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ある程度の知識と環境を与えてもらったら!その知識と環境の中で自分なりに耳を澄ませ目を凝らし思考力を働かせて学習を進める。学ぶ者として、この姿勢を忘れてしまっては、真の向上は無いですよ。ただただ環境に甘えて、かっこいい(と字自分だけが思っている)言い訳や逃げ口実だけを言葉にして、、、、、その実やっていることといえば、自分がしたい楽な楽しいことだけ!そんな、当時の私のようなことをしている人はいませんか?これは自分に正直に自分に問いただしてください。というわけで、今回は偉大な叔父に教わった偉大な遺産を皆さんに紹介させてもらいました。太平洋戦争の末期の貧しい日本の貧しい家に生まれ、、、食べ物もろくにない幼少期を過ごし、、、同年代の人と比べれば驚くほど小さくてガリガリで、、、「魚が好き」というだけの理由で10歳そこそこで母親の治療費を稼ぐために魚屋の下働きとして仕事をはじめ、、、毎日のように社長に殴られても休みもせずに店に通い、、、冬場はしもやけとあかぎれで人間のものとは思えない手になりながらも働き続け、、、自分の店をもっても、商店街のために、従業員のために働き続け、、、男手ひとつで4人の子供を育てあげた、、、今までもそうでしたが、これからも私の尊敬すべき、その背中を追い続けるべき存在!そんな偉大な叔父の話でした。
2013.12.30
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教わっていないから分かりません!そんな甘い言い訳が通用しない世界があることを叔父の店で嫌というほど知らされました。なのに自分は学校で勉強を教わっているのに成績が上がらないで、あげくの果てに高校に行かないなんていって現実から逃げようとしている、、、。そう思いはじめた頃に私の『丁稚奉公』の期間は終了したのでした。私が自分の家に帰る日の朝だけ、叔父は私が小さかった頃の優しく面白い叔父に戻ってくれました。そして私を残して仕事に向かう前に何回も「もう高校なんか行かんと僕と商売しよう!でも中学はちゃんと卒業してきぃや。義務教育やからな。」との言葉をかけてくれました。その後朝食をいただいて、叔父の奥さんや子供たちに見送られて電車に乗った後の私の心中は複雑でした。自分が現実から逃げようとしていることには気付くことができたのですが、それができたからといって果たしてこれからその現実と正面から向き合えるのかどうか、、、この問題が重く私にのしかかっていたのです。
2013.12.29
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叔父は私が物心つくころにはすでに一流の商売人でした。大阪という商人の街で、1つの商店街の中に3つのも店舗を持つ果物屋を経営していました。それに至るには、もちろん商売的なノウハウもあったでしょうが、それ例外に「人として」の部分も必要であったと思われます。おそらく叔父はその最初に働いた魚屋の社長から身をもって叩き込まれたのでしょう。、、、自分の苦労話を一切しなかった叔父なので、今となってはその真相を知る由もありませんが、、、どうですか?学生諸君!自分が「この道」と決めた道ならば、たとえ殴られてもただただ一流を目指して何年も修行や練習を続けることができますか?最近よく耳にする言葉、、、「あの先生は教え方がヘタ」とか「あの先生はウザイ」とか、、、。君たちは勉強をするために学校に通っているのです。たとえ将来どんな道に進むかが決まっていなくても、今身につけている学力がいろんなものの基礎となって人生を切り開いていくしかないのです。大げさかも知れませんが、そう考えれば今君に接してくれている先生たちにたとえ殴られても喰らい着いて勉強をしていくくらいの気迫はありますか?
