フランスの事件では、協力者が逮捕されるなどして、イスラム国と関係のあるテロだったということになりそうである。しかし、この事件、イスラム国だのイスラム過激派だのというのは、自分の残虐な行為を正当化するための口実でしかないような気がする。実際やっていることは、銃を発砲したことを除けば、日本の秋葉原で起こった通り魔事件と大差はない。人生に絶望してフランス社会への復讐として無差別に人を殺そうとしたときに、罪悪感を感じずに済むようにイスラムをお題目にしただけではないのか。
大統領をはじめ、フランス当局としては、事件の直後から、テロと断定したがっているように見えていたが、この手の事件をテロと認定するのは、社会的に危険な気がする。テロとか、テロリズムとか、テロリストだとかいう言葉には、ある種の魔力があって、社会に不満を持っている人間たちを引き寄せてしまう。もしくは社会に不満を持って鬱屈としている人間があこがれてしまう嫌いがある。だから、この事件をテロだと規定してしまうと、後追いの模倣犯が続出しやしないかと恐れるのだ。
本当のテロだったら、武器、爆薬の入手などから、アシが付いて事前に発覚することもあるだろう。2001年のアメリカに対するテロでは、飛行機がテロの道具になることが衝撃をもって受け入れられたが、飛行機をテロに使うためには、飛行機を操縦する能力が必要になる。飛行機を確保するのも困難で、そこからテロの計画が漏れることもありそうだ。
今回のニースでの事件は、車一台あれば、爆弾などなくても、いつでもどこでもテロが実行できることを世界に知らしめてしまった。フランスでの事件がテロに認定されたら、社会に不満を持ちつつも、武器も火薬も手に入れることができず、過激派にも伝のないテロリスト予備軍に、格好の手段を与えてしまうことになりそうな気がする。そうなると計画を実行に移す前に阻止することは不可能に近い。
日本だと、薬物依存症の果ての通り魔や、やくざまがいの地上げ屋の手口、もしくは老人が運転を誤って引き起こす事故としてのイメージが強いから、テロに無意味にあこがれる若者がこの手口を真似ることはないと思いたいけれども、実際にはどんな犯罪者にも、崇拝者はいるのだろう。それでも、テロリズムの一環として認識された場合よりは、はるかに少ないはずである。
テロリストグループと直接の関係の見出せない犯人の犯した無差別殺人については、下手にテロ扱いしないほうがいいような気がする。テロリスト扱いされるのは、犯人の望むところだろうし、テロなどではなく、人生に望みを失った人間の絶望から生まれた卑劣な犯罪として扱ったほうが模倣犯を生みにくいだろうし。テロと認定することで、社会の怒りをかき立てることはできるだろうが、同時に多くの崇拝者、模倣犯予備軍を生み出してしまいそうである。
一方、ドイツでの事件では、当初はテロの可能性が云々されていたが、警察も政治家も非常に慎重だった。現時点では、精神的に病んで薬を飲んでいた若者が、薬物、またはアルコールの影響下で錯乱を起こして凶行に及んだものだということになっている。これなら、崇拝者もそれほどは現れなさそうだ。
この手の、精神を病んで病院に通っていた人たちが起こす事件というのは、非常にやるせないものがある。殺人事件を起こすほどに病んでいたのに、どうして病院を退院できたのだろうかという疑いを消すことができない。チェコでも精神を病んで病院に入院していた患者が、退院して人を殺すという事件が、最近二件起こっている。嘗ての患者の人権など、完全に無視して監獄のようだった精神病院に戻すわけには行かないのだろうけど、社会に危害を与えそうな人間を野放しにするのもどうかと思う。どのぐらい危険なのかを見極めるのが一番大切なのだろうけど。
7月24日22時30分。
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