老師の言葉 0
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このゴールデンウイークは、けっこう大きなストレスがあって、気持ちが重い状態が続いていた。そんな中、「あれっ」と思ったことがある。この数年、非常に寝つきが悪かった。横になればすぐに眠れたのに、寝る時間になると目が冴えて、2時間も3時間も、布団の中で寝返りを打ちながら、時間を過ごしてきた。最初のうちは苦痛だった。「今日も眠れない」と思うと恐怖と不安が膨らむこともあった。しかし、途中から眠れないことを受け入れることにした。寝付くまで、布団の中でいろいろなことを考えることにしたのだ。これまでのことを振り返り、今後のことを考える。あるいは、自分がやりたいことをイメージする。こんな本が書きたいなと構想を練る。これは功を奏した。不安が少なくなった。寝付きが悪くても、朝まで眠れないわけではない。いつの間にか眠っているのだから、それでいいではないか、と考えられるようになった。睡眠時間は少なかったが、昼間、眠くてたまらないわけではない。昼寝もできる。そんな状態がずっと続いていたのだが、不思議なことに、ゴールデンウイーク中のストレスの間、昔のように、すっと眠りにつけたのだ。ストレスがあると眠れなくなるはずが、逆に、いい眠りになった。どういうことだろう?東日本大震災で津波に飲み込まれそうになったがんの患者さんの、全身に広がったがんが消えてしまったという話を思い出した。火事場の馬鹿力ではないが、窮地に追い込まれたとき、思わぬ力が出るのかもしれない。人体というのは、ピンチになると自然治癒力が最大限に働き始めて、体調が正常に戻るのではないか。大きなストレスから逃れさせるために、強制的に眠らせようとする力が働いたのかもしれない。あれ以来、数年前までの快適な眠りを取り戻している。まだ、心の中にはもやもやしたものが残っているが、峠は越えた。生命には、ぼくたちの考えの及ばない神秘がある。生命力を信じることだ。生きる上で悩みや苦しみは付き物だが、結果的には、すべてはうまくいくようにできているのだから。
2024年05月23日
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ご先祖様を大切にしろと、ずっと父親から言われてきた。 父親の言う大切にしろは、ご先祖様が残してくれた土地や家を大切にし、お墓を守っていくということだった。 あくまでも「守り」の姿勢だ。 ぼくは反発した。ご先祖様が一番喜ぶのは、子孫が思う存分生きていることだ。子孫が楽しく、生き生きしているのが先祖孝行だ。家を守るために縛られるというのは間違っている。よく父と議論したものだ。 ぼくは「攻め」の姿勢だったわけだ。 実は両方とも大事なのだと、今になってわかる。 ぼくは長男でありながら家を出た。やりたいことをやらせてもらって、これまでの人生にあまり悔いはない。 実家にときどき帰る。一時は空き家になるのを覚悟したが、次女が結婚して住み始めてからは、犬に猫にヤギににわとり。おかげさまでにぎやかな家になった。「ご先祖様喜んでいるな」と感じる。ほんとうにありがたいことだ。 縁のある人たちが集まる家になるといい。我が実家を拠点に、村が活性化すればいい。そうなれば、「守り」「攻め」の両方面からのご先祖様孝行が実現するわけだ。 ご先祖様は、ぼくに何を期待しているのかわからないが、いろいろ仕掛けてきている気がする。変化には痛みが伴う。痛みが消えたとき、大きな光に包まれることがある。どんなことが起こってくるのか、楽しみにしていたいと思う。↓実家を守ってくれているワンコたち
2024年05月20日
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5月18日。父親の7回忌、母親の3回忌。実家に親戚が10人ほど集まってくれて、小さな法要を執り行った。お勤めのあとも、故人との思い出話をしたりして、いい供養になったと思う。父はお人良しだったが、自分がこうしたいということは曲げなかった。昔の職人らしく口も悪かった。母は、極度の心配性。物事を悪い方、悪い方へと考える性格だった。しかし、職人だった父が独立を考え始めたころ、父はあれこれ迷っていたのに、母が父の背中を押した。父の方が臆病で、母の方が大胆だった部分もあったのだ。2人とも働き者だった。農業では生活できないので、父は手先の器用さを生かしてブロックの塀を作ったり、家の基礎工事をしたり、トイレやお風呂を作る仕事を始めた。見よう見まねで覚えて、人に負けない仕事ができるようになって、あちこちから依頼がきたのだから大したものだ。母は、いつも父の仕事の手伝いについていっていた。父は口が悪い。母の手際が悪いと、ぼろくそに言う。あんなにもひどく言われて、よくぞがまんしたものだと思う。とにかく、家族が食べるため、子どもを育てるために、必死になってがんばってきたのだと思う。決して裕福ではなかったのに、ぼくは、不自由や不足を感じたことはなかった。ぼくは長男だったから、父も母も、ぼくに夢をもっていたのだろう。大学を出して、いい会社へ就職させて、出世してほしい。両親の希望通りにはならなかったが、紆余曲折はあったけれども、68歳までいい人生を歩むことができたのだから、ありがたい親だった。そんなことを考えた一日だった。両親には感謝しかない。
2024年05月19日
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50年というと半世紀。長い年月だが、考えてみれば、50年前、ぼくはすでに18歳だった。1974年、昭和49年だ。この年の3月に高校を卒業して、大学に入学し、名古屋での生活が始まって間もないころだ。4畳半の古いアパート暮らし。田舎者が都会へ出て、刺激は大きかったが、戸惑うことも多かった。50年後なんてじっくりと考えたこともなかったが、大学を出て、大きな会社に就職して、そこそこ出世して、定年まで勤めて、あとは悠々自適に暮らすものだと思っていた。当時は、終身雇用、年功序列が当たり前で、「安泰」のレールが敷かれていたものだ。しかし、たった2年で、そのレールから外れてしまった。あのままだったらどういう人生だったかわからないが、ぼくは、レールを外れたおかげで、20代、30代、40代、50代、60代と、とてもダイナミックな50年を過ごせたと思っている。会社を辞めるときは悩んだし、親とも激論を交わしたし、将来が不安だった。でも、どうしてもこのまま5年が過ぎ、10年が過ぎていくことには耐えられなかった。両親は言った。「石の上にも3年や! もうちょっとがまんせえ」「違う。3年もすれば、石の上でもあきらめるということや。俺はあきらめたない」屁理屈を並べて、親の話に耳を貸さなかった。50年、いろいろなことがあった。本が売れて、調子に乗っていたことがあった。そしたら、ぱたっと売れなくなった。経済的にピンチだった時期もある。18歳までは親の庇護のもとでぬくぬく暮らすひよこで、巣立ったあとの半世紀は、つらいことはいくらでもあったけれども、いいことはもっとたくさんあった。これからも、何があるかわからない。油断はできないし、楽しみでもある。もう少し、人間として成長したいと思っている。
2024年05月16日
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ストレスフルな出来事があったとき、瞬間瞬間に振り回されると、いい判断ができなくなる。 流れをていねいに見る。つらい出来事があっても、それがあったことによって見つかる「いいこと」がある。 この間のボクシングの井上尚弥チャンピオンの試合。第一ラウンドでダウンを奪われた。人生初のダウンだそうだ。 見てる方もびっくりする衝撃的シーンだった。 無敵の王者がダウンした部分だけを見ると、「大変だ!」ということになるのだが、あのダウンがあって、チャンピオンの力みが消え、ネリ選手の動きを読み切り、あとは一方的な展開となって、6ラウンドのKO勝ちにつなげた。 なんて強いんだ。 あの偉大なチャンピオンと同じ強靭なメンタルは、ぼくのような凡人には手の届かないものだ。それでも、日々のささやかなプレッシャー、ストレスを乗り越える上で、参考にはしたい。 不都合なことが起こると、そのマイナス面にばかり目がいく。「ダメだ、ダメだ」とどんどん落ち込んでしまう。腹も立つ。イライラもする。 しかし、大きなダメージを受けたとしても、まずは落ち着いて状況を分析する。冷静になって、今、何が起こっていて、自分には何ができるのかを考える。そして、マイナス面ばかりにとらわれるのではなく、「この出来事にも必ず意味がある」と、自分に言い聞かせていると、ぱっとひらめくことがあったりする。だれかのいいアドバイスが心に響くこともある。そこに、自分の考え、判断を加えて、次の行動を決める。 渦中にいるときにはわからなくても、何日かたつと、あふれるマイナスの中の、小さなプラスに気がつくことがある。 たぶん、人が成長する上で、この小さなプラスに気づいて、感謝して喜ぶことが、もっとも大切なことかもしれない。 だからこそ、神様は人間をマイナスに引っ張られるように作ったのではないか。 順調なときには、自然に「ありがとう」が出てくる。逆境のときはどうだろう?「何がありがとうだ!」と言いたくなるものだ。 重苦しい思いをしっかりと受け止め、不安や恐怖も拒否しないで、その上で、マイナスだらけの隙間の中にある、小さなプラスを探す。 そういう癖をつけた人は、必ず幸運を呼び込める。 ピンチはチャンス!つらいときこそ、光を見つける絶好の機会だ。 暗闇の中に上がる花火。明るさばかりを望んでいると、まばゆいばかり光の芸術は体験できない。夜でも光があふれる都会では、無数の星々の輝きを見ることができない。 人はかなしみの大地に種をまいているのだそうだ。かなしみという土壌にどんな花が芽吹くのか。かなしみからはかなしみしか生まれないのか。それとも、かなしみが深ければ深いほど、大きな喜びの花が咲くのか。 氣と出会ってから、こんなことも考えられるようになった。ぼくにとっては、大きな進歩だと思う。 毎週木曜日19時半から。真氣光の中川雅仁会長と、小原田泰久・弘美が、ライブ動画を配信中。 ぼくたちが体験した氣の体験をお話ししています。参考になることもあると思うので、ぜひお聴きください。 視聴はこちらから。
2024年05月14日
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ぼくの師である真氣光の創始者・中川雅仁先生は、「一歩は進み過ぎ。半歩だけ進んだことをやれ」とおっしゃっていた。そう言う先生自身は、1986年には氣を中継する機械を完成させていた。夢で教えられた通りに作ったら、その機械を当てるだけで体調が良くなる人が続出。さらに、1988年には手から氣を出して、さまざまな難病を治癒させていた。「これって半歩?」ぼくには、半歩どころかはるか前を歩いているように思えた。今、先生のおっしゃった意味がわかった気がする。先生のおっしゃる「半歩」は、「世の中よりも半歩前を進む」ということではなく、「自分のキャパシティの半歩先」ということではなかったのか。人には才能、能力というものがある。もちろん、生れたときに決まっているものもあれば、経験を積むことで変化するものもある。老境に達したときにぱっと目覚める才能もあるだろう。まずは、今の自分のキャパシティ、身の丈をしっかりと把握すべきだ。高くも低くも見ない。正当に評価する。その上で、半歩先を歩く。そうすると、余裕もあるし、次の半歩も見えてきて、これまでできなかったこともができるようになったり、新しい才能に気づけたりするのだ。ぼくは、これまで一歩二歩先を見て動いてきた。いいこともあったけれども、足もとがおぼつかず、転んでしまって痛い目を見たりもした。まわりの人を巻き込んでしまって、いろいろ迷惑をかけた。かなしい結果になったこともある。五月末から、世の中の運気が大きく変わるのだそうだ。それを機に、「半歩」を意識して生きようと思う。身の丈を知り、少し背伸びしたり、落ちても大丈夫なくらいの脚立を使えば手が届くくらいの、高さを目指そうと思う。
2024年05月10日
