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外界は、人間内部と照応し、人間内部は精神からなっていることがわかれば、外界、つまり自然のなかにも、人間の内部の精神、霊的存在が照応していることがわかる。 「自然の内部に創造霊は入り込まない」(「自然の内部に…」:ベルンの医師、詩人、植物学者アルブレヒト・ハラー(1708-1777)の教訓詩「人間の徳の虚偽」のなかの箴言。ゲーテはこの箴言への反論として「勿論、物理学者に」という詩を書いた、ゲーテ詩集「神と世界」の部にある。)と言う者は、この「外界の至る場所に自然の内(霊;精神)部が存在している」、ということを知らないだけである。 人間全体を、その内部存在に従って研究するには、外の宇宙において、活動し、生きるものを理解するときである。同様に、人間を、頭から四肢まで研究するには、外界に存在する生命体を研究するときである。 このように、外の宇宙と、人間の内部は、完全に補完し合って、全体を成し、更に、次のような構図が描ける。 その構図とは、大きな円があり、大きな円は、円全体の力を中心の一点に集中する。大きな円は内部にそれより小さな円を作り出し、中心点から小さな円全体の力を放射するものである。小さい方の円は更にもっと小さい円を形成し、内部にある円が、その円を放射するというような入れ子の構図である。 このような円が、また(それより小さな)円を形成し、人間の元になるものは、外に向かって放射し、人間の外面としての円は、宇宙の内部の円に触れる。我々人間の感覚が、宇宙と出会う処では、人間に関しては、内から外へと出ていくもの(放射)が、宇宙に関しては、外から内へと向かうもの(集中)に触れる。 放射(分裂);内から外に向かう小さな円である人間 集中(融合);外から内に向かう大きな円である宇宙 このような意味で人間は小宇宙であり、マクロコスモスに対するミクロコスモスである。しかも人間は、このマクロコスモスの驚異と秘密全てを内包し、ただ、その展開の方向は、マクロコスモスとは、正反対である。 もし、今まで説明してきた状況だけしかないとしたら、更なる進化に対して、地球にとっては非常に不都合で、地球は、蟇蛙という存在を排泄し、物質的な人間存在と同様、いつの日か存続できずに滅亡してしまう。
2007年10月31日
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人間の消化器官が、どのように機能を果たしているかを真に研究するには、両生類、爬虫類をみる必要がある。というのも、人間の消化器官の中で、力として消化を押し進めるものが、両生類-爬虫類として、外(天)から飛来するからである。 人間が消化に用いる同じ力で、外なる宇宙、外なる自然は、蛇、蟇蛙、蜥蜴、蛙を形成する。 そして(自然においては何ら醜悪なものはなく、全ては客観的に論義しなければならない)、人間の大腸内部の性質を、その排泄力と共に研究するなら、外には、蟇蛙を研究する必要があり、というのも、人間の大腸の中で、この図式に従って内部から作用するものが、蟇蛙に外から飛来するからである。 人間の大腸内部の力=蟇蛙に飛来する外力 これは描写という点では、蝶に関する描写のようには美しいものではないが、自然においては、全てのものが正に客観的な平等において受け入れられなければならない。 天は万物の上に万物をつくらず このようにして、地球は、地球自身の方でも宇宙的生を共に体験していることに関する1つのイメージが得られる。 というのも、いわば地球の排泄器官を眺めてみれば、地球は単に、生命に乏しい人間の排泄物を、排泄するだけでなく、より生命的なものをも排泄し、地球のその本来の排泄物は、例えば蟇蛙であり、このなかで地球は使用できないものを処理する。 このようなこと全てから、いかに外界の自然全てが、人間内部と照応しているかが、わかる。
2007年10月30日
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爬虫類と両生類、例えば、極めて特徴ある蛙の場合、魚とは事情が異なる。蛙は宇宙のエーテル要素とは、あまり関係なく、むしろ宇宙のアストラル要素と関係している。 魚に、「そもそも、お前は一体、どうなっているのか?」、と尋ねれば、魚は次のように応えるだろう、 「そうでやすねぇ、この地球上で、私は、土(固体)になった被造物で、土と水要素から出来ていますが、私の本当の生命というと、宇宙の呼吸と一緒にあって、地球全体の生命なのですよ」、と。 蛙の場合は、是(魚)とは違い、事情は全く異なり、蛙は普遍的に拡がった、アストラル性に参加している。 この事に関しては、植物の場合を述べたが、更に、宇宙のアストラル性が花の上部にいかに触れているか、ということに関して少し述べる。このアストラル性、丁度、魚と地球のエーテル体が関係するように、いわば地球のアストラル体と蛙が関係する。 魚は、そのアストラル体を、もっと自分自身の為にもつ。蛙は、元々そのエーテル体を自分の為に、魚よりも遥かに甚だしく自分自身のためにもつが、蛙はアストラル的一般のなかに生き、従って、蛙は特に、四季の循環において生じる、アストラル的経過(プロセス)を共に体験し、蛙のなかでは、地球が、水の蒸発と水の再降下として、アストラル性を戯れさせている。 唯物論的に考える人は、当然次のように言うだろう、 「水は、私の知るところでは、何らかの大気力学(ダイナミクス)、或いは大気機構学(メカニズム)による力により、蒸発し、蒸気を含んだ大気が上昇し、水滴が形成され、充分に重くなると、落下する」、と。 しかし、これでは、人間の血液循環に関して、血液循環のなかに、生命体としての全てが生きているという事を考慮することなく、同様の理論を打ち立てる場合とほとんど同じ事を意味する。このように、上昇し、下降し、迸る水の循環のなかには、地球のアストラル気圏が、地球のアストラル性が生きている。 決して、御伽話を述べているのではなく、蛙は(他の両生類の場合にも、このアストラルとの関係にあるが、蛙よりは後退している)気象状態のなかに、気象学のなかに展開する、このアストラルの戯れと共に生きる、と本当にいうことができる。 蛙は、既知のように、単純にも、天気予報に利用される。蛙が、天気を予測できるのは、そのアストラル体をもって、地球のアストラル性を混合する事により、不思議にも、このアストラル体の戯れを共に体験し、蛙は自分が感情を持っているとは言わず、蛙は、雨期、乾期などに地球が持っている感情の単なる担い手となる。 だから、ある気象状態下で、多少とも、素晴らしいか、或いは酷いともいえる、蛙の音楽会を経験するだろう。本質的に言って、この音楽会は、蛙が、地球のアストラル体の共体験の表現であるといえる。蛙は本当に、全宇宙から、鳴く切欠を与えられること無しに、鳴くことはなく、蛙は地球のアストラル体と共に生きている。 だから、「土-水要素のなかに生きるもの(魚、蛙等)は、実際、地球のものを、より一層共に体験する」、といえる。 つまり、魚の場合、地球的生命(エーテル)状態を、蛙と爬虫類-両性類全般の場合は、地球的感受(アストラル)状態を共に体験する。 逆に、人間の消化組織全般を研究するなら、次のように言う必要がある、 「消化組織は、無論、また、この構図に従って内部から形成される」、と。
2007年10月29日
