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実はわの会は7月はトルコとギリシャに行ったせいで、8月は座学でDVDを見る回だったのを時間を間違えて欠席してしまったので、このブログもお休みしている。でも間が空くのは気分的にいやなので、イベントには本当は参加していないけれど、「妄想したこと」を書くことにした。あくまでも妄想で、夢に見たようなものなので確たる証拠は無いけれど、日本中のどの先生も書いたことが無いと思う内容なので面白いと思う。鎌倉時代に突入する一連の出来事では、「平家物語」等の物語によって、源氏と平家の戦いだと思われている。本当だろうか?きっかけとなった保元の乱と平治の乱を調べてみた。まず保元の乱であるが、これは皇室の皇位継承や摂関家の内紛から発生した政変である。朝廷が「後白河法皇」方と「崇徳上皇」方に分かれ、それぞれに摂関家と武士達が従って、当時としては珍しく武力による衝突が始まった。 後白河法皇一派 崇徳上皇一派摂関家 藤原忠通 藤原頼長 藤原通憲(信西)武家 源義朝 源為義 源頼政 源為朝 平清盛 平忠正 他 他見て分かるように、皇室も摂関家も武家も綺麗に2つに分かれており、源氏と平家の戦いにはなっていない。続けて起こった平治の乱は、ここで力をつけた平清盛が信西と組んで後白河法皇を利用してのし上がった戦いである。平家一門はこれ以降、「平家に有らざるものは」と言う感じでのし上がる。摂関家 藤原忠通 藤原信頼 信西 藤原惟方 藤原経宗武家 平清盛 源義朝 平重盛 源季実 平経盛 源重成 他 他ここではもう源氏方は保元の乱で弱っていながらも義朝は皆を率いて戦っており、はっきりと平家と源氏の戦いになっている。そして尾張に逃げた源義朝は長田父子に裏切られて殺されたが、頼朝たち幼かった子達は清盛の母の池の禅尼の助命により助かる。で、伊豆に流された頼朝が平家を滅ぼしたと言う話である。でも本当に頼朝が平家を滅ぼしたのであろうか?実は平清盛を滅ぼしたのは「病気」である。また、京から平家を追い出したのは源(木曽)義仲である。落ちのびる平家を壇の浦で滅ぼしたのは源義経である。頼朝は見ていただけである。僕は頼朝は平清盛の母である池の禅尼に助けられた経緯も有り、平家は朝廷から追い出すだけで滅ぼすことまでは考えていなかったのではないかと思っている。また屋島や壇の浦で平家を滅ぼしたのは、北条や三浦及び畠山等の武士つまり坂東平氏である。「ひよどりごえ」の戦いではそれを命じた源義経が有名であるが、馬を担いで降りて見せた畠山重忠だって大事な役割を果たしている。他の武士達は彼を見て大丈夫だと思い決心したのである。彼がいなければ、皆は命令に従わなかっただろう。つまり平家を滅ぼしたのは(平家を除く)平氏だったのである。源平の戦いと言うよりは平・平の戦いだったと言う側面が強い。しかもその後、頼朝は源(木曽)義仲や源義経を殺している。源義仲の子と頼朝の娘の大姫は恋仲だったらしい。義経は腹違いとは言え弟である。これって源・源の戦いでは?そうそう頼朝は別の弟の源範頼や阿野全成も殺している。「源平の戦い」じゃないじゃん。じゃぁ頼朝は何がしたかったのか?実は頼朝のお母さんは熱田神宮の大宮司である藤原季範の娘である。藤原季範の母親は「尾張氏」の末裔で尾張の国司である藤原氏と対立していたらしい。尾張は天武天皇が戦いを起した際には天武天皇を助けている。継体天皇が戦いを起した際には継体天皇を助けている。つまり天皇家に内紛が起こった際にはよく介入して、天皇家内の争いを助けている。これは神武天皇の時代からそうで、高倉下(尾張の祖)は神武天皇を助けている。尾張は天皇家の敵役(あるいは黒衣)なのではないだろうか?後世の織田信長や秀吉・家康も尾張(付近:岡崎とか)の出身で、彼等により天皇家は日本の支配者ではなくなっている。頼朝も本来の目的は天皇家の打倒だったのではないだろうか?そしてそれは承久の乱で達成される。鎌倉幕府を倒そうとした後鳥羽上皇は沖ノ島に、順徳上皇は佐渡島に流される。頼朝(はもう死んでいるので実際は北条政子)はやり遂げたのである。(但し北条や三浦は平将門の時のように関東の独立を考えていたのかもしれない。 そのせいで朝廷と戦わずに独立だけを考えていたのだが、 朝廷側が許さずに承久の乱をけしかけて来たので、 北条政子にはっぱをかけられて行きつくところまで行ってしまった。)まぁでも源(木曽)義仲と源義経は平家を滅ぼしたかったのかな?でも義経は天皇家に味方しようとした。だから頼朝は尾張に配慮して義経を殺したのではないだろうか?すべては尾張が糸を引いていたのではないだろうか?何の根拠もない妄想だけれども、そう考えたのである。それは何故そう思ったのか?実は称名寺の「楊貴妃の玉簾(たますだれ)」のことを知ったからである。もちろんこれが「楊貴妃」の物だとは思っていない。でも、これは称名寺の三重塔に有った秘宝らしい。そして伝説によれば鎌倉時代に熱田神宮から送られた物なのだそうだ。何故熱田神宮から贈られたのか?頼朝と熱田神宮の間には何が有ったのか?そう考えたら上のこと、つまり鎌倉幕府が開かれたのは、源平の戦いの結果ではなく、頼朝が天皇家から日本を奪い返そうとした結果なのではないか?そう思ったのである。違うかなぁ?そしてこれには理由と言うか原因が有る。北条や三浦の母方の祖先(父方はもちろん平氏)は、古代にヤマトタケルノミコトがここを攻めた時に連れて来た人達の子孫なのではないだろうか?戦争と言うのは国を奪うことが一番の目的である。攻めて相手の国を打ち負かして終わりではない。国を奪ったのであれば、一部は祖国に帰るのだが、残りはそこに住みつくのだと思う。横須賀と言う名前は愛知県の東海市にも有る。彼らが愛知(尾張)から連れて来た地名なのではないだろうか?そして六浦の古名(和名類聚抄地名に載っている)「鮎浦」と言うのは、新編武蔵国風土記に「鮎ではなく鮐(ふぐの古字)」と書かれており、僕もそう思っていたのだが、実は新編武蔵国風土記も僕も、和名類聚抄地名に書かれたフリガナを見てそう思ったのだけれども、それは和名類聚抄地名にフリガナを付けた人が「海に鮎はいないだろう!」と考えたせいで、「フクラ」と言うフリガナは、その人の勘違いだったのかもと思ってしまった。それはここ三浦半島の人が尾張から来た人達の子孫ならば魚の話では無いのである。<後日追記>倭名抄を載せたので、ついでに新編武蔵國風土記の該当部分も載せる。例によって小さくて見づらいので、画像を右クリックして出るメニューから、「新しいタブで画像を開く」を選ぶと別タブで大きな画像で見ることができる。僕もフリガナを見てそうだよねと思ったんだけれども、もしかしたら間違いかもしれない。また上の新編武蔵国風土記の中にも書いてあるが、そもそも和名抄のフリガナ「布久(フク)も誤っているような気がする。これって「フクラ」ではなく「クシラ」と書いてはいないか?称名寺貝塚からはクジラの骨が出土しており、昔は東京湾にも鯨が入り込んでいたらしい。もし「フクラ」ではなく「クシラ」だった場合には「鮎浦」はどう言うことになるのだろう?例えばこの「鮎浦」は単に音をあてただけで、元は「あゆら」だったのではないだろうか?そして和名抄のフリガナは「鮎浦」を書写する際に、海に鮎はいるはずないのに、これって本当は「鯨浦」じゃないのかなと思いながら書いたのでは?その場合色々な考え方ができると思う。以上後日追記終わり。愛知県の「あいち」は昔熱田神宮付近まで海が迫っており、ここを「あゆち」と呼んだことに始まる。これは万葉集にも載っている。万葉集巻三の高市黒人(たけちのくろひと)の歌「桜田(さくらだ)へ鶴鳴(たづな)き渡(わた)る年魚市潟(あゆちがた)潮干(しおひ)にけらし鶴鳴(たづな)き渡(わた)る」と言う歌が元になっている。桜田と言うのは熱田神宮近くの地名で、年魚は鮎のこと、ここに書かれた年魚市潟(あゆちがた)が愛知の名前の由来である。但し、あゆちは鮎の音を使ってはいるが、魚の鮎のことではなく、「あゆ」は本来は「吾湯」と書かれるもので、水が勢いよく流れる様子を言う古語である。なので万葉集の歌は「潮干(しおひ)にけらし」と書かれているのである。ここのことは日本書紀の神代部分にも有り、いわゆるヤマタノオロチ退治の部分である。<日本書紀神代抜粋>そこで素戔鳴尊は大蛇に、「あなたは恐れ多い神様です。おもてなし申し上げます」と言われた。そして、八つの甕の酒を、八つの口に入れた。そのうち蛇は、酒を飲んで眠った。素戔嗚 尊は剣を抜いて斬りつけた。すると尾を斬るときに剣の刃が少し欠けた。割いてご覧になると、剣が尾の中にあった。これを草 薙 剣と名づけた。これは今、尾張国の吾湯市(あゆち)村にある。すなわち熱田の祝部がお祀りしている神がこれである。この名古屋の「吾湯市」の様子が昔の六浦に似ているのではないだろうか?六浦と言うか泥亀も含めて、ここは(埋立てる前は)大きな湾と言うか干潟になっていて、下の古代地図と現在の地図を比較した写真の左側のように湾が広がり、潮の満ち引きに伴ってここ全ての海水が細くなった(写真の青い字「急流だった!」と書いた)部分を通るので、勢いよく潮が流れていたのである。だから「あゆうら」と昔の人は呼んだのではないだろうか?つまり和名類聚抄地名にフリガナを付けた人はそのことを知らなかったので、海には鮎はいるはずが無い。この字は「鮐」の字なんだろうと「フクラ」とフリガナを付けたのである。なお上の写真は画像の上で右クリックして出るメニューから「新しいタブで画像を開く」を選ぶと、別のタブで大きな画像を見られるので参考に。そしてここ三浦半島に尾張の人達の子孫が居たのならば、称名寺に熱田神宮の秘宝が有ってもおかしくはないし、源頼朝は熱田神宮つまり尾張の為に天皇家を没落させたのではないだろうか?そうならば北条や三浦も手を貸すのが当たり前だし、用が済めば頼朝一族を殺してしまうのも分かるような気がする。恐らく今までの人は誰もこれに気がついていないと思う。妄想だけれども違うかなぁ?