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「寂寥感(せきりょうかん)」という言葉がある。もの悲しくてわびしいという意味だ。重みがあって、深みがあって、潤いがある。ぼくにはそう感じられる。この言葉、どうやって、できたのだろう。やっぱり、喜怒哀楽、さまざまな感情を味わった人間が、このやるせない気持ちをどう表現すればいいかと考え、「寂」とか「寥」という、心に染みる漢字が生まれたのかもしれない。楽しいだけでは重みのある人間にはなれない。さみしさやわびしさといった、やるせない感情をしっかり味わってこそ、心や魂は育っていくのだ。だいたい、楽しいだけで生きている人はだれもいない。だれもが、苦悩の海で、孤独感の嵐の中で、迷路をさまよいながら、一歩ずつ進んでいく。努力などしなくても、かなしみを背負うことができるように、人間はできている。大事なのは、その気持ちを、しんどい部分はあるけれども、ごまかさないで、しっかりと味わうこと。努力などしなくても、楽しい日々を取り返せるよう、また人間はできているから。どんなかなしみであっても、こわがらないで、しっかりと見つめながら歩いていくことが大事だ。ただ、自分がもう少し強い人間であったらと、ときどき思うこともある。まずは今日をすてきな日にして、明日は明日の風が吹く。
2024年05月03日
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ぼくが真氣光とかかわってきて、これは忘れてはいけないなと思っているのは、「一見良くないことが起こっても、それは自分の成長のもとになる」ということ。 先代の会長も、若いころは人にだまされたり、会社を倒産させたり、つらい思いをしてきた。発明した氣の機械が薬事法で摘発されて、留置所に2ヶ月近く入れられたこともあった。それを乗り越え、大きな志をもってぐいぐい前へ進み始めたとき、脳出血で倒れて、59歳という若さで亡くなった。 その後、今の会長にバトンタッチをするわけだが、一人のカリスマリーダーにたくさんの人が群がってくる状態から、リーダーを中心に多くの人がまとまって、氣の世界を広く伝えていくという形に移行した。今の時代に合う形に変わることができたのだ。 59歳で亡くなった先代は無念だったかもしれない。しかし、新しい会長になって、真氣光は進化することができた。 今の会長も、順風満帆な人生ではない。いきなり、あの強烈な求心力をもった父親から真氣光を引き継いだのだから、大変だったと思う。さまざまなつらい体験もしながら、氣とは何かを追求し続けてきた。 氣とは生命そのもので、平穏無事ではない人生を経験してこそ、わかることがたくさんあるのだ。 だいたい、平穏無事、順風満帆な人生などない。 多かれ少なかれ、だれしもが苦しみや悩みを抱えて生きている。 苦しみ、悩みの日々の中で、どうすれば幸せになれるのか、そこを考え、行動するのが、人としての修行なのだろう。 「人の一生は重荷を負って遠き道を行くが如し、急ぐべからず」 天下を取った徳川家康でさえもそう言っている。いや、重荷を背負って行くのが当たり前だと思っているからこそ、天下が取れたのかもしれない。 苦しみがない人生をだれもが望む。ぼくも同じだ。 でも、必ず苦しみはやってくる。 そのときにどう対処するか。人それぞれやり方があっていいのだが、苦しみ、悩みに埋没しないことは大切だと思う。 真氣光では氣を受けましょうと言っている。 氣のレベル、つまり生命力が落ちると、悪い方、悪い方へと考えがちになる。力を抜けば浮き上がれるのに、力んでしまって沈んでしまう。 少し自分自身から距離を置くことで、いかに自分が力んでいるかがわかり、どうしたら力が抜けるか見えているはずだ。 氣を受けたり、気功をやっていると、ふっと自分を外から見る瞬間がある。 その瞬間を大切にしたい。 自分にも言い聞かせていることだ。
2024年05月01日
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鈴鹿の実家に帰っている。次女夫婦が1年ほど暮らしている。犬が4匹、ネコが1匹、ヤギが2頭、烏骨鶏が3羽。ずいぶんとにぎやかになった。すぐ横に竹藪があって、今年はタケノコがたくさん出ている。昨日はタケノコ掘り。そして、夜は知り合いが集まって、タケノコ料理で一杯やった。子どものころから、この時期はタケノコづくしだった。タケノコご飯、鶏肉との煮物。ほとんど毎日食べていたが、おいしくて不思議と飽きない。タケノコにはエネルギーがあふれている。一日一日ぐいぐい伸びる。あのものすごい成長力にはびっくりだ。春にたくさん食べることで、一年を乗り切るパワーが得られる。竹には、春のタケノコだけでなく、いろいろな使い道がある。竹パウダーは肥料になる。竹チップを庭に敷くと雑草を抑えることができる。竹炭は消臭や水質浄化など、快適な生活を演出する。竹酢液も入浴剤、虫よけなどに使える。とにかく、一年で山ほどできる竹。これを使わない手はない。邪魔者扱いの竹が、これからのヒーローになる。↓炭窯に火を入れたところ
2024年04月27日
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車で10分ほどのはやぶさ温泉日帰り入浴に行ってきた。昨日の昼間のこと。妻が買った回数券が3枚残っていたから。地味な温泉だが、「源泉かけ流し・美肌の湯」ということで、知る人ぞ知るところのようだ。1時間くらいゆっくり入った。休憩室ではご飯が食べられる。車の運転があるのでビールは飲めない。ジャージャー麺を頼んだ。冷やし中華のようなもので、ひき肉を豆味噌で炒めたたれが乗っているのが特徴かな。ピリッと辛みがある。ぼくはあまり食には興味がない。風呂上がりだから冷たいものがいいかなと思って注文しただけで、ジャージャー麺が好きだということではない。味はそこそこだったと思う。帰り際、代金を支払っていたら、厨房の方から丸い顔のおばさんが出てきた。「すいませんね」と謝るではないか。「え、え」何を誤っているのか意味がわからない。「キュウリがなかったので」そうか、冷やし中華にもキュウリは入っているし、ジャージャー麺もキュウリがつきものなのかもしれない。「大丈夫ですよ。まだ、キュウリの季節じゃないですからね。自家製のキュウリを使っているんですね」そんなふうに返したらえらく喜ばれた。「そうなんですよ。自家製の野菜を使っているんです」ひとしきり、野菜作りの話になった。道路を挟んだ向こう側に畑があって、できるだけ、野菜は自分たちで作ったのを出しているのだそうだ。ぼくはこういう話は好きで、けっこういい質問ができたりして、生産者の人には喜ばれる。丸顔のおばさん、厨房に戻ろうとしない。腰を据えて野菜談義をする気まんまんだ。盛り上がっても良かったのだけれども、ぼくにはヤギたちの世話があって、そろそろ帰らないといけないわけだ。ここで野菜の話をして、「ぼくはスモモと桃を作っているんです。スモモができたらもってきますよ」とか、「ヤギを飼っていて、あいつら野菜が好きで、捨てる野菜があったらください」なんて話をしたら、きっと仲良くなれたと思う。ぼくは人見知りで、あまり知らない人と話すのは得意ではないが、こんなひょんなことから、友だちができることがよくある。その人が面白かったり、ユニークな知り合い、たとえば自然栽培をやっている人、ヤギを飼っている人を紹介してくれたりと、ちょっとしたきっかけが、いい人とのつながりを作ることもある。もったいないことをした。あと回数券は2枚あるので、近いうちに行って、ジャージャー麺を頼んで、キュウリが入っていなかったら、「まだキュウリとれないんですね」と声をかければいい。キュウリが入っていたら、「キュウリとれたんですね」と話しかけよう。ジャージャー麺とキュウリがつないでくれた縁は、果たして広がるのか。楽しみにしておこう。
2024年04月23日
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大豆に豚の遺伝子を組み込んで代替肉を作る技術がアメリカでは承認されたそうだ。そんなネットニュースが流れてきた。すごいなと思う。AIもそうだし、遺伝子の技術も、とてもついていけない。ぼくが疑問に思うのは、これが本当に人間の幸せにつながっていくのかということ。最近の科学技術からは、温かみが感じられない。ぼくたちが何かを食べないと生きていけないのは、生命を維持するためであると同時に、命の循環を知ることができるからだ。他の命を自分に移し替えて生きる。そこには、命を捧げてくれる相手に対する感謝の気持ちもないといけない。自分の命もまた、だれかのために存在しているということを学んでいく。すべての命はつながっている。そのことを少しでも実感するために、ぼくたちは生きているのではないか。そのベースを崩してはいけない。今の科学技術の発展は、人間の都合ばかりを優先しているようにしか感じられない。それも一部の人たちの利益のために、世の中は動かされている気もする。自分のことだけを考え、今をごまかして生きる。そんな社会になってしまうのではないか。それを良しとする人はいっぱいいる。ぼくの中にも利己的な思いはたくさんある。ただ、大きな流れに流されながらも、これじゃいけないという反骨の気持ちをもち続ける。ちっちゃな抵抗しかできないし、一人や二人が何を言っても、社会は変わらないかもしれない。それでも、自分にできることをやる。そう思っている。ぼくは、遺伝子をいじることにはどうしても抵抗があるな。品種改良も遺伝子をいじることだと言われればそうなんだけれども、今の遺伝子操作は、あまりにも人間本位で暴力的な感じがする。
2024年04月22日
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桃畑の横にしゃれた家がある。持ち主は東京の人。2週間に1度くらいは来ているみたいだ。畑へ行ったら、ご主人が庭の草取りをしていた。「お久しぶりです」声をかけた。何度か話をしていて、お互い顔も知っているし、ぼくがヤギを飼っていることも、彼は知っている。もともと、奥さんがヤギ好きだということから話が盛り上がった。彼は四国の高校から東京の大学へ入り、そのまま東京で就職して、たぶん50代半ばだと思う。奥さんが山梨県の出身ということで、退職後の住処として、ここに家を買ったのだろう。「早くこっちへ来たいですよ」彼は言う。あと5~6年、会社を勤め上げ、こちらでのんびりと暮らすのが彼の人生設計か。夫婦ともに畑仕事が大好きなようだ。東京でも市民農園を借りて野菜を作っていると言う。彼の話を聞きながら思った。ひょっとしたら、田舎というのは、中高年の居場所になるのではないか。これから高齢者が増えて、都会での暮らしはもういいやという人も多くなるだろう。そうした人たちが、ゆっくり暮らす場所として田舎を提供する。野菜や果樹を栽培したりするのは楽しいものだ。健康にもいいだろう。ポツンポツンと家があるようなところなら、人間関係もそんなに煩わしくない。車の運転ができなくなっても生活が困らないような仕組みを作れば、成長産業になるだろう。都会は若者に明け渡そう。思う存分、ギンギンギラギラ生きればいい。年寄りは田舎でスローライフを楽しむ。そんなすみ分けがあってもいいかもしれない。
2024年04月21日
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ものごとがうまく進むポイントは、エネルギーを高めと方向性をしっかりと定めること。日々、こつこつとエネルギーを蓄えるのがまずひとつ。エネルギーにはプラスとマイナスがある。マイナスのエネルギーを集めてしまうと、迷走してしまう。プラスのエネルギーは、だれに対しても誠意をもって接すること。自分の損得で動くのではなく、少しでも人の役に立つような行動をすることで増えていく。感謝の気持ちをもてばもつほどプラスのエネルギーは集まってくる。小さなことに感謝し、喜ぶことだ。マイナスのエネルギーを集める行為としてよくありがちなのが、ウソと言い訳、ごまかし。小さなウソ、ちょっとした言い訳は、だれでもあるけれども、小さなことでも積み重なると、マイナスに足を引っ張られて、トラブルに巻き込まれたりする。ぼくも聖人君子ではないので、まわりにずいぶんと迷惑をかけてきた。偉そうなことは言えないが、できるだけ正直に生きようと心がけている。だますよりもだまされる方を選ぶ。今の世の中、多くの政治家はマイナスのエネルギーを原動力にしているような気がする。世の中が良くなるはずがない。次は方向性。何をやろうとしているかが重要。いくらエネルギーを高めても、たとえば、お金さえ儲かればいいという方向に進んでしまえば、一時的にはいいことがあっても、結果的に、崖から落ちてしまうことになる。社会のためになっていることか。人が喜ぶことか。自分が楽しくて、成長できることか。経済がきちんと回ることも大切なことだ。そんなことが方向性の基準になるのではないか。先を読むことに敏感な人が言うのは、5月から急速に世の中が変化していくということ。エネルギーの量と方向性によって、人が二分されていく。これまでの価値観(今だけ、金だけ、自分だけ)を引きずっていると、どんどん落ちこぼれていく。20世紀というのは、甘いお菓子を目の前にぶら下げられて、ひたすら物欲を満たすために突っ走る時代だった。物欲というのは、何にも増して強力な力をもっている。油断すると、すぐにやられてしまう。がんじがらめになってしまう。自分は大丈夫と思っている人ほど危ない。そのごう慢さがマイナスのエネルギーと共鳴してしまうから。これまでは、ある程度口先だけでごまかせたが、これからはそうはいかなくなるというのが、多くの能力者の見立てだ。ぼくもそう思う。慎重に考え、これと決めたら大胆に動く。心して生きていきたいと思う。
