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横浜市の歴史博物館の道路を挟んだ向かいには大塚・歳勝土遺跡公園があり、歴史博物館から陸橋を渡って行ける。ただ、歴史博物館に行かずに遺跡公園に行くには、市営地下筒センター北駅の出口から別の陸橋を渡って行った方が近いので念のため。公園内には大塚・歳勝土遺跡と旧長沢家住宅(復元)が有る。上の案内図の赤い字の現在位置と書かれた方がセンター北駅に近い陸橋から来た場合で、右上にはみ出すように書かれた歴史博物館とも歴博通りにかかった陸橋経由で行ける。昨日のブログで歴史博物館は9月8日から設備工事で2か月間強休館だと書いたが、遺跡公園は休まずに開かれているので大丈夫。僕は歴史博物館側から陸橋を渡って行ったのだが、訪れる人が少ないのか、陸橋に付属する階段は草ぼうぼうで「ちょっとなぁ」的な感じである。まぁ横浜市は文化面が非常に弱く、予算が少ないので仕方ない。入って最初に大塚遺跡に行った。大塚遺跡は「環濠集落」なので周囲は柵と環濠に囲われており、入ってすぐ左には、その柵の切れ目から「邑」に入る橋が再現されている。(僕は「村」と「邑」を区別するタイプの人なのですみません。 邑は周囲を壁、城壁、濠でかこまれた聚落のことで、 単に人の集まり住んでいる所である村とはちょっと意味合いが違います。 邑は規模の大きさを除けば「国」に近いかもしれません。)邑に入る為の橋なので、環濠の上にかかっているだけではなく、日本のお城で言えば「虎口」のような感じになっています。邑に入る人はここに立った衛兵にチェックを受けて、武装解除され、許可を得た人間だけが入れますし、戦争時にはここを通る敵兵は、周囲の周濠には(当時は水が満たされているので)渡れず、大軍だとしても一度に通れる人数が制限されるので、防御しやすくなります。なので、この再現木橋はけっこう忠実に作られていると思います。周囲の柵と環濠も(環濠は少し浅いと思うのだけれども)再現されていました。ただ、ちょっと残念なのは「逆茂木」が無いことです。このままでは敵兵は柵に足場をかけて容易に乗り越えます。なので、通常は「逆茂木」と言うとがった木を地面に埋め込んで、柵を乗り越えても飛び降りることができないようにして、侵入を防ぎます。(飛び降りることができなければ、柵によじ登った敵兵は弓矢の餌食です。)<後日追記>ここで気になるのは「環濠集落」だと言うことは、付近に「攻め込んでくる相手国」がいたと言うこと。それって発見されていないけれど、同程度かより大きな敵国が付近に有ったと言う事。ここの遺跡は弥生時代中期の遺跡らしいのだけれども、弥生時代中期の遺跡は奴国をはじめとした九州北部だけじゃなく、日本中あちこちに「環濠集落を必要とする邑=集落」が有ったと言うことじゃん。弥生時代中期にこの規模の邑が関東でもあちこちに有ったということは、これでは今の邪馬台国論のように「大きな国が有った」とか言うのを根拠にあげているのは、もはや意味が無いなと思う。纏向遺跡が3世紀半ばの遺跡だとしても、それより100年以上前に、関東でさえもこれほどの邑が有ったのならば、纏向遺跡は邪馬台国ではなく、別の大きな国の都だとしても何の不思議は無いと思う。つまり「3世紀半ばの遺跡」であることは邪馬台国の証拠にはならないじゃん。むしろ魏志倭人伝に書かれた「倭国には100ほどの国が有り」、「そのうち中国と交易関係にある国が30国」も有ったと言うのが信憑性を増すなと思う。学者先生の「邪馬台国はここにあった」と言うのはもはや誰も信じないだろうなと思う。中に入るとこんな感じで、竪穴式住居や高床式倉庫が復元されています。結構広くて、吉野ヶ里遺跡には及びませんが登呂遺跡(田圃部分を除く)よりも大きいです。上の写真で橋のすぐそばには住居跡が有ります。この説明文が、ちょっと違うなと思いました。一番変なのは奥の2つの溝を「通路」としていることです。通常の住居では、普通は邑の中の通路側に入口を作ります。現代の住居でも玄関は道路に面して作るのが普通です。