2013.12.28
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その店の社長は叔父のことを大変気に入っていたらしく、娘しかいない自分の家に婿として迎えようともしていたのでした。私には自分の苦労話を一切しない叔父ではありましたが、当時を知る私の母は言います。「あそこの社長は弟を本当に大切にしてくれた」「いつも殴られたアザがあった」、、、それがどんな意味か皆さん分かります?、、、とくに学生の皆さん、分かりますか?叔父は先輩弟子たちに殴られていたわけではないのです。社長自身に殴られていたのですよ!それは昔の話、、、と片付けるのは簡単です。しかし、一歩突っ込んで考えてみてください!こういう話題になるときは必ず確認させてもらいますが、何も私は暴力を肯定しているわけではないのです。
2013.12.27
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叔父が生まれたのは敗戦色濃厚な第二次世界大戦・太平洋戦争末期。姉である母の話によると、食べ物が本当にない時代に生まれたそうです。そんな叔父は10歳になるかならないかで職に就き働き出したのです。戦後のどさくさで学校に通わなくてもほぼ誰からもお咎めがない時代だったそうです。叔父は学校へいくくらいなら仕事をしてお金を稼ごうとしたのです。なぜなら当時の叔父の母(私の祖母)は病弱で、その治療費や薬代を捻出するために生活が厳しかったのです。魚や釣りが好きだった叔父が働きだしたのは魚屋。その店にはすでに5人の見習いがいたのですが、叔父は6人目として雇われたのです。しかし勿論最年少。だって10歳になるかならないかです。今でいう小学校4年生か5年生です。まだ子供が魚屋で働いているわけですから。しかも叔父は同年代の少年の中でもかなり背が低いので、その働く姿を見たことがある姉である私の母にいわせれば「ゴムの白いエプロンと長靴が歩いているみたい」だったそうなんです。
2013.12.26
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叔父の店での出来事は書き出せばきりが無いくらい様々なことがありました。店では叔父は特に私にきつくあたっていたようにも思えました。しかしそれは私に何かを伝えようとしていたようにも思えました。また「1日とはこんなに厳しく長いものか!」とも思わされました。それは言葉を変えれば「人間は1日でこんなにも様々なことを学ぶことができるのか!」と表現することもできるでしょう。自分は毎日学校に通っていたけど、こんなにも様々なことを学んでいなかった、、、受験生・受験生といいながら、そんなに真剣に勉強に取り組んでいなかった、、、自分の成績があがらないことをだれかのせいにして、そして心のどこかで成績なんて上がらないだろうと諦めていた、、、そんな自分の姿に気付くことができたというか、そんな自分の姿を直視する勇気を持つことができたことが、あのときの私に大きな転機をあたえてくれたのでした。
2013.12.25
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気付いたこと!それは、叔父も含めて私以外の従業員はみんな基本的に接客中のお客さんに背中を向けないのです。なのでお尻も向けないのです。「そうならそうと最初から教えてくれたらいいのに!」と思う人も多いでしょう。実際当時の私もそう思いました。でも違うんです。その状況に身を置いて、その状況に接して、自分で気付くことができるかどうかが大事なのです。つまり能動的に学ぶことができる者が生き残るわけなんです!叔父の店で言えば、それができない者は自然淘汰されていきます。詳しく文章にすると、仕事についていけずに自分から店を去っていく、、、、あるいは仕事で大ミスをしてクビになるのです。学校の授業で言えばどうですか?やはりそれができない者は自然淘汰されていくのです。その結果、成績が思うように上がらないというわけです。
2013.12.23
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そのときはなぜ叱られたのか分かりませんでしたが、ともかく「申し訳ありません」と言って誤りました。イチゴを入れた紙袋とお釣りを私から受け取ると、老紳士は無言でその場を立ち去りました。他の従業員の方たちから「気にしないように」とは言われたものの、やはり気になって仕方ありません。そのとき私が出した結論は、ともかくこれからはお客さんにお尻を向けない!、、、これでした。しかし当時商店街の端にあった叔父の店です。全てのお客さんにお尻を向けないことは不可能でした。そこで自分が直接自分が接客してるお客さんにだけはお尻を向けないようにしました。それを守りながら仕事をしていると、あることに気がついたのです。
2013.12.22
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中には直接私を叱り付けたお客さんもいました。それは落ち着いた感じの老紳士でした。イチゴを1パック購入してくれたのですが、私がイチゴを紙袋に入れてお金を受け取りお釣りを渡そうとしたときです。いきなり私の背後から「お客さんにお尻を向けるとはどういうことや!」との大きな声が飛んできたのです。その声を聞いた瞬間は、まさか声の主が今自分が接客している老紳士だとは思いませんでした。しかし振り返ると間違いなくあの静かで落ち着いた感じの老紳士が私に向かって声を荒げていたのでした。当時の叔父の店にはレジの機械は無く、かごにお金をいれていました。そのとき私はその老紳士に背中を向けないとそのかごに手が届かない位置にいたので、仕方なかったし、それまでもそうしてきたので、それをお客さんに叱られるとは思ってもいませんでした。
