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ここまで学者先生や研究家たちが魏志倭人伝の卑弥呼や邪馬台国の記述について書かれた、色々な推理や解釈について、変だなと気がついたことを書いてきた。今日はその4として魏志倭人伝における「會稽東治之東」の解釈について書く。世の中の学者先生や研究家たちは「會稽東治之東」を、「東治」は「東冶」の誤りだとして、勝手に書き換えて読む。日本の学者先生や研究家達は、自分が理解できないと「原文」を勝手に書き換えて読むのは、およそ学問とはかけ離れた、恥ずかしい行為である。「僕が頭が悪いのはお母ちゃんのせいだ」と言う子供と行動原理が同じである。悪いのは自分ではなく人のせいだと言うのである。「会稽東治」だと「会稽の東部地域の治所」と解釈し、現在の江蘇省蘇州市辺りとなる。一方、「会稽東冶」だと「会稽郡東冶県」という解釈で、福建省福州市辺りとなる。両者は南北で約580キロメートルも離れている。大きな違いである。googleMapで見てみる。「会稽郡東冶県」と解釈した場合は確かに太平洋の海上に邪馬台国が位置してしまう。よく「魏志倭人伝はいいかげんだ」と主張する学者先生や研究家の言う根拠である。自分達が理解できないと相手が悪いと言う子供の原理である。どうしてこうなったかと言うと、一つは現実によく名前の似た「会稽郡東冶県」があるせいで、これが無ければ間違いは起こらなかった。もう一つはバカな学者先生の独特な発想によるものである。先生は「会稽郡東冶県」が呉の領地であることに着目して、魏の人達が戦っている呉を牽制する目的で、魏と交流が有る倭国を「会稽郡東冶県」つまり呉に近い所に偽装して、呉に警戒させようとしたと考えたのらしい。バカだなぁと思う。魏略のように「魏」のことを書いた本ならばそんな仮想的な理論も考えられるが、魏志倭人伝は「三国志」の一部分で、当然魏だけではなく呉や蜀についても書かれている。つまり呉の地理や状況も(意外に)公平に書かれているのである。三国志ではないが、これをエンターティメント的に書いた三国志演義に至っては、なんと魏ではなく蜀(というか諸葛亮孔明と劉備)を主人公にしている。魏に有利に書くと言う発想は無いのである。そもそも魏志倭人伝(三国志)が完成したと言われる280年頃には魏は滅亡している。魏は西晋に禅譲して、魏の一部の人達は残っているが既に無いのである。呉の方はまだ残っているが、相続争いの結果弱体化しており、これも280年には滅亡する。つまり倭国の位置を偽って呉を牽制する意味が無くなっている。当然三国志を書いた陳寿もそんな必要性は感じなかったのである。最初に戻って「会稽東治」を「会稽の東部地域の治所」と解釈する意味を考えてみる。これは原文を見ればすぐに分かる。(原文)男子無大小 皆黥面文身 自古以來 其使詣中國 皆自稱大夫夏后少康之子封於會稽斷髪文身 以避蛟龍之害今 倭水人好沉没捕魚蛤 文身亦以厭大魚水禽 後稍以為飾 諸國文身各異 或左或右 或大或小 尊卑有差 計其道里當在會稽東治之東(意訳)(倭国の)男子は大人も子供も、皆、黥面文身(いれずみ)している。昔から倭国の使者は中国に来ると、皆、自ら大夫と称す。夏后少康の子は会稽に封ぜられ、断髪文身して、それにより蛟龍の害を避けていた。今、倭國の水人は沈没して魚、蛤を捕るを好み、文身は亦以って大魚、水禽を厭(はら)う。ただ現在は稍(しだい)に以って装飾となっている。諸国の文身は各(それぞれ)に異なり、左にあったり右にあったり、或いは大きかったり或いは小さかったりして尊卑差有り。その道里を計るに、まさに会稽の東の(夏后少康の子の)治めた所の東に在るべし。意訳を読めば分かると思うけれども、きっかけは倭人の入れ墨をする風習が何を元に始めたかということを、中国南部の会稽あたりでもそうであることを元に書いているのであるが、その説明に際して、そう言えば倭国の女王国の有る位置もここの東になるなと気がついて、それを書いているのである。つまり元になったのが「夏后少康の子」の話で有り、その領地の東だと読めるのである。(学者先生は漢文を上手く読めないので、 直前に書かれている「夏后少康之子封於會稽」の「會稽」と、 後ろの「當在會稽東治之東」の「会稽」の関係が読めないのだと思う。)ちなみにWikiの「少康(夏)」を見ると次のように書かれている。「呉越春秋」越王無余外伝によると会稽に封じられ越王勾践の祖となった「無余」がいる。この「無余」のことを陳寿は書いているのだと思う。本文とは関係ないが日本の学者先生は変にプライドが高いので、古代とは言え日本人が入れ墨をしていたはずは無いと主張するけれども、それは、入れ墨は野蛮人の風習と考えるからで、上の魏志倭人伝の原文でも分かるように古代では中国南部の人達も刺青をしていた。今でも中国の芸能として伝わる変面などを見れば中国人も入れ墨をしていたことが分かる。また江戸時代の浮世絵や歌舞伎を見ても普通に入れ墨をしている。なので変な事では無いのである。そして古代日本人は(特に武人は)入れ墨をしていたことが古事記を読んでも分かる。神武天皇が東征を終えて、奥さんたちを探している場面である。(原文)爾大久米命以天皇之命詔 其伊須氣余理比賣之時見其大久米命黥利目而思奇歌日阿米都都 知杼理麻斯登登 那杼佐祁流斗米爾大久米命答歌日袁登賣爾 多陀爾阿波牟登 和加佐祁流斗米故其孃子白之仕奉也(意訳)その後、大久米命は天皇の命に従い、その伊須気余理比売を召した時、(伊須気余理比売は)大久米命の黥(いれずみ)した鋭い目を見て、怪しく思い歌いました。胡蔫子鶺鴿 千鳥ま鵐何故黥ける利目(この1行は歌であり、下がその意訳)胡鷰子(あめつばめ)鶺鴿(せきれい)千鳥(ちどり)あら頬白(ほおじろ)かしらどうしてそんな黥(いれずみ)した鋭い目なの?それに、大久米命は返歌しました。乙女に 直に逢はむと吾が黥ける利目(この1行は歌であり、下がその意訳)あなたのような乙女と会おうとして、こんな黥の鋭い目なのですよ。このようにして、その令嬢は「お仕え致しますわ。」と申し上げました。つまり伊須気余理比売が恐れたように、この時代の武人は入れ墨をして怖い顔をしていた。これは魏志倭人伝では、川に住む蛟竜(姿が変態する竜種の幼生:現実には龍はいないので水難のこと)の害を避けるその為に入れ墨をしていたのだが、時代が下ると装飾になって行ったと書いている。日本でも同様に、かっては倭人も相手を恐れさせる目的で入れ墨をしていたが、既に神武天皇の時代には装飾で「かっこよく」見せる為の物となっていたと言うことだと思う。まぁそんな感じで、学者先生や研究家達は、この「會稽東治之東」を勘違いして読んでおり、自分達が間違えたとは言えないので、魏志倭人伝はいい加減だと主張するのだと思う。
October 28, 2025
