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狗奴国が熊本であることの確認旅行の最後は宇土(と言うか松橋)の向野田古墳。女王の墓である。日本ではと言うか世界でも「女王の墓」は珍しい。ツタンカーメンの墓の奥にネフェルティティの墓が有ると言う噂があるけれど、早く見たい。大事な古墳なんだけれども、九州の田舎の古墳なので扱いがひどい。出土品などは近くの宇土市立図書館の1Fに置かれている。お調子者の研究者だったら、女王の墓だから卑弥呼の墓かもしれないと言うお墓である。何の証拠もない「箸墓=卑弥呼の墓」よりも女性の骨が出土しただけでも信憑性が有る。ただ時代考証が行われて、卑弥呼の時代じゃないと既に分かっているのが残念なんだけれど。図書館に行って見学すると、まず最初は轟貝塚の展示がある。この辺に縄文時代から続く人達がいた証拠である。まぁ、これだけでも地方の図書館の展示としては頑張っていると思う。向野田古墳の展示は奥にあり、前には荷物が置かれていた。扱いがひどい。まぁ仕方ないと思いながら見る。古墳の形状や石棺の状況等は後の古墳そばの説明板の方が綺麗なので、ここでは省略し、出土品を見る。九州の古墳からはよく「ごほうら貝」など南海産(奄美大島以南)の貝を使った腕輪が出土する。貝なんてどこにでもいるじゃんと思うかもしれないが、「遠くから運んで来た」のが大事。世の中の価値は希少であることが重要で、現代でも国産の化粧品と比べて品質がたいして良くないフランス製の香水がもてはやされるのは、女性の価値観とはそう言うものである。出土品には鉄製の刀なども多かった。この出土品が出ている時点で卑弥呼の墓では無いと分かるのだが、女性の墓なのに武具が出土しているのが興味深い。ちなみに旦那さんが居たのかどうかは不明で、他に男性の骨は出土していない。そう言えば古事記や日本書紀を読むと、天照大御神は武装して素戔嗚尊を迎え撃っている。だから古代の女性は武装して戦っていたのかもしれない。神武東征の記述の中でも男の軍と女の軍が出て来るなぁ。船の線刻がある石もあった。展示は実はこの程度でしかない。田舎なので仕方ない。さっそく現地に向かう。現地まで約3.3kmなんだけれども、熊本の田舎なので足が無い。バスを探したけれど、日中はほとんど無い。(朝夕は少しは有る)仕方ないのでタクシーで行ったが、それが正解だった。自分で行っていたら多分分からなかったと思う。山の中の小径で、しかも登り口が複雑で、目印がこんなに小さい。こんなの地元の人しか分からないよ。ここから道なき道を登る。距離はたいしたことは無い。でも滑る。古墳は頂上にある。元、石棺の有った場所は掘り返されて、もう窪みでしかない。もっとやり方が有ったんじゃないだろうかと思うけれど、田舎だから仕方ない。説明板を見ると発見時の様子や、女王の骨の出土状況が分かる。おぉー確かに見事な前方後円墳だ。けっこう初期の頃の前方後円墳の形状だな。箸墓古墳なんかにも似ている。4世紀末の古墳なので卑弥呼の時代ではないけれど、2~3代くらい後の女王だと言われたら信じてしまう。(卑弥呼の亡くなった3世紀半ばに次世代の台与は13歳だった。 彼女が長生きしたのなら37歳の時に4世紀になる。 僕は台与は「豊の国」の元になった人だと思っているので、 さすがに台与本人ではなく、その後の世代だと思うから。)この頃に既に埴輪も有ったんだ。日本書紀によれば、古墳で殉葬(偉い人が死んだ時に一緒に従う人も生き埋めにした)を止めて代わりに埴輪を置くようになったのは垂仁天皇の時代。つまりちょうどこの頃なので、本当に卑弥呼の2~3代くらい後の女王かも?一通り古墳を調べた後、次の宇賀岳古墳へ向かう。宇賀岳古墳は近くの岡岳公園の中に有る。登るのが大変。僕は一般の道を登ったけれど、階段状になった「若者の道」もある。近道だけれどもきつい。若い人ならばチャレンジしても良いかも?古墳はこんな感じ。立派な円墳。近畿の古墳は平地に有るけれど、九州や横浜の古墳はだいたい山の上に在る。ここにも装飾が施されていたんだ。無紫外線自然色蛍光灯を埋め込んでいると言うことは、見学する機会が有ると言うこと。見たかったけれども、地元に住んでなければ無理だな。次は大塚古墳。大塚古墳は比較的松橋の市街地に近い。それでも70mも有るんだ。最後は塚原平古墳。松橋駅の近く。おぉーっと思ったのは、説明板に「この古墳には約20体もの人骨が治められていた」と書かれ、耳環、勾玉や管玉が出土していること。つまり20体は家族や子孫だった可能性が高いんだな。現代で言う「○○家の墓」的な感じだったんだ。古墳も当初は亡くなった主の権威や威厳が大事だったんだろうけれど、次第に現代のお墓と同様に、御先祖様を大事に祀る場所に変わって行ったんだなと思った。そんな感じで狗奴国が熊本であることの確認旅行は終わったのだけれども、熊本空港で飛行機を待っている間に、熊本空港を見学していたら色々と面白かった。空港屋上のデッキ。ちょうど飛行機が真ん中に!最近は外国の方や若い人が多いから、空港も気を使っているんだなぁ。そしてすごい展示が。高津明美さんは僕は知らないんだけれども、陶板の立派な絵。地元の人なのかなぁ。地元の人と言えば、マンガのワンピースの作者の尾田栄一郎は熊本出身で地元を大事にしている。熊本地震で大きなダメージを受けた地元を応援する為に全面的に協力している。熊本にお客さんを呼び込む為に、熊本のあちこちにワンピースの仲間の像を作っているらしい。聖地巡礼のファン達が各地を巡っているのかな?こうして狗奴国が熊本である確認旅行は終わったけれども、本当に間違いないと思う。その理由は、1.近畿の高松塚古墳の6世紀末頃の壁画に書かれた人達が使っている、 翳 (さしば)や蓋(きぬがさ)と言った道具が、ここでは5世紀には使われている。 つまり中国からの文化の伝来が近畿よりも100年近く早い。2.近畿や福岡等に比べて古墳の量と質が圧倒的に多くて高い。 確かに天皇陵が近畿には有るせいで、個々の古墳は近畿の古墳が大きいが、 それも空白の150年(魏志倭人伝後150年間日本の記録が無い)が熊本から近畿への移動期間 だと考えれば近畿の天皇陵に祀られた天皇達は熊本出身の人達の子孫かもしれず、 そう考えれば規模が大きいのは熊本と言う地方から全国区になったせいで、 当たり前の話かもしれない。3.上記の天皇家の祖先が熊本から近畿に行ったと言うのは、神功皇后と応神天皇の話だけれども 継体天皇陵や推古天皇の元陵の石棺に熊本の馬門石が使われているのを考えれば、 神話ではなく本当に有った話で、御先祖様が信じた神様への信仰を持って行っただけ なのかもしれない。そう考えると、熊本は卑弥呼を滅ぼした狗奴国のその後の姿なのかもしれないなと思うのである。さらなる研究を続けようと思った。
December 19, 2025
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熊本県立装飾古墳館はお勧めな所ではあるが、アクセスがものすごく悪い。これが便利な場所に有ったら、今の100倍はお客さんが居て、全国的にも有名になると思うんだけれども、まぁ逆に言えば、そんな場所だから現地の古墳なんかも保存されて来たんだと思うので仕方ない。そう、博物館ではあるんだけれども、同時に古墳群の中に立っているのである。入口と言うか正面玄関がどこなのか分かりにくい博物館である。バスなどの公共交通機関が不便なので、車の駐車場から入るのだけれども、そのせいで「裏口みたいな小さな開口?」から入ることになる。装飾古墳館のパンフレットから訪問される方の利便を考えてお借りして載せた。写真右手「駐車場からの入口」が「裏口みたいな小さな開口?」である。でも、設計者の名前を聞いて納得した。安藤忠雄である。「立派な建築の為ならば利用する人も我慢するべきだ」と堂々と言い切る人である。まぁ、元々は建築家ではなく「ボクサー」なんだから仕方ない。もっとも、元々バスなどの公共交通機関の利用は考えていないのかもしれない。僕も訪問するのには、ものすごく苦労した。当日は江田船山古墳→山鹿市立博物館→チブサン古墳(他)→県立装飾古墳館と回ったので、ここまではタクシーで来た。時間をかせぐにはある意味正解で、1泊追加するよりも安いから。