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2016年10月08日

浪漫主義言語学2(十月五日)





 浪漫主義言語学の条件の最初の一つは、外国語を学んで、外国語における現象から改めて母語、すなわち日本語を見直すことである。これならできる。と言うよりもできている。本書でも触れられている外国語の言葉をカタカナで表記するときに、子音のみを表記するのに普通はウ段のカタカナを使うのにTだけは、ウ段の「ツ」ではなく、オ段の「ト」を使う理由は、チェコ語を勉強して、日本語の単語をチェコ語のアルファベットで書き表すことで理解できるようになった。
 ヘボン式のローマ字でも「tsu」と書くように、「ツ」の子音はTではないのだ。ローマ字表記では「t」も「ts」も大差ないし、ろくに意識できなかったが、チェコ語で、「t」と「c」というまったく別の文字で表記されるのを見ることで、子音が違うということがすんなり認識できた。「チ」の子音はチェコ式表記では「?」になるから、タ行には三つの子音があることがわかる。ローマ字を使っていたころは、「tsu」とか「chi」とか気取っている気がして、かたくなに「ti」「tu」を使っていたもんなあ。


 日本語に於ける否定疑問文への答で、「はい/いいえ」のどちらを使うかについて考えがまとまったのもチェコ語のおかげだ。「飲みにいかない?(Nechceš jít na pivo?)」と聞かれて、「うん、行く(Ano, chci)」と返すのはチェコ語でも同じなので問題ないのだけど、「これで、気にならない?(Nevadí ti to?)」と聞かれて、「うん、気にならない(Ano, nevadí)」と返すとぎょっとされてしまう。
 日本語では、動詞が否定か肯定かでも、内容が否定か肯定かでもなく、問う人の期待する答えかどうかを基準に「はい/いいえ」を選ぶのだ。「はい/いいえ」だけで答えると、誤解が起こるわけである。これも日常的にチェコ語を使っていなかったら理解できていなかっただろう。かつて、日本にいたころ、この点について日本語のできるチェコ人に質問されて、頭をひねりにひねったのにちゃんとした答を返せなかったことがある。

 でも、次の条件の複数の外国語を学ぶというのは満たせそうにない。確かに、中学校からは英語を勉強させられたし、大学では第二外国語としてドイツ語を選択した。しかし、そのどちらも日本語を別の視点から見ることができるようなレベルにまでは到達していないし、今更勉強を再開する気にもなれない。だから、この点では浪漫主義言語学の徒にはなれそうもない。
 いや、ちょっと待て、ある。あったぞ。ちゃんと学んで自分の日本語を見つめなおすきっかけになった言葉が。いや、むしろそのおかげでわが日本語がまともなものとして定着したと言ってもいい。漢文、ことに和製漢文があるじゃないか。あれだって、日本語でない以上は立派な「外国語」である。高校時代にあれこれ迷走して、壊れかけていたわが日本語がある程度まともな形になったのは、大学時代の漢文の授業と、平安時代の漢文日記の講読のおかげである。だから、とあえて繰り返すが、複数の外国語を学ぶという条件は、何とか辛うじて満たしていると考えさせてもらおう。今でも漢文日記読んでいるし。

 検定試験を重視しないというのももろ手を挙げて賛成。暇つぶしや、話のタネに受けることまでは否定しないが、語学の学習の目的が検定試験の合格というのでは、本末転倒だとしか言いようがない。チェコ語のA1の試験を受けたことはあるが、あれはチェコの永住許可のようなものを申請するのに必要だったから受けだけで、受験料もチェコの内務省が出してくれたのだった。テストで一番問題だったのは、問題文を読まずに応えたので、正しいものに○をつけるのか、間違ったものに×をつけるのか確認せずに始めてしまって、最後まで答を書いてから、間違いに気づいて答えを書き直さなければならなかったことだった。もちろん、一番下のレベルだったから、「来た、見た、合格した」である。
 今でもときどき、しゃれで一番上のC2を受けてみようかと、思うこともなくはないが、その試験のために特別な勉強をしようとは思わない。まあ、いつも受験料の高さに、こんな金を払ってまで受けることはないわなという結論になるのだけど。それはともかく、この手の試験というものは、普段の学習の成果、もしくは現時点での能力のレベルを確認するために受けるのだから、試験前に合格のための対策をするのには、健康診断を受ける前の数日節制して健康的な生活を送ろうとするのに似た不毛さを感じてしまう。中学、高校時代から試験勉強をしない言い訳として同じようなことを言っていたから、我ながら成長がないと言うべきか、三つ子の魂百までと言うべきか。

 留学に関しては、仕事を辞めてチェコに留学して、そのままチェコに住んでいる人間が、留学なんか要らないといっても説得力はないだろうから、留学するなら日本で初級から中級ぐらいまでの文法事項を身につけてからするべきだと言っておこう。語学は、特に最初は母語で勉強するべきである。日本語で説明されてわからない、覚えられないことが、チェコ語であれ、英語であれ、外国語でなんか理解できるもんか。留学先に期待すべきことは、まず第一に実践の場であって、第二に語彙を増やす場である。そう考えると、本書に書かれているように、長期の留学じゃなくても、旅行やサマースクールでも十分なのか。チェコ語の勉強のためにチェコに来た人間のせりふじゃねえよなって、この点では浪漫主義言語学の徒たる資格がないのか……。
 最後の、会話、特に自分がしゃべることを重視する現代の傾向に背を向けるのは、言葉を深く広く理解するには必須のことである。古臭い考えだと言われようが、語学の基本は読み書きにあるという意見を変えるつもりはない。読み書きを身につけて、耳を鍛えて聞くことができるようになれば、話すのは問題なくできるようになるはずである。この順番でいけば、語彙も充実しているだろうし、内容のある話ができるはずだ。読み書きもろくにできないまま、話そうとしたところで、語彙も、文法も圧倒的に欠けているのだから、話せることは、特に話さなくても問題のないことばかりであろう。

 こうして検討してみると、我があり方は、浪漫主義言語学の範疇から少しばかりずれてしまうようだ。「言語学」付いているのがいけないのだな。と言うことで、浪漫主義言語学の片隅に、入りたいけど入りきれない人たちのために、浪漫主義、いや無頼派語学と言うものを立てさせてもらってそこに属するということにしよう。そして、今後も黒田龍之助師の不肖の(著書を通じての)弟子を自称していくことにする。無頼派に師匠はいらない? いやいや、そんなことはないのだよ。師匠にべったりくっついて頼りきりにならなければいいのだ。と、かつて無頼派と親交のあった本人も無頼派っぽい方がおっしゃっていたのだから。あの方も、弟子と呼んではもらえなかったけど我が師である。
10月5日23時30分。



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