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~旅先で観たもの(1)~ 旧満鉄本社ビル(現在は列品館のみが維持されている)の壁面に張ってあった現代中国の案内板。 旧陳列館の看板(左)と簡体字で表示された現在の建物案内。 現在の列品館の正面入口の表示。今は観光の目玉になっています。 明治期に日本政府によって「満州鉄道」が置かれたことを記す、大正時代の記念碑刻文。 南満州は日露戦争の勝利によって割譲を受けたものです。その後日清戦争の勝利によって満州全体を日本の統治下に置きました。満州鉄道は単なる鉄道会社ではなく、銀行、病院、図書館、博物館、路面電車を有し、清王朝の皇帝で満州族の愛新覚羅氏を皇帝として置かれた「満州国」のシンボルでもありました。満州総督府が置かれるまでは満州における日本のシンクタンクで、満州の発展に寄与したのです。 満州国は「五族共栄」をスローガンにして建国されました。五族とは、満州族、モンゴル族、漢族、朝鮮族、そして日本民族です。西欧列強による植民地とは異なり、日本は現地の繁栄のために資産を使い、教育、医療、産業、インフラ整備に力を注ぎました。身分制度が厳しく奴隷制が残っていた朝鮮からも多くの人が働きに来たのは、日本領では同じ日本人として同等に暮らせたためでした。 左は満鉄当時の路線図。右は当時世界一速かった「あじあ号」の雄姿です。長春と北京の間を1日4往復したと聞きました。 いずれも満州国当時の大連市内を走っていた路面電車です。現在の路面電車の車内に、掲示してあったのを私が撮影したものです。 初めての中国旅行から、早くも1年が過ぎた。わずか4日間の旅だったが、やはり実際に中国を観られたのは良かったと思う。大連と言う大都会ではあったが、それでも中国の一般的な国民の暮らしぶりや、人柄、街の様子と国の発展ぶりを感じた。10億人を超える人口と、50を超える民族を抱える多民族国家。共産主義を標榜しながら、自由主義経済とも折り合いをつけるしたたかさ。 中国に旅したこともあり、昨年は中国の動静を注視していた。アメリカのトランプ政権と熾烈な貿易関税戦争の最中でもあったし、中国共産党の中での習近平体制の動向にも注目していた。しかし多くの者が、昨年1年のうちに中国に大きな動きがあると予告していたことを知って驚いた。著名な占星術者だったり、風水師だったりだが、国を超えたそれらの人が中国に大きなことが起きると断言していた。 そんなことも中国をウオッチする要素となった。果たして中国に何が起きたか。それはまず第一に「三峡ダム」の崩壊論に代表される長雨と大水害。そして地震や大規模な土砂崩れ。蝗(イナゴ)などの害虫による農作物の大損害。そして武漢を発祥地とする「新型コロナウイルス感染症」の流行と、世界への影響。中国は必至に隠ぺいしたが、人工的なウイルスを生物兵器として研究していたことは明らかだ。 世界から初動体制の不備とWHOへの通告無視の責任を追及された中国は、予めストックしていたマスクや検査機器を各国に送る「コロナ外交」を展開して騙そうとした。だがそれらは粗悪品でさらなる怒りを買い、中国の信用は失墜した。同時に好調だった経済活動も急降下。後半には大規模な停電や食糧不足まで露呈し、国民の動揺と不安と怒りが野火のように広がった。 そして後半は中国共産党中枢部における権力争い激化の噂が高まり、それに呼応するように年末12月30日にはどうやら習近平氏が脳動脈瘤手術を受けるために入院したとの情報も伝わり出した。これだけのことを上げても、昨年の中国が異常だったことが立証される。やはりあの噂は本当だったようだ。そして今年の1月。習近平氏が実際に政治の舞台に登場した事実は確認されず、生きているのは報道の上だけだ。 習近平氏の「影武者」がいると伝えられている中国に対して、大統領選挙で「勝った」とされるアメリカのバイデン氏もあれは偽物との説が浮上している。若いころの写真と耳の形が違うとか、先日エアフォース1のタラップの階段を1段飛ばしで乗り込んだとかで、到底80歳近い老人の行動とは思えないとの評も。私も昨年の大統領選の時より、最近のバイデン氏の方が元気が良いと感じていた。声の調子もそうだし、TVの画面の表情に生気が出て来た。 最後は旅の話題から離れてしまったが、まだまだアメリカの大統領選挙にまつわる噂は尽きないようだ。これからも世界情勢から目が離せないようだ。では読者の皆様もお元気で。
2021.02.03
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~大橋川界隈を歩く~ 旅の最終日。私は松江市駅前のシティーホテルで、朝早く目覚めた。食事は7時からと決めていた。「出雲縁結び空港」発の仙台行きに搭乗するためには、8時35分の松江駅発の空港行き連絡バスに乗る必要があった。その前に朝食を摂ろうと、少々緊張気味だったのだろう。だが朝食には早過ぎた。そうだ散歩に行こう。松江に来たら川か湖は見たい。ホテルの裏側が川であることは前もって確認済み。 川の名前は大橋川。中国山地から流れ出た斐伊川が宍道湖に注ぎ、大橋川を流れ下って中の海に到り、河口の境港港からは海水が遡っている。つまり中の海も宍道湖も真水と海水が混じり合う汽水湖なのだ。だから宍道湖はシジミの名産地。朝一番でシジミ漁の小舟が宍道湖に向かっている。それを「くにびき大橋」の上から暫し眺めた。舟の行き先は西の方角だ。 左の写真は中州を経て宍道湖方面を見ている。右はくにびき大橋の東側で、中の海方向に当たる。間もなく朝日が昇る頃だ。 これは大橋川の対岸から、JR松江駅の北口方面を見ている。松江城付近の濠はもっと繊細だが、この辺りは大河の趣がある。この川の中でもシジミが獲れるはずだ。冬の寒いさ中も、湖に入って専門の「籠」のような道具を使って、シジミを獲る風景を何度も見た。今回の旅では、玉造温泉で朝夕2回、松江の朝食で1回、シジミの味噌汁を食べた。ごく小ぶりの上品な貝だった。 大橋川の北岸に係留された舟は、すべてシジミを獲るためのものだろう。まだ誰もいないが、出漁時間になると、三々五々漁民が集まって来るはずだ。 「新大橋」の標識(左)と新大橋からの風景。宍道湖方面(西側)を見ている。 新大橋から中の海方面(東)を見ている。中国地方はこの日、梅雨が明けたはずだ。 また一艘、シジミ漁の小舟が宍道湖方面に向かう。内海には波も立たない。 今回の旅では、「松江市立玉作資料館」と「島根県立古代出雲歴史博物館」を観ただけだったが、全く不満はない。松江は40年前に仕事で訪れたついでに松江城と堀端界隈を歩き、ラフカディオハーン(小泉八雲)が愛した「城山稲荷」や堀端の柳を愛でながら散策し、明治期の松江の雰囲気を味わった。もうあれで十分ではないかハーンと夫人の節が一時期を過ごした松江。再びここに来れて嬉しい。 大橋川に梅雨明けの太陽が映える。きっと古代の出雲族たちも、こんな風景を眺めて来たのだろう。全部で3度訪れた出雲の地。特に今回は古代出雲の謎に幾分迫ることが出来たのではないか。いつも思うのだが、疑問を抱き続けていると、何かの拍子にその謎が解けることがある。だからこそ、探求心を失ってはいけない。さて、次に歴史の旅が出来るのは一体どの地だろうか。楽しみだ。<続く> 小公園越しに臨む大橋川と朝日
2020.08.27
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~2泊3日の旅の中で~ 宿の間接照明 出雲の古代史や考古学の話を一旦置いて、今日は旅の逸話を紹介しよう。トップバッターは松江市玉湯町の高台にあった「松江市立玉作資料館」に陳列されていた布志名(ふしな)焼を楽しんでいただこうと思う。 関ヶ原の戦いの後、西国の知行地がなかなか落ち着かずにいた。松江藩は何度か藩主の入れ替えがあった後、越前福井藩から松平公が入府した。松江領18万6千石、隠岐領1万4千石。併せて20万石の大藩である。第7代藩主である松平治郷公は、疲弊した藩の改革を成し遂げた後、趣味の茶道にまい進し、玉湯町に藩の御用窯雲善窯を造らせた、後に民間の船木窯も開かれて陶芸が盛んとなったようだ。今回はそれらの作品の紹介だ。 蓋つきの椀 魚のデザインの絵皿はとても現代風だ。 渋色の釉薬をかけた蓮の蕾を模した容器。 唐三彩にも似た雰囲気の花瓶(左)と花柄を全面に配した大ぶりの花瓶(右) シンプルで清楚な花瓶(左)と極めて現代的なデザインの壺(右)。 一見キウイの輪切りと見紛うような大ぶりの浅鉢(?) 自由さに溢れた作品群は、ひょっとして船木窯のものだろうか。でも渋いねえ<続く>
2020.08.23
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~出雲の旅で食べたのは~ 古代出雲への旅のシリーズは学術的な内容で、どうしても堅い文章になりがちです。そのため、5回に1回の頻度で休憩を取り、少しリラックスしていただこうと考えました。今回は出雲への旅でわたしが食べた(飲んだ)ものの話です。なお上の写真は、初日に泊った玉造温泉の川べりにあった造形を挿絵代わりに入れたものです。どちらも大国主命にまつわるお話のようです。 初日の宿の夕食です。見かけは悪くないのですが、内容はさっぱりでした。焼き魚として「ハタハタ」が出ました。仲居さんに「ここで獲れたの」と聞くと返事がありません。ハタハタは同じ日本海でも北の山形や秋田で獲れる魚。しかも漁期は冬です。雷が鳴る頃に産卵のために海岸に近づいて来るのを獲るのです。長期間冷凍してたのか、脂が酸化して味が変でした。その代わり日本酒は出雲大社のお神酒で、とても美味しかったです。 旅の2日目。玉造温泉のホテルの朝食は最低。ほとんどが佃煮で、写真を撮る気も起きませんでした。昼食は4時間も観覧した「島根県立古代出雲歴史博物館」のレストランで。あまりにも空腹だったため美味しそうに見えたポスターの「火山オムライス」を注文。野菜サラダはほんのちょっぴり。オムライスの中身は梅干し味の「ゆかり」のふりかけご飯。美味しそうに見えたポスターとは全くの別物でした。 2泊目は松江市のシティホテル。夕食がなかったため、駅付近の海鮮居酒屋へ。お通し、モズクの酢の物、脂が乗ったしめサバ、島根牛を軽く炙った握り寿司、地元のさつま揚げである「赤揚げ」。どれも美味しくいただきました。それに地元の吟醸酒を冷で2杯。ご飯を頼んだらどんぶり1杯の大盛りで満腹でしたよ。 旅の最終日。ホテルの朝食はとても心が籠ったもので、バランスの良い内容でした。私は旅行をしても、さほど食事内容には拘らない方ですがこのホテルの朝食が一番安心出来るもので、感謝でした。 最終日の朝の散歩。松江市の大橋川河畔の可愛い造形です。<続く>
2020.08.14
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<旅先で観た美> 今日は大連の宿で観た美術品です。説明はありませんのでじっくりお楽しみくださいませ。 安直なブログで済みませんでした。今日夕方に旅先から帰宅する予定です。<続く>
2020.07.31
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<懐かしき大連・旅順ツアー> バスの車窓から見えた大連市の海岸部。 渤海に沈む夕日。日露戦争の激戦地「203高地」の帰路。 遼東半島突端部。203高地から見えた夕日。ここはお国を何百里 離れて遠き満州の赤い夕陽に照らされて 友は野末の石の下。 かっての戦歌より ここからは夕暮れの旅順港。旅順港は軍港のため撮影禁止なのですが。遠かったためOKとのことで。 日露戦争当時、この旅順湾にロシアの艦船が逃げ込み、日本は湾の外(黄海側)や山上から榴砲弾を撃ったのですが遠過ぎて敵艦に損害を与えることは不可能でした。そこで遼東半島に陸軍が上陸して総攻撃を行いました。ロシア側はコンクリート製のトーチカ(地下要塞)に潜み、そこから日本軍に砲弾を雨嵐と「降らせました。それで乃木希典大将率いる陸軍は数多くの死者を出し、将軍の長男と次男も戦死しました。 今ではその激しかった戦いが嘘のように静まり返った湾内です。 こちらは大連市の海岸部で、今ではリゾート地として整備されているようです。 現地添乗員の価さん。 「水師営会見所」(正面の建物)での価さんとツアー仲間。 「水師営会見所」は「203高地」での戦いを終え、勝利した日本側の乃木希典大将と、ロシアのステッセル将軍が会見した場所で、ステッセル将軍は自分の愛馬を乃木大将に贈ったそうです。 昨日の敵は今日の友 語る言葉も打ち解けて 彼は讃えんわが武勇 吾は讃えん彼の知略・・・ 食事会場へ向かうツアー仲間 ツアー仲間と(右) 旅順博物館で 203高地で 大連市内の宝石店(土産物屋)にて。 <続く> 本日は出雲ツアーの第2日目。出雲の「古代出雲歴史博物館」を見学し、松江で一泊です。
2020.07.30
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<大連市街と路面電車> <大連市内の観光案内用看板> バスの車窓から見えた大連市民。どうやら買い物のようだ。 大連市街の様々な表情 市街地に今も残る旧ロシア及び旧日本統治時代の古い建物群 以上3点は路面電車の車内から見えた大連市街風景です。 私たちは買いませんでしたが、車内で売られていた路面電車の切符です。 路面電車の天井に張り付いた「設備」。スピーカーかな。 こちらはレトロな照明器具です。昭和時代が思い出されて懐かしいです。 今日から出雲へ旅して来ます。帰宅は月末ですが、その間のブログは予約しています。留守中にいただいたコメントへの返事は、帰宅後の来月になるかも。皆様もどうぞお元気で。ではまたね。 今日は出雲大社付近を散策し、夜は玉造温泉に1泊の予定です。天気予報は雨ですが。
2020.07.29
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<大連市街と路面電車(2)> 大連と旅順への旅の3日目だったか。大連市内の路面電車に乗った。乗車時間はとても短い。市内の繁華街で乗り、10分ほどで降り、観光バスに乗り換えてとある宝石店に向かった。これは観光バスの車内から見えた路面電車を撮ったもの。日本ではとても少なくなった路面電車が、大連市内ではまだ現役で走っていた。立派な「市民の足」なのだ。急いで路面電車の停留所へ行った。 この路面電車も日本統治時代の産物なのだ。しかもれっきとした「満鉄」の運営によった。「満鉄」の正式名称は「満州鉄道」。日露戦争の勝利によって、ロシアから経営権を委譲された。日本は路線を拡張して日清戦争後に日本へ併合された朝鮮から北京に至る新路線を拡張した。大連市内の路面電車もその一環だ。満鉄は病院、図書館、博物館を作り、銀行や「調査部」と言うシンクタンクも持っていた。 運転席と女性運転手さん 台湾も朝鮮もそして満州も、今では「植民地」としてしか認識されていないが、日本は一切奪ってはいない。それどころか「内地」同様に教育、医療と厚生、農業を始めとする産業、交通網、ダムや発電などのインフラ整備に力を尽くした。それぞれの地に国立大学まで作ったのだ。長年植民地政策を採った欧米の列強がそんなことをした事例はほかにはない。日本は財政を傾けてまで、それらの地を整備したのだ。 車内には路線図と各停留所の案内が張られていた。停留所の名前は現代中国に相応しい名前に変わり、かつての「本字」から「簡体字」の表示になり、少し戸惑った。 車内風景も日本と変わらない平和なもの。経済大国となった近代中国の大連市民。その落ち着いた暮らしの一コマが見てとれた。<続く>
