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2021年06月02日
インテルリガ終了(五月廿九日)
テレビでは全く放送されず、存在を忘れてしまいそうになるハンドボール女子のインテルリガのレギュラーシーズンが終わり、いつの間にかプレーオフが始まっていた。スロバキアのほうは知らないが、チェコ側のプレーオフは終了して最終的な順位が決定した。予想通り今年もまたモストが優勝。これで八回目だというが、来シーズンはコレショバーがドイツから帰ってくるからさらに強くなりそうである。
ハンドボール女子のインテルリガは、チェコとスロバキアの二カ国共同で開催されているが、最終的にはそれぞれの国のチームだけでプレーオフを行って、優勝チームを決めることになっている。出場チームはチェコが8チーム、スロバキアが4チームの計12チーム。チェコ側では上位4チームが優勝を争うプレーオフに進出し、下位4チームは最終順位を決める追加のリーグ戦を行う。例年は再開のチームが降格するのだが、今シーズンはどうなるかわからない。二部リーグが感染症対策で中断して再開されなかったため順位が決まっていないのである。
とまれ、レギュラーシーズンの順位は、上から、モスト、ミハロフツェ、ドゥナイスカー・ストレダ、オロモウツ、スラビア、シャリャ、ポルバ、ズリーン、ピーセク、プルゼニュ、プレショウ、ホドニーンの順番。チェコ側のプレーオフは、モスト対ポルバ、オロモウツ対スラビアの準決勝で始まった。
女子のプレーオフはそれぞのれホームで1試合ずつ行って、一勝一敗の場合は二試合合計の得失点差で勝ち抜けチームを決めることになっている。引き分けの場合も男子とは違って、7mスロー合戦は行わない。以前は先に二勝したチームが勝ち抜けとかやっていたような気もするのだが、この辺のルールはころころ変わるので、今年だけの特別ルールかもしれない。
モストとオストラバの一地区であるポルバの対戦は、ポルバでの初戦が23−21、モストでの第二戦が26−18でどちらもモストの勝利。予想通り最近のチェコ最強チーム、モストがあっさり決勝進出を決めた。思い返せば、ポルバもそうだけど、モストもこちらに来たばかりのころは、一部リーグには存在しなかったんだよなあ。
もう一つの、こちらに来たばかりのころも優勝争いをしていたオロモウツとスラビアの対戦は、プラハでは24−22でスラビアが、オロモウツでは27−25でオロモウツが、どちらも二点差で勝って、対戦成績だけでなく得失点差でも並ぶという結果になった。ただし、いわゆるアウェーゴールの差というやつでスラビアが決勝に進出。このルールも正直意味不明で、無理にサッカーなんぞに合わせずに延長するなり、7mスロー合戦をするなりすればいいと思うのだけどなあ。
スラビアとモストの対戦となった決勝は、25−21、33−21でモストが圧勝。中断したまま終了した昨シーズンを除けば、初優勝だった2012/13年のシーズン以来、これで八連覇である。スラビアは5シーズン連続の5位とここ数年毎年上位は同じ結果になっている印象である。だからこそスラビアを応援していたのだけど、オロモウツに勝ったチームだし。
3位決定戦は、ポルバでの試合はポルバが22−20で勝ち、オロモウツでの試合は17−17という極端なロースコアで引き分けに終わった。それで、ポルバが3位、オロモウツが4位ということになった。今年はレギュラーシーズンが終了した時点で、チェコ側で2位だったから、メダルも期待できるかと思っていたのだけど、ジャガイモメダルに終わってしまった。以前は毎年のように優勝を争い、3位以内に入っていたのだけど、ポルバとそれに続くモストの台頭でオロモウツの成績は下降気味である。最後の入賞したのはもう十年以上前になるのかなあ。
チェコ側の5位から8位のチームで行われた追加のリーグ戦、いわゆるプレイアウトの結果、決まった順位は、5位ピーセク、6位ズリーン、7位プルゼニュ、8位ホドニーンである。以前1部で活躍していたベセリーやクノビツェの名前が消えている。スポンサーが撤退でもして強いチームを維持できなくなったのかなあ。時代の流れというのは残酷なものである。
2021年5月30日25時。
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2021年06月01日
検査(五月廿八日)
やんごとない事情で来週職場に出る必要が出てきた。現在のチェコでは、職場に出るためには、光の条件が課されている。感染したこともなければワクチン接種を受けたこともない人間には、検査を受けるしかない。職場が提供している定期検査は、金曜日の午前中というこちらに外せない用件がは言っている時間帯設定されていたため、受けることができず、ずっと自宅で仕事をしていたのだが、その用件がひとまず片付いたので、検査を受けに行く時間が取れるようになった。ということで久しぶりに引越し前の職場があった建物に出向くことになった。
検査を受ける前に、検査字間を予約と言うか登録と言うかしなければならないのだが、連絡のメールが来てすぐに、指定のアドレスにアクセスしたのに、開始直後の9時台の予約は完全に埋まっていた。思い返せば、この検査が導入されたときも、9時すぐに検査を受けることができれば、外せない用件とは重ならなかったのだ。それができなかったから、諦めて再び自宅監禁生活に戻る破目に陥ったのである。一説によれば、事務系の仕事をしている人たちが優先的に検査の時間を選べるようになっているのだとか。
