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例によって危険を顧みずアリエクの中を探検中。アリエクは相当に注意して購入しないとワナがいっぱい。でも圧倒的に安いので、僕には魅力的なので、ラジオを探している。その中で、面白いDSPラジオを見つけた。安い。668円と言うと「安い!」と思うかもしれないけれど、たまに「ワナ」が有るので注意。送料が商品よりも高い場合が多いのだ。これは商品を安く見せるテクニックで、「携帯が1円」と言いながら、実は後の通信料でお金を回収しているのと同じ。商品の代金と送料を合わせて判断する必要がある。僕の場合、孫の誕生日プレゼントの「子供でも作れる電動の恐竜のおもちゃ」と合わせて買ったので、結果的に安かった。但し中華のラジオは中国とアメリカのFMバンドに合わせているので87.5MHz以下が入らない。実は日本のFMバンドは世界の中では異端児で、少数派。なので仕方ない。日本の通信の世界は異端児が多い。例えば携帯電話。よく「ガラケー」と言うのは、実は「ガラパゴス携帯」の略である。日本の携帯が日本独自の仕様で、海外の携帯の中の異端児だったのを、ガラパゴス島の生物のように、世界の他の地域から切り離された独自の物として皮肉った言い方である。まぁそれでも結果的にワイドFMを上手く使えるようになったので、良かったのかもしれない。仕方ないので改造する。まずは分解。おぉー!DSPラジオICはAKC社のKT0936だ。愛天堂の得意分野だな。データシートが手に入る。(データシートは愛天堂ではなくネットから入手)調べると他のAKC社のDSPラジオICと同様に抵抗で判別してBAND決定するタイプ。こんな感じ。例によって画像を右クリックして出るメニューから「新しいタブで新しい画像を開く」で別タブに画像を開けば大きな画像で見られる。目の悪い人ならば、右上の設定メニューでさらに画像を大きくできる。FMは63.4Ωを273Ωに換えるだけで日本バンドになる。(抵抗の場所は1枚目の画像)但し、抵抗はSMD(表面実装型)の上に一番小さいタイプなので半田付けが難しい。写真を見ると抵抗が赤と黒のリード線よりも細いのが分かると思う。半田付け初心者には無理かも?<後日追記>今日見たらデータシートには273Ωではなくて237Ωって書いてあるなぁ。もうジーサンだから目まで悪くなってる?でも動作しているからいいか。結構いい加減でも動くんだなぁ。AM(MW)はそのままでOK。SWも使わない人はそのままで良いのだが、ラジオNIKKEIがSW1の一番端っこなので使いにくい。SWバンドが広すぎてボリュームをちょっとずらしただけで聞こえなくなる。なので、僕は(どっちみち使わない)SW2を5.55~6.60MHzに変更した。(ラジオNIKKEIは6.055MHzなのでダイヤルは中央付近になり、幅は広くなる。)上の図で言えばSW47からSW7に変更したのである。これならば十分広いし、周波数ステップが5kHzなのでシビアーに周波数を合わせられる。ただ使う抵抗がかなり特殊で、愛天堂だけでなく秋月や千石及びマルツにも無い。仕方ないのでアリエクで探したら、273Ωは無かったけれども274Ωが有った。仕様書には273Ω誤差1%と書いているので274Ωでも使えるかなと思い買ってみた。その結果FMは76~108MHzを聞けるようになった。おぉー!FM東京とFM横浜が聞こえる!しかもこのラジオ感度が良いかもしれない。市販の安物ラジオなんか足元にも及ばない感度だと思う。FM放送は僕の電波環境の悪い部屋でも10局くらい聞こえる。南側のベランダならば静岡や千葉の放送局も聞こえるので20局は入る。