南朝と国交のある百済だけは承認せず、武は百済に対する軍事的支配権の承認を繰り返し要求したことが記録されている。『宋書』倭国伝にある武の478年遣使の際の上表文には「東は毛人55国を征し、西は衆夷66国を服す。渡りては海北95国を平ぐ云々」とあって、大和朝廷の国土統一、朝鮮半島遠征の状況過程を伝え、百済の国名と父・済の名を出して思いを訴えている。Wikiにはこのように書かれているが、この朝貢は宋の時代に初めて始まったわけではなく、既に後漢の時代にも倭の奴國の王は使者を送っており、それが記録として後漢書倭伝に残っているのである。後漢書倭伝の当該部分には次のように書かれている。(原文)建武中元二年倭奴国奉貢朝賀使人自稱大夫 倭國之極南界也 光武賜以印綬安帝永初元年倭國王帥升等獻生口百六十人願請見(意訳)建武中元二年(西暦57年)、倭の奴国が貢を奉り朝賀した。使者は自ら大夫である。倭国はこれ最南端まで極めた(征服した)。(なのでこの地の支配者と認めて欲しい。)と称した。(それを認めて)光武帝は印綬を賜った。安帝永初元年(107)、倭国王の帥升等が百六十人の捕虜を献じ、参内して天子にお目にかかることを願い出た。このように書かれている。但し通説では「読み方」が違っている。通説では「倭國之極南界也」を「倭國の極南界なり」と読む。これは先生達が自分に都合よく読んでいるだけではないか?「之」を「の」と読むのは訓読みつまり日本での読み方である。中国では「の」とは読まない。「之」を日本語の助詞である「の」と言う意味で使うこともあるにはある。しかし多くは「これ」の意味で使う。現に後漢書の中のこの部分の直前を見ると次のように書かれている。「如病疾遭害以為持衰不謹便共殺之建武中元二年倭奴国奉貢朝賀使人自稱大夫」この中の「持衰不謹便共殺之建武中元二年」では「之」は「これ」と読んでいる。「持衰が謹まずと為すを以って、さらに共にこれを殺す。」である。この「之」を「の」と読むと意味不明になってしまう。では先生方は何で「倭國之極南界也」の場合だけ「の」と読むのか?自分の説に都合が良いからである。恐らく本当は「倭國これ南界を極めるなり」と読むのが正しいのだと思う。そうするとこの後漢書の一文の意味する所が理解しやすくなる。つまり倭の奴国の使者は、「私は倭の奴国の使者である。倭国は周囲の国を全て征服し(極め)南の端まで自分の領土とした。だから倭国の王として認めて欲しい」と主張したのだ。後世「倭の五王」が「安東大将軍」と認めて欲しいと主張したのと同じである。倭国王「珍」は周辺の国である朝鮮半島の国々をまだ征服していなかったので、「安東将軍」の称号しかもらえなかった。同様に倭国王として認めてもらうには周辺の国を征服していなければならなかったのである。(僕の文章の書き方が下手過ぎて誤解されるといけないので弁解しておくと、 「之」の読み方が大事なのではなく、その事が金印を与えられるに値するかと言う事である。 奴国が倭国の南に在ろうと北に在ろうと、そのことは後漢の光武帝にとっては、 ローカルな話で何の意味も無いが、 奴国の周囲の敵国が無くなり、安定した政権で後漢と安全な交易を行えることが大事なので、 その証拠を示すことが大事なのである。 なので、使者の立場(太夫=大臣)や周辺の国の様子を示すことが最大の関心事なのである。)光武帝は説明を聞いて「なるほど」と認めて金印を授けた。それが「漢委奴国王」の金印である。だから金印には使者の主張通りに「倭の奴國の王」と書かれているのだ。委は倭の略字である。後漢書のこの部分は光武帝が何故金印を授けたのかを説明しているのである。金印はタダでもらえるものではない。その時に根拠として使者は自分の征服した国々を説明した。