説明文のように2つの溝が通路ならば、邑の通路とは反対側に玄関があることになります。また、かまどは通常は屋内では通行の邪魔になるので奥の方に作ります。説明文のように2つの溝が通路ならば、玄関のすぐ前にかまどが有り邪魔で仕方ないと思います。なので、論理的に考えれば玄関の位置が逆です。恐らく2本の溝は環濠の方向に向かって伸びているので、この付近は地下水位が高いことから、住居の中に水が染み出やすく、その水を環濠に流す排水溝だと思います。それは別の住居の復元家屋の中と説明文を見ても分かります。この住居を見ると屋内に溝が円形にめぐらされており、そこから周囲に3本の溝が延びています。排水溝だと思います。登呂遺跡等の他の地域では屋外に溝が掘られ、その溝の内側に住居が造られるのですが、ここは地下水位が高く、地面から水が沁み出す地質なのだと思います。それに対する対策だったんだと思います。なので、一番上の写真の住居跡には家屋の外の溝と家屋の中の溝が2本(2重に)有り、非常に珍しい形になっているのだと思います。歴史家や考古学者は古代のことには詳しいのですが、一般的な庶民の生活や普通の感覚には疎いので、気がつかなかったのでしょう。その隣にはこの邑における標準的な家屋が復元されています。かまどは奥の方に有るのが分かります。なお、最初の住居跡の説明板のもう一つの(誤りとまではいかないけれど)変なのは、貯蔵穴です。多分説明が足らないのだと思います。いくら古代でも食料を地面に直接置かないと思います。汚いとか言う話よりも、衛生的な(食中毒などの病気対策)話や虫からの隔離です。恐らくこの穴には土器を差し込んで貯蔵したのだと思います。なので「貯蔵した」のは正しいのですが、「土器を使って貯蔵した」が正確なのです。当時の土器は底が尖っています。何かで支えないと倒れます。この穴は土器を差し込む穴だったのです。邑にはリーダーがいます。そうでないと他の邑から襲撃されたり、邑の中の秩序は保てません。その邑の長の家がこれです。何か大きいだけでイマイチだなぁ。もっと特徴は無かったのかなぁ?吉野ヶ里や三内丸山では首長の家は何か有ったような気がする。邑には収穫した農産物などを収めておく倉庫が有ります。高床式倉庫です。吉野ヶ里の高床式倉庫は板壁だったなぁ。あそこは2世紀の遺跡のはず。ここはそれよりも古いのかなぁ?台風なんかをワラの壁で防げるのだろうか?泥棒もいるだろうし。ちょっと違うなと思った。大塚遺跡をあとにして、次は歳勝土遺跡へ行く。ここは方形周溝墓である。方形周溝墓は関東に多い「お墓」である。歴史博物館に有った「子供の土器棺」はここに有ったらしい。土器の棺と言えば九州の甕棺が有名で、他の地域には甕棺は無かったと言うのが考古学者だが、子供の土器の棺(甕棺)が有るのならば、見つかっていないだけで大人の物も有っておかしくは無いような気がする。それとも何らかの(例えば宗教的な)理由で九州以外では造られなかったのであろうか?いつか研究してみよう。子供の甕棺が有ったのならば有ってもおかしくは無いと思うのだけれども。<後日追記>調べたら教育委員会の調査報告書に、すぐ南の地区から「壺棺」が出土したと書かれていた。やっぱり出土していたんだ。じゃぁ甕棺は九州のお墓の特徴じゃないじゃん。「壺」と「甕」の違いは厳密には「首の大きさ」なんだけれども、人間の埋葬に使うならば芸術品じゃないので、どちらでも同じだと思う。単なるこだわりだな。つまり甕棺は九州のお墓の特徴ではなく日本中のどこでも行われていたもので、地域によって形状の違いはあるが、それは単なるこだわりと言えるのだと思う。ここでは方形周溝墓の中に木棺が有ったことが確認されている。そうか、ここは吉野ヶ里等に比べて比較的後世の集落なので、お墓ももう甕棺は卒業して棺の時代だったのか。甕棺→石棺→木棺と言う具合に変化したらしいので、もう木棺の時代の遺跡なのか。近畿でも古い時代は石棺だけれども、平安時代くらいには木棺になっており、仏教の伝来以降は火葬が増えて、持統天皇以降は皇室でも火葬になったみたいだからなぁ。歳勝土遺跡をあとにして旧長沢家住宅に向かう。昔の家は居心地が良いと思う。