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2018年09月21日
寛和三年四月の実資〈上〉(九月十八日)
四月一日は、形式化して年に二回しか行われなくなっていた旬政、もしくは旬儀が行われる日だが、摂政が参内しなかったために天皇も紫宸殿に出御していない。この情報は藤原北家の人で蔵人頭を務めていた安近の伝えたものである。旬儀のほうは、中止になったのか、平座で行われたのかよくわからない。摂政が不在ということは、頭注に倣って中止と見たほうがいいだろうか。
毎月一日の賀茂社への実資の個人的な奉幣は、先月分も合わせて二か月分。使者となったのは僧の厳康である。
最後に伝聞で、左近衛府の馬場が本来の場所に戻されたことが記される。「初めて」とあるから、左近衛府の馬場に騎射などを見るための馬場殿が新たに建てられたのだろうか。次に天皇の宣旨によって「直し立つ」とあるのを見ると、以前あったものを復元したようにも読める。
二日は、陰陽道にいう土公神のいる方角を犯す工事を行うのを避けるために、方違えとして進宅に向かっている。実資の二条第で建築工事が予定されていたのだろうか。その後中宮の許に出向き、中宮の生母で太政大臣頼忠の正室である厳子女王と会っている。夜に入って二条第に戻る。
三日は伝聞で、大内裏内の主税寮に強盗が入ったことが記される。諸国の文書を探して持って行ったようなので、単なる物取りではなく役人がやらかしたことなのかもしれない。
四日は太政大臣頼忠のもとに出向いた後、参内して候宿。未の時以後暴風と雷雨に襲われている。この日は四月最初の申の日で、花山天皇の時代に始まった平野神社の祭礼が行われ、祭使としては散位藤原景斉が派遣された。「其の歌を彼の時に用ふ」というのは花山天皇の御製の歌が祭りに使われたということだろうか。
最後に伝聞で、前日主税寮に入った強盗の容疑者が検非違使によって捕縛されたことが記される。どうも主税寮の役人が犯人だったようである。仕事上の失態を隠す必要でもあったのだろうか。
五日は早朝内裏を退出して、召しを受けて円融上皇の許へ。四日に左大臣源雅信と、左右の近衛大将藤原朝光と藤原済時が参入して仏事の御八講について決めたのだが、院の別当である非参議が参入しなかったことについて問われている。このころ非参議、参議になっていない三位は三人いたようだが、実資が問われているということは、兄の懐平であろうか。よくわからない。よくわからないのは、その後のやり取りもで、結局再度問い合わせるのがいいだろうとということで、実資は退出。
伝聞の形で、源正清が三日に参内するよう求められたのに参内せず、天皇の御叱りを受けたこと、またこの日代替わりの改元が行われ年号が永延に代わったことが記される。この時期、改元は天皇の即位の翌年に行われることが多かったのである。これちょっと形を変えて現代にも援用できると思うんだけどなあ。来年譲位と即位、それに大嘗祭をやって、再来年の一月一日から新年号にするとかさ。天皇の崩御による代替わりではないのだから、それぐらいの融通をきかせてもいいような気がする。
六日は参内した後、円融上皇の許に出向いて五日に問題になったことについて話しているが、詳細はよくわからない。「小舎人茂真」のところに問い合わせたら、わけのわからないことを言うので、召し出して問い詰めるから、お前(実資)は恐れる必要はないということだろうか。その後、内裏に戻って候宿。主殿司が遭っていないということを言ったというのだが、これも前日の別当の件と関係するか。
七日は早朝内裏から退出したことだけが記される。
八日は、灌仏会が行われるため、実資もお布施としての銭を内裏と上皇の許に贈っている。実資自身は病気で参入しないということを蔵人のところに連絡している。
九日は上皇の許に参上して、しばらくして退出。十日は内裏に参入して退出。十一日は二日分の休暇を請い、十二日は上皇の許に参上してしばらくし退出。この時期、記事の内容が少ないのは実資が忙しいからなのか、特に記すべきことがなかったからなのか。体調不良の可能性もあるか。
十三日は病気療養のための休暇願を提出。摂政藤原兼家の長男である道隆が賀茂社に参詣して雅楽の東遊を奉納したことが伝聞の形で記される。参詣のさまは甚だ華美であったようである。
十四日は、地震が起こったことが記される。また中宮亮の藤原永頼がやってきてあれこれ話し込んでいる。永頼は藤原南家の出身で、実資の母の異母兄にあたる縁で実資のところに出入りしているのであろうか。
十五日は午後に入って小雨が降る。夜に入って太政大臣の頼忠のもとに出向いて深夜退出。