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頭脳と身体の老化を感じると、人間、誰しもショックである。私自身は、まず第一に眼にきた。今がそうだけど、急速に老眼がやってきて、生まれて初めて眼鏡をかけないと見えない。一生、眼鏡なんていらないと思っていただけに、ちょっとショックだった。 こうした老化を感じてきたら、どうするか。まずは、その体に慣れることだ。無理して若い頃と同じようにしても、体は元には戻らない。 しかし、だからといって、まったく体を動かさなくなってしまっても、老化が早まるばかりだ。使わないものは、どんどんダメになる。脳細胞でも体でも同じだ。 「廃用性萎縮」という言葉がある。使わないと萎縮するという意味だ。硬いものを食べなければ歯は弱くなる。頭も使わなければ脳細胞が減少していく。脚も使わなければ筋肉が細くなるばかりだ。 私は今も、なるべくエスカレーターやエレベーターに乗らず、歩くようにしている。階段でつまづくこともあるが、あまり気にしない。若い頃と同じようにはいかないが、それでいいのである。今だって充分、歩けるのだから、歩ける分だけ歩けばよいと思っている。眼鏡だって、ひとつ新しい世界が広がったと思えば楽しい。 歳をとることは一種の挫折感があるが、人生の新たな側面への体験と思えば、新しいことへのチャレンジである。老化へのチャレンジ精神で迎え撃ちたいものである。 大事なことは、年相応の状況を自ら認識することなのだ。
Dec 31, 2007
「今、落ち込んでいるんだ」 もしもあなたがこんなことを一言いったら、百ものアドバイスを聞かされることだろう。プロ野球などがいい例だ。選手がスランプに陥ると、テレビも新聞もこぞって、そのスランプの原因を探りたがる。バットの位置が悪いとか、グリップがどうのとか、私生活が悪いなど・・・。 周囲の人間は、親切心で言っている。優しい心から、あなたにアドバイスをしてくれる。もしもあなたが、せっかくの忠告を素直に聞かないと、気を悪くするかもしれない。「人の言う事は素直に聞くものだ」と説教するかもしれない。 もしかしたら、その中でひとつくらい「当たり」があるかもしれないが、しかしまあ、たいていは、スランプのときというのは何をやってもダメなのである。バットの位置を変えてもグリップを変えても、私生活を変えてみても、よくならない。何をやってもよくならないからスランプなのだ。 こんなときは、あまりジタバタしなくてもいい。黙ってジッと耐えているうちに、不調の波が去っていく。あせりは禁物だ。他人のアドバイスを聞くのは、ほどほどにしておいたほうがいいだろう。 結局、最後には、あなた自身で答えを見つけるしかない。あなただけが、自分がスランプから這い上がる方法を知っているのである。他人はいろいろ分かっていそうに見えても、そうではない。最善の知恵は、あなたの中から出てくるものなのだ。 しかし、それが出てくるまでには迷いが必要なときもある。他人の助けも必要である。あなたなりの迷い方、あなたなりのバカさかげんを発揮して、大いにジタバタするのもいいだろう。あなたが、どんなふうにジタバタしたか、不調から回復したとき、それが全て、あなたの大切なストーリーになるだろう。 本当のどん底から立ち上がった経験のある人は、今度はどん底にいる他人をサポートできる力を身につけるようだ。それは決して言葉によるアドバイスではないかもしれないが、きっと、今のあなたのような人間を支えられる人間に成長するはずだ。いや、そんな人間に成長できるような悩み方をして欲しいと思うのだ。 病気になったことを「人生の挫折」のように感じたり、自律神経失調症になっただけで、自分を「社会不適応者」と思い込む人もいる。しかし、病気というのは、体が調整に「失敗した」結果として、なるものではない。バランスを「崩した」から病気になってしまったのではない。 こう考えてみて欲しい。体のコンディションを「調整するために」病気になったのである。体の「バランスを整えるために」病気になったのである。病気は挫折ではなく、さらに前に進むための積極的な調整方法なのだ。 もちろん本当は、病気になる前に調整できるのが一番いい。ちょっと風邪をひいたらのんびりし、「疲れたな」と思ったらストレスを発散する。その程度で予防できれば一番いいだろう。しかし、社会で生きていれば、本当は休みたくても休めないときもある。 あなたが、入院するほどの病気になったのならラッキーだ。そんなチャンスでもなければ、会社を長期にわたって休むことなど滅多にできない。そのチャンスを大いに楽しんで、ゆっくり骨休めをしよう。 「私ひとり、こんなところで何をやっているのだ」と悲観的な気分になってきたときには、気分転換に、入院生活を積極的に楽しむ趣味を考えて欲しい。
Dec 30, 2007
ひとりで考えていると堂々巡りするだけの悩みごとも、文章に書くと、整理されてくる。「文章を書くのは苦手だ」という人も、箇条書きでも何でもいいから、書くことを試してみて欲しい。他人に見せるわけではないのだから、うまい・へたなど、気にすることはない。 さて、あなたは今、何を悩んでいるのだろうか。ちょっと書いてみよう。 「恋人が、仕事ばかりで私のことを振り向いてくれない」 「ウマの合わない同僚がいて、いつもチクチクと意地悪をしてくる」 「突然、経理課に異動になって、数字、数字でいやになる・・・」 そのことについての不満をもっと言いたいなら、さらにドンドン書いてみよう。 「あいつのいやなところワースト10」 「今度会ったら、絶対にこれを言ってやる」 文章を書くというのは、不思議なもので、書いているうちに、だいぶ気持ちがすっきりしてくる。紙の上に書いたものを読んでいると、少し冷静に見られるということもあるのだろう。また、人にしゃべっているうちに頭が整理されてくるのと同じで、書いているうちに頭が整理されてくる。 ウマの合わない同僚にうまく言えなかったことを、「今度はこんなふうに言おう」「こんな言い方をすれば伝わるんじゃないか」と、相手に対する伝え方のシミュレーションにもなる。また、「これは言っても仕方のないことだ」「これは言わないほうが良いだろう」と見えてくることもある。 さらに、悩みの解決法まで考えて書き出していけば、もっと頭が整理されるだろう。考えられるかぎりの解決法、今の自分にできそうなことを箇条書きにしてみよう。 どうだろうか。とにかく紙やパソコン、ワープロに向かってみよう。そのうちに、何かしら、あなたなりにうまい方法が見つかってくるはずだ。 私は、腹のたつことを書きなぐってはダンボールにポイと入れるという方法をとっている。これもなかなかスッキリする。 私はメモ帳で、なんでもかんでも直ぐにメモをとる。メモしたまま、何もならずに終わってしまうこともあるが、役立つこともある。 しかし、メモすること自体が楽しいので、それだけで役にたっているともいえる。 今の時代はたいていシステム手帖などを持っているから、ドンドンメモをしたらいい。空き時間は意外にあるものだ。 喫茶店で待ち合わせの時でも、電車に乗っている時でも、手帖とペンだえあればいい。電車で前に乗っている人の観察や、〇〇駅のどこに何があって便利だとか、そんなこともメモしておくのである。 また、感動した台詞や、印象に残ったことなどをメモしておくのもいい。 テレビを見ていて、心に響いたこと、新聞や雑誌のインタビューを読んで共感したこと、好きな小説のセリフ・・・。 切り抜いて、切り抜きノートでも作って貼り付けておくのもいいだろう。 たまってくると、それだけで楽しい。落ち込んだときに読み返すと、あなたの心に響くセリフたちが、きっと慰めてくれる。 また、たくさんの切り抜きがたまってくると、それが自分のカラーを表していることに気づいてくるはずだ。あなたが好きなこと、あなたが大切にしていること、あなたの心を打つこと。それがそのまま、あなたのパーソナリティであり、あなたの心の本質を表していることが感じられるはずだ。 何か一つのテーマ、あなたがこだわり続けていることが浮かびあがってくることもあるだろう。もし、小説を書いたり、絵画を描いたりする才能のある人なら、それがその人の表現になる。しかし、そういう能力がなくても、集めればいいのだから簡単だ。 切り抜きノートを見ていると、「そういえば、この頃は、こんなことを考えていたな」と思い出すこともあるだろう。まるで日記のように、自分の考えが変わってきている跡が見られることもあるかもしれない。
Dec 29, 2007
私は、会合などのお誘いがあると、なるべく出かけるように心がけている。忙しい日が続くと、家でゆっくりしていたいと思うときもある。会合に出かけるのがおっくうに感じるときもある。しかし、思いきって出かけてみると、必ず、「やはりきてよかった」と思う収穫がある。忙しくて疲れていたのに、久しぶりの友人に会って話がはずみ、すっかり元気になることもある。また、パーティで知り合って、趣味などで意気投合し、親しい友人ができることもある。 会合などの効用は他にもある。例えばある女性は、パーティの華やかな雰囲気が好きだという。ドレスアップして出かけるということが気分をひきたてるそうだ。 また、パーティで、あまりよく知らない人の間にいるのが好きだという人もいる。身の周りの人間関係で落ち込んだ時は、その人間関係から離れたい。仕事のことで落ち込んだ時には、仕事とは関係のない人と会いたいと思う。 自分が落ち込んでいる原因の人間関係を知っている友人と一緒にいると、結局、そのことを話したくなり、気分が変わらない。けれども、まったく違う場所にいると、関係ない世間話や、楽しい趣味の話などで時間が過ぎていく。それがホッとするのだそうだ。なるほど、パーティには、そんなメリットもあるようだ。 人間関係は、落ち込みの原因もつくるが、本当の意味であなたの落ち込みを救ってくれるのは、やはり人間関係だ。花や木々に心が休まるのも確かだし、神仏に祈るのもいい。精神科医に相談するのもいいだろう。しかし、究極的には、あなたの心を本当に救ってくれるのは、生身の人間、あなたの周囲にいる家族や友人だ。 だからこそ私は、普段から人間関係を広げておくことをお勧めするのである。いい友人がいれば、あなたが落ち込んだときに助けてくれる人間がそれだけいるということだ。数は多くなくても、本当に腹を割って話せる友人がいれば、それも心強い。 しかし、友人は黙って座っていてできるものではない。パーティに出かけ、友人を誘い合って人づきあいをし、徐々に信頼関係を深めていくものである。 友人は人生の宝物だ。古くからの友人は、歳をとればとるほど大切な友人になる。 しかし、いくつになっても、新しい友人はつくっていきたいものだ。 ペットのかわいさというのは、何ものにも代えがたいものらしい。知人の女性は、子供が、「犬を飼いたい」というのに最初は反対していた。ところが、いざ飼ってみたら、自分がいちばんはまってしまったという。 子供は口答えもするし、思いどおりにならないこともある。しかし犬は、自分にコロコロとなついてくるし、思いどおりにならないことがあっても、最初から犬には期待していない。家に帰ってくると、うれしそうにキャンキャンと走り寄ってくる犬を抱き上げ、クーンクーンとすり寄ってくる犬を撫でてあげるのは、とてつもなく可愛いそうである。 また、ある女性は、「犬は私を裏切らない」という。 人間関係では、いろいろと誤解や行き違いがある。お互いに悪い人間ではなくても、対立してしまうこともある。そんなつもりはなかったのに、悪く受け取られてしまうことがある。 彼女がひとりで部屋で泣いていると、犬が寄ってきて、ペロペロっと涙をなめてくれるのだそうだ。犬は人を責めない。 「あなたにも、悪いところがあったんじゃないの」 などと言うこともない。ただ黙って、ご主人様の悲しそうにしているところを心配してくれるのだ。 ひとり暮らしの女性で犬を飼う人は多い。人間にはスキンシップが大切であるが、ペットがその役割を果たしてくれる。また、ひとりでいると、ネガティブな考えがグルグルと堂々巡りをしてしまうが、ペットが傍にいるだけでも、気分がまぎれる。 それだけで温かい気持ちになるものだ。 犬や猫が無理なら、ハムスターとか、鳥や金魚などでもいい。ペットと心を通わせることが、きっと、あなたの毎日を楽しいものにしてくれるだろう。 ただし、心を通い合わせられるのはペットだけ、というふうに閉じこもってしまうのは賛成出来ない。ペットも大切だが、人間関係も大切にして欲しいのだ。