九州のおじいちゃんの家はこんな感じだった。藁葺きで縁の下にニワトリを飼っていた。便所が外に有り、牛たちのいる先に有って、夜中に行くのは怖かった。家屋の中も昔のまま。九州のおじいちゃんの家にも囲炉裏が有って、みんながそこに集まるのだけれども、床が板敷で、床下は風が抜けるので寒く、僕らは火鉢の有る座敷で遊んでた。天井裏は無い家も多かったけれども、おじいちゃんの家は天井裏に色々な物を置いていて、噂では大きな青大将が居たらしい。家屋を復元しているだけではなく、昔の農家で使われていた器具類も展示されている。おぉー!「とうみ」だ。火鉢も有る。関東にも有ったんだなぁ。これは便利な機械で、米からもみ殻やゴミを除く場合の必需品。今どきの子供達に見せても意味不明だと思う。そうそう忘れてた。玄関を入ってすぐの土間には大きなお釜が有った。この大きさならば10人以上のお米が焚けそうだな。この家はお百姓さんだったみたいなので、人手が必要だから、沢山の家族が居たんだろうな。そんな感じで、大塚歳勝土遺跡公園を見てまわりました。
September 22, 2025
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9月4日はわの会のイベントで横浜市歴史博物館に行きました。もう何十年も横浜市に住んでいるのに初めて行きました。ここは横浜市の一大プロジェクト「港北ニュータウン」ができた際に、その一部としてできた博物館で、なんと博物館でありながら、大棚杉山神社遺跡と言う遺跡を壊して、その上に立てたと言ういわくつきの歴史博物館です。大棚杉山神社遺跡は弥生時代中期の集落跡でたくさんの住居跡が有りました。まぁでも横浜市は文化遺産よりも都市開発を優先してきた経緯があるので仕方ありません。港北ニュータウン付近には沢山の遺跡が有り、縄文時代や弥生時代の遺跡が有るのだから、そこに居た人達の子孫はどこかに消えたわけではなく、生活様式を変えて同じ場所にいたはずで、そう言う意味では古墳時代にはたくさん古墳が造られたはずなので、この付近はかっては古墳があったはずだと思うのだけれども、道路の建設や国鉄・私鉄が通るたびに全部壊されて、今は残っていないのかなと思う。まぁそれはそれとして、わの会で歴史博物館に行くと聞いて調べていたら、すぐ近くに大きな遺跡を含む公園(上の地図の大塚遺跡と歳勝土遺跡)が有ると分かったので、歴史博物館を「その1」、遺跡公園を「その2」として調査して書くことにした。今日はその1で歴史博物館。博物館は9月8日から2か月ちょっと設備改修工事で休館になるので、タイミングが良かった。また通常の常設展示に加えて、夏休み中と言うことで企画展も開かれていた。この企画展の説明をしてくれたおじさんがものすごく優秀な人で色々と参考になった。まずは常設展示。時代ごとに区分されて輪のようになっており、原始時代から近現代まで順に見学できる。実際の写真はこんな感じ。常設展はきれいなお姉さんが丁寧に教えてくれた。おかげで今まで知らなかった色々なことが分かり面白かった。例えば横浜の町の主要な部分は埋立てられてできたらしい。吉田新田と言う。上が埋立てた時の様子で、下はそれに対応する現代の地図。えー!JR京浜東北・根岸線と大岡川及び中村川に囲まれた釣鐘状の部分って海(湾)だったの?多分現代の横浜市民の95%は知らないと思う。関内駅の西側のほぼ全域じゃん。県庁や旧市役所部分は海の中じゃん。ちょっと面白かった。同様に金沢区もかなりの部分は埋め立て地である。その模型が置いてあった。今、海として残っているのは室の木と野島の部分から瀬戸神社までの細い部分で、瀬戸神社から能見台や手子神社は完全に陸地化しており、南側も九覧亭から三艘はもう陸地。比較の為にほぼ同じ角度から俯瞰したgoogleEarthでの風景を載せる。海は細くしか残っていない。中央下の川と海で挟まれた四角い部分は全部海だったのか。全部埋立てたんだなぁ。人間ってすごい。上行寺の入口に「舟つなぎの松」と言うのがあるのだけれども、何でこんなところ(完全に陸地の中)に有るのに「舟つなぎの松」と思っていたが、上の写真(六浦地形復元模型)を見ると、その訳が分かる。