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日本の歴史の中で現代ほど紙を無駄遣いする時代は無かろうかと思わないでもありません。こう申し上げると広告印刷業の人には痛手となってしまいそうですが、 新聞に挟み込まれるピカピカ光った写真入の広告。世の中は宣伝時代には違いないのですが、余りにも紙を無駄にしてはいないでしょうか。 包装について言っても、飴ひと粒、饅頭一つ、煎餅一枚にも独立して包装され、その殆どがゴミ屑として廃棄されてしまいます。 南米大陸やアフリカの原生林地区での木材伐採には関りのないことなのでしょうか。地球環境を大切にする動き、Co2を排出しない運動に逆行しているように感じます。 30数年前の季刊「銀花」第9号には”和紙”の特集が組まれて居て、民芸運動の立役者:柳宗悦が寿岳文章氏に宛てた和紙の 手紙(出雲岩坂の安部栄四郎の漉き技で、柳家の家紋も漉きこまれたもの)の写真と一緒に一文などを載せています。 また彼の著「和紙の美」は紙子紙に漆文字の装幀、和紙の実物入り本文用紙小川産の凝りにこった書物だったようです。 また寿岳文章家の番傘は「ひきの強い紙に、ぱらぱらと落ちる雨の音、私はあれが好きだ・・・紙の傘はいつまでもあって欲しい」と「紙漉村旅日記」に寿岳氏も書き残しています。 最後に再び柳宗悦の一文を添えておきます。 < 何処からその美しさが出て来るのか、いつものように私はそう思索する。・・・(略)なぜ手漉きだと紙が温かくなるのか。 なぜ自然のままの色には間違いがないのか。なぜ陽の光で干すと紙味が冴えるのか。なぜ板干だと一段とよいのか。 なぜ冬の水が紙の質を守ってくれるのか。なぜ耳附きが屡々風情があるのか。真理は自から明かなように思える。 天の恵みがその際に一番温かく現れるからである。自然がその深みを匿すことなく示すからである。 自然の力がまともに感じられると、どの紙も美しいのである。手漉きの美しさを、そう考えて筋が通る。> 野風呂前師から戴いた野風呂直筆の句の数々、宝船の画数枚、京鹿子結社戦前の俳人たちの寄せ書きなど またいつか使おうとして亡父が遺している和紙がまだ沢山あります。それらは私がしかるべきレベルになった時に一部使わせて貰うつもりです。
2012.06.30
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本日は只今から俳誌・京鹿子7月号の発送の為、本部へ出かけます。 ところで、一昨日の水曜日は「大山崎歴史資料館」でもガイドの当番でした。行楽シーズンの5月とは雲泥の違い、11時半までは資料館のお客様はゼロでしたが、3人の女性客が来館、3階の大ホールにて「白露」の吟行句会に参加するにつけ、句材を求めて・・・。食事もまだ、俳句も出来て居ないという状況をお聴きして、3つ程のポイントをガイド、ただ、うっかりしていました。まだ12時前なのに1時前と勘違いしたため、時間足らずと焦り、お客様を急いで帰してしまいました。 帰ろうとした刹那、また4人のお客様、矢張り、吟行句会の方方でした。私も俳句を致しますので、大山崎をテーマにした拙句の披露や、資料館内のグッズで句材となりそうな、橋架け観音、えごま、閻魔さま、秀吉公の出世石などいろいろ話題を提供しました。 果たしてこの7名の俳人たちのお役にたったのでしょうか?帰りの車中ではいくつか句が浮かびました・・・。
2012.06.29
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大半の人は高校生の頃、一度は名を聞いたことのある、「古事記伝」を書いた国学者・本居宣長。えぇ? こんな所で国語の授業を始めるって?と訝しく思われたことでしょうがご案じ召されまするな。 彼の書き残した在京日記の宝暦6(1756)年の正月には、”あぶり出し”について触れてあります。ところがどっこい! 当時のあぶり出しが単なる遊びの段階を越えている記述がありますので引用します。 「あぶり出しとか言ひて、いたう(スゴク)行われ<つまり流行している>侍る。その仕様は、先づ紙に車輪の如くなる物をまろく描きて、それを三十に刻み、中央に白地有り。その周り三十に、たからづくし、或ひは役者の名寄せなど書き侍るが、その中の1つを中央の白地に酒にて書き置くに、文字見えず、さて思ひ思ひに銭をかけて名を記し置きて、三十人に満ちぬれば、その中央を火に炙れば、かの酒にて書ける文字表れ侍りて、それに當たれる人、それぞれの賭けものを取るなり。」 もっと酷い例も書いています。「大坂堺の方にては家を賭け物にし、或ひは遊女をいれて、当れる者に一夜の枕を許しなどしてるとぞ、それゆへとかく言ふこと出できて、難波わたりはとくに止められぬるに、京はさらに行はれて、高きいやしき大かたせぬ家は無かりける。あまりに長じぬれば二十八九日ごろより京も固く禁ぜられける。」 なお、この話題は日置昌一著「ものしり事典 芸能娯楽編」(上)から纏めました。
2012.06.28
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今からガイドの当番ですぐに出かけますので、拙作のコピーもので勘弁願います。「反省」 1)ひとりになって 初めて分かった 人の温もり 外目だけで選んだ 過去の男 不誠実と屈辱と そして悲しさだけを 残して行った 会いたくなんかない 道ですれ違っても 知らん顔しよう だけど淋しさだけは どうしよう 2)家庭を捨てて 初めて感じた 親の気遣い 喧嘩腰で通した 過去の対話 愚かさと幼さと そして気まずさだけを 残して去った 謝りたくはない 心すれ違っても 歩み寄りは無理 だけど親子の絆 どうしよう 3)社会に触れて 初めて気づいた 世間の常識 自分だけの自由は ほんの少し 身勝手さと気侭さと そして優越感を 手にしただけ 独立したけれど 思ったほど良くない 将来性ゼロ こころ傷める不安 どうしよう「反省」 録音状態が良くないのでお耳障りかも知れませんが、この曲は綺麗なメロディ、前奏も自分で気に入っています。