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魚、特に物質(肉)体としての魚は、水と空気を馴染みのないものと感じる。 といっても、魚も、またエーテル体とアストラル体を持っている。これは、魚の奇妙なところだが、魚は本来、自らを(水と空気の)覆い(器、或いは袋)と感じ、魚の中で、水が、他の水要素と結びつくことにより、魚は、自分を、エーテル体のなかに生きていると感じる。 アストラル体を、魚は自分の一部に感じない。だから、魚は、正しく、エーテル動物というべき、奇妙な動物である。魚は自らを水の容器(外皮)と感じている。自分の中にある水を、魚は、世界の全ての水と連携しているものと感じる。 魚にとっては、いわば体全体至る処に水分が連動するように感じる。全身至る処に水分があり、この水分の連動のなか、同時に魚はエーテル体を感じとる。魚は勿論、地球上での生においては口がきけないが、もし話すことができ、自分をどう感じるかについて語れるとしたら、魚は次のように言うだろう、 「私は水の覆い(容器)である、でも、この覆い(容器)は、至る処に拡がる水の要素、つまり、エーテル要素の担い手である水の要素を運んでいる、私は、実は、エーテルの中を泳いでいる」、と。 このように魚は語る、「水というのはマーヤ(幻)にすぎない、実在はエーテルで、私は、本当はエーテルの中を泳いでいる」、と。 つまり、魚は自分の生命を地球の生命と感じている。これが魚の奇妙なところで、魚は自分の生命を地球の生命と感じ、従って、地球によって、四季の循環のなかで、達成される全てに密接に関わり、夏では、エーテル力の放出、冬では、エーテル力の回帰に関わる。だから、魚は全地球の呼吸を感じている。魚はエーテルを地球の呼吸として、感じ取っている。 この事に関して、ヴァハスムート博士(4;Gunther Wachsmuth, 1893-1963 自然科学、法学、国民経済学を研究。法学で学位取得。シュタイナーにより1923年に一般人智学協会理事に任命された。協会で会計主任と自然科学部門の指導者。彼の著書『宇宙、地球、人間におけるエーテル的形成力』(シュトゥットガルト 1924))が、地球の呼吸という主題として、非常に素晴らしい説明を行った。 魚が、もし講演できたなら、自身の経験から、魚は、彼と同じ内容を講演するだろう。というのも、魚は、地球の呼吸を、その呼吸に属する現象の追求から感じ取るからである。 魚は、四季のプロセス(経過)、つまり地球の呼吸生活を、並外れた形で経験する動物で、なぜなら魚にとって重要なのは、エーテル的生命要素で、つまり、波打ったり、出たり、入ったりして、他の呼吸者を、ひたすら巻き込んでいくエーテル的生命要素だからである。
2007年10月26日
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蝶が、自らを光存在とみなし、鳥が自らを、暖かい空気存在とみなすのは正当だが、下等動物の、両生類、爬虫類、魚類等は、光や空気存在のようにみなすことはできない。そこで、今日見られるような魚をみると、魚が外界に出現するときは、いわば外界の形成力に委ねられ、この形成力は、人間では、(人体)内から作用するが、魚には、外から作用する。 魚は主に、水の要素のなかで生きている。しかし、この水というのは、化学者が語るような、単なる水素と酸素の結合物というだけでなく、水は、可能な限り、あらゆる宇宙(天体)の諸力に浸透されている。 水のなかには、星々(天体)の力が、入り込んでいる。化学者が語るように、もし、水が水素と酸素のピュアな結合物だけの存在なら、水のなかでは、どんな魚も生きられない。 しかし、蝶が自らを光存在に、鳥が自らを暖かい空気存在に感じるのと全く同様に、魚も本来、自らを土-水存在と感じる。魚が自らのうちに吸い込む水を、魚は自らの本性とは感じない。 鳥は自分が吸い込む空気を自らの本性と感じる。つまり、鳥を本質的に、図式で表現すると、鳥の中に空気が入り込み、鳥の組織内の至る処に拡がる空気を、自らの本性と感じ、この拡がる空気、鳥のなかで暖められる空気が、鳥の本質である。 魚は、自らのなかに水をもつが、魚は、自らを水とは感じず、魚は自らを、水を閉じ込める存在のように感じる。魚は自らを、キラキラ光る水の覆い、或いは外皮の容器のように感じる。 だから、魚は、水を、自分の中で出たり入ったりする馴染みのない要素と感じる、水は、魚の中で出たり入ったりすることで、魚が必要とする空気をも同時にもたらすが、魚は空気と水を馴染みのないものと感じる。
2007年10月25日
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以前から、何度も述べてきた事に関連するが、人間は死の門を通って地球から去った後、最終的に、頭を分散させ、頭以外の生体組織(胸部と腹部及び四肢)から、その素材に従うのではなく、その力に従って、次の地上生の頭へと作り替える。 今生の胸部と腹部及び四肢の力(つまり、人生でなした行為)→来世の頭 今生での活動→来世での頭 つまり、人間は、元々、地球への転生の下降を求めることによって、頭を求める。そして、頭は、その後(来世)の人間の形態に似つかわしい姿で、人間の胎児として、最初に形成される。人間の進化全般が、頭から形成されるのは(2:この事に関しては1921年7月16日のシュタイナーの講義を参照のこと、『人間の生成、宇宙魂、宇宙霊』(GA205))、頭へと向かう形成力が、人間を、超感覚から、感覚的生存へと引き寄せ、飛翔する(蝶、鳥)世界での作用や、活動との、密接な親和性に関連することからくる。 人間の霊的頭部=蝶、鳥の世界 人間が胎児期の最初に、頭部組織を獲得するとき、後の地上生から形成されるように、消化組織他の素が、母体のなかに配される。人体の上方にある頭の形成が、熱や、空気と関連するように、土-水要素と関連するのは、進化の後の方で人間に組み込まれたもので、この胎児期は、人間の進化において組み込まれてきたそのものの焼き写しである。 地球の進化;古土星紀(熱)→古太陽紀(空気)→古月紀(水)→地球紀(土) 人間の進化;頭部(熱)→頭部及び胸部(空気)獲得→腹部(水)獲得→四肢(土)獲得 地球進化=人間の進化、胎児期は、地球進化を母体内で繰り返している。 しかし、この土-水要素は、人間では全く特殊な形、つまり、母体のなかで、準備されなければならず、もし、母体のなかでなく、外界のような地球、地上のなかに分散され、(蛙のように)器官自身から形成されるなら、土の上では、下等動物の形姿、両性類や爬虫類へと形成され、水のなかでは、魚や、更に下等な動物へと形成されただろう。 『もし、人魚を望むのなら、胎児期の途中で母体から出し、水のなかで成長させることが考えられる。恐らく、人魚伝説も、太古の時代に実際、試みられたものの言い伝えなのだろうか?』
2007年10月24日
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既に述べたことを遡り、もう一度、以下の事を描写したら、理解が深まる。蝶は元々、光の生物で、その生存中から、絶えず霊化された地球素材を宇宙に送り込むと、以前述べた。さて、宇宙に送り込まれる、霊化された地球素材を、従来の天文学の、太陽に対する表現をかりて、蝶コロナと呼ぶ。 上記の如く、絶えず蝶コロナが宇宙に放射されているが、この蝶コロナのなかに、鳥類が死ぬたびに宇宙に委ねるものが放射され、鳥類により、霊化された素材が宇宙に放射されていく。このとき、外から霊視すると、蝶類から発する煌めくコロナ(これは、冬にも、一定の法則により、維持される)の光景、鳥たちから流出するものが、光線状に、(宇宙へと)入り込んでいくのが見られる。 人間が正に霊界から物質界に下降するとき、そのとき人間を、この地上での生存へと呼び寄せるのは、第一に、この蝶のコロナ、この独特の放射の霊化された地球素材である。そして鳥コロナの光線、これは更に、地球への引力として感受される。 この事により、大気圏での高次の生物の意味がわかる。現実に生きて活動するあらゆる場所に、霊を探求する必要がある。霊を探求してはじめて、個々の存在領域が、いかなる意味を持つかということに到達する。 地球は、蝶コロナの光放射と、鳥コロナの光線を宇宙空間に送り出すことで、いわば人間を再受肉へと誘う。これらは人間が、死と新たな誕生との間、しばらく純粋な霊界で過ごした後、再び新たな地上生へと人間を呼び寄せる(新たな地上生へと:シュタイナーによる神秘劇「魂の目覚め」の第八景における新洗礼者の描写を参照のこと、『四つの神秘劇』(1910-1913GA14))。 だから、人間が蝶の世界や、鳥の世界を見る際に、当然持つ複雑な感情の謎を解く困難を感じるのも不思議ではない。というのも、実際に、この感情の存在は、意識下の奥底深くに潜んでいるからである。このとき存在するのは、新たな地上生への憧れの記憶である。