ここまで海だったんだなぁ。ちなみに「舟つなぎの松」はこれ。但し今の松は(前の松は枯れたので)新しい松。そしてこの模型を見ていて、面白いことに気がついた。昔の鎌倉街道(六浦道)って尾根の上を通っていたのか。てっきり谷戸(尾根に挟まれた谷の部分)を通っていたのだと思っていた。だって京浜急行逗子線だって谷間の部分を走っているもの。そして気がついたのは「朝比奈切通」。鎌倉街道(六浦道)は通っていないじゃん。じゃぁ朝夷奈三郎義秀が一晩で切り開いたと言う伝説は何だったのか?また吾妻鏡に載っている北条泰時が「六浦道」を改修する時に自ら率先して工事に参加したと書かれているのは間違いなのか?実は古代には鎌倉から笹下や弘明寺へ向かうには白山道を利用していたのである。六浦道の方は海が有るせいで、(一応瀬戸橋は有ったらしいが)不便で利用しづらかった。それで朝比奈切通を経由して白山道へ抜ける経路を開発しようとしたらしいのである。つまり六浦道そのものの改修ではなく、六浦道の不便さを解消する改修と言う意味らしい。ちなみに当時の鎌倉道は「鎌倉に至る道」と言う意味で、横浜市内にも「鎌倉道」は上の道、中の道及び下の道の3本が有ったらしい。なんかこれって勘違いしている人が多いような気がする。Wikiの「朝比奈切通」を見ても、「鎌倉時代に造られた鎌倉七口とよばれる里道のひとつで、 鎌倉から三浦半島を横断する六浦道(むつらみち)にある切り通しである。」と書いてある。間違っているじゃん。六浦道は通っていないじゃん。Wikiって結構ウソが多いからなぁ。まぁそれはそれとして、金沢の物ではないが江戸時代の船を再現して置いてあった。日本の船って舵の部分を色々と工夫しているなと思う。舵には(方向を変える時には)船の全重量がかかるので強力な支持構造が必要だし、海の中に舵を浸けなければいけないので水が浸入しやすいから、相当に工夫しないと実用にならない。なので重要な部分なんだけれども良くできていると思う。ただこの模型は帆柱が太すぎないか?確かに太い方が安全だけれども、後ろに見える船の絵と比べても太いような気がする。平子氏の系図と説明が有ったのが気になった。平子氏は本牧から磯子あたりの領主で、鎌倉時代の一族である。北条氏や三浦氏などの坂東平氏が土地の名前を苗字として平氏の姓から変化したのに対し、何故平子氏は「平」の字を残したのかが気になっているのだけれども、古文書などを調べても分からない。そもそも素性が分からない。最後に僕が一番驚いたのは、上郷深田遺跡の出土品が置かれていたこと。ここにこれが有るのに何故金沢区は「金沢区の地名の由来」に変なことを書いているのかと思う。金沢区役所は金沢区の地名の由来を、関靖先生(元金沢文庫の文庫長)が書いた「かねさわ物語」に、畠山重忠が秩父から鉄鍛冶達を連れて来て、彼らがここに住んだからと書いてあると書いてあるのが根拠だとしている。でも関先生は「かねさわ物語」には2説候補をあげており、1つは畠山重忠が連れて来た鉄鍛冶説で、もう一つはそれ以前からここで鉄を製造していたからそう書いている。ただ先生は(執筆当時)それ以前にここで鉄を製造していたと言う証拠が無いから、畠山重忠が連れて来た鉄鍛冶説を有力としただけである。当時まだ小柴層の存在や上郷深田遺跡は発見されていなかったので、先生としてはやむをえない。でも今では小柴層も上郷深田遺跡も調査されて存在が認められているのである。何故、勝手に関先生が2つの説が考えられると書いているのを捻じ曲げているのかと思う。金沢区役所はひどいことをしていないか?関先生をないがしろにしていないかと思う。畠山重忠説は、北条義時が畠山重忠を滅ぼしており、それなのに北条実泰・実時は金沢流北条氏を名乗っている。自分達が滅ぼした人物が元になっている土地の名前を、自分達の一族の名前の中に含めたりするだろうか?そんな恥知らずなことを誇り高い武士がするはずが無いと思う。趣味が悪すぎるのではないか?徳川家の子孫が「秀頼」と言う名前を付けるだろうか?