全29件 (29件中 1-29件目)
1
鉄道でも、スイッチバックでしか行けない急こう配の山の中にあった、夕鉄「錦沢駅」。ここがスイッチバック以外でも名をはせていたのは、そこに遊園地があったからだ。1927年(昭和2年)頃から公園化がすすめられて、1963年(昭和38年)には豆汽車なんかの遊具を備えた遊園地となり、1970年(昭和45年)に廃線と同時に廃止された。当時の夕張は炭鉱景気のピークにあり、映画館や歓楽街は、頼まれなくても増え続けていた。大人の炭鉱マンの娯楽は整備されていたのだが、その家族、とくに子供の遊び場までは手が回るワケもなく、自然の中で走り回るのが遊びのもっぱらだった。遊園地的な施設は、札幌の三越、丸井今井、五番舘のデパートの屋上と円山動物園ぐらいしかなかった。夕張の「おかむらデパート」には、ちょっとした電動木馬みたいなのしかなかったし、だいたい、エスカレーターとか自動ドアさえなかった。ここに、初めて「遊園地」と呼べる施設が錦沢に誕生したのだった。
2016.09.30
コメント(1)
夕鉄で、どうしてもはずせないのが「錦沢」である。今回、調べてみて興味深かったのが、もともとは「大蛇ノ澤」と呼ばれていたのが、信号所建設中に「錦沢」に変更されたとのことである。「大蛇」から「ニシキヘビ」という発想だったのではと、勘繰ってみると面白い。この錦沢駅が有名だったのは、「スイッチバック式停車場」と呼ばれる珍しい路線だったことだ。子供の私は、進行方向が何回も代わるだけで、それがどうした、やたら面倒だという程度だったが、鉄道マニアにとっては、たまらない魅力だったろう。現在では残っているはずもないが、どこかで復活したなら、まぁ、全国の「テツ」はおろか世界中からマニアが集まるのではないだろうか。スイッチバックは、急こう配を鉄道が上り下りする苦肉の策だったのだが、「錦沢駅」は二岐峠(ふたまたとうげ)の中ほどにあり、ここは相当な急こう配だった。当時の二岐峠は急カーブの連続で、サイクリングの時など、家に帰るのをあきらめたくなるような難所だった。最近は何度も改修が繰り返され、昔ほどの峠感覚をまったく感じさせない。さらに、道央自動車道を利用した場合は、上っているという感覚がまったくないまま、夕張についてしまったりするので、なんだか拍子抜けしてしまう。
2016.09.29
コメント(0)
当時の「夕鉄」で私が覚えていることを書いてみたい。あくまでも私の記憶で思い込みもあると思うので確実な情報には程遠いのであしからず。まず、始発駅の夕張本町の駅舎である。ピンクがかったベージュのような色で、ちょっとサイロを思わすような、小さな駅舎だった。後に市民会館が建設され、その中に移ったように記憶している。私の住んでいた旭台や福住からは、かなりの距離があったが、当時は平気で歩いていたような気がする。客車も、何か国鉄のそれより一回り小さな感じだった。とにかく、バスが普通に走るまでは、この夕鉄が便利だった。あのボンネットバスの夕鉄バスが何本も走るようになってからは、その利用は極端に減っていった。なぜか、記憶に残っているのが、終点夕鉄野幌駅のひとつ前の「北海鋼機前」という駅である。たしか、夕鉄野幌駅から国鉄野幌駅までより「北海鋼機前駅」からの方が近かったので、ここで降りて乗り換えたような気もする。誰か、この辺についてちゃんと覚えている方はいらっしゃらないのか。いやはや、先輩を探さなくてはならないほどの年齢になってしまった。
2016.09.28
コメント(0)
さて、私の知る夕張にあった鉄道の最後が、これである。正式には「北海道炭礦汽船夕張鉄道線」というのだそうだが、私にとっては「夕鉄」だった。。「スイッチバックが有名なぐらいだろう」と、軽い気持ちでウィキペディアで調べたところ、資料的にもたっぷりで、これはなかなかな私鉄だった。「テツ」が喜ぶだろう的な、そんな軽いノリだったが、「テツ」が泣いて喜ぶほどの内容で、私にはとても着いていけなかった。ただ、ここでは、私が乗ったことのある、当時の思い出と「錦沢遊園地」について書いてみたい。それこそウィキペディアによると、1926年(昭和元年)に開業し、1975年(昭和50年)に廃止になっている。だから私の父が生まれる頃に出来て、私が20歳の頃に廃止になったということだ。繰り返しになるが、その昔、私が小学校に入ったころだから昭和36年ぐらいか、札幌に行く時には、この夕鉄で、野幌まで行き、そこから国鉄に乗り換えて行くのが一般的だった。「夕張本町駅」の駅舎と「野幌駅」での乗り換えは、今でもはっきり覚えている。