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多くの学者や研究者が、邪馬台国=女王国と勘違いしているが、実は邪馬台国と言う言葉は魏志倭人伝の中では1回しか出てこないし、他は全て「女王国」と書かれており、極端な話をすれば、邪馬台国と言う言葉と女王国と言う言葉は15文字しか離れておらず、そんなに近くにあるのに両者を「気まぐれ」や「誤って」混在することはあり得ず、魏志倭人伝の編纂を行った陳寿は明らかに「邪馬台国」と「女王国」を使い分けており、いわゆる「邪馬台国所在地論」は実は「女王国所在地論」なのだと(その2)で書いた。邪馬台国の所在地は色々な学者や研究者が、日本中に比定しており、いまだに決定打が無いのは何故だろうか?近畿説を唱える人達の根拠が全く根拠になっていないのは(その1)で書いた。北部九州説を唱える人達の根拠についてはまだ書いていないが、近畿説も北部九州説も「原典を書き換えなければ成立しない」ひどい状況である。学問として「原典を書き換える」のは正しいことなのだろうか?いや本当に真実が「原典を書き換えないといけないもの」ならばそれも選択肢の一つだろうが、近畿説や北部九州説を読むと、そうは思えない。そう言うつもりで(その1)で近畿説を否定したのだが、北部九州説も同じだと思う。論理的な議論が尽くされていないと思う。何故「論理的な議論がなされていないか?」と言うと、原典を訳した人は大勢いるが、原典を解読した人が少ないせいだと思う。よく「魏志倭人伝は信用できない」と言う人がいるので、その根拠を読んでみると、単に自分の説に都合が悪いからと言うのがほとんどである。例えば「魏の里程は1里=300~400mのはずなのに魏志倭人伝は70~80mで書かれている」と主張する人の根拠を見てみたら、直接的に「魏の里程は1里=300~400m」と書かれた書物は無く、大月氏国への行程の説明で使われた里程がそうだからと言う人がいるが、これは魏の里程ではなく大月氏国の里程かもしれず、大月氏国への行程の記録と倭国への記録は対等の立場なので、ただ単に近畿説の立場の人が自説に都合の悪い1里=70~80mを否定したいだけだと思う。「魏志倭人伝を読むと魏の里程は1里=70~80mであった」と言えるのではないだろうか?また偉い先生が一寸から計算で求めたと言うのも実際は推論だけで、別の人で紀元前2世紀に書かれた周碑算経から1里=76mと計算するひともいるので、偉い先生だからと言って、無理やり魏志倭人伝にそれを押し付けるのは間違っていると思う。そもそも魏志倭人伝に書かれた行程の距離は現実の地図に合っているのである。つまり「単に難癖をつけているだけ」だと思う。どうしてそうなっているかと言うと、上に書いたように訳しただけで解読してないからである。ここで一つ例を挙げてみよう。世の中の学者先生や研究者達は、帯方郡から邪馬台国への行程を、帯方郡→狗邪韓国→対海國→一大(壱岐)國→末蘆国→伊都国→奴国→不彌國→投馬國→邪馬台国(女王国)と考えている人が多い。本当にそうだろうか?実はこれが間違いで、そのせいで近畿説は「南と東を間違えた」と原典を書き換えるし、北部九州説は「距離を間違えた」と原典を書き換えているのではないだろうか?世の中の学者先生や研究者達は魏志倭人伝が「切り張りが多く」、「前後関係がつながっていない」と言う人が多く、これが魏志倭人伝がいい加減だと言う話になる。ほんとうにそうだろうか?僕は違うと思う。世の中の学者先生や研究者達は漢文が読めず、魏志倭人伝を日本語に訳してはいるが、現代の本と同じようにスラスラとは読めていないのだと思う。漢文の特徴は、漢字がずらずらと並び切れ目が無く、語順が日本語とは違う。その為に日本語に訳す時には適当に切れ目を入れて、レ点や一二点を付けて語順の補正を行って「読み下し文」を作る。単に短い文を「訳す」だけならばこれで済む。でも、長い分と言うか本の場合は「章」も考えるべきなのに、魏志倭人伝を章だてした人を見たことが無い。そのせいで、本来別の章である、「帯方郡から不彌國まで」の行程と、「投馬國」及び「邪馬台国」への行程を一緒にしている。「帯方郡から不彌國まで」の行程と「投馬國」及び「邪馬台国」への行程では、文章の書き方や語順が全く違っている。「帯方郡から不彌國まで」の行程は「里」で書いており、文章の語順も「実際に歩いて行ける」行程になっているのに、「投馬國」及び「邪馬台国」への行程は「日数」で書いており、文章の語順は「誰かに聞いた場合の」行程になっている。この事はみんな気がついているのに、それを解読していない。どう考えてもこの二つは元になる資料が違っていると考えるべきであり、全く異なる資料に基づいた二つの行程を何故つないでしまうのかと思う。全く異なる資料を基に書いたのだから、別の話で有り、つないではいけないのではないかと思う。二つをつないでしまうのは、漢文が切れ目が無い為にそのまま続けて読んでしまうからだと思う。続けてはいけないのである。実際の漢文(陳寿の時代の物ではなく後世の物だが、僕の主張は分かると思う。)を載せる。では「章」が分かれているとして、どう読めるのか?実際に魏志倭人伝を章だてしてみた。「魏志倭人伝」第1章 本邦使者達から聞いた倭国への道(不彌國まで) 帯方郡から倭国の中心地までの行程と、倭国の主要国の様子及び重要人物第2章 過去の倭人によるヒアリングに基づいた倭国周辺部の主要国(女王国や投馬國) あまりに遠方なので本邦使者も訪れてはいないが過去に残された資料により、 名前だけは記載できる国々と、 遠方だが多少は分かる投馬國、狗奴国及び邪馬台国の王が住む女王国の様子と重要人物第3章 倭國の風俗(倭地であって邪馬台国では無いのに注意) 食生活や装束をはじめとした風俗について、また動植物をはじめとした自然について 気候や宗教的なこと及び家族生活並びに生産品 大陸への渡海や鉱物等第4章 倭國の政治・軍事及びカーストについて 倭國の社会一般について 例えば家族構成や身分の構成と対応 一大率の存在第5章 最近の倭国 卑弥呼が倭王になった経緯や狗奴国との争いの状況 倭国以外の国の存在 魏への朝貢の状況と魏からの返礼 張政の派遣と卑弥呼の死そしてその後 台与について及び張政の帰国こんな感じになると思う。でも漢文は切れ目が無いので、本当にこの章だてで良いかと言うと自信はないが、まぁ間違ってはいないと思う。で、本題に戻ってちゃんと章だてしたらどうなるかと言うと、帯方郡から不彌國までは中国の使者が不彌國まで行った際の記録である。対して投馬國と邪馬台国は、古い資料恐らくは後漢の時代に渡って来た奴国の使者に聞いて書かれた記録で、それ故に倭人にとってまた後漢にとって重要な国だけしか書かれていなかったので、魏志倭人伝には、誰かから聞いたような書き方で残っている。陳寿は、それに最新情報である卑弥呼と戦っている狗奴国を独自に追加したのだと思う。と言うことは、帯方郡→狗邪韓国→対海國→一大(壱岐)國→末蘆国→伊都国→奴国→不彌國で第1章は終わり、そこまでと投馬國及び邪馬台国は連続しておらず、第2章の「帯方郡→投馬國」及び「帯方郡→邪馬台国」は並列だと読めるのである。実は過去の学者先生や研究家もうすうすは気がついていた人もいる。古田先生達である。ただ古田先生たちは何故「帯方郡から不彌國まで」と「邪馬台国や投馬國」は連続していないかを上手く説明できていなかった。「章」と言う概念を思いつかなかったからである。そのせいで古田先生は「水行10日」だけならばともかく「陸行1月」を朝鮮半島内からにして、無理を重ねて理論破綻してしまう。魏志倭人伝には狗邪韓国から対海國(対馬)に渡る際に「初めて(海を)渡る」と書いている。つまり朝鮮半島の中で陸行を始めると「初めて渡る」ことにはならないのである。最適な理論は昔からの先生方の主張の中に有る。昔の先生方は、「千里と言うのは概念的なもので実際の距離ではなく1日で行ける水行距離」と主張していた。ものすごく参考になる。この昔の先生方の理論を参考にすると、帯方郡から狗邪韓国へは水行7000里なので、7日の行程である。狗邪韓国から対海國(対馬)までは1000里なので1日、対海国から一大(壱岐)国までも1000里なので1日、一大國から末蘆国までも1000里なので1日。