1400円だった。もしバスを使うならば、玉名駅-山鹿バスセンター間のバスが2系統有り、そのうちの1系統が通るバス停があり、そのバス停の名前が「装飾古墳館前」。名前に偽りが有ると思う。「前」じゃないから。バス停からここまで20分かかる。道に迷いやすい方には絶対にお勧めしない。バスも1日に3本しかないし。まぁでも、それだけ苦労しても来て良かったと思った。「裏口みたいな小さな開口?」をくぐって、さぁ入館しようかなと思った時に、左手を見たら、いくつかの遺跡が見えた。そしてその向こうに、たくさんの古墳群が有るのが見えたから。そう、ここに装飾古墳館を造ったのは、ここに岩原古墳群が有るからなのである。もうこれは装飾古墳館よりもこっちが大事だと思って、さっそく見に行った。まずは装飾古墳館の中にも、古墳館を造る際に見つかった古墳の跡が有る。上の地図で言えば装飾古墳館の左の壁の付近で有る。装飾古墳館は少しよけて作ったらしい。元円墳だった遺構もある。そして「向こうの方にも古墳が」と言うのが、本命の「双子塚古墳」その他である。大きい。上の岩原古墳案内図を見て頂くと分かるが、装飾古墳館の2倍以上ある。まずは、一番近い神原古墳。この円墳だって普通の場所だとメインをはれそうな大きさで興味深い。ここは後から行く双子塚古墳と言う前方後円墳をはじめ、めぼしい物だけでも8つほどの円墳が有り、地元では「四十八塚」と呼ばれていたらしい。岩原古墳と言う名前は単独の古墳名ではなく、それら全体の古墳群の名前である。寒原古墳の左手に谷間を通ってバス停に向かう道が有り、ここに元は他の地区に有った古墳を、九州自動車道の建設によって破壊されるので、保存していたものを、装飾古墳館建設に合わせて24年ぶりに移設復元した古墳がある。横山古墳である。いや出土品や石室なんかも立派で、他の場所なら立派なメインの古墳として展示できると思う。そしてここは装飾古墳館にお願いすると、担当者が案内して説明してくれる。(中も入れる?)元の道に戻って塚原古墳。目立たない古墳だけれども、これだって30-40mは有る。頂上に祠が有る。そして岩原古墳群で一番大きい双子塚古墳。全長107m、後円部直径57m、高さ9mの前方後円墳である。国指定遺跡。上に登れる。カップルやお姉さん達がみんな登っている。前方部から登って、後円部を眺めてみた。後円部に登っているお姉さん?と比べると大きさが分かると思う。子供達の遠足にちょうどいいなぁ。僕は古墳に登るのが一番の楽しみなので、もう大満足だった。そしていよいよ装飾古墳館に入る。入ってすぐに目につくのが中央吹き抜けに飾られた装飾画と好太王碑文。装飾古墳は意外にたくさんある。でも半分以上が九州で、その九州の半分は熊本。この辺(菊池川流域)だけで131もある。上の装飾画を見ると分かるのだけれども、何らかの実際の人間や景色等を描いたものと、抽象的な幾何学模様の物が有る。また装飾を施した場所も石棺や石室の壁など様々である。この説明文はちょっとわかりづらい場所に有って、もっと中心的な場所に置けばと思った。装飾画の持つ意味なんかも説明してあった。なお、写真を右クリックして出るメニューから「新しいタブで画像を開く」を選択すると、別タブで新しい画像を開け、右上の設定メニューから拡大率を選び拡大できるので字が読める。なお、見終わったら元の100%に戻しておかないとびっくりすることになる。そして好太王碑文なんだけど、何でここにと言う感じではある。説明文を読むと、山鹿市菊鹿町の古関三博氏と言う方が1996年に現地調査をされた際に入手したもので、装飾古墳と言う同じ文化を持つ高句麗と菊池川流域の文化を理解する上で役にたつと言うことで、ここに飾っているのだそうだ。そう言えば高句麗と百済は同じ民族の「扶余」の子孫だとされ、扶余と言う国が古代中国の東北部に有り、扶余の建国以前には濊(わい)族が住んでいたらしい。そしてこの濊の言語は非常に日本語によく似ていたらしい。その後の濊の行方は分からないのだが、その関係で高句麗・百済と倭(九州)は密接な関係に有り、例えば百済の武寧王は九州で生まれており、武寧王陵の木棺は朝鮮半島に自生しないコウヤマキ製で作られていた。白村江の戦いで滅びた百済からは多数の王族が日本に渡ってきており、桓武天皇のお母さんは百済の王族のお姫様である。だから高句麗・百済とこの菊池川流域に住んでいた人達には何らかの関係が有ったのだろう。もう一つ気になるのは神功皇后の伝説である。神功皇后は三韓征伐を行ったことで知られており、それが好太王碑の碑文に書かれた百済と新羅に倭が侵入し、「百済と新羅が高句麗に朝貢しなくなった」と言う碑文の記事に関係が有るとされている。なので、神功皇后はこの菊池川流域に居た人達と関係が有り、この辺を攻めようとした仲哀天皇とケンカになって、仲哀天皇を殺したのかもしれない。この辺は根拠のない僕の妄想だけれども、他にもこの説を支持する人達は大勢いる。神功皇后が日本に帰って来た後に応神天皇を生み、近畿に攻め上って仲哀天皇の子等(麛坂王、忍熊王)を殺して、天下を治め、応神天皇を天皇にして、以降応神天皇の系統が日本を治めることになったのを考えると、案外正しいのかなと思う。装飾古墳館のメインに入る。ここの特色は(レプリカだけれども)付近の古墳を再現しているところに有る。まずは鴨籠石棺。鴨籠古墳は不知火町長崎に所在しており、宇土半島の尾根から長崎地区の水田地帯に続く標高40メートル程の丘陵の南端部に在ります。盗掘を受けて原型を失っており、石室を構成する石材が露出しています。石室が残存する高台は、東西約23メートル、南北約13メートルの大きさであるため、墳丘を復原すれば直径約25メートルほどの規模を持つ円墳になるとされています。石室は、巨大な板状の砂岩4枚を組み合わせた長方形の竪穴式石室です。長さ約3.5メートル、幅約2.5メートル、深さ約1.5メートルの箱型で、入口は欠失しています。写真の石棺はくりぬき式の船形石棺で、石棺石材は、宇土市網津町で取れる阿蘇溶結凝灰岩、通称馬門石(まかどいし)です。長さ約1.64メートル、幅約0.66メートルの石棺の内部は、赤色顔料で赤く彩色されており、遺体の頭部が安置される位置は、枕になるよう一段高く加工されています。馬門石(まかどいし)は12月16日の記事にも書いている通り、応神天皇の話は事実であり、継体天皇は応神天皇の子孫であり、それは継体天皇のお墓である今城塚古墳の石棺が、この馬門石と岡山の竜山石及び二上山の3つからできていることから熊本の勢力が近畿に攻め上って皇室の祖先になったと言う僕の説の根拠になっている。それは継体天皇のお墓である今城塚古墳の様子を見ると分かるのである。邪馬台国はどこにあったのか>(その12)(中央付近)中の古墳のレプリカを順不同で載せる。順不同なのは順序を忘れてしまったから。申し訳ありません。まずは井寺古墳。詳細は分からないが入口付近は赤い装飾が施されている。次は永安寺東古墳。いつも思うのだが、熊本の古墳で使われている石はしっかりと加工されている。関東の古墳だとここまで綺麗ではなく自然石が多い。次は小田良古墳。ここは横穴ではなく堅穴。次は千金甲1号墳。この古墳は大きな石ではなく小さな石をレンガのように積み重ねている。韓国の古墳みたい。そして丸い紋が多用されている。うーん、そう言えば肥後(熊本)藩主の細川家は「九曜紋」だな。丸い紋が似ている。ただ細川家は、元々は清和源氏の足利氏系で、熊本じゃないはず。うーん、そう言えば高松塚古墳をはじめとした近畿の後年の古墳の天井には「星宿図」が書かれ、古代にはそう言う北極星や色々な星座を信仰する面が有ったらしいな。日光の陽明門も、近くから見ると夜は上部で北極星を中心に星が円を描くと言うし。装飾古墳の円の模様は魔よけの目の模様だと思っていたけれど、星の場合も有るのかも?次は大坊古墳。最後は弁慶が穴古墳。おぉー!入口付近に人の線刻が有る。右側の赤で描かれた絵は何だろう?近寄って見ると「船」だった。奥の絵は馬だ。そう言えば大伴氏や久米氏は海人族だったんだよな。中国の史記に書かれた徐福は1回目に日本へ来た時は「鯨に襲われた」と書いている。この鯨は実は倭人で、徐福は対抗する為に2回目の時は多数の若者を連れて行っている。