2007年10月23日
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この進化に従って、地球にみられる被造物は、今日、人間に見せているような姿に進化した。勿論、蝶と鳥をみれば、地上的な形姿をもつが、以前から説明してきたように、蝶は本来光の生物であり、地上的素材は、蝶に付着しているだけであることがわかる。 蝶自身が、自分が何であるかを語れるなら、蝶は以下のように告げるだろう、 「蝶は光からなる体を持っていることは、既に述べたが、蝶は地球素材として、自らに付着されているものを、荷物のように、(自分ではない)何か外的なもののように、身につけている」、と。 同様に、鳥は暖かい空気の動物と言え、というのも、本当の鳥は、鳥のなかに拡がる暖かい空気の存在だからで、それ以外の他のものは、鳥が、この世で引きずっていく荷物である。このような動物、つまり実際、今日でもなお、その光の性質、熱の性質を、地上的な覆い、土の覆いや水の覆いで包んで維持するだけの、このような生物たちは、全地球進化の最も初期(古土星紀)に出現した。 これらの生きものがもつ形姿は、人間が地上生活に下降する前に、霊界で過ごす時を、今でも見通せる人に、この霊界での経験を思い起こさせる。なるほど、これらは地上的な形姿だが、地上の素材が付着しているからである 蝶という、浮遊し活動する発光存在を正しく思い浮かべるなら、地上的なものが付着しているものを、除外して考え、鳥を、翼により、暖かい空気存在にする多量の力を、輝く光線として考えるなら、その外面の覆いせいで、現在ある姿に見えるような、このような生物たちは、地上に下降する前の人間存在のことを知る人に、人間存在の地上への下降を思い出させる。 このように霊界を覗き込む人は、この事を次のように言うだろう、 「蝶のなかに、鳥のなかに、人間が地上に下ってくる前に生きていた、霊の形姿を、高次のヒエラルキアの存在を思い起こさせるものがある」、と。 理解力をもって、蝶と鳥を眺めると、それらはまだ地球進化に下降していなかったとき、自らの周囲にもつ霊の形姿、小なるものに置き換えられた、変容された記憶である。地球素材は重く、克服される必要があるので、蝶は本来もっている、その巨大な姿を、小さなものに縮めている。 蝶から地球素材を全て分離できたなら、蝶は霊存在、発光存在として、大天使の姿にまで拡がることができる。既に、空中に棲む動物たちのなかには、高次の領域に霊に即した形で存在するものの地上的な模像(似姿)をもっている。 従って、霊視を本能的にもつ者の時代では、飛行する動物の形姿から、高次の霊存在の象徴的形姿、具象的形姿を創り出すことは、芸術的な営みで、内(精神)的意味があった。根本において、蝶と鳥の物質的形姿は霊存在の物質的変容に他ならない。霊存在たちは変容するわけではないが、勿論、両者は別の存在であるが、蝶と鳥は霊存在たちの変容した模像である。
2007年10月22日
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地球紀において、人間が重力と地磁気の下で、その四肢を形成すると、このとき無論、亀も(亀を代表として取り上げる)その頭を、頭というよりむしろ四肢器官のように、甲羅から差し伸ばした。このようなことから、両生類と爬虫類においては、頭がいかに不格好に形成されたかということも理解できる。 このような頭の形成に関しては実際、それが正しいにせよ、次のような感情が起こる、 「このような頭では、口からすぐに胃の中になる」、と。 つまり、頭から胃までに、仲介物があまりないといえる。 つまり人間を観察し、その本性を、動物の仲間に相同配分すると、爬虫類と両生類のなかに含まれるものは、人間の消化活動を、相同配分しなければならない。そして事実、次のように言える、 「人間が、その消化の産物を、腸のなかに持ち回るように、宇宙は地球という迂回路をとり、蟇蛙、蛇及び蛙(消化の産物)を、いわば地球の水-土状要素のなかに、つまり宇宙が形成する宇宙の腸のなかに持ち回っている」、と。 これに対して、人間の生殖と関連するもの、全般に月紀の最後になってはじめて、その最初の原基のなかに形成されて地球進化紀(変容)になってようやく発生するもの、これに親和性があるのが魚で、更に、魚他の下等な動物たちである。 従って、魚を進化において、遅れてきたものとみなせ、つまり、進化において人間の場合でいえば、生殖器官が消化器官につけ加わるときに、ようやく、動物たちに魚の存在が付け加わる。 蛇は本質的に、生殖器官と消化器官の間を中継するもので、人間の性質を正しく覗き込むと、蛇は何を現すのか? 蛇は、つまりいわゆる腎臓の導管を現わし、蛇は宇宙進化において人間の腎臓の導管が形成された時期に出現した。 このように、人間がどのように頭から始まって下へと生長するか、地球が、どのように人間から四肢を引き出して、四肢を、地球の重力と磁力の均衡をとるように用いるか、正しく追求できる。そして、この下への生長と同時に、様々な動物グループが形成される。 このように、その被造物(地球上の生物たち)を伴う、地球進化の正しい像が得られる。
2007年10月20日
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さて、当然次のような問いが出てくる、「地球紀に仲間のように、人間の進化に参加するのは牛だけなのか?」、と。 牛だけではなく、何らかの惑星変容(進化紀)が生じるときは常に、古い存在たちが更に進化し、しかも新しい存在が生じる。牛は月進化紀(変容)の最初期にはもう出現しているが、月進化紀(変容)の最後にその最初の原基を獲得する他の動物たちも更に加わった。 月紀の最後に誕生した動物は、例えば、月は(地球と分離し)既に外にあるために、もはや(地球から)去っていく月を経験できない。つまり、これらの動物は、月の分離が引き起こすこと、つまり月がいわば牛の腹から心臓器官と頭部の器官を引き出すことを経験できず、後から出現する存在たちは、人間における消化器官のように、固定された状態に止まっている。 このように、元々消化動物のみであり続ける存在たち、人間がその腹部にもつ段階に止まっている存在たちが月紀の最後に出現した。 鷲と蝶が(人間の)頭に、獅子(ライオン)が胸に、牛が下腹部に配分されるように、ただし、牛は同時に上部のもの全て、後の進化で、生え出させる動物としてだが、丁度そのように、両生類及び爬虫類、つまり蟇蛙、蛙、蛇、蜥蜴その他は、人間の下腹部、人間の消化器官だけの生物に配置される。月紀(の最後)において、純粋な消化器官が動物として出現する。 動物の進化 蝶 鳥 ライオン 牛 両生類、爬虫類 魚 地球の進化 土星紀 太陽紀 月紀 人間の進化 頭 頭-胸 頭-胸-下腹部 この動物たちは月紀の後半に極めて不格好な形姿で出現し、実際生ける胃腸、生ける胃と腸管といえる。その後、地球紀になってようやく、やはりまだ格別上品にも見えない頭部を獲得した。蛙や蟇蛙、或いは蛇をみれば、これらが正しく月紀の後の時代に消化動物として出現し、人間が消化器官を、既に以前得たもの(頭部や胸部)に付け加えた時代になってから、出現したことがわかる。