2020.07.28
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<大連の市街と路面電車その1> 大連市の人口は669万人。省都の瀋陽市に次ぐ遼寧省第2の大都会です。ここにはかつてロシアの租界があり、日露戦争で日本が勝利した後は日本がその権利を引き継ぎました。ロシア式の建築はその後も日本人建築家の手によって修繕されただけではなく、新たなロシア風の建築物が日本人の手によって建築されたのです。それらの建物が現在もロシア人街や日本人街として残り、観光の目玉になっています。 古い時代の建物に、現代中国の近代的なビルディングがとても良くマッチしています。 渤海(ぼっかい)や黄海に面した大連は、暖流が直ぐ傍を流れているために、冬でもさほど気温が低下することはありません。私も中国東北部の厳寒を覚悟していたのですが、その予想は良い方に裏切られました。 「中山」は革命によって中国を近代化した孫文に対する敬称です。彼は国民のだれからも「国父」と慕われ通りの愛称も「中山大通り」としたようです。台湾でも各所で「中山」の敬称を目にしました。 きっとこちらが「中山大通り」なのでしょうね。 革命家となった孫文も文学者となった魯迅も、若き頃に混乱する祖国を離れ、日本へ留学していました。魯迅は東北医専で医学を学び、藤井先生などに手ほどきを受けました。また孫文は長崎の写真家梅屋氏に莫大な資金の提供や武器の調達など多大の恩義がありました。 それらを含めて、中国の近代化のにはいち早く欧米の政治や学問を取り入れた日本の役割が大きいのです。外国の専門用語を漢籍の素養がある日本人が簡潔に「訳」しました。化学、物理学、社会科学、人文科学、哲学、倫理学、政府、憲法、市民などなど現在私たちが何気なく使っている「用語」の大半は明治初期に苦労の末に生まれ、これが書籍などを通じ中国の思想家や革命家、知識人に広がって行ったのです。<続く>
2020.07.27
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<車窓から見た大連> 大連は黄海に突き出た遼東半島の先端にある近代都市。日清・日露戦争に勝利したことで、この地に長らく進出していたロシアが引き上げ、清国が日本へ割譲したことで日本の植民地となった。さらに清国に追放された前の国王愛新覚羅溥儀を擁して満州国を建国し、五族共栄を図った。五族とは日本、漢民族、満州族、朝鮮族そしてロシアであった。単純な植民地ではなかったのだ。 街には日本統治時代の建物がまだ数多く残っている。ロシア式の建物も多いが、これはロシア人が引き上げた後も、日本人の建築家がロシア式の近代的な建物を建て続け、街の雰囲気を維持したのだ。かくて日本は満州のインフラを整備し、満州鉄道の路線を拡充した。また満蒙開拓団を内地から送るなどして満州の広大な荒野を農地とし、大豆などを生産して豊穣な沃野に変えた。奪ってはいないため、私は植民地ではないと考えている。 泊ったホテルの正面には「日本語の看板」も見えた。中にはマッサージを受けたツアー仲間もいた。 大連空港から市内へ向かう途中にバスの車窓から見えた大連の郊外。海岸部にも巨大な建物が建っているがいるが、大連は真珠の養殖が盛んな土地柄。ただし日本の真珠があこや貝を母貝にするのに対して、大連ではアワビを母貝とし光沢のある大粒の真珠が生まれる。 ここからはバスの車窓から見えた市内の店の様子を。 看板で何となく何の店かは分かる。 ゴミはきちんと捨てようと言う注意か。街中の電光掲示板。 春節を迎えるためのランタンもちらほらと。 2階は写真館で、1階は鮮魚店みたいだけど。 ビルの軒下の電光掲示板には、中国のスローガンが流れていた。だが本当にこのスローガンが守られているだろうか。チベット族、ウイグル族、そして香港市民への強制的な抑圧を見ると、こんなのは到底「まやかし」にしか見えないが。つまり外国人向けのアピールだろうか。私たちはちゃんとやってますよと言うポーズだけの。 街中で見かけた中国の国旗(上)と政府のスローガン(下) ロシア語(キリル文字)と漢字の看板がある不思議な店。 看板を見ると、特定のVIPだけが入れる「商工会議所」みたいだが。 「大連の未来は明るく輝いている」とでも言うかのような内容は、大連市当局のPRか。それとも空母遼寧や近代都市の写真からだと、中国政府肝いりの広告か。バスの車窓からだが、現代中国の目指す方向と人民の暮らしぶりが垣間見られたように思う。<続く>
2020.07.15
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<旅先で観た中国らしい形> 今回は大連で観た異国情緒溢れる「形」をご紹介します。ただし説明はありません。中国の美術や意匠として楽しんで見ていただけたら幸いです。 そうそう。これらの写真は確か「雑技団」を見た建物内の装飾ですね。いかにも中国らしいと感じて夢中になって撮ったのですが。 目にしたものを手あたり次第撮るのですから、大忙しですよ。それが原因でPCの容量が満杯となり、たくさんの写真を整理しないまま捨てたのが、悪夢のように思い出されます。 そして大連の街中では、春節(中国の旧正月)を迎えるための飾りつけが施されていました。今にして思えば、私たちが大連と旅順のツアーから帰国した数日後には、中国で「新型コロナウイルス感染症」発生と大流行の驚くべきニュースが飛び込んで来たのです。まさに危機一髪。私たちが訪れたのは武漢からかなり離れていましたし、まだ日が浅くて大連へは飛び火してなかったんですよね。危ない危ない。<続く>
2020.07.14
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<中国・この不可思議な国家> 写真は中国国内のTV放送画面(筆者撮影)から。 しかし中国とは一体どんな国なのだろう。黄河流域に発生した世界4大文明の国。漢字を発明した国。儒教が起きた国。仏教が伝来した国。漢民族が支配し、中華思想を中心とした国家と歴史を有する国。ほとんどが漢民族の暴動、転覆などによって国が興亡した国。滅ぼした国が滅ぼされた国の歴史を正史として自由に記した国。わずかモンゴル族、女真族、満州族の3つの異民族だけに支配されながら、それすら漢民族の文化を継承して来た国。 近代になって西欧列強に蚕食され、激しい内戦に明け暮れた国。独立を勝ち取った後、ロシアに次いで社会主義・共産主義への道を辿った国。その中でも毛沢東のような独裁者を出し、大勢の自国民を死に追いやった国。共産党支配になっても為政者の不正が止まず、経済力の不足を補うため社会主義を採りながら自由経済を目指す政経分離方式を採った国。 60近い多民族国家として民族自治を標榜しながら、チベット族、ウイグル族などを徹底的に弾圧して中国語、漢文化を敷衍、中国化を図った国。絶えず領土拡張の野心を燃やし、インドとの国境侵入、南シナ海での国際法に反する領土拡張と軍事拠点化、尖閣諸島への不法な侵入の繰り返しと東シナ海における理不尽な油田開発など近隣諸国との諍いが絶えない国。 これまでサーズ、マーズなどの感染源となり、新型コロナウイルス感染症の発生源となって世界中に多大な被害をもたらしながら反省しない国。国連及びその関連機関に手を伸ばし、世界制覇を目指す国。軍事力を増強し、宇宙開発、IT技術による優位性維持を図る国。「一帯一路」や「アジアインフラ銀行」の立ち上げによる経済協力を標榜しながら、国際社会での優位性確保に余念がない国。 その中国がとうとうその正体を現した。香港に対する締め付けだ。「一国二制度」を50年間守ると約束しながら、その半分にも達しないうち実質的な中国化を図る法律を可決し、香港市民を慄かせた。かつての宗主国イギリスはもちろんだが、アメリカはその野望を粉砕するため議会で中国首脳の活動に制約を加える措置の実行を可決した。香港におけるドルの交換、アメリカ国内での資金凍結などだ。 アメリカとの貿易・関税戦争で疲弊した中国経済は、新型コロナウイルス感染症による生産力低下と、購買力の激減でさらに減速した。そのためでもなかろうが、何と偽ドルの印刷を始めたようで、それが先日アメリカ国内で発見された。精巧な100ドル紙幣が大量に中国からもちこまれたのだ。その陰には北朝鮮の特殊部隊がいると言われる。かつて北朝鮮では大量の偽札を印刷してぼろもうけした「技術」があるのだ。 さて、中国から逮捕の危険性を感じた香港市民の脱出が始まったようだ。既に民主派の指導者がアメリカに渡った。イギリスは香港市民の受け入れを表明し、オーストラリアもこれに続いた。香港から銀行のスペシャリストが大量に消えると、中国はお手上げになる。ドルをはじめとする外貨の確保が困難になるのだ。中国経済の失速は火を見るより明らか。自らが放った火に、自らが焼け焦げるのだ。<続く>
2020.07.11
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<中国とはいかなる国家か> 久しく途絶えていたこのシリーズを再開した。理由は撮った写真がPCに取り込めないため。恐らく画像の容量が大きくなり過ぎたのだろうと判断し、出来るだけ写真を使おうと言う魂胆。しかし今年の1月初旬に行った大連と旅順への旅。あの頃既に中国内では新型コロナウイルスが蔓延し、感染者が大勢いたのは間違いない。良くも無事帰国出来たものと、今さらながら胸を撫でおろしている。 今日は大連のホテルで観た中国国営放送TVの画面をカット代わりに使用しつつ、私の感想を述べたい。新型コロナウイルス感染症は、その後の情報を読み解くと昨年9月ごろには武漢市で発生したようだ。同市内の2つの大病院の駐車場が連日異常なほどの車で溢れ返ったことが衛星写真の分析で判明している。中国政府は12月末に発症したと言っているが多分そうではないのだろう。 その間に中国が何をしていたかと言うと、マスクや防御服などを買い占めて準備していたのだろうと言われる。そして武漢に仮の収容所を大至急建造して感染者を閉じ込め、武漢を封鎖した。それが今年の1月以降で、そのおかげで私は無事帰国出来たのかも知れない。だが中国政府はこのことをひた隠しし、WHOへの報告も遅れた。その間に春節の休暇を取った中国人がイタリアなど各地へと出国、旅行した。 大型クルーザーが停泊した横浜港では大変な騒動になった。何と正体不明の新型コロナウイルスに感染した旅行客が千名近くが急遽押し寄せたのだ。この未曽有の事態に自衛隊は果敢かつ完璧に対処した。陽性と陰性の乗客の区分。陽性者の医療機関への輸送。乗員の隔離と動線の完全な区分。防護服不足をカバーする臨時の感染対策。乗客からは数十名のり患者が出たが、対応した千名を超える自衛隊員からは1人の感染者を出さなかった。 しかし何という国だろう中国は。自らの不始末が他国での大量の患者発生につながった。服飾産業で中国人が多く滞在するイタリア北部のミラノ周辺。一帯一路で経済的なつながりのあったスペインやドイツ。そして大勢の中国人観光客が押し寄せたフランス。それらの国の発症者と死者数は膨大で、ついには都市のロックアウトと言う強硬措置も取られた。それで何とか感染を防ごうとしたのだ。 重慶北駅 だが、WHOの対応も酷かった。世界への警告が遅れたのは、事務局長が中国から経済援助を受けていたエチオピア人で、彼は医師でなくてWHO事務局長になった初めての人。元はエチオピアの外務大臣を務めた。そのことが恩義ある中国発祥の新型コロナに関する世界への警告が遅れた大きな理由と騒がれ、否定していた彼も後にその一部を認めざるを得なかった。その情報操作が、世界を混乱に陥れた。 しかし新型コロナウイルスの発生源は未だに謎のままなのだ。武漢の生鮮市場とも言われたが、これは後に否定された。市場で「コウモリ」や「センザンコウ」の肉が売られた形跡はなかった。次に疑惑の的となったのが2つのウイルス研究所。中国は否定したが、危険なウイルスの管理が杜撰だったのは明白だ。だが真相は謎のまま。その間ヨーロッパの新型コロナはアメリカ大陸へと向かった。 何せヨーロッパとアメリカ間の人の移動は大量でほぼ自由なのだ。そのために経済が回り、物資が輸送される。だが大量のり患者が出ると、各国は自由な人の往来に待ったをかける。特に患者数が多い国からの渡航は禁止する措置。そうして国家間の封鎖と防御策は拡大し、経済が急速に冷え切って行った。それだけではない。感染者と死者が急速に増えた。新たなウイルスに対応する術がない。何せ各国とも「未知との遭遇」なのだから。<続く>
2020.07.10
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<TV番組から思い出した旅> ランの仲間 月末の週末。早朝に起きて自転車で某所へ。まだ5時前なので誰にも会わない。とある箇所をささっと見渡して、素早くタケノコを鎌で切る。細くて短くて貧弱な種類。それでも15本ほどをビニール袋にしまい、次の場所に移動。そこではまあまあのフキを15本ほど鎌で切り、そそくさと帰途に就く。20年前はもっと太くて長くて見事なのが採れたが、開発が進んで山菜はすっかり姿を消してしまった。 月山富田城 先日TVの歴史番組を観ていて、「おや」と思った。月山富田(がっさんとだ)城と言う聞き慣れない山城の名前。だが待てよどこかで聞いたことあるぞ、その名前は。確か昨年山陰などへツアーした際、島根県安来市の足立美術館の少し手前で、ガイドさんが口にした名前だと気づいた。尼子氏の居城で、山全体が砦と城で蔽われ、難攻不落だったと言うが、その時は何の変哲もないただの丘にしか見えず、全く気にかけてなかったのだ。 月山富田城とその城下町 ところが今回TVで知ったのだが、この山城は30ほどの砦と城が築かれ空堀や迷路などが施されていた由。また周囲には8つほど味方の山城があった由。石見銀山の銀を手中に収め、山陰全体を支配していた尼子氏。それを山陽地方の覇者、大内氏が攻撃したがとうとう落ちなかった。だが、大内氏の配下だった毛利元就が主家を乗っ取り、70歳を過ぎてから再び月山富田城を攻め立てた。 毛利元就 2度目の攻略で毛利元就は、敵将が寝返ったとの噂を立て、それで動揺した隙に三方から攻めてついに落城させた。その後城を修復すると共に、真向かいにもう一つの山城を築城して、尼子氏の武将山中鹿之助の攻撃を躱(かわ)した。こうして毛利氏は、山陰、山陽の諸国全てを支配する大大名へと成り上がり、三人の子をそれぞれ毛利、大内、小早川氏の後継者と定めて万全の体制を築いたのだった。だが、関ヶ原の戦いで西軍の大将となったことで、毛利は家康から周防と長門の2国に封じ込まれ、城下も萩に移すこととなった。 北海道の縄文遺跡 何年か前に岩手、秋田、青森の遺跡を幾つか一人で訪ねる旅をした。その時に北海道と一緒になって縄文文化を世界遺産に登録する運動中であることを知った。縄文時代の重要な遺跡が東北に多いことは知っていたが、それが北海道にまで及んでいることは知らなかった。ただし、青森の三内丸山遺跡から発掘された鏃(やじり)の黒曜石が北海道産で、交流があることだけは知っていた。 ところが最近観たTV番組で、北海道南部には東北の縄文遺跡と同様の住居跡、土器、土偶、漆(うるし)が使用されていたことを知った。