古代の倭人は勇敢な船乗りだったんだ。そして魏志倭人伝には倭国には牛はいないと書いており、馬も居なかったらしいのだが、菊池川流域の古墳の時代には既に馬がおり、馬具なども出土している。色々な本で調べてみると、日本の馬は小さくて上に描かれているように体高130cm位しかなく、源平合戦で有名な畠山重忠がひよどりごえで馬を担いで降りたと言うのも、本当なのかなと思ったりする。装飾古墳館に飾られている展示は古墳のレプリカだけではなく、付近で発掘された石人なんかもある。有名な臼塚石人である。レプリカだけど。石人は筑紫の磐井の墓だとされる岩戸山古墳が有名だけど、熊本も多い。九州の石人の分布図が有ったので載せる。そして、時代がある程度進むと、古墳だけではなく横穴墓が増える。これは関東なんかもおなじで、吉見百穴などが有名である。熊本の場合は横穴墓にも装飾が施されている。これなんか文化や生活や戦争の歴史を知る上では大事なんだと思うな。鏡なんかも多数展示されている。中国鏡が多く、確かに三角縁神獣鏡は無い。三角縁神獣鏡は国産鏡なんだと思う。そして装身具。えー!卑弥呼や台与なんかもこの辺にいたのかも?いや魏志倭人伝によればここ熊本は狗奴国のはずだから、ここではなくこの南に居たはずだよな。最後に全国の装飾古墳の分布と、そのうちの熊本の装飾古墳の分布地図を載せる。その中の熊本部分の分布図。おぉーっと大事なのを忘れていた。ここにはチブサン古墳のレプリカも有ったんだ。こうして有意義な熊本県立装飾古墳館の見学は終わった。もう夜も更けて歩くのが辛い。足はマメだらけ。明日は「女王の墓」向野田古墳に行く。
December 19, 2025
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江田船山古墳とその周辺の古墳や出土物を見て、近畿では6世紀末から7世紀初めに作られたとされている高松塚古墳に描かれている壁画の色々な貴人の使う道具が、なんと江田船山古墳周辺から出た石製品と同じで、ここ熊本ではその100年前に既に使われていたことから、近畿に中国からの文化が伝わる百年前に既に熊本には伝わっていたことが分かり、近畿よりも熊本の方が「先進国」だったことが分かり、もう熊本が狗奴国で有るのは間違いないと思った。と同時に、それならばよく言われる魏志倭人伝後の空白の150年とは空白ではなく、九州から近畿に何らかの理由で政治の中心が移動している時代で、そのせいで遺跡や文化が空白になっているんだなと思った。それは継体天皇のお墓である今城塚古墳の様子を見ると分かるのである。邪馬台国はどこにあったのか>(その12)これは僕が奈良や京都に調査に行った際に今城塚古墳を見た際の記録だけれども、その中央付近に、今城塚古墳の中に納められていた石棺が3つ有り、その材質は、阿蘇のピンク石(馬門石)、岡山の竜山石、そして大阪の二上山の石である。つまり継体天皇の御先祖様は熊本の人で、数代かけて岡山に進出して、さらに数代後に大阪に進出し、それが継体天皇で有るのだろうと言うことである。熊本から大阪に至るまで150年かかっているのだ。継体天皇が筑紫の磐井を滅ぼした時に、磐井は継体天皇の部下である近江毛野に対し、「今こそ使者たれ、昔は吾が伴として肩を摩り肘を触りつつ、共器にして同食いき。 安ぞ率爾に使となりて、余をしてが前に自伏わしめん」と揚言し、抵抗に踏みきったという。え?これによると、磐井と近江毛野は昔は同輩として共同生活をしたこともあったらしい。近江毛野はおそらく近江の豪族であろうが、どうして筑紫の磐井と親しくした時期があったのであろうか。通説は、両者が若き日にヤマト朝廷に同じ時期に出仕していたのであろうとするが、むしろ磐井の揚言から考えると、熊本から近畿に攻め上った際に仲間として戦った?そう考えられるのではないだろうか?だから僕は学者先生の想像力は信用できないのだ。だって学者先生は「今城塚古墳が発掘されるまでは別の古墳を継体天皇の墓と考えていた」のだ。彼等は本当に信用できない。荒神谷遺跡や 加茂岩倉遺跡が発掘されるまでは、彼等は「出雲は神話の中の世界であって実在はしない」と言い切っていたのだから。彼等の主張は常に発掘によって根底から覆される。古代の熊本や宮崎もいつか、誰かが新しく発掘することによって根底から覆されると思う。それが僕ならばうれしいんだけれども、もう年だからなぁ。江田船山古墳からチブサン古墳へ向かうには一度山鹿のバスセンターに行かなければならない。車を持っている人は簡単なんだけれども、東京や大阪からは車で行くのは大変だし、バスではほぼ行けないからタクシーしかないのだ。チブサン古墳はあらかじめ山鹿市立博物館に連絡しておくと案内してくれて内部を見られる。常時そうなのかは不明だが、僕が行った時は10時と14時からだった。見学はおよそ(前段の10分程度の説明を含めて)40分かかる。現地まで約1km歩くからだ。山鹿市立博物館。入口は左側で小さい。入口付近に石人がいる。山鹿市立博物館の2回は展示室になっており、付近の古墳等から出土した遺物が展示されている。但し、ここも力関係が有って、めぼしい物は東京博物館や福岡に取られてしまっている。ただ地元なので詳しい。最初に説明板を見て驚いたのは、熊本の遺跡の多さを説明する地図だ。菊池川、白川、緑川沿いに無数の遺跡が有る。奈良や福岡の比ではない。多すぎ。そして気になるのは、熊本と鹿児島・宮崎の間の空白である。何故ここに空白が有って遺跡が無いのだろう?本当にないのだろうか?それとも見つかっていないだけ?日本書紀の景行天皇の九州巡幸を見ると、人吉付近で賊と戦っている。上の地図で言えば、鹿児島県の白い部分の中で、上向きに突き出た角のような所の熊本側である。つまり景行天皇と戦うくらいの勢力が居たのだから、古墳くらい有ってもおかしくは無い。だから見つかっていないだけなんだろうな。そして感心したのは石斧の作り方の説明が詳しかったこと。いや僕だって理論的には知っているんだけれど、こうして現物を使って説明をされると、なるほどなぁと感心する。家型埴輪の展示も有った。熊本はやっぱり先進的な地域だったんだなと思う。他の地域、近畿や福岡でもまだ竪穴式住居の時代である。こんな壁や扉が有る家なんて、他の地域だと平安時代にならないと無いと思う。NHKの「鎌倉殿の13人」を見ていたら、鎌倉時代になってやっと板葺きの屋敷だったんだから。先進的と言えば、使われていた土器がすごい。左側の土器は漆を塗っている。漆を塗った土器なんて初めて見た。漆を塗っていると言うことは火にはかけないと言うこと。他の地域の土器とは違うなぁ。この土器には鹿の線刻がなされていたらしい。他の地域ではそこまで工夫はされていない。この後の時代、つまり須恵器の時代にならないと、生活に使われる土器はここまで工夫されない。(新潟の火焔形土器のように儀式用のどきなら縄文時代から装飾はされているが生活用は無い。)さてチブサン古墳。ここ山鹿市立博物館は、熊本県の県北に広がる菊池川沿いの「肥後古代の森_山鹿地区」の中にある。市立博物館は下の案内図中央下部分である。(案内図は博物館ではなくチブサン古墳そばに有ったので「現在地」は博物館ではない。)この地図は東を上に描いているので、チブサン古墳へは「古代への道」を北へ進む。するとでっかい古墳が有る。チブサン古墳は6世紀(古墳時代後期)に造られた前方後円墳で、全長約45m、後円部の直径23m、高さ7m、石室は羨道から奥室まで約6m、前室は1.9mの方形、後室は奥行き、幅とも3.6mの隅丸方形で、後室の奥壁沿いに、長さ2.3m、奥行き0.9m、高さ1.4mの寄せ棟造りの家形石棺が置かれている。内部は普段は鉄の扉が閉まっており、見学時に開けてくれる。中は写真撮影禁止。羨道はまぁ普通に歩けるけれど、前室に入る補語扉からはものすごく狭い。そこ(前室)を張って行くと後室手前にガラス窓が埋め込んであり、ガラス窓越しに後室と石屋形を見られる。中の湿度が高いのかガラスは曇っているが、案内の方が綺麗に拭いてくださった。残念ながら中の写真撮影は禁止なのだが、外にレプリカの石屋形が有る。でもやっぱり綺麗な写真の方が良いので、ネットから発見当時の奇麗な写真をお借りする。装飾は直線と円を用いた幾何学模様で、綺麗に赤と黒で色分けされている。