2012.06.27
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今朝の京都新聞洛西版にはアサヒビール大山崎山荘美術館の元学芸委員(現・同社大阪統括支社業務部)の杉浦美紀さんが、”glee”に嵌っていると書いておられます。ゲーム会社のことではなく、NHKの再放送番組のドラマのタイトルのことでアメリカはオハイオ州にあるマッキンリー高校が舞台。 彼女が伝えていらっしゃるグリーではポップス、ロック、フォークソングを含めたミュージカルやダンスも織り込まれているようですが、かく言う私は、某大学のグリークラブの卒部生で、大学の卒業証書よりグリーのそれの方の価値に重きを置く部類です。入学当時のオリエンテーションでは、ESSや速記クラブに食指が働きかけていたところ、グリークラブのハーモニーの美しさ、男性的でかつ繊細な演奏に魅入られて、グリーの虜になってしまいました。驚いたことに、入部当時は大学の周囲を走るマラソンやラジオ体操など体づくりから徹底的に鍛えられたことです。もうひとつ、今までの声を捨てなさいと命じられたことにも愕然としましたが。実は、これが正解でした。あのまま高校生時代の声を頑固に守っていたら、かくも楽に(と言っても、全身から歌いますが)、歌を一生の伴侶として楽しんではいなかったであろうと思われます。 現在カラオケ屋さんやスナックのカラオケ設備の中で、マイクの性能が高水準になっている為、多くの人がプロのように歌えるのですが、それは大間違い。マイクに頼る歌は聴衆を真に魅了する域には達しないと思います。曲のイメージ、登場人物を十二分に理解した上で、曲全体にメリハリをつけてこそだと思います。哀しい曲は自分が泣いてしまう一歩手前に踏みとどまり、聴衆を泣かせてこそだと思うのです。クラシック至上主義的な香りに染まり過ぎる人物にもなりたくありません、いろんなジャンルに挑戦する幅の広さ、いろんな歌を愛してこそ、真の歌好きと言えるのではないでしょうか。 本日の拙作は、転調に失敗していますが、ミサ曲の1つ、Kyrieです。平成8年ごろにつくったのかな?Kyrie
2012.06.26
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ここひと月ほどは余程忙しかったのでしょうか、6月がもう1週間足らずと言う時期なのに、5月中の句の記録を忘れていました。 播州の麦の穂万歳三唱す 英傑の安土の神話麦の秋〇山吹の雨は雨とてなほ明(さや)か 霧島の聳楼(ショウロウ)わたす神の池 (注 キリシマツツジ) 大霧島渉らせ給ふ上達部(カンダチメ) 新樹燃ゆ今日の左脳はフル回転 情炎の晶子の歌碑は木下闇 生きるとはねばならぬこと夾竹桃〇寄積みの桧丸太や木曽薄暑 万緑や手斧(チョウナ)め著(シル)き櫓門他にもう少しあるのですが、全国規模の大会へ一部投句中です。
2012.06.25
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棒腹絶倒でお馴染みのビックリハウス版「大語海」(教訓編)の”し”から適宜抽出しました。 地獄で仏になる〇親しき仲にも演技あり 死んで鼻毛が伸びるものか 渋谷も日比谷もみなシビア〇市民に口なし 死人にくちなしの花 地震かみなり家事手伝い〇人類はみな教材 親類はみな京大、僕ぁ代々木ゼミナール「人類はみな兄弟」って、女性差別じゃございません?・・・ 婦人団体 事実は小説よりもキリがない〇事実は小説より気になる 失敗は成功のもとというのが失敗のもと〇酒にまじわれば赤くなる〇賞品の発送は発表をもってかえさせていただきます 人事をつくしてフリコミを待つ 十五でねえやは嫁に行ったら民放違反 冗談にも歩道と車道がある 信じる喜び、信じられる心苦しさ〇しょっちゅうお見合い申込みます・・・オールドミス 初診料忘るべからず・・・町医者 人生は凶という日の積み重ね 10羽ひとカラ揚げ・・・フライドチキン〇十円ひと昔・・・ハガキ 蛇の目で買い替え嬉しいな・・・ミシンのセールスマン 新日本気候(×紀行) → 異常気象 シュワッ!来ませり・・・ウルトラマン 従業員「イヤン」の為、休業します今回はかなり載せましたよ ではでは。
2012.06.24
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大学ノートに張り付けてあるシリーズものの新聞記事。題して「大阪史蹟地図」。”新大阪”という新聞の記事で、裏返せば阪神の田宮氏が選手だった頃、中西太氏がホームランバッターとして注目された頃、力道山の空手チョップの記事、初代若ノ花が亡くなったお子様を偲び大きな数珠を首に巻いていた頃、千代の山が若ノ花を退けたニュースなどが載っていますので、相当古い時代の新聞と思われます。牧村史陽氏は19世紀末の生まれ、大阪船場の木綿問屋の出でしたが、家業を別家に譲り、専ら、大阪の郷土史研究家となって「佳陽会」というグループを主宰、「大阪弁(全7巻)」など多くの著作を残した人ですが、父が遺したこのシリーズは刊行された形跡がないので、非常に価値のあるシリーズと言えます。堂島・曽根崎、上福島、天下茶屋、阿倍野、生野、生玉、高津、曾根崎から網島という具合に、埋もれかけた史実、伝承の場所を詳しく書いておられます。色あせて一部分読み難いものもありますが、捨てがたい、貴重な記事だと思うのです。
2012.06.23