結局、早めの時間も遅めの時間もすでに埋まっていたので、中間の10時ちょっとすぎに検査を受けることになった。仕事が一段落ついて気が抜けて以来、二週間ほどほとんど外に出ない生活を続けていて、以前と同じぐらいのスピードで歩けるか自信がなかったので、9時過ぎにはうちを出ることにした。普通に歩けば30分ほどで着くのだが、余った時間はちょっと足をのばして、街を見て回ることにする。コーヒー屋のコドーへの行き帰りで通る道以外は、最近通っていないのである。
規制緩和のおかげか、街を行く人の数は以前より増えているのは確かである。ただ、前回街中を歩き回った一か月ほど前と比べても、営業をやめたと思われる店の数が増えていた。店内営業再開の近いレストランの中にも、持ち帰り用の窓口も設置しておらず、例年は出しているザフラートカも出してないところもあった。キキリキも以前は窓口があったのに、閉まっているように見えた。
以前OPプロスチェヨフの直営店で、倒産後は後継ブランドのRVファッションの店になっていたところが閉店して店内が空っぽになっているのには驚いた。ここは他のOPプロスチェヨフの店が消えた後も生き残った店だったのである。集客力の大きいシャントフカの店に一本化したと言うことなのだろうけど、このチェコのブランドも先は長くないかもしれない。以前買ったのは、直営店のはずなのに別ブランドのものだったし。
あちこち見て回りながら歩いていたら、余裕を持ってうちを出たはずなのに、会場に到着したのはぎりぎりだった。多少早く着いても遅くれても問題はないのだろうけれども、小心者なので時間を厳守してしまうのである。その結果、一分間隔で指定された時間通りに受付を済ませて会場へ。二か所で同時に検体の採取が行なわれているようで、待つことなく椅子に座らされた。
頭をちょっと後ろに倒してねと言われたのが、一瞬わからなかった。動詞に接頭辞の「za」が着いていることに気づけば、「後ろに」だと理解できたはずなのだが、ちょっと緊張していたのである。それで、わくわくというよりはどきどきしながら、何をされるのか待ち受けていたら、綿棒を鼻に入れられて、特に何も感じないままに、お仕舞いと言われてしまった。あまりにあっさりと終わってしまって、両方の鼻の穴だったか片方だけだったかも思い出せないぐらいである。
自宅から徒歩で往復一時間以上かけて出かけて、検査にかかった時間は10秒以内。楽だったといえばそれはその通りなのだけど、こんなんで検査できているのかという不安を覚えてしまった。誰かがめちゃくちゃ痛かったとか書いていたけどあれはPCR検査だったかな。同じアンチゲンではうちのはくすぐったかったと言っていたけど、くすぐったさどころか綿棒が鼻の中にあるのもほとんど感じられなかったのである。
問題があったら10分以内に連絡が来ることになっていたので、会場を出てからしばらくは陽性の連絡があるんじゃないかと不安に思っていた。ほとんど外出しない生活をしていて、感染する可能性はゼロに近いとはいえ、何が起こるかわからないのが検査というものである。検査キットはどうせ中国製だろうしさ。三十分以上時間をかけて自宅に戻るまでには何の連絡もなく、結局午後二時か三時になってメールで陰性の連絡が来た。ふう。
さて、問題は来週どうするかなあ。再来週は特に職場に出る必要はないはずだから、パスするかなあ。
2021年5月29日24時30分。
2021年05月31日
最近読んだ本(五月廿七日)
さて、と文章を始めるのもどうかとは思うが、お休み期間中に何をしていたかと言うと、読書である。仕事も一山越えて気が抜けていたので、久しぶりにSDカードを引っ張り出して、リーダーで古い小説を読むことにした。何となく時代小説か、歴史小説が読みたくなったのである。いわゆるウェブ小説で、歴史を題材にしたり、過去を舞台にしたりした作品の多くは、現代人が過去に転移、転生して歴史を変えていくというストーリーの話が多くて、飽きてきたので、久しぶりに実在の人物ではなくても、当時の人を主人公にして歴史を変えない作品を読もうと考えたのである。
今回、最初に読み返したのはシバレンこと柴田錬三郎の「岡っ引きどぶ」のシリーズだっただろうか。他にも平岩弓枝の「御宿かわせみ」シリーズや、宮部みゆきの『耳袋』をねたにした話などあれこれ読んだ。いわゆる捕り物帖的な作品にも実在の人物が登場することがあって、池波正太郎の「鬼平犯科帳」シリーズや、「剣客商売」シリーズの場合なんかは、実際の歴史の流れが作中のできごとに影響を及ぼすこともあるのだが、登場人物たちが積極的に歴史の流れに影響を与ようとしない限り、特に読み終えて予定調和だったという印象を持つことはない。事件が解決されるのを予定調和とは言わないだろうし。
それに対して、歴史小説、時代小説でも歴史を動かせるような立場の人物を主人公に据えて描かれる作品、特に正史の上では敗者とされる人物を主人公にしてその視点から歴史を描き出すような作品の場合、物語が終わりに近づくにつれて、ストーリーが実際の歴史の流れに収斂されていくところに、そう書かざるを得ないのは十分承知の上で不満を感じてしまう。敗者である主人公が有能で魅力にあふれる人物として描き出された作品ほど、その傾向は強くなる。
半村良の『慶長太平記』も、シバレンの『徳川太平記』も、徳川の世の中をひっくり返そうと陰謀をめぐらす側の姿が、見事に描き出され、これなら歴史が変わるとまでは言わないけれども、歴史の見方が変わるような結末が待っているのかと思ったら、あっさりと、陰謀は失敗に終わり、歴史の流れにひれ伏してしまうのである。