2016.09.27
コメント(0)
三菱石炭鉱業大夕張鉄道線の当時の始発駅である南部駅には、当時の客車が展示されているが、もはや朽ち果てていて、誰も管理していない。大夕張は、もうダムの底なのだが、南部はゴーストタウンとして残っている。百件以上の炭鉱住宅がひしめいていた青葉町は、ほとんどの炭鉱住宅は取り壊されているものの、電気屋から温泉まで何でもあった商店街は、そのまま朽ち果てて、かろうじて建っている。住民はまったくいないので、エゾシカが闊歩しているが、当時を知る者としては、もはや悲しさを通り越して、おみごとと言いたいほどだ。それほど、企業の身の引き方は早かった。もともとは、石炭を運ぶための鉄道で、炭鉱の従業員とその家族のために、サービス的に運行していた鉄道である。国鉄と違って利用しやすかったのか、テレビや映画のロケがよく来ていた。SLが家のすぐ横を走っていたのだから、今から考えれば贅沢なことだった。今は私の住んでいた炭住も無く、踏切も線路もかけらも残ってはいない。それどころか、南部や遠幌や住之江町のかっての住人も減っていくばかりで、鉄道のことを知っている人にさえ会えなくなってきている。時代は残酷だ。
2016.09.26
コメント(0)
喬太郎師匠と秋田、青森の深い縁を築いてきたのがH席亭である。さすが、このディクト寄席の最初で最多の喬太郎師匠である。当日券無しの完売で満員だった。師匠も、こう何回も来ていると演ることが無くなるなんてことを、枕でおっしゃっていたこともあるが、なんのなんの、今日の演目は、私は初見であり、堪能させていただいた。その上で贅沢な我儘を言えば、ウルトラマン落語も一席は聴きたかった。演目は次のとおり。一席目 提灯屋 二隻目 頓馬の使者(山田洋次作)三席目 夢の酒やっぱり、落語は奥深い。生意気にも喬太郎師匠の噺は、ほとんど聴きつくしたつもりになっていたが、あなた、とんでもない。前日の秋田市の演目よりは。ちょっとマニア向けの演目だったのか。改めて、師匠のというか、プロの落語家の凄みを感じた私だった。
2016.09.26
コメント(0)
毎回、スタッフと師匠が一体となって盛り上がるあきた落語愛喬会、今回は秋田市文化会館の小ホールということで、200人ほどの入り。演目は次のとおり。一席目 子ほめ二隻目 抜けガヴァドン三席目 死神「子ほめ」はあいかわらず、江戸っ子調子が快い。「死神」も、もう師匠の十八番と言えるのではないか。今回は、何よりも初見の「抜けガヴァドン」である。「抜け雀」という古典をウルトラマン的に改作したものなのだが、マニアの喬太郎師匠ならでは。私も、リアルタイムで「ウルトラマン」を見てきた世代である。そういえば、子供が土管に書いた怪獣の絵が抜け出るというのがあった。これが。「抜け雀」でなくてなんであろう。あれを書いた脚本家は、絶対に落語ファンに違いない。それにしても、そこに目を付けちゃう喬太郎師匠もたいしたものだ。ウルトラマン落語というDVDも10月に発売されるとのこと。本気で、さらに応援しちゃいます。
2016.09.25
コメント(0)
今の職場は、いろいろ事情があって事務所がプレハブなのだが、つい、先週まで暑くて中にいられないほどだったが、なんと今朝の気温は10℃以下で、これは寒い。私の代わりに出た職員は、どうやら電気ストーブをつけたようだ。この食鳥検査という仕事は、なぜか日曜と隔週の水曜が休みというのが多い。とくに、全国でも有数の処理羽数を誇るお隣の岩手県でも、そんな処理場が多い。で、私の派遣先の処理場も、同じなのだが、基本的に祝祭日は関係なく、日、水が休みなので、正月もお盆もゴールデンウィークもシルバーウィークも関係ない。でも、日、水以外の祝祭日に勤務した場合、代休を取ることになるので、裏GW、とか裏盆休みとかになってしまい、実は日曜から裏シルバーウィークに突入してしまう。まぁ、今回は落語があったりで、ちょっと忙しそうだ。そういえば、これまで確実に墓参りしていた彼岸だったが、すっかりスルーしてしまった。この裏SWに、周回遅れだが行ってみようか。