これらを合計すると10日。つまり水行10日は帯方郡から末蘆国つまり九州に上陸するまでの距離なのである。とすると末蘆国から陸行で1月で行ける場所が「帯方郡から水行10日陸行1月」となり、「女王国(先生方の言う邪馬台国)」になる。すると、帯方郡からの行程なので、伊都国や不彌國を経由するとは限らず、(もちろん伊都国や不彌國経由でもかまわない)伊都国や不彌國の位置に縛られることなく、上陸地点から陸行で1月歩いて行ける場所ならどこでも良いと言うことになる。例えば大分の宇佐でも良いし、熊本のどこかでも宮崎のどこかでも良いと言う事。投馬國についても水行10日で末蘆国に着いて、上陸せずにそこからさらに水行10日の場所なら合計水行20日になるので、末蘆国付近から水行10日で行ける場所ならどこでも良いのである。例えば出雲でも良いし、四国も大丈夫。宮崎の西都原でも良いのである。とすると魏志倭人伝は今まで「章」と言う概念を思いつかなかったせいで読めなかったが、ちゃんと漢文を(訳すだけでなく)解読してやれば、結構正確に書かれた文書なのだと分かるのである。漢文が読めてなかっただけ。そして近畿説の人をいじめて申し訳なかったけれども、この考えが正しいならば近畿説が復活する。古代とは言え中国の技術力は当時既に三角測量も「指南魚」も存在しており、「南と東を間違える」ことは考えられないが、第2章が倭人から聞いた記録ならば、倭人にはその技術力が無かったかもしれない。倭人なら「南と東を間違える」可能性は有るのである。だって1万2千里もはなれた国だから。中国の船ならば構造船なので水行1000里は1日だけれども、倭人の舟(船ではない)ならば丸木舟か準構造船なので1日では無理。季節や時間及び海流の様子を見ながら進むので潮待ちの時間を考慮するとずっと時間がかかり、方位だって倭人には知る方法が無く、地元の山ならば南と東は分かるけれども、遠く離れた初めて見る山では方位は分らず、方位を誤認する可能性は有るのである。極端な話だが、上陸地点は末蘆国ではなく下関かもしれない。そして倭人の舟だと瀬戸内海は危険なので、広島や岡山、大阪を陸路で陸行1月かけて纏向まで行ったのかもしれない。近畿説の復活である。なので、第2章が後漢の時代に倭国の書者から聞いた記録だったのならば、近畿説は復活するなと思う。(北部九州説の古田先生の説が近畿説の復活につながるなんて皮肉だな)近畿説の人にうらまれなくて良かったな。
October 14, 2025
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昨日は邪馬台国論の中でとても大事なんだけれども世の中の学者先生や研究家が考えないことについて過去に書いたことの整理と新たに推理したことを一つ例を挙げて書いた。それにしても、例として挙げた論理学的な考え方の基礎を知らない学者先生が、「纏向が3世紀後半の遺跡なので邪馬台国である考古学的証拠」だと考えているのは、ちゃんと勉強していれば、高校の数学1の教科書にさえ載っていることなので、すぐに間違いだと分かることだから、もう少し勉強して欲しいなと思うのだけれども、今日はその2つ目の例題。よく魏志倭人伝に書かれた帯方郡から邪馬台国の行程について、間違った推理をしているのを見かける。良い例が「南と東を間違えた」と言うものである。その根拠を読んでみると、論理的に破綻したものが多く、自説に会わないからと言うものが多い。例えば一番ひどいのが、李氏朝鮮の地図を元に論理を展開するものである。この李氏朝鮮の地図は、実は中国の古い地図の(朝鮮に都合が良い)一部分を切り取った物である。下に元になった中国の古い地図を乗せる。混一彊理歴代国都之図と言い明の時代の地図である。李氏朝鮮の地図は恐らく日本よりも朝鮮が上に在り、大きいのが気に入って使ったのだろう。ちゃんとした知識が無い学者の場合、地図は上が北だと信じているので、「南と東を間違えたので朝鮮に有った帯方郡から見て近畿は南になる」と考えるのだろう。でも地図の上が北と言うルールはこの時代には無い。宗主国である中国を上にして書いただけ。つまり上は西である。例えば海南島やベトナムは、地図で上が北ならば中国の下側に在るはずなのに左に書かれている。つまり学者先生の理論(上が北)ならば中国の西側にベトナムが有ることになる。論理的じゃないなと思う。これを現代の地図を90度回転したものと比較すればすぐに分かる。日本が正確に書かれていることが分かる。中国の海岸線と韓国についてはちょっと変形しているが、朝鮮半島が異常に大きいことを考えると、そこに理由が有って変形しているのではと思う。うーん。日本って大きいんだなぁ。朝鮮て九州から大阪くらいしかないじゃん。李氏朝鮮の地図を作った朝鮮人の気持ちが分かる。愛国心が有ったんだ。でも事実を曲げるのは良くないと思う。そもそもこの地図は明の時代の地図なので、遣隋使や遣唐使なんかが情報を与えており、比較的正確だったはず。例えば日本の中に赤い点が描かれており、そこには「ヤマシロ」と書かれている。でも何で九州と四国が無いんだろう?「ヤマシロ」と書かれていることと何か関係が有るのだろうか?と言うことで、この地図をもって「南と東を間違えた」と言う学者先生は非論理的なのである。南と東を間違えたと主張する学者先生にはもう一つの言い分がある。壱岐から九州の末蘆国に着いた中国の使者が伊都国へ向かう魏志倭人伝の記述である。原文はこう書かれている。「東南陸行 五百里 到伊都國」末蘆国(現在の唐津市呼子=名護屋あたり)から東南に陸行すると伊都国に着くと書かれている。そこで地図を見ると名護屋から伊都国つまり今の糸島市はほぼ東である。(九州の地理に疎い学者は末蘆国を唐津市と考えて東北だと考えるが、 唐津や糸島は砂浜なので、 古代では潮の満ち引きや風雨を避ける等を考えると大きな船は寄港できず、 対馬海峡の潮の流れを考えると小さい丸木舟や準構造船では命がけの航海になり、 中国の偉い使者がそんな冒険はするはずが無いので、 海が深く周囲を島でおおわれて港を容易に造れる名護屋で降りたと考えるのが妥当である。 現に後世の神功皇后や豊臣秀吉の朝鮮出兵も博多湾ではなく名護屋からである。 魏志倭人伝でも倭人はちゃちな舟で航海するのでまじないをするとバカにしている。)なので、ちゃんと漢文である魏志倭人伝を読めないと、このような誤解を招く。でもそれは数行後の投馬國や邪馬台国への行程の記載を読めば、簡単に解決する。ようは「方位を示す言葉」がどこにかかっているかである。投馬國への行程はこのように書かれている。「南至投馬國 水行二十日」投馬國は南に在り、そこへは水行20日で行ける。英語を中学校で習った際にはグラマー(英文法)を教えてもらったと思う。例えばSVOC構文と言うのは、S(Subject=主語)、V(Verb=動詞)、O(Object=目的語)及びC(Comprement=補語)である。末蘆国から伊都国への行程の記述と、投馬國への行程の記述ではSVOCの順番が全く違う。末蘆国から伊都国へは、(主語を略して)方角-動詞-距離-目的地の順番である。対して投馬國へは、方角-目的地-動詞-距離の順番である。それぞれについて方角はすぐ後の語にかかっている。つまり末蘆国から伊都国の方の「東南」は「陸行」にかかっており、投馬國の方の「南」は「投馬國」にかかっている。なので、末蘆国から伊都国の方の「東南」は歩き出す方角であり、投馬國の方の「南」は投馬國の有る方角を示しているのである。