しかも感度が良いので「スケルチ(雑音除去機能)」が効いて、放送局の無い部分が無音になる。AM(MW)放送も関東の放送局は全部入る。ただ、周波数を表示する液晶やLEDが無いので、自分で手書きで目盛を書かなくてはならないのがキズ。上の写真は自作のSGもどき(実は単なるトランスミッター)で電波を飛ばして、その受信周波数を頼りに手書きで周波数目盛を書き込んでいるところ。細い油性マジックで書けば綺麗になるのだろうけれども、僕はジーサンなので、細い字を書くのが苦手。汚いのは仕方ない。まぁでも使えるならばいいか。ただ残念なのはボリューム。半固定ボリュームなので固定しているのと同じ。とても使いにくい。なので交換することにした。愛天堂で新しいボリュームを買って、接着剤で付ける予定。ただ、愛天堂に行くのが年末もしくは来年の年始になるので、それまでは配線のみやっておき、とりあえず半固定ボリュームを付けておく。ちなみに上の写真でも使っているけれど、イヤホンではなくヘッドホンやハイレゾイヤホンをお勧めします。音が全然違うから(特に低音と高音部)。そんな感じでアリエクで買った4バンドDSPラジオの日本バンド化がうまくいった。<後日追記>ボリュームを付けてみた。実は半固定抵抗は500Ωで、目いっぱい回しきった状態で、ちょっとでも回すとすぐに音が消える。ボリュームの機能をはたしていない。じゃぁAKC社のデータシートの模範回路はどうなっているのか見ると、模範回路図にはボリュームがついていない。アリエクのこのラジオはどうやっているのかなと思ったら、なんと音声出力をボリュームで分割しているだけだった。まぁひどいもんである。恐らく正解はこの音声出力をアンプにつないで、そこでボリュームを効かせるのだと思う。でも面倒くさいので、愛天堂で買ってきた1個10円のボリュームを付けてみた。で、どうなったかと言うと、回路図を見ると分かるように本来10kΩを付ける部分に500Ωの半固定抵抗を付けていたのが、愛天堂の1個10円のボリュームは5kΩなので、多少は改善されて、少しは音量の変化が感じられるようになった。でも僕の耳では回転角度100%から90%の間で変化が分かるだけで、90%以下は聞こえない。ただ100%から90%の間では変化しているので、耳の良い人には聞こえるのかもしれない。恐らく最初の半固定抵抗の状態では、耳の良い人はうるさくて使えないと思うので、100%から90%でも音量が変化するだけましになっていると思う。回路図はこんな感じ。(電源部分や選局部分は省略している。必要ならばデーターシートを見て欲しい。)このラジオは実はSWは高周波増幅回路(トランジスター1石)が付いている。でも非同調なのであまり役に立たないのかなと思うが、一応ラジオNIKKEIは受信できた。あとお隣や中華のラジオも聞こえた。(聞きたくないけれど)ちゃんとSWを聞くにはちゃんとしたアンテナとアースが必要だと思う。完成品はこんな感じ。FMバンドを87.5-108MHzから76.0-108MHzに変更したので、周波数目盛をマジックで書いてある。みっともない汚い字だけれど、無いよりはまし。あとSW2もラジオNIKKEIが聞けるようにしたので、6.055(MHzは略)を書いている。ボリュームは愛天堂の1個10円のボリュームは金属のツメが付いているので、電池ケースに穴を開けてツメを差し込んで固定している。まぁ値段からするとこんなものかな?ケースの加工がうまい人ならばケースに入れるとカッコ良くなると思う。でも僕はセンスが無いので無理。
November 19, 2025