奥の目玉のような円形が古墳の名前の由来である乳型の絵である。この古墳は古くから開口し、地元ではこの乳型の絵から「乳の神様」といて崇められており、それが「乳房さん」→「チブサン」となまってチブサン古墳と言う名前になったらしい。でも僕は、右手の王冠をかぶった人物画と合わせて考えると、右手が埋葬者の頭側と考えられることから、これは「目」であり、埋葬者を「魔」や「盗掘者」から守る為の装飾だったんじゃないかなと思っている。よく古墳の石棺の周囲に鏡がばらまかれているのと同じである。古墳では埋葬者の頭の部分には大事な鏡、周囲には魔よけの鏡がばらまかれていることが多い。それと同じだと思う。説明をして頂いた方に奥の石の板が左側が無いのは最初からなのかを聞いたら、最初かららしい。そもそも奥の石2枚は扉かもしれないと思ってお伺いしたら、ここの奥はもう円墳の傾斜部分なので、奥はあり得ないと説明されたので、そうだなと納得した。レプリカの近くには出土した埴輪や石人も有った。円筒埴輪は古墳の外部(特に円墳頂部)に並べられる。儀式と結界的な意味合いが有る埴輪。石人は九州、特に福岡南部や熊本に多い。近畿の形象埴輪に近い物だと思う。近くには(古代の森と言うことで)他の古墳から持って来た石棺も有る。そしてチブサン古墳と並ぶ大事な古墳であるオブサン古墳。立派な円墳、と思って近くに行ったら手前の入口付近が広がって高い。多分前方後円墳の一種で、帆立貝型前方後円墳だと思う。(説明板には突堤付き円墳とあったが、 チブサン古墳が綺麗な前方後円墳なのでこちらも変形した前方後円墳だと思う)近くに説明板が有った。おぉー!ここも立派な羨道と石棺が有ったんだな。名前の「オブサン」とは「チブサン」が「乳房」から来たのに対して「産さん」から来たらしい。それにしても閉塞石は大きくて重そう。神話の天岩戸で、天手力男命(あまのたぢからおのみこと)はこれを開けたのか。僕には無理だな。こうして見学は終わったんだけれども、山鹿市立博物館に戻って来て面白い物を見つけた。通潤橋の模型である。通潤橋は熊本県上益城郡山都町(やまとちょう)にある。ここから近い。嘉永7年(1854年)に阿蘇の外輪山の南側の五老ヶ滝川(緑川水系)の谷に架けられた水路橋で、水利に恵まれなかった白糸台地へ通水するための通潤用水、上井手水路の通水管が通っている。完成当時は吹上台目鑑橋と呼ばれていたが、肥後藩の藩校時習館の教導師であった真野源之助により易経(易損卦程伝)の一節から、名前を通潤橋とつけたのだそうだ。石造単アーチ橋で、橋長は78m、幅員は6.3m、高さは20m余、アーチ支間は28mである。橋の上部には3本の石管が通っている。うん?通潤橋は単アーチ?そうじゃん!と言うことは山鹿市立博物館のこの通潤橋もどきはどこの物なんだろう?肥後の石工の技術レベルの高さを証明する歴史的建造物であり、国宝に指定されている。現在でも観光用に時間を決めて、中央付近から放水している。こうしてみると、熊本の石工のレベルは高かったんだなぁ。そう言えば日本書紀では斉明天皇の狂心渠(たぶれごころのみぞ)が有名である。斉明天皇は石造りの色々な遺跡を残している。斉明天皇は九州王朝のお姫様で、近畿の王朝に迎えられて天皇になり、そのせいで白村江の戦いの際は、唐に対する無理な戦いだと知りながら、九州まで兵を引き連れてやって来たんじゃないだろうか?石がそれを暗示している。次は熊本県立装飾古墳館へ行く。
December 16, 2025
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タイトルにある様に狗奴国が熊本であることの確認旅行が今回のテーマなんだけれども、それは僕の研究の中で狗奴国が重要な位置を占めているからである。一般的な邪馬台国研究家は、底が浅いので邪馬台国しか研究しない。でも魏志倭人伝を見ると、狗奴国のはたしている役割は大きい。そのせいで他の倭国の国に比べて書かれている内容が多い。その記述を読んでいると、ついつい須佐之男命を思い出してしまう。古事記の中で、イザナギは亡くなったイザナミに会いに行った後に三貴子を産む。天照大御神と月読の命と須佐之男命である。イザナギは天照大御神に高天原を、月読の命に夜の国、須佐之男命に海原を治めるように命じる。ところが天照大御神と月読の命は素直に従ったのに、須佐之男命は駄々をこねて従わず、母を恋しがる。通常の人はこれを読んで須佐之男命が甘えん坊だと理解するが僕は違う。恐らく、須佐之男命の母はイザナギの後を継ぐのは須佐之男命だと考えていたのだ。母親が違う天照大御神にその座を奪われた須佐之男命は、話が違うとイザナギに詰め寄ったのだろう。イザナギは須佐之男命を嫌って、追い出してしまったのだろう。それで須佐之男命は高天原の天照大御神の元に行って文句を言ったのだ。天照大御神は「誓約」を行って須佐之男命をなだめようとしたが、須佐之男命は聞かなかった。そして須佐之男命は高天原に攻め込んだ。田のあぜ道を壊し、くそをして馬の皮を剥いで投げ込む。さすがの天照大御神も怒って武装して、須佐之男命を迎え撃つが殺されてしまう。これが古事記に書かれた神話なんだけれども、魏志倭人伝に書かれた卑弥呼と狗奴国の男王の話に似ている。亡くなった卑弥呼(天照大御神)は天岩戸に葬られて、その後から宗女である台与が出てくる。台与は若い頃の天照大御神にそっくりなので、殯に服していた神々は、天照大御神が蘇ったのだと思い祝福する。そして台与は高天原の新しい女王として迎えられて、千人以上が殺されても倭国を平和にできなかった罪で、狗奴国王(男王=須佐之男命)は追放される。追放された男王は新羅の王となり、しばらく暮らすが、また日本に帰って来て紀ノ國に新しい国を築く。その後4世代を経て、島根の出雲で生まれた大国主命は兄神達にうとまれて、2回も殺されそうになり、その度に母親に救われるが、身の危険を感じて木の国(紀ノ國)に逃げる。そこでも兄神達の追及の手は伸びて、大国主命はさらに奥の須佐之男命の元まで逃げる。そこで須佐之男命の娘のスセリヒメを嫁にもらった大国主命は新たに国をつくる。この国の都が纏向遺跡である。纏向遺跡は、かっては大田遺跡と呼ばれていた。大国主命を祀る、大国主命の子孫の大田田根子が住んでいたからである。そこから見える箸墓は事代主命と倭迹迹日百襲姫命の墓であるが、同時に事代主命を祀る三輪山のふもとにあり、昼は人々が造り夜は神々が作った墓である。どう考えても、纏向は(新しい)出雲の都だと思う。大国主命は国を譲った後は、ふるさとである古い出雲(島根)に社を建ててもらって、後世をすごしたのである。こういう風に考えると魏志倭人伝は見事に古事記や日本書紀につながる。その様子を一覧に書いてみた。よく日本の皇統は数回途切れて、王朝交代が有ったと言う人がいる。特に応神天皇の時代と継体天皇の時代であるが、実は王朝の交代が有ったのではなく、卑弥呼の時代に2つに分かれた奴国の王朝が、別れたり、またくっついたりしながら、ほぼ交代しながら、血縁的には入り混じって、今日まで続いているのだと思う。それを確認しに行く旅行が今回の旅行なのである。江田船山古墳はそうとうに不便で、熊本県の玉名市と山鹿市の間付近の和水(なごみ)町にある。玉名市は九州新幹線が通るが、山鹿市はJRは通っていない。熊本から高速バスに乗ってくるしかない。僕は貧乏なので新幹線ではなく在来線の玉名市からバスに乗ったので、1日に数本しかない不便なバスを(1か月前から調べて)利用して行った。江田船山古墳は、埼玉県行田市の稲荷山古墳の国宝「金錯銘鉄剣」と同時代の、「銀錯銘大刀」が出土した古墳である。両鉄刀には文字が記されており、雄略天皇の名前と分かる「「獲加多支鹵(ワカタケル)大王」の名前が記されている。鉄剣そのものは(九州の古代の遺物はみんなそうなんだけれども)現地には無く、東京博物館に納められている。でも現地を見るのは大事なことなので、今回見に行く。入口に石人(レプリカ)が立っている。楽しみ。中に進んで行くとまずは塚坊主古墳が有る。同じものが近畿や福岡に有ったならば大騒ぎになりそうな立派な古墳が、熊本や宮崎にはゴロゴロしている。多くは盗掘されたり、運よく残っていても東京や福岡の博物館に取られて現地には無い。「山」が有るだけである。