そう考えると答えはすぐに分かる。末蘆国から伊都国への行程の記述は歩き出す方向を示す記述で伊都国の方角を示すものではない。もし伊都国への方角を示したいのならば、書き方は「東南至伊都国 陸行五百里」と書かなければいけないのである。そして、それが理解できれば名護屋から東南に歩き出して五百里行くと、書かれている通りであることが分かる。このことを誤解している学者先生は漢文(文法)をよく理解していない先生なんだと思う。ここで今回色々と調べていて分かったことなのだけれども、科学的にもこの時代に「南と東を間違える」ことはあり得ない。そもそも人類が方位と言うものを認識したのはおおよそ紀元前4000年前くらいだと思う。何故人類が「太陽神」や「北極星」を神様やあるいは神様の居る所と考えたかと言うと、農業や航海に置いては方位と言うのは最も大事なことだからである。農業では、太陽の昇る位置から季節を知り、田植えや麦を蒔く時期を知る。その時期を間違えるとお米や麦は育たず、収穫できないからである。秋にお米の種もみを蒔いても冬に枯れるだけであるし、日本では時期を間違えると梅雨や台風で稲はダメになってしまう。航海はそれこそ周囲には海しか無いので方位を間違えると生死に関わる。魚釣りだけならば沿岸部分だけを航海するので、まぁ間違えても痛いだけで死なないが、朝鮮半島まで行こうとすれば、目標になる島を見失えば死ぬ。特に黒潮や対馬海流に飲み込まれると、方位を見失いほぼ死ぬ。その時に頼りになるのは太陽と北極星だけだが、太陽は時間と共に移動するので、方位に関しては正確な時間を知る必要がある。この為に古代の人は必死に方位とその方位を知る手段を探して来た。「山あて」と言う言葉が有って、古代の人は特徴のある山を方位の目印にしてきた。なので、よほどのことが無ければ「中国の使者」を案内する案内人は方角を間違えないのである。また2世紀頃に「指南魚」が開発された。卑弥呼の時代の少し前である。日本船舶海洋工学会のページから画像をお借りして載せる。確かに、現代でも「指南」と言う言葉を使うじゃん!つまり3世紀には既に「指南魚」が使われており、南と東は間違えようが無かったのである。いやぎりぎり卑弥呼の時代には間に合っていないのでは?と言う人には、その後の中国の古代の書が、方位に関して一切訂正していないことをもって反論できると思う。むしろ隋書くらいからは「倭国は百済・新羅の東南3000里」と書いてあり、もう福岡付近としか読めなくなっているくらいだから。「南と東を間違えた」と言う事の整理がついたら、本来の整理事項である「女王国と狗奴国の位置関係」の話を整理する。まずは魏志倭人伝の当該部分の原文を載せる。なお、大事な部分は太字で大きい字で書いている。「南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日陸行一月 官有伊支馬 次日彌馬升 次日彌馬獲支 次日奴佳鞮 可七萬餘戸 自女王國以北 其戸數道里可得略載 其餘旁國遠絶 不可得詳 次有斯馬國 (途中略 斯馬國から奴国まで21国) 次有奴國 此女王境界所盡 其南有狗奴國 男子為王 其官有狗古智卑狗 不屬女王 自郡至女王國 萬二千餘里意訳すると、南に行くと邪馬台国に至る。女王の都とする所である。水行10日陸行1月で行ける。官は伊支馬と言う。その次は彌馬升と言う。その次は彌馬獲支で、その次は奴佳鞮と言う。7万戸と言う規模である。女王国よりも北には その戸数や道のり(行程)はだいたいの所は書けるが、その傍国(傍らの国)はあまりに遠くて情報が無く、詳しく知ることはできない。(傍国について名前を書けば)斯馬國が有る。(途中烏奴國まで19国略して傍国は21国)次は奴国である。この奴国が女王の境界の尽きる所である。其の(この其のが奴国なのか女王国なのかが議論になるが)南に狗奴国が有る。男の王様となっている。その官は狗古智卑狗と言う。(狗奴国は)女王には属していない。(帯方)郡から女王国に至るには1万2千里あまり有る。ここで大事なのは狗奴国の位置を示す「其南有狗奴國」の「其」である。従来学者先生と研究者たちはこれを「女王国」と考えて来た。はたしてそうだろうか?僕は「自郡至女王國 萬二千餘里」が狗奴国の後に書かれていることに着目した。もし「其」が女王国を指すならば、「女王國以北」の話は奴国の所で終わっているので、「自郡至女王國 萬二千餘里」は奴国の記述のあと、つまり「女王境界所盡」の所に書かれるはずである。「女王境界所盡」は終わっているのだから、狗奴国は関係ないはずである。ところが実際は「自郡至女王國 萬二千餘里」は狗奴国の後に書かれている。狗奴国に関して「女王境界所盡」の話が終わっても、「女王國以北」の話が終わっていない証拠である。つまり狗奴国は女王国には属さないが女王国の北側に在るのである。なので、狗奴国の記述のあとに「自郡至女王國 萬二千餘里」と書かれているのである。これで狗奴国と女王国の位置関係の決着はついた。ただこの話は実は学者先生と研究者が悪いのではなく、魏志倭人伝を書いた陳寿さえも完全には理解していなかったのだと思う。今は既に残っていない魏略にもこの辺の記載が有ったようだが、実は魏志倭人伝ほど詳しくは無く、ちょっと変な記述になっていたらしい。そのことは翰苑(かんえん)の当該部分を見ると分かる。翰苑は後漢書や魏略を元に書いたらしく、少し魏志倭人伝とは違っているが、僕でも分かる間違いだらけである。いや、議論するような間違いではなく、単純な間違いばかり。右クリックして出てくるメニューから「新しいタブで画像を開く」を選ぶと別タブで拡大可能。「うーん」と思うのだけれども、倭国は楽浪郡から1万2千里と書き、女王国は帯方郡から1万2千里だと書いてある。九州説の人は大喜びで手を叩くかもしれない。楽浪郡は帯方郡よりも若干北側に在ったので、それを考慮すると女王国は倭國のちょっと南側、つまり倭国の中心を伊都国と考えると女王国は朝倉や筑後(山門)付近になるからである。しかも女王国の南に狗奴国が有ると書いてある。ただ、女王国を「女国」と書いているし、狗奴国の王は「女男子王」と書いている。ちょっとケアレスミスが多くていまいち信じがたい。何よりも「郡より1万2千里」と言う記述の位置が「何でここに書いてある?」と言う状態である。だから翰苑の作者は、魏略や魏志倭人伝の内容をよく読んだわけではなく、「魏略を写した」状態に近く、魏略は魏志倭人伝と同じ古い資料を参考にしながら、自分の解釈で傍国等を省略したのだと思う。そしてそのせいで「邪馬台国」と「女王国」の関係は分らなくなってしまい、真実から遠く離れてしまったのだと思う。(「邪馬台国」と「女王国」の関係は後述)しかしもう一つ大事な話が有る。邪馬台国と女王国の関係である。学者先生と研究者たちは、自分達には解決できない問題なので、臭いものにふたをしてきた。でもそれでは根本的な問題である「邪馬台国はどこにあったか」や「女王国位はどこにあったか」と言う問題は解決しないのである。ほとんどの学者先生と研究者たちは、魏志倭人伝はいい加減だから書き間違えたとか、気分の問題で気まぐれに書いたと、自分達の理解不足をごまかして来た。2~3年前にNHKの特番で、邪馬台国について九州説と近畿説の人達の議論が有った。その時に女性の学者先生が「女王国は~」と言おうとしたのに、他の研究者にさえぎられてしまった。彼女はこの時に「邪馬台国」と「女王国」について話したかったのかもしれない。どの世界でもそうだが、特におじいさんたちが多い歴史の研究の世界では女性は可哀そうである。