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■質問:アインシュタインの理論によれば、1kgの質量の中には途方もない量のエネルギーが蓄えられていることになる。物質を破壊することによって、つまり、それを精神(霊)化することにより、新しいエネルギー源を取り出すことは可能なのか? シュタイナーの答え; この問題は、前回議論したアインシュタインの理論には直接関係していない。物質を分裂させることにより、エネルギーを解き放つことは確かに可能である。理論的な側面は、それが特別に困難でないことを示している。問題は我々がこのエネルギーを用いるための技術を持つかどうかである。 我々は解き放たれた巨大な力を利用することができるのか?(この討議は1920年に行われた。現在では、原子力として、原子爆弾や原子炉として、利用されている。) その力が、それを用いて動かそうとするモーター(動力)等を破壊するならば、それは不可能である。我々は、まずこの力を統御できる機械的システムを開発する必要がある。純粋に理論的な観点から言って、大量の放射エネルギーを、利用のために解き放つには、そのエネルギーに耐えうる物質が必要である。そのエネルギーを解き放つこと自体は全く可能で、それを解き放つのは利用より、遙かに容易である(原子爆弾の方が原子炉よりも容易ということ)。 ■質問:物質をまるごと取り除いて、エネルギーと放射だけが残るようにすることは可能なのか? ある意味では、真空管の中で生じていることに見られるように、物質は取り除かれ、電流だけが残る。つまり、速度だけが残り、そして、速度がこの現象に関係する数学的な定式において決定的な要素となっている。式 E=mc^2 においてはエネルギーと質量が同時に現れているが、いわゆる質量とエネルギーは異なる、という事実が、十分に考慮されているかということが問題である。 或いは、この式を書くとき、実際には同一のものを2つのものとして、究めて抽象的に分離することになるのか? 本来、そのような記述が許されるのはポテンシャルエネルギーに関してだけだが、その場合には、アインシュタインの式(E=mc^2)はポテンシャルエネルギーに関する古い式を、新しいものであるかのように見せかけているにすぎない。
2007年06月30日
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これは前回の質問に対するシュタイナーの答えの続きである。 人間には特有の大きさがある。今、我々の通常の宇宙に非常に小さな人間が存在すると仮定する。人間以外の他全ての目的にとって、人間以外の他の対象物と比較したときの人間の大きさは、重要ではない。ところが、人間にとっては、人間の一般(典型)的な大きさが重要である。 何故なら、その大きさは人間本来のもので、これが重要な点である。人間をより大きなものとして、或いは、より小さなものとして勝手に想像することは全宇宙に対して罪を犯すことになる。 例えば、どこかの科学的思考家が、我々の太陽系よりも遙かに大きな、或いは遙かに小さな太陽系にはどのような生命がいるだろうか?と想像する。このような疑問はナンセンスで、我々が現実に出会う実在がどれほど大きいか、そしてその寿命はどれほどか、というのは内的な必然性の(個別的)問題に帰されるからだといえる。 ここで、1つの全体として考え得る、いかなる実体もそれ自身の時間を、その内部に担っている、ということを述べねばならない。一片の無機的な物体は、他のいかなるものからも独立しているものとして、見ることができるが、一枚の葉については、その持続する(生命)存在が木に依存するので、そのような見方はできない。 なので、考えるべきことは、観察している実在が1つの全体、総体、或いは自己充足した系であるかどうか?ということである。とはいえ、観察する、いかなる全体的なものも、1つの内在する要素として時間を取り込んでいるので、それぞれの物体や事象に本来備わった時間に加えて、物事の外部に抽象的な時間が存在する、という概念については、我々人間はあまり考慮しない。 時間を始まりから終わりへと過ぎ去るものとして見るのは、個々の馬に基づいて、「馬」という抽象的な概念を発達させるのによく似ている。個々の馬は空間という外的な現実のなかに存在するが、「馬」の(包括的な)概念というものは、それ以上のものを要求する。 時間に関しても同じことが言え、時間というものは本来変化するものなのか、という質問は本質的に意味がない。何故なら、それぞれの全体システムは、それ自身の内在のなかに、自身の時間と速度をもっているからで、いかなる無機的、或いは生命的な過程の速度も、この内在する時間というものを遡って指し示しているといえる。 1つの慣性(軸座標)系を、別の系に関連づけるのが常に可能である、と仮定する相対性理論ではなく、全体としての有機体に向かうのと、同じ方法で対処できるような全体(包括的)システムは、どこに見出されるかを明らかにするには、むしろ絶対性理論を確立したいと、私(シュタイナー)が思うのは以上の理由からである。 例えば、地球進化におけるシルリア期全体について語ることはできない。何故なら、全体としての1つの系を構成するには、シルリア期は別の進化期と結びつけ、融合される必要があるからで、これは人間の頭部を1つの全体として語ることも同様に不可能なのと同じで、それは、頭部が身体の他の部分と共に、人間に属すからである。 現代人は、地質学的な年代を、まるで現実の状況であったかのように、他の年代から独立して記述するが、本来これは間違いで、1つの年代とは、丁度、生きた有機体が、そこからは、何も差し引くことができないような、1つの現実であるように、地球進化全体との関連において、1つの現実でなければならない。 経過(プロセス)を座標軸に関連づけるのではなく、過程(プロセス)を、自身の本質的な現実に関連づけることにより、その全体システム、或いはその総体を見ることが可能になる方が遥かに適切であり、その時点で、ある種の単子論(モナド)に立ち返る必要があるといえる。我々は、相対性理論を克服し、絶対性理論に到達することになるだろう。 そのとき、アインシュタインの理論は抽象化に向けた努力の最後の表現ということが明らかとなる。アインシュタインの理論は抽象性のなかで機能するが、彼の抽象化は、彼の仮定が非常に基本的な事柄に適用されるとき、ときとして耐え難いものになる。 例えば、人間自身が音速で移動するときには、音はどのような働きを及ぼすか? もし、音速で移動する場合、勿論、音は聞こえないだろう。何故なら、音は、音速で動く人物と共に移動することになるからで、現実の言葉で、つまり全体性において(包括的に)考える人にとっては、そのような概念を用いることは不可能となる。 何故なら、音を聞けるいかなる存在も、音速で(空気中を)移動したら、バラバラになってしまうからであり、そのような概念は現実の世界における観察に基づいたものではない。 時間とは本来変化するものなのか、と問うときも同じである。勿論、抽象的な時間、或いは絶対的な時間においてでも、時間の何らかの変化を確認することはできない。それは「先験的」に想像される必要があるが、我々が時間の変化に関して語るには、時間の現実(真実)を把握する必要があるが、それは、一時的経過が世界のなかに存在する全体系に本来どのように結びついているのかの考慮なしには、不可能である。 注釈;シュタイナーは、有機体、つまり自己完結(現代用語でいう自己組織化)している 体系に対して、一部を取り出して、議論することは無意味であるという立場をとる。なぜなら、そのような包括的体系から、一部を取り出した時点で、いわば、全体で生き機能している生命体が死んでしまうからである。 これと同様に、死体を解剖して調べても、病気の原因は特定できないとしている。死体になった時点で、もはや生命体ではなく、故に病気に罹る要因も生命と共に消えてしまうからである。だから、組織の一部を取り出して、顕微鏡等で観察しても、人間という全体性(包括性)をもつ生命体の機能を知ることはできないといっている。いかに、実験室を生体に近づけようと、全体から切り離した時点で、既に意味を失うからである。 このようなことをわかりやすく説明するために、シュタイナーは次のような例をよく用いる。近代医学では、病因を、死体解剖後のウイルスや細菌等に求めるが、それはナイフで殺された殺人事件で、犯人をナイフと特定するようなものである。殺人事件では、犯人の動機が問題とされ、探索されるように、感染原因を探るのがより病因の真相に近いといえるだろう。 しかし、近代医学の治療では、ワクチンで、免疫力を高めるというような対処療法が用いられるが、これはナイフで殺されないように、身体を鍛えようというようなものと同じだといえる。或いは、ウイルスや細菌を全て殺菌し、環境破壊を行うが、これはナイフは危ないから、ナイフを使わせないというようなものである。つまり、ウクチン療法や殺菌は科学的といいながら、全く非科学的なのである。
2007年06月28日
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これは前回の質問に対するシュタイナーの答えの続きである 時間の問題に関しては、通常の力学的な定式(ニュートン力学)ではなく、弾性(波動)体に関する定式に基づく考察から始める必要がある。弾性理論の考えを借りる必要があるといえる。最前面を形成する分散や拡散を、無限へと広がり続ける実体として、そのまま拡張的に想像することはできない。それは一定の周縁部に至ると必ず元の自身へと戻ってくる。 現実の状況を扱うならば、太陽が放射する光は無限へと消え去ると言うことはできず、そのようなことは有り得ない。拡張する弾性の力が尽き、元の自身へと戻ってくるようになる境界が必ずある。拡散し、無へと消え去るという条件を満たすような無限系というものは存在しない。 拡散する実体は、それが何であれ、まるで弾性体を支配する(波動)法則に幾分か従うかのように、境界に到達すると、そこで向きを変える。光について記述するとき、そこで扱っているのは、決して、あらゆる方向へと際限なく拡散し続けるようなものではなく、常に見出すのは波のうねりと比較できるような状況で、定式化を探すべき場所は、そこにあり、通常の力学のなかではない(このことは、光を波からなる量子とした、量子力学により達成された)。 それから、まだ時間そのものの問題があり、実際、時間は、これら全ての変容を通過して行く、と言えるのではないか? この力学の領域においては、いわゆる時間というものは現実的なものではない。s(距離)=c(速度)×t(時間)という最も単純な式を取り上げてみる。通常の乗法に従えば、sは本質的にcと等価でなければならない。何故なら、そうでなければ空間sは時間に等しくなるが、空間と時間が等価であることはあり得ないからである。いずれにしても、この式のなかの空間に関しては、数学的にはcに等しいとして考えることしかできない。 事実、(物体そのものとしての)林檎や梨を乗ずることは不可能ではないか? 一方を他方に換算する必要があるので、数式のなかでは、時間は単なる数でしかあり得ないが、そのことは現実の時間が数であることを意味しないもので、そのような数式を書けるのは、取り扱っている数には色(現実性)がないと仮定するときだけである。 式c=s/tは別で、ここでのs(空間)は数t(時間)の大きさに関係する、一定の大きさを持った空間となる。それによって速度cが与えられる。これは、特定の知覚可能な量の空間を占めるものが原子や分子であると想像しても、或いは物質と想像しても、現実の状況に符合する。 経験的に直面する、いかなるものも一定の速度をもっているものと想像する必要がある。これ以上の結論は抽象にすぎない。時間は移動距離と除数(ここでは速度cのこと)から導き出したもの、被除数から導出したものだが、除数は(議論の上の)抽象的なものである。 現実的なものとは(そして、これは力学系にのみ適用可能だが)各物体に内在する速度のことである。例えば、物理学者たちが別の理由付けのために原子理論を受け入れれば、原子が内在的な速度をもつことなく存在すると仮定すべきではなく、内在的な速度が真の現実である。なので、次のように言える。 「いわゆる時間とは事象や過程から抽出されたものである」、と。 我々が遭遇するなかでは、速度のみが現実のものとして観察できる(このため、物理学者は、力学系を座標で扱うとき、位相空間という位置と速度、或いは位置と運動量からなる座標系を定義する)。 このことを完全に理解するなら、時間と呼ぶものは、現象の結果として現れるものと結論づけるしかないだろう。時間は、現象のなかで、共同的な役割を演じるので、時間を相対的なものと見なし、無視すべきではない。 この抽象化された要素(時間)が共同作業として産み出すものは、例えば、ある有機体のライフスパン(生命環、人生)というような一定の現実性を持った基本的概念だが、その過程(プロセス)はあくまで内的なものであり、それを外的に測定することは不可能である。 いかなる有機体も、その有機体内部で生じる、あらゆる経過(プロセス)の結果として生じ、かつその経過(プロセス)に組み込まれる(生命環、人生)ライフスパンをもっている。有機体の大きさ(サイズ)についても同様のことが言え、それは、その有機体にとって本来的(個別的)なものであり、何か他のものと比較して測定すべきものではない。 ライフスパン(生命環、人生、寿命)とか生体の大きさといったような概念は、通常仮定しているような手法では、有効に機能しない、というのが適切な結論である。 注釈:いわゆる生命体を、物理量で評価しても意味がないということである。例えば、偉人の人生の寿命から、単純に偉人が人生で為しえた業績を評価できないということである。偉人の功績は何年も経った後年での人生経験からわかるということもある。これはつまり、短い人生(寿命)だったからといって、必ずしも、他の人生との比較において優劣を比較できるものではないということで、結局のところ、時間(人生)は個別的性質(使命)をもつものであるといえる。つまり、人生は物理量を超えたところにあるといわざるをえない。
2007年06月27日