つまり津軽海峡を行き来して、北部東北は北海道南部と全く同一の文化を保有していたのだ。北海道にはなかった栗も東北から持ち込まれ、住居の骨組みとなった栗材も、東北から運ばれたものだと言うことが、発掘の結果分かった由。 <北海道南部の縄文時代の住居(左)とチーズケーキ(右)> 北海道に「後縄文文化」や「オホーツク文化」が興ったこと。北大構内の住居跡や、北見に巨大な「モヨロ貝塚」があることも知っていたし、平取町のアイヌ博物館を観に行ったこともある。函館市内でランニング中、偶然和人の砦である志海苔館(しのりだて)を知ったのも、今は良い思い出だ。北海道と東北の縄文文化が世界遺産に登録されることを願っている。白老の新アイヌ博物館も観たいものだ。 伊勢路 TV番組で「伊勢古道」を観た。熊野古道の一部で「伊勢路」とも呼ばれる。内宮、外宮の神宮と熊野三山を結ぶ、信仰の道として昔から多くの人々が歩んで来た。馴染み深い熊野古道に対して、伊勢路の方はさほど有名ではないが、何か所もの峠道を越え、熊野灘の浜辺の集落へと降りる厳しいルート。だが、かつては重要な生活道として石を敷くなどして整備され、所々に石仏が祀られている。 <伊勢路のルート(左)と山中の石橋(右)> 私は2年前、ツアーで伊勢神宮、熊野三山、高野山を訪ねた。その際に、この古道とクロスする国道をバスで通った。山が海に迫るこの地は昔から交通不便の地だったことだろう。浜辺には秦の始皇帝の命で不老長寿の薬を探しに「徐福」がやって来たとの伝説も伝わっている。松阪のブロ友マッカーサーさんがかつてこの道を歩いて撮った写真をブログに載せられたのも、今は懐かしい思い出だ。 またまたTV番組で長崎県の離島である対馬(上左)のトレッキングを観た。この島へは3年前にツアーで訪れたことがある。その時御岳(みたけ)と言う山にある展望台から、リアス式の浅茅(あそう)湾(上右)や白嶽(しらたけ下図)が見えた。対馬は国境の島で、いわば日本の最前線。昔から大陸や朝鮮半島との交通の中継地点であり、地理的な理由で何度も戦闘に巻き込まれて来た。 金田城 その典型が古代の山城である金田城。これは「かねだじょう」ではなく、「こんたのき」と読む。「き」は砦(とりで)の意味であり、敵軍が攻めて来た際には険しい山上にあるこの城に逃げ込んだ。神功皇后が三韓征伐をした際はこの島にも立ち寄ったとされ、鶏が時を知らせたと言う雞知(けち)の地名が残っている。元寇、秀吉の朝鮮征伐などの他、朝鮮やロシア軍が上陸したこともある。 対馬の聖地白嶽(しろたけ)は遥か彼方に白い山頂がちらりと見えただけだった。番組では軽々と頂上へ上ったが、断崖絶壁の痩せ尾根を歩くのは極めて危険。風が吹けばふらついて直ぐに落下するだろう。私には到底無理な注文。 金田城 倭と百済の連合軍が白村江の戦いで唐と新羅の連合軍に敗れた後、倭は対馬に金田城を築き防人を置いた。太宰府周辺には水城と山城を築き、防人を置いた。瀬戸内海沿岸の岡山や香川などにも山城を築き、都を近江に遷宮した。天智天皇は唐が本気で攻めて来ると考えたのだ。朝鮮通信使の世話など、江戸時代は何かと日朝友好の担い手として苦労した対馬藩。今、韓国人は対馬の土地を買い漁り、対馬に伝わる仏像を盗んだまま返そうともしない。相変わらず無礼な国。西郷隆盛が怒って「征韓論」を唱えたのが分かりそうな気がする。
2020.06.01
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<大連のロシア人街 その2> 今日も大連の旧ロシア人街の紹介です。明治期には実際にロシア人が住んでいましたが、その後日露戦争の勝利によって、日本人の居住区となりました。でも日本人の建築家は極力ロシア風の西洋建築を維持したのです。それが独特の景観となって、現在では大連観光の目玉になっています。 町並みは整備され、瀟洒な建物がずっと続いています。 そのためかこの美しい地区には各国の大使館や領事館が置かれ、大使館ナンバーを付けた高級外車が路上に駐車していました。 台2次世界大戦の終戦から75年。今でもこうして維持されているのは、きちんと補修もされていると言うことなのでしょうね。 でも中には、立派な扉の前にゴミが置かれている家もありました。観光地には相応しくない風景ですが、これは一体どうしたのでしょう。観光の目玉の地区がこんな風景なのはとても信じられないですね。 ロシア風建築に不似合いな漢字の横断幕が掲げられています。ちょっと違和感がありますねえ。でも、背後の高層建築とは実に面白い対比をなしていますね。 これなどはとても見事な風景。現代中国ではなかなか見られないエキゾチックな風景です。 瀟洒なロシア人街の広場に、近代的な彫刻が立っていました。その足元を見ると、見事な揮毫が。 近寄って見ると、国家主席だった江沢民さんの書でした。さすがは漢字の発祥地、見事な書体でした。 西洋風の彫刻と東洋風の彫刻。中国もなかなかのセンスですね。 旧日本人の居住地区に、博多人形風の塑像が置かれていましたが、何だか「取って付けた」ようで、私は違和感を感じたのですが。 ロシア人街の外れに、貧しそうなテント小屋が建っていた。そこに行くと、ずらりと帽子が並んでいた。小屋の奥から出て来たのは白人の美人。私に向かってしきりに帽子を買ってと言うような感じ。きっとロシア系の人だろうと思い、「スパシーバ」(ロシア語でありがとうの意)と言ったが、何の反応もなかった。そのことを中国人ガイドの価さんに言うと、直ちに否定。今はロシア系の人は大連にはいないとでもでも言いたげだ。因みに価さんは漢族。元々ここは満州族の土地だ。<続く>
2020.04.17
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<大連のロシア人街 その1> 大連観光の目玉は何と言っても旧ロシア人街だろう。なぜ大連にロシア人街があるかと言えば、それはかつてロシア人が住んでいたためと言うしかない。なぜ住んでいたかと言うと、歴史の話が避けられない。乏しい知識しかない私が説明するのは難儀以外の何物でもないが、いずれはそのことに触れるとして、今回は旧ロシア人街の写真を何枚か載せることでお茶を濁しておく。 この建物は現在中国が使っているのか、漢字のスローガンが掲げられていた。だがその下にロシア語(キリル文字)が見えた。それで思わずシャッターを切った次第。ロシア人がいた当時のものか、それともロシア人観光客のためかは不明だった。 バスの車窓からトンガリ帽子のある建物が遠望出来た。きっとあれもかつてロシア人が建てたビルなのではないか。私にはそう思えてシャッターを切ったのだが、帰国して写真を整理し、ズームしてみたらビルに漢字が見える。だが、真偽は不明のままだ。 これもバスの車窓からの遠望。特徴ある三角屋根はロシア正教会の建物に間違いない。私はそう確信した。中国人がわざわざこのような建物を建てる訳がないからだ。しかし、ロシア人が去った後、この建物は一体何に使われているのだろう。ご丁寧に教会が3つも並んでいる理由が分からない。 手前も、そして奥の建物もロシア正教の教会堂のはず。海の傍にある大連はさほど雪は降らないはず。だから屋根をこんな急角度にしなくても良いと思うのだが、ロシア人たちは中国に来ても、自国の建築様式を頑なに守ったようだ。 ロシア人街にある住宅群。いずれも堂々たるアパートメント。ロシア人たちがいた時代、現地の満州族たちが住む一角は別の場所にあり、ここに近づくことは出来なかった。今では全て中国人が居住している。芝生のある閑静な住宅街だ。 公園の一角に彫刻が立っていた。車窓からちらっと見たが、中国人の風貌ではなく、ロシア人のように見受けられた。かつてここにロシア人たちが住んでいたことを記念するものなのだろうか。 バスの車窓から見えたロシア人が住んだ住居跡。コンクリート建ての近代的な建築物で、今でも十分居住に耐えられる。この一角は現在大連観光の目玉になっている。訪れるのは日本人観光客が一番多いようだが、中国各地からも訪れるみたいだ。中国もそれだけ豊かな国家になったのだろう。 ロシア式の建物は全てがロシア人が建てた訳ではない。日清戦争、日露戦争で日本が勝利すると、ロシアが有していた満州の権益は代わって日本が得ることになる。大連のロシア人街の景観を守るため、日本人の建築家は当時はまだ珍しかった西洋建築の技法を学んで、引き続きロシア風の建物を整備して行ったのだ。もちろん住むのは日本人。だから大連には旧ロシア人街と旧日本人街が隣り合っているのだ。<続く>
2020.04.16
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<大連での食事> 旅行先での一番の楽しみは何かと聞かれても、人によって答えはまちまちだろう。景色。それも分かるよね。行った先が外国ならば、確実に日本とは違った景色が見られるもの。食べ物。それも当然の答えか。普段なら食べられない料理が、外国だと食べられる。それに飲み物も日本とは違うしね。私の場合は「見るもの全て」。つまりその国の実情が、見たり聞いたりすることで理解出来ると言う訳だ。 1月の大連の旅での食事の「外れ」は全くなかった。私は特段グルメ志向ではなく、どんなものでも美味しく食べることが出来る方。だから外国旅行だからと言って、ご馳走が出なければつまらないなどとは考えない方だ。今回の旅も特に旅先での「料理」を売り物にした訳ではなかった。だが、そこは中国。不味いものが出る訳がない。何せ中国は美味しい物を食べるのが楽しみと言うお国柄。食の歴史が違うのだ。 今回の旅は大連の同じホテルに3泊するものだった。移動距離が短い分体が楽で良いが、食べ物はどうだろう。そんな心配をする人がいるかも知らないが、そこは料理には人一倍うるさい国。ちゃんとその辺を考慮し、日程表にはちゃんと「「餃子料理」、「旅順料理」、「春餅料理」、「飲茶料理」、「四川料理」と準備万端のおもてなしぶりだった。ただし朝食は3日間ともホテルでのバイキング方式だった。 私などは中国各地の料理の違いすら分からない。別に「何でなければ困る」なんてこともないし、目の前に出されたものを、ただただ黙っていただくだけ。その全てが美味しく、不味いとか貧弱などと感じたこともない。家では3食ともすべては自分が作った手料理。それらに比べたら、どんなものでもが美味しい。何せ中国のプロが作った料理。不味い物が出るわけがないのだ。 ただ困ったことが一つだけあった。それは毎朝のバイキング方式。それぞれの料理が置かれる場所が、日本と違って良く分からないのだ。それから日本の場合は「食事中」の「札」を置いておけば、トレーを片付けられることもなくその場所に再び座れるのだが、大連ではその方式がなく、おかずなどを探しているうちに、残ったものを全部片づけられてしまう。それが不便で何度も取りに行く羽目になったのだ。 料理の写真は順不同で、何料理かもメモしていない。だから勝手に想像してもらうしかないが、お許しあれ。そして自分が食べた料理とも限らない。 ああこれは分かる。餃子ですね。餃子にも色んな種類があったけど、今はもう思い出せない。 ふう~っ。これも餃子だ。餃子って結構お腹が膨れるんだよね。 夜なら「紹興酒」も飲みますよ。さほど値段も高くなく、丸ごと1本お金を支払って飲みます。だから残ったのは、そのまま蓋をしてビンごとホテルへ持ち帰ることが出来ました。アルコールの度数もそんなに高くはありません。何せ下戸の私が飲めるくらいですから。 豚肉のソーセージに野菜を巻いたもの。これは朝食のメニューみたい。 これも朝食のバイキングで、私が皿に取り分けたもの。 これはお粥ですが、ほとんどご飯がなくて薄いもの。それでもおかずを食べているので、お昼までは持ちますよ。これは白いお粥ですが、きれいな薄い「クリーム色」のお粥もありました。残念ながら味は確かめませんでしたが。 台湾でもそうでしたが、昼食や夕食はホテルと違ったレストランで摂るのが一般的みたいですね。 これは旅順で食べた昼食の卵スープだったと思います。 これはある日の朝食。私にしては珍しく、小さなパンが載っています。こんな調子なので、太ることもなく中国から帰国しました。料理に期待していた方にはスミマセン。何分小食なもので。 こちらは餅でも皿でもなく、昨夜の仙台上空に出たスーパームーンです。<不定期に続く>
2020.04.08
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<夜の大連を撮る> 今回の旅の初日。大連空港からホテルへと向かうバスの車中で、私は早速バシャバシャとシャッターを切り出した。旅に来たらどれだけ写真を撮るのかが勝負。私はそんな感覚でいるのが普通。それはブロガーとしての本能だ。いかに珍しい場面を、数多く撮る。それが後々充実したブログにするための必要条件。それがPCに過重な負担をかけ、結局は大量に捨てることになるのだから皮肉な話だ。 止むを得ず捨てた千枚を超える中に、果たしてどんな写真があったのかは不明で、今となっては知る由もない。今回は残った写真の中から、「大連の夜」を紹介しようと思う。だがそれだけでは足らなかったため、ツアー仲間がくれた小さなポラロイド写真や、別途購入した「絵葉書」からも適当と思える物を選んで加えたことを付記したい。 だが「出来上がり」を見ると、一旦撮った写真を再びカメラで撮り直した物は、色彩の点でも写り方の点でもやはり今一感は免れない。いくら下手でも、直接デジカメで撮った写真には敵わないように思うのは、あながち独りよがりでもないように思うのだ。 確認したら、安い料金ながらオプションで観た、山上からの夜景の写真がどこにも見当たらない。どうやら捨てた中にあったようだ。そしてあまり面白くないのが残ったかも知れない。今となっては仕方ないことだが、まあ大連の夜の雰囲気だけでも味わっていただきたい。 ここは初日の夜遅くに行ったレストランでした。 上の2枚はツアー仲間が撮った小さなポラロイド写真を、再度撮り直したものです。 これ以降は絵葉書をデジカメで撮り直したものです。(4枚) 絵葉書の雰囲気が残っていますね。第一、こんな角度で中山広場は撮れません。 まあ絵葉書も役に立って良かったかな。いずれまた観光地のが出て来ますよ。<不定期に続く>
2020.04.06
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<中国の大衆娯楽・雑技団を観て(2)> 雑技団の「実演」がある建物に入ると、ホールの外に古めかしい写真が飾ってありました。すっかりセピア色になっていましたが、一見してこれは「京劇」だろうと思いました。日本の歌舞伎に当たる国民的な芸術で、今でも伝統文化として大切にされています。だがこんな小さなホールで実際にやるんだろうか。それが私の素朴な疑問でした。 説明文によれば、かなり人気のある役者のようです。きっとこのホールが満員になったのでしょう。 これだけは鮮やかなカラー写真になっていて、京劇の役者さんがどんなメイクをしてるのかが分かりました。歌舞伎の「隈取り」とはかなり違った化粧でした。 やがて大きな拍手に迎えられて、1人の役者が入場して来ました。長い付け髭を蓄えた堂々たる姿。頭には立派な被り物をつけ、歴史的な英雄みたいです。 マイクを持って、なにやらうなり出しました。きっと出し物に関連した曲なのでしょうね。私には日本の浪曲のように感じられたのですが。 暫くして「ああこれは変面だな」と気づきました。何かの演目を演じると言うよりも、一瞬のうちに顔の表情を変えるのを売り物にした大衆芸能。それがどんな仕組みで顔の表情が変わるのかは分かりません。賑やかな曲に乗って踊りながら、時々あっと言う間に表情が変化します。きっと幾つかの「仮面」を「何かの装置」で切り替えるのでしょうが、あまりにも早過ぎて、上手くシャッターが切れません。以下にどうにか「見られる」ものを掲載しますね。表情の変化(仮面?)をお楽しみください。 実際はこれ以上表情が変わったと思うのですが、これが私のカメラの限界でした。<続く>