August 30, 2025
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愛天堂のAMスーパーラジオキット [K-7613Z]は面白いキットで、実はよく似た [K-7613X]と言うのも有る。何が違うのか?調べてみたらほとんど変わらない。でも、基板をよく見るとXはイヤホンジャックの部分が無い!何故か?実はK-7613Zのイヤホンは2.5mmタイプなのである。昔は2.5mmタイプのイヤホンはよく使われていたが、最近はどこにも売っていない。なので、Xの方は素直にイヤホンをあきらめたのである。いや、3.5mmのイヤホンジャックを付ければ良いのでは?実は穴の位置とボリュームの位置の関係で、PJ-307のような普通の3.5mmのイヤホンジャックは狭くておさまらない。なので諦めたのだと思う。まぁ無理して新しい基板を設計するのは大変だと思う。でも僕は耳が悪いし、我が家はマンションなのでスピーカーは使えない。なので僕は縦長の3.5mmタイプのイヤホンジャックを取り付けた。ただ、このイヤホンジャックは古いので現在同じ物は売っていない。写真はOSC出力をICの5番ピンから取って周波数のカバー範囲を調整している所。この段階で重大事件が発生した。実はこの基板は最初の写真を見ると分かるようにK-7613Xに比べると古くて弱い。あまりいじくっていたせいで、銅箔がはがれて、イヤホンへの配線が銅箔から抜けていた。ただ見た目では分からず、最初は何が悪いのかが全然分からなかった。こういう時は「シグナルインジェクター」が活躍する。シグナルインジェクターは簡単に言えば無安定マルチバイブレーターで、矩形波を発生する発振器なのだが、矩形波はフーリエ解析すると無数の高調波を含んでいる。その為に出力は低周波では基本波そのままで信号源として使えて、高周波部分では無数の高周波成分が高周波信号源(言ってしまえばノイズ)として使える。これを上手く使えば故障点が分かるのである。信号の最終出力を例えばスピーカー(やイヤホン)から聞いて、信号源をスピーカー(やイヤホン)から順番に源流にさかのぼって行けば、聞こえる所までは正常で、聞こえなくなった所の直後が故障回路である。なので、今まで聞こえていたのが聞こえなくなった場合などは、故障点を調べるのに重宝する。シグナルインジェクターの回路図はこんな感じ。ただ電気的な部分よりも、いかに使いやすい形にするかが苦労する。特に電源から長い電源線が出ていたら邪魔でしょうがないし、細かい部分に差し込むので細い出力端子が必要になる。なのでこんな感じで作っている。写真にも書いたけれど意外に重要なのは測定端子の加工である。すぐに錆びる。錆びて接触が悪くなると使いにくい。なので、僕は半田メッキをしている。これの出力波形はこんな感じ。発振器と言えば普通はきれいな矩形波の方が理想的なんだけれども、シグナルインジェクターとしては汚い方が高調波成分が多いので使いやすい。普通の人、耳の良い人ならばこれを使って各所に信号を入力して、スピーカー(又はイヤホン)から音が聞こえなくなる所が見つかれば良いのだけれども、僕は耳が聞こえないので仕方ないのでオシロをスピーカーに並列につなぐ。そしてこのK-7613Zの場合はICの足の部分が測定端子を差し込みやすいので、回路図を見ながらチェックして行く。特に重要なのは、12番ピン=スピーカーの直近=ここで聞こえなければC4が悪い。まずは12番ピンを見るとこんな感じ。波形がメチャメチャなので、心配したが、奥さんに聞いてもらうと音としては同じらしい。実はこれは予想可能なことで、出力をインピーダンスの低い所につないだせいだと思う。まぁ奥さんがOKをくれたので次に行く。次は14番ピン。ここはIF(中間周波数)の最終段で検波前の部分。なので、周波数を見ると元々のシグナルインジェクターの出力周波数に近い。そして結構な出力が出ている。ここに信号入力したら、検波によって多少信号は弱まるけれども、ここの後ろの低周波増幅段で大きく増幅するので、当たり前と言えば当たり前なのかもしれない。ちなみにここならば、僕でも音が聞こえる。次は2番ピン。ここはANTからの入力とOSCで発振した両方の電波が混合されたあと、つまりIF(中間周波数増幅段)の入口の部分。本来ならばIFTにより455kHzしか通らないはずなんだけれども、矩形波にはその辺の高調波も含まれているので、それが信号として増幅されてスピーカーに流れる。ここも僕の耳でさえも聞こえる。最後は6番ピン。ここはバーアンテナからICへの入力部分。つまりここに信号を入力して音がすれば(放送局の電波が受信できるかは別として)、ラジオとしては半分は大丈夫な状態。ここにシグナルインジェクターの出力を入力して音が聞こえるならば、ダメなのはOSC回路部分である。つまりOSCがちゃんと必要な電波を発振していないので、455kHzが発生せず、ラジオとして機能していない(残り半分がダメ)状態である。まぁ、OSCが機能しているかいないかは、ICの5番ピンからOSCでの発振出力が出ているので、ここを調べれば分かるのではあるけれど。こんな感じなのでシグナルインジェクターを上手く使えば、ラジオのどこが故障しているかが簡単に分かるのである。原理さえ理解できれば、他の電気機器例えばオーディオアンプなんかにも使える。オーディオアンプでも要は音が出なくなったら、その直後の回路がダメなのだから。そんなかんじなので、愛天堂のK-7613Zは無事に動いています。
August 20, 2025
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アリエク(AliExpress)で面白いラジオを探していて、安くて実用性が有りそうなAM/FMラジオを見つけました。BS208HAFです。さっそく買ってみました。1476円です。色はちょっと安っぽいので不満があるのですが、実際に安いので仕方ないと言う話もあります。(送料を除くと635円です。)何よりも2バンドラジオです。ただFMもステレオじゃなくてモノラルなのが不満ではあります。まぁ、さっそく作ってみます。中国製ですが、アメリカ向けに英語の説明書も入っています。でも僕は英語も苦手なので、絵で分かる回路図や写真が頼りです。回路図はこんな感じです。写真を右クリックして出るメニューから「新しい画像を別のタブで開く」を選ぶと、大きな画像で見られます。右上の設定で拡大もできるので、特に左下の実体配線図が参考になるかも?ラジオICは愛天堂でも売っているCD2003で東芝のTA2003の互換品です。愛天堂ではこれを使ったケース付きFMラジオきっと [K-FM2003A]も売っています。(但しFM部分しか使っていない。)歴史が有って確実なラジオICです。ここでせっかく作るのならと、スケベ心がむくむくと起き上がります。このラジオはFMバンドは88~108MHzなんだけれども、せっかくだから日本で使えるように78~95MHzを受信できるように改造しよう。愛天堂のZX-2051でつちかったノウハウが有るので大丈夫。ただZX-2051とはコイルがちょっと違うんだよなぁ。(ZX-2051のOSCコイルは4.5回巻きだったのにこれは3.5回巻き)まぁやってみよう。と言うことで上の写真左上にも書いてありますが、C1は30pFを47pFに、C9は18pFを33pFに、C11は15pFを30pFにしました。ただ少し大きかったようで、3個コイルをそれぞれの広げるはめになりました。でも、広げる分には調整可能なので良いのかも?狭めるのは無理だから。こんな感じです。この程度の広げ方なら対応可能です。写真を見ると右側にイヤホンジャックが有ると思います。このラジオはスピーカー専用です。でも我が家はマンションなのでスピーカー禁止。仕方ないのでドリルで穴を開けてつけました。でもイヤホンはお奨めできません。ぼくは耳が悪いので大丈夫なのですが、このラジオは通常ならばICの出力だけで十分にイヤホンや小スピーカーを鳴らせる出力なのに、それをさらに3石のトランジスターで増幅しているので、ものすごい音量で鳴ります。なので耳の良い普通の人はイヤホンだとボリューム最小でも耳が痛くなると思います。なので、元々はスピーカー専用なのです。AMは簡単な調整で、下はNHK第一(954kHz)から上はラジオ日本(1422kHz)まで、きれいに入ります。低い周波数の方はバーアンテナ、高い周波数の方はトリマーコンデンサーで、トラッキング調整をします。セラミックフイルターを使っているので中間周波数は無調整です。これが初心者には親切だと思います。初心者はたいていせっかく受信できているラジオを、IFTをいじくってダメにしますから。FMは多少調整が必要です。これはメーカーが悪いのではなく、元々88-108MHzだったのを77-95MHzにした僕が悪いので、仕方ありません。自作のFMトランスミッター(FMワイヤレスマイク)低周波変調回路付きを使います。写真ではすぐ近くに置いていますが、電波は強いので実際は2mほど離して調整します。デフォルトで若干は聞こえているはずなので、最初は周波数範囲の調整をします。自作FMトランスミッターの周波数をいじくって写真のように上が94MHz下が77MHzにします。上の写真では最初は95MHzにしていたのですが、感度の調整中に94MHzになってしまいました。調整は上の写真の中にOSCと書いたトリマーとコイルL3で行います。トリマーを中心の状態でコイルの方を先に広げてやった方が簡単です。周波数範囲が決まったら、次は感度の調整です。AMと同様に低い方の周波数でL2を広げて最大感度に持って行きます。上手く行ったら高い方の周波数で上の写真のANTろ書いた方のトリマーをいじくって調整します。最後にBPF(バンドパスフイルター)の調整です。FMトランスミッターを85MHzくらいにしてL1を広げて最大感度になるようにします。このラジオICにはFMの前置増幅器が有ります。昔のラジオで言えば「高周波増幅回路」です。ただ、昔の高周波増幅回路はそれ用の同調回路がついていたのですが、さすがにポリバリコンはFM用に3連バリコンなんてありません。なので、広範囲に増幅することになりますが、その同調回路としてBPFがついているようです。すると、このラジオは電波の状況の悪い僕の部屋でも5局くらいは入ります。前回作ったZX-2051と同じかちょっと感度が良いようです。南側のベランダなら20局以上入ります。運が良いと静岡や千葉のFMも入ります。AMも上でも書いたようにNHK第一からラジオ日本で全部入ります。入って欲しくない韓国や中国の放送も入ります。完成するとこんな感じです。上の方に見えるのは英語版の説明書です。英語が読める人ならば役に立つと思います。完成して気がつきましたがLEDが無いです。チューニング用のLEDが有る分、ZX-2051の方が良いかな?こんな感じで完成です。ただ音がボリュームをしぼっても大きいんだよなぁ。まぁ聞こえないよりはいいか。