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昨日、豪雨に近い天候の中、近所の歌声スナックで知人となったプロ歌手のステージに駆けつけました。場所は京都・高島屋の斜め東辺りにある「巴里野郎」。既に10数人のお客さんが開演まだかと待ちかねていらっしゃった。このステージを仕切られたのは、大地真央と同期生の元ヅカ生・諏訪あいさん。諏訪さんは、プロの歌手やダンサー、宝塚音楽学校受験やOSK、劇団四季、タレントをめざす方への指導をなさっていて、その学校は京都は中京区西ノ京の”諏訪ミュージカルスクール”http://suwamusicalschool.com/。今年が創立30周年に当たり、来月13日(金)はその記念祭がホテルで開かれます。 亡父が学生時代から宝塚のファンで、我が家には戦前の小夜福子さんらのSPレコードが沢山あります。勿論、昭和30年代後半からのLPレコードやカセットテープも、そして父がこっそり録音したカセットの容器には、華やかな宝塚歌劇フィナーレの舞台写真やポスター写真などが貼り付けてあります。 私が宝塚歌劇を家族と観劇していたのは、八千草薫さんや朝丘雪路さんらが退団されて数年後、淀かほる、明石照子(テリー)、寿美花代さんや那智わたる(マルさん)、麻鳥千穂、真帆志ぶき(すーたん)、浜木綿子、故里明美、黒木ひかる、四条秀子といったスターの居られた時分。高木史郎氏の”華麗なる千拍子”はその後のヒット作品「ベルサイユの薔薇」に匹敵する演目でした。ダンスのSKD(含むOSK)、歌の宝塚から華麗なダンスショーを披露できた作品でした。姉などはラジオ番組”宝塚ファン・コンテスト”に出場、黄金賞を貰ったほどのファンでした。父は月刊誌「歌劇」にファンとして一文を何度か掲載して貰っていました。当時、我が家では入団者研1が掲載された号の中から自分の推す人を決めたりしていました。一番の成績入団の甲にしきさんの同期の玉梓瑠美さんを私は推しましたが、それほど熱心な生徒さんでなく、じきじき、劇団事務所気付で演技法やダンス法などを書いて彼女宛、送ったことも。幸い、妹さんの玉梓真紀(同期に上月晃ゴンちゃん)さんが歌手として一流になられたことをで望みは達せられたのかも? 話は昨日の演奏会に戻って、知人咲子さんの舞台、とてもご立派でした。うわべを謡うのではのではなく、歌詞に登場する人物そのものの人生を伝えるという域に達しておられたので嬉しかった。歌・舞踊・劇というものは文章と同じで、相手の心に伝わって幾らという世界。しかも毎回が本番でやり直しがきかないところが怖くもあり、魅力でもあります。また舞台芸術は観客と共に奏でてゆくその場限りの世界ですから、観客(聴衆)の心を第一声、ひと仕草で捉える魅力を出すことが勝負ともいえます。それには日頃の心の鍛え方が運命の岐れ路。舞台は派手目に演じなければならないので、或る意味楽である反面、或る意味、体力勝負の世界でもあると言えましょう。 付録には拙作恋仇歌詞は 「恋と恋仇」 1. 恋に恋する 時は とても眠れは できぬ 胸の鼓動が 鳴る ドキドキドキラ キキドキラ あの娘だけは 誰にも渡せ ないさ それを思う 時は 胸が高鳴 るのさ 恋に恋する 時は 居てもたっても 居れぬ これが恋の 病 誰も一度は 経験するのさ 2. 恋の仇は 強敵 とても俺には 勝てぬ だけど命を 賭けて ヤルヤルヤルサ ヤルヤルサ あの娘決して 美人ではない けれど 気だての良さは 一番 色の白さも 抜群 恋の仇が どうした 俺の真ご ころが いつか勝利を 掴む 誰も構うな 今度は ヤルのさ
2012.06.22
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仏像は如来、菩薩、明王、天の4つのグループに分けられ、如来は仏様そのもの、菩薩はその志願者、明王は如来や菩薩を守る怒れる仏であり、そのいずれもに属さないのが”天”というグループ。天部は元来、異教出身の神だから出世は難しいのだけれど、容易に変身のできる観音様は菩薩まで昇格、不動のように力を有する仏は明王まで出世しています。しかしその他の天部にとどまる仏たちは、余りにも人間的なお顔立ちな故、装いや態度が人間に限りなく近いが故に、その地位に甘んじておられるのです。いかつい顔した番兵の四天王、人懐っこい大黒天、絶世の美人である吉祥天と弁財天、つんとすまし顔の菩薩様とは違います。如来様や菩薩様には手に持つ道具や飾り物が決まっていますが、毘沙門天以外の天は、みんな自由で人間的なのです。そして御堂内の厳粛な雰囲気を少し柔らげているのが天邪鬼。寺院の観光には、これら邪気たちの恰好を観るのも楽しみの1つだと思えます。(参考図書:「仏像のこころ」梅原猛<集英社文庫>)
2012.06.21
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台風一過、謹んでお見舞い申上げます。 さて、”いろは歌留多」は安永3(1774)年に京都の書林・菊屋吉兵衛から、伊勢の人・南勢野叟の書いた「児童教訓伊呂波歌」が刊行され、翌年に下河辺拾水の絵を付けた「兒童教訓伊呂波歌絵抄」が流布したのが始まりと言われます。京都の次は江戸でも、そして後に名古屋でも流行しました。その違いを参考までに。<江戸もの>い)犬も歩けば棒にあたるろ)論より証拠は)花より団子に)憎まれつ子世に憚るほ)骨折損の草臥れ儲けこれが<京都もの>になるとイ)一寸先は闇ロ)論語読みの論語知らずハ)針の穴から天を覗くニ)二階から目薬ホ)仏の顔も三度となり、また<名古屋>ではい)一を聞いて十を知るろ)六十の三つ子は)花より団子に)憎まれる神直しほ)惚れたが因果いろいろあって面白いですね。では歌留多風景を詠んだ川柳を 其処だよと言われて下女も一つ取り 鳴く鹿の声も聞かせず嫁が取りそして 秋の田を一枚下女へ嫁譲り姑の心遣いで締めきれて、ああ、良かった。
2012.06.20