Dec 28, 2007
気分転換のひとつに、おしゃれをすることをお勧めしたい。おしゃれは生活のリズムにアクセントをつける。ラフな服装をすれば気持ちもゆったりするし、キリッとドレスアップすれば、気分もシャンと引き締まる。 女性は、おしゃれをすることで、自然に自分の気持ちを切り替えることが男性より上手なようだ。お化粧で気分をひきたてたり、流行のものを取り入れたり、いつもと違うタイプの服でイメージチェンジしてみたり。 男性だって、もっとおしゃれを活用しない手はない。おしゃれには、いろいろな効用があるのだ。 まず第一に、高い判断力が必要だ。今日の会合には、どんな服装がいちばんマッチしているか。パーティーには、どんな服装がいいか。頭も眼も使う。 そして、バランス感覚も養われる。どのネクタイには、どのスーツが合うか。私は、上等な靴をはいたときは、ハンカチもそれに合わせて上等の品を使う。 さらに、勇気も必要だ。いつも他人と同じような服装では、おしゃれとはいえない。 周囲がオヤッと思うような服を着るときには、勇気がいる。しかし、その眼を自信を持って着こなしたときの気分は格別だ。また、新しいおしゃれに挑戦しようという勇気もわいてくる。いろいろな服を着こなせるようになる。 また、適応力も身につく。今日は寒いからコートを着よう。暑いから半袖にしよう。こうした適応力は、生活の技術でもある。季節をちょっと先取りするのも楽しい。暖かくなってきたとき、誰よりも早く半袖を着る人は、おしゃれ心のある人だろう。 こうして、毎日の服装に気を配っていると、不思議と、内面的な気力も充実してくる。キリッとドレスアップしたときの緊張感と、ラフな服でくつろいだときの弛緩、というリズムもできる。他人の服を意識することも、いい刺激になるようだ。 今まで服装などに興味のなかった男性も、ぜひこれからはおしゃれに気を配っていただきたい。だいたいそのほうが女性にもてる。それがまた気力を充実させる原動力となること間違いなしだ。 私は、気分転換によく旅行をお勧めするが、忙しくてのんびり旅行に出かける暇のないときには、近場のホテルに一泊するのも気分転換になる。 例えば、東京に住んでいる人なら、横浜や浦安など、一時間あれば行ける距離のところで十分だ。交通費のかからない分、思いきってリッチなホテルを選んで贅沢したい。 ホテルに泊まれば、仕事の電話もかかってこないし、日常生活の雑事から離れられる。ゴージャスな部屋でくつろいで、のんびりとシャワーを浴び、気持ちよく洗ったシーツのベッドでゆっくり休む。食事もケチらず、思いきって豪勢にいこう。 知人の女性はホテルめぐりが好きで、都内や東京近郊に新しいホテルが建つと、必ず泊まりに行くそうだ。あくまでもホテルに泊まることが目的なので、近くの観光もしないという。そういう気分転換法も面白いだろう。私なら、ちょっと足を延ばしていろいろ見たくなるが・・・・。 温泉も気分転換にはもってこいだ。旅館でのんびりするのもいいし、温泉に入ることによる実際の効用もある。また、温泉地は風光明媚なところが多いので、自然にふれて疲れた心も回復する。 一泊すると、時間を気にせず、ゆっくり酒を飲める。普段なら終電の時間を気にしながら飲んでいる。しかも、せっかく気持ちよく酔っても、そこから家に帰るのに、また電車に乗らなければならない。このまま、ドラえもんの「どこでもドア」で、すぐに家に帰れたらどんなにいいか、と思う。 旅館やホテルなら、そんなわずらわしさがない。風呂上りにゆっくり飲んで、あとは寝るだけだ。友人同士でも普段は話さないような話題が出たり、時間切れにならずにじっくり議論ができるのも面白い。 また、近場でも、電車に乗って、いつもと違う風景を見るだけで気分転換になる。窓の外の風景が変わるのを見ていると、なんとなく、「旅行にきた」という気分になるから不思議なものだ。 要は、どうやって日常生活から離れる工夫をするか、なのだ。
Dec 27, 2007
考え方を変えていくのは大切なことだ。 落ち込みやすい性格の原因を、「私はこうだからすぐトラブルのだ」「私ってこうだからすぐ落ち込んでしまう」と分析するのも立派なことである。 しかし世の中、分析できたからといって「はい、そうですか」と立ち直るかというと、そうでもない。いくら頭で考えても、考えただけでは解決しないこともたくさんある。しかし、私たちはそれでも毎日を生きていくわけだから、落ち込んだときには気分転換をする方法が必要だ。落ち込むことはやめられない。それなら、落ち込むときは落ち込んで、そのかわり早く立ち直る方法をたくさん覚えようではないか。 落ち込んだときの気分転換が上手な人ほど、生き方の上手い人だといえる。落ち込まなくなることを目標にするより、落ち込んだときに早く気分を切り替えることを目指そう。例えば、ある男性は、料理をするのが気分転換になるそうだ。上手くできれば、「私もなかなか大したものだ」と満足感も味わえる。仕事に関係ないことなので、仕事で無力感を感じたときには、料理が最高のストレス解消になるそうだ。 ある女性は、欠けてしまったお皿や、使わなくなったコップなどをためておき、腹がたったとき、落ち込んだときに、思い切り割るという。また、ある女性は、どうしても腹の虫がおさまらない相手がいるとき、宗教書を読み、「あんないやな奴なのだから、いつかは報いがくるに違いない」とほくそ笑むそうである。 いろいろな方法があるものだ。皆さんも、周囲の人に、「どんなふうに気分転換しているか」を聞いてみるといい。たぶん、それぞれに面白い答えが返ってくるだろう。 「おまえもやっていたのか」と共感することもあるだろう。 最近、風呂の中で歌を歌ったことがあるだろうか。忙しすぎて、風呂に入るのはあくまで義務、体をさっさと洗ってそれで終わり。もしかすると、風呂に入る時間ももったいない、という人もいるかもしれない。 そんな人は、夜の長風呂の効用を知って欲しい。風呂を「無駄な時間」と敵視せずに、もうちょっと楽しんでみてはどうか。風呂の中で歌うくらいの余裕もなくなっては、人生の長期戦を健康に保っていくのは難しいだろう。ストレスで緊張したままでは気持ちよく眠りに入れないが、風呂で十分リラックスしておけば、睡眠も快適だ。 最近は少なくなったが、銭湯に行くのもお勧めだ。家で風呂に入るのとはまた違った気分が楽しめて、いい気分転換になる。裸のつきあいの少ない現代に、銭湯に集まる人たちと、ちょっとした言葉をかわすのもいいではないか。 私も、スポーツジムのあとのサウナを社交場にしていた。服を脱いだおつきあいのせいか、リラックスして話が弾む。 「つまらないことを、よくいつまでもしゃべっていられるものだ」と思う人もいるようだが、おしゃべりは、日ごろのタテマエだらけの社会でたまったストレスのガス抜きになる。 タオルを洗面器に入れて銭湯に出かける気分もいい。季節のいいときなら、風呂あがりの風が気持ちいい。銭湯から帰って飲むビールも格別の味だ。 反対に、朝のシャワーも気分転換になる。熱めのシャワーを浴びると頭がすっきりする。朝からぬるめの風呂に入ると、リラックスしてしまって体が起きないので、朝は熱めの湯をお勧めする。 シャワーを浴びるために、ほんの三十分早起きするのもいい。ぼんやりしたまま満員電車に乗り、会社に着いてだらだらと仕事をするより、早起きして、シャワーですっきり目覚めれば、一日の始まりがさわやかだ。始まりがさわやかなら、集中して仕事ができて、夜もぐっすりとさわやかに眠れる。どうも体がだるくてすっきりしないという人は、朝のシャワーと夜の長風呂を試してみて欲しい。
Dec 26, 2007
くよくよと心配ばかりしている人に向かって、 「もっと前向きに考えろよ。ポジティブに考えろよ」 と励ます人がいる。これはもちろん、一面で正しい。しかし、こういうことを言う人が、本当にポジティブかというと、そうでもないときがある。 しかし、ポジティブに考えようと人一倍こだわる人は、実はネガティブなことを見たくない、とネガティブを避けている場合がある。これを偽ポジティブ人と呼ぼう。 「矢でも鉄砲でも持ってこい!」という言葉がある。これは矢も鉄砲も、きたらきたでしかたない、と迎え撃つ気持ちがある。 これに対して、「矢がきたらどうしよう、鉄砲がきたらどうしよう」と心配しているのが、くよくよ性の人。 そして、偽ポジティブ人は、「矢のことなんか考えるな、鉄砲なんかこないさ。きっと素敵な未来がやってくるよ」と、人生の暗い一面を見ないようにしている人だ。 本当は、人生には、ときには厳しい時間もやってくると、うすうす感づいてはいるのだが、それを認めるのがこわい。そこでカラ元気を発揮して、くよくよ性の人を、やたらと励ましてしまう。アリとキリギリスの話でいえば、キリギリスのような人だ。 冬になったら困りそうだということは考えないようにしている。実際に今が冬でも、「寒い」と感じないようにしている。他人から見たら、かなり困った状況に陥っているのに、本人は平気な顔をしている人がたまにいるものだ。キリギリス人である。 一方、クヨクヨしているだけの人は、冬がくることは予想しているし、冬になれば「寒い、寒い」と寒がることはできる。しかし、冬のために適切な準備をしたり、「寒いから毛布を手に入れよう」とか「暖かい小屋を建てよう」ということができない。 しかしこういう人は、冬を乗り切る技術さえ身につければ、いちばん賢い人間になれる。適切な準備をして冬を乗り越える、アリのような人間になれる。 寒いと感じる心があるなら、ぜひ、それをなんとかする手立てを考えて欲しい。同じように「寒い」と感じている人間と集まって、その寒さをどう乗り切るか、知恵を寄せ合おう。そんな人が、キリギリスのめんどうまで見てやれる人間なのである。
Dec 25, 2007
赤面恐怖症、対人恐怖症ぎみの人は、「自分の心の状態が相手に分かってしまうのではないかと不安になる」と言う。けれども、相手の心の動きが何もかも分かる人など絶対にいない。多少は、「あの人はこう考えているのだろう」と予測はつけても、「絶対」ということはない。あくまでその人の勝手な予測なのである。 もし、あなたが、そんな心配をしているなら、私はこう言いたい。仮に自分の心の動きが相手に気づかれているからといって、どうということはない。 相手もまた、「相手の心が分かった」と思いたい臆病者なのである。本当はあなたと同じように、相手の人間の心が分からず、他人がこわい。だからこそ、「あいつはこう考えているのだろう」と勝手に予測して、自分の恐怖を軽くしている。 つまり、根はあなたと全く同じなのだ。たぶん、あなたももともと、「人の考えが分かった」と思いたいほうだろう。人が何を考えているかさっぱり分からないと不安だ。 不安だから「こうではないか」と予測して行動する。ところが、しばしば失敗する。 他人の考えていることなんて100パーセント分かるわけはない。 しかし、対人恐怖は、この失敗にこだわってしまうことから生まれる。相手の考えていることが分からない。見当はずれの行動をしてしまうので相手に嫌われるのではないか。自分は相手の気持ちが分からないのに、相手には全て読まれているのではないか。そんなふうに、どんどん恐怖は膨らんでいってしまうのである。 行動しなければ相手の考えていることは分かるようにはならない。とはいえ、行動しても、そう分かるようになるわけではないが、少なくとも「慣れる」。 また、こんなふうに考えることはできないだろうか。あなたが相手に見当違いなことをされたり、誤解に満ちたことを言われたとする。しかし、親しい人だったら、その誤解を解くこともできるし、キツイ事を言われても平気だったりする。反対に、それほど親しくない人に言われるとショックだ。 つまり、あなたも人を恐れていないで、まず親しくなることが第一なのだ。 そうすれば、あなたが多少見当違いなことをしても、相手はきっと許してくれる。人を恐れてつき合わないより、つき合うことで恐れがなくなっていくのである。