August 16, 2025
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前回の、久しぶりに愛天堂に行ったらZX-2051が有ったので買ってみました。(その1)では、なるべくオリジナルを使うと言うことで、バーアンテナはオリジナルの物をつかったが、記事の中で、同じ長さでインダクタンスが小さいBT330DEなら使えるのじゃないかと思い、そう書いたのだけれども、言いっぱなしだとダメなので、検証することにした。幸いにして愛天堂に行った際に「予備として」もう1台買っておいたから。BT330DEも愛天堂で買ったのだけれども、こんな感じである。1をC、2と3をつないでb、4をaとして使えばオリジナルのバーアンテナと同様に使えると、そう思ったからである。上にも実力値を書いたが、実測してみたら愛天堂のホームページに書いてあるのよりも小さい。でも、これは測定器の誤差や個々の個体差も有るので、まぁ誤差の範囲である。まずはT2。LCRメーターでは0.269mHと表示されているが、実はこのLCRメーターは僕がいじくりすぎて多少小さく表示される。何もつけない状態で-0.009mHが表示されたりするのである。(-0.009mH=-9µHです。)なので、多分実力値は280µH位だと思う。同様にT1を測る。T1は40µH位である。これを使うにはT2とT1を直結するのだが、同じフェライト棒に2つのコイルを巻いた場合、その巻き方により加算されたり、減算されたりする。加算される巻き方を「和動接続」、減算される巻き方を「差動接続」と言う。まずは和動接続してみる。写真にも書いた通り、T2=280µHとT1=40µHに相互インダクタンス60µHの2倍が加算されて440µHくらいになる。次に差動接続してみる。いやー、学校で習ったそのままなのがうれしい。T2=280µHとT1=40µHを加算した320µHから相互インダクタンス70µHの2倍が減算されて、180µHになる。和動では60µH、差動では70µHと書いたので10µHの差が有るが、そもそもこのLCRメーターは何もつながない状態で-0.009mHを示し、10µHくらいの誤差が有るので、多分相互インダクタンスMは60~70µHくらいなのだろう。ただ和動接続するにしても440µHでは少なすぎる。なので、余ってぶらぶらしている巻線を順方向に追加で巻いてみた。その上で和銅接続すると巻線は4か所で2~3回づつ、つまり10回巻き数が増えて、540µHに増えた。LCRメーターで確認しながら「増える方向に」巻かないと逆効果なので注意。キットの部品を改造するのは、僕の得意技である。また前回はFM部分も日本バンドに対応させる為に、ANTのRFコイルであるL1とOSCコイルのL2にバリコンと共に並列に接続された、C3とC4を15pF→30pFにしたが、大きすぎてL1とL2を少し広げなければならなかった。今回はC3とC4は24pFにしたら、ちょうど良かったみたいで、L1もL2もほぼそのまま(少し広げたけれど)で周波数範囲も感度調整も上手く行った。なお、L2は愛天堂の回路図では5.5Tになっており、L1は4.5Tだけれども、元の中国での部品一覧及びSONYのデータシートを見ると逆で、L2が4.5T,L1が5.5Tなので注意が必要である。その結果けっこう上手く行ったので、前回の(その1)と並べてみた。写真は右クリックして出るメニューから「新しいタブで画像を開く」を選択すると、別タブで大きな写真が見られるので、参考に。写真の中にも書いたが、BT330DEはオリジナルコイルよりも太い。なので、インシュロック(基盤に取付用の白いプラスティック紐)はフタを閉める際に邪魔。なので、頭部分を切り取って接着剤で固定している。実際に受信してみたが、FMは前回の(その1)も今回の(その2)もともに約77.0~95.0MHzくらいをクリアーしており、感度は結構いい。AM(MW)は前回の(その1)は低い周波数部分が入らなかったが、今回の(その2)は全て受信できるうえに感度がメチャメチャ上がった。入らなくても良い中国や韓国の放送まで入るし、受信環境が最悪の僕の部屋の中でさえ、ニッポン放送やラジオ日本が入る。奥さんに言わせると、字が汚くて見づらいので10点だと言うことだが、ラジオとしては100点だと思う。愛天堂のお姉さん、安心しても大丈夫ですよ。セラミックフイルターはちゃんと良品で使えているし、バーアンテナをBT330DEに変えて(少し巻き数を増やして)、FMのRF及びOSCの同調回路のコンデンサーC3とC4を24pFにすればものすごく良いラジオになります。多分、元々の980円+バーアンテナ320円+セラミックフイルターとコンデンサー100円と、お姉さんのおこづかい100円を加えて1500円でも売れると思います。
August 14, 2025
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宮崎には北の方に高千穂峡が、南の方に高千穂の峰が在り、どちらが古事記や日本書紀に書かれた「高千穂の峰」なのか争っていて、観光地としての高千穂峡の方が知名度が高いので、何も知らない人は、天孫降臨の地は高千穂峡の方だと勘違いしている人が多い。古事記の該当部分を見るとこうなっている。天孫降臨の場面である。<原文>天降坐于竺紫日向之高千穗之久士布流多氣<意訳>筑紫(九州)の日向国の高千穂の素晴らしい山に天降りされました。ここだけを読むと確かに「高千穂峡」と「高千穂の峰」どちらでも正しいと読める。ところが、続きが有る。<原文>於是詔之此地者向韓國眞來通笠紗之御前而朝日之直刺國夕日之日照國也故此地甚吉地詔<意訳>この国は韓の国に向かい、往来するのに(多分舟で行く際に)適した笠紗の岬があり、朝日が直接差しタ日が明るく照らす土地なので、この国はとてもよい土地だなぁと仰った。高千穂峡近くには韓の国に関わる地名は無く、笠紗の岬も無い。両者が有るのは高千穂の峰の傍である。高千穂峡も朝日が直接差しタ日が明るく照らす土地ではあるが、それは宮崎はどこでもそうである。これだけでは決着はつかない。なので日本書紀の当該部分を見る。但し、日本書紀はけっこう本格的な漢文で難しいので、意訳文を載せる。<意訳>天津彦火瓊瓊杵尊は、日向の日の高千穂峯に降られて、膂央の胸副国(瘦せた土地の国)を丘続きに求め歩いて、浮渚在平地に立たれ、国主である事勝国勝長狭を召されて尋ねられた。事勝国勝長狭は、「ここに国があります。お好きなようになさってください」と答えた。また、日本書紀は別の文書も一書として載せており、それにはこう書かれている。日向の襲の高千穂の、扼日の二上峯の天浮橋に至り、「浮渚在平処」にお立ちになって、膂央の空国を、丘続きに求め歩いて、吾田の長屋の笠狭の崎に着かれた。ハッキリと「襲の高千穂」と書かれている。古事記の国生みの場面で、イザナギとイザナミが生んだ九州には4つの国が有り、「筑紫の国」、「肥の国」、「豊の国」及び「熊襲の国」である。同じ古事記の中の話なので、襲の高千穂は古の熊襲の国である。また「笠狭の崎」は「吾田の長屋」である。和名類聚抄地名では吾田とは現在の「薩摩国阿多郡」である。どうしてもプライドが許さない歴史学者は、天津彦火瓊瓊杵尊が高千穂峡に降り立って、良い国を求めてさまよって(丘続きに求め歩いて)、吾田の長屋の笠狭の崎に着いたのだと主張するが、そもそも日本書紀には「峯」と書かれており「峡」とは書かれていない。一部の学者は二上峯が高千穂の峰には無いと主張するが、現地で霧島山系を眺めればすぐに分かる。高千穂の峰と韓国岳は上の写真の瓊瓊杵尊が降り立った方角から見れば完全に「二上峯」である。そしてプライドの高い学者は日本書紀の「空国(からくに)」をむりやり「そらくに」と読むが、古事記と合わせて読めば「韓国(からくに)と読むのは明白である。「空」も「から」である。では、ここから韓国が見えるのであろうか?古くは異国全般を「韓」と呼んだ。この韓国岳のふもとには「えびの」市がある。市のホームページでは、その名前の由来を「すすきの蝦(えび)色」に染まった野だとするが、そんな理由なら全国の野原は全部「えびの」である。そうでは無いと思う。この付近の古い伝説や言い伝えには「隠れ里」が多い。ぼくはここには中国や韓国から、戦乱を逃れて来た渡来人が多く住んで居たのだと思う。例えば熊本県葦北郡には百済人が多く住んで居て名前が残る「百済来村」が有る。僕はよく「日本伝説体系(南九州)」を読むが、鹿児島から宮崎には「隠れ里」伝説が多い。例えば鹿児島県肝属郡高山町(きもつきぐんこうやまちょう=今は合併して肝付町)や、姶良郡霧島町、川辺郡知覧町等に隠れ里伝説が残っている。なので、えびすに渡来人が隠れて住んで居ても何の不思議もないのであるが、もしえびのに渡来人の集落が有ったのならば、「えびの」は「戎(えびす=渡来人)の野」なのではないかと言う気がしてくる。もしそうならば、天津彦火瓊瓊杵尊が韓国岳からえびのを眺めて、「この国は韓の国に向かい」と仰っても何の違和感も無いのである。つまり高千穂の峰が天孫降臨の地だと言う裏付けは多いのである。では何故宮崎県北部に「高千穂峡」が有り、そこが天孫降臨の地であると主張する人が居るか?それは、元狗奴国の子孫達が本来邪馬台国の神話であった天孫降臨の神話を、自分達のものとして奪おうと考えたからである。なので、熊本から大分にかけて存在した狗奴国に近く、本来の天孫降臨の地から離れた高千穂峡を作り上げたのである。「高千穂峡を作り上げた」と言うのは現地に行って見ればすぐに分かる。高千穂峡は観光写真でも流れ落ちる滝で有名であるが、あの滝は人工の作り物の滝である。