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2016年10月07日
浪漫主義言語学1(十月四日)
言語学という学問にはすでに何も期待していない。かつての民俗学に感じていた袋小路に入り込んで進むべき道が見えなくなってしまっているような、どうしようもない閉塞感を感じてしまう。そもそも、近代言語学の、通時性よりも共時態を重視する姿勢も、書かれた言葉を無視して話される言葉にばかり集中する考え方も理解できないし、したいとも思わない。
後者に関しては、しばしば、記述されない言語はあっても、発話されない言語は存在したこともないはずだとかいう説明がなされることがあるが、これをアジアの事情を知らない欧米の学者が言うのなら無知ゆえのたわごとだと笑って済まされるけれども、日本人でもそんなことを言う連中がいるから話にならない。
かつて東アジアの共通言語であった中国語は、中国以外の国においては発話されることのない書くため読むための言葉であった。江戸時代に到るまで朝鮮と日本の間では、中国語、いや漢文と呼ぼうを使ってやり取りがなされたが、両者が中国語で話す必要はなかった。書かれた文書が理解できればそれで十分だったのだ。
日本では正しい漢文からは、多少外れた和製漢文と呼ばれる特に日記を書くための言葉も存在したし、現在でも漢文で日記をつけている人もいるかもしれない。私も昔挑戦したけど、日記を付けること自体が苦手で一週間しか持たなかった。それでも、日記を付けるなら漢文だと今でも思う。大学時代に一緒に『小右記』の訓読をしていた後輩のおじいさんは、漢詩を作るのが趣味で、後輩が漢文の勉強をしていることをことのほか喜んでいたらしいが、詩を音読するとて中国語で読むわけでも、単に音読みするわけでもあるまい。訓読して読むはずだ。訓読してしまえば、それはすでに書かれた漢文ではなく、日本語の古文になる。
こんな特殊例を根拠に、だから、話し言葉よりも書き言葉を重視しろというつもりは毛頭ない。書き言葉を軽視するなと言いたいだけである。書き言葉と話し言葉は、少なくとも日本語の場合には車の両輪のようなものであり、一方だけを過度に重視したのでは真っ直ぐ進めなくなってしまう。これは、言語学だけでなく、語学学習においてもそうで、読み書きを軽視して、文法は多少間違っていてもいいからしゃべれればいい的な語学に対する姿勢には反吐が出る。そんな奴らはしゃべるべき内容もないから、結局、同じこととを、自分の言えることをぐだぐだ繰り返すだけに終わってしまうのだ.。
外国語なんぞ学ばなくてもよかろうに。
通時的な話をしても、漢文というものが、漢文の訓読というものが日本語に与えた影響というものは非常に多く、漢文訓読の表現が普通に使われているものある。だから漢文、訓読のための古文を勉強することは、日本語の本質を理解するのに役に立つし、正しく使うための指針ともなる。語源などの詮索はせずとも、日本語がどのように変遷してきたのかを認識することで、現代日本語の問題について判断を下すことができるようになる。温故知新というやつだな。
一般に「ら抜き」と呼ばれる表現については、一部の学者が「ら抜け」という呼称を提唱しているが、典型的なためにする議論であってまったく意味がない。多少なりとも日本語を通時的に眺める目があれば、「ら抜き」は五段動詞では既に起こって定着した可能表現の受身表現からの分離の過程として理解できるはずだ。もちろん、五段活用から作られる可能動詞には、本来可能の意味を付け加えるときに使われていた「得る」という補助動詞を付けた形からの派生という根拠があるのに対して、ら抜きの場合には、根拠のない形なので、言葉の乱れとして認識する人がいるのも当然のことである。
だから、個人的には、絶対に使わないが、他人が話すときに使っているのをとがめる気はない。小説なんかで、地の文で使われていると気になるけれども、会話文であれば気にならないし、地の文と会話文、会話文でも話者によって、使い分けがされていたら、その小説への評価は高くなる。
一方で、いわゆる「さ入れ」のほうは、「ら抜き」のような建設的な使用される理由がないため、誤用で処理して問題ない。面白いのは、例えば「乗る」使役形「乗せる」の古い形「乗す」に、さらに使役の助動詞「せる」をつけて、「乗させる」という誤用もあることだ。これは使役であることを意識しすぎたあまりの誤用ということになろうか。使役するのが好きなのか、されるのが好きなのか。
これも、言葉の歴史的な研究のほうが大切なんだと主張する気はない。現代の日本語の諸相についての研究は大切であろうが、それについて喋喋するなら、古文漢文の知識がないと的外れな議論になるよと言いたいのだ。もしくは、単なるどこでどんな言葉が使われているかの羅列になってしまう。それを全国的に調査して方言地図に落とし込めば、それはそれで重要な仕事であるが、かつて読んで絶望的な気持ちになった、どこぞの高校の女子高生が使う言葉についての報告なんて文章は、論文でなくても読みたいとは思わない。十年分ぐらいの調査の蓄積があって、変遷の様相が捕らえられる論文であれば話は別であるけれども。
さて、ここまで言語学、言語学的な日本語研究への悪口になってしまったが、本題の師の『外国語を学ぶための言語学の考え方』は、言語学の悪癖とは無縁である。上に指摘したようなことについても、さらりとそつなく触れてあるし、言語学が言語学で完結せずに、語学の学習に活用しようという姿勢もありがたい。大学でまだ言語学に対する憧れがあった頃にこの本を読んでいたら、もっと言語学を勉強しようと血迷っていた可能性もあるので、今になって読めるようになったのは幸せなことである。この本を読んでなお、一般的な言語学は私にとって無用の学問である。
しかし、本書の末尾で提唱される浪漫主義言語学だったらと思わなくもない。その件については、稿を改めて明日の分の記事にすることにする。
10月5日0時。