Dec 24, 2007
現代人、特に都会に住む人にとっては、孤独感を癒すことは、なかなか難しいのではないだろうか。今は、マンションの隣の人が何をしているのかも知らなくて当たり前だ。隣で殺人事件が起こっても周囲の人が気づかなかったという話も多い。 けれども、他人が困ったときに「力になりたい」と思う気持ちは、決して今の人たちも忘れてはいない。阪神大震災のとき、たくさんのボランティアたちが集まった。各地でボランティアへの関心は高まっている。人間の助け合いの精神は、どんな時代になってもなくなることはないのだ。 もしもあなたが不安になったり、落ち込んだりしたときには、地域のボランティアに参加してみるのも一つの方法だ。ボランティアは、自分の住んでいるところに密着したものが多い。参加しているうちに、近所に友達がたくさんできるだろう。 また、自分がひとりで生きているわけではないことを実感できる。月並みな言葉だが、優しさや心のふれあいを感じて、あなた自身が癒されていくこともあるだろう。 人のためではなく、自分のためにボランティアをするなんて不謹慎だと感じる人もいるかもしれない。しかし、そう堅く考えずに、とりあえずやってみればいい。 ボランティアにも、いろいろな種類がある。自然保護の団体もあるし、老人介護のボランティアもある。子供の世話や海外交流もある。自分が興味を持つもの、自分が楽しくやれそうなことを見つけて参加してみてはどうだろう。あなたの好きなことが生かせたり、思わぬ特技を見つけることもある。 確かに必要とされている、と感じるのは大切なことだ。もちろん、今だって、あなたはたくさんの人に必要とされている。ただ、落ち込みのひどい人は、そう実感できないことが問題なのだ。 何をすれば、自分がちゃんと他人に必要とされていると分かり、自分が頼れる人もいると実感できるか。困ったときには助け合ってなんとかなるさ、と感じることができるか。 それはたぶん、人によって違うだろう。その一つの方法として、ボランティアに挑戦してみるのもよいと私は思うのだ。 必要以上に自分を卑下したり、過小評価する人がいる。自分は他人に好かれない人間で、人づき合いも下手だと思い込んでいる。そして、人づき合いが下手で他人に迷惑をかけるからと、引っ込み思案になる。そんな人は考え直して欲しい。だいたい、人づき合いに上手いも下手もないのだ。 あなたは、どんな人づき合いを「上手い」と想定しているのだろうか。自分のどんなところを「下手だ」と思っているのだろうか。 人づき合いは相手によって、千差万別である。どんなに人づき合いの上手い人でも、新たな知り合いができれば、また一からやり直し、といってもいい。「こうすれば大丈夫」という「人づき合いマニュアル」などないのだ。あなたはもしかして、そんなマニュアルを求めていないだろうか。そんなマニュアルどおりに人とつきあおうとしていないだろうか。 もしそうだったら、そんなマニュアルは今日限り捨ててしまったほうがいい。どんなに社交的な人だって、他人を怒らせることもあるし、機嫌を損ねることもある。 どんなに人づき合いのいい人だって、人と会うのをめんどうに思うこともある。たぶん、あなたと何も変わらないのだ。 あなたは、完璧に人に好かれようとしていないだろうか。ちょっとでも他人にめんどうなそぶりが見られたら、「私とつき合うのは迷惑なのだ」と思ってしまうタイプではないだろうか。 しかし、友達というのは、ケンカしたり疎遠になったり、また親しくなったりして、何年もつきあいを続けていくものだ。完璧に好かれなくても、ちょっとくらい上手くいかないことがあっても、またつきあいを続ければいいのではないか。 断絶してしまわなければ、人間関係なんて、それでOKだ。上手くやることが目的ではない。「つきあって」いくことが「人づき合い」ではないか。 人づき合いの上手い・下手はない。「つきあうか、つきあわないか」だけである。 つきあいのいい・悪いもない。人には、それぞれ自分に合っただけのつき合いがある。これくらいつき合えばいいとは決められない。適当にすればいいのである。
Dec 23, 2007
男性の中には、「妻が仕事に関して理解がない」とか、「仕事で疲れているのに、ああしろこうしろとうるさい」とか、「家庭の話など聞いていられない。家に帰ったときくらい休ませてくれ」などと思っている人も多いだろう。 しかし、あなたが妻の話を聞くことを避ければ避けるほど、妻の欲求不満はふくれあがっていき、もっと自分の話を聞いてくれと要求するだろう。 そして、それでもダメならあきらめて子供に向かう。あなたのことは、家庭にいてもいないものとして、子供との家庭を築いていく。こうして、世間で話題のマザコン家庭ができ、父親不在の家庭ができあがっていく。 そうなってからでは遅い。こうなってから夫婦の理解を取り戻そうと思っても、至難の業である。取り返しのつかないことになる前にやっておくことをお勧めする。 あなたは、自分の仕事の話をどれくらい妻にしているだろうか。また、家庭の話をどれくらい妻から聞いているだろうか。仕事上では、言わなくてはならないことや考えの違う上司と渡り合うのが当然と思っているあなたも、いざ妻が相手となると、「何も言わずにゆっくり休ませてくれ」という人が多いのではないか。 妻をほめたり、妻の料理を「おいしい」と言ったり、いつもよくやってくれていることを感謝したり。そういうことをしないのは、妻への甘えである。「言わなくても分かっているだろう」というのは「怠け」なのだ。女性の良さを否定し、女性の良さを分かろうとしない男性に限って、そんなふうに女性への甘えがある。 「そんなのは女性の甘えだ」「もっとこうするべきだ」「こうでなければいけない」と言いながら、自分は女性を理解することを怠けていないだろうか。そして、そういう人に限って、妻が自分を見限った頃に、その大切さに気づいたりするものなのだ。 さて、思い当たった人は、今日からでも妻にもっと優しくしよう。 妻の話を聞き、自分の仕事の話もしてみよう。きっと彼女はそのことに満足して、そしてあなたも、いい意味で彼女に甘え、安らげる関係がつくれるだろう。単身赴任をしても、少しも「さみしい」などと感じない人もいるし、妻子から離れてすっかり羽を伸ばして自由を謳歌してしまう人もいるだろう。 しかし、男性も案外さみしがりやで、ひとり身に耐えかねている男性も多い。朝、ひとりで目を覚まし、着替えをして出かける。喫茶店でモーニングを食べて出社する。夜は夜で、ほとんど何も入っていない冷蔵庫からビールを出して、コンビニで買ってきたおつまみをつまむ。休日の朝、流しにたまったコップを洗ったり、洗濯していると、「いったい、私は何をやっているのか」という気になってくる。むなしさに人生を考え直してしまう人もいるだろう。 しかし、こんなさみしい単身赴任生活を経験できた人は幸せである。きっと、家庭の大切さ、妻の大切さを身を持って知るだろう。仕事、仕事で生きてきて、会社の命令なら単身赴任も当たり前と引越したが、いったい私は人生で何を本当に大切にいたいのか。 そんなことを考え直せたなら、あなたは男としての、人間としての幅が広がる。仕事だけではない価値観に目を向けられる。今まで見落としてきた大切なものを取り戻すチャンスを与えられたのである。 単身赴任をしてみて、かえって妻子との絆が深まったという人は多い。たまに家に帰ったときに、一緒にいる時間を大切にするからだろう。今までよりも十分にコミュニケーションができて、夫婦仲の改善に貢献する。 妻のほうも、夫が電話をしてきたり、情けない声を出しているのを聞いたら、今までにはなかった愛情が生まれてくるかもしれない。反対に、家庭から解放されて、「私は本当は結婚向きの男ではなかったのだ」と思い始める人もいるかもしれない。それはそれで、じっくり考えてみるといいと思う。 結婚向きの男ではなかったと分かったからといって、さて、どうするのか。外国にでも逃亡するか、離婚して一生フラフラと生活するのか。会社に頼んで一生単身赴任を続けさせてもらうのか。単身赴任というのは迷惑な制度だが、そうでもしなければ真剣に人生を考えない人間にとっては、非常にありがたいものなのかもしれない。
Dec 22, 2007
ある女性が自分の恋について、こう話していた。つきあう人ができると、スペアの男性を必ずつくる。ふたまたをかけるのである。なぜなら、その人にふられた時がこわい。失恋のショックを和らげるクッションを用意しておくわけだ。 この話を聞いて、「なんたること」と思う人がいるかもしれない。しかし私は、案外、人間というのは、多かれ少なかれ、無意識にこういうことをやっているのではないかと思う。 失恋の不安は、誰にでもある。恋愛にかけるエネルギーというのは、相当に大きいものだ。そのエネルギーが行き場を失ったときは本当につらい。誰だって失恋なんかしたくないのだ。キープだのスペアだのと、いろいろなボーイフレンドをつくる女性が最近は多いようだが、きっと、本当に好きになって傷つくのがこわいのだろう。 その気持ちは分かるが、やはり自分のショックのクッションのために、他の男性をキープしておくのは賛成できない。その男性だって、モノではない。他の人間を自分の道具のように使う人は、いつか自分もそんなふうに使われても仕方がないのではないだろうか。自分がごまかしの恋をしていると分かっているのは結構だが、ごまかしはやはりごまかしなのだ。 他の男性をキープしたり、女性をふたまたかけるより、失恋したとき、あなたを慰め、クッションになってくれる同姓の友達はいないのだろうか。同姓の友達と酒でも飲んで失恋を癒そう。いい友達がいれば、それが精神的な支えになって、思いきって恋の相手にぶつかっていく勇気もわいてくるはずだ。 不幸のあとには必ず幸福がやってくる。幸福にひたりきっている人や、不幸にひたりきっている人には、そのことが分からない。いつまでもその幸福が続くと思っていたり、いつまでもその不幸が続くと思っている。 失恋をしたって、いつまでもその不幸が続くわけではない。きっとそのあとには素晴らしい恋がやってくる。大失恋をすれば、そのあとにはきっと、素晴らしい幸せが待っているに違いないのだ。 そう信じて欲しい。そう思えば、心のクッションになるだろう。 私は、職場恋愛から職場結婚したけど、最初はそんなに意識はしていなかった。第一、職場恋愛は苦手というか、皆に知れわたるのがイヤだったので、まさか本当にこうなるとは思いもよらなかった。自然と相談に乗ったりして何度か会っているうちに、気を使わなくて良いし、お互い逢っていても楽しかった。喧嘩もしたけど、長続きしないで、いつの間にか仲直りしていた。今となっては良い思い出になっているけど・・・。 でも、今の若い人たちの恋愛風潮には驚くことがある。複数のボーイフレンドを持つのは悪いことではない。ひとりだけの男性しか知らないより、男性を見る目も養われるだろう。 けれども、選択肢が多ければ多いほど幸せかというと、そうでもない。あまり選択肢が多いと、かえって自分が何を欲しいのか分からなくなってしまう。 そして、たったひとりの愛する男性を見つけられない淋しさから、次から次へと交際しているのではないだろうか。 それだけ現代は、強烈な孤独感が特徴の時代なのだろう。しかし、孤独感に負けて、適当な異性とつき合ってみても、決して癒されないのではないだろうか。 『ビジネスマンの父より息子への30通の手紙』を書いたキングスレイ・ウォードもこう言っている。 「今日の若者の結婚に対する姿勢は、一般に無造作すぎるように思われる。うまくいかなかったら、別れればいい」という言葉を聞くことがあまりにも多い。世の中には、ただ一度のチャンスをつかまえて結婚をものにしてしまう人びとがある。こうして始まる最高に幸福な結婚も少なくない。なぜか?そのような結びつきはたいてい、互いに思いやりがあるだけでなく、必ず成功させようという固い決意があるからだ」 もしもあなたが今、孤独なら、この言葉を思い出して欲しい。孤独感を適当なつきあいでごまかさずに、たっぷりとさみしさを味わったあとには、きっと、最高に幸福な恋が待っている。この恋を大切にしようという気持ちが生まれ、思いやりと固い決意を持って、その恋に向えるだろう。 チャンスが多いことは、必ずしもいい出会いにめぐりあう必要条件ではない。たったひとつのチャンスをつかまえればいいのだから。 選択肢が少ないあなたは、「あれもこれもいい」ではなく、本当に自分の欲しいものが分かる人だろう。きっと、ひとつの恋を大切に育てていけるはずだ。