2016.09.24
コメント(0)
春風亭昇々はまだ30代になったばかりの本当の若手で、笑福亭羽光は昇々より年齢は一回り上だが、入門は一カ月遅れということで、兄さんは昇々ということになる。有望な若手を生で聴けるのはありがたい。それにしても、この落語会、アンケートも無ければ、次回の見通しも無し。青森在住ではないので、どんなアピールがあったのかは不明だが、とにかく、初めての会場で、若手噺家で満員御礼は立派なものだ。なにかと謎が多い落語会だったが、ディクトのH席亭に聴いてみようか。さて、今後の落語会だが、8月は行けるのがなかったのだが、9月は明後日に秋田市、その翌日はディクトで柳家喬太郎師匠を連日で聴ける。今のところ、10月は落語会はないが、11月に3つ、12月には5つほどと、うれしいラッシュが続く。退職前に比べると、時間的には余裕があるものの、体力的にちょっとハードではある。まぁ、頑張って、通うつもりだ。
2016.09.22
コメント(1)
今日は日刊スポーツで発見した落語会へ。会場は青森市の観光物産館アスパム2階の「青い森ホール」。ここは、360度スクリーンの劇場で客席は100席。聞いたところ、この会場で落語を開催するのは初めてとのことだったが、立派に満席となった。ここは、シネマディクトとも近いので、そちらからもお客さんが来るかと思いきや、私のみたところ、ほとんど重なりは無かったように感じた。だいたい、今回の席亭というか主催者、「BAR☆RAKU」というのがよくわからない。ただ、開演前に、昇々、羽光と共に高座であいさつした着物美人の佐々木さんが、今回の主催者らしい。ちょっと謎の落語会の演目は次のとおり。一席目 笑福亭羽光 たらちね二隻目 春風亭昇々 最終試験三席目 笑福亭羽光 桃太郎感想文四席目 春風亭昇々 初天神その謎の美女席亭 佐々木さん一押しのユニット「成金」からの二人はなかなかの実力者だった。羽光については、今も何も知らないのだが、実は実力者である、あの鶴光師匠の弟子ということで上方の若き実力者だと納得した。昇々は、昇太師匠の弟子で、その血筋で客いじりが抜群にうまい。狂的な高座には熱狂的なファンがいるようだ。おっと、長くなったので、明日に続く。
2016.09.21
コメント(0)
三菱石炭鉱業大夕張鉄道線は、大夕張炭鉱、鹿島地区から清水沢まで石炭を運ぶための鉄道であり、その炭鉱の従業員のために、サービス的に運航している、というような鉄道だった。ちなみに、今や大夕張、鹿島は、ちょっと前に完成したダムの下に沈んでしまっている。大夕張炭鉱の最盛期には、かなりの住民が暮らしており、小中学校はもちろん、夕張東高等学校もあったのだが、石炭が掘れなくなると衰退し、あっという間に街ごと無くなってしまった。その大夕張炭鉱が三菱という大手資本の力で、南大夕張に新たな炭鉱を開発し、大夕張炭鉱の従業員家族や、北海道各地の、たとえば美唄とかからも従業員を集めて、ヤマの街が出来上がった。夕張市立幌南中学校は、この新炭鉱の影響をもろに受け、片田舎の小さな中学校だったのが、いきなり生徒数が増えて、にわかマンモス中学校になり、かなり混沌とした大変な状態だった。私が入学したのはちょうど、そのピークのあたりで、いやおうなしに緊張した中学生活ではあった。
2016.09.20
コメント(0)