2007年10月18日
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地球の月進化紀(変容)へと更に進んでいくことにより、無論、後の時代になって角質状になるとしても月は水変容(変態)を示し、月は水性であるが故に、ここではじめて人間は、下へと向かう更なる(進化の)継続を、この時点から必要とするようになった。つまり、消化組織(システム)の原基が形成されたのである。 古い太陽紀の期間、光を通して波打ち、光を通して輝く空気状のものしかない間は、人間も栄養摂取の為には下に向かって閉じた呼吸器官さえあればよく、人間は頭部-呼吸器官存在であった。 さて月紀においては、人間は自らに消化組織を組み込み。それと同時に人間は、頭、胸、下腹部存在となるに至ったわけである。そして月においては全てがまだ水状の実質であるため、人間には、この月紀の期間、水中を泳ぐのに使用する突起がある。 腕や脚に関して述べることができるようになるのは、地球紀になって重力が作用し、特に重力の方向に添うもの、つまり四肢が形成されてからのことである。つまり、腕や脚は、地球紀になってから生じた。 しかし、月紀の間に、後の時代とは、まだ全く別様に作られていたとはいえ、消化器官が形成され、この人間の消化器官は、まだ(後に発生する)四肢の自由による恣意的な運動の処理全てに仕える為の摂取の必要がないように作られていた。 このときの消化器官は、まだ根本的に、現在とは別の消化器官であり、これが後に、地球紀の消化器官に変容した。とはいえ、人間は月紀の間に消化器官を自らに組み込んだ。 古土星紀;頭部と蝶、鳥類(熱) 古太陽紀;胸部(律動器官)と獅子(空気) 古月紀;腹部(消化器官)と牛(水) 更にまた、蝶、鳥、そして獅子(ライオン)に代表されるような種の後裔に、主として消化への傾向を持つ動物たちが加わってくる。つまり、この月紀の間に、例えば、牛を代表とする動物が付け加わる。 では、人間とは対照的に、牛の成長はどのようなものなのか? 牛は、この古い月紀の間に、まず主に消化器官を形成し、月が分離した後で、消化器官から胸器官と独特に形成された頭が生え出てきた。 人間は頭から発達を始め、それから胸進化(変容)が続き、更に消化器官が続く、獅子(ライオン)は胸の器官から始まって、頭が続き、人間と同時に月紀の間に消化器官を得るが、他方牛に代表される動物の場合は、最初の原基として、まず消化器官があり、次いで消化器官から生え出るように、胸の器官と頭部器官が形成された。 つまり、人間は頭から下へ、獅子(ライオン)は胸から上と下へと生長し、牛は消化器官から胸へ、そしてようやく頭へと生長する。これを人間と比較すると、牛は、いわば上に向かって、心臓と頭に向かって、牛が生長することがわかる。この比較から人間の進化を観ていくことができる。
2007年10月17日
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太古の医療を探求していると、目からウロコのような話に驚かされる。太古というのは、具体的にいえば、ヒポクラテス以前の古代ギリシア時代以前のことである。 目からウロコの話の一例を挙げるなら、トカゲの尻尾の再生力、これを中世の古代医療研究家のパラケルススは、「アルケウス」という名で表現したが、この再生力が、人間には、何故ないのかといえば、実は、人間や高等動物にも存在し、人間の場合は、思考力に使われているというのである。 つまり、トカゲの尻尾の再生力を使って、人間は思考しているという。更にいえば、人間が覚える技術や能力全てが、本来、トカゲの尻尾の再生力なのであるという。 だから、逆説的にいえば、トカゲが敵に遭遇し尻尾を切られない限りは、その再生力を発揮しないように、人間が、なんらかの困難や逆境に置かれない限り、本来眠っている、この再生力は発揮されないといえるだろう。 パラケルススは、この再生力こそが、人間を病気から生命能力に変える生命の杖だと表現したのである。ホムンクルスとは、誰もがもつ、この生命の杖に他ならない。 神に感謝というべきか、人間は、人生において、様々な困難や逆境、試練や病気に遭遇せざるをえない。しいては、生きる誰もが最後に死という恐怖を与えられているのである。つまりは、この再生力、生命の杖を活かすように、人生は予め計画されているといえるだろう。 そのような証拠の手懸かりは、神経細胞の非増殖性にあるという。つまり、神経細胞は、当初の原始体質の非増殖性に止まることにより、代替的に、思考力、いわゆるニューラルネットを再び組めるような手法を手に入れたといえるだろう。 原始に止まった状態にいるからこそ、神と共にいた楽園に止まり、神々と交信できる状態にあるといえる。 「神経」という文字は、「神を経た」と書くが、正に、何らかの困難や逆境に追い込まれたときに、「困ったときの神頼み」というように、トカゲの尻尾の再生力のように、神経細胞を使ったニューラルネットの再構築に、人間は身を委ねる。 つまり、元々、神経細胞には、ニューラルネットとしての神が記憶されており、困ったとき、つまり、他の自らを構成する自己組織化した細胞体系が、危険に陥ったときに、再生するために、人間は、神経細胞の再構築に身を委ねる。 だから、神経細胞のネットワークは、魂が神々の記憶を基に構築した神々の書物とでもいえるべきものである。それは、例えば形状記憶合金が、形状記憶を取り戻すように、人間が困ったときには、神々の叡智に祈り、この神々の記憶に身を委ねるように、予め、ニューラルネットの再構築のなかにインプットされているといえる。 この事は、しばしば、閃きやイメージとして、発明者や学術上の発見者に体験として現れることから想像できるだろう。 つまり、人間が誕生した時点で、神々への道の解答は既に、人間自身の神経細胞の再構築のなかに与えられているのである。それを複雑化し、混乱させたのは、人間側の自由のなせる業といえる。 だから、道に迷ってしまったときは、元々きた道を辿って戻っていけば、全体図がわかるように、人間には、既にできあがったパズルが与えられていて、それを解くのは、人間次第、つまり自分次第なのである。困れば困るほど、パズルを完成する能力が磨かれるというものなのである。 人間の始祖であるアダムの身体は、既に神経細胞の再構築のなかに記憶されているのである。神経細胞は、形態的に原始に止まったせいで、他の増殖化し、形態分化した細胞とは異なり、完全に展開できた人間の組織完全体の設計図を既に、再構築として、記憶しているのである。 自然治癒力も、人間完全体、つまりアダムの身体である、この再構築から生まれるのであろう。人間の身体が危機に瀕すると、神経細胞の再構築により、アダムの身体、設計図が自然と呼び起こされるのである。 十戒(解答)は既に与えられている。それを守る(解く)かどうかは人間次第なのである。 トカゲと人間の違いは、トカゲはトカゲでないことを選択できないが、人間は人間であることを選択できる点にあるといえる。つまり、逆にいえば人間は獣にもなれるのである。 神経細胞こそが、神々との交流を宿し、神々との記憶、つまり神々のイメージを司ることができ、そこから人間は、神々のような理性や、高尚な精神を宿すことができるのである。 迷える子羊よ!試練のうちに目覚めよ!!