2024年04月20日
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愛媛、高知で大きな地震があった。インドネシアでは火山の大規模噴火。さらに、ドバイでは大雨だったというニュースも流れてきた。被災した方には心からお見舞い申し上げます。これだけ天変地異が連続して起こると、怖くなってくる。しかし、怖がっていても仕方がないわけで、日々、淡々粛々と生きるしかない。気になるのは、能登も四国も、大きな地震が原発(志賀原発と伊方原発)のそばで起こっているということ。地球が生き物で、意志があるとしたら、意図的に、「本気で考えろよ」という危険信号を送っているというではないか。たぶん、原発が作られたときには、大きな地震がこんなにも頻発することはなかった。原発を地震が襲うことはないだろうと楽観視していたのではないか。福島の津波だって想定外だったわけだから。ぼくも阪神大震災まで、地震というものに実感がなかった。その後も、どんなに大きな地震がきても、原発はそれに耐えられるように作られていると信じていた。それが、実際には原発はとても地震に弱くて、一般の民家よりも耐震性がないというではないか。さらに、構造的にも配管がたくさんあって、それが破損したら重大な事故にもなりかねない。この間の能登も、今回の四国も、紙一重で救われている。福島と同じことが起こったら、日本は壊滅だ。そんなギャンブルを、どうして続けようとするのだろうか。地球が警告を与えてくれているうちに、方向を転換しないといけないのでは。今自分たちが置かれている状況を、しっかりと真剣に考えないと。
2024年04月18日
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「願いは叶う」自信満々に言う人がいる。実際、自分で願いが叶う体験をしたからこそ言えることだろう。昨日思った。なぜ願いが叶ったのか?それは、叶う願いだったからだ。ぼくも、ひとつ願いが叶った。別に強く願ったわけではない。何となく思っていたことが、思わぬ流れで思った以上の形で叶った。見たい映画があった。Facebookで、ぼくの知り合いが「すばらしい映画だった」と紹介していた。心が動いた。大地を癒し場の環境を整える環境再生医と呼ばれる方の活動を記録したもので、「杜人(もりびと)」という映画だ。ただ、劇場での上映が終わって、自主上映で広がっている映画なので、なかなか見ることができない。仕方ないなとあきらめて、忘れてしまったころに、またFacebookで投稿を見たりして、気にかけるということの繰り返しだった。昨日のこと。妻と一緒に、いつも通っている甲府の七沢歯科へ出かけた。院長の七沢久子先生とは親しくさせてもらっている。彼女は、不思議な歯医者さんで、彼女が直観で「ここだ」と思った部分をほんのわずか削ると、たちまち痛みが消えたり、かみ合わせが良くなったりするのだ。2時半からの予約だった。15分くらい前に到着した。いつもはだれもいないのだが、診察室から久子先生が顔を出した。「あら、いいところへいらしたわね」来客があって、その人を紹介してくれた。何と、彼が「杜人」の主人公の矢野智徳さんだったのだ。最初はわからなかった。名刺をもらって、スマホで検索したら、この人が「杜人」だとわかりびっくり。「矢野先生はもっと早くにお越しになるはずだったけれども、仕事が長引いて、この時間になったの。小原田さんと会うために遅れたみたいね」久子先生は笑っていたが、本当にそうかもしれない。会うべくして会った気がする。素朴でやさしそうで、それでいて意思は強い。そんな感じだ。ぼくの大好きなタイプだ。映画を見るという願いは叶ってないが、本人に会えてしまった。願いというのは願ったとおりに叶うわけではなく、もっとすごいことが起こってくる可能性がある。ただ、願ったから会えたわけではなく、会うべき人だから会えた。そう思う。「この映画を見たいな」という願いは、ぼくと矢野さんの関係性にエネルギーを注入してくれた。もともと叶う願いだったわけだ。たぶん、矢野さんとお会いしてなくても、近いうちに、またFacebookで「杜人」のことを読んで、それも割合近くで上映されることがわかって、映画を見ただろうと思う。それだったら、「いい映画だった」で終わっていただろう。しかし、実際にお会いして、お互いに気の合う部分を感じて、近いうちに再会して、一緒に楽しいことができる可能性も出てきたわけだ。「三重県もよく行くんですよ」そんな話もあったくらいだ。ぼくの実家へ寄ってもらって、場の環境を整えてもらうこともできるじゃないか。彼の本拠地は上野原市で、ぼくの住んでいる甲州市からそんなに遠くない。こういうのを、用意された関係と言う。ぼくはそう思う。小さな願いをいっぱいもつといい。でも、叶うとか叶わないとか、あまり気にしない。必要な願いは、必ず叶うし、願った何百倍もの結果がもたらされることもある。さらりと願うことだ。強く念じすぎると、やっかいなものを引っ張り込むことがあるので、注意が必要だと、ぼくは思っている。
2024年04月17日
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昨日、おばが亡くなった。90歳を過ぎた大往生だった。昨年、転んで大腿骨を骨折し入院した。車いすでの移動になったので、施設に入った。何度かお見舞いに行った。元気でよくしゃべっていたので、不自由な生活だけれども、まわりとお話をして楽しく暮らしているようだと安心した。ところが、先月末に2ヶ月ぶりに顔を見に行った。げっそりやせて、寝たきりの状態だった。そして昨日の訃報。ぼくのことをいろいろ気にかけてくれた。心配してくれた。感謝の気持ちでいっぱいだ。うちの父親は8人兄弟だった。長男が戦死、次男が生後すぐに亡くなり、長女が20代のころ、娘を出産してすぐに結核で亡くなった。次女は90歳くらいまで長生きした。三男は小さいころ親戚に養子に行き、70歳くらいで亡くなった。四男が父親で88歳まで元気だった。三女が昨日亡くなったおばさん。五男が小学校のころに高圧線に上って感電して亡くなった。8人中4人は平均寿命かそれ以上は生きていた。残りの4人は若くして亡くなった。あの時代は、それが普通だったかもしれない。おばさんが最後までがんばってくれた。「お前たちはよくやっていると、私がみんなに伝えるから。それが私の役割やからな」そんな話をして笑っていたこともあった。あの世へ行けば、親や兄弟と会えるのだろうか?会えたら、みなさんによろしく言っておいてください。本当にありがとうございました。
2024年04月16日
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長女にすすめられてアニメ「進撃の巨人」を見ている。人類は高さ50メートルの壁の中で暮らしていた。天敵の巨人から身を守るためだ。巨人は、小さくて4メートル、15メートルくらいのがたくさんいて、中には60メートルというやつもいる。人間をむしゃむしゃ食べてしまって、一度は、人類も絶滅しそうになった。人類は、防御のために高い壁を築いて、その中で平和を保っていた。100年ほど平和な時代が続いたが、ついに再度巨人が襲ってくる。身長60メートルの大巨人が壁を壊して、巨人たちがどんどん人間の世界に侵入し、たくさんの人類が食べられてしまう。そんな凶暴な巨人に勇敢な若者たちが立ち向かうという物語。すごい設定だ。津波対策で海沿いに高い壁が作られている、今の日本を連想してしまう。とにかく、人間が食べられるというのが強烈だ。ちょうど、このアニメを見る前、ぼくは、ミミズをとってきて、チャボにあげていた。ミミズを投げ入れると、チャボは一瞬のうちに、くちばしでつかまえて飲み込んでしまう。そのときに、「食べられるってどういう気持ちなんだろう?」と思いながらながめていた。捕食しようとする生き物が近づいてくる。恐怖で腰が立たなくなる。大きな口が近づく。ガブリ。体が引き裂かれる。想像するだけでも恐ろしいではないか。巨人というのは非現実的だが、大自然と人間との関係と考えるとわかる気がする。災害や疫病でたくさんの人が亡くなった。たくさんの人間が巨人に食べられているようなものだ。「巨人が憎い!」人間は自然を支配しようと自然に立ち向かう。しかし、自然は容赦ない。何十年かの平穏な時期があったかと思うと、いきなり暴れ出す。闘うしかないのか?このあとの展開が楽しみだ。
2024年04月14日
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ぼくは、28歳のときにフリーライターになって、この5月でまるまる40年になる。それまで、愛知県の小さな会社で、鉄の塊を販売していた。毎日、1トン車を運転して、大手自動車会社関連の会社を回っていたのだ。「世の中ってこういう仕組みなんだ」大学を出てからの2年間、大企業に勤めていたときにはわからなかった、社会の現実を身をもって知ることになった。3年間で人生観は大きく変わった。ひょんな縁で東京へ出た。ほとんど文章を書いたことなどなかったのに、フリーライターになった。文章を書いて生きていくというのはあこがれだった。だから、うれしかったけれども、やったこともない仕事だし、文章の才もあるかどうかわからない。何度も何度も書き直しさせられて、さんざん悩んだ。「東京なんか来なければ良かった。ぼくに文章は書けないよ」弱音ばかりを吐いていた。しかし、続けているうちに、文章も徐々に書けるようになり、人脈も広がって、仕事の依頼も増えてきた。フリーというのは、ぼくには向いている形態だった。やった分だけ収入になる。仕事をしなければく食いっぱぐれてしまう。100パーセント歩合の仕事だ。とは言うものの、緊張感をもって日々を生きていたわけではなかった。仕事は切れずにあった。4ヵ月も中国に旅をしたあとも、気功の先生との出会いから、思わぬ方向に人生が転換したのだ。そういう体験を通して、独特の嗅覚が育ってきた。「今はこれをやればいい」ひらめきがやってくる。たぶん、決まった給料がきちんともらえる仕事をしてきた人には、わからない感覚かもしれない。イルカもそう、代替療法(西洋医学以外の治療法)によるがん治療もそう、自然栽培もそう、ソーラーシェアリングもそう、竹炭もそう、電子書籍もそう。山梨へ来てから3年強。のんびりした空気の中で、ぼんやり生きてきたが、「動け!」という指令がきているのを感じている。またまた面白く、いろいろなことが動きそうだ。
2024年04月13日