これは司馬遼太郎の歴史小説を読むときに感じる不満につながっている。すべての作品でそのようになっているのかは知らないが、少なくとも河井継之助を描いた『峠』を読んだときに、終盤近くまでは主人公に寄り添って、その視点から微細なところまで筆を進めてきた作者が、突如として主人公を突き放し、正史の側の視点から語り始めるのに、裏切られたような気分になったのを覚えている。物語を実際の歴史に収斂させるためには必要な書きぶりではあるのだろうし、この書き方を高く評価する人もいるのだろうけど、個人的にはこれで懲りて司馬遼太郎の作品を読みたいとは思わなくなった。
そして、半村良の『妖星伝』では、物語が予定調和的に歴史そのものになって終わらないように、宇宙にまで話が広がって仏教的な終焉を迎えなければならなかったのかなんてことも考えてしまう。あの長い断絶の果ての無理やりにも見える仏教的な完結のしかたも、どうなのかなと思ってしまうが、鬼道衆という魅力的な存在が幕府の歴史の中に取り込まれて埋没してしまうよりはましなのかなあ。その意味では時代小説も歴史小説も、伝奇小説と同じように完結しないままに話を書き次いで行くか、物語が大きく広がっていく段階で中断するかしたほうが、読者を満足させるのかもしれない。『産霊山秘録』も舞台を宇宙に広げたといってもいい終わり方だったかな。
そんな実際の歴史に収斂していくのを避けるために書かれたのが『戦国自衛隊』だと言ってみよう。過去に転移した現代人が、現代の技術や知識を使って歴史の流れに関与してそれを変えていくというタイプの作品のルーツとも言うべき作品だが、SF的な発想で書かれているため、主人公たちの歴史改変が、実は変わってしまいそうだった歴史の流れを、細部は異なるけれども、巨視的に見れば本来のものに戻すものだったという落ちがつく。
そこからさらに一歩進めば、収斂すべき歴史の存在しない架空の日本的な世界を舞台にした『飛雲城伝説』につながる。日本の戦国時代を思わせる時代を舞台にしたこの小説は、多くの矛盾した記述がありながら、少なくとも前半は傑作となりそうな期待に満ちていた。それが、実在した戦国武将が登場するという方向に迷走して、完結できなくなったのが残念でならない。
考えてみれば、未完の大作『太陽の世界』も架空の世界を舞台にした歴史小説だと言えなくもない。これは基準となる歴史の存在しない世界を舞台にして歴史小説を書き上げることの難しさを意味しているのかもしれない。希代の物語作家だった半村良ですら完結することができなかったのだから。ならば、あまたの歴史改変型の小説が、完結しないままに終わるのも、実際の歴史から乖離が大きくなるにつれて、面白くなくなっていくのも当然である。例外はあるのだろうけど。
2021年5月14日24時。
2021年05月30日
復帰(五月廿六日)
五月の半ばに、仕事で大きな山を一つ越えたときに、気が抜けてしまってしばらく文章を書くのもサボってしまった。直接のきっかけは週末オロモウツを離れた際に予約投稿をするのを忘れていて、出先で投稿するのも面倒だと思ってしまったことなのだが、気が抜けていなかったらオロモウツに戻ってからすぐに再開していたはずである。
毎年、この時期に仕事が一段落つくので、気が抜けがちで、最初からそんなに高いものでもないのだけど、書くものの質も落ちるような気がしているので、これを幸いとまとまったお休みをとることにした。今年は一年毎日なんてことは目標にしていないから、これまでも何度か「仮文」と称して休んだこともある。今回は当初は休む気はなかったので、事前に「仮文」は出さなかったし、お休みの間はブログの管理画面にも入らなかった。
もちろんこのままやめてしまう気は全くなかったので、問題はどのタイミングで再開するかだった。書くことへの意欲がたまるまで待っていたら、いつになるかわからないし、意欲が全くないわけでもなかった。必要なのはきっかけである。ロシアがチェコをアメリカと並ぶ敵性国家に認定したというニュースが出たときも、ちょっと動きかけたのだが、怠け癖が発動して踏ん切りがつかなかった。それで、一週間は過ぎたし、十日も過ぎそうだから、いっそ六月からの復帰にしようかなんてことを考えていたら、衝撃の、いや笑撃のニュースが飛び込んできた。
三月末に三月中は解任しないと発言したバビシュ首相は、その約束を守って四月に入ってからブラトニー厚生大臣を解任した。ロシア製ワクチンの導入を求めるゼマン大統領の要望に応えたもののようにも見えたし、ワクチンの接種が進んで規制緩和の動きが出始めたところで、それまでの厳しい規制の責任を負わせて切り捨てたようにも見えた。ブラトニー氏に問題がなかったとは言わないが、就任当初よりはかなりましになっていただけに、下院の総選挙まで半年ほどのこの時期に大臣を交替させることに意味があるとは思えなかった。
後任に選ばれたのは、プラハの大学病院の院長を勤めているというアレンベルグル氏だったのだが、就任早々から、これは交替しないほうがよかったんじゃないかと言いたくなるような言動を繰り返していた。バビシュ首相がまともな、信頼を失っていない状態だったら、引き立て役としてよかったのだろうけれども、バビシュ首相が期待したと思われる規制に責任のある大臣を更迭して、支持率を取り戻すというのは完全に失敗に終わった。
