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一昨日の何故「古事記」と「日本書紀」があるのか?(その14)古事記の序?によって、いわゆる通説の古事記の序が実は古事記の序ではなく、日本紀講筵(にほんぎこうえん)の場において、太安万侶の子孫の多人長が、日本書紀の漢文の中の古代の語の読み方や発音の説明に、古事記を使うに際して、古事記の由来を説明するのに、自身の家に伝わる元明天皇への上奏文を見せて説明したことを、生徒が「序」として古事記と共に記録したものを、後世の歴史家が誤って読んでしまったのが、全ての誤解の始まりだと書いた。そしてそれが本当ならば、世の人達が言う古事記本文は古いが序は新しく、古事記は偽書ではないか?と言うのは、古事記が悪いのではなく、ちゃんと読まなかった後世の歴史家が悪いのだと分かると書いた。そもそも偽書の疑いが有るような物を、日本紀講筵のような太政大臣以下の公卿や官人が出席し熱心な講義・意見交換が行われる場で、当時の日本の最高峰と思われる先生が使うはずはなく、いやしくも太政大臣以下の公卿や官人達ならば、そのことは知っているはずなので、偽物ならば気がつくだろうと思うので、まずここで使われた古事記は元明天皇に奏上されたものと同じだろうと思う。では、古事記とは何か?僕は日本紀講筵の記録である弘仁私記を読んでいるうちにふと気がついた。「日本書紀講筵」ではなく「日本紀講筵」なのではないか?そう、日本書紀と日本紀の2つの呼び方があるのである。それも当初から。通説では日本書紀は日本書紀と呼ばれたり、日本紀と呼ばれたと学者先生は言っている。まず肝心の日本紀講筵であるが、弘仁私記の原文を見ると「日本書紀」と書かれている。<原文>夫日本書紀者、日本國、自大唐東去万餘里、日出東方、昇於扶桑、故云日本。古者謂之倭國<訓読>夫れ日本書紀は、日本國、大唐より東に万餘里去り、日の出る東方、扶桑(ふそう)の昇る、故に日本と云うつまり、明らかに日本書紀だと分かる。じゃぁ、日本紀じゃないの?実はこの日本紀講筵の時代に既に、日本書紀と日本紀が2つ有ったのか、あるいは日本書紀を日本書紀と言ったり日本紀と言ったりしたのかと言う混乱が見られる。この事については後世の学者の間でも色々と議論が有り、解決していない。でも僕はこれは古事記が日本書紀完成後に世の中から消えたのに関係が有ると思う。日本紀講筵の場で日本書紀を習うのに参考書として使われたのにである。もしかして古事記こそ「日本紀」になれなかった日本紀候補なのでは?候補であって日本紀になれなかったので世の中に日本紀が残っていないのでは?それを調べるには良い本が有る。万葉集である。万葉集は8世紀末に大伴家持により完成したと言うのが通説になっている。橘諸兄と言う説も有るが、万葉集は実は一気に作られたのではない。巻1はどうも(内容や書きぶりから)持統天皇や柿本人麻呂の時代に作られたらしい。巻3から巻15は元正天皇や大伴家持の時代にできたらしい。巻20までの完成品が上に書いた8世紀末の大伴家持の時代である。ただ、その当時大伴家持は事情により犯罪者扱いだったので世の中に出たのは9世紀初め。で、その万葉集の中に「日本書紀」と「日本紀」両方が出てくる。幸讃岐國安益郡之時、軍王見山作謌 集歌5の左注右、檢日本書紀 無幸於讃岐國。亦軍王未詳也。「日本書紀」である。額田王下近江國時謌、井戸王即和謌 集歌17の左注右二首謌、山上憶良大夫類聚歌林曰、遷都近江國時、御覧三輪山御謌焉。日本書紀曰、六年丙寅春三月辛酉朔己卯、遷都于近江。これも「日本書紀」である。ところが、麻續王聞之感傷和謌 集歌24の左注右、案日本紀曰、天皇四年乙亥夏四月戊戌朔乙卯、三位麻續王有罪、流于因幡えぇー!「日本紀」じゃん。幸于紀伊國時川嶋皇子御作謌 或云、山上臣憶良作 集歌34の左注日本紀曰、朱鳥四年庚寅秋九月、天皇幸紀伊國也これも「日本紀」。