日本語とチェコ語の通訳では、専門分野を限定するなんてことはできないので、これまでいろいろな分野で通訳をしてきた。中には日本語でもよくわからない、言葉を知らない分野もあったけれども、仕事を引き受けてから、あるいは仕事をしながら、付け焼刃で知識を増やして何とか対応してきた。ただ、医療関係の仕事だけは引き受けたことがない。付け焼刃の知識で、日本語でも理解できていないことを通訳すると命に関るのではないかという恐れがあって、引き受けられないのである。
そして、もう一つ、こちらは命には関らないし、仕事として引き受けるようなことでもないのだが、道案内もしたくない。日本にいて日本語で日本人に道を聞かれたときですら、時間がないときには知らない振りをし、時間があるときには、言葉で説明できないから、地図を書いたり一緒にその場所まで連れて行くことが多かったのだ。
言葉で道案内ができない理由は、はっきりしている。右と左がとっさに判別できないのだ。うちのの運転する自動車の助手席に座って、地図を見ながらナビゲートする場合に、最初は「右/左」と言っていたのだが、あまりにいい間違いが多く、目的地に着くのに無駄な時間がかかってしまうため、「右/左」を諦め、「そっち(k tob?)/こっち(ke mn?)」という指示を使うようになった。そっちは運転席側に曲がって、こっちは助手席側に曲がるという指示である。これなら間違いようがない。
では、なぜ右と左がとっさに判断できないかというと、それはもう左利きだからだとしか言いようがない。右利きの恵まれた人間たちには決して理解のできない左利きならではの苦難の人生がかかわっているのだ。我々は圧倒的多数の右利きの支配する世界に、適応することを強要されているのだ。これは立派な差別である。だから左利き解放同盟を結成して、左利き革命を起こして、せめて左利き自治区ぐらいは作りたいものだと、過激だったころには考えていたのだけど、自分も含めて同志たちは生まれたときから、右利きの世界に順応させられているために、左利き用のハサミとかそんな多少の配慮を見せられるだけで、懐柔されて転向してしまう。人間と言うのは慣れる生き物なのだ。
そもそも、世界を規定するための文字が、右利き向きである。左手で書くには右利きにない苦労をさせられる。最近は減ったが右で書くように矯正されることさえある。今更、文字を左で書きやすいものに変えろというのは、不可能だろうから、左利きに限り鏡文字の使用を許容せよと言いたい。そうすれば、手首を無理やり外側に向けたり、腕全体でノートを抱え込むような無理な姿勢をしたりせずに書けるようになる。
ハサミ、缶きり、自動改札、マウスなどなど、左利きには使いにくいものは枚挙に暇がない(最近の事情を考えるとちょっと大げさかな)。右利き用に作られた缶きりの使い方がわからず、試行錯誤して無理やり左手で切っていたら、変なきり方だと右利きどもに大笑いされたのは、今でも忘れられない。小学校で家庭科の授業が始まり裁ちばさみを使っていたら、裏にしても表にしても手が痛くてまともに使えなかった。右手で使うことが前提になっていたあのハサミは、握りの部分が右手の指が収まりやすいような造形になっていたため、左手で使うと変なところに接触して使うと痛くて仕方がなかったのだ。思うように使えない右手で切るしかなかった。
自動改札だって最近はいちいち定期券を出す必要はなくなったようだが、切符、定期券を通す機械は右側にある。毎日何度も体を無理やりひねって左手で右側にある機械に切符を入れて出てきたのを取るのは、特にラッシュ時の人ごみの中でやるのはなかなか大変だった。落としかねないという不安をこらえて右手を使うこともあったけどね。ある左利きの友人は初めて自動改札を使ったときに、自分の左側にある機械に切符を通してしまい閉じ込められてしまった。
あいつの途方に暮れて立ち尽くしている姿は、同じ左利きの人間として、すまん、大笑いさせてもらった。でもね、同じ左利きに笑われるのは気にならないのだよ。同じ苦難を生きてきたものとして笑い笑われる中で理解しあえるのだから。許せないのは左利きゆえの失敗を馬鹿笑いしやがる右利き人どもである。
我々左利きは、こんな苦難に満ちた生活を送りながら、左利き用のものが発売されたといっては、大喜びで大枚はたいて購入し、右利き人どもの配慮に涙するのだ。最近は、缶詰がほとんどパッカン方式になって缶切りを使う必要がなくなったし、ハサミもどちら側から手を入れても痛くならないような形状のものが増えていて、以前と比べればかなり楽になった。
それから、左利きの人間は、右利き人が右手でしかできないようなことを、左右両手を使ってできることが多い。そうすると右利きの連中は、いかにもうらやましそうに器用だねえとか、言うのだ。我々生まれて以来虐げられるだけだった左利きは、そんなささいなことがむやみに嬉しく、簡単に懐柔されて満足してしまうのである。
それでも、と自動改札とは無縁になった今でも思う。かつて使われていた左利きを指す言葉「ぎっちょ」や、酒飲みを指して「左利き」と言うのは、最近は聞かなくなった。左利きへの差別だとか言い出す人がいて、使用が自粛されるようになったのだろうか。もしそうなら、右利き人どもよ、勘違いもはななだしいぞ。言葉なんぞどうでもいいのだ。「ぎっちょ」に差別的な歴史があったとしても、胸を張って「我ぎっちょなり」と公言しよう。今でも差別されているのは事実なのだから。酒飲みであることは自任しているから、「左利き」が酒飲みの異名になっているのも許容する。しばしば右利きの連中が言う「左利きは変な人が多い」というのも、自分も含めて否定しきれないから、言いたければどんどん言ってくれてかまわない。
ただ、言葉狩りのような無意味な配慮をする代わりに、一箇所でいいから、左利き専用の自動改札を設置してくれないものだろうか。女性専用車両なんて配慮ができるのだから、その何十分の一かの配慮を左利きの人間のためにしてもらえないものか。それが駄目なら、一年に、いや十年に一度でいい。左利きの日として、全国の自動改札を一日だけゲートの左側の機械に切符を入れるように設定する日を設けてほしい。そして、右利き人たちがうまく使えずに、おろおろしているのを尻目に、我々左利きだけが、すんなり通り抜けることができるなんてことになったら、涙を流しながら嘲笑し、これまでの鬱憤が消えて、溜飲が下がることだろう。そうしたら右利きの右利きによる右利きのための世界に、左利きでありながら忠誠を誓ってもいいんだけどなあ。
あれ、左利きの人間が、左右の判別をしにくくなり理由については、どこに行ってしまったのだろう。明日、明日である。
10月6日23時。
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