Dec 21, 2007
学校教育というものは、もともと没個性を目指しているものなのかもしれない。しかし、最近の学校問題のゆがみは、この没個性教育の弊害が大きいのではないか。 前髪は何センチと決めてみたり、スカート丈をものさしで計ってみたり。何でもかんでも同じにして、はみ出ないようにするのが教育とばかりにやってきた。 いじめで自殺した子供がニュースで話題になり、テレビ番組で、イジメ問題を取り上げる。「なぜ、いじめるのか」という質問に、子供たちが、「だって、あいつ、変なんだ」と答える。「変わっている」ことが、いじめる理由になるのだ。「同じ」でなければいけないのだ。考えてみれば、大人たちがそう教育してきたのだから、子供が「変わっているのはいけないことだ」と思うのは当たり前ではないだろうか。 私は最近、「こういうのは異常なんでしょうか、正常でしょうか」と質問されることがあり、非常に不愉快に感じる。 何を指して「正常」「異常」と決めようとしているのか。人間を判断しようとし、自分ではそのものさしを持たないので、何かの権威に判断してもらおうとする。偏差値を信仰したり、統計を信仰したり、偉い先生の言う事を信仰したりする。 正常か異常かというのなら、歴史上の天才など、みな異常ではないか。誰もかれもを平均的な人間にしつけてしまったら、天才など現れないだろう。変わっているところは変わったまま、長所として生かせるように伸ばせばいいではないか。変わっていることを悩む必要など、まったくないのだ。 ある落語家が、「どんなふうに生きてきたのですか」の質問に、「わたしはねえ、『勝手にしやがれ』という気持ちで生きてきました」と言った。これはいい言葉だ。以来私は、「勝手にしやがれ」を心の中に置いている。 あれがいけない、これが正しいと白黒で決めつけようとする人に反発を感じると、心の中で「勝手にしやがれ」と叫ぶ。 これが、どんなに私の健康のために役立ったことか、平均像など、あれこれうるさくあなたを矯正しようとしてくる人など、勝手にしやがれ。迷ったときにはぜひ、このひと言を心につぶやいて欲しい。それと「知ったことじゃねえ」も最近特によく使う。 自分の個性を貫く勇気がきっとわいてくると思う。アンケートをとって、「平均」を出すという方法がある。どれくらいの人が携帯電話を持っているか。日本人の平均身長は、平均勤務時間は、なおなど。自分が「平均」であるかどうか、気になる人もいるだろう。 「こんなにみんなが携帯電話を持っているのなら、私もやっぱり持ったほうがいいんじゃないか」 「私は、このたった10パーセントの『NO』のほうに入っているのか。私って異常なんだろうか」 しかし、「平均像」など、実はどこにも存在しない。あなたの周囲を見回してみて欲しい。この人こそ平均で、普通の人だと思える「平均氏」がいるだろうか。 たぶん、いないはずだ。みんなどこか変わっている。どこか癖がある。どこかでっぱっていて、どこかひっこんでいる。何もかも平均の人など、ひとりもいないだろう。 統計というのは、ひとつの目安である。平均というのは、デコボコをならした没個性のものである。あくまで数字の上だけで、現実のものではない。 だから、誰かが「普通はこうだ」「たいていはこうする」と言っても、必要以上に気にすることはないのだ。例えば、「そんなの、あいつがそう言ってるだけじゃないか」と大らかに思えばいい。実際、そうなのだ。私が言っていることなど、私の考えであって、平均でもないし、絶対的に正しいことでも何でもない。 平均にこだわるのは、情報化時代の弊害のひとつともいえる。情報が溢れていて、どれもこれも知らないと、自分が後れているように感じる。ある営業マンの男性が、「昔は、日本のプロ野球さえ見ていれば野球好きのお客さんと話ができた。今は、メジャーリーグもチェックしないといけないので、時間もかかる」 と嘆いていた。彼はスポーツ好きなので、これは半分冗談なのだろうが。 しかし、確かに、平均的に生きようと思うと、そのために膨大な時間を費やすことになる。平均の話題についていこうと思うと、それだけで一日が終わってしまう。自分が何をやっているのかさっぱり分からないうちに忙しく毎日が過ぎていってしまう。 平均なんか、放っておいたほうがいいと私は思うのだ。
Dec 20, 2007
「このおもちゃが欲しい」 と言って泣いている子供は、それしか頭にない。お母さんが、 「それは、あなたにはまだ早いから、もっと大きくなってからにしなさい」 と言っても、そんなことは頭にない。ただひたすら、そのおもちゃが欲しくて、それが手に入らないことを泣きわめくだけである。 「この間、おもちゃを買ってあげたでしょ。そんなに何もかも買ってあげられませんよ。クリスマスまで待ちなさい」 と言われても、納得できない。子供は、今、そのおもちゃが欲しいのである。クリスマスまで我慢できないのだ。あなたは、そんな子供と同じになっていないだろうか。 あなたが欲しいものは、今は手に入らないかもしれない。そのとき、子供と同じように泣きわめくだけではなく、なぜ手に入らないのかを考えてみよう。 きっと、いろいろな理由があるはずだ。お金がなかったり、それだけの力がなかったり、環境が整っていなかったり、時間が早かったり、それでは、いつになればあなたの欲しいおもちゃが手に入るか、どうすれば手に入るかを考えてみよう。 「来年になれば、状況が変わってくるだろうから、それまでに英語を勉強しておこう」 「まずは人脈づくりをして、やりたいことを実行に移せる状況をつくってみよう」 などの方法を見つけることだ。子供に、 「クリスマスには買ってあげますよ」 「自分でおこづかいをためなさい」 とアドバイスするのと同じで、自分にアドバイスをしてやるのだ。 一番いいのは、代替案を考えることだ。あなたが本当に欲しいものが、今、手に入らなくても、その代わりのものはないだろうか。今、実現するのが無理なことばかり考えて挫折感を味わうより、今、実現できることをやって充実感を味わおう。 その充実感が心のこやしになって、もっと先のことを考える気力につながるだろう。そのうちにきっと、あなたの欲しかったものを手に入れられるときがやってくるに違いない。そのための努力は忘れずにすることだ。 その反対に、自分が何を欲しいのか分からないという悩みもある。 「このおもちゃが欲しい」 という子供なら、それを手に入れる方法を具体的に考えられる。しかし、「どれが欲しいの?」と聞いても、「分からない」という子供では、計画もたてられない。 しかし、現代では、こういう人間が多いのではないだろうか。 「ハングリー精神」という言葉がある。貧乏な家庭で育った少年が、「絶対、金持ちになってやる!」と努力して、成功する。何か強烈に欠けているものがあると、猛烈にそれが欲しくなる。自分が欲しいものが、はっきりする。 ところが、今は、いろいろなことに恵まれている。何かが自分に欠けているような気がしながらも、何が欠けているのかよく分からない。それが何なのか見極めようと悩んでいる人は多いのではないだろうか。 人間には、頑張る理由が必要だ。頑張る理由もないのに頑張る人はいない。しかし、おざなりにつくった理由では、やはり人間は動かない。人から与えられた目標ではそれほど頑張れない。自分の中から「どうしてもこれが欲しい」と、わきあがるものがなければ、情熱を傾け、充実することはないだろう。 情熱を傾けられる対象に、たまたま出会えた人は幸運だ。しかし、まだ出会えずに行き詰っている人も、幸運だ。なぜなら、行き詰れば行き詰るほど、自分が本当は何が欲しいのか、はっきり分かるからだ。 欲しいおもちゃがないのなら、その間、何も買ってもらわず、お金をためておこう。情熱を傾ける対象がないなら、じっくり休んで、その間、エネルギーをためておこう。そのうちに、何かに出会うはずだ。自分の中から何かがわきあがってくるはずだ。 他人が周囲でごちゃごちゃ言っても、聞かない方がいい。他人が考えてくれた目標など、あなたの役にはたたない。欲しいものがないなら、いつまで怠けていたっていい。そんな人が目を覚まして本当に欲しいものを見つけるときは、きっと誰にも手の届かない、すばらしい宝物を探し当てた時ではないだろうか。
Dec 19, 2007
カルチャースクールで絵本を描いているある女性が、こんなことを言っていた。 「私は、子供の頃の自分にメッセージを送りたいのかもしれません。子供の頃の私に向かって絵本を描き続けている気がするのです」 また、ある女性は、児童文学を読んで、よく泣くのだそうだ。児童文学に出てくる子供たちは、両親が離婚したり、友達が出来なかったり、家出したり、いろいろな危機に陥っている。そして、そんなとき、必ず理解ある大人が現れたり、素晴らしい友人ができたりして、みごとにハッピーエンドになる。彼女は、そんな物語を読んで、自分が救われたような気がするのだと言う。 あなたも、悩んだり落ち込んだりしたとき、ふと、子供の頃の自分を思い出すことがないだろうか。いろいろな悩みや心配事、捨ててしまえばいいようなこだわり。 そんなものの原因は、子供の頃にできたことが多いのではないだろうか。 ある女性は、子供の頃に両親が離婚した。二人の争いや、すさまじいケンカは、とても恐ろしかったという。彼女は、三十歳を過ぎて、今も独身でいる。友人たちは、「両親の離婚は、あなたには関係ないのだ。いつまでも子供の頃の体験に縛られていないで、幸せになりなさい」 と言うが、頭では分かっていても、実際にはなかなかうまくいかないのが世の常だ。 結局のところ、子供時代の自分を救ってやれるのは自分自身でしかない。子供の頃の自分にメッセージを送り、助けてやれるのは自分しかいないのだ。 「もしもあのとき、こんな大人がいてくれたら・・・」 あなたがそう思うような大人に、あなた自身がなってみよう。子供時代のあなたを助けられるような大人に、今のあなたがなってみよう。そうすれば、きっと子供時代のあなたが救われていくはずだ。 実際に子供を育てることでもいい。子供時代のあなたが何を感じていたかを思い出す作業でもいい。傷ついたままの子供のあなたを、自分自身でもう一度、育て直してみよう。きっと今の悩みが軽くなっていくのを感じるだろう。 悩んでいる人間には、先が見えない。先が見えないから悩む。そこで、守りにはいる。