幸干吉野宮之時、柿本朝臣人麿作歌 集歌38の左注右、日本紀曰、三年己丑正月、天皇幸吉野宮これも「日本紀」。石上大臣従駕作謌 集歌44の左注右、日本紀曰、朱鳥六年壬辰春三月丙寅朔戊辰、浄肆廣瀬王等為留守官これも「日本紀」。藤原宮之役民作謌 集歌50の左注右、日本紀曰、朱鳥七年癸巳秋八月、幸藤原宮地これも「日本紀」。皇子尊宮舎人等慟傷作謌廿三首 集歌171の左注右日本紀曰、三年己丑夏四月癸未朔乙未薨これも「日本紀」。柿本朝臣人麿獻泊瀬部皇女忍坂部皇子歌一首并短歌 集歌194の左注右或本曰、葬河嶋皇子越智野之時、献泊瀬部皇女歌也日本紀曰、朱鳥五年辛卯秋九月己巳朔丁丑、浄大参皇子河嶋薨これも「日本紀」。或書反歌一首 集歌202の左注右一首類聚歌林曰、檜隅女王、怨泣澤神社之歌也案日本紀曰、十年丙申秋七月辛丑朔庚戌、後尊薨これも「日本紀」。うーん時系列じゃないな。でも使い分けている。何で?左注なので、既に日本紀講筵等が終わっている時代である。と言うことは「日本書紀」≠「日本紀」と言うことでは?じゃぁ日本紀とは何だろう?そこで思いつくのが、古事記=日本紀候補と言うことである。但し、古事記=日本紀ではない。多人長も古事記を日本紀とは言っていないし、古事記真福寺本でも分かるように、日本紀ではなく「古事記」と書かれている。じゃぁ僕が何で古事記=日本紀候補と思うのか?万葉集の編纂者が大伴氏であり、彼が死後なのに犯罪者扱いだった理由である。万葉集は延暦2年(783年)ごろに大伴家持の手により完成したとされているが、延暦4年(785年)、家持の死後すぐに大伴継人らによる藤原種継暗殺事件があり、家持も連座したために、万葉集という歌集の編纂事業は平城天皇即位後の恩赦により家持の罪が許された延暦25年(806年・大同元年)以降にようやく完成したとされている。暗殺事件は延暦4年(785年)9月23日夜なんだけれども、大伴家持はその直前の8月28日に死んでいる。しかし首謀者だったとされて、官位をはく奪されたのだ。この事件そのものは皇族(早良親王)によるものなので、直接の関係は無いのだが、裏には藤原氏による他氏排斥があったんではないかと思っている。つまり大伴家持は藤原氏が嫌いだったんだと思う。そして「日本書紀」は正史で藤原氏に都合よく書かれており、「日本紀」は藤原氏以外の他氏族の重要な歴史が書かれていたのではないかと思う。それは大伴氏を始めとした藤原氏以外の他の氏族の拠りどころだったのでは?つまり古事記は「日本紀候補」だったのだけれども、藤原氏により葬り去られたのでは?よく日本書紀と古事記の大きな違いとして出雲に関する記述が少ないことが指摘されるが、これは出雲の時代から続く他氏の拠りどころを消し去る意図が有ったのではないだろうか?日本書紀を作る意味は国家の正史を作ることに有ったのだと思うけれども、それにかこつけて、藤原氏は他の氏族の歴史を消し去ろうとしていたのではないだろうか?その事には梅原猛先生の「古事記」を読んでいて気がついた。先生の本を引用させていただく。え?古事記は推古天皇まで書かれているのではないの?実はちゃんと事績が書かれているのは継体天皇まで。その後は系図のように親子関係が書かれて、あとはお墓の位置が書かれているだけである。いや梅原猛先生が省略したのでは?そんなことはなく、確かに先生は無駄な部分と考えた系図のように親子関係やお墓の位置は省略しているが、原典にも事績は書かれていない。参考までに武田祐吉先生の古事記から、推古天皇紀部分だけ抜粋するとこんな感じ。<訓読と言うか読下し文>〔推古天皇〕妹(いも)豐御食炊屋比賣の命、小治田の宮にましまして、三十七歳天の下治らしめしき。(戊子の年三月十五日癸丑の日崩りたまひき。)御陵は大野の岡の上にありしを、後に科長(しなが)の大陵に遷しまつりき。えー!中身が何もない。