さらに、就任後しばらくして、その資産をめぐるスキャンダルが明らかになって、むしろ政権への支持率を減らす結果になっていた。まあ現在のANOの支持率はこれ以上下がらないところまで落ちているから、実害はないのかもしれない。一定数の支持者たちはどんなスキャンダルがあっても、野党やマスコミのデッチ上げだとしてバビシュ氏支持をやめないのである。現状では有権者の20パーセントぐらいだろうか。
アレンベルグル氏のスキャンダルというのは、一つは大臣就任に際してなのか、それ以前の病院の院長としてなのかはよくわからないのだが、いずれにしても義務に基づいて公表した資産に漏れが多いというものである。特に不動産に関してはマスコミの調査が進むにつれて数が増え、最終的には百件を越えて、時価換算の総額も単に医師や病院の院長として仕事をしているだけでは、手に入れられるはずのないレベルになっていた。
また、自らの所有する物件を、自ら院長を務める病院に貸し出して、多額の家賃を手にしていたというのも批判の対象になっていたが、この手のやり口はチェコではそれこそ日常茶飯事で、厚生大臣に就任していなかったら見逃されていた可能性は高い。チェコの野党もマスコミも、身内に似たようなことをやっている人がいるからか、政権攻撃のねたにならないかぎり、この手の瑣末事は取り上げようとはしない。
これらの批判の高まりに耐えかねたのか、アレンベルグル氏はバビシュ首相に辞表を提出した。ここまでは、こちらの想定内だったのだが、後任の名前には驚愕するしかなかった。ほんの八か月前に感染症対策を巡る混乱の責任を取らされて辞任したアダム・ボイテフ氏が再任されるというのである。スパルタの監督と同じぐらい交代が早いなんて声も上がっていたけれども、流石のスパルタでも一月、二月で監督を代えることはない。以前の監督が再任されることはあるけど。
いやはや、バビシュ政権のお笑い担当は、これまでは社会民主党のノミネートで身内からもクレームのついたスタニェク氏が就任した文化大臣か、テョク氏の後の大臣がカレル・ゴットの追悼式に権力をかざして割り込むぐらいしか能がなく、ハイパー大臣ことハブリーチェク氏が兼任することになった運輸大臣だったのだけど、完全に厚生大臣に取って代わられた感じである。
ボイテフ氏は、どこぞの国に大使として赴任するという話もあったのだけど、実現はしなかったのだろうか。この秋の下院の総選挙には出馬しないということだから、政界引退後のポストとして提供されたということか。ANOも既成の大政党とやり口が変わらなくなってきたなあ。とまれ、これも復帰、あれも復帰ということで、このニュースをきっかけに再開することにした。
ボイテフ氏復帰のニュースを聞いたのが火曜日、書くのに復帰したのは水曜日なのだが、投稿復帰は土曜日ということにしよう。そうすれば休んだ期間はちょうど二週間になるし、筆の進み具合を考えると、書く日と投稿する日にずれがあったほうがいいし。
2021年5月27日24時30分。
2021年05月15日
凶器乱舞の文化(五月十二日)
アロイス・ラシーンというと、チェコスロバキア第一共和国時代に、蔵相として財政改革、通貨改革などに邁進し、新国家の財政を確立した人物でありながら、狂信的な共産主義者の若者によって暗殺されたことで知られる人物である。これがチェコスロバキアにおける最初の共産党による、犯人は党籍は離れていたようだけど、最初の政治犯罪の一つといってもいいかもしれない。
このラシーンがどのくらい日本で知られているかと言うと、いささか心もとない。少なくとも ジャパンナレッジ 所収の百科事典の類には立項されていないし、日本語版のウィキペディアにも記事はない。どちらも「ラシーン」で検索すると出てくるのは、アメリカの地名と、日参が販売していた自動車である。
国会図書館オンラインで検索してみると、昭和五年(1930年)に、高田義一郎という人が刊行した『聖代暗殺事件』の 目次 に「大臣ラシーン」という章が確認できる。この本、「悪の華文庫」という叢書の第二巻になっていて、題名から推理小説、当時の言葉でいえば探偵小説のようにも思われるのだが、明治以降に暗殺された人についてまとめたもののようである。明治維新以後に日本で暗殺された人が中心だが、最後の海外編に「大臣ラシーン」と「チエツコ・スロバキヤの陸相夫妻」と、ページ表記から短いと思われるとはいえ二つもチェコスロバキア関係の小があるのである。
残念ながら、この『聖代暗殺事件』は、オンラインでは館内閲覧しかできないようになっているが、同じ高田義一郎氏が二年後の昭和七年に刊行した 『凶器乱舞の時代』 は、インターネット公開になっているので、全文読むことができる。著者が同じで新しいほうが公開されているのに、古いほうが未公開なのは何故なのだろう。この辺の著作権をめぐるあれこれは、わけのわからないことが多い。
二冊の本の目次と比較すると、どうも『聖代暗殺事件』をもとにして、増補して書き上げたのが『凶器乱舞の時代』であるように思われる。副題として「明治・大正・昭和暗殺史」がつけられているし、取り上げられる暗殺された人物も、多少増えているけれどもほぼ同じになっている。表紙の著者名には「医学博士」という肩書きがついており、「序」によれば法医学を専門としていた人のようである。
凡例には、海外編は意図的に簡潔に書いたことが記されるが、ラシーンについての記事も、陸相夫妻についての記事も非常に短い。とはいえ、この時期にこのような本にラシーンが取り上げられていたというのは驚きである。チェコ語を勉強していて、チェコの歴史にも興味がある人でも、マサリクやベネシュならともかく、ラシーンまで到達する人は多くないはずである。かくいう自分も、チェコに来てラシーンに関するニュース、ラシーン取り上げたテレビ映画が放送されなかったら、知らなかったに違いないと思う。