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まるで連日、国民が、ときの政権より強姦されるような、日々、強権採決、強行採決の国会が運行されている。これが、果たして、平等な話し合いの民主主義なのであろうか? 非常に疑問を感じざるを得ない。 民主主義とは多数決では断じてない! 多数による解決は、強権主義であり、独裁主義に近いもので、前独裁政権状態といえる。 そもそも、血で血を争うような闘争による解決が、人類の問題解決手段として適当ではないとの反省の上で、闘争を放棄し、代わりに議論による健全で平和的な解決を、現状での最上の手段にしようという和解の元で、国民代表による民主的手続きでの、議会決定を最優先としたのが、民主主義の前提、土台の背景、いわゆるバックボーン(背骨)であるといえるだろう。 議会で闘争するのなら、そもそも、健全で平和的な議論の意味がないだろう、ただ野蛮な時代の先祖帰りを行っているだけである。 日本では、文明が没落し、民主主義が退化しているといわざるをえない。 はっきりいって亜屁総理は、馬鹿じゃないかと思う。それも至上最大の愚か者、小器量主、自分のことしか頭にない。また周囲もそんな総理を諌めるどころか、我儘に付き合う阿呆ばかりで、一体、日本国家の大臣という地位を、単なる選挙の報酬とでも軽々しく思ってよいのだろうか? 日本国民族祖先、しいては子孫に対して一体、どのような責任や釈明を行うつもりなのだろうか? 総理といえば、理を総じる責務にある大臣である。国家しいては国民の気持ち、信頼に総じて応え、結集し、平和糧に国家を運営、進行するまとめ役なのである。それが、不祥事続きでは、何のための総理なのか? 馬鹿じゃないか? 国が潰れても、自分たちは与党で、自分は総理でいたいのだろうか? このような利己主義者は、精神が捻じ曲がっているとしかいいようがない。 大体において、国内において意見統一を図る大臣が、野党と先頭をきって戦うとは、なんたる愚か者であろう。同じ日本人同士、内輪モメして一体どうするのだ? あまり愚痴ばかりこぼしていても仕方ないが、年金損失問題ぐらい、戦争でもあるまいし、簡単に解決できなくて、是が指導者といえるのだろうか? 損失が想定される年金損失者に、自己申請してもらい、あらかじめ仮に返せばいいのである。先ずは大火になるまえに、未然に消火活動を行うのである。これは社会保険庁が主導となって、自己申告を元にして、年金損失者宅まで、調査に向かうのである。それら予算は、総理大臣等トップの給料から引かれるようにあらかじめ予算を見積もるべきである。 また、これらの国家的活動に際し、人の弱みに付け込んで犯罪等を行うような者は、厳重厳格な処罰の対象となることを前置きすべきである。あらかじめ、犯罪を起こしそうな怪しい団体等には、厳重に勧告しておく必要があるだろう。 不祥事には、まず、こちらから相手へと出向くのが基本である。最近は、詐欺が多いので、確実な認証が必要である。警察手帳のような身分照会が必要だろう。東京のど真ん中に掘っ立て小屋や、苦情電話の窓口を設けてみても、所詮、マスコミ対策で、解決のフリをしているだけで、何の真の解決にもならず、物事は深刻化するだけである。 このような問題は、真剣に物事に取り組むかどうか?にかかっているのである。それこそ、総理大臣の資質が問われるところであろう。昔の人なら、このような事態は朝飯前だっただろう。将軍の鶴の一声で、決まったことだろう。 どれだけ、社保庁が問題に対して真剣に取り組んでいるのかは、先人を通して天がみているのである。どれだけ真剣になって、解決に取り組むかは、神のみぞ正に知るのである。それは国民のために、どれだけ行為を為したかにあるといえる。そして、事態が沈静化してきたら、改めて、データを吟味しなおすのである。データを見直すのにいいのは、選挙である。この際、投票率を上げるためにも、選挙は健全な民主主義の代表を担う砦で、国民の義務なのだから、少なくとも、年金を当てにするのならば、投票行為を完全な義務化にすべきである。 そもそも、投票率が低いほど、与党に有利などというおぞましき考えこそ捨てるべきである。このような利己的な考え方、功利主義こそ堕落の最たる精神の何者でもない。真剣な投票行為こそ、国民の教育に最も重要なものはないだろう。プライベートなバカンスと国の将来を担う投票と一体どっちが大切なのだ! 投票にいかない不届きな国民にも、選挙に行かない権利の自由もあるが、それなら、このような利己主義者に対して、公共的な立場の政府にだって、年金を払わない権利の自由も、同時に生じるだろう。1人で生きていけるという人には、援助も必要ないだろう。人間は1人では生きていけない。だからこそ、社会の義務故に個人の権利が生じるのである。 国会運営の場が、無責任な輩ばかりで、罪を擦り付け合い、皆で知恵を結集し合う場が、闘争罵倒の荒唐無稽の場になって、もっと、あなたたちは、国民の代表なのであるから、真剣に議論し、国民より真剣に生きなくて一体どうするつもりなのだ? 台風を寝て過ごすなんて、庶民のやることを指導者はやってはならないのである。それこそ未来に堕落を招くだろう。 政治家よ、もっと真剣に生きなさい! 仕事の本質は、質や量の大小にあるのではなく、取り組み方や誠意の姿勢、真剣さにある。
2007年06月26日
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■最初の質問:光の絶対伝播(光速度一定)の法則は正しいのか?■第二の質問:アインシュタインによって仮定された時間の相対性には何らかの現実性があるのか? シュタイナーの答え: 最初の質問は、絶対空間中で光が一定の速度で進むかどうかに関するものであると思われる。既知のごとく、絶対空間中における光の伝播について語ることは実際不可能である。何故なら、絶対空間(重力の及ばない真空)というものは存在しないからである。 では、絶対空間について語る根拠とは一体何か? 光の伝播は無限に大きく、光はその実際の伝播を媒体(媒質)の抵抗(波動)から誘導していると考えるが、確かにそうである。では、この観点から見て、他のあらゆる物体が移動する速度に関して語るのと同じ意味で、光の速度について語ることは可能なのか? この問いに対して、ヘルマン・フォン・バラヴァルは、絶対に不可能だと答えた。 もし、光を、他の何らかの物体と同等であると仮定しなければ、他の物体の速度を測るのと同じ方法で光速度を測定することはできない。 通常の物体、物質の対象物が、ある速度で空間中を飛行していると仮定する。この物体は、時間のなかの、ある特定の瞬間に、ある特定の場所にあるが、速度を測るには、測定方法全体が、2つの異なる時間の間で、その物体の位置が出発点と、どれほど異なっているかが考察可能であることに依存している。 この測定方法は、移動する物体が、移動線上の各点から、随時、完全に離れるときにのみ可能となる。この代わりに、その物体が、測定点から離れるのではなく、後に痕跡を残すと仮定する。もし、一定の空間中を移動する物体が、その移動空間を離れるのではなく、その移動ラインを占め続けたならば、この測定方法を適用することはたちまち不可能になる。 しかし、それは、その差異(速度)を測定できないからではなく、推進している速度が推進される物体を絶えず変化させるからである。空間を離れるときには、その空間を空にするのではなく、その空間を完全に空にする代わりに、後に痕跡を残すような実体を取り扱うときには、通常の(速度の)測定方法は適用できない。 このように、物質物体の速度について語るのと同じ意味では、一定の光速度について語ることはできないといえる。それは、位置的な差異という速度計算の基礎を与えるべき基本式を形成できないからである。 このように、光の伝播を扱うときには、光の外的な伝播速度のみを語らざるを得ないことがわかる。けれども、もし、光の伝播速度について語るならば、光速度を測定するために、(初期状態を探るために)発散する光源へと絶えず立ち返る必要性に迫られる。 例えば、太陽の場合、発散する光源へと立ち返らざるを得ない。光の発散が始まるところから測定を始めねばならず、その光が無限に複製されることを仮定しなければならない。だが、この仮定は間違いといえる。 何故なら、光が拡散していく最前面は単純にどこまでも広がり大きくなるのではなく、ある種の弾性の法則に従うようになり、一定の大きさに達したときには、方向が逆転するからで、その地点では、もはや単純に拡散光ではなく、戻ってくる光、同じ道を逆に辿りながら収縮する光を取り扱うことになる。 つまり、この基盤の上に立てば、光に満たされた空間の中に存在すると仮定される単一の位置取り(つまり、ある地点から別の地点へと拡散する光)に関してではなく、2つの実在の出会い、1つは中心からやって来るもの、もう一方は周辺からやって来るものだが、それらの出会いについて取り扱うことになる。 なので、次のような根本的な問いが必要となる。光の伝達に関して考察するとき、本当に通常の意味における速度を取り扱っているのか?と。 光の場合は、通常の意味の伝播速度を取り扱うのではなく、通常の速度から光の速度へと移行するには、弾性式に基づき定式化する手法を見出す必要がある。もし、物質の運動に関するイメージを用いるなら、固定領域を境界にもつ、弾性的に関連した空間部分が閉じた弾性体の運動として記述できるような定式化を反映したものでなければならない。 なので、光の挙動に関する記述に移るには、通常の定式を用いることはできないといえる。 この理由により、アインシュタインの仕事には根本的な間違い、つまり、通常の力学的定式(これが彼の仕事だが)を、光の拡散に適用し、空間中を進む物質対象物と同じ手法で、光の測定ができるものと仮定した根本的な間違いが見られる。 光は、疾走する物質的、宇宙的な粒子から構成されるのではないことを彼は考慮していないといえる。光とは輻射の痕跡を後に残すような空間内での事象であり、そのため、光(の速度)を測定するときには、単純に、まるで、ある物体が遠くからやってきて、後に空間内に何も残さずに去っていくかのような測定はできない。 光が伝達されるときには、いつも光の軌跡に、なんらかの跡が残り、光は、ある一定の速度で伝播するとはいえない。光は、最前面だけが伝達される。これが重要な点で、ここで扱っているのは、光の拡散要素により分類された、空間のある特質といえる。 そして、そのとき、第一の間違いに関連した第二の間違いが見られ、つまり、アインシュタインは、実際には互いに接近する点からなる(剛体の)力学系に適用される原則を、誤って宇宙全体に適用したため、その全体を1つの系としてみると、宇宙は単に機械的プロセスの総体ではあり得ないという事実を無視し、機械的プロセスの総体としている。 例えば、もし、宇宙が1つの有機体であるなら、そのプロセスを機械的なものと仮定することはできない。例えば、(人間の)手の中でそのような機械的プロセスが生じるときは、体全体が反応を開始するのであり、本質的に閉じた機械的体系によって、運動が決定されることはない(手が独りでに反応して動くことはない)。 このような別種の運動の定式化を、光の運動に適用することを受け入れられるだろうか? それとも、宇宙全体の反応が関わっているのだろうか? 宇宙全体の反応の存在なしに、光の無い宇宙を想像するのは、余計に困難だが、宇宙全体の反応の作用は、閉じた機械的な体系における速度とは非常に異なったものであることがわかる。 シュタイナーは彼の理論をただ簡単に調べただけだが、これら2つが、アインシュタインの主要な間違いであるように見えたという。数学的に導き出された成果は、経験的結果と実際に(偶発的に)一致し得ることを、我々は知っている。例えば、太陽の傍を通り過ぎる星の光(水星の近日点移動)が理論的な予測値と一致したからといって、アインシュタインの理論が完全に証明されたというわけではない。 アインシュタインの思考方法がいつも逆説的で抽象的な理由は、その背後に横たわる、これら2つの主要因によるという。この状況は、以前に用いたウィルヘルム・ブーシュの例、すなわち、力を込めて腕を振り上げたために、今にも顔をひっぱたかれるのではないかという恐怖心(感じ)を持つときの状況と同じである。 それは、時計が光速度で飛び去り、戻ってくるとしたら、生じるような、アインシュタインがその結論として、引き出すものに似ている。 このような考えに何らかの現実性があるのか? その考えを突き詰めることは絶対不可能で、何故なら、時計に生じることを、更に詳細に考えざるを得ないからである(分子レベル、果ては量子レベルまで)。もし、思考を現実のみに限定することに慣れているならば、そのような思考を完結へともたらすことは不可能といえる。そのような考えを述べているアインシュタインの文章を読むと、彼の結論が今の述べたような基本的な間違いに基づいているのが分かる。 以上がシュタイナーのアインシュタインの(特殊)相対論への最初のコメントである。 注釈:アインシュタインの特殊相対論から予測される時間のズレとは、光速度に到達しえる技術が前提とされる。もし、運動するものの時間がゆっくり進むとしたなら、その時間を、厳密をもって、分子レベル、或いは量子レベルで測る必要があるとされるが、そもそも量子レベルでは、ハイゼンベルグの不確定性関係があって、可能ではない。これはアインシュタインが確率論とも相俟って、量子論に酷く反対した根拠の一例でもある。そもそも時間(同時性という意味で)とは何か? 更に光速度の定義も非常に曖昧なのである。 しかし、シュタイナーは、特殊相対論を全否定しているわけではなく、その式は物質的意味にのみ、断片的に有効であり、時間は本質的に4次元の存在で、物質空間とは、正負の関係にあるアストラル(複素)空間を、シュタイナーが更に定義している点で、特殊相対論より深いものといえるだろう。 つまり、シュタイナーは、物質世界で実現できない理論面を否定しているに過ぎないのある。宇宙は、物理屋が想定した思考実験よりも、遙かに複雑であることを強調したいだけなのである。科学で全てが分かったというような自惚れ屋さんの傲慢な鼻をへし折りたいだけなのである。何事も、分かったという段階で成長は止まるのである。とどのつまり、無知の知である。
2007年06月26日
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■質問:死と再生の間にある人間は受肉している人間と同様の時間感覚を有するのか? このテーマについては、シュタイナーの講義(1914年3月19日に行われた、死と再生の間にある人間についての講義)に、より詳細な情報が与えられている。 シュタイナーの答え;今回は、死後の生活とは、感覚で知覚可能な物理世界の関係性を離れ、空間と時間に関する(物理世界)とは全く異なる関係性のなかに入っていくことである、ということだけを述べる。 相対性理論によって、我々は時間に関する(3次元空間とは)異なる概念を発達させている。運動方程式を構成する要素から、精神的世界への移行を果たすことができるが、それは、その要素をc(光速)=s/tの形で用いるときのみである。 何故なら、sとtは、感覚において知覚可能な世界に属する成分であるのに対して、c(或いは速度のv)が属しているのは、無機的物体に関してさえ、実際には内的経験(内部空間)の領域であるからで、このように、精神的世界における時間を理解したいのであれば、まず問題となる存在が持っている速度の量についても語る必要がある。 そうすれば、比較を通して、部外者の我々が一時的関係性に関する何かを決定できる。例えば、その種の比較を通して、カマローカの生活においては、時間は3倍のスピードで経過することが見出される。 そのような探求によって、精神的世界における時間と感覚生活における時間との関係に関するイメージが与えられる。 精神的世界においては、異なる時間原則が支配している。感覚で知覚可能な世界の原則と比較すると、これらの原則は内面化され、変化可能なものとなる。我々がそこで経験する時間は、内的な発達(進化)度合い(過程)に依存するので、明確で数学的な言葉によって、物理的世界における時間の長さとは比較できない。■質問:(記録が残っていない) 「数学」とは、空間中で作用する力の総体を抽象化したものであるといえる。我々が数学的な定理をアプリオリ(先験的)に有効であると言うとき、それは、人間が他の存在たちと同じ力の線上に存在しているという事実、そして、人間は空間の形式、及びその他のものに属さない、あらゆるものからそれを抽出することができるという事実に基づいている。