ところが、守りに入ると、ますます発展がなくなってくるものだ。 ある経営者が、テレビでこんなことを言っていた。 「リスクのないチャンスはない」 中国で天安門事件があったとき、日本企業は中国に対して腰がひけた。中国は、これからどうなるか分からない。今、中国に進出したら危ない、と思ったわけだ。 しかしそのとき、彼は、逆に中国へ進出して大成功をした。リスクが大きいほど、チャンスも大きい。みんなが中国への進出をやめたときに進出すれば、中国のマーケットをいち早く開拓し、独占できる。成功したときの利益は大きい、と読んだわけだ。 彼はこう言う。 「バブルの時期には、みんな、ずっとバブルが続くと思っている。しかし、いつか必ず終わるのだ。そして、不況になると、今度は、ずっと不安が続くと思っている。これもいつかは必ず終わるのだ。だから私は、不況のときに投資をする」 聞いてみれば、確かになるほどと思う。今までの歴史をみても、世の中の流れは発展するときもあれば、縮小するときもある。しかし、実際に不況のときに、思い切った投資ができる勇気が普通はない。それをできる人間が成功するのだろう。 リスクを避けるなら、チャンスもない。あなたの悩みも「リスクなしでチャンスがほしい」という勝手な願いが原因ではないだろうか。もし、リスクがいやなら、チャンスが来ないことにも甘んじたほうがいい。本当にチャンスをつかみたいなら、リスクを背負う勇気を持とう。 また、゛いつまでもこの厳しい状況が続く゛ような気がして必要以上に暗くなるのは、もうやめよう。苦しい状況は、いつか必ず終わる。いつか状況は変化する。それは信じていい。 だから、苦しいときこそ、守りに入らず、思い切った投資をしてみよう。失敗したっていい。失敗のない成功はない。何回かの失敗が、次の大きな成功につながるのである。
Dec 18, 2007
「あのとき、ああしていれば・・・」 「あそこで、あれさえなければこうなっていたかもしれないのに・・・」 そんなふうに過去のことをいつまでも悔やんでいる人がいる。しかし、そんな人にかぎって、はたから見ていたら充分、幸せな人生に見えるものである。 ある女性が、大会社の社員の男性と知り合った。その彼は、自分のことを「不幸だ、不幸だ、ちっともいいことがない、俺にはいつ、いいことが起こるのか」と嘆いているのだそうだ。 そこで思わず、「でも、こんないい会社に就職なさって、生活の苦労もなくて、いいじゃありませんか」と言えば、その会社に就職したことがどんなに間違っていたかを話し始める。 そこでまた、「でも、今の奥様とはその会社で知り合ったんでしょう。それでご結婚なさったんだから良かったじゃありませんか」と言えば、家庭がうまくいっていないことをほのめかし、その結婚が間違っていたことを訴えるのだそうだ。 たぶん、こういう人にとっては、何もかもが間違いのものなのだろう。どこでどうなっても、「これで良かった」と思うことはないのだろう。 「あのとき、この会社に就職したのは間違っていた。別の会社に就職していれば・・」本当にそう思うなら、今からでも挑戦すればよい。 「こいつと結婚したのが間違っていた。別の結婚をしていれば・・・」 本当にそう思うのなら、離婚すればよい。 自分の持っているものは守っておいて、つまらない人生を浮気でもしてごまかそうという人もいるだろう。相手もそれを分かってつき合ってくれるなら、それもいい。 しかし、こういう人間はまたまた、「それが全ての間違いのもとだった」ということになるのではないか。 「・・・たら」「・・・れば」と自分の選ばなかったもう一つの可能性ばかり見ていても、何もならない。過去は変わらない。その過去の上に現在を積み重ねて、未来を変えていくしかないのである。 ある占い師さんがこう話していた。 「とことん悩める人は、立ち上がるときはスーッと立ち上がるんですね。どん底までいったら、それ以下はないでしょう。ところが、中途半端に悩んでいる人は、どん底に落ちない代わりに悩む期間が長引くのです。いつまでもグズグズと悩んでいて、いい解決法も見つからないようです」 悩んでいるときには、いい解決法が見つからないのが普通だ。しかし、解決法はあっても、それは自分がやりたくないことだったりする。 「ああすればこうなるんだろう。こうすればこうなるからイヤだ。あの道もイヤだ。この道もぴったりこない。ああ、どうすればいいのだ」 と悩み、身動きがとれなくなって、どんどん落ち込んでいく。 しかし、そこからが、こういう人の強みだというのである。いろいろな道を断わって、八方ふさがりになったときに、見えてくる道がある。それが本当に進むべき道だ。 何もかもなくしていったときに、「これだけは守りたい」と思うことがある。それが、あなたが人生で本当に大切にしたいものだ。たくさんのものを持っているときには分からない。失ってみたとき、初めて自分が本当に欲しいものが分かるのだ。 それをつかんで這い上がった人は強い。自分が本当に大切にしたいものをしっかり握って生きていけるのだから、迷いも少なくなるだろう。とことん迷った末に自分でつかんだ実感だ。今度迷ったときには、どちらを選べばいいかすぐに分かる。 反対に、「この辺でいいや」と中途半端にごまかしてしまった人は、いつまでたっても、本当に自分が欲しいものが何なのか、実感できないのではないだろうか。 しかし、かといって、部屋の中で悩みながら一歩も動かないのでは、それもまた、なかなか結論にいきつかない。やってみて「これはダメだった」またやってみて、「これもダメだった」と行動していくことは大切だ。 あなたは、人生でとことん悩んだ期間があるだろうか。もしもそんな機会がやってきたら、チャンス到来である。とことん悩んでみるといい。自分が人生に何を求めているのか、きっと見えてくるはずだ。
Dec 17, 2007
悩んでいるときの現実的解決法は、自分自身が今とは違う方向に変化するしかない。しかし、それはたいへんな苦しみを伴うので、つい、その苦しみを避けようとする。 「上司がこうしてくれれば・・・」 「部下がこう動いてくれれば全てはうまくいくのに・・・」 「なんであいつはそんなふうに考えるんだ。こう考えるのが当たり前じゃないか」 あなたにとっては、「自分の常識が世間の常識」である。それ以外の考えを持つ人は信じられない、といきまく。自分の考えは当たり前で、他人の考えはおかしいと思う。他人とぶつかって、どちらかが考えを変えなければならないとすれば、当然、相手のほうが考えを変えるべきに決まっている、と考えるのである。 あなたの考えることを上司が正しく理解してくれ、部下はあなたの思うとおりに動いてくれ、訳のわからないことを言い出す人間が一人もいなければ、世の中はこんなに楽なことはなく、幸せだ。 だからあなたは、ついつい他人が変わってくれることを期待する。他人が変わってくれれば楽だ。だから、「自分がやり方を変えてみる」という現実的解決法に向かって動き出すのを、いつまでも先延ばしにしてしまう。 しかし、よく考えてみて欲しい。あなたが自分のやり方をなかなか変えられないように、他人だって、自分のやり方を変えるのは至難の業なのである。彼も、彼女も、今までそのやり方でずっと生きてきたのだ。自分ができないことを他人に強要するのは酷というものではないか。 悩みに陥った時、自分が変化するのがどんなに難しいことかは私も知っている。知っているから、あなたにそれを急がせたりするのはやめておこうと思う。じっくり悩んで、ゆっくり変わればよい。 ただ、あなたにも、他人が変化するのを期待したり、それを強要するのはやめて欲しい。彼には彼のペースがある。彼は彼でゆっくり悩まなければ変われない。彼女は彼女でいきづまらなければ変われない。 他人も、あなたと同じように悩む人間なのだということを忘れてはならない。 自分が変化できないのに、相手が変わることを望んだり、相手があなたの思うとおりにしてくれないのを恨んだりグチったりしても、何も変わらない。だから、グチを言っても仕方がないし、あまり前向きな行動とはいえない。 おまけにグチっぽい人というのは、なぜかどんどん不幸になっていき、いつまでもグチの渦から抜け出せない。 しかし、それでは人間、グチのひとつも言わずに立派に生きていけるかというと、そうでもない。言っても仕方のないことと思っても、ついグチりたいときもある。 誰かにその気持ちを分かってもらいたいときもある。弱音をはき、友人に、「お前もたいへんだな」とひとこと言ってもらいたい。それで気がすむこともあるのではないだろうか。 わがままだということも、あなたは分かっているだろう。しかし、そんなわがまま勝手な言い分を言える相手を持つのは大切なことだ。もし、そんな友人がひとりもいなかったらガス抜きができず、ストレスでパンパンになってしまうだろう。 グチを言える相手は、できれば、同じような仕事をしていて、分かり合える立場の人がいい。しかし、あまり近すぎる関係でもないほうがいい。というのは、あまりに近い関係では、あなたのグチが周囲に伝わってしまう可能性もある。そこからまた、新たな火種をつくってしまうこともあるからだ。 また、グチを言ったときに、あまり批判的だったり、アドバイス的な人よりも、よけいなことを言わずに共感をもって聞いてくれる人がいい。相手もグチばかり言っているような人では、不幸者同士が寄り集まってグチグチ言っているイメージになってしまう。それより、ひとしきりグチって気が済んだら、お互いに笑い飛ばして、「さあ、また頑張ろう」という気分にさせてくれる明るい人がいいだろう。 グチは制限時間をつくるとよい。 「これから一時間はグチを言わせてくれ」 「今日一日はグチの日だ」 そして、あとはすっきりと気持ちを切り替えて、解決への行動を始めることだ。
Dec 16, 2007
ソウル五輪で金メダルをとったマラソンのジェリンド・ボルディン選手が、レースに勝つための条件を次のように言っていた。 「まず、トレーニングだ。次にプレッシャーなしでレースに挑める精神的コンディションをつくらなければならない」 ボルディン選手は、ソウル五輪で、日本の中山竹通選手が勝つと思って、マークしていた。ところが、実際に優勝したのはボルディン自身だった。彼は、その理由をこう分析している。「中山はレース中、ナーバスになり、余計なことでエネルギーを浪費してしまい、ラストスパートの余力が残っていなかった」 日本人がオリンピックで勝てないのは「プレッシャーに弱い」からだといわれる。しかしオリンピック選手に限らず、「ここ一番」というときに実力が出せない。あがってしまうという人は多いのではないだろうか。 「失敗するのではないか」「予想しなかったことが起こるかもしれない」「その日に限ってコンディションがよくないかもしれない」などなど、心配し始めれば、心配のタネは山ほどある。 よくなるなら心配するのもいいが、心配するだけでは何も変わらないのである。 それでは、どうすれば、プレッシャーを感じることなくレースに挑めるようになるのだろうか。ボルディン選手はこう言う。 「レースにあまり出ないからナーバスになるのだ。私のようにもっと多くのレースに出たほうがよい」 心配性でプレッシャーに弱い人間は、人生の゛レース゛に出ることが苦痛だから出場するのを避ける。けれども、避けていたら、いつまでたってもレースに慣れない。 たくさんのレースに出ていれば、失敗を繰り返すが、度胸もついてくる。レースに勝つためには、心配するよりも、まずはたくさんのレースに出ることだ。恐れずにレースに出ることに挑戦してほしい。 あるプロテニスプレーヤーは、「強くなる秘訣は?」と聞かれてこう答えている。 「たくさん負けることです」かつて、女子選手で初めて、陸上競技の一万メートルで三十分台の記録を出したノルウェーのイングリッド・クリスチャンセン選手。彼女は、結婚して子供が生まれてから急に記録が伸びたと言っていた。