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11月6日のわの会は藤沢市の遊行寺に参拝しに行きました。藤沢市は既何回も訪問しているのですが、遊行寺の本堂は初めてです。ルートはこんな感じです。藤沢駅は、この日JR東海道線が乱れており集合が大変でした。東海道線は品川から川崎付近は、東海道線・京浜東北線・横須賀線・湘南新宿線・京浜急行が同じ所を走っているせいで、よく止まります。踏切が多くて重なっているからです。日本の頸動脈なので、そろそろ改善して欲しいものです。最初は庚申堂へ向かいます。関東はあちこちに町の角々に庚申堂塚が有ります。上の写真に書かれているように、関東の庶民は庚申信仰に厚く、あちこちで庚申構が行われていたようです。厄払い的な意味が強いのですが、想像するに徹夜で集まっていたので、お祭り的な意味合いも強く、信じる人達のつながりを元にした頼母子講的な面も有ったのだと思います。脇には庚申塚が並び、奥には庚申供養塔が有ります。元々は庚申信仰は中国の道教の教えなので、それが何故庶民に広く伝わったのかは分かりませんが、寛文13年と言えば徳川家綱の時代です。確かこの頃、あの千姫が亡くなったはずなので、戦国時代も遠くなりけり的な時代だったのではないかと思います。本堂の木造青面金剛と両脇侍立像は庚申の年にしか公開されないので、次に公開されるのは2040年です。仕方ないのでネットから写真をお借りして載せます。何故か、猫のようなお顔をしてらっしゃる。そして微妙な位置に手を合わせた仏様?がおられる。どんな宗教的な意味があるのでしょうか?庚申堂の先には江の島道との合流地点に道標が有ります。江の島の弁天信仰は、1182(寿永元)年に源頼朝が文覚上人に命じて、ここに弁才天を勧請したことに始まります。道標は杉山検校が建てたもので、元は48基有ったらしいのですが、現存するのは12基です。ちなみに杉山検校は江の島で修行し、鍼の施術法の一つである管鍼(かんしん)法を創始した方です。管鍼法とはストローのような管を使って鍼をうつ方法で、正確に簡単に鍼をうてます。道標を後にして次は船玉神社に行きます。ここの説明板を見て、やっぱりと思ったのは鎌倉時代の船の話。鎌倉は砂浜なので、船を着岸できる港が造れず大変だったと思うのだけれど、現実的にはどうしていたんだろうといつも思ってた。材木のように濡れても良い物で、船に積み下ろしを必要としないものは、砂浜でも大丈夫だけれども、積み下ろしが必要な物は桟橋を作らなければ着岸できない。海は潮の満ち引きが有って深さが変わり、あるいは水平方向に相当奥行きが無いと桟橋は実用にならないのだが、海では波に洗われるせいで「洗掘」と言うのが起こり、桟橋の柱周辺は波で削られて、江戸時代くらいまではちゃんとした桟橋は造れなかった。ではどうしていたかと言うと、川岸を使っていたのである。川であれば、流れは有るが「寄せては返す波」が無いので洗掘は問題にならず、潮の満ち引きも上下方向(深さ)の話はあるが、水平方向の話は無いので、小型の船ならば港として使えるのである。でも当時の鎌倉の砂浜ではダメだった。それで北条泰時は「和賀江島」を造ったのである。でもやはり不便だったので、実際は六浦が鎌倉の外港として活躍したのである。それでここの案内板を見て、実際は砂浜ではなく川(ここは境川)を使ってたんだなと思った。船玉神社の狛犬は面白い。日本の他の地方では狛犬はたいてい天邪鬼など「悪い奴」を踏んでいて、それ故に結界を守る力の強い存在なのだけれども、関東では何故か愛嬌があって、優しい。ここの狛犬はなんと「てまり」を転がして遊んでいる。もう片方は子供の獅子を踏むのではなく「撫でて」いる。