そんな恥ずかしいことはしない=金沢と言う名前は使わないと思う。なので、僕は畠山重忠が鉄鍛冶を秩父から連れて来たのは、ここでは昔から良質な鉄が採れて、秩父よりも便利なので、ここで鉄を生産したかったからだと思うし、畠山重忠が初めてここで鉄を発見したのではなく、それ以前昔から鉄が採れたんだと思っている。その事は「かねさわ物語」にも「長浜で鉄滓が見つかった」と書かれており、関先生もそれをふまえて「それ以前からここで鉄を製造していたから」と書いているのである。それを裏付けるのが栄区の上郷深田遺跡であり、飛鳥から平安時代くらいの遺跡である。金沢区の地層である「小柴層」には良質の砂鉄が含まれており、それ故に栄区の鍛冶ヶ谷をはじめとして金沢区の釜利谷や氷取沢等製鉄に関わる地名が多い。円海山周辺ではどこでも砂鉄が採れたのである。小柴層の分布を示す資料が見つかったので載せる。これを見ると、鍛冶ヶ谷、上郷深田遺跡、円海山、氷取沢(火取沢?)、(地図には無いが)釜利谷(鎌利谷?)そして柴は製鉄に使う火の燃料と考えると、全て製鉄に関わる用語が地名になっている。地図を見ると金澤一帯が小柴層状に一直線に並んでいるのが分かると思う。古代における砂鉄の分布のその中心が上郷深田遺跡であり、発掘調査で色々と発見されており、僕はいちど見たいと思っていたのだが、それが今回歴史博物館で見つかった。金沢区役所の人もこれを見て、ちゃんと勉強して欲しいと思う。地方のお役所の人は机にしがみついて勉強しないのが欠点だと思う。常設展はこれくらいにして、次は企画展に行った。ここで説明してくれた方はものすごく優秀で、詳しく、企画展は夏休みと言うことで(当日は9月4日なので夏休みは終わり企画展も終了間際)、彼が頑張って考えた子供向けの展示がたくさん有った。でも子供向けかと言うとそれだけではなく、大人が見てもうなづける物が多かった。まずは顔付の土器が面白かった。ちょっと気持ちが悪いけれども面白い。こんなのが有ったんだ。普段使うには邪魔だけれども、祭祀の時には良いのかもしれない。例えば僕ならば「盟神探湯(クガタチ)」に使うなと思った。盟神探湯(くがたち)は、古代日本で行われていた神明裁判のこと。ある人の是非・正邪を判断するための呪術的な裁判法(神判)である。対象となる者に、神に潔白などを誓わせた後、探湯瓮(くかへ)という釜で沸かした熱湯の中に手を入れさせ、正しい者は火傷せず、罪のある者は大火傷を負うとされる恐ろしい裁判である。ただ熱湯に手を入れてやけどするかしないかは根性の問題なので、本当はそれだけでは正しいかどうかは分らないけれど、実は実際に手を入れる前の表情の変化や態度で判定するならば、迷信深い古代人ならば、手を入れる熱湯の入った壺に(神様の)顔が有った方が、悪いことをした人間はためらうだろうし、悪いことをしていない人間は神様が守ってくれると信じてためらわないだろうから、実際には手を入れる前に分かると思うから。なので、壺に顔がついていると判定がし易くなると思うのである。またもう一つ面白かったのが「楯を持つ人」の埴輪である。これを見て僕は富雄丸山古墳の楯の形をした鏡を思い出した。これである。この楯は当然戦いに使われたのではなく祭祀に使われた物である。なのでさっそく説明をしてくれた先生に質問してみたら、「あれは鏡だからなぁ」と仰って、それ以上は何もおっしゃらなかった。祭祀の変化が鏡の形状の変化になって表れているのだと思う。古代の国は「祭祀王」と「統治王」の二人が国を協力して治めていた。最も古い時代には「祭祀王」が強く、或いは「祭祀王」しかいなかった。シャーマンである。農業が普及して富が蓄積されるようになると、リーダー的な「統治王」が必要になる。それで「祭祀王」と「統治王」が協力して治めるのだが、どちらが偉い?と言う話になるともめるので、通常は女性の「祭祀王」と男の「統治王」が組み合わされ、夫婦や兄妹の組み合わせだった。邪馬台国でも卑弥呼と弟の組み合わせだったらしい。ところが国が大きくなると「祭祀王」は実務には適さないので権力的に弱くなってくる。恐らくこの頃に「祭祀王」と「統治王」の一本化が試みられ、大王は男がなるようになっていったのだろう。