一つは、日本の絵葉書で、長崎の日本二十六聖人記念碑の写真が使われていた。九州の人間なので、小中学校の修学旅行で長崎には行ったのだが、この記念碑にまで足を伸ばしたかどうかは覚えていない。
もう一つは、英語とポーランド語の記述もある一枚の紙を三つ折にしたパンフレットみたいなもので、「西坂で殉教したポーランド人/メンチンスキ神父」と題されていた。裏面に「クラクフから西坂へ/日本に初めてやってきたポーランド人」というメンチンスキ神父の簡単な伝記が載せられている。
生まれたのは1601年で、貴族階級の出身だった。ルブリンのイエズス会の学校で日本に関する報告書と出会い日本行きを夢見るようになったという。クラクフの大学で学んだ後、1621年にローマでイエズス会に入会し、貴族家の後継者として引き継いだ膨大な資産はクラクフにイエズス会の学校を設立するために提供したらしい。
その後、メンチンスキ神父は、紆余曲折を経て1642年にマニラから日本に赴いた。上陸地は九州南端の薩摩国の甑島だったが、すぐに捕らえられて長崎に送られた。7ヶ月にわたる牢獄生活の果てに、1643年3月25日に長崎の西坂の地で、42年の生涯を終えたという。パンフレットの表紙の上部には、「昔から望んでいた殉教が叶えられそうです」という本人の言葉が印刷されているので、この人物が日本に渡ったのは、ある意味死ぬためだったのである。
日本人でもキリスト教徒なら、この人の物語に感動するのかもしれないが、当時の江戸幕府側からしてみれば、薩摩の島津氏にしてみても、いい迷惑だとしか思えなかったに違いない。キリスト教徒だって、イスラム教徒に負けず劣らず狂信的だったのだ。この手の話を美談にしてしまったのでは、宗教というもの持つ狂気まで肯定することになり、それはイスラム国の肯定につながってしまう。
どこで読んだ話だったか忘れてしまったが、キリスト教の禁令が出た後で日本にやってきた宣教師の中には、幕府が穏健な対応で国外追放で済ませようとしたら、拷問されることを求め、ほとんど自ら強制するように拷問死を遂げた人物もいるという。殉教者を列聖することが好きなバチカンも、さすがにこの人物に関しては列聖しなかったらしいが、頼まれもしないのによその国に押しかけて、その国の文化にそぐわない宗教を押し付けた挙句に、獲得した信者を道連れに死んだはた迷惑な人間を安易に列聖するから、死ぬために日本へなんて狂信者を生んでしまうのである。キリスト教に改宗して、それを理由に投獄され獄死した日本人信者にはあわれみを感じるけれども。
それで、どうしてクラクフでこんなものが手に入ったのかというと、イエズス会の大学が存在しているのだと言う。ポーランドはクラクフのイエズス会が、イエズス会士として日本で死んだポーランド人のアルベルト・メンチンスキ神父の業績を顕彰しようとするのは当然なのかもしれない。それに伝記にあるメンチンスキ神父が設立のために資産を提供したという学校の後身がその大学なのかもしれない。
コメンスキーがモラビアを離れることを余儀なくされたとき、ポーランドのレシュノに滞在できたことが示すように、ポーランドも一時は宗教改革の影響でプロテスタントが優勢になっていたはずである。それが、現在の強固なカトリックの国になったのは、イエズス会の活動によって再カトリック化が進んだからに他ならない。そう考えると、イエズス会の持った影響力は、モラビアの比ではなかったのだろう。
オロモウツも、かつてはモラビアのイエズス会の活動の中心地で、オロモウツにあるパラツキー大学ももともとはイエズス会の学寮から発展したものだと言われている。しかし、現在でもイエズス会が大々的に活動しているという話は聞いたことがない。パラツキー大学の神学部も、イエズス会との関係を感じさせない、スラブ人にキリスト教をもたらしたツィリルとメトデイの兄弟の名前を冠しているし。それとも、名前だけでイエズス会と関係があるのだろうか。
余計なことを書いていたら、本題にまでたどり着けなかった。今日の分で、強調しておきたいのは、パンフレットによればメンチンスキ神父の名前がアルベルトであることと、生年が1601年であることである。没したのが1643年3月25日だというのも重要になるかもしれない。
4月30日23時。
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