金沢区の手子神社の狛犬も子犬を踏むのではなく見下ろしていたが、関東の狛犬はちょっと違うなと思った。船玉神社をあとにして次は感応院。感応院は建保6年(1218年)道教律師の開山で、開基は源実朝です。中に入って右に行くと三島明神が有ります。この三島明神は源頼朝が「富士の巻狩り」の旅程の厄除けにここに三島明神を勧請したのが起源。そう言えばNHKでやってた頼朝殿の13年では、「富士の巻狩り」で頼家に巻き狩りで手柄を立てさせようとみんなで苦労した様子が描かれ、いつの世も親ばかと言うのは有るんだなと思ったのだけれども、もう一つ、曽我兄弟の敵討ちも「富士の巻狩り」で起こったんだよな。あれは北条時政の陰謀だったと言う話だけれども、時政はもうこの頃から頼朝暗殺を企んでいたんだな。ちなみにこの三島明神のお堂は回転できるように作られているのだそうだけれども、今は鎖でおおわれているのでダメ。感応院の次は遊行寺橋へ行く。この橋を渡って昔の人は江の島弁天を目指したらしい。なので、昔はこの橋のたもとに「江の島弁財天一の鳥居」が有ったらしい。橋を渡ると奥にふじさわ宿交流館が有る。中では藤沢の歴史や名物を紹介している。江戸時代の藤沢ってけっこう繁盛してるじゃん。交流館を出て元の道に戻って先に進むと遊行寺惣門が有る。遊行寺の惣門は他のお寺とは違い屋根が無い冠木門である。何故、他のお寺と形状が違うのだろうかと疑問に思って調べたけれども分からなかった。でもふと思ったのは、ここは東海道が通り、分かれて江の島弁財天へ行く所であり、遊行寺橋のたもとには一の鳥居が有ったらしいので、もしかすると山門と言うよりは鳥居を意識して造った門なのかも知れないなと思った。あくまでも想像で何の根拠もないけれど。惣門の傍らには大きな聖堂の灯籠が有る。500名もの寄進者が居たと言うのもすごいなと思う。惣門を「入ると緩やかな坂になっており、この坂はモミジ坂と言うらしい。モミジ坂を登ると遊行寺境内に入る。境内中央にはものすごく大きなイチョウの木が有る。写真では分かりづらいと思うが、本当に大きい。そして本堂に向かう。遊行寺は時宗総本山である。写真右の一遍上人が開祖で、創建は正中2年(1325年)なので今年は700年である。一遍上人は伊予の豪族河野通広の次男で延応元年(1239年)の生まれ。36歳の時に修業中に熊野権現の念仏賦算の神託を受けた。「往生はただ”南無阿弥陀仏”によってなされる」と悟りを開き、「信不信を問わず、浄不浄を嫌わず」を信条に、「決定往生六十万人」の御札を渡すことが「仏門の道」と知ったと言う。40歳の頃より「踊念仏」を始めた。参考に京都国立博物館の「京都旅籠」をお借りして載せる。うーん???盆踊りのルーツかな?本来は本堂で御講話が聴ける予定だったんだけれども中止になったので本堂の見学。僕は宗教はまったくわからないので仕方ないけれど、浄土真宗に比べて質素な感じがする。本堂を出て右に行こうとして、面白い物を見つけた。なんとお寺の境内におみくじと絵馬が有る。何で???と思っていたら、次に行く所の関連かもしれないと気づいた。宇賀神社である。いわゆる銭洗い弁天である。奥にちゃんと硬貨を洗う場所が有る。さっそく500円玉を洗って、差し上げた。遊行寺の境内はものすごく広い。宇賀神神社の先には放生池が有る。放生池と言うのは、その発想は放生会に有ると思うが、元々はインドの思想で、中国・朝鮮経由で日本に伝わった、殺生を諫める宗教行事。眼前の六道を輪廻する衆生であり、代々の父母でありわが身であるとする考え方である。つまり我々は、天道・人間道・修羅道・畜生道・餓鬼道・地獄道の「六道」と呼ばれる6つの世界を常に転生し続けており、その行き先は常に生前の善悪の多寡に因るとされる思想である。