彼女はせっかくの発表の機会を失ってしまった。なので、代わりに僕がここに真実を書く。世の中のおじいさん先生が考えているように「邪馬台国=女王国」ではない。みんなが「邪馬台国はどこにあったか」と議論しているのは、「女王国はどこにあったか」と言う議論の間違いである。驚くべき事実だが、魏志倭人伝の中に「邪馬台国」と言う言葉は上に書いた「南至邪馬壹國」だけである。他はすべて「女王国」と書かれている。その上に「邪馬台国」と言う言葉と次の「女王国」と言う言葉は41文字しか離れていない。41ページではない。41行でもなく41文字である。そんなに近い場所に「邪馬台国」と「女王国」が書かれているのだから、魏志倭人伝の中で陳寿は「邪馬台国」と「女王国」を使い分けているとしか考えられない。多分NHKで女性の学者はそれを主張したかったのだろう。気の毒である。では「邪馬台国」と「女王国」を何故使い分けたかったのか?それは「邪馬台国」は女王国と斯馬國及び奴国などの傍国すべてを含んだ連合国家だったから。そしてそのせいで、女王国以北の話をする際にこれを邪馬台国と書くと、邪馬台国の北側に邪馬台国が有ると言う変な文章になってしまうからである。つまり魏志倭人伝に書かれた女王国以北の傍国は「邪馬台国の内部の国の説明」なのである。これと同じようなことは現代でもあるし、それを現代人の僕達は何も不思議には思わない。だから魏志倭人伝の時代でも、事情を知っている人は納得して受け入れたと思う。現代における例とは、例えば中央高速八王子付近の道路標識である。八王子は既に東京の中なのに「東京まで○○km」と書いている。八王子も東京だろうと思わず突っ込んでしまうけど。要は現実的な「東京都」と概念的な東京の違いである。だから邪馬台国の中の「女王国」と「斯馬國」は、東京都の中の「千代田区」と「台東区」みたいな感じで、邪馬台国の中の説明なので「邪馬台国」と言う言葉が使えないのである。だって邪馬台国は女王の都とする所と言うのは、東京とは霞ヶ関の有る所で間違いないのだけれども、霞ヶ関の有る「千代田区」と上野公園が有る「台東区」の位置関係を説明するには、東京と言う言葉が使えないのと同じである。そう考えると、実は学者先生や研究者たちが悩んできた7万戸もの規模の邪馬台国はどこにあったかが解決する。女王国以北の傍国も「邪馬台国」なのだから、もし宮崎や鹿児島が邪馬台国だった場合には、ほぼ九州全域が邪馬台国なのである。また邪馬台国の7万戸と言うのが対馬や壱岐や伊都国が千戸単位なのに比べて異常に大きいのも、邪馬台国の構成国が22ヵ国以上有るので、一か国辺りは3000戸程度と計算され、そのうちの奴国は2万戸も有るので、もっと少ない2000戸でも良いのである。当時のお米の生産量等から考えても現実的な数字だと思う。こう考えてみると「邪馬台国」と「女王国」の関係を知るのは大事なことだと思う。吉野ヶ里を邪馬台国と考えるのも、朝倉付近を邪馬台国と考えるのも、山門あたりを邪馬台国と考えるのも、みんな正しい。連合国の一部なのだから。だから僕の「邪馬台国はどこにあったか」と言うタイトルも、本当は「女王国はどこにあったのか」なんだなぁと思う。でも面倒くさいから変えないけれど。<後日追記>YOUTUBEを見ていたら、僕の推理とは逆の見方をする人がいた。邪馬台国≠女王国と言うのは、原文を見ると「邪馬台国」と言う言葉と「女王国」と言う言葉は41文字しか離れていないので、あり得ないと言う立場は同じなのだが、魏志倭人伝の中の伊都国の記述「丗有王 皆統屬女王國」と言う部分から、また邪馬台国への行程記述の「南至邪馬壹國 女王之所都」と言う部分と合わせて、女王国の中に伊都国や邪馬台国が有り、邪馬台国は女王の居る所と読んだようである。一見正しいのだけれども上に書いたように女王国と女王国の傍国の位置関係が変になってしまう。なので誤りである。上では原文を書かなかったので信用されないかもしれないので原文を載せる。「自女王國以北 其戸數道里可得略載 其餘旁國遠絶 不可得詳 次有斯馬國(以降略)」ここで女王国を邪馬台国や伊都国等を含む連合国とすると、女王国の一部である伊都国等の「其戸數道里可得略載」が女王国の以北に有ると言う、とても変な文章になってしまう。原文によれば女王国と伊都国は別の国でなければおかしいのである。なので、連合国は「邪馬台国」であり、女王国や伊都国はその構成國なのである。じゃあ「属する」と言うのは「含む」の意味ではないのか?そうである。「属する」には「含む」と言う意味意外に「ある勢力に従う(従属する)」と言う意味が有り、例えば現代の世界情勢で言えば、「ベルラーシ」は「ロシア」とは別の国であるが、ロシアに属すると言えるのである。そうそう、狗奴国が良い例だと思う。狗奴国は女王国と戦っており、明らかに女王国(が連合国だったとすると)には含まれず別の国なので、わざわざ「女王国に属さない」などと書く必要は無いのに、「属さない」と書かれている。これは女王国(が連合国だったとすると)に従わない」と言う意味だからだと思う。そう考えると連合国の名前が「邪馬台国」であり、女王国と伊都国などはその構成国で、伊都国は同じ邪馬台国の中で女王国に従う国だったのだと思う。
October 10, 2025
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邪馬台国の研究に際して、とても大事なんだけれども、世の中の学者先生や研究家が考えない事がたくさん有る。そのうちのいくつかは今までの僕のブログの中で解明したんだけれども、最近いくつか、まだ書いていないことに気がついたので書くことにした。その前にいくつか既に書いたことについて整理する。一つ目は世の中の学者先生や研究者たちは、その内容から「理系」の方より「文系」の方が多い。そのせいで「論理的な考え方」ができない方が多い。ひどい学者先生になると「歴史はロマン」などと開き直ってしまう先生さえもいる。そのせいで、議論は論理的なものよりもロマンティックなものが多い。アマチュアの場合はそれが楽しいので良いのだけれども、それでお給料をもらっている(ひどい場合は税金からもらっている)先生はダメだと思う。一つ例を挙げると、「纏向は3世紀半ばの遺跡だから邪馬台国の遺跡である」と言うのを考古学的証拠と言う人である。論理学的に考えるとひどい間違いである。論理学では、これについて高校の教科書で習う。但し、高校の学科には「論理学」は無いので「数学1」の一分野として習う。文部科学省で定めた学習指導要領を見てみる。但し手に入ったのが少し古くて平成30年版。赤いアンダーラインに書いてある様に、内容は数学だけではなく「社会の事象などから設定した問題」について応用できる。ここで文系の人達は「命題」、「必要条件」、「十分条件」及び「包含関係」と言う用語を(本当は高等学校で習うので知っていると思うのだけれども)知らない可能性も有るので、定義を書く。(Wikiなどを参照)命題:論理学において判断を言語で表したもので、真または偽という性質(真理値)をもつもの必要条件:ある事柄を成り立たせるために不可欠な条件十分条件:ある事柄が成立するために、その条件が満たされれば、 結果が確実に成立する可能性が高い条件包含関係:ある集合が別の集合の部分集合であるときに成り立つ関係「纏向は3世紀半ばの遺跡だから邪馬台国の遺跡である」と言うのは、「魏志倭人伝に書かれた邪馬台国の年代は3世紀半ばである」と言う「真」である命題であるの逆の命題である。