2007年06月25日
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■質問:電気とは何か? シュタイナーの答え; 電気は物質より下位状態にある光で、可能な限り最も圧縮された光である。我々人間はまた、内面性を光に帰属させる必要がある。つまり、光は至るところで、自己完結する存在である。熱は空間なかで3方向に拡散するが、光の場合、第四の次元について語る必要があり、4方向に拡散する。第4の次元として内面性をもつ(これは時間のことであり、内面の光とは時間のことである)。 注釈;現代物理学では、光は電磁波であり、理論的にマクスウェルの方程式で表される。更に、ミクロのプランク長では、量子化され、量子電磁力学(QED)により理論的に記述される。電気、つまり、電子の運動は、量子力学により記述され、更に特殊相対論化された相対論的量子力学であるディラック方程式により、量子電磁力学の基礎方程式が構築され、ゲージ場として、電子と電磁波との相互作用により、電子のように、電磁場を光(量)子として、理論的に捉えることが可能になった。 このような背景を考えると、シュタイナーのいう、上記の「電気は、可能な限り圧縮された光である」という考えは、現代物理学の観点からいっても、間違いではない。しかも、昨今の超弦理論における、超対称性という、電子を代表とするフェルミオンと、光子を代表とするボゾンが、超対称変換により同一視できるという点において、遙かに先見の明があったともいえる。■質問:黄金分割は秘教的な法則に基づくのか? 黄金分割は空間中に存在するものの影響に基礎を置いているので、確かに秘教的な法則に基づいているといえる。 ゲーテはこの法則について、最も隠されたものは最も明らかなものであり、その反対も真である(つまり、それは我々人間の構成に密接に関連する法則、すなわち、単調な繰り返しと、そこから派生するバリエーション(多様性)による、全体の繰り返しの法則である)と述べている。 例えば、ブッダの語りを見てみると、常に同じ内容が少しずつ変化しながら繰り返されるが、省略はできない、何故なら、内容のみが重要な要素ではないことが分かるからで、黄金分割は単に繰り返しの問題ではないといえる。 黄金分割に、繰り返し同じ比率を見出すが、その理由は実際には3つの構成要素しかないからである(原注:黄金分割とは、線分を2分割するときに、短い部分の長い部分に対する比が長い部分の線分全体に対する比と同一にする方法、訳注:線分の長さを10とすると、黄金分割の各部分の長さはX^2-30X+100=0の解となる) 黄金分割が、心を動かすのは、繰り返しの自己充足性(しかし、それは自己形成されたものではない)による。 注釈;シュタイナーの、この黄金分割の解説は、現代数学、とくに現代工学に多大な影響を与えているカオス工学、あるいはそのフラクタル理論を予測するものである。フラクタル理論やカオスは、自然観察からはじまっている。 シュタイナーは、黄金分割は、自然、つまり空間の性質を構築する元となる秘術といっているので、フラクタルやカオスの根底に黄金分割が潜んでいる可能性が挙げられるであろう。 フラクタルやカオスを形成する変換は、俗にパイコネ変換と呼ばれ、自然の単調な繰り返しから、多様性を生じる基になる数式と考えられている。これとは多少異なるが、バックミンスターフラーは、自然は、単純なものから最も多様性のある合理的かつ経済的創造を行っているというようなことをいっている。フラーはこのことをクリティカルパスと呼んでいる。 老子にも「自然は最小のものから最大をつくりあげており、そこには少しの無駄もない」とある。 シュタイナーは、以上のこれらの知識を、霊能力から得たというようなことを言っている。そして、太古人は、既にこのようなことを充分に認識していたという。太古人は、神々から、これらの知恵を授かり、実際に多くのことを成し遂げたという。 残念ながら、人類は、これらをあまりにも利己的に用いたので、自然の破壊を招いてしまったという。それが何度もいうが、アトランティスの水没であり、大気から、水を取り出してしまったという(恐らく、水の電気分解の逆のことだろう)。そのかわり、人類は、いまのような物質世界を、輪郭をもって、クリアにみることができる意識を獲得したという。
2007年06月22日
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■質問:(記録が残っていない) シュタイナーの答え; 我々は3次元空間を視覚化できる。プラトンの学院における重要な定理は「神は幾何学する」というものだった。幾何学の基本概念は超感覚的能力を目覚めさせる。射影幾何学(現代でいう幾何(行列)変換群)は、円周上の点はどこも同じである(右に向かって無限に遠い点は左にある出発点と同じである)ということを証明する。 従って、結局、宇宙は球であり、我々は出発点に戻ってくることになる。幾何学の定理を用いるには、常に一般的射影(写像)を用いて、観測にかかる境界事例へと変換する。ここで3次元空間は、自らを出発点に連れ戻す。それは、アストラル空間においては、空間が曲がり戻ってくるので、3次元空間においては、点Aが点Bとの間にいかなる結びつきを持たなくても、働きかけることができる理由であるという。 投影された直線(円周)sの2点A、Bはその直線(円周)を2つの部分(ABの短い内と長い外)に分けるが、そのうちの1つは線sの遠方の点(ABの長い外)を含む。射影幾何学においては、両方の部分が点Aと点Bをつないでいると考えられる。一方、ユークリッド幾何学においては、直線gの遠方の点を含んでいない部分(ABの短い内)だけがAとBをつなぐものとして考えられる。 無限遠方------A-------B-------無限遠方 ユークリッド(3次元)では、AB間のみが直線となるが、リーマン(4次元)では、無限遠方が円としてつながっているので、2つの直線に分けられる。 神秘学のなかに唯物主義を持ち込むとき、精神に向かって進めば物質は益々希薄になると仮定する間違いを犯す。この種の考え方は精神には導かない。 そうではなく、点Aと点Bとの間の結びつきに関する考えが4次元を視覚化する可能性を与える。この1つの例として、我々はスズメバチのくびれた腰部について考えることができる。中間部分の物理的な結びつきがなく、2つの部分が、アストラル的な活動により結びつけられ、共に動き回ると考えられる。 今、この概念を、より高次元空間における多くの活動領域に拡張できる。 注釈;これはつまり、3次元の操り人形の見えない糸は4次元でつながっているのである。 ■質問:(記録が残っていない) 植物は4次元をもつ。第4の次元方向においては、力は下から上に向かって働き、樹液が上方に流れるように重力に対抗している。この上昇の方向は、水平の2方向が、葉においては、さほど重要でないという事実と相まって、結果として葉の螺旋状の配置を生じさせる。 なので、植物においては、下へと向かう方向、もしくは重力の方向は、上に向かう第4の次元によって打ち消されている。植物が空間のなかで、1方向に(直線上に)自由に動くことができるのはそのためであるという。 注釈;植物においては、下方の重力に対抗し、光の上方力が均衡しているという。そのため、植物は重力の影響から直線状の自由な運動を遂げるという。 動物は五つの次元をもつ。彼らの第四と第五の次元は他の2つの次元に対抗するように作用する。動物では、2つの次元が打ち消されるために、動物は2方向(平面上)に自由に動くことができる。 人間は6つの次元を有する存在なので、第四から第六の次元までが他の3つの次元に対抗するように作用する。従って、人間では、3つの次元が打ち消され、その結果、人間は3つの空間的な次元をもち、3つの方向に動くことができる。 注釈;もし、将来人間が肉体を失い(昇華させ)、マナス(霊我)、ブッテイ(生命霊)、アートマ(生命人間)を身につけたなら、時間をも自由に動かせることができるだろう。これは現在の時代霊(権天使アルカイ)の存在に値するという。 時代霊は、その名の如く、時代(時間)を制御する存在であるという。
2007年06月21日
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恐らく、現代の政治家と総理大臣こそ、最も見苦しく醜い代表的人間なのではないだろうか? 案の定、国際社会では、顔も覚えられないほど、馬鹿にされたようである。国際社会では、何を語るかよりも、その人の身振りと身形に重点が置かれるのである。 何のことはない。人間社会であれば、どこでも礼儀と紳士的振る舞い、謙譲尊敬の美徳が、人間である以上、必要とされる。美しい国に、至上最低の醜い総理。とことん堕ちて、いまや成れの果ての困ったチャンとなった。 いまや政治家と総理大臣が、最も躾けのできていない、この美しい文化の日本国における、ふしだらな人間の代表となったのである。 個人的には、あの夫人と手をつなぐポーズはみていて恥ずかしさが込みあげる。一体、本人たちは恥ずかしくないのだろうか? それこそ家庭と国家を混同している証拠でもあろう。 国民よりも、夫人の方が大切なのだろうか? あのお手手つなぎポーズこそ、正体見たりである。 恥ずかしくって、顔から火が出るや! 総理大臣だからこそ、特権もあるが、夫人まで、その特権を、認めたわけではないのである。米国ではファーストレディなんて呼ばれているかもしれないが、いつから、日本文化が、米国仕込みになっちまったのか、いつから大統領制になったんだよね? 夫人を大切にするのだったら、レディファーストの方がまだしも、エレガントである。江戸ッ子がみたら、何ていうかね? 大体、日本文化では、夫人は奥様といわれ、奥に控えて、けっして表に出ないものである。だからこそ、隠然たる陰の支配者として君臨できるのである。 夫人は一歩下がって陰の実権を握るからこそ、男との関係を慎ましやかに平和の糧に治めることができるというものだろう。民族の遺産といわれる江戸文化、和の文化が、第一、子供でもあるまいし、完全に破壊された光景だといってよいだろう。 もはや、政治家や総理大臣には期待できないので、庶民階級から、変わるしかない。最後の手段である、下からの改革である。 そこで、書店で格好の教科書をみつけた! それが「身につけよう! 江戸しぐさ」という本である。 そこには、以下のようにある。 〔江戸しぐさは 「共により良く生きる」ために、上に立つ者こそが心得ておかねばならない「融和のしぐさ」「平和のしぐさ」であり、人類の貴重な無形文化財である〕 そう、とにかく江戸時代は、平和な世の中であった。それは江戸時代の人々の一人一人がつくりあげた平和であったのだろう。戦後日本も平和だった。それはもう戦争は懲り懲りだという反省故の平和だったといえる。その懲り懲りという痛さ、身に染みた嫌悪感が、つい最近薄れ、忘れかけてきたといえるだろう。 米国に我儘好き放題されても、ハイハイといって、心の中では、「この赤ん坊国家め!」と思いながら、歯向かうこともできず、戦争は嫌だから、黙っていわれるように、おだてながらきたともいえる。 しかし、最近、米国の横暴さも目に余るようになってきだし、馬鹿な米国カブレの連中も溢れ出し、日本は、大事な忍耐の美徳を、いまや忘れつつあるといえるだろう。 さて、人間何が大事かといえば、この本の冒頭に書かれている、「江戸っ子」の精神であると思われるのである。 この「江戸っ子」の精神は、なんと米国留学生のレポートに書かれたものであるから、意味深でもある。それは以下のようなものであったという。 「江戸っ子とは、進歩的な人間主義者で、和を以って良しとなし、誰とでもつき合い、新人をいびらず、権力にこびず、人の非を突くときは、下を責めず上を突き、外を飾らず中身を濃く、といった思想を持った人である」 日本を散々苛めた米国民の1人が、好意をもって、書いているのである。 世を平和にするものは、礼儀であり、礼儀のない国は、闘争、戦争に明け暮れ、やがて滅びる。西洋文明は、米国に至って没落したのである。米国は絶えず他と戦争に明け暮れないと生きていけない野獣に近い野蛮な国といえる。 だから米国人は、自分たちが獣であることがバレないように着飾るのである。彼らの外見ではなく、振る舞い、行いを正確にみるべきである。特に、中国人は、経済発展の最後に、あのような醜い獣の姿、醜態を曝すことを覚悟すべきである。 自然破壊を省みず、同胞を戦場に送る事に一顧もだにせず、笑いで誤魔化す道化師ぶり、キリスト国家が聞いて呆れる。悔い改めよ!米国民!! このような米国カブレの政治家などは、どうせ、ネオコンもろとも地獄に堕ちるのだから、ほっておいて、礼儀の復活の国ニッポンこそ、再び美しい自然や国家を取り戻す術であるのだろう。
2007年06月20日