ただ熊本は幸運にも「装飾古墳」が多いので、それだけは見られる場所が有る。宮崎の場合は道路開発でそれさえも壊されているんだけれど。そばには清水原古墳の石棺が有った。5世紀だそうである。よく幻の150年と言われる魏志倭人伝後の150年のものである。幻じゃなくて探せば有るんじゃないかと思う。さらに進むとお目当ての江田船山古墳が有る。この古墳は卑弥呼とは関係が無いのだけれども、僕は卑弥呼の墓はこの1.5倍くらいの大きさだったんじゃないかと思っている。よく箸墓を卑弥呼の墓だと主張する人は、一歩が150cmで魏志倭人伝に「径100歩」と書かれているので150m位のはずだからと言うが、間違いだと思う。彼等は魏志倭人伝が含まれる三国志を読んだことが無いのだと思う。三国志には有名な諸葛亮孔明は「8尺の偉丈夫」だったと書かれている。一歩は5尺だから、一歩を150cmとしたら1尺は30cmである。そしたら孔明は30cmX8=240cmの身長が有るバケモノじゃん。だから一歩150cmと言うのは眉唾なのである。多分一歩は現代の左右2歩のことなので、おおよそ1mだと思う。江田船山古墳から出土した大刀は東京博物館に有るがこんな感じ。ネットから写真をお借りして載せる。上に書いたように刀の持ち主と雄略天皇の関係が書かれており、埼玉県行田市の稲荷山古墳の鉄刀の銘文と合わせて、雄略天皇の生きた時代が分かる貴重な刀である。刀には字だけではなく絵も描かれていたらしい。魚と鳥。そして馬と花。花は少し薄くなっている。実は字も同様で、後世の刀の研師が研いでしまって薄くなってしまったのだそうだ。説明板を見ると復元模型が載っているが、ものすごく綺麗な前方後円墳である。特に儀式が行われたとされる「造出」部分が大きい。近畿や福岡の古墳ではこれが分からない。内部については、現在は完全に密閉されて中を見ることはできないが、写真が残っている。よほど有力な王(それとも既に大和王権に従属しており豪族だった?)だったのだと思う。そして驚くのは出土した鏡が、卑弥呼の時代の物が多いこと。お調子者の研究家ならば「ここが卑弥呼の墓じゃん」と言いそう。でもそうではない。鏡は製造年代と埋葬された年代は一致しないことが多いのである。えー!と言うことは三角縁神獣鏡を卑弥呼の鏡と言っている人達の「根拠」はどうなるの?そうなんである。いわゆる邪馬台国近畿説の人達の言う根拠はほとんどが根拠にはならず、彼等の言う根拠が正しいなら、邪馬台国は熊本に有ったと言える古墳がたくさん有るのである。近畿や福岡の古墳とは違い、ここ熊本の場合は「古墳群」であることが多い。(宮崎もそう)後ろには付近の古墳から見つかった石製品(石人など)が飾られている。そしてこの石製品から、当時の儀式や生活の様子が分かる。さしばの説明に有る「儀式用の屏障具の一つで団扇に長柄をつけたもの」ってこれじゃない?左の女の人が持っているのがそうである。これは高松塚古墳の壁画である。熊本ってこの時代は近畿の都会に匹敵する「高級地」だったのか。こんなのも有る。家は吉野ヶ里のような竪穴式住居じゃなくて高床式住居だし、都会じゃん。そして蓋(きぬがさ)ってこれじゃない?おぉー!高松塚古墳の壁画に書かれているような貴人の所持品がこの辺でも使われていた?しかも高松塚古墳の時代の100年前に?江田船山古墳は5世紀後半から6世紀初めの古墳である。高松塚古墳は6世紀末から7世紀初めの古墳である。つまり奈良に中国から壁画に書かれたような文化が伝わる100年前に熊本には同じ文化が伝わっていたのである。実は奈良よりもこの熊本の方が先に文明化されており、何らかの事情で、ここから移動して奈良の方に行ったんじゃないだろうか?だから継体天皇や推古天皇のお墓の石棺は、熊本の馬門石(まかどいし)でできているのじゃないだろうか?つまり継体天皇や推古天皇の御先祖様は熊本の人で、御先祖様の信じた神様を近畿に連れて行ったので石棺は馬門石だったのではないだろうか?(継体天皇と推古天皇だけではなく沢山の馬門石の石棺が近畿に運ばれています。)そして気になるのが石人達。石人や石馬は福岡の岩戸山古墳(継体天皇に滅ぼされた筑紫の君磐井の墓)が有名だが、磐井の親戚あたりがここに居たんじゃないかな?そして気になるのがもう一つ。ストーンサークルが有った。いわゆるドルメンである。実はこれには説明書が無かったので、出土品なのか、公園を作るに際して作ったものなのか、どちらかは分らない。でも、出土品ならば恐ろしいなぁ。日本にこんな物が有るとは。いや能登半島には木製の物は有るけれど石製は無い。秋田の大館などにはストーンサークルは有るけれど、小さな石を並べただけ。これは公園を造った人達のお遊びなんだろうか?出土品なんだろうか?気になる。最後は京塚古墳である。いや本当に集まっていると思う。まさに王家の谷(谷じゃないけれど)だよ。来て良かった。バスがもうすぐ来る。これに乗らないと夜泊まる宿が無い。次はチブサン古墳へ行く。
December 16, 2025
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叔父が昨年末に亡くなって1年たち、1周忌を行うことになり長崎に帰った。いやもう両親はとっくに亡くなっていないので「帰った」と言うのはおかしいのだが、やはり僕は九州人なので、「九州に行く」よりも「九州に帰る」と言う方がぴったりする。叔父(次男)は90歳ギリギリ1か月足らずに亡くなった。お袋(長女)も90歳ギリギリ4か月足らずに亡くなった。伯父(長男)は90歳過ぎてまだ生きている。下の叔母2人は80歳過ぎてもピンピンしている。下手すると自動車の運転もしている。危ないけど。なので我家の家系はみんな90歳までは生きるのだと思う。僕もまだ先は長い。せっかく高い飛行機代を出して行くので、熊本に行ってみることにした。JR在来線だけならば4000円もしないので、もう何回も九州には来れないのだから行きたかった。熊本は僕が、邪馬台国の敵の「狗奴国」だと思っている所だから。世の中の馬鹿な邪馬台国論者は証拠とはとても思えない事をまくしたてて邪馬台国論争をする。僕は面白いので、それを論破するのを趣味にしている。例えば「纏向遺跡は3世紀半ばの遺跡なので邪馬台国の都である」と言うのは証拠にはならない。魏志倭人伝冒頭には当時倭国には100前後の国が有ったと書いている。つまり3世紀半ばには倭国には100前後の国が有り、纏向遺跡はそのどの国の都でも良いことになるので、証拠にはならないのである。「いや邪馬台国が一番大きな国のはずだから邪馬台国の都だ」と反論する人がいる。卑弥呼は「共立された」のであって他国を征服して女王になったのではない。現に狗奴国に攻められて悲鳴をあげて魏に救いを求めて難升米を派遣している。つまり狗奴国の方が大きくて強かったのである。ならば、纏向遺跡が大きい国の都のはずだと言うならば、狗奴国の都である可能性の方が大きい。つまり何の証拠にもなっていないのである。それで熊本に行くのであるが、途中に面白い古墳が有るので、道すがら、まずはそこに行く事にした。今、邪馬台国九州論者たちが「卑弥呼の墓」だと大騒ぎしている「長田大塚古墳」である。白村江の戦い(倭国が百済を助けて唐と新羅の連合軍と戦って負けた戦い)の際に、斉明天皇が九州に作った「朝倉橘広庭宮」の跡の傍に有る古墳である。JR九州の筑後吉井駅の近く(と言っても歩ける距離ではないが)に有る。筑後吉井駅。九州の駅だなぁ。周囲には何もない。JRを利用する人の為に、念の為に言っておくと、駅員が居ないのは当然のことなんだが、スイカは使えない。パスモも使えない。なんとJR九州の「スゴカ」カードさえも使えない。福岡県南部の大分よりから熊本はそう言う駅が多い。ここは福岡県内なんだけれども、久大本線(久留米-大分間)なので仕方ない。最初にせっかく来たのだから卑弥呼には関係ないのだけれども有名な三連水車に行く。ここは筑後川沿いなので水の利用が盛んで、これは日本最古の実働する水車である。寛永元年(1789)に川面より高所の農地に水を送るため、自動回転式の重連水車が設置された。朝倉市には菱野の「三連水車」のほかにも、三島の「二連水車」、久重の「二連水車」の7基の揚水水車(水をくみ上げる水車)があり、今も現役で農地を潤している。