この鉄道には、多分、20回ほどしか乗車していない。つまり、通学なんかに利用してはいなかったのだが、強烈な思い出がある。私は子供の頃、父の転勤で5回ほど炭鉱住宅を引っ越しをしているのだが、その最後の住之江町の炭住の真横を走っていたのが、この鉄道だった。しかも、かなりの間、SL機関車が走っていた。で、家のすぐ横を走っていたのなら、さぞ音がうるさかったかというと、ほとんど感じなかった。というのは、例によって、ほぼ通学専用列車みたいなもので、朝夕しか走っていなかったのだ。この線もまた、人より石炭を運ぶための鉄道だった。私の時代では、南大夕張(通称「南部」)から、清水沢まで走っていたのだが、当時の夕張南高校の学生が乗客のほとんどであり、私の夕張北高や夕張工業の生徒は、JRとの接続が合わなくて使いたくても使えなかった。今から考えると、これは三菱が、「北炭」の領域には踏み込まず、まず、清水沢の高校まで、自分の会社の社員とその家族のためにという方針だったのではないか。だから、南部や、その奥の大夕張から通っていた北高の同窓生は、夕鉄や三菱のバスを使って清水沢まで通っていた。
2016.09.19
コメント(0)
今日、「この間、夕張へ行ったの、で写真を送りたい」という電話が、高校の同級生のAくんから電話があった。この夕張支線を読んでくれていて、「鹿の谷駅」や、高校の近くにあった食堂「茶楽」の写真なんかを見ることができた。夕張には毎年のように行っているので、写真そのものは珍しくはないのだが、送ってくれたことがうれしい。高校のホームページにリンクさせてもらっているし、毎日、何百人からのアクセスはあるものの、ともすれば、「本当に、誰か読んでくれているのか」と疑心暗鬼になったりすることもあるのだが、今回の夕張支線には、さすがに関心が高かったようで、多くの反応をいただき、このブログ的にも、また、続けようという気持ちになった。本当にありがとう!廃止までに間に合いそうもないのだが、なんとか夕張に行ってみたい。で、あと二つの私鉄、三菱石炭鉱業大夕張鉄道と夕張鉄道についても、書きたいと思う。
2016.09.18
コメント(0)
秋本治の「こちら葛飾区亀有公園前派出所」の連載が終了した。単行本200巻、40年間一度の休載もなく続いた、正にマンガ史に残る大金字塔である。今日発売の週刊少年ジャンプを思わず買ってしまった。そこに、連載第一回目が掲載されていたが、実は40年前にこれをリアルタイムで読んでいた。たぶん、大学の学生寮で、当時、ジャンプは誰かが必ず買って読みまわしていた。そういえば、当時、相模原や町田に、月曜発売のジャンプが日曜日に買える自動販売機があって、一時でも早く読みたいマンガ好きな連中は、そこで争うように購入していたが、もちろん、これはいけないことだったのだろう。さて、連載当初は「秋本治」ではなく「山止たつひこ」というペンネームで、これは当時週刊少年チャンピオンで大人気だった「がきデカ」の作者「山上たつひこ」のパロディだった。そんなこともあり、どーにもキワモノ的な作品という気がして、数回で終わるだろうと思っていたが、回を重ねるごとに味が出てきて、ジャンプの他の連載にはついていけないが「こち亀」だけは読むという感じだったが、まさかここまで続くとは。残るは「ゴルゴ13」、「ドカベン」、「はじめの一歩」ぐらいか。時の流れを感じずにはいられない。
2016.09.17
コメント(0)
中学生になる時に、遠幌というところに引っ越ししたため、夕張線との縁はほとんどなくなってしまった。そして、そのころから夕張本鉱で石炭が掘れなくなり、炭鉱事故などもあって、炭鉱景気に陰りがみえはじめ、あれだけ集中してい夕張駅近辺の炭鉱住宅はあっという間に減っていった。夕張線との縁は、高校に通うことになって復活した。住んでいた清水沢住之江町から、バスや自転車で国鉄清水沢駅まで行き、清水沢から次の鹿の谷駅まで、その頃はディーゼル機関車だった夕張線で3年間通った。清水沢駅にはキオスクがあり、そこで漫画週刊誌や東京スポーツを立ち読みしてキオスクのおばさんに「いいかげんにして」と怒られた。また、清水沢駅前にはその名も「駅前食堂」があり、そこで学生ラーメンを食べるのが通学時の最大の贅沢だった。この「駅前食堂」は今も健在で、夕張に行けば必ず昔の味を楽しんでいるのだが、その清水沢の駅も無くなってしまうのか。神奈川県の大学に入学する時に、親父が「チッキ」で布団袋を送ってくれたのもこの清水沢駅だった。昔も夕張北高と夕張工業の生徒専用のような列車だったが、今は、夕張高校に通う生徒が利用者のほとんどだという。私はいわゆる「テツ」ではないが、夕張支線廃止の時には、にわか葬式鉄になってみたいと本気で考えている。