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整理ダンス2棹のほか段ボール箱数個に保存してあった父の集めた”こけし”は、父の没後10年を経過したのち、甥っ子に頼んでインターネット・オークションにて全国のこけしファンに引き取って貰い、もし物置の中に段ボール箱が残っていなけりゃ、手持ちの数は20数本になっています。このネットを通じてお知り合いになった方を通して、一時日本に滞在なさった留学生の土産として海外にも渡りました。そのお礼状も頂きました。 ところで、この日記にまだ書いていないと思われる装丁の美しいB5版大の書物が物置から見つかりました。橘文策著「木形子談義」(日月書院)昭和10年7月5日刊行のもので3円50銭。限定版500部の内、245号、他に著者版50部とある限定ものです。目次前の頁には、ちょび髭を生やした黒縁めがねの著者の近影と、写真ふれながらペン書きのサインも。 友人から贈られたのをきっかけに、5年で千五百、百名を超える作者のモノを集められた。<五月雨の音を聴きつつ 船場の寓居にて>と自序に記してあるから、大阪の人と思われます。 山で生まれた木人形 語源について・・・凡そ50程の言い回しがあるとか 木形子と作者名 木形子と素材・・・ミヅキ、イタヤ、ホウノキ、桑など13種ほど。 ロクロの形態的変僊 山の木地屋 阿波を覗く 木地山紀行 こういった項目のほか、土湯のこけしと作者、新作者展望として東北7県北海道の20名を紹介しています。 父はこの書を大阪御堂筋ビル隣の鳥城閣書店の古書から見つけ出しています。父の遺した書物を手にしながら、書物をこよなく愛する人物だったと思います。父の我儘を止む無く許していた母も立派だったと思う次第です。
2012.06.19
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みなさんは祇園というところをどないに思てはるンどすやろ。何処ぞの遊郭と同じように思てはるンどすやろな。祇園甲部は藩の取り潰しをはじめ、廃藩置県、四民平等、爵位返上、財閥解体などの憂き目に遭わはった武家や名家の子女の受け皿どしたんどす。 祇園甲部で舞妓、芸妓と呼ばれるのンは、祇園甲部の舞の流儀が京舞井上流で、能、人形振り、篠塚流を基礎として、300年もの精進を重ねた近衛家のお抱え流派で、御所にも指南役として上がってました格式の高い技芸集団どすねん。舞と踊りとが根本的には違てるということを覚えといておくやす。 舞妓の店出しの日は朝の6時から起きて、まずお風呂に入り、髪結いさんに行きますねん。朝食はお赤飯と鯛で、できるだけおトイレに行かんで済むように、水やお茶などは殆ど摂らへんのどす。髪を整え、鬢つけ油で下地を作ります。初めに練り白粉(オシロイ)の白を首から2、3度引き、次に頬、鼻筋と引き、桃色の生臙脂または砥の粉で鼻筋、眉毛をかたどり、白を重ねていきます。ほんでもう一度、生臙脂で眉を描き、その上に黒の眉墨を重ねます。 さし物は、ちりかんと呼ばれる鼈甲の簪(カンザシ)、鹿の子留、よしちょう、橘、前ざし、両ビラ(家紋入り)。衣装は下から順に、木綿のさらしの腰巻(白)、胸当て、もう一枚腰巻の長めのもの、袴、木綿の肌襦袢に襟は赤、長襦袢は綸子地赤、扇面のいろいろな花の縫い取り、襟は別になっていて 縮緬の赤地に金、銀の源氏車、本衣装は綸子黒地に御所解、帯は青金、赤金の松、帯揚げは縮緬赤地家紋入り相良繍(ヌイ)。本衣装の時は帯留はせえへんのどす。持ち物は扇、手拭、紅、櫛、それに鏡台前の鏡掛け、お座布団、籠、櫛入れ、扇袋など、結構多いどっしゃろ。 うち等、祇園の舞妓は芸事に磨きを掛け教養を身につけることに精進してますよって、水揚げと言うてもお客さんと同衾するんとは違います。ステップ・アップのために儀式することどすさかい、髷を割れしのぶから「やっこ」や「おふく」に変えるンどす。祇園祭の間だけは「勝山」という髷にします。また赤地の襟から白地に替えるンどす。芸妓になったら、もう可愛いということだけで許されないことになりますねん。 この文章は「芸妓峰子の花いくさ」岩崎峰子著(講談社)を参考に、私なりに書かせてもらいました。
2012.06.18
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今月初めの例会の兼題のひとつは「父の日」。で次のように 父の日を忘ることなき長女なる詠みましたら、主宰の選にいれて頂きました。そう、俳句が先で、実際のプレゼントは一昨日にクール宅急便にて到着済み。そのグッズは? 京都石塀小路さくら監修 懐石珍味「桔梗」&コオリ酒「白水氷室」〇木箱のまま、冷蔵庫(5~10度前後)にて解凍をして下さい。という注意書きには約2~3時間で解凍します。また解凍後は冷蔵にて一日が目安とか。懐石珍味「桔梗」の献立内容は〇貝柱と数の子のウニ和え〇生帆立酒盗和え 北海道産の帆立貝ひもをカツオ酒盗で和えました。コリコリした帆立貝ひもの食感と風味。〇ほたるいかの沖漬 国産のホタル烏賊を醤油と天日塩に漬け込みました。〇えびわさ プリプリ食感の海老をピリッとわさびをきかせて仕上げました。〇磯にしわさび和え 食感のよいアカニシ貝をわさび風味で〇たこの塩辛 飯蛸を食べやすいようにカットし、糀と豆板醤で漬け込みました。〇鮎背ごし南蛮漬 輪切りにした鮎をカラリと揚げ、さっぱり風味の南蛮漬に〇ちりめんチーズ 石塀小路さくらの定番の前菜です。〇帆立旨辛明太 帆立ひもと大根を明太チャンジャ風に仕上げました。大根は根を張るため、家の土台がしっかりとして栄えるという縁起物です。一家の大黒柱であるお父様の健康を願う気持ちを込めました。〇桔梗飾り 季節の花「桔梗」をかたどった飾り物(食べ物ではございません。ご注意下さい) ざっと、こういう代物でした。今夜ゆっくり味わいます♪なお、15年ほど前には、愛するこどもたちへ歌詞と曲も作っています。 「うちの変な子たち」 うちのトモコは 泣きトモコ 何でもないのに すぐに泣く 泣いては笑い、笑っては泣く うちのトモコは 泣きトモコ うちのコウジは ぐずコウジ 何をするにも ぐずいのだ あっち行って ぐずぐず こっち来て ぐずぐず うちのコウジは ぐずコウジ曲はこれです。うちの変な子たち
2012.06.17