2007年10月16日
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土星紀から太陽紀へと進化が更に進むと、更なる形成、空気(への)変形、つまり空気変容の頭を有する存在が生じ、これは後になって胸部形成物に、人間の呼吸-心臓の形成物になる精妙な実質に組み込まれた。 つまり、古土星紀において、人間がもつものは、まだ根本的に、後に人間の頭を示す変容形態である。古太陽紀に到達すると、頭-胸人間が得られ、これは、現在の人間の胸部に組み込まれている。 しかし、既に土星紀の最後と太陽紀の最初期において同時に、鷲のなかに、その代表となるものを見出せるものが出現した。鳥類は太陽紀の前半に生じ、太陽紀の後半には、胸動物の原型、例えば獅子(ライオン)のような(代表的には獅子「ライオン」だが、その他の胸動物も含まれる)、胸動物である動物種の最初の原基が生じる。従って、これらの動物の、最初の原基は古い太陽紀まで遡る。 このようなことから、高等動物と人間の形成そのものに、いかに著しい違いがあるかがわかる。猿類も含め過渡的な動物についても、後に少し述べるが、いまのところは包括的な概念を与えておくだけに止める。ここから、人間形成と高等動物形成にも、著しい違いがあることがわかる。 人間では第一に、進化においては頭が形成され、その他のもの(胸部や腹部や四肢等)は、いわば頭部形成に付属する付属器官となる。人間は宇宙進化においては、頭から下方へと生長していく。 これに対して、獅子(ライオン)は、例えば古い太陽紀の後半に、まず胸動物として出現した動物で、まだ非常に小さな、萎縮した頭を持つ力強い呼吸動物であった。太陽が後に、地球から分離し、外から作用するようになるときになってようやく、胸から頭が生じた。 つまり獅子(ライオン)は、胸から上に向かって発達していくという成長をし、人間は頭から下へ向かって発達していくことで生長する。これは全進化における著しい違いである。
2007年10月16日
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その後、太陽紀には気体の形状をとり、月紀の間は液体状に流動する実体であった。そして、地球紀に骨の含有物を伴った固い形態を獲得し、よって、次のように言えるようになった、 「今日でも、確かなことだが、外(唯物)的認識をもって、思い描くことが困難な、人間の頭の実体とは、古い土星紀の(熱)実体の後裔である」、と。 この人間の頭(霊的)形成と同時に、以前述べた話から察知できるだろうが、この人間の頭の形成と同時に、古い土星紀の期間に、蝶存在への原基が生じた。後ほど、その他の昆虫存在も、更に詳細に考察するが、まずは蝶存在に止まる。 よって、古い土星紀から今日まで、現にある地球まで進化を追求するとき、次のように言える、 「人間の頭の精妙な物質的形姿(フォルム)が原基として形成され、蝶存在として空中を飛び交う全てのものが形成される」、と。 この両方の進化は更に進み。人間は内面化し、その結果益々、魂を顕現させる存在の、内(精神)から外(物質)へと進む存在となり、つまり図式的に表現すると、自らを内から外へと放射しつつ進化させる存在となる。 それに対して蝶存在は、宇宙が美という積み荷を、外面に蝶として降ろしている、とでもいうべき存在である。蝶はいわばその翅の鱗粉に、以前から述べた形で、宇宙における美と荘厳として存在する全てが飛来し付着している存在である。 つまり、蝶という存在は、いわば上なる宇宙の美の鏡像というように思い描くべきである。人間は上なる宇宙を、自らのなかに受け入れ、自らのうちに閉じこめ、内部で魂となり、宇宙の収縮、つまり、その後、外に向かって放射し、人間の頭として形姿を得る収縮体のように、魂となり、その結果、頭において、内から外へと形成されたものが得られるが、他方、蝶存在においては、外から内へと形成されたものが得られる。 人間の頭;内から外へと進化する魂 蝶存在;外から内へと進化する霊 だから、以上のような事柄を、霊視者のように観察する人は、次のように言うなら、実際、途方もないことを学ぶ、 「私は秘密を、人間の頭の土星の秘密、最も古い秘密を徹底的に究明するつもりである。この頭蓋の内部で、元々、力として統べていたものは、今度は知識を得る能力となる」、と。 その人は、外界の至る処に見られるもの、外界の至る処に照射してくるものに自らの注意を向け、そして蝶存在を、研究すべきである。 「人間よ、お前自身の頭部の奇跡を学び知るには、外なる自然において、蝶が宇宙から発生する奇跡を探究するがよい。これが、つまり、霊視者的宇宙観察が与えてくれる偉大な教えである。」
2007年10月15日
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さて、地球での生存において、人間と結びつけられている動物、植物、鉱物存在の考察に移る前に、今回は、人間自体の進化に眼差しを向け、幾つかを、魂の前に思い描く。これらは、私(シュタイナー)が口頭、或いは著作で行なってきた様々な説明から周知だが、一度、ここで概観的にまとめることが重要である。 今日、外(唯物)的科学から学ぼうとするなら、通常次のようなことがいわれる。 「植物界、次いで動物界、人間界、いわゆる高等生物が、生命のない、いわゆる無機的物質、或いは力から、どのように発生してきたかを探究しなければならない」、と。 進化を、真相から観ると、根本的に、これとは別種のことが明らかになる。いわゆる著書『神秘学概論』から読み取れるように、今日、人間は、最も長い進化を経てきて、その進化は古い土星紀にまで遡るような存在であることが明らかになる。 従って、我々人間は(上記の存在のなかで)、この地球進化のうちで、最も古い被造物であるといえる。太陽紀になって、ようやく動物(界)が、月紀になって、植物(界)が、人間(界)に付け加わり、そして今日、あるような鉱物界は、本来、地球(紀)の成果であり、地球進化期になって、はじめて付け加わった。 さて、1つ今日の形態をとっている人間を見て、次のような問いかけを行う、 「進化史上で、人間のなかで、最も古い部分は一体何か」、と。 それは人間の頭である。この人間の頭が最初の原基(素質)を受け取ったのは、地球が正にまだ土星進化紀(変容;段階)にあった時期であった。言うまでもなく土星進化紀(変容)は、ただの熱実質からのみ成立し、人間の頭も、沸き立ち、息づき、波打つ熱であった。
2007年10月13日
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ミカエルと龍の闘いの新しい形として、以前に描写したものにより、この蝙蝠の残存物から、自らを防御する必要がある。ミカエル衝動を、霊的に描写されるように受け入れると、人間が内(精神)的に力づけられ、これが、龍が得ようとする食物から、人間を守り、そうすれば人間は大気圏内の極めて、不当な蝙蝠(コウモリ)の残存物から身を守ることができる。 内的な宇宙関連から、引き出されうる真実を前にして、尻込みせず、この内(精神)的な宇宙関連に真に深く入り込むのならば、防御できる。というのも、今日一般に知られている、調査や探求の形式は、全くいかなる真実にも導くことはなく、大抵は夢に見られたものですらないもので、正にマーヤ(幻)しか導かないからである。 真実は、物理的存在と雖も、その全てが霊的存在に浸透されているのを見ることができる領域において、是非とも探求すべきである。真実に近づくことができるのは、今述べられているような真実を観察するときだけである。 あらゆる存在とは、善いものか、悪しきものの為にあり、全ては、それぞれが他の存在と、いかに関連するかを認識できるような形で、宇宙関連の内(精神)部に置かれている。 唯物論的な考え方の人にとって、蝶は飛び、鳥は飛翔し、翼手類の蝙蝠(コウモリ)は飛ぶようにみえるが、これはほとんど芸術センスのない人に見られるもので、自分の部屋一杯に、互いにバラバラの、内(精神)的関連の全くない、ありったけの絵画を掛ける場合と同じである。 通常の世界観察者にとっては、世界(宇宙)を飛んでいくものに対しても、内(精神)的関連性を見出せていないのは、そのような人には、内(精神)的関連性が見えないからである。 けれども、宇宙全てのものは、自らの場所に立っている。なぜなら、これらは自らの場所から、正に宇宙の全体性との内(精神)的関連を有しているからである(自由の真の意味)。蝶であれ、鳥であれ、蝙蝠(コウモリ)であれ、全ては宇宙のなかに何らかの意味を伴って置かれている。 今日、このようなことを嘲笑したい人は、嘲笑すればよい。嘲笑する人たちは、常に自説とは異なることをなんでも、嘲笑するものである。近年の著名なアカデミー会員たちが次のような判断を発表した、「隕石などというものは存在しない、なぜなら天から鉄が落下することはありえないから云々」、と。 今日述べたような蝙蝠(コウモリ)の機能について、この著名なアカデミー会員の人たちが嘲弄しないとはいえないが、とはいえ、実際、文明を、霊的認識で貫くという点において、こういった嘲笑等全てが、この霊的真実を揺るがすことはないだろう(嘲笑する者は、嘲笑される宿命にあるといえる)。