昔の人の知恵の結晶である。さて長田大塚古墳に行こうとしたら、タクシーの運転手さんが知らないみたい。なので高速道路の山田SAのそばだと言って下の地図を見せたら分かってくれた。車で行かれる方は高速の長崎大分線に乗って、山田SAに車を止めて行くと便利で良い。SA裏の扉が開いていれば70mくらいなので近い。(googleMapを見ると分かる)この古墳、googleMapで見ると誰が見ても古墳だと分かる見事に綺麗な円墳である。上の写真(と言うかgoogleMap)を見て欲しい。自然の山はこんなに綺麗な円形では無い。よく前方後円墳以外は古墳では無いと言う馬鹿な学者がいるが、高松塚古墳や埼玉の稲荷塚付近の大きな円墳など有名な古墳は円墳である。高松塚古墳やキトラ古墳は古墳じゃないというのだろうか?学者とは変な人達である。前方後円墳は政治的な古墳で、大和王権が勢力を拡大するのに使った一形式であって、必ずしも前方後円墳だけが古墳ではない。特に大和王権が力を得る前の王や女王達の墓は円墳の可能性が高い。もし卑弥呼の墓が前方後円墳ならば、魏志倭人伝に「卑弥呼の墓は倭國の独特な形式」だと書かれるはずだが、単に径百歩の塚としかかかれていないので、恐らくは円墳だろう。前方後円墳が普及するのはもう少し後のことだろう。箸墓は卑弥呼の敵方の墓だと思う。魏志倭人伝に「前方後円墳」と書かれていないのだから。近くに行ってみると、邪馬台国九州説の皆さんが自説を看板に書いている。ちょっと無理があるなと思う部分も有るけれど、そうかもしれないと思う部分も有る。まず一歩の解釈は諸説ある。看板に書かれているのは通説だが、一歩が150cmも有ると言うのは一般の人には難しいと思う。実はこれは今で言えば2歩(右足+左足)を一歩と考えた時代の話である。なのでちょっと足が長いのかなと言う気もするけれど、2歩ならば150cmは有るかもしれない。ところが、僕は別の説を信じており、いまいち納得できない。Wikiによれば、上に書いた左右の1歩を合わせて一歩とするのは周の時代に始まった。そしてそれは5尺だったらしい。ところが秦の始皇帝の時代にはこれは6尺に改められ、漢まで6尺である。朝鮮でも一歩は使われたが、尺の基準が20㎝で一歩は120cmとなり実感に近い。普通に歩くのではなく、止まった状態で計るので一歩=150cmとされたが、実際に歩くとそんな大股では歩けない。と言うか一歩が5尺で150cmとすると、一尺は30cmになるが、三国志の中の有名な部分を見ると「あれ?」っと思う。諸葛亮孔明は三国志の中には「八尺の偉丈夫だった」と書かれている。えー!30cmX8=240cmってバケモノじゃん。実は一尺は後漢の時代には23cm、魏や西晋の時代には24cmだったらしい。つまり一歩は120cm前後が正しいらしい。ならば(現代で言えば2歩なんだから)大きな人の歩幅と思えば、そんなものなのかなぁ?そしてこの一歩=150cmと言うのは「長里」の元になっている。(九州説の皆さん、一歩=150cmならば長里だから九州説になりませんよ)長里では1里は300~400mになるが、魏志倭人伝に書かれた里程と実際の地図上の距離は1里70~80mである。魏志倭人伝の記述を元に地図をなぞってみればバカでもわかる。1里=300~400mで考えると、海や山を飛び出してしまう。1里=70~80mならば綺麗に地図に合う。つまり現実に合ってないのである。学者達は。だから魏志倭人伝はいい加減だと言う。でも、元になっている一歩を現実的な人間の状態である2歩=約60cm位にすれば、全ての記載が現実に有って来る。だから径100歩=150mと言うのは変なんだと思う。麻氐良布(まてらふ)神社がアマテラスに読み方が似ており、天照大御神を祀っているのでここが邪馬台国と言うのも無理が有ると思う。天照大御神を祀る神社で一番有名で大きいのは伊勢神宮である。単に天照大御神の神社だと言うのを根拠にするならば邪馬台国近畿説の方が正しいと思う。でも僕はこの辺が邪馬台国だと思う。それは世の中の人の多くが、邪馬台国と女王国の関係を勘違いしているからである。そのことについては過去に書いた。邪馬台国はどこにあったのか?(その75)世の中の学者先生や研究家が考えない事:その2女王国と狗奴国ここの最後の方に書いたが、世の中の学者先生や研究家は、邪馬台国=女王国と考えている人が多い。でも魏志倭人伝には「邪馬台国」と言う言葉は1回しか出てこないし、その41文字後に「女王国」と書かれている。明らかに使い分けているのである。そして女王国は、女王国の北側に奴国や伊都国が有ると書いているので、明らかに奴国や伊都国は女王国には含まれていないので、女王国、奴国、伊都国と女王国の傍らの国を合わせた連合国を邪馬台国と書いてると考えられる。つまり学者先生や研究者達の言う「邪馬台国への行程」と言うのは「女王国への行程」が正しく、伊都国も奴国もそしてここ朝倉も邪馬台国の一部なのである。だからここは邪馬台国である。僕は足元に注意しながら、頂上まで登ってみた。途中で急な傾斜と緩やかな部分が数回認められ、この古墳は単なる山ではなく、恐らく3段くらいの段の付いた古墳だろうと思われた。頂上には祠が有った。何と書いているかは分からない。地元の人は「宮地嶽」と言っているが最後の字は「嶽」ではなく「宮」に見える。ちゃんと調査すれば読めると思うけれども、今日は道具も時間も無い。<後日追記>調査時には何も持っていなかったので、どうしようもないが、せめてと思って画像を明るさとコントラスト調整だけやってみた。やっぱり3文字目は「宮」だと思う。1文字目は「秋」のようにも見える。2文字目は分らない。「尊」のような気もする。行けるかどうかわからないけれども、いつかもう一回行ったら見てみよう。仕方ないけれど、日も暮れるので帰ることにした。駅へ向かう途中に付近の看板が有った。そうなんだよなぁ。朝倉には斉明天皇が「白村江の戦」に備えて築いた「朝倉橘広庭宮」が有ったはずで、それは日本書紀にも書かれており、斉明天皇はここで崩御されている。僕はここには「九州王朝」の都が有り、斉明天皇はそこの出身で、だからこそ百済を助けて唐と新羅の連合軍と戦った倭国を助けざるをえなかったのだと思う。当日は行けなかったので、ネットから写真をお借りして載せる。ここに書かれた朝倉社と言うのは、現在は恵蘇八幡宮として残っている。(上の地図の「ここ」)あんがいと上の写真の場所(須川)ではなく、ここ山田に都は有ったんではないだろうか?倭国は白村江の戦で唐と新羅の連合軍に敗れ、筑紫の君つまり倭国の王以下は捕らえられて唐に連れ去られたと日本書紀に書かれている。日本書紀の持統天皇四年(唐から帰って来た)捕虜の博麻に詔して、「お前は唐の捕虜となった土師連富抒、氷連老、筑紫君薩夜麻、弓削連元宝の子の四人を助ける為、 自らを奴隷として売り、その金で富抒達は日本に帰ることができた。 それに報いて務⼤肆(むだいし)の位と褒美を与え課役は三代まで免じよう」 と言ったと書いている。つまり日本の相当の偉い人達が唐の捕虜になって連れ去られていたんだな。また、白村江の戦いの後に上に書いたように郭務悰以下2000人の兵が日本に来ている。よく天智天皇は唐が攻めて来るのをおそれて水城を造ったり、菊池に城を構えたり、都を移したと学者先生は言うけれど、水城や菊池の城は素通りしてしまえば、瀬戸内海に出て近畿まで行くのには何の効果も無く、近畿の都の防御施設にはなりえない。この2000人が攻めてきたらおしまいだったんだと思う。現に9月には郭務悰達は大阪まで来ており、天智天皇の歓待を受けている。水城は近畿を守るのにはやくに立たないし、鞠智城(きくちじょう)にいたっては熊本の山の中なので、大宰府防御の役にもたたない。近年の調査では大宰府よりも水城の方が先にできているし、何を守る為に造られたんだろう?(もしかして九州王朝の都を守る為?それは明日以降の熊本の調査で分かる。 この時代、熊本には近畿の奈良や京都に匹敵する王都があったみたいだから。 6世紀末に造られた高松塚古墳の壁画に書かれている貴人の使った、 翳 (さしば)や蓋(きぬがさ)と言った道具が熊本では5世紀末に使われていたことが、 石造りの遺物として残っており、それにより確認できるからである。 熊本は奈良や京都よりも約100年文化が進んでいたのだ。)そしてこれ以降歴史には「倭国」は出てこず、新たに「日本」が出てくる。僕は天智天皇が「日本」は「倭国」とは違い、唐とは戦いませんよとうまく唐をごまかし、あたかも「日本」は「倭国」とはべつな国のようにふるまったので、唐から派遣されてきた郭 務悰以下2000人の兵隊は日本を攻めず、日本は救われたのだと思っている。なので旧唐書には「倭国伝」と「日本伝」が別々に書かれており、「倭国はいにしえの倭奴国のことである。唐の都の長安を去ること1万4千里。 新羅の東南の大海の中にある。」とか、「日本国は倭国の別種である。 その国は日の昇る方にあるので、「日本」という名前をつけている。 あるいは倭国がみずからその名前が優雅でないのを嫌がって、改めて日本とつけた。」と書かれているのだと思う。天智天皇は倭国を名乗って唐を刺激するのを避けたのである。筑後吉井駅に帰って来ると面白い列車が停まっていた。パノラマ風に合成すると変かな?上から見てみよう。おぉー!カッコいい。豪華かも?入口付近はこんな感じ。中は新婚さんだらけだった。高いんだろうなぁ。