包含関係が完全に一致しない場合、逆の命題は必要条件にはなりえず、十分条件にしかならない。従って成立する可能性は有るが「真」ではない。特に包含関係が小さい場合は逆に「偽」の可能性が高くなる。例えば「纏向」の場合、魏志倭人伝では冒頭に「倭国はもとは百余国有ったが、今では交流が有るのは30ヵ国程度」と書かれている。つまり包含関係を見ると、邪馬台国は百余国のうちの1国でしか無く、命題が成立する可能性は1%しかない。つまり0%ではないが「考古学的証拠」である可能性はたった1%なのである。(但し、ほぼ0%しか無かった近畿説が、 1%とは言え「可能性が上がる」のは十分条件の十分条件らしさではある。。)これを「考古学的証拠が有るので纏向は邪馬台国の遺跡である」と言う、学者先生や研究家は高校生からやりなおした方が良いと思う。これは三角縁神獣鏡についても同じである。正始元年と書かれた三角縁神獣鏡が有ったとしても、正始元年と書かれた理由が、例えばある国の王の即位記念だったり、争っていた国々が同盟を結んだ印だったり、色々な可能性が有るので、包含関係を考えると、その色々な理由の数(例えば100の理由)のうちの1つでしか無く、これも「真」である可能性は1%くらいしかないのであり、とても邪馬台国である証拠にはならない。まずは「必要条件」を探さなければ「考古学的証拠」にはならないと思う。過去のブログでもそのことは書いたんだけれども、ちょうど良い「証拠」が無かった。なので平成30年版ではあるが、学習指導要領が見つかって良かった。文部科学省のものだから。まぁ過去のブログの話は置いておいて、今回書きたい新しいことを書く。それは「神武東征」の証拠を見つけたかもしれないと言うこと。つまり卑弥呼の時代には九州に有った邪馬台国が段階を経て近畿に移動したかもしれない証拠。まずは魏志倭人伝を見てみよう。倭国の大きさについて書いている。「参問倭地 絶在海中洲㠀之上 或絶或連 周旋可五千餘里」意訳してみると、倭地を考えてみると、遠く離れた海中の島々の上にあり、離れたり連なったり、巡り巡って五千余里ほどである。と書いている。1里に対する考え方が色々と有るので「絶対値」に関しては議論が有るだろうが、既に分かっている物と比較して考える「相対値」であれば信頼がおけるので、魏志韓伝に書かれた同様の部分を見てみる。「韓在帯方之南 東西以海為限南與倭接 方可四千里 有三種一日馬韓二日辰韓三日弁韓辰韓者古之辰國也」意訳すると、韓は帯方郡の南にある。東西は海をもって限りとなし、南は倭と接す。およそ四千里四方。三種あり、一は馬韓と言い、二は辰韓と言い、三は弁韓と言う。辰韓はいにしえの辰国である。これをgoogleMap上に書いてみる。なお、倭国は伊都国や対馬・壱岐を含むので結構位置が固定される。韓は東西は海だし、南は倭に接している。<後日追記>こうして地図に魏志倭人伝の行程を落として見ると、歴史学者や研究者の罪は重いと思う。近畿説の人がよく主張する、1里=300~400mと言うのはどうやっても魏志倭人伝の行程には適合しない。逆に魏志倭人伝は全部の行程で1里=70~80mで統一されている。例えば帯方郡(上の地図の左上ソウルのちょっと上あたり)から狗邪韓国への行程は、魏志倭人伝には南へ行ったり東へ行ったりして(つまり海岸線に沿って)水行で7000里と書かれているが、地図上で約500km~550kmなのでピッタリである。狗邪韓国から対馬までも1000里と書かれているが、約70~80kmなのでピタリである。しかも魏志倭人伝だけでなく後漢書や隋書及び旧唐書等に書かれた里程もそれに合っている。どの書物に魏の里程は1里=300~400mなんて書いてあるんだと思って調べたら、直接的に300~400mと書いた書物は無い。日本の一部の偉い先生が、1寸から(想像して)計算して推理しただけで、事実として確認できる中国の書物は無いのである。しかもそれも、紀元前2世紀に書かれた「周碑算経」と言う本に基づくと、逆に1里=76mと算出されるのである。唯一大月氏国への行程だけは1里=300~400mと読めるが、これだって「魏の里程」ではなく「大月氏国の里程」かもしれず、そして上にも書いたように魏志倭人伝以外の中国の古い本も全て1里=70~80mで統一されているし、地図に合っている。つまりそれを唱えているのは近畿説のグループだけで、中国側はそんなことは言ってはいない。「魏の里程は魏志倭人伝に基づくと1里=70~80mだった」と言っても良いような気がする。大月氏国への行程と倭国への行程のどちらを信用するかと言えば、倭国なのでは?後日追記終わり<さらに後日追記>ここまでの話だと邪馬台国近畿説は100%消えるが、それでは申し訳ないので、今までとは違った視点で見た場合には近畿説も有りうると言う話をこのシリーズ(その3)で書く。お楽しみに。やっぱり倭国って九州じゃんと思うけれど、今日はちょっとそれは置いておいて、神武東征の話。隋書倭国伝に次のように書かれている。「倭国在百済新羅東南水陸三千里於大海之中 依山島而居」意訳すると、倭国は百済、新羅の東南、水陸三千里の大海の中に在り。山島に依りて居す。と書かれている。倭国の首都を福岡県の付近とするとまさに百済・新羅の東南で、海と陸を経て3000里だと思う。確かに1里の絶対値については議論があるかもしれないけれど、方4000里や方5000里との比較で(相対値として見ると)けっこう正確である。つまり隋の時代までは倭國の中心は福岡県付近に有ったと言うことである。(女王国宮崎説の僕としては倭國の中心が福岡県と言うのはちょっと抵抗があるが、 逆に魏志倭人伝の時代だけが、 卑弥呼が女王に共立された為に一時的に宮崎に移っただけで、 その他の時代には倭國の中心は福岡の辺りだったと考えれば他の色々な事実とも合うので、 隋の時代には福岡付近に倭の中心が有ってもおかしくは無いのかなとも思っている。)やっぱり纏向じゃありえないじゃん。でも唐の時代には白村江の戦に負けた後には、唐の郭務悰は天智天皇に会いに大阪まで来ている。これは唐側の文書でも書かれており、日本書紀の記述とも一致している。と言うことは、隋の時代までは九州に倭国の首都が有り、白村江の戦い後には倭国は無くなり日本国の首都が近畿に有ったことになる。旧唐書に倭伝と日本伝が別々にあり、「日本国は倭國の別種である」と書かれているのだから、白村江の戦の前には九州の倭国と近畿の日本国が有ったのに違いない。ならば、纏向は「日本国」の祖先の国なんだろうと思う。それは何か?「晉書」宣帝紀に「東倭重譯納貢」と書かれている。西暦240年つまり正始元年である。卑弥呼が魏に使いを送ったのが景初3年(239年)で、その返礼が有ったのが240年である。中国では漢の時代から唐の時代までたくさんの史書が書かれており、「倭」や「卑弥呼」に関しては相当に研究されており、この「東倭」が倭国のことであれば、また納貢したのが卑弥呼ならばそう書くはずである。それをわざわざ「東倭」と東を付けているのは、倭ではなく倭の東に有った国だからであり、東倭は、帝位に就いていなかった司馬懿(宣帝は晋朝初代武帝で司馬炎による追号)に朝貢している。恐らく卑弥呼が魏に朝貢したのに対抗して、司馬懿に朝貢した別の国だと思われる。(司馬懿と書くと難しい漢字なので知らない人も多いと思うけれど、 字が仲達(ちゅうたつ)だと書くとすぐにピンと来る人は多いだろうと思う。 有名な「死せる孔明、生ける仲達を走らす」の仲達である。 