2020.04.05
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<中国の大衆娯楽・雑技団を観る(1)> 昨年行った「台湾一周旅行」でもそうだが、ツアー中のオプションは極力と言うか、必ず観ることにしている。お金はかかるが次にまた行ける保証がないからだ、今回の「大連・旅順ツアーでも大小5回ほどのオプションがあったが、オプションらしいオプションはこの「雑技団観覧」だったのではないだろうか。当初は団員が春節の興行に行ったため中止とのことだったが、幸いにして復活した・最初に現れたのがこのマジック。素人に毛が生えた感じで、「な~んだ。中国雑技団はこんなもんか」とガックリ。 場所は観客が100人も入らないような小ホール。観客は全て日本人で、3つほどのツアーの寄せ集めと言った感じ。遅れて行った私たちは列の後方に並ばざるを得なかった。「良いところでは立って写真を撮りますので」と後ろの席の人に挨拶。「ああ良いですよ。私たちもそうしますから」と明るい返事が返って来た。中年の女性と青年のコンビだが、何とも「間」の取り方が今一テンポが悪い。 両手首と体をロープで厳重に縛られた青年が、小さなテントの中に入って行く。まあほぼ推定出来る「脱出劇のシナリオ」だが、日本じゃないのでブーイングは飛ばさない。 「約束通り」無事青年はテントの外へ脱出して来た。「万雷の拍手」とまでは行かないが、ホール内にごくささやかな拍手が響いた。すると舞台の前には、早くも次の「出し物」。上半身裸の青年が金属製のロープを首に巻き付けられている。「もっと強く巻いて」と観客に要求する青年。これも「約束事」か。 左右からロープを引っ張られながら、首の圧迫と痛みに耐えた筋肉青年が、観衆に対して、「これご覧の通り大丈夫」と猛アピール。 私は舞台の袖まで進んで青年の首を観た。確かに強い力で引っ張られ、しっかりと紫色の締め痕が付いていた。金属のロープも確認したが、こちらは金属の上から樹脂のようなものでコーティングしてあった。金属だけなら、きっと首に食い込んでしまったはず。インチキとは言えない、本物の力技だった。 次にキン肉マンは頭部に金属の道具を打ち付けた。単純だが、よほど頭を鍛えてなければ出血は免れないだろう。生ぬるいマジックよりはよほど「芸」らしい。 キン肉マンはさらに荒業に耐え、机の上で椅子を使った倒立までやってのけた。この青年、腕力、筋力だけでなく、関節の柔軟性も大したものだった。 この痩せた男が全力で見せた「芸」に、観客から万雷の拍手が送られた。 汗臭い男の後には、良い香りのする美少女の登場。ブラボー、待ってました~!!年齢はまだ10代だろうが、ピンクの衣装がなんとも艶めかしい、良いねえ。つい前へ行って写真を撮りたいのだが、椅子が邪魔でどうにもならないんだよなあ。やっぱり前の席が良かったかと悔やんでももう遅い。 この少女が操っているのは独楽。だけども目が追っていたのは別の方。(;^_^A こんな美少女が目の前で独楽を操ったら、地方の春節では人気者だろうなあ。今が一年で最も稼ぎ時なのかもしれないねえ。 ところがこの少女の特技は独楽回しだけじゃなかったんだよねえ。 床に倒れて苦悶の表情を浮かべ・・・ こんな風に体を反り返らせて・・。 最後にはこんなポーズを取るのでごじゃる。軟体動物ですなあ。 このポーズを決め、良い香りを残して少女は静かに舞台から去って行った。これで250元は果たして高かったのか、安かったのか。次は別な出し物だけど、また見てね。<続く>
2020.03.31
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<現地で見た中国のテレビ放送> 大連のホテルでは極力テレビの画面も撮影しました。中国の市民生活が実感出来るからであり、ブログで紹介したら有益と考えたためです。以下私の簡単な説明付きで掲載します。 毎回放送は国旗の画面から始まります。それは日本でも一緒ですね。(NHKは) 例の場所です。これが2番目も変わりません。 前進 前進 また前進とあります。中国共産党のスローガンかな。 どこかの駅が写っていましたが、どこかは不明です。 真面目なアナウンサーの表情。経済政策のスローガンでしょうか。 女性アナウンサーは美人の上、メイクもバッチリです。 家族でしょうか。きっと裕福な一家なのでしょう。 背景は万里の長城っぽいですね。観光に来たのかも。 渋い表情なのはどうして? 胸にはネームプレートが。 大都会の風景はCGによる合成でしょうか。 国際ニュースみたいですが、どこまで国民に知らせるのか。オーストラリアと中国の関係は良好でしたが、政権が交代したオーストラリアでは以前より警戒する雰囲気になっています。 何かを国民にアピールしているみたいですが。 国家発展改革委員会の経済成長目標に関するニュースみたい。 各地方は国の経済発展目標に寄与することが求められます。 大気汚染が国家的な課題となり、排気ガス規制が厳しくなりました。 60歳以上の老人がいる家庭では、早めに春節の休暇に入れるのかな。 若者の相相傘姿も良いものですね。 国が企画するイベントのレポートのような。 これも上のイベントの続報。撮影日は1月12日ですが、この時は既に武漢では「新コロナウイルス感染症」が発症していたのです。それを中国政府は1か月以上隠していたんですね。私が訪れた大連では全くそんな気配はありませんでした。テレビを通じて国情や国民性が伝わりますね。やはり撮影して良かったです。他の映像はいずれ紹介します。<続く>
2020.03.30
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<大連で出会った美と形(1)> 中国の一大イベントである「春節」(旧正月)が近いせいか、それとも中国人が元々好きなのか、街中で「福」の字を良く見かけた。 こんな派手な意匠も中国らしい。 「唐草模様」はシルクロードを渡ってヨーロッパから中国へ、そして日本へやって来たんだよね。 偶然撮ったこの像はひょっとしてブタかもと思った。今年は亥年だが、中国ではブタ年。ブ野生のイノシシを家畜化したのがブタだが、中国のブタには長い歴史がある。古代秋田城の「水洗トイレ」でブタの寄生虫の卵が見つかったことから、同城の中に渤海國使の接待所があったことが確認された。当時渤海国使は海流の関係で、越前、能登、秋田などに漂着したことが知られ、それぞれに接待所が置かれた。 街中で愛嬌を振りまいてるブタ。あんまり見つめないでねブヒーン 当然「春節」のお祭りにも登場する。国によっては、ウサギ年に代えて「ネコ年」にしたり、辰年に代えて「クジラ年」にしてる国もある由。十二支も国によって違うんだねえ。 昼だったため、ランタンは灯されてなかったが。 ロシア人街にもランタンが飾られ お店もこんな風に春節モードに あらま、こちらはいつも通りなのかな。 夜のレストランは、こんな風にしてお客様を迎えます さすがに中国は漢字を発明した国だけあって、書や篆刻(てんこく)にも歴史の古さと様式美が感じられます。洗練された美が街に溢れているのですから、奥が深いですねえ。<続く>
2020.03.28
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<大連の朝と光> 大連は中国東部、遼東半島の付け根にある中国有数の大都会だ。私が行ったのは今年の1月11日からの3泊4日のお手軽ツアー。渤海(ぼっかい)に面してるため、思ったより気温は低くなく、重装備でなくとも寒くは感じなかった。日本との時差は1時間遅れ。台湾と同じだった。オーストラリアは日本より1時間早く季節が逆のこともあって疲れたが、大連の朝は少しのんびり出来たかも。 大連ではスモッグもなくて快適。そのせいできれいな夜明けだった。足掛け4日大連に居続けたため、似たような写真が多い。そしてそのことが、後日PCの不調を招くことになるのだから皮肉なものだ。 ツアーは現地時間の8時スタートが多かった。日本なら9時だからさほど辛くもない。朝食は日本時間なら7時半からで、いつもと変わらない。現地時間緒の8時、ホテルの前に観光バスがやってくる。私は現地ガイドの価さんに、昨夜は部屋のバスのお湯が温くて困ったと言い、点検してもらうことにした。 ツアー仲間は22名。全員が揃うとバスは発車。第2日目はまず旧ロシア人街へと向かった。大連の旧ロシア人街は有名で、聞いたことがあるはず。明治初期、ロシア帝国が清朝から遼東半島の大連と旅順を租借しており、当時の中国では珍しいロシア建築様式を持ち込んだ。当然ロシア正教の教会も建造され、今でも幾つか残っていた。 広い道路の両側に大きなロシア様式の住宅が集中している。ここは近代建築が立ち並ぶ別世界で、中国人(満州族)の住宅は別の地区にあった。 整然とした街並みも街路樹の葉が全て落ち、寒々とした光景が続く。 ここからは翌日の1月12日。この日も観光緒バスは、まずロシア人街へと向かった。車窓から見える逆光の街並み。私はそのシンプルな美しさに惹かれ、夢中になってシャッターを切った。逆光に映えるすっかり葉を落とした街路樹。似たような写真ばかりだが、冬の中国・東北地方の雰囲気がとても良く出ている。 洋館の黒々としたシルエットと裸の街路樹の美しさ。私は逆光大好き。 この後に付録としてわが家の庭の花を載せます。<続く> わが家の花(3月20日撮影) チオノドクサ ハナニラ ボケ ヒヤシンス ミニスイセン 豊後梅(ブンゴプメ)
2020.03.27
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<大連空港で見たポスター> 旅に行くと私は色んなものにカメラを向ける。もちろん関心があるからだが、そのため撮影枚数が膨大となりバッテリー切れを起こすのもしばしば。初めての中国への旅となった1月の大連ツアーでも同様、大量の撮影がPC不調の原因となり、止む無く1500枚近くを捨てる結果となった。だが、残った写真が、今シリーズ助けてくれた。 最初は中国国際航空に敬意を表して、同社のアジア路線の紹介から始めよう。北京から各国へとたくさんの便が飛んでることが分かる。 中国国際航空の洒落たポスター。欧米風なポスターが意外だった。 「ダズ石窟の彫刻」とあるが、どこの国かは不明。チベット仏教みたいだが。 両方とも「春節のお祭り」か。中国では旧正月を祝って、長い休暇に入る風習がある。人々は一斉に移動して故郷に帰ったり、世界各地へ旅行する。それも新コロナウイルスを広めた原因となった。 いずれも大連空港の入国審査室前の柱に張られていたポスター。中国の国情が分かって面白いと考え、夢中になって撮影していたら警備の係官に怪しまれ、パスポートの提示を求められた原因となった。入国審査の前にこんなものを撮影する人はあまりいないのだろう。でも摂って良かったと思う。 ここからは同空港で見た大連市内の観光用ポスター。これは旧ロシア人街。 大連市の海岸の航空写真。なかなかのリゾート地だ。 大連の中心街で、中央に円形の公園が見える。ここは国父孫文の号を取り「中山広場」と呼ばれている。 大連郊外海岸部の公園。前方に見えるのが渤海(ぼっかい)で、黄海よりも大陸に近い。 旧満州国当時に日本が建てたものか。日露戦争で敗れたロシア人が去った後も日本人がロシア風の建築物を建てて街並みを維持した。今で全て中国人が使用している。 旧ロシア人街は目下、大連市の重要な観光スポットになっている。 海岸部の円形公園。大連は高層ビルが林立する中国有数の大都会。今回掲載したポスターのような写真を旅行客が撮るのは到底無理。懸命にポスターを撮影したお陰で、中国の国力や市民生活の実情が理解出来よう。その意味でも写真は貴重な資料だと思う。<続く>
2020.03.26
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<中国での注意点と民間外交> 人民元 中国人民元への両替は、仙台空港にある地元銀行の支店で済ませていた。旅行会社から届いた注意点の中に、中国では1)偽札が横行していること。2)偽物を土産として売るケースがあること。3)お釣りを誤魔化すケースがあると記されていたためだ。そしてポシェットの中では日本円は財布の中に、中国元は「封筒」の中と区分けしていた。その方が何かと便利なためだ。 機内食にビールが出たことに先ず驚いた。日本ではもうお目にかかれれない機内食。それが中華航空の機内で出るとはねえ。しかもビール付きで。 ささやかだが、「おつまみ」も付いていた。ないよりはマシ程度だが。 これが機内食。結構ボリュームがあったが、ほんのり暖かい程度。 おかずのアップ。内容は「私の手料理程度」だが。 あまり 美味しいとは言えないが、製造は仙台の弁当屋製だった。 注意されるかと思ったが、バレずに撮れた。あの国では何気なく撮って拘束され、裁判にかけられた日本人も実際にいた。まあ座席に機密はないと思うので、大丈夫だろうが。 仙台空港で見た航路図。こんなシンプルなら無いも同然だが。 機内のスクリーンの画像。日本海を突っ切ると朝鮮半島の地図が映り、半島を斜めに通過して黄海へ向かう航路が。韓国領空で中国機が危険な目に遭うことはないはず。そう考え安心していた。点線の先にあるのが中国の遼東半島。その突端に大連と旅順がある。やがて機窓から韓国の地上が見えた。まるで砂漠のように荒涼とした風景。ここは北朝鮮かと、一瞬間違えた。 斜め下に川が見えた。首都ソウルを流れる漢江(ハンガン)か。その遥か東方に雪を被った山々が見えた。韓国の雪山で思い出すのは冬季オリンピックが開催された平昌(ピョンチャン)。距離は相当あるが、方角的にも間違いないはず。するとその左(北西)は北朝鮮か。上空から見る朝鮮半島と南北両国(?)に興奮。 青い海が下に見えた。黄海から渤海へ入ったようだ。もう遼東半島は近いはず。注意されることなく写真が撮れたが油断は禁物。建物がある大連空港付近ではどうか。 ついに中国の地上が見えた。大連港上空は良いが、旅順港は軍港のため撮影禁止と聞いた。中華航空機は旅順港を避けて着陸態勢に入った。後日知るが、大連は真珠養殖の中心地。ただ日本と違いアコヤ貝ではなく、アワビを母貝として用いる。そのため真珠にはアワビの内側みたいな光沢があり、実にきれいで高級感があった。 大連空港に着き、入国審査室前でポスターを撮りまくっていると警備の係官が私にパスポート提示を求めた。你好(ニーハオ)と言って提示すると無事解放され入国審査係官の前へ、ここでも「你好」と「謝謝」を連発し無事入国許可。何度も中国への渡航歴がある仲間より早く、一番乗りで待ち合わせ場所へ着いた。そこに現地案内人の価(か)さんがいた。それ以降、私は知ってる中国語を全て駆使して「民間外交」に徹した。<続く>
2020.03.25