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棒腹絶倒でお馴染みのビックリハウス版「大語海」(教訓編)の”さ”から適宜抽出しました。 三歩下がって師の土踏まずを見る 三歩下がって二の足を踏む 三々九度ならぬ 三三くどい! 最後に笑う者がいちばんトロい 去る女は日々にいとし 三度目の掃除機、安物買いの銭失い 三文ぽっちで早起きなんぞ出来んわい さわらぬ髪にフケいっぱい 猿も気落ちする さいは投げられた よって象の勝ち~~ さらば切るぞ! ーーー電話 残暑お見舞い帽子あげます 残高お見舞い申上げますーーーキャッシュカード 歳末大無理出し さよならなんて 家ないよ(居候) まだまだありますが、本日はこの辺でぇ~。
2012.06.16
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桂に居た頃は豊かな時代ではなかったので紙芝居を見た記憶は有りません。佐賀市の2年間も、大阪の帝塚山の少々高級な住宅地に住んでいた頃も目に触れて居ません。唯一、祖父母と従妹の住む下京の町では自転車で巡回する紙芝居のおっちゃんがいました。おっちゃんの語り口、そして焦らすようにしてから漸く画面の変る絵に興味が無いではありませんが、やはり、お八つの時間に合わせた駄菓子との組合せが絶妙でした。林えり子さんの名文を拝借すると、<木箱には引き出しが3段くらいあった。一番下段に水あめのバットと半分折の割り箸が入っていた。透明な水あめは箸でこねくりまわすと空気を含んで白くなり、固さも増すのでそれからしゃぶるというわけだ。中にはお小遣いが貰えずに只見する子どももいて、群れのうしろのほうで遠慮がちにしていた。>駄菓子の種類はほかに煎餅や酢こんぶなどもあったように思います。こんな下町情緒の紙芝居もテレビジョンの普及で姿を消してしまった時期がありましたが、最近、復活し地味ながらブームを呼んでいるようです。決して上手とは思えないあの”絵”ですが、黄金バットなどは「なんでも鑑定団」の見立てでは、驚くほどの高値だとか・・・。昭和時代は豊かだったとは言えませんが、時間的には豊かだったと思うのです。
2012.06.15
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机上には1冊のぶ厚い本があって、「テレビ番組の40年」(読売新聞芸能部編、NHK出版)がそれで、昭和27年7月31日、日本テレビに予備免許が与えられた時代から平成5年までの歴史をジャンル毎に綴ってある代物で、どのページを繰っても興味が尽きません。 昭和46~58年日本テレビで放映された「スター誕生」から拾ってみると、”シンデレラ・ガールズたちの伝説”という副題があって、今回リバイバルを果たした森昌子さんなどについて触れています。 <それはまるで、テレビの魔法のようだった。昨日まではどこにでもいそうな普通の女の子が、今日はブラウン管の向こう側に立つ。スポットライトを浴びて歌う姿は、全国の少年少女に「私もスターになれるかもしれない」という夢を抱かせた。> 日本テレビで音楽班のプロデューサーをしていた池田文雄氏がブレーンの作詞家阿久悠氏と相談し、オーディションに合格したら”賞金をあげる”じゃなくて、スターデビューへの道を開いてあげようというスタイルで、この番組が発足しました。 第1回の決勝者は13歳の森昌子さんで、いろいろ注目を集め無事歌手デビューを果たしました。レコード会社のスカウトマンが社名入りのプラカードを挙げる光景は、正にオーディションそのものでした。司会者は萩本欣一、タモリ、谷隼人、坂本九へと引き継がれ、阿久悠、松田敏江、都倉俊一ら審査員の辛口の批評も人気を煽りました。「アイドル垂れ目論」は前述の池田氏の持論で、石野真子や柏原芳恵はひと目でいけると思ったのだそうです。 翌年、予選会場でふっと浮いたような、静かな雰囲気の少女が居て、どこか惹き付けるものを持っていたのが山口百恵さんだったようで、桜田淳子との3人娘で売り出すに際して最も心配したのが百恵さんだったとか。 1番キラキラ輝いていて最高のプラカード数を得たのが桜田さん。そして伝説の歌手山口百恵さんは引退を境に2度とステージには現れませんね。女子高生だったピンク・レディのおふたりは正にシンデレラ。岩手出身の新沼謙治さんは栃木で左官業だったけれどシンデレラ・ボーイに。 応募者数は200万人、88組(人)が芸能界にデビューした番組でした。岩崎宏美、藤正樹、城みちる、伊藤咲子、渋谷哲平、松本明子、片平なぎさ、そしてギターを片手に清楚だった故・清水由貴子さんも忘れられません。
2012.06.14
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つい先日までは西側の道路に面した石垣の上の霧島ツツジが真っ赤な小花を満開させていましたが、それが咽び泪のように散り零れ、側溝に幾重もの帯を流しています。先月の向陽俳句会は方除・城南宮さんの庭園を拝しての句会でした。その折、平戸ツツジが花を醜く枯らせたまま、なだらかな円形の上に乗せているさまを”髑髏小町”のように感じたのですがわが家の垣根もそんな感じがしています。これらを掃き集める朝のゴミ出しが少々面倒。 さて庭の景色も徐々に変わっていきます。蛍袋が至るところに咲いています。木下闇の葉桜の手前にはくすんだ赤紫色が群生。一旦伐り取って背丈が半分になったメタセコイヤ、椿・躑躅に石組みのある場所には白色の蛍袋の群れ咲き。ウッドデッキ横の花壇には目の醒めるような赤紫のスイセンノウ(フランネルソウ)、テラスには家内が丹精こめているトマトの鉢が2つ、葉に勢いがあって頼もしい限りです。ゼラニウムのいろんな色があっちこっちに・・・。サボテンの花に似て金属的な松葉牡丹。北側の玄関の真正面、蹲踞のそばにピンク色した紫陽花が盛りに向っています。どうやら、梅雨本番に入ったのでしょうね。
2012.06.12