2007年10月11日
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本能的な霊視がまだ存在していた古代においては、人間たちは、今日でも、丁度物質的(化学的な)なもの、例えば悪臭に敏感な人たちがいるのと同じように、蝙蝠が発する、この霊マグマに対して非常に敏感であった。 ただ、悪臭等と同様に、これらは下賎なものとみなされ、古代の本能的な霊視者の時代においては、人間たちは、蝙蝠(コウモリ)として空中に存在するものに対して敏感であった(いまでいう、花粉症や化学物質過敏症のようなアレルギーのことだろう)。 人間たちは、このようなものから身を守り、幾つかの秘儀のなかには、この蝙蝠(コウモリ)の残存物が人間に支配力を揮わないように、人間が自らを内的に、(外界から)遮断するための、特定の呪文があった。 というのも、人間は、空気と同時に、単に酸素と窒素だけを吸い込むのではなく、この蝙蝠(コウモリ)の残存物も吸い込んでいるからであるが、今日の人類は、この蝙蝠(コウモリ)の残存物から身を守ることを考慮せず、例えば、匂いやタバコの煙に対しては、非常に敏感である一方で、この蝙蝠(コウモリ)の残存物に対しては極めて鈍感であるといえる。 人類は、この蝙蝠の残存物を飲み込み、その際に、何か吐き気のようなものすら感じることがない。それ以外の悪臭等には、非常に神経質な人々が、この下賎なものを飲み込むのだから、これは全く奇妙なことであろう。 しかしともかく、このようにして、蝙蝠の残存物は、人間のなかにも入っていくが、物質体とエーテル体には入っていかないが、アストラル体のなかに入っていく。 さて、このように、ここで、奇妙な関連に辿り着くことがわかる。秘儀参入学は、正に至るところで、関連しあい、つまり、これらの蝙蝠の残存物は、以前述べた、龍として描写したものに最も欲される食物である。 ただ、これら蝙蝠(コウモリ)の残存物は、最初に人間のなかに吸い込まれざるを得ず、そして、人間がその本能を、蝙蝠の残存物に浸透させるとき、龍は人間の本性のなかに、その最良の拠り所を得る。蝙蝠(コウモリ)の残存物が、人間の内部を撹乱する。 そして、龍はこれを貪り喰い、太り、勿論、霊的に述べているのだが、そして龍は人間に対して支配力を得て、様々な形で支配力を行使する。今日の人間もまた、この事から身を守る必要がある。
2007年10月10日
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蝙蝠(コウモリ)として、空間をバタバタと通り過ぎていく生物は、実際、飛行する宇宙の夢である。夢が黄昏の光を愛するように、宇宙は蝙蝠(コウモリ)として、空間を通過させることにより、黄昏の光を愛する。 記憶という持続的な思考、これが地球を取り巻く、蝶の帯のなかに具現されている。現在に生きている思考は、地球を取り巻く鳥の帯のなかに見る。夢は地球の周囲に飛び回る蝙蝠(コウモリ)として具現している。 蝶の帯;記憶という持続的思考 鳥の帯;現在という瞬間的思考 蝙蝠の帯;夢という黄昏の思考 このように、そのフォルムへと深く入っていき、蝙蝠(コウモリ)を、夢の黄昏のように見ると、まるで、夢を見ることに親和性があるのがわかる。蝙蝠(コウモリ)は、次のような考え以外の見方はできない、 「やはり、お前は夢を見ている。それは本来、ここに実在すべきものではない。夢が通常の物質的現実から出てくるように、自然(界)の別の被造物から出てきたものである」、と。 つまり次のように言える、 「蝶は霊化された実質を生きているうちに霊の国へと送り込む。鳥は死後にそれを送り出す」、と。 さて蝙蝠(コウモリ)は何をするのか? 蝙蝠(コウモリ)は、霊化された実質、特に、個々の指の間に張られた皮膚のなか(蝙蝠の翼)に生きる霊的実質を、生存中に分泌する。しかし、それを宇宙に委ねるのではなく、地球の大気中に分泌する。 その蝙蝠の翼により、絶え間なく地球の大気中に、霊の真珠といえるものが生じる。 さて、このように地球は、放射していく蝶の霊素材の持続的な煌きに取り巻かれ、死にゆく鳥から発する霊素材が迸るが、蝙蝠(コウモリ)が、自ら霊化したものを、分泌した空気として、空気中の奇妙な含有物を、地球へと反射する。 これらは、蝙蝠(コウモリ)が飛んでいるのを見るとき、常に見られる霊の形成物である。事実、蝙蝠(コウモリ)は、常に彗星のように背後に尾のようなものを付けている。蝙蝠(コウモリ)は霊素材を分泌するが、それを(霊の国へと)送り出さず、物質的な地球素材のなかに押し戻す。蝙蝠(コウモリ)はそれを空中へと押し戻す。 物質的な蝙蝠(コウモリ)が飛ぶのを、物質的な目で見るように、この蝙蝠(コウモリ)に相応する霊的形成物が空中を飛んでいくのを見ることができ、空間をバタバタと横切っていく。 そして、空気は酸素、窒素、その他の構成要素から成立することを(唯物科学の知識から)知るが、それらは全てではなく、空気のなかには、それらに加えて、蝙蝠(コウモリ)の霊的影響からも成り立っている。 どれほど風変わりで逆説的に聞こえようと、蝙蝠(コウモリ)の、この夢の類は空気中に小さな幽霊たちを送り込み、それらはやがて一塊に一体化する。 地質学では、大地の下にあって、まだドロドロで、粥状の岩石の塊を、マグマと呼ぶが、蝙蝠(コウモリ)の分泌物に由来する空気中のマグマについても、以上のように同様に語ることができる。
2007年10月09日
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蝙蝠(コウモリ)は、光に浸透された空気を好まず、光が、ほんの僅かだけ残っている黄昏の空気を好む。蝙蝠(コウモリ)が鳥と区別されるのは、鳥は、本来常に、空中の存在に目を向け、禿鷲でさえ、例えば子羊を見るとき、子羊が気圏(空中)の端にいるものとして、上空から見、地面に接し、描かれた存在のように知覚する。 鳥の欲望は、例えば、子羊に向かってくる禿鷲の飛行のなか、鳥の欲求と意志と、欲望の紛れもないダイナミクス(動力学)の飛行として、実際見るときに感じるだろう。 蝶は地上にあるものを、総じて鏡に映るかのように見、蝶にとっては、地球は1つの鏡である。蝶は宇宙のなかにあるものを見る。 蝶がヒラヒラと飛ぶのをみるとき、本当は次のように思い浮かべるべきである、 「地球に蝶は注意を払わない、地球は鏡だからである」、と。 地球は蝶に、宇宙のなかにあるものを映し出す。鳥は地上のものを見ないが、空中にあるものを見る。 蝙蝠(コウモリ)に至って初めて、自分の飛行の前を横切っていくもの、飛行の前方を通過していくものを知覚し始める。蝙蝠(コウモリ)は光を好まないので、本来自分が見る全てに接触されるのが不快である。 だから、蝶と鳥は非常に霊的な方法で見るが、上(天)から降りてきた最初の動物、地上的な方法で見る必要のある動物は、視覚に触れられるのが不快なのである。蝙蝠(コウモリ)は、視覚を好まず、従って蝙蝠(コウモリ)は、自分が見るものと、見たくないものに対する具現化した不安とでもいうべきものを持っている。 蝙蝠(コウモリ)は物の傍らを、サッとかすめていきたいのであり、見る必要はあるが、見たくない、という風に、至る所で、サッと身をかわしたいと思っている。蝙蝠(コウモリ)は、そのように身をかわしたい為、全てのものに、驚異的に耳をすます。事実、蝙蝠(コウモリ)は、自らの飛行が危険に晒されないかどうか、絶えず、自分の飛行に耳をすませている動物である。 蝙蝠(コウモリ)をみれば、蝙蝠(コウモリ)の耳が宇宙の不安に適合させられていることがわかる。 これが蝙蝠(コウモリ)の耳である。これは全く奇妙な形成物で、世界を密かに通過し、宇宙の不安に正確に適合させられている。蝙蝠(コウモリ)を、いま据えた関連のなかで観察するときに、以上の全ては、初めて理解できる。 蝙蝠の宇宙言語;その耳が宇宙の不安に適合 もう少し述べるが、蝶は霊化された素材を絶え間なく宇宙に与え、そして蝶は土星作用の申し子である。 さて、以前、土星は太陽系の記憶の大いなる担い手であると述べた。蝶は、この惑星の想起能力と正に関連している。霊化された素材は、蝶のなかに生きている想起的思考である。 鳥は(これも既に述べたが)全体として本来一個の頭であり、そして宇宙空間を貫いて飛翔していく、熱に浸透された空気のなかで、鳥は本来生きて飛翔する思考である。人間が、思考として持つもの、実際、熱エーテルとも関連するものは、人間のなかの鳥の本性、鷲の本性である。鳥は飛翔する思考である。 これに対し、蝙蝠(コウモリ)は、飛行する夢、飛行する宇宙の夢である。従って、次のように言うことができる、 「地球は蝶により、織りなされた。蝶は宇宙の記憶である。そして鳥類については、鳥類は宇宙の思考である。そして、蝙蝠(コウモリ)は宇宙の夢、宇宙の夢をみることである」、と。