それが記録として残っており、陳寿は「女王国の北側の国々」の説明にこれを根拠として使ったのだ。帯方郡から不彌國までは北側から順序良く説明しているのに、女王国の北側の国々と逆に南から説明しているのはこれが原因である。帯方郡から不彌國までは中国の使者が実際に歩いた道筋を書いたものであり、女王国から奴国までは後漢の時代の記録を元に書いているので、不彌國までと投馬國・邪馬台国の行程の記述方法が全く違うものになり、現代人を混乱させているのだと思います。<後日追記>上記でも書いたが、「之」を日本語の助詞と同じように「の」の意味で使うこともある。例えば魏志倭人伝の以下の部分である。倭人伝冒頭の「倭人在帯方東南大海之中」入れ墨説話部分の「夏后少康之子封於會稽」、「会稽東治之東」、その他にも「傳送文書賜遺之物詣女王」、「絶在海中洲㠀之上」などが有る。しかし、それは「之」を「これ」としても意味が通じる場合である。例えば「倭人在帯方東南大海之中」は「倭人は帯方郡の東南大海これ中に在る」で通ずるし、「夏后少康之子封於會稽」は「夏王朝の少康これ子は會稽に封ぜられ」で通ずる。「傳送文書賜遺之物詣女王」は「文書、賜遺これ物を伝え送り女王に詣らす」でもよいし「絶在海中洲㠀之上」は「絶えて海中の洲島これ上に在り」で通ずる。と言うか「の」でも「これ」でも伝わる。漢和辞典を見ると「之」の音読みに「の」が無いのは、日本における助詞の「の」と中国における「これ」が同じ使い方だからだと思う。では「倭國之極南界也」を「倭國の極南界なり」と読んでも良いのではないか?確かにそうだけれども、ここでは主語を奴国にしているので違うのである。建武中元二年「倭奴国」奉貢朝賀使人自稱大夫「倭國之極南界也」光武賜以印綬主語の「倭奴国」とそれに対する述語部分「倭國之極南界也」の間に、別の主語「使人」と述語部分「自稱大夫」が入っている。論理的な中国語ではありえない書き方だと思う。(日本人はあいまい言語なのでこれをやる。)もし通説通りならば倭奴國と言う主語を「倭國之極南界也」の前につけるし、何よりも、奴国が倭国の極南界に有るからと言って、それは金印をもらえる理由にはならない。後日追記終わり。通説を信じる人達に信じてもらうには「倭國の極南界なり」の場合、漢文ではどう書くか、それを書くと分かりやすいと思う。僕も漢文は詳しくは無いけれども、多分こんな感じで書くと思う。「極南界於倭国也」漢文では日本語と語順が逆になることが普通。なので日本人が漢文を読む時には「レ点」と言うのを使う。「倭國の極南界なり」と言う日本語を漢文にする場合には「極南界」が前に来るのだと思う。それが分かると、通説を信じる人達にも理解ができるのではないだろうか?後日追記終わり。今までは「漢委奴国王」の金印と魏志倭人伝の関係を書いたものはほぼないが、実は大事な関係が有るのだと思う。よく帯方郡から邪馬台国までの行程について、「連続説」と「放射説」のどちらが正しいか議論が行われるが、この仮説が正しいならば、どちらも正しくて、どちらも間違いである。帯方郡から不彌國までは使者が実際に歩いた行程なので「連続説」になり、投馬國及び邪馬台国並びに「女王国の北側の国々」は後漢時代の資料を基に書いたので、必然的に「放射説」になるのである。なんで通説はこれに気がつかなかったのだろう?現代に置き換えれば簡単に間違いだと分かるのに。例えば、仮に日本がどこかの国(A国)の冊封体制の下にあったとして、倭国を「日本」、奴国を「北海道」、南を「北」に置き換えて元の文を読めば分かる。通説だと、使者は自分を(北海道の)使者である。北海道は日本の極北界である。と言う解釈になる。A国は北海道知事を日本の天皇であると認めて金印をくれるだろうか?通説はそう言う解釈になるのである。中国(後漢)の光武帝に、私は(奴国の)使者である。奴国は倭の極南界である。と解釈するのだから。学者って変だと思う。