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<プロローグ その1> 今日は私の75歳の誕生日。それを記念したわけでもないが、1月に行った中国大連と旅順への旅の話を始めたいと思う。大層なタイトルを付けた割には中身がないと思う。何せその後に始めた「断捨離」が思いのほか厳しい作業となり、疲労が極限に達していた。その後徐々に回復したものの、今度はPCの不調。画像入力と編集作業が出来ないため、お手上げになっていた。中国発の「新コロナウイルス感染症」騒動も、その気にならなかった原因の一つにはなったかも。 そこで折角撮った大連の写真1日半ほどの分量を思い切って捨てた。そしたら何とか動き出し、編集が可能となった。それで大慌てで深夜まで編集作業に勤しみ、何とかシリーズを開始する目途がついた。ただカメラメーカーの編集ソフトは、マイクロソフト社のプログラム更新の影響を受けやすいことを前から警告されているため、無事にシリーズを終えることが出来るかは不確定。それでも始めた次第。 なぜ大連かと問われたら、仙台から直行便が新たに開設されたからだし、なぜ1月かと問われたら、安かったからと答えるしかない。それに海べりの大連は、寒さもさほど厳しくないと聞いたことも関係しようか。それでも持っている衣装の中で、1月の中国の寒さに耐えられそうなものを、キャリーバッグに詰め込み、3泊4日のツアーに出かけた。が、さほど期待はしてなかったのが正直なところ。 だが本当のところ、大連に惹かれた理由に2つのテレビドラマが関係していたことは確か。1つ目は司馬遼太郎原作の「坂の上の雲」。わが国が明治維新を経て近代国家として世界に打って出た端緒となった「日露戦争」での勝利を扱った歴史小説をドラマ化したもの。司馬遼太郎がなぜあの戦争を取り上げ、主人公に軍人の秋山兄弟(好古、真之)と俳人の正岡子規を選んだのか。 あの戦いの舞台がまさに大連近郊の203高地であり、旅順港だった。兄の秋山好古は陸軍の騎兵隊長として、弟の真之は後にバルチック艦隊を破る殊勲を立てた海軍の将校として、そして子規は病を押して従軍記者として彼の地に渡った。それは大国ロシアを国家的な脅威として捉えていたわが国が、必然的に戦う運命となる端緒であり、後の「満州国建国」につながる重要な手掛かりだった。 「坂の上の雲」がわが国の隆盛の証であれば、山崎豊子原作の「大地の子」は、日本の帝国主義没落の象徴とも言えよう。こちらもNHKのテレビドラマとしてお茶の間に登場し、感動しながら観ていた記憶が新しい。かつての敵地に取り残された残留孤児を扱った意欲作。孤児をわが子同然に育てた中国人教師の人間愛に涙した。一つは当時の大国を相手にした開戦と勝利、そしてもう一つはその結末としての敗戦と戦争の悲惨さを描いた力作だった。 清岡卓行(詩人・小説家)の「アカシヤの大連」、五味川純平の「人間の条件」も旧満州国に因む小説だが、名前しか知らない。静かな出だしの紀行文となったが、明日からはあまり気負わずに書ければと思う。気力と体力には限界がある。読者各位にはあまり期待しないで見て欲しい。その方が意外性があって面白いかも。出来ればアッと驚く「仕掛け」を、毎日作れたら楽しいのだが。<続く>
2020.03.24
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<大連と旅順への旅を終えて> ご無沙汰してました。1月11日(土)から4日ほど、中国の大連と旅順に旅行しておりましたが、昨夜無事帰宅しました。留守中にたくさんのコメントをいただき。ありがとうございました。帰宅直後から溜まった洗濯物の洗濯。不用品の始末、お土産の仕分け、持参したものの整理、撮影した写真1327枚のPCへの取り込み、夕食の準備とお向かいさんへの挨拶、など雑事に追われていました。 大連 今回の旅は思いのほか得る物が多く、私にはとても有益なものとなり、感謝しています。 <大連・ロシア人街> ご存知の通り大連は旧ロシアの租界地でもあり、日露戦争で日本が勝利した後は、旧満州国の主要都市でもありました。日本人が移住して満蒙の大平原を開拓し、鉄道網を敷き産業を育成した土地柄。また日清戦争の結果自由になった朝鮮人がより豊かな暮らしを求めて参集するなどして繁栄したのです。大連には旧「満州鉄道」本社はじめ日本企業が進出して、文字通り「五族共栄」が図られたのです。 <旧日本関係の建物とイルミネーション> だが、その豊かな暮らしも第二次世界大戦直前の突然のロシア参戦によって全て失い、日本人は大連から船に乗って命からがらで帰国したのです。また大連近郊の旅順には東鶏冠山、「203高地」など、日露戦争の激戦地が不幸な歴史遺産として保存されています。さて当時邦人が建築した近代的な建物群(ロシア建築物も含む)は、中国政府によって今も重要な文化遺産として保存、使用されています。 <大連の夕景> さて今回の旅の引き金になったのは、「坂の上の雲」、「アカシアの大連」、「大地の子」らの作品群でした。私には遥かに遠い明治、大正、昭和前期でしたが、やはり訪れて良かったです。我々の父祖の足跡を辿るだけでなく、あの戦争を中国の国民がどう受け止め、日本人にどんな感情を抱いているのかを肌で感じた旅でした。今回日本の一市民として、私たちなりの「民間外交」が果たせたのではと信じています。 正直、大連のホテルはまだ未整備です。仙台―大連の直行便就航で今回初めて彼の地を踏みましたが、観光もそして中日友好もこれからでしょう。しかしこれまでTVでしか知らなかった中国の市民と接し、彼らの本音と実態に接することが出来たのは貴重でした。こんな小さな触れ合いで互いの誤解が解け。やがて相互理解へとつながれば、嬉しいですね。 今回持参したデジカメが2台ともバッテリー切れで最後まで写せませんでした。またPC に取り込んだ写真の整理にも相当の時間を有することでしょう。留守中にいただいたコメントへの返事もまだしておらず申し訳ありませんが、今は疲労回復と日常生活への復帰を優先します。失礼の数々は、どうぞお許くださいませ。とりあえず帰国を報告し、ブロ友さん、読者の皆様への御礼に代えさせていただきますね。では、おやすみなさい。そしてお早うございます。你好(ニーハオ!!)。
2020.01.15
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~宇奈月温泉から帰途へ~ 宇奈月温泉の説明板ですが字が小さ過ぎますね。江戸時代の正保2年(1645年)に発見されたとあります。 「地鉄」(富山地方鉄道)宇奈月温泉駅の駅前にある温泉です。噴水の代わりに天然温泉が噴き出しています。 夜の同じ場所です。 懇親会会場に向かう際に立ち寄った酒屋さん。富山の地酒が揃っています。 いかにも高級そうな日本酒ばかりです。 お店の人と盛り上がる多幹事のT田さんも富山県民です。 夜の温泉街(以下同様) 懇親会会場になった小料理屋さん。 店内の様子。 宿の部屋に落ち着いた後もなお懇親会は続きます。絶好調の各人。 翌朝の朝食です。朝食対1泊で5千円の超安価で、助かりました。 ホテルの前で記念撮影です。皆さん案外元気でした。この後解散し、Hさんはトロッコ列車へ。私、S先輩、N田さんは地鉄で「新黒部駅」へ向かいます。 トロッコ列車が見えています。 私たちが乗った急行「アルペン号」終点は立山駅ですが、私たちは「新黒部」で下車します。所要時間んはこうど30分でした。 新黒部駅は北陸新幹線の「黒部宇奈月温泉駅」と連絡しており、私はここでお土産とお弁当を買いました。お店の女性は私が走った「立山登山マラニック」のことも知っていたので嬉しかったですねえ。 長野まで私はS崎先輩と自由席で相席していました。先輩はそのまま東京まで行かれたと思いますが、私は長野で下車し、長野新幹線に乗り換えました。埼玉県の熊谷で下車するためでした。 長野新幹線の車中で、私は富山名物の「ぶりの寿司」をいただきました。20年ぶりくらいだったでしょうか。醤油をかけたので汚い画面でスミマセン。脂が乗って、やっぱり美味しいですねえ。 熊谷で下車し、ローカル線の高崎線に乗り換えて、行田で下車。そこからタクシーに乗って、「さきたま古墳群」にある博物館に向かいました。そこが旅の第2日目の目的地だったのです。その話は改めて別のシリーズで紹介する予定です。このシリーズは目先を変えてもう少し続きます。<続く>
2019.12.22
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~思い出の地富山~ JR富山駅前です。ここに立つのは4度目でした。最初は40年前、新設の富山医科薬科大学へ出張した時。確か路線電車に乗ったはずです。2番目から4番目までは「立山登山マラニック」を走った時。2番目3番目は駅の地鉄ホテルへ泊まり、4番目の時は、地鉄立山駅近辺のホテルへ泊まりました。 富山市中央部の地図です。駅から真っ直ぐに東へ向かえば富山城があるようですね。土地は平坦で、路線電車が走っていて便利です。海も山もある富山は温泉と豊かな自然に恵まれた観光地でもあります。 ここからは駅に掲示されていたポスターの紹介です。ここは北アルプスの立山。御厨が池(みくりがいけ)から見上げた雄山(3003m)山頂に立山神社の奥宮があり、私が走った「立山登山マラニック」のゴール地点です。でも再び下山して、この池の傍にある「雷鳥荘」まで自力でたどり着くのがルールです。春夏秋冬どの季節も目を見張るほどの絶景で、とても忘れられない風景です。 ここは「雪の大谷」周辺。毎年ゴールデンウイーク前にアルペンルートの除雪をすると、必ずニュースに出て来るのがここです。歩くことも出来ますが寒いですよ、ここで標高2500mはありますから。 先ほど紹介したみくりが池から見た雷鳥沢と立山の雄姿です。 雪の雷鳥沢です。冬の降雪が万年雪になって、8月にも残っています。私がレースで走った時も、一部に雪が残っていました。夏の頂上は氷点下になることもありますから、ランナーも登山の経験が求められますし、ある程度の装備は必要です。山の天候を甘く見てはいけません。 ここは弥陀ヶ原です。称名の滝を見上げながら八郎坂を登って来ると、ここに着きます。こちらはルート左方の湿原ですが、マラニックのコースはルート右側の湿原内の木道を走ります。池塘(ちとう)にワタスゲがそよいでいます。称名も、弥陀もすべては仏教用語。立山は山岳宗教の聖地で、大日岳などは山伏たちの修行の地でした。あの険しい剱岳でさえ、乏しい道具でよじ登っていたのですから驚きです。 ここは高岡市の雨晴らし海岸です。真っ白の雪を抱いた立山連峰が遠望出来ますね。私はここも「高岡万葉マラソン(ハーフ)で走りました。ちょうどコースになってるのですが、後ろを見ながら走るのは無理ですね。右手奥の島には、義経伝説が残されています。安宅関を通り、奥州平泉を目指す、義経弁慶主従が難渋しながら、逃げ延びて行ったんですねえ。 この風景も私にとっては懐かしいものです。雷鳥沢の左奥には剱岳の威容が続きます。このホテルを見ながら、ラストスパートをかけましたが、何せ勾配がきついのですよ。室堂までは残り3km弱でしょうか。そしてチェック後に雄山山頂を目指すのです。 雄山山頂とありますが、山の形からこれは剱岳(標高1999m)でしょう。私は映画「剣岳点の記」を見ましたが太古山伏が修行のために登った形跡が錆びた錫杖(しゃくじょう)の発掘で分かった時は驚きでした。何せこの山は重装備をした山のベテランでさえも難しい厳しい地形の山なのです。毎年滑落死者が出るくらいです。後ろは長野の山々です。 秋の「黒部アルペンルート」です。私が登山マラニックで走ったのはまさにこの道でした。極力観光バスの邪魔にならないようにコースを設定してるのですが、どうしても一部は利用せざるを得ませんね。でも良い思い出ですよ。 とてつもなく深い峡谷である黒部渓谷沿いに走るトロッコ列車です。元々は黒部ダム建設工事のための資材を運搬するためのものでしたが、今は観光用になっています。ここは宇奈月温泉駅付近ですが、駅からは見えません。私も一度終点の欅平(けやきだいら)まで往復したことがありました。 除雪直後の黒部アルペンルートです。 「黒部立山アルペンルート」の概略図です。富山県側から長野県大町市まで、観光バス、トロリーバス、ケーブルカー、ロープウエイなどを乗り継いで縦走する、雄大な観光コースです。黒部ダムも眼下に見下ろすことも出来ますし、「黒部の太陽」の「高熱隧道」の雰囲気も体感出来ますよ。 ほらね。ロープウエーから北アルプスの見事な紅葉を見下ろせるでしょ。 黒部のトロッコ列車。良いでえすのう。翌朝岡山のHさんは早速乗りに行きましたぞ。 これは黒部市の海岸にある生地と言う地区から雪の立山連峰を眺めた図じゃ。壮観じゃのう。山の上から上がっている白煙は一体何じゃろのう。それにしても見事じゃ。 そんなわけで皆々様方よ、どうぞ富山に来てくだされよ。マックス爺さまがPRしてくれて今日は助かったぞい。何?私の名前じゃと。ご当地キャラの立山くんぞよ。では頼んだぞ皆の衆。<続く>
2019.12.21
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~悪友達との集い~ 東北新幹線の中ではJR東日本のPR誌を読んでいた。上杉景勝の部下で、名将の誉れ高い直江兼続の記事に興味を引かれたためだ。何年か前の大河ドラマの主人公になった人物で、「愛」の字の前立ての兜を被っていたのがとても印象的だった。東北は晴れていたのに、関東に入るとどんよりとした冬空に変わった。大宮での乗り換えは10分しかなかったが、何とか間に合った。 北陸新幹線の車中ではこの日の新聞と新聞の俳句欄を読んだ。初めて乗る北陸新幹線。久しぶりの碓氷峠を越えて、長野県へ。長野市を過ぎた辺りで、水害で水没した車両基地が見えた。その先からはトンネルばかりで、糸魚川市の姫川もはっきりしなかったのが残念。そこは縄文時代からの翡翠の産地で、北は青森の三内丸山遺跡、南は沖縄県にまたがる広い範囲で伝わっていたのだ。 富山には定時に着いた。何年ぶりの富山だろう。多分10年ぶりくらいのはずだ。本当は「黒部宇奈月温泉駅」で降りたら幹事役のT氏が車で迎えに来てくれてb便利なのだが、あえて「富山地方鉄道」に乗る道をえっらんだ。駅の路線図を見ると、宇奈月温泉までは41もの駅があり、2時間20分ほどかかることが分かった。それでも私は後悔はしなかった。 これが私が乗った列車で2両編成。トイレはついてない。さて2時間20分間、耐えられるかどうか。そんな心配を他所に、電車は定時に発車した。さて、運命はいかに。 私が「地鉄」に乗ったのは、この川を見るためだった。川の名は「常願寺川」。水源は立山連峰で、河口は富山市の浜黒崎。私はウルトラランナーだった頃、この川に沿って走り、立山の雄山山頂(標高3003m)までの「立山登山マラニック」に2度出たことがあった。残念ながら懐かしい立山連峰は分厚い雲に覆われて見えなかったが、この懐かしい川と再会することが出来た。距離65km。高低差3003m、制限時間11時間(後に10時間)の厳しいレースだったが、今なお忘れられない思い出だ。 宇奈月温泉駅に着いてから、宿への道が分からず、約束の集合時間には若干遅れた。チェックインして部屋に行くと様子がおかしい。何と4人がドタキャンした由。それで恒例の麻雀大会が出来なくなった。私はそれでも良かった。かつての悪友や大先輩のSさんらと1年ぶりに再会して酒を飲み、天下の名湯「宇奈月温泉に入れたらそれで十分。そして酒盛りは既に佳境に入っていた。 ドタキャンにも事情があったのだろう。老化に伴う不調や家族のこと。そして今回は「北陸新幹線の減便と臨時ダイヤと言う事情も大きかったのだと思う。もう麻雀大会は無理で、来年は東京で飲み会中心で行うことに決まった。これで少しは集まりやすくなるはずだ。北は私の仙台が最北で、南は岡山のHさんが最最南。移動距離も長く、経費もかさむのだ。たかが悪友の同窓会にそんなムダ金は使えない。 懇親会は温泉街の小料理屋で夕食を兼ねて。そしてホテルは全員同じ部屋で雑魚寝。私とS先輩はベッドを選んだが。こうして宇奈月の夜は更けて行った。酒は富山の美味しい地酒。魚は富山湾で獲れた「きときと」の一品。酒が進まぬわけがない。私は酔って、折角の料理も全部は食べられなかったのが残念。 さすがに温泉は良かった。私は安心してグッスリ眠れたのだが、「鼻呼吸テープ」を持参しなかったためにいびきをかいて迷惑をかけてしまったようだ。朝も温泉に入り、朝食は宿で摂った。宿代と懇親会費で1万円は安く上がったのではないか。幹事のTさんお世話になりました。 不調なPCを騙し騙し、何とかブログを更新出来ました。この調子で、続けて頑張りたいと思っています。なお、「お気に入り」が上手く動かず、ブロ友さんのところにたどり着けない状況にあります。努力は続けますが、事情をお察しいただけたら幸いです。ではまた。感謝を込めて。<続く>