2007年10月08日
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今度は、光の蝶、熱の鳥に続く、3番目の種類で、空気まで下降すると、ある生物に到達する。この地球進化の、ある特定の時期、例えば月がまだ地球と共にあり、月がまだ地球から分離していなかった時期には、存在できなかった生物である。 ここに到達する生物は、やはり空気の生物だが、空中に生きてはいるが、本来、既にもう、地球固有のもの、地球の重力に完全に接触している生物である。蝶は、まだ全く地球の重力に接触せず、蝶は喜んで光エーテルのなかを舞い飛び、自らを光エーテルから生まれた被造物と感じている。 鳥は、空気を体内で暖め、暖かい空気の存在により、重力を克服し、暖かい空気が冷たい空気に運ばれ、鳥は、地球の重力を克服する。 なるほど、その素性からすれば、まだ空中で生きざるを得ないが、空洞の骨ではなく、髄に満たされた骨を持ち、鳥が持つような空気袋も持っていないので、地球の重力を克服できない動物、このような動物は、蝙蝠(コウモリ)である。 蝙蝠(コウモリ)というのは、全く奇妙な動物である。蝙蝠(コウモリ)は、体の内部にあるものにより、地球の重さ(重力)を克服できない。蝙蝠(コウモリ)は、蝶のように、光さながら、軽やかではなく、鳥のように熱さながら、軽いわけでもなく、蝙蝠(コウモリ)は既に地球の重さ(重力)に屈し、既に筋肉と骨のなかに自らを感じている。 従って、蝙蝠(コウモリ)にとって、例えば、蝶を作り、蝶が生きる要素、この光の要素は快適ではない。蝙蝠(コウモリ)は黄昏を好む。蝙蝠(コウモリ)は空気を用いざるを得ないが、光を担っていない場合の空気を最も好む。 蝙蝠(コウモリ)は黄昏に身を委ねる。蝙蝠(コウモリ)は本来黄昏の動物である。蝙蝠(コウモリ)が空中で身を支えることができるのは、蝙蝠(コウモリ)が、どこかカリカチュア風に見える翼、実際、それは本当の翼ではなく、拡張した皮膚、指の間に広がった、伸びた皮膚、いわゆるパラシュートをもつことによる。 このいわばパラシュートにより、蝙蝠(コウモリ)は空中で身を支える。このパラシュートにより蝙蝠(コウモリ)は、重さ(重力)に関係するものを、対重(釣り合いの重り)として対置し、重さ(重力)を克服する。 この事により、蝙蝠(コウモリ)は完全に地球の力の領域に係留される。物理的-機械的構成に従い、蝶の翅を、難なく構成することは不可能で、鳥の翼も同様に不可能だが、蝙蝠(コウモリ)の翼は、地上的な力学と機械学で完全に構成できる。
2007年10月04日
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「独裁者で何が悪い!」というTVをみた。非常に面白かった。民主主義は善で、独裁主義は悪という杓子定規でみることに真実はないことを示すものといえるだろう。そもそも、善とは押し付けるものでなく、自ら選択するものである。 番組で求めていた指導者の資質とは、数多くの意見がなされたが、結局は、国家を取り返しのつかないような過った方向に導かない能力といえるだろう。単純にいえば、国家を世界の進む道に、しいては地球の進化の導き手に軌道修正を図ることといえるだろう。 昨今でいえば、まず20世紀型の大規模な戦争をなくし、貧困を根絶し、福祉を充実させ、かつての自然溢れる環境を取り戻すことであろう。 そこには、幸福という命題があるが、まず束の間の幸福は、真の幸福ではない。幸福は永遠でなければ意味がないといえるだろう。だからして、幸福というのは、十人十色であるから、是は、人間1人1人が、自らでみつけるものでなければならない。だから、国家としては、国民が独自で幸福をみつけられるような体制を築くことが大前提にあるといえるだろう。 だからして、幸福とは、比較においてなりたつものでなく、また、国家により押し付けられるものではない。そういう意味では、指導者はあらゆる幸福を知るべきであろう。その為には、多様な価値観、つまり芸術的審美眼を持たなければならない。 最善の指導者は、正に神に似る知性と、神に似る美学をもたなければならないが、そのような人間に、この世でお目にかかることは有り得ない。大抵は、国家の指導者などになるやつは、人間として青二才の人物がやることだろう。生まれながらの地位に約束されていた王族でなければ、ろくでもない権力欲の人物がなるだけであろう。 なぜなら、人類史において、最も神に似る人物は、皆、キリストにしろ、仏陀にしろ、ムハンマドにしろ、ホームレスや乞食同然の生活を本分とするからである。最も賢明なる人類の導き手になるなら、まずは、最も貧困に苦しむ最下層の人類生活を良くしようとするからである。これは神々が人類に使わす者なので、当たり前といえば当たり前だろう。 まずは、自ら最下層の生活のなかから、自らのなかに平和の理念を築き、自らのなかにあるものを、外の社会へと広めていくのである。 だから、国家というのは、1人の指導者で、直に危うい滅亡には追い込まれないが、多大なる戦乱、つまり国民の不幸を求めるものとなる。だから、歴史上で、最善の指導者は挙げられないが、最悪の指導者なら、いくらでも挙げられるだろう。 日本でいえば、先の大戦の東条首相と、江戸幕末期、安政の大獄の井伊直弼、更には、応仁の乱の足利義輝、南北朝の後醍醐天皇が、最悪な指導者の部類といえるだろう。 独裁政治が悪いというのは、自分たちが贅沢をしているツケを、国民にまわすことをいうのである。いまの日本は、民主主義といいながら、実は、政官財独裁政治といえるだろう。独裁が悪いのは、独占画一が、世の中を停滞させるからである。 世の流れは無常であるから、独占して流れを止めるようなことを働くと、流れが澱み、たちまち、自浄能力が穢れ、汚濁が始まるからである。 この独占主義かどうかは、名目上は、政官財の生活水準と一般市民の生活水準を比較してみて、その格差が大きいかどうかで一目瞭然だろう。 番組中のムルオカ氏が面白いことをいっていた。マサイ族が、ロンドン大学にいって、西洋文明の仕組みを理解したにも関わらず、自分には向かないと判断し、またマサイ族の生き方に戻ったという話である。 これは何を意味しているかといえば、先進国が目指した便利な生活のなかに、発展途上国の幸福はないということなのである。先進国は、快適な物質文明を現実化させたが、その反面、自然破壊や戦争による多大で大規模な人命を失ってきたという現実が、その背後にある。それはいまでも、資本があれば、労働をしなくても生活できるような勝ち組と、労働を一生続けても、裕福な生活は望めない貧困の階層社会を生み出している。 番組中に、独裁主義で有名な、俗にいう大物政治家が2名出ていたが、吉田茂が生きていたら、何といっていただろうか? 日米講和は吉田、その反動の日米安保は岸で、その尻尾に乗って、気勢を上げて、憲法改正、不沈空母と唱えていた人物である。国民も馬鹿ではないから、大勲位などといって持ち上げて、褒め殺しにしていたが…。 現在の自衛隊が、国防を担えない戦力であるならまだしも、これ以上を軍備拡張してどうするのだろうか? アジアに脅威を植えつけるだけだろう。これからのアジアは、武装解除が大前提だろう。 番組中の、キューバの教育と医療の無料化には驚かされた。やはり、政府がしっかりと予算配分をすれば、貧困だが、幸福感のある生活が築けるのである。 日本も、多少とも生活水準を落としても、小さな政府とか無責任なことをいわずに、教育と医療には予算をかけるべきだろう。そして、更には、日本には、農業と環境問題が挙げられる。