せっかくなのでどのようなことが書かれているか、引用しよう。こちらでは「チエツコ蔵相ラシーン」と題されている。
一九二三年正月五日の午前九時、チエツコ・スロバキヤの大蔵大臣ラシーンは、自邸を出で正に自動車に乗らうとする所を、背後から狙撃されて二弾を受けた。それから、ポードルのサナトリウムで手術を受けたが、出血が甚だしくて、快復できず、二月十八日に遂に死んだ。犯人はヨゼフ・ゾウバルといふ二十一歳の青年である。
チェコ語のウィキペディアで確認すると、運ばれた病院は、「ポードル」ではなく「ポドリー」、犯人は「ゾウバル」ではなく「ショウパル」となっている。現在のマスコミのチェコの人名、地名表記のでたらめ振りを考えたら、意外と正確だといいたくなる。犯人の年齢は、十九歳になっているが、これは高田義一郎氏の表記が数え年に基づくからかとも思われる。残念なのは、暗殺に至る経緯などが記されていないことだけど、情報がなかったのか、簡潔にという方針上割愛したのか。
ついでなので陸相夫妻についての記事も引用しておく。
一九二七年二月二日、カルルスバードから首府のプラーグに向ふ途中、チエツコ・スロバキヤの陸相夫妻の自動車を狙撃したものがあつた。疾走中の為に、夫妻は幸に微傷だに負はなかつたが、犯人はそのまゝ逃走してしまつた。
こちらは暗殺未遂だったようだ。陸相というのを国防大臣と理解してよければ、後に首相にもなったフランティシェク・ウドルジャルという人物のようだ。この人の存在も知らなかった。いや、名前を耳にしたことはあったかもしれないけど、全く覚えていなかった。
2021年5月13日24時。
2021年05月14日
暑い(五月十一日)
五月に入って、気温も上がって過ごしやすい春が来たと喜んでいた。朝の最低気温は零度近くまで下がることはあるけれども、最近あまりないけど、こちらが外に出るような時間帯、午前十時から午後二時ぐらいまでの気温は、十度以上まで上がるようになっていた。今年はすでに三月ぐらいにこの九州の冬のような気温になったような気もするのだけど、その後寒波が再来して、最近まで寒い寒いといい続けていたのである。
それが、突然、最低気温がそれまでの最高気温を超え、最高気温はいきなり三十度に近づくという事態が発生した。場所によっては三十度に到達したところもあるのかな。チェコの五月というのは、もともと天候が安定しない月で、「アプリロベー・ポチャシー(四月馬鹿の天気)」などと言われる変わりやすい天気は、四月よりも五月のほうが多い気がする。
今年は五月になっても、標高千メートルを越えるような山の上には雪が残っているが、以前は平地でも雪が残っていたことがあるし、そう考えると、寒さもイースターまでというのは、こちらの願望でしかなかったことが明らかになってしまうのだけど、連日三十度を越える暑さの日が続いて、終わってみれば一年で一番暑かったのが、五月の一時期だったなんて年もあった。五月に三十度を越えたときには、今年の夏は暑くなると覚悟したのに、七月八月は涼しい日が続いて、拍子抜けをしたものだ。
九州の人間としては、たかだか三十度程度で愚痴をこぼしたくはないのだが、徐々に気温が上がってではなく、十数度からいきなり三十度というのは、身体にも精神にもこたえる。気温の日較差が大きくなると、自分が暑いと感じているのか、寒いと感じているのかわからなくなるのである。外にあまり出ないで自宅で仕事をしているので、必要に応じて着替えられるのはありがたいけれども、自分の感覚を信じきれない状態は、精神安定上よくない。自宅に引きこもっているのもいいとはいえないから、その効果は二倍である。
これまで何度か、毎日一度は外に出ようとか、着替えて出勤するつもりで外に出て戻ってきてから仕事を始めようとか考えて、始めた事はあるのだけど、すべては三日坊主にもならなかった。買い物の回数を増やしているのも努力の一環なのだけど、毎日買い物に行くというわけにもいかないし、天気が悪いと、外に出たくなくなる。そしてまた今年は、寒かったり雨が降ったりで外に出たくないと思うような日が多いのである。職場で仕事をしていれば、寒かろうが雨が降ろうが出て行くしかないけど、在宅勤務だとついついひよってしまう。
こんなんで、自分の命が短くなるなんて言うつもりはないけど、この規制のせいで命を縮めた人は多いのだろうなあとは思う。チェコでは、三月の死者数が、月単位では第二次世界大戦後最高の数字を出したというし、しかもそのうち80パーセント近くはコロナウイルスとは直接関係のない死因だったらしいし。
東京オリンピックに関して、命がどうこう言う人もいるけど、そこまで単純な話じゃなかろう。開催した場合と、中止にした場合のリスクを比較して検討すればいいのに、開催すべき派も中止すべき派も感情論で議論するから、水掛論に終わってしまっている。感情で言うなら、個人的には中止しろと思うけれども、それは命が大事とかいうことではなくて、そもそもオリンピック廃止論者だからである。ちょっと理性的に感染リスクなんかを考えるなら、規模を縮小して開催するのが一番だと思うのだけど、現在のオリンピックの最大の問題の一つは、大会自体が肥大化していることなのだしさ。利権まみれで腐敗しきったIOCが、それを認めるとは思えないのがネックである。
夜になっても暑くて頭が働かない中書いたら、以前書いたことがあるような内容になってしまった気がする。