2019.12.20
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~出雲大社の境内にて~ <ポスターにあった拝殿の写真> 飛び飛びになったがこれが3度目の出雲大社の紹介。最後に残った写真がすべて出雲大社関係なので、ここからは休憩を交えず一気にゴールを目指したい。果たして息が続くかな。 拝殿の内側から参道方面を見るとこんな感じ。不思議な光景だが、境内の雰囲気がつかめると思う。この注連縄は毎年複数の信者さんからの寄進。自分たちの田んぼで育った稲わらを使う由。 広い建物の内側を撮影。こうして見ると建物の中にも狛犬が鎮座しているねえ。 これは本殿の横にある建物。質実剛健の気風を感じる。本殿の屋根に、千木だけが微かに見える。 建物の飾りの透かし彫り。これは菊の花か、それとも波なのか。 広い境内を現地のガイドさんに連れられてひたすら歩いた。後で境内の図面を見たのだが、どこがどこかは不明のまま。ともあれ、その広さと荘厳さを味わっていただけたら嬉しい。 社殿から神職が出て来られた。どうやら男女のようだが、袴の色は一緒。この出雲大社では神職にも厳格な約束事があり、身分によって袴の色が異なるようだ。赤袴の巫女さんは一番下で、この水色はその上の位。最上階の神職は出雲国造の末裔の千家(せんげ)家で、黒い装束を身に着けている。 上の写真を引き伸ばしたもの。 背後の山が八雲山。物の本によれば、この山こそがご神体で、禁足地になっている由。そして山麓に素鵞社(そがのやしろ)と言う小さな社があるそうだ。 <出雲の素鵞社:ネットから借用した> 西を向いて建っている本殿。西の方角には日本海があり、引佐(いなさ)浜と呼ばれる海岸がある。古い社殿は浜辺から長い階段でつながっていたようだ。それは一体何を表すのだろう。明日からは出雲大社の謎に迫って見たいのだが、果たして首尾良く行けるかどうか。 大理石の壁に境内風景が写り込んでいるのを撮り、急いでバスに乗り込んだ。<続く>
2019.12.13
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~サヨナラ砂の美術館~ さてこれまで4回に亘って紹介して来た鳥取砂丘の「砂の美術館」も今日が最終回。最後のひと踏ん張りと言ったところだ。今日の冒頭を飾るのは「コナーラクの車輪」。インド東部のコナーラクにあるスーリア寺院は、13世紀ごろに建てられたヒンドゥー教の寺院。インド神話の太陽の神であるスーリアは7頭立ての馬が引く戦車に乗って天空を駆けると信じられている。寺院そのものを戦車と見なしている由。 作者はインド人のスダサン・バタナイク。彼は10歳ごろから砂像彫刻を始めて25回以上の入賞歴があり、現在はインドのサリー市で砂像芸術学校を開設している。 タイトルは「仏陀の出現と悟り」。紀元前5世紀。ネパールの釈迦族の王子として誕生したゴウダマ・シッタルダは、ある時生老病死について自問するようになり、その答えを得るため出家する。長年の苦行を止め、菩提樹の下で瞑想していた時ついに悟りを開いたのです。作者トーマス・クォートはアメリカ人でオランダのデルフト工科大学卒業。 悟りを開いた仏陀の顔の何と清々しいことか。それをアメリカ人美術家が創作したことに驚く。 仏陀は現在のインド北部を中心にして広く仏法を広め、雨期には1か所に留まって説法した。その拠点が祇園精舎だった。45年間仏法を説いた仏陀は80歳の時にインド北部クシナガラの沙羅双樹の下に横たわり、最期の時を迎えた。後の時代に描かれた涅槃図には、大勢の弟子と共に仏陀の死を嘆き悲しむ動物たちも描かれている。 アフガニスタンにあるバーミアンの大仏で世界遺産だった。1世紀ごろから石窟仏教寺院が造られ始め、5、6世紀ごろには高さ55mと38mの大仏を含む巨大仏像が彫られ、栄華を極めた。「西遊記」のモデルとされた玄奘三蔵もこの地を訪れたと伝えられている。2001年。過激派のタリバンによって爆破され、元の姿が見られなくなった。中国人のヤン・リドン制作で、彼は山東芸術学院の卒業。 西の大仏(上)の方が東の大仏(下)よりも大きく、設置場所が少し離れているため作品のように2体が一緒に見えることはない。 さて、アフガニスタンにおいて医療や井戸掘りなど、復興支援と住民の生活向上に深く関わって来た日本人医師の中村哲氏(73歳)が、現地で過激派に発砲され死亡しました。氏の長年にわたる献身的な活動とその死を悼み、心から哀悼の意を表します。 この砂像の紹介を忘れていました。他の写真に紛れていたためです。これは確か「ムガル帝国の行進」の一部だと思います。失礼なまま「砂の美術館」の紹介をこれで終わります。<続く> マリア・テレサ像前の自分 しかし世の中には大変な芸術があるものですねえ。「砂の美術館」見直しました。凄いです。
2019.12.10
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~足立美術館の日本庭園~ 主に山陰を巡った旅日記も20回目となった。そろそろゴールが見えて来た感があるが、最後まで油断は出来ない。さて今日は過去2回に亘って紹介した「足立美術館の日本庭園」の最終回。もう全部吐き出しての大盤振る舞いだ。 しかし、ここは凄いところだ。背後の山を借景とするため、全部買い占めて美術館所有にしたと言うのだから、その意気込みが分かろうと言うもの。つまり借景に変化が生じてはいけない。そのため借景ごと管理し、不動の景観を維持しようと言うわけだ。 足立美術館の日本庭園へ入場者が足を踏み入れることは出来ない。ほとんどの景色は館内のガラス越し、窓越しに鑑賞するのがルール。だから観客は、まるで「額縁」に入ったような庭園を観ることになる。 ほらね、これなんかがそう。でも観客が不満を持つことはない。毎日のように丹念に手入れされた庭園の美が、その欲求不満を上回るのだろう。 専属の庭師が20名以上勤務してると聞く。だから庭園にはゴミどころか枯葉一枚落ちていない。それだけ開園前の整備が厳しい証と言えようか。 良く見ると背後の山の中腹から滝が落ちているのが分かる。庭はその自然の一部。創設者はそう言いたかったに違いない。 庭の一木一石に何一つ落ち度がなく、整然と治まっているのが凄い。まさに静謐そのものだ。 私たちがここを訪れたのは10月末。山陰の平野部にも、ほんの少しだけ秋が訪れたみたい。 レストランの横に池があり、来館者はそこまで行くことが出来る。 10月末と言うのに、スイレンの花が咲いていた。 そして良く太った鯉が悠然と泳いでいる姿は、まるで一幅の日本画を見るようだ。 敷き詰められた白砂と飛び石の配置が心憎い。 美しいものを見ると人は誰もが寡黙になり、庭は自然の一部と化す。 建物の外に出るのを許された場所に佇む無言の観客たち。その姿を撮る私も観客の一人だ。 名物「額縁庭園」を最後に、足立美術館日本庭園の紹介を終えることとしたい。<不定期に続く>
2019.12.05
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~山陰の自然と花々~ 今回はバスの車窓などから見た山陰の自然と、散歩中に見た花々のコラボレーションをお楽しみいただきますね。これはご存知鳥取砂丘。とても殺伐とした風景です。散歩に行ったグループは、ラクダがいたと話していました。私はその時間「砂の美術館」をオプションで観ていました。 鳥取の山々が霞んで見えました。この国道9号線を同じ走友会のO川さんが「本州縦断フットレース」(1520km)を28日間で走破したのです。旅の途中私はそれを思い出し、彼の苦労を偲んでいました。 これは鳥取県の天神川だったかなあ。 バスの車中から、馬鹿になったように大山(標高1729m別名伯耆富士)を撮影していました。以下同様ですが、似たような写真で済みませんね。 大山山頂付近では崩落現象が起きていて、現在登山道の一部が閉鎖されています。 皆生温泉の朝の散歩で観た豪円山(標高892m)。以下同様。 右手奥の方に大山がうっすらと見えます。 鳥取のたおやかな山並みに朝日が映えて。 美しい朝焼けの中に、豪円山(左)と大山(右)が並んでいます。 鳥取砂丘で見た野草。上から野菊、ノゲシ、アキノキリンソウかな。 出雲大社拝殿前の懸崖作り(左)と出雲市内の三本仕立て(右) 皆生海岸のツワブキ(石蕗)が満開でしたよ。<続く>
2019.12.04
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~さらば姫路城~ 上は弓を射るための弓狭間(ゆみはざま)で、下は格子です。姫路城紹介の最終回は、こんな意匠から始めますね。それぞれの機能をしっかりと果たしながらも、そこに日本人の美意識を感じます。 自然光を最大限に活用しています。しかしこれだけ風通しが良いと、冬は寒いだろうねえ。 城は質実剛健そのもので、モノクロの世界には厳しい美しさがありますね。 創建当初からの格子の内側に、管理のための近代的な窓が重なり、不思議な美しさを醸し出しています。 5層の天守を支える柱が林立し、大きな窓から光が射し込む広い廊下。これが城内とは思えませんね。 5層を貫く2本の柱のうち、こちらは東の大柱です。基礎部分には固定されず、五重塔同様耐震構造になっていて地震の揺れを吸収しています。 最上階、第5層目は屋根を支える柱が丸見え。男性的な美とでも言いましょうか。 柱が男性的美なら「釘隠し」は女性的な美でしょうか。釘が見えないよう装飾金具で隠しています。 最上階に祀られていた神社です。きっと藩士達にとっては、心の拠り所だったのでしょう。 下り専用の順路を通って天守閣から外へ出て来ました。改めて美しい天守を見上げます。 一旦この門まで行って、再び備前丸へ戻って来ました。その理由は・・ この「お菊井戸」を観るためでした。「播州皿屋敷」に出て来るあの井戸です。奥女中のお菊は粗相して大切な皿を割ってしまいます。そのためこの井戸に身を投げて死ぬのですが、夜な夜な井戸の底から「一枚、二枚・・」と皿の枚数を数えるお菊の声が聞こえて来たと言う、例の怪談話の井戸がここなのです。私も財布の中の紙幣を数えました。「一枚、二枚」。私の場合はとても簡単で、直ぐに終わりました。 西の丸の化粧櫓は千姫が城下の天満宮を遥拝する時に休憩したと伝わる美しい櫓です。 ここも見学したかったのですが、バスの発車時間が迫っていたため、残念ながら外からの観察だけに終わってしまいました。 千姫付きの奥女中が寝起きしていたと伝わる「百間廊下」です。 最後に天守閣を振り返って天下の名城姫路城(別名白鷺城)とお別れしました。<続く>
2019.12.03
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~鳥取砂丘・砂の美術館その4~ 毎日せっせとブログを書いているうちに、とうとう12月になりました。主に山陰を巡った今回の旅日記も今日で16回目。残りはあと10回と言ったところでしょうか。さて今日のトップの画像は昨日紹介しそびれたスリランカのシギヤロックのフレスコ画の一部です。熱帯のジャングルのような趣がありますね。今日も最後までよろしくお付き合いくださいませ。 アフガニスタン北部にあるブルーモスクはハズラト・アリー廟の一角にあり、7世紀半ばに活躍したしスラム教の指導者の霊廟として1512年に建築されました。壁一面にコバルトブルーのタイルを張りつめたことから「ブルーモスク」の愛称があります。作者のギー・オリヴィエ・ドヴォはカナダ人でラヴァル大学卒業です。 どうやらこの人がイスラム教の指導者、アリー・イブン=アビー=ターリブみたいですねえ。彼はスンニ派とシーア派の双方から公認された唯一の指導者みたいです。 カジュラホ遺跡はインド中部にあるヒンズー教とジャイナ教の寺院群で10世紀初頭から12世紀末にかけて建造された世界遺産です。砂岩の外壁には無数の浮彫彫刻が施され、男女交合を表したミトナ像が有名みたいです。作者のダン・ベルチャーはアメリカ人でカンザス州立大学の卒業です。 この砂像はヒンドゥー教の神話をモチーフにしています。バラモン教とインド土着の信仰とが融合したヒンドゥー教は多神教の宗教。ブラフマー、ヴィシュヌ、シヴァの三大神は、それぞれ宇宙の創造、維持、破棄を司るとされています。作者のドミトリー・クリメンコはロシア人で、サンクトペテルブルク州立美術大学の卒業です。 インドの世界遺産タージマハルは、ムガール帝国第5代皇帝シャー・ジャハーンが愛妃ムムターズ・マハルのために建てた総大理石造りの美しい霊廟です。最高級の宝石などを用い、22年の歳月を要して建てられた世界一美しい建物と言われています。作者のレオナルド・ウゴリニはイタリア人でフローレンスで建築学を学び、『世界一美しい砂の建築物』の著者でもあります。 皇帝と妃の美しい愛の砂像が心をゆさぶりますね。 ムガール帝国軍の行進は、ロシア人でモスクワ州立芸術大学を卒業したイリヤ・フェルモンツェフの制作によるもの。インド最大のイスラム国家ムガールは先祖に当たるモンゴル帝国が名の起りで、16世紀初頭から19世紀半ばまでの300年以上続いた大帝国。彫像は軍馬や軍人を表しています。 今日の彫像もなかなかの出来。とても砂の彫刻とは思えないですね。紹介するのもなかなか大変で、この作業がとても疲れるのですよねえ。<続く>
2019.12.01