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昨日は堺市にある総合水研究所が会場で、50人ほどが参集、3句投句の句会がありました。これに先立って、今月の2日、長岡天神ー梅田ー天王寺ー御陵前という具合に、阪急、地下鉄、阪堺線を乗り継いで、徳川家康公の墓や三好長慶一族の墓、利休、紹?ら茶人の墓のある”南宗寺”や千利休の生家跡、与謝野晶子の実家跡など見て回りました。天王寺始発のチンチン電車はまことに風情があって、戦後復興期の日本の香りが致します。600円の1日乗車券は、年号、月、日付この3つを宝くじのようにコインで削りとってワンマンカーの運転手に呈示する仕組みになっていて、この日は7回ほど乗降を繰り返し、元を取りました。 与謝野晶子の母校・堺高女(現堺市立女子高)は姉ふたりも卒業生。姫松駅は社宅が近くにありましたので、懐かしい停留所です。浜寺公園も水泳に何度となく訪れた場所。もう無くなってしまった京都市内の市電を彷彿させる素敵なのりもので、昨日は年に1度のチンチン電車祭。幼い少年と手を繋いだ母親や少年時代の目を取り戻している鉄道ファンが、カメラを片手に”我孫子道”駅でどっさり下車、車体の工場のある当駅で催しがあったようです。 堺で特筆すべきは蕎麦屋の”ちく満”、以前よりかなり柔らかい蕎麦でした。電車通りを挟んでその真向かいにあるhttp://keshimochi.com/”けし餅の小島屋”さん。創業350年ほどになる老舗。2階の喫茶室でけし餅抹茶セットがお薦め。女将さんとの会話も大いに弾みました。 当日の拙句ですが、 夏草や武人茶人の眠る寺 訝しき秘史のある寺梅雨に入る 薄暑はや鉄の匂ひのまち堺3つ目の句は副主宰の特選に入れていただき、賞品として副主宰の 合言葉風と雲とし春動く直筆の短冊を頂戴しました。早速お仏壇にお供えしています。
2012.06.11
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数年前のこの日記を見れば、その1年前の佐賀旅行について記していました。レンターサイクルで佐賀市内をぐるぐる巡った様子が書いてありました。そして翌日の日記には俳句会の後、祇園へ繰り出した宵のことが。芸妓:豆千加さんが、後輩の舞妓さんを従え、たった半年の間に舞妓から芸妓へと変身、立派な姐さんぶりを発揮して居られたことや五花街総出の舞踊のことなどを書いていました。 舞妓・芸妓さんが綺麗に見えるのは、専門の着付け師が居られ、型崩れしないような着せ方をしているからで、素人さんより艶っぽいとは言え、後ろから見る姿に祇園としての品格がありますね。 また舞妓・芸妓さんは美人に越したことはありませんが、売れっ子になるのは、舞が上手だとか、客のあしらいが上手だとか、地唄や三味線が上手だとか、何かに秀でている人にお呼び出しがかかるのではないでしょうか。 島原の花魁(オイラン)に至っては、歌道・華道・茶道・書道などにも精通した上に、時世に詳しく、広い教養を兼ね備えて居られると叔父から聞いたことがありました。
2012.06.10
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先日家内が「いずみや」から金魚5匹を買って来ました。最近の陽気をみて、欲しくなったのでしょう。今から3年前の日記には、次のような記事がありました。 <今わが家には1匹しか金魚が居ません。台所の出窓に置いてある水槽の1匹が、自ら飛び出して他界。そもそもこれが怪奇現象の皮切りになるとは、予想だにして居ませんでした。1週間ほど前、庭の睡蓮鉢に飼っていた番(ツガイ)の大きい方が、”忽然と姿を晦まし”、何処を捜しても見当たりませんでした。今回は猫か烏に襲われたのかなと思いつつ落胆して居ましたが、昨日の朝、もう1匹の金魚も忽然と姿を消したのです。まさか大地震の前触れでは無いと思うものの、金網の蓋を購入するまで、金魚は表では飼えそうにもありません。> で、今はちょっと荒目の金網を乗せ、レンガの重しを置いています。この文章を書いたのは、1週間ほど前、今年も次々亡くなり、1匹のみ睡蓮鉢に棲んでいます。本日の拙作は「ギターその2」です。最後がプツンと切れているのは、PCでの原曲では継ぎ目無く、もう一度繰り返せば長いので・・・。ごめんなさい。
2012.06.09
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〇今月号には島田牙城氏の「其十夭逝」なる玉章に創生期の京鹿子について詳述して戴いていますが、京大三高俳句会と併行して野風呂先師赴任先の武道専門学校「小男鹿句会」も盛んで、草城、播水、誓子ら京大三高の学徒も互いに顔なじみだったようです。小牡鹿句集は昭和十五年の刊。〇井原西鶴の大矢数は著名ですが、野風呂先師も負けておられませんでした。昭和二十一年七月二十二日の夕刻から真如堂本坊にて多吟に挑戦されました。良句のみを心がけての一千百八十六句。前日、早朝から四つの句会に出席された後での偉業。〇都峰主宰に於かれても術後のお体ながら吟旅にご参加、平常に戻っておられます。野風呂先師の多吟と都峰主宰に共通する俳句への強い思いを学び、本年の現代俳句全国大会への投句や、京鹿子祭の盛会を期して双滴集や募集大作賞への皆さんの投句を切望して止みません。(星子) この一文は7月号の編集後記への試文。
2012.06.09
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男女を問わず人間は欲の塊で、成人するにつれ社会的地位や肩書きへの欲求も大きくなっていくように思います。私は都市銀行に奉職して居ましたので、先輩や同僚、後輩たちの出世欲をつぶさに見てきました。 私は出世ということにそれほど興味が無かったのは親譲りなのかも知れません。 父は勤務時間中は最大の努力を払うけれど、企業の犠牲者になる積りはいささかも無く、帰宅後の余暇を如何に過すかということに注力していたように思います。 それは多岐に渡る趣味の多さ、知識の豊富さに裏づけされていました。星座・数式・古文・俳句・演劇・歌舞伎・宝塚歌劇・舞踊(都をどり他)・落語(漫才)・美術・デザイン・歴史・美食・和菓子・・・・数え上げても際限が無いくらい。 不肖の息子として親父に無かったものを挙げるとすれば、作詞・作曲、合唱、ガイド(ボランティア)ぐらいなもの、しかも底が浅いので、到底、父を超えることなどできません。 ところで企業人が退職し、傍系の関係会社で再び肩書のある名刺が使えるのはせいぜい十余年程度だから、六十五歳を超えた頃から肩書きのついた名刺は使えなくなってしまうと、その人物に威光や力感が無くなってしまうように感じられます。寧ろ、その奥方の方が社交的でパワフルに生活していらっしゃることが多いように思います。 私は大した肩書きも無かったから、退職後の悲哀感など皆無で、自由人になれた喜びを噛み締めていました。・・・そう、人生は肩書きが取れた老後(六十五歳)からが、真の力比べなのかも知れません。