2013.12.21
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たとえばよくあったのはこんなパターンです。私の接客に対してお客さんが気付いたことは、そのお客さん自身がその日のうちに社長である叔父の耳に入れていたのです。最初はそれが分からなくて、仕事が終わってから叔父に「今日こんなことしたやろ」「今日こんなことあったやろ」といわれて私の仕事ぶりにダメ出しをされたときには「さすが社長!よう見てるわ、よう知ってるわ!」と感心したものです。しかしそのうちあるお客さんから「お!こないだあんたんとこの社長にいうといたことが直っとるな!ええこっちゃ。がんばりや。」を声をかけてもらって、はじめてお客さんの厳しい目線があったことを理解できたのです。またそういった過程を経たお客さんは、その後本当に温かく接してくれるのです。ときには「あんたこれ食べ」と言って、ソフトクリームや熱々のコロッケなんかを差し入れてくれることさえありました。その度に叔父は私に「店の奥で食べなさい」と言って、しばしの休憩時間を設けてくれました。そして必ず私に「ええか、その味を忘れたらいかんのやで!」と声をかけてくれたものでした。
2013.12.20
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実は我が家では中3の夏休みには母の指令で必ず叔父の店に働きにいくことになっていました。今でいう『職場体験』のようなものであるといえばそうなのですが、内容というか目的は少し違っていたように思います。今の中学生がやっている『職場体験』は、あくまで『お客さん扱い』です。地域の中学生を地域の大人が一時的にあずかって、できそうな仕事をできる範囲でさせる!「仕事は楽しい」「働くことはすばらいい」といった意見を持たせるのが目的です。、、、こう言うと異論を投げかける学校の先生がいますが、私に言わせれば、一般社会の厳しさを知らない先生共が、生徒に一般会を体験させるだなんておこがましいのですわ。生徒でなはく、先生が働いてみるべきなんですね!、、、話を戻します!しかし我が家の『職場体験』は一般社会の厳しさを身をもって体験することが目的だったんです。母は叔父に「死なない程度にしごき倒してくれ」と言っていたらしく、叔父は叔父で甥っ子であろうが何だろうが従業員として店に立つ限りは情け容赦は無用!と思っていたらしいのです。しかもお店に来てくれるお客さんは、コテコテの大阪のおっちゃんとおばちゃんです。人情の温かさも半端でない代わりに、その温かさから出る叱責もまた半端ではないのです。
2013.12.19
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実はこのとき叔父は母から「社会の厳しさをしっかり教えて『やっはり高校に行きたい』と思わせるように!」との指令を受けていたことを、私は後で知りました。しかしそんなことを知る由もない私を叔父は三日目の仕事を終えた後、食事に誘ってくれました。それまでは仕事が終わってから叔父の家で夕食をいただいていたのですが、この日は二人で話をするために叔父が私を連れ出したのです。これぞ大阪の下町の食堂!といった感じの店に入って食事をしながら、叔父は今後の事業計画を私に熱心に話してくれました。当時中学生だった私にはよく分からないこともありましたが、ともかく叔父は「高校なんか行かずに一緒に商売をしよう」と熱心に説得してくれたのでした。内心それも悪くはないか、、、とも思った私でしたが、その場で即答すると、なんだか自分の人生が決定してしまうような怖さを感じたことも覚えています。その気持ちを正直に叔父にいうと「それはそうやな」と言って笑っていました。勉強がうまくいかないから進学しない。進学しないから働く。この考えがいかにいい加減で甘いものかということだけは、この時点で身に染みて分かっていたことだけは確かでした。しかも勉強がうまくいかないのは誰のせいかというと、誰でもなく自分自身のせいであることも明確に理解できたのでした。
2013.12.18
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私が自分でそれに気付くようにわざと叔父がそう仕向けた、、、とは言いません。叔父は商売のプロであっても教育のプロではありません。おそらくは偶然の産物だったのでしょう。しかし、甥が自分の店に働きに来たからといって特別扱いすることなく、厳しく接してくれたおかげでそう思えるようになったのは確かです。学ぶこととは受動的なものではなく、あくまで能動的な要素が必要だ!この考えを私に植えつけたのが叔父の店での経験であったことだけは間違いありません。教育論の1つで『優秀な教師は教えない教師である』というのがあります。私がその論に賛成するのはこの経験があるからです。それは言い換えれば『優秀な教師は生徒に能動的な学習をさせることができる』のです。どうでしょう?このブログを読んでくれている高校生諸君!「英語の話が途中で終わっているんですけど、、、」とメールをくれる人もいれば、叔父の話を書いているこのブログを英訳して「こんな感じでどうです?」とメールをくれている人もいるのです。皆さんは学習に対して能動的ですか?