December 11, 2025
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12月4日はわの会のイベントで横須賀市の中心地の寺社を廻った。ルートはこんな感じ。いつもに比べると平坦な道で距離も短い楽な行程だった。最初は京浜急行の汐入駅に集合して、まずは「どぶ板通り」を歩く。「どぶ板通り」とは米海軍横須賀基地から京浜急行・汐入駅にかけてのエリアである。大正時代のどぶ板通りには、川幅1m半位の下水が流れていて、その上に厚い板の蓋がしてあったことからそう呼ばれるようになったらしい。ドブ板通りはスカジャン誕生の地である。ある日、兵士が訪れ持参のジャンパーに刺繍を頼んだところ、あまりに汚かったため断るとベースに戻り落下傘の生地を持ち込んできた。その生地に刺繍を施しジャンパーに仕立てたのがスカジャンの始まりなのだそうだ。でも話に聞いていたほどはにぎわっておらず、ちょっと寂しい。通りの敷石にはあちこちに「手形」が有る。うーん、王さんはここの出身なんだっけ?墨田区の本所の出身だと思ったけれど?つまり手形はここの出身だからと言うわけではなく、何らかのゆかりがある人と言うことなんだ。阿木煬子なんかはここの出身だよな。上のルート図で言えば、左下の龍本寺に向かう道の途中を右に折れた付近に、「これっきり坂」と言うのが有って、山口百恵の「横須賀ストーリー」の中の「これっきり、これっきり、これっきりですか~」の歌詞の元になった坂だと言われているそうだから。でもガイドさんにそう言っても話が通じなかった。どぶ板通りにはちょっとだけ有名なお店も有る。下の写真は「横須賀ネィビーバーガー」の「TUNAMI]と言うお店。鉄人28号だ。美味しいのかなぁ?まだ食べたことは無い。角には潜水艦が埋まった?お店も有る。艦マニアと言うお店で、この日は閉まっていたけれど、海軍カレーなどの横須賀名物を売っているお店らしい。ようはお土産屋さんだな?どぶ板通りの中には延命地蔵尊もある。新編相模国風土記に載っていると言うことは江戸時代から有ると言うこと。ちょっとお地蔵さんの雰囲気じゃないな。途中ちょっと横道に入って、諏訪大神社へ向かう。ここでガイドさんが神々の系譜について教えてくれた。いつも思うのだけれど、何故、大国主がスサノオの息子になっているのだろうと思う。古事記では大国主命は兄神達にうとまれて2回も殺され(かけて)、出雲から逃げ出して木の国(紀ノ國=和歌山)へ向かい、そこからさらにスサノオの国まで逃げて、スサノオから試練(山の火の中から助けてくれたねずみの話が有名)を与えられて、それをクリアーして娘のスセリヒメを嫁にもらう。息子じゃなくて、娘の婿つまり義理の息子じゃん。しかもスセリヒメはスサノオの五代子孫なんだよな。どうなっているんだろう?上の資料には大国主命には奥さんが載っていないし。まぁ神様だから年齢は関係ないし、いいか。そして一番変なのは下の話。これは諏訪大神社の由来の所に書いて有ったんだけれども、古事記や日本書紀とは全く違う。タケミナカタと事代主は「国譲り」に出てくる神で、確かに大国主命の子供なんだけれども、タケミナカタは天照大御神が派遣した武御雷神に力比べで負けて、諏訪まで逃げて行き、「この地(諏訪)から外には出ませんから命だけはお助けを!」と命乞いをしたはずなんだよね。それが何故か上のように全然違う神様になっている。何を根拠にこんなことを書いているんだろう?よく「神社の由来書」に書いているからとか、「神社の古い書物に書いてある」のを根拠に、「邪馬台国はここにあった」などと言う人がいるけれど、神社に残っている書物って怪しいのが多いからなぁ。実は前にも書いたけれど、関東には天照大御神を祀った神社はほとんどない。摂社や末社として申し訳程度に祀った神社はあるが、ほとんどは素戔嗚命や大山祇命と大国主命(大国魂を含む)である。つまり天照大御神の敵方の出雲系の神様を祀っている場合が多い。なので、僕は国譲りと言うのは本当に有った話で有り、出雲の神様達(実際は人間)は尾張や諏訪そして関東に逃げたんじゃないかなと思う。だから鎌倉幕府や徳川幕府は、東国に逃げた出雲勢力の反撃で、一時期出雲勢力が実権を握り、明治維新はそれに対する大和勢力の反攻だったんじゃないかと思っている。だって薩摩や長州は西方の勢力だから。そう考えると、ここに諏訪大神社が有って、上に書いたような話が伝わっていてもおかしくはない。つまり諏訪の神=タケミナカタの正当性を主張する文なんである。まぁそれはそれとして次は良長院に行く。うーん龍がいる。曹洞宗のお寺で建長5年(1253年)に没した瀬尾重兵衛良長が横須賀郷泊浦に創建したのが始まり。見ることはできなかったが、本尊は「南蛮鉄製」の薬師如来で珍しい。脇には出世閻魔が有る。出世閻魔って何?調べてみたけど分からない。でも地元では親しまれており有名なんだそうだ。何故「出世」なんだろう?地獄で出世って???ここを出ると横須賀の中心街に出る。三笠ビル。三笠丸は他の地域の人には有名ではないが、横須賀では親しまれている戦艦。今でも猿島に渡る港部分に「現物」が残っている。あの銅像は東郷平八郎さんだな。次は徳寿院なんだけれども、坂がきついので今日はン下から眺めるだけだそうだ。正解だと思う。登っても疲れるだけ。次は中里神社の予定だったんだけれど、ここは省略。そして今日のメインである龍本寺に向かう。龍本寺は、鎌倉時代に日蓮聖人が生誕の地である房総半島から鎌倉をめざして、三浦半島へ舟で渡った際に滞在した米ヶ浜(かつての深田村。現在の横須賀市米が浜通深田台周辺)に建立された、御浦法華堂(三浦法華堂)を前身に持つ寺院である。近隣では、「米ヶ浜のお祖師さま」と呼ばれて親しまれているらしい。立宗·布教のために旅立って以降、日蓮を開山に仰ぐもっとも古い寺院のため、日蓮宗最初の霊場とも言われている。(一般的には、日蓮宗最古の寺院は、鎌倉の妙本寺とされている)現在の龍本寺は、海岸線からはだいぶ離れた内陸の切り立った高台の上に建っているが、明治前期まではこのすぐ下まで海が迫っていて、この海岸は「米ヶ浜」と呼ばれていた。日蓮は、海路で米ヶ浜に到着すると、海岸にあった岩窟の中で37日間に渡って祈願した後、鎌倉へと旅立って行ったと伝えられている。龍本寺の崖下には、この岩窟の跡とされる場所が今も残っていて、「お穴さま」として親しまれている。今回はそこまでは行けなかったのでネットから写真をお借りして載せる。日蓮が鎌倉をめざして三浦半島へ船出した際、嵐のため、舟底に穴があいて海水が侵入してきたと言われている。この時、日蓮がお題目を唱えると、一時に風波が静まり、舟底の穴もふさがっていた。これは、舟底の穴に「アワビ」が密着していたためと伝えられている。その後、日蓮を乗せた舟は、現在の東京湾に浮かぶ「豊島(現在の猿島)」にたどり着いた。すると1匹の白猿が近づいてきて、日蓮の衣の裾を引いて、陸の方を指した。日蓮は白猿が指した陸の方へ再び船出したが、浅瀬の海岸だったため、進みかねていました。そこヘー人の男が現われると、日蓮を背負って米ヶ浜の岸辺までお連れしたと言われている。