2016.09.16
コメント(0)
やはり、夕張のことについて書くと、同級生からコメントをいただける。「同級生」さんには、奥村チヨの終着駅についての正しい情報を、教えていただいた。「沼津の同級生」さんは、まさに国鉄の社宅で育った方なので、私の生半可な思い出話より正確なことをご存じだろう。それでも、あえて書かせていただくのだが、昨日書いた洗炭機では、今では考えられないことだが、シホロカベツ川という小さな川の水で石炭を洗っていて、そのため、川の水はチョコレート色だった。私の住んでいた福住から、当時の夕張の繁華街、本町商店街に行く時、もちろん歩いてなのだが、そのチョコレート色の川に沿った裏道の近道を通って行ったのだが、その時、左手にあったのが当時の国鉄の社宅だった。そこには「沼津の同級生」さんや、当時私の気になる女の子も住んでおり、通り過ぎる時には、いろいろ期待してきょろきょろしていたものだった。しかし、当時の夕張線はまだ、石勝線がつながっていないこともあり、札幌に行くのには、夕鉄やバスを使っていて、あまり交通の拠点ということではなかった。登川や滝ノ上など支線も多かったのだが、やはり、あくまでも石炭を運ぶための鉄道だった。
2016.09.15
コメント(0)
私が知っている限り、国鉄後の夕張駅は3度場所が移っている。最初は福住にあった。ここは、北炭の本鉱があった場所で、そのヤマを囲んで高松、社光、丁未、福住、旭台という地区に炭鉱住宅がひしめいていた。駅の奥には洗炭機という採掘した石炭を洗う大工場があって、そこで洗った石炭を貨車に積み込む巨大なターミナルの端に、その利用者にはそぐわない小さな駅だった。しかし、その近くには夕張神社や私の卒業した夕張市立第二小学校などがあり、交通の起点だった。子供の頃、有珠や銭函へ海水浴に連れて行ってもらった時には、朝早く起こされて始発電車(といっても、SLかジーゼルだが)に乗ったものだった。私は、旅行も楽しかったが、キオスクで売っている40円の週刊サンデーやマガジンが欲しくてたまらなかった。このキオスク崇拝は、今になっても続いており、マンガ週刊誌やそこでしか買えなかった東京スポーツやファイトを、大人になってもぞくぞくしながら買っていた。この夕張駅は文字通りの終着駅で、奥村チヨの「終着駅」というヒット曲のレコードジャケットの撮影や、ドラマのロケなどがよく来ていた。うる覚えだが、高校生の頃に、昔の夕鉄駅だった市民会館に移り、さらに現在のレースイスキー場に移ったように思う。最初の夕張駅は、一時は観光施設としてつかわれていたが、今ではその観光施設もたちゆかなくなり、住人はもちろん、訪れる人もいない。
2016.09.14
コメント(2)
私が夕張で乗ったことのあるのは、旧国鉄夕張線と夕鉄と三菱大夕張線の三つである。夕鉄と三菱はもちろん私鉄で今はかけらも無いのだが、どちらも思い出深い鉄道である。で、この二線については、後からゆっくり書かせていただきたい。今回は国鉄時代から今も残っている石勝線夕張支線である。全盛期に12万人弱の人が暮らしていた夕張市は、住人のほとんどが炭鉱の関係者だった。私の感覚では、炭鉱関係8割、そのほか2割という感じで、その2割の中でもっとも多かったのが国鉄関係者だったように思う。夕張の鉄道は、12万弱の住民のためにではなく、あくまでも石炭の運送が目的だった。だから、ヤマ(鉱山)ごとに、例えば、夕張本鉱、平和鉱、真谷地鉱、というように、石炭の採炭されるヤマに最寄りの駅ができていった。いや、人の乗れる駅は無くても、石炭を積み込むための線路は確実に各ヤマにつながっていた。だから、石炭が掘れなくなったヤマには石炭も人もいなくなってしまうので、鉄道だけが残るはずもないのである。ましてや、炭鉱が一つも無くなり、人口が一万人を切り、さらにクルマ社会になってしまった今、鉄道が残っていることの方が不思議なのである。