鏡が楯型になったのはこの段階なのだと思う。それまでの丸い鏡に対し、男らしい楯の形をした鏡が考案されたのだと思う。違うかなぁ?そうそう、先生には「日本ではいつごろから楯が使われなくなったのですか?」とも聞いた。でも明確な答えは無かったが、これは今でも結論が出ない日本の社会の特徴であるから、答えが出ないのは仕方ないと思う。これについては僕も色々と考えていくつかの理由を考えてはいるが、僕自身もそのどれが本当かはまだ分からない。難しいから。その2では歴史博物館の向かい側に有る遺跡公園を見て来る予定です。
September 21, 2025
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ずーっと以前に愛天堂に遊びに行った時に買った★EASY版★フルバンドDSPラジオキット [K-443A]を作りました。でもこれってもしかすると正規版の [K-443A]じゃないのかもしれません。何故なら回路図上は同じなのに見た目が違うから。愛天堂のホームページはこんな感じです。でも出来上がったのはこんな感じであちこち違います。バーアンテナは僕がラジカルインダクターが(感度が落ちるので)嫌いで変更しましたが、ホームページのK-443と大きく違うのは、アンテナがSMAコネクターであること。まぁこれは愛天堂のお姉さんがテレスコピックアンテナでは感度が低いので、より良い製品にしようと頑張ったのでしょう。ただ、プリント基板があちこちホームページの物と違っています。ホームページのプリント基板はこんな感じ。スイッチの位置が違う。バリコンの上のコンデンサーが470から471に変わっている。回路図上は471です。前述の通りアンテナがSMAタイプからテレスコピックアンテナに変わっている。このことから考えると、もしかして僕が買ったK-443は今愛天堂で売っているK-443を設計する試作品かも?そう言えば、これって福袋に入っていたかも?そうかぁ、だから安かったのか。なら文句は言えない。ようはジャンク品だな。そしてこれを鳴るように頑張って作って見ろと言う愛天堂のお姉さんの挑戦状だな。そう思って頑張って作ってみることにした。まずははっきりと分かっている470のコンデンサーは471(部品的には471が入っていた)で、テレスコピックアンテナは(テレスコピックアンテナ用ジャックは入っていたが)つかないので、リード線アンテナにした。バーアンテナは手持ちの1次側が400µHのバーアンテナを1次側だけ使って取り付けた。また、同梱されている青や緑のLEDは3Vでは点灯しない。(不良ではなく仕様なので仕方ない)僕はFM用に入っていた緑を赤に変えた。これで鳴るはず。参考に秋月で売っている青色LEDのデータシートを載せる。赤色LEDが通常必要とする電圧が2.6Vなのに対して、3.1Vである。新品の乾電池ならば2本で3.1Vをクリアーできるかもしれないが、ちょっと使うと電圧は3.0V以下に減少すると思うので使えなくなると思う。(ちなみに僕は孫達がおもちゃに使って古くなった電池を使っているので、 通常2本で2.8Vくらいしかない。)鳴らなかった。電流を測ると1mAも流れていない。そう言えばスイッチの位置がホームページの物とは違っていたな。調べてみたら、電池のマイナス側がどこにもつながっていない。えー!回路図を見るとこれはアースにつながっているようなのでアースにつなぐと動いた。動くと電流はボリュームによって変わるけれども概ね40-60mAで正常みたい。ただ感度は微妙。FMはRDA5807を使った多くのFMラジオよりも悪い。けれどもニッポン放送(93.0MHz)は入るし、10局くらいは入る。でもRDA5807を使ったラジオなら20局は入るんだよな。まぁ使えるけれども最高では無いと言う感じかも。MW(AM)は6石スーパーよりは感度が良い。でもこれはバーアンテナをラジカルインダクターから大きな物に変えたせいかも?まぁそんな感じで愛天堂のお姉さんの挑戦はなんとかクリアーして鳴るようになりました。