だから古事記が叙述性があることを重視した梅原猛先生にとっては、系図的な説明などどうでも良いことなので、簡潔に省略したのか。よく「欠史八代」と呼ぶ第2代綏靖天皇 - 第9代開化天皇までの8代の天皇と同様に、事績が書かれておらず、系図的な親子関係やお墓の位置だけ。欠史八代の天皇はそのせいで実在性を疑われているが、安閑天皇から推古天皇も実在しなかった?いやそんなことはない。この時代は重要な時代で、書くべきことは山ほどあったはず。例えば推古天皇の時代だけを考えても「聖徳太子」がいない。つまり冠位12階や17条憲法が無い。遣隋使や新羅征伐が無い。太安万侶の時代には既に詳細な記録が有ったはずである。では何故書かれていないのか?恐らくは太安万侶の位が低かったのが原因だと思う。継体天皇までの記載は「帝紀」と「旧辞」によったので無事だったのだろう。でもそれ以降は恐らく書こうと思ったことが書けなかったのだ。つまりつまり冠位12階や17条憲法や遣隋使や新羅征伐が無いのは、それを行った人が違うか、内容が違うのだろう。邪魔をする人達(藤原氏?)がいて書けなかったのだ。そのせいで古事記はなかなか完成できず、元明天皇の時代についに催促された。太安万侶はあきらめて、その部分はやっつけ作業を行ったので、古事記には安閑天皇から推古天皇までがちゃんと書かれていいないのだ。その結果、怒り狂った元明天皇が突っ返した?(多分元明天皇は太安万侶に藤原氏に都合の良い古事記を作らせたかったのだろう。 でも他氏族の抵抗が激しくて太安万侶では書けなかったのだ。)そのせいで古事記は日の目を見なかったのだろう。元明天皇は仕方ないので舎人親王以下に再度日本書紀の編纂を命じたのだろう。(日本書紀編纂メンバーが舎人親王以下そうそうたるメンバーなのは、 藤原不比等と持統天皇の思惑で、他氏族を黙らせると言うのが一番の目的だったのだ)実は古事記は天武天皇から命じられたスタートから元明天皇への奏上までの時期が分かっており、日本書紀は完成の時期(720年)だけしか分かっていない。日本書紀のスタートは後世の人が推測しただけなのである。よく日本書紀は天武天皇が命じて作られたと言うが、天武天皇が崩御された686年に舎人親王は10歳である。天武天皇が10歳の舎人親王に日本書紀の編纂を命じたと考えられるか?無理だと思う。他の人物に命じるだろう。多分それは太安万侶だったのだ。つまり古事記の編纂を命じたのは元明天皇で、そのせいで4か月でできたと言うことになっているが、元明天皇は「命じた」のではなく「催促した」のだろうと思う。他の事は詳しく書いているのに、続日本紀にも日本書紀にも編纂の経緯が書かれていないのは何故?(太安万侶が元明天皇に✖をくらったせいだろう。)だから僕は天武天皇に命じられてスタートしたのは日本紀つまり失敗したけれども古事記で、それがダメだったので新たにスタートして完成したのが日本書紀なんだと思う。元明天皇が命じた時には、古事記を編纂する為に資料はほぼ集まっており、太安万侶が地位が低くて書けなかっただけで、藤原不比等が交通整理をして、都合の悪いことを手直ししたら、あとは中国人の先生と日本の学者達が書けば良いので、なんとか作業は進み、藤原不比等が亡くなる直前の720年に完成し、舎人親王が提出したのだと思う。続日本紀にはほんの数行、ただ舎人親王ができた物を提出したとしか書かれていない。あれだけの大事業が完成したことを書くのだから、経緯や概要くらい書かれていてもよさそうなのに、何も書かれていないのは、実は古事記と日本書紀の成立の裏には藤原氏と他の氏族の暗闘が有ったせいじゃないかと思う。誰か偉い先生がこの部分を解決してくれないかな?古事記と日本書紀の違いを書いた本や学説はたくさんあるのだけれども、両方がほぼ同じ時期に作られた理由と経緯を書いた本が無いから。僕の推理が正しいのではないだろうか?