2016.09.13
コメント(0)
とうとう夕張に鉄道が無くなろうとしている。夕張市長が、JR北海道の地域振興協力を条件に石勝線の夕張支線の廃止を提案したというのだ。個人的には、この鉄道を使って3年間高校に通っていた。2,3年前の冬には、札幌から石勝線新夕張駅で降りて、「つん」に迎えに来てもらった。思い入れは、本当に深いものがあるが、ここ秋田にいて、賛成だとか反対だとか遠吠えしてもしょうがない。ただ、ただ残念だといか言いようがない。夕張市民も、半ばあきらめてはいるものの、喪失感は並々ならぬようだ。だから、私ごときが、賛成だ、反対だ、どーしろ、こーしろとは書かない。だから、私と夕張の鉄道についての思い出を書く。夕張と鉄道は本当に切り離せないものだった。というより、石炭と鉄道が炭鉱街夕張のすべてだったように私は感じていた。石炭で走っていたSLが強烈に焼き付いている。
2016.09.12
コメント(0)
もう終わったつもりだったのに、また新事実とかがみつかり、もう、豊洲新市場は完全に汚染施設のような報道のされかたである。ようは、盛土をしているかどうかではなく、その施設が衛生的に問題があるかどうかなのである。あの施設の建設を手掛けた業者や東京都は、それを証明しなければならない。地下にたまった水についても同様に、大丈夫だというのを示さなければならない。これが出来ないのなら、移転は中止して、豊洲は立て直しを含む大改造が必要となる。土壌汚染が食品加工・販売施設にどのような影響を及ぼすかは、実は法的にもその汚染濃度を数値で規制しているわけではなく、「食品関連施設は汚染の心配のない土地に建設しなければならない」というような、ごくごく常識的な規制があるだけなのだ。ここを証明するのはなかなか難しい。それにしても、どうして、このタイミングで、こんな事実が発覚してしまうのか。私の生涯の仕事である食品衛生の根本がないがしろにされたようで、なんとも、いやな問題ではある。
2016.09.11
コメント(0)
ようするに、築地では、もはや限界がきていたということで、移転は必至ではあるのだ。今日になって、豊洲の土盛りがどーのとかで衛生状態が不安視され、小池知事の移転延期が正当化されそうな雰囲気ではあるが、なんか、この移転騒ぎには怪しいことが多すぎる。もっと、日本の食品流通というものをちゃんと考えなければ、いずれどこに移転しようが先は真っ暗だ。全国的に、いわゆる「魚屋さん」という店が無くなり、スーパーの魚売り場がこれに代わっている。しかも、大手のスーパーでは、生産(漁猟)、運搬、加工、販売を全部自前で行い、その結果、卸売市場を経由しないでも営業が可能となってきている。むしろ、それが主流となりつつある。そうすると、これまでの卸売市場を中心とした流通形態は崩壊し、現に各都道府県にある地方卸売市場はどこも青息吐息である。築地から豊洲への移転は、日本の食品流通の今後を占う重大事なのだが、移転前から、このごたごたでは先が思いやられる。
2016.09.10
コメント(0)
あまりに古い歴史的な「場内」は、まず温度管理という概念の以前に出来たため、せいぜい後付けの冷房設備しかない。さらに、その温度管理とも大きく関係しているのが区画なのだが、業者の増減や出入りがあって、適正な区画が出来ていない。本来なら区画として認められないシャッターがそこらじゅうにあり、悪いことに、地方市場が築地を参考にして建てられるため、シャッターがいまだに幅を利かせている。そして、床に直置きされる魚介類である。今はスノコを使うように改善されてきてはいるが、やはり、市場では、ガラ箱に氷を敷いて、床に直置きスタイルが横行している。ほんの20年ほど前に、「日本で一番多かった食中毒は腸炎ビブリオ菌によるものであり、これを防ぐため、魚介類販売業は特に刺身の調理場を厳重に規制してきたのだが、いわゆる魚介類せり売り業の卸売市場だけは、なかなか規制が難しかった。その結果、「マグロの解体ショー」なんかが、テレビで紹介され、全国的に行われることになってしまった。「マグロの解体ショー」は食品衛生法上、魚介類販売業の「生食調理」にあたり、許可を得た屋内の温度管理された調理場でしかやってはならない。パチンコ店の店頭で新装開店の客寄せのためというのは、とんでもないことである。