でも、何も知らない人がこれにあたったら怒るかもしれない。でも、僕は秘密を探るのが大好きなコナン君のファンなので、かえって楽しかった。FMは前段にRFアンプをつけると20局聞こえるようになるかな?いつか挑戦してみよう。但し、このK-443と同様にDSP-443タイプのDSPラジオICを使うラジオは、手先の器用で無い人やお年を召して目が悪くなった人にはお勧めできません。何故なら最大の難関が、バリコンの中の電極に半田付けをすることだからです。一応バリコンの内部構造のフイルム等には影響の無いようにバリコンはMax状態(左回しに回しきった状態)で半田付けをしますが、それでも半田ごてがあたりそうになりますし、半田付けが上手く行かないと(イモ半田やてんぷらだと)ラジオは鳴りません。拡大するとこんな感じ。そして出来上がったのがこんな感じ。結構大変です。
September 18, 2025
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9月8日未明と言うか深夜は久しぶりの月食だった。ネットニュースによれば3年ぶりらしい。最初は見る予定ではなかったんだけれども、せっかくなので見ることにした。ただ、方角が悪く、南西の方角なので、僕のマンションの縦軸方向になり見えない。外に出て道路まで歩けば見えるのだけれども、暑いのでおっくう。なので、屋外階段の踊り場から見ることにした。概ね1時半から始まり、3寺12分頃が最大、皆既月食は2時半から4時くらいらしい。見ようと思ったのが3寺頃だったので、3時半くらいから屋外階段に出てみた。おぉー!月がうっすらと見えるけれど、丸いのに暗い。屋外階段なので、人が来ると迷惑だから望遠鏡は使えない。仕方ないので単なるカメラだけで撮影する。暗いので焦点距離を合わせ辛い。もちろんオートフォーカスは使えない。若干ノイズっぽいが(低レベルアマチュアの僕には)気になるほどでもない。月食の最大時を過ぎているので、上の方が少し明るくなっている。テレビなんかだと上下が逆になるので、多分テレビでは下が明るいはず。しばらく眺めていたら、階段の上からひょこっと女の子が顔を出して来た。高校生くらいかな?手にスマホを持っているので月食を写していたのだろう。今どきは男の子よりも女の子の方が理科が好きなので、女の子でも結構興味を示す。まぁでも夜は危ないよ。4時半を過ぎると周囲が明るくなってくるので、その前に部分月食を撮ることにした。部分月食になると結構明るいので、手動でも焦点距離を合わせることが可能になる。もちろんジーサンなので目が悪いので昼間のようにはいかないけれど。上の写真に比べると相当に明るい。なので、地球の影がハッキリと分かる。右下の地球の影の部分にうっすらと何か見える。月の表面の模様(クレーターによる模様)で、通常の満月ならばウサギの耳の部分かな?正確には分からないけれど、多分そんなところだろう。えー!三日月や半月の時にはウサギさんは見えないじゃん!そう思ったけれども、これには理由が有る。三日月や半月は「太陽の光が当たっていない」ので、明るい部分と暗い部分のコントラスト比が激しく大きいのに対し、月食は「陰になっている」ので、コントラスト比はそれほど大きくないのである。部分月食は「半影の範囲」に有る状態なのである。上の図で言うと半影月食の状態だったんだと思う。暗い部分も「光が当たっていないのではなく半影部分だった」ので薄く明るいのだと思う。ちなみにネットニュースで出ている写真にも同じ状態の写真が有る。ネットからお借りした。恐らく望遠鏡で写したのだと思う。その為に逆さまになっている。この写真も明るい部分とうっすらと影になっている部分が有る。僕のカメラって優秀なのかも?最近の子供は理科に興味が無いと言われているけれど、さっきの女の子は将来大学に行って理科系の学科に進むのかな?そして月食を見た時にむさくるしいジーサンがいたことを思い出してくれるとうれしいな。
September 9, 2025
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