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~鳥取砂丘・砂の美術館(3)~ 茫漠たる鳥取砂丘の一角に「砂の美術館」がある。鳥取砂丘の砂を使った巨大な彫刻が「売り」だ。これまで3回に亘って紹介したが、今回はその残り。少しずつ写真を消化し、終焉に向かおうと言う魂胆なのだが、たかが「砂」と侮ってはいけない。 ラドヤード・キップリングが書いた小説『ジャングルブック』がテーマ。オオカミに育てられた少年モーグルの話を中心に、南アジアに生息する6種類の動物が登場する。彫刻の作者はオランダ人のシャーロット・コスターで、彼女はオランダ美術アカデミーの卒業。 これはインドのジャングルに棲む虎。 ネパールの古都、バタンのダルバール広場。ヒマラヤ山脈を背にした古都には旧王宮があり、広場に面してヒンドゥー教や仏教の寺院がある。作者はリトアニア人のアンドリュース・ペドクス。 古都の広場と大通りを行く人々。 ブータンのチベット仏教の聖地であるタクツァン僧院は標高3千mの断崖絶壁に、張り付くように造られている。タクツァンは現地語で「虎の住み家」を意味し、1692年に建造された。彫刻の作者はアメリカ人のスー・マックグリュー。南カリフォルニア大学卒業。 一定のエリアにたくさんの像を入れ込んでいること、前後左右往復しながら撮影していることなどから、2回同じものを撮ったり、タイトルとは無関係の砂像を撮ることがあります。上もその中の一つですが、事情をお察しいただけたら幸いです。 ジャングルの中から忽然と現れるスリランカのシギリアロックは5世紀末に建造された王宮で、世界遺産。現地語のシンハ・ギリ(獅子の山)が転じて現在の呼び名になった。ライオンが背後の王宮を守っているように見えることからの命名。作者のジル・ハリルはアメリカ人でセントラルフロリダ大学卒業。 ふくよかな体形の女神はヒンドゥー教の神だろうか。砂の像は壁画を模写したもの。<続く>
2019.11.30
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~旅の写真の中から~ 「頭隠して尻隠さず」ではないが、仙台空港のJAL機である。まだまだ書きたいことや話したいことがあるのだが、そろそろ旅の話に戻らないと読者の皆様からお小言が来る頃。そう思って「軽い」話題で復帰しようと思う。先ずはのんびり旅の気分を味わってほしい。 伊丹空港に着くと、わたしたちを待っていたのはこのバス。大阪府泉南のあじさい観光バスとか言っていた。車体には淡い色の紫陽花が描かれ、このバスに乗って3日間移動したのだった。バスガイドさんはとても賑やかな人で、出された問題にはほとんど答えて正解でした。 バスは知らない道を通って日本海へ向かった。最初のトイレ休憩で止まったSAにあったのが「丹波黒豆」。昔から丹波(たんば=兵庫県の南半分)は黒豆の産地として有名だ。この黒豆の枝豆1把千円ほどだったと思う。第一日目は名勝天橋立(京都府)を見学し、夜は神鍋高原(兵庫県)に泊った。 第2日目は先ず鳥取砂丘を見学し、次に安来市(島根県)にある足立美術館を見学した。写真は昼食時に出た「どじょう定食」。右上に見えるのが可愛い2匹のドジョウ。写真には見えないが鍋にも可愛いのが2匹入っていた。わたしが子供の頃に食べたドジョウはもっと太くて骨ばり、土臭い味がしたものだが、今回食べたのはまったく味がない。それでも食べられない人が何人かおり、エビに代えてもらった由。 バスの車中から見た出雲市内。川の名は「堀川」と読め、出雲市役所などの地名が見える。出雲大社はもう直ぐそこで、門前町に入るとJRの駅と私鉄の駅が見えて来る。 出雲大社付近の道路のマンホールのふた。一見してこれは日御碕(ひのみさき)灯台だと分かった。以前そこにも行ったことがあり、立派な日御碕神社の社殿を観た記憶があった。 翌日の都合上、その日は米子市の皆生(かいけ)温泉(鳥取県)に泊った。朝は兵庫県を出発し、鳥取、島根、鳥取と移動した。皆生温泉に着くころには夕暮れが近づき、車窓から見える空には残照が輝いていた。 雲間に顔を出す夕日。もう皆生温泉が近い。この夜は飲み放題とカニ付きの夕食だったが、私は焼酎1杯ユズ酒1杯で十分だった。この夜も和牛をいただく。 恵比寿さま、大黒さまのニコニコ顔と皆生温泉のお土産もの。 旅の第3日目。姫路に向かう車中で配られたお弁当。これはオプションで1150円。お茶付かず。味もまずまずで、お年寄りにはちょうど良い量だった。 この日は国宝であり世界文化遺産の姫路城を見学して伊丹空港へ。ここから東北各地の空港に別れて出発。帰路もJAL機。背後にうっすらと見えるのが六甲山脈の東端。 往復ともに窓側だったが、いずれも翼の横。まあ飛行機には何度も乗ってるので、さほど残念と言う気持ちはない。 雲の上はまあまあ晴れていて、雪を被った富士山が見えました。「小吉」くらいかな。 仙台空港の夕日です。無事着陸し、3日ぶりにわが家へ帰って来ました。ヤレヤレ。<続く>
2019.11.29
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~日本三景の一つ・天橋立~ 旅日記の第13回目にして、ようやく最初の訪問地である「天橋立」(あまのはしだて)を紹介することにした。理由は特にないが、私の直感に従ったのだ。少なくても25回分にはなるであろう旅日記を、読者が飽きないように書き続けるのは至難の業。自分も楽しめてかつ読者も楽しめる旅日記の在り方。それは旅から帰宅するその都度ごとに、私が考えるテーマでもある。 天橋立に着くころには、秋の陽が大きく傾いていた。秋の夕暮れは早い。その上、ここまで来る道が曲がりくねり、いつもなら方角を間違えることが少ない私が、どちらがどちらだか分からなくなった。だが考えて見れば太陽が沈む方が西に決まっている。そこで、この周辺の地図を頭の中で思い描いてみる。 ケーブルカーで山に登るにつれて、眼下に美しい風景が広がって見える。ほら、太陽はあちらだ。するとそっちが日本海の方向で、左側が宮津湾の内海の方向なのだろう。 ほらね、これが天橋立。昔の人は天に上るための梯子が途中で倒れたのがあの細長い松林になったと考えたようだ。でもこの砂州(さす)は川の砂が徐々に堆積して出来た地形で、初めからこんな奇異な形だったわけじゃないのだ。それに美しいあの松原も、人々が苦労して移植した結果と聞いたのだが。 この細長い島はね、向こう岸まで続いているんじゃないんだよ。途中で切れたところに橋が架かっていて、その下を船が通れるようになっているんだ。そしてこの細長い砂州には道路があって、緊急時には救急車などが通れるだってさ。そして小さな神社やお寺もあるようだ。 ここにはちゃんと「股覗き」の場所があるんだよ。私もやってみたけど、カメラの位置が低くなるもんだから、草がじゃまになって見える風景はさほどでもない。それにフラフラして、姿勢が安定しないのも私にとっては困ったものなのさ。 頂上の一角にはこんな場所があった。冠島と沓島(くつじま)の遥拝所らしいんだ。内海の小島に籠(この)神社の摂社があるみたいなんだけど、それが良く見えなくてねえ。 由緒書の一部を拡大したんだが、どうにもボケて見えづらいねえ。まあ漁師たちが豊漁を祈ったとでも解釈しておこうか。 これがどちらかの島かも知れないねえ。ぼんやりとだけど島影が写っているよ。 頂上にあった枯葉の💛と「かさぼう」の石像。ここは笠山と言う名の山なんだよね。 ケーブルカーで山を下りた私は走ってある所へ行ったのさ。これはその後に撮った海でね、船の後ろの松林が天橋立なの。もうちっともきれいじゃないよねえ。 日本海方向を見るとこんな感じかな。この地であった不思議なことはまたの機会にね。<不定期に続く>
2019.11.25
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~出雲大社のある風景~ さて皆の衆、今日も出雲大社の紹介ですじゃ。と言ってもなかなか本殿へは近づけなくて、こんなポスターで我慢してもらおうと言う魂胆なんじゃよ。 これは拝殿。昨日も紹介したが、本殿よりも大きいのは罰当たりじゃろうかのう。おっほっほ。 ほれご覧。神事を司る神職がようけおるのう。それも色んな色の衣冠を着けとるぞ。これもきっと位を表しとるんじゃろうのう。権宮司(ごんのぐううじ)である千家國麿さんは元皇族の高円宮典子さまを娶(めと)られておるが、旧出雲国造の千家(せんげ)家は黒い装束だそうじゃ。立派じゃのう。 誰じゃね、アスファルトをこんなところに置いたのは。はは、冗談冗談。これはのう細石(さざれいし)と言うて国歌にも詠まれたあの石じゃよ。君が代は千代に八千代に細石の巌(いわお)となりて苔の生すまで。これがやがては苔生した立派な岩になるんじゃよ。なに、信じられないとな。この罰たり者めが。 ほっほっほ。これをご覧。令和元年の今年、新天皇のご即位を祝って、こんな立て看板が出ていたんじゃよ。 広い境内には善男善女が奉納した絵馬が、所狭しと掛けられておった。それにたくさんのお御籤(おみくじ)ものう。ふぉっふぉっふぉ。 そしてご朱印の受付所がこちらじゃよ。最近はどうもブームになっとるようじゃのう。 ところで肝心のご祭神を知っとるかのう。大国主命(おおくにぬしのみこと)様じゃ。またの名を大物主(おおものぬしのかみ)とも言われておる。また大黒様(だいこくさま)と言う名もあるのう。ほれ、あの歌があるじゃろう。「大きな袋を肩にかけ大黒様が来かかると、そこへ因幡の白兎皮を剥がれて丸裸」。なに?知らんじゃと。わしも歳を取ったのかのう。 出雲大社は縁結びの神としても崇められておるぞ。出雲空港の愛称は、「いずも縁結び空港」なんじゃよ。これ本当のコトアルヨ。 門前町 昔からここは出雲大社の門前町として栄えて来たんじゃ。JRの駅も私鉄の駅もあるぞ。県立の博物館も直ぐ近くにあるんじゃよ。名前は確か「島根県立古代出雲歴史博物館」じゃったかな。長い名前なのでベロを噛みそうじゃがの。ふぉっふぉっふぉ。 そしてお土産には何と、勾玉(まがたま)の石を売っとるんじゃよ。さすがは神様が集まる出雲大社だけあるのう。ふぉっふぉっふぉ。そうそう、島根県には玉造温泉と言う名湯がある。昔から勾玉などを造っとったことが地名からも分かるじゃろうて。 亀山の松の木 さて最後に紹介するのは出雲大社の東側にある亀山じゃ。何とこの山のてっぺんには、鳥が飛ぶような形をした松の木が植わっておったんじゃ。珍しいから撮ったが、残念ながらピンボケじゃのう。トホホ。<続く>
2019.11.24
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~縁結びの神・出雲大社その1~ <大きな絵馬型の境内案内図> いつになったら出雲大社が出て来るんだ。そんなkazuさんの声が聞こえて来そうだ。だが焦らしているわけではなく、実に周到に掲載の順番を計算しているのだよねえ。どんな風に旅のお話を進めて行けば一番効果的か。そしてどんな風にしてエンディングを迎えるか。旅の紀行を書くたびに、私はそう思いながら構想を練っている。さてバスを降りた駐車場に、一人のおばちゃんが待っていた。 その人が境内を案内するガイドさんだった。いかにもベテランらしい態度で、毎日大勢の観光客を案内しているのだろう。言葉には訛りがなく、「立て板に水」の説明ぶり。出雲大社には独特の決まりごとがあるみたいで、「反時計回り」に巡拝する。ここは拝殿でも本殿でもなく「神楽殿」なのだが、あまりにも立派な注連縄(しめなわ)に驚く。背後の山は素鵞(そが)山。古代豪族の蘇我氏に通じるのが不思議。 突然だがこんな女性を登場させた。名前は出雲阿国(いずものおくに)。元々は出雲大社の巫女さんだったが、やがて京へ上って舞を生業(なりわい)とし、後に歌舞伎の祖と称されるほどになった実在の人。舞は神事にかかせない存在で、神を喜ばせ、神を地上に招く要素があるのだろう。神がかりする卑弥呼にもつながると感じるのは私だけだろうか。 出雲国造の末裔で出雲大社の神事を司る千家の社殿も堂々たるものだ。 「松の参道」の落ち着いた風景。 松の参道から四之鳥居越しに拝殿を観る。後方の山は八雲山。 参拝前に口を濯ぎ手を清める手水舎(ちょうずしゃ) 遥かに拝殿を仰ぐ。ここにも出雲大社特有の重厚な注連縄が治まっている。 どっしりとした二重の屋根。注連縄は大蛇を表したものと言われるが。 拝殿の奥に本殿の屋根が見える。本来は背後の八雲山がご神体だった由。 境内にある複数の注連縄は、いずれも敬虔な信者たちからの寄進に拠るものだ。<続く>
2019.11.23
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~皆生温泉の宿~ 旅の2日目。宿泊先は鳥取県米子市皆生温泉の宿でした。この日は出雲大社まで遠出したのです。 ロビー近くのテーブルに、こんな下駄が置かれていました。( ,,`・ω・´)ンンン? 妖怪ポスト(上)やネズミ男(下)がお出迎え。実は「ゲゲゲの鬼太郎」の作者水木しげるさんは、米子の対岸境港市の出身で「妖怪ロード」で有名。きっとそれに便乗したのでしょうね。 安っぽい造りだけど、お馴染みの「一反木綿」(上)と「目玉おやじ」。 鬼太郎親子(上)と「ゲゲゲ」の登場妖怪オールキャスト(下) この日の夕食はカニ付き。でもまだ解禁前で、昨年の冷凍ものでした。この夜は「飲み放題」でしたが私は牛の焼肉を中心に、ユズ酒と焼酎の黒霧島の2杯で十分でした。 翌朝も朝風呂に入った後、海岸を散歩しました。きれいな朝日でしたよ。 皆生(かいけ)温泉の謂れです。昔海中から温泉が湧いてるのを、漁師が発見したのです。 うっすらと霞んでる島根半島。出雲の「国引き神話」で神様が引っ張って来たのがあの半島です。 ロビーの外側は海です。(上)朝食はお粥にし、絶好調で姫路城に向かいます。<不定期に続く>
2019.11.20
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~神鍋高原の宿と散歩~ 旅の初日に天下の名勝「天橋立」を観、そこからバスは兵庫県の神鍋高原へ向かいました。曲がりくねった道を右に左に。宿に着いた頃はすっかり日が暮れていました。その分、イルミネーションがきれいでしたけどね。 早速カメラを向ける私。そんな変わった人は、私以外にはいませんねえ。 イルミネーションが点いた庭があるホテルに泊まったのは、沖縄のリゾートホテル以来かも。 大浴場の温泉に入りに行った後も、窓から庭のイルミネーションを撮ったのでした。 時は折しも「ハロウィン」の時期で、玄関ではこんなものがお出迎えしてくれましたよ。 夕食はサーロインステーキ、お寿司などを中心に。 翌朝のホテルです。前日は真っ暗で良く見えなかったのですが。 朝風呂に入った後は、ホテルの敷地内を散歩しました。案外紅葉がきれいです。 ほら。結構良い雰囲気でしょ。ホテルの表口のある県道周辺まで行って引き返しました。 あの先がホテルの表口。ちょうど散歩されていたご夫婦が小さく写っています。 神鍋高原の標高は300m程度ですが、ホテルの真ん前にスキー場がありました。 ホテルの敷地内の林で見つけたキノコの群落。食べられるのかなあ。 ホテルのロビーの前に広がる中庭。ちょっとした高原ですね。 朝食は可愛らしいお握りが3個。これを食べて、2日目の旅が始まります。<続く>
2019.11.19
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<天下の名城・白鷺城その1> 「備前丸」から見上げる天守閣もまた美しい。別名白鷺城と言う名の要塞だ。 野面(のづら)積みの石垣(上)と堅固な門(下) ここから見上げる天守閣はかなり急角度。そろそろ天守閣への入り口のはず。 うんうん、近い近い。天守閣が目の前。しかも同じ平面上にあるぞ。 確かここを右に曲がったところが入口だったはず。こんな角度の天守閣は最初で最後。 その前に最後の櫓(上)と最後の城門。あくまでも堅固な構えだ。 この左側が入り口で、その手前に修復工事をしてる箇所があった。階段を上って天守閣の1層目へ。入り口で靴をビニール袋に入れ、自分で持参する。写真を撮るのも階段を上るのにも面倒だが、ルールなので仕方がない。 当然ながらエレベーターはない。急な階段を上って最上階まで行く。手すりだけが頼りだ。上るにつれて展望が開ける。この城は四方からの敵を見張れたようだ。西の丸も含めれば、全く死角はない。 上方中央に見えるのが西の丸。播磨、丹波方面からの敵を見張っていたようだ。 最上階の5層から急な階段を下って天守閣から出る。入場と退場の経路が違うため、混雑することはない。天守閣の基盤とと同じ平面にあるのが備前丸。当然ながら籠城を見越して井戸が掘られていた。<続く>