それまでは、それほど目立った活躍をしていなかったのに、出産を機に、めきめきと頭角を現したのだ。その理由を、彼女はこう語る。「それまでは競技のことばかり考えていた。十分にリラックスすることもなかったし、レースでは逆に精神集中ができなかった。子供ができてからは、練習時間は減ったけど、すごく集中できるようになった」 子供の世話に時間をとられるようになったおかげで、かえって頭の切り替えが早くなったという。家事は全て自分でやり、料理や掃除をしたり、子供の世話をしているときは、レースのことはまったく考えないのだそうだ。 この話を聞くと、仕事するばかりが能ではないことがよく分かる。仕事をする時間が多ければ多いほど、いい仕事ができるわけではない。仕事のことばかり考えていれば仕事がうまく運ぶわけではないのだ。 リラックスする時間を持つと、逆に、集中するときには集中できる。遊びの時間を上手にとれば、仕事もはかどる。クリスチャンセン選手のように、家族との団欒の時間も大切だ。世のおとうさん族も、夜、家に戻って、妻や子供が話しかけてきたとき、「仕事で疲れているのに・・・」といわずに話す時間を持ってみてはどうだろう。 一日中、仕事のことで頭をいっぱいにしていては、ずっと張り詰めたゴムのように、伸びっぱなしになってしまう。ときにはゆるめることが、長持ちさせるコツだ。 ワーカホリックにとっては、仕事以外のことを考えている時間は「もったいない」「ムダな時間」と考えがちだ。しかし、実はそれがまったくムダではなく、生きた時間になるのである。 クリスチャンセン選手はこう言う。 「レースが全てだと疲れるでしょう、勝てなかったらがっかりするし、負けたときは家に帰って子供の世話をしていると、気も楽になるし、すぐに忘れられるわ」 気持ちの切り替えが下手な人は、ぜひこの方法を試してみたいものだ。
Dec 15, 2007
サーカスの象は、小さい頃に、頑丈な鎖でつながれる。子象は鎖をひっぱって逃げようとするが、まだ小さいので鎖は切れない。そのうち、逃げられないと観念して暴れるのをやめてしまう。 さて、この子象は年月がたつうちに大人になる。もう、つながれている鎖など簡単に切れるパワーを身につける。ところが、象は決して鎖を切って逃げようとはしない。象は、鎖が切れなかった経験はしているが、鎖を切った経験はしていない。「鎖は切れない」という観念が植え付けられているのである。 人間も、この象と同じだ。一度失敗したことを、「これは自分にはできないことなのだ」と思い込む。「苦手意識」を自分で植えつけてしまう。 しかし、考えてみて欲しい。人間も子象と同じで、日々成長しているのである。いつまでも「これはダメだ」と思っていたら、本当にいつまでもできるようにはならない。そこまでである。 しかし、何度でも挑戦すれば、少しずつでも状況は変わってくる。ダメだと思っていたことが、あまりにすんなり出来てびっくりすることもある。今までのコンプレックスが、突然、自信に変わることもあるはずだ。是非、こりずに挑戦して欲しい。 作家・北杜夫が、こんな話を書いている。まだ小説家としてデビューする前に自費出版した「幽霊」を、母が岩波書店に見せに行った。ところが、その編集者に、「優等生の作文で、どこといってとりえがない」と突き返された。母は、「もう小説なんか書くのはやめなさい」と忠告した。しかし諦めなかった。いい悪いという判断は、あとになってみなければ分からないという自負があったという。 結局、信じたとおり、この本は別の編集者の目にとまって評価を得た。そして小説家への道を歩み始めたのである。 今、うまくいかなくても、マイナスの結論を出す必要はない。できることをまずやって、できなかったことの評価は保留にしておこう。そのうちに、保留にしておいたことを、もう一度やってみよう。いい評価をたくさんためていけば、苦手なことに挑戦する勇気も湧いてくるであろう。
Dec 14, 2007
他人にちょっと何か言われただけで、被害妄想に陥ってしまう人がいる。 「あいつは、俺のことをバカにしてるんじゃないか」と卑屈になったり、見当違いの攻撃で仕返しをしたりする。こういう人はだいたい、自分を笑い飛ばす余裕がないようだ。 人間には、さまざまな個性があって、クセがある。他人から見たらどうでもいいようなつまらないことにこだわっていたり、いつまでたっても子供っぽい趣味や、子供っぽい態度がどこかに残っていたりする。 それは、他人から見たら滑稽なものなのだ。しかし、他人から指摘されたり、笑われたりすると、本当のことなのに反発してみたり、逆に相手の滑稽なところを何とか見つけて仕返ししてやろうと必死になったりする。 しかし、それを始めてしまうと、人間関係がこじれてくる。あなたももう、立派な人なのだから、自分の滑稽なところを自分で笑い飛ばす余裕を身につけて欲しい。 自分で自分を笑える人間は、客観性を身につけている。自分を笑う目は、外から自分の姿を見ている目だからだ。自分の滑稽さがわかる人間は、自分を外側から見つめる能力があるのだ。反対に、自分で自分のことを笑えないのは、自分だけの思い込みの世界にひたっていて、自分を外から見る客観性があまり養われていない可能性がある。そんな人はぜひ、自分のおかしいところを見つける訓練をして欲しい。例えば、他人に自分の行動を笑われたとき、自分のどんなところがおかしく見えたのか、他人の目になって考えてみるとよい。 私は、最近の若い人たちは、非常にユーモア感覚に優れていると思う。テレビではたくさんのバラエティ番組が放送されているし、お笑いタレントが大人気だ。その中で育った彼らは、自然に笑いの感覚を身につけているのだろう。 自分がやってしまったおかしなことを、他人におもしろおかしく話せるようになれば、もう他人に笑われることなど怖くない。他人に笑われたら、自分も一緒に笑ってしまえばいい。 笑いは、あなたを余裕のある人間にしてくれるはずだ。
Dec 13, 2007
人生は、次々に新しいことに取り組まざるをえない。小学校が終われば中学校の勉強が待っている。次は高校だ。学校を卒業すれば仕事を覚えなければならない。ようやく仕事を覚えたと思ったら昇進して、今度は部下の管理の方法で悪戦苦闘する。小学校で覚えた算数でずっとやっていければ、こんなに楽なことはない。得意なことの範囲だけでやっていれば、いつまでもお山の大将でいばっていられる。 しかし、人生はどうもそういうふうにはできていないようだ。そのままやっていようと思っても、そうはいかない状況が必ずできてくる。そんなとき、すっかり今までの自信をなくしてしまう人も多いが、その前に、ちょっと考えてみて欲しい。 誰だって、新しいことを始めたときは、その分野では小学校の一年生と同じなのだ。仕事が認められて昇進し、上司となっても、上司としては新米だ。部下がいうことをきかなかったり、思い通りにいかない事がたくさんあって当たり前なのだ。 今までは、十キロの重さのバーベルで鍛えていて、楽々上がるようになってきたら、今度は五キロ増えた。そのとき、バーベルが重たいと思うのは当然である。 しかし、あなたの実力が「落ちた」わけではない。あなたは相変わらず、十キロのバーベルなら楽々持ち上げられるだけの能力は十分にあるのだ。十五キロがなかなか上がらないからといって、そんなに落ち込む必要はない。 うまくいかないことが続いて気分が落ち込んできたときには、自分が得意なことをやってみてはどうだろう。楽々とうまくできることをやってみれば、「ああ、おれもそう捨てたもんじゃない」と思い出すはずだ。あなたが今までに培ってきたものは、決して失われたわけではない。自分のできないことばかり見つめて自信をなくしてきたときは、自分のできることをやって、自分を取り戻そう。 知人の男性は、カラオケでうまく歌えなかったときは、得意な曲を歌うことに決めているそうだ。そうすれば、口直しで気分もよくなる。まわりにも「おれは本当は下手なわけじゃないんだ、さっきのは、まだ慣れていない曲なんだ」と示すことができる。困ったときには得意なところに戻れ。このテクニックを、ぜひ皆さんにも活用して欲しい。
Dec 12, 2007
成功への道は無限にあるーそう考えることからスタートしてみる「世の中には行き詰ることはない」問題が起きたとき、まずそう考えることからスタートしてみる。そうすれば心が軽くなって、いいアイデアが出てくるだろう。成功への道は無限にある。自分なりの成功を目指せばいい。そのためには、自分の最高価値を見出すことだ。幸福になることが人生の究極の目標であり、その目標を達成するためには、人間的成功を目指さなければならない。真の成功とは究極のところ、真の幸福に直結するといえる。したがって、小さいところから、自分なりの成功を目指していけばいい。人生における成功の喜びは、自分が抱いている多様な価値群のうちで、順位の上位にあるものを目標にすえ、実現させたときであろう。人によっては「これでもう死んでも本望」というほどの成功を収める。自分の最高価値を達成させるためには、自分がいかなる事柄に価値を見出し、どのように相互の位置づけをしているかを早く知らねばならない。知恵才覚が乏しくても、多くの人に力を貸してもらえば、成功しやすくなる。優秀な人が陥りやすい欠点として、つい自分の力を恃み、何でも自分でやってしまおうとする傾向があることだ。それでは協力が得られない。一人でできることには限りがある。大きな成功のためには、多くの人の協力を得ることが不可欠である。熱心で頭もよくて、これは成功しそうだという人が案外成功しない。それは他人の意見を用いないからだ。自分がいいと思ったことは、無理やりにでも遂行させようとする。そのため孤立してしまう。反対に、なんとかしてこれをやり遂げたいと思うがゆえに、多くの人に力を貸してもらう人がいる。こういう人は、たとえ知恵才覚が少しぐらい乏しくても、むしろ成功するものだ。人々の支えがあって、自分の人生がある。私心を捨てれば、おのずと成功の確率も高まる。自分一人で生きているのではない。社会があって、周囲の多くの人の支えがあって、自分の人生があることを見失ってはならない。私心を捨て、社会のために責任を果たそうという思いが成功へ導く。成功への近道となる。会社を興す人も、会社を潰す人も、知恵才覚においては紙一重の差である。しかし、一方が興し、一方が潰す。成功する人と失敗する人はどこが違うのか。煎じつめていくと、失敗する人には私心がある。公の心が足りず、透明な心がない。成功する人は私心がない。清廉であり、公の心、透明な心を持つ。知恵才覚は同じレベルでも、少しでも私心が入ると、結果に大きな差が出てくる。失敗しても、めげずにぶつかっていこう。成功を信じてやるのみ。失敗しない人はいない。人生に失敗はついてまわる。仕事も人生も失敗の連続である、といっても過言ではない。しかし、失敗から逃げれば必ず負け犬になってしまう。失敗にめげず、ぶつかっていかなければならない。かといって、最初から失敗を予想して仕事に取り組むのはいけない。失敗を前提とすることと、失敗にめげず、ぶつかることは似て非なることである。常に成功を確信して、事に取り組みたい。そうすれば、挑戦意欲が湧き、忍耐が生まれ、それが成功につながる。たとえ失敗しても、多くのことを学んで、筋金入りの成功者になれるだろう。うまくいったときは「これは運がよかった」と考え、失敗したときは「その原因は自分にある」と考える。物事がうまくいったとき、それを自分の力でやったのだと考えると、つい驕りや油断が生じて次に失敗を招きやすい。実際、成功といっても、その過程には小さな失敗がいくつもあるものだ。一歩誤れば、大きな失敗につながりかねなかったかもしれない。けれども驕りや油断があると、そういうものが見えなくなってしまう。日ごろから、「失敗の原因は自分にある」という考えにして、自らのやっていることを厳しく吟味しつつ、なすべきことをなしていくことだ。自分のやり方に過ちがあったと考えれば、いろいろ反省も生じて同じ過ちは繰り返さなくなる。失敗の原因を事前になくそうとする配慮も生まれてくる。おのずと失敗も少なくなって、多少逆風の状況下でも成功の階段を上がることができる。自分には運があると信じ、運とうまくつきあうのも、成功する要因の一つだ。努力に努力を重ねた結果、成功したのだと思うと、どこかに無理が生じ、重苦しい感じがする。そうではなく、これは運命のしからしめるところだと思えば、心が軽くなる。自分は強い運を持っていると信じることだ。運の強い人の傍にいると、傍にいる人も運が強くなっていく。運の強い人のところには、大きな仕事、いい仕事が集まってくる。どんな困難な仕事に対しても、積極的に取り組んでいく姿勢があるので、成功する確率も高くなる。傍にいる人にも、その強い運のおこぼれがまわってくる。