つまりいかにも神秘的な所と言う雰囲気を出す為に造られた物なのである。高千穂峡に有る「天の岩戸」も同様に作られたものなのだと思う。何故そのようなことをしたか?全ては狗奴国の子孫が王権を奪回して天皇家にもぐりこんだ時に始まったのだと思う。それはいつか?応神天皇の時代である。古事記や日本書紀にも書かれている通り、神功皇后と竹内宿祢は仲哀天皇の2人の子を殺し、自身の子の応神天皇を天皇の位につけている。仲哀天皇が九州で死んだ時の様子はあまりにも怪しくて、仲哀天皇は「神を疑って逆らって」、琴を弾いているうちに(何故か)死んでしまう。しかも2人は仲哀天皇の2人の子、麛坂皇子と忍熊皇子と戦って殺す。何でそうなったのか?神功皇后の父は息長宿禰王、母は葛城高顙媛であるが、母の葛城高顙媛は新羅から来たアメノヒホコの子孫である。息長宿禰王の御先祖様には丹波道主がおり、丹波は新羅の第4代の王「脱解尼師今」の故郷である。つまり神功皇后は新羅の王家と縁が深い。なので日本書紀を読んでも仲哀天皇に対して「新羅とは戦ってはいけない」と主張している。神功皇后と竹内宿祢が仲哀天皇を殺したのではないだろうか?なので、仲哀天皇の子の麛坂皇子と忍熊皇子は敵討ちと考えて神功皇后を待ち受けて殺そうとした。ところが、神功皇后には意外な味方がついていた。それが狗奴国の子孫達なんだと思う。狗奴国の子孫達にしてみれば、邪馬台国の子孫の仲哀天皇の子の麛坂皇子と忍熊皇子を殺し、神功皇后と応神天皇を助ければ、今度は自分達が倭国の中心になれるからである。なので、応神天皇と神功皇后は狗奴国の中心であった熊本や大分を中心とした九州に、例えば宇佐八幡宮のように祀られた神社が多いのだと思う。勝った神功皇后と応神天皇の子孫は天皇家を継ぎ、その五代後の継体天皇が現皇室の御先祖様である。継体天皇が天皇になった際にも謎が多い。先代の武烈天皇は異常なくらいメチャメチャに書かれている。いやしくも天皇がそんな行いはしないと思うくらいである。本当に子供がいなかったのだろうか?本当は狗奴国に王座を奪われた邪馬台国の子孫達が復活しそうになって、戦争にはならなかったが、皇室内で非情な戦いが有ったのではないだろうか?そのせいで継体天皇は19年も都には入れずさまよっている。継体天皇は仁賢天皇の皇女の手白香皇女を奥さんにもらって事態を収拾している。手白香皇女は邪馬台国側の人で、狗奴国側の継体天皇と邪馬台国側の手白香皇女が夫婦になることにより、狗奴国側と邪馬台国側が妥協したのではないだろうか?そして、その子孫の推古天皇までが狗奴国の子孫なんだと思う。その証拠はあるのか?実は物的証拠が残っている。継体天皇の真陵である今城塚古墳や、推古天皇の初陵である植山古墳の石棺は、熊本の馬門石でできていたと確認されている。何故わざわざ熊本から石棺を運んで来たのか?先祖代々の霊を祀る為である。熊本と言えば狗奴国。大分は熊本から近畿に至る経路。神功皇后の時代には熊本から大分が狗奴国の子孫の治める地だったのだと思う。狗奴国王のスサノオは朝鮮(恐らく新羅)に追放されたのだけれども、その子孫は、神功皇后と応神天皇の時代に再度日本の中心に戻って来たのだと思う。そして邪馬台国を消し去ろうと考えたのである。ただ、人々の頭の中に残る神話は消せなかった。なので、狗奴国に近く、実際の位置とは違う高千穂峡に偽の天孫降臨の地を作り、邪馬台国は神話の中に隠そうとしたのだと思う。そのせいで、古事記や日本書紀には邪馬台国について何も書かれておらず、神話の中にだけ、ほのめかす程度に天照大御神やスサノオのことが書かれているのである。また、その事を感じさせる別の証拠がある。隋書倭国伝である。この本は「推古天皇の時代に来た中国の使者が会ったのは男で、奥さんやお妾さんがいた」とか、倭國の王の名は「俀王姓阿毎字多利思北孤」と書いており、「アメのタリシヒコ」だとされ、これが聖徳太子だとか、蘇我馬子だとか色々と言われている本である。その中で、こう書かれている。<原文>俀国在百済新羅東南水陸三千里於大海之中依山島而居魏時譯通中國三十餘國 皆自稱王夷人不知里數但計以日其國境東西五月行南北三月行各至於海地勢東高西下 都於邪靡堆則魏志所謂邪馬臺者也<意訳>俀国は百済、新羅の東南、水陸三千里の大海の中に在り。山や島に寄添うようにして暮らしている。魏の時、中国に訳通するは三十余国。みな王を自称す。夷人は里数を知らず。ただ日を以って計る。その国境は東西五月行、南北三月行にして、それぞれ海に至る。地勢は東が高く西が低い。邪靡堆(ヤマト)を都にする。すなわち、魏志の言うところの邪馬臺(ヤマタイ)である。つまり近畿の奈良が邪馬台国だと教えられている。そりゃそうだと思う。私達は狗奴国の子孫なんですよとは口が裂けても言えないと思う。このせいで今でも歴史学者達は邪馬台国近畿説を支持するのだと思う。でも文章をよく読んで欲しい。「俀国在百済新羅東南水陸三千里於大海之中」つまり「百済、新羅の東南、水陸三千里の大海の中に在り」と、魏志倭人伝とは方位と距離が変わっている。また、「其國境東西五月行南北三月行各至於海」と、南北は恐らく九州であろうから、東西はその比率から考えて伊勢湾まで有ると分かる。とすると、魏志倭人伝の時代の情報とは違うのである。魏志倭人伝では「南へ南へ」と進むのに、ここでは「東南」とされている。邪馬台国から邪靡堆(ヤマト)へと移っている。但し、推古天皇の影武者(聖徳太子?)は本当のことは言えないので、「そうなんです。ここが魏志倭人伝に書かれた邪馬台国なんですよ」と嘘をついているのである。もし邪馬台国ならば「邪靡堆」ではなく「邪馬台国」で良いんじゃない?ここまで書くと「高千穂の峰」と「高千穂峡」が宮崎の南の果てと北の果ての2か所にある理由が、分かったと思う。狗奴国の子孫の推古天皇の時代に本当の邪馬台国を消し去り、自分達狗奴国の子孫こそ天孫だとごまかそうとしたのである。だから古事記や日本書紀には邪馬台国や卑弥呼が載っていないのだと思う。<後日追記>「百済、新羅の東南、水陸三千里の大海の中に在り」と言うのは、この使者が推古天皇の時代の使者なので、会ったのはその時代の天皇、ならば奈良まで来たと考えたのだが、そうではなくて、百済、新羅の東南、水陸三千里と言うことは北九州ではないだろうか?魏志倭人伝を読むと、帯方郡から朝鮮半島の南端狗邪韓国まで7000里と書いている。その計算で行くと、百済や新羅から3000里なんてせいぜい九州の北部。もしかすると、中国の使者が会ったのは「九州王朝の天皇」なのかもしれない。もしそうならば、男だとしても何の問題も無く、名前の「アメのタリシヒコ」と言うのは、天(アメ)の足または帯(両方ともタラシ)彦なのかもしれない。仲哀天皇だって「帯中日子天皇(たらしなかつひこのすめらみこと)」だから「たらし」だし。そもそも天孫(天からたらし=降りて来た=彦=男)なのかもしれない。もしそうなら大変なことだなぁ。それって推古天皇の時代まで、中国の使者が来る日本の中心は北九州で、奈良の大和は「近畿地方事務局」だったと言うことだから。そうか、だから白村江の戦いの時は斉明天皇も九州まで来たのか。九州の本社が負けたら奈良の近畿地方事務局だって大変だからなぁ。そして唐に負けて九州王朝が滅んだので、奈良の近畿地方事務局が、倭から日本に名前を変えた日本の都になったのか。<さらに後日追記>上の後日追記は隋書倭国伝なのであるが、さらに同じような内容が旧唐書や新唐書にも書かれており、その中にも「アメのタリシヒコ」について書かれており、特に新唐書では、その正体が分かる書き方をしている。但し、実はまだ自分では意訳さえもできておらず、ここに載せられる状況ではない。ちょっとだけ他の人が現代語訳したのを引用する。<引用>日本國の官位には十二等級(冠位十二階)があり、国王の姓は阿毎(あめ又はあま)氏である。その国王が自ら言うには、初代の国王は天御中主(あめのみなかぬし)と名乗り、彦瀲(ひこなぎさ)に至るまで、およそ三十二代とされている。(古事記によれば「ひこなぎさ」とは天津日高日子波限建鵜葺草葺不合命(あまつひこ ひこなぎさ たけ うがやふきあえず の みことのことである。)彼らは皆、尊(みこと)を尊称として、筑紫城に存在していた。(そして)彦瀲の子の神武(じんむ)が継ぎ立ち、あらためて天皇を名乗り、大和州に移り住んでその地を治めた。(神武東征のこと?)神武の次を綏靖(すいぜい)と云い、その次は安寧(あんねい)、その次は懿德(いとく)、その次は孝昭(こうしょう)、その次は天安(孝安~こうあんの間違い)、その次は孝靈(こうれい)、その次は孝元(こうげん)、その次は開化(かいか)、その次は崇神(すじん)、その次は垂仁(すいにん)、その次は景行(けいこう)、その次は成務(せいむ)、その次は仲哀(ちゅうあい)となる。仲哀が死んだあと、開化の曽孫女(そうそんじょ~ひ孫むすめ)の神功(じんぐう)を王とした。その次は応神(おうじん)、その次は仁德(にんとく)、その次は履中(りちゅう)、その次は反正(はんぜい)、その次は允恭(いんぎょう)、その次は安康(あんこう)、その次は雄略(ゆうりゃく)、その次は清寧(せいねい)、その次は顯宗(けんそう)、その次は仁賢(にんけん)、その次は武烈(ぶれつ)、その次は継体(けいたい)、その次は安閑(あんかん)、その次は宣化(せんか)、その次は欽明(きんめい)である。(ちゃんと歴代天皇の情報を一部に間違いはあるが概ね把握している。)欽明の十一年は、梁(りょう)の承聖(しょうせい)元年(552年)にあたる。その次は海達(敏達~びんたつ)、その次は用明(ようめい)となる。また言うには、多利思北孤(たりしひこ)の代理として来朝したのは隋の開皇(かいこう)末(600年)にあたり、そのとき初めて(大和王朝は)中国と国交を通じたのである。(つまりその前は倭国王朝?)その次は崇峻(すしゅん)となる。その崇峻が死んで、欽明の孫女の雄古(推古~すいこ)が継いだ。その次は舒明(じょめい)、その次は皇極(こうぎょく)となっている。(中国側は天皇の相続は「親から子へ」が当たり前と考えているので、 日本側が「親から子でない」場合は相続関係が変になっている。)こうしてみると、多利思北孤(たりしひこ)とは用明天皇じゃん。ただ、日本側の時間とは少しずれており、日本側の時間では推古天皇になるんだけれど、まぁ、遠く離れた国だし、古代の話だから、ちょっとしたズレは仕方ないのかな?でも、本当にそう?