February 20, 2025
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今日、ふとした偶然からかねてからの疑問が一つ解決した。古事記はかって偽書ではないかと言われた時期が有った。それは学者先生が古事記(真福寺本)を研究している際に、その出だしに「序を併せたり」と書かれているのを見て、本文の前に付けられた古事記の由来に関する記述を「古事記の序」と呼んでしまったからである。そして、本文は十分に古く古代の書式なのに序?の部分は新しく、序?の部分を読む限り古事記(真福寺本)は天武天皇や元明天皇の時代の物とは思えないし、この序?の部分は序ではなく天皇への上奏文の形をしているので、後世に書かれた偽書ではないか?と疑っていたのである。僕も初めて古事記(真福寺本)を読んだ時に確かにそうだなと思った。じゃぁ古事記は偽書なのか?それが今日別な本を読んでいて、現実的な証拠が見つかり、それは古事記が悪いのではなく、学者先生の読み方が間違っているのだと分かった。まず古事記(真福寺本)の該当部分を見てみよう。確かに「古事記上巻」の下に「序を併せたり」と書かれている。でも待てよ。「古事記の序を併せたり」とは書いていないぞ。本当に古事記の序なのか?そこで今日見つけた、現実的な証拠である。日本紀講の私記である。日本書紀は完成後、世の中に広める為に何回か日本書紀を読む講義が開かれている。日本紀講筵(にほんぎこうえん)である。初回は養老5年(721年)に開かれており、日本書紀完成つまり養老4年(720年)の翌年である。この回はどちらかと言うと、できたばかりなので「お祝い」的な要素が多く、その後、弘仁3年(812年)、承和10年(843年)、元慶2年(878年)、延喜4年(904年)、承平6年(936年)、康保2年(965年)の計7回が行われたものと、史料などから考えられている。講師には紀伝道などの歴史に通じた学者が博士・都講・尚復などに任命されて、数年かけて全30巻の講義を行った。長期にわたる大規模な行事であったために、ほぼ30年おきに1回開催され、尚復を務めた者が次回の博士・都講を務めるのが慣例であった。また出席者も太政大臣以下の公卿や官人が出席し熱心な講義・意見交換が行われている。私記はそのメモである。日本紀講筵の初回の講師(博士)はなんと古事記の編者で有名な太安万侶の子孫の多人長である。そして、この日本紀講筵では、漢文で書かれた日本書紀に出てくる古い言葉の発音の理解の為に、なんと古事記が使われている。(私記にその経過の記録が残っている。)Wiki(古事記)の受容・研究史欄を見ると次のように書かれている。古事記の名が初めて他の文献に現れたのは、『弘仁私記』の序とされる。『日本後紀』の記述によれば、太安万侶の一族の末裔とみられる多人長(おおの ひとなが)が弘仁の日本紀講筵で執講を務めているため、多人長が『弘仁私記』を書き、日本紀講筵で古事記についても触れたと考えられている。但し、ここで用いられた古事記が太安万侶の編纂した古事記そのものかどうかは分からないと断り書きがあるが、多人長が太安万侶の子孫であったならば、同じ物だろう。で、その弘仁私記が僕の言う「現実的な証拠」なのである。こんな感じ。ここにも「序を併せたり」と書いてあるじゃないか!古事記(真福寺本)は日本紀講筵の場で生徒が写したメモ(私記)なんじゃないだろうか?もしそうならば、「古事記の序?」と称する部分は「古事記の序」ではなく、「日本紀講筵」の序(多人長の講義の序)なのではないだろうか?上の弘仁私記の「序」と同じなんではないだろうか?上の序を日本書紀の序と考える人はまずいないと思う。弘仁私記自体は日本書紀の講義のメモなので、そもそもメモの序ってなに?と思う。恐らくは先生(多人長)が講義の前に話した前段の説明だろう。つまり日本書紀が作られた経緯などを本文の説明の前に話した記録だろう。古事記の序?も同じなのではないだろうか?