彼は魏の大尉(総司令官)を努め、 本来は魏の東方(遼東=朝鮮半島のつけねあたり)地方を治めていた 現在で言えば知事のような地位であった公孫淵父子が起こした反乱を鎮め(景初3年頃)、 蜀漢を諸葛亮孔明の死後に屈服させた。 曹操の子で献帝からの禅譲を受け魏の皇帝となった曹丕の信頼が厚く、 黄初7年(226年)、曹丕が崩御し、その子の曹叡が皇帝に即位したが、 その曹叡も景初3年(239年)司馬懿が遼東から帰還する最中に病に倒れて、 ものすごい権力闘争の後に曹一族を滅ぼし、 彼の死後に孫の司馬炎が魏より禅譲を受けて正式に皇帝となると、 祖父の司馬懿を高祖宣帝と追号した。)東倭は公孫淵父子を滅ぼした司馬懿にすばやく使者を送るほど外交や政治に敏く、卑弥呼に劣らない賢い王が治める国だったのだろう。つまり九州に有った倭国に対して、近畿には東倭が有ったのだと言うことである。そしてここからが僕の新しい想像(推理)なんだけれども、魏志倭人伝に書かれた難升米は、(なんしゅうまいと読む人が居るけれども、 音に漢字をあてる場合には2音に漢字1字はあてないので)「なすめ(なんすめ)」と読み、「奴のすめ」と名乗ったのを、中国人が誤って「難升米」と言う漢字をあてたのだと思う。「奴のすめ」とは何か?奴は奴国のことで、「すめ」は統べる(すべる=支配する)の古い言葉なんだと思う。この言葉は後世の「天皇=すめらみこと」までつながる言葉だと思う。(コトバンクによれば「天皇を敬い尊んでいう語。すべらみこと」と書いている。)難升米は奴国の支配者で、王は卑弥呼だったので王は名乗らず「すめ」と名乗ったのだと思う。そして重要なのは難升米もしくは彼の子孫が現皇室の祖先で、神武天皇の先祖は難升米なんだと思う。卑弥呼は生涯独身だったのだから、子供はいない。なので、難升米は卑弥呼の弟で神武天皇のひいおじいさんだったのである。そう日本神話に出てくる月読の命なんだと思う。(日本神話ではスサノオの命は暴れて、天照大御神が武具を持って迎え討つ事になっているので、 僕は卑弥呼が天照大御神、狗奴国の王がスサノオで難升米は月読の命だと考えています。)そして彼が名乗った「すめ」は一族の主の名前となり、後世の天皇につながるのである。子孫の神武天皇は東倭を滅ぼし、近畿に「日本国」を建国して天皇になるのである。(今までの歴史学者は、 何故この時代に倭ではなく日本、王ではなく天皇(すめらみこと)を名乗るようになったか、 ちゃんと説明できていないが、この推理が正しければその理由が説明できる。 難升米が卑弥呼のせいで王を名乗れず、 倭ではない日本にあっては「すめらみこと」が王を示す名前だからである。)なので、しばらくは倭国と日本国は九州と近畿に両立するが、天智天皇や天武天皇の時代に「倭国」と王は無くなり、「日本国」と天皇ができるのである。つまり神武東征は実際に有ったことで、難升米の曾孫の神武天皇が東倭を滅ぼして日本を建国したと言うのが神武東征だと思う。違うかなぁ。今日はここまでにして、明日は別の「新しい発見」を書く。
October 9, 2025
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アリ・エクスプレスの「クセ」にも慣れて来たので、BluetoothFMラジオを買いました。アリエクの「クセ」とは色々と有るのですが、ワナっぽいのが多く、例えば多いのは「送料詐欺」です。外国から送って来るので郵便料金よりも高いのは当然ですが、明らかに商品価格を安く見せる為に、商品価格を低くして送料でカバーするパターンが多いです。たまに恐ろしいくらい高い送料の場合が有ります。次に注意しなければいけないのは、同じページの中に複数の商品を掲載する場合が多く、これって何でこんなに安いの?と思ったら、それはケースの値段で、ケースと本体は別売りで、ケースの値段で申し込むとケースだけが届いたりします。またグレードの違う類似商品を複数載せて、商品説明は高い商品の説明なのに、混乱して安いグレードの商品を申し込んでしまい、思った物と違う商品が届いてがっかりしたりします。僕も最初の一回は引っかかり、偉く安いなと思ったFMラジオが液晶表示無しの物が届き、よくそのページを見てみると、安い液晶表示無しと高い液晶表示付きが同じページに有り、選択を間違えると液晶表示無しが届く仕組みになっていたのでした。まぁでも「仕組みが分かっていなかったお前が悪い」と言われると確かにそうで、悔しかったのでもう一回液晶表示付きを頼むとちゃんと液晶表示付きが届いたので、売り手が悪いのではなく、システムを理解していなかったと考えるしかないなとあきらめた。まぁそんなことも有って購入には慎重になっていたんだけれども、ようやくシステムにも慣れ、日本では買えない色々なラジオが買えるようになりました。で、表題のBluetoothFMラジオを買ったのがこれ。値段的には満足で、日本では買えないくらい安いのだけれども、やはり言葉が分からないせいで、ちょっと失敗した。いや僕にとって失敗であって、普通の人には失敗ではないので念のため。僕は耳が聞こえなくて、我が家はマンションなのでスピーカーでは大きな音が出せず、ヘッドホン付きのラジオじゃないといけないのだけれども、これってヘッドホンが使えないのである。ヘッドホン端子のようなのが写真に写っていたので買ったのだけれども、そのヘッドホン端子のようなものは、なんとアンテナジャックだった。うーんと思ったが仕方ない。普通の人にとっては正常な商品なんだから。まぁでもそれ以外はむしろ立派な商品です。カッコいいLEDが音量に合わせて広がるように点灯します。小音量では中央の紫だけ点灯し、中音量だと青が点灯、大音量だと緑まで点灯します。音量に合わせてLEDが広がったり狭まったりするのはカッコいいです。部屋のインテリアには最高だと思います。ただこれがヘッドホン端子がついていない原因なんですよね。実はスピーカーの裏にマイクがついており、それで拾った音を増幅してLEDの点滅に利用しているのです。なのでヘッドホンにするとLEDが点滅しない。まぁだからヘッドホン端子が無いのは仕方ないのです。それ以外は不満はありません。Bluetooth5.0が使えるし、FMラジオは87.5~108.0MHzですがそこそこの感度です。僕の部屋(電波が入りにくい部屋)でもinterFM(89.7MHz)、TBS(90.6MHz)、文化放送(91.6MHz)、ラジオ日本(92.4MHz)そしてニッポン放送(93.0MHz)がきれいに入ります。またUSBメモリー等のMp3も再生できます。ただ説明書が英語なので操作方法が最初は分からなかった。Vol+とVol-が長押しならボリュームで、ちょい押しだとFMの選局やMP3の曲送りです。まぁ使っていると分かるんだけれども、最初は戸惑います。FMはオートスキャンで勝手に放送局を見つけてメモリーに記憶して、Vol+とVol-で次の放送局や前の放送局に移動します。だから普通の人には立派な商品です。耳の聞こえない僕に向いていないだけ。そうそうアンテナジャックはこんな感じ。付属のテレスコピックアンテナ(日本で言うロッドアンテナ)を差し込みます。ちなみに電源はUSBで(USB-丸型PINケーブル)が付属します。つまり普段は市販のスマホ用のアダプターを使うのですが、旅行やキャンプに持って行くならばリチウムイオン電池が使えます。スピーカーは(マンションでは使えないけれど)3W+3Wなのでそこそこ大音量です。次はどんなラジオを買おうかな。
October 8, 2025