だから、今目の前にいる獣や魚は数年前に亡くなった両親が、ちょうど畜生道に有り、人間道を生きる我々に何かを語りかけているのかもしれず、大事にしなければいけないと言うことである。昔はそんなことは信じなかったけれども、僕も年をとると何故かそのことが分かるようになってきた。そしていよいよ長生院に向かう。長生院奥には小栗堂が有る。実は写真には撮らなかったけれども、右手には十勇士の墓と馬の鬼鹿毛丸の墓も有る。鬼鹿毛丸(おにかげまる)は小栗判官の乗っていた馬である。応永30年(1423年)小栗満重(常陸国小栗十四代城主)は足利持氏に謀反を起こし攻められる。家来十人とともに落ちのびる途中横山大膳の館に泊まった。ところが、盗賊大膳は照手姫をつかって満重に毒酒を飲ませ財宝を奪おうとした。照手姫の密告によって満重は命を助けられたが、家来十人は毒殺された。満重は鬼鹿丸という馬で遊行寺に逃れ上人に助けれ、のち横山一党を破る。照手姫は満重が亡くなった後、遊行上人を頼って満重と家来の霊をとむらい、長生尼となって余生を過ごした」とされている。それがここらしい。照手姫は金沢にも縁が深く、金沢八景近く六浦の侍従川は照手姫の侍従が身を投げたところから名前が付けられた川である。彼女のお墓はここに有ったのか。無事に遊行寺まで見てまわり、来た道を引き返して藤沢駅で解散した。途中藤沢駅そばのやなぎ通りで面白いのを見つけた。島倉千代子は美人と言うよりもかわいい人である。可愛いのだけれども幸が薄く、何度も男にだまされて財を失い捨てられて。でも頑張って生きてます。そう言う感じの人だった。昭和の歌手はストーリー性が有るなぁ。ということで、わの会は終了した。
November 11, 2025
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ここまで学者先生や研究家たちが魏志倭人伝の卑弥呼や邪馬台国の記述について書かれた、色々な推理や解釈について、変だなと気がついたことを書いてきた。今日はその5として卑弥呼=日の巫女なのか?と言う解釈について書く。邪馬台国=宮崎説の僕の立場としては、当然、卑弥呼=天照大御神であり、天照大御神とは人間の名前ではなく、神格化された高貴な巫女様のことなので、当然、卑弥呼=日の巫女であるはずなのだけれども、では、卑弥呼の死後(男王を経て)あとを継いだ壱与は、卑弥呼ではないので日の巫女ではなかったかと言う疑問が生ずるし、僕も悩んできた。でもやっとその答えが出た。「壱与」は本当の人名で「卑弥呼」のように役職名(日の巫女)ではなかったのだと思う。「壱与」は13歳で女王になった。でも幼くて力が無くて大変だったと思う。それなのに何故倭国の動乱が収まったか?それは魏から来た「張政」が後見役として19年間も彼女が一人前になるまで倭国に居たからだ。魏志倭人伝にも、「復立卑弥呼宗女壹與年十三為王 國中遂定 政等以檄告喩壹與」と書いてあるから。政と言うのは張政である。張政が「ガンバレよ」と壱与に告げて励ましたと書いている。壱与は張政が中国に帰る時に見送りを付け、男女生口三十人を献上し、白珠五千孔、青大句珠二枚、異文雜錦二十匹を貢いでいる。魏の皇帝に貢いだのではない。張政に貢いだのである。よほど感謝したのでろう。原文にはこう書いてある。「壹與遣倭大夫率善中郎將掖邪拘等二十人 送政等還 因詣臺 獻上男女生口三十人 貢白珠五千孔 青大句珠二枚 異文雑錦二十匹」なので卑弥呼とは違い、壱与は張政などの記録によりその本名が中国側にも伝わっており、それが魏志倭人伝にも書かれていたのだと思う。