2007年10月03日
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人間や、いわゆる高等動物の場合も、空気は、単なる空気として肺に入っていく。蝶の場合、外の空気は光を携えたまま、体内全体に広がる。鳥は空気を空洞になっている骨の内部まで行き渡らせる。蝶は単に外に向かうだけの光動物ではなく、蝶は空気に担われてきた光を体全体にくまなく行き渡らせる。なので、蝶は内部も光である。 鳥は本来、内的に暖められた空気存在であることを描写できるなら、蝶は本来、全くの光である。 鳥の宇宙言語;暖められた空気、蝶の宇宙言語;全くの光 蝶の体は光から出来、そして、熱は蝶にとっては重荷で、荷物である。蝶は全くの光のなかを舞い飛び、その体を、完全に光から作り上げる。そこで、蝶が空中をヒラヒラ飛ぶのを見るとき、本当は、光の生物が飛んでいると見るべきで、蝶は、自らの色彩、自らの色彩の戯れを喜ぶ光の生物なのである。 蝶のなかでは、光以外の他は衣装であり荷物である。地球の周囲の存在たちが、本来何から成り立っているかということに、まず気づく必要がある。というのも、外見的な現出は人を欺くからである。 今日、表面的に、叡智を学んだ人たち、例えば東洋の叡智から学んだ人たちは、世界はマーヤ(仮象、幻影)であるというが、ただ単に、「世界はマーヤである」、とだけ言うのなら、何の意味もない。つまりは、どのように世界がマーヤであるのかを、個々別々に見ていく必要がある。 マーヤということを理解できるのは、鳥の本来の本質とは、外面的に現出している姿として見える存在ではなく、空気の生物であることを知るときである。 そして、蝶も、外面的に現出するような姿ではなく、光の生物であり、蝶は飛び交い、本質的に色彩の戯れへの喜びから出来ている光の生物であり、色彩の戯れ、地上の塵のような素材が色彩に貫かれることにより、霊の宇宙空間への、霊の宇宙への霊化の最初の段階にあり、蝶は、その翅に生じている、色彩の戯れへの喜びの表現形態である。 ここで、いわば2つの段階を得、この地球の周囲の光エーテルに住むものが蝶で、そして、この地球の周囲の熱エーテルに住むものが鳥である。
2007年10月03日
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蝶にとっては、蝶が霊化する物質的実質全て、霊化以前には、正に荷物ですらなく、いわば建物の設備とでもいうべきもので、これは蝶の実体から、更に遠くにある存在である。 つまり、この領域の動物まで上昇することで、決して物質の形で判断してはならないものに到達する。これを物質の形で判断すれば、例えば、人間を次のように描くようなものである、 「髪の毛が、頭にかぶる帽子や鬘のなかへと、生えていくように描くことや、荷物が両腕と合体し、背中の荷物、例えばリュックサックとして背負っているものが、その人間に、まるで生身の身体として付いているように、そして、その結果、あたかもリュックサックが、後方へと成長していくかのように背中に瘤をもつ、という具合に描くこと」、に相当する。 人間を、このように描くなら、画家が、鳥について従来抱いている想念に当たるだろう。それは全く鳥(実質)ではなく、鳥の荷物を描いているにすぎない。本来、鳥もまた、あたかも自分が、この酷く重い荷物をひきずっているように感じているのである。というのも、鳥は率直に、全く重荷などなく、暖かな空気動物として、世界を巡って流離うことを、望んでいるからである。 空気存在以外は、鳥にとって重荷である。そして鳥は、貢ぎ物(霊化したもの)を宇宙存在(状態)へともたらし、死ぬときに、この重荷を霊化し、霊の国へと送り込む。一方、蝶はまだ生きているうちに、この霊化を行なう。 鳥は、いま述べたような形で呼吸し、空気を用いる。蝶の場合はまた異なっている。蝶はそもそも、いわゆる高等動物がもつような装置により呼吸するのではなく、高等動物というのは実際、嵩高な動物で、本当は高等動物などではない。 蝶は本来、その外側の覆いから内部に入り込む管を通してのみ呼吸し、この管が幾らか膨らみ、それで蝶は飛んでいるときに空気を貯えることができ、蝶は常に呼吸しなくてもすむようになっているのである。蝶は、常に、蝶の内部に入り込んでいる管を通じて呼吸する。 内部に入り込んでいる管を通じての呼吸により、蝶は、吸い込む空気と共に、空気のなかにある光も同時に、体全体へと取り入れることが可能になる。ここにまた、鳥との大きな違いがある。 イメージ的に示すために、高等動物を思い浮かべる。高等動物は肺を持っている。肺の中へと酸素が入ってきて、心臓を迂回して、肺で血液と結びつく。血液は、このような嵩高い(高等)動物の場合、人間の場合もだが、酸素に接触するためには、心臓と肺に流れ込む必要がある。 蝶の場合は、全く別様で、次のように示される。 「蝶の場合、至る所に管が入り込んでいて、これらの管が更に枝分かれしている。そして、この管から、酸素が至る所に入って行って、酸素自身も枝分かれし、空気が体内の至る所に侵入する。」
2007年10月02日
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哺乳動物の骨、人間の骨をみれば、それが髄(液)で満たされているのがわかる。なぜ髄(液)で満たされているのかに関して述べていく。 鳥の骨は空洞で空気にのみ満たされている。従って、我々人間の骨の内部にあるものを観察する限り、人間は髄(液)的なものから成っており、鳥は空気から成っているとはいえ、鳥の髄的なものは、純粋な空気であるといえる。 例えば、鳥の肺を考えてみると、この鳥の肺のなかに肺から出ている多数の袋が発見される。これらは空気袋である。鳥が呼吸で吸い込むとき、鳥は単に肺のなかへと(空気を)吸い込むだけでなく、この空気袋のなかにも吸い込み、そして空気は、この空気袋から空洞の骨のなかへと入っていく。 従って、鳥から筋肉も羽根も全て外し、骨も取り去ることができれば、空気から成る動物が得られる。 この動物は、内部の肺を充填するもの(空気)と全ての骨の内部を充填するもの(空気)の形(フォルム)をもつといえる。このいわば空気からなる像を、形(フォルム)として思い浮かべると、正しく鳥の形が得られる。 筋肉-骨鷲の内部に空気鷲が収まっているといえる。 さてこれは、単にまだ内部に空気鷲が存在するという理由だけで、鳥の形(フォルム)を形成するのではなく、鳥が呼吸し、呼吸を通じて鳥が熱を生み出すことにある。 この熱を、鳥は、全ての肢のなかに押し込んでいる空気に伝える。ここで、外部環境に対して熱差が生じる。鳥は内熱と、その差としての外熱をもつ。空気の外熱と、鳥が自身の内部の空気に与える熱との間の温度差、この温度差のなか、熱の、熱要素の内部温度差のなかに、鳥は生きているのである。 そして、「もし鳥の体はどういう状態なのか?」と、鳥に尋ねるなら、鳥は次のように答えるだろう。 鳥は堅く実質的骨について、通常、自らが担うものとして、次のように語るだろう。 「例えば、人間が荷物を、左右の手と背中と頭の上にも乗せているときのように、自分もこのような、いわば荷物を、堅く実質的な骨として担う」、と。 荷物を持つとき、右手の荷物、左手の荷物、その他抱える荷物は、我々人間の身体であるとはいわない。自分が、荷物として担いでいるものについて、まるで自分の身体に関して述べるようなことは、全くなく、荷物は、自分が担いでいるものとして、人間が感じるように、鳥自らは、鳥の本当の身体は、暖められた空気であり、鳥が地上での生存において、担っている荷物(堅く実質的な骨)とは異なるものとして述べるだろう。 この骨、このような本来の鳥の空気体を覆っている、この骨は、鳥の荷物である。 従って次のようにいうべきである、 「根本的に言って、鳥は全くの熱要素のなかで生きている、そして蝶は光要素のなかで生きている」、と。
2007年10月01日
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