2021年5月12日24時。
2021年05月13日
営業再開(五月十日)
厚生大臣の話では、過去一週間の新規感染者数の割合が、人口十万人当たり100人以下になることが、全てのお店の営業再開を許可する絶対的な条件で、場合によっては条件を満たした地方だけで先行的に許可をするということになっていたはずなのだが、チェコ全国の平均値で、数値的な条件をみたしたのか、昨日の時点で、数値を満たしていなかった地方も含めて、全国一律で全ての小売店の営業再開が許可された。ただしレストランなどの飲食店の営業は、屋外のザフラートカも許可されていない。
それで、どんな様子か確認するために、と言うわけでもないのだが、ほぼ毎週通っているシャントフカのダタルトに注文したUSBメモリーを受け取りに向かった。屋外のマスク着用の義務も撤廃されたので、マスクをしていない人が多かったが、先週、先々週と比べて多いかというとあまり大きな差はないといいたくなる。自主的に屋外でのマスク着用を自粛して、お店など屋内に入るときだけ着用するという人が大半を占めていたのだ。
シャントフカに近づくにつれて、マスクはしていなくても手に持つなどして準備している人が増えた。さすがに屋内でのマスク着用を拒否するような人はいないようだ。シャントフカの中にいる人は、普段よりははるかに少ないとは言え、前回四月末よりは多かった。ほとんどの店がすでに営業を再開しており、どの店にも客が一人か二人は入っているようだった。驚かされたのは、通路に行列を作っている人たちがいたことで、売り場面積に応じた入店人数の制限のせいである。
ぱっと見たところ、衣料品関係のお店の前に行列が出来ていることが多かった。子供物以外は、同じ店内に置かれていても販売できなくなっていたから、オンラインで服を買うのに抵抗のある人たちが、こぞって再開初日に買い物に出たのだろうか。仕事や学校はどうしたなんて質問はするまい。仕事や学校に行くために新しい服が必要なのだろう。個人的には去年とゝ服を着ていても何の問題もないけれども、そうではないという人たちもいるに違いない。
ダタルトも通常営業を再開していて、商品を見て回れないように張り巡らされていた立ち入り禁止のテープがなくなっていた。十時前という早い時間だったせいか、店内で商品を探している人はほとんどいなかった。オンラインで購入手続きをして、すぐにお店で受け取れるといシステムの便利さにお店まで行ってから買う物を探す人が減っているのかもしれない。自分でもこのシステムがなかったら、選ぶのを面倒くさがって、ここまであれこれ買わなかっただろうと思うし。
せっかくシャントフカまで足を運んだので、ついでに靴屋によることにした。外出をほとんどしなくなっているので新しい靴が必要なわけではないのだが、靴の手入れ用のスプレーがきれているのを思い出したのである。靴屋のCCCの店内には買い物する人の姿はあったが行列ができるほどではなく、すぐに店内に入れて、レジで支払いをしている人の後ろに並んだ。隣のレジで何かの作業をしていた人に声をかけられて、スプレーがほしいと言ったら、今している返品の手続きを一旦止めるからちょっと待ってくれと言われた。
ここ何週間も、子供物の靴も含めて店舗では販売せず、すべてオンライショップでの販売に切り替えていたから、返品の数も増えているのだろう。服の場合には、多少大きさに問題があってもきられないわけではないから返品することも少ないのだろうけど、靴は同じサイズでも物によって合う合わないがあるから、実際に品物が届いて履いてみたら、なんてこともよくあるのだろう。靴屋としても痛しかゆしというところか。売り上げが全くないよりはいいのだろうけど、経費もかさむわけだし。
夜のニュースによると、プラハのショッピングセンターではシャントフカどころではない行列ができていたようだ。やっぱ、チェコ人も日本人と同じで行列に並ぶのが好きなのである。
2021年5月11日24時。
2021年05月12日
俳句雑誌のチャペク(五月九日)
俳句雑誌の「層雲」というと、荻原井泉水が、明治四十四年(1911年)に、新傾向俳句の旗頭だった河東碧梧桐を後ろ盾にして創刊したものであるが、新傾向俳句に飽き足らず自由律俳句を提唱するに至る。驚くべきは、その自由律俳句の雑誌に、チャペクの作品の翻訳が掲載されたことである。作品の日本語訳の題名は「影」、訳者は青山郊汀で、掲載されたのは昭和十五年(1940年)の五月号である。国会図書館オンラインの書誌情報は ここ 。
今回届いたコピーを見ると、掲載作品は三頁ほどの短いもので、こちらが期待していたチャペクについての解説も、この作品が掲載されることになった事情も書かれていない。 ジャパンナレッジ の『世界大百科事典』と『日本大百科全書』の「層雲」の説明に、ドイツ文学の翻訳にも力を入れていたことが記されているから、チャペクもドイツ文学の枠内で、ドイツ語から翻訳されたのかもしれない。
この翻訳の存在に気づいたときから、チャペクというのはカレル・チャペクのことだろうと思っていたのだが、ヨゼフの作品である可能性も否定はできない。チェコのセズナムで、チャペクと影で検索するとヨゼフ・チャペクの作品「シダの影」が最初に出てくるのである。内容から「層雲」に掲載された「影」とは関係なさそうだけれども、本格的に調査する際には、ヨゼフの作品にも目を配る必要がありそうだ。
