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構築主義という考え方がある。何事も最初から本質的な性質を備えているわけではなく、様々な作用のなかでそう構築されてきた、と考える視点だ。よくあげられる例は、「ジェンダー」だろう。男性は生まれた時から「男らしさ」を持っているわけではない。社会の制度や習慣によって「男らしさ」を身につけてきた。だから「男らしさ」は社会的に構築されてきた。そう考える。(P15) 「ジェンダーだろう」 と、まあ、当然の用語として使っておられますが、ぼくは 「ジェンダー」 という用語が、実はよく分かっていなません。 「用語の構築性から説明しろよ」 と云いたいところだが、ここでは 「男らしさ」 とか 「女らしさ」 と呼ばれる性別に対する社会的な 「共通認識」 について、その内容は 「歴史的」・「社会的」 につくりだされたものだ、くらいの理解でいいのでしょうね。 フーコー の権力論とか、 柄谷行人 の近代文学論とかが思い浮かびますが、ここでは直接関係はなさそうです。
数年前に大阪の地下鉄の駅で見かけた小柄な老婆の姿が目に焼き付いている。きちんと身だしなみを整えたその女性は、にぎやかな人並みに背を向け、小さな布の上で、ひとり壁に向かって正座したまま、じっとしていた。あの女性が社会から孤立しているのは、たぶん彼女だけの選択の結果ではない。私も含め、彼女の姿を視線の隅でとらえながらも、「関わらない」という選択をした多くの人びとが、おそらくは、その現実を一緒になってつくりだしている。(P14) 「関わらないこと」 が 「ふつう」 であるという、我々の社会の 「構築性」 ということに 気づけない 、 気づかない ということついて、 「関わらないという選択をした多くの人びとが、おそらくは、その現実を一緒になってつくりだしている。」 という発言に現れているのですが、じゃあ、それに 気づく にはということで、 エチオピア が出てきて、これが結構面白いのですね。
ぼくらは「これが正しいのだ!」とか、「こうしないとだめだ!」なんて真顔で正論を言われても、それを素直に受け入れることができない。でも、目の前で圧倒的な格差や不均衡を見せつけられると、誰もが何かしなければ、という気持ちになる。バランスを回復したくなる。 理不尽なのが構築性なのか、構築性の結果が理不尽なのか、ともかくも、目の前にある社会を見る時に、 「関係ない」 じゃなくて、 「何とか関係を持つ」 ための武器として、 「うしろめたさ」 があるかもしれませんよということですね。
震災後、冷たい雨のなか、がれきを拾い集める人たちの姿をテレビで見て、快適な部屋でなにもしていない自分にうしろめたさを感じ、被災地に義援金を送った、という人もいるだろう。国会前でデモが続いているとき、若者が自分の言葉で政治について語る姿を見て、自分はなにをやっているんだ、と反省を迫られた人もいるだろう(わたしです)。
こうして、倫理性は「うしろめたさ」を介して感染していく。目を背けていた現実への認識を揺さぶられることで、心と身体に刻まれる公平さへの希求が、いろんな場所で次々と起動しはじめる。
エチオピアの物乞いの老婆が通行人に「ほれっ」と腕を突き出すように、それまで覆い隠されていた不均衡を目の当たりにすると、ぼくらのなかで、何かが変わる。その変化が世界を動かしていく。(P174~P175)
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