2016.09.09
コメント(0)
あまり知られていないことだが、築地には「場内」と「場外」があり、その管轄保健所は違っているのだ。まぁ、その管轄保健所の違いは問題ではないのだが、この両者には大きな違いがある。今、移転で騒がれているのは「場内」で、卸売り業者(魚介類せり売り業)や仲卸業者(魚介類販売業)が古くて狭い敷地にひしめいている。「場外」は、この「場内」から仕入れた新鮮な魚介類などを販売(魚介類販売業)したり調理(飲食店営業)したりして、市場利用者や観光客に提供する、いわゆる商店街である。で、この両者には大きな違いがある。「場外」は少なくとも「場内」より後からできたので、食品衛生法に基づき許可を受けて営業している。つまり、冷蔵・冷凍の温度管理、施設の区画区分、手指消毒設備などが完備されていなければ許可を取ることができないのだ。だが、「場内」の方は、あまりにも歴史が古く、あまりにも敷地が狭く、あまりにも業者の増減が激しかったため、必ずしも食品衛生法をクリアしているとは言えないのだ。
2016.09.08
コメント(0)
築地に研修で行ったことがある。食品衛生監視員として、秋田中央卸売市場に市場監視班として勤務していた。朝は、午前3時からと、早かったが、公務員生活ではもっともやりがいがあり、楽しい業務だった。この勤務で、魚の種類と、流通のなんたるかの一端を知ることができた。なにしろ、販売先の店舗に運ばれる以前の食品をチェックできるのがありがたかった。で、全国の市場監視員の集まりがあり、そこは、やはり、日本の市場の大元である築地は食品衛生監視員にとっては聖地のような場所である。なにせ、平成になったばかりのことなので、記憶は定かではないが、2泊3日で研修にいかせていただいた。確かに施設は老朽化していたが、検査器具やシステムなどは、おおいに勉強になった。その当時でさえ、従業員に外国人が多かったのが印象的だった。秋田のような地方の市場に比べると、その規模や衛生管理は数段上だったのだが、実は築地には問題があった。
2016.09.07
コメント(0)
実は2回目の裏盆休みで、明日まで贅沢な4連休である。メールの整理や読み残しの雑誌の読破やら、ボクシングやら、連日のラーメン店「十八番」通いやら、かなりやりたいことをクリアして、今日はハリルジャパンの初勝利を堪能した。まぁ、勝てて良かったが、本田と香川の出来には、ちょっとがっかりしたし、長谷部もなんか不安で、このままではオーストラリアやサウジに負けてしまいそうだ。それでも、なんとかロシアには行ってほしいのだが。だいたい、今度のロシアワールドカップは、ひょっとしたらドーピングフリーになるかもしれないので、どんな手を使ってでも行ってほしい。それにしても、ロシアはというかプーチンは、もう少し謝れ!と思っているのは私だけなのだろうか。年を取ったせいなのか、ワールドカップも、オリンピックも、プロ野球も、なんか、昔ほど応援に身が入らないというか、夢中になれない。これは、やっぱり、老化なのかも。
2016.09.07
コメント(1)
社会人になり、何回か安い腕時計を買い替えたのだが、相変わらず腕時計はキズだらけだった。このころからボタン電池というのが腕時計の動力源として主流になっていた。Gショックは落としても、その名のとおりなのかは知らないが、ショックからガードされていて、落としてもガラス面にキズがつくこともなかった。このGショックが欲しくてしょうがなかった時に、女房のお父さん、つまり義父がパチンコで取ったという、カシオのアウトドア用の腕時計をいただいた。こいつは、Gショックの上位機種であり、気圧の計測が出来るなど、なかなかの優れものだった。この時計には、長々と世話になった。2年程前に寿命で壊れてしまったのだが、同じようなのを、すぐにでも購入したかった。しかし、金も暇も無くて、不本意ながら携帯で我慢して定年を迎えたのだった。それにしても、今の腕時計の凄いこと。私の様に間抜けなことさえしなければ、電池切れの心配は無く、時間合わせも、もはや死語なのだ。私にとっては、究極の腕時計を2個も持っているということで、スマホなにするものぞという気迫で非常勤職員として頑張っていきたい。