August 12, 2025
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久しぶりに愛天堂に行ったら、FM/AM 2バンドラジオのZX-2051を見つけたので買ってみた。但し、どうもお姉さんが改良中みたいなので、この記事を読んでもすぐには買わないで、お姉さんが改良を終えてから買ってあげて下さい。そうしないと上手くいかなくて鳴らないとお姉さんに迷惑がかかるから。お姉さんが改良中だと思ったのは、以前このZX-2051を買った際に鳴らないと不思議に思って調べたら、セラミックフイルターが壊れていて、それが原因で交換したら直ったのだけれども、今回愛天堂で見つけたZX-2051は交換用のセラミックフイルターが付いていたから。右下が交換用に付いていたセラミックフイルターで、右上が(もしかしたら不良品かもしれない)オリジナルのセラミックフイルター。もう見ただけで壊れそうな感じ。そうこのセラミックフイルターは足が折れて取れやすく、取れなくても内部の接続が切れている場合が有るみたいなのである。お姉さんがせっかく苦心して改良しているので、交換用の新しいセラミックフイルターの特性を調べてみた。まずは10.7MHzの状況。ちょうど10.7MHzじゃなくて少しずれているけれど、信号の発生器が自作の物で、バリコンは指で回しているので精度が出せません。ごめんなさい。なお、写真は右クリックして出るメニューから「新しいタブで画僧を開く」を選ぶと、大きな画像を別タブで見られます。つぎにバリコンを少し回して、10.7MHzよりもちょっと上の周波数にずらしてみる。フイルターの威力により信号は低減している。そして僕の指で回しているせいで精度は出ないけれども、これ以上回すと信号は消えてしまう。次は10.7MHZよりも下の方にしてみる。こちらもセラミックフイルターの威力で信号はぐっと下がる。また、もう少し周波数を下げると信号は消えてしまう。ラジオの中間周波数はこのようなセラミックフイルターを使うことにより、10.7MHzの信号だけが大きく増幅されて、必要な信号のみが取り出せるようになるのである。愛天堂のお姉さん大丈夫ですよ。交換用のセラミックフイルターは優秀です。なおかつお姉さんが改良中だと思ったのは、右下のAM用のセラミックフイルターが455kHzで、通常の中国のラジオの465kHzじゃないこと。愛天堂に置いてあるラジオ用の周波数カウンターや秋月の周波数カウンターは、日本向けなので中間周波数が455kHzなんだけれども、元々の中国のラジオ用の465kHzだとうまくつかないから、お姉さんは改良中なんだと思う。お姉さんのおかげでFMはなんとかなりそうなんだけれども、実はこのラジオ、AM用のバーアンテナがバリコンに合ってない。このラジオのバリコンは可変容量が140pF(つまり諸々の容量を含めて150pFくらい)X2の等容量バリコンなんだけれども、通常は600µHくらいがちょうど良いのに900µHもある。上の写真はコイルを端に寄せているので886µHだが、中央に近づくと900µHをはるかに超える。なので、僕はどうするかと言うと通常の使用方法(a-c間を使う)をあきらめて、足を読みかえて(a-b間)を使う。つまり中間タップを利用して、そこにバリコンをつなぐ。ただそれでも大きいので、なるべくコイルを端に寄せて、なおかつバリコンのトリマーを抜く。で、最初にお姉さんが改良するのを待ってから買った方が良いと書いたのはこれのせいである。多分お姉さんが何らかの方法でクリアーすると思うので、買うのを待った方が良いのである。この状態だとNHKのように低い周波数は受信できない可能性が有る。(言葉足らずで誤解を与えるので説明すると、 現状だと周波数の高い方が受信できない。大体1400kHz以上は受信できない。 その場合僕は色々な工夫をこらして無理矢理受信周波数を上にずらすのである。 すると逆に下の方の周波数が受信できなくなってしまうのでこう書いている。)まぁ僕はNHKが嫌いなので、1242kHzのニッポン放送と1422kHzのラジオ日本が入れば良いので、なんとか調整可能なんだけれど。(バーアンテナのインダクタンスが大きいと高い周波数側は同調可能周波数が下がるので、 調整が難しいので、結構大変です。 ちなみに900µHのままだと1300~1400kHz以上上にはなりません。 なお700µHの状態でも、後日ニッポン放送が最大になる状態で受信周波数を調べたら 660~1450kHzでした。 受信周波数はOSCコイルとOSCトリマーで決まるので、 受信感度を犠牲にすればカバー範囲は広がるのですが、 ANT回路がバーアンテナのせいで広がらないのでニッポン放送の感度が落ちてしまいます。 なので、素直に諦めて660~1450kHzで妥協したのです。)簡単な計算なので、エクセルで計算してみました。基板の持つ容量やトランジスターの入力容量及びトリマーの半分を合わせて15pFと見ています。だいたい600µHくらいが最適だと思いますが、700µHでもトリマーを最小に抜けばギリギリ大丈夫だし、550µHでもトリマーで調整可能な範囲だと思います。もし予算に余裕が有るならば、バーアンテナを適当なのに変えれば良いと思います。長さが5cm以下で、インダクタンスが600µHくらいなら良いと思う。例えば愛天堂ならば「BT330DE」なら290円(税込み319円)なので、コイル端子の2と3を直結して「b」として、4を「a」、1を「c」として使えば良いと思う。スペースが5cmしかないので他のバーアンテナを使う場合は要注意。さっそく組み立てる。半田付けは高さの低い部品からするのが基本。なので最初はラジオ用ICから半田付けする。この半田付けが一番のキモで、これがイモ半田になってしまうとラジオは鳴らない。器用な人はICの足を1本1本半田付けできるけれども、僕はもう年をとって目が見えないので、まとめて半田付けする。最初に簡単な端っこの1本だけ半田付けして、固定できたら溶かした半田を流すようにして、片側づつ全部の足に半田を付ける。何故このようにするかと言うと、一つは年寄りなので目が見えないからなんだけれども、もう一つは1本1本半田付けすると、足と基板の温度差が発生しイモ半田になる可能性が有るからである。半田付けが上手く行かない場合は、だいたい足だけとか基板だけに半田がついていて、上から見ると両方が半田付けできているように見えてできていない。半田付けが予熱が大事なのはこれを防ぐためである。なので、僕は上のように半田を流す。すると温度を与える時間が長いので、足と基板が均等な温度になり半田が乗りやすい。ただ問題は、その半田を落とす作業。これは溶けた状態で机などにたたきつけるのだが、緑色のレジストがうまく働くと、レジスト部分には半田はつかないので足の部分にだけ半田が残る。大事なのはたたきつける力の加減と角度である。角度が悪いと溶けた半田が他の銅箔部分にくっついてしまう。この辺が慣れだと思う。上手く行くと奇麗に足の部分だけに半田が残る。足2本に半田がまたがってしまっている場合は、綺麗に清掃した半田ごてを軽くあてて引っ張るようにすると、半田は半田ごてにくっついて引きづられて行き、2本の足にはそれぞれ半田が残って独立する。まぁこれも慣れだと思います。終わったらアルコール等で綺麗にして、ルーペでブリッジ(2本の足が半田でつながること)がないか確認する。今回の製作では珍しく一発でFMが鳴るようになった。但し、お姉さんがそこまで改良するか不明だけれども、このラジオは元々が中国やアメリカ向けなので、受信範囲が88-108MHzである。これを何とかしなければいけない。コイルを自作する方法も有り、前回はそうしたのだが範囲がひろが有りすぎて調整が難しい。なので前回の経験を活かしてバリコンの並列容量を変えることにした。変えるのはC3とC4で現在は15pFである。これを30pFに変える。すると何故かうまくいってしまった。L1とL2のコイルが少し広がっているのは調整した結果。これは一つのコツでコイルを先にトリマーが中間点位の状態で上手く行くように調整すると、微調整をトリマーでできるのでやりやすいのである。逆でもいいのだけれども、コイルを調整するのは金属や人間が触ると変化するので、上手く行ったと思っても調整用のドライバーを離した瞬間に動くので難しいのである。トリマーは一般的にドライバーが接触する真ん中はアースなので、若干は変化するけれどもコイルほど難しくはないのである。なお、写真の中に「コイル部分は固定しない」と書かれているが、これは正確にはバーアンテナは右側の方だけインシュロック(固定用プラスティックひも)で固定、コイル部分はトラッキング調整時に左右に動かすので固定しないと言う意味である。念の為。最初にも書いたし、上の写真にも書いているけれども、AMバーアンテナの半田付けは足を読み替えないといけない。上の写真のようにa-b間をバリコンにつなぎ、b-c-間をラジオICへの出力にする。以上で製作は完成なんだけれども、この後の張政がもっと大事なんである。市販のラジオでは調整してあるので感度が良いが、自分で作ったラジオは最初は感度がものすごく悪い。それが調整すると数十倍も感度が上がっていくので楽しい。多分アマチュアがラジオを作る際に一番感動するのは、この調整によって自分でも分かるほど感度が上がっていく時だと思う。ただ、これは両刃の剣で、調整して感度が上がると言うことは、逆に言うと失敗すると感度が落ちると言うことで、失敗するとせっかく聞こえていたラジオが聞こえなくなる場合も有るので、そこは怖い所でもある。僕はAMAZONで買ったFMトランスミッター(FMワイヤレスマイク)に自作の変調器(実は単なる低周波発振器)をマイクの代わりにつけて、FM調整用の発振器にしている。発振器は0.1MHZ単位で周波数を変えることが可能で50-108MHzまで変えられるので、FMラジオの調整には最適である。これを使ってラジオの目盛に合わせて、その時の周波数を記録してラジオに書き込んだ。すると概ね77-95MHzが受信できた。また同時にRF側もこれを使って受信感度が最大になるように調整する。すると受信環境が悪い僕の部屋でも5局くらい受信可能で、ベランダで受信すると20局くらい(NHKが多い)受信可能だった。なお蛇足ですが、ケースを閉める際は注意が必要です。アンテナへの配線が長いので、ケースを閉める際にバリコンやバーアンテナの上にこのリード線が乗っかって、ケースを閉めるのを邪魔するので、力まかせに閉めるとケースが壊れます。なので、リード線がバリコンやケースに乗っかっていないのを確認して閉める必要が有ります。けっこう良いラジオかも?