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■質問:人智学は、精神的なヒエラルキア(位階)存在が支配する「領域」について語るが、3次元性の概念は彼らにも適用できるのか? 以下はシュタイナーの答え; 人間の本質は空間のなかで実現される。しかし、秘教的(人智学)観点から言えば、空間そのものは(精神的な位階存在の)創造的活動の結果として造り出されたものとして見なければならない。その創造は最高次のヒエラルキア存在たちの働きや活動等の先立つものから創造されたので、我々は空間の存在を前提とすることができる。 しかしながら、最高次の三位一体を空間的な意味で想像すべきではなく、何故なら、空間は、その三位一体により創造されたものだからである。 空間は創造されたものなので、精神的存在たちは、本来、空間をもたないものとして想像する必要があるが、我々の世界の内部に影響を及ぼすヒエラルキア存在には、人間による影響と同様、空間的な限界がある。空間の創造に関わったヒエラルキア存在以外のヒエラルキア存在たちは空間の中を動く。ただし、この場合の空間は、3次元性をもたない。■質問:時間は精神的(人類進化段階)プロセスに適用されるのか? 勿論、適用される。ただ、人間存在における最高次の精神的プロセス(ヨハネの黙示録に預言されている最終段階のこと)は、時間無しに、そのプロセスを辿る概念を導く。ヒエラルキア存在たちの活動には時間が無い。 時間がいかに生じたかについて語るのは困難である。何故なら、時間という概念は、その言葉に、「生じる」ということが必然的に含まれているからである。 時間に関してではなく、時間の本質、或いはその存在について語るべきかもしれないが、それを議論するのは容易なことではない。もし、全ての存在が同じ進化レベルにあったならば、時間は存在しなかったといえる。 時間は、多くのより高次の存在たちと、多くのより低次の存在たちとの間の相互作用を通して生じる。多様なレベルそれぞれにおける進化は時間無しでも可能だが、それらの相互作用が時間の存在を可能にしている。 ■質問:空間とは何か? 我々が三位一体について想像するとき、空間をもたないものとして想像する必要がある。 何故なら、空間は三位一体が創造したものだからである。いわゆる空間は、1つの創造であり、我々の世界に属するものである。空間は、地上的な存在性のなかで進化(発達)する存在たちにとってのみ意義がある。 誕生から死までの人間は、虫が地面の下で生きるのと同様に、空間と時間のなかにおいて精神から切り離されている。時間に関して言えば、人間が近づくことができる最高次の状態は時間の無い状態である。 隠された内密な事柄が、役割を演じるようになるために、時間が存在するようになるという概念、或いは時間の本質や存在について語るのは容易ではない。 時間が意味を持つようになったのは、古い月が太陽から分離してからで、あらゆる外的なものは空間のなかに存在し、あらゆる内的なものは時間のなかで経過するようになった。我々は空間と時間の両方に取り囲まれている。 宇宙の全存在が同じ進化(発達)レベルにあったなら、時間は存在していなかった。 時間が存在しない、という状態のなかでは、我々は等しい進化レベルについて想像することができる。これらのレベルに差が生じ始め、それらが相互作用を始めるとき、時間の概念が現れるという。神性でさえ進化し、進化が継続するとき、進化の概念自体も進化するという。
2007年06月20日
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■質問:「自我」の働きについて 「自我」はアストラル体、エーテル体、そして肉体に働きかける。全ての人間は道徳的な自己教育を通して、アストラル体に働きかける。けれども、秘儀参入のプロセス或いは秘教的学習に関しては、初歩的段階でさえも、アストラル体に多くの働きかけを行っているという。 ただ、秘儀参入は、審美的探求や宗教の涵養を通して、より精力的なエーテル体への働きかけを始めることにより特徴づけられる。 ある点においては、アストラル的意識は4次元的である。それに関する大まかな考え方を提示するには、全ての死せる存在は通常3次元のなかに留まる傾向がある一方で、全ての生命体は絶えず、3次元を超越するイメージが必要であるという。 全ての成長体は、その運動を通して、第4の次元を、3次元の内部に取り込むという。もし、いまどこまでも大きくなる円周上を動くとすると、最終的にはその円は直線へと至る。けれども、もし、この(円が直線となる)線に沿って動き続けるとしたら、我々の空間は3次元的なので、もはや出発した地点に戻ってくることはできない。 全ての面が閉じているアストラル空間のなかでは、戻ってくることができる。 アストラル空間のなかでは、無限へと動き続けることは不可能だからである。物理的空間は第4の次元に対して開いている。高さと幅は2次元で、第3の次元は、(直線を円にするように)持ち上げて外に出すことで、第4の次元へと入っている。アストラル空間のなかでは、物理空間とは異なる幾何学が支配していると考えられる。■質問:時間に始まりがあるのなら、空間にも極限(限界)があるとの仮定は明らかだが、真相はどうなのか? 非常に難しい質問だが、その理由は、今日の大部分の現代人にとって、その答を理解するのに必要な能力を発達させる必要があるのと、それが非常に困難ということによる。 というのも、今、その答を一目見るだけの意味において取り上げざるを得ないが、それが完全に理解されるのは将来だからである。 我々が考えているような3次元を有する物理世界の空間というのは非常にマヤカシの概念であるといってよい。通常、我々は空間が無限へと至るか、或いは境界をもつかのどちらかであり、その境界は何らかの形で板張りされ、行き止まりになっていると考える。 カントは、無限の概念と、限定、或いは有限性の概念の2つを持ち出して、その両方を肯定し、また否定する概念を示した。 しかし、この問題はそれほど簡単には決定できないもので、全ての物質は空間のなかに存在し、そして、全ての物質は精神の濃縮された部分なので、空間の問題に関して、明晰性を達成するには、通常の物理世界からアストラル世界への上昇によらなければならないことが明らかになる。 超感覚的能力をもたない数学者たちは、既に、それに関連した奇妙な現象を嗅ぎつけている。直線を想像すると、それは、通常の空間中では、両方向において無限へと至るように見える。しかし、アストラル空間中で同じ線を辿るなら、直線はカーブしていることが分かるだろう。 もし、我々がそれに沿って一方向に動くと、まるで円周上を動いているかのように、最終的には反対側から戻ってくる。 円が益々大きくなるにつれて、それを周回するのに必要な時間は益々長くなる。結局、その円は巨大になり、円のどの部分もほとんど直線のようになるが、それは円のわずかに曲がった円周の部分と直線との差が非常に小さくなるからである。 物理平面上においては、アストラル平面上におけるように、反対側から戻ってくることはできない。 物理世界では、空間の方向は真っ直ぐであるのに対し、アストラル空間中では、空間は曲がっているからである。アストラル領域に入るには、全く異なる空間的関連(法則)性を取り扱う必要がある。 なので、空間は、我々がいま3次元として考えているようなマヤカシの構造をもつものではなく、1つの自己完結した領域である、と言うことができる。 そして、人間にとって物理空間として現れているものは、自己完結した空間の写し、或いはコピーにすぎなく、空間は板張りされ、限界をもつと言うことはできないが、我々は常に出発点に戻ってくるので、空間は自己完結して(閉じて)いる、と言うことができる。 以上2つの問い、自我と空間の極限への答えを合わせると、我々は、自我のなかに、自己完結した空間の写し、或いはコピーをもち、我々は3次元空間を、表面上は無限へと進みながら、実は4次元空間に達し、曲がりながら、自分へと再びかえってくるといえる。 空間に極限があるようにみえるのは、4次元以上の幾何学において、自己完結した自我が、3次元空間では、異なる(直線の)幾何学に沿うようなマヤカシの空間法則に囚われているからである。 シュタイナーは、これを4次元から3次元への死の変換と呼び、この逆変換が、死から再生の、つまり3次元から4次元の幾何学的イメージの初歩的瞑想に隠されていることを説いているのである。プラトンは、イデア論において、このことを示したという。
2007年06月19日
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シュタイナーは、四次元の説明(講義)に際して、質疑応答を受けている。以下はそのまとめである。■質問:人智学は第四の、そして、より高次の次元に関して、何を達成しているのか? この質問に対する答を理解可能なものにするのは容易ではない。我々人間は、物理的世界、感覚で知覚可能な世界が教えるものから出発するが、その世界では、空間は3次元を有している。少なくとも理論的なレベルにおいては、数学者たちは四次元や、より高次の次元に関する考えを定式化しているが、それは3次元空間に関する彼らの考えを、変数を通して、分析的に拡張することによるものである。 なので、少なくとも数学的思考の範囲においては、より高次の多様性について語ることが可能である。これらの問題に精通する人たちにとっては(つまり、その問題に心血を注ぎ込み、かつ必要な数学的知識をもつ人たちにとっては)多くの事柄に光を当てることが可能である。一例として、ウィーンのシモニーについて触れる。 高次の次元は、最初はアイデアのなかだけに存在する。それらを実際に見るようになるのは、精神的世界に入っていくときだが、そこでは、直ちに3よりも多い次元を把握することを強いられる。そこで提示されるいかなるイメージも(つまり、3次元性が本来もつ特徴をまだ保持するいかなるものも)我々自身の魂のプロセスが反映されたものに他ならない。高次の世界においては、まだ無理に空間的関係と呼ぶのならば、(3次元空間とは)非常に異なる空間的関係が支配している。 時間についても同じことが言える。主張する全てが幻想に基づいたものではないということをどうして確かめるのか?と批判する人々が常に大勢いるが、そのような人たちは時間の関係がどのようになっているかを考えてみる必要がある。 というのも、彼らは、人智学の活動分野では幻想とは全く異なる現象が扱われる、という事実を無視しているからで、これまでの内容は非常に長いものだが、全てを語ることは不可能で、この質問は、このような内容のなかで述べたことを補足する機会を提供する。我々が精神世界に参入するとき、時間と空間に関して生じる変化について、もう少し指摘する。 我々が、黄泉の国へと消失する、というようなイメージを復元すること、いわゆる、そのイメ-ジが意味を持つのは、高次元からのアプローチがなされるときだけである。けれども、ちょうど感覚知覚が可能な世界における3次元性が自明であるように、黄泉の国での高次元性は自然で自明である。 通常の幾何学が精神世界の存在や出来事にあまり適合しないのはそのせいである。数学者を代表して言うべきことは、4次元に関する考察が現実的価値を獲得するのは、精神世界に入っていくときである。 けれども、高次元空間に関する彼らの結論は、通常は、3次元的に知覚されたユークリッド空間に基づいて一般化されたものであり、現実に基づいたものではない。そのため、彼らの結論は高次元の現実に十分対応するものではない。精神科学者が探求する存在や出来事に関する計算を行うためには、もっと良い数学が必要なのかも知れない。 とはいえ、この質問に対する答は「イエス」といってよい。超感覚的な世界との対応関係、そしてまた、無限に関する数学的なアイデア、特に一定の初歩的な数学上の課題は1つの現実となる。何年も前にシュタイナーが経験した次のような例がある。シュタイナーが大学で近代の射影(微分)幾何学と解析力学を学んでいたときに、アストラル空間に属する非常に重要な特性に関する洞察が突然閃いたという。 それは、無限へと延びる直線上では、無限に遠方の左側の点は無限に遠方の右側の点と同一であるという概念、つまり、その線上の点の配列に関しては、直線とは現実には円であり、もし、線上を逸脱することなく、十分に長く直線上を動き続けるなら、反対側から戻ってくる、という概念であるという。 このことは理解可能だが、そこから結論を引き出すべきではなく、何故なら、精神的探求において、結論は何も導かないからで、現象が直接働きかけるのに委ねることが、超感覚的な世界の認識へと導くという。 超感覚的世界を取り扱うときには、数学を過大評価しないことが大切で、数学が有益なのは純粋に形式的なレベルにおいてだけで、現実の状況を把握する可能性はほとんどない。とはいえ、人智学と同様、数学は魂自体に本来備わった力によって理解することができ、誰でも平等に真実である。数学と人智学が共有するのは真実である。
2007年06月18日
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いつも訪問させていただいているNA23さまのブログに触発されて、昨今の英会話の氾濫について、危惧した。 そこでの私のコメントは大体以下である。 「英会話は日本語破壊の尖兵で、英会話学校はやたら「ネイティブ」と宣伝しまくりますが、日本人だからといって、関西弁や東北弁を上手く話せるわけではないのに、何が英会話で「ネイティブ」かと思いますね。 日本人の英語教師の職を奪ったのと、なんでも、外国企業がよいという風潮の蔓延、英語が国際語という誤解、国際とは、平均化ではないのに、なんだか、外見だけが先行し、中身が空っぽの、答弁が跋扈するのは、当たり前といえば当たり前ですね。」 英会話氾濫による、日本社会での道徳破壊は、昨今、特に顕著に思われる。「ビジネス」といいながら、法律の未整備による、ホリエモンのような犯罪や、犯罪スレスレの行為が、俄か仕込みの英会話により、行われるのであるのだから、たまったもんではないだろう。 英語が世界じゅうに氾濫したのは、英国の野蛮な植民地政策にあったといえるだろう。英国の野蛮な植民地政策の原点に英語、つまり言語の唯物化、統一化があると思われる。 本来、訪問者は、訪問者らしい振る舞いというものがあるはずで、日本にくるなら、基本は外人たちが、日本語をしゃべるべきで、郷に入れば郷に従えであると思われる。その土地に訪問するのなら、その土地を守る人々の歴史を重んじる。それが何よりも礼儀であるように思う。 言語というのは、その地域の自然から生じ、土地柄と風習、風俗や伝統を守り、改善していくものといえるだろう。だから、本来は、その土地にいくには、その土地の言語を理解するだけの教養が自然と求められるのである。 太古人は、むやみやたらと移住しなかったという。ゲルマン民族の大移動でさえ、現代の観光や世界旅行の移動量に比べれば、少なかったという。だから、自然破壊が、現代ほど深刻にはならなかったのである。 自然破壊を行える言語というのは、一種の破壊兵器なのである。 このような日本社会における、日本語破壊の一種の破壊兵器である、英会話の氾濫に疑問を思ったので、英語の歴史をネットで調べてみた(グローバルハート・コーポレーションというウェブが大変役に立った。この場を借りて感謝! 英語資料室というウェブは更に詳しい)。 英語は、オールドイングリッシュ(古英語)から派生したものであるという。オールドイングリッシュ発祥の地のイングランドという土地に、はじめにやってきたのはイベリア人であったという。イベリア人は、前インドヨーロッパ人と呼ばれているところをみると、神秘学でいうアーリア人なのであろう。これはストーンヘンジという遺跡を残していることからもわかる。 イングランドの地へ紀元前7世紀頃になると、ケルト人が大勢やって来たという。 ケルト人も起源を遡れば、アーリア人種なので、イングランドの地に、かつてのアーリア人種が集結したとも考えられるのである。恐らく、当時の神殿建設の地を、イングランドと特定したものなのであろう。 やがてイングランドの地は戦闘に巻き込まれ、サクソン人の侵略をうけたという。サクソン人も元はゲルマン人で、その起源はやはりアーリア人にあり、アーリア人が東から西へと移住し、定着、土着するにつれ、その土地柄の風俗、風習に染まり、その相違から、戦闘を起こすようになったものと思われる。 