2013.12.17
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果物の並べ方、補充のしかた。その日に売ってしまわなければならない商品とそうでない商品の扱い方や売り方の違い。お客さんそれぞれに応じた接客のしかた。閉店時間が迫ったときの値下げするタイミング、、、等々。学ぶべきことはたくさんありました。3日目の朝には、かなり店の仕事に慣れてきたように自分でも感じられました。その証拠に叔父や他の従業員の皆さんに質問することが少なくなってきたのです。そんな3日目の夜に叔父が「どうやここの仕事は?商売は面白いやろ?君は商売にむいてるわ!もうこのままお母さんのとこには帰らんと僕の店で働いたらええわ。」と私に言いました。そう言われて「やった!これでもう学校に行かんでもようなった!!」と喜べない自分がいました。「なんで自分は今までこんなふうに勉強に取り組んでこられなかったのか」、、、そればかりが悔やまれてならなかったのです。
2013.12.16
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人がしていることを良く見る。なぜそうしているのか?なぜそうなっているのか?それを自分で考える!このサイクルを繰り返すことで徐々に叱られる回数は減ってきました。卒業生読者の皆さんで「あっ!」と思った人もいたことでしょう。そう、私によく「勉強をするときはいつもwhyとifを創造しろ」と言われていた人があるでしょ!あれはこのときの経験から出ていた言葉なのです。たとえば数学であれば「なぜこの公式が導き出されたのか?」「もしこういうパターンであったとすれば、この公式の有効性は保たれるのか?」、、、たとえば英語であれば「なぜこの構文の模範和訳はこうなるのか?」「もしこの構文にあの文法表現を絡めたとすればどういう文章構成が正しいのか?」、、、こういうことを考えながら勉強する人とそうでない人の学力差が大きくひらいてしまうのは道理なんです。
2013.12.15
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そんな調子なので、分からないことは当然従業員さんたちに聞いた方が無駄なトラブルは回避できるわけなのですが、、、、それではどこか釈然としない私がいたのです。叱られっぱなしでは悔しい!または、優しい人ばかりに質問をしているようでは社会で通用しないのでまずは高校にいくように、、、と後で言われたくない!そんな思いから、何かあると極力叔父に聞いては叱られるパターンを続けてみました。叔父は何を怒っているのか?叔父はなぜ怒っているのか?叔父はなぜ十分な言葉を用いて説明しないのか?しばらく叱られ続けてまず分かったことは、人のしていることをよく見ていないとダメ!ということでした。叔父は『すでに誰かがやって見せていることは説明しない』というスタンスを絶対崩さないのでした。しかしそれが分かったからといって叔父に全く怒られなくなるほど甘くはありませんでした。
2013.12.14
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挨拶もそこそこに荷物を店の奥の倉庫において早速仕事が始まりました。忘れもしません。私の初仕事は八朔を店頭に並べることでした。古びた青いプラスチックのザルのようなかごに八朔を4つずつ盛っていくのです。そのうち様々な疑問点が出てきます。八朔が無くなったらどこで補給すればいいのか?かごが無くなったらどこに取りに行けばいいのか?指示された場所が八朔のかごでいっぱいになったら次はどうすればいいのか?私はその都度叔父や他の従業員さんに聞きました。他の従業員さんたちはこと細かに教えてくれましたが、叔父は必要最小限のことしか教えてくれませんでした。従業員さんたちに教わったことは働く者の立場に立った目線から出た言葉ばかりなので、その日働き出した私でもほとんどミスすることなく実行することができました。しかし叔父に聞いたことに関してはミスが多かったので早速叱られることが多くなったのです。当時の私は、叔父が最初から言ってくれていれば起こさないミスばかりだったので、「最初からそう言えや!」と思い、非は叔父にあるとばかり感じていたのでした。
2013.12.13