本来は日本書紀の講義の場なのに、何故古事記を使うのかを説明するのに、多人長は漢文では古代の発音や言葉の意味が分からないから、古事記を使って説明するけれども、この古事記は怪しい本ではないのですよと言うことを説明する為に、太安万侶が元明天皇に奏上した経緯を上奏文を使って説明(証明)したのを、書写した生徒が「日本紀講筵の序」として書いたもので、上の弘仁私記の序(日本書紀の事前説明)と同じなんではないだろうか?そのせいで、序?と後世の学者先生が勘違いした部分は古事記の書かれた年代とは合わず、書式も元明天皇への上奏文の形になっているのだろう。そう考えると元々古事記の序ではないのだから、古事記本文と古事記の序?の年代が違うのは当たり前だと思うし、古事記本文はちゃんと「古事記」なんだと分かるのである。そもそも古事記が成立した和銅5年(712年)から9年しかたっていない721年に開かれた日本紀講筵の場で使われた古事記が偽書のはずは無いと思う。たった9年なんだから、出席した生徒の身分やレベルを考えると、まだ元明天皇に奏上された古事記を見たことのある人はいるだろうし、変な本だと多人長は大変なことになると思う。これが古事記偽書説が誤りである根拠になると思う。古事記が悪いのではなく、勝手に古事記の序?だと思い込んでしまった学者先生が悪く、その誤った解釈を世の中に広めてしまった他の学者先生も悪いのだと思う。簡単に分かることなのに。
February 17, 2025
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2バンドFMラジオキット [K-FM3TR-HLD]はトランジスター3石の超再生検波方式のラジオ。前から超再生検波方式のラジオの実験をして見たかったので作ってみた。超再生検波方式ではAM波とFM波の両方を復調できる。この方式は、発振寸前までゲインを上げた増幅回路ではQが非常に大きくなり、同調回路の選択度が高くなることから、信号の振幅利得が周波数によって直線的に変化するいわゆるスロープ特性によって、周波数の変化が振幅の変化(=AM波)に変換され、トランジスタのベース-エミッタ間でAM検波されるのを利用した方式で、ちょっと不思議な感じだけれどもFM放送も復調される。でも、結局はAM検波なので音質は悪くノイズは防げない。また、通常FMでは振幅の変化はカットされるのだが、この方式ではカットされないので、入力信号の電界強度によって復調音量が変化する。つまりFM放送のメリットである高音質が活かされない。ダメじゃん。でも回路部品は少なくても良いし、簡易な受信回路には最適な方式である。なのでおもちゃのトランシーバーにはよく使われる。さっそく作ってみた。でも「火を入れて鳴ると思うなアマラジオ」の原則通り、最初は鳴らなかった。と言うか、実は鳴っていたんだけれども、耳の悪い僕には聞こえなかっただけ。最初に聞いた時にかすかに蚊の鳴くような音が「聞こえたような気がした。」なので、奥さんに聞いてもらった。彼女はものすごく耳が良い。「ガンガン鳴っているよ!」えぇー!鳴ってるの?そう、低レベルアマチュアのラジオは完成していないのではなく、完成しているのに気がつかない場合がけっこうある。例えば6石ラジオなんかは、トラッキング調整する前は聞こえない(聞こえてない)場合があり、調整して行くとみるみる音が大きくなる場合が有る。逆に小さいながらも聞こえていたのが聞こえなくなる場合も有るけれど。少し自信を取り直して、原因を調べてみることにした。愛天堂のホームページから基板図と回路図を借用する。図の中のトランジスターの足の配置は回路図に載っていたのを転載したのだけれども、S9011がおかしい。もし回路図の足の配置が正しいのならば、S9011のC(コレクター)に高周波部分からの信号が入力されている。えー?しかもB(ベース)からの出力がS9012のB(ベース)に入力されている。えー?回路図と違うじゃん。これってベースとコレクターが入れ替わってない?さっそく半田付けを外してみた。そしてテスターで調べてみる。えー!このS9011は回路図に書かれた、E-C-BタイプじゃなくE-B-Cタイプじゃん。そう、回路図に書かれた足の配置は間違っているが、回路そのものは正しい。