そのような戦闘のなかで、次第に統治、統一され、部族を問わずにアングル人と呼ばれるようになったようである。これは日本における大和民族のようなものであろう。ちなみにイングランド、イングリッシュという呼び名もそれぞれ「アングル人の国」「アングル人の言葉」という意味が語源であるという。 ここからわかるように、英語の起源のオールドイングリッシュは、戦闘的で統一的な言語であるようだ。 オールドイングリッシュの文法は現代英語と比べるとはるかに複雑で、名詞の性も存在し、格変化もあったという。古英語はドイツ語に非常に近かったと考えられ、現代英語では定冠詞はtheの一種類のみだが、古英語では18種類もあったという。ちなみに現代ドイツ語には16種類の定冠詞が存在するという。 8世紀後半からスカンジナビア半島に住むゲルマン系のデーン人が新たに侵入し、デーン人の話していた言語との接触で、古英語の文法に変化が生じ、英語文法の簡素化はこの頃から始まり、11世紀のノルマン人のイングランド征服以降、加速したという。 1066年に起こったフランスのノルマンディー公ウイリアムによるイングランド征服により、以後150年間ノルマン人の支配に入り、フランス語がオフィシャルな場所で使われ、英語は大衆の言語という2重構造が生まれたという(英語で「豚」はpigだが、「豚肉」だとporkで、pigは古英語起源の言葉で、porkはフランス語起源の言葉であるという。同じように「羊」はsheepだが「羊の肉」はmuttonで、後者がフランス語起源であるという。食卓に関する言葉は上流階級の使用していたフランス語がそのまま残った、という)。 この歴史をみれば、フランス人が、英語を使わないプライドの原点がここにあることがうかがえる。また、英国の植民地政策の原動力で、推進した海軍が、実は海賊たちの統一連合(ユニオンジャック;ジャックとは乗っ取りの意味)であったことを考えれば、その原点がヴァイキングと呼ばれたノルマン人の征服にあることがわかる。つまり、ノルマン人に征服されたことを学び、その勢いで、他国を植民地化したといえる。 1204年、フランスとの戦いに敗北したジョン王がフランスの領土をほとんど失い。多くの貴族たちはイングランドに残る選択をとり、このあたりから英国人としてのアイデンティティが芽生えはじめたという。 その後、百年戦争(1337-1453)の際に敵国の言葉であるフランス語は権威を喪失し、公用語としての地位を失い。一方、英語は1483年にエドワード4世が議会での法案を初めて英語で起案し、その地位が向上したという(この間、大量のフランス語の語彙が英語に流入するようになり、英語が主流になるにつれ、英語に不足していた語彙がラテン語、フランス語経由で入ってきたという)。英語の地位は確固たるものとなったが、文法的整備には、もう少し時間が必要だったという。 この時期(1100-1500年)の英語をミドルイングリッシュと呼ぶという。文法的に他のゲルマン諸語と比べて簡素化が進み、語彙的には大量のフランス語が流入したという。15世紀には大母音推移という現象が起こり、これ以降、発音とつづり字の不一致という英語特有の現象が起こる事となり、この時期に近代英語の原型はほぼ出来上がったと見ていいという。 モダンイングリッシュの確立に大きく貢献したのが印刷機の導入であったという。英語には多くの方言があり、印刷する際にはスペリングを固定する必要性があり、そこで印刷地であるロンドン英語のスペリングが使われ、大量の印刷物を通してロンドン英語のスペリングが広がり定着したという。これによりロンドン英語が標準英語となるきっかけができたという。 多くの方言が濫立する中で標準英語という一定の基準が設けられ、近代英語は大きく前進したという。また翻訳技術の進歩により庶民に無縁だったラテン語の書物も英語に訳されるようになり(聖書の英訳などはその代表例といえるという)。文芸面ではシェークスピアが活躍し、このようなプロセスを経て近代英語の文法スタイルは18世紀頃には整ったという。 絶対主義体制が固まる中で英国は北米、オーストラリア、インドなどを植民地化し「大英帝国」を築く。これを機に英語圏が世界中に広がる素地ができ、中でも英国から独立したアメリカ合衆国の台頭がその後の英語の国際的地位に多大なる影響を与えた。 英語圏は世界中に広がり、米語、英語、インド英語、オーストラリア英語、フィリピン英語香港英語という風に様々な英語の亜流が生じ、英語の標準はロンドン英語という考えは薄くなり、それぞれの民族が独自の文化背景に溶け込んだ英語を話すスタイルが確立しているという。英語は当初から様々な言語の影響を柔軟に受け入れ、変化していった言語であると考えられるという。こういった歴史的背景に他民族に受け入れられる素地があるとも言えるという。 だから、英語は一見すると、英語圏では、どこでも通じるような錯覚を覚えるが、ロンドン英語が古典化している現状では、懐疑的にならざるを得ない(スコットランド人の英語は米国では通じず、ロシア語に錯覚されるというし、逆に米語もまた、スコットランド人には通じないようである)。 このような英語圏の歴史をみるなら、「ネイティブ」どころか、英語があらゆる言語の影響から独立したように、古日本語から、独立し、洗練された日本語こそが、現代の日本社会に望まれるように思われる。
2007年06月16日
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古代エジプト文字を学ぶと、太古の文明が、いまより、遙かに叡智に富み、いかに優れていたものであるかがわかる。「西洋の没落」という本をシュペングラーという哲学者が書いているが、それは遙か太古の高度の文明から、人類が唯物化し、没落していく雰囲気の一断片でしかないが、それを表しているようである。 つい近年の日本において、勝海舟も、明治維新後まもなく、江戸時代の方が、災害対策等の社会福祉が遙かに発達し、民衆の暮らしぶりも安定していたと述懐しているのである。西郷隆盛なんかは、明治政府の汚職や私利私欲に嫌気が差し、明治維新の無意味さを虚しく実感し、死に場所を求めていた位である。 かといって、安易な懐古主義に陥るのではなく、もはや、後戻りのできない死への道へと賽は投げられたのである。問題は、死からの再生である。 さて、古代エジプト文明の文字ヒエログリフであるが、「ヒエログリフ」という呼び名は、ギリシア語のヒエロ(聖なる)とグリフ(彫り物)からきているという。 つまり、私流に解するなら、「聖なる彫り物」とは、「神(聖なる)の言葉(空間に刻むという意味で時間であり、彫り物であるから)」であるだろう。 そう、古代エジプト文字は、神の言葉を記録したものなのである。だから、書記官は、トトと呼ばれた。トトとは時の神で、ヘルメスを表す。ヘルメスは、秘儀参入者であり、勿論、ファラオでもある。 ファラオは、ヒエログリフでは、「大きな家」という意味の文字で表す。大きな家とは、大きな収容力を担う器である。また、ヒエログリフでは、羊飼いの棒、杖のような記号の文字で、ファラオを、「統治者」と表記する。その意は、絶えず羊の群れを導き、一匹でも迷子にさせないような、「良き羊飼い」のことであるという。 キリストも「良き羊飼い」と呼ばれた。いうなればヒエログリフでは、人類のファラオといえるだろう。そういえば、あるサイトで、キリストと百人隊長のエピソードが述べられていた。 百人隊長とは、いまでいう現場監督長みたいな役割で、会社組織でいえば、中間管理職なのであるが、一兵卒の叩き上げが原則であったようである。 そのエピソードは、とある百人隊長が、部下の病を慮り、キリストから言葉を戴くのだが、キリストがその百人隊長のあまりの信仰心に感動したというものである。 太古の信仰はその行動に重きをおいていたという。ヒエログリフも、何を信じたかではなく、何を成したかに重点が置かれる。つまり、神への信仰が前提にあり、問題は、その実践にある。ヒエログリフにも、「はい」と「いいえ」といったものはなく(そのニュアンスに近いものはあるという)、「良い」と「悪い」ははっきりとあるという。 つまり、太古の信仰は、言ではなく、実践(行動)が全てなのである。 そのような信仰のなかで、百人隊長が、「行け」と命令すれば、部下は「行き」、「来い」といえば、「来る」のだから、いかに、百人隊長が、日頃から、部下と心を一つにし、気を配っていることがわかるだろう(百人隊長で検索すればエピソードが出ます)。 ヒエログリフのファラオには、百人隊長のような、良き羊飼いという意味と、他に、「奉仕者」という意味があるという。つまり、ファラオは、人民への第一の奉仕者で、日頃から、人民に心を配るから、人民が、ファラオの言うとおりに行うのである。 ここに、信仰から生まれ、信仰から通じる、真の信仰が存在するのである。これを真の信仰による権力というのだろう。 神から真の信仰が出て、権威となり、正しい権力が信仰となるのである。 ファラオは、正しい権力の元に、地に信仰による建築を行う。それがモニュメントである。モニュメントには「MEN」、つまり男の人間の意味が派生してくる。これは、以前、メーソンのブログでも述べたが、男とは、石工、つまり、信仰の言葉を権力で表現するもので、彫り師なのである。 この石工が、神殿、モニュメントをつくり、エジプトのオシリス伝説となる。オシリスは一度、弟セトに殺されるが、オシリスの妻である女神イシスに救われて復活するのである。これはメーソンのところで、聖書が霊的言語(女神イシス)により再生されるということを述べた。 つまり、男は、建築(物質的)言語であり、子音で、女は、霊的言語であり、母音なのである。 さて、ヒエログリフには母音がない。それは失われてしまったからである。子音だけが壊されずに残った神殿で発見されたのである。 その子音だけのヒエログリフでは、ファラオの次に重要なのが高官である。高官は、「予言する。遠くを見渡す。知らせる」という意味のヒエログリフで示されるという。 つまり、高官は、正確な予言者でなければ勤まらないということなのだろう。社会に、事故や災害が起こった時点で、高官失格なのである。諺で、「最も良い医者は治療しない、次に良い医者は、簡素な治療で済ませる、最も悪い医者は大掛かりな治療を行う。」というのがあったように思う。 さしずめ、現代のような物質的感覚の社会では、死語というか、死諺だろうが、太古では、一見、平和なので、何もしないように見える高官が最も理想であったわけである。いまでは、悪しき形骸化した概念だけが残り、何もしないように外見を取り繕い、隠蔽することばかりが罷り通っているわけである。 これが文明の没落でなくて何であろうか? 文明、文明と口で叫びながら、中身、要は退廃しているにすぎないのである。 さて、更にヒエログリフでは、高官に「先に行動し、最高の腕をもつ人物」という文字が当てられる。そして、最後に、公人全て、どんな重要人物であっても、次の事に従わなければいけないとされる。 それはヒエログリフでいうところの、「成し遂げる義務、よいやり方、行い、正しい習慣」であるという。 ヒエログリフは、生きた言語なのである。このヒエログリフに比べれば、現代の日本語は、和製英語が飛び交うような、死体のような言語といえるだろう。 さしずめ、政治家といえば、「汚職、私服を肥やす者、人格退廃者、常に謝る者、大嘘吐き」で、高官といえば「隠す者、口先だけで、行動しない者、贅沢を貪る者、冷酷非人情者、弱者を痛めつけ、自慢する者、狡賢い品性の無い者、背徳者」と幾らでも、とても美しいとはいえない言葉が並ぶだろう。 「しっかし、平成人は、まるっきり、だらしなくなっちまったもんだねぇ? これが江戸人のご子孫かえ?」と江戸人はさぞ、お嘆きでいやんしょう。
2007年06月14日
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幾何学から、我々は平面図形の向きを変えて、それが落とす影(射影)が直線になるようにでき、同様に、直線の影は点に、3次元の立体的な物体の影のイメージは2次元の平面図形にすることができる。こうして、4次元の存在を認めてしまえば、3次元図形は4次元図形の影のイメージとなるのは全く当然のことになる。 これは4次元空間を想像する1つの純粋に幾何学的手法であるという。けれども、幾何学の助けを借りて、4次元空間を視覚化する別の方法もあるという。2次元をもつ正方形を想像する。今、その境界を構成する4つの線分が真っ直ぐに延ばされ、1つの直線を形成することを思い描く。 正に、2次元図形の境界を真っ直ぐに引き延ばし、それらが1次元のなかに横たわるようにする。このプロセスをもう一歩前進させて、1つの線分を想像し、丁度、正方形に関して(1つの次元を取り除くことで)行ったように、その図形の境界が2つの点になるように、次元を奪う。 1次元図形の境界を正にゼロ次元で表現した。また立方体を展開して、6つの正方形へと広げることができる。立方体の境界を広げて、平面のなかに横たわるようにした。こうして、線は2つの点として、正方形は4つの線分として、そして、立方体は6つの正方形として表現できる。一連の数字:2、4、6に注意する。 次に、8つの立方体を取り挙げる。丁度、前の例で、幾何学図形の境界が展開されたように、8つの立方体は4次元図形の境界を構成する。それらを並べると、結果として正四次元図形の境界を示す二重の十字架が得られる。ヒントンはこの四次元立方体をテサラクトと呼んだという(図X)。 図X この作業はテサラクトの境界についての心的なイメージを与えてくれる。この4次元図形に関する考察は、2次元存在が立方体の境界を平坦化して、つまり、それらを展開して、立方体についての考えを発展させることに比肩されるという。
2007年06月14日