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「ヤギーず出版」を立ち上げることにした。OfficeOharadaの出版部門。電子書籍を作る。基本的には自分の著書を出す出版社。ぼくは人とのコミュニケーションがあまり上手ではない。編集者と意見を交わしながら作る方がいい本ができるのはわかる。でも、苦手だ。一人であれこれ考えを巡らせながら文章を綴っていくスタイルが心地いい。いい本ができるに越したことはないが、売れる本とか、できのいい本ではなくても、自分が「これでいいや」と思えるもので十分なのだ。ただ、一人だけ忌憚のない意見を言い合える編集者はいるから、彼も定年間近なので、あと数年のうちに、彼と一緒に一冊は作ってみたいと思っている。そういうタイプだから、電子出版はありがたい。自分でいいと思ったらそれでいいのだ。第一作は、ぼくの山梨移住体験、ヤギとの暮らしをまとめた、『ライター、ヤギ飼いになる~田舎生活で元気もりもり六八歳』(仮)。東京から山梨へ移住した経緯と、山梨での3年間の生活の一部をまとめた。やっとのこと、原稿を仕上げて、電子出版のノウハウを教えてくれる方に送った。5月か6月には発売できると思う。この原稿をもとに、レクチャーを受けて、自分でも作れるようにする。頭の中には、いろいろな企画がある。どんどん出していこうと思う。もっともやぎ飼いの話は半年もかかっているので、簡単に「どんどん」というわけにはいかないだろうが、できるだけスピードアップしていかないと。10年間、原稿を書き続けるとして、年5冊だと50冊か。貝原益軒は、70歳から著述業に専念するようになって、84歳で亡くなるまでに200冊以上の本を書いたそうだ。その中に、有名な「養生訓」もある。そんな大層な人を目標にするつもりはないし、歴史に残るような名著は望めないけれども、とにかく、電子出版というありがたい手段があるのだから、できる限り、自分の思いを書き続けたいと思っている。題材はいっぱいあるのだから、上手に料理しないと。
2024年04月12日
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あちこちで地震が発生しているけれども、「自分の住んでいるところは大丈夫だろう」と何の根拠もないのに思っている人は多いだろう。ぼくもその一人だが、人間とは何とも能天気な生き物だと思う。しかし、そこがいいところでもある。近いうちに南海トラフ大地震がくるのだから、努力なんかしても仕方ない。目先の楽しさを追いかけて、面白おかしく生きればいいさ。そんなふうに思ってしまったら、生きている価値はなくなる。いつか死ぬことはだれもがわかっている。それでも、希望をもって生きられるのが人間の良さ。明日、巨大な隕石が地球に激突して、地球上の生命体がほとんど絶滅するということになっても、今日を一所懸命に生きられるたくましさが人間にはある。能天気さとは違うかもしれないが、能天気な部分も作用しているのではないか。今、自分の住んでいるところで大地震が起こるかもしれない。しかし、それはどうしようもないことだ。防災準備は必要だろうが、恐怖におののいているばかりではなく、不測の事態が起これば、そのときに対応を考えれば良くて、今は、やるべきことをやるしかない。一瞬先のことは、だれにもわからない。それを踏まえて今を生きる。難しいことだが、「難しいですね」で終わらせずに、その境地に一歩でも近づく。激動の時代からこそ、とても大切なことだと思う。
2024年04月10日
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だれしも不安を感じることがあるはずだ。プラス思考の考え方では、不安や心配はいけないとされている。しかし、本当にそうだろうか?ぼくが思うに、本当のプラス思考は、不安や心配をなくすのではなく、不安や心配にも意味があると考えることじゃないか。車にはアクセルとブレーキがあるわけだが、アクセルを踏んで、どんどんスピードを上げるばかりがいいわけではない。目的地に早く着きたいのはよくわかるが、早さだけではなく、安全性もとても大切だ。そのためにブレーキがある。不安や心配は、ブレーキの役割を果たしている。不安を感じたときには、少しスピードを落とそうと考える。いくらいい流れに乗っていても、まわりを見回す余裕をもつ。あまりにも不安が強いときには、サービスエリアに入って休憩する。人体というのは、自分を守るシステムがしっかりと装備されている。安全に安心して生きられるように作られているのだ。不安や心配を、「そんなのじゃだめだ」と振り切って、どんどん突っ走ろうとすると、必ず問題が起こってくる。動けなくさせられてしまう。病気だったり、事故だったり。自分の心が発する信号を大切にすることだ。単純に、「ポジティブが良くて、ネガティブが悪い」と考えるのではなく、ポジの意味、ネガの意味をくみ取りながら、そのときそのときに、いい判断をしたいものだ。心が不安定なときには、あまり急がないこと。しばらく休めば、一気にアクセルを踏み込む時期がくる。
2024年04月09日
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たとえば甲子園球場。ただの建物でしかない。ところが、高校野球が始まれば、そこで球児たちが厳しい試合に臨み、観客が、彼らのプレーに熱狂する。甲子園が生き物になる。コンサートホールも、無機的な建物が、アーティストが演奏し歌い、聴衆が盛り上がることで、命が吹き込まれる。 家も人が住まなくなると早く老朽化する。人が生活することで、家が活性化する。 パソコンもスマホもただの箱だが、アプリが入ると、そこに生命が宿る。 人間も、体だけを見れば、肉や骨の集まり。生命体となるには、何かプラスアルファが必要になる。 それが「魂」と呼ばれるものだが、魂にもいろいろあって、いくら甲子園球場だって、つまらない試合をわずかな観客が見ているだけでは躍動しない。 人間の体は、考えられないくらい精密に精巧に高度に作られている。ダイナミックな魂があってこそ、十分に生かすことができるのだ。どうしたら、自分の体を熱狂の甲子園にできるか。あくなき好奇心だったり、これをやりたいという意欲だったり、チャレンジ精神だったり、感謝の気持ちだったり、感動だったり、好きな人と一緒に何かを成し遂げる喜び、なのではないか。体を揺さぶるエネルギー。細胞の一つひとつが大歓声を発する。そんなシーンをたくさん作り出すことだ。暇つぶしの日々なんてまっぴらだ。
2024年04月05日
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昨日の朝は、沖縄に津波警報というのでびっくりした。台湾で大きな地震があったらしい。地球が大きく動いている。そもそも、地球は一日に一回自転し、一年で太陽のまわりを一周する。とんでもない速さで動いているわけだ。なのに、ぼくたちは静止空間の中で生きているような錯覚をしている。あり得ない現実の中にいるのに、当たり前だと思って暮らしているぼくたちの鈍感さ。宇宙に、地球に守られて生きているという謙虚さをもてば、静かな地球をぼくたちは享受できるはずだ。日本沈没という小説が話題になったのは、1973年だそうだ。すぐに映画になり、テレビドラマ化された。田所博士というと小林桂樹さんが思い浮かぶから、ぼくはテレビで見たのだと思う。テレビで放送された映画版も見たかもしれない。あのころは空想の世界だった。1994年に中川雅仁先生、帯津良一先生とホピ族の長老にお会いした。『ホピの予言』という映画を作った宮田さんが案内してくださった。長老は、「そのうち日本は沈むからこちらへ移ってきなさい。ここで潮のにおいがするから、アメリカ西海岸も沈むかもしれない」とスイカを食べながら話してくれた。ぼくは冗談半分に聞いていた。ただ、当時、中川先生も「日本は沈むかもしれない」と話していたので、あのときの長老の表情や声が、強烈に頭にインプットされたのを覚えている。そして1995年。阪神淡路大震災が起こった。ぼくは、鈴鹿の実家にいた。ものすごい揺れに飛び起きた。古い離れに寝ていたので、慌てて飛び出した。そう言えば、前の夜はきれいな満月だったはずだ。テレビでの光景は衝撃的だった。神戸の街が燃えていた。ビルが破壊され、高速道路が落ち、たくさんの人が亡くなった。「こんなことがあるんだ」日本沈没が現実化し始めた。しかし、また忘れていく。そして、2011年があった。その後、衝撃を忘れる間もなく、大きな地震が各地で起こっている。2024年の元旦は能登で。3ヵ月後の昨日は台湾。もうだれにとっても他人事ではなくなってきた。そして、日本沈没では触れられていない原発の事故。大地震がくれば、沈没しなくても日本に住めなくなることも十分に考えられる。すごい局面にぼくたちは立たされてる。さてどうすればいい?自分の頭で考えて、自分で判断するしかない。ぼくは、明日がくることを信じて、いや、明日人類が滅びるとしても、今日できること、できたらまわりの人、さらには地球が、少しでも喜んでくれることを一所懸命にやりたいな。頭でっかち、口先だけの人生から脱却して、行動する高齢者になる!
2024年04月04日
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夢物語は、物語だから語らないといけない。少なくとも、語っていることで、自分がその気になれるのは間違いない。最初は、そんなことできるものかと思っていても、話しているうちに、ひょっとしたらできるかもと思えるようになってくる。そして、話し続けているうちに、あれっ、できちゃったということにもなるのだ。たとえば政治家なら、軍事につぎこむ予算はなしにする。もちろん、災害時のための自衛隊の活動の予算は必要だが、ミサイルとか戦闘機、戦車とかは買わない。そのお金は、原発を廃炉にするためと、日本人がどうしたら幸せに生きられるかを模索し、世界の貧しい人たちを援助することに使う。人類が人類を滅ぼすとしたら、原発と核爆弾がもっとも危険要因だ。これを日本からなくさないと。本気でそういうことをやり始めたら、武装などしなくても、どこの国も日本に攻めてこない。それくらいの覚悟でやることだな。そんな夢物語を、どんどん語った方がいい。バカにされるかもしれないけれども、このままじゃダメでしょう。政治家になったのなら、それくらいのことはやっておくれ。と思うよね。トルストイの「イワンの馬鹿」を読んでほしいわ。ぼくにも夢物語がある。徐々に語っていくことする。
2024年03月25日
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昔、師匠から、「先生と呼ばれるようになったら注意しろ」と言われた。先生、先生と持ち上げられているうち、自分は偉いと勘違いしてしまうことがあると言うのだ。「地獄は政治家と医者と弁護士ばかりだぞ」そんなこともおっしゃっていた。地獄のことはわからないが、いろんなニュースを見ると、政治家はうそばっかりついてどうしようもないし、学校の先生も不祥事を起こしている。危なっかしい医者も多いし、「先生症候群」と言ってもいいかもしれない。ぼくも30代のころ、本が売れて、講演会に呼ばれて、「先生」と言われた時期があった。最初は照れ臭かったが、次第に、先生が当たり前になってくる。偉くなった気になってきて、ついつい上から目線で人を見るようになってしまう。しかし、ぼくは師匠の言葉のおかげで、ピノキオにはならずにすんだ。今は、「やっさん」という子どものときの呼び名が定着してきている。とても居心地がいい。がんばっている「先生」もたくさんいる。ぼくたちも、職業や利害関係だけで人を判断するのではなく、その人の日々の行動や考え方をしっかり把握して、本物の「先生」とお付き合いしたいものだ。↓ ぼくの偉大なる「先生」
2024年03月23日
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運のいいか悪いかというのは、何か自分に都合の悪いことが起こったときの対処法にかかっている。たとえばがんになったとする。がんと診断されて落ち込まない人はいないと思う。しかし、一度は落ち込んでも、たとえば、ぼくの友だちのおーちゃんという人は、残りの人生、自分の興味あることで思いっきり生きようと、自然栽培を始めた。おいしい米や野菜を作った。末期のがんと診断されて10年間、彼は生き生きと過ごした。「今の人生を100点とすると、がんになる前の自分は5点くらいだった」そう言って笑っていたのを思い出す。悪いと思われることがあったら、それを上昇、変化のきっかけにできる人は、運を引き寄せる。逆に、ふてくされたり、やけにやったりすると、運は離れていく。だいたい、だれの身にも、いいことばかりが起こるわけではない。あの大谷選手だって、大リーグで大活躍して、すてきな人と結婚して、人生、バラ色だと思ったら、通訳の人の問題が起こってくる。ケガもあったし、不調なときもあるわけで、そのときに、やけになっていたとしたら、今の大谷選手はないだろう。親しくしていた通訳に裏切られたのかもしれない。心の中に思いものがのしかかっているはずだ。彼なら、このマイナス現象も、上手にプラスに変えていける気がする。さらなる幸運の始まりにできるのではないか。順調に物事が進んでいるときには、人は成長しない。竹と一緒で、節があってこそ、竹は丈夫に育つ。節を作るときには、いろんなことが停滞する。だからこそ、人は強くなれるわけだ。