どうもS9011には2種類あって、恐らく(想像だが)中国国内向け(E-B-C)と日本や欧米向け(E-C-B)が有るみたいである。調べてみた。おぉー!本当に同じS9011なのに2種類あるじゃん!なので、回路自体は間違っておらず、奥さんには聞こえて僕には聞こえないのは、単純に出力が小さいからみたい。ではどうするか?正確には回路の一部を切ってもう一段トランジスターを追加するのが正解である。パッと回路図を見て思いつくのはR3(10MΩ)を減らして出力電流を増やすことなんだけれども、出力電流は増えても交流成分は変わらないので、意味が無い。うーん。ふと思いついた一番簡単な解決方法は「Hfeの大きいトランジスターに交換する」方法。手元に有るNPNタイプの2SC1815は確かHFE(Hfeじゃないけど考えは同じ)が大きいはず。さっそくテスターで調べてみた。おぉー!S9011の3倍じゃん。さっそく交換して半田付けした。すると僕でも音が聞こえる!満足できる音量ではないけれど、聞こえるのは聞こえる。この状態で調整してみた。まずは自作のFM発振器で調整したんだけれども、鳴る時と鳴らない時が有る。どうも上手く復調できない場合が有って、その時は「ポコッ」となっているみたいだけれども、「ポコッ」では調整が難しい。仕方ないので、面倒だけれどもディップメーターを出して来た。このトリオのディップメーターは180MHzまで使えて、AM変調付き。上のコイルの状態で70~100MHzが受信できている。何故これを書いたかと言うと、できているか不安な時はコイルをメチャメチャにいじくりやすいから参考にと思ったから。結構大きな音で鳴るので注意。<後日追記>上の写真なんだけど、今日気がついて改造した。愛天堂のホームページに「FMは外部アンテナが無くても聞こえる」と書いてあるし、うちの奥さんには大きな音で聞こえるので、僕の耳が悪いせいだと思っていたのだけれども、もしやと思って外部アンテナを付けてみた。アンテナにタップを出してそこに半田付けをする。全然違う。音が2倍くらい大きくなって、たくさん放送局が入るようになる。今は(電波が弱くて音が小さかったので)93.0MHzつまりニッポン放送に合わせていたが、付近の放送局例えば文化放送なんかも大きく聞こえるようになったので、90.0MHzくらいまで中心周波数(よく聞こえるバリコン位置)をずらすと、FM横浜(84.7MHz)まで聞こえるようになった。なので、外部アンテナは付けた方が良いです。なお、写真右上はこの記事とは関係なく、実験中の金属探知機なのであしからず。後日追記終わり。で、超再生式検波なんだけれども、受信調整が難しい。上のディップメーターで受信時は実は93MHz付近で調整している。なので、ニッポン放送や文化放送が聞こえるが、同じ半固定抵抗位置では、低い周波数の方では発振して使えない。低い周波数部分で調整するとニッポン放送付近は聞こえなくなる。もうイヤになる位、半固定抵抗をいじくらなけらばいけない。なので、諦めてニッポン放送付近で最高感度になるようにした。NHKさんごめんなさい。その時の高周波部分なんだけれども、理論通りクエンチング発振しており、この時に放送は受信できる。具体的に言うと、半固定抵抗を左側にいっぱいに回すと無音で受信できない。その時の半固定抵抗部分の波形。それが半固定抵抗を上手く調整できると「シャー」と言う音になって放送受信可能になる。その時の波形。上の写真は波形を分かりやすくするために時間軸を伸ばしているが、この波形が一定間隔で時間軸上に並ぶ。クエンチング発振である。この時にさらに半固定抵抗を右に回していくと、「ポツッ、ポツッ」と音がするようになる。こうなると放送は受信できない。その時の波形。上の波形が出現したり、消えたりを繰り返す。それで「ポッ、ポッ」と音がするみたい。なんかわかったようで分からないけれども、愛天堂の2バンドFMラジオキット [K-FM3TR-HLD]は完成して、超再生検波方式ラジオとはどんなものなのかが分かった。
February 6, 2025