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「繰り返し消滅したり、再び出現したりするものは果たして存在するのか?」という問いに対する答えは非常に容易であるという。 ときに、自身のなかに現れては再び消え、超感覚的能力をもたない人にとっては、3次元として知覚できなくなるようなもの、例えば、喜怒哀楽の「喜び」という感情について考察する。「喜び」の後、同じ感情が、何か別の出来事に際し、再現される。 このような場合、平面存在のように、2通りある意見(原理)のうちの1つの意見(原理)をもって振る舞うことができる。その「喜び」の感情は、人間が追跡できない空間の中に消えたと言うこともできるが、その感情は消え去り、それが再び現れる度に、新しく創造されると主張することもできる。 しかし、無意識のなかに消えるいかなる思考も、消滅し、再び現れる思考が存在する証拠になる、というのは真実であるという。もし、この思考が、実際に存在するように見えるなら、次のステップは、唯物的な観点から持ち出されそうな、あらゆる異議を定式化してみることが重要であるという。 最も手強そうな異議に触れてみる。その他の異議は全て簡単に反駁でき、現代人は、この現象は純粋に唯物的な言葉で説明できる、と主張するだろう。そこで、物質的プロセスという文脈において、消えたり再び現れたりするものの例を提示する。 例えば、作動している蒸気ピストンを想像する。ピストンに力が加わっている限り、その運動を我々は感知する。さて、反対方向に働く同様のピストンで、その運動に対抗する。その運動は止み、機械は静止し、均衡する。そのとき、運動が消えたようにみえるだろう。 同様に、現代人は、「喜び」の感情とは脳のなかの分子の運動以上のものではない、と主張するだろう。分子(神経細胞内のもの)が運動している限り、「喜び」の経験をもつ。 何か別要素がその分子に反対の動きを生じさせると仮定する。そうすると、「喜び」は消える。この推論の線に沿って考察を更に先まで追求しない人は誰でも、実際、これは先に示された考えに対する、非常に重要な反論であると捉えるだろう。つまり、そのような反分子の存在により、脳内の均衡が図られ、「喜び」が実際に消えると考えるのである。 しかし、この反対意見を詳細に見てみる。丁度、ピストンの運動が反対方向の運動の結果として消えるように、分子の運動に基づく感情は反対方向の分子の運動により打ち消されると言われる。1つのピストンの運動が別の運動に対抗して作用するとき、一体何が生じているのか? 最初の運動と2番目のその反対の運動の双方が消滅することである。第2の運動は、自らを除去することなしに、最初の運動を除去することはできないので、その結果は運動の完全な非存在となる。いかなる運動も後に残らないことになる。 つまり、平衡状態によって、なんらかの存在の消滅(非存在)を説くことは不可能である。 このように、意識のなかに存在する、いかなる感情も、それ自身を除去すること無しに、別の感情を除去することはできないという。なので、1つの感情が別の感情を除去できるという仮定は全くの間違いであるという。その場合、いかなる感情も残らず、感情の完全な不在が生じることになるだろう。 それでも猶、言えるのは、最初の感情は第2の感情を無意識のなかに追いやるという程度のことだが、そう言ってしまえば、直接的な観察の網にはかからないが、それでも存在するものがあることを認めたことになるだろう。 今回は、超感覚的知覚に関しては全く考察せず、純粋に数学的思考に関してのみ述べた。4次元世界が存在するという可能性を認めた時点で、超感覚的能力無しに4次元物体を観察可能か、と問うかも知れない。このとき、4次元空間の数学的な幾何学射影等の、その種の投影が、4次元物体の存在の認識を可能にするといえる。
2007年06月13日
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人間には、ただ4次元を推測するしかなく、その推論の存在こそが、実際の4次元の存在を示すものと数学者たちはいうだろう。勿論、その結論が正しくても、間違った推論である場合もありえる。ここでもまた、正確なアプローチが必要とされるが、この問題は、空間の無限性を理解するために数字を用いようとした最初の例ほど簡単ではないので、今回の説明は、わざと単純なものに限る。 4次元の存在を示すような結論に関しては、最初の純粋に技術的、算術的な線に沿った理論づけとは状況が異なる。この場合には、何か本当に把握すべきものがあるという。平面のなかのみを運動する物体を知覚できる存在がいることは十分考えられるが、そのような存在は、平面の外の上下に存在するものには全く気づかないだろう。 その平面内の点が、その存在に見えると想像する。勿論、その点が見えるのは、面内にあるからに過ぎず、その点が面内を動く限り、見ることができるが、その面から外に出る瞬間、不可視になる。それが平面存在である限り、点が平面外に出れば消失するだろう。 さて、その後、その点が平面上の他のどこかに現れると想像する。すると、その点は再び見えるようになり、また平面上を外れると消失し、等々である。その点が平面から出ていくとき、その平面存在は、それを追っていくことはできないが、「その間、その点は、どこか、不可視の世界(見ることができないところ)にいる。」と言うだろう。 この平面存在の心の中に共感しながら、2つの可能性に関して考えてみる。1つは、「平面ではない、第3番目の次元があり、その物体はその中に消えたが、後でまた現れた。」と言う意見(原理)であり、もう1つ(2つ目)はまた、「馬鹿な奴が3次元などと言っているが、その物体はただ単に消えて、その度に再び現れただけで、新しく創り出されたものだ。」と言う意見(原理)だろう。 この2番目の意見の場合には、その平面存在は論理的な法則に反していると言うべきだろう。もし、その物体(その点)が繰り返し解体され、再び創り出されることを仮定したくなければ、その物体は、平面存在では見ることができない空間のなかに消えたということを認めなければならない。実際、このように彗星が消えるとき、4次元空間のなかを通過しているという。 さて、この問題に関する数学的考察のなかにつけ加えるべきものを見てみる。我々は、観察する場(空間)のなかに、繰り返し出現したり、消滅したりするものを見い出す必要がある。この場合、超感覚的能力は必要なく、もし、平面存在が超感覚的な能力をもっていたとすれば、その存在は第3の次元の存在を、推論によるのではなく、経験から知るだろう。 人間に関しても似たようなことが言え、超感覚的能力をもたない人は、「私自身は3次元に限定されているが、周期的に出現したり、消滅したりするものを観察した瞬間、それらが4次元が関係していると言っても間違いではない。」と言う他はないという。 これまで述べてきたこと全ては、完全に明白で、それを肯定することは、あまりにも容易なので、現代の盲目状態にある我々には、肯定できないという。
2007年06月12日
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次の質問は、我々の概念的な思考様式は、空間を出発点として、より高次の真相(現実)へと拡張し得るか?というものである。 数学者たちにとっては、そのような思考様式に包含されるのは、数字を含めた計算のみである。これは一体、許されることなのか? これから示すように、数字を用いて空間の大きさを計算することは、非常な混乱の素を生じるという。何故混乱を生じるのか? 1つの例を挙げれば充分である。例えば、平面上の正方形の両サイドに、新たな正方形をつくり増殖させ、どんどん広げていき、そして、ついには、2つの線に挟まれた無限に広がる正方形(平面図形)が得られる(平面(2次元)上を、2つの線に囲まれた帯状に、正方形で覆い尽くす)。 この正方形からなる平面図形は無限に広い幅をもつ(無限の正方形をもつ)ので、その大きさは無限大となる(∞)。 さて、他の人々が、この2つの線に挟まれた領域は無限に大きい(長い)という話を聞く。当然、それを聞いた人々は無限大について考える。けれども、もし、無限大について触れたなら、無限に大きいと聞いた彼らは、無限に大きい平面図形をつくった人が言うことに対して、間違った考えを抱くだろう。 もし、このとき、各々の正方形の側面(2つの線に挟まれていない外側)にもう1つ正方形をつけ加える、つまり、無限に多くの正方形をもつ、もう1つの列をつけ加えると、その結果得られるのはやはり無限大だが、最初の無限大の丁度、空間的な占有は、2倍となる、大きさの異なる無限大となる。従って、∞=2∞となる。 同様に、∞=3∞ともなる。数字を用いた計算においては、無限は、何らかの限定された特定の表記の数字と同様、安易に用いることができる。最初のケースでは、その空間は無限大であるというのは真実だが、それ以外のケースでも、空間が2∞、3∞等々であることもまた真実であるからで、数字を用いて計算するときには、よく、このようなことが生じる(現代数学では、代わりに複素数を用いて、計算するが、今度は、複素数平面が、混乱をもたらし、非現実のものとなる)。 ここから分かるように、無限大の空間という概念が、数字計算に結びつけられる限り、より高次の真実(現実)へと更に深く沈潜することは不可能となる。数字というものは、実際、空間とは無関係であるという。エンドウ豆やその他の物体と同様、空間に関して、数字は全体として中立であるという。 既知のように、数字による計算が現実の状況を変えることは決してない。もし、我々がエンドウ豆を3個もっていて、そこに、3という数字の概念を掛けても、かけ算がその事実を変えることはない。そのかけ算が正しかったとしても、3×3=9の計算が9つのエンドウ豆(植物という生命体)を作り出すことはない。 このような場合、思考だけでは何も変わらない。そして、数字計算は単なる思考である。たとえ正しく掛け算をしても、手元に残るのは3個のエンドウ豆であり、9個ではない。同様に、数学者たちが、2、3、4、或いは5次元に関して計算を行っても、我々の前にある空間はやはり3次元である状況は変わらない。 そのような数学的な思考を巡らしたいという誘惑に駆られるのは分かるが、それらが証明するのは、高次空間に関する計算を行うことは可能であるということだけであり、数学により、高次空間が実際に存在することを証明することは不可能で、その概念が現実に有効であることを証明できない。我々はこの点に関して厳密に明確である必要があるといえる。 この課題に関して数学者たちはその他の非常に巧妙な考えを巡らしてきたが、その幾つかを考察してみる。我々人間は3次元空間のなかで、考えたり、聞いたり、感じたり等々を行う。 2次元空間中でのみ知覚することが可能な存在がいると想像するなら、彼らの体的な組織は彼らが平面のなかに留まることを強要し、そのため、彼らは2次元を離れることができないことがわかる。 彼らは左右と前後に関してだけ、動いたり知覚したりすることができ、上と下に存在するものに関しては、いかなる(真実に迫る)考えも、もちえないだろう。 とはいえ、3次元空間中における我々の状況も同じであるといえる。我々は、自らの身体が3次元に適合しているために、第4の次元を知覚できず、丁度、2次元存在が第3の次元の存在を推論するように、第4の次元を推論する必要があるといえる。
2007年06月11日
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今日のテーマは様々な困難を提示することになるだろう。そして、このまとめは、一連の秘教のまとめの一つとして見る必要があるという。単に形式的レベルであっても、秘教の課題を深く理解するには、数学的な予備知識が必要であるという。 とはいえ、その課題の真相を把握するには、秘教主義へのより深い洞察が要求される。今回は、この側面について、更なる考察のための刺激を与えるとしても、究めて皮相的な取り扱いしかできない。 高次元について述べること自体が非常に困難だが、それは、通常の3次元を超えた、いかなる次元であっても、その次元を思い描くには抽象的な領域に入っていく必要があり、もし、我々の概念が究めて正確かつ厳密に定式化されていなければ、高次元の領域において、我々は深淵へと落ち込むことになるからである。 我々が知る多くの人々、友人、敵を問わず、この深淵へと落ち込んだ運命を辿ったという。高次元空間に関する概念は、一般に信じられているほど数学にとって、馴染みのないものではない。数学者たちは既に高次元の操作を含めた計算を実行している。 勿論、数学者たちが、高次元空間について語れるのは、究めて限られた範囲であり、本質的に、議論可能なのは、高次元の存在の可能性のみに関するものである。高次元空間が現実のものであるかどうかを決定するのは、実際に、高次元空間を見ることが可能な人たちでなければならない。ここで取り扱うのは、もし、それが正確に定式化されたなら、我々の空間に関する概念を、真に明確なものにするような純粋な概念である。 では空間とは何か? 普通、空間は、我々のまわりにあり、我々は空間のなかを歩きまわる等々と言う。空間に関して、より明確なアイデアを得るには、高レベルな抽象化を受け入れる必要があるだろう。我々が通常、動き回る空間を「3次元的」と呼ぶ。それは上と下に、右と左に、そして、前と後ろに広がっている。 我々が物体を見るときには、物体を、3次元空間を占有するものとして、つまり、ある一定の長さ、幅、そして高さをもつものとして見る。けれども、もし、より高度の明晰性の達成を欲するならば、より詳細な空間に関する概念を取り扱う必要があるだろう。 最も単純な立体である立方体を、長さ、幅、そして高さの最も明らかな例として見る。立方体の底面の長さと幅は同じで、底面を、最低の位置から、長さと幅に等しい高さにまで持ち上げると、立方体、すなわち3次元図形が得られる。 そこで立方体の境界を検証してみると、境界面は平坦な表面から構成されており、その表面は、同じ長さの辺により境界づけられていることが分かる。立方体は6つの平面をもつ。 では、平坦な表面とは何か? ここまで来ると、究めて鋭敏な抽象性に耐えられない人たちは、あらぬ方向に彷徨い始める。例えば、蝋でできた立方体の境界の1つを抽出しようとして、非常に薄い蝋の膜として切り取ることは不可能である、というのも、切り取れるのは常に、一定の厚みをもつ蝋の層(すなわち、立体)であり、非常に薄く極限まで、蝋を(切り取ることに)言及しても、立方体の境界に達することがないことがわかる。 この方法では、立方体の境界に到達できない。その真の境界面は長さと幅のみをもち、高さ(すなわち、厚み)はない。こうして、平坦な表面は3次元図形の境界の1つであり、本来の存在の次元より、1つ少ない次元(2次元)をもつという公式に到達する。 では、正方形のような平坦な表面の境界とは何か? ここでも、それを規定するには、高度の抽象性が要求される。平面図形の境界は線だが、それは1つの次元、長さのみもち、幅は取り除かれる。 では、線分の境界とは何か? それは点であり、ゼロ次元をもつ。このように、我々は幾何学図形の境界を見るために、常に1つの次元を取り除くといえる。 画期的な素晴らしい仕事をしたリーマンを含めて、多くの数学者の思考の跡を辿ってみる。ゼロ次元をもつ点、1次元をもつ線、2次元をもつ平面、3次元をもつ立体について考察する。純粋に技術的レベルにおいて、数学者たちは、第4の次元をつけ加えることは可能か、と問う。 もし、それが可能ならば、丁度、平面が立体の境界であったように、線が平面の、そして、点が線分の境界であったように、4次元図形の境界は3次元図形であることがわかる。勿論、数学者たちは、それから更に進んで、5、6、7、或いは、正の整数であるn次元について考えることさえできる。 ここまで来ると、点は0次元、線は1次元、平面は2次元、そして立方体は3次元をもつとするとき、ある明白で致命的な欠陥が入り込んでくる。我々は立方体のような立体を、あらゆる物質(蝋、銀、金等々)から作り出すことができる。 立方体をつくる物質は異なるが、もし、それらを全て同じ大きさにしたなら、各々が占める空間の量は同じになる。そして、もし、立方体が含む全ての物質を取り除いたならば、残るのは、特定の空間部分、立方体の空間的なイメージのみであることがわかる。 これらの空間部分は、その立方体がどのような物質でできていたかによらず、全て同じ大きさになり、全てが長さ、幅、そして高さをもつ。そのような立方体の形をした空間が無限に広がり、結果として無限の3次元空間が生じていると想像できる。物体はこの空間の一部(付属物)に過ぎないと考えられる。