2012.06.08
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棒腹絶倒でお馴染みのビックリハウス版「大語海」(教訓編)のコの続きから。 故郷ににしきのあきらを連れて帰る 孝行をしたくないのに親がいる 今夜の白パジャマ ころんでもたまには起きない 転んでもダダで起きない ここにあったか百円め 子供は風の子、俺の子じゃない 後悔 役に立たず 子は貸すがいい コイン矢の如しーーーゲームセンター 攻撃は最大の暴挙なり ご成長まことにありがとうございますーーー養豚業者 戸籍に入れずんば孤児となる コネにて一件落着 まだまだありますが、本日はこの辺でぇ~。
2012.06.07
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赤いべべ着たかわいい金魚、おめめを覚ませばご馳走するぞ。私たちは幼いときから、この童謡によって金魚に親しみ、また夏祭りでは金魚すくいに目を輝かせました。 海竜社刊・林えり子さんの「暮しの昭和誌」には金魚の売り声や金魚の歴史的なことまで触れておられます。<金魚にもピンからキリまであって、1匹何万円という王様は”蘭鋳”だそうだけど、子どもにも馴染みなのは和金、琉金、出目金ぐらい。ほかに地金、頂点眼、秋金、東錦、金蘭子、和唐内、和蘭獅子頭、キャリコ、コメット、ニンフなどなど、だいたい35、6種類あるそうだ。> 秋金は和蘭獅子頭と蘭鋳を交配させ、蘭鋳から頭のコブをとり、和蘭獅子頭から背びれを取り、豊かな胴体に可憐な頭をつけ、ふさふさした絹裳のような美しい尾びれをつけさせたもの。何と言っても明時代以降の中国での品種改良は目覚ましく、現在では280種を超えるとか。 足利義満の頃、明国との貿易が盛んだったことから室町時代に金魚は日本にお目見えしたものと思われ、元禄6(1693)年刊の「西鶴置土産」には、東京上野池之端に金魚飼育の店のことが懸れているし、大坂の淀屋辰五郎なるものは、大広間の障子と天井にびいどろ(ガラス)を張り巡らし、そこへ清水を注ぎ込んで金魚を放ち飼いにしたとか・・・。 桂に住んでいた時分、父が花びらつきの金魚玉(金魚鉢)に2匹の琉金をいれたものを玄関に置いてくれました。その艶やかな姿、腹部の金色が織り成す微妙な色合い、天女の衣のような薄い尾ひれの美しさまさに金魚は水中の天女なのかも知れません。(本日の付録)は”古代遺跡”という一風変った曲です。
2012.06.06
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もう7年も過ぎてしまったようです。この日記によれば、6月の20日頃、妙心寺の境内を北に進み東へ曲がり北へ少々行ったところにある東林院の沙羅の花のこと。 <見ごろは18日頃でしたが忙中の閑をぬって本日やっと沙羅の花に遇えました。マスコミの紹介では老木の不健康に触れていませんでしたが、樹齢300年、全長15mの沙羅の木はかなり弱り加減で、花が充分開かないまま、苔の絨毯に落ちていました。 それでも親木の種から育った4、5本の樹木は元気で、綺麗な花(夏椿)をつけていました。お坊さんの巧みなガイドも二度目を聴くと空々しく感じました。やはり、{”間”と、お客さんの反応をみながら臨機応変に話す}のがコツだなと学んだ次第です。 酔芙蓉と同じように、一日花には憐れさを感じますが、それを演出したのが塀の向こうにある竹林の笹風の音でした。「人はあれだけ尽くしたのに・・・」と愚痴を言い勝ちですが、花は無心に黙って咲き、黙って朽ちるとお坊さんは唱えられるけれど、私には一日だけの短命に終わる夏椿の未練のつぶやきが聞こえたのでした。 なお妙心寺の南門近くの木辻通りを東へ辿ると、義経ゆかりの碑が随所に観られました。>このように書いています。また訪ねてみたいものです。
2012.06.05
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日商岩井広報室トレードピア編集部による「雑学七カ国語辞典」には、面白い日本語の表現に相当するのはどんなフレーズなのかを表記しています。 群馬県は館林市、茂林寺の文福茶釜は「たぬき」が化けた伝説で有名ですが、信楽焼の陶ダヌキも愛敬がありますね。 では、掲題の”狸寝入り”は英語では何と表現するかを調べてみると、playing possum(プレイング ポッサム)ポッサムはフクロネズミのこと、つまりポッサムごっこをしているという表現。 では、ドイツ語はSchlaf heuchen ;sich schlafend stellen(シュラーフ ホイヒェルン ジッヒ シュラーフェント シュテレン)シュラーフは寝ること ホイヒェルンは真似る・ふりをするの意味。そしてフランス語となると、L’endormi(ランドルミ) 裁判官という別の意味もあります。ところが、「取らぬ狸の皮算用」なら タヌキに代わって熊が登用され<殺さぬ前に熊の皮を売る>という表現になるようです。ロシア語<楽天では用語の使用が認められませんので略します>スペイン語ならSe hace el dormido(セ アセ ドルミード)中国語では 装睡(ヅォアンスイ)中国の童話でも狐狸は人を騙す動物として登場します。 他国の表現法の粋を見るのも楽しみ方の1つですが、諺的なフレーズに寄せる文章が大変面白、可笑しく書かれているところが本書の魅力なのです。丸写しにしないと、本来の面白さをお届け出来ないので、残念に思います。