Dec 11, 2007
小さなこと、普通のこと、平凡なことの「積み重ね」で結果が決まる。成功も失敗も、日常の一見些細なと思われることが積み重ねられた叙事詩といえる。人はどうしても安易な道を選びがちになる。しかし、何事かをなし遂げようとするとき、安易な道などあろうはずがない。地道な一歩一歩の精進が不可欠である。この道理は、時代背景がいかに変わろうとも不変である。いかなる世界でも、プロであれば、普通に仕事ができるのは当たり前だ。そこから一歩ぬけられるかどうか。自分にしかできない、オンリーワンの何物かを持っているかどうかである。オンリーワンの技術を持つには、工夫の積み重ね、日々の努力の積み重ね、一見平凡に見えることの積み重ねこそが必要不可欠だ。その真理もまた、いかなる世界、いかなる時代でも、不変、普遍なことだろう。ちょっとした言葉をよいほうに積み重ねるか、悪い方に積み重ねるか。それによって生ずる結果は、正反対のものとなる。ネガティブな言葉を一日たった三回言ったとしても、一年間で1095回、十年間で1万950回になる。その結果は言わずもがなであろう。人は誰でも、一度は驚くようないい仕事をする。すばらしいアイデアを出し、注目を集める仕事をすることもあるだろう。そのときに落とし穴がある。自分に能力があると自惚れてしまうのだ。自信過剰になり、日々の努力を怠るようになるだけに、一歩一歩の努力を忘れてはいけない。理想を掲げることと、一歩一歩の些細な努力を積み重ねていくことは車の両輪である。理想を掲げ大志を抱きつつも、日々一歩一歩の些細な努力の積み重ねをおろそかにしてはいけない。高い山頂を目指すときも、途中の峠を一つひとつ確実に越えなければならないのと同じである。何事によらず成功とは、高き理想と目標をうちたて、実現に向かって一歩一歩力強く歩みを続けていくほかはない。一歩一歩の歩みはのろいようであるが、たゆまざれば、驚くべき成果となる。些細な努力の積み重ねこそ、成功への近道がある。その日その日を大事に、一歩一歩積み上げていく、というのはあまりに平凡で、人の記憶に残りにくい。しかし、その平凡なことを何十年も続け、些細な努力を積み重ねるならば、そのとき、平凡は非凡な結果に変わる。理想を掲げ大志を抱くのはいいが、遠大な計画を口にして、大言壮語に終わったのでは仕方がない。地道な努力を積み重ねることが、弱さを強さに変え、成功への最短距離になる。弱さを強さに変えるためにも、日々、一歩一歩を積み重ねていくことを忘れてはならない。見栄を張らず自分の弱さを素直に認識し、人に素直に尋ねる。その日なすべき仕事に、誠意を尽くす。能力がないのであれば、人一倍の熱意で事にあたる。そうしたことの積み重ねが、弱さを強さに変える。大成功の要因というと、華々しいエピソードや他人には決して真似のできない技術の独創性などを期待してしまうが、決してそうではない。逆に、瑣事の処理の連続である。その一つひとつをきちんとこなし、地道な努力を払っている。その積み重ねこそが、成功への最短距離となる。勝利の女神は、努力する者に褒美をくれる。懸命な努力を続けている時、目先のことにとらわれてはいけない。結果は必ずついてくる。そう信じて進むことだ。一歩一歩、頂上を目指し大地を踏みしめながら登ることだ。小さな一歩ではあるが、ふと振り返れば、麓ははるか遠く、ずいぶんと高いところまで登っている自分を発見するだろう。勝利の女神は、努力する者に褒美をくれるものだ。
Dec 10, 2007
「自分は内気なので、うまく人と話ができない」そう思っている人は、挨拶を積極的につかうことだ。挨拶というものは何も長々と交わす必要はない。心をこめた「おはようございます」のひと言で、よい印象を持たれることは間違いない。「挨拶がなかった」というのはよく聞く言葉だが、自分がほんのひと声かけるかどうかだけで、人間関係はすっかり変わることも覚えておきたい。人は他人の話を聞くより、自分の話をしたがるものだから、耳を傾け、聞いてあげればよい。そうすれば相手は喜んで話をし、声をかけてくれるようになる。人間関係がうまくいかないのは、話すべき話題がないからではなく、人の話を感心して聞かないからであろう。よき人間関係をつくるのは、細かなテクニックではない。根本のところで、相手をどのように思うかによる。人間関係に不満を持っている人は、どこか誠実さにかけるのではないだろうか。ウマが合うとか合わないとか、愛嬌があるとかないとか、そういうこと以前に、他人に対して不誠実なのではないか。いま一度自分の言動を振り返ってみたい。それが自分を変え、人間関係で悩まない第一歩になるのではないだろうか。この人は自分とは違った能力、自分より優れた能力を持っている、という気持ちを持っているかどうかである。相手をすばらしい、本質的に高く評価をすべき存在だと思えば、自然に人間関係は豊かになる。人間性を否定するような言葉、プライドやアイデンティティを傷つけるようなことは、決して口にしてはならない。批判からは何の前向きな成果も生まれない。ただ感情のしこりが残るだけである。何年も付き合っていれば、相手のプライドがどこにあるかくらいは知っておきたい。好き嫌いでなく、その人の真意を見極めて付き合いたい。そして問題が起これば、修復に努めることだ。好き嫌いや、自分の言うことを聞く聞かないということで人と接していては、心の通う付き合いはできない。好き嫌いは各人各様であり、個人によって異なる。ある人の一つの点を嫌いな人もいれば、そこがいいと言う人もいる。好き嫌いはきわめて表面的なことにすぎない。その人の真意を見極めて付き合うことだ。長く付き合っていれば、ときにはぶつかりあいも生じる。それは親友であれ恋人であれ、職場の人であってもだ。問題は、その後の関係をいかに修復するかである。人を叱ったあとに、あるいは上司とぶつかったあとに、互いにどう修復するかである。それが長く続くよき人間関係の基本かもしれない。ありのままの自分を良しとすれば、人とのかかわりあい方が下手でも、落ち込むことが少なくなる。人付き合いが苦手で人間関係がうまくいかないという場合、少し自意識過剰なケースが多い。いつも失敗しないように、他人から笑われないようにという意識が強く、その結果、だんだんと他人と話すこと、お付き合いすることが息苦しくなってしまう。だから、あまり自分を意識しないこと、格好よく見せようとしないこと、笑われぬようになどと心配しないことだ。自分を格好よく見せようとすると、どんどん気疲れしてしまう。ありのままの自分を素直に出し続ければいい。性格が内向的であることを悩んで、無理に外交的に振る舞わなくてもいい。一緒に何かをやらなければ、と構えるのではなく、ならば、気分ののった時に詩を書いてみよう、俳句を詠んでみようと、気軽になってみればいい。気分が晴れるばかりでなく、趣味を通して自然に仲間もできるだろう。ときには、開き直ってみるのもいい。案外、スムーズな人間関係になるかもしれない。相手の意図に合わせることに汲々とせず、ときには、ありのままの自分をさらけだそう。「暗い人間でどこが悪い」「口下手で何が悪い」と開き直るのである。自分に言い聞かせれば、案外、自信めいたものが生まれてくるかもしれない。卑屈にならないことだ。人生では、好きになれない人と付き合わなければならないときがある。そんなとき、無視する場合があってもいいのではないか、と開き直ってみる。無視というのは、何も口をきかないとか、その人と一緒に仕事をしないということではない。最低限必要なことは必ず報告し、社会人としてのマナーはきちんと守りつつ、しかし、それ以上の関係を築く努力はしないことだ。「敬して遠ざける」ことである。
Dec 9, 2007
人間関係を円滑にするためには、つかう言葉にもそれなりのテクニックを必要とする。しかし、テクニック以前に心の存在を見逃してはならない。心があるからこそテクニックも活きてくる。「上手に話す」というのは、よどみなく流暢に話すことではない。言霊という言葉があるように、いかに表面を飾ろうと、本心は言葉の周囲に表れてしまうものだ。たとえ稚拙な話し方であろうと、心がこめられていれば、言葉はきちんと伝わる。しかし、言葉には細心の気づかいが必要だ。無神経に言った言葉が、相手の心を深く傷つけるという例は少なくない。たとえ喧嘩をしても、越えてはならない一線、つかってはならない言葉がある。相手の人格を傷つけ、心を踏みにじっては修復がきかなくなる。たった一言で人間関係が壊れかねない。後悔しても覆水は盆に返らない。どんなに感謝の念を抱き、思いやりの気持ちがあっても、言葉として発しなければ相手には伝わらない。心で思っているだけでは相手に伝わらない。感謝しているなら、感謝していることを伝えよう。ものを受け取る時、「ありがとう」のひと言がつけ加わることで、人はずいぶん満足感を覚えるものだ。特に価値観が多様化しており、一人ひとりの考え方が異なるから、言葉にしなければ伝わらないと心得ておきたい。同じ内容であっても、ちょっとしたものの言い方で受け取られ方が変わってしまう。ものの言い方ひとつで、相手を幸せにすることもできれば、不幸にしたり、怒りをかきたてることもある。それだけに相手が喜ぶ言葉を発するように努めたい。それが人間関係をよりいっそう円滑にする。言葉は、心の表現そのものである。しかし、それがいかに美しくとも、行動が伴っていなければ価値がない。言葉という字は、心の葉を意味し、声は心の枝である。そして、心のなかのもっとも本心に近いところを心の根、すなわち心根と呼んでいる。心が伝わるということは、心の根から心の枝を通して心の葉から伝わっていくことだ。言葉をこのように考えれば、言葉をつかうとは、心の表現そのものであるといえる。言葉は、人と人の心を結ぶかけ橋であるが、実のない言葉は伝わらない。耳ざわりのいいことを口にする人ほど、心がこもっていないことが多い。また、どんな筋の通ったいいことを話しても、それに行動が伴わなければ、説得力を持たない。そればかりか、人間関係を損ないかねなくなる。よいことを知っていても実行に移せない言行不一致の人は、心が通じないばかりか、信用されないのである。
Dec 8, 2007