August 8, 2025
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ヤフオクでLenovo ThinkPad L580を買って、修理しました。こんなやつです。15.6インチの大きな画面で、FHDです。FHDとはFull High Defintionつまり1920X1080の高解像度で、結構綺麗です。ただ、説明に「起動不可」と書かれている理由はすぐに分かりました。電源の接続端子がグラグラで取れそうになっているのです。この手のノートパソコンはUSB充電器をPD(Power Delivery)として使います。つまり普通のパソコンのようにACアダプターを接続する端子を交換するだけではダメです。こんな感じでした。(と言うか写真では端子は既に取れています。)写真にも書いたように隣のサンダーボルト端子が健在ならば、代用として使えるらしいのですが、僕のはダメでした。なので、「もうかった」と思ったのは一瞬のことで、すぐに使用不能になりました。でもそこで諦めないのが僕の良い所です。なんとか修理できないだろうか?通常のノートパソコンの場合は電源の接続端子が壊れていても、接続端子を取り換えれば良いのですが、端子がとれる際に基板の銅箔が何か所か道連れになっており、新しいUSB Type-C端子を愛天堂で手に入れても再生が不可能です。(愛天堂には中国のどこかの工場から流れて来たノートパソコンの部品がたまにあり、 ぼくは愛天堂でその手の部品を買って、ノートパソコンを修理します。)活きている銅箔部分だけでも使って修理できないかと思いましたが、この手の端子はピッチが狭くて半田付けはほぼ不可能です。仕方ないのでUSB Type-Cについて研究しました。端子の配列はこんな感じです。例によって、写真を右クリックして出てくるメニューで「新しいタブで画像を開く」を選ぶと別タブで大きな画像が見られます。ここで分かるのは電源そのものは4か所のVbusで、その電圧は単純ではなく、供給側CC1及びCC2と需要側のCCのネゴシエーションで決まります。つまりVbusはそのネゴシエーション次第で、5V,9V,15V,20Vになるのですが、そのネゴシエーションは僕の手に負えるような簡単なことではないようです。ただせっかく研究したので、その供給イメージを載せます。上にも書いたように、よく百均で売っているPDは15Vくらいまでしか使えません。間違って買わないように。ここまで研究して途方にくれました。無理じゃん!でも諦めないのが僕の良い所。だったらこのUSB TypeC部分を飛ばして、直接ノートパソコンの基板に20Vを加えれば?やってみました。「表」の方の下の方にあるラインが、CPUやFAN及びメモリーの電源用MOSFETにつながっていました。なのでここに20Vをつなぐと5Vや3.3Vそしてメモリー用の1.5V(1.1Vかも?)が、得られるのではないか?そう思って20Vを加えてみると、一瞬だけ動くのですが、すぐにスイッチが切れます。つまりこの前の段にスイッチやバッテリーに電気を供給する段が有り、そこにも電源を供給しなければいけないのです。今度は逆に入口側から探してみました。取れてしまったUSB TypeCの端子の中の生き残ったVbusラインをたどってみると、上の写真の左上の部分に4本のVbusが集まっていました。そこでここに20Vを加えてみましたが、全然動きません。恐らくVbusは5Vや9Vや15Vにもなり得るので、20Vを直越つないでも、CCに正常な信号が来ていない場合は次の段階(ライン)に電源がつながらないのでしょう。その時にふと見ると、MOSFET経由でもう一つのラインにつながっています。もしかするとCCに正常な信号が来た場合は、このMOSFETがONになってつながるのかも?予想は見事にあたり、上の写真に「ここに20Vを加えたら成功した」と書いた部分につながって、ノートパソコンは動くようになりました。こうして完成かと思ったら実はまだダメな部分が在りました。まずCMOS電池が死んでました。まぁこれは交換すれば良い話なので、簡単に治りましたが、厄介だったのがSSD.メモリーを「メモテスト86(メモリー点検用プログラム)」で確認した後に、Windows11をインストールしたのですが、インストール自体は上手く行くのですが、その後WindowsUPDATEをするたびにブルースクリーンになります。うーん、電源部分がうまく行って無いのかな?そう思ってUSBに入れたLINUXを使う分には1日使っても大丈夫でした。バッテリーも100%まで充電されました。じゃぁ電源は大丈夫だな。LINUXをSSDにインストールしてみましたら、一時的に動くのにすぐダメになります。こりゃSSDが壊れているな。新しい(中古の)SSDを1000円で買って、もったいないけれど古いのは捨てました。すると無事にWindows11が作動。WindowsUPDATEも問題なくクリアー。こうしてLenovo ThinkPad L580は復活したのでした。これって結構良いノートパソコンだと思います。画面が大きくて解像度は高く、CPUは古いけれど今の評判の悪い(エラーの多い)intelのCPUと遜色有りません。こんな感じ。石川ひとみちゃん大好きなんです。左手の電源用端子がみっともないですが、一般的なNECなんかのACアダプターが使える。右手の黄緑色のラジオは愛天堂で買ってきたZX-2051です。上手く修理できて満足です。
August 6, 2025
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昨日、漢字が日本に伝来したのは偉い学者先生の説である、「朝鮮半島の百済から王仁という人物が『論語』と『千字文』を献上したことが、 書物として公式に伝来した最初なので5世紀頃」と言うのが誤りで、魏志倭人伝には魏の皇帝から卑弥呼に送られた文書さえ載っており、それを「卑弥呼にとって都合の悪い文書ではないか」吟味する卑弥呼の部下が居たと、魏志倭人伝に載っているのだから、漢字が伝来したのは少なくとも3世紀よりも前で、下手をすると紀元前1世紀には日本に漢字は伝わっていたと思われると書いた。その研究の際にとんでもないことに気がついた。卑弥呼の使いとして魏に渡った難升米って、先生によって「なんしょうまい」と読んだり、「なしべ」と読む先生がいるけれど、本当は別の読み方が有るのではないだろうか?魏志倭人伝の該当部分を見てみる。<原文>景初二年六月 倭女王遣大夫難升米等詣郡求詣天子朝獻太守劉夏遣吏将送詣京都其年十二月 詔書報倭女王曰制詔 親魏倭王卑弥呼帶方太守劉夏遣使 送汝大夫難升米 次使都市牛利奉汝所獻 男生口四人 女生口六人 班布二匹二丈以到汝所在踰遠乃遣使貢獻是汝之忠孝我甚哀汝今以汝為親魏倭王 假金印紫綬装封付帶方太守假綬汝其綏撫種人 勉為孝順(以降略)<意訳>景初二年(238年)六月、倭の女王は、大夫の難升米等を派遣して帯方郡に至り、天子にお目通りして献上品をささげたいと求めた。太守の劉夏は官吏を派遣し、難升米 等を引率して送らせ、都(洛陽)に至った。その年の十二月、詔書が倭の女王に報いて、こう言った。制詔、親魏倭王卑弥呼帯方太守、劉夏が使者を派遣し、汝の大夫、難升米と次使、都市牛利を送り、汝の献上した男の生口四人、女の生口六人、班布二匹二丈をささげて到着した。汝の住ん でいる所は遠いという表現を越えている。すなわち使者を派遣し、貢ぎ献じるのは汝 の忠孝のあらわれである。私は汝をはなはだいとおしく思う。今、汝を以て親魏倭王と為し、金印紫綬を与え、装封して帯方太守に付すことで仮(かり)に授けて おく。汝は種族の者(つまり倭国の人々)を安んじ落ち着かせるそのことで、魏に孝順を為す(おとなしく魏に従うようにさせる)よう勉めよ。ここで注目すべきことは、難升米に官職である「大夫」がついていることである。太夫は中国の偉い人の官職名で、なんと邪馬台国でも同じ官職名を使っていたのだ。しかも中国で「大夫」とは、Wikiを見ると以下のように書かれている。<Wiki「大夫」抜粋>大夫(たいふ、だいぶ、たゆう)とは、本来古代中国における身分呼称のひとつ。日本では太夫(たゆう)とも表記し、律令制では太政官においては三位以上(大臣ではない)、寮においては四位以上、中くらいの国以下の国司においては五位以上の官吏の称とされたが、やがて時代が下ると五位の通称となり、さらに転じて身分のある者への呼びかけ、人物の呼称として色々な意味を持つようになった。(元々は中国の周代から春秋戦国時代にかけての身分を表す言葉だったらしい)つまり、官職名そのものが中国から輸入されたものだったのである。僕は以前、卑弥呼が狗奴国と戦っている時に、最初は魏は卑弥呼を助けようとしていたが、そのうちに見放され、それを敏感に嗅ぎ取った倭国の王達も卑弥呼から離れて行っており、そのせいで、邪馬台国の官である「伊支馬」や一大率さえも非協力的で、本来ならば官の「伊支馬」が魏への使いとして行くべきなのに、どの程度の地位なのか不明な難升米が行っているのは、もう卑弥呼が落ち目だった証拠に違いないと思っていたのだが、今回それが誤りだったと分ったのである。実は難升米は官の「伊支馬」よりも偉かったのかもしれない。今までは学者もアマチュアも僕も、みんな「難升米」と言う名前だったんだと思っていたんだけれども、違うのかも?