2024年03月22日
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元スポーツ選手。現在70代後半。かつては日本を代表する選手として大活躍していた。高齢になって、忘れっぽくなってきた。診察を受けると、軽い認知症ということで、スポーツの指導や講演活動をやめて、家で過ごすことになった。ときどきデイケアにも行っていた。しかし、根っからのスポーツマン。体を動かさないのは苦痛でたまらない。そこで、施設の人が言い出したのか、本人から申し出たのかは定かではないが、施設でスポーツ教室を始めたのだ。ラジオ体操レベルの簡単なことだっただろうが、ユーモアも交えた教室は大人気となった。それも、元一流のスポーツ選手ならではの理に叶った動きを教えるので、参加者はどんどん元気になっていった。参加する人以上に楽しんでいたのは本人だ。スポーツは、彼にとっては生きがいで、教えることは、引退してからの彼のライフワークだった。彼の認知症がどうなったかまでは聞いてないが、認知症になったからと言って、人生はそこで終わるわけではない。家に引きこもってしまうのではなく、自分が得意だったことを表現していく。昨日、友だちから聞いたいい話だ。
2024年03月21日
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はしかが流行しているみたいで、またしても感染症の脅威に、人類はさらされている。「感染症は克服した」とされてきたが、新型コロナなら、新しいから仕方ないかと思えても、はしかという古典的な感染症が広がっているというのだから、克服なんていうのは、錯覚でしかなかったわけだ。ワクチンが絶対的守護神だった。しかし、その威光もかげりを見せている。文藝春秋にも京都大学の名誉教授がワクチン接種後症候群について書いていたし、ワクチンを打てば安心ということではないのは間違いないようだ。コロナワクチンを何回も打ち、インフルエンザのワクチンも打って、帯状疱疹があって、そこにはしかが加わるとなると、一体、体の中でどんなことが起こっているのか、だれもわからないだろうと思う。これからいろいろな感染症が流行するはずだ。そのたびにワクチンを打つという選択、果たして大丈夫なのだろうか。免疫システムというのは、非常に繊細なものだと思う。排除すべき異物が人工的に次々と入れられたら、誤動作を起こしても仕方ないだろう。実際、免疫システムが誤動作を起こして、自分の細胞を攻撃することで発症する病気はあるわけだから、あまりにも刺激や負荷を与えることは、リスクも伴うと思った方がいいだろう。本来、生命体には自己を守る機能が備わっている。免疫力もそうだが、たぶん、まだ知られていない治癒の力があるはずだ。擦り傷をすればいつの間にか治ってしまう。熱があっても、下痢をしても、知らないうちに元気になれる。末期のがんの人の自然治癒というのもある。自然治癒力はどうしたら発動させることができるかはわからないが、何かスイッチがあるはずだ。そのひとつは、自分自身の中に治る力があることを信じることだろう。薬は、病気にもよると思うが、できれば緊急避難的に使うだけにして、あまり常用しない方がいいのではないか。ワクチンも、眠っている免疫力に喝を入れるような使い方ならいいかもしれないが、ブラック企業のように、朝から晩まで、休みの日もなくこき使っていては、疲弊してしまう。だれの体にも自然治癒力があることは事実なのだから、もっとその力を信じて、大事にして、感謝して、喜んで、ここぞというときに働いてもらうようにした方がいいだろう。
2024年03月19日
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山梨生活4年目。ヤギの世話にしても、果樹栽培にしても、ずいぶんと要領もわかってきて、肉体的にも精神的にも楽になっている。ありがたいことだが、要領を覚えた分、刺激が少なくなっているのは困ったものだ。小さなことばかりだが、何か新しいことにチャレンジしていることで、ぼくのエネルギーは高まる。そういう意味で、今はちょっと停滞気味。そこで、原点に戻って、原稿書きに力を入れることにした。これまでの小さなチャレンジを、ぼくなりにまとめればいい。さて何を書くか。去年の終わり、「本当に伝えたいこと」だけを書くと決めた。ずいぶん偉くなったものだと言われそうだが、あと10年現役でいられるとしても、大して書けるわけではない。それなら、心が沸き立つようなことに時間を費やしたい。「何を伝えたいか」に焦点を合わせてパソコンに向かっている。しかし、伝えたいことを伝えるというのは、言うは易し行うは難しだ。今度は力み過ぎて、原稿が進まない。自分でハードルを高くして、つまづいて転んでしまうのだ。「身の丈で書けばいいよ」そんなふうに言い聞かせている。もともと大した才能があってライターをしているわけではない。ただ、曲がりながらも、40年間続けてきたことだ。多少の才能はあるのだろう。ほかには人に認められるような才はないし、これをやりたいということも特にないい。それに、ぼくの考えていることは、とても大切なことだというかすかなにおいは感じている。それなら、わずかな才能と直観にすがって生きようと思う。3月いっぱいで、今書いている「伝えたいこと」を仕上げると決めた。締切りがないと、だらだらとしてしまう。この日までと決めるのは刺激を生み出す。だらけた日々にピリッとした調味料を入れたつもりだ。フリーランスで生きるということは、自分で刺激を作り出さないといけない。それができたから、ぼくは40年間も、この仕事を続けてこられたのだろう。↓ 去年の桃栽培は失敗だった。「今年は」と作戦を練っている。これも刺激だな
2024年03月18日
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福島で震度5弱の地震があったとネットに流れてきた。千葉でも群発地震が起こっているし、本当に不気味だ。地震があったとき、建物の被害とか津波とか気になるが、今は、「原発は大丈夫か!」という不安が先にくる。原発震災という言葉はずいぶんと前に聞いた。しかし、あのころは原発は巨大な地震に耐えられるだけの造りになっていると信じていたから、地震で原発が事故を起こすなんて杞憂だと思っていた。しかし、東日本大震災では、福島原発の大事故につながった。地震と原発事故は密接な関係があることが明らかになった。先日のTBS『報道特集』では、地震と原発事故についての特集が組まれた。志賀原発では、公開されているだけでも、地震によるトラブルがいくつもあった。さらに、原発が建設されたかもしれない珠洲市の被害は甚大だった。もし、原発が作られ稼働していたらと思うとぞっとする。福島の原発事故でも、たくさんの奇跡があって、東日本壊滅という事態にはならなかった。今回も、ぎりぎりのところで惨事を免れたと言ってもいいだろう。原発建設に反対した人たちも出ていたが、本当に大変だったと思うが、よくがんばってくれたと拍手を送りたい。世の中、破滅へと向かわせる力が常に働いている。破滅を防ごうという力も働く。今は、そのせめぎ合いの中で、人類は綱渡りをしながら生存している。原発は、非常にわかりやすい踏み絵ではないか。地震や洪水といった自然災害は、人間の努力では防ぐことができない。しかし、原発は、人類の意思によって止めることができるのだ。天は、地震列島に原発が所狭しと並んでいる現状に、「危険だ!」というサインを何度も出してくれている。それをどう受け止め、どう行動するか。ぼくたちの意思次第で、右にも左にも行けるのだから。
2024年03月15日
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ときには、自分が言ったり考えたりしていることと、実際にどういう行動をしているかを、しっかりと見つめ直してみる必要がある。ぼくを含めて、だいたいの人は、言うだけのことをできていないはずだ。立派な人の本を読んだり講演を聞いたりすると、「確かにそう生きないといけない」と思う。そして、少しでも実践しようとがんばる。どれくらい続くだろうか?残念ながら付け焼刃で終わってしまうことがほとんどだ。そこで、大切なのは、そのまま放置するのではなく、できない自分を見つめて、できないことを認めて、ハードルを下げてでも、できることからやってみること。いくら立派な人でも、昔から立派だったわけではない。紆余曲折をへて、今の自分に成長したのだ。その過程を見ずに、本を読んだり話を聞くだけで、瞬時に、立派な人になれるはずもない。すてきな人に出会って、こういう人になりたいと思ったら、できることから真似をすることにしている。ぼくのスタートは、1988年に上海で真氣光の中川雅仁先生にお会いしたこと。ずいぶんとかわいがっていただいて、考えられないような体験もさせてもらって、彼が亡くなる1995年まで、ずっとそばにいた。先生のおかげで、自分を中心に半径500メートルくらいのことしか関心がなかったぼくが、地球のこと、宇宙のことまで意識できるようになった。上海では帯津良一先生にもお会いした。今でも月に一度はお酒を飲んでいる。帯津先生のナチュラルな生き方には大いに影響を受けている。この2人のように生きたい。それがぼくの今生の目標だ。2人の生き方からどれだけのことを学んだか。まだまだ足元にも及ばないが、少しずつは近づいていると思っている。ほかにも、自然栽培の木村秋則さん、森のイスキアの佐藤初女さん、元特別支援学校の教師で作家の山元加津子さん(かっこちゃん)原発を止めた裁判長の樋口英明さんなど、たくさんのすてきな方にお会いしてきた。ぼくは、ああいう人たちにはなれないけれども、いいところは真似させてもらって、できるところから自分のものにしていきたいと思っている。今日は帯津先生との月に一度の飲み会。たくさんのエネルギーをもらってこようと思う。
2024年03月13日
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学校へ行って勉強することが大事だと、ぼくは教えられてきた。大学を出るまでは、そう信じてきた。大学を卒業して、就職して、会社で働いて一日が終わるという生活にすごく違和感があった。生きている実感がもてなかった。2年ほど働いて、その会社を辞めた。アルバイトをして、小さな会社に再就職して、そこでも同じような違和感があって、3年で辞めて東京へ出た。東京でフリーランスという立場で働くようになって、毎日がとても刺激的で、生きている実感がもてた。学校で習ったことではない、日々の実践の中に、自分の成長、進歩を感じることができたのだ。フリーランスというのは、基本的には、決まった給料がない。仕事をすればそれに見合った報酬がある。仕事をしなければ収入はゼロだ。感覚が鋭敏になった。安定ではなく、「ここぞ」というときには動けるたくましさが身に付いた。30歳を前にしてヨーロッパの一人旅にチャレンジした。海外は夢だったし、海外を知らないのはコンプレックスだった。この旅で得たのは、海外へ行くなんて大したことないということだった。コンプレックスは消えた。30歳を過ぎてから、中国へ行った。4ヵ月ほど中国各地をブラブラ歩いた。海外旅行なんて大したことないと思っていたが、この旅でぼくの人生は変わった。今の自分があるのは、中国の旅があったからだ。これも、「ここぞ」という波を感じ取って実行したものだった。フリーで働くことで、流れをつかむ感覚が磨かれていったのだと思う。不安定な状態は、生きる力を培ってくれる。いくら本を読んでも、偉い人の話を聞いても磨かれないものを得ることができる。もちろん、知識はあった方がいい。知識と実践の絡み合いの中から、たくさんのことを、ぼくたちは学ぶことができるのだ。とやかく考えていても前へは進めない。まずは、動いてみて、それから考えるのではいいではないか。
2024年03月12日