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10月2日はわの会のイベントで金沢区釜利谷を歩いた。このルートは僕がわの会に加入したすぐ後に一回行ったルートなんだけれども、今回は禅林寺の和尚さんのお話が聞けると言うことで、再度のルートとなった。ちなみに前回のブログはこちら。横浜市金沢区わの会2回目のイベントに参加しました。今回のルートはこちら。この地図は国土地理院の地図で、過去の地形が分かるようになっている。地図中のグレーの部分はかっては海だった部分でなんと今回通ったルートは勝手の海の中。有名な金沢八景の「小泉夜雨」の絵の船が往来している部分である。ちなみにこの辺が「小泉」だったと言うのは、上の地図の中に「小泉」バス停があることからもかる。ここからは少し南になるが、六浦から朝比奈に至る途中には小泉家の跡が有る。いまでこそ横須賀を本拠地にしているけれど、小泉純一郎一族の出自は金沢区だったんですね。そして御先祖様はこの小泉(こずみ)だったのかもしれない。ここ手子神社から大道は白山道(はくさんどう)で結ばれており、縁が感じられるので。ルート最初の部分の宮川は上でも書いたけれどかっては海の中。17世紀に永島祐伯による開拓が行われるまでは平潟湾から続く入り江であったが、埋め立てられ、現在は区役所や金沢警察署、商業施設などが立地し、金沢区の行政・商業の中心となっている。主要部分の町名はこの地を開拓した永島祐伯の雅号に因み「泥亀」と言う町名。この宮川の土手部分にはかって桜並木が有り、親しまれていたらしい。小学校の教師をしておられた角田武夫さんと言う方が描いた「金沢百景」と言う絵の中の「大川堤」と言う絵を見ると、金澤山をバックに桜並木の川の堤が描かれ、その解説によると紅白の幕を張りめぐらした茶店が出て大変にぎわったと書かれている。でも悲しいことに今は桜並木は失われ、学校の中に少しだけ残っているけれど面影は無い。代わりに宮川が整備された際に、あらたに植えられた栗の木等が見られる。ものすごい量のいがぐり。子供達が食べたのかなぁ?ここを少し上流に行くと手子神社が有る。わの会のテキストによると、手子神社はかっては皆手子神社と呼ばれており、祭神は大山祇命。瓊瓊杵尊の奥様のお父さんですね。細川陸奥守家臣の伊丹左京亮経貞が瀬戸三島明神を富ヶ谷に勧請したのが始まり。社殿前には寛文11年(1672年)銘の石燈籠型庚申塔が有る。ただ、どれがそうだか、僕は耳が悪くてよく分からなかった。代わりに享保2年(1717年)の物。左側を見ると享保2年とはっきりと読める。境内については前回のブログで書いたので省略するが、普通は天邪鬼等を踏みつけている狛犬が、ここでは踏みつけているのではなく、(本来天邪鬼が居る位置にいる)子犬を優しく見ている。手子神社らしい。手子神社をあとにして、釜利谷小川アメニティを通る。ちょっとだけ涼しい。小川の中には沢山アメンボとニナ(巻貝)がいる。アメニティは8年の工期をかけて1993年に完成。このアメニティの下には元の宮川が暗渠として流れている。いわゆるアメニティは、川の源流近くで自然の景観が残されている場所を、水があふれないように対策を行い、周辺環境との調和を配慮した整備事業のこと。いやこんな所の狹い川は溢れないだろうと言うのは自然の脅威を知らない人である。僕のおじさんの家は長崎の水害で、傍に有ったたった幅3mくらいの川があふれて流された。山が貯えた水が突然流れ出すと、普段はチョロチョロとしか流れていない小川が牙をむいて家さえも流すのである。こういう事業は大切だと思う。アメニティを過ぎて自性院につく。自性院は永正年間(1500年頃)の創建で本尊は聖観世音菩薩。伊丹三河守が幼くして亡くなった2人の子供の菩提を弔う為に創建したらしい。手子神社も伊丹一族が建てたらしいが、伊丹氏はこの付近の名門。今でも子孫がいるらしい。境内には宇賀山王社がある。(入口は別にある。)元は付近の坂本に有ったらしい。それを霊夢を見た大久保主水忠行の奥さんが祀らせたらしい。なお、忠行は神田上水の元小石川上水を開削した功により、家康から「主水」を許されて、家康から主水を「モント」と発音するように命じられたらしい。「門戸」のシャレ?最後は禅林寺。境内には柿の木が有り、たくさん実がなっていた。鳥はいないのか、全然食べた形跡が無かった。もしかして渋柿?禅林寺は明応の創建(1493年頃)で、本尊は薬師瑠璃光如来(元本尊は華厳会釈迦如来立像)鎌倉公方足利持氏により創建されたらしい。ここも手子神社同様に伊丹左京亮経貞が荒廃していたのを再興したらしい。ここには安永9年(1780年)に家康の御神影と御道具が下賜され、坂本村の村民だけが参拝を許されていたが、現在は毎年4月17日の家康の命日に一般人も参拝可能。そして今日のメインである住職のお話が本堂で始まったが、僕は耳が聞こえないので、仕方なく御本尊を眺めていた。最後は坂本のバス停で解散した。距離的にちょうどよく、お天気も暑すぎない日で、気持ち良かった。
October 6, 2025
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10月1日のNHKのSONGSは斉藤由貴・南野陽子・浅香唯の3人だった。斉藤由貴が歌う「卒業」はよく「タイムマシンソング」と言われるが、本当にそうだと思う。彼女が歌うのを聴いていると、自然とあの頃に戻っている気がする。いやあの頃と言っても斉藤由貴が歌っていた頃ではなく、僕が高校生の頃のこと。誰でも「あの頃」って有るのだと思うのだけれども、僕は「あの頃」がたくさん有って、高校生の頃も「あの頃」だし、大学生で毎週2回可愛いお嬢さんの家に家庭教師に行ってた時もあの頃だし、東京に出て来て毎日のように色々な女の子を乗せて国道20号線を走った頃も「あの頃」だし、仙台に転勤になって難しい上司に色々と難題を与えられた頃も「あの頃」だし、名古屋に転勤になり偶然知り合った奥様と遊んだり、飲み屋のお姉さんと遊んだのも「あの頃」。新潟に転勤になって知り合った高校生の女の子と遊んだのも、北海道に転勤になってたまたま知り合った女の子と楽しんだのも「あの頃」。広島と言うか呉で一緒に遊んだ女の子とウサギ島に行ったのも「あの頃」。何回も死にそうになって苦しんだけれども、楽しかったなぁ。そう言うのが斉藤由貴の「卒業」や水越恵子の「Far away」を聴くと蘇る。だから歌って言うのは不思議だと思う。単に音符を並べただけのものじゃないなぁ。ところで斉藤由貴や南野陽子や浅香唯はデビュー40周年なのだそうだ。1985年組。えー!デビューしたのが18歳だとしたら、もう58歳?(斉藤由貴は1966年9月10日生まれなので先月59歳になったらしい)もうお婆ちゃんじゃん。でもSONGSを見てると30代でも通用しそうな若さ。来年は60歳だよ。もはや人間じゃないと思う。たしか一般男性の方と結婚して去年頃離婚したんじゃなかったっけ?娘さんがいたはずなので、そろそろ孫が生まれるころ?もう一回くらい人生を楽しめそう。SONGSを見てて思ったけれど、彼女はよく「魔性の女」的なことを言われるけれど、分かるな。彼女は美人なだけじゃなくて頭が切れる。なので、「魔性の女」に見えるのだと思う。同じ「魔性の女」でもよく問題を起こすH末さんとは別の意味で「魔性の女」なんだなと思う。吉永小百合様もそうだけれども、頭の切れる美人はいくつになっても大好きだなと思う。
October 4, 2025
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