後漢書の中で奴国の王が使者をよこした記録がある。<原文>建武中元二年倭奴国奉貢朝賀使人自稱大夫倭國之極南界也光武賜以印綬安帝永初元年倭國王帥升等獻生口百六十人願請見<意訳>建武中元二年(57年)倭の奴国が貢を奉り朝賀した。使者は自ら大夫と称した。倭国は之(これ)国の最南端まで極めしなり。(「ここを倭国が極南界なり」と読む人がいるが、漢文の切り方が悪いせいで、 僕がそうしたようにこのように区切れば、ちゃんとこう読めるのである。 これは後世の倭の五王の「武」が中国に送った上表文に書いてある以下の分に対応している、 宋書の中に書かれたそれには、 「わたしの国は,はるか遠いところにあって,宋そうからいえば海外の国になっています。 私の父祖ふそたちは,みずからよろい・かぶとに身を固かため,山や川をわたり歩いて, おちついて休息するひまもありませんでした。 そのおかげで,東では蝦夷えみしの55か国を平らげ,西では熊襲くまその66か国をおさえ, さらに海をわたって朝鮮ちょうせん半島の95か国をしたがえました。」 つまり中国の皇帝に認めてもらうには、その地域を平定し、安定している必要が有り、 倭國王帥升は最南端の地まで平定したと主張する必要が有ったのである。 単に自国がどこにあるかを説明しても印綬を授かることはできない。)光武帝は印綬を賜った。安帝永初元年(107年)倭国王の帥升等が百六十人の捕虜を献じ、参内して天子にお目にかかることを願い出た。これを読むと倭王は「大夫」を使者として派遣している。つまり「大夫」は「官」よりもずーっと偉いのかもしれない。なおかつ、もう一つ気がついたことが有り、こちらがより重要である。難升米とは本当は「奴の升米」と読むのではないかと言うことである。この時期、魏志倭人伝に書かれている通り、奴国は女王卑弥呼の配下にある。そして奴国のトップが「大夫」の「升米」だったのではないだろうか?「升米」はかって倭王だった「帥升」の孫か曾孫だったのではないだろうか?生まれた子に親や祖父から一字を与えて後を継がせると言う例は後世にはいくらでもあるが、この時代にも同じ考え方があって、倭の王族の中で直系の人間は「升」の字を引き継いでいたのではないだろうか?それに気がついたので、僕は前の官「伊支馬」が使者として送られずに難升米が送られた、その意味に気がついたのである。実は難升米はものすごく偉い人で、「伊支馬」や一大卒よりも地位が高かったのかも?難升米が「奴の升米」で、かっての奴國王=倭國王の子孫だと考えた人はいないと思う。うーん面白い。<後日追記>読み返していたら、上とは別の可能性を思いついてしまい、迷っている。上に書いたお祖父さんかひいお祖父さんの名前から1文字「升」をもらったと言うのも良い可能性が有ると思うのだが、それよりもさらに面白い可能性である。そもそも「難升米」は名前ではなく、彼が魏の宮廷で自分の役職と言うか名前を名乗り、それを中国側が名前だと勘違いして記録に残したのを、魏志倭人伝を編纂する際に陳寿がそのまま書いてしまったのではないだろうか?その可能性とは「難升米」を「奴の升米」と考える所までは同じなのだが、「升米」を「すめ」と読むのである。発音的には「しょうめ」と「すめ」の間くらい。では「すめ」とは何か?「天皇(すめらみこと)」の「すめ」である。すめらみことの「すめ」は物事を為すの「為す」を表す「す」と、「見る」ことを表す「め」から構成される言葉で、統治するとか支配すると言う意味である。また「みこと」に関しては説明の必要もないくらい、当時の倭人の名前にはくっついているが、「ら」を接続助詞と考えると意味が通じる。つまり、「奴の升米」とは「奴のすめ=奴の統治者」と言う意味である。魏志倭人伝によると奴の王は卑弥呼であるが、奴と女王国は遠く離れており、実務的に奴国を統治する人間が卑弥呼以外に必要である。それが「難升米」だったのだと思う。それ故に彼は卑弥呼に次ぐNo2であり、卑弥呼に変わって魏に使者として赴いたのだと思う。そして魏の宮廷で、自分は奴の統治者だと言うつもりで「奴の升米」だと名乗ったのだ。それを中国側が誤訳して名前だと勘違いして、宮廷の記録に残してしまった。後年、三国志を編纂する際に陳寿がそのまま引用してしまった。それで「難升米」として魏志倭人伝に載っているのである。そう考えると「天皇(すめらみこと)」とは本来は奴国の王から始まった言葉で、それが今日まで続いているのかもしれない。上の方に書いた「升」を1字もらったと言う案も良いけれど、こちらの方が面白いかな?僕はアマチュアなので、勝手に想像しても良いと思うので、こちらが良いかな?
August 5, 2025
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昨日は歴史学者は古事記や日本書紀そして魏志倭人伝を原典で読んでいないから、めちゃくちゃな理論を展開すると思うと書いて、その一例として「熊襲とはなにか」を取り上げた。歴史学者は本当に古代の貴重な本を読んでいないと思う。いやちゃんと読んでいると反論するだろうが、読んでいるのではなく眺めているのだと思う。そのもう一つの良い例がAIとの比較である。僕はギリシャとトルコに最近旅行して、その時に気づいた色々なことをWindows copilotで絵に描かせたのだが、人間ではないパソコンのアプリが非常に正確に僕の思った通りに絵を描いてくれた。それはAIが世界中の知識をデーターベースとして持っており、近年のコンピューターの処理能力の発展とプログラマーの努力により、「人間の考え方」近づいてきているからである。特にデーターベースの大きさはものすごく、僕は歴史学者は「暗記するのが得意で考えるのが苦手」な人達だと考えているのだが、「暗記する」事に関してはもうパソコンには到底かなわない領域に達している。Aiにより最初に仕事を失うのは、実は歴史学者達なんではなかろうか?だって知りたいことは歴史学者に尋ねるよりはAiに聞く方が答えが早くて正確である。人間である歴史学者が1か月かかることを1秒にも満たない時間で答えてくれる。本当に「暗記するだけ」の歴史学者は必要なんだろうか?いや、「考える」歴史学者は必要だと思うけれど。そのことを試してみた。「漢字の伝来について」である。よく日本人が文字を使うようになったのはいつごろからか?と言う疑問がわく。かって歴史学者の中に「鏡や貨幣を見ると漢字が使われているので紀元前1世紀には使われていた」と言う人達と、「いや鏡等に使われている漢字は単なるデザインなので意味は知らず、 従って意味のある文字として漢字が伝わって使われるようになったのは6世紀ごろから」と言う人達がいた。で、偉い先生が日本書紀を読むと、「朝鮮半島の百済から王仁という人物が『論語』と『千字文』を献上したことが、 書物として公式に伝来した最初なので5世紀頃だよ」と言ったことから5世紀説が通説になっていた。ところが考古学が発達して、熊本の江田船山古墳や埼玉の稲荷山古墳から漢字が書かれた刀が出土し、それが崩れてしまった。ここで大事なのは、刀に刻まれた漢字が、漢字そのものとしてではなく「音」として使われている事実である。ちょうどカタカナやひらがなが漢字から派生したように、漢字を「音」として使うようになるのは、漢字が一部の人達の特別な文字ではなく、かなりの人達が使うようになっており、「これって便利じゃん!、俺たちの言葉=倭の言葉の表記にも使えるのでは?」と考え出した証拠である。つまり相当数の人達が漢字を使っていたと言うことである。(埼玉の稲荷山古墳の漢字が書かれた鉄剣の内容を読むと、 この文章の元となった事実の対象者は地元つまり地方豪族の人間であり、 埼玉から奈良に派遣されて朝廷に仕えていた人だと言うことが分かるが、 言い換えれば地方の豪族さえも漢字を使っていたと言うことであり、 大和朝廷内部だけではなく地方でさえも漢字を使う人間が居たと言う事は、 漢字が相当に普及していたことに他ならない。)つまり江田船山古墳や埼玉の稲荷山古墳の時代には、漢字が普及するどころか、応用ができるほど広まっていたと言うことである。なら、それには100年やそこらはかかるだろうから5世紀どころか、もっと前に漢字は伝わっていただろ言うと思われる。その時に僕のインスピレーションとAIを組み合わせると面白い結果が出た。魏志倭人伝の中にそのことが書いてあるのである。魏志倭人伝には伊都国の様子について2か所に分けて書いているが、その後の方である。<原文>自女王國以北 特置一大率檢察 諸國畏憚之常治伊都國 於國中有如刺史王遣使詣京都帶方郡諸韓國及郡使倭國皆臨津捜露 傳送文書賜遺之物詣女王不得差錯<意訳>女王国より以北には、特に一人の大率を置いて検察し、諸国はこれを恐れはばかっ ている。常に伊都国で政務を執っている。魏における刺史(州の長官)のようなものである。倭王(多分卑弥呼)が使者を派遣し、魏の都や帯方郡、諸韓国に行く時、及び帯方郡の使者が倭国へやって来たときには、いつもこの大率が伊都国から港に出向いて調査、確認する。文書や授けられた贈り物を伝送して女王のもとへ 届けるが、数の違いや間違いは許されない。一大率については中国(又は公孫氏)側が置いたのか卑弥呼が置いたのかと言う議論はあるが、僕もまだ分からないので置いておいて、大事なのは「傳送文書」と「不得差錯」と言う部分である。