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あの衝撃から13年か。長女が通っていた適応教室の父兄会があった。長女は、中1の3学期から不登校になっていた。川越市から東京の東久留米市に引っ越し、新しい学校で心機一転を図ったが、なかなか学校に足が向かなかった。それで、市の不登校生のための教室に通っていたのだ。その終わりごろに揺れた。6階建てのビルの5階にいた。最初は小さな揺れだったが、次第に大きくなった。怖かった。長女は進学先の高校の説明会に出かけていた。次女は中学校。自宅には小学生の三女がいた。三女も学校へ行きたがらない子で、この日も休んでいた。妻は、神奈川で仕事だった。ぼくは急いで帰った。三女が呆然としてた。テレビを見ると、東北がすごいことになっていた。長女から電話があった。携帯はつながらない。公衆電話に並んで連絡をしたと言う。いい判断だった。次女が帰宅するのを待って、車で長女を迎えに行った。まだ道路も混んでなくて、スムーズに長女の待つ富士見台という西武線の駅まで行けた。妻からは仕事先で泊まるという連絡が入った。あのあと何をしていたのだろうか。テレビにくぎ付けになっていたと思う。恐ろしい光景が流れていた。さらに福島第一原発の爆発。東京から逃げ出すことになるのだろうか。日本はおしまいかもしれない。緊急地震速報が鳴り続けた。不安と恐怖だった。今年は元旦から能登の大地震があった。千葉で群発地震が起こっている。いつどこで大きな地震が起こるかわからない状況の中で、ぼくたちは暮らしている。地震だけではない。天災も戦争も感染症も。どこかへ逃げれば安全だということはないのだ。何が起こるかわからないことを前提に生きていかないといけない。だからと言って、心配や不安ばかりを募らせてもいけないわけで、今できることを精いっぱいやるしかない。生きるということは大変なことだ。だけど、楽しいこともいっぱいある。何があるかわからないことに覚悟をもって、できるだけ楽しいことに意識を向けながら生きていこうと思う。
2024年03月11日
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90歳の炭焼き職人がいて、彼には、炭をふんだんに使って、がんやうつ病の人が、そこで生活するだけで元気になれる家を作りたいという夢がある。炭には場を浄化する作用があって、彼の考えていることに間違いはないと思う。90歳になっても夢をもっているのはすてきだ。こういう話をすると、炭じゃなくてもいいのではないの。炭よりも浄化作用の強いものはたくさん出ているから、という人が何人もいた。ぼくも、ずっと不思議な世界を見ているので、炭以上に、場のエネルギーを高めたり、浄化するものがあることは知っている。実際に使ってもいる。この間も、特殊な洗剤とワックスを手に入れて、それを使ったら、今借りている古い家の、トイレの頑固なアンモニア臭が消えたという体験もした。ぼくのアンテナに引っかかってきた、あらゆる方法を試したが、一時的には良くなっても、すぐにひどいにおいが戻ってくるという状態だった。だから、こうしたグッズを使えば、炭よりも、もっとエネルギーの高い家になる可能性は十分にある。しかし・・・とぼくは思う。なぜ炭に注目していいるか?炭焼きが復活することで、山の整備が進むからだ。今、山は荒れ放題。竹藪もそうだ。ある程度人の手が入らないと、山は健康にならない。山が健康なら、生物の多様性が取り戻せる。山菜やタケノコ、キノコがたくさんとれれば、ぼくたちの食の安定にもつながる。そして、里山とよく言うが、鹿や猿、クマといった動物たちと人間との、境界線にもなると言われている。炭焼きが産業として成り立てば、エネルギーになったり、浄化作用があるといったことだけでなく、環境を整えるという意味で、大きな働きをしてくれるのだ。こっちのがすごい、優れているという、競争するような見方ではなく、炭も、その他のエネルギーグッズも、それぞれの利点を生かして、上手に使っていくことが大切だと思う。ぼくの実家のまわりは放置された竹藪だらけ。村の人たちは、どうしようもなくて困っている。ひょんなことから、90歳の炭焼き職人のことを知り、その弟子が近くに住んでいるので、炭焼窯を見に行ったりして、次女夫婦が、竹炭を焼いてみようということで、今、動いてくれている。竹を切り出し、炭にするというのは大変な作業だ。しかし、これが軌道に乗れば、竹藪は整備されるし、竹炭も商品になる。人に喜ばれ、きちんと経済にもつながるという、すばらしい事業だと思う。ぼくも微力ながら手伝うつもりだ。↓ 実家のそばにある立派な炭窯。90歳の炭焼き職人の指導のもとで作ったもの。
2024年03月10日
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ぼくたちは、「いいこと」「悪いこと」に振り回されながら暮らしている。いいことがあったと舞い上がり、悪いことがあったと落ち込む。しかし、「いいこと」って何だろう?「悪いこと」って何だろう?自分に都合の「いいこと」、自分に都合の「悪いこと」。順風満帆だったら「いいこと」。嵐に見舞われれば「悪いこと」。平穏無事、無病息災、家内安全、商売繁盛。ぼくたちが神様にお願いすることだ。もちろん、自分に都合のいいことばかりが起こり、順風満帆で、すべてが思い通りに進めばありがたいことだ。しかし、世の中はそんなふうにできていない。晴れの日もあれば雨の日もある。台風がくるし、地震だってある。雨が好きな人は少ないけれども、雨が降るから植物は育つし、ぼくたちの飲み水も確保される。病気も嫌だけど、病気をすることで大きな気づきを得て、毎日を大事に生きるようになり、充実した日々を送れるようになった人はたくさんいる。人が成長するには、必ず、不都合なことが起こってくる。嵐がくれば、「これはチャンスだ」と思う。自分がレベルアップする大切なきっかけなのだ。ぼくの師匠はこう教えてくれた。「難があってありがとう(有難う)だよ」「嵐が去ったあとのさわやかな空を忘れるな。何も変化のない退屈な日々なんか望むな。そもそも、変化のない人生なんてないのだから」ぼくは、何かつらいことがあると、「この大変な状況、神様かご先祖様かわからないが、ぼくを生かしてくれている大きな力は、これをどう打開してくれるのだろう」と思うことにしている。しばらくは心も重いし、悩みも続くが、やがて、パッと視界が開けてきて、一番いい形のところに落ち着く。どんなことも、次に起こる、よりいいことのためにあるのだ。目先のことに振り回されないようにしよう。
2024年03月09日
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68回目の誕生日。32回目の結婚記念日。山梨はうっすらと雪が積もっている。これもお祝いだ。60代もあと2年。激動の10年だった。しかし、変化とか動きは、エネルギーを生み出す。70代への充電ができた。これまで、ぼんやりと生きてきたけれども、これからがピークだなと感じている。人生のクライマックス。どんなドラマが待っているのかわからないが、「よくやった」と満足して、今生を終える、大事な準備期間だ。まだまだ着陸はしない。もっと高度を上げて、さらに遠くまで飛んでいく。途中で墜落してもいい。行けるところまで行く。まわりには、いい家族、仲間がいる。だから、思わぬところまでたどり着ける気がする。これからますます面白くなる。お誕生日のメッセージ、ありがとうございます。大揺れの時代になっていますが、みんなで手を取り合って、すばらしい時代への礎を作りましょう!
2024年03月06日
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夢がひとつ叶った。廃屋の裏にひっそりと置かれていたお地蔵さんを、我が実家に移したのだ。教善寺のご住職に、魂抜き、魂入れをしてもらった。このお地蔵さん、90歳のおばあちゃんに聞くと、「私が嫁に来たときにはあった」ということだから、戦前から村にあったのだろう。亡父がよく話していた。「あの地蔵さんはなあ、この一帯が大洪水に見舞われたとき、水が引いてから木の根っこのところに転がってたんや。どっから流れてきたんかな。目を治してくれるという評判もあったみたいや」ぼくも気になって仕方なかった。父の死後、見に行ったことがあるが、日の当たらない、だれも来ないところに置かれていた。木で簡単な社が作られてたが、「ここでは失礼だ」と思われるような扱いだった。二度目か三度目に行ったとき、すぐ横を、小さなヘビが地蔵さんの裏に逃げて行った。ヘビは神様の使いだと言う。ぼくに、「お前、何とかしろ」と言っているように感じた。それから何年もたった。今回のご先祖様供養を機に、実家の敷地内に移そうと決めた。次女夫婦も面倒を見てくれると言う。婿が、安置場所を作ってくれた。お地蔵様と言っても、人の形をしているわけではない。10キロほどの花こう岩。表面に凹凸があって、仏様に見えないこともない。持ち上げて懐に入れると、ちょうど、生まれたての赤ちゃんを抱っこしている感じ。愛しくて、声をかけたくなる。ご住職にお経をあげてもらったあと、きれいに洗って、お線香をあげて、新しい生活を始めていただいた。我が家の発展と、村の活性化のきっかけになってくださればと思っている。
2024年03月04日
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山梨県笛吹市の教善寺というお寺のご住職様と奥様に、鈴鹿の実家までご足労いただき、ご先祖様供養をお願いした。これで3回目。次女夫婦が実家に住むようになって初めて。ご住職様とはひょんなご縁でお知り合いになった。まだお若いのだが、日蓮宗の厳しい修行をへて得度し、ご住職となってからも、宗派を超えて、さまざまなことを勉強し、自らの能力を高めてきた方だ。小さなお寺だけれども、日本各地の悩みを抱えた方々が、ご住職を頼って訪ねて来る。たくさんの人が、御祈祷を受けて救われている。さらに修行を積み、奥様とともに、世の中のために大活躍される方になるだろうと、ぼくは大いに期待している。ご先祖様供養はとても大切なことだ。ご先祖様とは、血のつながりばかりではなく、エネルギー的にも密接な関係がある。ご先祖様が、あちらの世界で、苦しみ、悩み、つらい毎日を送っていれば、ぼくもそのエネルギーの影響を受ける。逆に、楽しくて幸せでという日々なら、いいエネルギーが伝わってくる。前者は、運が悪いと嘆く人生を送っているし、後者は、毎日が楽しいとウキウキしている。数え切れない数のご先祖様がいるわけだから、どのご先祖様の影響を受けるかで人生は変わってくる。テレビやラジオのチャンネルのようなもので、自分が怒ったり恨んだり悩んだりしていると、怒りや恨み悩みのエネルギーと周波数が合って、同じような心持ちのご先祖様の影響を受けてしまう。いつもニコニコ楽しく生きていれば、そういうご先祖様と波長が合うことになる。ひとつは、自分がどう生きるかがポイント。もうひとつが、ご先祖様にニコニコ生きてもらうにはどうしたらいいかを考える。両方やることが大事で、自分を生き方を見直しながら、ご先祖様供養をして、喜んでもらうということだ。供養にはいろいろな方法があるから、こうしないといけないということではないが、どんなご先祖様であれ、「ありがとう」という思いを伝えることが基本だ。感謝されて嫌な気持ちになる人はいない。霊界でも同じこと。怒りでカッカしているご先祖様であっても、子孫から「ありがとうございます」と言われれば、顔も緩むというものだ。お経というのは、寒いときに暖かな毛布で体をくるんでもらうようなものだそうだ。特に、目に見えない世界がいかに大切かを知っているお坊さんにお経を読んでもらうことは、ご先祖様の喜びになる。昨日は、2時間以上、ご先祖様とともに過ごした。いい時間だった。実家に住んでいる次女夫婦にも同席してもらって、本当にいい供養ができた。
2024年03月03日