2016.09.05
コメント(0)
私は腕時計が好きだ。そーゆー時代に育ったので、腕時計をしている時はビジネスモードなのだ。で、一番最初に腕時計を手にしたのは、多分、高校入学の時に買ってもらったのが最初だったろう。バスと列車で通学していたので必需品だった。おぼろげな記憶だが、たしか、セイコーの「自動巻き」だったような気がする。当時の腕時計はゼンマイが動力で、リューズを自分で巻かなければ止まってしまったのだが、この自動巻きは画期的で、ちょっと腕を振ったりするとゼンマイが勝手に巻けるのである。当時の腕時計は、もちろんアナログで、デジタルという概念さえ無かった。だから、日付と曜日のカレンダー機能の小窓があれば最新式だった。で、高校時代も、大学生になってからも、多分、これを使い続けていたのだが、なにしろ、ガラス面に傷がつきやすかった。この動力源とガラス面のキズを、一挙に解決したのが、カシオの「Gショック」の出現だった。
2016.09.04
コメント(0)
いつも夕張に行くと、「つん」の家にお邪魔して、夕張在住の友人、近所に住んでいる「山信」とジンギスカンなんかをごちそうになる。去年もその場があって、「腕時計がぶっ壊れて、欲しいんだ」と何の考えもなく話したところ、山信が「時計なら、売るほどある。机の中に何個かあるから、今度持ってくる」と言ってくれた。なるほど、山信は夕張で唯一といっていいほどの大企業「夕張シチズン」の重役だった。なんだ、彼におねだりすればよかったのだと思っていたのだった。ところが、今年の3月に退職祝いに、秋田県には2件しかない百貨店商品券をいただき、迷わず、そこそこの腕時計、カシオのGショックを購入、これはこのブログにも書いたが、記念になるとの考えもあった。で、この4月の同窓会で山信が律儀にも、腕時計を持ってきてくれた。これが、商品券でゲットしたものよりも、高価でシックな逸品。当然、普段はGショックで結婚式なんかには、シチズン エコドライブ アテッサということになり、家に大事に保管していたことが、今回の怪音事件を引き起こしたのだった。いや、山信には本当に感謝しております。なのに充電切れさせてしまい申し訳ない。私の2本の腕時計は、ちゃんと正確に時を刻んでおります。
2016.09.02
コメント(0)
ソーラー充電が切れた腕時計は、なんとか再生した。しかし、便利な世の中になったものだ。この腕時計は、実は「夕張シチズン」の重役の同級生、「山信」にいただいたもの。そのいきさつについては、ゆっくり書かせていただくつもりなのだが、そーゆーことで、取扱説明書が無い。で、さっそくパソコンで調べたところ、ちゃんと入手できた。その結果、今はちゃんと正確に動いていてくれる。それにしても、「電波時計」というのは、あなどれない。というより、わけがわからない。その昔、壁掛けタイプの電波時計に初めて遭遇した時、時間の合わせ方がわからず、かなり悩んだのだが、ネットで調べると、ほっておけば、勝手に時刻を合わせて動くという。なかなか信じられなかったのだが、本当だった。そうなると、勝手に時刻合わせする瞬間を見たいと思った。しかし、電波受信は午前2時とかなので、あきらめていた。で、今回の腕時計の場合は、強制受信とかいうのをする必要があり、やってみたのだが、いや、これはすごい。なんだか信じられないぐらいすごい。長針、短針、秒針、日時曜日なんかが、グルグル代わって正確な表示になるのは、ちょっとした見ものだった。
2016.09.01
コメント(0)
全29件 (29件中 1-29件目)
1