とまれ、「影」の内容は、ロータ氏が釣り人に声をかけるところから始まり、ほぼ二人の会話だけで進行する。釣り人が足が悪いことが書かれた後は、病人と書かれるようになり、流水の夢を見るとか、流水ではなくて光だとか影だとか、斜め読みしていたら、よくわからなくなってしまった。これは一度腰を据えて読むしかあるまい。いや知り合いの日本語ができるチェコ人に読ませて原典を確定するために、PCに入力しよう。そうすれば否応にでも頭に入ってくるはずだ。
斜め読みで気になったのは、しばしば仏教語っぽい漢語が登場することで、「時劫無定」とか「万物逆旅」とかチェコ語で何と言うのだろうかと頭を抱えてしまった。しかも末尾には、水流を指して、「これは元の水ではありません」などと言う台詞も出てくる。「行く川の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず」って『方丈記』じゃねえかよ。チャペクが仏教的無常観に到達していたなんて話は聞いたことがないのだけど、この辺は翻訳者の解釈になるのだろうか。
翻訳を担当した青山郊汀については詳しいことはわからないのだが、「層雲」に定期的に寄稿しているので同人の一人であったかと思われる。ただ、俳句ではなく、俳句も含めた文学論や、翻訳、自作では詩の発表が多いようで、詩を専門とする文学者だったと考えておこう。自由律俳句と詩の境目なんてあってないようなものだから、短詩を手がける詩人が自由律の俳句結社に入っていても不思議はない。
この「影」の最後の頁の次頁に「春風紀南風景」と題した井泉水の俳句が、並んでいて、ちょっと読んでみたのだけど、やっぱり新傾向俳句とか、自由律俳句と言うのは、自分には理解できないものだということを改めて理解させられた。分かち書きにして、詩だといわれたほうがまだ納得がいく。詩っぽいのに拭い去れない微妙な俳句臭が残っているのが、自由律を受け入れ切れない原因かもしれない。そんな自由律の雑誌に掲載されたチャペクの翻訳が、よくわからないものになっているのもむべなるかなである。チェコ語で読むよりはわかりやすいのだろうけど。
さあ、次は何を注文するかな。毎月一回ぐらいなら問題なかろう。注文の方法も支払いの方法もわかったわけだしさ。
2021年5月10日24時。
2021年05月11日
不思議の国チェコ2021(五月八日)
先月半ばに、6年半前のブルビィエビツェの山中に置かれた弾薬倉庫が爆発した事件に関して、ロシアの秘密工作部隊GRUの関与が明らかになったことが発表された。その前後にハマーチェク大統領が、モスクワに出かけてスプートニクVのチェコへの輸入に関して交渉してくると言い出したり、それを取りやめた後になって、カモフラージュだったのだと言ったりしていた時点で、意味不明だったのだが、その後さらに驚きの展開が待っていた。
どこだったかは忘れたが、マスコミが衝撃の裏情報をすっぱ抜いたのである。それによると、ハマーチェク氏が、モスクワ行きを計画したのは、カモフラージュでもなんでもなく、本当にロシア製のワクチンスプートニクVを手に入れる交渉をするためだったという。ただし、ハマーチェク氏が対価としようとしたのは、お金ではなく、GRUのチェコ国内での破壊工作について秘密にすることだったという。さらに、ワクチン以外にも開催が噂されている米露首脳会談の開催地をプラハにすることも求める予定だったという。
それは、流石にないだろうと思いたいのだけど、ここは不思議の国チェコである。特に最後の新大統領の就任後最初の米露首脳会談をプラハでというのが、いかにもチェコの政治家が好みそうな発想で、ニュース全体の信憑性を高めていた。凋落傾向の止まらない社会民主党の党首として、ワクチンをロシアに無料で提供させることで支持を集めようとしたのかとか、裏にはロシアシンパの大統領の意向があったのではないかとか、あれこれ疑えば疑える。
野党としては攻撃どころということで、国会でも審議されることになった。その審議がテレビカメラを排除し、さらに普段は野放図にスマホ、PC使い放題で、国会内の情報を垂れ流しにしても規制されないのが、今回は審議が始まる前に全ての電子機器の電源を切ることが求められるという、完全な密室状態で行われたのも、ことの重要性、いや異常性を物語っていた。もちろん、こんな審議で何が明らかになるわけもなく、ハマーチェク内務大臣は同じようないいわけを繰り返していた。
最初のうちの報道によると、記者会見でGRUの関与を発表する前に、ハマーチェク氏が、警察、検察なんかの関係者を、軍の情報部の責任者を排除する形で集めて、方針を決める会議を開いたらしい。その参加者が、今回の件をリークしたとか報道されていたような気がするのだが、いつの間にか、この本当であれば、大スキャンダルのネタもとは、社会民主党のパルドゥビツェ地方知事のネトリツキー氏に代わっていて、メディアで積極的に発言している。
ハマーチェク氏は、政府レベルで話をする前に、党内の有力政治家の一人であるネトリツキー氏に相談を持ちかけたということのようだが、いわば背中から撃たれたわけである。相談を持ちかけるぐらいだから、もともとハマーチェク氏に近いと見られていたはずなのだが、現在のハマーチェク氏の迷走ぶりに愛想をつかし、泥舟と化しつつある社会民主党を捨てて地域政党を結成する考えでもあるのだろうか。この件で、発言の真偽はともかく知名度は大きく高まったはずだし。
今回の件が、実際はどうだったのか、明らかになる事はあるまい。いや、これが事実だったんだという発言をする人や、報道は出てくるだろうけれども、疑いは残り続ける。実際にハマーチェク氏がモスクワまで出かけて、行方不明になったとかだったらスパイ映画さながらと言えそうだけど、出かける前にひよったわけだから、ストーリーは出来損ないというしかない。何をやってもうまくいかなかったソボトカ首相の在任末期のような雰囲気を今のハマーチェク氏には感じてしまう。