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かっこちゃん(山元加津子さん)が、「銀河鉄道の夜 イーハトーブの賢治さんへ」(モナ森出版)という本を出した。有名な宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」をかっこちゃん風にアレンジした内容だと思う。モナ森出版で買えるので、ぼくも申し込もうと思っている。ぼくは、宮沢賢治の作品は、いくつかしか読んでないし、彼のおいたちについても詳しくない。特に、大きな影響を受けたわけではない。ただ、「雨ニモマケズ」は、できたら毎日と思っているけれども、実際には一週間に一度くらいの割合で、仏壇の前で唱和している。もちろん、もう暗記している。すばらしいお経と同じような高いエネルギーがあるのではと、ぼくは感じながら、味わいながら、声に出しているのだ。宮沢賢治さんのことは、この詩だけで十分。ほかの作品を読まなくても、心に凍みていくのではと思っている(ぼくの勝手な思い込みだけど)。池袋から東京駅に向かう地下鉄。扉のところに立って、いろいろな話をしている中で、宮沢賢治の話になった。ぼくは、「雨にも負けず」を読んでいて感じたことをかっこちゃんに話した。「あの詩をずっと唱和していると、ある光景が浮かんでくるんですよ。賢治は、日本中を回っていたじゃないですか。彼が、小さな村を訪れたときのこと。そこで自閉症の子どもと出会うんです。その子の行動をじっと観察していると、とっても元気に走り回っていて、いつもニコニコしていて怒ることもなく、無邪気で楽しそうで、まわりの人たちのお手伝いをし、少しでも役に立とうとがんばっている。だけど、まわりの人たちは、あいつはバカだからといったような言葉を平気で言う。それでも、何も気にしないで、昨日と同じように、今日も一生懸命に生きている。その姿に感銘を受けて、賢治さんは、『サウイフモノニナリタイ』と思った。そんなイメージが浮かぶんですよ」ずいぶんと前からそんなことを思っていた。でも、だれかに話したのは初めてかもしれない。そしたらかっこちゃんはこう言った。「私は、賢治さん自身が自閉症だったんじゃないかって思うんです。賢治さんの作品や彼のことが書かれた本を読むと、彼が、天才的な自閉症だったのではと思えるような記述があるんですよね。ぴょんぴょんはねているうちに、すごいひらめきがあったりとかね。どこにも自閉症だったとは書かれてないけれども、私の経験からすると、そういう傾向があったと思います」かっこちゃんの真理を観る目が発揮されている言葉だ。ぼくは感動した。ひとつは、自分の見立てが見当はずれではなかったこと。そして、賢治自身が自分の本質を見つめながら、人からどう思われようが、残された命はわずかではあったけれども、サムシンググレートから与えられた自分の生き方を貫くという、天に向けての宣言だということ。かっこちゃんとの数分の会話で、ぼくが「雨にも負けず」にひかれている意味が、自分の中ではっきりとした気がした。ぼくが、この詩を好きなのは、「サウイフモノニ ワタシハナリタイ」という、最後の一文。彼のやさしさ、謙虚さが伝わってくる。まだまだ自分は至らない人間だけれども、そういう人になりたい。この慎ましい生き方、いいよね。彼が人生の最後にたどり着いた心境ということかな。見習わせてもらおう。
2024年03月01日
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競馬が好きで、よく馬券を買っていた時期があった。勝てないときがほとんどだったが、レースの前にスポーツ新聞を買ってきて、どの馬を軸にして買うか決めたり、スタート前の、ドキドキする感じが好きで、大きなレースがある週末は楽しみで仕方なかった。もちろん、予想が当たって、いくばくかの配当金が入れば、なおうれしいに決まっている。しかし、はずれても、競馬好きの仲間と、ああでもないこうでもないと話しているのは、自然に笑顔がこぼれる時間だった。ときどき、「競馬やってトータルで儲かっているのですか? 損をしているのですか?」と聞く無粋な奴がいた。ぼくは言い返した、「お前の人生、トータルして勝っているのか? 負けているのか?」こういうセリフ、寺山修二さんの競馬の本に出てきたのだと思う。東京へ出てきて間もないころ、給料日前にお金が底をついて、なけなしの1万円をもって府中競馬場へ行ったことがある。NHK杯というレースだった。1986年のこと。一番人気はアサヒエンペラーという大きな馬だった。ほとんどの人が、この馬を本命にしていた。ぼくも、馬券をはずすわけにはいかないから、本命はアサヒエンペラーだった。ところが、パドックを見に行くと、アサヒエンペラーが出てこない。どうしたんだろうと思っていると、ほか馬から遅れて姿を現した。そのときに、「この馬はこない」という直感があった。どういう理由だったか忘れたが、ラグビーボールとシンチェストという関西からきた馬を買った。当時は、関西馬は弱かったが、ぼくも西から来た人間だし、関西馬を応援していたというのもあったと思う。ゴール前はよく覚えている。ぼくが買った2頭が、絵に描いたように抜け出してきて、一着二着。歓喜の声を上げた。配当は1990円。19・9倍だった。5000円買っていたから、10万円弱が入ったのだ。40年近く前のことを、今でも夢中になって話せる。トータルしないからだ。あくまでも、あの状況の中で出あったエキサイトシーンなわけで、それまで100万円損をしているから、これで90万円の損になるという、そういう安ぽいものではないのだ。生きるということもそうだ。50歳まで悲惨なことばかりが起こったとしよう。でも、51歳のときに、ものすごくうれしいことがあった。そんなとき、これまでの人生とトータルして、あんなにマイナスだったのだから、こんなちっぽけなことに喜んでいられないと考えるなら、ああ、寂しい人だなと、ぼくは同情する。これまでの人生、どんなに負けていても、そんなの関係ない。瞬間を喜べばいい。数字にできない宝物を、ぼくたちはいつももらっている。トータルでは語れないし、語る必要もない。ぼくはそう思う。
2024年02月25日
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ネットの漫画で、「サラリーマン金太郎」を読んでいる。ああいうエネルギーが湧き上がってくるような漫画を読まないといけないな。こんなセリフがあった。金太郎ではなく、上司が語ったもの。「日本は病気にかかっている気がしませんか」 「病気とは?」 「サラリーマン病ですよ。サラリーマンとは集団の・・・組織の中にいるその組織の中に個人を埋没させ・・・集団という隠れ蓑の中に隠れ・・・個人の責任をなるべく取らないでいいように弱気に・・・周囲との協調ばかりをはかってきた・・・無難に 無難に社会の常識からはずれぬよう・・・マイナスポイントを持たぬよう・・・みんなが見るテレビは愚にもつかぬお笑いか・・・みんなでいじめられる材料を見つけて社会から はみ出た者を娯楽として集団で いじめる・・・役人も政治家もマスコミも個人として責任を取りたがらないサラリーマン病ですよ」サラリーマンであろうと、経営者であろうと、どんな職業であっても、志のない人間はつまらない。元気をもらった。
2024年02月24日
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だれしも、のんべんだらりと生きているわけではない。なにがしかの苦労をしつつ、懸命に前へ進んでいる。生きるというのはそういうこと。苦労を望んだり好む人はいないと思うが、多かれ少なかれ、つらいこと悩むこと苦しむことを体験させられるようにできている。ただ、苦労を実にするか毒にするかは自分次第。腐敗するか発酵するかの違いかな。ウジ虫がわくような生ごみになるか、味噌や納豆のようになるかは、考え方によって決まってくる。ぼく自身が戒めていること。「どうして自分だけが」と考えるのは腐敗への道。みんな苦労しているし悩んでいる。自分が苦労の王様なんてことはない。とげが刺さっても骨折しても痛いものは痛い。骨折の痛みを知っている人は、とげの痛みもわかるはず。「そんなの大したことないよ」と言えるのは、より大きな痛みを知っている人だけだ。苦労を乗り越えた人は、同じような苦労をしている人を助けることができる。末期のがんから生還した人は、その体験を語ることで、がんで悩む人の救いになる。言い訳も腐敗につながる。できないことは素直に認めて、「ごめんなさい」と謝って次につなげればいい。できない理由は探さなくていい。本当にそれがやりたいなら、できるようになるにはどうしたらいいか、そちらに目が向くはずだ。できない理由を探して、言い訳をしているなら、それは本当にしたいことではないわけで、ほかの道を探した方がいい。でも、どこかで言い訳をやめないと、いつまでも探し続けて終わってしまう。腐敗を発酵に代えるには、とにかくやってみることだ。成功、失敗なんていうのは、やってみないとわからない。成功すれば万々歳、失敗すればやり直せばいいだけのことだから。昔、今言ったような話を両親にしたものだ。いつも言われた。「お前の言うてることはきれいごとや。現実はそんな甘いもんと違う」気功の話も、無農薬のことも、脱原発も、両親の心には響かなかった。「あいつは何も知らんから」「経験がないから」で終わりだった。あれはかなしかったな。悔しかったな。だけど、それが今のぼくの行動の原動力にもなっている。志をもって生きようとすると、必ず足を引っ張る人が出てくる。しかし、それは大事な存在だと思っている。鉄下駄をはいてランニングするようなものだ。足腰が鍛えられる。ぼくは思った。「口だけじゃだめだ。実際にやってみよう」今の山梨での果樹栽培につながった。あのとき、両親が「お前はええこと言うな。偉いな」とほめてくれたら、そこで満足して、農業をやろうなんて思わなかった。口だけで満足してしまっていただろう。腐敗で終わっていた。今は発酵に向かっていると思う。行動していると味方、仲間、応援団も増えてくる。人が集まれば、きれいごとが現実になってくる。ぼくは、これからも「きれいごと」や「夢物語」を大切にしていきたいと思っている。
2024年02月23日
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来月には68歳になる。60代もあと数年。振り返ってみると、転機、転機、転機だった。還暦を迎えたのが2016年。父親の前立腺がんが見つかったのが2005年。少しずつ進行して、そのまま自然に任せておけば良かったのに、2016年くらいだっただろうか、検査数値が悪いことを気にして、きつい薬を処方してもらい、そこからガクッと体調は悪くなった。足もとがふらつき、玄関で転倒して背骨の圧迫骨折。一気に全身状態が悪くなった。2017年には入院し、2018年5月に88歳で他界した。もともとわがままな父親だ。入院をすすめてもウンと言わない。母や妹、弟は看病で大変だった。父が亡くなったあと、家中が嵐の中に放り込まれたような激動だった。この嵐に一人で立ち向かおうとしていた妹が、心身ともに限界だったのだろう、突然倒れて亡くなった。数ヵ月後、弟もあの世へと旅立った。2019年、ぼくは63歳。2度も腰が抜けるとはこういうことなのだという体験をしたのだ。表面上は平気な顔をしていたが、心は重くて、血圧も急上昇。いまでも、あのときのダメージは引きずっている。一人暮らしの母のことは気になったが、どうしても実家に帰る気にはなれなかった。共倒れになってしまう予感があった。ただ、あの状況の中で東京で暮らしてたら、ぼくが壊れてしまうというのが、妻の予感だった。変化が必要だった。そんなときに、次女の氣恵がキッチンカーを始め、よしこれからというときにコロナ禍。出店場所がことごとく閉鎖してしまったのだ。仕事を求めて、氣恵は山梨に移った。ぼくたちも何度か行くうち、山梨が気に入った。弘美の主導で、山梨への引っ越しが決まった。ヤギも飼うことになった。それが、ぼくが65歳のときだった。大きな変化であり、ぼくにとっては、これまで取材してきたことを、ここで実践するというチャレンジだった。ヤギのお世話をしながら、無農薬での果樹栽培をする、まったく新しい生活が始まった。この変化によって、ぼくは救われた気がする。そして、2022年には母が亡くなり、結婚した次女夫婦が、空き家になった実家に住んでくれることになった。実家の横の更地に、ソーラーシェアリングという太陽光発電施設を作った。このあと、キッチンカーに加えて、農業をやったり、竹炭を作るなど、次女夫婦が中心となって、事業化していく流れが始まっている。ぼくの中では、60代前半の、あのかなしみからは這い上がることができた。65歳からのダイナミックな変化が、心の空洞を埋めてくれたし、次のステップに背中を押してくれている。妻だったり、次女夫婦だったり、家族が助けてくれた。70歳を前に、もっと大きな波がくる予感がする。70代~80代には、なりたかった自分になっているのではないか。ぼくはお山の大将でいるのが心地いい。まわりの人たちが動いてくれて、勝手に物事が進んで行く。食もエネルギーも自給自足できるようになりたいと思えば、それが実現していく。障がい者雇用をしないといけないとつぶやけば、まわりの力で現実化する。それでいて、だれもが、小原田さんがいるからこうやって動いているんだと、ぼくの存在を認めてくれる。ぼくがいることで、まわりが幸せになっていけばいい。いわゆる長老というか、酋長みたいな存在。70代80代のぼくの理想だな。その前にやることはたくさんあるから、まだまだ動くけど。こうやって振り返ると、激動の60代だったし、それはすべて、70代80代に向けての大事な準備だったような気もする。両親にも、妹、弟にも、心から感謝しないといけない。