ちょっとした思いやりとサービスの心をもつことが、人間関係の潤滑油になる。相手を大切な存在だと思えば、思いやりの気持ちは自然と湧いてくる。思いやりとは、相手から10のものをもらったら、11にしてお返しすることだ。11にして返せば、それは12になって返ってくる。そうするとまたそれを13にして返す。この繰り返しで、思いやりの心はどんどん大きくなる。そうすれば、自然に大きな恵みが自分のところへ戻ってくるだろう。誰に対してもサービスの心を持って接すれば、対人関係は円滑に推移する。会社の上司や部下、友人や家族に対してサービスの心を持って接すれば、きっと行った以上のものを返してくれるだろう。サービスは、思いやりの心、人間的な心の表現である。人間関係の基本、そして対人関係を円滑にするコツは、おそらく人間観をどう持つかであり、具体的には、人間の本質を信じ認めることである。人間は長所も欠点も持ち合わせているが、優れた存在であることは間違いない。それが人間の本質である。そうであれば、敬意を払い、礼を尽くして付き合っていかなければならない。人は、自分の人格、自分の本質的な存在を認められれば嬉しい。存在感が確かめられると、それにふさわしい自分になろうと努める。礼節を重んじ、相手を敬う気持ちも強くなっていく。正しい人間観がよき人間関係の第一ボタンになる。そうであれば、注意したり批判するときにも、褒めることを組み合わせるようにしたい。「そういうことをすべきでない」と言い放つだけでなく、「あなたのように能力のある人が、こういう間違いをしてはダメだよ」と付け加えるのである。相手は批判や注意を、好意として受け止めるだろう。そうすれば、人間関係はずいぶんと円滑になる。どんなに仲良くなったとしても、礼儀、礼節を失うべきではない。礼儀・礼節は、相手を大切に思う気持ちから生まれる。相手の人格を認め、敬意を表する気持ちがあるからこそ、自然な礼儀正しさ、言い換えれば、ケジメが生まれ、あらゆる人間関係が円滑になる。家庭であれ、会社であれ、「親しき仲だからこそ礼儀あり」を忘れてはならない。適度な距離を保っていれば、緊張感が生まれ、人間関係は円滑に動いていく。礼儀、礼節に代表される人間関係のケジメさえしっかりとつけていれば、どんな職場でも評価される人になるだろう。平凡で、ごく当たり前のことであるが、周囲は必ずそれを見ている。人間関係も、普通であることを心がけたい。力まずに、格好つけずに、多少の紆余曲折があっても、それを楽しみ、自然にとらえていけばよい。
Dec 7, 2007
仕事が本当に好きになれば、それは仕事という名の趣味になる。楽しくてたまらなくなる。仕事に夢中になれないのは、仕事が本当に好きなところまで至らないからだ。寝食を忘れて取り組んでこそ、大きな成果を手に入れることができる。また、そこまで至らないから、楽しい趣味と退屈な仕事という、子供っぽい二分法をしてしまうのである。事を成功させようと思えば、いろいろな情報や知識が必要になってくる。好きであれば、情報や知識は、自然と集まってくるものだ。傍からも提供してくれるようになる。しかし好きでなかったら、目の前に落ちている幸運でさえ、それを拾おうとしない。仕事が好きになるように努めていきたい。「好きこそものの上手なれ」ということわざは哲理である。仕事というのは、好きになってやれば、必ず成果が出てくる。好きになると関心も深まり、それに取り組む時間も多くなり、おのずと技量も高まる。そして世の中は不思議なもので、そのような人を放っておかない。「きみにこの仕事を頼みたい」といった引きが来る。引きが来たときには、驚くほど、自分の好きなことがやりやすくなる。いまの自分の仕事に面白みを見いだすことこそ、やりたいことに近づく近道である。仕事に対して十分熱意があるとしても、一定の成果をあげるのは容易ではない。それまでには苦労も多く、時間もかかる。だから、いきいきと仕事に取り組む原動力を、しっかりと持ち続けなければならない。それは特別のことではない。仕事を楽しみ、味わいつつ進めることだ。仕事の楽しさと遊びの楽しさはまったく違う。そのことをしっかりと心に銘記しておきたい。楽しく仕事をするのはいいことだが、楽しさの意味が違う。遊びのなかにある「責任のない楽しさ」は、仕事から生まれる「責任のある楽しさ」とはまったく別のものだ。遊びの楽しさを仕事に求めてはならない。働くことは、自分のためであるとともに、世の中の発展に貢献することでもある。一方、遊びや趣味は、あくまで自分の楽しみである。遊んで楽しむことも必要であるが、それ以上に働くことの意義や大切さを知らなければいけない。そのうえで遊びも大事だというのならいいが、考え方の順番を間違えてはならない。
Dec 6, 2007
仕事は惚れこんでこそ、その人のものになる。そして、仕事への情熱と充実感が生まれる。仕事に惚れこまななければ、仕事は苦行になってしまう。苦行になったら、なんとか楽をしようとして手を抜くことを覚える。歳を取るにつれて要領ばかりがよくなり、仕事への情熱はだんだん色褪せていく。いつも問題意識を持って仕事に取り組んでいれば、「あ、そうだ」「そうだったんだ」と気づくことができる。「これをうまく処理したい」「なんとかその手立てを見つけたい」と工夫していれば、道は必ず見つかる。仕事は100点でなければならない。それだけに、真剣に情熱を持って取り組まなければならない。偏差値教育のなかで育ってきた人は、平均点として高い点をあげればいいと考えがちである。受験のテクニックとしてはそのとおりだろう。しかし、仕事はまったく異なる。機械を組み立てるとき、たとえネジ一本でも不良品があれば、それによって事故が起こる。100点満点でなければ仕事ではないのだ。それだけに、真剣に情熱を持って取り組まなければならない。仕事は全部リンクされていて、単独で終わるのはむしろ例外といえる。だからある仕事で「まあ、これぐらいでいい」と満足してしまうと、最後にとんでもないことになる。すべての不祥事も同じである。小さなところで駄目押しをしておかないと、大きな不幸をもたらす。仕事というのは全部、100点、100点、100点と取っていかなければならないのである。そのことを肝に銘じておきたい。仕事を手際よく進めるには、順番、時間、充実の三つの要素が不可欠である。まず仕事に優先順位をつける。次に、それぞれの仕事にどれだけの時間をかけるかを決める。そして、いかに充実した仕事に仕上げるかである。充実した仕事に仕上げてこそ、仕事に確かさが出てくる。さらには主体性が生まれ、「与えられた仕事」から「自分が主人公」になっていく。たとえ仕事がいかに高度で複雑になっても、正しい順番と有効な時間と充実した仕事、この三つの要素の応用問題であることに変わりはない。仕事を効率よく進めるには、とにかく仕事の順番をつけることだ。そして重要度のランク付けを行う。ただし、最重要の仕事が常に有効とは限らない。あまり重要ではないが、それだけに短時間で処理できる仕事もある。そういう仕事を最初に持ってくることも考えながら作業を進めていけばよい。仕事をするキーポイントはまず熱意である。いくら知識や才能があっても、熱意がなければ仕事は進まない。熱意は他人の知恵や才能まで引き寄せる。次に判断力である。正しい物差しを持っているかどうか。そして行動力である。テキパキした行動が確かな信頼を得る。仕事をあとから追いかけていくと、振り回される。常に自分が仕事を追いかけるようにならなければならない。テキパキと片付け、素早く処理しなければ、仕事が滞ってしまう。スピード化したいまの仕事に対応できない。そのためにも、仕事は先手を取らなければならない。仕事より先に歩く先手必勝の心構えで取り組めば、仕事は極めて従順な下僕になる。後手の仕事は、ストレスのたまる要因となる。ストレスの多い人ほど仕事が遅いようだ。あれやこれやと考えている前にさっさと素早く行動に移したい。自分自身をストレスから守るためにも、より早い行動を心がけよう。仕事は先手必勝、後手に回っていては勝ち目はない。追い回されてはいけない。常に自分が仕事を追いかけるようにならなければ、これからの時代のビジネスにはついていけなくなる。仕事は後手に回ると、ストレスがたまる。成果をあげる人ほど、ストレスが少ない。いったん後手に回ってしまうと、果てしなく仕事に追われることになる。遅れている仕事を片付けたと思ったら、もう次の仕事が目の前にたまっている。その仕事に取り掛かった時点ですでに遅れているから、期日に間に合わない。それでストレスがたまり、いっそう仕事もスムーズに進まない。進まないからまたストレスがたまる。まるで「ストレス・スパイラル」のような状態に陥ってしまう。確かに仕事にはストレスがつきものだ。まったくストレスのない仕事はありえない。そういうことを前提に職場を見回してみると、自主的に仕事をこなし、良い成果をあげている社員ほどストレスが少ないように見える。
Dec 5, 2007
シンクや洗面台の排水パイプが曲がっている理由を・・・万有引力の法則により、重力のあるものはみな、上から下へ落ちてゆく。当然だが、水も水道の蛇口をひねれば下へ落ちる。そして排水は流し台の排水口を通って流れ去る・・・。その水は、パイプを通って地下の下水道へ行くのだが、なぜかそれ以前、シンク下のパイプは、途中がまるでuとnを組み合わせたような形に曲がっている。水がスムーズに流れるためには、まっすぐな方が絶対に良いはず。だいいち、勢いよくたくさんの水を流せば下水まで届くが、最後に水道を止めればパイプの上部に残った排水は逆流してu字の底の部分にたまってしまう。 しかし、それはモノのウラ事情を知らない人の考え、実は、そのたまる水が必要なため、わざわざ曲げた構造になっているのだ。曲がった部分はパイプのトラップと呼ばれ、ワナの意味だ。 下水道はネズミやゴキブリをはじめとする害虫のすみかになりやすいが、まっすぐなパイプだとちょうど良い通り道となって這い上がってくるかもしれない。 ところが屈曲部分に水がたまっていると、上がってこられない。無理をすれば溺れるからワナというわけである。 もう一つ、防臭効果もこのトラップにはある。汚水をためた下水の臭いが上がってこようとしても、トラップにたまった水が栓をした形になるため、室内へ逆戻りすることがないのだ。
Dec 4, 2007
料理番組で、作りかけた料理はその後どうなる?民放ではお昼から夕方にかけて、NHK教育テレビでは夜のゴールデンタイムで、根強い人気をもっているのが料理番組だ。放送がはじまったころには、ちょっと目新しい料理やおもてなし料理が主だったが、いまでは内容も色々、ダシのとり方など基本中の基本から、一人暮らし向き、はじめて包丁をもつ男性向き、カンタンで栄養のある朝ご飯など、視聴者のニーズに合わせてバラエティ豊かな内容となっている。そんな料理番組でよくあるのが、「このまま弱火で30分煮込みます。煮込んだものがこちらです」といって、サッと鍋を入れ替えるワザ。 限られた時間内で手順を示そうとおもったら、どうしてもこうしないわけにはいかないのだが、煮込む前の鍋はいったいどうなってしまうのだろうか?あのまま捨てられてしまうのだろうか?気になって聞いてみたところ、あとでちゃんと最後まで料理して、スタッフで食べるそうだ。一回の収録で、リハーサルでつくる分と本番でつくる分、それにあらかじめ下味をつけておいたり、煮込んでおく分など、多めに材料を用意しておかなくてはならない。その量は、できあがりの分量の二倍から、ときには四から五倍にもなる。 収録時にできあがった料理はもちろん、切りかけの野菜やつくりかけの料理も、収録後に全部完成させて、スタッフにふるまわれる。 一週間分をまとめて収録してしまう番組などでは、50人分もの料理ができてしまうこともあるが、そういうときは、局内のヒマなスタッフを集めてきて食べる。なかには、このときを楽しみにしている人もいるとか。 試食後のスタッフの感想も、番組制作者にとっては貴重な意見となるので、「おいしい!」と言われると、やはりホッとするそうだ。
Dec 3, 2007
星野ジャパンやった~~~\(~o~)/ 死闘激闘を制した 4対3の熱戦 成瀬が先発川上がつなぎ岩瀬も踏ん張り 最後は守護神上原 手に汗握る試合やった 今日は絶対に勝たないといけなかった 明日は台湾 明日も頑張って!!! ファイトーー!( ゚ロ゚)乂(゚ロ゚ )イッパーーツ!!
Dec 2, 2007
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