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AMAZONのFMラジオキットHU-017Aを作ってみました。受信性能的にはまぁ十分なのですが、みんなが評価欄に書いているように電池が持たない。なので、色々と調べてみました。現物は下の写真の通りですが、とにかく安いのが良いです。色々と不満は有りますが、値段から言うと文句を言えない値段です。多分、文句を言うと「だったら値段相応な高価なものを買えよ!」と言われそうです。送料が無料なので、送料が1000円位と考えると670円。税込みです。だからヤマダ電機の980円のラジオよりも安い。文句は言えません。一日遊べるから。みんなが文句を言っている電池の持ちですが、確かに1日持たない。人によっては3時間しか持たなかったと言っています。確かめてみました。新品ではないけれども他のラジオでは十分に使える電池を入れてみました。まずは電源OFFの状態。新品ではないので3Vありませんが、まぁ2.88Vなら普通のラジオは使えます。ところが電源ONにした瞬間。0.46Vも電圧が下がり、LEDは点灯せずラジオは聞こえません。えー!0.46Vも下がるの?電池に負荷をつないで電圧が下がるのは、電池の内部抵抗のせいです。電池は電流が流れると、内部の電解物質の化学変化に際して抵抗が発生します。なので古くなると電極周りの老廃物質が悪影響を発生して内部抵抗が高くなるのです。どうしよう。この時にすぐに思いつくのは、電圧が足らないのなら、電池を増やせばいいじゃん!さっそく実行したら、一応動きました。それも古い電池3本で。(ラジオICのRDA5807の電源は2.7~3.3Vなので、 単三電池3本の出力は三端子レギュレーターの1次側に接続しています。 元々の単三電池2本時の入力部分ではありません。)電池を長持ちさせる実験なので、あえて古い電池を選んでます。電源をONしてみます。おぉー!LEDが点灯している!でも喜んだのは一瞬でした。この後、すぐにLEDは消えてしまいます。でもなんとLEDは消えてもラジオは聞こえています。ラジオICは結構電圧が低くても動作するのです。でも制御しているマイクロコントローラー(簡単に言えばマイコン)が動いていない。なので、LEDが消える前の状態を維持してマイコンは停止し、ラジオICだけが動いているのです。この時の電流値は93mAでした。と言うことは単三電池2本の時は120mAくらい流れている?通常のラジオの4~5倍じゃん!ちなみに単三電池でも比較的新しい物なら、3本の場合は結構長く使えるみたいです。電源OFFの状態はこんな感じ。1本あたりの電圧は1.5Vを超えています。でも電源を入れると、えー!0.21Vも下がっている。まぁ新品ではないけれど新しいので、古い電池の時の0.46Vほどは下がっていません。あ、あれは単三2本の時か。と言うことは1本あたりに換算すると1/3の低下率?でも、この比較的新しい電池でも10分もすると、電源ONにした瞬間から0.29V、電源OFFつまり無負荷状態から0.5Vも下がっている。これじゃぁ電池じゃこのラジオは使えないなぁ。多くのマイコン制御のDSPラジオが「オートパワーOFF機能」付きなのが理解できましたね。あれはカッコいいから付けた機能じゃないんだ。マイコンで消費する電力を減らして電池を持たせないと実用的じゃないからなんだ。色々と事情が判明。だったらこのラジオはどうするべきか?素直に諦めて、ACアダプターで動かすのが一番だと思います。幸いにしてACアダプターはスマホ充電用の5Vが使えるので、ダイソーなど百均の物ならば500円程度。電池を複数回買うよりも安いかも?でも電池で動かすのは携帯性が良く屋外でも使え、旅行なんかに持って行くから?その場合は幸いにして5Vなので、スマホ用のリチウムモバイルバッテリーが使えます。1000円はちょっと高いかな?でも、6000mAなら60時間は使えるぞ。まぁ短い旅行なら大丈夫か。
February 2, 2025
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