2024年02月22日
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ぼく自身、今はリズムが悪い。数日前、いい刺激があって、エネルギーがぐっと上がった。そこから沈み始めた。気力が霧散していく感じがする。こういうときは新しいことに手を出さない。やり残していることを片付けてしまう。せん定した枝を燃やさないといけない。ただ、雨だから、これはもっと後だな。原稿を進めないと。天気も悪いし、外へも出ないし、ちょうど仕事をするにはちょうどいい。あまり進まないかもしれないが、書いているうちに、徐々に本来のリズムに戻っていくことがある。読みたい本があるので、読書の時間に使うものいいだろう。この何ヵ月か、ずいぶんと本を買った。じっくりと本と過ごすのもありだな。リズムが悪いときには無理は禁物。いい結果が出るはずがない。がまんするときはがまんする。時間がたてば愉快な時間は戻るし、次はもっと軽快なリズムがくることも多い。天気も下り坂だし、ゆっくりしよう。
2024年02月21日
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節目のときには、一見してマイナスだと思える出来事が起こってくるものだ。体調が悪くなったり、経済的に苦しくなったり、人間関係が壊れたり、仕事で行き詰まったり。しかし、それが過ぎると、思わぬことから、ぱっと視界が開けてくることが多い。しかし、マイナスの出来事が起こったときに、そのエネルギーに引っ張られて、イライラしたり落ち込んだりすると、前へ進めなくなってしまう。何か自分に不都合なことが起こったら、節目だなと思えばいい。そして、しばらくは愉快ではない状況が続くかもしれないが、イライラせず、落ち込まずに、晴れ間が出るのを待つことだ。少しずつ明るくなって、雲が切れて、日が差し始める。これまでとは違う、いちだんと明るい日差しに照らされ、「よしやるぞ」と気持ちが高ぶってくる。よく言われるけれども、ジャンプするときには、一度膝を曲げて、体を沈める。体を沈めないと高く跳べない。志をもって生きている人間にはさまざまな試練がある。動き出した列車からは下りられない。仕方がない。あきらめて、そして改めて覚悟を決めて、自分の乗った列車の中で全力を出しきることだ。覚悟をもったあきらめ。それが肝心。
2024年02月20日
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ソーラーシェアリングフェスティバルに参加したことで、自分の足もとを見直すことができた。まだまだできるぞと、発破をかけられた気がした。まだ余生は早すぎる。自分に言い聞かせながら帰ってきた。ソーラーシェアリングの産みの親、長島先生は80歳だけれども、もっといいのを作ろうとがんばっている。ソーラーシェアリングに取り組んでいる若い人たちは、世の中に漂う違和感を何とかしようと、懸命にもがいている。「世界を変える」これが合言葉だ。世界を変える!一人でできることではない。でも、できないとあきらめるのではなく、自分なら何で世界を変えられるか考えないといけない。ちっちゃなことの重なりが大きな変化につながる。ぼくの場合、ひとつは文章を書くこと。この間、古い付き合いの編集者と会って、「もうひと花咲かせよう」という話で盛り上がった。30年も前のこと、ぼくも、イルカの本で、ひと花咲かせることができた。そのときの担当の編集者が彼だった。彼も管理職兼務になって、あと5年で退職。今年と来年。2人でいい本を作ろう!このままじゃいけないということを伝えよう。こんな道があるじゃないかと訴えよう。そんな話をしていたら、エネルギーが沸き立ってきた。その後、ソーラーシェアリングフェスティバルの仲間たちのパワーに触発されたわけだ。ぼくは、「家族」をテーマにしたい。世界を変えるには、家族の大切さに多くの人が気づかないといけない。家族で何ができるか。今のような、父親がサラリーマンで、母親がパートで、子どもたちもそれぞれ勤めているというばらばらの状態ではなく、昔の、家族が一緒になって米や野菜を作るような、そういう関係。家族がひとつの方向を向いて動く。血のつながった家族があり、そこに外からの血が加わり、さらに、その周辺に志を同じくする仲間が集まってくる。人が集まってくれば、確実に物事が動き出す。小さな動きが、徐々に大きな波紋となって、世の中に広がっていく。その核となるのが、ぼくの場合、妻、3人の娘、娘のパートナー。核さえしっかりしていれば、どんどん吸引力が高まってくる。まだまだ隠居爺にはならない。この数日で、気合が入ってきた自分を感じている。
2024年02月19日
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ずっと健康で生きてこられた。強い体に産んでもらったのはありがたいことだ。しかし、60代後半になると、あちこち劣化してくる。目は前から悪い。耳が少し遠くなっている。歯は子どものころから弱かったが、ここ1年、ずっと歯医者さんに通っている。ただ、差し歯はあっても入れ歯はない。血圧は高目。小便も勢いよく出なくなった。坐骨神経がときどき痛む。ひざも少し痛い。寝付きが悪く、睡眠の質もあまり良くない。といったところかな。それでも、薬をまったく飲んでないのは大したものだ。健康のためにやっていることは。サプリメント一種類。簡単な気功。ゆっくり水素風呂に入る。最近、粉寒天をお湯に溶いて飲んでいる。いい便が出て気持ちいい。くらいかな。食べ物は適当だし、日々の農作業が運動だ。お酒は毎晩飲んでいる。ビールとウイスキーか焼酎。自家製の梅酒、スモモ酒をときどき飲む。健康にもいいと思う。自分で果実酒や酵素を作るのは好きみたいだ。あとは気持ちの問題。何かしていないと不安になってくるのは、長い間に洗脳されたものだと思う。のどかな村で、ぼんやりと一日を過ごすのは、悪いことではないが、何十年も動き回ってきた癖があって、罪悪感があったりする。余計な付き合いを削ったことで、ゆっくり生きられている。いいに決まっている。なのに、たくさんの人と会って、大したことでもないのに、あれこれ話していると安心するというのは、貧乏性からくるものなのか。いろいろ物事が順調に進んでいって、生活もきちんとできるし、あちこち動いているときよりも、もっといい働きができているのにもかかわらず、そこに目が向いていかない。ストレスの少ない生活がストレスの原因という、皮肉なことになっている。この部分の意識の転換が、ぼくにとって一番必要なことだ。自分ができることはやって、あとは人に任せるくらい鷹揚に構えてないと。
2024年02月16日
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池袋で帯津良一先生の米寿をお祝いした。帯津先生とも長いお付き合いだ。初めてお会いしたのは、1988年の上海。気功の学術大会だった。ぼくは、上海を旅行しているとき、何人かの気功師に会い、体が動くなどの体験をして、もっと気功のことが知りたくて、学術大会に出ることにしたのだ。ここに日本から発表者として参加していたのが帯津先生。がん治療に気功を取り入れているという帯津先生の話に、驚きと可能性を感じて、もっとこの先生に近づきたいと、名刺の交換をした。以来、たびたび川越にある帯津三敬病院を訪ね、病院の食堂で先生とお酒を飲みながら、いろいろお話をお聞きした。中国で474「787」というヘビの毒から作った抗がん漢方薬を見つけ、週刊ポストで紹介したとき、先生に上海まで同行してもらったこともある。さらにその後、先生に教えを請いながら、『ガンを治す大事典』(帯津良一編著 二見書房)という、がんの代替療法を集めた本を作ったのは、ぼくの勲章でもある。以来、30代、40代、50代、60代と、常にぼくは先生を師として生きてきた。肩の力を抜いて生きること。先生から学んだことだ。「これは譲れないということはそんなにないですね」淡々と我が道を歩む帯津先生。自己主張をして、自分の都合のいい方向に人を引っ張ろうとする人が多い中、先生の生き様は、さわやかで潔くてすてきだ。今は、月に一度、池袋でお話を聞いている。お酒もおいしい。ずいぶんと前だが、「先生が90歳でぼくが70歳になったとき、先生とはどんなお話をしながら飲むか楽しみです」と話したことがある。もうあと2年もすれば実現する。帯津先生とお会いできて、長くお付き合いさせてもらっていること。これがぼくの人生の一番の宝物だ。出会いによって、人は変わる。
2024年02月15日
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あと一年の命だと思って今を生きるという話を、昨日書いた。前から思っていたわけではない。帯津先生からは、「今日が最後の日だと思って生きる」と聞かされていた。いつかそういう心境になりたいと思っていたが、ぼくには無理そうなので、一年の命ならどうだろうとひらめいて書いたところ、けっこうたくさんの反響をもらった。よく、願を叶える方法として、「一年後の自分をイメージする」というのがある。一年後、年収1億円の自分をイメージすれば、実現するよという話が流行ったことがある。イメージの大切さはわかるが、いかにも西洋的なご都合主義に感じられて、ぼくはあまり好きになれない。だけど、一年の命と考えて今を生きるというのは、日本的な武士道に通じるものがあって、ぼくは気に入っている。やっぱり「死」を意識して生きてこそ、「生」の深みが増す。今年の元旦には、能登でたくさんの人が亡くなった。お正月をお祝いしている最中のことだ。そんなことだれも予想しなかったはずだ。もうすぐ、3月11日は、あの東日本大震災から13年目の悲しい思い出の日。ぼくたち人間の歴史は、「かなしみの積み重ね」だ。これも帯津先生の言葉だが、「人間の本質はかなしみにある。私たちは、かなしみの大地に花を咲かせる存在だ。かなしみが本質だと知っていると、ちょっとやそっとでは揺らがない」明るく前向きに生きないといけないと思っている人は、ちょっとしたかなしみに、心がずたずたになってしまう。落ち込んでしまう。ごう慢にもなりやすい。だから、人はかなしみを体験して、それを受け入れながら、少しずつ少しずつ、強くなっていくのだろう。そして、やさしくなれるのだ。
2024年02月14日
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尊敬する帯津良一先生は、「今日が最後の日」と思って生きておられる。だからこそ、充実した日々が送れるのだろう。ぼくも見習いたいと思っているが、頭では理解できても、本気でそうは思えないものだ。いつも、「明日があるさ」と今日を無駄に生きてしまう。ただ、どんな人でもいつかこの世からお別れするわけで、今生の自分を終える時がくる。今日かもしれないし、明日かもしれないし、10年後かもしれないし、わからないからのほほんと生きていられる。そこで考えたのが、「自分の命があと一年だと考えて生きる」ということ。あと一年の命と考えたとき、今日をどう生きるか。締切りがないと、いつまでも原稿は仕上がらない。この一年、こういうことをやろう! と決めて動き出すと、さまざまな変化が起こってくる。決めたことが実現しなくても、ほかのことが形になっていたりする。決めたからやらなければいけないとストイックになる必要はない。自分が決めたことよりも、もっと大事なことはいくらでもあるのだから。決めるというのは、単にきっかけに過ぎない。いつまでも生きられると思っているから何もできないまま、一年が過ぎ、二年が過ぎていく。帯津先生のように、今日が最後の日という生き方ができればいいが、凡人には無理なことなので、せめて、人生に締切りがあることを意識するようにすることだ。今日からやろうと決めた日が、余命一年を宣告された日。来年の今日、最後の一年をどんなふうに振り返ることができるだろうか。そして、次の最後の一年、どう生きると決めるのだろうか。ぼくは3月6日が誕生日だから、この日を節目にしよう。こんなの楽しいと思うけれどもどうだろうか?
2024年02月13日
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