November 6, 2023
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八俣遠呂智さんのYOUTUBEで邪馬台国と女王国の関係を解説するのをみました。なるほどなぁと思ったので、考察してみました。八俣遠呂智さんは、かなり無理をして邪馬台国=越の国論を展開しており、ちょっと無理が有るかなと思うのですが、その無理を押し通すだけの研究をしているので、大変な博学です。で、邪馬台国と女王国の関係ですが、学者先生によっては「邪馬台国=女王国」と考える人が結構いて、著名な先生でもそう解説する方がおられます。でもそれは八俣遠呂智さんの言う通り間違いです。恥ずかしながら僕もそれを勘違いした時期がありましたが、今は理解できます。それは魏志倭人伝を読めば分かります。南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日陸行一月官有伊支馬 次日彌馬升 次日彌馬獲支 次日奴佳鞮可七萬餘戸自女王國以北 其戸數道里可得略載 其餘旁國遠絶 不可得詳次有斯馬國 次有巳百支國 次有伊邪國 次有都支國 次有彌奴國 次有好古都國 次有不呼國次有姐奴國 次有對蘇國 次有蘇奴國 次有呼邑國 次有華奴蘇奴國 次有鬼國 次有為吾國次有鬼奴國 次有邪馬國 次有躬臣國 次有巴利國 次有支惟國 次有烏奴國 次有奴國此女王境界所盡其南有狗奴國 男子為王 其官有狗古智卑狗 不屬女王自郡至女王國 萬二千餘里(意訳)南に行くと邪馬台国が有る。女王の都とする所である。水行十日陸行一月で着く。一番偉い官に伊支馬がいる。次は日彌馬升で、その次は日彌馬獲支、次は日奴佳鞮である。国の規模は七萬餘戸である。(邪馬台国連合の中は)女王国の北には、その戸数(国の規模)や道理(行き方)は(これ以降に書くように)おおよそは記載できるが、その傍らの国々は遠くて情報も無く詳しく知ることはできない。(女王国の北側には)斯馬國がある。次は巳百支國である。次は~途中略~次は奴国が有る。これ(奴国まで)が女王国に含まれる国全て(盡)である。その(奴国)の南に狗奴国が有る。男の王が居る。官は狗古智卑狗である。女王に従わない。注)盡の考え方により「其南」の意味が変わる。通説は地理的に考えて「次は」と連続してきたのだからと、女王国の北の果てに奴国が有り、狗奴国は女王国の南に在ると考える。しかし「盡」は「すべて」とか「有るのも全部」と言う意味である。つまり地理的に考えるのではなく政治的なことだと考えると、女王に属する国はこれで全てと読め、「其南」は「自女王國以北」の説明を再開する際に「次に」とは書けないので、「其南」と言う表現で再開したと読める。つまり狗奴国も女王国の北側の国の一つで、女王に属さないので一旦は区切ったけれども、北側の国の説明を再開するのならば、「其南」はその前に紹介された奴国の南と読めるのである。つまり「盡」をどう読むかで、狗奴国は奴国の南と読めるのである。これは後漢書の、建武中元二年倭奴国奉貢朝賀使人自稱大夫 倭國之極南界也 光武賜以印綬の「倭國之極南界也」から理解できる。金印を光武帝が何故授けたかの理由の説明である。通説はこれを「倭國の極南界也」と読む。変だと思う。「之」を「の」と読むのは訓読みである。中国では「シ」と読み、日本語の「の」と言う助詞ではなく、「これ」の意味で使う方が多い。なので、これは「倭国これ南界を極めるなり」と読むのが正しい。