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さて、話を中学校3年の1月に戻します。私の「高校に行かない宣言」から程なく母は私を叔父の果物屋に送り込みました。確か学校を3日ほど病欠にして最終日の日曜日の仕事を終えて帰ってくる、、、といった予定だったと思います。平日の昼間に1人で私服で電車に乗って大阪へ向かうことに異常な新鮮さを感じたことを今でも覚えています。高校に行かなかったら、いつでもこの感じを味わえるのか!と思うと、俄然高校に進学することが嫌になってきたことも鮮明に覚えています。叔父の果物屋にいくのは久しぶりでした。おそらく中学生になっては初めてだったと思います。小学生のころはよく母に連れられていったものですが、1人で行くのははじめてでした。昔の記憶を辿り、電車を乗り継ぎ、バスに乗って、叔父が経営する果物屋がある商店街に到着しました。店の前に立つと、叔父は私の小さな頃と何も変わりなく、およそ客商売とは思えない着古されたジャンパー・ジーパン姿でお店の切り盛りをしていました。
2013.12.12
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本日は叔父の葬儀でした。葬儀では叔父の果実店で一緒に働いたM君と30数年ぶりに再会しました。2人して叔父の遺影を目の前にして「お互いよう怒られたな」と言って苦笑いしました。確かにあの店で働いたときはよく怒られたのです。何か指示をされて、、、指示通りにできなかったら怒られる、、、指示通りにできても怒られる。とにかく怒られた記憶しかないといっても過言ではない日々でした。今から考えれば、この歳になってみれば、あれは怒っていたのではなく叱ってくれていたのだということが分かるのですが、当時の我々にはそんなことは分かるはずもありませんでした。葬儀の途中、M君も私も年甲斐もなく人目もはばからず泣きました。我々にあれほどの涙を流させる、、、、それが叔父の叔父たる所以であったのだと改めて思い知らされたのでした。
2013.12.11
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『人間生きている限り全てが勉強』私が生徒諸君によく言ってきた言葉であり、今も言っている言葉です。私にこの言葉を言わしめたのは、他界した叔父でした。中学校時代は野球ばかりしていてろくに勉強もしなかった私は、成績的には落ちこぼれでした。ここまでは皆さんもご存知の通りです。そんな私でも夏に部活が終わってから必死に勉強したのですが、全く成果が上がらず、冬休み明け実力テストでは悲惨な結果を残してしまいました。冬休み中は母に無理を言って高い料金を出してもらい、自転車で1時間もかかる塾の冬期講習に通ったにも関わらずです。その結果に愕然とした私は、家族に「高校に行かない宣言」をしたのでした。その宣言を聞いた母は「そうか、ほな働き!働くんやったら早いほうがええわ。丁稚奉公してき!」と言って、その翌日から叔父が経営する果物屋に私を放り込んだのでした。
2013.12.10
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最近私がバタバタしていた理由の1つが叔父です。私が小さい頃から一番近しい存在であった叔父に癌が見つかりました。10月末のことです。肺がんですでに各所に転移していて手術は不可能。抗がん剤治療をすれば余命1年、しなければ3ヶ月と告知されました。叔父が産まれたときは戦時中。父は戦地、母は病弱であったため、姉であった私の母が母親代わりになり叔父を育てました。そんな経緯もあり、叔父はよく我が家に来てくれていたし、母も子供だった私を連れて叔父のところにいったものでした。その叔父が本日他界しました。この歳になると、お世話になった人を見送ることが多くなってきます。
2013.12.09
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最近なかなか更新をしないので一部の読者の皆さんが心配をしてくれているようですね、、、申し訳ありません。しかし、心配メールをくれたみなさんのお気遣いをよそに私は元気にしております。ちょいとバタバタとしているだけですのでご安心を!一応これでも皆さんから「先生」と呼んでいただける仕事をさせてもらっている身です!『師走』に入っていろいろと走り回っておる次第です。高校生の英語に関する内容も続けますので、しばらくお待ちくださいね。
2013.12.08
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