2007年06月08日
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「維新の暗号」という本に出会い、そのなかで、フリーメーソンについて書かれていたので、同作家が、フリーメーソンのことを書いている「石の扉」という本を知り、興味本位に読んでみた。 残念ながら、フリーメーソンを上辺だけでしか捉えてない、まるっきりの消化不良書であった。しかし、メーソンについての言及は不満足なのだが、メーソンの世間的な会員が起こした出来事、主に不祥事に近いものについては、楽しく読まさせて頂いた。 唯物的史料とそこからくる唯物的思想では、ここまでが限界といえるのだろう。この本では、せいぜい33位階の人物しか言及されていないが、しかも、その内容ではなく、人物名のみにとどめるものであるが、メーソンは、その由来から96位階まであるのである。 位階が全てではないが、位階は、その叡智の称号を表しているようである。その内容は、霊能力者でなければ、シュタイナーの書籍で知ることができ、メーソンに関しては、特に「神殿伝説と黄金伝説」という、いまでは、絶版になっている書籍により知ることができる。 そこでは、メーソンは、マニ教の霊統から派生した太古の叡智の一種の秘儀伝承の場であったという。勿論、いまでは形骸化し、堕落したものになっていることはいうまでもない。 いまでは、メーソン誕生当時の秘儀伝承のほとんどが失われ、メーソンが残した唯一の人類への功績といえば、慈善事業のみであるという。 あまりにも、この本が陳腐だったので、そこで、メーソンの秘密をここに端的に書くことにする。 メーソンとは「石工」の意味だが、本来それは、男性を意味するものであったという。男性である石工は、言葉を美に表現する建築師の意味だったという。これは太古では、アダムの子、カインの系統であり、神殿伝説を人類に語り継いできた、生命のない無性的叡智のことを表す。 対して、カインに殺されたアダムの子、アベルの系統、後にセトが継ぐものは、黄金伝説といわれ、聖書を読み解くオカルト的叡智、つまり、霊的叡智で、女性の直観、祭司の系統で、これは唯物論の勃興で、失われ、隠されて(オカルト)しまった。 太古、人類は、両性具有であり、男女の性は存在しなかったのである、なぜなら、エデンの園という霊的世界(あの世)に住んでいたからである。だから魂には性がない。魂が肉体に受肉した度合いにより、性をもつのである。 人類が両性具有から、受肉し、男女に分かれて、人類は、神から離れて、自由(フリー)を行う選択を得た。自由になった男性のこと、つまり、言葉(魂)を美に表現する建築師(受肉)のことを、フリーメーソンというのである。つまり、転生により、地を開発するものは、フリーメーソンであり、男性は皆、生まれながらフリーメーソンの資格を有するのである。 カインの系統は、皆、フリーメーソンなのである。だから、誰それがメーソンだというのは俗世間の噂話に等しい。人類の男性は、皆、元々メーソンなのであるから。アダムも、ワシントンも、男性は皆、メーソンなのである。 しかし、人類においては、男女の間に愛が成立してはじめて、宇宙に愛がもたらされる。そのために、神は、十戒を人類に与えた。十戒とは、宇宙的道徳律、秩序の法則であり、愛の存在である。両性具有から男女に分かれ対立した人類に、再び愛の目覚めと、融合を説く言葉なのである。 同性間の愛も友愛に違いはないが、どちらかといえば、偏った愛といえるだろう。なぜなら、大きな対立を解消し、和解するのが真の友愛であるからである。戦いより平和をもたらすのは、真の友愛である。 カインの男の流れの渦と、アベル-セトの女の流れの渦が、再びめぐり合い、2つの渦が、渦巻きとなり、進化の目となることを意味するのである。 この進化の渦巻きが、メーソンの象徴の、全能の神の目を意味する。メーソンの象徴のコンパスは、男の神殿伝説、つまり、カインの建築師(科学、芸術者等も含む)系統を示し、三角定規は、女の黄金伝説、つまり失われたアベル-セトの祭司(霊能者、秘儀参入者)系統を示すのである。 いまでは、三角定規は隠されて(オカルト)しまったので、メーソンの秘密は、語ることができないのである。つまり、言葉を語ることが、そのまま創造する力をもっていないのである。 もはや、現代のフリーメーソンには、女の流れがないので、語るべき言葉である、秘密さえもないのである。だから、秘密を語ることは許されないというより、できないといえる。 それはフリーメーソンのなかで、聖母マリアの霊的(オカルト)聖書認識をもたらさなければ、秘密を語る資格さえもないということなのである。 33位階を超え、オカルト(霊的)認識、これはマニの悪を救うために善があるというマニ霊統に回帰したとき、人間の声帯が、再び、両性具有のときの、霊的人類を創造したときに、人類は、神々(天使)の一員に加わるという太古からの伝説を意味する。 フリーメーソンは、その叡智度合いにより、徒弟、職人、親方の3つに大別されるが、徒弟では、男性的進化が求められ、つまり、極力、宗教的、オカルト的な俗世認識が排除される、これは依存的な思想に、盲信しないためである。物質世界では男性進化が求められる。 職人になると、物質世界において、弱者を救済する叡智の持ち主となる。これは悪を善に転じる力といえる。友愛の精神といえるだろう。 そして、親方(マスター)となると、人類の進化の導き手、担い手となる。太古で言う秘儀参入者といえるだろう。古代エジプトではファラオ、つまりピラミッドは秘儀参入の場であったと考えられるのである。女性的直観の叡智、両性具有の女性形態、つまり自然の女神ナチュラの叡智(進化)を表す。 古代遺跡の多くは、秘儀参入の場、つまりマスターの住む神殿だったのである。神殿は、聖杯を意味し、そこから聖堂騎士団も生まれた。聖杯につがれし血が、キリストの血、神々の叡智、つまり聖母マリアの処女性だと預言されてきた。 これが女にはオシリスのキリスト伝説を、男にはイシスの聖母マリア伝説を生ましめたといえる。
2007年06月07日
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2次元存在が、3次元的な影の像を生き生きとイメージするのを繰り返し試みて、3次元の4次元に対する関係を心的に構築するなら、数学的な4次元空間ではなく、真の4次元空間を覗き見ることを可能にする内的な力を発達させるという。 もし、より高次の世界を見れる能力を発達させなかったならば、より高次の世界のなかのみならず、通常意識の世界のなかで無力なままに留まるという。物理的な感覚知覚の世界での視覚に用いる眼は、まだ子宮のなかにいるときに発達するという。 同様に、より高次の世界に、高次の世界を見れる者として、生まれるには、地球という子宮のなかにいる間(生きている間)に、超感覚的な器官を発達させる必要があるという。物理的な眼の子宮における発達は、このプロセスに光を当てる1つの例であるという。 立方体は、長さ、幅、そして高さという次元を用いて構築される必要がある。テサラクトは、同じ次元に第4の次元を加えた次元を用いて構築される必要がある。植物は生長するので、3次元空間から抜け出すという。時間の中に生きるいかなる存在も、3つの通常の次元から自らを解き放つという。時間が第4の次元である。 それは3次元という通常の空間内部では不可視に留まり、ただ超感覚的な力のみにより知覚できるという。動く点が線を創り出し、運動する線が平面を創り出し、運動する平面が3次元図形を創り出す。3次元空間が動くとき、結果として生じるのは成長であり、発達である。そこにあるのは、運動、成長、そして発達として3次元空間に投影された4次元空間、もしくは時間であるという。 3つの通常の次元を積み上げるに際して、幾何学的な思考が現実の生活へと継続するのを見いだすだろう。時間は3つの次元に対して垂直であり、第4の次元を構成している。それは成長し、時間が、存在の内部で、生きたものになるとき、知覚能力が生じる。 時間が存在の内部で内的に乗ぜられ、自ら動き出すようになるとき、結果として生じるのは感覚を有する動物存在であるという。実際に、そのような存在は5つの次元をもつが、他方、人間がもつ次元は6つであるという。我々人間は、エーテル領域(アストラル平面)においては4つ目の次元、アストラル領域(下位のデーヴァ)においては5つ目の次元、そして、上位のデーヴァにおいては6つ目の次元をもつという。 こうして、精神の多様な顕現が見られる。デーヴァがその影をアストラル空間のなかに投げかけるとき、結果として生じるのは、我々人間のアストラル体であるという。アストラル領域がその影をエーテル空間に投げかけるとき、結果として生じるのはエーテル体、等々であるという。 時間が1つの方向に動くとき、自然界は死滅し、別の方向に動くとき、それは生き返るという。これらの流れが出会う2つの点が誕生と死であるという。未来は絶えず、我々人間に出会うためにやってくる。生が一方向にだけ動くものだったら、何も新しいことは生じなかったという。 人間は天才(つまり、自らに向かって流れてくる未来、神通力(インテュイション))をももっている。働きかけを受けた過去は反対側からくる流れだが、それはその存在を、その時点まで進化に導いたものとして決定づけられる。
2007年06月07日
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次に、正方形を考える。それが空間中を移動して立方体が描かれると想像する。正方形の動きはそれが最初にあった位置に対して垂直である必要がある。立方体はその面を構成する6つの正方形からできている。立方体の外観を示すには、その6つの正方形を平面上に並べて、展開して置くことができる。 これらの正方形を上方に折り曲げ、つまり、3次元に移行することにより、立方体を再構築することができる。例えば、6番目の正方形がトップにくる。十字架状の展開図をつくるのに、立方体を2次元のなかに崩した。3次元図形は広げる(展開する)と2次元図形に変わる。 立方体の境界は正方形である。3次元の立方体は常に2次元の正方形により取り囲まれている(境界づけられる)。1つの正方形を見ると、それは2次元であり、4つの1次元線分でこれまた取り囲まれている(境界づけられている)。 これら4つの線分を、一次元のなかに広げる(展開する)ことができる。正方形がもつ次元のうちの1つを規定する辺を赤い実線で、もう1つの次元を青い破線で表す。長さと幅の代わりに、赤と青の次元について語ることもできる。 6つの正方形から立方体を再構築できる。つまり、4という数字(正方形の辺を構成する線分の数)を超えて、6という数字(立方体の側面を構成する平面の数)に至る。このプロセスを更に一歩進めて、6から8(四次元図形の「立法射影面」を構成する立方体の数)へと移行する。8つの立方体を配置して、2次元平面においては、6つの正方形から構成されていた先ほどの図形の3次元における対応物を形成する。 さて、この図形の裏表をひっくり返して(鏡面反射像をつくり)、折り畳むことができる。8つの立方体を図形全体のなかに閉じこめることができる。4次元空間のなかの4次元図形を創り出すには、8つの立方体を用いる。 ヒントンはこの図形をテサラクトと呼び、その境界は、丁度、通常の立方体が6つの正方形から構成されるように、8つの立方体から構成される。このように、4次元テサラクトは8つの3次元立方体によって境界づけられる。 2次元上で見ることができる存在(2次元人間)を思い描く。この存在が立方体から展開された十字架状の6つの正方形を見るときには、平面上の展開図の外側の正方形だけを見るだけで、決して中央の正方形を見ることはできない。 これは十字架上に展開された4次元物体を見るときも同様で、3次元物体しか見れないので、中央の隠された立方体を見ることはできない(図A)。 図A 立方体を正六角形の輪郭が現れるように描く。このように平面上に、正六角形が表れるように、立方体を描くと、平面の裏の部分は後ろに隠される。いま見えるのは一種の影の像、2次元空間への3次元立方体の投影である。 立方体の2次元的な影の像は、菱形、或いは等辺の平行四辺形から構成される。もし、立方体が針金でできているなら、後方(裏)にある菱形も見える。この投影図は6つのオーバーラップ(二重写し)した菱形を示す。このようにして、立方体全体を2次元空間のなかに投影することができる。 さて、4次元空間のなかにあるテサラクトを想像してみる。その図形を3次元空間中に投影すると、4つの相互に貫入(共有)しない斜めの立方体(平行六面体)が得られる。これらの平行六面体のうちの1つは次のように描かれる(図B)。 図B しかし、8つの平行六面体は、4次元空間中の4次元テサラクトの完全な3次元投影像を得るには、相互に貫入する(共有する)必要がある。8つの適切な手法で相互に貫入(共有)した平行六面体を用いて、テサラクトの完全な3次元的な影(射影像)を描くことができる。結果として得られる空間図形は4つの対角線(軸)をもつ菱形十二面体である(図C)。 立方体の菱形投影像においては、3つの隣接する菱形が、裏側(鏡像対象)の3つと合致するので、立方体の6つの面のうち3つだけを見ることができる。同様に、テサラクトの菱形十二面体投影像においても、4つの相互に貫入しない菱形立方体だけを、テサラクトの8つある境界立方体の投影として、見ることができるが、それは、4つの隣接する菱形立方体が、残りの四つを完全にカバー(鏡像対称性において二重写し)してしまうからだという。図C こうして、テサラクトの3次元的な影(射影像)を構築できるが、それは4次元物体そのものではない。同様に、我々自身も四次元存在の影であるという。我々人間が物理平面からアストラル平面に移行するとき、メンタル像を形成する能力が涵養される必要があるという。
2007年06月05日