2012.06.04
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先月の最終日曜日、京都駅に25人集合、新幹線で名古屋、そして長野へ向かいました。長野駅では福山の4人、東京からの5人が合流、計34名となって大型バスにて先ずは”川中島古戦場”へ。山本勘介なる人物が本当に居たのか疑問視される向きもありますが、作戦の在り方が大きく勝敗を分けることも。大将同士が実際に刀を交えたのかそれも定かではありませんが、犀川と千曲川との間で激しい戦があったのは事実のようです。今回の旅行は天候に恵まれ、青葉色の風は何処を訪れてもとっても美味しく感じました。扇風機や人工的な換気の風とは雲泥の差、首塚の前に立てば、ただ感謝の気持ちに充たされるのでした。 続いて松代城へ向かい、この地でも新緑の風を胸の奥まで吸い込みました。戸倉上山田温泉のホテルに着けば、早速温泉に浸り旅の疲れを湯垢とともに落とし、宴会のあと5句提出の句会が始まりました。披講を任されていますので、できるだけ皆さんの心に届くように読みました。特別選者選や主宰選の発表や句評が済んだらもう10時半。 夜中4時半ごろから目が覚めましたので再び入浴、朝食は和洋中のバイキング。吟旅での収穫作品の感想文の依頼など、食事中ながらも編集部は多忙で、返信用の封筒などを配りました。2日目の観光は上田城と姨捨(長楽寺)。どちらも素敵な場所で下。皆さんがバスの乗車時間を守って下さったので、今回の吟旅はスムーズにことが運びました。帰りの長野線でも、皆さん大いに語り合い、笑い合いました。6月中旬には旅の収穫作品、感想文などがわが家に到着、8月号に載せる手はずになっています。 なお本日は吉田神社近くの野風呂記念館にて、本部での例会(句会)です。何とか5句捻らなきゃ~。
2012.06.03
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日に1度も手を洗わないことが無いように、タオルや手ぬぐいを使わないこともありません。亡母はこれらタオル等を、使用目的というか使用場所によって区分していました。トイレ専用グループ、洗顔専用グループ、そして台所専用グループの3種類。家内はその意思を受け継ぎ、先日まではトイレにはカラー色豊かなタオルを、台所には旅館などの広告入りの薄手のタオルを、そして洗面所には分厚めのタオルと分けていましたが、洗顔後の顔を拭き取るには、安っぽくても旅館やホテルのお持ち帰り可能な広告入りタオルが一番馴染むのでアドバイスしたところ受け入れてくれ、台所用と洗面所とを交換して使っています。 家内の亡くなった弟の妻も既に故人ですが、その実家は泉州、タオルの産地。厳父が手広く経営しておられた。運命と言おうか、不思議と言おうか、家内・私にとって義妹にあたる人の実家では、その姉を除いては両親・弟もこの世に居られません。 日本手ぬぐいは江戸期、明治・大正・昭和の時代を粋なデザインを施したものが現在も伝承されているものの、どう贔屓目にみても、こう言った意匠や技術というものは一部、劣化を辿っているように思えてなりません。京都の永楽屋は信長の時代に基礎を成し、関ヶ原の戦以降、大黒屋と合併、絹布問屋となり、享保年間より現在に至るまで堅実な商いを続けておられる。永楽屋デザインや和てぬぐいの結び方はそのHPをご参照ください。わが家には俳人・野風呂先師の句を染めたものなどが多々あります。
2012.06.02
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父が残した蔵書の中で、お薦め名著の1つに「日本名勝写生紀行」という本があります。神田「松村書店」のシールが裏表紙の見開きに貼ってありますので古書として手に入れたものと思われます。 黒田清輝門下で白馬会所属の新進画家たち岡野栄、中澤弘光、山本森之助、跡見泰、小林鐘吉の5人が、日本諸国を旅して歩きましたが、その様子を版画や写真、絵を添えて書き綴った書物で、今となっては5巻揃っていれば40万円ほどする高価な本です。 大貫伸樹氏のHP(装丁の四季-秋「ガイドブックの装丁」)の文章を一部お借りしますと、 <見返しの彩色木版画・京都案内図もまさに圧巻といえる。たかが書物のために5人の画家達に全国写生旅行をさせ、たくさんの絵を描かせるなど、制作費に糸目をつけない太っ腹な企画を断行したのは、当時中西屋の支配人をしていた伊村金之助である。装釘を担当した岡上儀正は、 明治6年に印刷局に御雇教師として洋式製本を伝えたパターソンの直弟子の1人であり、伊村はキャスティングにも鋭い眼を持っていたようだ。 『日本名勝写生紀行』定価4円50銭は、同じ頃に発行された豪華な本として知られる夏目漱石『虞美人草』1円50銭や、明治39年の巡査の初任給12円(『値段の風俗史』朝日新聞社)に比べてもかなり高価で、旅費よりも高かったのではないかと思われる。> 引用が長くなりました。さて、私が感心するのは折り込みや各頁に添えられた版画・絵の類の豪華さに加え、流れる文章に明治時代の良き香りが漂ってくることです。 <暮れ行く春の霄(しょう・ミゾレ)の雨に、明日は如何にと思ひ煩ひつゝも、明くれば空の朝焼鴨川に映りて三十六峰比叡の山、新緑の世と移ろひ行く五月のはじめの青霞、花より明けて花に暮れし京の盛はいつしか過ぎて、保津川のツツジ、長岡の藤も未だ早し、鉦皷(ガンデン)の壬生狂言、京の島原を尋ねんと、中澤山本二子と宿を出づ。> 「何でも鑑定団」の鑑定士じゃないけれど、頁を来る都度目に飛び込んで来る筆遣いに本物の絵師たちの風雅な心と腕の確かさに魅入られて仕舞うのでした。
2012.06.01
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