社会民主党とハマーチェク氏の迷走ぶりは、党の色にも現れている。ウクライナのオレンジ革命ブームに便乗して成功して以来、社会民主党はオレンジ色を党のシンボルカラーとして使用してきたのだが、最近になってその色が濃く、赤に近い色になっているのである。それは、共産党の赤と区別がつかないほどで、共産党と協力体制を築く伏線じゃないかと疑ってしまう。
一応社会民主党にはボフミーン宣言というのがあって共産党とは共闘しないというのが党是に成っているのだが、地方政界などではすでに有名無実になっているし、今後は党の生き残りをかけて党内右派を排除して共産党に近づく可能性もある。チェコの左派はバビシュ氏のANOの草狩場になって壊滅状態で、今秋の下院の総選挙ではどちらも議席の獲得が危ぶまれているし、生き残りに必死なのである。ただ、そうなるともう社会民主党である意味もなくなると思うのだけど。
2021年5月9日24時30分。
2021年05月10日
マサリク大統領の手紙(五月七日)
三つ目は、一番期待していると同時に、一番期待はずれを恐れていたマサリク大統領が日本の子供たちのために書いたという手紙で、現在の講談社の全身である大日本雄弁会講談社が刊行していた雑誌「少年倶楽部」の昭和六年七月号に掲載されている。国会図書館オンラインで確認できる 書誌情報 の目次では、82ページに1ページだけ掲載されているようだったので、たいした事は書かれていないんじゃないかと危惧したのである。
実際に届いたコピーを見ると、83ページもあわせて見開き1ページ分の掲載だった。書誌情報では、「チェツコ・スロバキヤ大統領 マサリツク閣下より日本の少年へ」となっていたが、両ページ上部には、右から左への横書きで、「日本の少年諸君へ」と記されている。目次と本文の題名の齟齬は現在でもままあることである
82ページの本文上部には、「チエツコ・スロバキヤ大統領」とあり、改行して「マサリツク閣下から」と続いている。どちらも右から左への横書きで、それぞれの漢字の右側に縦書きで読み仮名がつけられている。こういうのを見ると、横書きではなくて、一行一文字の縦書きなんだという説に賛成したくなってくる。もちろん明らかな右から左への横書きも存在するから、もろ手を挙げてというわけには行かないけど。
その下の、ページの右端の一行目に「日本の少年諸君へ」と題名が記され、マサリク大統領についての解説が小さな活字で印刷されている。せっかくなので全文引用しよう。
チエツコ・スロバキヤの全国民から、父とあがめられるマサリツク閣下は、今年八十一歳の高齢でありますが、あふるゝばかりの元気をもつて、国務につくしていらつしやいます。閣下は今から十二年前に、日本にお出でになつたことがあるのです。今度非常にお忙しい中から、諸君へこんな懐かしいお手紙を下さいました。
残念ながら、どのような伝手でマサリク大統領まで子供たちに向けた手紙を書いてほしいという以来が送られたのかは、書かれていない。他の号にはアインシュタインの日本の子供たちに向けた手紙も掲載されているようだし、どんな規準で人選したのかも知りたいところである。ただ、当時の日本では、マサリク大統領は子供向けの雑誌に取り上げられても、不思議ではないほどには知名度があったということになるから、現在よりも知られていたとは言ってもよさそうだ。
よくわからないのは、マサリク大統領が「十二年前」に来日したことが書かれているところで、これによると、雑誌が出たのが1931年だから、1919年に来日したことになるが、チェコスロバキア独立直後の困難な時代にそんな余裕があったとは思えない。マサリク大統領は、独立以前にシベリアのチェコスロバキア軍団の帰国に際して日本を経由できるように交渉しに来て、その後アメリカに渡って新国家の承認のための交渉をしていたのだから、遅くとも1918年の前半には日本を離れていたはずである。
誤解なのか誤記なのかは置いておくとして、本文も引用してしまう。冒頭に「親愛なる少年諸君」という呼びかけを置いた後、以下のように続く。
私はかつて日本へも行つたことがあるから、何かお国のことについて書いてあげるといゝのですが、ほんの数週間足をとゞめたばかりなので、それが出来ないのを残念に思ひます。
しかし、私は今でも、その時見た日本の幼い人たちのことをわすれません。私は諸君を見るのが大好きでした。
少年諸君、諸君はお国の生きた花です。しかも、花であるだけでなく、大きくなつて、日本の果実とならなければならぬ人々です。日本の健全な果実、日本をますます立派にする果実に。
私は同じことを、私の国チエツコ・スロバキヤの少年たちは勿論、世界のあらゆる国々の少年諸君にも望むものであります。
ではさやうなら、みんな元気で勉強してください。
最後に日付「一九三一年三月十一日プラーグ市にて」と署名「トーマス・ジー・マサリツク」がある。
これをマサリク大統領らしいといえるほど、詳しいわけではないけれども、なかなか含蓄のある文章である。「果実」という漢字に「このみ」というルビが振ってあるのが、翻訳者の工夫したところだろうか。2ページ目の上半分に英語の原文も掲載されているのだけど、翻訳文のほうがかなり長くなっているように見える。まあ、よくあることである。編集部での翻訳だったのだろうか。
2021年5月8日23時