2019.11.17
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~天下の名城・白鷺城その1~ 旅の最終日。駐車場から歩いて行くと、やがて大きな濠が見えだした。姫路城の勇壮な濠。左手奥の方にちょっとだけ櫓が見えた。ひょっとしてあれは西の丸だったのかも知れない。 大手門付近まで行くと、丘の上遥かに天守閣が見えた。心ときめく瞬間だ。慌ててカメラのレンズをズームして撮影。堂々たる姿は天下の名城に相応しい。 濠を渡る橋の上。擬宝珠と欄干ごしに大きな城門が見える。恐らくあれが大手門なのだろう。 さらに近づいてズームイン。城門の大きさは歩いている人と比べたら良く分かるはずだ。 門を入った広場は三の丸だろうか。真正面に五層の天守閣が見えた。近年までで終わったはずの修復作業がまだ一部で続いていた。国宝でありかつ世界遺産。建造当時の姿を残す城は、たった5か所しかないと聞いたことがあるが、まさに人類の貴重な遺産だ。 天守閣に近づく道は曲がりくねっている。攻撃から守るため、櫓と城門を幾重にも交錯させているのだ。これでは攻める側も大変。これ以降私たちも、色んな角度から天守閣を見上げることになる。 見事な秋空に映える真っ白い天守閣。左手にまだ現在も修復を続けている箇所が見える。 前方に堅固な櫓が見えて来る。天守閣に向かう第一の関門だ。城壁の中に色んな形をした狭間(はざま)が見える。鉄砲を撃ち弓を射るための空間だ。 櫓の下の門がこれ。その大きさと堅固さが分かるだろう。守る側は攻める側が上の窓から良く見えるはず。 匂い立つ姿は白鷺のようと言われ、白鷺(しらさぎ・はくろ)城の別名を持つ。 近づいたと思っても天守閣はまだ遠く、高い石垣と堅固な櫓が行く手を遮っている。嗚呼。 角を曲がればたちまち次の城門が現れる。天守閣を落とすのは容易なことではない。 そんな姿をあざ笑うように佇む姫路城の天守閣。何と言う冷厳な美であることか。 観光客は坂道を必死の思いで登ってゆく。だが五層の天守閣はまだ遠い。 この城はどの角度から見ても美しい。そして難攻不落を思わずにはいられない。<続く>
2019.11.16
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~足立美術館その2~ 足立美術館の庭園ポスターです。春夏秋冬と四季ごとの写真が載っています。 ポスターは四季ごとに2種類ずつありました。これは春の部で、ツツジが咲いています。 こちらの2枚は夏の部。緑が濃く、白砂へ写る松の影がはっきりと見えますね。 秋の部はどちらも同じ場所から撮った写真ですね。まあきれいな紅葉だこと。 こうして見ると、厳しい冬の雪景色もなかなか良いですねえ。 館内の美術品は撮影禁止でしたが、食堂にあった彫刻は撮らせていただきました。 通路に置かれていた彫刻も、撮っても良いんですよと言わんばかりでしたのでね。 ここからは館内の和風仕様を紹介します。蔵を連想させる渋い通路でしょ。 通路の壁面も純和風の造りでした。 休憩コーナーもこんな感じで、和みますね。 新館の2階展示室では、院展が開催されていました。作品は撮影出来ないため、ポスターだけでもね。 渡り廊下から見える中庭。今日は庭園の写真はこの1枚だけです。<不定期に続く>
2019.11.14
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~足立美術館と日本庭園その1~ 足立美術館は個人の収集品で主として日本画を中心に展示する美術館である。場所は島根県安来市にあり、そのためか美術館内で摂った昼食には「ドジョウ」が付いていた。安来はドジョウ掬いで有名な安来節の地元。だが出て来たドジョウは可愛らしいもので、ドジョウ独特の骨っぽさは全然感じなかった。 美術館の創設者である足立全康翁の銅像 在りし日の足立全康翁(1899-1990) 足立全康氏は島根県安来市出身の実業家で、16歳の時には大量の炭を焼き、これを売って財を成したと言う生まれながらの商売上手。後に大阪に出て実業家として成功を収めた。この資財で日本画を収集し、横山大観などの名品を数多く収集。それらのコレクションを元に、1970年(昭和45年)郷里に建てたのがこの美術館だった。その後、新館及び陶芸館を増築して今日に至る。 入館料金は3千円。決して安い料金ではない。それに所蔵する美術品の撮影は許されておらず、私はあまり日本画は好まない方だ。そしたら一体何を見るのか。そんな疑問が湧いても当然だ。実は足立美術館は日本庭園の見事さで有名な場所。外国人にも人気が高く、2003年から今日まで16年連続で「庭園日本一」の栄誉に輝いている。能書きはとも角として、早速庭園をご案内しよう。 庭に出ることは許されていない。広く開いた窓、所々に設けれた出口。そんなところから庭を観るのだが、これがとてつもなく広く、かつ手入れが行き届いている。専属の庭師は20人以上。庭の雰囲気が変わらないよう、そして背後の山々も借景とするために全て買い占めたと言う逸話がある。 私の下手な説明よりも、黙って写真を見た方が良いと思う。手入された庭の何と美しいことか。 冬は雪。春は若葉。夏は青葉。そして秋は紅葉と黄葉。四季様々に美しい庭園を偲んでみる。 繊細で美しい庭園だけでなく、奥に見える山々までが美術館の敷地とは豪快だ。<続く>
2019.11.13
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~鳥取砂丘・砂の美術館2~ 「砂の美術館」の2回目です。この作品のタイトルは「聖なる河ガンジス 沐浴と祈り」です。手前の群像がガンジス川で沐浴する人たちです。 沐浴する人々の姿をアップで。 ガンジス川は濁っていて、たまには死体も流れて来ると聞いたことがありますが。 後ろの建物はアフガニスタン北部にハズラト・アリー廟のブルーモスクです。コバルトブルーのタイルを基調としたモザイク模様が施されていることから、「ブルーモスク」の愛称があります。 ブルーモスクの手前の群衆は、インダス文明当時の人々です。 中には牛とヤギを連れた牧人も。 こちらはモヘンジョダロ遺跡で有名なインダス文明当時の人々の群像です。 モヘンジョダロのインダス文明当時の人々の暮らしぶりを、砂の彫刻で再現しています。 ネパール中部カトマンズ盆地にあったかつての王都パタンの荘厳な建物です。 同上の都にあるチベット仏教寺院とダルバール広場です。 上記の説明板には、制作者の名前と顔写真も載っています。 幸運の神ガネーシャの像です。ヒンズー教の神であるシヴァの妻パールヴァティは夫が知らない間に人形に魂を吹き込んでガネーシャを誕生させました。ところが事情を知らないシヴァがガネーシャの首を跳ね、捨ててしまうのです。パールヴァティは息子の首が見つけられず、止む無くゾウの首をつけてこの姿になったと言われています。幸運を招く神、中でも商売と学問の神として人気が高いのだそうです。 ガネーシャ神の制作者と作品の説明が書かれています。 作品はまだあるのですが、長く続くと退屈するので明日は別な美術館を紹介します。<続く>
2019.11.12
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~鳥取砂丘・砂の美術館(1)~ さんざん迷った挙句、鳥取砂丘の「砂の美術館」から紹介することにした。単純に旅の順番通り紹介するのでは詰まらない。かと言ってどんな方法が良いか。折角シリーズのタイトルを「旅・歴史と美を訪ねて」としたのだから、それに従って見よう。そして実質的に第1回の今日は大胆に砂の芸術を紹介することにした。美術館の入口は砂で出来ていた。モチーフは「ジャングルブック」だ。 入館してすぐ外へ出た。建物の外にも順路があったのだ。鑑賞する時間が心配だが、まあ何とかなるだろう。出迎えてくれたのはカッパとフクロウ。「なんだこんな物か。それが第1の感想。素人が作ったようなちゃちな作品。おまけに砂が乾いて、所々剥げ落ちている。でも焦るまい。これは歓迎の印と思えば良いだけの話。先ずはお手並み拝見だ。 屋根付きの作品は、とても異国情緒あるもの。その時は分からなかったのだが、この作品はモルディブを表現したものの由。モルディブはインド洋に浮かぶ島嶼国家。確か「インド洋の真珠」とか呼ばれて、ヨーロッパのお金持ちがバカンスにやって来るので有名らしい。奥の方には椰子に囲まれたホテルのような建物が見えた。 もう少し行くと今度はマザーテレサの像。カトリック信者の彼女は、確かインドの施設で恵まれない人々のため献身的に奉仕した方。それにしてもモルディブと言い、マザーテレサと言い、どうしてこんなモチーフを選んだのか謎だ。丘の上の小さな鐘から引き返し、ようやく美術館へ入った。 中ではこんな可愛らしいキャラクターがお出迎えしてくれた。スマイルマークかはたまたハロウィンの仮装なのか。 最後に上った3階には、こんな作りかけの像があった。これは紛れもなくカウボーイ。なぜ西部劇がこんなところで?謎が謎を呼ぶのだが、あんまり細かいことは言うまい。 ええい、面倒だ。こうなったら3階からの眺めを見せよう。これが砂の美術館の館内。超巨大な砂の像が幾つも並び、来館者はそれらを鑑賞しながら館内を一巡する仕組み。像の巨大さは入館者と比較したら分かると思う。 板が敷いてあるのが観覧のルート。何せ像が巨大過ぎて、どう撮影したら良いのかまごつくばかりだ。 3階から見たガンジー像。彼はインド独立の父。無抵抗主義で名高い彼は、民衆にあくまでも平和を訴えてイギリスからの独立を勝ち取った英雄。後にネール首相など、身内から3代にわたってインドの指導者を出す名家となった。 2階に降りて像の目の前に立つと、こんな風にガンジー翁の表情までがすっかり分かる。さてそろそろ種明かしをしよう。モルディブ、マザーテレサ、ガンジーと砂の像は続いた。一連のテーマはインド亜大陸など「南アジア」なのだ。同じテーマの像をそのままずっと使うと客が呼べない。そこで世界の各地域をテーマに砂の像を制作して順繰りに紹介し、入館者を呼ぼうと言う考えだ。 これが入館時にもらったパンフレット。確かに南アジアがテーマの作品。これで入口の砂像が「ジャングルブック」だったのも頷ける。実はあのお話の舞台も、アフリカではなくインドのジャングルなのだ。 舞台裏の話をもう一つしておこう。実はこれらの巨大な砂の像を造ったのは、世界の砂像芸術家20名で、パンフレットにはその顔写真と出身国、名前、所属などが明記されている。そして総合プロデュサーは日本人の茶圓克彦(ちゃえん・かつひこ)氏。鹿児島県出身で武蔵野美術大学を卒業し、砂の彫刻を専門にしている芸術家。道理で素晴らしい作品ばかりだ。明日からは大きな作品を紹介したい。<続く>
2019.11.11
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~旅の概要~ JALの翼 今回の旅はある旅行会社のツアー。独り暮らしの私はいつものように1人での参加。これだけでも確実に料金が高くなる。もちろん2人分の部屋代を払うためだ。このツアーで魅力を感じたポイントは先ず天橋立。ここは初めての訪問。島根の足立美術館も初めて。ここの庭園が凄いと聞く。鳥取砂丘と出雲大社と姫路城は2度目だが、何か収穫はあるはず。そして2泊とも温泉地なのが嬉しい。 <伊丹空港に掲げてあったラグビーW杯の歓迎フラッグ> ツアー仲間はいずれも東北の方で、青森、秋田、岩手、宮城、山形、福島からの21名。添乗員はおっとりした年配の婦人で、バスガイドは賑やかな大阪のおばちゃん。これがまあ良くしゃべること。お陰で退屈しないで済んだのだが。バスは一路丹後へと向かう。つまり京都府の日本海側だ。これが何と兵庫県内の高速を通った。お陰で私が走ったフルマラソン「篠山」「福知山」の両方とも傍を通ったのだ。 名勝天橋立 最初の訪問地は天橋立(あまのはしだて)。松島(宮城)、安芸の宮島(広島)と共に「日本三景」の一つ。股覗き(またのぞき)で有名な観光地だ。これで私は三景全てを訪問したことになる。夕日が沈む日本海の風景が秀逸だった。そして丹後国一之宮の籠(この)神社にも急いで寄った。そこへ行ったのは私一人だけ。夕方5時で閉まるのだが、なぜか門が開いて私を待っていてくれたのだ。 神鍋高原の宿 泊ったのは神鍋高原の宿。右に左に真っ暗な山道を何度もハンドルを切った末の到着だった。何の効き目があるのか分からないが天然の温泉があった。夕食は但馬牛のソテーなどをバイキング方式で。松茸のお吸い物も美味しかった。翌朝も温泉に入り、ホテルの敷地内を散歩。キノコの群落を発見したが、手は出さなかった。 鳥取砂丘 鳥取砂丘には何もない。ただ広い砂丘が連なっているだけだ。ここに鳥取大学の砂丘研究所があることは知っていた。ここはラッキョウの栽培地。鳥取大学は中国の砂漠緑化にも寄与している。オプションの「砂の美術館」が実に秀逸。あまりにも見事な砂の芸術作品が目白押し。世界の美術家が制作した作品で、現在は「南アジア」をテーマとした作品が展示されていた。詳細は後日紹介予定。乞うご期待。 出雲大社 出雲大社は残念ながら時間が足らなかった。現地のガイドさんが境内を案内してくれたのだが、プライド過剰で、私の質問をはぐらかしたりと不遜な態度。それでも結構な枚数の写真を撮った。この神社は多くの謎を秘めている。その解決の糸口を見つけられなかったのが残念だが、手掛かりは見つかった。「古代出雲歴史博物館」と言う県立の施設があることを帰宅後に知った。1人旅なら行けたのに残念だ。 鳥取の山々 2泊目の宿は鳥取県の西端にある皆生(かいけ)温泉。ここは昔海中から温泉源が見つかったことで有名だ。だからお湯は塩味がする。夕食は「カニ付き」のバイキング。その夜もまた牛肉をたらふくいただいた。翌朝は温泉に入った後に海岸を散歩。遥か遠くに大山(だいせん)が見え、また弓の浜の対岸に島根半島が微かに望むことが出来た。2日とも朝の散歩が出来て幸いだった。 姫路城の遠望 旅の3日目は鳥取県米子市から伊丹空港までの大移動。そしてこの日の唯一の観光は姫路城。数年前に大工事を終えたとばかり思っていたのだが、まだ若干の修復工事が続いていた。天守閣の最上階まで登ったのは今回が初めて。ここで3社目の神社を見た。美しい城の写真をたくさん撮ったのでお楽しみに。 機内から見えた富士山 帰路の機内から富士山が見えた。雪を被った富士山を眺めたのは久しぶりだと思う。かなり遠めだったが、これは無理やりズームしたもの。 帰宅後、写真の整理に3日間かかった。残ったのは400枚ほど。その一部を使用して、今日は旅の概要を記した。さて、明日からはどんな紹介をしようか。出来る限り、読者の皆様に楽しい旅の紹介が出来たらと思っている。<続く>
2019.11.10
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