魏から文書が送られてきているじゃん。百済の王仁よりもはるか昔に「文書」が届いているじゃん。いやそれを日本語に訳したのは渡来人だと思うと歴史学者は言うだろうが、「不得差錯」つまり、その翻訳されたものは吟味されているじゃん。渡来人を卑弥呼は100%信用するはずも無いので、一大率が倭人であるか、もしくは一大率が倭人ではないならば、それが、間違っていないか判断する倭人が別に居て、それは明らかに卑弥呼の側近だったと言うことじゃん。一国の王は通常は慎重で、自分の信じていない人間は傍に置くはずがないから。いや卑弥呼が嫌いな側近は居たかもしれないが、対中国と言うことに関しては、卑弥呼が嫌いでも倭国側の立場で判断するだろうと思う。なので、AIが見つけて来てくれた日本に漢字で書かれた文書が最初に伝わったのは、少なくとも卑弥呼の時代で、もしかしたらもっと前かもしれず、もっと前なら紀元前の貨幣や鏡に書かれた文字もデザインではなく文字として理解されており、例えばそれが天体や神話等の場合は意味を理解して鏡は使われていたのだと思う。そして卑弥呼が魏から送られてきた文書が倭国にとっておかしなものでは無いと理解できる、説明が可能な部下が側近にいたのだと分ったのである。AIってすごい。もう「覚えるだけの歴史学者」っていらないじゃん。失職しそう。これからは「考える歴史学者」にならないとダメだな。ちなみに魏志倭人伝を編纂した陳寿はそのことを理解していたから、「傳送文書」と「不得差錯」を魏志倭人伝の中に書いたのだし、魏志倭人伝の中に書かれた中国からの文書が、とても卑弥呼に優しくて気を使っており、かっては「漢委奴国王」と書かれていた中国からの金印が、「親魏倭王」になって卑弥呼に気を使っているのは、中国側の偉い人達も、倭国の人間がちゃんと漢字を読めて意味を理解していると考えて、それなりに気を使っている結果だと思う。漢字が初めて日本に伝わったのが5世紀だと主張する歴史学者は、AIに負けているじゃん。
August 4, 2025
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YOU YUBEに有ったコメントを見ていて、「熊襲とは狗奴国の子孫である」と書いてあるのを見て、かって自分もそう思っていた時期が有ったなと思い、しかし今ではそれが誤りであることを確信しているので、真実を知るには古事記や日本書紀及び魏志倭人伝を「原典で」読むのが大事なんだよなと思った。それは原典で読まないと、現代訳になる際には、その現代訳を書いた学者の誤った考えが含まれてしまうからである。この「熊襲とは狗奴国の子孫である」と言うのがその良い例で、多くの学者がそう主張しているのだが、その前提になる古事記や日本書紀の記載が誤った解釈によっているからである。その誤った解釈の元になっているのが、魏志倭人伝に卑弥呼と狗奴国の戦いについての記述であり、また古事記や日本書紀に景行天皇の九州巡幸のことが書かれており、熊襲はそこに出ているので、邪馬台国が後のヤマト王権であるならば、その敵国だった狗奴国が熊襲に違いなく、その狗奴国が熊本に有ったならば、北九州に有った邪馬台国の南に在った狗奴国が熊襲だと勘違いしている学者達が、そのような誤解をするのである。まずは邪馬台国の敵国であった狗奴国がどこにあったか、この基本的な部分を従来の歴史学者が間違って解釈していることを立証してみる。狗奴国が邪馬台国の南に在ると言うのは歴史学者達の勘違いであると言うのは、魏志倭人伝の次の部分を読めば分かる。<原文>南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日陸行一月官有伊支馬 次日彌馬升 次日彌馬獲支 次日奴佳鞮 可七萬餘戸自女王國以北 其戸數道里可得略載 其餘旁國遠絶 不可得詳 次有斯馬國 (途中略)次有奴國 此女王境界所盡其南有狗奴國 男子為王 其官有狗古智卑狗 不屬女王自郡至女王國 萬二千餘里<意訳>南には邪馬台国がある。女王の都とする所である。水行十日、陸行一月で着く。官は伊支馬と言う。次は彌馬升と言う。次は彌馬獲支と言う。次は奴佳鞮と言う。およそ七万余戸である。女王国より以北は、その戸数や距離のだいたいのところを 記載出来るが、その他のかたわらの国は遠くて情報もなく、詳しく知ることは出来ない。次に斯馬国が有る。(途中略)次に奴國がある。ここが女王の境界の尽きる所である。(つまり女王の勢力圏)其の南に狗奴国が有る。男が王様である。その官に狗古智卑狗がいる。女王に属さない。帯方郡より女王国までは1万2千里である。ここで重要なのは「自郡至女王國 萬二千餘里」である。今までの学者達は「次有奴國 此女王境界所盡」で「其餘旁國」の話が終わっているので、「其南有狗奴國」の「其」を女王国と考えて、女王国の南に狗奴国が有ると考えて来た。ほんとうにそうだろうか?もしそうならば、「次有奴國 此女王境界所盡」の所で「其餘旁國」の話は終わっているので、「自郡至女王國 萬二千餘里」はここに書かれるはずである。ところが現実には狗奴国の説明の後に「自郡至女王國 萬二千餘里」と書かれている。どうしてそうなっているのか?答えは一つしか無い。「其南有狗奴國」の「其」は女王国ではなく、直前に書かれている「奴國」であり、奴国の南に狗奴国が有ると読むべきなのである。そして女王には属さない狗奴国も「其餘旁國」の一部なので、話はまだ続いており、「其餘旁國」の話が終わる狗奴国の後に、「自郡至女王國 萬二千餘里」と書かれているのであある。これに気がつかない歴史学者が多すぎると思う。なので、狗奴国は女王国の北側に在り、もし狗奴国が熊本ならば、女王国はそれより南の宮崎や鹿児島に在るのである。(「其餘旁國」は女王国の周囲の国と読むべきであって、 狗奴国が必ずしも女王国の北側とは限らないのではと言う意見はあるが、 ここは「水行十日、陸行一月で着く」と言う文から考えている。 狗奴国が現在の熊本県菊池郡あたりとすると 狗奴国はせいぜい「陸行10日程度」なので、 女王国が南に陸行一月ならばそれよりもはるかに南であると言う推理から、 女王国は狗奴国よりも南と考えているのである。)そうすると、よく問題になる「水行十日陸行一月」と言う女王国に至る経路も、筑後川+有明海が水行10日で、九州山地の中を陸行一月歩くと着く宮崎県南部が、女王国の所在地として有力になる。(海沿いならば陸行一月ではなく投馬國のように水行で行けるので、内陸部である。)次に古事記や日本書紀の中で熊襲が出てくる部分、つまり景行天皇九州巡幸の部分についてみてみる。景行天皇の九州巡幸については以前の下の記事に書いている。景行天皇の九州巡幸について=熊襲とは何か?ここに書いているように、日本書紀では山口県や福岡県の東部及び大分県部分では、「熊襲」と言う言葉は出てこない。すべて「賊」や「土蜘蛛」である。そして宮崎(日向)に至って初めて「熊襲を討つ為の会議」を開いている。そして熊襲の平定後、夷守(宮崎県小林市)で女首長の歓迎を受けて、熊本(球磨川付近)で賊に会うが、ここではもう「熊襲」とは言っていない。つまり「熊襲」と言っているのは、日向での会議後で夷守での祝福前の賊の時だけである。日本書紀をちゃんと読めば狗奴国が熊襲では無い事が分かる。そしてとどめとなるのが、古事記に書かれた以下の記述である。イザナギ・イザナミの国生みの部分である。<原文>次生筑紫嶋此嶋亦身一而有面四每面有名故筑紫國謂白日別豐國謂豐日別肥國謂建日向日豐久士比泥別熊會國謂建日別<簡単な意訳>次に筑紫の島(九州)を生みました。この島も身体一つに4つの顔が有り、顔毎に名が有り、筑紫の国(福岡県西部)は白日別と言い、豊の国(福岡県東部と大分県)は豊日別と言い、肥の国(長崎県、佐賀県と熊本県)は建日向日豊久士比泥別と言い、熊襲の国(宮崎県·鹿児島県)は建日別といいます。つまり古事記の中では熊襲の国について書かれているのである。同じ古事記の中なので、景行天皇の場面の熊襲と国生みの場面の熊襲は同じはずである。つまり熊本である肥の国や大分である豊の国ではない。こうして僕はかって考えていた「熊襲は狗奴国の子孫」と言うのが間違いだと理解し、熊襲は相続争いによって分裂した女王国のなれの果てだと考えるのである。神話の中では神武天皇のお祖父さんつまり山幸彦は海幸彦と争う。釣り針の話は素直に相続争いとは書けなかった古事記の作者の気遣いだと思う。山幸彦は都城付近に居た和邇氏の先祖の娘を嫁にもらって海幸彦に勝ち、(都城には今でも鰐塚山が有る。 また古事記には山幸彦のお嫁さんは八尋の鰐と書かれている。 つまり山幸彦の奥様で神武天皇のお祖母様は都城付近に居た和邇氏の祖先だと思う。)その後その山幸彦の子孫は東征して大和に国を開く。神武天皇である。後世に都城付近に残された海幸彦の子孫が反乱を起こしたので、山幸彦の子孫の景行天皇が滅ぼしに九州巡幸を行ったのである。なお、都城から神武天皇に従って近畿まで来た和珥氏は、大和国(奈良県)添上郡和邇に住みつきましたので、ここが和爾氏の本拠地とされている。そう考えると、魏志倭人伝と古事記や日本書紀はスムーズにつながるのである。何で歴史学者はそのことに気がつかないのだろう?
August 3, 2025
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