(公卿村=現在の三春町の石渡家の先祖で石渡左衛門尉なのだそうだ)この男の足から血が流れているのを見た日蓮は、人々が「サザエ」の角で傷つくことがないようにお題目を唱えた。それ以降、この辺りで獲れる「サザエ」には角がなくなったと伝えられている。これらの、日蓮を救った「アワビ」と「サザエ」は龍本寺の寺宝として大切に護られてきている。また龍本寺の本堂の彫刻には、寺名にも含まれている立派な「龍」が彫られている。そしてよく見ると、この龍は「角なしサザエ」を握っているのが見える。でも「あわび」はどこにあるの?龍本寺には芸術的な彫刻が多いので、見ると楽しい。そして今回不思議に思ったのは本堂の屋根飾り。日蓮宗の紋が有るのは当然なんだけれども、その下に三浦の紋が有るのは何故?調べてみると、上の方に書いた、日蓮を背負って足から血を流した人物は石渡左衛門尉で、彼は日蓮により法華経に帰依して、ここに法華堂を建て、それは御浦法華堂と呼ばれたらしい。地名の御浦と三浦一族の関係がどうなのかは分からないが、これが三浦の紋が有る理由かもしれない。最後は諏訪神社にお参りした。ここの狛犬は両方とも口が開いている。通常の神社では、狛犬は左右で阿吽の形をなし、右側の狛犬は口を開けた阿形で物事の始まりを示し、左側の狛犬は口を閉じた吽形で終わりを示し、合わせて「始まりから終わりまで」つまり森羅万象を表しているのだけれども、最近はそのような難しいことを考えるのは流行らず、両方とも口を開けた阿呆な狛犬が増えているのだそうである。ちょっと嘆かわしいけれども、時代の流れなので仕方ないのかも?そんな感じでわの会のイベントは終了しました。
December 11, 2025
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前回(11月19日)に4バンドDSPラジオを買って改造した時に、似たようなFM・AMの2バンドラジオが有って、これは多分同じDSPラジオICを使っているなと思い、だったら改造も同じようにできるだろうから、いつか買って改造しようと思っていたら、ついつい気持ちに負けて買ってしまった。これである。そしてアリエクの販売ページにありがちなシステムなんだけれども、同じページで複数の商品を販売していて、間違えて別な商品を買うミスを犯しやすいのだけれど、今回も間違えてしまった。(上の写真は3個の商品を合成している。)一番上のFM・AM2バンドDSPラジオを買うつもりで、一番下の半田付けしていない液晶表示付きFMラジオを買ってしまったのである。あわてて、仕方ないのでもう一回一番上のラジオを追加して買った。まぁ、真ん中の完成品液晶表示付きFMラジオを買わなかっただけましかも?ただ一つだけ良いことが有った。回路図が販売ページに載っていた。前回の4バンドラジオの際には無かったのだけれども、これがあると助かる。左下にバンドセレクト用のスイッチ回路が有るのが分かる。前回の4バンドラジオはこのAM部分にスイッチをもう一個付けて、バンドセレクト用の抵抗を3個(AM用はスイッチ取付の為に外すので3個)付けてAM-SW1-SW2を切り替えられるようにしていたのである。つまり全くこれとよく似た回路だったのである。なので、今回も改造は簡単で、左下のFM部分の63.4Ωを237Ωに換えるだけである。さっそく改造開始。改造途中の写真で、63.4Ωを外したところ。63.4Ωを外した部分の2つのハンダランドが光っている。63.4Ωの抵抗の下に、あらたに取り換える274Ωの抵抗が有る。本当は237Ωなんだけれども、買うのに失敗して誤って274Ωを買ったのが余っているので、悔しいけれどもこれを使う。274Ωの抵抗が2倍くらい大きく見えるが、電池のリード線と比べてみると小さい。これが2012タイプつまり2.0mmX1.2mmの大きさである。なので、元の63.4Ωは1608タイプ、つまり1.6mmX0.8mmの大きさである。簡単に言えばシャープペンシルの芯の太さである。ルーペがなくては作業ができない。少し大きさが違うが、ギリギリ使える。(あとから気がついたんだけれども、 周囲が広いので1/8Wくらいの普通の抵抗でも使えそうな気がする。 外す方は上に書いたように両端にかかるくらいに半田を盛ってやれば、 半田と一緒にとれるので簡単だから、 新たに取り付ける抵抗は半田付けが簡単な1/8Wタイプの方が良いかも? リードをクニャって曲げれば半田付けは簡単になるし、周囲が広いので邪魔にならないし。)外す時にはこれぐらい小さいと、チップの上に半田を乗せると一気に両端に半田がついて、半田と抵抗が一緒にはずれて取れるので簡単。ただ新しいのを付ける際は片側づつ付けるのだが、1端は簡単に付けられても、もう1端を付ける際には熱が最初の半田付け箇所にも伝わって、もたもたすると、最初に半田付けした方も溶けて取れてしまうので、さっさと素早く作業するのがこつ。まぁ、半田付けさえ上手く行けば結果は出る。試しに聞いてみるとちゃんと76.0-108.0MHzが受信できている。前回は自作のSGもどき(実はFMトランスミッター)で電波を飛ばして目盛を付けたが、今回は面倒くさいので、実際の放送を聞きながら目盛を付けたので、目盛は放送局の周波数が書いてある。80→80MHz FM東京 ちゃんと日本バンドになっている。82.5→82.5MHz NHK東京84.7→84.7MHz FM横浜90→90.5MHz TBS 90.5と書くべきだったんだけれど面倒くさかった。93→93.0MHz ニッポン放送 松田好花ちゃんを聴かなくっちゃ。である。なお書いていないけれど、途中の91.6MHz文化放送や92.4MHzラジオ日本なんかも当然入る。感度は結構いい。残念なのは音声ボリュームが無い事なんだけれども、これは半固定抵抗を外してつければ簡単に改造できる。ただ、ボリューム回路が単純に電圧を分配しているだけなので、変化量が直線的ではなくボリュームの80%-100%位しかきかない。なので今回は面倒くさくなって改造していない。でもAGCが綺麗に効いているので、最大音量になるニッポン放送で適量に合わせると他の局も同じ位の音量になるので差し支えない。そしてせっかく(間違って)買ってしまったので、液晶表示付きFMラジオも作ってみた。結論を言うと265円にしては良いラジオだと思う。感度は良いし、何よりも液晶表示付き。でも、87.0-108.0MHzなのが欠点。FM横浜が聞こえないじゃん。まぁでも作ってみた。アルコールで清掃する前なので半田ペーストでよごれて汚い。下のICがDSPラジオICのRDA5807で、左のICは液晶を表示したりDSPラジオICを制御するPIC(マイコン)である。左端に4つ穴が有るが、部品は無い。通信用の端子だと思う。と言うことは上手くシリアル通信ができれば、日本バンドに改造できるかも?将来的に期待できる。なので、値段からして不満はない。完成品はこんな感じ。ただ最初は使い方が分からなかった。スイッチの名称からして右の2つがボリュームで、左端がPOWER、そして左から2つ目と3つ目はスキャン用だとは分かるのだが、1局だけ見つけるのは簡単なんだけれども放送局の保存が上手く行かなかった。よく商品のページを見ていたら英語の説明が見つかった。下の方に、google翻訳を使って日本語訳を載せてみた。するとなんとなく使い方が分かってきた。どうもこんな感じ。まずは電波環境が良さそうな所(我家なら南側ベランダ)で電源スイッチを入れる。その後、2秒間電源スイッチを長押しする。すると自動的にスキャンが始まり、放送局が自動的にP00-P63に記録される。放送局が記録されたら、選局はV+で一つ上の局、V-で一つ下の局を選べるようになる。V+とV-は長押しするとボリュームアップとボリュームマイナスとして使える。PR+とPR-ボタンは手動選局の場合に使うボタンで、自動選局で漏れてしまった弱い電波の局を探す際に使うボタンである。保存された放送局は電源を切っても消えない。まぁこれが分かると感度はそこそこ良いので使えるかなと思った。
December 10, 2025
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