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人生長く生きれば、必ず、不条理な事に出くわすだろう。私も本日、非常に嫌なことに出くわした。些細な点に拘れば、こちらにも多少の落ち度はあるだろうが、そのような詮索をしても、きりがないことで、大まかにみれば、いかにみようと、こちら側に非はないのであるからこそ、改めて考えてみると、胸糞が悪くなるのである。 このようなことは、多少なりとも不条理の事といわざるをえないだろう。いってみれば、交通事故と同じ類なのである。 忍耐力のない弱者は、常に自分の非を他に転嫁しようとして、拳を振り上げ、権威を振りかざす傾向にある。道路を我が者顔で突っ走るスピード違反者に同じである。 「君子危うきに近寄らず」というのが理想だろうが、なかなかそこまで、些細な気配を嗅ぎ取れるほどの人格者でないのが一般人といえるだろう。 では、そのような事故に不幸にも出くわしてしまったとしたら、どうすればよいのか? それこそが大きな問題なのである。 通常の弱き人間ならば、不幸な人間を演じ、同様に他者に、愚痴や怨み、果ては怨念を晴らすことに思いを巡らしがちである。しかし、それでは、不幸や苦悩の堂々巡りをしてしまうだけなのである。 この堂々巡りは、まだ、同じような境遇の友人がいれば、その気持ちを理解し、同情してくれる人もいるだろう。かつての苦労を分かち合う、貧乏に慣れた日本人社会ならば、見ず知らずの他人の為に涙を流してくれた人もいただろうが、格差社会と貧富の差の大きい、拝金主義社会では、敗者として、孤立するのがオチなのである。 このような非情な社会では、不条理に、苦悩を抱える若者は、自らで自らを責めるしかない状態に陥りがちといえるだろう。このような1人堂々巡りに陥らないように、何よりも、信頼に足る友人というものが、必要なのである。 そのような意味で、今若者に必要な巷で有名な夜回り先生は、非常に貴重で素晴らしい行為者だと思われる。若者には、信頼できる友人、冷たい現代社会で苦悩する若者だからこそ、そのような友情、友愛ともいえる関係が必要なのである。 現代は非情である、自分の非を棚に挙げながら、容易に他の非を批判し、感情的に押し付ける。人間社会は、お互い様で、お互いに非があるからこそ、人間なのであり、だから決して神様ではないのである。お互いが非を補い合いながら、全体として、神様に近い存在になるべきであろう。 どんな人間にも、人間だからこそ、非がある。だからこそ不条理は至る所にある。 正直いえば、誰にでも人間ならば、「何度も死のう」と思ったことはあるだろう。順調に見える人生だった、その陰には底知れずの苦悩がある。 人間とは、思いつめれば、誰でも、安易に死を選択してしまう生き物なのである。 問題は、1人で解決しようとするのではなく、傍に誰かがいてくれるかだと思う。 私には、そのようなとき、必ず、友人がいた。友人に告白することで、随分と助けられた。一生の宝物とは、やはり、友人なのである。 キリストは、身分や立場に関わらず、真の自由な友愛こそが、真の愛であると語った。 今回の不条理な出来事で、私は、年齢的には遙かに年下なのだが、哲学の師ともいえる、後輩に、悩みの解消法を聞いてみた。 流石に、その友人は哲学者だけあり、「無知の知、つまり無になることだ」といわれた。 なるほど、考えてみれば、苦悩とは、自らの立場の執着により発しているのだ!とそのとき、気がついた! 不条理な立場、被害を受けた立場は、喩え、加害者側にいたとしても、そこには、自分は間違っていないという、執着が歴然と存在している。 そのような自分の立場を主張するものは、利己主義の悪魔の仕業である。 不条理な出来事には、必然的に、復讐心が浮かび上がる。復讐心は、人類に平和をもたらすどころか、戦争、闘争、破壊をもたらすだけである。 「目には目を、歯には歯を」というハムラビ法典が思い浮かぶが、その真の意は、キリストがいったように、目を失ったら、目で償いなさい。歯を失ったら、歯で償いなさいということなのである。 後輩の哲学者が語ったように、無になること、起こる前の状態、ゼロの状態への回帰を目指すべきなのである。そうつまり、不条理は忘れるに越したことはないのである。 嫌なことは、綺麗さっぱり忘れるしかないのである。この無知の知、自分は、何もわかってはいないということを理解できるには、不条理な目に存分にあって、忘れる技術を身につけるしかないのである。 憎しみ、恨み、復讐心と共に、自己を忘れる。このことがいかにも大切なことであると、今更ながら、感じた今夜であった。 憎むだけ憎んで、怨みつらみを吐き曝し、そのような全ての自分のなかの悪霊を誘き出して、悪い自分を傍からみて、捨て去ればよいのである。 「御馬鹿な自分よ!さようなら」と
2007年06月04日
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通常の空間は3つの次元(長さ、幅、高さ)をもっている。直線は1次元、長さだけをもつ。このブログは平面で、それは2つの次元、長さと幅をもつ。立体は3つの次元を含む。 では、3次元図形はどのように生じるのか? 全く次元をもたない図形、つまり、点を想像する。点はゼロ次元をもつ。点が一定の方向に動くと、結果として直線或いは1次元図形が生じる。さて、その直線が運動するのを思い描く。直線の運動により生じるのは長さと幅をもつ平面である。そして、最後に、運動する平面が描くのが、3次元図形である。 しかし、このプロセスを続行するわけにはいかず、運動を用いて3次元図形から4次元図形、或いは第4の次元を創り出すことはできない。 では、第4の次元に関する概念を発達させるには、どのようにイメージを用いるのか? ある数学者で科学者、例えば、ツェルナーは、精神世界が4次元空間中に存在することを仮定することにより、4次元世界を、感覚知覚可能な世界へと調和をもたらしたい、という誘惑を感じていたという。 平面上に横たわる完全に閉じた図形の円を想像する。誰かが、硬貨を円の外側から内側に動かすように命令する。円周を横切るか、或いは(もし、円周に触れることが許されないなら)硬貨を空中に持ち上げ、それを円の内部に置くしかないが、そのためには2次元を離れ、第3の次元に入ることが要求される。 硬貨を魔術のように立方体や球のなかに動かすには、3次元を離れ、第4の次元に移行する必要がある。シュタイナーの人生において、最初に空間の性質を把握し始めたのは、射影幾何学を学び始め、円を直線に変形させる重要性を理解したときであるという。世界は、魂の最も繊細な思考のなかに現れるという。 では、円を想像する。その円周をずっと辿っていくと、最初に出発した点に戻る。その円がどんどん大きくなっていく一方、接線は変化しないもの、と思い描く。その円は益々平らになっているので、それは最終的には直線になる。この段階的に大きくなる円を辿るには、いつでも一方の側へと降りて行き、出発点にもどるまで反対側を上がって来ることになる。 最終的には、無限に辿り着くまで一方向に(右とすれば)動いて行くことになる。こうして、無限から戻ってくるのは反対側、左でなければならないが、それは直線のなかに連なる点が円のように振る舞うからである。なので、空間には端がなく。それは、直線の点が閉じた円の点と丁度同じように配置されるので、正に直線には端がないという。 同様に、無限の広がりをもつ空間は、球の表面のように、自己充足(再帰)していると想像する必要がある。今、無限の空間を、円或いは球の意味で記述した。この概念は、空間の真実を考察する上での助けとなる。 考えもなしに無限に向かって進み、反対側から何も変わらずに戻ってくる、と想像する代わりに、光を運ぶと想像する。直線上の一定の地点から見たとき、光を遠くへ運ぶほど益々弱くなり、それをもって無限から戻ってくるときには、益々強くなると考える。 そのとき、もし、光の強さの変化を、正負の変化として思い描くなら、光が強くなる一方の側は正で、他方は負となる。正に相対する空間の効果のこれら2つの極は、大自然における、あらゆる影響のなかに見られるという。この考えは、力をもつ空間概念、つまり、空間のなかで作用する力は力そのものが現れたものである、という考えへと導くという。 この考えによれば、もはや3次元空間のなかで、その内側から働く力の発見の可能性を疑わなくなるだろう。そして、全ての空間的現象は、空間内の実際の力の関係に基づいていることに気づく。 そのような関係の1つは、2次元の捩れであるという。2つの閉じた輪をつなぎ合わせるには、1つを開いて、もう1つのなかに差し込む必要がある。さて、空間本来の多様性を確かめるには、細長い帯(長方形)状の紙でできた図形を、2回捩る。つまり、片方の端を固定し、もう片方を360度回転させる。そして、その帯をピンで留めながら両端をくっつける。 この捩った輪を輪の円周方向に半分に(2つに)切ると、結果として、つなぎ合わさった(結び目のある)2つの輪が得られる。それらの輪はどちらか1つを切ることなしには、分離できない。4次元に入ることで実行可能な操作を、帯を捩るだけで、3次元のなかで行うことができる。 これは遊戯ではなく、宇宙的な真実である。太陽系では、中心に太陽があり、太陽をまわる地球の軌道と、地球をまわる月の軌道がある。地球は太陽のまわりを動くので、月と地球の軌道は、丁度(紙でできた2つの輪のように)捩れているという。地球進化の過程で、月は地球から離れていき、この分離は、2つの帯状の紙の輪がつなぎ合わさったのと同じ仕方で生じたという。空間をこのように見ると、本質的に生きたものとなるという。
2007年06月04日
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より高次の世界についての認識へと上昇することを望むヨギ(秘儀の学徒)は、3次元に反映するものを徐々に高次元の真実で置き換える必要があるという。 例えば、植物について考えるには、植物のより低次の次元をより高次の次元で置き換えることを学ぶ必要がある。 植物の空間的な次元のうちの1つを無視し、対応するより高次の次元(つまり、時間)で置き換えることを学ぶことにより、植物を生長する2次元存在として理解できるようになる。この存在を単なるイメージに留める代わりに、真実に対応づけるために、秘儀の学徒は何をすべきか? もし、彼らが単に第3の次元を無視し、第4の次元をつけ加えるだけであれば、その結果は想像上のものとなるだろうが、次のように考えるなら、答に向かって進む手助けとなる。つまり、生物をフィルム撮影することにより、確かに本来は3次元的であった出来事から第3の次元を差し引くことになったとしても、連続的な映像により、時間の次元をつけ加えることになる。 そして次に、この動くイメージに知覚能力をつけ加えるとき、それは、3次元図形を4次元のなかに曲げ込むこととして記述した操作に似たものになる。この操作の結果得られるのは4次元的な図形だが、その次元には、空間的な次元の2つ、そして、2つのより高次の次元、つまり、時間と知覚能力が含まれていることになる。実際、そのような存在が本当にいるが、次元の探求が真の結論へときたいま、その名称を告げることにする。 2つの空間的な次元(つまり、平面だが)を想像し、この平面が動き(運動)を付与されると推測する。それが曲げられることにより、感覚存在となり、前にある2次元平面を押すのを思い描く。そのような存在は我々の空間中にいる3次元存在とは非常に違って見えるが、その振る舞いも非常に異なっている。 我々が構築した表面存在は1つの方向に完全に開かれている。それは2次元的に見える。それは自分の方にやってくるが、その周囲を回って、実際にみることができない。この存在は放射するものであり、ある特定方向への解放以外の何者でもないという。 そして、秘儀参入者たちは、そのような存在を通して、火の炎のなかで、彼らに近づく神の使いとして、彼らが記述した別の存在をよく知るようになったという。 シナイ山頂で十戒を受けるモーゼの記述は、正に彼がそのような存在の接近を受けたということ、そしてその次元を知覚することができたということを示しているという。この存在は、第3の次元を差し引かれた人間に似ていたが、感覚と時間のなかで活動していたという。 宗教的な文献中の抽象的なイメージは外的な象徴に過ぎないという。それらは、類比を通して、理解を試みてきたものを自得することにより、学べるような圧倒的な真実(現実)であるという。 そのような類比について、より熱心に、そして精力的に考えるほど、そして、より熱心に象徴のなかに沈潜するほど、それらの類比は、高次の能力を解放するために、益々、参入を試みた者への精神に働きかけるようになるという。 このことは、例えば、立方体の六角形に対する関係と(4次元)テサラクトの菱形十二面体に対する関係との間の類比についての説明にも当てはまり。菱形十二面体は(4次元)テサラクトの3次元的な物理世界への投影であるという。 これらの図形を、それらがまるで独立した生命をもっているかのように視覚化することにより(つまり、立方体がその投影である六角形から、(4次元)テサラクトがその投影である菱形十二面体から生長してくるのに委ねることにより)、より低次のメンタル体は、今記述した存在を把握できるようになるという。 ただ単に、これらの提言に従うだけでなく、秘儀の学徒が行ったように、しっかりと目覚めた意識のなかで、この作業を生きたものにするのなら、睡眠中の夢のなかに4次元的な姿が現れ始めるのに気づくという。 そこまで来れば、覚醒中の目覚めた意識のなかに、4次元的な夢の存在を、もたらすことができるようになるのも、それほど遠いことではないという。そのとき、あらゆる4次元的な存在のなかに、第4の次元を見ることができるようになるという。 アストラル領域は第四の次元である。 ルーパまでのデーヴァは第五の次元である。 アルーパまでのデーヴァは第六の次元である。 これら3つの世界(物理世界、アストラル世界、天界(デーヴァ))は6つの次元を包含している。もっと更に高次の世界はこれらの次元の対極にあるという。 太古では、これらの次元を天使の位階で表し、天使(4次元)、大天使(5次元)、権天使(6次元)、そして、更には、能天使(7次元)、力天使(8次元)、主天使(9次元)である。 古代ギリシア時代では、ゼウス、クロノス、ウラノスと呼ばれていたのは以前にのべた。古代ギリシア人の秘儀参入者は、実際にウラノスをみれたのである。それがギリシア神話となり、残されたというわけである。 ちなみに、秘教では、キリストは、能天使(エロヒム、ヤハウエ)から主天使にある存在で、キリストが呼んだ父とは、その更に上位の、座天使、智天使、熾天使だとされているが、宇宙の創造の神は、至高の宇宙叡智と呼ばれ、「聖霊、父、子」の三位一体であるという、その存在は、天使の位階を超えるという。 我々人間が直接、修行により認識できるのは、権天使(6次元)までで、7次元を超えるものは、間接的に、権天使を通してであり、いわば、現世にいながら、間接的に霊界を感じることができるようなもの(霊界の存在を知らせる仲介者の御蔭)で、それは例えば、権天使の働きが、時代霊とも呼ばれるように、時代を創るものなので、現世での時代の雰囲気というもので、漠然と感じることができることで、想像できると思う。 これは下世話に喩えると、会社組織のなかで、平社員が、社長の考えを見通すことである。ただし、社長が真に社会貢献に奉仕している人格者であるならば…。
2007年06月02日
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