PR
カレンダー
カテゴリ
コメント新着
キーワードサーチ

そこの言葉で! ということは、残念ながら実感することはできません。
ゲルニカ爆撃のあと、スペインのバスク自治州首班であったホセ・アントニオ・アギーレは、ついに子どもたちを疎開させる決意を固めた。一九三七年の五月から六月にかけて、一万九千人の子供たちがビルバオの港からヨーロッパ各地に向けて出発した。彼らの多くはフランス、ソ連、イギリス、そしてベルギーへ逃れた。たった数名の教師に付き添われて、親元を遠く離れ、子供たちばかりで異国の地に向かったのだった。 語っているのは、 作家自身 です。冒頭の ゲルニカ爆撃 という記述を読んで ピカソの壁画 を思い浮かべる人もいらっしゃるでしょう。
一九三七年四月二六日、ナチスとイタリアのファシスト党がフランコを支持し、バスク地方の町ゲルニカを爆撃して数百人の市民を殺害した。これに対するピカソの抵抗が、この非人間的な様子を描いた《ゲルニカ》である。 偶然、同時に読んでいた シャーロット・マリンズ という方の 「美術史」(すばる舎) という本で出合った記述ですが、 ピカソ の ゲルニカ は、 1937年 の パリの万博 のスペイン館に展示された作品だそうです。
幅八メートル近いモノクロの絵は、さながらニュース映画の映像だ。キュビズムの手法を使い、炎と泣き叫ぶ女性や動物、死んだ子供、倒れた兵士という悪夢のような情景で爆撃の様子をあらわしたこの作品は、壮大な反戦メッセージとして、後にヨーロッパとアメリカを巡回することになる。(「若い読者のための美術史」Chapter32 政治化する芸術P365すばる舎)
主人公にたどりつくまでの「すべて」 が、この小説の世界です。
「英雄はそこかしこにいる、昔も今も、ここにだって、世界中のどこにでも。人のために身を捧げる小さな英雄が」 2010年 、 キルメン・ウリベ の 友だち が 彼 に言った言葉だそうです。その結果、1940年代、ファシズムのあらしが吹き荒れる時代、逃げてきたバスクの少女を救い、自らはナチスの収容所で命を落とした生涯を、忘れ形見として50年の戦後を生きた女性をはじめ、カルメンチュウとともにベルギーに送られて、何とか生き延びている人々を繰り返し取材することで書きあげた作品です。
傑作だ! と実感しました。
追記
ところで、このブログをご覧いただいた皆様で 楽天ID
をお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
週刊 読書案内 アデライダ・ガルシア=… 2025.08.21 コメント(1)
週刊 読書案内 尹 東柱(ユン・ドンジュ… 2025.06.02 コメント(1)
週刊 読書案内 マルコ・バルツァーノ「… 2025.05.07 コメント(2)