実は卑弥呼を天の岩戸にこもる前の天照大御神で、壱与を天の岩戸から出て来た天照大御神と考えると、ものすごくつじつまが合う。古事記や日本書紀を読むと天岩戸前後で天照大御神の行動と立場が変わるのである。天の岩戸にこもる前の天照大御神は独裁的で、何でも自分で決めて怒る。でも天の岩戸から出て来た天照大御神は一人では何でも決めず、高御産巣日神や思金神と相談し、しまいには思金神が主導権を握っている。例えば須佐之男命と天照大御神の誓約の話や月読命が保食神を殺した場面くらいまでは、高御産巣日神や思金神は出ておらず、天照大御神が全て自分で対応している。なのに「国譲り」の場合は、神々を集めたのは天照大御神単独ではなく、高御産巣日神と天照大御神が共同して天の安の河の河原に八百万の神々を集め、どの神を葦原中国に派遣すべきか問うたと書かれている。そして天若日子を派遣することを決定したのは思金神と八百万の神々である。つまり天岩戸前後で天照大御神の性格と立場が変わっているのである。僕は現実主義者なので、イザナギがイザナミの死後に会いに行った場所は古墳であり、イザナギは死後腐敗した伊邪那美を見て驚き、殯屋に有った桃や自分の頭の櫛を投げて払い、古墳から逃げたのだと思っている。何故なら古事記には、イザナミのいる黄泉の国から現世に逃げかえる場面で、「逃來猶追到黄泉比良坂之坂本時取在其坂本桃子三箇待擊者悉逃进也」と書かれているからである。意訳すると、(逃げて来てさらに追いかけて黄泉比良坂の坂本(坂の登り口)に至った時に、 そこに有った3個の桃を待ち構えて投げつけたところ追手はみんな逃げてしまいました。)つまり逃げて来て坂の登り口に着いたのだから、イザナミが居た所は黄泉比良坂の上であり、地下の国のはずなのに坂の上に有ると言うことは、イザナミが居た所=黄泉の国は、古墳の頂上にある石棺などの施設だとしか考えられない。また、その登り口に桃(厄除けなど使者を弔う場所に置かれた)が有るのだから、そこは造出などの古墳の祭祀が行われた場所しか考えられない。つまり現実的に考えると、イザナミは古墳に葬られており、イザナミを恋しがったイザナギはもう腐敗し始めていたイザナミを見て恐れ、あわてて古墳の斜面を転がりおちたと思えるのである。天照大御神の天岩戸も同様で、天岩戸と言うのは古墳の石棺のフタであり、亡くなった天照大御神(卑弥呼)は石棺に納められており、そこに姿を現したのは天照大御神を引き継いだ新しい日の巫女だと思うのである。それは卑弥呼の宗女つまり親類の少女=壱与であり、卑弥呼の宗女なので、若い頃の卑弥呼そっくりだったのだと思う。つまり天岩戸と言うのは新旧の卑弥呼の交代・引継ぎの様子なのだと思う。そしてそれを演出したのは高御産巣日神なのだけれども、それは壱与を助けて倭国の動乱を鎮めた魏の張政だったのだと思う。張政は19年も日本に居たので、日本で壱与のお姉さんあたりを嫁にもらい、そして生まれたのが思金神であり、思金神は高御産巣日神=張政が中国に帰った後も、壱与を助けて倭国を治め、卑弥呼を殺した狗奴国の男王=素戔嗚は朝鮮に追い払われたのだと思う。そう考えると日本の神話は現実の出来事を書いているのだと思う。ただ、口伝だったので、しかも神様と言うことにしたので、上手く伝わらず、神話になったのだと思う。壱与が卑弥呼とは違い「本名である壱与」が魏志倭人伝に残ったのは、張政が帰国後に詳細を残したせいで、倭人から聞いて役職名の卑弥呼=日の巫女だけしか残らなかったいわゆる卑弥呼とは違い、魏志倭人伝の編者である陳寿にもちゃんと伝わったせいだと思う。
November 8, 2025
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