つまり倭国は南の果てまで征服した。だからこの辺を治める者として認めて欲しいと言っている。光武帝はその説明を詳しく聞き、納得したので金印を授けたのである。何の理由も無く大事な金印を授けるはずはない。その光武帝を納得させた説明が「女王国(当時は帥升)の北側の国々の説明」だと思う。南の果てまで征服したので「北側の国々」なのである。そして狗奴国もその「北側の国々」に含まれており、陳寿がその記録を読んで魏志倭人伝を書いたのならば、狗奴国も女王国の北側の国として書く。但し、陳寿は倭国大乱のことも知っている。だから、女王国の北側の国の説明を女王に従う奴国でいったん区切り、その後に狗奴国を書く為に再開したので上記のような文章になったのだと思う。このように魏志倭人伝を読むと邪馬台国≠女王国です。編者である陳寿は「邪馬台国」と「女王国」を使い分けています。何故使い分けたかを考えるのが面倒くさくて「邪馬台国=女王国」とする学者先生もいますが、陳寿はこの他でも、例えば国の規模を不彌國以外は「戸」、不彌國は「家」と使い分け、舟に乗って移動する場合も、岸に沿って進む場合は「水行」大きく渡るばあいは「渡」と意識的に表現を使い分ける人です。適当に「邪馬台国」と言ったり、「女王国」と言ったりしません。このように僕も八俣遠呂智さんの言うとおり邪馬台国≠女王国だと思います。でも八俣遠呂智さんの言うように邪馬台国⊂女王国ではないと思います。八俣遠呂智さんの説を下図に示します。僕の説は逆に邪馬台国⊃女王国だと考えています。魏志倭人伝を読むと、「自女王國以北 其戸數道里可得略載 其餘旁國遠絶 不可得詳 次有斯馬國」と書いてあるからです。もし「女王国連合」であるならば、女王国の北側に女王国連合の中の国が有ると言う表現はおかしく、国全体と中の一つの国が同じ名前(女王国)になってしまいます。「邪馬台国連合」ならば邪馬台国の中に女王国と斯馬國が有るのはおかしくはありません。いやその前に「南至邪馬臺国 女王之所都」と書かれているではないかと、疑問に思うかもしれませんが、ここを「邪馬台国連合」の意味で邪馬臺国といっているとしても、「邪馬台国」の意味で邪馬臺国といっているとしても、女王之所都と言うのは間違っていませんから意味は通ります。だから「邪馬台国連合」なんだと思います。現代人の僕達が「東京に行く」、「国会は東京に有る」と言うと、八王子や多摩も東京であるにかかわらず、千代田区等の都心部をイメージします。なので、「南至邪馬臺国 女王之所都」は奴国や伊都国も邪馬台国の一部なんだけど、女王が居る所をイメージして書いたので、実質女王の居る所を「邪馬台国」と書いたのでしょう。「邪馬臺国」が正しいのか「邪馬壹国」が正しいのかと言う議論が有りますが、私は「邪馬臺国」だと思っています。「翰苑に書かれた倭面土國王帥升」の「倭面土」も魏志倭人伝の「邪馬臺」も「大和」もイントネーションが違うだけで「やまと」と読めるからです。倭人の発音を漢字で表現する際に個々の人で聞こえ方が違い、そのせいで表現の仕方が違っただけだと思います。なので上の図ではまだ邪馬台国≠倭国ですが、時代が進んで邪馬台国は他国を征服して行き、邪馬台国=倭国となるのだと思います。いわゆる大倭国です。ただ、その後大倭国は日本国に負けて吸収され、日本になったのでしょう。なので旧唐書には、日本國者、倭國之別種也、以其國在日邉、故以日本爲名。或曰:「倭國自惡其名不雅、改爲日本。」或云:「日本舊小國、併倭國之地。」と書かれているのだと思います。
November 5, 2023
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